Spiral Fiction Note’s diary

物書き&Webサイト編集スタッフ。

『すばらしき世界』『聖なる犯罪者』『花束みたいな恋をした』『バッファロー66』『風花』『あの頃。』『あのこは貴族』『三月のライオン』『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』『ミナリ』『ノマドランド』『ホムンクルス』『騙し絵の牙』『街の上で』『戦場のメリークリスマス』

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1月12日
西川美和監督『すばらしき世界』試写を。今作では殺人を犯し、服役していた三上(役所広司)が戻ってきた世界でどう生きていくか、人と関わるのかが描かれる。西川監督作品はずっと観てきたが、確実に泣かせそうとしている箇所がいくつかあった。今までそんな感じはしなかったけど、ワーナーだしやり方を少し変えたのかな。まあ、普通に泣いた。条件反射だから仕方ない。

吉澤(長澤まさみ)のシーンは多くないものの、彼女はテレビプロデューサーとして、あることで逃げ出したディレクター津乃田(仲野太賀)にとても大事な事を言う。津乃田は三上を取材対象としてカメラで撮影しているわけだが、映画やドラマに出演する俳優とドキュメンタリーの被写体はまるで違う。
カメラで撮ることは暴力性をはらむ、とくに後者の場合は撮る側がしっかり意識して責任の所在をはっきりしてないと暴力性はどんどん増していく。だからこそ、津乃田は吉澤に大事な事を言われたあと、三上との関わり方が嫌でも変化していく。

三上は仕事に就こうとしても、なかなかうまくいかない。わずかだが、少しずつ心を許せる他人が増えてくる。それが居場所になるし、人が生きていくためには重要なことであり、結局、人がやり直せるかどうかのベースは居場所があるかどうかなんだろう。
ただ、今の世界では間違いが許されない。自己責任という言葉によって、冒険をしにくい世の中になり、一度やらかしたことはネットに刻まれる。昔よりも失敗からは逃げ切れなくなった。
三上が当たり前の生活をしたい、堅気として生きたいと願う思いもなかなかうまくはいかない。それは生きづらさを感じる人たちに共感されるはず。
残念なことは今の日本では、檻の中に入るべき為政者たちが捕まらないまま、のうのうと偉そうにしている。その皮肉のようにもこの映画は見えなくもない。
あと、このところ、仲野太賀出演作はハズレがない、というか、彼の時代が来てるんだろうな、と思った。

 

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1月21日
PARCOにあるホワイトシネクイントにて、「週刊ポスト」連載「予告編妄想かわら版」で取り上げた『聖なる犯罪者』を鑑賞。
パッと見はトレスポ×聖職者な今作。主人公のダニエルが少年院から仮釈放なのかな、仮退所だっけな、をしたらすぐにクラブ行って酒にタバコにドラッグやって、そこのトイレで心理学専攻している大学生の女の子とセックスしてるっていう、少年院出る前に神父に酒やタバコは外出てもやるなよって言われて、はいって言ってて、すぐそれしてて、いやあ、俗物で欲望に忠実だなって思った。それは人間らしい、でも、彼には信仰心は確かにあって、物語はそれ故に展開していくことになるのだけど。
実話を基にしているのだが、日本映画で近いのは西川美和監督『ディアドクター』。嘘をついて、そのまま嘘の自分を、なりたかった何かを演じ続ける。最後辺りはキリスト教圏内だともっと深いとこで理解できるんだろうな。かなり好きな作品でした。

 

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東京ラブストーリー』『カルテット』の脚本家・坂元裕二による初のオリジナル恋愛映画『花束みたいな恋をした』(1月29日)。終電をきっかけに出会った一組の男女。
彼(菅田将暉)の部屋でスケッチブックを見ている彼女(有村架純)「コンセントがギリ届いて、私の濡れた髪を乾かし始めた」という彼女のセリフも予告編で聞くことができます。また、「三回ご飯食べて告白しなかったら、ただの友達になってしまうっていう説あるし」「次は絶対に告白しようって」というセリフも坂元脚本らしさを感じます。予告編ではリクルートスーツに身を包んで就活する二人の姿もあります。
ここからは妄想です。と言っても予告編に「人生最高の恋をした、奇跡のような5年間」とあるのでこの恋は終わってしまうのでしょう。確かにスクリーンで有村架純さんをずっと見ていたいと思いますが、映画はいつか終わります。それと同じように、この作品は誰もが経験している大事な人とうまくいかなかった過去を思い出させるものになっているはずです。
おそらく、ラストシーンは駅のプラットフォームでふたりがそれぞれの家族や恋人といて、目があって微笑んで電車がやってくる感じではないでしょうか? きっとそういうベタな方が観客に沁みると思うのですが。

週刊ポスト』1月25日発売号掲載「予告編妄想かわら版」より

↑自分の連載でも取り上げた『花束みたいな恋をした』が公開になり、10時の回をTOHOシネマズ渋谷で鑑賞した。

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映画『花束みたいな恋をした』は予告編を見るとなんとなくわかるんだけど、実際に本編を観ると、同じく坂元裕二脚本『カルテット』第六話の真紀と幹生夫婦が出会って付き合って結婚して、幹生が失踪するまでの流れの中にある男女のすれ違いとか我慢とか思いやりの別バージョンというか、20代の恋愛編みたいなところがある。

『カルテット』はなぜか異様に好きすぎて、各回を30回以上は見ている。Paraviを流しっぱなしでセリフをただ聞いてる。
『花束みたいな恋をした』は『カルテット』の演出だった土井さんが、野木亜紀子脚本映画『罪の声』に引き続き監督をしている。ドラマのTBSのエースが、ドラマでも組んでいる脚本家たちと映画をやっているから、出来は当然素晴らしい。そもそも野木さんや坂元さん脚本なら、誰が出ていても誰が監督していても、観に行くのは決まりだ。という脚本家さんたちだから。

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『花束みたいな恋をした』の主人公のふたり(麦と絹)が意気投合するのは好きな小説家が一緒で、絹が麦の本棚見て、ほぼうちの本棚じゃんというシーンがある。
ふたりが好きな作家は穂村弘長嶋有いしいしんじ堀江敏幸柴崎友香小山田浩子などがいる。パンフレットインタビューを読むと小説家も漫画家もミュージシャンも坂元さんの好きな人ではなく、書く際に参考にした人の趣味らしい。
しかも、彼や彼女はあまりよく知らない人で、そのInstagramとかをひたすら見て深掘りした(見られてる方は知らない)。マーケティングするようにある特定の人を見続けて、その趣味が麦や絹に反映されているらしい。

上記の作家以外にも、舞城王太郎の名前も出てくる。舞台は京王線沿線の調布や多摩川だったりする。ラノベは読まないが、純文学系が好きなふたりが調布を舞台に小説を書いている舞城王太郎を読んでいるのはリアリティがある。
同時に舞城王太郎いるなら、古川日出男も入れろやとファンとしては一瞬思わなくもないのだが、その場合は阿部和重川上未映子柴田元幸の名前がないとたぶん入らない、その感じがよくわかる。

この映画で何度も出てくる小説家は今村夏子であり、あとは単行本としてキーになるのは滝口悠生だったりする。いろいろ合点がいく。就活して会社員になった麦は絹がオススメしてくれた小説を読む気力もなく、小説を読んでも頭に入らない。でも、文章を読もうと書店で手にするのが前田裕二『人生の勝算』という所で笑ってしまった。ほんとうにあるあるだなと思った。その辺りのセレクトがやはりうまい。

ふたりはいわゆるメインカルチャーではなく、サブカルチャーとされる文学や音楽や演劇を好んでいる。そして、麦と絹の出会いと別れはどこか憶えがあるものだ。
映画を観ながら、二十五歳の時から六年近く付き合った彼女とのことが何度もフラッシュバックした。きっと、僕と彼女の恋愛もこの映画で描かれていたふたりのことも、この世界ではありふれているものなのだろう。だからこそ、20代のころにしかできない恋愛があったんだと思い出せてくれる。終盤に麦と絹がかつての自分たちのような若いカップルを見たとき、その表情が泣けてしかたなかった。

映画観て思い出したけど、上京して最初に住んだのは柴崎駅近くで、最初のバイトだったナムコのゲーセン連中と深夜の多摩川でバーベキューして、朝方全裸で泳いだ。それもあって映画の舞台がもろに近過去なのよね。

2月2日
朝起きてから再びのTOHOシネマズ渋谷で二度目の『花束みたいな恋をした』を鑑賞。
先日の映画の日に僕がオススメして観に行った親友のイゴっちは「残酷な映画だった」という感想を送ってきた。僕とは真逆だったのでどうしてだろうと考えていた。
二回目は初回ほど泣かなかったのだが、主人公の山音麦と八谷絹の恋人たちを改めて見てみると、イラストレーターになる夢を諦めて就活して正社員として働き始めた麦と一度は歯医者の受付に就職するものの縁もあってイベント会社に再就職して自分の好きなものを活かせる仕事を始めた絹。麦はかつてのように小説や映画をたのしむことができない。
絹は「やりたいことはしたくない」という気持ちを持ち続けていた。その違った心の行先はすれ違いを生んでしまう。

僕は麦のようになる可能性が少しはあったのかもしれないが、絹のような人生を歩んでいる。だから、この二人は僕にはありえたかもしれない未来と現在であるのだな、と思った。観終わってからイゴっちにラインをしたら、彼は「自分は麦だ」と返してきた。その差が残酷さや好き嫌いという部分で大きな差が生まれていたのかもしれない。

どうしても、20代中頃から30少しまで付き合っていた当時の彼女のことを思い出してしまう作品だ。まあ、僕が出演したイベントに誘ったけど体調悪くて来れなくて、そのあとも自分たちにとっては大事なバンドのライブも体調悪くて来れなくて、ラインでのやりとりだけして別れた。だから、この映画のような別れの儀式とかそういうきちんとしたことができていなかったことが僕の中では根を張るように残っているんだと思う。

あの頃の僕は、相手に僕をもっと見てほしいというのもあったけど、物書きになる自分を応援してほしかった。だけど、相手のこと(感情や体調や日常)をきちんと考えたり、思いやることはまったくできていない独りよがりでわがままだった。

後悔してもどうにもならないことはこの世界にはたくさんある。だからこそ、この映画を観ると過ぎ去った季節の風が、現在の僕の頬を撫でるような錯覚がある。だからこそ、自分にとって響いてしまう映画なのだ。だって、もうだいたいのことは忘れてしまっているのに、忘れられないことと呼応するのだから。



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1月29日
PARCOにあるホワイトシネクイントにて、ヴィンセント・ギャロ監督『バッファロー66』を続けて鑑賞。
高校生の時とか上京してからビデオかDVDレンタルして観ているが、スクリーンで観るのは初。観始めてから内容をほとんど覚えてないことに気がついた。今の時代に見ると主人公のビリーの不器用さ故の他者への態度はもろにアウトだなあ、と。前日にフェミニズムの本を読んでたらそうなる。
この映画の印象的なシーンを再確認したという感じだろうか。ボーリング場とかホテルでふたりが少し離れて寝転んでいるとか、ポスターにもなっている証明写真をふたりで撮るとか、最後のほうのストリップバーみたいなところでのビリーの姿とか。
ちょっと前に観た『花束みたいな恋をした』によるダメージが僕をかなり撃ち抜いてしまっていたこともあって、懐かしいものをスクリーンで観たという印象ぐらいにしかならなかった。


f:id:likeaswimmingangel:20210427124235j:plain2月12日
ベルサーレ渋谷にて毎年恒例の確定申告が終わって予定どおり、ユーロスペース相米慎二監督『風花』をば。
昔、一回ぐらいDVDで観たような気がするが、まったく内容を覚えていなかった。麻生久美子さんが出てたとか観て驚いた。
浅野忠信さんと小泉今日子さんのカップリングで、噛み合わないというか酔わないと陽気にならずに素面だと性格の悪い浅野くんと風俗嬢でいろんなものを諦めている小泉さんが北海道の彼女の娘がいる場所へ向かうロードムービー。二人ともいるだけで画になってしまう、会話がなくても成立する。


f:id:likeaswimmingangel:20210427124842j:plain2月16日
ヒューマントラスト渋谷にて西川美和監督『すばらしき世界』を試写含めて二回目をば。試写と同じところで泣く。失敗や過ちを犯した者はやり直せないのか?という極めて現代的なテーマを描いている。
公助ではなく共助でもなく自助を、自己責任を押し付けられ、生活保護はみっともないものとして生存権の行使をやりにくくする政治や社会へのカウンターとして。この映画をいちばん観るべきは政権与党の連中だと思うが、この世界はもう...。
仲野太賀のモデルは山下敦弘監督らしいのだが、観ていくとオズワルドの伊藤に見えてくる不思議。


2月21日

 ハロプロモー娘。などつんく♂が総合プロデュースを手掛けたアイドルグループや女性タレントの総称)の名曲たちが彩る、今泉力哉監督作『あの頃。』(2月19日)。
 冴えない若者・劔(松坂桃李)はある日、テレビから流れてきた松浦亜弥の曲を聞いて涙を流す。そこから彼女を始めとしたハロプロのアイドルたちにハマっていく。同時にハロプロのアイドルが好きな仲間たちとも出会い、交流を深めていきます。そのことで彼の退屈な日々が終わり、生きる希望が沸いて、たのしく過ごしているのが予告編で見ることができます。
 ここからは妄想です。藤本美貴推しの友人(仲野太賀)が天冠をつけていて、「あの頃おもしろかったな」と言っているシーンが予告編にあります。劔が「あの頃」を現在から懐かしく思い出しているというのが、この作品の核になのでしょう。ハロプロなんか知らない、という方ももしかするといるかもしれません。でも、かつてピンクレディーキャンディーズ、他のアイドルが好きだった読者の方はいますよね。時代が変わってもアイドルを応援する若者たちはいて、彼女たちに熱中したという青春があったということはきっと伝わるはずです。この映画を観て、自分が好きだったアイドルの曲をもう一度聞くのも乙なものかもしれませんね。

週刊ポスト』2月15日発売号掲載「予告編妄想かわら版」より

 

↑自分の連載でも取り上げた『あの頃。』が公開になり、土曜日の朝一の回でTOHOシネマズ渋谷で鑑賞した。

今泉力哉監督『あの頃。』をTOHOシネマズ渋谷にて鑑賞。朝一の回だがわりとお客さんが入っていた。たまたま僕の周りのお客さんたちは知り合いらしく、始まる前に挨拶とかしていた。ハロプロのファンの人なんだろうなと思った。コミュニティが可視化されていたというか。

人がなにかにハマる時、出会う人とそのコミュニティの大事さがわかる映画だった。どんなに居心地がよくても人間関係は日々変わり続けるから、コミュニティは現在進行形になる。それをしっかり描いていたのがよかった。そして、主人公の劔が「いまがいちばんたのしい」と言うことがとても素晴らしいことだと思った。

個人的なことを言えば、ファンコミュニティというのは苦手だ。最初は他人行儀だった関係性も何度も会って話をしていくと友達になって、その中心にあるもの(この映画だとハロプロ)と切っても切れなくなる。そういう風になっていくと、その対象者が好きでもコミュニティでの関係性が悪くなって、ライブとかに行かなくなってしまうことがある。

僕は個人的にはそういう深いところまで行きたくないタイプだ。コミュニティが嫌になってその対象になるもののファンをやめたくないというのもある。同時にそのコミュニティがとても大事なもので繋がりを持てるものとなるのもわかる。でも、僕がオンラインサロンとかが嫌なこととその辺りは繋がっているとも思う。

あと「萌え」とかの概念がほぼないのでアイドルとかキャラクターにまったくハマらないため、こういうファンコミュニティと出会うこともなかった。
僕が高橋留美子にはまったく興味が沸かないのに、あだち充がなぜ好きなのかという理由もその日本のマンガ・アニメ的なものであったり、アイドルとかへの「萌え」という概念のことが関係していると思う。
あとは基本的に群れない方が人は自由に好きなものにコミットできると僕は思っているところがある。


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2月27日
山内マリコさん原作・岨手由貴子監督『あのこは貴族』鑑賞。東京にある階層はコロナ禍でさらに深く広く断絶したと思う。地方出身者はほぼ移民のようなもので、地元の時間軸とも、東京生まれ東京育ちの人とも違う時間軸と階層を生きているから居心地がいい。

東京生まれの華子の不自由さと地方出身者の美紀の不自由さは違う。ふたりを繋げる、共通の人物が幸一郎という華子よりもさらにランクが上の上流階級に出自を持つ男性だった。幸一郎と華子は婚約するものの、美紀との関係も続いていた。
美紀は猛勉強の末に慶應義塾大学に入学するものの、実家の関係で中退せざるを得なくなり、ラウンジで働くようになり、そこでどんどん働く店をランクアップして客の紹介で就職をすることになった。幸一郎は慶応幼稚舎出身のイケメン弁護士という最強スペック。ここで慶應が出てくるのは、この作品における「階層」のわかりやすさが出ている。
と言っても僕は進学校じゃなかったので東京の大学のランクとか全然知らなかったし、上京してからもまず六大学出の知り合いはほとんどいなかった。「文化系トークラジオLife」の界隈の人と知り合うようになって初めて、六大学出身の人たちとたくさん知り合ったし、世の中には東大とか慶應とか早稲田出てる人っていっぱいいるんだなと思った。それまではあまりに身近ではない人たちだったから。
基本的にいい大学を出て、名前が通るような有名な企業に勤めている人はほとんどの場合親切である。マイルドヤンキーでもなく、地方出身者で成り上がろうとかいう思考もなく、就職もしていないような人間はどこの階層でもない下の方でふらふらしていて居場所は特にない。僕はそんな親切な人たちのおかげで場違いな場所に呼んでもらったりして、何食わぬ顔をしていたらそのうち馴染んできた風に見えてきたんだと思う。カメレオン的な能力といいますか。
そういう意味で僕は美紀がラウンジの客の縁で就職したように、知り合った人たちの好意とやさしさでなんとなく東京でサバイブしてこれた。

ただ、そういうこともコロナ禍が始まってからはおそらくほとんど消えてしまった。長く続く経済不況もあるが、東京に憧れを抱く若者がそもそも少なくなっている。
足りない、ということが大事だった。発売日に読みたい本が書店にない、観たい映画は公開から半年ぐらい経ってから、ライブに来るのは一部の大物アーティストだけ、ネット普及前は足りていないことが欲望へ向かっていた。
今やネットとオンラインによって、都市と地方の時差はほぼなくなり、飢えのようなものは少なくなっているんだと想像する。そういうことを含めても、原作の山内さんは同世代でその感覚を小説で描き続けている。そのわずかなパイは山内さんがかさらってしまったように思える。
最近公開された坂元裕二脚本『花束みたいな恋をした』は麦と絹の年齢よりも上の2000年前後の上京組のほうが刺さりやすい気がする。

今回幸一郎を演じたのは高良健吾、『花束みたいな恋をした』で麦を演じた有村架純は高良と共に坂元脚本『いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう』に出演していた。

「東京は夢を叶えるための場所じゃないよ。東京は夢が叶わなかったことに気づかずにいれる場所だよ」

という印象的なセリフは『いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう』第二回だったが、地方出身者が気づかずにいれる場所はやはり時間軸が異なっているのだと思う。

『あのこは貴族』の最後には華子も美紀も自分の決断によって、絡み取られていた不自由から抜け出そうと動き出していた。でも、美紀のあの姿に「東京は夢が叶わなかったことに気づかずにいれる場所だよ」という部分を感じてしまう自分がいた。




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3月4日
アップリンク渋谷にて矢崎仁司監督『三月のライオン』を鑑賞。
名前は聞いたことあるけど(漫画『3月のライオン』が有名になり過ぎてしまったが)、観たことなかった作品だったので、一度スクリーンで観てみたかった。そういえば、アップリンク来たのは岩井俊二監督の『8日で死んだ怪獣の12日の物語』を観て以来かな。

物語は記憶喪失になった兄、兄にずっと好意を持っている妹。彼女は記憶を失っている兄に恋人だと嘘をつく。兄が記憶を取り戻したらその前から消えることを決めて。
近親相姦の話ではあるのだが、イメージショットみたいシーンとかが多く、物語というよりは映像で進んでいくような。橋を渡って帰ってきたり、鏡に映る自分だと、ビルや家の解体など象徴的なシーンが繰り返される。
アイスという名前の妹が不思議な、ボブカットでかわいいと言えばかわいいけど、公衆電話に自分のポラロイド写真貼って、その横で待っていて写真を持ってきた男に売春していたり、その辺はちょっと岡崎京子『pink』的なものを感じたりはした。
最終的に二人は結ばれるが、記憶を取り戻してしまう兄。でも、ラストシーンはその時にできたであろう子供の出産シーンだったりして、感情移入がいろいろしにくいよと思った。しかし、観終わってあの生まれてきた赤ん坊が観客である僕たちのような気がしてきて、赤ん坊の人生の物語のプロローグがこの『三月のライオン』だったのかと思える部分もあったりした。


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3月9日
『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』をTOHOシネマズ渋谷にて鑑賞、そして終劇。
アニメ放送時に中二だった我らリアルシンジ生代も今年40代に突入。未完ではなくケリをつけて終わったからいいんじゃないかなあ、と思った。「平成」って、メンタル弱かったけど、まあふりかえればよい時代だった気はする、そんな『シン・エヴァ』観た感想。

やっぱりエヴァンゲリオンが好きとかではなくて、エヴァ語ってる人が、その現象がおもしろいな、と思ったんだろうな。あとかつてのリアルシンジ世代だと結婚してるしてない、子どもがいるいない、その時期とかも感情移入できるかできないかに響きそう。
観終わっていちばん思ったのは、つうか「真希波・マリ・イラストリアス」のあの設定どういうことになってんの? スタッフロールに神木隆之介の名前あったけど、なんの声やってたの? だったが、神木君に関しては下記の宇野さんのnote読んでわかった。でも、それもネタバレに含まれるっていう。

「シン・エヴァンゲリオン劇場版:||」についての雑感(今日における虚構の価値について)
https://note.com/wakusei2nduno/n/n2fd22e066c8d

宇野常寛さんのネタバレ全開の記事を読む。僕が感じた「平成」感は、ここで書かれたことがそう思わせたのだろう。
西島大介さんの漫画『I Care Because You Do』という作品は、90年代にいた3人の神(庵野秀明YOSHIKI、リチャード・D・ジェームス)についてのものだった。『シン・エヴァ』はゼロ年代の終わりに西島さんが90年代のサブカルを、自身に影響を与えたものについてのある種私小説的な作品としての『I Care Because You Do』で描いたものの、その手前で終わっていると僕には思えてしまった。だから、庵野さんにとって、いや僕らにとってようやく「エヴァ」が代表する「平成」が終わったんだということ、しかし、残念ながら僕らはもう「令和」の時代を生きている。

新劇場版エヴァンゲリヲン 真希波・マリ・イラストリアス安野モヨコエヴァンゲリオン
https://74196561.at.webry.info/201312/article_30.html


10年前に書かれた「真希波・マリ・イラストリアス」についてのブログを読んでみたら、今回の『シン・エヴァンゲリオン』のオチまでしっかり当てていた。すげええ!
と思いながらも、自分の分身(庵野監督にとってのレイやアスカも含む)ではなく他者を求めた庵野監督ということに気づいていた人はわかっていた話なのかもしれない。
同世代が『シン』を見て通り過ぎた景色だなと思うのは感覚としてはわかるものの、独り者で子供なしの自分は結局パートナーとしての安野モヨコに出会っていないのだよ、と思うわけで違った感触なわけですが。


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3月20日
『ミナリ』をTOHOシネマズ渋谷にて鑑賞。
前年の『パラサイト』みたいに作品賞取れるかと言ったら取らない気はした。だが、今アメリカでアジア系の移民がターゲットにされている事件もあったりするから、その辺りの時代背景も考えるとわからない。

1980年代のアメリカのアーカンソー州に韓国系移民のジェイコブ一家が農業で成功するために引越ししてくる。
実はジェイコブってカルフォルニアとかで鶏の雛のオスメスの鑑定を仕事にしていたみたいで、初生雛鑑別師みたいなことをしていたんだというのがわかる。
祖母の兄が初生雛鑑別師で1939年にロサンゼルスに日系移民の人に呼ばれて一年過ごして、帰国してすぐにイギリスにいった。しかし、第二次世界大戦が始まると日系移民の人たちは強制収容所に移送されて、二世の人たちとかはアメリカ人として日本と戦ったという歴史がある。そのため、日系移民の人たちは土地も奪われていて、戦後に多くの人がロサンゼルスに戻ってくるというわけではなかった。一部の人が戻ってきて現在の「リトルトーキョー」を復活させたけど、かつての規模ではない。その辺りにジャニー喜多川氏の父が僧侶だった高野山真言宗米国別院も残っているが、おそらく戦前から場所は変えられていると思う。
日系移民がいなくなったのもあって、韓国系移民の人が初生雛鑑別師のような仕事をやるようになったのかな、同じアジア人だし手先が器用と思われていたりするのかもしれない。その辺りのことは調べないとわからないけど、戦前は日本の初生雛鑑別師はオスメスの正答率は世界一ぐらいで重宝されていた。
あと、観ながら「初生雛鑑別師」については描いていないので、そこのパイはまだあるなと思った。
ジェイコブが息子のデイビッドに雛のオスは美味しくもないし役に立たないから殺されるんだって話をしていて、俺たちは役に立とうみたいな話をしていた。この辺りはアメリカという現実が重なっていたのかもしれない。

この作品に話を戻せば、1980年代のアメリカだけど、希望を胸に成功しようと奮闘する移民の家族の姿に、フロンティアを求めたかつてのアメリカ移住者たちが重なるし、時代的にも近過去であることがより通じるんだろう。
物語のキーマンはジェイコブの妻・モニカの母のスンジャでもあったりして、家族の話になっている。また、子供は長女のアンと長男のデビッドがいるが、デビッドは心臓に疾患があり、走ったり無理しないように親から言われている。末っ子の彼がマスコット的な部分もあるが、健康な長女がわりとないがしろにされているように感じたりもした。
監督のリー・アイザック・チョン自身の体験がかなり反映されているみたい。彼は『君の名は。』のハリウッドリメイク版を監督するらしいので、今後名前がより知られていくと思う。
「ミナリ」というものが象徴すること、祖母とジェイコブ一家の関係、移民が母国ではない国で生きるという意志に「ミナリ」がかかってくる。そういう意味ではすごく手堅くしっかりとした作りになっている。ただ、最後の方の大きなシークエンスとかもどうも心が揺さぶられなかった。
「A24」制作のものはこの数年でとりあえず観にいくようにしているんだけど、『ラストブラックマン・イン・サンフランシスコ』『WAVES/ウェイブス』が思いの外響かなかった。『mid90s ミッドナインティーズ』はすごく響いたけど。


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3月26日
TOHOシネマズ渋谷にて公開初日の『ノマドランド』鑑賞。
金獅子賞も取ったし、今年のアカデミー賞最有力と言われているので期待値は高かったが、あまり響かず。『ミナリ』もだがこちらも開拓者であったりフロンティアを目指すという共通項はあった。
『ミナリ』はかつてのアメリカの姿を80年代の韓国系移民家族を通して見るものであり、『ノマドランド』はリーマンショック以後の新自由主義が支配している世界でかつての価値観から離れて生きる老女を中心に描いている。
どちらもトランプ政権が4年続いたからこそ出てきた作品のような気もする。トランプという国難が過ぎ去るかと思いきやコロナ禍がやってきた。日本だって安倍首相がいなくなっても腐敗したものはそのまま腐り続けながらそこにコロナ禍とどう考えても今やるべきではない東京五輪を強行したくて仕方ないのだから多難ばかりだ。日本からも『ミナリ』や『ノマドランド』的な開拓やフロンティア精神を描くものが作品として出てくるかと言われたらたぶん出てこない。そもそも国の成り立ちが違うのだから。


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4月1日
映画の日なので、テアトル新宿で『花束みたいな恋をした』三回目を、『シン・エヴァンゲリオン』二回目(IMAX)をTOHOシネマズ新宿で決めてきた。
どちらもこの先観ない(配信とかでは観ない)だろうからスクリーン収めになるだろう。映画に少しは関わる仕事で原稿料をもらってるから、やっぱり好きなものは劇場でお金を払っておきたい。もちろん、サービスデーなんかでいつもより安く観る時はアイスコーヒーを映画館の中で買う。原価率的にも儲けはわりとあるはずだ。コンビニとかでドリンクを買って昔は観ていたけど、コロナになってからは完全に映画館で買うようになった。去年の今頃は「週刊ポスト」で連載の「予告編妄想かわら版」は映画館が閉まったことで休載になった。もちろん、休載中の原稿料は出ない。夏前ぐらいはほんとうに金銭的にもヤバかった。クレジットカードも使いまくったし、友達にも金を借りた。古川さんに同行するための金がまったくなかったから、ようやく先月全額返したけど。

『花束みたいな恋をした』はさすがに3回目だとラストのファミレスで泣きかけたけど、思いの外大丈夫だった。絹(有村架純)が麦(菅田将暉)の家に最初に来た時に、部屋の中に「ZAZEN BOYS」のTシャツがあって、そうだよね、そこは聴いているよね、麦は、と思った。『花束』を観ると男は有村架純と付き合っているという妄想、あるいは脳内で別の現実を作ってしまうという話があるが、僕はわりと「有村架純有村架純だ」としかならない。妄想力が足りないのだろうか。昔、付き合っていた彼女と麦と絹みたいにばったり会ったら、ガン無視されると思う。というか『リアル鬼ごっこJK』文庫版で思い出したくないエモいことを書いていたことを思い出すのだが、家にあったものは全部人にあげたのでもう確かめようはないが。

NHKで放送した『プロフェッショナル』の庵野秀明さんの回を見たこともあって、二回目になると、欠損してしまったエヴァの身体、そして復元するエヴァの身体(庵野さんのお父さんは片足を事故で失っていて、世間を恨んでいるように息子には感じられていた)、父と息子の父殺ししない物語(息子が生まれたら、父親の肩を叩くか、殺すのが役目というものから、父殺しではなく父赦しのエンディングに移行する)、人の数だけの願いと世界、26年かかった私小説の終わり(ヒロインの一人であり、『新劇場版』から登場したマリは安野モヨコ説はNHKの番組を見てると大納得)、母胎、そして初恋へのさよなら(レイとアスカというオリジナルアニメからのヒロインたち)、ゼロ年代から現実を侵食し始めた円環の終わり(エヴァンゲリオンを繰り返しの物語ですと、『新劇場』制作発表時の庵野さんのコメント、渚カヲルというキャラクターがそれを体現しているため、渚カヲルと『魔法少女まどか☆マギカ』における暁美ほむらは役割は同じ)、コピー世代のオリジナルへの願望とその体現(特撮や宇宙戦艦ヤマトとおたく第一世代としての庵野秀明の上世代への憧れ)、なんかいろんなものが観終わってから脳裏をよぎる。

個人的にはスタジオジブリというか宮崎駿作品は嫌いだ。弟子筋とも言える庵野さんやその作品は好きだとか、村上春樹作品は基本的には嫌い(作家としてすごいのはわかってる、宮崎さんも同様に)だけど、村上春樹さんとその作品に影響を受けた古川日出男さんにむちゃくちゃ影響されまくってるとか、端から聞くと矛盾してるように思われるかもしれない。
宮崎さんはちょい上だけど、村上さんは親父と年が変わらない戦後すぐ生まれで、彼らを父世代として見てる。古川さんは自分と15ぐらい年が離れてるから父ではない、年の離れた兄、中上健次的に言えば「長兄」で、親しみと尊敬がある。

例えば、庵野さんが父殺しするならスタジオジブリをカラーと合併させるかなにかして、主導権を今後握ればいいだろうけど、しない。最終的にはスタジオジブリとかは中国資本とかに買われるんじゃないだろうか、日本の優良なコンテンツを作る会社は基本的にはそうなっていくとは思う。今でももう有名な作品の原作権とかは買われているというし、まあ、親族とかが金なくなって売ったりもするだろうし。
結局のところ、スタジオジブリは宮崎&鈴木コンビが亡くなれば、基本的には終わる。殺さなくても寿命が来たら死ぬ。
宮藤官九郎脚本ドラマ『俺の家の話』で人間国宝の寿三郎をクドカンが殺さないのも同じことだったのだろう。人間国宝でもいつか寿命が来たら死ぬ。死ぬまではその技術や能力や体験を下の下の世代へ引き渡す必要がある。だから、長男で一度家を捨てて、家に戻ってきた寿一が死ぬ。就職氷河期時代、ひきこもりが問題にされる世代の、社会から負け犬だと思われて、バイトや派遣社員になるしかなかった世代でもある寿一、上が死んでももう間に合わない世代だから、下の世代になにかを託すように邪魔にならないように消えるしかない。

「さよなら、すべてのエヴァンゲリオン」のように、エヴァシリーズが消えていくのと同じように、死に損ない続けた、青春の終わりを認めなかった『木更津キャッツアイ』の主人公のぶっさんを殺せなかった(完全に死ぬシーンを描けなかった)宮藤官九郎は寿一をスーパー世阿弥マシンを確かに物語の中で死なせた。
たぶん、このことは今後の様々な創作ジャンルに影響してくると思う。

オリジナルではないコピーのコピー、さらにそのコピー、n次創作世代としての表現だと西島大介さんが漫画でやってたりする。それはとても批評的であり、もっと評価されるはずだが、あの可愛いらしい絵でみんなが舐めているのかもしれないが、西島さんは淡々と漫画の可能性を拡張していっている。それはまたの別の話か。

村上春樹さんが父親について書くようになったのはわりと最近のことだ。父親との確執みたいなものがあったと聞く。たぶん、最初から父について書いていたら、村上春樹村上春樹という作家にはならなかったし、そもそも小説を書けなかったんだと思う。古川さんも父親との関係は良好なものではなかった。古川さんが地元の福島や家族について話すようになったのはデビュー10年目の『聖家族』からだった。
僕も父親とのなにかだ。いち個人の父というよりは父世代への思いやなにかだ。キーはどうしても「戦後」になる、そして、アメリカ。戦後の日本とアメリカの関係になるから、どうしても天皇制と神話についてになる。
物語と神話はたぶんイコールではない。
メモ代わりに書いたけど、うまくまとめていければ、自分の核がはっきりするはずなので、今後の創作のテーマ。


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4月3日
ホムンクルス』をヒューマントラスト渋谷にて。なんだか綾野剛のファンらしきマダムたち&エキストラかなんかで参加していた女性がめっちゃいた、みたいな会話が聞こえた。
原作漫画読んでないけど、「予告編妄想かわら版」で書いた妄想いい線行ってた。
綾野剛成田凌辺りのビジュアルだと『多重人格探偵サイコ』も行けんじゃないかな、まあ、三池崇史版はあるが。ハリウッド映像化の話も消えたが。
多重人格探偵サイコ』で刑事の小林洋介が壊れて、多重人格のひとつ雨宮一彦が誕生(主人格になる)することになるけど、恋人の千鶴子が両手足切断されながらも生きたままポカリみたいな液体に入れて送られてきて、西園伸二の人格が一時主人格になり、犯人の島津を殺害して自分は隠れるようにして雨宮に主人格を引き渡す。物語はそこから始まる。これデヴィッド・フィンチャー監督『セブン』のラストシーンから始まるような、ありふれたサイコサスペンスだった。
元々ルーシー7辺りで終わるはずだったから、二、三時間でまとめれる映画版はたぶん可能、ただ大塚さんが脚本とかに口を出すから揉める(だいたいそれで映像化は飛ぶ。飛んだけどテレ朝は何食わぬ顔で『都市伝説の女』というドラマを作ってた)。
フィリップ・K・ディックの可能世界あるいは多層(多重人格)的な物語はネット世界の予見みたいなもので、ネットが当たり前になれば個人はより分裂して複数化していくから多重人格というのは違和感がなかった。で、今だともはや当たり前になりすぎてしまった。貞子がもはやキャラクター消費されてるけど、リングウイルスはインターネットそのものであり、悪意は無尽蔵にばらまかれ、現実すら侵食して書き換える。
95年以降の平成という元号でのネット社会で『リング』シリーズと『多重人格探偵サイコ』はわかりやすい作品なんだと思う。『ホムンクルス』も映画はその延長線にあるような気はした。


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吉田大八監督『騙し絵の牙』をTOHOシネマズ渋谷にて鑑賞。原作小説は去年読んでいたが大泉洋を当て書きで書いていたものだったが、内容もおもしろかった。しかし、この作品に関しては小説よりも実写のほうがおもしろかったと感じた。原作を書かれている塩田武士さんの小説は今回もだが、前回の『罪の声』と連続して映像化を担ってる人たちが凄腕だったのもあって、原作と実写ともにいい相乗効果が出てる気がする。
出版業界を舞台にした物語だけど、どんな企業でも起こりうるトップや現場でのイニシアチブの取り合いと足の引っ張りあい、伝統と革新のせめぎあいが描かれている。騙し合いを続けているという感じを出しているが、最後に笑うのは誰かみたいな話でもある。
出版業界の今だけではなく、未来に起きてくるであろう話も盛り込みつつ展開していて、エンタメとしても素晴らしい。しかし、公開のタイミングが悪いのかあまり観られてないような気がして、そこは残念。でも、連ドラでリブートもできそうだし、続編も作れそう。八重洲ブックセンターのカフェエリアや、文藝春秋で絵になるのはあそこしかない螺旋階段とかも出てきたりしていた。池田エライザの役どこというかあの役だけで出版と芸能のいろんな皮肉さと可能性を秘めてた。


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4月10日
今泉力哉監督『街の上で』をヒューマントラスト渋谷にて鑑賞。ほぼ満席。コロナで公開が一年ほど延期されたがようやく公開に。コロナ前に撮られた下北沢はもう戻らないコロナ以前の世界であり、マスクが当たり前になる前の、いまとは違う距離感で人が人と接していた記録にもなっている。
何気ない会話からわかる登場人物たちの恋愛模様や人生の一部が、下北沢という町では起こりそうな偶然のコンボを起こして、笑わずにはいられない状況となる。観終わったばかりだけど、また登場人物たちに会いたくなる。
下北沢に縁があってもなくても楽しめる群像劇なんでオススメです。


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4月13日
『パーム・スプリングス』鑑賞。ある結婚式の朝から寝るか死ぬまでがひたすら繰り返されるタイムリープブコメディ。毎朝同じように目覚める花嫁の親友の彼氏であるナイルズと花嫁の姉であるサラが当日の夜に結ばれかけるが、ナイルズは何者かに狙われて殺されかける。彼が息も耐え耐えに逃げ込んだ洞窟に追いかけてきたサラがやってきてしまい、彼女もナイルズ同様に目覚めると結婚式の朝をひたすら繰り返すタイムリープにハマりこんでしまう。
二人はハメを外しやりたい放題し、何度も自殺したりするがタイムリープからは逃れられない。
明日は訪れずに死ぬこともできない永遠に続く結婚式の朝。ある日からサラはこのタイムリープを抜け出すための行動を起こしはじめるのだが。
繰り返す諸行無常、終わらない日常、閉塞感に覆われた世界のメタファにもなるタイムリープ、繰り返される日常はコロナにより吹き飛んだ気もする。その意味ではタイムリープものはこれからはあまり出てこないかもしれない、『エヴァンゲリオン新劇場版』はそもそも最初から繰り返しの物語ですと言われていたから、コロナ禍で終われたのはよかったはずだ。カヲル君が月にある棺から毎回起きてはなんとかシンジをTRUEENDに導こうとしても失敗し続けたように『パーム・スプリングス』のふたりもタイムリープからは抜け出せなかった。
誰もが八百比丘尼のように身体の老化を止めて、知識や記憶を引き継ぐことはできない。繰り返される日常が急に終われば、肉体と魂の誤差が一気に出て、人は違う意味で壊れてしまう気もする。
『パーム・スプリングス』はタイムリープ&ラブコメだけど、円環から抜け出す手段はかなりsmartだった。それがとてもこれまでのタイムリープものに対して批評的でもあってよかった。


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4月20日
映画のワンシーンとかは何度も観ている(「メリークリスマス!ミスターローレンス」のセリフとか)せいか、どこか観たつもりになってるけど一度も全編を観たことがない『戦場のメリークリスマス』を新宿武蔵野館にて鑑賞。
やっぱり演者の顔がよかった。ボウイにしろ坂本龍一にしろビートたけしにしろ、色気がある。坂本龍一ビートたけしはかなりセリフがアフレコになっているっぽいけど。そういうことを入れても、そこに佇んでいるだけで、この色気と知性による狂気みたいなものって今の役者や表現者にはほとんどないような気がする。居るだけで画になるというのがやっぱり異質だなあ、と。この三人は天下を取ってるわけだけど、やっぱり色気と知性なんだろうな。
今はその色気はレディー・ガガとかにはあるかもしれないけど、男性からは失われた気がする、なんとなくだけど。
戦場のメリークリスマス』観て、そのあとに『愛のコリーダ』も4K修正版が劇場公開されるから、まずは『戦場のメリークリスマス』観たのに緊急事態宣言出たら、上映どうなるかな、と帰りながら思った。まあ、また「週刊ポスト」映画コーナー休載したら夏前辺りからまた生活が死にますな。
政治にも期待できないし、芸術もクソな世界の現実に抗えないし、世界は変わらないから自分を変えようみたいな自己啓発セミナーの行く末が今の分断ネットカルチャーだし、打つ手がないのが問題だし、現状を変えてくれる英雄を待ち望んでも結局ポピュリズムに行き着くだけで東京や愛知や大阪みたいな最悪な状況になるのも目に見えてる。日本的なシステム使うなら、令和終了して改元するというリセットは現代ではもはや通用しないし、とか書いてたら阿部和重さんの『オーガ(ニ)ズム』を再読したくなってきた。『オーガ(ニ)ズム』どっかで映像化したらいいのにね。