Spiral Fiction Note’s diary

物書き&Webサイト編集スタッフ。

Spiral Fiction Note’s 日記(2023年7月16日〜2023年7月31日)

7月上旬の日記(2023年7月1日から7月15日分)

 

7月16日

夜中、寝てからまた二時間も経っていないぐらいで目が覚める。冷房は寝る前には切って、サーキュレーターを回していたが、そのタイマーも切れていたから暑さで目が覚めたみたい。もう一度冷房をかけてサーキュレーターを回した。喉が渇いていたから冷蔵機に常備してあるペットボトルのポカリを半分ほど飲んで小便を済ましてまた寝た。
数日間は酷暑、気温が高すぎて外には出ないほうがいいという予報が出ている。だが、起きてから午前中に外に出たほうがいいだろうと思って、いつもの散歩へ。散歩しながら、radikodでラジオを聴くというルーティンは僕にとっては大事なものになっている。先週はお休みだったので一週間ぶりの『オードリーのオールナイトニッポン』を聴いて歩いた。
代官山蔦屋書店で装幀とタイトルから気になっていた河野真太郎著『この自由な世界と私たちの帰る場所』を購入する。河野さんは前に講談社から出ていた『新しい声を聞くぼくたち』を読んでいてたし、今回の著書では補論として「『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』とマルチバースの「真実」」というものも追加で収録(他の論考は雑誌などに掲載されたもので「エブエブ」に関しては書き下ろし)されていたので、それを読みたかったというものあった。

折坂悠太 - あけぼの(2023)Official Music Video 



大島 さっきも言ったけれど、映画のパンフレットって「日本特有の文化」だと言われてるじゃないですか。

――ですよね。戦後、「映画プログラム」と呼ばれる有料で販売される冊子が作られるようになったと。有楽町のスバル座で始まったとも言われています。

大島 でも、『Pearl パール』の劇中に出てくるんですよ、パンフが。

――うわ! 確かにそうだったかも。パールが映写技師と出会うシーンですよね。

大島 そう。映画を観終えたパールが、パンフレットを読んでいる。だから、実はアメリカでもパンフ的なものがあったんだなって。販売されていたのか、フライヤー的に配布されていたものなのか、あのシーンからでは判断できませんが、もし販売されていたとすればいつまでそういった文化があったのか。

――もしかすると、アメリカの文化が日本に取り入れられ、現代に至るまでガラパゴス的に残っているのが日本のパンフ文化だったりする?

大島 かもしれない。ちゃんと調べてみないと詳細はわからないけれど。なので、その画像を抜き出しパンフを完コピしたんです。

大島依提亜さんと映画の余談。第1話 映画『Pearl パール』のパンフができるまで

スマホで出てきた記事。今何かで装幀デザインを僕がもし頼めるとなったら間違いなく最初にお願いしたいのは大島依提亜さん。
大島さんが手がけられているパンフは気がついたら買っていて、意識するようになってからはできるだけ購入するようになった。あとは彼がデザインで関わっている映画は観ようかなと思って足を運ぶようになったところもあって、なんか勝手に信頼している。
A24関連作品はいろんなタイプのものがあるけど、大島さんがポスターやパンフをやっている作品が多くなっていく流れでミニシアター関連の映画好きに認識されていったんじゃないかな。僕はそういう一人でもある。
デザインがカッコいい、センスがあるなと思えるものってほんとうに大事なんだよなあ。その時代の空気だけではなく、それまでの歴史がデザイナーの中で混ざり合ってひとつにパッケージになるから。

夕方までは『この自由な世界と私たちの帰る場所』と芥川賞候補になっている乗代雄介著『それは誠』と森博嗣著『馬鹿と嘘の弓』を読み進めていた。読書中は音楽よりもなにか話し声みたいなもののほうが僕は落ち着くのでTVerで『オールナイトフジコ』と『夜明けのラヴィット!』を流してから、結局家にいてもradikoでラジオを流して聴いていた。『SUBARU Wonderful Journey ~土曜日のエウレカ~』『笑福亭鶴瓶 日曜日のそれ』『橋本直と鈴木真海子のCROSSPOD』『スカルプD presents 川島明のねごと』『有吉弘行のSUNDAY NIGHT DREAMER』とラジオ三昧。
SUBARU Wonderful Journey ~土曜日のエウレカ~』は元バーレーボール日本代表選手だった大林素子さんがゲストだった。一人のミーハーなバレーボールを始めてまもない女の子が出した一通のファンレターがのちの全日本代表へと繋がる話があった。
もちろん、タイミングや運もあるんだろうけど、大林さんが行動したことが大事だったし、ファンレターを送られた日立の監督さんが中学生の大林さんを当時の日本代表12人中10人いたという日立の練習に呼んで練習に参加させ、今から頑張れば次のオリンピックに出れるかもしれないよと言ったらしい。さらに明日から練習に来なさいと言われた大林さんは中学の部活のあとに日立の練習に参加することになる。それはリップサービースで本当に翌日に行ったら、「来たの?」みたいな反応だったけど受け入れてくれたのがありがたかったと大林さんが話していた。実際に練習を休まずに参加したことでその才能と能力が急上昇することになったのは間違いないだろう。なにかで頭角を現すものはそういうきっかけをちゃんとものにできる才能や嗅覚があるんだろうなと思った。
笑福亭鶴瓶 日曜日のそれ』はあのちゃんがゲスト。あのちゃんと鶴瓶さんとの相性もよく、『あののオールナイトニッポン0』のあとに番組をやっている上柳さんがこの番組のアシスタントということもあって、鶴瓶さんが知らないあのちゃんのラジオで彼女が話したことをうまく補足していた。
先輩とか年長者とかというわけでなく、一対一の人として向き合ってるからあのちゃんは強いし個性もより際立つだろうし、鶴瓶さんのようなベテランならそれにも見事に対応して(才能を感じるというのがデカいと思うが)その魅力をさらに引き出せるということなんだろうな。

 

7月17日

9時過ぎにのんびり起きる。散歩がてら昨日に引き続き代官山蔦屋書店まで歩く。日差しを避けるように日陰を歩いていったがやはり気温が高い。もはや日焼けをするために外に出ている気もするが、なにもしないで家にいて冷房をつけるよりはいい気もする。
お店には10時前には着いたが、お客さんはかなり多かった。やっぱり海外の人が前よりもだいぶ増えてきている。親子連れやカップルで来店している人も多いので、混雑していた。
夜にミーティングがあるので、昼過ぎから作業を開始。夕方にコンビニに行くついでにBOOKOFFに寄った。246を渡る歩道橋をとっていると青空の向こうを旅客機が飛んでいくのが見えた。立ち止まって首都高の間から見える空を撮影した。その後数分待っていたら別の旅客機が飛んできたのでスマホを向けたがうまく撮れなかった

――マーケティング的に研究し尽くされた大作映画のセオリーとは違う挑戦的な映画を届けてくれる唯一の存在で、同社に取って代わる競合も現状では存在しないと。

タッキー:そもそも監督という作家単位ではなく、A24という配給会社単位で作品が括られ、語られること自体がこれまであまりなかった現象ですよね。90年代のミニシアターブーム後、『ハリー・ポッター』や『パイレーツ・オブ・カリビアン』などの大作映画が席巻していた2000年代に比べれば、ある意味いまは映画ファンの裾野が広がりやすい環境というか。

――同社の台頭は作家単位やシリーズごとに真面目に追いかけることが、可処分時間的にも敷居が高いと感じる人が多い時代なども反映しているのかもしれませんね。

タッキー:なのでA24って音楽レーベルに近いんですよ。「このレーベルのアーティストなら聴いてみよう」という感じで、知らない監督の作品でも「A24作品なら」と手を出しやすくなっている。

何でもA24ってつければいいって問題じゃない! 今こそ落ち着いてついて考えよう

映画宣伝ウォッチャーのビニールタッキーさんがA24作品について話をしている記事を見つけた。確かに僕もA24作品好きだけど、配給だけやっている作品もわりとあるので、その時は純正と言えるのかという疑問はあった。でも、ここで言われているように「A24」は音楽レーベルに近い、ここならおもしろそうな作品をやってくれているだろうという信頼と信用が担保されている。当たり外れだと僕個人で言うと外れの方が多いとは思うが、当たりの時がすごいことになっているので、引っくるめて好きなレーベルだということになる。

21時からミーティングを開始。いつもよりも早めに提出をしていたので気持ちは楽だった。しかし、提出したものの方向性はいいんだけどもう少し深掘りしてほしいと言われた。細部のこととかで僕が忘れていた部分もあったのでそこが弱かった、もう少し考えていないといけなかったなと反省。

 

7月18日
寝て起きてもう少しで朝かな、外はまだ暗いけどなと思ったら3時前で寝てからまったく時間が経っていなかったパターン。とりあえず、ペットボトル回収の日だったのでそれを出してから二度寝、というか本格寝に。起きたらなぜか筋肉痛みたいな感じで体がこわばっていた。

昨日のミーティングが終わってから今月分の請求書を作らないといけないので、とりあえず作成しておいた。プリンターがないのでセブンイレブンのプリンターで印刷する準備までは準備していた。
リモートワークが始まって、仕事先の人からの納品を確認して請求書に関しての連絡をメールでやりとりをする。自分の請求書を作って、他人に請求書のことを連絡する。こういう細々としたことをちゃんとできるので、事務能力はあるほうなのだろう。
セブンイレブンでアイスコーヒーと朝食用のパンを買いに行くついでに、プリンターで請求書をプリントアウトする。そのまま判子を捺印したプリントをスキャンしてデータをスマホに送るまでをやった。
この作業は月に最低二回は自分の原稿料関係であるのだが、家にプリンターを置くよりは確かに安くつくんだけど、大量に印刷するには向いていないし、タイミングもあるので誰かが先にプリンターを使っていたらすぐにはできなかったり、今のところはこれでいいかなとは思っている。問題は家に帰ってから印刷したプリントでなにかミスを間違えた時に、もう一度データを修正してセブンイレブンに行くっていうことが起きた時のめんどくささ。

夕方に残っていた休憩時間を使って20分ほど仮眠というか昼寝。短い間だったけどすごく頭がすっきりして脳みそがクリアになったような感覚。
夜に寝るよりも疲れが取れてるかもしれない、一瞬でぐわーと深く落ちて寝たということなのだろうか。昼間にご飯早く食べて残しておいた時間でちょっと昼寝する感じにしようかな。


昨日、BOOKOFFで見かけて気になって購入していた村井邦彦、吉田俊宏著『モンパルナス1934』を仕事が終わってから第一章と第二章まで読む。

アルファレコード創立者村井邦彦日本経済新聞編集委員の吉田俊宏が共同で執筆し、
総合カルチャーサイト『リアルサウンド』にて連載した小説『モンパルナス1934』が書籍に。

文化人のサロンとして知られる「キャンティ」創業者の川添浩史は
1934年に21歳でパリへ渡り、モンパルナスを拠点に国際感覚を身につけた。
本書にはパリで川添と親交のあった若き日のロバート・キャパ岡本太郎、坂倉準三、原智恵子をはじめ、
ジャン・コクトーポール・ヴァレリーオーギュスト・ペレジャンゴ・ラインハルトゲルダ・タロー
藤田嗣治仲小路彰三浦環吾妻徳穂といった国内外の著名人が数多く登場する。

日本の文化を世界へ。
キャンティで川添の薫陶を受けた村井邦彦は夢のバトンを託された。
伝説のレコード会社「アルファレコード」を旗揚げした村井は、
荒井由実や赤い鳥など優れたアーティストを世に送り出す。
そして、ついにアルファから世界に羽ばたく存在が登場する。
それがYMOだ。川添はモンパルナスで何を学び、後の世代に何を託したのか。

作曲家でプロデューサーの村井邦彦日本経済新聞社編集委員の吉田俊宏とともに、

多くの資料と証言に基づきながら、大胆な創作を交えてつづったヒストリカル・フィクション。

タイトルと細野晴臣さんの帯コメントに惹かれて興味を持った一冊。「キャンティ」って芸能系の書物を読んでいると出てくるし、音楽シーンにとっても大事な場所だったというのは知っている。その創業者の川添浩史さんの足跡を追ったということなら、日本の芸能史にも大きく関わってくるだろうから読んでおいたほうがいいなと思った。
ただ、その後も読んでいくと「ヒストリカル・フィクション」とあるようにかなり著者たちによって創作している部分があるような気はする。書いている人がロマンティストだなと思えるところもある。証言を元に書く以上、証言が取れていないところや隙間を埋めるのは書き手の想像力と推理力、あえていうならフィクションが大事になってくる。読み物として成り立たせるためには繋ぎ目にどんな素材を使っていくかというのがこの手の「ヒストリカル・フィクション」の魅力にはなっていくんだろう。

日本一の長寿雑誌「中央公論」編集長インタビュー「クオリティの一線は譲らず、この大切なプラットフォームを守っていきたい」 

今月号の『中央公論』にあだち充さんに関しての記事を寄稿させてもらった。元々ここの編集部にいらした上林さんと前から知り合いだったこともあり、いろいろとやりとりをさせてもらった流れの中で『中央公論』で書いてみませんかとお声がけをしてもらって、、ありがたく今月号に掲載させてもらうことができた。
現在の編集長がどういう方かまったく知らなかったんだけど、この記事を読むと歴史のある『中央公論』に僕のような若輩者が書かせてもらえたのは本当にすごいことなんだと改めて感じた。
『モンパルナス1934』と上記の記事を読んで、形になっていないままの僕が色々と取材したり資料を探したものを形にしたいなと思って、スケジュールをちょっと修正してみた。8月はひたすら書きまくったらなんとかなるかも、そのために7月のこれからはそのために動かないといけない。
今やっているライティング作業も何年も続くようなものではないので、ちゃんと次に繋がるものを仕込んで、種が出るようにしていかないと中年クライシスじゃないけど、暑さのせいでやられるよりも先に先々のことで精神がやられてしまう。そうならないための自分のための作業をしっかりやっていく。

 

7月19日
連日のリプレイみたいに寝てから目が覚めるとほんと時間が経っていなかったパターン。radikoで音声を流しながらもう一度睡眠へ。聴いていた『アルコ&ピース D.C.GARAGE』の中で酒井さんが第二子ができて来年一月に出産という話を確かしていて、平子さんから年子大変だね、でもよかったねみたいなやりとりをしていたと思うんだけど、あれが現実で話していたことや夢だったかちょっと自信がない。

起きてからはいつも通りのリモートワーク。いつも通りの穏やかな作業時間、部屋の中にいるけど冷房を切るとすぐに汗ばんでくる。一回冷やしてサーキュレーターで空気を回してみるがある程度経つと暑さの割合が冷やした空気を飲み込んでいくみたい。
午前中には『JUNK 爆笑カーボーイ』も『星野源オールナイトニッポン』も聴き終えてしまった。星野さんが就活で内々定をもらったリスナーに対して、ご自身が高校生の時に大人計画松尾スズキさんがやっていたワークショップに参加した時の話をしていたのが印象的だった。ワークショップに参加した中では高校生は彼ぐらいだったが、その時には順位みたいなものは言われなかったものの、あとから二位だったこと言われたらしい。そういう時にちゃんと結果を残した人はのちにつながるということを松尾さんに言われたということを話されていた。今は役者としては大人計画に所属しているわけだから、ご縁もあるのだろうけど、結果を出したこと、そういう時に一位になっていなくても印象深かったり、なにかに引っ掛かるような人にはその先がある。そういうことを聞いて心が鼓舞された。

リモートワーク作業中にずっと家の中にいるのはしんどいから昼休憩はいつものように外に出た。外出中と帰ってからは『あののオールナイトニッポン0』を聴いていたが、彼女のバンドでるアイズのリマスリングしたばかりの音源を流していた。
パンクなサウンドで歌詞は痛みの先にあるものをなんとか掴もうと足掻いている感じがして、あのちゃんって精神的にパンク性があるアーティストなんだと改めて感じた。


昨日、再考したスケジュールの中には初生雛鑑別師だった大叔父についての執筆も入れた。一番〆切が近いノンフィクションの賞である「小学館ノンフィクション大賞」で、去年の受賞作である比嘉健二著『特攻服少女と1825日』が書店にあった。

〈 編集者からのおすすめ情報 〉
青年漫画や学園ドラマに登場する「ヤンキー少女」として、あるいはドキュメンタリーやニュース映像にモザイクつきで登場する「非行少女」として――
これまで、「キャラクター」としてデフォルメされて描かれて来たレディースたちの姿をフラットでありのままにとらえた、懐かしいのに新しい、唯一無二のノンフィクション作品です。
《喧嘩は数え切らないくらい、タイマンは100回以上やってる。負けたことはないね。自然と勝ち方を身につけた。まず相手の眉間とみぞおちを狙いますね。負けた相手は裸にしてその辺を走らせますよ、そんなの何度もありますね》
《もう少しで卒業式、卒業式の日は派手にやってやるからな、先公見てやがれ》
《鑑別所出た後、試験観察で何日間か老人ホームで働いたの。老人のニコってする顔見たらレディースの次に賭けるものはこれだって決めたの》
こんな風に本書には、レディースたちの生々しくもエネルギッシュな発言がちりばめられています。
彼女たちの言葉や姿に惹きつけられて雑誌『ティーンズロード』を創刊し、雑誌編集者という立場で特攻服少女の背中を追い続けた著者の目線はどこまでも対等であり、そこには「正しい方に導いてやろう」という押しつけがましさもなければ「不良になる理由は家庭にある」などのレッテル貼りも同情もありません。

原稿の中には、当時の喧噪だけでなく13歳で地元のチームに入り2年で総長に登り詰め、テレビや週刊誌でも特集が組まれるほどの知名度を得るもチームを破門させられたたすえこや歴史・規模とともに日本一を誇る『スケ連』を率いたのぶこほか、当時の誌面を飾った人気レディースたちの「その後」も描かれます。
彼女たちのいまの姿からは、著者が『ティーンズロード』の編集を通して「はみ出した少女」たちに提供した居場所が、またそれを作ろうとする魂が、いまに引き継がれていることが伝わって来ます。

当時を知る人もそうでない人も、「はみ出た」経験がある人ならば必ず心の柔らかい部分に触れる箇所がある、そんな作品です。

公式サイトより

とりあえず、家に帰ってからあとがきから読むと著者の比嘉さんは『ティーンズロード』の編集者だった時期の体験を元に書いたものをいろんな出版社に持ち込んだがダメだったらしい。それで知り合いのフリーライター鈴木智彦さんの紹介で小学館の編集者と会ったが、反応がさほどよくなかった。だが、編集者からは何点か修正したほうがいい箇所を言われて「小学館ノンフィクション大賞」に出してみないかと言われたみたい。
8月末〆切だが、その時点で7月中旬だったようで、すでに一度書き終わっているが、構成等を変える必要があったようだが、本業の編集をしながらなんとか修正したものを送って最終選考に残った。その時には編集者がつくようで、さらにアドバイスをもらって加筆修正したものが大賞を受賞したらしい。


仕事が終わったので近所のスーパーまで行っている途中に芥川賞を市川沙央さんの『ハンチバック』が受賞したというニュースをスマホで見た。読んだ時にすごい作品だと思ったので納得なのだが、今日の休憩中に乗代雄介著『それは誠』を読み終えていて、素晴らしい作品だなと思ったので二作同時受賞もあるんじゃないかなと期待していたが、一作のみの受賞だった。
『それは誠』は修学旅行を利用した小さな冒険譚であるのだが、まさに乗代雄介節といえるような小説であり、その作品の精度も突き抜けているように思えたから、これで乗代雄介さんに芥川賞をとってほしかったな。

STUTS - ひとつのいのち feat. BIM (Official Music Video) 


先月の「STUTS “90 Degrees” LIVE at 日本武道館」の時にSTUTSとBIMが披露した新曲があったけど、この曲だなあ。ライブの時は初見でリリックがあまりわからなかったけど、ゆっくりと聴くのと心地よく響く。

 

7月20日
なんだか夏バテとまではいかないが、気持ち起きてからダルい、すぐに起きてなにかしようという気がしない。こういう時は無理をしないでのんびりしたい。木曜日はできるだけ仕事をしないので、読みかけだった本の続きを読む。
掃除したり、目覚ましがてらシャワーを浴びたりして昼ごはんを食べたらまた眠くなったので、30分ほど横になったら寝ていた。15時過ぎに家を出て渋谷方面へ。
ヒューマントラスト渋谷に寄って、土曜日に観るつもりの映画のチケットを購入してから青山通りに出てそのままずっとまっすぐ皇居方面に向かって歩いた。日差しは暴力的ではなくて、曇っていて風もそこそこあったので歩くのには適していた。


明治神宮の再開発で樹々の伐採がテレビでも取り上げられるようになってきたらしいが、SNSでは前からこのことに関しては反対運動や声明はよく目にしていたし、僕も署名はした。村上春樹さんもご自身のラジオの中で伐採に対して強く反対しているというメッセージも出していて、亡くなる前に坂本龍一さんが小池都知事へ要望書を出していたことも明らかにされてからその意思を引き継ごうとしている人がたくさんいるのも感じる。
この地域は赤坂方面に行く際にはよく歩いているが、ここのエリアに伊藤忠の大きなビルが大通り沿いに建っていて、僕らの知らないいろんな要素が絡んでいるのだろうな、とは思う。正直ここに高層ビルとか建てても土地の価値って不動産的には上がるんだろうけど、普通の人は住めないし、スワローズファンってそういうジャイアンツ的な価値観ではない人がファンだと思うから、やっていることが最終的にはただ市民を分断していくだけなんじゃないかな。国の中心部に憩いの場所、森や緑があることのほうが環境問題が世界的な問題であり、取り組みになっている時代には価値があるとか思わないんだろうか、本当に謎だ。


再開発で樹々を伐採するという問題がある地域の先には緑豊かな赤坂御所がある。その横を歩いていると利権や経済的な思惑、手を出せない聖域、東京の中心部はやっぱりミステリーな場所だと感じる。


豊川稲荷をそのまま通り過ぎずに、境内に入ってお参り。風鈴の涼やかな音が聞こえていた。風鈴には願いを込めた短冊が吊るされており、風が吹くと風鈴が鳴り、誰かの願いが書かれた短雑がくるくると回っていた。

赤坂を通り過ぎて紀尾井町文藝春秋のビルを横目に半蔵門駅の方へ歩いていく。ウェス・アンダーソン監督『アステロイド・シティ』試写を東方東和にて鑑賞。ここまで約二時間ちょうどいい運動。

グランド・ブダペスト・ホテル」のウェス・アンダーソン監督が、砂漠の街に宇宙人が到来したことから巻き起こる大騒動を独特の世界観で描いたコメディ。

1955年、アメリカ南西部の砂漠の街アステロイド・シティ。隕石が落下して出来た巨大なクレーターが観光名所となっているこの街に、科学賞を受賞した5人の少年少女とその家族が招待される。子どもたちに母親が亡くなったことを言い出せない父親、映画スターのシングルマザーなど、参加者たちがそれぞれの思いを抱える中で授賞式が始まるが、突如として宇宙人が現れ人々は大混乱に陥ってしまう。街は封鎖され、軍が宇宙人到来の事実を隠蔽する中、子どもたちは外部へ情報を伝えようとするが……。

キャストにはジェイソン・シュワルツマンエドワード・ノートンらアンダーソン監督作の常連俳優陣に加え、スカーレット・ヨハンソントム・ハンクスマーゴット・ロビーらが参加。2023年・第76回カンヌ国際映画祭コンペティション部門出品。(映画.comより)

良くも悪くもいつも通りのウェス・アンダーソン監督でしかない色彩とか町や情景、お馴染みの俳優陣と言える作品なのだが、今作ちょっと構造的に入り込めない要素がある。冒頭ですぐにわかるのだが、作品は二層構造になっている。それがけっこう僕にはノイズになってしまった。
あと宇宙人のデザインが「あれ? ウェス・アンダーソンの世界とか色彩から考えるとちょっと違くない?」と思ってしまった。彼なりの『未知との遭遇』かと言われるとそうなのかもしれないけど、宇宙人と科学賞を受賞した少年少女やその親や町の人は別に交流にしないし、宇宙人の目的も最後までよくわからない。
個人的には前作『フレンチ・ディスパッチ ザ・リバティ、カンザス・イヴニング・サン別冊』がすごく好きな作品だったので、今回の構造はなんか違う気がしてしまった。もう一回公開されてから劇場で観るとわかることもあるかもしれないけど、どうだろう。

一方で『アステロイド・シティ』に登場する地球外生命体は、エイリアンのスーツを身にまとったジェフ・ゴールドブラムだ。それだけである。本作に登場するエイリアンは、それに目を奪われている人々と同じように、臆病で好奇心旺盛のように見えるが、地球からすぐに立ち去るまではひと言も言葉を発しなければ、音も出さない。舞台の袖でエイリアンは隠喩であるとゴールドブラムは語っているが(これは劇中劇なのだ)、何を象徴しているかは定かではないようだ。

エイリアンとの遭遇によって、インクルーシブな人間性や、人々が恐怖に屈することのない未来のビジョンを育むきっかけが生まれる。このことを、アンダーソンは『コンタクト』ほどには、効果的かつ明確に描けていない。『アステロイド・シティ』がこうしたテーマを描き出すためには、登場人物たちがやるべきことが多すぎるのだ。両親よりも異星人とコミュニケーションをとり、人生の意味を考える準備ができているスティーンベックの息子や、キャンベルの娘のような子ども天文学者たちが、この役割を主に担っていると言えるだろう。

ウェス・アンダーソン監督の『アステロイド・シティ』は“未知との遭遇”をウィットに富んだ表現で描き、観客を考えさせる:映画レビュー

この『wired』の記事を事前に読んでいたので期待値が上がっていたこともあったのかもしれない。映像やデザインの良さは際立っているけど、物語が追いついていない感じだったんだよなあ、それが自分だけだったのかどうかは知り合いもいなかったし、誰とも話していないからわからないのだけど。


試写を観た帰りはさすがに電車に乗って帰った。帰る時にお店に寄ろうと思っていたニコラでイサキと万願寺唐辛子のスパゲティーニと白ワインをいただく。
曽根さんとも色々と話ができたし、あとからカウンターに常連の佐々木もやってきたのでフジロックサマソニの話なんかができたのもよかった。

 

7月21日
寝る前に『四千頭身 都築拓紀サクラバシ919』を流していたら、気がついたら寝落ちしていた。また夜明け前に目が覚めたがすぐに二度寝。長時間寝れなくなっているのは年齢のせいなのか、単純に体力がないのか謎。
起きてからは資料を少し読んでからリモートワークを。僕の作業を離れて他の人のチェック待ちだったりしたから、比較的暇な感じもありつつ、気温もそこまで高くなかったので家の中にいても冷房をガンガンにしなくてもサーキュレーターで風を巡回させていればいい感じだったので、時折眠くはなった。

中央公論』2023年8月号に寄稿した「あだち充の半世紀と現在地」の前半部分がウェブで読めるように編集の上林さんがセットしてくれたと連絡があった。ウェブで読めるのはあだち充さんの兄のあだち勉さんと「花の24年組」のところまでなので続きは本誌で読んでもらえるとうれしいです。


仕事を二時間ほど早上がりして、歩いて恵比寿駅近くのLIQUIDROOMへ。アニバーサリー企画で毎年ZAZEN BOYSはライブをやっているので、この季節かと思う感じになる程来ている。
僕が上京した2002年当時はまだLIQUIDROOMは新宿にあって、調べると2004年に新宿は閉じて恵比寿に移行している。恵比寿の方がライブを観ている回数も多いし、馴染みがある。恵比寿はわりと近いのでここでライブをやってくれるとありがたくもある。
セトリを上げている人がいたので見てみると新曲を六曲やっていた。向井さんが今年中には音源を出すと珍しく、自分を追い込むためにも言っていたのも印象的だった。すでにそれらのレコーディングし終わってるらしい。あとはマスタリングとか曲順とかデザインとかがあるだろうし、出すべきタイミングみたいなものを待っているのかもしれない。
前のアルバム『すとーりーず』が2012年に発売されているからほぼ干支が一回りした。ZAZEN BOYSによく行くようになったのは10年代に入ってからなので基本的には『すとーりーず』発売後にライブをずっと観ていて、曲順は時折変わったり、ベーシストが変わったことでやる曲やアレンジが変化していった。同じ曲がどんどん深化しているのは感じていたが、同時にいつ新譜を出すんだろうと思っていたので、アルバムという形になるんだろうけど出してくれるのはうれしいし、ライブやグッズ以外に音源にお金払いたかったので、やっとか、という気持ちでもある。
去年ぐらいから演奏している『永遠少女』は日本がバカな戦争をして敗戦したあの日にミュージックステーション辺りで生でかき鳴らしてほしい歌ってほしい曲だ。早稲田大学の国際文学館の企画で向井さんと古川日出男さんがレコードの一発レコーディングしたイベントの際にも『永遠少女』の歌詞は歌われていたと記憶している。1945年に被弾した少女の腸が飛び出る、それは臭い臭い、それを痩せ細った犬が臭い臭いとうまそうに齧りつき、その臭い犬を殺して臭い臭いと生きるために喰らう、臭い臭いと。
チャイコフスキーによろしく』という新曲もよかったし、この二曲は核になりそう。これはセトリを見ると『チャイコフスキーでよろしく』だった。「に」なのか「で」なのかはわからないけど、「チャイコフスキーによろしく」というあとに「ヘミングウェイによろしく」と歌っていたはず、「チャイコフスキーでよろしく」「ヘミングウェイでよろしく」って歌うかなあ、ちょっと詳細がわからないが、かっこいい曲だった。

 

7月22日
二日前にチケットを購入していた宮崎大祐監督『PLASTIC』を観るために起きてからヒューマントラストシネマ渋谷まで歩く。知り合いの藤江琢磨くんがメインで出演しているし、彼から話を聞いて観ようと思っていた作品。音楽が大事な作品だということはわかっていたので、初回のodessaシアターで観ることにしていた。

大和(カリフォルニア)」「TOURISM」などで国内外から注目を集める宮崎大祐監督が、幻のアーティスト「エクスネ・ケディ」による1974年ライブ音源アルバム「StrollingPlanet’74」をモチーフに撮りあげた青春映画。

2018年、名古屋。1970年代に世界を席巻するも瞬く間に解散したアーティスト「エクスネ」の音楽を愛するイブキは、同じくエクスネのファンでミュージシャンとして東京進出を夢見るジュンと出会い、恋に落ちる。2人の出会いから、その4年後に東京で開催されるエクスネ再結成ライブまでの日々を描く。

「あいが、そいで、こい」の小川あんがイブキ、俳優のほかミュージシャンとしても活動する藤江琢磨がジュンを演じ、小泉今日子鈴木慶一とよた真帆尾野真千子らが脇を固める。「エクスネ・ケディ」こと井手健介が本作のために結成した「PLASTIC KEDY BAND」が音楽を担当。(映画.comより)

14時の上映回で主演のひとりである小川さんさんと宮崎監督と音楽を担当されている井出さんの舞台挨拶があるので、今日観るならそちらに行くだろうなと思った。ということもあり、初回の回の観客は多くはなかった。
冒頭は架空のアーティストである「エクスネ・ケディ」について、ジュンの祖父(鈴木慶一)と母(小泉今日子)が語るというシーンから始まる。祖父が彼らのライブを目撃し、その後ドイツでのライブに幼かった母を連れていっており、二人が当時のことを話しているドキュメンタリーちっくなことから、彼らの存在をリアルなものだと感じさせる場面にしていた。
序盤では祖父と母は出てくるが二人が付き合い出してからはほぼ出てこなくなる。同じようにゲスト的に出演しているイブキの母の尾野真千子さんやジュンの母の同級生でイブキたちの学校の校長役のとよた真帆さんもワンポイントでしか出てこない。それがもったいないというか、それだったら有名な人じゃなくてもよかったんじゃないとは思った。
ジュンと母が一緒に車に乗っている時のやりとりが二人がちゃんと話していたシーンかな。祖父も鈴木慶一さんでギターのネック直してといてやるよみたいなやりとりもあるけど、日本の芸能界や音楽シーンで重要な二人が出ていることで「エクスネ・ケディ」の存在感や意味合いにリアリティを出そうとしたはずなんだけど、ちょっとしか出ないせいで二人の経歴ややってきたことの方がエグい(影響力すごい)よなって思ってしまった。ただのおじいちゃんとおかあさんみたいになる前に映画からいなくなっているのが個人的にはもったいない。

Night Tempo – Structure Of Romance (feat. Kyoko Koizumi) 【Official Visualizer】



「エクスネ・ケディ」に関しては音楽はカッコいいなと思った。彼は架空のアーティストだけど、音楽を担当している井出さんが「PLASTIC KEDY BAND」というバンドを結成していて、その音源が使われているっぽい。ここをどう受け取るのかがネックだと思っていて、『新世紀エヴァンゲリオン』のカウンターとして、本当にリアルな死体描写を描くというコンセプトで大塚英志原作×田島昭宇作画『多重人格探偵サイコ』が始まった。そこで作品の重要人物として「ルーシー・モノストーン」というキャラクターがいた。

原作者大塚英志は、『多重人格探偵サイコ』をヒットさせるためのマーケティング戦略上のマクガフィンとして、ルーシー・モノストーンを「60年代末から70年代初頭にかけて活動したロックミュージシャン・テロリスト・カルト宗教の教祖」という設定の実在した歴史上の人物であるかのように語り、ルーシー・モノストーンのレコードジャケット、評伝のペーパーバック、ルーシー・モノストーンが写っている報道写真、ルーシー・モノストーンの音源を復元したCD、三木・モトユキ・エリクソン名義のルーシー・モノストーンの評伝、ルーシー・カルトの信者によるバンド・デシネを製作した。
2005年に、大塚英志の著書『戦後民主主義リハビリテーション』(角川文庫)のあとがきで、ルーシー・モノストーンが実は仮構の人物である事が明らかにされた。さらに、2012年に、大塚英志の著書『物語消費論改』(アスキー新書)の第一章「物語消費論とルーシー・モノストーン――いかにして物語を現実に越境させうるか」にて、ルーシー・モノストーン神話を製作した関係者の具体名や、具体的にどのようなマーケティング戦略をしたのかが明らかにされた。
ルーシー・モノストーンというネーミングの元ネタは、「1974年11月24日に、エチオピア北東部ハダール村付近で人類最古の化石人骨が発見され、偶然ビートルズの楽曲「ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンズ」のテープが流れていたことから「ルーシー(Lucy) 」と命名されたという逸話」である。
また、仮構のミュージシャンのルーシー・モノストーンをまるで実在の人物であるかのように語ったのは、大塚英志の敬愛する文学者の村上春樹が1979年のデビュー作の小説『風の歌を聴け』で、作中に登場する仮構の小説家のデレク・ハートフィールドをまるで実在の人物であるかのように語った事のオマージュである。
以上「ルーシー・モノストーン」wikiより

多重人格探偵サイコ』をリアルタイムでずっと読んでいて、ルーシー・モノストーンという存在を疑いもせずに、たぶんいたんだろうなと信じていた僕はCDや彼のことを書いた本などを買っていた。真実を知った今も「サイコ」グッズ関連として家に置いている。
「エクスネ・ケディ」に関しては基本的にはこれと同じことをやっており、パンフレットにも音楽ライターなどが「エクスネ・ケディ」についての文章を載せていた。おじさんやおばさんがそういうのを楽しんでやってるな、ということにノレるかノれないかだと思った。
僕は「エクスネ・ケディ」に「ルーシー・モノストーン」的なものが見えて、既視感があったのでノレないというよりも、より冷静な視線になって映画を観てしまった。やっぱり20年前に自分が熱狂したものに似た構造のものだった場合はそうなってしまうのは仕方ないし、大塚英志マーケティング戦略が卓越していたんだと再認識した。

映画の展開に話を戻すとイブキとジュンが付き合いだしてからは、定点観測的に出会ってからAugust&西暦でその時期の二人が描き出されていく。松居大悟監督『ちょっと思い出しただけ』はかつて付き合っていた男女二人の6年間を毎年の7月26日の一日を通して描いていたのでそれに近いとは思う。二人の関係性も気持ちも変わるし、学生なら就職したり、辞めたりとかそういう変化が描けるし、描かないことで観客にその空白を想像させることもできる。
二人が付き合い出してすぐの頃に名古屋にある映画館に映画を観に行くシーンがある。聞こえてくる声はオダギリジョーさんだなと思っていたら、スクリーンが映り、それは青山真治監督『サッドヴァケイション』の主人公を演じた浅野忠信さんとその同僚役だったオダギリジョーさんのシーンだった。その最中に若い恋人の二人はキスをする。まあ、映画観てないよなとは思う。そういう雰囲気になる映画じゃねえし、そういう場面でもないから退屈だったんだろう。ただ、そういうデートの一場面で二人は昂ってキスをする。映画館のシーンはその後、イブキとジュンが付き合って翌年と、さらに月日が過ぎてジュンと彼らの同級生だった天文部の女子と一緒に行くシーンがあり、その関係性の変化は映画館を舞台にも描かれていた。
その後、コロナパンデミック最中に大学で上京したイブキが受けている授業の中で、先生がフォークナーの書いた「ヨクナパトーファ・サーガ」と「意識の流れ」について話しているシーンが出てくる。フォークナーの名前が書かれているホワイトボードには彼から繫がるガルシア=マルケス大江健三郎中上健次の名も書かれていた。あと二人か一人外国の作家がいたはずだが、忘れた。
青山監督の『サッドヴァケイション』は「北九州サーガ」と呼ばれている三部作の三作目だが、青山さんが中上健次フォロワーなのは作風を見ればわかることだが、その「ヨクナパトーファ・サーガ」から連なる架空の土地を巡るサーガ、土着的なものを描いていく手法というものが明らかにこの作品にはあると語っていた。それらが今作における架空のアーティストである「エクスネ・ケディ」の補助線になっている。作品のプロデューサーの一人が仙頭武則さんであり、彼が青山真治監督作品に関わっていたからという部分もあるだろうし、そういう意図がはっきりと見れた。
小川あん&藤江琢磨のW主演の二人は瑞々しく、定点観測的に流れていく時間の中で十代終わりから二十代に入るまでの変化がとてもよかった。名古屋にずっといるジュンは内面的には徐々に変化していくが見た目はさほど変わらないものの、名古屋から東京の大学に通うために上京したイブキは生活する土地が変わることで、環境と人間関係によって大人びていき見た目も大人びていく変化があって、それはすごく現実感があった。そして、別れたあとの二人が出会ったきっかけだった「エクスネ・ケディ」の復活ライブを巡っての終盤の描き方はすごくよかったし、あの終わり方はよかった。
そういえば、イブキの家の犬が急に喋ったりするシーンがあったけど、あのリアリティラインはなんだったんだろう。スプートニク2号に乗せられて宇宙にいったライカのことが一瞬浮かんだ、関係ないか。冒頭で宇宙へ送ったメッセージの件があったからそいうイメージが沸いた。あの犬が実はメッセージを受け取って地球にきている宇宙人とかって設定でもないだろうし、不思議で印象には残った。

渋谷への行き帰りはradikoで『三四郎オールナイトニッポン0』を聴いていた。この日から彼らのワンマンライブが始まることもあって、収録回だったが、小宮さんが乗ったタクシーの運転手の女性が元々はSMのS嬢だったことから、詳しくSMの世界の話を聞かされたエピソード話がおもしろかった。
この数年、コロナパンデミックになって一番大きく変わったのは間違いなくラジオが日常に欠かせないものになったのだけど、その中でも三四郎のファンになったこと、彼らの「三四郎オールナイトニッポン」のリスナーとなりファンクラブにまで入ったことだなって思った。明日は初めて彼らのお笑いライブを草月ホールで観る。すごくたのしみ。
家に帰ってからはちょっとうたた寝。夕方にちょっと散歩がてらブラブラしてから、戻って作業を開始、来週末までに送らないといけないライティング作業を早めにやっておこうと思った。他のスケジュールもわりときつきつにはなりそうだけど、なんだか酷暑がちょっと和らいだだけでやる気が出てきたような気がする。
あと前に送っていたメールに関して、自分が構ってほしい的なニュアンスがあるよなってわかっていたものに対して返信があった、それもあってそういう気持ちになれた大きな理由だとわかる。だからこそ、やらないといけない。

 

7月23日
睡眠時間が短くて寝て過ぎに目が覚めるか、ある程度眠れて起きるとTシャツに染み込んだ汗が冷たくなっているのかのどちらか、梅雨がようやく明けた今日この頃だが後者だった。
25日にライティング作業の仕事があるので起きてからは、次回の打ち合わせと取材も兼ねて過去にやった作業分を読み返す。そこそこボリュームはあるので読むだけでも時間はかかる。読みながら修正箇所は直して、次回に追加したいものについてメモをしたりしていた。

今のラノベの読者は中年ばかりらしい、僕らの世代がメインとなっている。その下の世代を取り込む努力をしなかったり、その後に「なろう」系が来たりしたりと若者向けだったラノベの読者とレーベル自体が年を重ねてそのままスライドして固定化されてしまったみたいなことをなにかで読んだ。その世代がゼロ年代にまだ10代の終わりや20代前半の若者の区分に入っていた頃、みうらじゅんさんと伊集院光さんが『D.T.』という本を出して、「童貞」というワードがサブカルの大きなトピックになっていった。そこと少なからず呼応していたのが銀杏BOYZサンボマスターだったと思う。『ボーイズ・オン・ザ・ラン』映画版を銀杏BOYZの峯田くんが主演だったこともそういう流れのひとつとして象徴的だった。『電車男』のドラマ版の主題歌はサンボマスターだったりと、峯田くんと山口さんが「童貞」の象徴ではないし、バンドマンでフロントマンだから非モテではないにしろ、彼らの歌や音楽がなっていた映画やドラマにはそういう要素が多分にあったと思う。
そして、童貞マインドをこじらせてルサンチマンを抱えたままの一部の童貞男子(だった人)は自分を正当化するためにミソジニーになっていたりするんだろうなと思ったりもする。グラビアアイドルやAV女優の人ににSNSで暴力的だったり、性的な発言をする匿名アカウントは実際はどういう世代かわからないしすべてが男性ではないとしても、ミソジニーになっていて、こじらせた人たちが多いのではないかなと想像はできる。
僕らの世代の価値観は上の世代に親和性はあるし影響を受けてきた。しかし、SNS移行の急激な時代の変化と価値観の移り変わりに置いていかれたら、それらはさらに加速した部分もあったんじゃないだろうか。よりミソジニーが増して攻撃的になる、だが匿名性においてそれをすることで自分のしょうもないプライドを守る。断絶は広がるが、そういう人を相手にしない、するにはエネルギーがかかる。だが、交友関係でそこそこできるならそこまでひどくはならないかもしれない。
となると歴史修正主義者同様にその思い込みや変わってしまった価値観を通常なものへ、健全なところに戻すのはおそらく難しい。自分にとって大切な人がそうなってしまったら、一つは向き合って差別や歴史について話し合ってできるだけゆり戻しができないかと思案して動くだろう、もう一つは諦めて縁を切るか距離を取るしかない。そういう意味でミソジニーや差別主義者に傾倒していく人との付き合いは難しい。
僕も考え方がある程度は偏っているけど、知り合いの人の影響だったり本を読んでいたりもしてリベラルな思考だと思うんだけど、そうじゃない方向に陥るっていうのはわからなくもない。立場や人間関係や住んでいる場所とかが変わればそういうものはやはり揺らぐのも理解はできる。『銀杏BOYZ峯田和伸サンボマスター山口隆オールナイトニッポン0』を聴き終えて日記を書こうと思ったら、こういう風に連想的に広がってしまった。とりあえず、残しておく。

3年ぶりの「オールナイトニッポン0」の峯田くんと山口さんの掛け合いが最高で、ロックが、そして音楽が好きなのがよく分かるトークだった。峯田くんは山形で、山口さんは福島で、語尾やニュアンスにそれぞれの方言があってそれもいい。
東北は日本の首都、京都の時も東京になってからも鬼門の方角にある。かつての政権はずっと東北を落とせなくて坂上田村麻呂征夷大将軍となり、東北と蝦夷制定に向かってから歴史が動く。
『聖家族』刊行以降に古川さんだったと思うけど、「東北がなぜダサいとされているのか?」というのは長い間、その時々の政府(中央集権)にとって制定できない、異界の場所だったから、ダサいとか貶める言葉によってそれを削いでいく、脅威だと感じさせないようにしていったみたいな話を聞いた記憶がある。
西日本で岡山で生まれ育ち、東北に親族もいないとそもそも東北についてイメージがないから、東北やその地方の方言がダサいという認識はテレビとかメディアでそう感じてたんだろう。
そういうイメージとかも東日本大震災が起きてから福島に行くようになってから、首都圏の電力を担う原発建設に政府民間メディアそれぞれの利害関係や利権が絡んでいく中で利用もされたんだろうな、と思うようになった。
高校の先輩である千鳥は岡山弁を全国区になる際に武器にした。ダウンタウン以後の芸人では最も天下人に近付いたコンビになったが、かつて廃藩置県直後に福山県だった僕らの地域は備後弁だから、岡山弁と広島弁が混ざり合っている。さらに関西からの影響もあるし、二人は大阪に出たので備後弁に関西弁をリミックスしたのが彼らの岡山弁となっているから、明石家さんまさんの関西弁に近いと思う。
実際にはそれはまるっきり岡山弁でないし関西弁ではないが八割ぐらいは当てはまるその芸人が全国区で通用するポップとキュートさを増す言語となっているんじゃないかなと前から思っている。
峯田くんと山口さんの方言とそのニュアンスがラジオを聴いていて、すごくいいんだよね、人柄が直球で届くようだった。なんか方言っていいなって思える聴き心地のいい放送だった。

三四郎単独ライブ「道徳の日本男児 其ノ捌」を観にいくために赤坂見附駅青山一丁目駅の中間、赤坂御所の向かいにある草月ホールへ。歩くと約一時間半弱、この間も半蔵門線近くで試写を観る時に通ったばかりだったので、またここか、と思ったりはした。日差しが残酷というほどではなかったので、渋谷から赤坂までの246沿いでできるだけ影になっているところを歩いて行ったので汗ダクダクにはならずにすんだ。
だいぶ前に相田周二の写真が使われている「シュージックキューブ」をウェブで購入していて、受け取りを会場にしていた。開場時間の16時30分だったが、物販の現地受け取り時間になっていた16時前に着いたら人がまったく並んでいなくて、すぐに「シュージックキューブ」を受け取れてしまった。気持ち値段のわりに小さくて軽いなと思ったけど、記念にはいい。このルービックキューブ、実はこの単独ライブで重要な意味があるとはこの時は知らず、公演終了後には買ってよかったなと思った。
一緒にライブを観る予定で誘っていたノンは開演の少し前に着くと連絡があったので、時間を潰すために赤坂見附駅方面に向かった。駅直結のビックカメラでイヤフォンとか見ようと思ったんだけど、場所柄なのかアジア系の観光客のお客さんがたくさんいた。外よりは冷房効いているところで時間を潰したほうが体力は削られないので店内をウロウロして、16時30分過ぎに草月ホールに戻って席に着く。始まる10分ちょっと前にノンも来たが、その頃にはほとんどの座席にお客さんが座っているぐらいな感じだった。

この数年で『三四郎オールナイトニッポン』を聴くようになって、僕が三四郎のファンになったのはコロナパンデミック以降の一番の大きな変化じゃないだろうか。二人のトークのリズムとかやりとりが好きなのもあるし、東京生まれで東京育ちのちょっとボンボンというかいいところの育ちの良さもありつつも、ちょこちょこズレている(ネタだとしても思い込んだような)ことも言うけど、基本的に人間的な愛嬌のよさがどちらにもある、そのぐらいが僕には聴き心地もいいし、東京に長く住んでいるから彼らの東京育ちの感覚がわかるというのもあるのかもしれない。
ライブは基本的には漫才とコントを交互にやったのだが、その間の幕間には舞台の上にあるスクリーンに映像が映し出されていた。今回の単独ライブの企画として相田周二がカラオケを歌って95点以上を目指し、尚且つその曲の間奏中にルービックキューブを完成させるというものだった。その一つにルービックキューブの練習としての映像が二個目ぐらいにあり、公演で腕立て伏せをやったり、ちょっとした公園の遊具である傾斜のきついところを上って、そこに置かれているルービックキューブを取ってくるというものがあった。その傾斜のきつい坂を上るという動きの中で彼が上に上れずに滑り落ちる感じになったのだが、その際にアキレス腱を断裂してしまう。ラジオでも何度も話されているその場面の動画が流れた際には場内みんな大爆笑。あんなことでアキレス腱断切れる?みたいなことでもある。準備運動マジ大事。相田さんがアキレス腱断裂したことで本来やるはずだったネタもできなくなってしまった。それも含んだドキュメンタリー的な要素がガンガンに入る単独ライブとなっていた。

1.コント「ゴッドタン直前」
2.漫才「◯◯であれ!」
3.コント「人間の業」
4.漫才「局でのいたわり」
5.コント「孤独の…」
6.漫才「占い師 道徳の日本男児ver.」
7.企画「THE AIDA SHOW 2023」
8.漫才「2022-2023」

2013年9月11日、小宮が雨の日に泥酔状態で終電に間に合わせようと路上を走っていたところ転倒し、顔面を強打して前歯2本が欠けた。その際、一緒にいた後輩が自分の血だらけになっている口元を見て引いていたのに気付き、「笑わせなければ!」と咄嗟に考えた小宮はオーバーリアクションで「大丈夫だ」とアピール。その結果勢い余ってガードレールに右膝が激突、亀裂骨折した。小宮曰く「ただの芸人魂」が引き起こした事故とのこと。その2日後に『ゴッドタン』の収録があったが、この怪我のため右脚をギプスで固めた上に車椅子へ乗った状態で出演した。この様はスタッフ・共演者・視聴者に強烈な印象を残し、売れるきっかけになっていったという。その後もしばらくの間、ライブなどで松葉杖をついた姿が見られた。

三四郎のブレイクのきっかけが『ゴッドタン』に初登場の際の小宮さんがギプス姿で車椅子に乗っており、さらには歯がかけている状態だったというのは有名な話。コント「ゴッドタン直前」は小宮さんが当時の状況の再現で車椅子に乗っていて、相田さんは机と椅子があるところで椅子に座っており、「大事な時なんだぞ」と相方に怒りまくっているというもの。過去のエピソードをあえて、アキレス腱を断裂した彼に言わせて、お前がいうなよという倒錯した状況を作り上げていた。現在においてそれは反対の立場になっていることを知っているからこそ、笑えるというコントであり、今回の事故によって急遽作られたものだろうなと思った。そして、アクシデントも取り組んでやるしかないという芸人らしさも感じた。これから始まったことでお客さんは一気に心を鷲掴みにされたんじゃないかと思う。ネタと演出は小宮さんらしいけど、やっぱりクレバーだなと感じた。
コントは基本的に相田さんが座ってできるものになっていて、できるだけ動かなくていいもの。合間合間にルービックキューブの映像が入り、アキレス腱断裂後には普通にドキュメンタリーちっくなものとなっていく。ここでしか見られない映像だろうからファンにはたまらない。
コントでめちゃくちゃ下ネタを言っていたのもインパクトがあった。下心のある男性役の小宮さんが女性役を演じている相田さんに向けて、「おちんぽミルク」と言うセリフがあったけど、そもそもそれAVでしか聞いたことねえよ。最後の挨拶の時にこのコントについて「男性も近くに女性がいるから笑えなかったよね、ここでモテようとするな」と言っていたけど、そもそもその単語を女性は理解してんのか、知ってるのか、どうなんだ。なんとなくニュアンスではわかるだろうけど。確かに男性ばっかりだったらもっと笑いにはなっていたかもしれない。三四郎ファンはある程度はそういうことを受容してるのかな、6、7割は女性だったと思う。
漫才「占い師 道徳の日本男児ver.」は『THE SECOND』でやったネタの拡張版であり、「キング・オブ・コメディ」の名前の後に不祥事を起こした人をどんどん羅列していくパターンになっていた。漫才では相田さんは松葉杖をしたままだったけど、やっぱりおもしろかったし、この状態でしかできないネタになっていたので、今後再現性はない一回きりのものとなっていたのも印象深かった。今年アキレス腱ぶよぶよ状態で単独ライブ観れたのはレアだったなと思えた。
最後は相田周二のカラケオとルービックキューブチャレンジをしていて、ルービックキューブは見事完成したが、カラオケは得点が足りないという結果だった。
まったく三四郎を知らないという一見さんみたいな人は来ないだろう単独ライブだが、やはりラジオの『三四郎オールナイトニッポン0』ありきともいえる、データベース消費でないがそういう構造や二人のやりとりや発言を踏まえてのライブになっていた。だからこそ、来ているファンがその熱量を膨らませる場所になっていて、笑いが増したんじゃないかなと思った。来年もできればチケットが取れれば観たい、アキレス腱ありのバージョンも。
終わってから青山一丁目駅直結のビルにあった銀座ライオンでノンと感想を話しながら軽く飲んでから帰った。なんだかんだ始めて銀座ライオンに入った気がする。

 

7月24日
ビールを飲んだ日はよく眠れる。途中起きずに朝までぐっすり。起きても二日酔いもなくて頭はすっきり。リモートワークで仕事を開始。まあ、こちらのターンから向こう側のターンになっている案件なのでさほど忙しくもない、明日給料日なので明細が前日のこの日に出ているので確認。
決まっている時間以上に働いていた残業を減らすように言われてから二ヶ月ほど経っているが、その分と今年度から住民税がそちらの給与から引かれ始めたので手取りが二万ほど下がってきている。これは地味にきつい。岸田政権め、と的外れな怒りが沸いてくる、いや、怒りの矛先としては何も間違っていない。マジで自民党とか公明党とかに入れてる奴らはマイナンバーカードの問題や保険証廃止も含めて、公助をどんどんなくして、どう考えても国民負担増えるだろ、みたいなことしかしていない政権与党に文句はないもんかね、なんも考えてないんだろうな、じゃないとこういうことになると思えない。
去年まではこちらの給与と比べてもそこそこ原稿料関係の売り上げがあったので、住民税もそちら分が反映されたのがきていて、結局区役所の納税課に連絡して月二万ぐらいに分割してもらって払っていた。2月の確定申告で原稿料が去年は以前と比べるとかなり少なくなっていたから、去年と比べると住民税はかなり下がっていた。


休憩中にさすがに外に出ようと思って、駅前のスーパーに行く前に書店へ寄って新刊を見る。前から気になっていた塩崎省吾著『ソース焼きそばの謎』という新書を購入。全面帯でソース焼きそばの画像を使っていてインパクトがある。早川書房が新書を先月から刊行し始めて、これは第二弾というか二ヶ月目のラインナップのひとつ。

外に出た時にradikoのアプリを開いたらオススメに『佐藤栞里オールナイトニッポン0』が出てきた。だいぶ前に佐藤さんはやった記憶があったのでなんでいまさらと思って日時見たら、フワちゃんの時間帯だった。フワちゃんの声が出なくなったみたいな話はTwitterでも見たし、昨日の『有吉弘行のサンデードリーマー』でも触れていた。そういうわけで佐藤栞里さんがフワちゃんのピンチヒッターなのだろうと思った。この時点では情報は出てなかったけど、その後に上の告知が出ていた。
有名な話だと『ひょうきん族』のブラックデビル役は最初の一回目は高田純次さんだったけど、二回目の収録の時に高田さんがおたふく風邪になって明石家さんまさんが代役をやることになった。それが好評だからそのままさんまさんがブラックデビルをやることになったというもの。ピンチヒッターや代役ってそこに選ばれる時点で才能や実力はある。さらに運が回ってきて、分岐点に立つことにもなるわけだ。時折、才能や実力もないけど、ただそこに居ることで選ばれてしまったことがきっかけや縁となって実力や才能を伸ばしていくパターンもあるにはあるが、大きなポジションやお金が動いているような企画や仕事ではただそこに居る無名な人は使われにくいということもある。そもそも選ばれても大体の人はそのチャンスを掴めない。
掴める人はそのチャンスをきっけかにして第一線で活躍するようになって、だいぶ経ってから振り返ると分岐点だったとわかる、みたいなことがノンフィクションとか読むとよく出てくる。佐藤栞里さんは十二分に有名だし活躍されているが、こういう時に呼ばれて任されるというのは、ほんとうになにかのきっかけで番組になったり、期待もされているということなんじゃないかな。前にやった放送も聴いたけど、今回も楽しみではある。

『バービー』『オッペンハイマー』旋風が北米を席巻 “Barbenheimer”として社会現象に 

映画『バービー』がアメリカで公開されて、週末3日間の興行収入が1.55億ドル(約218億円)に達し、2023年に公開されたすべての映画でNo. 1になるスタートになったというニュースを見た。
バービー人形には縁もゆかりもないのだが、監督がグレタ・ガーウィグがやるというのを聞いた時から観ることは決めていた作品。彼女の監督作である『レディ・バード』と『ストーリー・オブ・ライフ/わたしの若草物語』はほんとうに素晴らしい作品なので期待しかないんだけど、日本だとどういう反応に、結果になるのだろう。クリストファー・ノーラン監督『オッペンハイマー』は日本公開が未定なので、いつ観れるのかはわからないけど、劇場スルーはさすがにないと思うんだけど。

Awich, NENE, LANA, MaRI, AI & YURIYAN RETRIEVER - Bad B*tch 美学 Remix (Prod. Chaki Zulu)



Twitterイーロン・マスクによって「X」という名前に変更されて、Twitterのマークだった青い鳥は放り出されてしまって、Xのロゴになった。Xってとほとんどの人が思ったはずなんだけど、なんでXなんだろう。45度傾けたら「十」になってクロスになるけど、そういうキリスト教的なこととかあったりするんだろうか、たぶんない。

 

7月25日
月に一回のライティング仕事でお昼過ぎに家を出て有楽町線に乗って江戸川橋駅で降りて、毎度の神田川スマホで撮った。行き帰りは声が出なくなったフワちゃんのピンチヒッターな『佐藤栞里オールナイトニッポン0』を聴いていた。サザンの曲が名前の由来になったとか、陽キャというか明るい家庭で素直で育ったんだろうなと思ってしまう、真逆の人間。もちろん、いろいろ抱えている部分や人間だから仄暗いものもあるはずだろうけど、とても気持ちのいい放送だった。太陽っぽい人だなあ、ラジオが大好きなのもあるだろうけど、話すのが好きだし人が好きなのがよく伝わってくる。
仕事の前に友人の隆介くんとお茶することになっていたので、講談社で受付をして彼がいる部署にエレベーターで向かった。そういえば、受付には女性が二人いたけど、僕が対応してもらった方は髪の毛がピンク色だった。講談社は受付でも髪の毛の色とかも自由なんだなって思って、それはすごくいいことだなって思った。漫画を作っている会社でもあるから、そこら辺は編集者だけでなく、働いている人が自由に好きな格好ができるほうが信頼できるところもある。
23階について隆介くんを見つけ、彼と同じセクションで今僕が関わっている仕事に関連している方々にもご挨拶。財布を変えてしまったから前みたいに名刺が入っていなくて、名刺を渡せなかった。やっぱり財布に何枚か名刺は入れとかないとダメだなあ。社内の3階部分にセルフのスタバができているみたいなので、そこでお茶と軽い近況報告。
その後、僕は場所を移動して毎月の定期なライティング仕事。今日は今後の流れとかも含めてしっかり話もできたし、方向性も定まったのでよかった。まあ、僕ががんばるしかないっていうのもあるし、次の期日までに仕事をしている人に納得してもらえるものに仕上げないといけない。その上でそのレベルにいけたら自分のライティング技術も上がるだろうし、今後のことも考えてこの機会が大事なんだろうなと帰りの電車の中で思った。それもあって、また執筆のスケジュールをちょっと変更した。このライティング仕事も時間をかなり使うのはわかっているし、自分の作品のための時間も必要になる。8月はうまく休んだり集中するみたいな緩急つけないとたぶんバテる。

「BOOKSTAND映画部!」のレビューコーナー「月刊予告編妄想かわら版」2023年08月号が公開されました。8月は『はこぶね』『バービー』『クライムズ・オブ・ザ・フューチャー』『春に散る』を取り上げました。


『PLASTIC』宮崎大祐監督の特別さは“偶然性”にあり? 小川あん×藤江琢磨インタビュー 

先日観た『PLASTIC』の主演コンビのインタビューが公開されていた。

衝動性と思慮深さを天秤にかけ、見つけだした自分らしさ
&AQ -Aquascutum アクアスキュータム-

前に藤江くんとニコラで会った時にニコラでの撮影の話をしていたのを聞いたけど、この記事の撮影とインタビューだったみたい。写真もいいし、しっかりとブランドのアイテムの紹介も兼ねて記事を作ろうとしている姿勢が見えていい記事だと思った。贅沢さがあるのは大事。

 

7月26日
起きると汗だく、寝る前にタイマーをかけているからどこかで冷房やサーキュレーターが切れて、部屋の中でも気温はそこそこ上がってい汗をかいて、その違和感や不快感で目が覚める。ずっと冷房とかつけっぱなしにしていたらどうせ喉がやられて風邪を引くパターンというのはいつものことなので、それよりは汗をかいたほうが健康にはよさげ。
起きてから作業のための資料を読んでから、リモートワークを開始。お昼すぎにずっと家にいるのは精神的に良くないと思って外に出るが、乱暴すぎる日差しと気温でできるだけ日陰を探して歩く。
単純に温暖化もあるのだろうけど、東京の都内は高層ビルとかが建てられすぎて東京湾とかからの海風みたいなものが入り込まない構造になって、熱が逃げられないためにさらにヒートアイランド現象が増しているんだろうなって思ったりする。


仕事が終わってから日差しも落ち着いてきたので散歩に出て、『あのちゃんのオールナイトニッポン0』をradikoで聴きつつ歩く。この前の『銀杏BOYZ峯田和伸サンボマスター山口隆オールナイトニッポン0』で峯田くんが最近のアーティストで気になる(すごいなと思える)人としてあのちゃんの名前をあげていたが、収録放送だったが今回の『あのちゃんのオールナイトニッポン0』の中で銀杏BOYZの『ボーイズ・オン・ザ・ラン』が流れたのはそういう流れもあるんだろうなと感じた。そして、この番組で銀杏BOYZの曲が流れるのは違和感がなかった。

銀杏BOYZ - ボーイズ・オン・ザ・ラン 



峯田和伸大森靖子―あの」はゼロ年代以降の日本のロックにおけるパンク精神というもののラインで繋がるんじゃないかなって思ったし、「Quick Japan」的なサブカル系カリスマタイプのロッカーでもあるかなって。大森靖子さんもアイドルをプロデュースして自身も加入している。あのちゃんも以前はアイドルだったこともあるから、アイドルの中でもパンキッシュな精神がある人とロックやパンク精神がうまく融合していく。元々そういう資質があった人が、あのちゃんがアイドルをやっていて、今もポップソングも歌って踊ってはいるが、アイズというバンドでロックをやっているのは、峯田から大森へのライン、それ以降の時代という感じで感覚としてわかる人には理解してもらえそう。

ひと休憩してから土曜日に提出する課題のライティング作業を始める。この作業を始めたのが3月からだったから来月で半年になる。来年とかになったらなんらかの形になるのだと思う。声をかけてもらっているので先方に求められていること以上の成果は出していきたい。成果がしっかり出したら今までと違う方向であったり、自分では思っていない仕事や関係性に繋がるだろうなというのは感覚としてわかっている。そういうおもしろそうな所に行くための時間だし、ある種の試練みたいなところがある。

 

7月27日
基本的には休みにしていて、なにもしたくない木曜日。のんびり起きた。8時台に『佐久間宣行のオールナイトニッポン0』をradikoで流してBGMがてら、比嘉健二著『特攻服少女と1825日』を読み始めた。昨日夜に塩崎省吾著『ソース焼きそばの謎』を読み終えたのでそのままノンフィクションを読むことにした。
ソース焼きそばの謎』はちょっと想像を超えるおもしろさだった。ソース焼きそばが戦前からあったこと、発祥としては浅草であり、お好み焼きと関係していたこと、関西発ではないことなどをいろんな資料や当時の風俗を書いた小説などからどんどん絞っていき、自説を検証していくというスタイルで、ミステリー小説を読んでいるような気持ちにすらなった。
戦後に一気に全国的に広まっていく流れも、物資の問題やアメリカからの小麦粉の輸入などが大きな要因となっていた。速水健朗著『ラーメンと愛国』でも書かれていたように今の日本における日本食となったラーメンやカレー、パンというものは戦後におけるアメリカの小麦が国内で余りまくっていたことで敗戦国の日本に、という大きなパラダイムシフトが起こったことから始まっている。ソース焼きそばが全国区に広がっていくのも同様の流れがある。1945年の第二次世界大戦の敗戦から78年、約80年で僕たちにとって当たり前の風景になったものが出来上がったという事実がある。盆踊りだって、戦後にジャズとかと結びついて出来上がったものが多く、戦前からというのはけっこう嘘だったりする、歴史や文化は思いのほか何十年で常識が変わってしまうし、当事者がいなくなると本来の流れが損なわれていく。
『特攻服少女と1825日』は僕よりもだいぶ上の世代の人たちがレディースだった90年代に刊行されていたレディース暴走族雑誌『ティーンズロード』の初代編集長だった比嘉健二さんのノンフィクション作品。
途中には『ティーンズロード』には読者投稿ページがかなりあったらしく、そこからの引用などもあったりする。「小学館ノンフィクション大賞」受賞作ではあるが、確かに小学館に持ち込んでダメで、一ヶ月少しで書き直して賞に応募したということをあとがきに書かれていたが、そういう部分もあったからこそその期間でなんとかなったのかもしれないと思ったり。でも、こちらも読んでいておもしろい。

10時過ぎに銀行に行って家賃を振り込んでから、ドラッグストアで諸々なくなった洗剤とかシャンプーを買うついでに、いつも使っているロートジーとストツーコラボの目薬で、リュウダルシムは前に買っていたのでガイルとチェン・リーのやつも買ってしまった。
箱もストツー仕様になっていて、説明書にあったQRコードを読むと彼らのデータみたいな画像がダウンロードできた。それによるとダルシムは1952年11月22日生まれだから70歳越えているし、一番若いチェン・リーは1968年3月1日だから55歳だった。まあ、ストツーが出たのが1991年で今から32年前、その数字を引けば彼らのねんれも違和感はない。でも、ストリートファイターは新作『ストリートファイターⅤ』が出ているけど、その辺りの設定というか年齢はどうなっているんだろう。


園子温監督作品にも出演されていた麻美さんが監督をされた『ロストサマー』の試写に呼んでもらったので、15時過ぎに道玄坂ユーロスペースが入っているビルの地下にある映画美学校に。最近月一回ぐらいの頻度で来ている気がする。

1988年生まれの俳優たちが集まり立ち上げた映像製作チーム「889FILM」による初長編作品。高知県を舞台に、孤独に押しつぶされそうだった男女3人が出会い、関わりあうことでそれぞれの喪失感を乗り越えてく姿を描く。

女性たちのもとを転々としながら、その日暮らしをする青年フユ。長年連れ添った妻に先立たれ、ひとり生きる老人の秋。忙しすぎる夫との生活に虚しさを抱えながら過ごす女、春。地方で暮らす、季節の名前をもつ孤独な3人の男女が偶然に出会い、不器用に関わり合っていくなかで自らの喪失感と向き合っていく。

監督・脚本は、俳優としても活動している「889FILM」メンバーの麻美(あみ)。フユ役は「草の響き」「少年と戦車」などに出演している林裕太、秋役はNHK連続テレビ小説「ちむどんどん」などに出演する文学座の実力派俳優・小林勝也、春役は「889FILM」メンバーで本作の舞台となった高知県出身の俳優・中澤梓佐。(映画.comより)

フユと秋の年齢を越えた交流、仮の父でもなく息子でもなくいち個人として二人が友情を育んでいくところがすごくよかった。あとは作中に出てくる募金箱の件や貼られているポスターとそのポーズを登場人物が真似る部分は個人的には園子温監督の作品を彷彿させるものだった。
フユも秋も春も魅力的な存在だったが、最初と最後で登場人物たちが成長であったり、退廃するという大きな変化を僕はあまり感じられなかった。それもあって、エモーショナルな要素がたくさんあるけど、あまり感情移入ができなかったのかもしれない。
登場人物たちにとっての「夏」が損なわれている物語でもあるので、それが先ほど書いたエモーショナルな部分かもしれないなとも観終わってから考えた部分ではあった。
春が冷凍食品を買って夫の弁当箱に入れる場面(『冷たい熱帯魚』でも冷凍食品をチンして食べるという象徴的なシーンがあったので僕が気になった部分はたぶんある)があったが、登場人物たちは何度もタバコを吸っていて、酒を飲んでいるシーンはあるのに、共に食事をしたりと団欒的な場面はなかった。
ハナレグミ『家族の風景』ではないけど、「夏」≒「家族」だとすると「ロストファミリー」としての物語だったのかもしれない。フユも秋も春も出会ってもこの先も「家族」にはならないだろう。その意味では今の日本の風景でもあるし、リアルが描きだされている作品になっていた。

終わってから家まで歩いて帰っていたが、昼間に家を出たほどの暑さではなく歩いても汗だくになるほどではなかった。そのまま三軒茶屋の駅前まで歩いて気になっていた書籍が出ていないか見てみたら出ていた。思いのほか好きな装幀デザインだった。
昼間にドラッグストアに寄る前にスーパーで買っていたざるラーメンを作って食べた。この夏はじめてのざるラーメン。わりと夏になると食べていて、いつもはつゆがごまだれのものを食べていたんだけど、なんだか今回は、今年は和風つゆがいいなと思ってそちらにした。焼肉屋に行ってもなにかとごまだれとか使いがちだったけど、あれはなんだろう、男子的な好みなのだろうか。前に焼肉屋をやっている友達に若い男子はたいていごまだれ、ごまだればっかり使うと聞いたことがある。もう、僕もごまだれではない中年になったということなのだろうか。

 

7月28日最終金曜日だったので、起きてからコンビニ行って朝日新聞を朝食のパンとアイスコーヒーと一緒に買いにいく。古川さんが月一回書いている「文芸時評」が掲載されていて、今回が三回目。『文藝』に掲載されていた町屋良平さんの長編小説『生きる演技』が最初に取り上げられていて、未読のままだったので読みたくなった。

仕事を開始する時間になったのでリモートワークを。止まっていたものが進み出して確認作業なんかも終わったのであとは向こうのターンみたいな感じになった。来週に休みを取るのでその時用に仕込んでおくことがあるのでその準備なんかをしていた。
いつもはお昼には家を出てスーパーとかに買い物に行くのだが、暑いし、洗濯物はすぐに乾くぐらいに危険なので今日は出ないで、朝コンビニでパンと一緒に買っていた惣菜を炊いたご飯と一緒に食べて、家でのんびり。


仕事が終わってからニコラに行ってネクタリンとマスカルポーネのタルトとアイスコーヒーをいただく。この時期になるとネクタリンという感じ、夏だなって。夕方すぎてようやく家を出たが、それでもかなり暑かった。

『あのちゃんの電電電波♪』 ゲスト 崎山蒼志

リモート作業中にradikoでいつも聴いているラジオ番組を聴いていたが、途中でTVerに変えて(リンクはテレ東にした)、昨日放送した『あのちゃんの電電電波♪』を見た。
天才ミュージシャン(崎山蒼志)とカリスマ性ミュージシャン(あの)のほどよくゆるいやりとり。テレ東深夜とテレ朝深夜のアングラやサブカルちっくなものがフジテレビや日テレ的なものが時代とズレていく中で、時代と噛み合い始めたのはいつぐらいかな。僕はヴェイパーウェイヴやレトロフューチャーやネオシティポップはテレ東やテレ朝深夜ぽさを感じるのだが、他の人はどうなのだろう。

夜は土曜日中に提出するライティング作業を進める。BGMはニコニコチャンネルの『ビュロー菊地チャンネル』の「大恐慌へのラジオデイズ」第127回「岡惚れ2と質問1で2時間超え注意」にした。毎週一回程度で更新されていくこのフェイクラジオ的な番組だが、一回が2時間越えたのは久しぶりじゃないかな。

 

7月29日

目が覚めると、気持ちダルい。スマホで今日のスケジュールを確認して昼過ぎに映画に行こうと思っていたのを止めた。そのままウダウダしながら星海社から刊行されているH.P.ラヴクラフト著/森瀬繚訳「新訳クトゥルー神話コレクション」の最初の一冊『クトゥルーの呼び声』を読んだ。表題作『クトゥルーの呼び声』の半分を過ぎたところで睡魔が動き出したので11時過ぎまでもう一眠り。次に起きるとダルさはほとんどなくなっていた。軽い夏バテの予兆だったのかな。
「新訳クトゥルー神話コレクション」は先日、講談社に行った際に仕事の資料としてもらったもので、もらいそびれていた2、3巻目を渡してもらった。ラヴクラフトが書いた「クトゥルー(あるいはクトゥルフ)神話」は今は世界中に広がっていて、その世界観を使ったものやオマージュしたもの、発展させたものなどさまざまなものがあり、彼が書いたものがいわゆる聖典となっている。

クトゥルフ(Cthulhu)とは、クトゥルフ神話に登場する架空の神、あるいは宇宙生物である。「大いなるクトゥルフ」などとも呼ばれる。

クトゥルフ神話の名に冠されている。初出はハワード・フィリップス・ラヴクラフト(以下HPL)の小説『クトゥルフの呼び声』(The Call of Cthulhu、1926年)。以降、多くの作品に登場している。人間では太刀打ちできない太古の地球の支配者であり、HPLの理念「コズミックホラー(人間の繁栄が宇宙からすれば短いものであるとした宇宙的恐怖)」を象徴するキャラクターとして、また「クトゥルフ神話」ジャンルの代名詞として知られている。

日本語による「クトゥルフ」表記は1974年出版の『ラヴクラフト傑作集』(後のラヴクラフト全集1)を訳した大西尹明によるものであり、表記の理由を「発音されると考えられる許容範囲内で、その最も不自然かつ詰屈たる発音を選んだがため」としている。

宇宙から飛来した異生物クトゥルフの名前は、本来、人間には発音不能とされ(ルルイエも同様)、その呼称を便宜的に表記したものである。英語では"Cathulu", "Kutulu", "Q'thulu", "Ktulu", "Cthulu", "Kthulhut", "Kulhu", "Thu Thu", "Tulu"など、複数の綴りが存在し、発音も決まっていない。S・T・ヨシは、「HPLは、"Khlûl'hloo"(クルールー)もしくは"Kathooloo"(カトゥルー)という音を"Cthulhu"と書き写した」と述べている。HPL自身は、"Cthulhu"の発音について「舌の先をぴったり口蓋に押しつけて、不完全な二つの音節、"Cthu-lhu"を唸るように、吼えるように、咳きこむように発音する」と書簡に記述している。これをカタカナで表現すると「クルールー」になる。一方、HPLから遺著管理者に指名されたロバート・H・バーロウは「HPLは"Cthulhu"を"Koot-u-lew"と発音していた」と証言しており、オーガスト・ダーレスもこれを支持した。「クトゥルー」という表記は、このバーロウの説に由来する。
以上「クトゥルフ神話wikiより

このように表記がいくつかあるものは最初に紹介された時から時間が経過しているものが多い印象がある。ある程度時間が経ってから本来の発音に準じた表記になると、最初の紹介者が使ったものとズレのようなものが生じてくる。そういう意味ではどちらも間違っていないし、昔から使われてきたもののほうが馴染みがあったり、いろんな場所で使われているので正しい、ということにもなりやすい。
クトゥルー神話」「クトゥルフ神話」だと個人的には後者のほうが発音としては好き。「ルー」と伸びることでちょっと爽やかな感じがする。作品群には「宇宙的恐怖」や悪夢や退行などのラヴクラフトの概念やイメージがあるので「クトゥルフ」というほうがダークさがあっていいかなって個人的には思う。
日本では『グイン・サーガ』などで知られている栗本薫著『魔界水滸伝』が日本の「クトゥルフ神話」の普及に最大の功績を果たしたと言われていて、彼女のように日本ではSF作家が好んで「クトゥルフ神話」を取り上げていた。そこからの流れもあるのだろうが漫画やコンピュターゲームにも導入されていった。それが80年代以降90年代だと思われるので、ファミコンであったり漫画やアニメが今のような一般的なものになる前だ。

それらはゲームに関しても黎明期だったりして、オタクがかつて迫害されていたという話をすると信じられないという若者が生まれる前のことだ。ちなみにこの前仕事でそのことを話していた。
オタクが迫害されていた話はそれぞれの年代であるにはあるが、僕の世代でもアニメが好きだったりアニソンや声優のファンというのはクラスにいたとしても、それを自分から声を大にしていうような雰囲気ではなかった。
やはり、決定的に変わったのは1995年放映の『新世紀エヴァンゲリオン』だったのは間違いない。放送当時よりもその後に深夜にテレ東で再放送をして、今は「旧劇場版」と呼ばれる二作品が1997年の春休みと夏休みに公開されて社会現象になってからアニメが本当の意味で市民権を得ていく。ゲームチェンジではないけど、オタクはダサいとか諸々の状況から、クラスのほとんどがアニソンを聴いているのが普通だぐらいにそれ以前とは状況が変わっていくのがゼロ年代以降だったはずだ。
ファミコン登場以降のカルチャーの変化と漫画とアニメ文化の成熟というか、個人的には成熟ではないと思うけど、一般化していった文化を当然のものとして需要している世代と、その変化の流れをずっと見ていた人ではやはり印象は変わってくる。観ていないけど、宮崎駿監督最新作『君たちはどう生きるか』もやはりそのグラデーションや受け手によって評価が大きく分かれているだろうし、批評的にもどうジブリやアニメの歴史からこの作品を読み解くかというのが感想はかなり違ってきていそう。
今やっているライティング作業のひとつが近過去に関するものだから、そういうことに意識的になっている部分もあると思う。僕は「クトゥルフ神話」という単語は知っていたけど最近までちゃんと読んでいなかった。仕事のために読み出したら、思いのほか自分が影響を受けてきたものの土台になっていたり、オマージュされていることに気づいた。僕が知らないうちにそういう作品をもっと需要してきたのだろうし、僕の中に入り込んでいるのだろう。そう考えると知ってからと知らなかった時ではまったく別の次元を生きているような気持ちになる、不思議だし世界のおもしろさでもある。

昨日、友達の昔からの知人が亡くなった話を聞いた。その人とは面識もなかったけど、名前を検索したら顔は知っていた。どこかですれ違っていたり、飲み会などで同席している可能性はあるぐらいの距離の人だった。
たとえば、誰かが何かの作品や創作者に影響を受けて、そのジャンルに関することに興味を持って活動を始める。その後、創作者が事件であったり、社会的に許されないことをした場合、というのがこの数年増えてきた。僕もそうだったが応援していたり、実際に知り合いや関係性があった場合はこちらも加害者の側だという認識になる。実際に被害者の方だったり、心身とも傷ついた人からすればそう見えるはずだ。自分がなにかから影響を受けたりしたことで新しい世界が広がったり、知らなかった場所に行くことでそれまでとは違う色彩になっていく。その始点であるものが、時が過ぎてから社会的な悪、加害者の側だとわかった時にそれまでの自分の人生も意味合いが変わっていくし、起きていた出来事によってそれまで自分が見えていなかったことについて不甲斐なさを感じたりもする。
他人を変えることはできない、と思う。未来はこれから次第かもしれない、が、揺るぎないと思っていた過去の日々がなにかのきっかけでまるっきり変わってしまうと思い知る。未来は変えられるかもしれないが、過去も歴史修正主義者がなにかしなくても変わってしまうものだとは昔は知らなかったし思わなかった。
だからこそ、文章を書く、書き残しておくことは時間が経ってからその時に自分がどこにいたのかを示す点になる。もちろん、こうやって書いている今の、現時点で考え方が間違っている可能性もある。でも、残しておくことに意味はある。
最近世界中で起き始めてしまっているけど、何十年も何百年も前に書かれた小説が現在では差別的な用語であったり、使われなくなった言葉なんかを修正したり、削除しているみたいな話がある。それこそ歴史を変えてしまう行為だし、その時には常識だったものが時代が変わったら非常識で穢らわしいと思われても、そのままの形にして読まれるべきだと僕は思う。それが歴史を正しく刻んでいくということだから。
と書いてみると作品が配信から消えたり、流通されなくなるということに関してはやっぱり僕は違うんじゃないかなと今は考えていることに通じているなと思う。時間が経つと変わるかもしれない、でも、聖人君子が表現をしているわけではないし、そんなに簡単なものではない。表現していくなら、そのことをずっと考えていくしかないし、人々が求めるものだってそんなに単純ではないと思う。

I's "DON't COMMIT SUICIDE" - live at SHIMOKITAZAWA SHELTER 



昼からずっとライティング作業していて、どこに行かなかったので日記というか思ったことを書いたらこんな感じになった。

 

7月30日
起きてから『クトゥルーの呼び声』を読み進めて、9時少し前に家を出る。日差しはまだ暴力的ではないがやはり強い。渋谷までは歩いて約35分前後。そこそこ紫外線も浴びるので、できるだけ日陰を選んで歩いたが汗はそこそこかく。でも、酷すぎるわけでもなく、風が吹いていたので心地よかった。
最近は246沿いを歩いていると電動マイクロモビリティというらしいのだが、LUUPというシェアサイクルの電動キックボードに乗っている人をよく見かける。スマホがあれば乗れるらしいが、僕は乗りたいと思えない。転倒したらかなり痛そうだし、そもそも原付バイクとか自転車とかと違って保険もかけてないもので対人事故とか起こしたら基本的に人生が終わるというのが先にきてしまう。
老人であったり幼児とかにLUUPでぶつかって、相手が亡くなるみたいなことが立て続けに起きて、裁判とかで巨額の損害賠償を払うみたいなニュースになってから、この危険なシェアサイクルは終わっていくのだろうか。フランスかどこかの国か街では住民投票でこのシェア電動キックボードは廃止になったというのを見た。日本でこういうものが解禁されるということはどこか利益が出るところと法整備関係に関わるところの思惑が一致しているということなのだろう。あーヤダヤダおそろしい。
家の近所でもよく見かけるのはカップルで男性が運転していて後ろに女性が乗っているパターン。自転車の二人乗りみたいな気持ちだと思うし、そういうことをしたいだろうなっていうのはわかるけれど、何かが飛び出してきて急ブレーキをかけたり、ぶつかったりしたら二人とも路上に投げ出されるわけでさすがに無傷というわけにはいかない。女性は夏とかでノースリーブとか肌の露出が多ければ多いほど、怪我はひどくなってしまうだろうなとその幸せそうな顔を見る僕はどこかで思ってしまう。もちろん、ほとんどの場合ではそんなことは起きない。だけど、どこかで悲劇は起きるし、その時に自分が巻き込まれないという保証はない。
こういう人間だから誰かと一緒に時間を過ごすことは難しいんだろうなとも思う。あと脳内では電動キックボードに二人乗りしてこちらに向かってきていたら、運転しているやつに向けてドロップキックしてみたいという謎の暴力的なイメージが沸く。なんか勢いがあるものを吹き飛ばしたいみたいな欲望なのだろうか。
PARCO渋谷の公園通り沿いのエレベーターについたらちょうど9時半だった。その時間から8階へのエレベーターが作動する時間だったので待っていた数人と一緒にホワイトイネクイントへ。


ホワイトシネクイントは壁沿いに上映中作品と上映予定作品のポスターが飾られているのだけど、今日観にきたエスキル・フォクト監督『イノセンツ』のポスターはメインの少年少女四人が一人ずつ逆さになった顔だけのものとメインの作品ポスターが5枚並んでいた。このポスターのセンスが非常に映画への期待度を上げてくれたし、こういうビジュアル面を見てたのしむというのも含めて映画館に来るたのしみになる。
昨日から公開されていて朝イチの回だったが十人以上は観客はいたし、後ろのエリアの前が通路になっている所の一番前の列は全部埋まっていた。僕もたいていここの一番端に座るのだけど、今日もそこに座った。
作品は「ノルウェー郊外の住宅団地を舞台に、夏休みに友達になった子供たちが隠れた力に目覚めるさまが描かれる。大友克洋のマンガ「童夢」に影響を受けており、「テルマ」「わたしは最悪。」に共同脚本として参加したエスキル・フォクトが監督を務めた。」というもの。
他の観客も大友克洋という作家名や『童夢』という作品名になにか期待していたんじゃないかなと思う。僕は大友克洋作品の大ファンとは言えないけど、『童夢』は読んでいるし、わりと北欧の映画は好きなものが多いので観ようと思った。北欧ってサスペンスとかホラー作品でダークさもある素晴らしいものが多い印象だし、やっぱりハリウッド的なメジャー作品とは趣向が違う、ちょっと神話っぽさもある。

退屈な夏休みに不思議な力に目覚めた子どもたちの遊びが、次第に狂気へと変わっていく姿を、美しくも不気味に描いたノルウェー製のサイキックスリラー。

ノルウェー郊外の住宅団地。夏休みに友人同士になった4人の子どもたちが、親たちの目の届かないところで隠れた力に目覚める。子どもたちは近所の庭や遊び場で新しい力を試すが、やがてその無邪気な遊びが影を落とし、奇妙なことが起こりはじめる。

監督は、「わたしは最悪。」でアカデミー脚本賞にノミネートされたエスキル・フォクト。ヨアキム・トリアー監督の右腕として、同監督の「母の残像」「テルマ」「わたしは最悪。」で共同脚本を務めてきたフォクトにとって、自身の監督作はこれが2作目となる。撮影を「アナザーラウンド」「ハートストーン」など北欧映画の話題作を多数手がけるシュトゥルラ・ブラント・グロブレンが担当。(映画.comより)

「登場人物の1人が、社会的によしとされない感情を抱え、それを表に出したことで、最後に殺されてしまう。松明を持った村人に退治されてしまう昔のモンスター映画を思い出したらしい。そこで問わないとけないのが『本当の怪物は誰なのか?』。僕は子供たちを絶対に怪物に仕立てたくないと思って作っていたわけで、彼はそこからさらに突っ込んで『理想的な社会を作るためには、冷酷でなきゃいけない』と受け止めたんだ」と述懐した。

ただテーマに関しては「老い」という題材に引かれているそうで「子供の映画を作ったから、今度はその真逆に行くんだ。主人公を老人にしてね。身体がだんだん言うことをきかなくなって、頭も昔のように機能しなくなる。誰もがいずれは死ぬんだということを受け入れる、といった楽しいテーマを追求したい」と期待を込めて語った。

本当の怪物は誰?「イノセンツ」監督が語る、“親友”ヨアキム・トリアー独自の解釈

「主人公を老人にしてね」という部分を読んで、多くの人が大友克洋繋がりで『老人Z』の実写化してよと思ったはず。

父親の仕事で団地に引っ越ししてきた四人家族。主人公はイーダという女の子で、彼女の何歳か年長の姉であるアナは自閉症であり言葉を話すことができない。イーダはそんな姉のことを煩わしくも思っているし、大切な存在だとも思っている。もちろん、アナは両親のとって心配の種であり、イーダはそのせいで自分への愛情が足りていないと感じている。それもあって、アナに対していじわるなことを親にはバレないところでしていて実際に姉に怪我などをさせている。そういう子どもの残酷さみたいなものが冒頭でしっかりと描かれていた。一人で遊んでいて友達もいないイーダの前にベンという同じ年ぐらいの少年が現れて一緒に遊ぶようになっていく。ベンには不思議な力があり、物を動かすことがわずかだができた。
同じ団地に住むアイシャという女の子もベン同様に不思議な力を持っていた。母親からアナの面倒を見るように言われたイーダがベンと遊びに行っている間に、アイシャとアナは一緒に遊んで友達になっていく。話すことができないアナだったが、アイシャはアナが何を言おうとしているのかわかり、それは心を読むという読心力だった。イーダとアナとアイシャとベンはその不思議な力を団地の中で試し始めていく。そして、それはテレパシーのようになって、意思疎通ができるものとなっていく。
アイシャもベンも家庭の描写ではどうやら父親がいないシングルマザーの家であり、四人の中で唯一男子の彼は母親との関係がよくなく、またサッカーをしている年上の少年に揶揄わられたりするとその怒りをぶつけるようになっていく。ベンはものを動かすだけでなく、人を操ることすらできるようになっていた。自らの手を汚さずにベンは人を操って、ターゲットを襲うことが可能になっていく。その彼の暴力への最初の兆候はイーダと一緒に遊んでいる時に見つけた団地猫への行動でわかりやすく示されていた。そのシーンを見て、かつての神戸須磨区の少年Aのことを思い浮かべる人は多いだろう。殺人を犯す人間は最初は小さな生き物を殺傷することが多い、そしてその際に良心は痛むのか、後悔するのかが大きな大きな分かれ道になっていく。ベンのその暴力性はやはり人間に向かっていくことになり、彼は取り返しのつかないことを犯してしまう。
そして、そのことに気づくのはイーダとアナとアイシャたちであり、大人たちは誰も気づいない。『童夢』でもそれは同様だったが、子どもたちの世界で起きていることに大人は気付けないし、知る術はないし理解ができない。
アナとアイシャはシンクロ率が上がっていくように、アイシャが話す言葉をアナが遠く離れた場所や、互いの家にいても口にすることができるようになっていく。両親は4歳ぐらいまで言葉を口にしていたが、それ以降は話せなくなっていた娘が「ママ」「パパ」と口にして、会話ができるのを目撃して感動の涙を流すことになる。だが、それは父と離れて暮らすアイシャが父と一緒にいる時に口にした「パパ」という言葉であり、アナに起きた奇跡のように見えたものはアイシャにとっての現状、悲しい状況の裏返しだった。
イーダだけは他の三人のように不思議な能力は特に発揮されない。終盤における最終決戦のような時に姉と共にその力を覚醒させたかのように見える場面があるが、それも彼女の力なのか正直わからなかった。もちろん、イーダにもアナのような力が備わっていると見ることもできるが、アナはなんというか能力者たちの能力を増幅させるような装置的な役割があったのではないかと僕には見えた。
基本的にはずっと団地とその近くの山が舞台になっており、シーンを見てもかなり低予算で作られているのだろうとわかる。セットなどもないし、団地を中心に撮影している。しかし、予告編を見てもわかるが、シーンごとのショットや映像がカッコよくてクオリティの高さは予算とかではないんだなと改めて思ってしまった。団地映画だし、『童夢』実写かと言っても何ら差し支えのない内容の作品なのに、日本でなぜこれが撮れないんだろうとも思ってしまった。このクラスの作品は日本のインディーや単館系作品でも充分ありえるはずなのに、映像のセンスとか画作りの問題なのだろうか。脚本というよりも画作りのような気がしてしまった。
子どもの残酷さと無邪気な悪意をしっかりと描いていたので観ているとちゃんと怖かった。子どもって本来は怖い存在であり、小さな人間なのだから悪意や欲望はもちろんある、それを無邪気に発露させないようにするのは社会性の獲得であったり、集団行動によって理性や抑制を覚えさせないと悲惨なことがわかるとも見える。
自閉症で不思議な能力に目覚めていくアナを演じたアルヴァ・ブリンスモ・ラームスタはノルウェー本国の映画賞でも主演女優賞にノミネートされたようだが、ほんとうにこれ演技なのかというぐらい凄かった。この先もっと大きな作品でこの人を観ることがあるんじゃないかなって思うし、きっとそういう俳優になるんだろうな。

昨日、ジョン・カサヴェテスレトロスペクティヴの一環で上映中の『こわれゆく女』を昼間に観たかったのだが、土曜日中に提出しないといけない作業があり、映画観に行ったらたぶんアウトだなとわかったので諦めた。
『イノセンツ』が終わって一時間ちょっとで『ラヴ・ストリームス』という作品が上映だったので、青山ブックセンターに寄って本を見ながらちょっと涼んでからイメージ・フォーラムへ向かった。
日曜日のお昼過ぎだったが、かなりお客さんは入っていた。ジョン・カサヴェテスレトロスペクティヴは二回目の延長らしく、金曜からは昼間の13時からの一回だけで毎日違う作品が上映されるというプログラムになっていた。
僕はジョン・カサヴェテスの名前ぐらいしか知らなくて、作品は実際に観たことがなかった。『こわれゆく女』はジョン・カサヴェテス監督の妻でありパートナーのジーナ・ローランズが主演で、彼女の夫役を夫妻の友人でもあったピーター・フォークが演じているというので観たいと思った。
ピーター・フォークというと日本だと『刑事コロンボ』のコロンボというイメージだろうし、シネフィルとか映画通じゃないと彼が出ている他の作品とか出てこないんじゃないだろうか。僕はヴィム・ヴェンダース監督『ベルリン・天使の詩』にピーター・フォークは本人役で元天使で出ていたのを観たぐらいだ。『男はつらいよ』の渥美清さんのようにキャラクターのイメージが一般の人に強く結ばれていて、彼らと同時代を生きてきてそれ以外の作品に出ていたことを知っていないと、彼が他の作品に出ているイメージはもはや浮かびにくい。ピーター・フォーク渥美清はけっこうニアイコール的な存在じゃないかな、違うかもしれないけど。
菊地成孔さんのニコニコチャンネルのサイトで何週にもわたって、『刑事コロンボ』についての話をしていた時があった。そのラジオを模した動画では「刑事コロンボ検定」をやったりするほど、めちゃくちゃマニアックな内容が話されていた。そのせいで僕の中にピーター・フォークという以前よりも強く名前が刻まれていたことがきっかけとなった。

激しすぎる愛情ゆえに精神を病んでいく女性とその弟の愛と苦悩を描いた、ジョン・カサベテス監督の集大成ともいえる作品。

小説家のロバートは愛や孤独を題材にした作品で評判を呼んでいたが、実生活では他人を愛することに不器用で離婚歴もあった。そんな彼の家に、長年連れ添った夫と別れた姉サラが訪ねてくる。娘が父親との生活を選んだことに傷ついたサラは、狂気の世界へと足を踏み入れていき……。

1984年・第34回ベルリン国際映画祭金熊賞を受賞。(映画.comより)

ジーナ・ローランズが姉で監督でもあるジョン・カサヴェテスが弟を演じている作品だが、二人とも感情豊かだといえるし、奔放だしわがままでめんどくさい人物を演じていた。もちろん愛しい人たちでもあるが、一緒に長く居るのはしんどいだろうなとも思えてしまった。
弟のほうはずっとタバコを吸って酒を飲んでいるし、姉もそこまでもないが同じようなものだ。ドラッグはやっていないが、ニコチンとアルコール中毒に見えるが、昔はそれが当たり前だったのだろう。
途中からタバコとワインをずっと手にしているのが現在になれば、それらはなくなってスマホになっているわけで、人間はずっとなにかの中毒なのだと思えばなんら違和感はないなと感じてきた。しかし、スマホの方は誰とでも繋がろうと思えば繋がってしまえるものであり、結局繋がれないことが起きたり欲望の行き先が本人の望み通りに辿り着けなくなるとより孤独が際立ってしまう。なんかタバコを吸って酒を飲んでいる方がしっかりと孤独に浸れるし、しっかり自暴自棄に見えて人間らしいと20年代に生きる僕には思えた。
弟が息子を元妻の戻したあとぐらいで、二日ほど前から左下の奥歯の一つ前の歯の一部が欠け始めているのか気になっていて、映画を観ている時に舌で触って気になったから指をつっこんで爪先でいじってみたらヒビが入っていたのだろう、欠けて取れた。捨てるわけにもいかないのでその破片を指で掴んだまま映画を観ていた。
映画の最後の方に姉がたくさんの動物をつれてくるところか、夢で見た歌とダンスのシーンとか荒唐無稽とまではいかないけど、もう無茶苦茶だなって笑いそうになってしまったが、弟にも姉にも僕は感情移入できないまま観ていた。やっぱり『こわれゆく女』を観るべきだっただろうか。

終わってから家に帰るまではきた時同様に歩いたが、影がないところでの日差しの強さは驚くほどで、あれはほんとうに気をつけないとすぐに熱射病とかで倒れる人が続出しそう。でも、渋谷の街は日曜日らしく人でいっぱいで活気に満ちていた。映画館には行きたいけど、そこでの冷房の寒さと外出た時の気温の高さのギャップがほんとエグいことになっている。あの寒暖差は今年ほんとうにすごい、あぶなっと毎回思う。

21時から二週間に一回のミーティングを一時間半近く。自分が提出したものについて、先方からコメントやどういうことですかと深掘りされることで、書いていなかったけど、実は脳裏にあったり、その奥に隠れていたものが引っ張り出される感じがする時に、アイデアが共有されて広がっていく、深くなっていくのがおもしろいなと毎回思う。
自分だけでは辿り付かなかったり、思いついていてもうまく形にできていなかったものが誰かの一言がきっかけで一気に出てくる感じ、氷山の水面に出ているところだけだったのが、水中にある全体像が急に見えちゃう感じとか、あれはちょっと快感でもある。次回までにもう少し深いところまで掘れたらこの仕事はグーンと進むはず、たぶん。

 

7月31日
暑さで7時前に目覚める。タイマーをかけて寝ているから、時間がきてクーラーやサーキュレーターが切れてから部屋の温度が上がっていき、最終的に嫌でも目が覚める。ずっとクーラーを効かせていると喉とかやられて風邪を引きそうだからこの方がまだ健康的なままな気はする。
起きてから作業はしないで、明日と明後日で休みを取るのでその際の移動時間などを調べていた。思ったよりも時間がかかるけど、早めに行った方が自由な時間は増えるし、やってみたいことも余裕を持てそうだった。その代わりに自分が考えていたよりは早めに家を出た方が安全だなというスケジュールになった。あとどこ行ってもこの暑さからは逃れらない。それに関してもどのくらい準備をするのかは当日朝に考えることにした。荷物はできるだけ少ない方がいいけど、MacBook Airは持っていくかどうかちょっと悩む。


柴尾さんの『レナス』読了。ゲームはしたことないが世界観がわかる作り。RPGは英雄神話や通過儀礼という物語の基本をベースにあったのが伝わる。今の柴尾さんが物語るとどんなものになるだろう。隣は同時期に出ていた『摩陀羅』ノベライズ。

柴尾英令さんが亡くなって5年ぐらいだろうか、実際にお会いしたのは数回だが初期からのメルマ旬報チームだったので印象深い。穏やかで優しい人だったというイメージ。
フェイスブックの思い出で10年の投稿が出てきていた。柴尾さんがシナリオとディレクターを務めたゲーム『レナス 古代機械の記憶』のご自身がノベライズした『レナス――崩壊の序曲』と『摩陀羅 アガルタの真王』下巻の画像が出てきた。どちらも初版は1993年刊行。『レナス』は富士見ファンタジア文庫で『摩陀羅』は角川スニーカー文庫で、現KADOKAWAのレーベル。
『摩陀羅』も元々はゲームにするという前提で始まったメディアミックス作品。確かカプコンに決まっていたけど、二転三転してKONAMIから発売されることになったが、まずは漫画で認知度と人気をつけてからファミコンゲームで発売という流れだった。
『レナス』はスーファミの作品だけど、ゲームのシナリオが書いた柴尾さん自身がノベライズで小説を書くというのはたぶん重要なことだった。『新世紀エヴァンゲリオン』のキャラクターデザインだった貞本義行さん自身がコミカライズした漫画版、細田守監督作品や新海誠監督作品を監督自身がノベライズを執筆するという風に角川書店からKADOKAWAへ社名は変わっても、作品を書いて一番その物語を知っている人が書くべきだよねというのは繋がっている。
家庭用ゲームというカルチャーが一般化して当たり前になった。インターネットよりも10年ちょっと前ぐらいに始まったそれらが現在のカルチャーの土台の一部になっている。
そう考えるとそれをメディアミックスの一つとしてノベライズしたりして出版していた角川書店という出版社は他の出版社とはやはり違う。現在のカルチャー面で歴史を紐解いていくと重要な存在だし役割を果たしている。春樹期と歴彦期では同じメディアミックスでの方向性が変わっているのもメディアのあり方として時代性がはっきりしている。
今はどこもかしもみんなIPを欲しがるようになった。かつてはゲームやアニメを作りたいんだとか熱狂というか作品作りにおける情熱があって、いくつか時代を代表するような作品が出てきた。作品が大きく化けていくといろんなところで利益も生んだが離反や衝突が起きた。
今はそういうところは省かれて、まずIPを作ろうという所から始まってしまっている。たぶん、それも悪いことではないけど、関わる人間のそれぞれの立場で責任や熱量にかなり差は出てくるから、その辺をうまくバランスを取って舵取りをする役目やポジションがいないとダメなんだろう。

いつも通りリモートワークを始めて作業をやっていく。今は立て込んでいないので急ぐこともないので気持ちとしては楽なので、今後やることの下調べなんかをしていた。
13時過ぎに家を出てから駅前をぶらっとしてからトワイライライトに寄った。


チョ・セヒ著/斎藤真理子訳『こびとが打ち上げた小さなボール』の文庫本が出ていて、明日と明後日の行き帰りの時に持って行こうかなと思って購入して、一緒にアイスコーヒーを頼んで一服していた。座ったのは窓ガラスの前で、そこに荒川洋治さんの『忘れられる過去』というエッセイが置かれてい他ので手に取った。最後に書かれてあった川上弘美さんの解説から読んだ。その文章も魅力的だったので、冒頭のエッセイを読んだら、これは旅に持っていくにはいいなって思ったので購入して、明日はこれを持っていくことにした。
お店の中には実物大のバスタブが運び込まれていて、LUSHとのコラボしているもので、「詩」をお風呂で浴びたらというコンセプトのものだった。LUSHってこういう文化的なものをやるんだなって知らなかったのでちょっと新鮮。バスタブを運び込む時点でやる気満々だし、販促物もちゃんと作っているからかなり力を入れているのがわかる。


夕方ちょっとコンビニ行った時にセミが鳴いていて、近づいたけどこのセミはほとんど鳴いてなくてもっと上にいる姿の見えないセミがずっと止まらないで鳴いていた。
気温の暑さは気が滅入るけど、セミの鳴き声は夏だなって風流さもあって全然許せるというか、もっと鳴いて、その力で気温を下げてくれと思った。たぶん、写真に写っているセミはもう生命力はなくなってなんとか木に捕まっているだけみたいだった。

仕事が終わってからライティング関連の連絡があった。3月からやっている仕事とは別の件で声をかけてもらったので、来月からそちらもやることになると思う。3月になってから今までまったく縁のなかった仕事をやるようになったけど、この流れはありがたいことに加速していきそう。
今年来年とこのジャンルの仕事をしっかりやって形になっていったら、僕の仕事もそちらにスライドして、比重が大きくなるのかもしれない。必要とされていることで結果や成果を出して、それが自分のやりたいことに少しでもプラスになればいいけど。縁やタイミングがほんとにデカいなと思わさせれる2023年。

今回はこの曲でおわかれです。
Kassa Overall - Going Up