Spiral Fiction Note’s diary

ライター&Webサイト編集スタッフ。「水道橋博士のメルマ旬報」で「碇のむきだし」、「週刊ポスト」で「予告編妄想かわら版」、「PLANETS」で「ユートピアの終焉ーーあだち充と戦後日本の青春」を連載中です。

Spiral Fiction Note’s 日記(2021年4月24日〜5月23日)

水道橋博士のメルマ旬報』連載「碇のむきだし」

ずっと日記は上記の連載としてアップしていましたが、5月からは「碇のむきだし」では短編小説(原稿用紙80〜100枚)を書くことにしました。そのため、日記というか一ヶ月で読んだり観たりしたものについてものはこちらのブログで一ヶ月に一度まとめてアップしていきます。


4月24日f:id:likeaswimmingangel:20210522225841j:plain萩尾望都著『一度きりの大泉の話』読了。

「花の24年組」や少女漫画版「トキワ壮」としての「大泉サロン」というカテゴライズやジャンル分けをしないでほしい、という当事者の声。デビュー当時の人間関係とその過去の出来事と記憶、そこから繋がる現在について。

知ってるつもりの歴史が変わっていく。いやあ、これは萩尾望都竹宮恵子をメインとしたドラマや映画は絶対に無理だわ、ちょっといつか朝ドラとかにしてほしいって思ってたんだけど。もし、できるとしたら当事者が亡くなったあとに親族が許可出してどちらか一方の方を元にしたものじゃないと話にもできないなって読み終わって思った。

素晴らしい創作者はその作品ですべてを語ってきているわけだけど、しかし、その人物がある時代を作ったり代表するとして、双方というかひとりではなくふたりであったりするとややこしくなってくる。まず、それぞれの主観がある。その一方が書いた個人史や手記はそのジャンルにおいてはある種正当な歴史書とされやすい。もう一方がそれを認めていなかったり、なにかで仲違いしてしまっていると間違いなく総合性は取れない。というか主観同士のぶつかり合いになるので同じ出来事でもズレや違う記憶になっていたりするのが普通なのだけど。

竹宮さんの『少年の名はジルベール』をすでに読んでいると、よりその断絶というか溝の大きさにびっくりする。そして、さらに話がややこしいのは増山さんという人物がいることだろう。「花の24年組」や大泉サロンと呼ばれるカテゴライズの時には切っても切れない存在であり、竹宮さんのある種ブレーンのようになった人でもある。
萩尾さんはある時期に竹宮&増山コンビに距離を取られるような出来事が起こり、それ以来竹宮作品を一度も読んでいないし、『少年の名はジルベール』すら読んでいないと語っている。そして、噂だけが回り、その甘い蜜を運ぶのは編集者や関係者であり、より物事が複雑化していってしまったようにも思える。

今回出版されたこの本は、もうわたしに「花の24年組」「大泉サロン」「少女漫画革命」や竹宮恵子先生について、ドラマ化や映画化したいとか聞いてこないでください、わたしは関係ありません。という意思表示であり、そのことを50年近く封印していたのに、『少年の名はジルベール』が発売されてから周りがどんどん騒がしくなったことへの抗議でもあった。

僕は「PLANETS」のブロマガで連載中の『ユートピアの終焉――あだち充と戦後社会の青春』(あだち充論)であだち充さんが「少女コミック」にいた時代のことを調べるために、『風と木の詩』や「ポーの一族」シリーズなどを読み返したり、少女漫画史みたいなものを読んで参考にしたけど、この『一度きりの大泉の話』が出たことで「少女漫画史」についての語られ方はこの先どうしても変化してしまうだろう。

萩尾望都作品は「少女漫画」であるが、「BL」の始祖ではなくもっと「SF」の側で語るような流れに今後はなっていくのだろうか、ご本人的にはそちらが希望だろう。明らかにこれを読むと萩尾さんは竹宮さんや増山さんや集まってきた漫画家志望や友人たちが美少年やゲイの関係性に萌えていたけど、その少年愛的なものには興味がなかったのもわかるし、「SF」が大好きで、そういう話をできる人はあまりいなかったという話もしっかり書いている。
両雄並び立たずというか。萩尾&竹宮の関係性をこうやって読んでみると同じ小学館でほぼ同時代か少し遅れてデビューした「少年サンデー」が誇る2大巨頭となったあだち充高橋留美子の関係性は最高だったんだなと改めて思う。


4月25日f:id:likeaswimmingangel:20210522230328j:plain      
 ノンフィクションの取材をしていると、人間の記憶はあてにならないことを痛感する。時系列の順番を間違えることはもちろん、自分の都合の悪いことは忘れる、あるいは記憶を書き換えることも少なくない。また、思い込みによる事実誤認もある。こうした場合に厄介なのは、本人に自覚がないことだ。人に説明を繰り返すうちに、間違った事実関係が頭に強く刷り込まれて、しっかりと定着していることもある。
田崎健太著『真説・佐山サトル タイガーマスクと呼ばれた男』より

去年の夏、古川日出男さんの福島県での歩行と取材に同行した際に、メディアによく出ていると震災やその経験などを話をすることに慣れてしまって本人がその物語通りに語ってしまう、あるいはメディアが求めたフォームに沿ってしまうという話があった。そういうこともあって、できるだけ二時間以上は話を聞こうということになった。そのぐらい時間をかけて話を聞かせてもらって、ようやくふと本音であったり、それまで話していなかった言葉が相手から出てくることがあるからだ。
『ゼロエフ』にはそうやって聞かせてもらった本音だったりはあえて書かれていなかったりはする。それはとても個人的なことやメディアに乗せるべきではない思いや気持ちだったから。聞いたということは書けるけど、その内容については書かないという判断だった。
人前で話す機会が増える人は、話すことである意味で内容が整理され取捨選択され(相手が望むものや自分が言いたいこと守りたいこと)、それを何度も言い続けると記憶は書き換えられていく。たぶん、ほとんどの人がそういう立場になると起こりうると思う。
自分ではなく他人が言っていたことを自分が言ったことと記憶するようなことが起きる。そのため、当事者同士の話を聞いていくとズレや差異が出てくる。思い込みや思い間違い、誤解や誤認は時間が経てば経つほどにほどけなくなってしまう。『一度きりの大泉の話』と『少年の名はジルベール』を読んでみれば、同じ大泉サロンで起きたことだと思えないように。 


4月26日
朝から晩までリモートワーク。14時ぐらいに休憩で銀行に行ったら人がかなり並んでいたので諦めた。
朝から晩までradikoオールナイトニッポンとTBSジャンクの番組を聞き返していたけど、途中から元テレ東の佐久間さんのオールナイトニッポンの昔のものをYouTubeで聞き返すことにした。
ゲストが極楽とんぼの山本さんだけ(加藤さんはインフルで休み)とか千鳥の二人がゲストとか、テレ朝の加地さんの時とか。佐久間さんがもともとラジオ局入りたかったというのもあるんだろうけど、ほんとうに話すのがうまいし、時事ネタに合わせたトーク力がすごい。聞きやすい声の質ってあるんだろうし、自分に合う合わないというのもあるよね。


4月27日f:id:likeaswimmingangel:20210522231456j:plain起きてから洗濯機を回して、ほんとうは昼過ぎから予定していたことが緊急事態宣言で一旦なしになったので、どうこの休日を過ごそうかなと考えていた。休業になっていない本屋で近くにあるところだと代官山蔦屋書店なので散歩がてら歩く。なんだか歩いて近づいていくとどんどんこんな時だから高い本を買いたいという状態になった。
GWで唯一たのしみにしていたライブ「MATSURI SESSION」(NUMBER GIRL × ZAZEN BOYS)が開催中止(無観客有料生配信に変更)になってしまった。来週以降にはチケ代が返ってくるので(しかし、8,800円のチケがもろもろ手数料とか取られまくってほぼ1万って、前から思ってるけどどうかしてるぞ)その金額とほぼ同じになるピンチョンの『重力の虹』上下巻を購入した。約一万円。いい買い物だ。紙袋に入れてもらうとずっしりとした重さがある。GW中に読めるとは思わないがどこか家に置いておくだけでお守り感。この期間で読めるとは思えないが、この手の本は勢いがないと買えない。
ピンチョンはなんか読んでいると最後に辿り着く前に諦めてしまう。脳味噌が沸騰してしまうというか、知識が足りなさすぎてついていけなくなる。そういう意味でもうまくギアチェンジができない、ピンチョンの書くものに僕がうまくハマらないのか、と思うがこういうものは慣れでもある。
とりあえず、5月〜10月は執筆モードに入るつもりなので、SNSは宣伝モードにしていこうと思う。この半年間かけて途中で読むのを諦めたものも含めてピンチョン読んでみるつもりだったけど、5月末には新刊『ブリーディング・エッジ』が出るのでそちらもたのしみ。

昼過ぎから読書を始めていたら、一通のメールがきた。
自分でも少し思っていた事柄で、こちら側としてもすごく申し訳ない気持ちになったりした。メールして送る方がきっといろいろ考えたのが伝わるので、より思いが伝わってきた。これがひとつの大きな転機とかきっかけになるのだろうか。きっかけにしたほうが僕にはよいということだけはわかった。

ドラマ『大豆田とわ子と三人の元夫』は毎回エンディングのコラボ相手を変えてきてほんとうに凝ってる。『コントがはじまる』『今ここにある危機とぼくの好感度について』と今クールは最後まで追いかけたい作品がたくさんあるからうれしい。
五月から十月ぐらいまではまずは体力つけて基礎しっかりやらないとたぶん来年以降ヤバそうな予感がする。半年は集中しよう。コロナ禍だから停滞期なのかどうかがわからないのがネックだけど。


4月28日
「PLANETS」のブロマガで連載中の『ユートピアの終焉――あだち充と戦後日本の青春』最新回が公開。

 今回は『H2』の第四回(最終回)は主人公の国見比呂とライバルの橘英雄について。超高校級選手である国見比呂と橘英雄は高校時代に『COM』に投稿した漫画が掲載され佳作になったあだち充でもあったんじゃないか、ということなんかを書きました。この同時期に『COM』に投稿作が掲載されていたのがのちに『風と木の詩』を描く竹宮恵子さんだったりする。
このあと長期連載は『KATSU!』『クロスゲーム』なので終わりが見えてきた。最後まで行ければ、『QあんどA』になるのだけど、『KATSU!』以降は兄のあだち勉さんが病気になって亡くなるのでその気配が作品にも出てくる。
死んだ兄の幽霊と共に過ごす『QあんどA』という作品で漫画の世界に自分を引っ張ってくれた兄とのお別れをしたからこそ、『MIX』に行けたみたいな流れが軸になっていくのかな、と思う。

f:id:likeaswimmingangel:20210522230535j:plain休憩中に銀行に向かっていると、少し前を歩いている女性がまったく同じスニーカーを履いていた。男女で違うとしたらサイズぐらいなものだが、間違いなく同じなのがソールの裏側とかが足が上がる時に見えるのでわかる。こちらは後ろにいて見ているが、女性はもちろん後ろに同じスニーカーが歩いているとは思っていない。少しだけ追い越す時に目線を女性がいる右側ではなく左側の斜め四十五度ぐらいを見ながらガシガシ進んだ。その女性が同じだと気づいたかどうかはわからない。
あと、この「スペースヒッピー」というサスティナブルなスニーカーは、ナイキのスニーカーの廃棄になったスニーカーのソールを元に再構成したりしている。たまたまピンク色だけど蛍光の黄緑みたいな感じもいいなと思って購入して、去年の阿武隈川沿いはこれで歩いた。このカラーリングって『エヴァ』のマリと8号機だよなって最近気づいた。


4月29日
朝から雨が降っていた。人は水でできているし、水を放出して飲み込むことができる。たとえば、セックスは入り口と出口、一本の管である人間がそれらの先端をいじったりこすったりして性的な興奮と熱を感じ、汗も唾も精液も尿もそれらの体液が溢れ出て濡れる。そのことは体が触れ合うとより他人であることを感じさせ、肉体をなめらかに滑らせていく。
管と管による熱の放出とともに水分を、液体を放出して、いつか涸れる。滑らなくなっていく。雨が濡らす世界は輪郭が少しだけボヤけていくから、どこか心地良くて芯をとらえないほうがいいのかもしれないと感じる。
雨はずっと降っていて、日が変わる頃にも強くつよく降っていた。ただただ濡らしていく。この日、たまたま避妊リングをしているという人と少し話をしたのだけど、そういう知識はなかったのでとても新鮮だった。そもそも排卵が止まるのだという。なにか示唆的なものがあったような気がするけど、それがなにかはまだわかっていない。

f:id:likeaswimmingangel:20210522231059j:plainハオ・ジンファン著『1984年に生まれて』読了。
思いの外読むのに時間がかかった。どうしてか読んでいるとその世界にうまく入れずに異様に眠くなってしまったことが何度かあった。
主人公の軽雲が父の沈智がロンドンやアメリカに渡って、会いに行ったところぐらいから少しずつ内容にシンクロし始めることができた。もともとこの小説を勧めてくれた友人は僕が大叔父で初生雛鑑別師の物語を書こうと思っていたことを知っていたのもあったから、オススメしてくれたんだと思う。その大叔父もアメリカとイギリス、最後は北アイルランドに渡って日本には帰ってこなかった。その参考にもなるんじゃないかと思ってくれたのかなと少し思った。
この作品では娘と父それぞれの対照的な生き方と中国という国の変化を、それぞれの物語が交差していく描き方をしている。そして「自伝体」小説と書かれている意味も、帯に「ジョージ・オーウェル1984』は、ありうべきもう一つの結末である」ということも最後まで読むとわかるのだが、正直そういう終わりである種SF的な形にしているのは、そこまで好きじゃないなと感じた。

たぶん、僕が好きな次元や空間を越えるものだと『インターステラー』的なものであり、日本において漫画でそれをやっているのは浅野いにおさんの『デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション』だと思うのだけど、確かにそれらは絵的に映える方がやりやすいものでもある。
となると僕が大叔父をモデルにして一度書いたがうまくいっていない『Spiral Fiction Notes』も複数形にしているように大叔父と主人公の僕の代わりという二世代を描こうと思っていた。
小説でやるならそのほうがやりやすいのだというのもこの作品は示していたようにも思えなくもない。しかし、やっぱりこの形式でやると歴史的な背景をかなり調べた上でどこをフィクションにするかしないか、使うか使えないかを慎重に考えないといけないから大変だ。


4月30日f:id:likeaswimmingangel:20210522231215j:plain昼過ぎに休憩時間をちょっとオーバーしてしまったけど、歩いて往復して蔦屋代官山に行って宮台真司著『崩壊を加速させよ 「社会」が沈んで「世界」が浮上する』を購入。冒頭の「アピチャッポン・ウィーラセタクン論」を読むと「森」がキーワードになるみたい。園子温作品も何作品か取り上げられている。園作品には『愛なき森で叫べ』というまさに「森」がタイトルについているものもあるが、こちらは書籍では取り上げられていない。この本で取り上げられている作品は八割方観ていた。

劇場で観てずっと余韻を残してくれた『A GHOST STORY/ア・ゴースト・ストーリー』も長い論考で書かれているのでたのしみ。黒沢清監督との対談と、ダースレイダーさんとの対談も追加収録されているのもけっこううれしい。版元のblueprintは「Real Sound」のメディア運営しているのもあって、菊地成孔さんといい、宮台さんといい、僕が気になる映画評を書いている人の書籍が出ていて、きちんとウェブでの連載が書籍という形になっているなと思う。

今日見てつい笑ってしまったAVのレヴュー↓

色白で形が良く、ハリも形も申し分ない素晴らしいオッパイ!
でもさー…なんでパイズリねーの?忘れちゃったの?
パイズリのこと、忘れちゃったの?
ねぇ…何で?何でパイズリないの?
彼女のスタイルをみたら、マストでしょ?パイズリ。
マストパイズリでしょ。
ねぇ何で?簡単なことでしょ?〇〇(←男優名ですが伏せます)。何で?何で出来ないの?
しっかりしてよ。もう男優長いでしょ。
アンタ、twitterに地下アイドルみてーに「欲しいものリスト」掲げてるけどさ。
俺はパイズリが欲しかったよ…。でもお前は俺にくれない訳じゃん。パイズリを。美巨乳を前にしてパイズリすらくれない男優がさ、世の中にむけて「プロテイン」やら「ワイヤレスイヤホン」やらおねだりしてさ。恥ずかしい事だと思うよ。俺はね。
タトゥー彫りなよ「パイズリ」って。
上腕二頭筋に。もう二度と忘れないように。

「タトゥー彫りなよ「パイズリ」って。」というキラーワード。これをドラマ『コントがはじまる』に出演している仲野太賀が言っていたらめっちゃおもしろいしハマるんじゃないかなって想像してしまった。それと「パイズリ」って言いたいだけかと思えてくると余計に笑ってしまう。


5月1日
f:id:likeaswimmingangel:20210522231615j:plainf:id:likeaswimmingangel:20210522231627j:plainニコラの10周年目だったのでお店へ。ショップカードも新しくなっていた。通常営業はせずにお店の常連さんたちとのんびり過ごす。時たま皿を洗ったりとヘルプ。樋口一家は来なかったけど、きちんとお花を出していて、樋口さんエラいと久しぶりに思った。
いろんな人と話もできたし、身内だからこそのアットホームないい時間を過ごせた。


5月2日f:id:likeaswimmingangel:20210522231728j:plainf:id:likeaswimmingangel:20210522231737j:plain先日、「e-hon」で頼んでいた田島昭宇著漫画作品集『Baby Baby』を渋谷の大盛堂書店に取りに行っていた。起きてから読み始める。
基本的には90年代後半に発表されたものなので大半は過去に読んでいたものだった。絵のカッコよさや描かれているものにどこか懐かしさも感じるのは、田島さんが巻末に収録されているインタビューで答えているように当時の映画などからのインスパイア的なものがあるからなんだろう。

発行者が「株式会社小学館クリエイティブ」の三上信一さん。「PLANETS」で連載している『ユートピアの終焉――あだち充と戦後社会の青春』でも『タッチ』の二代目担当編集者でもあり、あだち充作品に何度も出てくるのが三上さんである。『タッチ』編は全部で5回書いたので、三上さんにはメールで送って読んでもらった。その方が発行者に名前があるのはどこかうれしい。
田島さんには「水道橋博士のメルマ旬報」で連載していた「岩井俊二園子温の時代」でイラストを描いていただいた。毎月大船の居酒屋で描いてもらったイラストを受け取りに行って、そのままお酒をご一緒させてもらってファン冥利に尽きまくったこともあった。ほんとうにありがたかった。田島さんは『魍魎戦記MADARA』連載時からのファンなので30年近く読ませてもらっている。今回小学館から出たということもあるので、新作も小学館で連載したりするのかもしれない。新作を待ってます。

f:id:likeaswimmingangel:20210522231821j:plain16時から20時までニコラ のヘルプだったが、15時前にユカさんからラインが来て、燃え殻さんが来てるから早く来れたらおいで、と言われたので少し早めに家を出た。
お店に行くと10周年のお祝いの花を持ってきた燃え殻さんと音楽ライターの兵庫さんがカウンターにいらしていた(よく考えたら燃え殻さんのデビュー作『ボクたちはみんな大人になれなかった』文庫版の解説は兵庫さんだった)。オープンまでの一時間ほど話をして、お二人は帰って行った。
燃え殻さんの次に出る小説の装幀の話をしていたら、それに関わっている人がニコラ のお客さんだったこともあって、いろんなつながりや縁も感じた。その後にお店という場があるこその奇跡みたいないい再会の場面に居合わせてもらえた。ニコラの2人もほんとうにうれしそうでよかった。


5月3日
宮台真司著『崩壊を加速させよ 「社会」が沈んで「世界」が浮上する』の続きを読んでいると『A GHOST STORY/ア・ゴースト・ストーリー』の論考に入った。

1.社会が没人格的なシステムのマッチポンプとなり、言葉と法が支配する社会がクソ化する。
2.すると、相対的快楽しかない社会から、絶対的享楽がある世界への、離脱願望が生じる。
3.離脱後に世界から社会を視る再起的視座にとって、社会が奇蹟として現れる。
4.但し無条件ではなく、社会の軌跡化には、「視線の邂逅」が象徴するエロスの膨縮が必要。
5.言葉と法が支配する社会で、祝祭が消え、性愛が「視線の邂逅」の唯一の依代となった。

『ア・ゴースト・ストーリー』は特に3.を焦点化します。「妻の存在」→「妻と場所の記憶」→「妻と場所が確かに存在したという事実」、移行した幽霊男の視座が、社会を奇蹟として再起的に捉え、昇天します。ただし4.にあるように、妻との間の「視線の邂逅」が、再起的視座に於ける社会の奇蹟化の条件を与えます。かくして本作が名状しがたい感動の由来が理解できるようになりました。

以上の引用箇所と「社会」から「世界」への移行(社会からの幽体離脱)や時間軸の変化を考えることができると書かれている。
映画公開時にはそこまで考察できていなかったが、宮台さんの論証を読んでいるとあの作品に描かれた深さと空間や時間の長さとその視座がわかる気がしてくる。とはいえ、もう一度観ないとやはりその感触は掴みにくのかもしれない。

また、宮台さんは90年代に援交のフィールドワークだけではなく新興宗教のフィールドワークをしていて、その際に「齢を取らない人々」を目撃した話をこの『ア・ゴースト・ストーリー』のところで書いている。
40代に見える人が実際には60代とかの人たちを見て、当時の宮台さんは「輝きを諦めないからだ」と考えていたが、現在ではその先まで考え、彼らが諦めない理由は、世界の時間を生き、社会の時間を生きていないからだと推測しています、と書かれていた。
例えば、芸能人やメディアに出る人は出れば出るほどに見られていくことで輝きが増したり、見られるような顔つきになっていくから若々しいのだと思っていた。それもあるのだろう。だが、上記にあるようにそもそも彼岸であり、あの世でもあると言える「芸能界」は、社会の時間ではなく、世界の時間を生きるしかないから「齢を取らない」「取りにくい」状態になっていくのかもしれない。
そして、老いることができなくなっていく、若さに価値を求める世界ではその一般と芸能に差はなくなっていき、多くの人が「社会の時間」を生きていないとも言えるのかもしれない。


5月4日
 と、一気に話は飛ぶが、先日、仕事で「君が死んだあとに」という、戦後の新左翼運動に関するドキュメンタリーを見た。休憩を挟んで、実に3時間以上の作品だ。
(中略)
 映画の内容とか、僕が戦後の新左翼運動に関してどう考えているか、なんていうことに興味がある人なんかいないだろう。だからそこは端折るが、僕がこの作品で一番驚愕し、感動したのは、大友っちの音楽である。
 それは、大友っちのヴォイスである、ノイズギターから始まり、ゆったりしたマーチのような、アンセム的な音楽が被り、どんどん高まってゆく。というものだった。
(中略)
 同じ映画館では「花束みたいな恋をして」という映画のポスターが貼ってあった。当代の名脚本である坂元氏(誤解なきように、と念を押さずとも、この坂元氏は坂本龍一氏ではない)と僕は、夜電波とこの作品を通じてエールの交換と、実質上の軽いシェイクハンドした格好になった。この経緯の詳述は割愛するが、要するに僕は恋愛映画の中の、風俗的な小道具として採用されたということである(この作品から、OSTの依頼は来ていない。当たり前だが笑)。
菊地成孔の日記 2021年4月26日 午後5時記す>より

 

f:id:likeaswimmingangel:20210522232353j:plainf:id:likeaswimmingangel:20210522232403j:plain『きみが死んだあとで』『花束みたいな恋をした』と続けてユーロスペースで鑑賞。

上記で引用したように菊地さんがブロマガの日記に書いていて、そうか『きみが死んだあとで』も大友良英さんが劇伴なのかと思って、四回目になるけど続けて、大友良英劇伴繋がりで映画を観てみた。
『きみが死んだあとで』はたしかに冒頭と最後の方でノイズギターが走るのがカッコよかったが、内容は重いものでもあった。

1967年の第一次羽田闘争で亡くなった18歳の青年を取り巻く人びとを取材し、激動の時代の青春と悔いを描いたドキュメンタリー。
1967年10月8日、当時の佐藤栄作内閣総理大臣南ベトナム訪問を阻止するための第一次羽田闘争。その中で、18歳の山崎博昭が死亡する。死因は機動隊に頭部を乱打された、装甲車に轢かれたなど諸説あるが、彼の死は若者たちに大きな衝撃を与えた。
山崎の死から半世紀以上、彼の同級生たちや当時の運動の中心だった者たち14人が語る青春の日々とその後の悔恨。彼らが年齢を重ねる中、山崎だけが18歳のままという思いの中、あの熱い時代はいったいなんだったのかが語られていく。監督は「三里塚に生きる」「三里塚イカロス」の代島治彦。(映画.comより)

山崎博昭の兄である山崎建夫のインタビューが冒頭少ししてから始まる。
博昭が生まれて大阪の大手前高校に入学するまでの流れを兄の話や写真で構成し、高校からは同級生である詩人の佐々木幹郎などのインタビューから彼が京大に入り、第一次羽田闘争に向かって弁天橋で亡くなったまでの流れを描く。

上と下と3時間近くの作品は分かれている。全学連山本義隆など当時の学生運動に関わった人たち、博昭の同級生たちも現役で合格したものたちは一緒に羽田へ向かって彼の死をすぐ近くで見ていたり、行動をともにしていた者たち、浪人して翌年に彼の仇を取るような気持ちで学生運動に参加していくものなど、それぞれの人生と安保闘争など学生運動の話が展開される。
学生運動を支援しており、核物理学者で反原発運動も支援していた水戸巌の妻で水戸喜世子の話もなどもある。このあたりは少し陰謀論的なものも入る、それは確かなことはわからないけど可能性は否定できないということも含めて監督が話を聞き出して作品の中で結びつけていたようにも思えた。博昭は当初新聞報道では仲間たちが奪った車に轢かれたとされていたが、その現場を見ていたものたちは警官たちが警棒で後頭部を何度も打ち付けていたのを目撃していたことのに関わらず、死亡は諸説あることになっている。
また、反原発活動をしていた巌は息子二人と登山に向かったが三人とも転げ落ちてきた岩によって穴が空いたテントの隙間からするりと落ちて滑落してしまったことが死亡の原因とされているが、巌は警察からも、いや国家権力から目をつけられていた存在(反原発運動をしていたことで家にも嫌がらせの電話などは当たり前にあったようだ)であり、山に入る際にも山岳警備隊にも挨拶をしており、許可を取らないと入れない山であったことから妻の喜世子さんは警察(国家権力)によって3人が亡き者にされたという疑念を抱いているのがインタビューからわかる。そういう部分も一概に権力がそんなことを、なんて思う人のほうが少ないだろう。
実際にやっていてもなんら不思議ではない。権力というものはそういうものだから。「三億円事件」も実は警察内部の息子が犯人だというものは、当時の学生運動をしていた大学生を根こそぎ検挙するためだった(あるいは事件は実際にあったが警察はそれを利用した)という説などもあるが、正直国家というものから暴力を任されている警察権力は公務員であるが、時と場合によっては法を越えてなにかを都合よく解釈したり動かしたり、あるいはそのときの政権や中央にとって邪魔な存在を消していても今更驚きようもない。

インタビューでも語られているが学生運動は過激になっていき、内ゲバによって大衆からも支持が得られなくなって自滅していった。詩人の佐々木幹郎は彼自身が活動を止めたときの話で、この先はどう考えても行き場を失ったものたちは内部で衝突し始めて朽ちていくだろう、運動が終わるのは考えればわかることだったと言っていた。
また、なにかで読んで文章から、佐賀やどこか九州の船乗りについて誰かが書いたエッセイを引き合いにして運動が成功しなかった理由を答えていた。そのエッセイに書かれているのは漁に出る船の船先の頭の部分か一番うしろの部分に元漁師だが体が動かなかったり目が見えていない、もう漁には使えない老人を座らせておく。老人は座っていくだけでなにもしない。
漁師たちがどんどん漁を進めていくが、時折老人が「もう少ししたら嵐が来る」と言えば、漁網を引き上げて陸へ帰っていく。そういう役割がいなかったことが問題だった。学生運動は当時年齢がいっていても30手前から10代後半の若者であり、どんなに偉そうなことを上がいってもそこにはさほど世代の差もなく、知見も社会というものがどういうものか知らなかった。そんな老人のような人がいたなら変わっていたのかもしれない、と。
ドキュメンタリーで語る彼らはその輝かしい時代について嬉々と話す人もいるし、山崎博昭の死を未だに抱えてこのインタビューまでずっと自分が学生運動に関わっていたことを話してこなかった人もいた。彼の高校の同級生であり、学生運動を経験したあるものは実家を継ぎ、あるものは教師や弁護士となり、あるものはライターや舞踏家になった。そう、かれが死んだあとにも彼の彼女の人生は続いていた。

『花束みたいな恋をした』は四回目であり、今回は大友良英繋がりで観たが、土曜日には菅田将暉有村架純コンビが主演しているドラマ『コントがはじまる』が放送されている。そのドラマでは映画『花束〜』同様に二人のナレーションが入り、物語の重要な場所としてファミレスまでが重なっているのである。
また、火曜日には映画の脚本を書いた坂元裕二の書いたドラマ『大豆田とわ子と三人の元夫』も放送されているため、「ああ、『花束〜』観たくなってきた」モードに陥ってしまうのだ。
劇場は左右一席ずつ空けてだったがかなり埋まっていたように見えた。カップルで来ている人たちもたくさんいたが、別れたら菅田将暉有村架純を見るたびに思い出すぞ。花の名前を女の子に教えてもらうとその花を見るたびにその女の子のことを思い出すと絹(有村)が言っていたように。あとは劇中で麦(菅田)と絹が一緒に映画を観に行くのがユーロスペースだったので、 ある意味聖地。なんだかんだ最後のファミレスのシーンはうるっと来てしまうのは四回ともだけど、あとは「なつかしい友達」に会うような感じでもある。

この夜に放送された『大豆田とわ子と三人の元夫』は前回で主人公のとわ子(松たか子)が社長を引き受けた際の話があったが、今回は30年来の友人であるかごめ(市川実日子)が裏主人公的に物語は進んだ。
かごめは「社会では当たり前にされているルール」がわからない、納得できないから社会に適応できない話をしている。複雑な家庭環境で育ったことが明かされるかごめはその後、幼少期に描いていた漫画を改めて挑戦しようとする中で、とわ子が「社長」になったことについて語り始める。

とわ子が社長をやっていることはとても凄いことで、あなたみたいな人がいるだけで、小さな女の子が私も社長になれるって思えるんだよ、と。

もう、この時点で坂元裕二は次の時代を見据えて明らかなメッセージとテーマを持って、しかも遊び心満載のプロデューサーと共にテレビドラマを作っているということがほんとうに素晴らしいことだと思う。
そして、恋なんかなくて一緒に住むとかだったらいいのにな、と言っているかごめはそういう関係における事柄が窮屈であり、それ故に彼女に好意を寄せても誰もその恋が成就することはないのだ。その恋に破れたひとりがとわ子の最初の夫の八作(松田龍平)であり、おそらくそのことにとわ子はこの時点では気づいていない。

あと二番目の夫の鹿太郎(角田晃広)に恋人のフリをしてほしいと言ってきた女優の古木(瀧内公美)がいるが、その演じている瀧内さんは『花束〜』で麦と絹が出会う明大前の終電が行ったあとに一緒にカフェバーみたいなところに行くサラリーマンとOLのハンドクリーム塗ったあとすぐにおしぼりで手を拭いた人として出てたし、ミスiD出身の穂志もえかも同様に映画もドラマも出演している。
あとは麦と絹の愛猫であるバロンは黒猫だけど、どんどん大きくなるとほんとうに二人の間にできた隙間というか重ならなくなった想いの体現のようで、黒猫という存在はやはり映像では圧倒的に映えるし、その意味を観たものの中に植え付ける。
コロナによって大作が公開延期などもありつつも、オリジナル脚本で大ヒットし、緊急事態宣言が発令されても、まだ劇場で公開されている今作は、たまたまだが4月クールに放映されている『コントが始まる』『大豆田とわ子と三人の元夫』との相乗効果も出ているんじゃないかな。


5月5日
朝起きるが、そのままグズグズしながら何度寝をしていたら昼になった。数日前に首から背中につながる筋をひねったらしく、痛い。
夢の中で菊地成孔さんが出てきた気がする。前の日に買っていた外付けHDにMacBook Airの容量食いまくっていたiTunesのデータを移行して、前に使っていた別の外付けHDの中に入ったままの音楽データも移行してみたが、どうもファイルが消えていたり、時間がかかりまくったのもあって無駄に疲れていた。
初期の菊地成孔DCPRGのアルバム二枚が名前はあるのに音源データがなくなっていたりしてショック。それで出てきたのかな、夢に。でも、PCの残りストレージが3GBになっていたが、データを移行したので 残りが50GBになったのでようやくOSをアップデートした。したら、なんかアイコンとか変化して違和感。

f:id:likeaswimmingangel:20210522232708j:plain今月の「ユートピアの終焉――あだち充と戦後日本の青春」では『冒険少年』を取り上げるので久しぶりに再読。こどもの日に読むにはよかったかもしれない。
あだち充の描くノスタルジーは大人を再生させるための装置である」ということを感じた。たぶん、これが今回書くテーマになると思う。しばらく脳内で書くことを考えていく。

f:id:likeaswimmingangel:20210522232757j:plain緊急事態宣言における禁酒法時代となった2021年の日本で禁酒法時代を舞台に描いたフォークナー作品を読むことは、ある意味で正しいと思う。途中止めになっていた『サンクチュアリ』を引っ張り出して最初から読み直し始めた。


5月6日f:id:likeaswimmingangel:20210522232813j:plain休憩中にニコラに行ってコーヒーとガトーショコラをば。

 

f:id:likeaswimmingangel:20210522232849j:plain兎丸愛美さんの写真展のDMは先日届いた(郵便の人が持ってきてくれた)時に雨が降っていて少し濡れてふやけていたが無事に乾いて表面が凸凹にならずに済んだ。
写真展は今週土曜日からだけど、土日は混むだろうから平日となると月曜日と火曜日が神保町画廊は開いてないので行けるとしたら木曜日かなあ。


5月7日f:id:likeaswimmingangel:20210522232948j:plain2日続けて朝夜とリモートワーク。休憩中に駅前のTSUTAYAで文芸誌『新潮』を購入。古川日出男さん連載『曼陀羅華X』を読むためだが、今号は哲学者であり小説家として活躍している千葉雅也さんの中編『オーバーヒート』が目玉として掲載されているが、同時に彼が『ことばと』創刊号に寄稿した短編『マジックミラー』が川端康成文学賞を受賞したので、そちらも掲載されていて、「千葉雅也フェスティバル」かと思うような表紙になっていた。

仕事終わってから、社会学者・開沼博さんによる古川日出男著『ゼロエフ』評と上田岳弘さんによる月末発売予定のトマス・ピンチョン著『ブリーディング・エッジ』を読んだ文章を読んだ。
開沼さんは6号線を歩いた際にお話を聞かせてもらったけど、ここで書かれた「消化」というワードは確かに年々、福島をめぐる際に意味合いが変わってきたものだなと思った。
『ブリーディング・エッジ』は9.11を前後とした作品であり、ITが大きく関わってくるということで、上田さんが適役だなと思ったし、文章を読んでいると今までのピンチョン作品の中ではいちばん馴染みのあるというか知っている世界(時代)っぽいので少しは読みやすいのかもしれないと感じた。今月のたのしみのひとつだ。
曼陀羅華X』は翌朝起きてからゆっくり読むことにした。

Zazen Boys / Soil & Pimp Sessions - Kimochi / Cold Beat May,3 2021


こんなコラボがユーチューブにアップされていて、友人の青木が教えてくれた。


5月8日
寝すぎた。起きてから体重計に乗ると体重が人生でマックスになっていた。さすがにこれは、やばい。炭水化物を抜いていくしかないか。代謝が落ちているとなると筋トレをしつつ、カロリー消費を落とすしかない。といつも思うが年々痩せなくなっていっている。

MacBook Airに接続しているHDに入れ直した音楽データ(iTunes)が一部消えていたりしたのは自分の転移の仕方のミスだとわかった。一部のどうしても入れておきたいものはレンタルしたり入れ直すしかない。どうもスポティファイとかストリーミングはどうも苦手。

荒木優太×仲俣暁生×矢野利裕『文芸誌と文芸批評のゆくえ――新人小説月評における「削除」をきっかけに』聞きながら夕方からのリモートワークの作業。


矢野さんの的確な流れや補足(人生においてあらゆる人間関係を修復してきたので、と最後の方に言っているせいか、確かにドーンと構えていて頼もしかった)、荒木さんは話しているのを初めて見たがかなり話し方がポンポンと進んでいってちょっと江戸っ子っぽいというか、思考と喋りが弾むような感じで人間としても可愛がられる、好まれる人なのだというのもわかったし、意志もしっかりしていてすごく好感を持った。
年齢がふたりよりも上な仲俣さんがふたりとは違う距離感であり、文芸に関わってきた年長者として話を聞いているような感じで非常によい三人のトークだった。

岸政彦さんに関しては僕も荒木さんたち同様に小説よりも社会学的なエッセイのほうが文学的でおもしろいからエッセイのほうが好きだ。小説は装幀とかは非常に売れる感じのいいものばかりだけど、小説を読もうという気が年々しなくなっている。それは彼への文芸の世界への多大な期待とかも含めて感じられてしまうからだろうか。そこを一気にまくっていっているのが千葉雅也だという気もするが。
確かに最後に話も出ていたけど、フェミニズム問題が語られる現在では壇上にいる三人全員が男性ということは、アフタートークでも話に出たがかなり難しい。イベントに登壇してと頼む際にも、相手との関係性もあったり、断る断れないとか、この辺りは今いろんな現場で起きている。このイベントは今後も継続してほしいな。

f:id:likeaswimmingangel:20210522233237j:plain上記のイベントの発端となった『文學界』の新人賞の選考委員でもある東浩紀さんの『ゆるく考える』文庫版が出ていた。この本はほんとうにいい本だと思う。
あと仕事で新人賞を調べていたら、「文學界新人賞」の選考委員が「青山七恵東浩紀金原ひとみ長嶋有中村文則村田沙耶香」の六人になっていて男女比が半々になっていた。そして、メンツがつええ。


5月9日
『今ここにある危機とぼくの好感度について』


渡辺あや脚本のNHKドラマの3回目をオンデマンドで見る。僕世代が影響をかなり受けている映画のひとつが『ジョゼと虎と魚たち』であり、その作品の脚本家として渡辺さんはデビューした。
元々は岩井俊二監督のサイト「円都通信」ないでのシナリオ募集コーナー「しな丼」(現「プレイワークス」)に応募したことが縁で『ジョゼ虎』を担当することになった。僕も「プレイワークス」に応募して、その作品を映像化に向けてやっていたことがあった。僕以外の人もおそらく「しな丼」から世に出た渡辺さんに憧れていたし、一番の出世頭だった。
その後に関わった『約三十の嘘』『メゾン・ド・ヒミコ』『天然コケッコー』『ノーボーイズ、ノークライ』『ワンダーウォール劇場版』は劇場公開時にリアルタイムで観ている。『合葬』は未見だが。テレビドラマは基本的にはNHKとそのキー局の作品を描けていて、室生犀星の短編を元にした『火の魚』、阪神・淡路大震災から15年後の神戸を舞台にした『その街のこども』、コシノ三姉妹の母をモデルにした朝ドラ『カーネーション』、レイモンド・チャンドラーロング・グッドバイ』を日本に置き換えた『ロング・グッドバイ』、大学学生寮をめぐる寮の学生と大学側の対立を描いた『ワンダーウォール』、芥川龍之介が上海に渡ったさいのことを描いた『ストレンジャー〜上海の芥川龍之介〜』がある。

今回の『今ここにある危機とぼくの好感度について』は大学を舞台に描いているので、『ワンダーウォール』で描いたものの精神的な続編とも言えるし、より大学という場所を描きながら、現在の日本における板挟みになる人(政府と大学や大学と民間や諸々)や、表現の自由や利害関係による忖度をうまく物語に組み込みながら描いている。もちろん、NHKで放送するため、できるだけわかりやすい表現ともなっていて、高齢の人にもわかるように、いや、今の世界ってこういうことが起きていますよと伝える役割もしっかり担っているように感じる。そして、やっぱりおもしろい。きちんと金があるところがこういう作品を作っていることはきっと正しいのだろう。だが、同時にそれを他の局ではなかなかむずかしいというのも今の不景気を体現している気もする。

第3回は表現の自由を問題にしている。あいちトリエンナーレにおける問題をフィクションの中でうまく使いながら描いているのはさすが。そして、総長が会見で取る行動とその発言への責任を取るという姿勢は今の国会や政治家にはまったくないものであり、なにかの長であったり、役職についている人は発言すること行動することについてしっかり責任を取らねばならない。
ただ、前首相である安倍や現首相の菅、森だけではないが今の日本の偉いとされるような人たちは責任を取りたくなくて、自分の都合の良い方に法律すら変えて、自分の発言によって辻褄を合わせるために下の者たちが現実や数字を歪めていく。この時代において、発言と責任がセットにならない人物はいかがなものか?と問いかけているようでもある。ただ、「自己責任」という失敗したら即ゲームオーバーな世界では誰も失敗できず、したとしてもそれをなかったことにする。それは首相だけではなく僕ら一般人においてもその意識が蔓延している。
失敗をすること、その失敗を受け溶ける余裕や幅が社会にない限りどうにもならないが、今の経済後退国でありすでに先進国ではないこの転げ落ちているこの日本ではその余裕を寛容できないのだろう。

寝る前にフォークナー『サンクチュアリ』を読み終える。
禁酒法時代的な東京に住むものとしてはかつて10年ばかり実際にあったアメリカの禁酒法時代を描いた小説を読むこと、かつてのことなのにも関わらず禁酒と差別が現在に嫌でもリンクしてくる。しかし、読みにくいと思うほどにページに隙間がないぐらいの文字量、圧倒される。このままフォークナーとヘミングウェイという20世紀アメリカ文学の巨匠の作品と現代アメリカ文学の巨匠であるトマス・ピンチョン作品をなんとか粘り強く今年は読んでいきたい。やっぱり戦後日本社会はどうしてもアメリカ都の関係があり、僕が書きたいものや読みたいものはそういうものなのだ。


5月10日
10日発売『週刊ポスト』5/21号に掲載されている「予告編妄想かわら版」では、アダム・ウィンガード監督『ゴジラvsコング』を取り上げました。

映画コーナーゲラチェックした後に公開延期になってしまったので、ズレてしまったけどしょうがない。換気も問題ないから映画館開けてほしい。と思っていたらヒューマントラストなどのテアトル系の映画館は12日から開けるとのことなのでうれしい。
あと今号から永井豪ダイナミックプロによる『柳生裸真剣』という漫画が始まりました。永井豪さんと同じ紙面というは不思議な感じ。昔、スーファミのソフトで『CBキャラウォーズ 失われたギャ〜グ』という永井豪作品のキャラクターがクロスオーバーして出てくるアクションゲームをなぜか買ったことを思い出した。


5月11日
「monokaki」掲載の「小説の書き方本を読む」第五回を書きました。
今回は松岡圭祐著『小説家になって億を稼ごう』についてです。


タイトルで勝った感があり、帯も昔のメフィストかと思いますが、このぐらいシンプルな方が目立つんだろうなとも思ったり。発売時に読んでいて、当初は周りの人もわりと読んでいた気もあするけど、これ読んでも「億」稼げる小説についての書き方は正直書かれていない。でも、出版業界で作家としてやっていくために知っといた方がいいよってことは書かれているハウツー。まあ、どの業界でも才能がある人はわりと社会性があって謙虚だし、やさしくて思いやりのある人が多い。問題はその人の近くにいたり、その家族や関係者が驕り昂り自分が偉いと錯覚したり、勘違いしていくことだと思うのだけど。

バンドが解散する理由同様に、作家自身だけではなく身内とかの異性問題と金と思想(&宗教)が知らない間に大きくなりすぎて、才能があってもダメになってしまう人もいる。この辺りの問題はイレギュラーだし、未確定すぎる未来に起きる要因なので「誰にだってどうにもできない」のだろうとは思う。
男女とかのセクシャリティでもなく、近い価値観を共有して長く付き合えて本音が言えるパートナーみたいな人がいるかいないかが大事なんだろうなって思うけど、人は生きていく内に変わっていくものだし、変わるよねって思う。
この前観たドキュメンタリー『きみが死んだあとに』に関して菊地成孔さんも自身のブロマガで書いていたり、ニコ生のフェイクラジオでも言っていたけど、かつての学生運動のあとに「右」にだったり、「左」にだったりと転んで行った人たちがいた。それが文化的なものにおいて、「左」に転んだ人が多かったりしたことは大きな影響があったんだろうけど、「おおきな物語」が終焉して、サブカル的なものが全盛になってしまうとその文脈がかき消されてしまった。
今の中国や韓国の小説にはその国の共有される「おおきな物語」と現在のテクノロジーへと移り変わる時代が「左右」の体制や思想や価値観、その反発が地続きで繋がっているから物語としての強度が強いんだろうなと思った。適当だけど、そんな気がする。

f:id:likeaswimmingangel:20210522233707j:plain尾崎世界観著『苦汁200%ストロング』文庫版で書き下ろしされた「芥川賞候補ウッキウ記」を読む。
芥川賞候補になった尾崎さんの日常についての日記。テレビでも放映された『情熱大陸』での密着もだが、バンドメンバーや事務所の方や出版社の人たちとの関係性ややりとりが書かれている。とても大胆だし繊細で読んでいると好感が増す。
世界観さんだけではなく、芥川賞直木賞候補になった小説家はこのように候補になってから発表の翌日ぐらいまで日記を書いて、それを第00回でまとめて書籍とかにすればいいのかもしれない。作家それぞれの日常における変化や周りとの関係性や賞が近づいてくる心のあり方のドキュメンタリーとしておもしろいと思うし、それなりに売れるんじゃないだろうか。そうすれば多少印税は入るだろう。
もし受賞しても50万ぐらいしかくれないし、テレビや雑誌やウェブのインタビューを受けても宣伝ということでほとんどギャラは払われないはずだ。受賞後の一ヶ月はそういう仕事の受賞後のエッセイ書かされたりと多忙を極めるらしい。それで本が売れなきゃ、やってられないだろうし、売れたら売れたで下手したらその作家の一番売れた書籍になってしまう可能性もある。
賞レースに巻き込まれてただ期待されて、落選してしまったあとには悲しみや誰かからの心無いことを言われたりするだろう。だから、せめて候補になったり受賞したから本が売れたり増刷した以外でもきちんと小説家に少しでもお金が入るようにしてあげないとダメだと思う。


5月12日
ZOOMで作家さんにインタビューするのでヒカリエに久しぶりに出社。今回の緊急事態宣言出てからは初めてだったような。
渋谷は平常運転なので人少なくはない感じだけど、緊急事態って言われても働くしかないし、僕は歩いて行っているけど電車乗らないといけない人たちがほとんどなのに減便したら余計に密じゃんっていう謎というかやっていることが裏目以前にほんとうにいろんなことを考えていないのがはっきりしてるから、国や都がなに言っても従う人のほうが減るだろう。パンデミックがより爆発していいから、一緒に東京五輪も潰したいってどこかでみんな思ってるんじゃないかな。
これで少子化も進んでるっぽいし、政治家やもろもろの人の公人が道徳心もなくて金や利権(利害)だけのことしか考えてないって大抵の人はもう思ってるから、違う意味でも崩壊はしてるし、それが承知のものとなってきている。
もしかしたら、このまま日本が壊滅していくシナリオで救いの手的にアメリカの州のひとつになるために菅首相とか自民党が動いてたりして、と勘ぐってさえしまう。そうなるとほんとうに阿部和重さんの「神町サーガ」のフィクションの現実化でしかないけど、そういうシナリオを誰か描いてたりするのかな、とふと思った。


5月13日f:id:likeaswimmingangel:20210522233835j:plain『くれなずめ』朝イチの回を観るために先日から劇場が再開したヒューマントラスト渋谷まで歩いていく。小雨、微妙すぎる小雨だけど、気持ちいいから傘は持っていかなかった。『くれなずめ』は予告編を見るとメインとなる6人の1人がすでに死んでいるということが示唆されている。

松井監督が今公開して観てもらいたいという気持ちがあるのもわかるものだった。この映画はきちんとお別れを告げるための、残された側がこの先も生きていくための物語だからだ。コロナ禍では急な別れが以前よりも起こりやすくなっていて、そして、大事な人がなくなっても葬式にも出れずに、最後の別れをすることもできないことが多くなっている。
儀式とは神話を反復することだが、葬式は亡くなった人のためというよりは残された側のために、ふんぎりをつけるための儀式である。だからこそ、そんなことになる前に会いたい人に会いに行くしかないのに、今の状況はそれすらもなかなか許してくれない。みんながそのジレンマの中でぬくもりや距離をどうしていいか悩んでいる。そういう時だからこそ観てほしいんだなって。

f:id:likeaswimmingangel:20210522234025j:plainf:id:likeaswimmingangel:20210522234036j:plainf:id:likeaswimmingangel:20210522234048j:plainf:id:likeaswimmingangel:20210522234102j:plainf:id:likeaswimmingangel:20210522234116j:plainf:id:likeaswimmingangel:20210522234134j:plain神保町画廊で開催している兎丸愛美・塩原洋写真展『しあわせのにおいがする』を観に行った。オープンが13時からだったのでちょうど映画を観終わって渋谷から歩いていくとちょっと前に着く感じだったので地図マップを出して歩き出した。傘がいらないぐらいの微妙な雨、アスファルトが濡れてどこか歩いていると心地よい。ただ、その小雨も2時間ほど歩いていたらびちょびちょにはなる。


明治通りを真っすぐ進んでいってラフォーレ原宿と竹下通りを通り過ぎる。そこから神宮前と千駄ヶ谷方面に向かっていくとまえにも来たことがある場所に出た。河出書房新社の近くだ、ということは新国立競技場が見えてくるだろうと思ったら見えた。競技場の横をS字みたいな感じで進んでいくと明治神宮外苑と球場を通り向けて信濃町方面へ。そこから四谷方面に向かうと途中には赤坂御所になり、一度も通ったことのない御所横をのんびり歩く。

BGMはずっとサカナクションの『懐かしい月は新しい月』のリミックス、から『834.194』という流れ。基本的にはリミックスが好きでトム・ヨークのソロ『ジ・イレイザー』もリミキシーズのほうが心地よい。

四谷から市ヶ谷、さらに九段下と皇居の北側を歩いていく。東京の空虚な中心。その中心を守るための鉄の外濠としての環状線、とてもそのリミックスされたサウンドが合う。九段下では普段見たことのない、歩いたことない場所から靖国神社が見えた。
東京五輪の本丸である新国立競技場、明治神宮、赤坂御所、皇居、靖国神社、まさに東京の中心。そして山手線の中は歩いてみると駅同士が近く、大事なものが中央に固まっているのがよくわかる。

途中で昨日原稿を送った「予告編妄想かわら版」の確認のメールが届く。確認して返信しながら進んでいくと神保町に入る。返信した編集者が務めている小学館が見てきた。兎丸さんと塩原さんの写真展の最初に時に行っていたのでほとんど近い場所まで来たのがわかる。アプリが示す方へ向かっているとタバコ屋が見えてきた。
インスタでタバコ屋のおじちゃんが写真展を観にきてくれたと兎丸さんが書いていたのでほぼこの辺りだろう。

オープンの少し前だったので近所をぶらぶらして書店に入ったりして時間をつぶす。13時を少し過ぎてから神保町画廊に向かって中に入る。白い壁に展示された写真であり作品が飾られている。他にはお客さんがいなかったのでじっくりと見ることができた。
兎丸さんのヌードは剥き出しの魂というか、いのちだなって感じがしてとてもキレイであり、やさしい。
海辺に全裸で立っている横の写真をいちばん長く見ていたような気がする。笑っている表情も素敵だけど、兎丸さんのその凛とした、まっすぐな瞳は鑑賞しているはずの自分が見透かされているようであり、なにかを問いかけられているような、そんな気がする。
見終わって外に出ても小雨のままだった。そういう時外に出ていくと一気に体感が下がって生きてる感じがする。さすがに帰りは神保町駅に乗って帰ったけど、渋谷で降りて歩いて帰った。もうすぐで20キロになるので家についてから買い物に行ったりしてなんとか20キロ越えるまで歩いた。


5月14日
朝からリモートワークなのでradikoのタイムフリーでいくつかの番組を聴きながら作業。二日前の12日深夜にオンエアされた『佐久間宣行のオールナイトニッポン0』はゲストがジェーン・スーさんだった。
テレ東でスーさんのエッセイをドラマ化した『生きるとか死ぬとか父親とか』のプロデューサーでもある佐久間さんという関係性。そしてお互いにラジオパーソナリティーでもあり、会社員経験があることも作家性というか創作に関して大きく影響していて、その言葉がリスナーに響くんだなってわかる会話だった。
男女でのやりとりでスムーズに流れながら、いい相槌のような会話の交代があってこのコンビすごくいいなと思った。一年に1回ぐらいお互いのラジオゲストで出て近況報告がてら話をするのをやってほしい。


仕事中に「monokaki」の連載『ことばと相談室』でイラストを描いてもらっている漫画家の西島大介さんから電話があった。午前中にイラストを描いてもらうための原稿についてメールをしていたのでそのことかな、と思ったら違う用件だった。
西島さんとはしばらくお会いしていないが、半年に1回ぐらい電話をしているような気がする。西島さんは漫画家でもあるし、今は自作をネットで出版販売していたり、海外にでも翻訳されて発売されていて表現に関してすごくアクティブだし、新しいことをどんどん試している。
双子のライオン堂から出版されている『電子と暮らし』という本にはそのことがわかりやすく書かれていて、今創作や表現をしている人は読んでおくと今よりももっと動きやすくなったり、考えが広がるんじゃないかなって思う。
1時間ぐらい用件から展開したはなしについて近況について電話で話をした。西島さんも思いついたことを誰かに言うことで反応であったり、自分の中で考えを固めたりしている部分もあると思うけど、こういう時に話を聞かせてもらえるのはありがたい。


5月15日f:id:likeaswimmingangel:20210522234426j:plain朝起きてから散歩がてら代官山蔦山で歩いていく。池尻大橋の246前に出るまでの緑道にはペットの散歩とランナーがかなりいた。緊急事態宣言という感じはもうない。そんな意味のないものは無視するという市民からの無言のデモとしての日常生活がそこにはある。そこだけではなく、東京中がそうなっているのだろう。東京オリンピックを遂行しようとすればするほどに、無言のデモは続き、左右であろうがどちらでもなくてもマスクをして距離を取りながらそれぞれの生活を送るだけだ。

代官山蔦屋に着くとお客さんはいつもの土日な感じで、外のテラスというかテーブルとイスのところではスタバで買ったものでお茶をしていたり、積み上げた本とノートパソコンを広げている人や、ベビーカーを横に置いた若い夫婦と子供とか、ペットを膝に乗せたマダムとか、海外から来たんだろうなとわかる人なんかがそれぞれの休みをたのしんでいた。
店の中に入って、スタバがあって旅行や食事関係の書籍が置いてあるフロアで、前日に駅前の書店で見かけた時に気になった書籍である井川直子著『シェフたちのコロナ禍 道なき道をゆく三十四人の記録』を購入。いい装幀だし、今まさに飲食店は大変な時期であり、まさかの禁酒法時代のような東京でシェフたちはどんなことを考えているのか知りたいと思った。ニコラの曽根さんとは話をするけど、他のお店の人達はどんな思いで今を生き抜いているのかをただ知りたかった。

総括・「シン・エヴァンゲリオン劇場版:||」──長すぎた戦後アニメ思春期の終りによせて(前編)【平成後の世界のためのリ・アニメイト 第8回】


総括・「シン・エヴァンゲリオン劇場版:||」(後編)──真希波・マリ・イラストリアスはなぜ昭和歌謡を歌い続けたのか【平成後の世界のためのリ・アニメイト 第9回】


ユートピアの終焉』の原稿〆切日なので朝から執筆。お昼の休憩中に原稿を見てもらっている編集者で分筆者である中川大地さんの『シン・エヴァ』論を読む。前後編とかなりのボリュームだが、なるほど評論としてわかりやすく、違う事柄(『いだてん~東京オリムピック噺~』の金栗四三)をフックにして始める。そこで時間の軸や終焉までかかった時間の長さが読み手に伝わる。

友人の鎌塚くんのエッセイが原案の漫画『僕はメイクしてみることにした』(糸井のぞ著)が始まったと「ナタリー」で知る。

Voce』でメンズメイクについてエッセイを書いていたけど、こういう形で漫画化されるとより多くの人に広まっていくだろうなと思うし、すごくいい展開だ。



5月16日f:id:likeaswimmingangel:20210522234728j:plainアップリンク渋谷がもうすぐ無くなるので、最後の記念に大島渚監督『愛のコリーダ』をば。『愛のコリーダ』や『戦場のメリークリスマス』もフィルムの権利や保管等々でこれから劇場で観ることは難しくなるかもしれない。また、『愛のコリーダ』は内容的にも上映すること事態がコンプラ的に難しくなるかもしれない。プラプラプラプラな世界だが、インテリがきちんとしてこなかったツケだとも思えなくはないが。

アップリンク自体も映画制作環境に似たような諸問題が起きて、明らかになってからあまり行かなくなった所にコロナ禍の世界になってしまった。アップリンク渋谷でいちばん回数を観たのは『アンザー・ザ・シルバーレイク』の三回だと思う。
02年に上京してから東京に住むたのしみのひとつは間違いなくミニシアター(単館系)映画をリアルタイムで観れることだった。中でも渋谷には多くのミニシアターがあったから、自然と渋谷に行くことが多くなった。その中の多くはすでに姿を消した。僕はこれから『アンザー・ザ・シルバーレイク』や『愛のコリーダ』の名前を見るたびにアップリンク渋谷のことを思い出すんだろう。

藤竜也さんのあの色っぽさはなんだ。身震いするほどの艶やかさ。そして、松田英子さんのしなやかでハリのある美しい裸体が醸し出すもの。ふたりが演じた吉蔵と定が交わっていくその刹那だけがすべてであり、永遠の快楽がそこにある。
セックスという単語ではけっして表現できない男女の交わり、まぐわっているとしか言いようのないものがスクリーンに終始映し出されていた。二人の体を流れる汗、唇からこぼれる精液、指についた経血、互いの汗腺から漂う愛欲と欲情。
まぐわっている男性器と女性器は雄弁に語るように出し入れが続いていく。ただただまぐわっている。それだけがすべてでそれ以外はいらないふたりだけの世界、ただただまぐわい、肉体からあふれるすべての汗や精液や経血や愛液が流れ落ちていった。
着物って日本的な衣服であって、明治維新以降に西洋の常識とかを取り入れたことでそれまでの日本的な性的な関わりなんかは野蛮だと消えちゃっていったと思うんですが、着物自体は非常に日本的な性交とも深い関係があったんだろうなと関係ないことも思ったりした。


5月17日
佐藤究インタビュー「話題の『テスカトリポカ』。古代アステカの人身供犠と現代社会のダークサイドが浮彫にした人間の本質とは?」
インタビュー・構成: 瀧井 朝世

佐藤 ブラックだったりグレーだったりする人も悪人とは限らない。ただ、資本主義のなかで生き残ることだけを考えている。これをフランスの哲学者のピエール・ルジャンドルはマネージメント原理主義と呼んでいますね。話せば普通だし、誰かが怪我すれば助けてくれるような人でも、とにかく原理主義なんですよね。現代に生きていると、みんなレベルの差はあれマネージメント原理主義の部分がある。そのトップに麻薬王のような人間がいて、下のほうに宇野矢鈴のような人間がいる。

 ただ、彼女は、そこに巻き込まれる善人として出したわけではないです。今、巷でたくさんドラッグの問題があるじゃないですか。芸能人のコカインくらい別にいいじゃないかという人もいるけれど、その裏でメキシコでとんでもない麻薬戦争が起きている。そうして人が死んだ結果、パッケージに入ったドラッグが日本にも届いているんだってことは伝えないといけないと思いました。

 麻薬じゃなくても、自分が買っている商品が、いろんな問題を抱える経路をたどってきたものだったりしますよね。そういうことに対しての想像力を与えるのがフィクションのひとつの仕事でもある。コカインをやったからって人格までは否定しないけれど、どんな人間にお金が流れているのかとか、そういうことは知っておいたほうがいい。それを知っていると、その道に踏み出さずに済むというのもありますから。


――読むうちに、彼らはそんなにお金を儲けてその先に何があるんだろうと思ったんです。何かのためにお金を稼ぐのでなく、金儲けが自己目的化している、それが今の資本主義なんですね。

佐藤 おっしゃる通りだと思います。昔、サッチャー新自由主義以外の選択肢はないという言い方をしていましたが、善悪に関係なく「このゲームに勝つしかない」「だからどんな手を使ってでもお金を儲けよう」、そう考える人が、現実にいる。

 厳密には後期資本主義って言うらしいですね。前期資本主義では労働者がいて工場長がいてその上に資本家のオーナーがいた。今は、SNSもそうですけれど、みんながマーケターとか、CMプランナーみたいな発想になっているじゃないですか。知り合いの社長が言ってましたけど、最近は若い人たちのビジネスの考え方がエグいらしいです。金さえ儲かればそれでいいという。迷惑系YouTuberとかもそうですよね。

 文学のような美学に属する分野でも、普通にマーケティングという言葉を使う人がいる。リサーチをしてどう売るか考えるのは間違いではないけれど、そういうことに何の恥じらいもない人が、老いも若きも、すごく多いですよね。数の力で勝つことが目的で、それ以外はもう敗北という発想を植え付けられている気がします。それはもう、マネージメント原理主義ですよ。


佐藤 これに集中するために、他の仕事をお断りするじゃないですか。他の作家に「そういうの、怖くないんですか」って訊かれたんですよ。みな仕事を断ること、忘れられていくことに対する恐怖感がすごくあるし、人の目をすごく気にしている。僕はどっちかっていうと忘れられたいほうなんですよ。「佐藤究って奴がいたけどあいつ今どうなったのかな」みたいに言われたい。でも、小説でも音楽でも、資本主義のなかで勝ち上がるのが正しいっていう風潮がありますね。実際、ある程度生活はできたほうがいいんでしょうけれど、僕は自分の作家としての人生設計なんて本当にどうでもいいんです。

 どっちかっていうと、物書きってドロップアウトして何もやることがない人間がなってきたものだと思うんです。エドガー・アラン・ポーが原因不明の野垂れ死にをしたとか、ハーマン・メルヴィルがずっと食えなかったとか聞くと興奮しますね。僕は、さっきも言った丸山ゴンザレスさんとか、ルポライターで漫画家でもある村田らむさんといった、一見すると無謀なことをしている人たちに昔の作家のオーラを感じます。飄々としながらも、酷いものをたくさん見てきている。どん底を知っている人たちは自然と他人に優しくなるんだなと、彼らから学びましたけど、僕の中の作家って、そういうイメージです。

本当は『テスカトリポカ』発売時に「monokaki」で佐藤さんにインタビューしたかったんだよな、瀧井さんがされているような深い内容は聞かなかったと思うけど、佐藤さんの話を直で聞けたらよかったのに、と思えるインタビューだった。佐藤さんは山本周五郎賞(祝)ですね。

朝晩とリモートワークをしながら、ちょっと気になっていた円城塔脚本の『ゴジラS.P<シンギュラポイント>』をNetflixで流しながら作業。主人公の眼鏡男子が『銀魂』の主人公にしか見えないのけどワザとなんだろうか。話はめっちゃおもしろい。ラドンが空飛びまくってるところまで。


5月18日
Paraviの『かんがえすぎちゃん』#15「人生の転機について考えすぎちゃん」中編を見る。クリーピーナッツのDJ松永のDJの師匠であるDJ CO-MAの話をしていた。
農家の長男である彼は米を作り、年中野菜を作りながら日が暮れてからDJの練習をして2006年の世界チャンピオンになった人だった。そこに高校を辞めてから弟子入りのような形で教わったのが松永であり、その話をしっかりしていてすごくいい回だった。
師匠が世界チャンピオンだったからこそ、松永には世界が近く、手に届くかもしれないものだと思えた。まず、そう10代の男子が思えたことは素晴らしいし、とてつもなく大きなことだ。師匠はすでにDJは辞めているが米作りで日本一になっているという。芸人でも師弟関係がなくなっている現在に、こういう話を聞くと師弟関係というのは人が合う合わないもあるのだが、やはり人生に大きな軸ができるという意味で大きなものなんだと思った。

『大豆田とわ子と三人の元夫』#6「第一章完結・全員集合地獄の餃子パーティー」 


前回の終わりでスカパラ社長とどこかへ消えてしまった主人公の大和田とわ子(松たか子)。彼女の誕生日にあつまった元夫たち(田中八作:松田龍平、佐藤鹿太郎:角田晃広、中村慎森:岡田将生)、そして彼らと関係のある(好きだったり、好かれていたり)女性3人(三ツ屋早良:石橋静河、古木美怜:瀧内公美、小谷翼:石橋菜津美)がとわ子と娘の唄がいない家にとわ子の父(岩松了)に呼ばれてやってくる。父はソッコーで酔いつぶれ、六人で餃子パーティーが始まるが3人それぞれの相手への不満や思いを言い出すことになる。

一度全員がペアで家から出て別れたあとに八作がタクシーを拾うために通りに一緒に歩いていく鹿太郎と美怜の背中を見て、「二人共ちゃんと向き合うって言ってました」と口にすると、

早良「もう遅いよ。どこを好きだったか教える時はもうその恋を片付けるって決めた時だよ。せっかく自分だけが見つけた秘密だったんだから」

ああ、なんつうセリフを。坂本さん! 
すげえな、こういうセリフをここでぶちこんでくる。坂元裕二脚本『カルテット』同様にワンクールの途中で「章」が変わるというスタイルになっていて、今回で物語は大きく動いていくことになった。
亡くなった友達の家に行って、冷蔵庫に残されたもので料理をして食べるということはまさに供養だなと思うし、そういう丁寧な描写がふたりの関係をより強く伝えることにもなる。そういう描写がほんとうに沁みる。僕が今急に心肺停止なんかで死んでしまったら最初に見つけてくれるのはニコラのふたりなのかな。
物語は最後に一年後に飛び、朝のラジオ体操で新キャラとしてオダギリジョーが登場。彼がどんな風に物語に関わっていくのか、『カルテット』で言えば真紀(松たか子)の行方不明になっていた夫の幹夫(宮藤官九郎)のようなポジションかもしれない。また、同じく坂本脚本『花束みたいな恋をした』でもオダギリジョーは途中から登場してきて絹(有村架純)の人生を変えるきっかけをもたらしていた。スパイスとしてオダギリジョーは投入されている。第二章からどうなる?


5月19日f:id:likeaswimmingangel:20210522235603j:plain夕方までリモートワーク。そのあとに読みかけだった井川直子著『シェフたちのコロナ禍』を最後まで読み終える。

インタビューをうけた34店舗の店主たちのコロナ時代の飲食店の覚悟と店を続けていくこと、お客さんとの関係性とその店がある場所や地域のこと、そして生産者の人たち、お店に関わる人へどんな思いを抱きながら戦ってきたかという記録。
まだ、コロナ禍は収束しそうもないし、政府や各都道府県の遅い対応などもあって以前以後ではやはり変わってしまうものもあるし、中には廃業を決める人もいる。
禁酒法時代になってしまった今の東京、生きるために必要なものがなにか、上から制限されたりしないといけないものなのか、夏のオリンピックの開催か中止どちらになろうとも決めるべきを決めずに国民に多くの犠牲を強いてきた人たちはその反発をさせないために、より強固な施策をするのか、それに歯向かっていくのか。すべてはこれから。

資料として買った『ウーバーイーツ配達員ヘロヘロ日記』はまだ読めていない。一度もウーバーイーツを使ったことがない。どうも食事を運んでもらうということになにか申し訳ないという気持ちが出てしまう。どっちかというと運ぶ側だしなって思っていることもあるんだと思うのだけど。

『「女性向け風俗」の現場』は文春オンラインの記事を読んで興味が出たので買って読み始めた。これ正直ドラマ化できると思う。きちんと監修とか入れれば、特に女性側が感じている性の問題や男性がアダルトビデオでそれが当たり前だと思いこんでいることを払拭できる可能性もありそう。テレ東深夜ぐらいでやったらいいんじゃないかな。


金鳥の渦巻 太巻「いいもん」篇

ニコラで何度か会って知り合いでもある役者の藤江琢磨くんが「金鳥の渦巻 太巻」のCMに出ていた。昔っぽさもある意味ありげなやりとりをするCMですごくいい。
藤江くんいい顔してる。いよいよブレイクしそうだな、きっとするんだろうなと思う。浅野忠信さんが出ているルシードのCMにも出てたし、どんどん出ていてすごい。MVもメインどころで出ているのできっと映画やドラマ、舞台でもこれから大活躍するはず。

LUCIDO(ルシード)公式CM ニオイケアシリーズ「ギターショップ」篇30秒


Sunny Day Service - 春の風【Official Video】


羊文学 "ハイウェイ"(Official Music Video)



5月20日f:id:likeaswimmingangel:20210523000057j:plainf:id:likeaswimmingangel:20210523000106j:plain数年ぶりに友達と東中野で会うことになり、電車に乗るは気がすすまないので徒歩ででかけた。池ノ上や東北沢方面に向かっていくと甲州街道に出る。

専門学生時代は明大前に学校があったから馴染みはあるけど、今はほとんどいくことがない。『花束みたいな恋をした』の主人公のふたりは甲州街道は明大前から調布駅のパルコへ向かって歩いた。当時は柴崎に住んでいたのでその辺りの甲州街道は知っているから昔とリンクした。当時の柴崎のゲーセンバイト時代からの友達に会うので、甲州街道の先へ意識が少し向かった。
幡ヶ谷と初台を経て、中野通りで中野坂上東中野に向かっていると途中で神田川を越える。毎年元旦に神田川沿いを歩いているので、一瞬デジャブかと思うような気がして、一度立ち止まって周りを一周して見て、いつもの場所だとわかる。神田川をそのまま右に進めば高田馬場に出るところだ。
まっすぐ通りを北上すると東中野駅の西口に出る。1時間40分ぐらいで7.5kmほどの距離。ちょうどいい運動。東口で待ち合わせして、ランチをやっている居酒屋さんに行き、ほっけの定食を食べて、そのあと近所の喫茶店でお茶をした。コロナ禍で影響を受けていない人はいないし、それぞれの仕事や環境が大きく作用してくる。もちろん、今だけじゃなく、これからどうするかということもみんな考えている。話は尽きないけど、また合う約束をして15時過ぎに解散した。さすがに帰りは渋谷までは電車に乗って、渋谷からまた歩いて帰った。

f:id:likeaswimmingangel:20210523000146j:plainニコラで「飯山産グリーンアスパラ 温泉卵と白トリュフオイル」をば。ちょうどグリーンアスパラが届いたばかりだったみたいで、カウンターに座ってちょうど見える調理場のところに長くて立派なグリーンアスパラがたくさん見えたので食べようと思った。去年も食べてほんとうに美味しかったので、そのイメージが強烈に残っていた。また今年もそういう時期なんだと思うとやっぱり食べたくなる。ワインとかのほうがいいんだろうけど、今はアルコールを出せないのでノンアルコールの白ワインと一緒にいただく。これもすごく料理と合った。
グリーンアスパラガスの青いあの感じに歯ごたえ、温泉卵につけるとマイルドにもなるし、子供の頃はベーコンに巻いたものしか食べてなかったしそこまで美味しいと思えなかったけど、大人になってからアスパラガスは好きになった。やはり味覚が変わったりする。
旬のものを食べるということの贅沢さもあるし、年中作れてもその作物の旬というものはあるから、それをその時期に食べるのってやっぱり大事なことだ。お店で食べることの意味もコロナ禍でだいぶ変わってきている。ちょうど井川直子著『シェフたちのコロナ禍』を読み終わったばかりだったので、なおさら。


5月21日
朝からリモートワーク。作業中はずっとradikoで「ジャンク」と「オールナイトニッポン」の寝て聞けなかったものを流しながら仕事をしていた。
星野源さんと新垣結衣さんが結婚してから、どちらの曲も「星野源」に関係する曲をお祝いとしてかけまくっている。どんなに愛されてるんだ、と思う。
星野源さんが出演していた園子温監督『地獄でなぜ悪い』にはエキストラで参加しているが、僕がいったのは冒頭での國村隼さんが敵対する堤真一さんの組に乗り込んでくるところだったので、僕が観た俳優さんはそのお二人だった。のちに園さんと水道橋博士さんによるお笑いライブの打ち上げに行った時に星野源さんもいらしていたが、周りは埋まっていたのでお話はできなかった。その場所には漫画家の古谷実さんもいて、すごいメンツだったのだなと思い出した。

「ひとりクレイジーキャッツ」として、音楽に役者に文筆業で活躍し、そして国民的な女優をパートナーにしてしまった男、「大人計画」第三の男、エンタメを統べる王になる資格はもう十二分にある。二度死にかけても蘇ってきた。それだけで、「英雄神話構造」の英雄物語王道のストーリーを実際に生きている。この王国はいかに続くのか、あるいは対になるようなライバルがいつか現れるのか。そんなことも思う。
しかし、あまりにもみんなが祝福する感じが強すぎて、腐すとその「祝」のベクトルが逆の「呪」となって襲いかかってきそうな感じがする。有村昆のクイズとちんこ出しただけなのに一気に叩かれることとは真逆であることについて、神田伯山師匠も『問わず語りの神田伯山』で言っていた。

星野源 - くだらないの中に(Live at Osaka Jo Hall 2016)


f:id:likeaswimmingangel:20210523000313j:plain渡辺雅史著『ウーバーイーツ配達員ヘロヘロ日記』を読了。TBSラジオ爆笑問題カーボーイ』でこの本の話をしていたので、書店で見つけたら読もうと思って先日買っていた書籍。
ウーバーイーツを頼んだことがないので、ほんとうに謎というか不思議だった彼らの実態というかシステムもわかった。しかし、働きたい時に働けるというシステム、しかし、いきなり実践という部分もあったりして、それでお客さんに怒られたりトラブルに遭ったりするのはわりと運とかの要素も大きそう。その人が慎重な人が気が利くかどうかもあるだろうけど、腹が減った人間はキレやすいという時点でトラブルの種はゼロになりようがない。
ウーバーイーツのバッグでロゴをテープとかで消している人がたまにいるけど、その理由とかも書かれていてなるほどなと思った。いかに配達の仕事を取るかという意味でも稼げる人や稼ごうと思う人はどんな世界でも頭を使っている。
一度ぐらいは頼んでみたいけど、配達員の実態を知るとちょっと僕には無理だなと思ってしまった。絶対に事故るかトラブルに遭う予感しかない。

ユートピアの終焉――あだち充と戦後社会の青春』の今月分の原稿は出したが、6月は執筆に集中したいので来月の準備も早めにするスケジュールを組んだ。
今月末に原稿はいったん初稿は書き上げるとして、久しぶりに取り上げる作品の『いつも美空』を読んだ。長期連載と長期連載の間には、『虹色とうがらし』が前にもあったが、この『いつも美空』も非常にポジションとしては近い。わりと地球の環境問題とかが出てきたり、わかりやすい適役がいたりする。また、『虹色とうがらし』の世界観が『いつも美空』ではスクリーンやテレビのブラウン管に映るというように作品内の作品という感じで使われている。
一回通して読むと『虹色とうがらし』との関連や共通点が浮かぶし、第4の壁を越えて、読者に語りかけていることなども言及できそう。また。この作品では「超能力」が出てくる。連載は2000年から2001年だが、その連載中には堤幸彦演出による『TRICK』の「第1シリーズ」が放映された。世紀末であるこの年で彼らが描いた「超能力」はこの時期から一般化していく「インターネット」とほぼ同意義であったとも言える。
TRICK』は「第3シリーズ」まで制作されるが堤演出でTBSで『SPEC』が放映されることになるが、そこでは「SPEC」と呼ばれる特殊な能力を持つ者同士の戦いになっていく。『TRICK』では超能力者はいないと主人公ふたりが見破っていくが、その一人の山田がほんとうは超能力者であるとことがわかり、物語はカオティックな展開になっていくが、それを引き継いだのが『SPEC』だった。
いつも美空』に関しての原稿では、『TRICK』と『SPEC』について取り上げながら。世紀末的な空気感と「超能力≒インターネット」の一般化と肥大化(グローバリゼーション)について書ければいいのかなと思った。

寝る前にフォークナー『響きと怒り』の第三章「一九二八年四月六日」を読み終える。前の二つの章と比べるとやけに読みにくい印象。
作中に同じ名前の人物が出てくる。コンプソン家の長年だったクェンティンは第二章のところでハーヴァード在学中に焼身自殺している。その弟である次男のジェイソン四世が主人公である第三章では、クェンティンの妹であり、ジェイソンの姉であるキャディの生んだ娘が伯父であるクェンティンと同じ名前で登場している。そんな風に一族で同じ名前のものがいたりするので読んでいると知らずに迷宮に迷い込むような、ゲシュタルト崩壊していくような不思議な感覚になる。
フォークナーもそうだが、ガブリエル・ガルシア=マルケスもある町を舞台にしており、そこでの一族の繁栄と滅亡を描いている。どちらも読んでいくと混乱してくるものがあるのだけど、同時に世界はほとんど個人の主観でしかなく、歴史とはその語り部の書き残した人間の主観によるので正確な歴史というものは存在しない。すべては偽史である。しかし、偽史も精度の高いものから低いものと幅はもちろんある。
ジャーナリズムの側の人間は幾人もの証言や資料をもとにそれを掘り下げてできるだけ精度の高いものを作り上げることで、その社会性と意義、後世へその次代を伝える事ができるし、そうすべきだと思う。ただ、フィクションや小説は正しさではないもの、しかし、その創作のなかにおいて大事なものを掘り下げて一族やある人物を抽出して表現していく。


5月22日
村上春樹さんの海外でまとめられた短編集が逆輸入する形で単行本になった『象の消失』を今月頭から読んでいた。そちらが終わったので、『めくらやなぎと眠る女』を読み進めている。こちらに収録されている『トニー滝谷』は『ねじまき鳥クロニクル』にも少し繋がっている短編なので、去年『ねじまき鳥クロニクル』を再読する際に『トニー滝谷』など関連する短編などは読んでいたが、違う短編集に入っていて読むと読み味というか読後感がだいぶ違って感じられた。


 並んでベンチに座った二人の修道尼だけがきちんと黒い冬の制服を身にまとまっていた。それでも二人はとても楽しそうに話し込んでいたので、彼女たちの姿を見ていると、夏なんてまだずっと先のことのような気がした。

『めくらやなぎと眠る女』に収録されている『螢』をかなり久しぶりに読んだ。
引用した部分を読んだ瞬間に「佐藤泰志」の文体みたいだな、と思った。『螢』が発表された頃には『きみの鳥はうたえる』は単行本になっているから、影響されたというよりは当時の彼らの空気感や感じていたものが近かったのかな、と思う。同じ49年生まれの二人は当時まだ30代前半であり、『きみの鳥はうたえる』の単行本が出たのは僕が生まれた年の生まれた月だった。
佐藤泰志は自殺により、自ら命を絶ったが作品集が出てから再評価が始まり、作品が映画化されたことで、2010年以降に映画をきっかけにそれまで知らなかった僕のような読者が新しく読みはじめた。
ずっと第一線で書き続けてきた村上春樹さんがすごいのは間違いない。だけど、死んでから評価されるぐらいなら、死ぬ前に評価してあげないとさ、と思わなくもない。
そこはただ「運」でしかない、「運」は「運」でしかないが、それがあるかないかで人生はまるで違ったものになる。
今現役の作家で40年後に読まれている作家って誰なんだろうな、その頃には「日本」があるかどうかもあやしいけど。


5月23日
NHK『今ここにある危機とぼくの好感度について』と菅首相の危機と好感度について

第2話放送後、大学の偉い人がこのドラマを観て「世の中には茶化していいものとわるいものがある。天下のNHKが大学の権力を茶化すことは許さん」などと怒りまくって「そういった考え方こそが風刺されてるのでは?」と周囲をあきれさせたという都市伝説も流れてきた。

最後には内部告発した非正規の研究員木嶋みのり(鈴木杏)のセリフ「ほんと権力持ってる人って、見下してる人間に対して想像力がないよね」で締めていて見事。

土曜ドラマ】今ここにある危機とぼくの好感度について(4)

https://plus.nhk.jp/watch/st/g1_2021052231630?t=827

前回は「あいちトリエンナーレ」を彷彿させ、今回は「謎の虫刺され被害が続出した」というコロナ禍の現在を違う形で描いている。『ワンダーウォール』から続く今の社会のあり方を大学を舞台に表出する凄さ。


今月はこの曲でおわかれです。
Mukai Shutoku Acoustic & Electric - Omoide In My Head / 自問自答 April 22nd, 2021



古川日出男著『ゼロエフ』刊行記念の大盛堂書店さんのオンライントークイベント有料配信中(配信期限は6月末日予定)です。まず単行分の『ゼロエフ』を読んでもらえれば、と思います。
去年夏の国道6号線と、晩秋の阿武隈川を同行させてもらったことについて古川さんとお話させてもらってます。

『テレビドラマクロニクル 1990→2020』

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3月27日
成馬零一著『テレビドラマクロニクル 1990→2020』が届いた。連載時からいつも読んでいたものが一冊に。
目次を見ると第1章の最初は「野島伸司とぼくたちの失敗」から始まり、第3章と第4章はゼロ年代と10年代の宮藤官九郎について。

僕自身が野島伸司脚本に影響を受けて脚本をやりたいと思うようになって、流れ流れて今の状況になっているのでピンポイントで刺さる。そして、ここで取り上げられているメインの「野島伸司」「堤幸彦」「宮藤官九郎」が活躍していた時代とは僕らが思春期のころから始まっている。そこから四半世紀を経た現在までの社会との状況と問題にリンクしながら彼らは物語(ドラマ)を描いてきた。
昨日、最終回だった宮藤官九郎脚本『俺の家の話』は一つの到達点に達した。主演の長瀬智也が表舞台から消えることとリンクしながら、見えるものと見えないものを同時に表現していた。そもそも長瀬智也とほぼ同年代であり、『I.W.G.P.』放送時にほぼ二十代前後だったのが僕らであり、ロスジェネの最後尾に位置していた。
クドカンドラマの長年のアイコンのひとりであり、クドカンのある種分身でもあり、ジャニーズのアイドルであり、圧倒的な花をもつ役者が長瀬智也だった。その彼がドラマの中において、いるけどいなくなってしまった。役者としては表舞台からマスクを脱いで去っていった。

木更津キャッツアイ』のぶっさんが余命わずかで死ぬことだけは決まっていたのにレギュラードラマの中では死ぬシーンが描かれずに、それ(遊び足りない青春)がずっと先延ばしされていた。そこから20年近く経って「平成」から「令和」になった2021年に『俺の家の話』で寿一は終われなかったぶっさんとは決定的に違う描かれかたをした。その「終わり」について、どうしても26年を経て終わった『エヴァ』と重ねてしまう自分がいる。
そう、僕らの、ロスジェネの青春は終わったのだ。いや、終わったことに気づかないフリをし続けた、その惰性の年月から目を覚ます時が来たのだと言われているようにも思える。かつて僕らに夢を見せてきた創作がその夢から醒させる装置となって。


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4月11日
『テレビドラマクロニクル1990→2020』の第四章「2010年代の宮藤官九郎ーー東日本大震災後の日本社会をめぐって」を読んでいると当然ながら『あまちゃん』について語られるのだが、放送年の大晦日紅白歌合戦における本当の最終回としての157回はきちんとNHKオンデマンドできちんとアーカイブされていた。
能年玲奈がその名前を奪われてるわけだから、震災10年後に『あまちゃん』は復活することはできなかったんだろうな、ふつうに考えたらやるだろうし。
しかし、「のん」となった彼女はリアル『千と千尋の神隠し』を体現してるんだけど、『あまちゃん』における「アキ」は物語では「シャドウ」の役割を担っていた。それを演じていた彼女は「能年玲奈」であるのに「のん」として生きているわけだから、もはやどちらが「シャドウ」なのか。この混乱は日本の芸能界の問題だけど、『あまちゃん』における80年代を代表するアイドルだった小泉今日子が「のん」の活動を後押ししていく。芸能界の転機のひとつではあったんだろうね。

著者の成馬さんが書かれていたけど、『タイガー&ドラゴン』はクドカンの第一期集大成であり、虎という現実(の生き物)と龍という妄想(の生き物)を現実と落語でうまく構成していた。『木更津キャッツアイ』では野球の表と裏で、『あまちゃん』では三陸(海女)と東京(アイドル)の構造になっている。NHK紅白歌合戦での『あまちゃん』の真の最終回はフィクションであるドラマが現実と混ざる。境界線を越えてくるからこその感動がある。
クドカン作品に出てくる幽霊やある人にしか見えないもの、それは境界線を行き来する表現なんだと思う。
目に見えるものと目に見えないもの。『ゼロエフ』で古川さんが書いたものもまさしくそうだった。だから僕は本を読んだときに『ゼロエフ』に書かれたあの存在はあの時確かに僕らと共にいたのだと思えた。


成馬零一著『テレビドラマクロニクル 1990→2020』読了。「PLANETS」の先行発売で購入したので、書店での発売は23日ぐらいから。
この本においてメインで取り扱われているのは「野島伸司」と「堤幸彦」と「宮藤官九郎」であり、僕がリアルタイムで見続けてきた人たちだ。そのため、ここで書かれている批評に頷きながらも自分のことも思い出していた。

そもそも僕は1995年の野島伸司脚本『未成年』に強く影響を受けて脚本家になりたいと思ったのがそもそもの間違いであり、まさに「ぼくたちの失敗」でもあった。
当時の中二の僕は勉強なんかまったくしていなかったのもあって、『未成年』のラストでモチーフにされた連合赤軍的なものや浅間山荘事件すら知らなかった。この時点で野島伸司は臨界点を迎えていた。同時に擬似家族や仲間内の共同体における暴力が内側に向かえば内ゲバに、外側に向かえばテロになることを描いており、同時代におけるオウム真理教的なものも内包していたと言える。その後、ゼロ年代以降になれば擬似家族的なものを巡る物語は増えていくのだが、野島伸司はその嗅覚によってそれを描くことでどこにも行けなくなってしまった。

僕は『未成年』以降の野島伸司脚本をただひたすら楽しみにしていた思春期を送り、次第に世間とズレていく野島伸司へ違和感をあまり感じずに崇拝していた。野島伸司教と言ってもいい、そのひとつの到達点が『世紀末の詩』だった。
もう、自分の作品を好きだと言ってくれる人にしか向けて書かれていないこの宗教的な作品が当時の僕は大好きだった。『世紀末の詩』のあとに構想されていたという『新世紀の詩』は『世紀末の詩』の視聴率の悪さなども相まって作られることはなかったという。だから、当時の僕は脚本家になったら、『新世紀の詩』というタイトルでドラマを書きたいと思っていた。野島伸司も大学中退だし、脚本家になるのだからという安易な考えで大学も一年で辞めたほどに僕はもろに影響を受けていた。
我が家には第二回ヤングシナリオ大賞を受賞した『時には母のない子のように』のビデオテープがあるがデッキがないので見れないが、そのデビュー作のタイトルから、『愛という名のもとに』の浜田省吾、『高校教師』の森田童子、『未成年』のカーペンターズなどを主題歌に使ってリバイバルヒットさせるが、彼もまた庵野秀明とおたく第一世代であり上の世代のオリジナルと自作の距離感が作品に出ていたと言えるのだろう。

野島伸司は70年代的なドラマなどに影響を受けていて、第一回ヤングシナリオ大賞を受賞してデビューした野島より四歳年下の坂元裕二は80年代のノリノリな時代を楽しんでいた青年だった。この差が90年代における二人の脚本家における地位を決めてしまう。
坂元裕二は96年に脚本家を休業し小説家に転向しようとしたが作品は形にならず、女優の森口瑤子と結婚し子供も生まれたこともあって主夫をしていた。そう書くと彼らと同時に活躍しており、小説家としても評価されていたが自殺した野沢尚のことが浮かぶのだけど、この本では触れられてはいない。

だが、野島伸司が時代とズレていく中で、浮上してくるのが一度は脚本家として死んだはずだの坂元裕二だったというのは興味深い。
近年の坂元裕二は『東京ラブストーリー』の人というイメージはもはやない、『Mother』『最高の離婚』『カルテット』という高く評価される脚本を描き、今年には『花束みたいな恋をした』でヒットを飛ばしている。
野島伸司はずっと「母」や女性やパートナーに対する「母性」を求め続けているような作品を書いていた。それは特に詩集などでは顕著だった。
庵野秀明の『エヴァンゲリオン』におけるエヴァンゲリオン自体がシンジの母のユイによって作られて、エントリープラグが母胎でケーブルがへその緒であるというまさに母胎と胎児の関係性であったこととも近い。

戦後における「父性」の問題とも関係しているのだと思う。庵野秀明が『プロフェッショナル』で語ったような自身の父親との関係性はシンジとゲンドウそのものだが、野島伸司も『愛という名のもとに』や『未成年』で父と息子の対立を描くが、どこか「母性」的なものを求めたり、描くことで逆説的に「父性」の問題を描いてしまっていたようにも思えなくもない。

僕は20歳の時に上京して映画の専門学校に入学する。たまたまだが、卒業生で有名なクリエイターは堤幸彦行定勲であり、ふたりともドラマと映画の『世界の中心で、愛をさけぶ』を作っている。坂元裕二は行定監督『世界の中心で、愛をさけぶ』の脚本をしており、そのヒットで映画では初めてに近い商業的なヒットを収めた。

『未成年』が10月クールで始まるそのひとつ前の7月クールからは日テレで『金田一少年の事件簿』が始まる。堂本剛主演でヒロインはともさかりえだった。演出は堤幸彦
KinKi Kidsは同世代であり、『若葉の頃』や『人間・失格』でデビュー前から見ていたわけで親近感があり、漫画でも読んでいた作品のドラマ化を僕はたのしく見ていた。野島伸司企画『家なき子』は81年生まれの筆頭株の安達祐実主演だったが、このヒットにより日テレの土21時は若者向けのドラマが行けると判断され、『金田一少年の事件簿』のヒットにより、『銀狼怪奇ファイル』『サイコメトラーEIJI』『FiVE』『D×D』『ぼくらの勇気 未満都市』など映像的にも当時のPVなどの要素も入れられた視覚的におもしろい作品が十代向けに作られていった。この枠をある種形づけた堤幸彦はその後、99年にTBSで『ケイゾク』を作ることになる。

世紀末が近づいてきたあの頃、サイコサスペンスや多重人格ものが溢れ始めていた。それは世紀末と来るべきインターネット社会の予見でもあったように今では思えるけど、まだネットは一般的にはなっていなかった。
99年に『ケイゾク』があり、翌年2000年に宮藤官九郎脚本で堤幸彦演出『I.W.G.P.』が放送される。明らかにここで日本のドラマの歴史が変わっていくのだが、当時はただめちゃくちゃおもしろいと友達と言い合う程度であり、その後に宮藤官九郎がこんなビッグネームになるとはまったく思っていなかった。
『I.W.G.P.』が重要なのは、脚本の宮藤官九郎とプロデューサーの磯山晶と演出の金子文紀というのちの『木更津キャッツアイ』を作るチームが出会ったこと、『ケイゾク』のプロデューサーの植田博樹と『SPEC』の流れができ、また、堤幸彦は『TRICK』に向かっていく。

野島伸司教だった僕も『I.W.G.P.』を普通にたのしんでいた。徐々にそちらに寄せられていっていたのだが、上京したのは2002年でありその年に放映されたのが『木更津キャッツアイ』だった。
2002年1月クール放送だったので僕は2月ぐらいの途中から上京して残りを東京で見たわけだが、ここではのちに「マイルドヤンキー」と呼ばれる地元で仲良く高校までのカーストのままつるむ仲間たちが描かれていた。
カーストの上位なんかにいなく、下の方で下の方の友人と大学辞めてから戻っての一年の間は遊びながらコンビニの弁当工場で働いていた僕は、その生温いほどよい生活はこのまま続けていたらヤバイとも思っていた。
結局、上京してもモラトリアムを延長させるだけになるわけだが、日本中が「郊外化」していく中で地元は「郊外」とも言えないほどの田舎だったけど、その感触だけは肌感でわかっていた。
そして、ゼロ年代初頭はまだ東京への憧れが存在しており、ようやくミニシアターで何ヶ月も待っていなくても新作映画を観ることができた。それが田舎から上京してきたちょっとサブカル好きな人間には東京にいる、いたい理由にすらなった。それを小説としてきちんと描いたのが山内マリコさんだった。

宮藤官九郎の飛躍と同時に、大人計画やほかの小劇団系の役者さんたちもドラマや映画に活躍の幅を広げていった。当然ながら「大人計画」にも興味を持つようになって舞台を観に行くようになったが、その時点でもチケットがなかなか取れない人気劇団だった。何度か観ることができて、そのたびに主宰の松尾スズキの才能はヤバイと思わされていた。
三茶に住み始めてからは当時、三宿松尾スズキは住んでいたのでよく見かけた。その度に目が合うと「お前は俺のことを松尾スズキだとわかっているな、声かけんなよ」オーラが凄まじかったので一度も声をかけたことはない。

『テレビドラマクロニクル 1990→2020』では宮藤官九郎を取り上げるためにもちろん松尾スズキと「大人計画」についても触れている。旧劇と新劇の違いから70年代の寺山修司唐十郎、80年代の野田秀樹鴻上尚史たち、そして松尾スズキ平田オリザの話もわかりやすく書かれている。
平田オリザにはある種後継者やフォロワーの戯曲家たちがいるが、「大人計画」と「劇団☆新感線」はあまりにも独自な路線でありながらも商業的にも成功しており、真似しにくいフォロワーができにくいという側面もあったという話。
2005年の岸田國士戯曲賞宮藤官九郎鈍獣』と岡田利規 『三月の5日間』が同時受賞している。これは松尾スズキ平田オリザの後継者であるふたりが取ったことでさらにそのふたつの流れが加速していったようにも見える。

『三月の5日間』は一度しか観ていないが、演劇における身体性の流れはあったし、それは小劇場系で続いた。そして、宮藤官九郎がドラマで描くのは「マンガ・アニメ的なリアリズム」とも言えるキャラクター的な身体を俳優に演じさせるものであり、大塚英志が名付けた「アトムの命題」的なものと「アイドル」としてどこか成長しないでほしいと思われているジャニーズ事務所のタレントとの相性もよかった。
もともと松尾スズキ赤塚不二夫に憧れていてギャグ漫画家になりたかった人だった。そういう部分もあるのかもしれない。また、松尾スズキ庵野秀明とも年齢が近いが、父親が早くに亡くなっており、遺伝的に早死にだという強迫観念があった。そこにハゲも加わる。が、松尾スズキはどちらかというと髪は薄いが異様な魅力があって女性にモテる。
「あのお、すごくカッコいいんですけど何をしてる人なんですか」みたいなことを言われたということをエッセイで書いていたがそれもなんとなくわかる。
松尾スズキが描く作品はなぜ生まれたんだ、なんで死んでしまうんだ、世界はこんなにも不条理だという怒りやそこから生まれるエネルギーがエロや暴力となって描かれている。そのせいか、確かに松尾スズキは町で見てもなにかが溢れ出ていた。
大人計画」の異様な存在感は主宰で演劇界における重要人物となった「第一の男」である松尾スズキ、『I.W.G.P.』から日本のドラマ界を変えてしまい、NHKの朝ドラと大河ドラマの脚本を書くことになった「第二の男」である宮藤官九郎、そして、ミュージシャンであり役者でありラジオも文筆もこなす「第三の男」である星野源がいるということだろう。

本書では「SMAP」がいなくなったあとに星野源がその役割をひとりで負っているような存在感を放っているとあるが、星野源菊地成孔が言うように「ひとりクレイジーキャッツ」である方が正しいのだと思う。
戦後日本の芸能事務所の始まりや現在の大手の事務所の創業者がミュージシャンから始まっていること、お笑い芸人やアイドルがテレビを席巻するまえにテレビにおける音楽番組とバラエティの基礎を作ったのがバンドマンだったのはただの事実であり、『おげんさんといっしょ』が原則的に生放送であることもある種のテレビの黎明期への先祖返りでもあるが、テレビの可能性のひとつでもある。ただ、それを民放ではなく国営放送であるNHKでしかできないことが問題なのだろうけど。
星野源というミュージシャンであり役者がいることで「大人計画」は他に類を見ない劇団となっている。

宮藤官九郎はもともとビートたけしに憧れ、『ビートたけしオールナイトニッポン』のヘビーリスナーであったことでビートたけしの相手であった高田文夫のような放送作家になろうと上京して日芸に入ったが、松尾スズキと出会って演劇にいった人だった。
落語を盛り上げたいと思っていた高田文夫宮藤官九郎にパルコ劇場抑えるから三本くらい落語を書いてくれと依頼され、一年後に『タイガー&ドラゴン』の企画書を持ってきた。
宮藤官九郎長瀬智也岡田准一というジャニーズのアイドルが落語をすることで世間は驚くでしょと高田に言ったという。そして、2005年に『タイガー&ドラゴン』は正月SPを一度放送してから4月クールから連ドラが開始された。もちろん落語家さんたちのそれまでの努力や切磋琢磨はあったから土台はできていたのかもしれない。だが、このドラマが確実に現在の落語ブームと客層の変化に影響を与えている。

僕はこのドラマのあとぐらいに連れて行かれて春風亭昇太師匠の落語会を見にいったが、おもしろくなくて全然笑えなかった。観にきている八割は若い女性だったけど、彼女たちはほんとうに面白いと思っているのかは疑問だった。
その後、 ZAZEN BOYS立川志らくの対バン形式のライブがあり、 ZAZENの演奏後に彼らの音楽が出囃子となって志らく師匠の『らくだ』が始まった。渋谷公会堂の満席の客席は爆笑の渦に包まれてわきにわいた。この時、落語ってめっちゃおもしろいじゃんと思った。

立川流は「本書く派」とも言われ、「水道橋博士のメルマ旬報」でご一緒している立川談慶師匠や立川吉笑さんなども著書を書かれているが、立川談春師匠『赤めだか』と立川志らく師匠『雨ン中の、らくだ』が大きかったと思う。志らく師匠は「M-1」審査員を談志師匠同様に落語家としてつとめ、毀誉褒貶はあるがテレビのモーニングショーの朝の顔を務めて全国区となった。
『赤めだか』がドラマ化もされたことで落語人気にさらに追い風を吹かせた。ドラマでは立川談志師匠をビートたけしが演じた。でも、弟子最強説を考えると談志師匠の弟子であったのに辞めてビートたけしの弟子となったダンカンだろうと思うのだが、ドラマではビートたけし演じる立川談志が立川談かんにビートたけしに弟子入りするのを許すというメタフィクション構造になっていた。

その後、宮藤官九郎脚本『いだてん〜東京オリムピック噺〜』ではビートたけし古今亭志ん生を演じる。ビートたけしが蒔いた種の一つが巡り巡ってきているのもすごい。
震災後の表現としてテレ朝で放送していた『11人もいる!』では、前妻で死んでいるはずのメグミ(広末涼子)が見えるのが現在一家の母である恵(光浦靖子)と父の実(田辺誠)との間にできたひとりだけ他の兄弟と腹違いの才悟(加藤清史郎)だけであったというのは実はリアリティがある。この二人だけがメグミが亡くなる際に看取っておらず、死んだのを見ていなかった。
被災地と幽霊というものは震災後に幾度と語られている。ただ、宮藤官九郎の擬似家族や共同体はもはやその幽霊さえも受け入れる、しかも彼女がその二人に見えなくなってもいるという前提の家族像だった。それは多様性を求めるといいつつもひたすら正義の名の元にいろんなものを排除して、正しいものが正しいという自粛警察とは反対のベクトルでもある。

あまちゃん』では主人公の「アキ」が「シャドウ」の役割でありつつ、物語においてはかつてアイドルを目指した母の春子の「生き霊」のような18歳の春子的な幽霊(鈴鹿の代わりに歌ったことでデビューできなかった)が物語に見え隠れする。それは物語においてそれは排除されるのではなく、春子や鈴鹿ひろ美や「潮騒のメモリーズ」に歌われることで成仏していく構造であり、最終的には年末の生放送の紅白歌合戦でそのドラマにおけるフィクションが現実の歌合戦を侵食し統合された表現となって完結した。
アナログ放送が終わり、デジタル放送開始の時に僕はテレビを捨てたのでその後数年はリアルタイムでドラマを見ることがなくなっていった。
結局、2015年頃からパソコンでTVerのおかげでドラマも見えるようになったし、『SPEC』シリーズの続編である『SICK'S』を見るためにParaviを契約したのでTBSとテレ東のドラマは見れるようになった。そのふたつのおかげで野島伸司坂元裕二を輩出したヤングシナリオ大賞出身にも関わらずにフジテレビではその才能を活かすことができずにTBSに活動の場を変えた野木亜紀子作品や坂元裕二『カルテット』なんかはテレビがなくても見てたのしめた。

そして、2021年1月クールの宮藤官九郎脚本『俺の家の話』も充分満喫できた。いろんなものの終わりを感じさせるものでもあり、この20年の一つの区切りや「平成」がようやく終わっていくのを『シン・エヴァンゲリオン』同様に感じさせてくれた。
タイガー&ドラゴン』で落語ブームは来たが、『俺の家の話』によって能ブームはくるかと言われると今のところは微妙だ。しかし、『平家物語』現代語訳を古川日出男がしたことで創作された外伝的な『犬王の巻』という小説がある。この作品の主人公は世阿弥のライバルだったとされる犬王であり、アニメーションで湯浅政明監督×野木亜紀子脚本×松本大洋キャラクターデザインで今年映画公開される予定になっている。また、『モーニング』では能を取り上げた『ワールド イズ ダンシング』という漫画も始まった。すぐにではないが何年かすると能も新しい変化や躍動が訪れるかもしれないという予感はさせる。

リアルタイムで追いかけてきた人たちについて書かれた評論なのですごく楽しく読んだのだけど、同時に彼らの時代が長かったことで、下の世代であまり突出した存在が出てきていないのでは?という疑問は出てくる。もちろんかつてなら脚本家になっていたかもしれない才能が違うジャンルへということもあるのだろうけど、ここまで時代の流れが反映されてしまうジャンルで、しかも大衆の多くの人が基本的には無課金で見れるというのはテレビのドラマぐらい。ただ、それも終わろうとしているとなると、細分化されていくとますますそれぞれのジャンルで閉じてしまって、なにが起きているかわからなくなってしまう。


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4月16日
成馬零一著『テレビドラマクロニクル 1990→2020』で取り上げられた堤幸彦演出作品である『TRICK』シリーズ。アマプラにあるのでシーズン1をBGM代わりに流しながら作業。
貧乳山田と巨根上田コンビが事件を解決していく。犯人は自称超能力者であり、上田たちや警察に謎が解けるか挑戦したりもする。売れないマジシャンである山田と自称超能力者たちの戦いは、シリーズが増して劇場版が増える毎に反転しはじめる。そもそも山田がシャーマン的な能力の血を継ぐ存在だった。偽物をマジシャンとして、上田の協力もありつつ見破っていくのに、当の本人が本物であるという事実。オリジナルとフェイクをめぐるものは庵野秀明堤幸彦たち世代には大きなものであった。

シリーズ自体が長期に及んだこともあり、本物と偽物をめぐる問題は、偽物だらけになり、もはやオリジナルの価値を見いださず崇拝もしないネット社会においては置き去りにされる。そして、その超能力者たち同士が戦い、国家すらも越えていこうとするなかで国家権力である警察が向き合うことになるのが、『ケイゾク』の魂的な続編『SPEC』シリーズだった。堤幸彦作品のバディは恋愛関係ではなく一個の個人として認めあえる関係性になっていくものが多い。

ケイゾク』『TRICK』『SPEC』という流れで見ていくと作品に漂う空気感として、同時代のネット的なものがあり、それまでの本物と偽物や歴史という時間に対しての考え方が反転してくのに呼応するように「超能力」者たちの戦いとシステムの問題が露になり、それぞれが抱えて信じる「正義」がぶつかりあい、負けたものは歴史の闇に消えていく。その真面目さに抗うように堤幸彦は作品の中で必要以上にくだらない小ネタにこだわり、謎に笑えないものをぶちこんでいく。
『SPEC』における餃子マンとかをあえて入れないと気が済まないところに彼のナイーブさとあまりにも真面目になりくさって相互監視していく社会に唾を吐き続けていたようにも見える。しかし、それはあまりにもわかりにくい表現でもあるのだけど。
TRICK』を見直すと出てくる人たちにすでに亡くなった方がたくさんいて、不思議な気持ちにもなる。

『すばらしき世界』『聖なる犯罪者』『花束みたいな恋をした』『バッファロー66』『風花』『あの頃。』『あのこは貴族』『三月のライオン』『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』『ミナリ』『ノマドランド』『ホムンクルス』『騙し絵の牙』『街の上で』『戦場のメリークリスマス』

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1月12日
西川美和監督『すばらしき世界』試写を。今作では殺人を犯し、服役していた三上(役所広司)が戻ってきた世界でどう生きていくか、人と関わるのかが描かれる。西川監督作品はずっと観てきたが、確実に泣かせそうとしている箇所がいくつかあった。今までそんな感じはしなかったけど、ワーナーだしやり方を少し変えたのかな。まあ、普通に泣いた。条件反射だから仕方ない。

吉澤(長澤まさみ)のシーンは多くないものの、彼女はテレビプロデューサーとして、あることで逃げ出したディレクター津乃田(仲野太賀)にとても大事な事を言う。津乃田は三上を取材対象としてカメラで撮影しているわけだが、映画やドラマに出演する俳優とドキュメンタリーの被写体はまるで違う。
カメラで撮ることは暴力性をはらむ、とくに後者の場合は撮る側がしっかり意識して責任の所在をはっきりしてないと暴力性はどんどん増していく。だからこそ、津乃田は吉澤に大事な事を言われたあと、三上との関わり方が嫌でも変化していく。

三上は仕事に就こうとしても、なかなかうまくいかない。わずかだが、少しずつ心を許せる他人が増えてくる。それが居場所になるし、人が生きていくためには重要なことであり、結局、人がやり直せるかどうかのベースは居場所があるかどうかなんだろう。
ただ、今の世界では間違いが許されない。自己責任という言葉によって、冒険をしにくい世の中になり、一度やらかしたことはネットに刻まれる。昔よりも失敗からは逃げ切れなくなった。
三上が当たり前の生活をしたい、堅気として生きたいと願う思いもなかなかうまくはいかない。それは生きづらさを感じる人たちに共感されるはず。
残念なことは今の日本では、檻の中に入るべき為政者たちが捕まらないまま、のうのうと偉そうにしている。その皮肉のようにもこの映画は見えなくもない。
あと、このところ、仲野太賀出演作はハズレがない、というか、彼の時代が来てるんだろうな、と思った。

 

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1月21日
PARCOにあるホワイトシネクイントにて、「週刊ポスト」連載「予告編妄想かわら版」で取り上げた『聖なる犯罪者』を鑑賞。
パッと見はトレスポ×聖職者な今作。主人公のダニエルが少年院から仮釈放なのかな、仮退所だっけな、をしたらすぐにクラブ行って酒にタバコにドラッグやって、そこのトイレで心理学専攻している大学生の女の子とセックスしてるっていう、少年院出る前に神父に酒やタバコは外出てもやるなよって言われて、はいって言ってて、すぐそれしてて、いやあ、俗物で欲望に忠実だなって思った。それは人間らしい、でも、彼には信仰心は確かにあって、物語はそれ故に展開していくことになるのだけど。
実話を基にしているのだが、日本映画で近いのは西川美和監督『ディアドクター』。嘘をついて、そのまま嘘の自分を、なりたかった何かを演じ続ける。最後辺りはキリスト教圏内だともっと深いとこで理解できるんだろうな。かなり好きな作品でした。

 

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東京ラブストーリー』『カルテット』の脚本家・坂元裕二による初のオリジナル恋愛映画『花束みたいな恋をした』(1月29日)。終電をきっかけに出会った一組の男女。
彼(菅田将暉)の部屋でスケッチブックを見ている彼女(有村架純)「コンセントがギリ届いて、私の濡れた髪を乾かし始めた」という彼女のセリフも予告編で聞くことができます。また、「三回ご飯食べて告白しなかったら、ただの友達になってしまうっていう説あるし」「次は絶対に告白しようって」というセリフも坂元脚本らしさを感じます。予告編ではリクルートスーツに身を包んで就活する二人の姿もあります。
ここからは妄想です。と言っても予告編に「人生最高の恋をした、奇跡のような5年間」とあるのでこの恋は終わってしまうのでしょう。確かにスクリーンで有村架純さんをずっと見ていたいと思いますが、映画はいつか終わります。それと同じように、この作品は誰もが経験している大事な人とうまくいかなかった過去を思い出させるものになっているはずです。
おそらく、ラストシーンは駅のプラットフォームでふたりがそれぞれの家族や恋人といて、目があって微笑んで電車がやってくる感じではないでしょうか? きっとそういうベタな方が観客に沁みると思うのですが。

週刊ポスト』1月25日発売号掲載「予告編妄想かわら版」より

↑自分の連載でも取り上げた『花束みたいな恋をした』が公開になり、10時の回をTOHOシネマズ渋谷で鑑賞した。

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映画『花束みたいな恋をした』は予告編を見るとなんとなくわかるんだけど、実際に本編を観ると、同じく坂元裕二脚本『カルテット』第六話の真紀と幹生夫婦が出会って付き合って結婚して、幹生が失踪するまでの流れの中にある男女のすれ違いとか我慢とか思いやりの別バージョンというか、20代の恋愛編みたいなところがある。

『カルテット』はなぜか異様に好きすぎて、各回を30回以上は見ている。Paraviを流しっぱなしでセリフをただ聞いてる。
『花束みたいな恋をした』は『カルテット』の演出だった土井さんが、野木亜紀子脚本映画『罪の声』に引き続き監督をしている。ドラマのTBSのエースが、ドラマでも組んでいる脚本家たちと映画をやっているから、出来は当然素晴らしい。そもそも野木さんや坂元さん脚本なら、誰が出ていても誰が監督していても、観に行くのは決まりだ。という脚本家さんたちだから。

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『花束みたいな恋をした』の主人公のふたり(麦と絹)が意気投合するのは好きな小説家が一緒で、絹が麦の本棚見て、ほぼうちの本棚じゃんというシーンがある。
ふたりが好きな作家は穂村弘長嶋有いしいしんじ堀江敏幸柴崎友香小山田浩子などがいる。パンフレットインタビューを読むと小説家も漫画家もミュージシャンも坂元さんの好きな人ではなく、書く際に参考にした人の趣味らしい。
しかも、彼や彼女はあまりよく知らない人で、そのInstagramとかをひたすら見て深掘りした(見られてる方は知らない)。マーケティングするようにある特定の人を見続けて、その趣味が麦や絹に反映されているらしい。

上記の作家以外にも、舞城王太郎の名前も出てくる。舞台は京王線沿線の調布や多摩川だったりする。ラノベは読まないが、純文学系が好きなふたりが調布を舞台に小説を書いている舞城王太郎を読んでいるのはリアリティがある。
同時に舞城王太郎いるなら、古川日出男も入れろやとファンとしては一瞬思わなくもないのだが、その場合は阿部和重川上未映子柴田元幸の名前がないとたぶん入らない、その感じがよくわかる。

この映画で何度も出てくる小説家は今村夏子であり、あとは単行本としてキーになるのは滝口悠生だったりする。いろいろ合点がいく。就活して会社員になった麦は絹がオススメしてくれた小説を読む気力もなく、小説を読んでも頭に入らない。でも、文章を読もうと書店で手にするのが前田裕二『人生の勝算』という所で笑ってしまった。ほんとうにあるあるだなと思った。その辺りのセレクトがやはりうまい。

ふたりはいわゆるメインカルチャーではなく、サブカルチャーとされる文学や音楽や演劇を好んでいる。そして、麦と絹の出会いと別れはどこか憶えがあるものだ。
映画を観ながら、二十五歳の時から六年近く付き合った彼女とのことが何度もフラッシュバックした。きっと、僕と彼女の恋愛もこの映画で描かれていたふたりのことも、この世界ではありふれているものなのだろう。だからこそ、20代のころにしかできない恋愛があったんだと思い出せてくれる。終盤に麦と絹がかつての自分たちのような若いカップルを見たとき、その表情が泣けてしかたなかった。

映画観て思い出したけど、上京して最初に住んだのは柴崎駅近くで、最初のバイトだったナムコのゲーセン連中と深夜の多摩川でバーベキューして、朝方全裸で泳いだ。それもあって映画の舞台がもろに近過去なのよね。

2月2日
朝起きてから再びのTOHOシネマズ渋谷で二度目の『花束みたいな恋をした』を鑑賞。
先日の映画の日に僕がオススメして観に行った親友のイゴっちは「残酷な映画だった」という感想を送ってきた。僕とは真逆だったのでどうしてだろうと考えていた。
二回目は初回ほど泣かなかったのだが、主人公の山音麦と八谷絹の恋人たちを改めて見てみると、イラストレーターになる夢を諦めて就活して正社員として働き始めた麦と一度は歯医者の受付に就職するものの縁もあってイベント会社に再就職して自分の好きなものを活かせる仕事を始めた絹。麦はかつてのように小説や映画をたのしむことができない。
絹は「やりたいことはしたくない」という気持ちを持ち続けていた。その違った心の行先はすれ違いを生んでしまう。

僕は麦のようになる可能性が少しはあったのかもしれないが、絹のような人生を歩んでいる。だから、この二人は僕にはありえたかもしれない未来と現在であるのだな、と思った。観終わってからイゴっちにラインをしたら、彼は「自分は麦だ」と返してきた。その差が残酷さや好き嫌いという部分で大きな差が生まれていたのかもしれない。

どうしても、20代中頃から30少しまで付き合っていた当時の彼女のことを思い出してしまう作品だ。まあ、僕が出演したイベントに誘ったけど体調悪くて来れなくて、そのあとも自分たちにとっては大事なバンドのライブも体調悪くて来れなくて、ラインでのやりとりだけして別れた。だから、この映画のような別れの儀式とかそういうきちんとしたことができていなかったことが僕の中では根を張るように残っているんだと思う。

あの頃の僕は、相手に僕をもっと見てほしいというのもあったけど、物書きになる自分を応援してほしかった。だけど、相手のこと(感情や体調や日常)をきちんと考えたり、思いやることはまったくできていない独りよがりでわがままだった。

後悔してもどうにもならないことはこの世界にはたくさんある。だからこそ、この映画を観ると過ぎ去った季節の風が、現在の僕の頬を撫でるような錯覚がある。だからこそ、自分にとって響いてしまう映画なのだ。だって、もうだいたいのことは忘れてしまっているのに、忘れられないことと呼応するのだから。



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1月29日
PARCOにあるホワイトシネクイントにて、ヴィンセント・ギャロ監督『バッファロー66』を続けて鑑賞。
高校生の時とか上京してからビデオかDVDレンタルして観ているが、スクリーンで観るのは初。観始めてから内容をほとんど覚えてないことに気がついた。今の時代に見ると主人公のビリーの不器用さ故の他者への態度はもろにアウトだなあ、と。前日にフェミニズムの本を読んでたらそうなる。
この映画の印象的なシーンを再確認したという感じだろうか。ボーリング場とかホテルでふたりが少し離れて寝転んでいるとか、ポスターにもなっている証明写真をふたりで撮るとか、最後のほうのストリップバーみたいなところでのビリーの姿とか。
ちょっと前に観た『花束みたいな恋をした』によるダメージが僕をかなり撃ち抜いてしまっていたこともあって、懐かしいものをスクリーンで観たという印象ぐらいにしかならなかった。


f:id:likeaswimmingangel:20210427124235j:plain2月12日
ベルサーレ渋谷にて毎年恒例の確定申告が終わって予定どおり、ユーロスペース相米慎二監督『風花』をば。
昔、一回ぐらいDVDで観たような気がするが、まったく内容を覚えていなかった。麻生久美子さんが出てたとか観て驚いた。
浅野忠信さんと小泉今日子さんのカップリングで、噛み合わないというか酔わないと陽気にならずに素面だと性格の悪い浅野くんと風俗嬢でいろんなものを諦めている小泉さんが北海道の彼女の娘がいる場所へ向かうロードムービー。二人ともいるだけで画になってしまう、会話がなくても成立する。


f:id:likeaswimmingangel:20210427124842j:plain2月16日
ヒューマントラスト渋谷にて西川美和監督『すばらしき世界』を試写含めて二回目をば。試写と同じところで泣く。失敗や過ちを犯した者はやり直せないのか?という極めて現代的なテーマを描いている。
公助ではなく共助でもなく自助を、自己責任を押し付けられ、生活保護はみっともないものとして生存権の行使をやりにくくする政治や社会へのカウンターとして。この映画をいちばん観るべきは政権与党の連中だと思うが、この世界はもう...。
仲野太賀のモデルは山下敦弘監督らしいのだが、観ていくとオズワルドの伊藤に見えてくる不思議。


2月21日

 ハロプロモー娘。などつんく♂が総合プロデュースを手掛けたアイドルグループや女性タレントの総称)の名曲たちが彩る、今泉力哉監督作『あの頃。』(2月19日)。
 冴えない若者・劔(松坂桃李)はある日、テレビから流れてきた松浦亜弥の曲を聞いて涙を流す。そこから彼女を始めとしたハロプロのアイドルたちにハマっていく。同時にハロプロのアイドルが好きな仲間たちとも出会い、交流を深めていきます。そのことで彼の退屈な日々が終わり、生きる希望が沸いて、たのしく過ごしているのが予告編で見ることができます。
 ここからは妄想です。藤本美貴推しの友人(仲野太賀)が天冠をつけていて、「あの頃おもしろかったな」と言っているシーンが予告編にあります。劔が「あの頃」を現在から懐かしく思い出しているというのが、この作品の核になのでしょう。ハロプロなんか知らない、という方ももしかするといるかもしれません。でも、かつてピンクレディーキャンディーズ、他のアイドルが好きだった読者の方はいますよね。時代が変わってもアイドルを応援する若者たちはいて、彼女たちに熱中したという青春があったということはきっと伝わるはずです。この映画を観て、自分が好きだったアイドルの曲をもう一度聞くのも乙なものかもしれませんね。

週刊ポスト』2月15日発売号掲載「予告編妄想かわら版」より

 

↑自分の連載でも取り上げた『あの頃。』が公開になり、土曜日の朝一の回でTOHOシネマズ渋谷で鑑賞した。

今泉力哉監督『あの頃。』をTOHOシネマズ渋谷にて鑑賞。朝一の回だがわりとお客さんが入っていた。たまたま僕の周りのお客さんたちは知り合いらしく、始まる前に挨拶とかしていた。ハロプロのファンの人なんだろうなと思った。コミュニティが可視化されていたというか。

人がなにかにハマる時、出会う人とそのコミュニティの大事さがわかる映画だった。どんなに居心地がよくても人間関係は日々変わり続けるから、コミュニティは現在進行形になる。それをしっかり描いていたのがよかった。そして、主人公の劔が「いまがいちばんたのしい」と言うことがとても素晴らしいことだと思った。

個人的なことを言えば、ファンコミュニティというのは苦手だ。最初は他人行儀だった関係性も何度も会って話をしていくと友達になって、その中心にあるもの(この映画だとハロプロ)と切っても切れなくなる。そういう風になっていくと、その対象者が好きでもコミュニティでの関係性が悪くなって、ライブとかに行かなくなってしまうことがある。

僕は個人的にはそういう深いところまで行きたくないタイプだ。コミュニティが嫌になってその対象になるもののファンをやめたくないというのもある。同時にそのコミュニティがとても大事なもので繋がりを持てるものとなるのもわかる。でも、僕がオンラインサロンとかが嫌なこととその辺りは繋がっているとも思う。

あと「萌え」とかの概念がほぼないのでアイドルとかキャラクターにまったくハマらないため、こういうファンコミュニティと出会うこともなかった。
僕が高橋留美子にはまったく興味が沸かないのに、あだち充がなぜ好きなのかという理由もその日本のマンガ・アニメ的なものであったり、アイドルとかへの「萌え」という概念のことが関係していると思う。
あとは基本的に群れない方が人は自由に好きなものにコミットできると僕は思っているところがある。


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2月27日
山内マリコさん原作・岨手由貴子監督『あのこは貴族』鑑賞。東京にある階層はコロナ禍でさらに深く広く断絶したと思う。地方出身者はほぼ移民のようなもので、地元の時間軸とも、東京生まれ東京育ちの人とも違う時間軸と階層を生きているから居心地がいい。

東京生まれの華子の不自由さと地方出身者の美紀の不自由さは違う。ふたりを繋げる、共通の人物が幸一郎という華子よりもさらにランクが上の上流階級に出自を持つ男性だった。幸一郎と華子は婚約するものの、美紀との関係も続いていた。
美紀は猛勉強の末に慶應義塾大学に入学するものの、実家の関係で中退せざるを得なくなり、ラウンジで働くようになり、そこでどんどん働く店をランクアップして客の紹介で就職をすることになった。幸一郎は慶応幼稚舎出身のイケメン弁護士という最強スペック。ここで慶應が出てくるのは、この作品における「階層」のわかりやすさが出ている。
と言っても僕は進学校じゃなかったので東京の大学のランクとか全然知らなかったし、上京してからもまず六大学出の知り合いはほとんどいなかった。「文化系トークラジオLife」の界隈の人と知り合うようになって初めて、六大学出身の人たちとたくさん知り合ったし、世の中には東大とか慶應とか早稲田出てる人っていっぱいいるんだなと思った。それまではあまりに身近ではない人たちだったから。
基本的にいい大学を出て、名前が通るような有名な企業に勤めている人はほとんどの場合親切である。マイルドヤンキーでもなく、地方出身者で成り上がろうとかいう思考もなく、就職もしていないような人間はどこの階層でもない下の方でふらふらしていて居場所は特にない。僕はそんな親切な人たちのおかげで場違いな場所に呼んでもらったりして、何食わぬ顔をしていたらそのうち馴染んできた風に見えてきたんだと思う。カメレオン的な能力といいますか。
そういう意味で僕は美紀がラウンジの客の縁で就職したように、知り合った人たちの好意とやさしさでなんとなく東京でサバイブしてこれた。

ただ、そういうこともコロナ禍が始まってからはおそらくほとんど消えてしまった。長く続く経済不況もあるが、東京に憧れを抱く若者がそもそも少なくなっている。
足りない、ということが大事だった。発売日に読みたい本が書店にない、観たい映画は公開から半年ぐらい経ってから、ライブに来るのは一部の大物アーティストだけ、ネット普及前は足りていないことが欲望へ向かっていた。
今やネットとオンラインによって、都市と地方の時差はほぼなくなり、飢えのようなものは少なくなっているんだと想像する。そういうことを含めても、原作の山内さんは同世代でその感覚を小説で描き続けている。そのわずかなパイは山内さんがかさらってしまったように思える。
最近公開された坂元裕二脚本『花束みたいな恋をした』は麦と絹の年齢よりも上の2000年前後の上京組のほうが刺さりやすい気がする。

今回幸一郎を演じたのは高良健吾、『花束みたいな恋をした』で麦を演じた有村架純は高良と共に坂元脚本『いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう』に出演していた。

「東京は夢を叶えるための場所じゃないよ。東京は夢が叶わなかったことに気づかずにいれる場所だよ」

という印象的なセリフは『いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう』第二回だったが、地方出身者が気づかずにいれる場所はやはり時間軸が異なっているのだと思う。

『あのこは貴族』の最後には華子も美紀も自分の決断によって、絡み取られていた不自由から抜け出そうと動き出していた。でも、美紀のあの姿に「東京は夢が叶わなかったことに気づかずにいれる場所だよ」という部分を感じてしまう自分がいた。




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3月4日
アップリンク渋谷にて矢崎仁司監督『三月のライオン』を鑑賞。
名前は聞いたことあるけど(漫画『3月のライオン』が有名になり過ぎてしまったが)、観たことなかった作品だったので、一度スクリーンで観てみたかった。そういえば、アップリンク来たのは岩井俊二監督の『8日で死んだ怪獣の12日の物語』を観て以来かな。

物語は記憶喪失になった兄、兄にずっと好意を持っている妹。彼女は記憶を失っている兄に恋人だと嘘をつく。兄が記憶を取り戻したらその前から消えることを決めて。
近親相姦の話ではあるのだが、イメージショットみたいシーンとかが多く、物語というよりは映像で進んでいくような。橋を渡って帰ってきたり、鏡に映る自分だと、ビルや家の解体など象徴的なシーンが繰り返される。
アイスという名前の妹が不思議な、ボブカットでかわいいと言えばかわいいけど、公衆電話に自分のポラロイド写真貼って、その横で待っていて写真を持ってきた男に売春していたり、その辺はちょっと岡崎京子『pink』的なものを感じたりはした。
最終的に二人は結ばれるが、記憶を取り戻してしまう兄。でも、ラストシーンはその時にできたであろう子供の出産シーンだったりして、感情移入がいろいろしにくいよと思った。しかし、観終わってあの生まれてきた赤ん坊が観客である僕たちのような気がしてきて、赤ん坊の人生の物語のプロローグがこの『三月のライオン』だったのかと思える部分もあったりした。


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3月9日
『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』をTOHOシネマズ渋谷にて鑑賞、そして終劇。
アニメ放送時に中二だった我らリアルシンジ生代も今年40代に突入。未完ではなくケリをつけて終わったからいいんじゃないかなあ、と思った。「平成」って、メンタル弱かったけど、まあふりかえればよい時代だった気はする、そんな『シン・エヴァ』観た感想。

やっぱりエヴァンゲリオンが好きとかではなくて、エヴァ語ってる人が、その現象がおもしろいな、と思ったんだろうな。あとかつてのリアルシンジ世代だと結婚してるしてない、子どもがいるいない、その時期とかも感情移入できるかできないかに響きそう。
観終わっていちばん思ったのは、つうか「真希波・マリ・イラストリアス」のあの設定どういうことになってんの? スタッフロールに神木隆之介の名前あったけど、なんの声やってたの? だったが、神木君に関しては下記の宇野さんのnote読んでわかった。でも、それもネタバレに含まれるっていう。

「シン・エヴァンゲリオン劇場版:||」についての雑感(今日における虚構の価値について)
https://note.com/wakusei2nduno/n/n2fd22e066c8d

宇野常寛さんのネタバレ全開の記事を読む。僕が感じた「平成」感は、ここで書かれたことがそう思わせたのだろう。
西島大介さんの漫画『I Care Because You Do』という作品は、90年代にいた3人の神(庵野秀明YOSHIKI、リチャード・D・ジェームス)についてのものだった。『シン・エヴァ』はゼロ年代の終わりに西島さんが90年代のサブカルを、自身に影響を与えたものについてのある種私小説的な作品としての『I Care Because You Do』で描いたものの、その手前で終わっていると僕には思えてしまった。だから、庵野さんにとって、いや僕らにとってようやく「エヴァ」が代表する「平成」が終わったんだということ、しかし、残念ながら僕らはもう「令和」の時代を生きている。

新劇場版エヴァンゲリヲン 真希波・マリ・イラストリアス安野モヨコエヴァンゲリオン
https://74196561.at.webry.info/201312/article_30.html


10年前に書かれた「真希波・マリ・イラストリアス」についてのブログを読んでみたら、今回の『シン・エヴァンゲリオン』のオチまでしっかり当てていた。すげええ!
と思いながらも、自分の分身(庵野監督にとってのレイやアスカも含む)ではなく他者を求めた庵野監督ということに気づいていた人はわかっていた話なのかもしれない。
同世代が『シン』を見て通り過ぎた景色だなと思うのは感覚としてはわかるものの、独り者で子供なしの自分は結局パートナーとしての安野モヨコに出会っていないのだよ、と思うわけで違った感触なわけですが。


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3月20日
『ミナリ』をTOHOシネマズ渋谷にて鑑賞。
前年の『パラサイト』みたいに作品賞取れるかと言ったら取らない気はした。だが、今アメリカでアジア系の移民がターゲットにされている事件もあったりするから、その辺りの時代背景も考えるとわからない。

1980年代のアメリカのアーカンソー州に韓国系移民のジェイコブ一家が農業で成功するために引越ししてくる。
実はジェイコブってカルフォルニアとかで鶏の雛のオスメスの鑑定を仕事にしていたみたいで、初生雛鑑別師みたいなことをしていたんだというのがわかる。
祖母の兄が初生雛鑑別師で1939年にロサンゼルスに日系移民の人に呼ばれて一年過ごして、帰国してすぐにイギリスにいった。しかし、第二次世界大戦が始まると日系移民の人たちは強制収容所に移送されて、二世の人たちとかはアメリカ人として日本と戦ったという歴史がある。そのため、日系移民の人たちは土地も奪われていて、戦後に多くの人がロサンゼルスに戻ってくるというわけではなかった。一部の人が戻ってきて現在の「リトルトーキョー」を復活させたけど、かつての規模ではない。その辺りにジャニー喜多川氏の父が僧侶だった高野山真言宗米国別院も残っているが、おそらく戦前から場所は変えられていると思う。
日系移民がいなくなったのもあって、韓国系移民の人が初生雛鑑別師のような仕事をやるようになったのかな、同じアジア人だし手先が器用と思われていたりするのかもしれない。その辺りのことは調べないとわからないけど、戦前は日本の初生雛鑑別師はオスメスの正答率は世界一ぐらいで重宝されていた。
あと、観ながら「初生雛鑑別師」については描いていないので、そこのパイはまだあるなと思った。
ジェイコブが息子のデイビッドに雛のオスは美味しくもないし役に立たないから殺されるんだって話をしていて、俺たちは役に立とうみたいな話をしていた。この辺りはアメリカという現実が重なっていたのかもしれない。

この作品に話を戻せば、1980年代のアメリカだけど、希望を胸に成功しようと奮闘する移民の家族の姿に、フロンティアを求めたかつてのアメリカ移住者たちが重なるし、時代的にも近過去であることがより通じるんだろう。
物語のキーマンはジェイコブの妻・モニカの母のスンジャでもあったりして、家族の話になっている。また、子供は長女のアンと長男のデビッドがいるが、デビッドは心臓に疾患があり、走ったり無理しないように親から言われている。末っ子の彼がマスコット的な部分もあるが、健康な長女がわりとないがしろにされているように感じたりもした。
監督のリー・アイザック・チョン自身の体験がかなり反映されているみたい。彼は『君の名は。』のハリウッドリメイク版を監督するらしいので、今後名前がより知られていくと思う。
「ミナリ」というものが象徴すること、祖母とジェイコブ一家の関係、移民が母国ではない国で生きるという意志に「ミナリ」がかかってくる。そういう意味ではすごく手堅くしっかりとした作りになっている。ただ、最後の方の大きなシークエンスとかもどうも心が揺さぶられなかった。
「A24」制作のものはこの数年でとりあえず観にいくようにしているんだけど、『ラストブラックマン・イン・サンフランシスコ』『WAVES/ウェイブス』が思いの外響かなかった。『mid90s ミッドナインティーズ』はすごく響いたけど。


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3月26日
TOHOシネマズ渋谷にて公開初日の『ノマドランド』鑑賞。
金獅子賞も取ったし、今年のアカデミー賞最有力と言われているので期待値は高かったが、あまり響かず。『ミナリ』もだがこちらも開拓者であったりフロンティアを目指すという共通項はあった。
『ミナリ』はかつてのアメリカの姿を80年代の韓国系移民家族を通して見るものであり、『ノマドランド』はリーマンショック以後の新自由主義が支配している世界でかつての価値観から離れて生きる老女を中心に描いている。
どちらもトランプ政権が4年続いたからこそ出てきた作品のような気もする。トランプという国難が過ぎ去るかと思いきやコロナ禍がやってきた。日本だって安倍首相がいなくなっても腐敗したものはそのまま腐り続けながらそこにコロナ禍とどう考えても今やるべきではない東京五輪を強行したくて仕方ないのだから多難ばかりだ。日本からも『ミナリ』や『ノマドランド』的な開拓やフロンティア精神を描くものが作品として出てくるかと言われたらたぶん出てこない。そもそも国の成り立ちが違うのだから。


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4月1日
映画の日なので、テアトル新宿で『花束みたいな恋をした』三回目を、『シン・エヴァンゲリオン』二回目(IMAX)をTOHOシネマズ新宿で決めてきた。
どちらもこの先観ない(配信とかでは観ない)だろうからスクリーン収めになるだろう。映画に少しは関わる仕事で原稿料をもらってるから、やっぱり好きなものは劇場でお金を払っておきたい。もちろん、サービスデーなんかでいつもより安く観る時はアイスコーヒーを映画館の中で買う。原価率的にも儲けはわりとあるはずだ。コンビニとかでドリンクを買って昔は観ていたけど、コロナになってからは完全に映画館で買うようになった。去年の今頃は「週刊ポスト」で連載の「予告編妄想かわら版」は映画館が閉まったことで休載になった。もちろん、休載中の原稿料は出ない。夏前ぐらいはほんとうに金銭的にもヤバかった。クレジットカードも使いまくったし、友達にも金を借りた。古川さんに同行するための金がまったくなかったから、ようやく先月全額返したけど。

『花束みたいな恋をした』はさすがに3回目だとラストのファミレスで泣きかけたけど、思いの外大丈夫だった。絹(有村架純)が麦(菅田将暉)の家に最初に来た時に、部屋の中に「ZAZEN BOYS」のTシャツがあって、そうだよね、そこは聴いているよね、麦は、と思った。『花束』を観ると男は有村架純と付き合っているという妄想、あるいは脳内で別の現実を作ってしまうという話があるが、僕はわりと「有村架純有村架純だ」としかならない。妄想力が足りないのだろうか。昔、付き合っていた彼女と麦と絹みたいにばったり会ったら、ガン無視されると思う。というか『リアル鬼ごっこJK』文庫版で思い出したくないエモいことを書いていたことを思い出すのだが、家にあったものは全部人にあげたのでもう確かめようはないが。

NHKで放送した『プロフェッショナル』の庵野秀明さんの回を見たこともあって、二回目になると、欠損してしまったエヴァの身体、そして復元するエヴァの身体(庵野さんのお父さんは片足を事故で失っていて、世間を恨んでいるように息子には感じられていた)、父と息子の父殺ししない物語(息子が生まれたら、父親の肩を叩くか、殺すのが役目というものから、父殺しではなく父赦しのエンディングに移行する)、人の数だけの願いと世界、26年かかった私小説の終わり(ヒロインの一人であり、『新劇場版』から登場したマリは安野モヨコ説はNHKの番組を見てると大納得)、母胎、そして初恋へのさよなら(レイとアスカというオリジナルアニメからのヒロインたち)、ゼロ年代から現実を侵食し始めた円環の終わり(エヴァンゲリオンを繰り返しの物語ですと、『新劇場』制作発表時の庵野さんのコメント、渚カヲルというキャラクターがそれを体現しているため、渚カヲルと『魔法少女まどか☆マギカ』における暁美ほむらは役割は同じ)、コピー世代のオリジナルへの願望とその体現(特撮や宇宙戦艦ヤマトとおたく第一世代としての庵野秀明の上世代への憧れ)、なんかいろんなものが観終わってから脳裏をよぎる。

個人的にはスタジオジブリというか宮崎駿作品は嫌いだ。弟子筋とも言える庵野さんやその作品は好きだとか、村上春樹作品は基本的には嫌い(作家としてすごいのはわかってる、宮崎さんも同様に)だけど、村上春樹さんとその作品に影響を受けた古川日出男さんにむちゃくちゃ影響されまくってるとか、端から聞くと矛盾してるように思われるかもしれない。
宮崎さんはちょい上だけど、村上さんは親父と年が変わらない戦後すぐ生まれで、彼らを父世代として見てる。古川さんは自分と15ぐらい年が離れてるから父ではない、年の離れた兄、中上健次的に言えば「長兄」で、親しみと尊敬がある。

例えば、庵野さんが父殺しするならスタジオジブリをカラーと合併させるかなにかして、主導権を今後握ればいいだろうけど、しない。最終的にはスタジオジブリとかは中国資本とかに買われるんじゃないだろうか、日本の優良なコンテンツを作る会社は基本的にはそうなっていくとは思う。今でももう有名な作品の原作権とかは買われているというし、まあ、親族とかが金なくなって売ったりもするだろうし。
結局のところ、スタジオジブリは宮崎&鈴木コンビが亡くなれば、基本的には終わる。殺さなくても寿命が来たら死ぬ。
宮藤官九郎脚本ドラマ『俺の家の話』で人間国宝の寿三郎をクドカンが殺さないのも同じことだったのだろう。人間国宝でもいつか寿命が来たら死ぬ。死ぬまではその技術や能力や体験を下の下の世代へ引き渡す必要がある。だから、長男で一度家を捨てて、家に戻ってきた寿一が死ぬ。就職氷河期時代、ひきこもりが問題にされる世代の、社会から負け犬だと思われて、バイトや派遣社員になるしかなかった世代でもある寿一、上が死んでももう間に合わない世代だから、下の世代になにかを託すように邪魔にならないように消えるしかない。

「さよなら、すべてのエヴァンゲリオン」のように、エヴァシリーズが消えていくのと同じように、死に損ない続けた、青春の終わりを認めなかった『木更津キャッツアイ』の主人公のぶっさんを殺せなかった(完全に死ぬシーンを描けなかった)宮藤官九郎は寿一をスーパー世阿弥マシンを確かに物語の中で死なせた。
たぶん、このことは今後の様々な創作ジャンルに影響してくると思う。

オリジナルではないコピーのコピー、さらにそのコピー、n次創作世代としての表現だと西島大介さんが漫画でやってたりする。それはとても批評的であり、もっと評価されるはずだが、あの可愛いらしい絵でみんなが舐めているのかもしれないが、西島さんは淡々と漫画の可能性を拡張していっている。それはまたの別の話か。

村上春樹さんが父親について書くようになったのはわりと最近のことだ。父親との確執みたいなものがあったと聞く。たぶん、最初から父について書いていたら、村上春樹村上春樹という作家にはならなかったし、そもそも小説を書けなかったんだと思う。古川さんも父親との関係は良好なものではなかった。古川さんが地元の福島や家族について話すようになったのはデビュー10年目の『聖家族』からだった。
僕も父親とのなにかだ。いち個人の父というよりは父世代への思いやなにかだ。キーはどうしても「戦後」になる、そして、アメリカ。戦後の日本とアメリカの関係になるから、どうしても天皇制と神話についてになる。
物語と神話はたぶんイコールではない。
メモ代わりに書いたけど、うまくまとめていければ、自分の核がはっきりするはずなので、今後の創作のテーマ。


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4月3日
ホムンクルス』をヒューマントラスト渋谷にて。なんだか綾野剛のファンらしきマダムたち&エキストラかなんかで参加していた女性がめっちゃいた、みたいな会話が聞こえた。
原作漫画読んでないけど、「予告編妄想かわら版」で書いた妄想いい線行ってた。
綾野剛成田凌辺りのビジュアルだと『多重人格探偵サイコ』も行けんじゃないかな、まあ、三池崇史版はあるが。ハリウッド映像化の話も消えたが。
多重人格探偵サイコ』で刑事の小林洋介が壊れて、多重人格のひとつ雨宮一彦が誕生(主人格になる)することになるけど、恋人の千鶴子が両手足切断されながらも生きたままポカリみたいな液体に入れて送られてきて、西園伸二の人格が一時主人格になり、犯人の島津を殺害して自分は隠れるようにして雨宮に主人格を引き渡す。物語はそこから始まる。これデヴィッド・フィンチャー監督『セブン』のラストシーンから始まるような、ありふれたサイコサスペンスだった。
元々ルーシー7辺りで終わるはずだったから、二、三時間でまとめれる映画版はたぶん可能、ただ大塚さんが脚本とかに口を出すから揉める(だいたいそれで映像化は飛ぶ。飛んだけどテレ朝は何食わぬ顔で『都市伝説の女』というドラマを作ってた)。
フィリップ・K・ディックの可能世界あるいは多層(多重人格)的な物語はネット世界の予見みたいなもので、ネットが当たり前になれば個人はより分裂して複数化していくから多重人格というのは違和感がなかった。で、今だともはや当たり前になりすぎてしまった。貞子がもはやキャラクター消費されてるけど、リングウイルスはインターネットそのものであり、悪意は無尽蔵にばらまかれ、現実すら侵食して書き換える。
95年以降の平成という元号でのネット社会で『リング』シリーズと『多重人格探偵サイコ』はわかりやすい作品なんだと思う。『ホムンクルス』も映画はその延長線にあるような気はした。


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吉田大八監督『騙し絵の牙』をTOHOシネマズ渋谷にて鑑賞。原作小説は去年読んでいたが大泉洋を当て書きで書いていたものだったが、内容もおもしろかった。しかし、この作品に関しては小説よりも実写のほうがおもしろかったと感じた。原作を書かれている塩田武士さんの小説は今回もだが、前回の『罪の声』と連続して映像化を担ってる人たちが凄腕だったのもあって、原作と実写ともにいい相乗効果が出てる気がする。
出版業界を舞台にした物語だけど、どんな企業でも起こりうるトップや現場でのイニシアチブの取り合いと足の引っ張りあい、伝統と革新のせめぎあいが描かれている。騙し合いを続けているという感じを出しているが、最後に笑うのは誰かみたいな話でもある。
出版業界の今だけではなく、未来に起きてくるであろう話も盛り込みつつ展開していて、エンタメとしても素晴らしい。しかし、公開のタイミングが悪いのかあまり観られてないような気がして、そこは残念。でも、連ドラでリブートもできそうだし、続編も作れそう。八重洲ブックセンターのカフェエリアや、文藝春秋で絵になるのはあそこしかない螺旋階段とかも出てきたりしていた。池田エライザの役どこというかあの役だけで出版と芸能のいろんな皮肉さと可能性を秘めてた。


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4月10日
今泉力哉監督『街の上で』をヒューマントラスト渋谷にて鑑賞。ほぼ満席。コロナで公開が一年ほど延期されたがようやく公開に。コロナ前に撮られた下北沢はもう戻らないコロナ以前の世界であり、マスクが当たり前になる前の、いまとは違う距離感で人が人と接していた記録にもなっている。
何気ない会話からわかる登場人物たちの恋愛模様や人生の一部が、下北沢という町では起こりそうな偶然のコンボを起こして、笑わずにはいられない状況となる。観終わったばかりだけど、また登場人物たちに会いたくなる。
下北沢に縁があってもなくても楽しめる群像劇なんでオススメです。


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4月13日
『パーム・スプリングス』鑑賞。ある結婚式の朝から寝るか死ぬまでがひたすら繰り返されるタイムリープブコメディ。毎朝同じように目覚める花嫁の親友の彼氏であるナイルズと花嫁の姉であるサラが当日の夜に結ばれかけるが、ナイルズは何者かに狙われて殺されかける。彼が息も耐え耐えに逃げ込んだ洞窟に追いかけてきたサラがやってきてしまい、彼女もナイルズ同様に目覚めると結婚式の朝をひたすら繰り返すタイムリープにハマりこんでしまう。
二人はハメを外しやりたい放題し、何度も自殺したりするがタイムリープからは逃れられない。
明日は訪れずに死ぬこともできない永遠に続く結婚式の朝。ある日からサラはこのタイムリープを抜け出すための行動を起こしはじめるのだが。
繰り返す諸行無常、終わらない日常、閉塞感に覆われた世界のメタファにもなるタイムリープ、繰り返される日常はコロナにより吹き飛んだ気もする。その意味ではタイムリープものはこれからはあまり出てこないかもしれない、『エヴァンゲリオン新劇場版』はそもそも最初から繰り返しの物語ですと言われていたから、コロナ禍で終われたのはよかったはずだ。カヲル君が月にある棺から毎回起きてはなんとかシンジをTRUEENDに導こうとしても失敗し続けたように『パーム・スプリングス』のふたりもタイムリープからは抜け出せなかった。
誰もが八百比丘尼のように身体の老化を止めて、知識や記憶を引き継ぐことはできない。繰り返される日常が急に終われば、肉体と魂の誤差が一気に出て、人は違う意味で壊れてしまう気もする。
『パーム・スプリングス』はタイムリープ&ラブコメだけど、円環から抜け出す手段はかなりsmartだった。それがとてもこれまでのタイムリープものに対して批評的でもあってよかった。


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4月20日
映画のワンシーンとかは何度も観ている(「メリークリスマス!ミスターローレンス」のセリフとか)せいか、どこか観たつもりになってるけど一度も全編を観たことがない『戦場のメリークリスマス』を新宿武蔵野館にて鑑賞。
やっぱり演者の顔がよかった。ボウイにしろ坂本龍一にしろビートたけしにしろ、色気がある。坂本龍一ビートたけしはかなりセリフがアフレコになっているっぽいけど。そういうことを入れても、そこに佇んでいるだけで、この色気と知性による狂気みたいなものって今の役者や表現者にはほとんどないような気がする。居るだけで画になるというのがやっぱり異質だなあ、と。この三人は天下を取ってるわけだけど、やっぱり色気と知性なんだろうな。
今はその色気はレディー・ガガとかにはあるかもしれないけど、男性からは失われた気がする、なんとなくだけど。
戦場のメリークリスマス』観て、そのあとに『愛のコリーダ』も4K修正版が劇場公開されるから、まずは『戦場のメリークリスマス』観たのに緊急事態宣言出たら、上映どうなるかな、と帰りながら思った。まあ、また「週刊ポスト」映画コーナー休載したら夏前辺りからまた生活が死にますな。
政治にも期待できないし、芸術もクソな世界の現実に抗えないし、世界は変わらないから自分を変えようみたいな自己啓発セミナーの行く末が今の分断ネットカルチャーだし、打つ手がないのが問題だし、現状を変えてくれる英雄を待ち望んでも結局ポピュリズムに行き着くだけで東京や愛知や大阪みたいな最悪な状況になるのも目に見えてる。日本的なシステム使うなら、令和終了して改元するというリセットは現代ではもはや通用しないし、とか書いてたら阿部和重さんの『オーガ(ニ)ズム』を再読したくなってきた。『オーガ(ニ)ズム』どっかで映像化したらいいのにね。

『Swallow』『映画 えんとつ町のプペル』

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1月2日
2021年の映画初めはシネクイント『Swallow』を鑑賞。
緊急事態宣言出たら、また、しばらく劇場で映画観れなくなりそうだし、「週刊ポスト」連載もそれに伴い休載になれば、また原稿料出ないし、会社から給料もらってる半分フリーな人間は持続化給付金はもらえない。そうなるとちょいと詰みそうだが、確定申告である程度は返ってくるから春先まではなんとかなるはず。だから、映画館で映画を観る。
『パラサイト 半地下の家族』から半地下の家族要素をパッと見だけ抜いて、伊坂幸太郎著『重力ピエロ』の要素がある作品のように感じた。キリスト教原理主義なんかも絡んではいるが、女性が抑圧されてきたものからの解放、選択する主体は「私」であり、あなたでないという意思表示が描かれていた。
映像はロケーションも含めて優雅で美しく洗練されているが、異物を飲み込み排泄する一連の症状に陥る主人公のハンターの表情や身体性がサスペンス的なものを作品に持ち込んでいる。それが怖い、同時に魅力的に見える。口から肛門まで人間は一本の管である。それを踏まえたフェチや嫌悪感に襲われる。
ハンターがラスト近くである人に会って会話するシーン、たぶんキリスト教的なものの直喩であり隠喩、創造主と被造物との関係であるんだろう。よって、個人という主体である「私」は「私」として生きて取捨選択していくのだ、という決意表明でもある。オススメしにくいが素晴らしい作品だと思った。

 

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1月7日
早起きしてから、電車に乗って新宿ピカデリーで『映画 えんとつ町のプペル』を鑑賞。
ラスト近くでの主人公のルビッチの父・ブルーノ役である立川志の輔師匠の語り(ナラティブ)が大円団に観客を連れていくのが見事だった。原作・脚本・製作総指揮であるキンコン西野さんは「語り」に希望や夢を持っている人なんだろう、でなければあの構成にはしないはずだ。だからこそ、煙に覆われた町の上を突き抜ければ「星」=「希望」が見える(ある)ことを描いたと思った。しかし、その夢を伝えるその「語り」は、同時にこの日、海の向こう側のアメリカでは連邦議会議事堂内にトランプ氏支持者が突入するクーデターを起こした要因ともなった。

「語り(ナラティブ)」は立場を変えれば、希望や絶望がいとも簡単に反転してしまう。この映画はいろんな批評が出てくるとより輝くものとなるはずでもある。また、作中にはお金の話もあるし、SNSで炎上させて叩きにくる自警団のような存在も出てきている。
西野さんの実体験がかなり反映されているのがわかる。同時にこの舞台となっているのは、ラジオで水道橋博士さんが言っていたように軍艦島であり、石炭などを産出していたもの(エネルギーの創出)も感じさせる。そこはある種閉じられた空間であり、外部との接触がないというのも特徴的だ。

海の向こうに、空に向こうになにがあるのか? というのは島国である日本と重ね合わせることができる。えんとつ町はある真実を隠すために鎖国のような状態になっている。それはゼロ年代の内向きになった日本を彷彿させるし、部外者が入れないオンラインサロンのようでもある。西野さんはそのことを自覚しているからこそ、この町の外に行こうとする少年を描いたのだろう。冒険者はいつも狂人や変人扱いされる。それは彼らが常識では計れないからだが、いつしかその常識を変える可能性を秘めているからこそ、彼や彼女を恐るのだろう。

宮崎駿作品の少年はヒロインがいないと空を飛べなかった(呪われた豚のみが空を飛べたのは皮肉のようだ)けど、ルビッチは自分のアイデアと仲間の協力で飛ぶ。
ゴミ人間のプペルはゴミ(かつての希望や生命力)と父性(息子を抑圧せず後押しする存在として)の結晶であり、ルビッチを見守ってから境界線の向こう側で役目を終える。この作品はそのようなメタファがたくさんあり、何度見ても発見があるだろうし、観た人同士で話ができるものにもなっていて、やっぱり西野さんが時間をかけてやってきたことはすごいなと思った。

『博士と狂人』『トルーマン・カポーティ 真実のテープ』『星の子』『ジオラマボーイ・パノラマガール』『おらおらでひとりいぐも』『泣く子はいねぇが』『燃ゆる女の肖像』『ヘルムート・ニュートンと12人の女たち』『私をくいとめて』

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11月1日
毎月一日は「映画の日」というわけで、ヒューマントラスト渋谷にて『博士と狂人』をば。
いやあ、やっぱりショーン・ペンは素晴らしいな、壊れていく人の魂についての表現というか、それでも残る知性みたいなものを体現していた。映画の内容は辞書を作る話だけど、メル・ギブソン演じる博士とのやりとりとかにおける友情や知的な会話など好奇心が揺さぶられるものだった。こういう地味ながら良質な作品を観れるのはうれしい。

 

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11月6日
ル・シネマで『トルーマン・カポーティ 真実のテープ』を鑑賞。カポーティ作品を読み込めてないけど、人間としての魅力もだけど、成功して緩慢な自殺のようにアルコールにドラッグ、社交界の裏を暴露して大事な人も失っていった彼の人生を残されたテープと友人知人や養女となった女性のインタビューで構成されている。コンパクトながらうまくまとまっている。この映画の中でも絶筆となった遺作『叶えられた祈り』の残りはあるのかどうかというのは周りの人間でも意見がわかれていた。

 

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11月8日
大森立嗣監督『星の子』をヒューマントラスト渋谷で鑑賞。
新興宗教にハマっている親、思春期の主人公の娘、家から出ていった姉、ほどよい距離感で接してくれる友人。身内や親族、切りたくても切れない距離になにかを崇拝して揺らがない信仰や信頼をしている人がいて、自分がその価値観を信じれない、あるいは信じていたが揺らぐ時、その心情を描いてる。
なにかを信じている者の強さと脆さ、なにも信じていない者の自由さと儚さ、それぞれの価値観のグラデーションが人にはある。
信じてる方が楽だし、立っていられる。その数が少ないとぶっ壊れたり折れたりしたら生きていけなくなってしまうので、多種多様にいろんなものを信じればいい、どうせ矛盾を孕むし、矛盾せずに生きてはいけないとは思う。猜疑心や不満や矛盾を許せるかどうか、最後のシーンは矛盾してるけど、許したりわかったんだろうな、と思った。

 

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11月12日
シネクイントホワイトで岡崎京子原作映画『ジオラマボーイ・パノラマガール』をば。
新生PARCOになる前の工事中のPARCOや、月島にある選手村になる予定のマンション群なんかが出てきて、その時にしか撮れないものが物語の背景にあってよかった。毎年晴海埠頭に行くので物語の場所はなんとなくわかる。正月の選手村はゴーストタウンだったけど。
主人公の渋谷ハルコ演じる山田杏奈が角度によっては小芝風花やメルマ旬報でも連載している小川紗良さんにも見えた。小川さんは新垣結衣に似てんなあと思っていたので、彼女たちはガッキーの系統にあるキレイとかわいい両方感じさせる整った顔なんだろうな。顔の系統近いと声質も近いだろうし、骨格はスピーカーみたいな型だろう。好きな顔があれば、好きな声質もたいてい決まるんじゃないかな。似てる顔が好きになりやすいのは声も似てるからなんじゃないかなという仮説。

 

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11月17日
TOHOシネマズ六本木ヒルズで沖田監督『おらおらでひとりいぐも』を鑑賞。ひとりの人生に連なる歴史、見えなくても共に生きる過去の思い出たち。ある種のマジックリアリズムだと思うけど、僕らが生きている日常でもある。沖田監督作品って日常みたいな中に普通に不思議なものをぶちこんでくる、それがマジックリアリズム的なものなんだけど、今作ではマンモスだったり、悲しみの三人という主人公の脳内にいるであろう存在たちとか。あと『スパイの妻』と蒼井&東出が同じく出演してるので違う世界線にも見える。

 

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11月20日
新宿ピカデリーで『泣く子はいねぇが』を鑑賞。
父親になったばかりの主人公のたすく(仲野太賀)がナマハゲをしている際に飲みすぎてしまい、お面以外は何もつけていない全裸で町内を歩き、それがテレビで放送されてしまう。そして、彼は地元を逃げ出して東京へ。
2年後、東京にやってきた友人から元妻のことね(吉岡里帆)の父が亡くなり、彼女が風俗で働いていると聞かされたことで、地元に帰ってなんとかやりなそうとするのだが。失敗や炎上をすると一瞬で終わりになる今の世界を考えさせられる作品でもある。ことね(吉岡里帆)のたすくへの表情が何度も突き刺さる。なんか今まで観た中で吉岡里帆さんいちばんいいなって個人的には思った。ことねはことねで新しい生活を手に入れようとしていた。それでも諦めきれないたすく、最後は思った通りの終わり方ではあるのだが、よい終わり方だった。
たすくはなにかに怯えている感じもするけど、友達と密猟して稼いだりとかしているけど、なんかオフビートとは違うんだろうけど、物語のリズムが好きな感じだった。山中崇さんは兄役だったけど、ふたりが並んでいる感じもよかった。
佐藤快磨監督は是枝裕和監督が惚れ込んだ才能という文言が映画のサイトにも踊る期待の若手のようだた。是枝監督や西川美和監督たちを中心にした「分福」という会社はこうやって若手をフックアップもして行っているのは素晴らしい。前に観た『夜明け』という作品の広瀬奈々子監督も助手を務めてデビューしている。

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12月4日
『燃ゆる女の肖像』をル・シネマで鑑賞。ギリシア神話の「オルフェウス」と「エウリュディケ」の話が軸にあった。黄泉の国に妻の「エウリュディケ」を連れ戻しにいった夫の「オルフェウス」はハデスに地上に出るまで振り向いてはならないと言われてしまったものの、彼は妻の方を振り向いてしまったことで彼女が黄泉の国に吸い込まれるように消えてしまった、という話が主人公のふたりの女性にあり、終盤にはこの「振り向く」という行為が大きな意志を感じさせるものとして描かれていた。ただ、途中でウトウトしてしまったのでうまく感情移入ができなかった。

 

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12月13日
ヘルムート・ニュートンと12人の女たち』をル・シネマにて鑑賞。
ニュートンの被写体になった自分との彼との思い出について、モデルになった女性たちが語っていくインタビューがすごくいい。美しく気高い写真たちについて、知性とユーモアで写真の力やフェミニズムや差別について自分の言葉で話をしていて、とても魅力的だった。彼の妻でありフォトグラファーであるジェーンが撮った夫もすごくいい。まったくこのヘルムート・ニュートンについて知らなかったけど、こんなにカッコいい写真を撮っていた人がいたのか、写真集とか買ってみようかな。

 

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12月24日
大九明子監督×綿矢りさ原作×能年玲奈主演『私をくいとめて』をヒューマントラスト渋谷で。
本名なのに使えずに、「のん」って名乗るしかないのってすごいよね。『千と千尋の神隠し』みたいに名前を奪われている状況がずっと続いている。芸能界というのが博士さん曰く、あの世みたいなものだったら、本名さえも奪われるのかもしれないよなとは思わなくもないし、それがトンネルの向こう側であっても、おかしいことだけどね、と思うので「のん」ではなく、能年玲奈とあえて書いておく。
能年演じる主人公のみつ子はおひとりさまが上手になっている女性であり、時折家にやってきて料理をお裾分けしてもらう年下の多田くん(林遣都)に恋心を抱いているが、長年のひとりに慣れている彼女は中々前に進むことができない。
おひとりさまの先輩でもあり、仲の良いノゾミさん(臼田あさ美)やバリバリ仕事ができる澤田(片桐はいり)などとの交流や関係性もあり、仕事先は心地よいものとなっている。だが、昔はセクハラ男性上司がいたことものちにわかる。そんなみつ子は部屋や土日にひとりで出かけると誰かと話をしている、その相手が脳内の「A」(声は中村倫也)という存在で、所謂自問自答のような形になっている。そのやりとりが物語を進めていくが、大学の友達の皐月(橋本愛)が結婚して住んでいるイタリアに行った際などには消えたりしていた。
みつ子がノゾミにもらった件で温泉に行った際に行われていたお笑いのイベントには「THE W」で優勝した吉住が出ており、彼女に絡んでくる男性客を見て、彼女はかつてのセクハラ上司のことを思い出すなどのシーンがある。吉住にエールを送るセリフもあり、彼女は「THE W」の優勝者となった現実もあるので映画の世界と現実が繋がったような気持ちになる。
みつ子は次第に多田くんとの距離が深まっていくが、彼女の中にある不安やこれまでのことなどが爆発するようなシーンがあり、感情が不安定な人に見えなくもないのだが、人間が内面に抱えていることとしては共感できるし、そういうものを人は他人に見せていないだけなんだよなとも思う。能年玲奈の表情もいいし、感情のアップダウンも含めて、好きな映画だった。
また、このところ『細野晴臣と彼らの時代』を読んでいたのだけど、映画を見るまでYMOが散開して、元はっぴいえんどの面々が松本隆さんに呼び寄せられるように歌謡曲の世界で再結成したみたいなところまで読んでいた。映画を観たら、大滝詠一さんの『君は天然色』が主題歌になっていて劇中でも流れた。そして朝ドラ『あまちゃん』の能年玲奈橋本愛コンビが再び共演して笑っていたから、なんだかうれしくなってしまった。映画とは関係ないんだけど。

『2010s』と『シンセミア』

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ずっと発売がたのしみだった宇野維正&田中宗一郎著『2010s』が刊行された。宇野さんの著書としては同じく新潮社から刊行されている『1999年の宇多田ヒカル』と『くるりのこと』どちらも読んでいる。僕はロキノン子ではなかったので、今回の著者ふたりともロッキング・オンで編集者であり、その頃から追いかけている人たちのような熱い思いや憧れはない。

タナソーさんを意識したのは『snoozer』の人ということからだったし、宇野さんは先ほど書いた著者としてだった。『1999年の宇多田ヒカル』の編集者である、今回も担当編集者の金寿煥さんと知り合いだったので、読むきっかけになった。寿煥さんが樋口毅宏著『タモリ論』も担当されていて、僕は樋口さん同様に『水道橋博士のメルマ旬報』創刊時からの連載陣で当時は樋口さん宅と目と鼻の先というご近所だった。そういうこともあり、樋口さんの出演するイベントにも顔を出していて、そこで知り合いになったんだと思う。5年ほど前に青山ブックセンターで樋口さんが敬愛するロッキング・オンの編集者である山崎洋一郎さんとのトークイベントがあった。その時に打ち上げに一緒にいかせてもらった際に宇野さんや兵庫慎二さんや柴那典さんとはじめてお会いする機会があったように記憶している。もしかしたら、誰かは違う場所で会っているかもしれないけど、その三名は樋口さん繋がりなはず。

 

タナソーさんと初めて会ったのはちょうど10年前のGirlsのライブだった。このことは当時はてブに書いている。『2010s』でもGirlsのクリストファー・オウエンズがその頃一番シンパシーを感じるアーティストとしてテイラー・スウィストだと話していたことから、タナソーさんも熱心に彼女の曲を聴くようになったと書かれている。自分はまったくそっちにはいかなかったので10年代後半になってようやく聞き出した。そういう意味でも僕は『2010s』で書かれているポップ・カルチャーに起きたものはほぼリアルタイムではない。ちょっと遅れたりしながら、あるいは興味なかったりして名前だけ知っていたもの、ある程度周りがおもしろいという声があってから観たり聴いたりしたものがあって、この書籍はディスクガイドのように機能してくれた。

 

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第2章「ラップミュージックはどうして世界を制覇したか」読んで、ドナルド・グローヴァー主演『アトランタ』の舞台がなぜアトランタなのか、『ムーンライト』で主人公が大人になってから移り住んだのがアトランタなのかって意味をはじめて知った。なるほど。『アトランタ』はあのオフビートな感じで好きでシーズン2までを何度も繰り返して観てしまっている。シーズン2「略奪の季節」でのスピンアウトのような『テディ・パーキンス』で描かれたものは、黒人文化としてのヒップホップをメインにしたドラマであるが、あきらかにマイケル・ジャクソンのような存在を出しながら、アイロニーとやるせなさがあった。僕はその感情に深くコミットはできないけど、やろうとしていることはどこかわかる気がした。だからか、このエピソードがどうも自分の脳裏から離れない。

 

第五章で取り上げられている『MCU』シリーズも途中から観始めたので、初期の作品はほぼ観てない。調べたら僕が最初に観たのは2014年公開の『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』からだった。しかも、その時は『MCU』シリーズというものに興味がわかなくて、その次に観るのは同じくフェーズ2の『アベンジャーズ/エイジ・オブ・ウルトロン』でもなく、フェーズ3『シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ』でもなく、続編になる2017年公開の『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:リミックス』だった。僕にとって『MCU』シリーズは『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』と関係するなにかであり、『アイアンマン』も『キャプテン・アメリカ』も『マイティ・ソー』も知っていても観たいという気持ちはどうしてだかなかった。それは単純にビジュアルが好きではなかったのかもしれなけど。

 

ここで書いているのを観ると友人に勧められてしぶしぶ観にいって最高じゃん!ってなっている。自分の意識が変わり出したのが2017年とかなんで遅いっちゃ遅い。

ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:リミックス』以降に公開された『スパイダーマン:ホームカミング』『ブラックパンサー』『アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー』『アントマン&ワスプ』『キャプテン・マーベル』『アベンジャーズ/エンドゲーム』『スパイダーマン:ファー・フロム・ホーム』は劇場で観ている。しかし、ここでもスパイダーマンブラックパンサーに挟まれている『マイティ・ソー バトルロイヤル』だけ観ていない。だから、すごく『MCU』シリーズにどハマりしたとは言えないが、確かに作品として観て好きになっていった。リアルタイムで体験できる映画の祭りだったのも大きい、『スター・ウォーズ』シリーズにまったく乗れない人だったのもあるかもしれない。

 

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アトランタ』の主演でもあるドナルド・グローヴァーと『スパイダーマン:スパイダーバース』の関係についての箇所は読んでいてはじめて知った。有名なことかもしれないけど、おそらく『スパイダーバース』を単純にスパイダーマンの新作CGアニメーションとして楽しんだだけではその経緯や流れはわかっていないし、知っていない人が多かったはずだ。『This is Amerika』を歌ってる人があの作品に影響を及ぼしているとたいていの日本人の観客は知らなかったと思う。インターネットでググれは出てくるかもしれないことでも、その乖離は間違いなく起きていたんじゃないかな。そういうことも含めて10年代のポップ・カルチャー同士の連なりや影響をこうやってガイド的に、ふたりのそれぞれの主観的な視線や思想も含めて知っていくというのは非常に知的な興奮を覚えるし、世界のディテールがより複雑になるのに明細度が上がる感覚を覚えた。

 

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『2010s』を最後まで読了したのは日付が変わった今日。1945年の敗戦、アメリカの属国として復興と繁栄、そして没落し後進国になったことに目をそらし、耳を塞いできた十年代、その時ポップカルチャーではなにが起きていたのか?
ハイコンテクスト化していくポップカルチャーと文脈、インターネットとポピュリズム、分断と衝突、多層化する世界を行き来する人と取り残される人。
なんとなく興味をもって観たり聴いたり読んできたもののリンクと水面下でのクロスオーバー、ネイティブな英語圏ではないから取り残され、理解できていなかったバラバラのピースが完璧ではないが前よりも輪郭がわかるようになった。たぶん、これはあれと繋がるし、とかとか。
阿部和重作品における日米関係の描きかたとかもそれらを考える上でヒントになるし、最後のタナソーさんと宇野さんの話にも通じている。
最終的にはアメリカは中国とヨーロッパに屈するだろう、日本はアメリカに追随していく羽目になる可能性が高い。その過程でアメリカのジャパン州になって、天皇制も解体される日もあるかもしれない。天皇制という明文化された奴隷制度がある限り、日本では革命は起きないと思ってる。尊皇攘夷て結局、天皇家を人柱にした革命だったから、まずその次に革命を起こすなら彼らの解放からしかないように思える。
きっとポップカルチャーはそんな中でも未来に起きるなにかの種子から芽を出して、僕らに新しい時代を伝えてくる装置にもなる。
ちょっと経ったらもう一度再読してみよう。書かれた作品を観たり聴いたりしてから読み返すと違う景色もまた見れそうな気がする。

 

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『2010s』を読み終わる前に、仕事が終わってから季刊誌kotobaプレゼンツ「21世紀に書かれた百年の名著を読む」第4回 仲俣暁生×倉本さおり「阿部和重シンセミア』を読む」を聞きに荻窪の本屋titleに行った。駅からこんなに遠かったかなあ、と思いつつ歩くとお客さんわりといて、最終的には満席みたいな感じになってた。友人のパン生地くんなど顔見知りの方もチラホラ、一度トークイベントにいった時にご挨拶してた作家の鴻池留衣さんもいたりしてほぼ満席だった。

僕が『シンセミア』読んだのは仲俣さんと会って以降だから間違いなく2008年よりはあとになる。それまで伊坂幸太郎作品と一部の村上龍作品とレイモンド・カーヴァー作品ぐらいしか小説を読んでなかったのに、2008年から古川日出男作品と阿部和重作品読み出した。だから、「J文学」なんて単語があったことも知らなかったし、文芸誌もまったく読んでなかった。そもそも上京したのは脚本をやろうとしてたからで、目指すは野島伸司野沢尚、そして宮藤官九郎だった。純文学とか何にも知らなかったし、同世代の十代から小説を読んでた人たちみたいなインプットはほぼなかった。だから、阿部和重さんを含む「J文学」と呼ばれた作家たちもメフィスト賞作家陣もリアルタイムではなく、評価が決まったあとぐらいから読んでる。そういうのもあって僕は12年ぐらいしか小説を読んではない。

その中でも阿部和重古川日出男という二人から、村上龍村上春樹に、中上健次に、三島由紀夫に、大江健三郎にと遡ったりしながら読んだりしてる。興味持てたの阿部さんと古川さんの小説、そして大塚英志さんの書いてきたものによるので偏ってるんだと思う。

『文化系トークラジオ Life』界隈の人と知り合って付き合いができるようになったのも08年になるから、人文学ってものがあるんだな~て知ったのもその頃だし、批評とかも同じでそれまで意識してなかった。大塚英志関連書籍は買ってたけど、読んでも全然意味がわからなかったから途中で投げ出してたし。人文学系を読み出して、なんか聞いたことあるな、それ、みたいに繋がりだした。そういう中でなぜか古川さんと阿部さん作品は読んだらおもしろくて、どんどん伊坂幸太郎的なエンタメから純文学寄りに移行していった時期だった。

 

映像化されない阿部和重問題は、阿部和重さんと青山真治さんの関係はかなりデカいと思う。「北九州サーガ」とか青山さんは自分で撮りながらも小説として発表していた。阿部さんは日本映画学校出身だし、シネフィルとか含めても、撮るという視点は最初からあった。撮るという暴力性や加害者になりえてしまうということを、小説を書くときに批評的にも入れてるし、入れざるを得なかったはず。だけど、青山さんの小説にはそれがない。

今はセルフィーの時代なので自分自身が加害者であり被害者でもあるという恐ろしい時代みたいなことを菊地成孔さんが言ってた気がするけど、撮るってことの暴力性に対しての意識はこの10年でまったく違うものにはなっている。
青山さんは映画監督だから、その暴力性や加害者的なものは意図的にか、スライドするように排除しつつも、九州男子的な家父長性の中で物語が展開される。そして性暴力が描かれるが、被害者である女性は、それでも母性で彼らを包むというレイプファンタジーみたいな日本社会に根付いてる甘えはあったような気がしなくもない。阿部和重作品はそこにはいかないようにしてたのかなあ、と仲俣さんと倉本さんの話を聴きながら思ったりした。『サッドヴァケイション』でようやく母性に復讐されるというか飲み込まれてしまったような記憶があるが、ちょっと記憶があやふやだ。

 

阿部さんが自分で監督やらないとあの頃は基本的に映像化できなかっただろうし、映画愛があるから映像化させないハイコンテクストで多層的な側へ向かってた気もする。
神町」トリロジーと一連の派生作品を『スター・ウォーズ』サーガ的なものみたいなものとして最初はあったんだろう。だけど、阿部さんは『アベンジャーズ』シリーズの『エンドゲーム』観た後に『オーガ(ニ)ズム』を含むそれらを『阿部ンジャーズ』みたいな茶化したことをツイートしてた。
もう『スター・ウォーズ』みたいな懐古主義でやっていくには世界は分断されて多層化されてしまっている、そして、ハイコンテクストであり三部作×三ではなく、10年に渡って紆余曲折ありつつ、現実を作品に取り込むながらフェイズ3で23作品にまで拡張していった『アベンジャーズ』シリーズみたいな戦い方しかないって思ったんだろう。
阿部さん自身が『キャプテン・サンダーボルト』で伊坂幸太郎さんと組んだことは明らかに『オーガ(ニ)ズム』に影響されているし、伊坂さんはサーガではないけど、キャラクターである黒澤が到る作品に現れることで世界観を共有しているような、ゆるやかな連帯や世界観のほうに舵を切ろうとしてるのかもなしれない。

 

シンセミア』では町が洪水にのまれるというか、あれが311を予見してたみたいに思えたし、言われてたけど、ポン・ジュノ監督『パラサイト』で起きるあれ観たときに僕は『シンセミア』浮かんだ。『パラサイト』のあれは格差社会のメタファだけど、ビリー・アイリッシュとか今多くの人が歌ってる人類の一番の問題である気候変動がもたらす人類への無慈悲な鉄槌でもある。阿部さんが『パラサイト』を観た感想がかなり絶賛だったけど、あんたのほうがすげえからね、ほんと。そういうものもこれから自身の作品の中に取り込んでいくんじゃなかな。

あと海外に翻訳という意味ではほんとされてないんじゃないかなあ、聞かないし。
仲俣さんがミシェル・ウエルベック阿部和重リチャード・パワーズ古川日出男がどんどん近づいてるみたいな話をされてたけど、そういう感じなら出ていけるんじゃないかな。古川さんは何ヵ国か訳されてる。今だと日本文学は村上春樹のあとは川上未映子村田沙耶香みたいになりそうな雰囲気あるけど、阿部和重だろ、まずは。そうならないのは単純に出版社とか今エージェントしてる人たちがそういう想像力がなかったり、実行力がないだけなんじゃないかな、やろうしてるのかもだけど。
あとは阿部さんを学生時代から読んでいたような40代前半から僕らぐらいの人間が超氷河期時代の犠牲にならずにある程度の数が出版社に入ってたら、そういう動きをやっていくような動きは少なからずあったんじゃないかなっていうifもしもの可能性も考えたりした。

 

『2010s』でタナソーさんがいっときトマス・ピンチョン作品を集中して読んでいたという話があった。僕はまだ数冊しか読んでいないけど、ピンチョンの長大で難解な小説はあらゆるものがぶちこまれている。テレビや映画や音楽やドラッグや歴史すべてが混ざり合ったポストモダン文学とされる。ハイコンテクストすぎるわけだが、ちょっと小説を読み始めたってぐらいの人では読めない、あらゆるカルチャーにも視野や興味がないと何が書かれているのかわからない。そういう意味でもハイコンテクストになって分断され、多層化したポップ・カルチャーについて書いたタナソーさんがピンチョンを熱心に読んでいたというのは繋がっているはずだ。2020年ぐらいになった時に『2010s』を再読する時にどんなことを思うのか、時代やポップ・カルチャーが変化したのか改めて感じることになるんだろう。

 

『つつんで、ひらいて』

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装幀家菊地信義を追った記録映画『つつんで、ひらいて』をイメージフォーラムにて。広瀬奈々子監督は今年デビュー作『夜明け』を今年アップリンクで観ていた監督さんだった。


紙の本、デザインと物質、意識と身体性、僕が今考えたり関心があることが映し出されていた。
言葉はものだから、声にしたり文字にしたり、した瞬間こぼれおちていく。だからこそ、器は必要になる。

すべてが溶け合う境界線が奪われた場所は行き来自由だけど、他者性が損なわれてしまう、他者がいなくなる世界では当然ながら自分が失われていく。
しかし、資源は限りがあるから本というスタイルは少なくなっていくけど、紙の本はハードウェアとソフトウェア療法を兼ねていて電源もいらないし、充電の必要もない。


インターネット的な思考やシェアみたいことを言っている人たちの言葉はなんだかんだ言っても紙の本として売って届けている。彼らはウェブの可能性がわかっていて、同時に不可能性もわかってるから本で届けようとしてる。


所詮、人はやがていなくなるのに形あるものを欲し続けて、死んで跡形もなくなる。精神と身体性、肉体は心臓停止から腐り始めて放置されれば鳥に啄まれて、獣に食まれて、菌類に分解されていく。骨は残るとして内に秘められていた心はどこに向かうのか、蒸発するようにただ消えるのか。
言葉による思考、思考や物語の断片は言葉によって表されていくのに、どんどん意識とズレて落ちていく、なんとか叩きつけて刻みつけて言葉から引きずり落とされないように、足掻いてもがくから息も絶え絶えになるとこまで行かないといけない。


かつては石に刻み、紙に著し、ウェブには漂う。人の身体性がなくなる世界ならば、問題はないのだろう。それはもはや人ではないホモ・デジタリアンとか、違うヒト科の亜種だから。
自分にとっていい装幀の本は、呼ばれてるのがわかる、だから手に取る。装幀家が著者への扉を僕に開いてるから。