Spiral Fiction Note’s diary

ライター&Webサイト編集スタッフ。「水道橋博士のメルマ旬報」で「碇のむきだし」、「BOOKSTAND」で「月刊予告編妄想かわら版」、「PLANETS」で「ユートピアの終焉ーーあだち充と戦後日本の青春」を連載中です。

『Time when you were there 君たちの居た時間』


 『水道橋博士のメルマ旬報』vol.91配信されました。
 連載『碇のむきだし・岩井俊二園子温の時代』は『スワロウテイル』&『BAD FILM』についてです。「ま」組のメンバーになりました。今回はすごい方に挿画イラストをお願いしたら願いが叶ってしまいました。僕やっぱり引きが強いです。
 僕の連載でなんと田島昭宇さんに挿画イラスト描いていただきました! 
 もしも、『スワロウテイル』の続編があるとして、主人公であるだろう新世代の少年と少女のイラストです、すげえカッコいいです。
 生のイラスト原稿の受け渡しで今、原画展をやっているスペースカイマンに受け取りに伺ったんだけど、昔の編集者みたいなことも体験できて、怖いよっていう、嬉しいんだけど怖いっていう。もう心臓バクバクでスキャンして持って移動しました。もう、鳥肌とかいろんなものが押し寄せてきた。


 今回のメルマ旬報に田島昭宇さんに挿画イラストを描いてもらった話を書きます。
 僕には4歳ほど離れた兄がいる。たぶん、4つ学年が上だったと思う、そのぐらいの仲だ。彼が10月生まれで僕が3月生まれだから4・5歳離れているのか、だから気持ち的には5つ離れている。
 幼少期にそれだけ離れていて、おまけに彼は喘息持ちでよく学校を休んでいたから一緒に遊んでもらったという記憶がない。そうなると兄弟として共通の記憶も特に等しい。そして、趣味・趣向がおそろしく真逆な兄弟だから、彼が好きなミュージシャンや好きなものに私は何ら興味を持てないし、彼も僕に関しては同様だと思う。
 そんな兄の影響というか、彼がいなかったら出会うことのなかったのが田島昭宇さん作画『魍魎戦記MADARA』という漫画だった。この『魍魎戦記MADARA』シリーズの第1作目だった『摩陀羅壱』はゲーム雑誌『マル勝ファミコン』に連載されていた。兄がその雑誌を読んでいたので私もなんとなく読んでいた。
 ちなみに僕が小学2年生の時に初めて買ってもらったファミコンソフトはコナミの『がんばれゴエモン2』だった。最初に買ったのがコナミの作品だったからか、私はその後、とりあえずファミコンソフトといえばコナミのソフトばかり買ったりチェックするようになった。
 1990年にコナミから漫画で連載されていた『魍魎戦記MADARA』はロールプレイングゲームとして発売された。この頃のロールプレイングゲームで容量の大きいものは普通のカセットよりも縦に長く大きいものだった。兄が買ってプレイをしていたのを記憶している。小学2年生ぐらいだった僕はまだどんなゲームをしても下手で、ましてやロールプレイングゲームには早すぎた。






真王・摩陀羅、赤の眷属・聖神邪(ゲド・ユダヤ、十三番目の使徒、神殺しができる唯一の男)、青の眷属・夏凰翔(カオス・リヴァイアサン、アガルタの扉を開けた罪で愛されるものに七度殺されなれば救われない宿命)の三人の原画が並んでるの見れるなんて。
田島昭宇さんの原画展@神田のスペースカイマンにて。


 『魍魎戦記MADARA』の原作は大塚英志さんであり、このシリーズのサーガは少し時代の早いメディアミックス作品でもあった。前の捕まった角川の前社長と大塚さんがあるパーティで口論というか売り言葉に買い言葉で「じゃあ、メディアミックスっていうのをおたくで見せてやるよ」と大塚さんが言ったとか言わないとか、大塚さんは藤原カムイさんとデビューして間もない田島さんを連れて徳間書店星海社新書から出ている『二階の住人とその時代』をぜひ読んでください。日本のアニメの歴史と分岐点がわかります)から離れて角川書店に仕事の場を移すことになって始まったのが『魍魎戦記MADARA』だった。


 以前、大塚さんがどこかのインタビューでなぜ新人だった田島さんを角川に連れて行ったのかという質問に「その時、そこにいたから」と答えていた。『魍魎戦記MADARA』が連載していた時にははがきアンケートで小学生の読者に「僕の方が絵うまい!」と書かれていた話もある田島さんだが、現在の絵を見てそんなことを言える人は皆無だろう。いたら怖い。
 大塚さんはデビュー時の田島さんに何かを感じとったからこそ、『魍魎戦記MADARA』でも作画を田島さんに任せて、終わった後にも『多重人格探偵サイコ』で再びタッグを組んでいるはずなのだ。そして、「その時、そこにいたから」という言葉は僕にとって大事な人生の指針になった。僕が興味のあるいろんな所に顔を出すのはそのせいだとも言える。なにかを持っていなければその後には繋がらない、しかし、その場に居たということがのちの人生を変えてしまうことは間違いなくある。
 あの時、あの場所で、あの人と出会ってしまった、それがのちの人生を決定付ける。しかし、人生は無限ではなく有限だ、いつか終わる。でも、出会ってしまうことで何かが変わっていく、できるだけ良い方に、面白い方に流れるために。
 偶然でもたまたまでも良いからその時、その場にいた奴が強いっていうか引き寄せる感覚、映画『24アワー・パーティ・ピープル』のセックス・ピストルズのライブを目撃してしまった連中みたいな、そんななにかをずっと求めているのかもしれない。


 我が家は、物心ついた時には発売日に『週刊少年ジャンプ』『週刊少年マガジン』『週刊少年サンデー』『月刊少年ジャンプ』『月刊少年マガジン』があった。サボテン狂いの父は漫画も好きだった。
 僕の名前も小山ゆう『がんばれ元気』から「元気」やあと何の作品かわからないが「太陽」というのが候補だったらしい、もしかしたら「直角」も候補だったかもしれないがそれを祖父が止めた。ナイス亡き祖父。そのおかげで僕は平凡な「学」という名前になった。
 そんな漫画好きな家だったからか『魍魎戦記MADARA』の大判コミックも家にはあった。兄がそのシリーズの2作目『摩陀羅弐』まで買って、そのあとは買わなくなったので僕が引き継ぐように3作目『摩陀羅赤』以降を買って集めるようになった。
 高校生に入った頃に角川の少年エースコミックとして『魍魎戦記MADARA』シリーズは完全版として発売され、1997年に『月刊少年エース』で『多重人格探偵サイコ』の連載が始まった。
 

 今年、2016年に最終巻である24巻が発売され完結を迎えた。人生の半分以上を追いかけてきた漫画が終わるということ。以前から数回、田島さんのサイン会には足を運んでいた。7月16日にTSUTAYA渋谷店で最終巻のサイン会があった。
 整理券をゲットするために7月1日の発売日に有休を取り仕事をのうのうと休み、開店の1時間前から並んだ。僕は並ぶのが大嫌いだ。2時間並んで美味いラーメンを食べるなら並ばずにそこそこの、最悪まずいラーメンでいいと思う派だ、しかし、これとそれは次元が違う。だって、19年続いた連載の完結であり最終巻で『多重人格探偵サイコ』のコミックにおける最後のサイン会になるのだから。
 すでに10名ほどの人が並んでいた。危なかった、油断して仕事に行って休憩時間に渋谷に買いに来たらすごく遅い番号か、あるいはなくなっていたかもしれない、ホント危なかった。やっぱり自分みたいな人間がたくさんいるものだ。しかし、暑い、汗が垂れてくる、我慢我慢。そんなこんなで無事コミックス最終巻を買って整理番号をゲットして、サイン会当日になった。


 13時スタート予定が田島さんの到着が遅れて一時間半押しでスタートになった。整理番号14でよかったと心から思った。しかし、待ち時間がけっこうあったので立ち読みしたり、隣の大盛堂書店に行ったり、渋谷の街をぶらぶらしていると脳裏に浮かんでくるものがあった。今回の原稿にはずっと前から大塚英志さんの「あとがき」を引用するのは決めていた。
 田島さんにサインの時にダメ元でメルマ旬報に書いている『岩井俊二園子温の時代』の次号『スワロウテイル』&『BAD FILM』についての時にイラスト描いてもらえないかお願いしてみたらどうだろうかとふと思った。
 『スワロウテイル』が1996年9月公開で小説も同年に発売している、『多重人格探偵サイコ』は1997年2月号から連載開始、『スワロウテイル』の頃の岩井さんの本は角川書店から出ていた。もちろん、『多重人格探偵サイコ』もずっと角川書店だった。
 待っている時に立ち寄った大盛堂書店で春日太一さんのサイン入り『あかんやつら』文庫を買い、田島さんにお土産にしようと思った。解説は水道橋博士さんだし切り出せるかもしれない。
 自分の順番が来てお土産を渡してコミックスにサインをしてもらう。でも、ここで言えるって雰囲気ではなかった。サインをしている田島さんの隣には角川の編集さんいるし。しかし、去年のサイン会の時に『リアル鬼ごっこ JK』を田島さんにお渡していたこともあって、田島さんがサインしながら「小説どうなの?」と聞いてくださったから一気にメルマ旬報の連載のイラストを描いてください、まで話を持っていった。悪くない感触だが、どうだろう。
 でも、挿画イラストを描いてもらえたら超ラッキー! 夢がひとつ叶ってしまう。ダメで元々、さて、どうなるか。これが田島さんのリップサービスだとしても、繋げられることができないわけじゃない、と前向きに考えた。


 好きな人に好きなことを伝えないと、伝わらないし次に移行しない、まあ伝わっても大抵のことは成就しない、でも、言葉にして文章を書いたり、声に出したら宿るものは間違いなくある。僕は運がいいって言うようになったら、前よりも運がよくなったみたいに思えるような、そんなことだ。ダメでもいつかに繋がる一歩になればいいと思った。
 原画展が始まってしまった田島さんにそもそも時間はあるのか!
 描いてもらえるとしても30日の配信日までに間に合うのか! 
 果たして僕は本当に運がいいのか? 


 サイン会の後に田島さんにDMでイラストの依頼をさせていただいた。もしも、『スワロウテイル』の続編があったとして、あの作品から20年ほど経っているからCHARAが演じたグリコたちの子供ぐらいの次世代の「円盗」の十代後半のキャラクターを描いてもらえないでしょうか、と。
 その結果がこれです。いやあ、本当に運がいいって言い続けていよう。
 小学生の頃に読んでいた漫画を描いていた漫画家さんに自分の文章に挿画イラスト描いてもらえるなんて、あの頃の自分に言っても信じないだろうし意味がわからないだろう。



 数年前に僕はツイッターでこんなことをツイートしたことがある↓
「フリーターになって十年目だけど水道橋博士さんのフェスに出させていただいたり、大盛堂さんでブックフェアやらせてもらったり自分でも不思議な連鎖と繋がりが具現化していてわけわからんくて面白いな。 好きな人や物を追いかけてたら視えない繋がりが次第に可視化されて巻き込まれていくみたいに。」


 これに対してメルマ旬報「め」組のトップバッターである西寺郷太さんがこうリプライしてくださった↓
「あるで!しつこくまっすぐ進んだら、ある時から自分が吸盤になったみたいに好きなもんばっかりひっついてくるでー!」


 と、それに対して「め」組の美女ーズの一人である木村綾子さんがこんなツイートを↓
「郷太さんがめちゃくちゃシビれること言ってる!そしてこの言葉に対してうんうん!って首縦に振ってる今の自分がいるのは、すごく有難いこと。」


 僕がお二人に対してこんなリプライを↓
「メルマ旬報fes終わった後ぐらいにいろんなものが繋がって面白くなっているなとツイートしたら郷太さんがさっきのツイートをしてくださったんですよ。」


 最後に郷太さんから僕と木村さんに向けてこんなツイートを↓
「あるで。まじであるでーーー!三十代前半で一個ずつ穴あけたビンゴ。四十前後でなんか急に色々並んでビンゴ連呼する感じ。ちょっと若い君ら、あるでーーー!!」


 こう書かれた郷太さんは年々、どんどん次から次へとビンゴ連呼されている感じだし、好きなものが集まってきているのがよくわかる活躍をされている。僕もそのビンゴと言える感覚が少しだけわかったような気がする。だから、好きなものに対しては好きだと言い続けていたい。それが形になればもちろん嬉しいけど、ならなくてもいい。だって、大抵のことはそうならないものだから。だけど、その気持ちが絶対に譲ってはいけないものを引き渡さないキーになるし、これからの生き方に影響してくるんだってことだけは知っている。













(スペースカイマン・田島昭宇原画展にて撮影)
 『多重人格探偵サイコ』がもうすぐ終わるという話が出ていた去年の年末にcakesのNさんから電話があり、大塚さんにネタバレインタビューをやってみないかと連絡を受けた。cakesでは浅野いにおさんの『さよならプンプン』完結後にネタバレインタビューというのをやっていたのでその企画を知っていて、僕はすぐにやりますとお答えした。で、角川に連絡をするという話になったが諸々あって話は流れた。実際、終わると思われた23巻ではなく最終巻は24巻になった。
 小学生の頃から『MADARA』を読んでいて、高校生の頃には「108」つのストーリーの断片を探した。しかし、田舎だったらあんまりなかった。『MADARA 影』を見つけるまですごく時間がかかった記憶がある。
 『多重人格探偵サイコ』のノベライズを読むことで、中上健次大江健三郎に興味を持ったのは確かだ。僕はどちらも沢山読んでいるわけではないが、僕が小説を書きたいと思った一番強い動機というか衝撃をくれた古川日出男さんとお話をするときにはやはり「中上健次」という名前はキーになる。そう考えれば僕は大塚さんが読者を文学に向かわそうとする意思にうまく誘導されたのかもしれない。田島さんの絵が好きだから古川さんの『サウンドトラック』の文庫上下巻を手に取った。発売時にはまだ読めなかった。僕にはまだ早かった。
 08年に『ベルカ、吠えないのか?』文庫発売時のABC六本木での古川さんのイベントで初めて朗読を聞いた時に僕は古川さんの文体のリズムを掴めたような気がした。その年、出ている作品は全部読んだ。『サウンドトラック』も始めから読み直した。今度は物語の世界に降りていけた。ある程度の分量を読んでいないと読めない、降りていけない作家の作品があるのだと自覚した。しかし、それは今まで行けなかった境界線の向こう側に行くことでもあったから、僕はもう戻れなかった。きっかけはいろんなところにある、田島さんの絵に惹かれて手に取った作品。誰かに手に取らせるというのはものすごいことだと思う。








(スペースカイマン・田島昭宇原画展にて撮影)
 『多重人格探偵サイコ』という作品は一体何だったのか? という問いというか自分の中で考えていたことをいい機会だから書いてみようと思う。それは違うよって人もいるはずだけど、そうなら自分の言葉でどこかに書けばいい。それぞれに答えや想いがあるのだから。誰かに見せなくても書き残しておくことは意味がある。たぶん、誰かというよりも自分にとって。その前にNさんに送ったインタビューで聞きたいと思ったことの箇条書きみたいなものをコピペしてみた。大塚さんに聞きたかったことは=読者であった僕のサイコへの疑問や描かれていないけどあるだろう何かの感覚を話から引き出したいものだった。



多重人格探偵サイコ」完結・大塚英志さん完全ネタバレインタビュー
・完結されて今思われていること。


・当初の予定では全何巻、何年で終わる予定だったのか?


・コミック11巻「デッドマンズ・ギャラクシー・デイズ」で過去編というかロリータ℃などが出てくるのは鬼頭の死後、物語がルーシーと磨知(若女)への終局に向かう手前に最初から予定されていた流れでしょうか?


・時折コメディのようなテンションの高い、笑いを含んだ表現を田島さんが描かれますがそれはどう感じられていましたか?


・1997年に連載が開始されて2016年という約二十年間という長い連載の中で大塚さんがサイコを通じて伝えたかったこととは?


・数年前には『サイコ』終了後には田島さんと『摩陀羅 転生編』の本編を始めるとアナウンスされていましたが本当に始まりますか? 


・『サイコ』には『摩陀羅』シリーズでの犬彦とキリンがパラレルワールドの人物として出てきましたがこれは『転生編』への伏線としてなのかもう『転生編』をやらないので『サイコ』シリーズに出したのかどちらなのでしょう?


・連載開始前から想定されていた流れで物語は進んでいったのか、あるいは予定されてなかったエピソードはありましたか?


・削られてしまったエピソードや章はありますか?


・少年Aや世田谷一家殺人事件など実際のモチーフになっている人物や事件が時折物語に出てきましたが、これは表現とは夢を見させるものではなく醒ますものだという大塚さんの考えによるのか、あるいは連載時、その数年前にあった事件をフィクションに持ち込むことで現実とのクロスオーバーをされようとしたのでしょうか?


・大塚さんが一番気に入っている章(エピソード)はどこでしょうか?


・都庁ジャックしようとした渡久地がテロリストになっていくのは田島さんが渡久地パートを膨らませたと聞いたことがあるのですがどうなのでしょうか? 渡久地のテロと同時配信など数年後の未来を予見してしまった部分があると思われますか?


・物語を最初から最後まで当事者ではなく傍観者として見届ける役目を背負わされている笹山徹の意味とは。この作品を含めて彼はいろんな大塚さん原作漫画に出てきて「笹山徹サーガ」と言われていますがこのサーガはさらに広がっていくのか、あるいは「サイコ」終了とともに笹山サーガは終わりますか?


・小説版『小林洋介の最後の事件』あとがきで「ジャンクなもの、チープなもの、フェイク、そういった類のものに人生の一瞬、自分を託すことはなかったのか、といえば、ぼくはある。」と書かれていましたがサイコは思春期のライナスの毛布のようなものとして大塚さんに描かれた物語でした。しかしそんな想いとは裏腹にずっと熱狂的な支持もあります。読者からのファンレターなど読まれていたらなにか興味深いものはありましたか?


・漫画を描かれている田島昭宇さんとの関係性にこの19年で変化はありましたか? 田島さんからサイコの物語に対してなにか要請や意見はあったのか? あったとするならばどういうことだったのでしょうか?
 

・久保田拓也という肉体の中にいる人格である小林洋介、雨宮一彦、西園伸二というそれぞれの人格が象徴するものはなんだったのか?


・多重人格というものが予見していたものとは現在言われている分人化やフィリップ・K・ディック作品における様々な他者に対する人格としてのメタファー、ネット社会になってからの多層なレイヤーである自分を予見していたように思えるのですがどう思われますか?


・物語の主人公格が第一部の雨宮一彦から第二部の西園弖虎になったことの意味、誰かの想いは誰かがが引き継げるのかということなのでしょうか?


・ルーシー・モノストーンというフェイク、そして伊園若女というラスボスは当初から決められていたのか。身内に最後の敵がいるというのはサイコミステリーではある種王道ではありますが、『沙粧妙子―最後の事件―』を思い出したのですが参考にされていたりしますか?


・「終わらない昭和」としての物語としての部分もあると思いますが、大塚さんがこの漫画で終わらせたかったものはなんでしょうか? そして終わらなかったものとは?


・『摩陀羅 天使篇』から書かれていたオリジナルとスペアを巡る物語の発展としての『サイコ』という側面があると思います。バーコードを持つ犯罪者はそれをアイデンティティにしていますが、バーコードとは大量生産の印でしかないという皮肉でもありました。大塚さんはこれから先もこのテーマを描かれていきますか? このオリジナルと二次創作との関係性においては大塚さんの弟子筋にあたる西島大介さんも『アトモスフィア』で描かれているのですが読まれていたらどう思われましたか?


・「サイコ」にはこの漫画版に小説や舞台、三池崇史監督の映像版などがあり細部が異なっています。世界とは細部が異なるものである、つじつまが合ってないと言われることもあったと思います。個々人の記憶が異なるように細部は変わってくるというのはそれこそわたしたちが生きているこの世界そのものだと感じます。しかし多様性のなくなっている世界では益々理解されなくなっていくのでしょうか?


・「サイコ」は一部の地域では有害図書として指定されていますが、次に手がける漫画原作もそういうものになる可能性はありますか?


・「死体」を表現するということ、かつての漫画表現にあったもの(手塚治虫が描いてしまったキャラクターの死)と今なくなってしまっているものについてサイコで試みたことは達成できましたか?


・雨宮一彦の人格が弖虎に補完されましたが、肉体が変わっても魂(人格)がその人ならばその人であるとお考えですか? 笹山はアミノメモリーでの小林洋介の記憶を「これはあいつのもので誰も見てはいけないものだ」と言いました。笹山のみが客観視できずに感情が優先して動いています。故に彼は傍観者であり続けますか? 笹山は大塚さんの分身の一部でもあったりしますか?


月刊ニュータイプで連載されていた『MPD-PSYCHO 試作品神話』をいつか一冊にまとめられることはありますか?


・伊園磨知が雨宮一彦に対しての想いは恋だったのでしょうか?


・『多重人格探偵サイコ』があったからできたと自負されていることはなにかありますか?










(スペースカイマン・田島昭宇原画展にて撮影)
 僕が最後まで読んできて『多重人格探偵サイコ』という作品はやはり「魂」を巡る物語だったと思う。「魂」には器がいる。器としての「身体」がなければ魂も存在はしない、しかし、この作品においてひとつの肉体の中に幾つかの魂を、多重人格者は持ち得ていた。この多重人格というものは90年代末期以降には日本でもサイコサスペンスは一般的になったと記憶しているが、もはやそれは不思議なことではなく、ありふれた光景のようになってしまっている。
 分人化やフィリップ・K・ディック作品が予見していたネット社会を考えれば、自分という「個」が向かい合う様々な他者に対する役割や想いがそれぞれひとつの人格(現実でもネットでのアバターとしての分身も含め)ならば、今の社会に生きる私たちはそもそも「多重人格」を抱えて生きていると思える。いや、昔からきっとそうだったものがネットの出現によりさらに細分化し、キャラクターという概念が一般的になったこともあるんじゃないだろうか。
 ひとりの人間が対するすべての人に対して同じように振る舞えることはない、それぞれに合わした役をある意味では演じている。その統合人格のような主人格が大まかな自分という人間のキャラクターとしてあって、それを周囲も本人もその個人のキャラクターとして認知しているのではないだろうか。
 

 第一部の主人公だった雨宮一彦の肉体は消滅し、魂というか人格は第二部の主人公になる西園弖虎に引き継がれた。シリアルキラー・キラー、殺人マシーンだった弖虎は雨宮一彦という人格を取り入れたことで感情というものを知る。
 『多重人格探偵サイコ』の前に原作者である大塚英志さんが書いていたのは『摩陀羅 天使篇』であり未完のまま終わった。のちに『MADARA MILLENNIUM 転生編<1>』がスニーカー文庫より出たが2巻は出ずに、かつて大塚さんがいた徳間書店より『僕は天使の羽根を踏まない』というタイトルで『MADARA』という名前もタイトルから消えて『MADARA』シリーズは一応終わりになっている。重要なのは『摩陀羅 天使篇』に出てきた「スペア」という言葉だ。
 前の方で真王・摩陀羅、赤の眷属・聖神邪と青の眷属・夏凰翔の原画について書いているが、この物語にはオリジナルとスペアがいる。


 すべてが終わった後の物語だったこの最終シリーズは前の「転生編」での戦いで霊性を失ってありふれた男女になっている元・転生戦士たちが主役である。しかし、オリジナルだった二天童子である赤の眷属・聖神邪と青の眷属・夏凰翔たちの代わりをするスペアがいた。
 摩陀羅の双子の兄であった影王は光河光であり夢の島の中で廃品によって機械の体を自ら組み上げて生き延びて存在していた。彼はストリートチルドレンの中から自分の名前を継がせる少年・トビオを見つけ共に行動していく、彼らが守るべきは犬彦綬陀矢と伏姫輝燐の間にできたはずの完全体の赤子のマダラだった。
 伏姫輝燐は妊娠中に殺され、胎児は盗まれていた、それが最後のマダラだ。犬彦は愛する人も失ったまま何も信じない存在として東京の街にいた。一方、カオス・リヴァイアサンは大地震が起きた東京の瓦礫の街で自らを神として動き出す、何かを信じる者と信じない者の対比として二天童子は書かれていく予定だったらしい。
 大塚さんはあとがきでストリートチルドレンやトビオたち新世代が本当の主役であり、マダラと共に戦っていくのは彼らだと書いていた。そして、これは世代交代の物語だと、四巻は出なかった。しかし、この作品で描かれていた「オリジナル」と「スペア」を巡る物語は『多重人格探偵サイコ』に引き継がれていった。


 『多重人格探偵サイコ』の終盤では「雨宮一彦」のスペアが現れる。
 「雨宮一彦」の人格を転移していた弖虎は、そのスペアに「雨宮一彦」の人格を託そうとする。しかし、それもガクソの手によってスペアが殺されてしまう。バーコードを持つ犯罪者はそれをアイデンティティにしていたが、バーコードとは大量生産の印でしかないという皮肉、シリアルキラーを作れる世界では当然その目的を果たせなくなった時のためにスペアが複数いる。梅見屋明夫がいい例だろう、舎弟に整形させて似せさせていたが、実際にスペアも登場する。
 物語は「雨宮一彦」という統合人格であるものを生かすために展開する。伊園磨知もといその主人格だったルーシー・モノスートンの娘・伊園若菜はルーシー・モノスートン計画としてその「雨宮一彦」の人格を手に入れるために弖虎と戦うことになる。
 オリジナルとスペアの関係は、オリジナルと二次創作の関係性にも見える。


ぼくは、創作は誰にでも可能な方法上の組み合わせだと主張することで「作者の固有性」を否定するポストモダニストではありません。方法を使いうる一人一人の人間の「固有性」をむしろ誰よりも楽天的に信じています。(物語の命題p265)<大塚英志BOTSより>


本物=オリジナルはもはやそれ自体としては何ら価値をもっておらず、<複製>と参照されその差異を確認するためにのみ、存在している。しかも、困ったことに<複製>の方がとりあえずはリアルだ。(定本 物語消費論p87)<大塚英志BOTSより>


コピーを繰り返すことで洗練され、出現する美というものがある。(「おたく」の精神史p144)<大塚英志BOTSより>



 ただ、『多重人格探偵サイコ』を最後まで読んでいる人には分かるだろうけど、弖虎に託された「雨宮一彦」という人格を守るために主要人物達は死んでいく、人格も消えていく。そこに唯一いるのは笹山徹である。
 彼は小説版で触れられていたが最初の「ルーシー7」だった。しかし、連れて行かれなかった子供であった。彼はずっと「遅れてきた青年」であり、間に合わないのだ。だからこそ、彼のみが生き残り、すべてが終わった後に弖虎の側にいれた。バーコードを持つ犯罪者と一番深い関係というか知り合いや物語に巻き込まれているのに彼だけは当事者ではない。いつも限りなく関係者に近い部外者だった。彼にはスペアはいない。


 ここで「魂」のことに触れれば、オリジナルの「私」とスペアの「私」の肉体があって、魂というか人格がオリジナルが壊れた、あるいは死に瀕した時にスペアに転移できたとしたらどうなのだろう。肉体はそのままだ、だけど、そこに宿った「魂」はどれだけ同じ遺伝子だとしても育った環境や何もかもが違うし、双子でも同じ環境に育ってももちろん性格は違うのに、追い出すようにして主人格になっていくわけだ。それまでの関係性は明らかに変わっていくことになるだろう。
 「雨宮一彦」という魂は生き残り、いや、弖虎の中ですべての人格が統合されたように見える。そう、彼には彼の想いがあるように、すべて起きたことを知っている。雨宮一彦や小林洋介や西園伸二であった人格もそこには含まれているのだろう。
 サイコサスペンスであったこの漫画は「魂」と「身体」の切っても切れない関係であり、「私」とは何かという問い、それは他者との関係性により生成されていく、普遍ではなくいつでも変わり続けるもの、当たり前のものなんかないのが他者と「私」の距離だ。だからこそ、この物語は「私」の「私」たちの物語だった。
 僕が一番好きな『多重人格探偵サイコ』のサブタイトル、各回の冒頭にあるやつは『Time when you were there 君たちの居た時間』だ。
 一緒にいたはずのあの人がいなくなって似たような人が現れても、その人はあの人ではない、一緒に過ごした時間だけが作る関係性とその記憶で人間は生きている。忘れたくないこと、忘れていってしまうこと、幾重もそれらの層が積み上がった現在進行形が、まさしく「今」だ。だからこそ、永遠はない。あるとしたら一瞬、もう通り過ぎてしまった時間の刹那に閉じ込められていて、取り出すことはできない。
 過ぎ去った想い出の輝きの中に閉じ込められてしまう人がいるのは仕方ないのかもしれない、時間はすり減り続けていく、過ぎ去った時間の方が生きていれば多くなっていく。年をとればそうなるのは仕方ない、仕方ないと言い続けて前を見ないのは嫌だし面白くないだろう。
 「君たちの居た時間」とは「僕たちの居た時間」のことだから、僕は面白い方に向かいたいし、会いたい人に会いに行く。それだけがこのシステムの歯車がおかしくなって悪意に満ちた救いのない世界に抗う手段のはずだから。