Spiral Fiction Note’s diary

ライター&Webサイト編集スタッフ。「水道橋博士のメルマ旬報」で「碇のむきだし」、「BOOKSTAND」で「月刊予告編妄想かわら版」、「PLANETS」で「ユートピアの終焉ーーあだち充と戦後日本の青春」を連載中です。

Spiral Fiction Note’s 日記(2022年5月24日〜2022年6月23日)

水道橋博士のメルマ旬報』連載「碇のむきだし」


日記は上記の連載としてアップしていましたが、こちらに移動しました。一ヶ月で読んだり観たりしたものについてものはこちらのブログで一ヶ月に一度まとめてアップしていきます。

「碇のむきだし」2022年06月掲載


先月の日記(4月24日から5月23日分)


5月24日

幸村誠著『ヴィンランド・サガ』26巻。人が犯した罪は許されるのか、戦場で育ち、生きるために人を殺してきたトルフィンの贖いとその生き様が他者の心を動かす。人は変わることができるか、読む人の心の奥の方に響いてくる、ほんとうに素晴らしい作品。


大友克洋著『THE COMPLETE WORKS 4 さよならにっぽん』を購入して読んでいたのだが、タイトルにもなっているシリーズ連作『さよならにっぽん』を読んでいて「あっ、なぜか『気分はもう戦争』と間違えて買ってた」と思った。そもそも『気分はもう戦争』はこの「THE COMPLETE WORKS」シリーズに収録されるのかな。
矢作俊彦原作作品だけど、このシリーズって原作ありのものも入るんだろうか、どうなんだろう。『気分はもう戦争』がもし出るなら、矢作俊彦さんの小説『あ・じゃ・ぱん』も合わせて講談社文庫とかから出してくんないかな。

 

5月25日

太田省一著『放送作家ほぼ全史 誰が日本のテレビを創ったのか』を読み始める。星海社は新書はいい本がちょこちょこ出ている。「三木鶏郎グループ」に大学入学と共に永六輔さんが入ったところまで読んだけど、日本のテレビの歴史ってそもそもまだ百年も経ってない。そういう黎明期に関わった人たちはすでに亡くなったりしているけど、その弟子世代とか覚えている人たちはまだ残っているし、放送作家という人たちのマルチな活躍というのも興味深い。
表紙は鈴木おさむさんと秋元康さんと大橋巨泉さんのイラスト、大橋巨泉さんは幼い頃にわずかばかりだがテレビで見たような記憶はあるけど、実際のところは本当にそうだったのか懐かしの番組を見たイメージなのか判別はつかない。ただ、自分と同じ誕生日の有名人を調べると丸山眞男マルセル・マルソー草間彌生大橋巨泉って出てくるから、クセが強すぎるだろと思うけど、それだけで親近感はある。
帯に名前が書かれている近年の放送作家のところには鈴木おさむ三谷幸喜君塚良一三木聡宮藤官九郎と脚本家としても活躍しているというか軸をそちらに移していった人たちが多い感じ。最近だとオークラさんも『ドラゴン桜2』とか大きな作品の脚本を手がけるようになっている。
放送作家たちが何になったのかということが章ごとに10年代ごとに分けられている。60年代「タレント」、もうひとつの60年代として「小説家」、70 年代が「アイドル時代を作った人たち」、80年代が「バラエティ時代を作った人たち」、90年と00年代は「脚本家」、そして「YouTube」と代表的な放送作家たちがどういう時代を作ったのか、なにと関わっていったのかわかりやすい章仕立てになっている。だから、テレビや音楽、メディアの歴史もわかりそう。

アヴちゃん×古川日出男 インタビュー「徹底的にやることは、美醜関係なくすごみを生む」

アヴちゃん「ストライクでもいいから振り抜くことって、私はすごく大事だと思っていて。でも、たくさんの人が関わる緻密な作品をつくっていると、それが怖くてできないという人も多いと思うんです。それこそ映画って大博打ですし、『その中の冠をやるんだったらちゃんとしてなきゃ…!』と思って、そこでこそブン回す、肩が抜けるくらいに振るっていうことができたのでうれしかったですね」

アヴちゃん「でも、ゼロにかけていくことは、やっぱり狂気だとみんなは感じると思う。『ゼロかけるゼロはゼロじゃん』って思われるけど、ゼロを壊して何者でもない数にしたいって想いが、歴史の中で何かを変えていったと思うんです。『犬王』のような、たくさんの潰えていったものを拾い上げる作品ができたことは、すごく救いですけど、例えば私がここに立つまでに出会ってきた、たくさんのバンドの子たち、やめていった子たち、ゼロにかけて命を絶ってしまった子たち……。そこでやっぱり徒花(あだばな)として、ゼロにかけても壊れなかった、壊れ方がわからなかったまま来ることができた私が、映画の主演をやれるだなんて『日本、明るい!』と思って」

古川「さっきアヴちゃんがした、ゼロをかけてもゼロにならないっていう話が、すごく深いような気がするんですね。醜さを持って生まれた犬王が舞台をやるたびに美しさを少しずつ取り戻していくんだけど、先日、湯浅監督と対談したときに映画の感想として最終的に僕の頭に浮かんだのは『醜×0=美』という式だと言っていて。本当はゼロをかけたのだから美になんかならないはずなのに、ゼロをブチ壊してそこから美を生んだっていう。それが、いろんな彩りの光を混ぜてもドドメ色にならないというアヴちゃんの発想にも近いと思うし、この先何も仕事がないっていうときにも出てきたもの(=曲)があるから今につながっているんだと思う。その『ゼロをかけてもゼロにならないんだよ』っていう想いが一本ずっと筋を通しつづけているから、この『犬王』という映画はカッコいい人がつくっているものになったんだと感じます」

古川「自分が仕掛けたわけじゃないのに、ここまで広まったということは、必要とされるものが始まっているんだろうなと思う。それこそ、ロシアのウクライナ侵攻が始まって、例えばみんな今、反戦って言うかもしれないし、そういう行動を起こさなきゃって思うかもしれない。でも『平家物語』や『犬王』を観てもらえれば、そしたらもう『戦争イヤじゃん。さぁて、どうしたらいいべ? 何かする?』みたいな気持ちになると思う。なので求められているものを、自分が出したいと思うよりも先に世界が『今、世に出ろ』と言ってくれたような感じがしています」

いやあ、全部読んだけどめちゃくちゃいい対談だった。この長さでもWebならアップできるし、かなりお二人の気持ちや創作だけではなく考えも素直に出ている感じで、すごくいい組み合わせだと思う。

 

5月26日
「BOOKSTAND映画部!」のレビューコーナー「月刊予告編妄想かわら版」2022年06月号が公開になりました。56月は『機動戦士ガンダム ククルス・ドアンの島』『さよなら、ベルリン またはファビアンの選択について』『メタモルフォーゼの縁側』『神は見返りを求める』を取り上げています。


水道橋博士のメルマ旬報』連載「碇のむきだし」2022年5月26日号が配信されました。4月5月に観た映画日記です。『TITANE/チタン』『ニトラム』『ハケンアニメ!』『ベルファスト』『スパークス・ブラザーズ』『カモン カモン』『パリ13区』『ドクター・ストレンジマルチバース・オブ・マッドネス』『北の橋』『死刑にいたる病』『シン・ウルトラマン』『EUREKA/ユリイカ』などについて書いています。


目が覚めて、MacBook Airを開いて昨日放送した番組をTVerで眠気覚しがてら流す。我が家にはテレビがないし、音楽もPCの中のiTunesか壊れかけのiPod nanoしかない。
スマホのバイブが鳴ったので、目覚ましだと思って手に取ったら、電話がかかってきていて知らずに取ってしまっていた。
「あのお、こちらはマコトさんの携帯でしょうか? 私は以前法泉院におりました川村です」
と高齢だと思われる男性の声がした。
マコトは父の名前なので、僕と父を間違えて電話してきたことになるのだが、そんなことそもそもあるだろうか、なんだろう、これと思ったので、一応「マコトは父です。息子のマナブですが、お間違えですか?」と返した。
「あれ、そうなんですか。前にメモしたのがマコトさんの番号だと思ったんですが、すみません」
実家の近くに法泉院という真言宗系の寺院があり、幼い頃は遊びに行ったり、相撲大会があったり、神楽をやっていたりした記憶があった。祖父母もある時期から山の上にある寺院ではなく、こちらにお参りするようになっていた。
祖父の葬式の時にお経をあげてもらったのも法泉院の住職さんだったので、おそらくその人だろうと思った。
だが、わからないのはなぜ僕の携帯番号をその人に、父なのか母なのか、家族の誰かが父のと間違えて教えたんだろう、そもそもそんな間違い起きるか?という疑問があった。
話をしてみると、確かに祖母の名前も出てきて、お世話になったという話もされていて、辻褄はあう。
震災後に実家に帰った際に、祖母の兄の初生雛鑑別師だった新市さんのことを聞こうと思って祖母にインタビューをしたことがあって、祖母の一生についても聞いていた。その時に、祖父が亡くなった頃の話もあって、法泉院の川村さんの話もあり、祖父が可愛がっていて、川村さんも慕ってくれていたと言っていた。それらは文字起こししているので、電話のあとにワードで確認した。
川村さんは祖母が新市さんの話もよくされていたと言われた。間違いなく、この人は我が家のことを知っている。父とも時折話をしていたと言われた。友達がいるイメージがゼロで、サボテンいじりと数独ばかりやっている父にも普通に話す相手がいたんだなと思った。
父は外に飲みにいくこともなく(父の出不精のおかげで我が家は外食に行くことはなく、瀬戸内海に釣りにいった帰りだけ笠岡のラーメン屋のとんぺいに寄ってラーメンを食べるのだけが唯一の例外で、僕が基本的に外食に行くのが苦手なのは幼少期からそういう経験がほぼゼロに近いから)、趣味であるサボテンの知り合いがいるぐらいだろうと思っていたので、会った時にはいろいろ話をしていたと言われて、ちょっと驚いた。
とりあえず、実家の電話番号を伝えてから15分ほど話をしていた。川村さんはそもそも四国にいたが、岡山でも護摩を焚く仕事をするようになってから、法泉院を任されるようになった。その時に、祖父母に息子のように可愛がってもらったのだという。実際に父と川村さんの年はあまり変わらないみたいだった。数年前にやめてから地元の兵庫に戻ったとのことだった。
一応、終わった後に30分ほど経ってから実家に電話をしたら、すでに川村さんから電話がかかってきたらしい。一応、なにがあるかわからないから、実家に電話しといたほうがいいかなと思ったのだが、川村さんは法泉院の昔のことを知っている人から話を聞きたいみたいなことを言っていたらしい。祖母は健在だが101歳ですでにボケがひどくなっているから、難しいだろうし、耳も悪いから電話で長く話すのも無理だろう。実際に会って話をすれば、急にしっかりして話をする可能性もなくもないが。
祖父は亡くなっていて、コロナパンデミックになってから実家に帰っていないので三年以上は祖母に会っていないが、祖父母と時間を過ごした方からの不思議な間違い電話。ほぼ面識がない人との会話でなぜか気持ちが軽くなったように感じた。


コトゴトブックスで注文していた西村賢太著『雨滴は続く』(「西村賢太追悼文集」付き。←は後日別に)が届いた。実は今まで西村作品を読んだことがなかったのだけど、「私小説家・西村賢太」誕生前夜という部分に惹かれて。読み始めたけど、冒頭から引き込まれる。


大塚英志著『シン・論 おたくとアヴァンギャルド』が発売日なので散歩がてら書店に行って購入。『シン・エヴァンゲリオン』『シン・ゴジラ』『シン・ウルトラマン』も鑑賞済みなので、大塚さんによる「おたく」の歴史を踏まえた芸術論を読むのがたのしみ。

 

5月27日
PLANETSブロマガ連載「ユートピアの終焉──あだち充と戦後日本の青春」の最新回が公開になりました。
『QあんどA』(前編)では、現在『MIX』を連載している「サンデー」レーベルの月刊少年誌「ゲッサン」創刊と今作の登場人物たちについて書いています。

 庵野秀明の、というよりおたく的な表現の根本的な倒錯はその出自が未来派にせよ、ジガ・ヴェルトフにせよ、彼らがモンタージュ、つまり空間と時間の固定された状態からの「解放」と「編集」を以て観客に体験せしめようとした「事実」を持たない点にある。「事実」は「生活」とか「現実」とも言い換えられる。(『シン・論 おたくとアヴァンギャルド』P96より)

 


翌日の28 日に公開される映画『犬王』の公開記念イベント『琵琶歌と「語り」の魔術―後藤幸浩(薩摩琵琶奏者)×古川日出男(作家)』を六本木の文喫に聞きに行った。
アニメ『平家物語』とアニメ映画『犬王』について琵琶監修と演奏をされた後藤さんと原作者である古川さんがトークをされた。
琵琶の音やその語り、能の時間の長さ(なぜ現代の能は長くなったのかの推測、かつては現在よりも短かったことは文献などでわかっているので、そこから導き出した理由として教えていく際にどうしても長くなっていき最終的には今の長さになったのではないかと古川さんは話されていた)、そして、歴史(正史)に残されなかった人たちの鎮魂としての物語(語り)とそれを現在に揺らすために持ちうる身体性についてなど話は多岐に渡って、ほんとうにおもしろかった。あと二人の会話のリズムとテンポがだいぶ合っていたのもよかった。 
後藤さんによる琵琶の演奏が最初と終盤で二回あった。琵琶から鳴る音の揺らぎの幅というか、イエスでもノーでもない境界線を行き来するような空間の波のようだった。それは古川さんがずっと書いてきた作品にも僕が感じていたものだ。
最後のふたりのセッション(後藤さんの琵琶の演奏と古川さんの朗読、数時間前に古川さんの朗読も決まったらしく、即興でのセッションとなった)はその場をまるで「此岸」と「彼岸」の狭間みたいな場所にして、二人が僕ら観客を連れて行くようなものに思えた。それはまるで願いを含んだ、かつての者たちへの祈りみたいようだった。
朗読された『平家物語 犬王の巻』のラストシーンの朗読と琵琶の演奏の融合はいろんなものが晴れていくような、心に終わっていた仄暗いものが光に向かうような鎮魂歌のようであり、とても心に響いた。

過去現在未来の時間軸を繋ぐものがあるなら、それはそんな此岸と彼岸の狭間にあるような気がする。
僕がはじめて古川さんのサイン会に来て、朗読を聞いたのはここだった。文喫ができる前にあった青山ブックセンター六本木店、14年前にはあったが、今はもうない。今日とあの日が重なるような感じで、僕の中で過去と現在がダブる、空間が重なる。そう考えられば、『平家物語』も『犬王』というかつての時代を描いた物語も現在の僕らと重なるはずだ。
14年前のイベントは『ベルカ、吠えないのか?』の文庫本発売記念トーク&サイン会だった。凄まじいものを見て聞いてしまうと、終わってから古川さんに挨拶をしようと思っても言葉がうまく出てこなくて、自分でもびっくりで、いつもみたいに話ができなかったけど、その時にもらった「100うぉん」を古川さんにお見せした。なんか見せたかったのは、きっと「犬」つながりだから。
アニメ『平家物語』とアニメ映画『犬王』を観て、古川さんの小説も読んだら、ノンフィクション作品『ゼロエフ』もぜひ読んでほしい。しっかり現在の世界と過去が繋がっていくから。
『ベルカ』もアニメ化しないかな、冷戦に駆けていった犬たちの系譜と歴史を描いているので、まさに今の戦争状態(ウクライナ侵攻)とも通じるものだから。
水曜日のダウンタウン』の中で好きな芸人ランキングで圧倒的な強さを誇っているサンドウィッチマンの話になった時に「サンドの伊達ちゃんに会わせちゃダメだよ」みたいなことが言われていて、みんな会うと好きになっちゃうからっていう理由だったんだけど、同じように古川さんの朗読は生で聴いちゃダメなんだよね、あの体験したら朗読の概念がガラリと変わるし、あんな朗読ができる人はほぼ存在いないと思う(役者だったり、表舞台に立つ人でもたぶん無理だと思う)。14年前に『ベルカ、吠えないのか?』の朗読を聴いてから、都内以外に高知県竹林寺やロサンゼルスのUCLAでも朗読を見て聞いたけど、やっぱりその時は幽玄に入り込んだみたいな空間になっていた。

 

5月28日

TOHOシネマズ渋谷で初日初回の湯浅政明監督『犬王』を鑑賞。
朝イチの回だったけど、七割ぐらいは埋まっていた気がする。入場者プレゼントの松本大洋×古川日出男「犬王お伽草子」ももらえた。
試写会で観た時には「なにかうまくつかめない、わからない部分がうまく咀嚼できない」という部分が正直あったのだけど、二回目のほうがするりと入ってくるような気がした。もちろん、前日に古川さんと後藤さんの対談を聞いていたことも大きかったのかもしれないし、今回は後藤さんが弾いた琵琶の音を意識して聞いたから一回目に観た時よりも琵琶の音がよくわかった。
物語の終盤で友有が自らつけた名を捨てないこと、琵琶法師の座には戻らないこと、そして犬王の物語をやめないと役人に連れていかれそうになった時にずっと歯向かい続けたシーンで自然と涙が溢れてきて止まらなかった。そのあとの犬王のシーンでの苦渋の表情と友有のことを思っての彼の判断にも胸をうたれた。そこにはまさに友情というものがあり、失われることになった者たちが一番大事にしていたものを守ろうと足掻いた、人生があった。だけど、「犬王」も世阿弥の書には出てきても彼の曲は一切残っていない。だが、その名だけは残っている。
『犬王』はまさに登場人物たちの名前を巡る物語でもあるが、それは古川日出男作品に通底する部分だ。『犬王の巻』を読んでから古川さんの他の作品を読むとその通奏低音に気づく人も増えるのかもしれない
あと、一番嬉しかったのはエンドクレジットが終わったあとに自然と拍手が鳴ったことだった。公開初日に観れてよかった。

『犬王』試写、だけど、映画の感想っていうか古川日出男論的な(一回目の時の感想)


12時半から中野駅で20年来の友人と待ち合わせをしていたので、映画が10時半ぐらいに終わったので歩いて向かった。日差しが強く、梅雨はどこへ、もう終わったのかという暑さだった。渋谷を北上して富ヶ谷や代々木八幡を通って甲州街道に向かう。
富ヶ谷や代々木八幡は用事がないし、知り合いもいないのでまったく行かないエリアだが、オシャレなお店がたくさんあって、ファミリー層やカップルなど若い人たちがたくさんお店に並んでいたり、歩いていた。実際に歩いたりしないとそういう雰囲気はわからないものだ。
その後、笹塚で甲州街道を越えてから新中野方面へ。新中野駅近くで「あれ、見覚えがあるな」と思ったら、毎年元旦に神田川沿いを歩いている時に通るバスの停車場があった。一時間二十分ほど歩いたら中野駅に着いた。そこで友達二人と、その息子くんと一緒にセントラルパークへ行ってランチをしながら、5歳児はよく話すので彼の問題に答えたりして話をした。その後、公演にある噴水が湧き上がる水遊びができる広場で息子くんを遊ばせながら話をした。三時間ぐらいがあっという間だった。コロナの脅威もなくなってきたから、こうやって直接に会うことができるようになったのは本当にいいことだなって思う。


さすがに帰りは電車に乗った。晩飯のおかずを買いに行くついでに、twililightに寄って出たばかりの小山田浩子著『パイプの中のかえる』を購入。店主の熊谷さんに以前小説をオススメしてもらった小山田さんのエッセイ集。
『ものするひと』を読んでファンになったオカヤイヅミさんが表紙イラスト、ニコラのカウンターで一緒になる横山雄さんによる装幀。寝る前にちょっとずつ読んでいこうかなと思う。

 

5月29日
なにか夢を見たはずなのだが、それを全然覚えてない感じで起床。
昨日同様に本日はかなり暑くなるというのを天気予報で見ていたので、すぐに洗濯機を回す。洗濯物を干してから少しだけ散歩がてら外に出る。夏だとしか思えない日差し。この暑さが続かないで、急に梅雨入りして雨降りが続く感じなのだろうか。暑くて雨が降ったら最悪だが、今年はどうなるのか。
アアルトコーヒーの庄野さんにオススメしてもらったアレン・エスケンスの小説があるかなとブックオフを覗いたらデビュー作があったので購入した。タイトルが『償いの雪が降る』というもので、この作家さんの発売されている三冊はこういう感じのタイトルになっている。ちょっと詩的な感じ、内容はミステリーらしい。

「クロワッサン」での野木さんと古川さんの対談でも「名前」の話がでていたと思うんだけど、古川日出男作品には「名前(呼び名)」が変わっていくという通奏低音な部分もある。 
脚本家・野木亜紀子は600年前の「失われた物語」に何を見出したのか? 映画『犬王』を語る

 

5月30日
PLANETSブロマガ連載「ユートピアの終焉──あだち充と戦後日本の青春」の最新回が公開になりました。
『QあんどA』(後編)では、亡き兄と繰り返される日常について書いています。実兄あだち勉を彷彿させるキューちゃん、ループものからのあだち充なりの脱却の意味とは?


スター・ウォーズ』ランド・カルリジアン単独シリーズ、『ハン・ソロ』版で進行中 ─ ルーカスフィルム社長が進捗明かす

2020年12月に発表されていた『スター・ウォーズ』のランド・カルリジアンを描く新シリーズ「Lando(原題)」が、『ハン・ソロ/スター・ウォーズ・ストーリー』(2018)に出演したドナルド・グローヴァーを主演として現在も進行していることがわかった。英Total Filmとの取材で、米ルーカスフィルムキャスリーン・ケネディ社長が明かしている。

ドナルド・グローヴァー主演の「スター・ウォーズ」シリーズはちょっと観たい。『ハン・ソロ/スター・ウォーズ・ストーリー』にドナルド・グローヴァー出ていたのを今知った。でも、その前に『アトランタ』シーズン3を見なければ。

朝晩とリモートワーク、昼休憩の時に家賃と住民税を払いに銀行に行ったら月末だからかなり混んでいた。家賃の縁込みはウェブでもできるけど、税金の支払いの紙っていうか送ってくるのはコンビニか銀行だから、とりあえず、ついでという感じで銀行で支払う。ただの気持ちの問題だろうけど。

今年のサマソニにはリバティーンズが出演するので行く気だったが、お金のこともあったので月が変わったらチケットを買おうと思っていたら、彼らが出演する土曜日もぴあとかが売り切れ始めたと友達が教えてくれたので、ローチケで取った。支払いは2日までなので、すぐにカードで払わなくて大正解。
日曜日はすでに売り切れているらしい。個人的にはリバティーンズがワンマンしてくれればいい話なのだが。いろんな面でコロナパンデミックが直撃した後遺症と日本がどんどん貧しくなっていることなど、相対的に海外からのアーティストを呼ぶことも難しくなっている。チケット代だって昔よりは上がってきている。ただ日本人の収入だけが上がっていない。

The Libertines - Time For Heroes (Official Video)

 

5月31日

TOHOシネマズ日比谷で『トップガン マーヴェリック』の初回IMAX上映を鑑賞。
前作『トップガン』は都合二回観て予習はバッチリ。9時前上映開始だったので、今日は渋谷まで歩いて銀座線に乗って日比谷へ。

トム・クルーズを一躍スターダムに押し上げた1986年公開の世界的ヒット作「トップガン」の続編。アメリカ海軍のエリートパイロット養成学校トップガンに、伝説のパイロット、マーヴェリックが教官として帰ってきた。空の厳しさと美しさを誰よりも知る彼は、守ることの難しさと戦うことの厳しさを教えるが、訓練生たちはそんな彼の型破りな指導に戸惑い反発する。その中には、かつてマーヴェリックとの訓練飛行中に命を落とした相棒グースの息子ルースターの姿もあった。ルースターはマーヴェリックを恨み、彼と対峙するが……。主人公マーヴェリックをクルーズが再び演じ、「セッション」のマイルズ・テラー、「ビューティフル・マインド」のジェニファー・コネリー、「アポロ13」のエド・ハリスが共演。さらに前作でマーヴェリックのライバル、アイスマンを演じたバル・キルマーも再出演する。「オブリビオン」のジョセフ・コジンスキーが監督を務め、「ミッション:インポッシブル」シリーズの監督や「ユージュアル・サスペクツ」の脚本家として知られるクリストファー・マッカリーが脚本に参加。(映画.comより)

36年前のヒット作の続編、しかもトム・クルーズはまだ現役でスーパースターであるという、どこかで次元とか歪んでいるように思えてしまうが、これが現実である。
他のIMAXで観た他の映画の予告で、この作品の予告を観た時に素直に観たいなと思った。映画の冒頭でマーヴェリックが乗ったマッハ10を目指す戦闘機が飛び立ち、実験を止めにきた空軍の少佐が戦闘機のソニックブームを地上で受けるという場面があり、それも予告編に入っていた。その時に画面から観客に向けてその轟音と共にそこにいるような感覚がサウンドシステムのおかげで感じられるので、これはまさにIMAXで観るしかない作品だなと思った。
スクリーン画面が大きくて音が全方向スピーカーから鳴って体に届くというか響くところであれば、戦闘機が飛んでいる際にパイロットに見えるものや飛んでいる速さだけでなく、またエンジン音などが感じられるという体験も含めて、この映画はまさにIMAXや4DXで観るために作られたものだった。体験型アミューズメントとも言える。
内容は前作を観ていればかなり楽しめるものとなっている。正直前作を観ていないと半分も楽しめないかもしれない。

冒頭からして前作と同じ音楽や字幕を使うことで重ねている。そして、この36年分の時間の経緯を物語の中で、二時間ちょっと回収していくのだが、それがかなりうまい。
前作における親友の死、その息子との関係性が軸として描かれる。この辺りは『カモンカモン』では伯父と甥だったが、今作でもマーヴェリックと親友の息子であるルースターも擬似父息子関係であり、子を持たない中年以上の男性が父になる、父的なプレイをするというのは、今の時代的なものも感じられた。これは「父性」の問題とも重なる。

80年代以降に青春を過ごした人がすでに中年以上になっているということも感じたし、次世代に引き渡せるものはあるのか、という問いでもあるようにも思える内容だった。
「父性」が失われている、失われていく、前時代的なものがどう現在へ挑めるか、なにを残せるのか、というのは、作中でも海軍のパイロットはそのうち自動化されるのでいらなくなるというセリフにもあったように、人が担っていたことをAIや機械が変わりにするようになれば、その仕事に従事していた人たちはいらなくなる。現在の戦争はとくに人を減らそうとしてきている。その意味でも20世紀を生き延びてきた、いわゆる大人たちが経験やそれによって得た知恵をいかに子供世代に引き渡せるのか、大事なものを引き継げるかという部分がある。それがいちばん難しいものだとは思うのだけど。

自分も中年なので、僕にはなにもなく、次世代に引き渡すことなどないので、邪魔はしないようにしていこうと思う、そのくらいのことは考える。おそらく、40代前半と30代後半の世代は上と下をつなげる役割や可能性があったはずだが、ネットが現れて替わりに担ったことで、宙ぶらりんになったところもあると思っていて、そうなるとあとは才能のある新しい可能性について邪魔をしないという選択肢ぐらいしかない。


帰りに書店で宇野常寛著『水曜日は働かない』を購入。僕は昔のバイトのシフトの流れもあって、この十年近くは基本的に木曜日が休み(働かない)。

 

6月1日
メフィスト賞2022年上期座談会

「第64回メフィスト賞」決まってる! おもしろそうなタイトルだし、メフィスト賞は「一ジャンル一作家」を謳うからこその選出な感じもありおもしろそう。
僕は8月末になんとか送りたいが、座談会の中で「性的虐待を扱った投稿作、今回は多かったように思います」とあり、映画監督たちのセクハラ問題ともリンクしているところもあるし、昨今のフェミニズムへの関心とかも反映されているのかな、と思ったりした。


ニコラに行って、上のトワイライライトで開催中のフェアのコラボデザートである「クリームダンジュ『動物になる日』風」というレアチーズケーキとアルヴァーブレンドをいただく。口の中に入れたらすぐになくなっちゃう、濃厚ではないが口の中に甘さとまろやかさが残る。

月が変わったのもあるが、体重が人生でマックスになっているのできちんと減量しないとほんとうにやばいラインに入ったので、夜は基本的にプロテインだけにすることにした。あとは週に二回か三回はランニングをする&スクワットと腕立て100回ずつを半年は続けたいと思う。
あとはSNSデトックスとしてまた半年はTwitterに「メルマ旬報」と「予告編妄想かわら版」と「あだち充論」の記事がアップした時に投稿、InstagramFacebookには観た映画や舞台、書籍などの画像やタイトル名をアップするぐらいにしようと思った。

 

6月2日

佐向大監督『夜を走る』を ユーロスペースにて鑑賞。

教誨師」の佐向大監督がオリジナル脚本で撮りあげた社会派ドラマ。郊外の鉄屑工場で働く2人の男。不器用な秋本は上司からも取引先からもバカにされながら、実家で暮らしている。一方の谷口は家族を持ち、世の中をうまく渡ってきた。それぞれ退屈で平穏な日常を送る秋本と谷口だったが、ある夜の出来事をきっかけに、2人の運命は大きく揺らぎはじめる。無情な社会の中で生きる人々の絶望と再生を、驚きの展開で描き出す。「きみの鳥はうたえる」の足立智充が秋本、舞台やドラマを中心に活動し「教誨師」で映画初出演にして注目を集めた玉置玲央が谷口を演じる。共演には「夕方のおともだち」の菜葉菜、「罪の声」の宇野祥平、ドラマ「孤独のグルメ」の松重豊ら個性豊かな俳優陣が集結。(映画.comより)

Twitterなどで樋口毅宏さんや映画・音楽ジャーナリストの宇野維正さんなどが試写で観たあとにかなり高評価だったことで気になっていた作品だった。他の観た人は『アンダー・ザ・シルバーレイク』を彷彿した(前半と後半でまるで違うから)ということを言っている人もいたし、公式サイトで菊地成孔さんもコメントを寄せていたのでとりあえずおもしろいかかなり意外性のある作品なんだろうなと思っていた。

予告編で見ても正直この物語がどこに進んでいくのかわからない。主人公の秋本と谷口が飲んだある夜の出来事をきっかけに物語が動き出す。しかし普通に考えるとその出来事(事件)が起きれば普通はこの二人が協力してそれをなんとかやりすごすか、バレたことで大事になっていって二人とも破滅してしまうか、など想像の範囲内に収まるのかなと思って観ていると、確かに想像以上の展開になって驚かされる。
秋本が思いもしなかった方向に行くことになる。物静かで感情を出さなかった秋本がある集団と関わったことで、それまで隠していた感情を一気に爆発させていく、それはまさにカオスであり、なにが起きているのかうまく掴めなくなっていく。

谷口は実家にいて結婚もしてない秋本とは違い、妻と四歳の娘がいるのだが、どちらかというと谷口のほうが事件に関わる様々なことに巻き込まれていく度合いは高いように見えた。だが、秋本の暴走によってそれまで人生をうまくノリなどでやってきた彼にとって最大のピンチが訪れることになっていく。この秋本と谷口の対比も非常によかった。
僕としては中盤移行の物語が一気に違う方向に向かっていくのは確かにいろんな人が高評価するだろうなと思うけど、驚きはしたもののそこまで響かなかった。
ちょっとだけ松本人志監督『しんぼる』みたいな、なんつうかカルトっぽさは逆にリアリティあるのかなあとか思ったりもしたけど、大絶賛はできない。ただ、2022年の年末にこの作品を年間ランキング上位にあげる人もいるだろうなと思う怪作であることは間違いない。


燃え殻著『それでも日々はつづくから』を読みながら、火曜深夜に放送された燃え殻さんがパーソナリティーをつとめるラジオ番組『BEFORE DAWN』を聴いていた。先週ぐらいに番組宛に出していたメッセージが読まれた。それは毎回オンエア時に五曲ほど曲が流れるのだが、その中の一曲はカヴァー曲が選ばれているので、そのことについて書いたものだった。
自分が好きなカヴァー曲というと奇妙礼太郎さんが松田聖子さんの『SWEET MEMORIES』だろうか。あとは向井秀徳さんが七尾旅人さんの『サーカスナイト』もかなり好き。

 

6月3日

先日購入した河野真太郎著『新しい声を聞くぼくたち』を読み始める。第一章で『怪獣8号』と『ジョーカー』についての話が出ていて、読んでいるとうなづくことが多い。
フェミニズム」をめぐる言説の中で、男性性が再考されている、というか現在さまざまなところで問題になっていることはその男性性とその加害性の話でもある。そして、そこでも世代や立場(収入や結婚したり子供の有無や住んでいる場所など)などでも違いがあり、「僕はマジョリティ側ではなく、女性などのマイノリティ側に近いのに」という声や考え方があるので、その立場によって同じ男性でも分断や分裂を生んでしまっている。
世界は完全に違うフェーズに入っているので、旧来の家父長制的な男性はどうしても新しい価値観などを否定したり、加害する側になってしまってきている。まず、知らないことには自分の無意識の加害性にも気付けない。ややこしいなとは思うのだけど、でも、知らないうちに加害をし続けるのは耐えきれないし、嫌だなと思うからこういうものをまず読むことで意識できるようにするしかないのだと思う。

朝晩とリモートワークだったので、ずっとradikoで深夜の番組を流しながら作業。『おぎやはぎのメガネびいき』を聴いていたら、ヒップホップユニットのchelmicoがゲストだった。翌週の金曜日は彼女たちのライブで、ニューアルバムが出たばかりなのでiTunesで音源を買った。聴き込んでたのしみたい。

親友のイゴっちから「ジャンプ+」に掲載された一ノへ著『ヨイトピア』という読み切り作品をラインで教えてくれたので読んでみた。
浅野いにおさんっぽい感じがするのは、作品にあるアイロニーとポップに見える絵がいい緊張関係になって、読者に突き刺さってくるからかなと思った。そして、表現というものは毒にもなる。誰かの人生を変えてしまうし、一線を越えさせてしまうものだということを描いていて、これを「ジャンプ+」でやっているところが、王者「ジャンプ」ブランドだからこそ、と思える。

 もはや説明の必要もないだろうが、ワイドショーにせよ、バラエティにせよこの国のテレビの文化そのものが、多分にこの「いじめ」の快楽の提供によって成り立っている。週に一度、生贄を選ぶ。目立ちすぎた人や失敗した人を週刊誌が選ぶこともあれば、それをワイドショーが自分たちで見つけ出すこともある。そしてタレントたちが「多数派の」「目立ちすぎていない」「失敗していない」立場から石を投げる。そうすることで、自分たちは「まとも」で「大丈夫」な側だと安心する。こうして娯楽産業の多くが「数字」をつくり、それで食べている人々がいる。番組を観ていた視聴者たちはSNSを用いてそれとまったく同じことをする。そうすることで何者にもなれない自分をごまかして安心する、死んだ魚のような目をした人々がいる。そしてそんな死んだ魚のような目をした人たちに、正義という名の棍棒を与えて誰かを殴り倒せと耳元でささやき、その人の中に湧き上がった黒い感情を監禁し、集票に利用するメディアや言論人たちがいる。
 閉じた相互評価のネットワークの中で、いま、誰を叩くと安全に自分の株が上がるのかを考えて石を投げる。そしていちばんうまくターゲットの顔面に石をヒットさせた人間が座布団をかせぐ。そんな大喜利が、いまSNSで常態化している。(宇野常寛著『水曜日は働かない』P147より)

金間 若者は表面的にはそうであることを隠す、装う能力が格段に上がっています。昔は見るからに意思がないイエスマンみたいな人がいましたが、今は行動を細かく見ていかないとわからない。
たとえば大学のゼミや研究室に外部の方がお土産を持ってきて「どうぞみなさんで」と言うと学生たちは「ありがとうございます!」とさわやかに言うんだけれども……まず誰も受け取ろうとしない(笑)。困ってとりあえず一番近い人に渡そうとしても引いていくから「じゃあ、ここに置いておきますね」となる。なぜか。
率先して受け取ることで目立ちたくないし、受け取ってみんなに配るという責任を取りたくないし、「施しを受けた」という貸し借りのある状態を重たく感じるからです。「ゼミ生は10人だけど、15個入りだったらどうしよう」「配り方をみんなで決めるのも負担だ」「欲しがっている卑しいやつと思われたくない」などと考えて受け取らない。
そこでは、失敗したり目立ったりすることへの恐怖心が渦巻いているんですね。大学の講義でも講師から「良い質問をしたね」と言われて名前を覚えられるのが恐怖だし、「あ、あの人は質問する人なんだ」と同級生から思われるのがイヤ。だから質問しない。これは周囲から「叩かれる」とまで思っているわけではありません。というのも、叩いたらその人も目立ってしまいますよね。でもやはり目立ちたくないので表立っては叩かないからです。(あなたのまわりにも?一見優秀だが実は主体性がない「いい子症候群」の若者たち(飯田一史)より)

 

6月4日

起きると12時前だった。夕方からリモートワークだったので、休日ではないものの、ほとんど一日で自由に使える時間がない状態だった。深夜2時過ぎに寝たとはいえ、疲れがとれたというわけでもない。
このまま家にいると一日外に出なくなってしまうので、とりあえず散歩がてら駅前に向かった。BOOKOFF松尾スズキさんの小説『宗教が往く』単行本がかなりの美品で200円だったので購入した。
文春文庫で上下巻として出ているものは持っていて、それを前に読んでいるのだが、単行本のほうが金色がメインで使われていて豪華な感じなのでタイトルにある宗教感ぽさがつよい。文庫版は赤いがメインの装幀デザインになっているのでだいぶ印象が異なる。
来週の月曜日に久しぶりの本多劇場松尾スズキ作・演出『ドライブインカリフォルニア』を観に行くので、それでおそらくBOOKOFFで松尾さんの名前が飛び込んできたんだと思う。

 そして何度でも言うが、それらの全てが庵野秀明に直接、継続されたわけではない。むしろ多くは隔世遺伝的である。円谷英二手塚治虫や様々な戦後の子供文化の中に持ち込まれた機械芸術論や映画的手法(モンタージュ/構成)などとしてプロパガンダ、即ち戦時下のあらゆる視覚表現に工学的に「実装」された前史がまずある。そして戦後、それらは公職を追放された人々によって子供文化やTVに、そして世代的経験として手塚治虫らによって「戦後」に生き延び、それを隔世遺伝的に受けとめ自分たちの美学・方法としたのが恐らく一九六〇年前後に生まれた私たちいわゆる「おたく」世代である。(大塚英志著『シン・論 おたくとアヴァンギャルド』P250より)

散歩から帰ってきて昼ごはんを食べてから、宇野常寛著『水曜日は働かない』が残り50ページもなかったのでそれを読み終わり、続けて残ページがほとんどない大塚英志著『シン・論 おたくとアヴァンギャルド』も読み終わった。
どちらも庵野秀明監督『シン・エヴァンゲリオン』についての言及があり、それぞれが語るものは書籍のテーマや評論家としてのスタイルが違うものの、僕には違和感がなく読めたし、あの時に感じていたことが言語化され、さらにその奥の方へ導いてくれている評論になっているなと思った。
ラストでの庵野監督の故郷である宇部市の駅から出て走り出すシンジとマリ、そこから空撮による実写映像が入り込んでくること、「旧劇場版」シリーズでの実写が入り込んでくることとは意味の違う今回の実写映像が入り込んでくることの意味などは興味深い。
宇野さんが書かれていたように、シンジとマリが走り出したそこは斜陽していく日本経済と「平成」という時代を生きてきた僕らが過ごした場所でもあり、新しいものはない。すでに見てきて生きてきた場所だからだ。
主人公のシンジにとって、母のレプリカである「レイ」、思春期における初恋相手である「アスカ」たちというテレビアニメシリーズからのヒロインたちではなく、「新劇場版」から登場して、彼を物語の、世界の外側へ連れて行くという存在としての「マリ」。庵野監督自らかオフィシャルサイトで作中のことを自分の家族のこととして語らないでほしいと言うニュアンスの表明を出したが、もやはりそれは無理がある。
NHKで放送されて、現在ではアマプラなどでも見れるようなったあのドキュメンタリーを見て、シンジとマリの関係性に庵野監督と妻である安野モヨコさんを彷彿しない方が土台無理な話である。同時に「シン・エヴァ」で完結したと思われる過去作を含める「エヴァンゲリオン」シリーズは庵野秀明監督の「私小説」であると思わない方が難しい。そもそもこのシリーズは1995年のテレビシリーズ放映からずっと語られてきた物語なのだから、そこにどう考えても庵野秀明の人生と経験が重なっているのを僕たちは見てきてしまっている。
「シン・エヴァ」を含めて「エヴァンゲリオン」シリーズはやはり歴史に残る作品であり、庵野秀明という作家性が突出し破綻しながらも立ち直って行く過程を露骨なまま見せつけながら、多くの(国内外の)ファンを巻き込んでいき「平成」日本を代表する作品になった。もう、それだけですごいし素晴らしいものだ。
問題というか、僕らが考えないといけないものは宇部市の駅から走り出したシンジとマリたちが進んだであろう時間を、「平成」「令和」となんとか生き延びてきた僕らはすでに見てきている。過去と現在だけではなく未来についてどんなものをつないでいけるのかが、この先の創作の作り手と受け手にとって大事な問題になってくるのだろう。そのことを考えながらどこまで創作に活かせるのか、と考える。

参加していたクラファン、漫画家・西島大介さんが、ベトナム戦争を描く大長編『ディエンビエンフー』『同TRUE END』を、こだわりのIKKI装幀で全16冊シリーズとして電子刊行する完全完結計画である「〆切は米軍完全撤退3月29日。電子書籍で『ディエンビエンフー』全16冊を完結させたいド!」。そのリターンで「最終巻の巻末にお名前を「サイズ大」で記載、「似顔絵キャラ」として奥付手前エンドロールに登場」するというのがあり、ラフだがそれがメールで送られてきてサイトを見た。
僕の名前は他のページだが、イラストはこのページのようだ。画像は僕らしきキャラのところだけに切り取っているが、実際には上にクラファンに参加した人の名前が掲載されている。このキャラかなり僕っぽいし、気に入りそうなので問題がなければ今後自分のアイコンにしたい。

 

6月5日

台湾出身の高妍(ガオイェン)著『緑の歌 - 収集群風 - 』上下巻。
浅野いにお著『おやすみプンプン』の翻訳版を読んだ高校生の高妍さんは、同じく浅野作『うみべの女の子』を読んだ。その作中で歌詞が使用されたはっぴいえんど『風をあつめて』を知ることになる。
『緑の歌 - 収集群風 - 』では『風をあつめて』と村上春樹著『ノルウェイの森』と『海辺のカフカ』が大きな軸となっている。
そして、帯分に上巻では元はっぴいえんどメンバーだった松本隆、そして下巻では村上春樹がコメントを寄せている。村上作『猫を棄てる』装幀イラストを描いているのが彼女であるという繋がりもあり、その辺りはあとがきに書かれている。

『緑の歌 - 収集群風 - 』は「ガール・ミーツ・細野晴臣」と言った青春物語とも言える。そして、細野晴臣村上春樹だけでなく、岩井俊二など日本のミュージシャンや作家や映像作家などの名前や作品も出てくる。エドワード・ヤン透明雑誌ナンバーガールフォロワーの台湾のバンド)も出てくる。
ありえたかもしれない可能性として「シティ・ポップ」が世界中で発掘され、再び脚光を浴びたことと近いのかもしれないし、そうではないのかもしれない。
ただ、文化というのは国境を軽々と越えて、誰かに届くということ。そして、受け取った側の思いや気持ちもまたその誰かに届くかもしれないということ、循環し、また知らない世代や届いていかなかった場所へ届いて行く、という可能性というか希望だなって思う。

これが好きだっていう想いがとてもまっすぐで強くて、響く青春物語。海辺で育って早くそこから出て行きたかった少女の緑(リュ)が台北の大学へ進学してからいろんな出会いをしながら日本文化にも触れて行くことになるのだけど、やっぱり高妍さんが『うみべの女の子』を読んでその作品が届いたのは、『うみべの女の子』も海辺から外側に出ていけなかった少女と少年の物語だったからなんじゃないかなって思う。そこに引用されたのが『風をあつめて』だったし、歌詞にあるように「風をあつめて 風をあつめて 風をあつめて 蒼空を翔たいんです 蒼空を」という願いは海辺から違う世界へ行きたいという願いと重なったと思うし。

浅野いにおが台湾の新鋭・高妍を絶賛、いつか忘れゆく“大切なもの”が刻まれた恋と成長の物語「緑の歌 - 収集群風 -」

高 先ほど言ったことの繰り返しになりますが、今日の対談で最も浅野さんにお伝えしたかったのは、そもそも「緑の歌」は「うみべの女の子」がなければ存在しなかったということでした。さらには、はっぴいえんどや、細野さんの台湾公演、村上春樹さんの「ノルウェイの森」や、エドワード・ヤン監督の映画など、そうしたものが1つでも欠けていたら、あのマンガは描けなかったと思います。それは自分自身から自然に出てくる力ではなくて、過去の偉大な先人たちからいただいた力によるものです。その結果、「緑の歌」は日本と台湾で同時発売できることにもなり、改めて「読み続けること」や「作り続けること」の力を実感しています。

↑第1話『風をあつめて』&第2話『海辺のカフカ』も対談のあとに試し読みで載ってます。

『17才の帝国』全5話を見る。『シン・エヴァンゲリオン劇場版』のラストシーンでは未来を描けなかった(ようやく「ゼロ年代」初頭の僕たちが見てきた風景に戻ってきた)。ラストでの実写で映る庵野監督の故郷の宇部市は失われた30年、「平成」のほとんどの時間で経済大国から一気に斜陽していく日本の、その地方都市のひとつであり、手を繋いで走り出した彼と彼女の先に明るい未来があるようには思えない、それを僕たちはすでに見てきたのだから知っている。
『17才の帝国』は『シン・エヴァンゲリオン劇場版』のラストシーンからつながるものとして、描かれるひとつの未来を提示したものと見れるのだろうな、と昨日宇野さんの『水曜日は働かない』と大塚さんの『シン・論』を読み終えたからか、そんなことを思った。
まあ、偶然だがAIソロンという三つの塔は、『シン・論』で大塚さんが書いていた「シン・エヴァ」におけるエッフェル塔のローアングルであったり、ある意味で父と母がいる皇居に向かって、かつてヒルコだったゴジラがラストで凍結されている姿も塔であるということとにちょっと通じている。庵野秀明監督が隔世遺伝的に使っている塔とローアングルというものはどこからやってきたのかという話から『シン・論』は始まる。

 

6月6日

仕事を早上がりして、小雨の中を下北沢まで歩く。本多劇場松尾スズキ作・演出『ドライブイン カリフォルニア』を鑑賞。本多劇場に来たのはコロナパンデミック前にナイロン100℃の舞台『百年の秘密』の再演だったと思う。

裏手に古い竹林が広がるとある田舎町のドライブイン
経営者のアキオ(阿部サダヲ)は妹に対して、兄妹愛と括ってしまうにはあまりにも純粋な思いを抱いていた。妹マリエ(麻生久美子)は14年前、店にたまたま訪れた芸能マネージャー若松(谷原章介)にスカウトされ、東京でアイドルデビューするも結婚を機に引退。その後、夫の自殺など数々の経験を重ね、中学生の息子ユキヲ田村たがめ)と共に地元に帰ってくる。
このカリフォルニアという名のドライブインには、腹違いの弟ケイスケ(小松和重)、アルバイトのエミコ(河合優実)が働いていた。そして兄妹の父親ショウゾウ(村杉蝉之介)、高校教師の大辻(皆川猿時)、アキオの恋人マリア(川上友里)、若松の妻クリコ(猫背椿)、クリコの不倫相手ヤマグチ(東野良平)などを巻き込み、複雑に時が流れだす・・・・・(公式サイトより)

舞台装置が変わらずに、ワンシチュエーションで物語が展開していくものとなっており、ドライブインを経営しているある一族の血を巡る物語になっている。語り手はその一族の最後の子、とも言えるマリエの息子ユキヲであり、彼は母とともに帰ってきてから事故死しており、幽霊として物語るという役割を担っている。母のマリエが東京に行き、自分の父と出会う手前から回想のように物語は始まる。幽霊である彼は過去に遡って自分が死ぬまでを見ることで何が起きたのかを再確認することで成仏しようとする。
マリエとユキヲが故郷に戻ってきてから本格的に物語は始まる。ユキヲには音が聞こえない、生まれ持った障害ではなく、父が自殺してしんでしまったのを見たせいでそうなっている。だが、ラジオの音やなにか障害を持っている人の声は聞こえるという設定になっており、彼は死んだはずの祖父・ショウゾウとのやりとりで一族に隠された秘密を知ることになって行く。

偶然だが、同じ本多劇場で鑑賞したナイロン100℃の舞台『百年の秘密』と近い部分もあり、一族の歴史と三世代を描いているという共通点もある。
『百年の秘密』は舞台ならではの、役者が何役もやることで、違う時間軸の登場人物が舞台の上で交差する、レイヤーが重なるという演出があり、とても素晴らしかった。
ドライブイン カリフォルニア』は大人計画の本公演でないせいか、大人計画的な暴力や性の暴発みたいなものが少しカジュアルになっていて、出演者的にはほぼ大人計画なので期待していたのでそこは物足りなく感じてしまった。
大辻役の皆川猿時さんの紙芝居(って体)のシーンは爆笑だったし、舞台のいろんな場面で笑ってしまうところが多かった。二時間少しという長さもあるのか、最後がわりと一気に畳み込んだ感じもあり、余韻は残らない。また、最後に百二十年に一度しか咲かないというものが咲いたというシーンがあるのだが、そのシーンで登場人物たちがそれを見れた理由が、大人計画らしい気もするし、前にも近いなにかを舞台で見たような気がした。アキオが終盤に語る海と波の話、生きていることは無駄ではないというちょっと演説っぽいいいシーンで「宇宙は見える所までしかない」という台詞が聞こえて、松尾さんが岸田國士戯曲賞を受賞した『ファンキー! 宇宙は見える所までしかない』にかけているのかなって思った。聞き間違えではないと思うのだが。

個人的には大人計画本公演でもっとブラックで観終わったあとになんとも言えない気持ちになる舞台が観たいなと思った。映画などで気になっていた河合優実さんはけっこうコメディエンヌみたいな役もできそうな感じだった。谷原章介さんはよく考えれば僕が中二の時に見てどハマりしたドラマ『未成年』で主人公の博人(いしだ壱成)の兄役で出演されていた。谷原さんは役者以外でも司会業でも成功しているし、今のいしだ壱成さんの状況を見るとなんだか複雑だ。実際の谷原さんはスッとした長身ではなく、ガタイもいい長身だった。


舞台を観終わってからニコラでちょっとご飯。先週からメニューにあって、食べたいと思っていた「飯山産グリーンアスパラ 温泉卵と白トリュフオイル」をいただく。ほんとうに美味しい。季節のものだから、その時にしっかり味わうのは至福だし、素材の味が強いのがいい。

 

6月7日

森山大道著『犬の記憶』&『犬の記憶 終章』と書店で目が合う、犬の視線と。家に帰ってから前者と後者の帯文が古川日出男さん(解説も書かれていた)と柴崎友香さんという好きな作家だったことに気づく。
『ベルカ、吠えないのか?』『犬王』と作品タイトルにおける「犬」とこの写真が無意識に僕の中で繋がったのかもしれない。買う時には装幀の写真に惹きつけられていたから、帯をまったく見ていなかった、文字を認識していなかった驚き。

紺野アキラ著『クジマ歌えば家ほろろ』を読む。鳥なのか宇宙人なのか、謎の生物クジマと中学生の新とその家族の関わりを描いている。シュールなとこあるけど、ギャグ漫画みたいな感じもあって読んでいてかなりおもしろい。日本に来る前にはロシアにいたクジマはロシア語や喋れたりするなど、おもしろい要素がうまく噛み合っている。しかし、クジマの正体はわからないままずっと続きそうな、でもある程度進んだら展開に困りそうな、気になる漫画。

 

6月8日
‘Joker’ Sequel: Todd Phillips Reveals Working Title, Joaquin Phoenix Reading Script in New Pics

ホアキン・フェニックス主演『ジョーカー』続編のタイトルは『Joker: Folie à Deux(感応精神病)』というものらしい。しかし、あのあと不満を持つものたち(プアホワイト的な)のカリスマになっていくジョーカーを描くんだろうけど、トランプ政権による断絶と分断を前作はある種描いていたと思うから、あの先にはよりダークで悲惨なことしかなさそうではあるが。

『群像』2022年07月号は古川日出男さん連載『の、すべて』が前回の休載から復活していた。そこではスサノオの話が展開されていた。次回から舞台が90年代から現在へ飛ぶのかなってちょっと思ったりしたけど、どうなっていくのか。
『ゼロエフ』『おおきな森』で装幀を手がけている水戸部功さんが師匠である装幀家菊地信義さんへの追悼文を寄せられていた。菊地さんを追ったドキュメンタリー映画も観ていたし、そこでも水戸部さんの様子も映っていたので、文章に感情移入できる部分が大きかった。水戸部さんの装幀デザインは見ると、これは水戸部さんっぽいなとわかる作家性がある。いつか、という気持ちがある。
また、今月号から批評家・宇野常寛さんの新連載『庭の話』が開始されている。『遅いインターネット』の続き、現在のコロナパンデミックウクライナ侵攻というリアルタイムなことを踏まえながら、FacebookTwitterなどのSNSによって世界はどんなふうに断絶していったのか、そこに「Anywhere」でどこでも生きれる人と、「Somewhere」である場所でしか生きない人その対立や分断をSNSが大きくしてしまっているという話がでてくる。宇野さんのこの論はおもしろいが、読むとSNSますますやりたくなくなってくる。

 

6月9日

YouTubeダースレイダー×プチ鹿島ヒルカラナンデス』を見た時(元々は弁護士の三輪記子さんにオススメしてもらって見始めた)にダースさんとプチさんのお二人がトークイベントに出ると言われていた青山真也監督『東京オリンピック2017  都営霞ヶ丘アパート』を下北沢駅に新しくできた「K2 シモキタエキマエシネマ」で鑑賞。
僕個人としては誘致の時点から東京オリンピックには反対していたし、家にはテレビもないので開会式にそれぞれの競技も閉会式も一切見ていない。ウェブのニュースなどで目に入ることはあったけど、自分が見ようとしたことはなかった。

2020年の東京オリンピック開催にむけた国立競技場の建て替えのため、2017年に取り壊された公営住宅を追ったドキュメンタリー。1964年のオリンピック開発の一環で国立競技場に隣接して建てられた都営霞ヶ丘アパートは、平均年齢65歳以上の住民が暮らす高齢者団地になっていた。単身で暮らす者が多く、何十年ものあいだ助け合いながら共生してきたコミュニティであったが、2012年7月、このアパートの住人に東京都から一方的な移転の通達が届く。転居を強いられた住民たちの2014~17年の3年間の記録から、オリンピックに翻弄された人々と、五輪によって繰り返される排除の歴史を追う。監督は本作が劇場作品初監督となる青山真也。(映画.comより)

僕はこの「都営霞ヶ丘アパート」のことはまったく知らなかった。以前ニュースで、前回の東京オリンピックで家を立ち退きさせられた方が、今回の2020年の東京オリンピック開催に関して、再度立ち退きをさせられたというものは見た記憶があった。この映画でそういう方が出てくるのでおそらくその方なのだろうと思う。
映画では前回の東京オリンピックの時に国立競技場に隣接する形で50年以上経ったこの都営霞ヶ丘アパートに住む方々を映している。前回のオリンピックの頃にここに引っ越してずっと暮らしてきた住人の方々は高齢者になっており、住み慣れた終の住処になるだろうと思っていたそのアパートを都から一方的に立ち退くように言われる。
都からの住民へのアンケートには移住したくないという選択肢がそもそも用意されていないという話もあり、彼らを立ち退かせるのが決定事項であることがわかる。
長年の顔見知りであり、ずっと住んできたことで共生してきたそのコミュニティを都という行政がもう一度東京オリンピックをするために一方的に破壊する、ぶち壊して行く姿が映し出されている。

映画の中でも言われていたが、住民たちに告げにくる都の職員たちになにかを言っても変わらない、彼らたちはトップダウンで降りてきた決定をただ遂行するだけだからだ。彼らも都と住民たちの板挟みにあったのだろうと想像に難くない。職員たちには決定事項を変える権限もないし、おそらく派遣であったり契約社員の人にそういうことをさせているのではないか、と思う。大学を舞台にしているが同じようなことは渡辺あや脚本『ワンダーウォール』でも似たことが描かれていた。
長い時間をかけて作られたコミュニティは基本的にはそのままのメンバーが一緒に移るのであれば、多少の変化はあっても継続できる可能性はあるが、やはり場が変わってしまうと難しい。そして、なによりも住民の方々が高齢者であるということはいろんな問題が出てくる。

この映画を見ていると自然と涙が出そうになる。
住民の方々は最後には抵抗しても無駄だとわかっており、住み慣れたアパートを出て行く。ここには東京オリンピックが奪ったものがあるし、そもそもなぜ国立競技場を立て直す必要があったのか、ザハ案が一度ダメになり二転三転した新国立競技場、そして、今ではその付近の木々を伐採する話が出ている。東京オリンピックもそもそも神宮一帯の再開発のためにやったという話もある。たぶん、それは本当だろう。そういうことしか考えてないデベロッパーなんかが政府や経済連なんかと再開発をして儲けたい人たちが勝ち組と呼ばれる世界だ。だけど、そういう奴らはコミュニティが失われた町や場所には魅力がないということがわからないのだろうし、ただアジアで、いや世界から見ても没落していく日本の中心部を再開発しても喜ぶのは一部の富裕層やそういう人間だけだ。などいろんなことが頭に浮かぶが、そういうことすらも行政や金を持っている人たちが動けば一般市民がなんとかしようとしても無力であるのだろうな、という無気力感も感じてしまう。
この映画を東京オリンピックに関わった人たちやそれを見て楽しんだ人たちはどう思うのだろうか?


「ビルケナウ」2014年

ゲルハルト・リヒターの代表作が日本へ! 16年ぶりの国内大規模個展が6月開催

統一前の東ドイツで青春期を過ごし、ベルリンの壁建設前に西ドイツに移住して以降は、旧ソ連を中心に発展した「社会主義リアリズム」への批評的回答として「資本主義リアリズム」と呼ばれる芸術運動を仲間たちとともに展開したリヒター。彼の作品が絵画を起点にしつつ写真や鏡などを用いてイメージの多義性、その成り立ちや解体を想起させるのは、そういった時代精神の体現とも言えるだろう。

リヒター作品の代名詞とも言うべき「アブストラクト・ペインティング」。40年以上描き続けられる同シリーズは、大きなスキージ(へら)で絵具を塗り、さらに削るというプロセスで描かれている。今回の大きな見どころである《ビルケナウ》(2014)も同様の手法を用いて制作されており、おそらくこのセクションに関わるかたちで展開するはずだ。ちなみに同作の絵具の下層にはアウシュヴィッツ・ビルケナウ強制収容所で囚人が隠し撮りしたとされる写真のイメージが隠されており、この作品を描いたことでリヒターは「自らの芸術的課題から自由になった」とも述べている。


下北沢駅京王線に乗って渋谷へ、半蔵門線に乗り換えて半蔵門駅で降りてから千鳥ヶ淵付近を歩いて、東京国立近代美術館ゲルハルト・リヒター展を観に行く。
先ほど引用した箇所にあった「資本主義リアリズム」という単語に惹かれて、という部分も今回の展示を観ようと思ったのが大きい。もともとはイギリスの批評家であるマーク・フィッシャーの書籍『わが人生の幽霊たち――うつ病、憑在論、失われた未来』を読んだことで、彼の『資本主義リアリズム』を読んだ。その表紙はずっと前に見ていて、radioheadのアルバム『Hail to the Thief』とそっくりなので覚えてはいた。そこからニック・ランドに関するものをは必然でもあった。そして、翻訳版が刊行されたニック・ランド著『絶望への渇望』の装幀に使われていたのが、このゲルハルト・リヒターの「ビルケナウ」の一番左端のものだった。そういうリンクというか繋がりで僕は展示に足を運んだ。
圧倒される。デカいし、実際に観てみると絵の具が削られた凸凹などの質感がわかる。鑑賞者自身が見つめ返されるような作品たちが展示されていた。10月まであるのでもう一回観に行きたいと思う。

マーク・フィッシャー著『資本主義リアリズム』 野田努レヴュー

 新自由主義が基本的に人の弱みや満たされない欲望につけ込んで入ってくることは、我が国の政治家たちを見れば一目瞭然であり、歴史の分水嶺ともなったサッチャーの言葉=「これしか道はない」は、訳者もあとがきで指摘しているように安倍内閣が執拗に使っているフレーズでもある。フィッシャーが言うように「反国家主義的なレトリックを明示しているにもかかわらず、新自由主義は実際のところ、国家そのものに反対しているのではなく、むしろ公的資金の特定の運用に反対しているのだ」。そして、こうした新自由主義(非道徳的な合理性)と新保守主義(道徳的で規制的な合理性)は、たがいに矛盾しながらも「資本主義リアリズム」のなかで融合する。
 その結果、現在ぼくたちは自由にお買い物を楽しみ、そして自由に転職して失業するという不安定さのなかで生きる/死ぬことを甘受している。ラップのMCバトルは、あらかじめ敗残者に溢れた世界を生きることを前提とする社会、それが当たり前(リアル)だと思わせるという点で「資本主義リアリズム」を補完する。それは起業家ファンタジーとの親和性を高めるはするものの、みんなが勝利する世界をますます想像しづらくする。

↑のポスターといくつかのポストカードを購入した。買ったが、ワンルームの我が家には合わなそうな気がするが、この柄がいいなと思った。「ビルケナウ」のものもあったが、あれが部屋に飾られていたら、気分が滅入りそうだなと思い、まだ暖色で赤や青や白がメインのこちらにした。


「資本主義リアリズム」という単語が浮かんでいたので、こうやって購入すること自体、なにか違っているような気もしなくはなかったが。頭にはやっぱりずっとradioheadの曲が流れていた。

帰りは半蔵門駅ではなく九段下駅半蔵門線に乗って三茶まで帰る。トワイライライトにスティーヴ・エリクソン著、島田雅彦訳『ルビコン・ビーチ』単行本の古本があったので購入。前に文庫版で読んでいたのだが、単行本のこの装幀の感じがいいなって思った。久しぶりに読もうと思ったのは、今トマス・ピンチョン作品を読んでいるのだけど、エリクソンはピンチョンの系譜にはいる小説家であり、世界を幻視する作家の想像力をまた感じたいと思った。おそらく今の僕にはかなり刺激になる。
その後、下の二階のニコラが開店したのでビールとラルドのクロスティーニを。ラルドも生ハムの輸入ができなくなる問題と同様でこれから入ってこなくなるかもしれないとのこと、また今の円高だけでなく金のない日本は今まで海外から買えていた食材なども他国に買い負けてしまい入らなくなるだろう、とか選挙の話を曽根さんとした。

 

6月10日

仕事を少し早上がりして恵比寿へ行き、途中にある恵比寿神社にお参りをする。恵比寿で飲む時には時間があれば、何度か足を運んでいる。この日も時間よりはまだ早かったので寄ったら、数人お参りをしていた。それも若いと言っていい世代だった。
調べてみても前は天津神社という名前だったが戦後の区画整理遷座されて今の名前と場所になったらしい。旧天津神社の資料が乏しく、どういう縁起があるのかわからないとwikiにはあるが、たぶん「恵比寿神社」という恵比寿の部分が福ありそうな感じがするからお参りをしている人が多そうな感じがする。

LIQUIDROOMChelmicoの「gokigen TOUR」初日を友人の青木と観る。青木も言っていたが客層が若く(僕たちが中年だから)て、大学生から二十代中頃が大半だったように見えた。一部中年以上がいたが、僕みたいに最初はTBSラジオおぎやはぎのメガネびいき』にメンバーのMamikoが出演していて名前は知っていたり、そこから聴き出したというクソメン・クソガールもたぶんいたんじゃないかな。
僕は正確に言うと、ツタヤ渋谷店のラップコーナーにMamikoのソロアルバムがベッドサイドミュージックということで置かれていて、Chelmicoのメンバーということを知らずに聴いたらすごくよくて、Chelmicoなのか!と思ってからアルバムを聴き始めたという最近聴き始めたファンである。
Chelmicoの二人とサポートのDJという三人だけのステージ、確かにポップで明るくてたのしいライブだった。まだライブ中に声を出したり、タオルを回すのもダメだったみたいだが、キャパ制限はなくソールドアウトで売り切れているライブの熱はあって、RachelとMamikoの二人のトークでの温度感も暑すぎ、冷静になりすぎず、やっとライブが普通に近い形ができるようになった喜びが溢れているライブだったし、フロアがほんとうにいい感じで揺れていて、笑顔がたくさんあったのを観ることができてうれしかった。
下記のMVの好きな曲も聞けたし、ニューアルバムの『三億円』もよかった。

chelmico/チェルミコ - 「ラビリンス'97」

 

6月11日

起きてからMacBook Airを開いて、radikoで深夜ラジオを流しながら昼までの予定をどうしようか考える。今日から公開のヤン・ヨンヒ監督『スープとイデオロギー』がユーロスペースで上映なので、散歩がてら行こうと思い、ウェブでチケットを取る。以前にユーロスペースで予告編を見ていて、気になっていた作品。
水道橋博士のメルマ旬報」チームの荒井カオルさんがこの作品にはエグゼクティブプロデューサーとして関わっており、また、ヤン・ヨンヒ監督と結婚されていてパートナーとしてもこの作品に出ているようだったのも気になったポイントのひとつでもあった。

「ディア・ピョンヤン」などで自身の家族と北朝鮮の関係を描いてきた在日コリアン2世のヤン・ヨンヒ監督が、韓国現代史最大のタブーとされる「済州4・3事件」を体験した母を主役に撮りあげたドキュメンタリー。朝鮮総連の熱心な活動家だったヤン監督の両親は、1970年代に「帰国事業」で3人の息子たちを北朝鮮へ送り出した。父の他界後も借金をしてまで息子たちへの仕送りを続ける母を、ヤン監督は心の中で責めてきた。年老いた母は、心の奥深くに秘めていた1948年の済州島での壮絶な体験について、初めて娘であるヤン監督に語り始める。アルツハイマー病の母から消えゆく記憶をすくいとるべく、ヤン監督は母を済州島へ連れて行くことを決意する。(映画.comより)

恥ずかしながら「済州4・3事件」を知らなかったのだが、ヤン・ヨンヒ監督の母が韓国政府をある意味では無視し、北朝鮮へ息子を三人送るほどだった理由がその事件にあったことがわかる。これは政治、国によって大事なものを奪われて、それでもなんとか生き永らえた人の人生を顧みる映画でもあるが、娘である監督が撮影することでより「家族」と「国家」というものが強く前面に押し出されていっている内容になっている。

ヤン・ヨンヒ監督と結婚した荒井カオルさんがお母さんに結婚したいとお願いにする時からカメラは回っており、彼は自分が被写体になるということを受け入れている。そこからは夫が亡くなってから大阪で一人暮らしをする母の元に監督夫妻が何度も足を運び、メンバーが新しく加わった「家族」が少しずつ繋がっていくのが映し出されていた。そこでタイトルにもある母が作る「スープ」の作り方、そしてそれをみんなで食べるということが「家族」になっていく儀式、行為として映し出されていた。同じものを同じ場所で食べる、ということ。もちろんそこには思想や国籍やいろんな違いがあっても、時間を共にすることでしか生まれない感情や気持ちというものがある。
冒頭で亡き父を撮影していた映像も使われるが、そこではヤン・ヨンヒ監督の父は娘の結婚相手にはアメリカ人と日本人以外ならいいと言っているシーンがある。それがフリにもなっているが、日本人である荒井さんが挨拶にきても母は喜んでいる様子が映し出されていた。もちろん、父の考えと母の考えは違うところはあるのだろうけど、そこには年齢を重ねているということも大きいのかなと感じた。荒井さんが着ているTシャツがミッキーマウスとかいろんなバージョンがあるのだが、最初に挨拶に来た時にスーツから着替えた時にミッキーマウスだった時に、あえて資本主義の象徴であるミッキーのデザインの服を着るってこの人すごいな、と思ったけど、そういう意味ではなくただ好きで着ているだなということはのちのTシャツのバリエーションでわかった。

「スープ」とは家族のことであり、美味しくなるまで何時間も煮込む。だから、外部から新しく家族に参入するためには時間がかかるし、同じ時間を共有しないといけない。けっして同じ考えや思い出もなくても重なってくる部分が少しでも増えると一緒にいるのが不思議ではなくなっていく。
この映画において、荒井カオルという部外者がヤン・ヨンヒ監督の家族に入って行くことで、彼女の一家にとっては当たり前だったものが、違う視点と存在によってさらに浮き彫りになっていく。そして、認知症になってかつての記憶が失われて行く母が体験した「済州4・3事件」と国家への思い、それが「イデオロギー」の部分になり、三人で済州島での平和式典に行った時に過去と現在が重なっているが、母の記憶は鮮明ではなくなっていた。

最後の部分でヤン・ヨンヒ監督が今まで母の北朝鮮へ兄たちを送ったことなど理解できなかった部分が、この事件を知ることで否定できなくなったと話す。この部分はかなり監督の思いが溢れているシーンで涙ぐんでしまった。同時に監督が最後に思いを吐露しているので、語りすぎなのかもしれないと思いつつも、あの場所で彼女があの思いを口にするのは、ある種辛いことは忘れてもいいという彼女の思いがそうさせていたのだろう。三人で事件被害にあった方々の墓地に行った時に、忘れてもいいという話をしたあとに、ひどいことをした人たちは忘れてはいけないとしっかり言われていた。そこが実に大事なことだ。国家だけではなく、個人同士の関係でも起きる事柄は、被害にあった人は忘れてもいい、思い出したくないものはそうしたほうがいい。だが、加害者は忘れてはいけない。

そして、観終わるとやはり自分の家族のことを考えてしまう。夕方、毎週恒例の実家への電話で祖母と話をする。祖母も認知症になっているので、普段はいろんなことがわかっていなかったり忘れたりしているらしいと母からは聞く。毎週電話で話をするだけだが、それだけでも実家から離れて暮らす僕ができる少ない祖母孝行のひとつだ。

 

6月12日
仮面ライダーBLACK SUN』の衣装は伊賀大介さんだと下記のニュースで知る。『シン・ウルトラマン』の衣装も伊賀さんだったから、このまま『シン・仮面ライダー』も伊賀さんなんじゃないかな、と思ってる。実際は違う人かもしれないけど、伊賀さん大作映画で衣装をいくつも手がけているのであり得る。 
西島秀俊×中村倫也仮面ライダーBLACK SUN」特報公開、スタッフ情報も発表(コメントあり / 動画あり) 


午前中にあった渋谷での予定がなくなってしまったが、渋谷には行っていたのでドンキでデオドラントスプレーを買う。いつも同じ匂いのものを購入しているのだが、なぜずっと使っているダークチョコレートという匂いのものはドンキの渋谷ぐらいしか見ない。書店にも寄ったが欲しいと思う新刊はなかったので買わずに帰る。
夕方からのリモートワークまで家にある小山田浩子著『パイプの中のかえる』と森山大道著『犬の記憶』とスティーヴ・エリクソン著、島田雅彦訳『ルビコン・ビーチ』を読んだ。やっぱりエリクソンの小説は幻視的な視線で書かれているせいか読んでいるとどうも微睡んでしまう。

 

6月13日
〈考える〉と〈悩む〉にもみくちゃにされる私たちにできることは
アメリカで痛感した〈観察する〉ことのポテンシャル

 1942年の5月9日に日系アメリカ人の強制立ち退きは効力を発するようになるのだけれども、収容所に向かう彼らの姿は、プロの写真家たちに記録されている。
 たとえばドロシア・ラングの写真を、藤幡さんは、拡大して観察する。たとえば着飾った日系人の少女の顔を。どんどんと拡大していったら、何が見つけ出せるだろう? 被写体の目には、何かが映っているという事実だ。それでは、実際に被写体のその目を超拡大すると、何が現われるのか?
 撮影者の姿である。そうなのだ、カメラマンがそこには映っている。

 けれども懸念もある。スマートフォン全盛の現代、私たちは自撮り(セルフィー)というのをしてしまう。その画像に、あなたの瞳にはだけれども、誰が映っているだろうか? 超拡大した時に、撮影者は誰だろうか?
 あなた自身だ。そこには〈他者〉がいない。
 あなたは、20年後40年後80年後に、その画像データをどんどんと拡大してみて、しかしそこに「あなた自身」以外を見出せない。

古川日出男さんの月に一回「論座」での連載「考えるノート」が更新されていたので読む。ここで取り上げられている「全米日系人博物館」には2017年に足を運んだ。館内は撮影ができなかったが、強制転居させられた日系移民の方々が住んでいたバラックの一部(壁があったはずだ)だけではなく、持ち物や多くの写真が展示されていた。

「あなた自身だ。そこには〈他者〉がいない。」という部分で、他者の物語である「小説」や「映画」に興味がなくなっていく、自分から発信できる物語だけが大事になっていく、というのはこのSNSの時代で証明はされていることなんだろう。だから、小説を読むという行為が時代に反していくようになる可能性がある。そして、〈他者〉のいない世界を僕は求めていないので小説を読むし、映画も観るし、芸術というものに触れていたい。

さて神道にもギャルの通勤にも欠かせない鏡ですが
インスタグラムの時代に入り
写真の価値が石油のそれにとって変わると
人々はセルフィーのモニターばかりを見るようになってしまい
誰も鏡を見なくなるだろうと言われています
これは古代から続く 左右逆層の人物像が壊れ
つまり鏡が砕け散るという 非常に危険な兆候であると我々は危惧し
三種の神器のひとつである鏡を見続けるわけですが
鏡を見て 己の考えを鑑みるに
JAZZ DOMMUNISTERS『Cupid & Bataille,Dirty Microphone』 
2「悪い噂 feat.漢 a.k.a. GAMI

上記のN/K(菊地成孔)のリリックを思い出した。スマホは現在のおける三種の神器の鏡になっているようにも思える。だとしたら、スマホという神器を持っている我々は神に等しいとすれば、そもそも神はいなくそこから派生した物語にも意味を見出さない人が増えるのは納得でもある。

 

6月14日

ドミニク・グラフ監督『さよなら、ベルリン またはファビアンの選択について』 を文化村のル・シネマで鑑賞。チケットを取った後で約三時間の上映時間ということを知る。「月刊予告編妄想かわら版」でも取り上げたし、公式サイトのコメントがわりと純文学系の作家さんのものも多くて、もしかしたらおもしろいかもって思って足を運んだ。

ドイツの児童文学作家エーリッヒ・ケストナーが1931年に発表した大人向け長編小説「ファビアン あるモラリストの物語」を、「コーヒーをめぐる冒険」のトム・シリング主演で映画化。1931年、ベルリン。時代は狂躁と頽廃の20年代から出口の見えない不況へと移り変わり、人々の心の隙間に入り込むようにナチズムの足音が忍び寄る。作家志望の青年ファビアンは、目的のない無為な日々を過ごしていた。女優を夢見るコルネリアとの恋や、唯一の親友であるラブーデの破滅。世界が大きく変わる予感と不安の中、ファビアンはどこへ行くべきか惑い、焦りを募らせていく。やがてコルネリアは女優の夢をかなえるためファビアンのもとを離れるが……。コルネリアを演じるのは「ある画家の数奇な運命」でもシリングと共演したサスキア・ローゼンタール。監督は、ドイツでテレビ映画を中心に手がけてきたドミニク・グラフ。2021年・第71回ベルリン国際映画祭コンペティション部門出品。(映画.comより)

主人公のファビアンは映画を観ていると30歳は超えていて、タバコ会社のコピーライターのような仕事をしているが、怠惰的であり夜遊びをずっとしている。だが、親友のラブーデはファビアンの書くものに力が信じており、早く作家になってほしいと思っている。ラブーデと行った見世物小屋に近い店でドリンクバーの会計のバイトをしているコルネリアと出会ったファビンは店を出てベルリンをずっと歩きながら彼女の住んでいるアパートに着くが、そこは自分の住まいであり、彼女こそが隣にこしてきた隣人だった。
女優志望のコルネリアと作家志望のファビアンは蜜月となり、親友のラブーデの父の所有する別荘地に行って仲を深めていく。
ファビアンを含め、みんなずっとタバコを吸っている。時代ということもあるのでそれが当時のリアルなのだろう。1930年代のベルリンであろうが、東京であろうがパリであろうがニューヨークであろうが、みんなどこでもタバコを吸っていたのが事実であり、それが描写されているのはちゃんとしているなと思う。たとえば、黒沢清監督による『スパイの妻』では1940年代の神戸が舞台だが、登場人物を含めほぼタバコを吸っていないのはおかしいという話があった気がする。タバコの煙はなにか思案しているように人を見せる効果もあると思う。

この映画はナチスの足跡が聞こえ始めた時代が舞台だが、ファビアンという青年が親友と恋人を失う話でもあり、そしてラストでは思いがけない終わり方をする。悲劇にも見えるし、サブタイトルにある「またはファビアンの選択について」が思いの外意味が重いものとなってくる。ラストでとあることがあり、実家に帰る列車の中で冒頭でセックス寸前までいくある女性と再会する。もし、彼女の誘いに乗っていたらあのラストはなかったとも思えるし、一度別れてしまった恋人のコルネリアからの電話を実家で待ち、彼女に会いに再びベルリンへ出ようとする選択は彼には幸福への一歩だったはずだし、コルネリアにとってもそうなるはずだったのだが。えっ?その終わり方なの?と思うラストではある。
青年ファビアンの恋と友情の終わりを描いているともいえるし、親友のラブーデとファビアンという文学青年の末路は、あのあとに台頭してくるナチスとの対比的なものになっているようにも思える。文学の敗退を示唆しているように思えた。

ファビアンとコルネリアが出会った時に、その後の蜜月期間のシーンがいくつかインサートされたり、過去の実際のベルリンが写っているモノクロの映像を使ったりとしているのだが、けっこう音楽も含めてゴチャゴチャしている。ファビアンの苛立ちの表現と言われればそれまでだが。三時間はちょっと長い。でも、すごくおもしろいわけでもなく、悪いとも言えない感じ。なにかがうまく伝わってきていない。

バルガス・ジョサ著/寺尾隆吉訳『街と犬たち』(光文社古典新訳文庫ノーベル賞受賞作家マリオ バルガス=リョサのデビュー作『都会と犬ども』が今回は著者表記が変わって改題しての新訳ってことなのかな。寺尾さんはコルタサル著『奪われた家/天国の扉 動物寓話集』も訳されていて、そちらは以前読んでいた。

 

6月15日

トム・ヨーク×ジョニー・グリーンウッド×トム・スキナーによる新バンド・The Smileファーストアルバム『A LIGHT FOR ATTRACTING ATTENTION』限定盤イエローLPが届いた。5月1日にBEATINKで注文していたもの。
iTunesでこのアルバムのデジタル音源はすでに購入してずっと聴いている。大きなLPジャケットが欲しい(いつか飾りたい)という気持ちもあったのでレコードプレイヤーがないけど、発売のお知らせがあってからすぐに予約をしていた。このアルバムは本家のradioheadとは違うカッコ良さやリズムもあり、トム・ヨークradioheadという大きな枠から自由に音楽を作っている喜びみたいなものもあるんだと感じる。

The Smile - We Don't Know What Tomorrow Brings



梅雨で気圧の問題もあるが、三月末以降からの事柄がやはり地味にダメージを与えてきている。おまけに住民税と区民税が来たが高いっ! 
精神的にも金銭的にも打撃を食らい続けている感じなので、なんとかやられないように体力をつけるしかないし、いろんなものをデトックス的に邪魔なものを体から出さないとやられちゃうなって思えているので、まだ持ち堪えられると思う。一日中やる気は起きなかったけど、そういう日もあると思うしかない。

夜から友人とオンラインミーティングとして毎週30分ほど話をすることにしたので、そこで少し今後のことを話す。目標を決めて動き出す際には誰かと一緒に共有しながら進む方が離脱しないでやっていける可能性が高い。お互いに近々の目標のためにいいやりとりができてよかった。ちょっと沈んでいた気持ちも多少あがった。

 

6月16日
朝から「あだち充論」の最終回となる『MIX』編を執筆していたが、どうも調子が上がらない。連載中ということもあるし、来月に刊行される19巻から一気に変わる要素があるので、どこまで書こうかということが自分の中でうまくジャッジできていないことが原因かもしれない。


夕方にニコラに行ってアルヴァーブレンドとスコーンをいただく。来月には選挙はあるが、たぶん大きなことは変わらないだろうし、よくなるイメージもない。インボイスもこのまま行けば始まるだろうし、円安が加速して物価は上がっている。ほんとうにいろんなものがなくなったり、奪われていくかもしれない、という危機感だけが高まっている。とかそういう話をカウンターでする。

NHKが”連ドラ”を作る仲間を一般公募。彼らがホンキで変わりたい理由

前から気になっていたNHKの「WDRプロジェクト」についてライターの木俣冬さんがプロジェクト立ち上げた保坂慶太さんにインタビューをしている記事があった。これはますます応募したくなる内容であり、たまたまだが、先々日から途中で見るのを止めていた『ストレンジャー・シングス』シーズン1を再開して、シーズンの最終話までを見ていた。脚本を書くモードに来月はなると思う。

 

6月17日

飯田一史さんの新刊『ウェブ小説30年史 日本の文芸の「半分」』(星海社新書)をご恵投いただきました。発売日は21日となっているので少し早く届いた。
ウェブサイト「monokaki」で飯田さんに連載してもらっていた「Web小説書籍化クロニクル」が元になっていて、一応僕が連載時の担当編集でした。
500ページ越えの読み応えたっぷりな新書で、僕はウェブ小説についてまったく知らなかったので連載で読みながら、時代背景や投稿サイトの移り変わりやジャンルの隆盛などを知ることができたので、エンタメ関連の方や出版関連の方は読んでみてほしい一冊になっている。


もともと「monokaki」初代編集長の有田さんが対談企画で最初に飯田さんにお声がけして、二代目編集長の松田さんが連載企画を通して、僕が連載担当という形だった。お二人とも現在はDeNAとエブリスタから他社に移ってエンタメ作品作りをされていて、「monokaki」の母体であるエブリスタ自体が去年末に株式譲渡されて、親会社がDeNAからメディアドゥに変わったりと、いろいろと経たなあと思う。
親会社が変わっていろいろ移行したりすることもあり、「monokaki」は以前のように定期的に記事を公開できない状態になっていて、個人的には一番たのしかった作家さんなどのインタビューは行けなくなったりしているのでなくっていたりしている。

数年前に行ったタロット占いでその年の前後五年、十年の運勢を書いた「人生の棚卸し」というものをもらっていて、2022年が所謂断捨離の年で過去の古いパターンを手放し、「当たり前」と信じていたもの、古いアイデンティティを作り直させられる年になる。過去から続けているものと決別して新しい人生に変わっていく年と書かれていた。
それもあってか親会社が変わるって年末に聞いた時も驚かなかった。まあ園監督のことについてはSNSに書いても仕方ないのでブログにはいろいろニュースとか見たその時々の気持ちとかは書いていて、水道橋博士さんが気がついたら選挙に立候補を表明していたりとお世話になっていた人もそれぞれに人生の転機に立っている感じだし、ずっと書いてきた「あだち充論」も今回で『MIX』編なので終わるし、自分から手放さなくても「当たり前」なものがどんどん目の前から消えていくから、占い当たってる気がする。
自分にちゃんとした土台がないから色々と不安だったりするけど、生きていて不安じゃない時なんかそもそもないし、いつだって戦前戦中戦後なのでなんとか生き抜いていくしかない。かと言っても勝てば官軍みたいな生き方はできないけど、そこそこ生きていけるやり方を見つけたいなって思う。

 

6月18日
THE SMILE / トム・ヨーク×ジョニー・グリーンウッド×トム・スキナーによるザ・スマイル1stアルバム発売記念!店頭でボーナス・コンテンツにアクセスできるQRコード施策がスタート!!」ということで対象店舗に代官山蔦屋書店が入っていたので、散歩がてら行ってきて二階の音楽エリアに貼られているポスターのQRコードを読み込んでボーナス・コンテンツをゲットしてきた(画像のポスターの見えていない部分にQRがありました。一応23日はQR有効なので画像では出していません)。
MVとして公開している八本の動画のアニメーションデータと4体のdemonsの画像データがダウンロードできた。


The Smileの音源はすでにデジタルとレコードで持っているので購入はできなかったので、一階の書店で前から気になっていた&昨日直木賞候補作として発表された呉勝浩著『爆弾』を買って帰った。

 

6月19日

iPod nanoがついにご臨終となってしまった。上の状態にはなっていたし、もうタッチパネルがほとんど反応しない感じにはなっていた。次の曲へ送れなくなってなぜか前の曲も戻るだけは生きていた。
メニュー画面にも戻らないのでタッチパネルのどこかに当たったら勝手に同じアルバムを繰り返したりイレギュラーなエラーが起きたらもうシャッフルにすら戻れない感じになっていた。
もううんとすんとも言わなくなったので、開いていた隙間からなかはどんなふうになっているのか見てみた。パネルの奥に本体がある(画像ではわかりずらいが)のがわかる。さすがに五年以上使っていたら壊れてしまうだろうなと思う。問題は後継種がなく、AppleiPodシリーズをなくしてしまっていることだ。とりあえず、中古で同じタイプを買うか悩んでいる。

昨日の深夜帯に放送された『佐藤栞里オールナイトニッポンZERO』を散歩の最中に聴いた。iPod nanoがもう使えなくなったのでしばらくは外に出る時はradikoのアプリでラジオを聴く感じになるかなと思う。
佐藤栞里さんは『オードリーのオールナイトニッポン』のリトルトゥースでもあって、その想いがわりと最初に話をされていたのだけど、その熱量がほんとうに好きなんだなってわかる感じでよかった。あと笑ったり話をしてる時の声の感じとかが大きさとかがどこか上品さを感じる。おとなしいわけではなくて明るいのに上品なところがあって、やっぱりこういう人ってそうそういないと思う。性格がすごくいいんだと思うし、いろんな人の愛情をしっかり受け取ってきた人なのだろう。逆にすごいダークサイドに一度落ちていたからこそのって感じはやっぱりないから、稀有なタレントさんだなと聴きながら思った。

ロロ『ここは居心地がいいけど、もう行く』

来月吉祥寺シアターで上演されるロロの舞台のチケットを購入する。
前回は酒を飲んでいってしまい、うとうとしすぎてしまったのでほんとうに面目ないというか申し訳ないという気持ちもあって、今度はしっかり観る。
「いつ高」シリーズの世界観をそのままスケールアップした作品になるらしいので、「いつ高」ファンとしても期待。

 

6月20日

呉勝浩著『爆弾』を読み始めた。まだ第一部だがかなりおもしろいし、どうなっていくのか楽しみな作品。
装幀がちょっと好きなタイプで気になっていたら、直木賞候補になったのでそのタイミングで買った。
カバーだと本の「背」の部分にタイトル「爆弾」の後ろに逆さまになっている東京タワーが見える。カバーを外すとカバーに使われている写真の天地が普通のものになっていて、「背」の部分にちょうど東京タワーが来るようなデザインになっている。そして、東京タワーの下の部分に「爆弾」と著者名がある。終盤に東京タワーに爆弾が仕掛けられているとかあるのかなあ、と装幀探偵をしてしまった。普通に考えたら都民を無差別に人質に取る爆弾テロっていうのは話の核だから、「東京」からで東京タワーってことなんだろうな。
塔や電柱をどのアングルで撮るか、みたいなことは庵野秀明監督や岩井俊二監督、その下の世代の新海誠監督などの作品に見られるノスタルジー的なものも、そもそもアヴァンギャルドの時代からの遺産だよって、彼らは隔世遺伝的に(あるいは孫的な影響で)やっているんだよって話を大塚英志著『シン・論』に書いてあったのを思い出す。「塔」をモチーフに小説を書き続けている作家としては上田岳弘さんがいる。
「塔」とはやはり象徴であり、象徴でしかないけど、東京スカイツリーがまだ東京の象徴にならないってそこを舞台にした物語とか、多くの人に共有されるバックボーンがないからなのかな。
講談社のサイト「tree」で『爆弾』の試し読みができるんだけど、縦書きの小説をそのままサイトが横書きなのでコピペしただけのものなのでクソ読みにくい。これなら書店で立ち読みしたほうが絶対にいい。


『ニシダ更生プログラム』


ララランドYouTubeチャンネル『ララチューン』を見た。ラランドのツッコミ担当であるニシダに対して相方のサーヤやマネージャーや近いスタッフの人々が思っていること、直してほしいこと、でも、彼には届かないだろうなという気持ちなども含めて伝えられていく。元テレ東の佐久間さんなどもVTRで出演するなど、ニシダに直してほしいことや仕事で感じていることを関係者が話し、それを映画館のような場所で彼が見る。それを別室でそれをサーヤとニシダが憧れているという南海キャンディーズ山里亮太がモニタリングするというものになっている。
最後には山里がニシダの元にいき思いを伝えるのだが、最後の方は見ていると涙が出てきてしまう。もし、これで彼が変わらなかったとしても、それは残念だけどそういう人だったとしか言えず、だが、人気も出て知名度も増しているこの状況で彼が変われば一気にラランドは四段階ほど上にいけるという話もあるので、こんなチャンスを捨てないで欲しいし、そういう場所にまず居れるということが素晴らしいことでみんなが行きたがっている場所なのだと知って欲しいと思ってしまった。だって、あんなにいろんな人が言ってくれるのは期待してくれているということなのだから。
いろんな人がニシダと同じではなくても、自分のダメな部分が彼と共鳴するところもあるだろうし、僕もあった。だからこそ他人事ではなく、周りの人たちの声や気持ちが沁みてくる。

 

6月21日
梅田サイファー - 梅田ナイトフィーバー’19 ,トラボルタカスタム ft. 鋼田テフロン / TFT FES vol.3 supported by Xperia & 1000X Series

佐藤栞里オールナイトニッポンZERO』の中で佐藤栞里さんがコロナ療養中に何度も繰り返し聴いていたというのがこの梅田サイファーの『梅田ナイトフィーバー’19で、放送中にも『THE FIRST TAKE』の楽曲に合わせてノリノリでラップをしていた。このことに『クリーピーナッツのオールナイトニッポン』で触れるのかなと思ったら触れていなかった気がする。聞き流してしまったのかもしれない。

散歩しながらTBSラジオの『JUNK 伊集院光深夜の馬鹿力』を聴いていた。ハガキコーナーでどちらがいいかみたいな時に、「さかなクン、もう中学生、ゾンビだらけの町から抜け出すならどっち?」という二択があった。さかなクンなら知恵も豊富だし包丁とかも使うのうまいだろうし、ゾンビの危険部位を取ったりできそうみたいな話をしていて、それがおもしろかった。

歩きながら来月移行のスケジュールを考えていた。7月末に締切のある「小説現代長編新人賞」は日程的には難しいので出さないことにしていたが、この間友達に話した作品がアイデア的にも内容的にもちょっと感動系のエンタメにいけそうだし、半年間はできるだけ書くモードにしたいのでそれも書くことにした。
脳内で登場人物を誰にするかのキャスティングをしていたら、書けそうな気がしてきた。夕方からのリモートまで「小説現代」に掲載されて単行本化された『爆弾』の続きを読む。これ直木賞取ったらすぐに映像化決まりそうな気がする。

 

6月22日
家で仕事をしていると共同通信から電話がかかってきて「参議院選挙と内閣支持についての調査」の協力をお願いしますと言われた。
そもそもかかってきた時の相手の声が自動録音の機械的なもので、回答してもらえるのであればボタンの「1」を押してくれたら、ショートメッセージで質問事項のあるURLを送るという。ちょっと怪しいなと思いつつ、ランダムで無作為に選んだ番号にかけているというので、次はないかもと思って了承したらすぐにショートメッセージが来た。

質問1「あなたは今回の参議委員選挙に関心がありますか。」
質問2「あなたのお住まいの郵便番号を、7桁の数字で入力してください。」
質問3「XXX選挙区(郵便番号を入力しますと選挙区が表示されます)には、次の方々などが立候補しました。あなたは、どの候補者に投票したいと思いますか。」
質問4「次に比例代表の投票先をお尋ねします。あなたはどの政党に投票したいと思いますか。」
質問5「比例代表では政党名または候補者名で投票できます。あなたは政党名で投票しますか、または候補者名で投票しますか。」
質問6「それはどなたでしょうか。(質問4で「政党」、質問5で「候補者名」を選択した場合候補者が表示されます。それ以外を選択した方は質問7へ進んでいください)。」
質問7「あなたは普段どの政党を支持していますか。」
質問8「あなたは岸田内閣を支持しますか、支持しませんか。」
質問9「あなたの性別をお答えください」
質問10「あなたの年代をお答えください」
質問11「あなたの職業をお答えください」

これが質問の全部。無作為で選んだ人たちが回答しているものを集計すれば統計的にはある程度結果を予測はできるだろう、投票事前の感じは数さえ集まればある程度は掴めルだろうなと思った。
あとは一旦出たこの事前の調査で出た数字がどのくらい投票する人に、しない人に影響をするのか。ということだが、「空気」を読む日本人という国民性は民俗学者柳田國男が最初の選挙の時に周りの顔色を窺っていた投票者たちを「魚の群れ」と言ったことから大きくは変わっていない。だが、円安や物価が上がって生活がきびしくなっている現実に対して、有権者がどれほど怒りやいらだちを感じているかで、原因でもある政権与党をどう判断するか、対抗勢力が弱いと言ってもなんらかの動きは起きそうではある。

20時から先週から始まった友人とのオンラインミーティングという名の創作に関する話し合い。いろいろ考えていたことが話すことで自分の中で固まっていくのとやる気が出るのがありがたい。まずは7月末が最初の区切りでそこから広げていく。

 

6月23日
昨日のミーティングのあとから始めた「あだち充論」の最終回の校正戻しをしていたら、日付が変わって2時を過ぎていた。TVerで『あちこちオードリー』を見ながら寝落ちした。
朝起きてちょっと経ってから、戻した原稿に対してのレスポンスが編集担当さんからすぐ返ってきたので加筆修正をした。これで「PLANETS」ブロマガで連載させてもらっていた『ユートピアの終焉――あだち充と戦後日本社会の青春』が終わる。
タイミング的にも去年の今頃は「週刊ポスト」で連載していた『予告編妄想かわら版』が夏に終わると言われた時期だったのを思い出した。
長年続いてきたものが終わっていくとどうしても感じることがこの上半期は続いていた。下半期はこれから先のことに繋がっていくように動いていくことが大事になるし、たぶん働くことや生活なんかの自分の生き方が大きく変化していく時期になっていくんだと思う。


今月はこの曲でおわかれです。
ASIAN KUNG-FU GENERATION 『De Arriba』Music Video


chelmico - O・La [Official Music Video] / track produced by DJ FUMIYA (RIP SLYME)

Spiral Fiction Note’s 日記(2022年4月24日〜2022年5月23日)

水道橋博士のメルマ旬報』連載「碇のむきだし」


日記は上記の連載としてアップしていましたが、こちらに移動しました。一ヶ月で読んだり観たりしたものについてものはこちらのブログで一ヶ月に一度まとめてアップしていきます。

「碇のむきだし」2022年05月掲載


先月の日記(3月24日から4月23日分)


4月24日

メフィスト受賞作家である潮谷験さんのデビュー2冊目『時空犯』を読み始めた。今回の主人公の姫崎は探偵であり、デビュー作『スイッチ 悪意の実験』同様に主人公たちは報酬のある実験へ参加したことで事件に巻き込まれるというもの。ある種王道な設定かと思いきや、繰り返される時間というSF的な設定もあるというミステリー。

私立探偵、姫崎智弘の元に、報酬一千万円という破格の依頼が舞い込んだ。依頼主は情報工学の権威、北神伊織博士。なんと依頼日である今日、2018年6月1日は、すでに千回近くも巻き戻されているという。原因を突き止めるため、姫崎を含めたメンバーは、巻き戻しを認識することができるという薬剤を口にする。再び6月1日が訪れた直後、博士が他殺死体で発見された……。

2作目もかなりおもしろそう。わりと飛び道具的な同じ日を繰り返すという設定をどう活かしながら、ミステリーとして殺人事件を解いていくのか読み進めるのがたのしみ。


昨日今日と二日連続で17-24時とリモートで夕方から仕事があるので、起きてから午前中に散歩がてら家を出る。読み終えた本をBOOKOFFで売ったお金で又吉直樹著『人間』の文庫版を駅前のツタヤで購入する。単行本で出た時に気になっていたが、どうも装丁で惹かれなかった。文庫のこのデザインがドンピシャというわけでもないけど、こちらのほうが僕はまだ興味が出る、というぐらい。
BOOKOFFは少し前まで松本穂香さんと子役の寺田心くんがCMをやっていたのだけど、今日行ったら棚に刺してある「読み終わったら売ってください」みたいなポップがなかやまきんに君になっていた。個人的には読み終わって、家にずっと置いておこうと思わない書籍は売って、そのお金で新刊をまた買うというサイクルにしている。電子書籍は場所を取らないから家で邪魔にはならないが売ることはできない。どちらがいいのか、というのは人それぞれなんだろうけど、僕はやはり形があったほうがいい。


4月25日
PLANETSブロマガ連載「ユートピアの終焉──あだち充と戦後日本の青春」の最新回が公開になりました。
アイドルA』(前編)では、あだち充と担当編集者の関係性から生まれた読切作品、そして編集者たちのバトンリレーについて書いています。


「BOOKSTAND映画部!」のレビューコーナー「月刊予告編妄想かわら版」2022年05月号が公開になりました。5月は『マイ・ニューヨーク・ダイアリー』『夜を走る』『ハケンアニメ!』『犬王』を取り上げています。



伴名練著『なめらかな世界とその敵』文庫版。斜線堂有紀さんの解説と文庫版のあとがきが読みたかったので先日買っていた。単行本の時点で読んでいるが、収録されている短編にソ連を舞台にしたものなんかがあり、現在のウクライナ侵攻などを鑑みて修正している箇所があると伴名さんがあとがきで触れていた。となるともう一回読むしかないのかなあ。
この作品はおそらくこれからSFの入門編として、今までSFに触れていなかった人が最初に読む作品になっていくんじゃないかなと思う。

最近は江國香織さんと川上弘美さんの短編集をいくつか読んでいるのだけど、ほんとうにお見事というか、読んだ後にいい話だなとか登場人物のセリフや行動だけでなく、関係性や描かれている場所なんかが残る。こんなにいいお手本を読んだからといって短編が書けるわけではないけど、月に一本書いていくリハビリをしていきたい。

 

4月26日

明日から来週の木曜日までは朝か夜どちらか、あるいは両方に仕事が入っている日があって、8日間休みがないので今日はできるだけ仕事に関することはしないでおこうと決めた。ただ、映画は観に行こうと思っていて気になっていた『パリ13区』が近くだと新宿ピカデリーぐらいしかなかった。渋谷ではどこもやっていなかった。午前中はどうせ暇だし、雨も降らなそうだったので家から一時間半ほど歩いて新宿へ向かう。
代々木という文字を見るようになって、そういえば『天気の子』の最後らへんの舞台ってこの辺だったような気がしたが、地図アプリが示す方へ歩いて行く。代々木公園はほんとうに大きいんだな、とその横の歩道を北上して代々木駅に向かっていると馬が見えた。「東京乗馬倶楽部」とあった。
『群像』で古川日出男さんが連載している小説『の、すべて』の主人公のコーエン(大澤光延)が住んでいるのが確か代々木二丁目で、物語には明治神宮や馬も出てくる。そのことが脳裏をよぎった。ああ、文字で読んでいた舞台はこの辺りだと思う少しだけ目に入ってくるものの解像度が上がるような気がした。
代々木駅から明治通りにでてそのまま北上して甲州街道を越えて、新宿三丁目にある新宿ピカデリーへ。

『カモン カモン』に込められた「切実な願い」を読み取る

映画を観る前に映画・音楽ジャーナリストの宇野維正さんが書いた『カモン カモン』についての文章を読んでいた。このところ観た映画で『ベルファスト』『カモン カモン』、そして観ようとしていた『パリ13区』はモノクロ映像の作品という共通点があった。
だが、『カモン カモン』の主人公は「ストレートの白人中年男性」であり、彼がインタビューする子供の中には移民の子供たちが出てくるが、『ベルファスト』は故郷北アイルランドから宗教観の対立から出ていこうとする家族、移民となることを決意するまでを描いたし、『パリ13区』も主人公のエミリーは台湾系のフランス人、もう一人の主人公のカミーユはアフリカ系フランス人、移民が多く暮らしているパリを描いていた。記事の中で書かれているように、

5年前に「ストレートの裕福な白人の中年男性が主人公の映画を撮っても、誰からも相手にされない」と語っていたミルズは、本作で初めて「ストレートの白人中年男性」を作品の中心に据えたのだ。

#Me Tooムーブメントだけでなく、LGBTQのことや移民問題なども含めた多様性を巡る事柄によって、「ストレートの白人中年男性」という主人公は確かに以前よりも減って行っている。マーベルのヒーローを描いた作品でもどんどん移民系の役者が増えてきている。アジア系は10年前、5年前と比べるとハリウッド大作の映画でもメイン所を占める割合は飛躍的に上がったのはわかる。
例えば、日本の小説でも典型的な「サラリーマンの中年男性」というのはもう主人公にはなりにくい、と思うことがある。男性作家はそれらの問題意識がどうしても女性作家よりも遅いし身近に感じてこなかったことで遅れてしまっている感じもする。だけど、そこで性差の話をするとまた違うのかもしれない。この辺りは言葉にしにくくて難しい。


新宿ピカデリーに来たのはだいぶ久しぶりだった。新宿で映画館に行くとなるとTOHOシネマズ新宿か新宿バルト9でシネコン系は観れるし、単館系ならテアトル新宿新宿武蔵野館か新宿シネマカリテという感じなので、ここでしかやっていないものみたいな時ぐらいしか来ていないのだと思う。
平日の午前中の回にはしては大きなスクリーンではないというのもあるだろうが、そこそこお客さんは入っていたようだった。一応R18指定なので、中年というよりは50代や60代に見える人のほうが多かった気がする。僕ぐらいの世代のほうが少ない感じだった。

ディーパンの闘い」「預言者」などで知られるフランスの名監督ジャック・オーディアールが、「燃ゆる女の肖像」で一躍世界から注目される監督となったセリーヌ・シアマと、新進の監督・脚本家レア・ミシウスとともに脚本を手がけ、デジタル化された現代社会を生きるミレニアル世代の男女の孤独や不安、セックス、愛について描いたドラマ。再開発による高層マンションやビルが並び、アジア系移民も多く暮らすなど、パリの中でも現代を象徴する13区を舞台に、都市に生きる者たちの人間関係を、洗練されたモノクロームの映像と大胆なセックスシーンとともに描き出していく。コールセンターでオペレーターとして働く台湾系フランス人のエミリーのもとに、ルームシェアを希望するアフリカ系フランス人の高校教師カミーユが訪れる。2人はすぐにセックスする仲になるが、ルームメイト以上の関係になることはない。同じ頃、法律を学ぶためソルボンヌ大学に復学したノラは、年下のクラスメイトたちに溶け込めずにいた。金髪ウィッグをかぶり、学生の企画するパーティに参加したことをきっかけに、元ポルノスターのカムガール(ウェブカメラを使ったセックスワーカー)だと勘違いされてしまったノラは、学内の冷やかしの対象となってしまう。大学を追われたノラは、教師を辞めて不動産会社に勤めていたカミーユの同僚となるが……。グラフィックノベル作家エイドリアン・トミネの短編集「キリング・アンド・ダイング」「サマーブロンド」に収録されている3編からストーリーの着想を得た。2021年・第74回カンヌ国際映画祭コンペティション部門出品。(映画.comより)

男女共に全裸でいるシーンが多々あるし、セックスシーンもあったけど、そこまで大胆な感じはしなかったけど、モノクロだからこそ美しさは感じられた。
エミリーはパーソナリティー障害みたいな話がちょっと出てくるけど、わりと本能に忠実なというキャラクターだなと思った。だからこそルームメイトになったカミーユに対して映画が始まってすぐのころ(何度かセックスしたころ)に言ったことは彼女が感覚でわかったことなんだと思う。それが最後に活きてくるし、そういう終わり方になるのはまとまりもいいと思った。二人の関係性はフランス的なものかどうかわからないけど、他者との距離感からくる孤独や不安みたいなものをなんとか生き延びるための欲望としてのセックスみたいなものがあると思うし、今の時代のほうがより裸同士の付き合いというかその感触が非常に強く求められるし、求めたいという欲望が強くなっていると感じるので映画の内容もわかる気がした。
元ポルノスターと勘違いされてしまったノラとその元ポルノスターのトランスジェンダーの人なのかな、二人の関係性はとても現在的なものでもあり、エミリーとカミーユとの関係性にノラも関わってくるが、ノラとポルノスターとの話があるおかげでこの映画はかなり今という感じが濃くなったんじゃないだろうか。


4月27日

潮谷験さんのデビュー2冊目『時空犯』を読み終えたので、続けて3冊目の『エンドロール』を読み始めた。『時空犯』は同じ日がひたすら繰り返されるというSF的な構造があるが、それも重要な要素だがしっかりとしたミステリーになっており、すごいなと思う展開になっていた。やはりメフィスト賞受賞作家が描くキャラクターで、聡明な女性で博士と聞いて浮かぶのは森博嗣著『すべてがFになる』に登場した真賀田四季だろうか、四季は森博嗣作品においていろんなシリーズに出てくる重要な人物だった。『時空半』の北神伊織博士は四季とはタイプは違うが、メフィスト賞の系譜ということを少し読みながら思った。もちろんミステリーなので犯人がいるわけだが、最後に犯人に絞っていく際の主要人物のアリバイ崩しにも繰り返す時間の原因というSF的な要素もしっかり推理に活かされていて唸った。この潮谷さんはメフィスト賞を再び輝かせる人になっていきそうだ。

『エンドロール』はこんな内容である。

202X年。新型コロナウイルスのせいで不利益を被った若者たちの間で自殺が急増する。自殺者の中には死ぬ前に自伝を国会図書館に納本するという手間をかけている者がいた。その数200人。共通するのは陰橋冬という自殺をした哲学者の最後の著書と自伝を模倣するということ。
早世したベストセラー作家・雨宮桜倉を姉に持つ雨宮葉は、姉が生前陰橋と交流があり、社会状況の変化から遺作が自殺をする若者を肯定しているという受け止められ方をしてしまったという思いから、自殺を阻止しようとするが……。

かなり現在とリンクする内容になっている。とりあえず、主人公の雨宮葉が陰橋冬の著書と自伝を模倣して死んでいる人たちを止めようとしている理由がわかる最初の章だけを読んだ。陰橋冬という人物はまだ詳細がよくわからないが、自殺したというのであれば海外であればマーク・フィッシャーが浮かぶし、最近の日本であれば西部邁などがいるが、彼らというよりはもうちょっと違うモデルがいるのかなと思う。
そのモデルが自殺はしてないが、書いたものなんかをつがうベクトルに向けると自殺を模倣するような感じに著者がしたのかなって感じるけど。まだ、この物語がどうなっていくのかはわからないが、確実になくなった姉の桜倉の秘密や彼女がなにかを企んでいたみたいなことが物語の核になるんじゃないかな。

水道橋博士のメルマ旬報』連載「碇のむきだし」2022年4月27日号が配信されました。映画『ベルファスト』を観たので、以前に北アイルランドに行った時の話を元に『シャムロックの三つの葉』という短編を書きました。

 

4月28日
PLANETSブロマガ連載「ユートピアの終焉──あだち充と戦後日本の青春」の最新回が公開になりました。
アイドルA』(後編)では、前々作と前作のヒロインたちの夢を叶える希望の存在としての(今作の主人公)里美あずさについて書いています。


真造圭伍著『ひらやすみ』3巻が出ていたので昼休憩の時に銀行に住民税を払いに行ったついでに購入。
今回は漫画家になりたい主人公のヒロトのいとこであるなつみが持ち込みをした後の話と芸大での友達の恋バナという青春という話、そして不動産屋のよもぎが部屋を紹介した小説家との話が動き出すという感じ。ヒロトは元役者だし、わりと創作系の人の登場人物の比率が増えてきた気はするが、夢と日常をいうものを描こうとしているはずなのでそうなるんだろう。あと中央沿線が舞台だから、それはそうだよなあとも思う。



そのままトワイライライトでアイスコーヒーを頼んで『飛ぶ孔雀』を購入して一服。
その帰りにニコラによって作業をしながら、苺とマスカルポーネのタルトとアルヴァーブレンドを一緒に。話をしていたら、小学校中学校高校と毎年クラス替えがあったというと曽根さん夫妻とカウンターにいたお客さんに驚かれた。そういうものだと思っていたのだが、三年間は同じクラスだと言われたり、地域によってそういう違いもあるんだなあ、話してみたいなわからないことは多いけどおもしろい。


4月29日
古川日出男さんが毎月寄稿している《考えるノート》の最新回が公開されていた。
第5回「戦場でのおびただしい〈死〉の報に触れながら 戦争と平和、非日常と日常、善と悪――翻弄されることで見える何か」

 私に言えるのは、戦争と平和であれ、生と死であれ、それらを「疑いなく対峙させられる」と事前的に思った途端、はまり込む罠もあるのではないか? ということだ。

舞台は13世紀半ば、動乱のボヘミア王国
ロハーチェクの領主コズリークは、勇猛な騎士であると同時に残虐な盗賊でもあった。ある凍てつく冬の日、コズリークの息子ミコラーシュとアダムは遠征中の伯爵一行を襲撃し、伯爵の息子クリスティアンを捕虜として捕らえる。王は捕虜奪還とロハーチェク討伐を試み、将軍ピヴォを指揮官とする精鋭部隊を送る。
一方オボジシュテェの領主ラザルは、時にコズリーク一門の獲物を横取りしながらも豊かに暮らしていた。彼にはマルケータという、将来修道女になることを約束されている娘がいた。
ミコラーシュは王に対抗すべく同盟を組むことをラザルに持ちかけるが、ラザルはそれを拒否し王に協力する。ラザル一門に袋叩きにされたミコラーシュは、報復のため娘のマルケータを誘拐し、陵辱する。部族間の争いに巻き込まれ、過酷な状況下におかれたマルケータは次第にミコラーシュを愛し始めるが…(公式サイトより)


《考えるノート》で取り上げられていた映画『マルケータ・ラザロヴァー』。これは公開されたイメージフォーラムに観に行きたい。モノクロで二時間半ほどあるようだが、同じくモノクロである5月中にテアトル新宿青山真治監督『ユリイカ』デジタル・マスター版が公開されるようなのでそちらも行こうと思っている。

午前中にツタヤ渋谷店に行った。ちょうどオープンの10時に店前に着いたらかなりの人が待っていた。どうやら一階になにわ男子のポップアップが展開されているみたいで、それを撮影しようと待っている人が多かったみたいだった。
僕はそのままエスカレーターに乗って3階に行き、前借りようと思ってほとんど借りられていたスパークスのアルバムや外付けHDにデータ移行できずに消えてしまったスーパーカーのアルバムなどを借りた。あと、中村佳穂のニューアルバムも手に取ったが、新作でも防犯目的のプラスチックカバーがされているものがあり、店員さんに器具で解除してもらわないといけなかったので友人レジのほうに並んだ。
有人レジでは男性のお客さんがなにかを聞いていたようでその対応をしており、他の店員の姿はなかった。僕の前には60近い男性客がいらいらして待っていた。その男性が進んでスタッフの声が聞こえる棚のほうに向かってちょっと声を荒げた。それで男性店員が一人出てきて、彼の対応をしていたが、その男性客は「客が一番だろうが」などと怒っていた。
朝から嫌なものを見てしまった。確かにお客さんはお店にとって大切でも、朝イチでスタッフだってたくさんいるとは限らず、何かの対応に追われていることぐらいはわかるはずだ。また、僕は防犯解除のために並んでいたが、基本的には無人レジでレンタルなどはできる。男性客は無人レジでできないのか、有人レジでないといけないのかはわからないが、俺様という感じが強かった。こういう人ってケアっていう概念がないのだろうとも思った。
彼はそういう態度で生てきていて、それが通ってきていたのだろう。だが、もうそういう時代でもないことがわかっていないようだ。少しぐらい待ってもいいものだろうし、もし待たされても店員に苛立って声を荒げるのはダサい、お客さまは神様というのは嘘とは言わないがそうでもない。接客の仕事をしたことがある人ならわかるし、してなくてもわかるものだろうが、彼のような人はそういうことがまるで理解できていないように見えた。彼らはたとえば妻や女性になにかを言ってしてもらう(あるいは言わなくてもしてもらう)ことが当たり前で、自分がケアをする側になったという経験がないのだろうか。ケアという概念がわからない人は家父長制で生きてきて、そのまま死んでいける世代なのかもしれない。そう考えると可哀相にも見えてきた。また、こういう人って友達とかいないのではないかなとその姿を見ながら思った。いても同世代の同じような人たちのだろう。なかなかしんどいなあと思う。
防犯の解除をしてもらって無人レジでレンタルをして店を出ると小雨が降り始めてきた。

中村佳穂 “MIU” ミュージックビデオ



家に帰って音源を外付けHDに取り込みながら、読書をしていた。途中から江國香織著『東京タワー』を読み始める。この小説の冒頭が雨の東京タワーだった。江國さんは『雨はコーラがのめない』という作品も有名だが、雨の風景を書いているという印象がある。主人公の透が僕よりは学年が一つ上の1980年生まれだったで、同級生で友人の耕二と共に大学2年生ぐらいなので舞台としては2000年ぐらいなのだろう。
東京スカイツリーができる何年も前の物語。スマホはまだないし、携帯もちょっとずつ持ち始めた時代だから家の電話の前で相手からで連絡が来るのを待っているというシーンがあったりするのが、今との大きな違いかなと思う。

 

4月30日

 戦争とは一つの悪ではなく悪それ自体である。人間の生産的な資源を後先もなく濫費することにはかならず、――アナーキーな暴力、無意味な放蕩、抗争、逆行、感染、異質性といったものからなる――軍事的な性格が備わっている。だからこそ犯罪は、共同体にたいする侵略という原始的な意味を保ちつづけ(その名残は強盗のなかに、あるいは逆に、犯罪にたいする刑罰の形式がもつ軍事的基盤のなかに見られる)、無意識は自ずと一つの内乱に喩えられることになるのである。サドの熱狂はこうした軍事的原理を共有しており、力、裏切り、供儀による栄光、そして堕落によって、分解的に「制御」されている。大衆にたいする中央集権的な平和化作用の崩壊こそが、サドのテクストに広がる歴史的かつ文学的な空間なのである。そのあとに悪や無秩序や崩壊を残しながら、異質的な諸力が体制の腐敗のすえに明るみに出た戦場を縦横に動きまわるにつれて、不均質に崩壊していく社会は武装した集団に変わり、強盗や法外な者たちからなる一団に変わっていくことになる。(ニック・ランド著『絶望への渇望 ジョルジョ・バタイユと伝染性ニヒリズム』P281-282より)

「世界はどこに向かっているのかな? 若い頃のわたしは、社会の進歩を信じていた。なぜかというと、自分自身が進んでゆくチャンスが見えていたからだ。だが、こうして六十になって、来られるところまでは来たとなると、後は行き止まりだけだという気がしてくる。あんたの言い分が正しいなら、社会にとっても後は行き止まりだ。しかしだね、このシドニー・ステンシルはずっと変化していなかったとしたら――そのかわり、一八五九年から一九一九年のあいだに世界はある病気にかかったが、その病気を診断できる人間が誰もいなかったのだとしたらどうだろう。兆候があまりに微妙だから――歴史を形作るさまざまな出来事の中に溶け込んでいて、ひとつひとつは何の影響もないようだから――誰にも気付かれないが、全体として見れば命にかかわる病気だったとすれば。ま、世間は先の戦争をこのように見ているわけだ。あれは新発見の奇病だったが、今は治療が成功して永遠に撲滅されたのだと」(トマス・ピンチョン著『V.』下巻P332より)


トマス・ピンチョン著『V.』下巻を読み終わったので、次は一度読んだことがある『競売ナンバー49の叫び』に。『V.』読み終わったけど、うまいこと世界を捉えられきれていない。おもしろいかおもしろくないかと言われたらおもしろい。だが、読み手である自分がそこを理解できていない、あるいは真面目に読み過ぎてしまう部分が邪魔をしているような。『競売ナンバー49の叫び』はDCPRGの曲名にも使われていたので、ちょっとだけ親近感がある。

浅野いにお先生と押切蓮介による雑談」のYouTube聞いているが、浅野さんの声って高橋一生さんの声に似てるな。ということは骨格が近いだろうから、顔も似ているってことになる。




大塚英志原作×山崎峰水漫画『くだんのピストル』弐巻を読む。高杉晋作岡田以蔵がメインとなっている。読みながら大塚さんは高校生の時に漫画家だった時期があり、その時の師匠がみなもと太郎さんだから、これは『風雲児たち』を大塚さんなりにやり直したいってことなのかなって思った。

 

5月1日

数冊を併読しているが、前に読んでいた江國香織さんと川上弘美さんの作品は読み終わったので、次のものへ移行した。『物語のなかとそと』はエッセイ、『猫を拾いに』は短編集でひとつの話やくだりが短いのでちょっとずつ読むのにちょうどいい。保坂和志著『ハレルヤ』は一編がそれほど長くない中編で、こちらも1日一編ずつぐらい読んでいくつもり。

5月1日はニコラの周年日。11周年。年末以来の皿洗いヘルプに18時から入る。24時の閉店まで賑わっていた。閉店後に常連な人たちと飲んだり話をしていたけど翌朝は仕事なので3時には帰る。まん防解除されたことで気兼ねなく集まれるようになってほんとうによかった。

 

5月2日
朝なんとか起きて9時からリモートワークで20時まで仕事をしていた。仕事だから読んでいた小説のジャンルがほんとうに苦手なタイプのもので、しかもそのジャンルのある種王道パターンだったので、辟易しながらも要約のためのメモをとりながら読んでいた。形式美みたいなものなのだろうけど、それがダメな人にとってはそれ故にしんどくなる。でも、読まれているっぽいし、好きな人は好きなんだろうなって。王道パターンという物語だからこそ、読めたり好きだという人がいるのもわかる。でも、パターンとして僕にはおもしろいとはまったく思えない。時間がかかってしまったのはそのせい。


ニコラのお二人は翌日の2日はしんどいのはわかってたから21時から皿洗いヘルプに行けますよと伝えていたからその時間からちょっとヘルプ。終わってからサルシッチャとそら豆のスパゲティーニとビールのまかないをいただく。
今年の3月11日からはニコラの上の3階に熊谷くんが店主なトワイライライトがオープンしたので、三軒茶屋に来る機会があれば、どちらも寄ってみてください。
続けていくのはほんとうにすごいことだし、いろんな要素が混ざり合うのだけど、素直におめでとうございます!という気持ちです。
僕にとってのニコラのようなお店があるなら、足を運んでお金を落とすことはとても大事なことだと思う。お店が閉店するときに残念みたいなことSNSでいうやつはさほど行ってないし金も落としていないだろうから、そういう残念な人間にならないように生きては行きたいな、と思う。

 

5月3日

渋谷まで散歩がてら歩く。ジュンク堂書店渋谷店に寄って、伊坂幸太郎著『マイクロスパイ・アンサンブル』と松波太郎著『カルチャーセンター』を購入。
伊坂ファンというのもあるが、これは「猪苗代湖の音楽フェス「オハラ☆ブレイク」でしか手に入らなかった連作短編がついに書籍化!」と謳われているように、ページをペラペラめくったら猪苗代という単語が見えたので読もうと思った。
『カルチャーセンター』は単純に表紙をSNSで見てから気になっていたもので著者や内容はまったくわからないが、帯の表は松浦理恵子さんと柴崎友香さんのコメントがあるが、裏側が保坂和志さんのコメントがあったので、『ハレルヤ』繋がりでいいかなと手に取った。

TVerオリジナルの『神回だけ見せます!』を初回の出川さんから5回目の萩本欽一さんまでを一気に見た。日テレの番組の神回を流しながら、佐久間さんと伊集院さんがワイプで見ながらコメントしていくというもの。出川さんの回は最後は知らないうちに泣いていた。見ればわかるけど、この回は現在のウクライナ侵略とも通じてしまっている。いつだって戦前で戦中で戦後であるということ。
最後の萩本さんの回もおもしろかったので、その流れでオードリーの若林さんと萩本さんがふたりでやったラジオをYouTubeで探して聞いている。
伊集院さんが言っていたけど、モグライダーの二人の形式は実はコント55号と同じであるというのは納得だった。そして、ラジオを聞いていると若林さんと萩本さんのやりとりがすごいし、若林さんがきちんとリスペクトしているからこそのツッコミが萩本さんうれしいんだろうなとわかる。


5月4日

朝散歩がてら歩く。首相官邸や国会議事堂を横目に、日比谷公園を横切って二時間ちょいで日比谷へ。『ドクター・ストレンジマルチバース・オブ・マッドネス』をTOHOシネマズ日比谷のIMAXにて鑑賞。
ここでない何処かを、一緒に居たいはずの誰かとのありえたかもしれない人生を、それを追い求めれば人は(ダークサイドに)堕ちていく、という話をサム・ライミのお得意分野で味付けしましたという映画だった。
マルチバース・オブ・マッドネス」とついているように「マッドネス」な話だけど、年を取れば取るごとにありえたかもしれない世界や未来を夢見てしまう、という「35歳問題」の話でもある。「35歳問題」を絡めて誰かがこの映画について論じるでしょう。東浩紀著『クォンタム・ファミリーズ』に通じる部分もあったりする。
そして、『死霊のはらわた』のサム・ライミ監督がなぜこの映画のメガホンを取ったのかも観ていたらわかる気がした。過去という亡霊や死霊や悪霊たちが「こんな未来なんて望んでいなかったのになぜ? なぜ? 私の現実はこんな状況に陥ってしまったのだ」と語りかけてくるように、そのためにサム・ライミが必要だったんだと思う。故にその亡霊や死霊や悪霊をいかに使うがキーになるし、その意味ではダークヒーロー的な要素も含んでいた。
中年以降の人間、残り時間があきらかに無くなってきたと感じてる人にはエグく突き刺さる内容になっている。観ている僕たちはヒーローでもなければ、マルチバースを開くこともできないし、ありえたかもしれない他の自分の人生を見ることもできない。
いつか確実に終わるこの人生から逃げ出すことはできない。自死を選んだからといって逃げられるとは限らない。だから、人には物語や芸術というものが必要なんだと思う。だけど、物語や芸術によって縛られてしまうこともある。だからこそ、当たり前の日常とうまく付き合っていきながら、喜怒哀楽の感情をできるだけ、内側に溜めずに外側に出すしかバランスは取れないんじゃないかなとも思う。
今の現実世界を描こうとしたら平行世界やこのマルチバースみたいにいくつかのレイヤーを重ねるしかない。僕たちの現実世界は単純な「大きな物語」から冷戦終結以降に解放され、放逐され、インターネットによって複数のレイヤーがあることを知った中で生きてしまっているから。
ドクター・ストレンジマルチバース・オブ・マッドネス』は明らかにフィクションだけど、その複数で複雑なレイヤーは僕には違和感なかった。
ありえたかもしれない未来ほど、人の心を捉えて呪い、がんじがらめにできるものなんてないから。

 

5月5日

GW期間中、朝か晩か朝晩と仕事が入っていないのがこの日だけだった。久しぶりのほんとうに何もない休みだったので、なにか観たいなと思ったのでヒューマントラスト渋谷で開催中の「ジャック・リヴェット映画祭」の中のひとつ『北の橋』を観に行った。

セリーヌとジュリーは舟でゆく』が「不思議の国のアリス」ならば、ビュル・オジェと実娘のパスカル・オジェ共演作である本作はリヴェット版現代の「ドン・キホーテ」。ビュルとパスカルは撮影前にリヴェットに渡された「ドン・キホーテ」に魅了されたのだと言う。突然現れた閉所恐怖症の女テロリストのために、彼女の昔の恋人との連絡を引き受ける少女バチストは鎧の代わりに革ジャンを羽織り、馬の代わりにバイク、兜の代わりにヘルメットをかぶってドン・キホーテを演じてみせる。パリの街と符号する双六ゲームの上で、日常を生きながらにして幻想に駆られた俳優たちの身体と、現実の中から立ち現れてくるファンタジーが結びつく興味深い一編。(公式サイトより)

ほんとうに所々『ドン・キホーテ』みたいな荒唐無稽な行動をバチストは取ったりしていて、シュールなコントに見えたんだが、正直途中から眠くなってしまって三分の一ぐらい寝ていた。パリの街と符合する双六ゲームみたいなものは興味が沸いたんだけど、『アンダー・ザ・シルバーレイク』の謎を解く地図にもちょっと通じているという部分で。だけど、異様に眠くなってしまった。閉所恐怖症っていうのはわかったけど女テロリストにしては行動がいろいろ迂闊というかテロリストに見えなかった。


映画を観終わってから日差しが初夏じゃんっていう中を歩いて家に戻って一度荷物を置いてから、トワイライライトに向かう。小山義人さんの個展が開催中で、小山さんのイラストが装丁に使われている町屋良平著『ほんのこども』が気になっていたので購入。読み始めたけど、これは語り手が語る人物と混ざり合っていってしまうという話なのかな。

大恐慌へのラジオデイズ 第72回「アルファベット2文字の怪物」

「天才」についての菊地成孔さんの話はいつもおもしろい。前に菊池さんと佐々木敦さんとの対談の時にも「天才」とは家族(国家)からの抑圧から生まれるという話をされていたが、今回語っていることで言えば、「天才」はある種部屋の中でガスが終始充満している状態になっている人という話。あとは着火するだけなんだけど、着火しないまま世に出て行かない人もいる。菊地さんが音楽をやってきた中で見てきた「天才」との仕事の中で、自分の役割はチャッカマンなんだという話だった。
おそらく、自分で着火できちゃう「天才」もいるんだろうが、いろんなジャンルにおいてあとは着火だけという「天才」が大爆発させるきっかけとしてのチャッカマンとしてプロデューサーだったり編集者だったりみたいな存在がいるのだろう。でも、「天才」は人の意見を聞かないとも言っているから、チャッカマンの役割はコントロールすることでもなく、たぶんコントロールなんかできないだろうし、存在して関わることで着火することになるのだろう。あと「天才」は家族と仲いいって話も前に佐々木さんとの時にも話してた。


5月6日

朝と晩リモートワーク。一服がてらニコラでピスタチオと木苺のブリュレとアルヴァーブレンド。明日は雨という予報だったが、ズレたのかほとんど雨は降らないみたい。しかし、朝晩と椅子にずっと座っているのはやっぱりしんどい。

ニコラの前に本屋に行ったが、お目当ての『新潮』6月号は明日の7日発売だったみたいでなかった。町屋良平著『ほんのこども』は寝る前に読み終わった。物語を書いている町屋さんとほぼ同一人物に見える小説家が、父が母を殺し、彼もやがて人を殺めてしまったかつての同級生について書き始めるのだが、その境界線が崩れてっダブっていく、生きることを描くというよりも殺意や暴力や悪意について描いていくことでナチスドイツのホロコーストにまで想像力は及び、その歴史と作家の移行と意識がかつての友人とも混ざり合っていくというものだが、すごく心に澱のようなものを、それがなにかはうまく掴めていないが残るような不思議な、いや不穏な作品だった。その町屋さんの新連載と蓮實重彦が寄稿した「青山真治をみだりに追悼せずにおくために」が読みたい。

 

5月7日

雨が降りそうで降らない中、歩いて六本木ヒルズのTOHOシネマズ六本木に行く。公開日に観た『ドクター・ストレンジマルチバース・オブ・マッドネス』2回目をTCX(TOHO CINEMAS EXTRA LARGE SCREEN)で。観やすいところにしようと思ったのでプレミアシートにしたが、あれって観やすい場所でちょっとシートがいいぐらいで価格としては高すぎる気はする。
やはりディズニープラスで配信中の『ワンダ・ビジョン』を見ておいた方がいいに越したことはない作品だと思うのだが、見たらワンダことスカーレット・ウィッチにすごく感情移入しちゃうのかなって思う。だって、スカーレット・ウィッチが自分の息子たちとの生活を夢見た結果、暴走して最終的に自分でケツを拭くという展開がこの作品であり、その原因として『ワンダ・ビジョン』があるということだろうから。
というわけでMCUの拡張していく世界観に全部付き合うのはなんか嫌だ!という性格のためディズニープラスには加入しないまま映画館で公開されるMCUだけを観ようとしている人です。
そうするとどうなるか、1回目と同じでドクター・ストレンジのクリスティーンとのありえたかもしれなかった可能性という「35歳問題」について考え、最後のなんというのか悪霊たちを取り込んだゾンビフォームみたいなストレンジのダークヒーローさはカッコいいなと思いながら、大画面を楽しんでいた。作中に出てくる「イルミナティ」メンバーに関してはまったくわからないのだけど、ほかのドラマや作品になんらかの形で出てきてたキャラクターなんだろうな、でも、『スパイダーマン/ノー・ウェイ・ホーム』でも超サプライズを楽しんでしまったので拍子抜けした感じはあったりした。
前回と今回で予告編を観た『ソー/ラブ&サンダー』には「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー」メンバーが出るみたいなのでそれを楽しみに観にいっちゃうだろうな。これまでの「ソー」シリーズは観たことがないのだが。


毎月お楽しみな『群像』連載中の古川さんの『の、すべて』今月号は休載。先月、雉鳩荘でそのことについて話は伺っていた。その理由と休載における編集部の判断は作家への信頼だなあ、と思った。
多くなくても、自分の周りのいる信頼がおけるわずかな人には、信頼される生き方というか姿勢を見せていくしかないんだよなあ、とお二人と一緒に過ごさせてもらって感じた。
というわけで、今月は文芸誌を買わないかなあと思っていたけど、蓮實重彦氏による「青山真治をみだりに追悼せずにおくために」が読みたくて『新潮』を買った。
来週からテアトル新宿で『ユリイカ』のデジタル・マスター完全版が公開なので、それだけはスクリーンで観ようと思ってる。ビデオでしか観たことがなかったから。



蓮實さんの「青山真治をみだりに追悼せずにおくために」を読んで、先日近くのブックオフ蓮實重彦黒沢清青山真治著『映画長話』があったのを思い出して買いに行き、最初の鼎談を読む。先日観に行って正直三分の一近く寝てしまったリヴェットの『北の橋』の話がされていた。
サム・ライミ監督が『スパイダーマン3』を撮ったという話からサム・ライミとブロックバスターについての話が出ていた。この鼎談本は2011年にリトルモアから一冊の本として刊行されている。この部分は2008年の収録のものだと最後に書かれていた。その時から14年後、刊行後11年後の2022年にサム・ライミ監督作『ドクター・ストレンジマルチバース・オブ・マッドネス』が公開されているというのが現在の時間。僕は今日2回目をTCXで観た。
この鼎談では最年少である青山さんは蓮實さんを「叔父」、黒沢さんを「年上の従兄」という感じで世代の違いについて最初に書いている。そもそもこの3人は立教大学の蓮實ゼミにおける「先生」と「ゼミ生」(黒沢・青山)であり、「監督」(黒沢)と「元助監督」(青山)という関係性でもある。『ドライブ・マイ・カー』でアカデミー賞国際長編映画賞を受賞した濱口竜介監督は学生時代に黒沢清監督に指導を受けていたわけだから、そういう師弟というか先生と生徒の流れがあったわけで、そこには当然ながら創作と批評の関係性があって、引き渡しながら引き受けた流れにおけるひとつの大きな結果だったんだろう。
しかし、青山真治監督は亡くなってしまい、蓮實重彦さんがその追悼文を書いている『新潮』を読んで、『映画長話』を読むと時間の流れを感じる、そういう日だった。

 

5月8日

第63回メフィスト賞受賞作家・潮谷験作品をデビュー作『スイッチ 悪意の実験』、二作目『時空犯』、三作目『エンドロール』と続けて読んでいる。メフィスト賞が新しいフェーズに入った感じもするし、復権を担う柱になりそうな作家さんだな、と改めて思う。時勢との距離感とある種の批評性がありながら、それらをミステリーにうまく混ぜこんでいる。まだ、第4章が読み終わったばかりだが、あるネット番組で三対三での「自殺」について肯定派と否定派が意見を戦わすという場面だったが、肯定側の「自殺」をしようと決めている人たち三人は作家、サッカー、ユーチューバーになりたかったがなれなかった人たちであり、否定側の三人(主人公たち)は同じく作家、サッカー、ユーチューバーとして成功し一定の評価を得ている人たちであり、その構図における問題や気持ちについてすごくうまいというか、読者の感情を揺らす場面だと思った。僕もそうだが、たいていの人は肯定側の人たちのように夢を叶えることができなかった人たちであり、『スイッチ 悪意の実験』の時にも描いていた「悪意」に近い人間の負の感情との付き合い方とか現実と理想の間での人の生き方をミステリーの中で書ける人が潮谷験という作家なんじゃないかなって感じた。

スーパーで買い物をして帰っている途中、ほとんど家の前というあたりで知り合いの方とすれ違った。マスクはしているものの、お互いに「あの人だ」と思った状態でおじぎして少しだけご挨拶をした。顔はわかるんだが、すぐにお名前が出てこなかった。連載させてもらっていた媒体の編集者さんで、担当の編集者さんの上司的な立場の方だった。何度か近所で会ったこともあるのに名前が出てこない。とりあえず、担当さんの名前を脳裏内で思い出し、下の名前が先に浮かんでそこからすぐには苗字も出てきた。そこからその担当さんがたまに書いていたその上司の苗字を思い出そうとした。家に着いてから、洗濯が終わったものを洗濯機から出して干していた。スマホで担当さんのメールを検索すればすぐに上司の人の名前も出るはずだが、そういうことばっかりしているからいろんなことを忘れていってしまうと思って、思い出そうとして考えていた。物干し竿にバスタオルやTシャツを干していたら、急にすれちがって挨拶した人の苗字が浮かんできた。浮かんだからなんだって話だけど、スマホに頼らなくてよかった気がした。

NHKドラマ『17才の帝国』:吉田玲子脚本(「けいおん!」「ガールズ&パンツァー」「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」「平家物語」等)×神尾楓珠&山田杏奈&河合優実&望月歩染谷将太(帝国の若き閣僚たち)×星野源(狭間で苦悩する政治家)×佐野亜裕美プロデューサー(「カルテット」「大豆田とわ子と三人の元夫」)という座組みの強さ、というかこの座組みができるのがNHKというか。しかも、きちんとオリジナル作品。

「舞台は202X年。日本は深い閉塞感に包まれ、世界からは斜陽国の烙印を押されている。出口のない状況を打破するため、総理・鷲田はあるプロジェクトを立ち上げた。「Utopi-AI」、通称UA(ウーア)構想。全国からリーダーをAIで選抜し、退廃した都市の統治を担わせる実験プロジェクトである。若者が政治を担えない理由は、「経験」の少なさだと言われてきた。AIは、一人の人間が到底「経験」し得ない、膨大な量のデータを持っている。つまり、AIによっていくらでも「経験」は補えるのだ。それを証明するかの如く、AIが首相に選んだのは、若く未熟ながらも理想の社会を求める、17才の少年・真木亜蘭(まきあらん)。他のメンバーも全員20才前後の若者だった。真木は、仲間とともにAIを駆使し改革を進め、衰退しかけていた地方都市を、実験都市ウーアとして生まれ変わらせていく―。」

 

5月9日
朝と晩ともにリモートワーク。途中、週一回の整骨院に行ってほぐしてもらって電気をあててもらう。椅子に座ってずっとパソコンを打っているから体がどうしても前傾になってしまい、元々肩甲骨がガチガチなので余計に体が固まってしまう。最近寒くなってきたのもあるけど、梅雨ではないのだろうが気圧の変化で頭痛かなと思っていたのだけど、それと前傾姿勢のせいで首とか肩が固まってしまって血とリンパの流れが悪くなって頭痛になっている可能性もあるという話を聞いた。毎日湯船には浸かっているけど、肩甲骨を動かさないとやっぱり悪化するだけだなあ。

9日に日付が変わる頃に『17才の帝国』一話をNHKプラスで見始めた。日付が変わる前には大河ドラマ『鎌倉殿13人』を見ていて、今期ドラマでしっかり見ているのが『鎌倉殿13人』ぐらいしかない。源平合戦最後の壇ノ浦の戦い菅田将暉演じる源義経が舟から舟へと舞うように飛んでいく、那須与一の扇の的のシーンはなく、安徳天皇三種の神器のひとつである草薙剣が海へ沈んでいった回だった。戦の天才である義経は平家を倒してしまえば誰と戦えばいいのか?と問うように、選ばれた存在だった彼はもうひとりの天に選ばれた兄の源頼朝にとって邪魔な存在になってしまう。ここから二話ほどは義経の最後へと向かっていく、源平合戦とは違う悲しい話になっていくのだろう。しかし、源義経菅田将暉が演じたのはほんとうに素晴らしいキャスティングだと思う。
同じくNHKドラマである『17才の帝国』もおそらく五話全部見そうな感じ。年を取ったらNHKへという気もしなくがないが、やっぱり放送局として強いってのは作品のクオリティに関係している。もちろん、受信料というお金があるわけだけど。


寝る前に買ったままだった内田百閒著『百鬼園随筆集』を読み始める。最初のいくつかを読んでから、最後の解説は誰が書いているのだろうかと思って見てみたら川上弘美さんだった。なんだか川上弘美さんの文章によく触れている五月。


5月10日

休憩時間に散歩がてらジュンク堂書店渋谷店に行った帰りに、246と旧山手通りの交差点で信号待ちをしていたら、電子盤みたいなところにあるステッカーにFNCYのステッカーが貼ってあった。ちょっと親近感。

FNCY - Live digest @ WWW presents dots




ジュンク堂書店渋谷店に行ったのはスタインベック著『怒りの葡萄』を書いたかったから。初生雛鑑別師だった大叔父のノンフィクションの資料として1939年ぐらいが舞台でカルフォルニア州が出てくる作品として検索したら出てきた。正直名前は知っているけど読んだことのないスタインベック。上下巻でかなりのボリューム。

文庫の新刊コーナーに文春文庫の新しく発売になったものが面出しされていた。平野紗季子著『生まれた時からアルデンテ』は前に書店で見て気になっていたやつで、食に関するエッセイとしてはスタンダードなものとして名前もよく聞いていたものだった。千葉雅也著『アメリカ紀行』は単行本の時に読んでいなかったので、『生まれた時からアルデンテ』と一緒に買うのはなんかいいなと思った。
小説も長編と短編集を何冊か併読しているけど、エッセイもあったほうが個人的には同時並行で読む際にいい気分転換になる。


5月11日
『新潮』2022年1月号掲載の古川日出男現代語訳「紫式部日記」読んでいたから、2024年の紫式部が主人公の大河ドラマ『光る君へ』気になる。

平家物語』と『犬王』のアニメ化によるいろんなメディアへの稼働で、古川さん自身がいちばん大事にしている小説執筆のスケジュールが崩れちゃったりしている部分があるんだろうなと思う。だから、話題になったりヒットするのはいい部分と悪い部分は相応にあるんだろう。
オウム真理教をテーマにした『曼陀羅華X』だって、東日本大震災の早すぎる風化とつながっているし、東日本大震災が1000年に一度の大災厄と言われるからこそ、1000年前の日本というところから『源氏物語』を描いた日本で最初の小説家としての紫式部先輩のことを学び直そうとして『源氏物語』を読み直したり訳したりしていたら、池澤夏樹さんから『平家物語』の現代語訳の話がきて、という流れがある。そして、依頼があったわけでなく、ご自身でやりたくて『紫式部日記』現代語訳を書いたものが『新潮』に掲載された。つまり、これらは東日本大震災という出来事から巡り巡っている。
もちろん、『平家物語』現代語訳や『平家物語 犬王の巻』も『紫式部日記』現代語訳も素晴らしいんだけど、『ミライミライ』『おおきな森』『曼陀羅華X』なんて異常だよ。破格な小説なのに、そういうものがもっと読まれてほしいし、きちんと評価されてほしいし、ノンフィクション『ゼロエフ』も読んでほしい。だから、アニメ『平家物語』の始まりにある現代語訳だって2011年の東日本大震災から繋がってるんだよ、あれは震災文学としても語り継がれたものなんだよ、ということの意味は大きいけど、そういうことは漂白されて消費されていく。

 


仕事終わってからニコラでアメリカンチェリーとマスカルポーネのタルトとアルヴァーブレンドをば。


白石和彌監督『死刑にいたる病』をシネクイント渋谷で昨日の最終回に鑑賞。映画館に着くとちょうど前の回の上映が終わったらしくかなりの人たちがロビーを下に降りるエスカレーター待ちをしていた。若い20代前半の女性客がほとんどである。ふむ、謎だ。この映画どう考えても若い女性客がこんなにも来るようなものには思えない。なんでだっけなあと思って、主役は阿部サダヲと岡田健史だから、岡田ファンだとしても言い方は悪いが平日でサービスデーだからってこんなに来るほどブレイクしてるかな、とか思って公式サイト見たら、メインキャストの一人が三代目とエグザイルな岩田剛典だった。
ああ、これか、これしか若い女性が観に行きている理由は思い当たらない。最終的にはイヤミスな感じの作品だったから、ある程度はリーチする層なのかなあ。
連続殺人事件の犯人で死刑囚の榛村(阿部サダヲ)から手紙をもらった大学生の筧井(岡田健史)が、死刑囚に殺人事件の一件だけ自分ではない誰かが犯人でそれを探してほしいと言われるという内容。
メインキャストが阿部サダヲ、岡田健史、岩田剛典、中山美穂だから、最終的なオチはこの中の誰かなんだろうなって思うんだけど、岩田が演じた金山という人物が超思わせぶりなキャラで幼少期に顔が傷ついてそれを隠すための長髪でいかにも怪しいっていう感じだから、まあ前フリじゃんって思うし、中山美穂さんは岡田の母だから、基本的には真犯人じゃないけど秘密はあるんだろうなっていう。で、主人公の岡田が犯人とかだったら『メメント』だからありえない。死刑囚と大学生は面会室で透明な仕切り越しに話をしていくわけで、どう考えても物語のラストシーンはそこに終結するしかないから、阿部サダヲがなんかやってんだろうなと岩田がいかにも怪しい感じで出てきた時に思った。
キャストで犯人予想ってある程度できる。ドラマ『流星の絆』とかなら、東野圭吾読んだことなくてもメインの三兄弟妹と向き合って最終回で画になるのは誰だって考えれば、最初から彼らの両親を殺した犯人なんて一人しかいない。単純にミステリー小説を映像化する時にどうしても犯人はキャスティングでわかっちゃう部分がある。だから、そこの塩梅が難しいと思うし、小説で最初に読んでおいた方がミステリー的な要素は楽しめるんじゃないかなと思う。
そもそもある程度文量のある作品を二時間ちょっとで映像化しようとするとどうしても細部とか省いちゃうから、連続ドラマとかのほうがミステリーは向いてるんだろう。ミステリーがドラマ化するのが増えたりするのは、最終的に犯人がわかるっていうことが大きくて、犯罪という問いに対して犯人という答えがある。

「平成」に入ってからミステリー小説がエンタメでもより大きなものになっていった背景ってやっぱり時代がどうなるかわからなくなっていったから、人々の「答え」がほしいという気持ちと呼応してた部分もあるんじゃないかなって思う。日常の謎が定番化したのとかって日々のふとした身近なところで起きたことにも原因や答えはあるって思いたいってこともあったのだろうか。でも、人生って意味不明なことばっかり起きるわけで、答えがあると思い出したらけっこうきついと思うんだよなあ。だから、ミステリーはエンタメとして非常に優れているし、書き手にしても最高の遊戯だと思うけど、実人生と半歩ズレたリアルぐらいな気持ちのほうがいいのかも。
『死刑にいたる病』は犯人とかのネタバレとかはどうでもよくて、実際にイヤミスっぽいなと思ったのはこの作品で取り扱っている「洗脳」や「マインドコントロール」が実は大きな要素になっているところ。
死刑囚榛村のいちばんヤバいのは何十人殺して、その度に手順通りに少しずつ痛めつけて処分するっていうこともなんだけど、「洗脳」や「マインドコントロール」の力においてで、基本的にこの作品における登場人物たちはその力の支配下に置かれている。正直それが一番怖いんだよね。
これって「尼崎事件」とかいろんな事件でもあるけど、他人を「洗脳」したり「マインドコントロール」できるっていう能力がある人は実際にいて、自覚してそれを意図的に使い始めると支配下の人たちは逆らえないし、その掌で踊らされて自らの手で人を殺めたりとかしてしまう。その場合は、真の犯人は手を下さなくてもいいわけで、殺人とかで立証するのがかなり難しくなってくる。
この辺りはほんとうに難しくて承認欲求が強い人とか、自己評価が低い人なんかは「洗脳」されたり、「マインドコントロール」されやすかったりする。その際に、言われていることを実行すればいいわけだから気は楽というか、「自分でなにかを決めない、決められない」という人はそういう人に支配されやすくもなる。ある種のカルトや宗教っていうのはそういう部分がある。

【ガチトークキングコング西野 後編 なぜ僕は叩かれる?西野ぶっちゃける!

知識がない科学は宗教に見える

と佐久間さんがキングコングの西野さんとの対談の時に言われていた。
西野さんにインタビューさせてもらったこともあるし、西野さんがやっていることはおもしろいと思っている。でも、たしかに彼がやっていることをある程度わかったり知っていないと宗教には見えるというのもわかる。
僕は個人的には集団というものが苦手なのでおもしろそうだなって何度か顔を出しても、そのうち集団の顔ぶれが決まってきたり、数が膨れ出してくるとそこから基本的には距離を取る。
これは漫画家の西島大介さんにインタビューした時に聞いたことが大きくて、西島さんはゼロ年代初頭には東浩紀さんとか言論的な場所に近いところにいたけど、群れてはいなかった。僕はわりと西島さんにはシンパシーをずっと感じてる。
基本的にルサンチマンを抱えた人たちが集団になって群れ始めると、特に男性が多い場所ではホモソーシャル化して内ゲバが起きて崩壊する。一人の女性(別に男性でもありえるけど)がサークルクラッシャーとなるということもあるだろうけど、それは基本的にはキッカケでしかないような気もする。
集団が持続していくためにはそれぞれがリア充的にそれ以外の場所に居場所があって、その集団においての序列がはっきりしている場合だけなんじゃないかなと思う。
映画における死刑囚榛村の他者への「洗脳」と「マインドコントロール」ぶりを見て、場を支配する力を持つということはそういう力が少なくてもあるということだろうし、カリスマ性ってそれが基本的には軸にあるのかなって思う。他者と距離感をどう取るかっていうことの難しさについて思う。


上京して20年。ミニシアター系を観るためにゼロ年代初頭の2002年からいちばん足を運んでいる街は渋谷。エイチ・アンド・エムはブックファースト渋谷だったし、とかとか変わり続けて、開発によって渋谷は姿を留めないからかつての風景が忘却されていく、健忘症になれる街、わずかな記憶の風景たちと現在のレイヤーが重なる。マルチバースメタバースみたいなものがひとりの人間の中にすらある。死んでいった者たち、今生きている僕たち、これから生まれてくる者たち、のすべてのあらゆる可能性がどこかにあるんだと思う。それを浄土みたいな言い方をするのかもしれない、悟りを開いたらいけるのかもしれない、次元を越えるみたいなことなんだと昔から思ってる。たぶん四次元や五次元とかの先にある場所。ふつうに考えたみんなそんなところに行けるはずもないから、死んだらただの無、終わるだけ。無になるのは耐えきれないから、死後の世界と宗教が必要だった。そこにはどうしても物語の力が必要だったし、利用しなければ人は死に耐えきれなかった。そこから芸術は生まれたし、育まれた。儀式とは神話の反復であり、儀式をすることは型をトレースすることだった。前に虫歯になって詰めものをした奥歯が痛い、この痛みにわずかな人生の根拠を感じる。詰めものを外したところに四次元や五次元とかの入り口があるかもしれないが僕にはそこに入り込む力はない。

 

5月12日
菊地成孔の日記2022年5月12日午前4時記す>

菊地さんが書いた上島竜兵さんのことから、前回書ききれなかった玉袋筋太郎さんと「町中華で飲ろうぜ」について、太田プロのことから玉袋さん&水道橋博士さんの浅草キッドのことから江頭さんと出川さんのことへ、そして上島竜兵さんのことへ。

僕は何年か前に、この日記で「老いたる者の義務として、これから死を表現する」と書いた。しかしそれは、死そのものを見せることでは無い。死神とダンスすることである。

一度だけ上島竜兵さんを生で見たことがあった。しかも、その現場は芸人にとっての戦場だった。
僕は『アメトーーク』の「竜兵会vs出川ファミリー」の収録の観覧をしたからだ。応募したら普通に当たったのでバイト先の友人と二人でテレ朝に行った。『アメトーーク』の観覧席には何人かの女性が帽子を被っている。それはカメラが観客席を撮る時にわかりやすい目安としてで、その日もそんな感じで帽子を渡して被らせていた。テレビでも映る場所は基本的には女性で、僕と友人みたいな男同士で来ている人はほぼいなかった気がする。そんなわけで僕は一番上の段の一番端っこに座って観覧した。その後、テレビを見たら大爆笑をしている僕らもチラッと映っていた。だけど、今はDVDもないし、その確認はできない。
調べてみると2007年5月31日(木)に放送された回なので、その一ヶ月前とかに観覧に行ったのだと思う。
<竜兵会>上島竜兵肥後克広土田晃之安田和博有吉弘行カンニング竹山
<出川ファミリー>出川哲朗よゐこウド鈴木&千秋、
というメンツだった。
天下人になる前の有吉さんがいたようだがほとんど記憶にはない。出川さんが今みたいに好感度が上がるちょっと前だったような気がする。観覧に来ていた女性客からうれしい悲鳴ではないものが上がっていたような気がする。
竜兵会と出川ファミリーそれぞれのチームプレーを堪能し、ザリガニとのバトルを涙を流しながら笑った。あの時のイメージでは出川さんがいちばん印象に残った。
と書いたが昔書いた自分のブログで「竜兵会」で検索してみると、

2008年08月14日に

そういえば、「クイックジャパン」の最新号は「アメトーーク」特集。また「出川ファミリーVS竜兵会」やってほしいな、観覧に行って大爆笑して笑いすぎて泣いたから。芸人としての生き様を魅せてくれた出川さんと竜兵さんには本当にリスペクト。最近、元猿岩石の有吉がおもしろくなっていていい、「アメトーーク」である種復活した感じもあるしなあ。出川さんと竜兵さんは本当に半年に一度ぐらいは見たい。


2009年04月12日に

やばい、色んな映画が今月観たいけど「鴨川ホルモー」「スラムドッグ$ミリオネア」「交響詩篇エウレカセブン ポケットが虹でいっぱい」とかあるんだけどこの「上島ジェーン」は観に行きたいなあ。
 なんか「その時…上島が動いた 」「ノーマニフェスト for UESHIMA」で爆笑した僕にはたぶん好きな作品っぽいし、やる映画館がシアターN渋谷のレイトショー、ここで観た過去のレイトショーは「ヅラ刑事」「少林老女」とくだらなすぎて笑えるものだったのでちょいと期待。
 地獄を見てきて復活した男、ある意味では聖闘士星矢のイッキのような有吉さんも一緒に出てるので上島さんとの絡みはおもしろそうだ。「ノーマニフェスト for UESHIMA」ではかなり爆笑したし。
 一度「アメトーーク」の観覧に行ったときが「竜兵会vs出川ファミリー」でその時の竜兵さんと出川さんのリアクション芸人として生き様を見てから尊敬できるというかやっぱり「さん」づけしなきゃって思うようになった。周りのサポートも抜群なのだけどね。


2009年07月16日に

アメトーーク」のDVDが出たので買おうか迷っててもしかしたらって思ったらもうレンタルしてた。ダメじゃん、売れないよ。ということでレンタルに走った。最新刊の4〜6巻で観たいと思うのは4巻収録の「竜兵会」、五巻収録の「出川ナイト」、六巻収録の「板尾創路伝説」だった。これが一巻にまとまっていたら即買いなんだけどなあ。
 で「出川ナイト」を見たかったので五巻を借りた。五巻には「エヴァンゲリオン芸人」と「ひな壇芸人」と関根さんのモノマネが、でも「出川ナイト」だけを見た、「出川大陸」とか久しぶりに声だして笑ってしまった。他は一切見てない。「出川ナイト」だけ繰り返し見た。これに「竜兵会」と「板尾創路伝説」があったら最高なのに、きちんとバラして収録してる。わかってるなあテレ朝というよりはプロデューサーの加地さんだっけ?「ロンハー」でもプロデューサーの人。
 本当にDVDに収録してほしいのは一度だけ観覧に行った「竜兵会vs出川ファミリー」の回。あれは笑いの神が降臨してた。


2009年07月29日に

アメトーーク」DVD4巻を借りたのを見る。「ガンダム芸人VS越中四郎芸人」「ハンサム芸人」「竜兵会」が収録。「ハンサム芸人」は放送時に見て面白くなかったので飛ばして一度も見なかった。「ガンダム芸人VS越中四郎芸人」はやっぱりケンコバさんが面白いって!!、やってやるんだって!のノリを通していて面白いし、ガンダム芸人に土田さんと品川さんがいるので安定感があり面白かった。
 「竜兵会」はメインというかリーダーなのにイジラレる竜兵さんと周りのチームワークがいい、「出川ファミリー」と同じく「アメトーーク」らしい企画でまたやってほしい。


2009年10月23日に

アメトーーク」はスペの残りというかある意味ではレギュラー放送はお休み的な「中学の時イケてない芸人」で、これは共感する人は多いだろうな、面白いし。僕は高校の修学旅行の時にずっと部屋で友達と金かけて大富豪してたな。
 以前に糸井重里さんと森達也さんが本の出版記念トークで糸井さんが「アメトーーク」は面白いと森さんに勧めてたけど「ほぼ日」で糸井さんと番組Pの加地さんの対談コーナーが出てきた。
 一度「アメトーーク」の竜兵会vs出川ファミリー観覧行った時に加地Pを観たけどめっちゃ番組中に笑ってたのが印象的だったな、笑い好きな人なのがわかるっていうか、あとすげえ背があるのに細いから記憶に残ってた。


2009年11月07日に

アメトーーク」の「TKFたむらけんじファミリー」を見る。この「ファミリー」シリーズでは「竜兵会」「出川ファミリー」と並んでファミリーの長である人物が後輩やそのファミリーの一員に逆に可愛がられている感じがする。
 芸人さんのバラエティにおけるひな壇でのポジショニングなどは一般社会においてもかなり参考になる。自分をいかに客観視してその集団における自分の仕事をいかにこなすかという部分で芸人集団は個々の力が弱くても団結力で倍増させる。
 が、一般の会社に当てはめる時に問題になりそうなのがトップだ。バラエティならば司会がいかに仕切るかという力量によって芸人集団の力量は発揮できたりできなかったりする。ここで誰に振るか、合図を送って前に出すか等は場の空気を読めて流れを構築できる人物でないと辛い。
 多々、できない人物が司会な場合には周りの芸人集団がそれすら手伝うか、補佐的な役割をする。一般の会社では使えない上司のために被害を被るのは部下でしかないし、普通は補佐できない。
 ファミリー的な集団を形成する芸人のボスであるたむらけんじさんや上島竜兵さんに出川哲朗さんは基本的に仕切りが上手いというわけでもないし、トークがそれほど巧いわけでもない。しかし、周りに人が集まると言う人望があるというのは彼らの才能だったり実力だろう。
 仕事もできなくて人望もない人間には人はついて行かないが、人望で人はついてきたりする。そうやって人が集まるという磁場を作れる人は周りの補佐や助けによって成功したりする。
 年功序列や終身雇用制というシステムが崩壊していっているのに、就職した若年層はそれを強く求める傾向が出ていると言う。同じ会社に定年まで務めたいと思う割合がロスジェネ世代が就職した時期は低くなっていたのに対してそれ以降の世代で就職した若年層は一気に上がる。
 不安が勝る時代に安定することを望むのは当然の事なんだろう。そういう時代に先輩が後輩を可愛がり、後輩が先輩を慕う芸人の集団の中に古き良き会社員の上下関係が垣間見て微笑ましく羨ましく思う人は多いと思う。
 だけど彼らは同じ事務所に所属していても基本的にはフリーランスのような仕事で実力や才能、おまけに運がないと売れない。しかも芸人と言う職業はまったくもって超不安定な職だ。人気稼業は超が付く不安定さ。
 普段可愛がっていても実力がないものはテレビにも呼ばないし出せないという現実がある。というシビアな部分が背景にあるのも事実。
 まあ、大事なのは人に可愛がられる程度の愛想ぐらいは必要ということだろう。まあそれが時に徒になるタイプの人もいるけど。
 圧倒的なカリスマ性があれば嫌でもいろんな人が近づいてくるだろうけどほとんどの人にそれは皆無だから、愛想ぐらいは必要だろうなと「アメトーーク」を見ながら考えてみたりする。


2014年05月26日に、

「格付けしあうマンガ家たち」というのが出てきたので話は少し逸れて加地倫三著『たくらむ技術』(新潮新書)の話を、まあそれが「格付けしあうマンガ家たち」の元ネタに繋がるわけで。
加地倫三という名前にピンとこなくてもテレビ朝日の『ロンドンハーツ』『アメトーーク!』のプロデューサーだというとピンとくる人もいるかもしれませんし、両番組でスタッフなのにたまにテレビに映っていて指示を出してたり爆笑している人です。
この間の『ロンドンハーツ』スペシャルのドッキリVTRで酔っぱらったターゲットに呼ばれたロンブー淳さんが部屋に入ってきた瞬間に、加地さんは理由をひとことも話すことなくアイコンタクトをすると、それで淳さんは「ああドッキリね、了解」と理解したという瞬間が放送されていて改めて「この人たちとんでもない信頼関係と共犯関係を続けてるんだな」と思わされました。
新書では勝ち続けるために一定の負けをしておくとか、勝っている時にきちんと次の一手を打っておくとか、気配りやしたいことのために必要なスキルや言葉遣い、行動などについて書かれているが面白いことをするために必要なものとして体験から書かれているのでもちろん納得。
まあ実際に番組も面白いしそういう裏側がしっかりあるんだなと得した感じです。
一度『アメトーーク!』の観覧が当たって「竜兵会vs出川ファミリー」を観に行った時に涙が出てひき笑いになってしまうぐらいに笑いまくったんですがその時フロアにいた加地さんもかなり視界に入りました。
ステージというかスタッフの中では最前線にいる感じでカンペ出しながらすごく笑って楽しんでいるのを見てこの番組が強い理由がわかったような気がしてたんですが新書を読んでさらに納得したというか。
そりゃあ面白いものに貪欲な人がプロデューサーで演者と意思疎通してれば強いわと。
仕事論でもあるけどやりたいことをするために何がプラスαできてるとうまくいくかって考えるきっかけになる一冊でした。
だから『ひらマン』と共にオススメです。

ということを書いていた。この頃、特にゼロ年代後半は「アメトーーク」にめっちゃハマってたんだろうなと思う。こうやって残っているとあの時ってどうだったんだっけなと読み直せるのはありがたい。
この「竜兵会vs出川ファミリー」の前にも僕は『ダウンタウンガキの使いやあらへんで!』の「山崎邦正VSモリマン」の観覧にも当たって観に行っている。たぶん、この二つを生で観たということはお笑い好きな人には自慢できることだろう。その何年かあとに下記のようなことを書いていた。

2008年04月14日に

ガキの使いやあらへんで」の毎年恒例「さようなら山崎邦正」をバイトから帰って朝一で見てます。
 この人の顔芸っつうか顔はおもろいっすわあ。
  山崎さんがおもしろくないという人はたくさんいるけども、実際にオモシロクないことが多いけども、存在がもうおもしろい。 正直昔は彼を見てもなんで出てるんだろうと思ってました。
 年齢を重ねるとどんどんおもしろくなっていってます。最近は彼の作った顔だけでツボにハマります、たぶん病気ですね一種の。
 昔松ちゃんがこんなニュアンスのことを言ってました。「山崎邦正というすべる、おもしろくない(松ちゃんから見たらおもしろいが世間的にはおもしろいと思えない)芸人がいることで他の芸人が活きる、おもしろくなる」と。
 これは一般的な組織にも言えると思うんです、釣りバカのハマちゃんみたいなもんでしょうか。仕事はそんなにも出来ないけど場の空気をよくする人、みんなから虐められるのではなくイジられる人っていると思いますが、今の社会ってそういう人はいらないわけですよね。
 仕事ができれば問題ないみたいな、となればそういう人だけの会社の人間関係は競争相手だけの世界でギスギスしたものになってしまうわけです。
 人間はストレスを溜めると当然どこかが悪くなるわけで、今の状況はみんながストレスを溜めやすい環境なんでしょう。
 バカすぎる親やクソなPTAがお笑い番組の罰ゲームに苦情を言います。子供が真似するだろうとかイジメを助長してるだの、そんな屑みたいなことを平気で言います。子供がテレビ局のスタッフが作った罰ゲームそのまま実践できるわけないしできたらそいつはすぐに大道具とかとして就職したらいい、真似するのは親の教育ができてないだけで良識のある子供は例え真似しても限度を考える。テレビ番組見てイジメするやつは見なくてもイジめるだろうしね。
 罰ゲームでクレームを言うことでお笑い番組の企画がどんどん潰れていきます、そのことで飯が食えなくなった芸人は死活問題です。それはイジメではないですか?正確に言うとイジメどころか職を食を奪ってます。そのことまで考えてる親やPTAはいるんでしょうか?僕は不思議です。やってること矛盾してるし、考えてなさすぎて逆に笑える。
 芸人さんは罰ゲームで痛い思いしても笑い的にはおいしいと思ってます、そういう職業だから。それを理解してない奴がお笑い番組見て平気でクレーム言うとか愚の骨頂だと思うんだけど。
 僕が人生で一番笑ったのは山崎VSモリマンの観覧に当たって生で対決を観た時です。前々回ですかね。ごぼうで殴られる邦正さんを見て涙が出まくって爆笑しました。収録の後には顎が痛くて腹筋も痛いほどでした。折れたごぼうが足下に転がってきて見たら太くてびっくりしましたが。
 もしあの番組見てごぼうで友達殴るような小学生いたら逆にすごいけどね、学校にあんかけ持っていってかけてるやついたら拍手するよ。
 テレビがつまらなくなったのは作る側と見る側のレベルの低下でしょ、テレビ局は冒険しなくなったし視聴者は文句ばっか言うし、なんかどうしても法律にしろなんにしろクリーンにしたがる奴がいるんだよなあ。
 澄んでキレイすぎる水には何にも住めないのに。清潔にしすぎたら逆に抗体なくなって菌に対する抵抗力なくなるし。そういう状態で抗体も抵抗力もないのに強力な何かに出会ったら人間は一気に持ってかれるよ、思想にしろなんにしろね。ネット規制しようがガキにエロ本見せないようにしたって、ある程度のこと逆に知らないと年取ってから知った時に暴走する。
 たぶん、最近の若手芸人が好きではないのは暴走しないからなんだよなあ、良い意味で礼儀正しくて予想の範疇の中にいて、見ててハラハラしない。誰もダウンタウンにケンカを売らない、から誰もダウンタウンを越えられない。ダウンタウンのファミリーでもある今田・東野さんは昔暴走しまくってて今はあんまりしないけど、トークレベルと芸人いじりが半端なくうまいし、芸人を活かせている。
 ダウンタウンの功罪はあまりにも完全に天下を取ってしまったから下の世代(影響された世代)がファミリーに入るか憧れの存在で誰もケンカを売れなくなってしまったことで台頭する下の世代がいないこと、僕ら思春期に完全に「ごっつ」を見てた世代(なんかロストジェネレーション世代と一致するような気も)があまりの強力な毒で彼らの笑いが価値基準になってしまっていて下の世代とか(でもナイナイは違う、ナイナイはダウンタウンに反旗は翻してないが、逆に怖れている感じ(岡村さんの浜田さんに対しての)もあるけど吉本ではナイナイは別格扱いされてるし、僕らは「めちゃイケ」が「めちゃモテ」時代から見てるから共に育った感じはある)お笑い番組で笑えなくなったことなんじゃないかなって思う。
 ロストジェネレーションと「ごっつ」リアルタイム世代ってほぼ一致してると前から思ってるんだけど誰か研究とかしてないのかな。


今とあんまり変わらないというか、違う部分もいくつかあるけど、この時期はまだ松本病との距離感とか客観視できてない頃だろうなと読み返すと思う。
でも、こういう思考はある程度は残っているし、こういう最後のガラケー世代(『あちこちオードリー』でニューヨークが言ってたやつね)って基本的には一番生殺しにされていくと思う。OSアップデートできても限界があるから機種変して本体ごと変えないといけないわけで、変わるつもりがなくても世の中が変わっていくから、結局スマホ的な身体性に置き換えるか、もはやなにも持たないかみたいな感じにもなるのかな。

 

5月13日

吉川圭三著『全力でアナウンサーしています。』(文藝春秋刊)をご恵投いただきました。
店頭に並ぶは24日と少し先のようですが、吉川さん発売おめでとうございます!
テレビ局のアナウンサーという職業って不思議ですよね。会社員だけど、タレントのように世間では顔を知られていたりする。そんなアナウンサーという職業を知っている元テレビ局員だった吉川さんだからこそ書けるエンタメ作品になっているんじゃないかな、と読むのがたのしみです。

古川日出男の現在地「時間をさかのぼって、というのは見せかけで」

文章を読むとUCLA で書かれたとあった。トランプが大統領になった年に2017年の1月から3月まで古川さん夫妻は渡米されていた。僕が遊びに行ったのは3月でこのUCLAでの朗読も見せてもらった(聞いた、体験した)のが僕にはとても不思議なことだった。
異国のアメリカの地で小泉八雲が記した「怪談」を古川さんが日本語で朗読している姿を見るというのは時間や空間やいつもの日常から逸脱していて、あの世とこの世の狭間みたいな場所にいるような浮遊感のようなものも感じた。
講演と朗読をされるらしいのだが、それを見れない(聞けない)のがとても残念だ。
いま、ちょうど千葉雅也著『アメリカ紀行』文庫本を読んでいて、また、アメリカに行きたいなあと思ったりしている。
初生雛鑑別師だった大伯父のことをノンフィクションでと思って去年ある賞というかコンテストに企画書を出した。最初の書類審査は通過してウェブ面談に進んだけど、あんまり手応えがなくて、いろんなサポート(編集者がついてくれるとか)がつく入賞的な最終3つには入らず、その下のなんか微妙なサポートがつく(編集はつかない)みたいな候補になりましたって言われたので、それじゃあ意味ないからお断りをした。
先日、偶然家の近所で「週刊ポスト」で連載に声をかけていただいた編集者さとばったりお会いした。去年の夏に週刊連載が終わってから家計がずっと沈没しかけているままだ。「週刊ポスト」主催の「小学館ノンフィクション大賞」の賞金はけっこういい。初生雛鑑別師のことをどうしようかなって考えていたところ、ばったり編集さんに会ってしまったので、去年の夏からもらえなくなってしまった原稿料をぶんどるつもりで「小学館ノンフィクション大賞」を取るしかないって思ったんだけど、あと三ヶ月だった。まあ、出すけど。
これ古川さんのことと関係なさそうなことだけど、前に雉鳩荘にお邪魔した時にマイケル・エメリックさんに呼ばれてロサンゼルスに行くって話は聞いていて、「全米日系人博物館」の話もされていた。今回の学会で多少触れるようなことがあるんじゃないかなって思うのだが。
ロスに行った時に「全米日系人博物館」を訪れていたのは、大伯父がお世話になった日系移民の人たちの第二次世界大戦時のことが知りたかったというのもあった。
前に出したコンテストでの企画書では最終的にはノンフィクション本として出して、それを元にアメリカのA24に映像化の企画を売りに行くという青写真を書いていた。
コロナパンデミックになって世界中が自由に行き来できなくなったことで、移民という故郷から離れて違う場所へ向かった人たちの希望や絶望も含めて前よりも考えるようになったのが大きかった。賞金でロサンゼルスやニューヨークに行けたらいいなと夢だけ見ておく。


小学館ノンフィクション大賞」に初生雛鑑別師の大伯父のことを書いて出すつもりなので、選考委員のひとりである星野博美さんの『転がる香港に海苔は生えない』の中古本をAmazonで頼んでいたのが届いた。何度か書店で見かけて気になっていたけど、読んだことがなかった作品。はじめて行った海外は香港だったけど、返還後だったからここで書かれているのはその前の頃のことだと思う。

 

5月14日

傘を差して朝散歩。交差点近くの建設中の建物のサイドの外壁みたいなところに液晶モニターがあるのだが、エラーなのか画面がバグっていた。ちょっとだけ立って見ていた。急に画面が乱れたり、大きく動いたあとに場面になにか映ったりしないかなと期待してたのだが、もちろんなにも起きなかった。起きたらまさにSFだったのだが。

 九〇年代から二〇〇〇年代の途中までのギャルとギャル男のガングロは、人種問題が大きな声になりにくい(ようにされてきた)日本における、だからこその、虚構の人種的アイデンティティの演出だったのではないか、と思いつく。日本においてヴァーチャルな黒人――あるいは東南アジア人、ネイティブ・アメリカンなど――になる。それは、差別されうる人種性をわざと演出することで、反転的に自らを特権化するという倒錯なのではないか。
 ガングロギャルが「男ウケ」を拒否するというのは、女性というマイナー性から人種のマイナー性に軸足を移すことで外部的存在になるということなのかもしれない。ガングロとはつまりジェンダーのrace化だった、という仮説。
 なぜ、ガングロ文化は終わったのか。二〇〇〇年代の末に。その頃には、グローバリズム化によって日本でも人種的多様性がいよいよリアルになり、「逆張り的な人種ごっこ」が時代遅れになったからではないだろうか。(千葉雅也著『アメリカ紀行』P153より)



千葉雅也著『アメリカ紀行』と一緒に買っていた平野紗季子著『生まれた時からアルデンテ』を読み始める。たぶん、前に本の名前は聞いていた書籍の文庫版だったので読んでみようと思った。
料理に関する本でいうと前に借りて読んでおもしろかったのは、澤口知之リリー・フランキー著『架空の料理 空想の食卓』、アンソニー ボーデイン著『キッチン・コンフィデンシャル』がすぐ浮かぶ。『キッチン・コンフィデンシャル』は新潮の新書版で読んだけど、数年前に土曜社から新装版が出ているのでたまに書店で見かける。
僕は料理はまったく門外漢で作ることもほとんどだし、食べに行くということもしてこなかった。ニコラに行くようになって、いろいろと曽根さんたちと話をするようになってから、ああ、しっかりと料理とかお店について二十代から行っておけばよかったと思うようになった。
TBSラジオで『菊地成孔の粋な夜電波』が始まってからシーズン1からずっと最後まで聴いていて、現在も『大恐慌へのラジオデイズ』を聴くためにビュロー菊地チャンネルに加入しているのは、菊地さんが話す内容に惹かれているわけだけど、そこには音楽と食と映画とファッションがあるからなんだと思う。
とくに色気というものに関しては食と性というものは大きくて、人間というのは入口と出口があるひとつの筒であり、それを通過していくものたちによって活かされている。もちろん、音楽や衣服というのものはその筒を包み込むものでもあって、ある種の余計なもの、贅沢なものとして文化や芸術というものはある。
いろんなお店を知っていたり、食べ歩いている人もいるけど、だからといってその人たちが本当に美食家というか、いわゆるグルメな人でもないんだなと思うことも多々ある。その人が書く文章に色気があるというわけではない、イコールではないと思うのはそういう人たちが書いている文章にまったく色気がない場合があり、男性作家に多いと感じるから。僕ももちろんそうだけど。
おそらくいろんな店を知っているとか食べ歩いている人でダサいなって思うことがあるのって、スタンプラリー的な消費になってしまっていて、ある種ビックリマンシール集めみたいなことになっているからなのだろう。お店やそこの料理人や働く人との関係ややりとりよりもこれを食べました、SNSに写真アップ!どやっ、みたいな自己顕示欲みたいなことになっちゃってるからなのかなと思う。
食における解像度や、性における解像度によってその人が持つ色気みたいなものは深度が変わってくるのだろう。
100円マックとか吉野家とかの牛丼の安すぎる価格とか食のデフレ化っていうのは日本経済の失われた30年、というか平成以降ずっと下り坂で賃金も上がらずに、他国にどんどん置いていかれる中ではありがたいことではあったわけだけど、そのせいで不景気とかマジでやばいぞみたいなことを隠すことに、勘違いさせてきた一因にもなってきた。
価格が安いことが悪いわけでもなくて、その価格帯における高低差のグラデーションが感じられなくなっていく。お金があればそのグラデーションは気分次第で味わえるけど、ない人は低価格帯のところだけにしか行けないから断絶はどんどん広がっていく。

Kendrick Lamarニューアルバム『Mr. Morale & The Big Steppers』


夜のリモートワーク中はずっとKendrick LamarのニューアルバムをYouTubeで聴いていた。配信だけなのかな、アルバムはCDとかでは出さないのだろうか。このアルバムの破壊力、カッコよさとかほんとうに凄い。Kendrick Lamarの王朝はしばらく続くだろうなと思うし、やっぱり今の時代のキングオブキングなのだろう。ワールドツアーとか発表されていたが、もちろん日本にはきてはくれない。

 

5月15日
The Smile - You Will Never Work In Television Again

ちょっとしたことでやる気はなくなってしまう。というわけで起きる時にはいろんなことが連鎖的に関係なく発生して心をざわつかせる。とりあえず、怒っても仕方ないことはできるだけ心を平穏にして読書をする。一週間ほど放置プレイしていたトマス・ピンチョン著『競売ナンバー49の叫び』の続き。中盤すぎておもしろくなってきた。たぶん、なにかの焦点が合ったのかなと感じた。
BGMはThe Smileのアルバム『A LIGHT FOR ATTRACTING ATTENTION』をずっとリピート。音楽はサブスクで聴いていない。iTunesでリリースしていたシングルはすでに購入していた。アルバムにもそれらの曲は含まれている形なので、700円ちょっとで残りの9曲ぐらいが購入することができた。シングルもそれぞれの情報をアルバム名に編集したり、トラックナンバー入れたりアルバムカバーを手動で変えたりするのはめんどうくさいが。
もうすぐ『競売ナンバー49の叫び』が読み終われば、発表された年代順に読んでいるので、次は『重力の虹』になる。そのあとは『ヴァインランド』『メイスン&ディクソン』『逆光』『LAヴァイス』『ブリーディング・エッジ』という流れ。
1990年に出版された『ヴァインランド』に関しては、それ以前に二度取材を兼ねて来日したという噂もある。この辺りのことをネタみたいに入れて書いている日本の小説家ってひとりぐらいはいそうだが。

菊地成孔の日記2022年5月14日午前5時記す>

 石野陽子、優香という2人のパートナーを持っていた頃が絶頂期で、現いしのようこは絶頂期(深夜帯固定ではなかった頃の)「志村けんのだいじょうぶだあ」と「志村けんはいかがですか?」で退任、優香は「SHIMURA-X TV」(99~)から「志村笑!(~2014)」まで実に15年弱に渡ってパートナーを務め、2年後の16年に結婚。「志村座(2015)」から志村はパートナーを失う。

 僕は、(愛する。として良いと思う)パートナーを失った2015年からの5年間が、志村けんの肉体と精神を蝕んだと思っている。<独身貴族、女優との浮名、酒飲み、愛煙家>という、よくある属性が、とうとう番組の画面の中にまで侵食し始めた時代である。

 優香勇退後の「志村の時間」「志村の夜」では、「酔っ払ってセリフが落ち、そのまま真っ赤な顔の苦笑でコント終了」というテイクさえ当たり前になってくる。後の、感染症に対する免疫の弱さ、既往症による生命力の弱体化は、この時期、急速に進む。繰り替えすが、それは、久米宏がいない「テレビスクランブル」の、横山やすし謎の死亡までの数シーズンとのシンクロを見立てることさえできる(ここまでの流れに、特に、志村のもう一つの座長番組「バカ殿」は、敢えて含めていない。横山やすしに「バカ殿」があったら演芸の世界はどうなってただろうか)。

 パートナーとしてのミューズがいると生き生きと力を発揮し、いなくなると自滅してしまう。というのは、特に珍しいことではない。志村けんが、あまりにオープンに正直に開放しただけだ。

 この流れに、「ミューズではないが、支えた舎弟」の存在が浮かび上がってくる。その筆頭が上島竜兵に他ならない。

 僕は今でも、男性で志村へのご奉公を貫いたのは上島だと思っている。しかし、志村の体調の劣化=自滅化に伴い、カンフルとして投入されたのが、千鳥の大悟とアンタッチャブルの柴田である。両名は志村一座最後のシリーズとなった「志村でナイト(18)」から、<絶頂期にある若手芸人のトライアウト(大悟)>、<謹慎が解けた状態からの、緩やかな芸能界復帰(柴田)>といった意味合いで実験的に投入され、しかし両名はレジェンドである志村と、めざましいケミストリーを見せ、結果として「看取った」形になる。

 大悟は、<酒とタバコと女>を、半ば戯画的にキャラクターとしているが、芸風は明らかにダウンタウン松本人志を後継している。「テレビ千鳥」で見せる、大悟のノブいじりや、狂気のセンスは、松本による浜田いじりの正統的後継だが、<酒とタバコと女>というキャラクター(それはーまさに当世風にーギミックではなくリアルなのだが)と、マーケットのダウンタウンを知らない世代の増加によって、表面化しているのに可視化されない。

 こうして、大悟が現在、悠々と保ち続けている万能感にも似た力は、ダウンタウン松本のセンスという極左と、志村けんを<師匠>と呼び、最後の飲み友達として志村を看取り、番組中に飲酒や喫煙する逸脱を芸として見せている、という極右の、両極を併せ持った帝国感に他ならない。

菊地成孔さんの日記、今回は「芸人批評」について長く書かれていた。(上記の引用部分で千鳥の大悟さんの名前が「大吾」になっていたのでこちらで直しています)
小林信彦さんの喜劇人批評の話から、紳助竜介の亡き松本竜助の演技、GSグループの中から出てきた沢田研二井上純堺正章といった演技者との活動、その中から大穴として岸辺一徳が勝ち上がるサーガとその驚き。
ダチョウ倶楽部と出川さんと江頭さんのそれぞれの話になり、志村けんさんの話になっていく。
志村さんに関してはパートナーとしてのミューズ(石野陽子、優香がいた時が絶頂期として)、そしてミューズがいない期間に支えた舎弟としての上島竜兵を挙げている。
志村さんと上島さんの役者との可能性と存在感、また、最後に座長としての志村けんに対してのカンフル剤となった千鳥の大悟さんとアンタッチャブルの柴田さんという二人が看取った形になったこと。

大悟さんは極左としてダウンタウンの松本さんのセンスと極右として志村さんを師匠と呼び、「酒とタバコと女」嗜むことで両極を併せもった帝国感という話。たしかに大悟さんの無敵感は『ドラゴンボール』における父は孫悟空なのに、師匠はピッコロという孫悟飯的なハイブリッドであるようにも思える。つまりそこには過ぎ去った「昭和」と「平成」があり、同時代の人は普遍的でノスタルジーを感じさせ、若い世代には新鮮にうつる存在になっているのかもしれない。その意味でも相方のノブさんはやはり年々浜田雅功化している(ツッコミなのに天然的なボケが発動し愛されキャラに転化している)、そして浜田さんとは違ってツッコミだが暴力性は排除されているのは現時代的だし、いい意味でミーハーだからこそ時代との波長が合う(そのため、大悟さんの時代錯誤的な価値観と真逆になって笑いを生む)。千鳥が天下取りに近づいている理由がわかるような気がする。
最後は上島さんの演技と阿部サダヲさんの演技の話になっていく。初期三人だった「グループ魂」は「サブカルダチョウ倶楽部」だと思っていたという話が前フリになっていた。この日記は読んでいておもしろいし、菊地さんの芸人批評の長いのが読みたいと思ってしまう。

 

5月16日

仕事を15時過ぎに早上がりしてから、散歩がてら恵比寿まで歩いていく。雨はありがたいことにほとんど止んでくれたので傘はいらなかった。
コロナパンデミックで二度延期したTHUNDERCAT来日公演初日。ガーデンホールで密を避けるために一日の公演が1st setと2nd setの二部制に分かれた。しかし、いつの間に恵比寿ガーデンホールは東京ガーデンホールに名称が変わったんだろうか。床にテープでマスが作られてひとマスに一人ずつという感じになっていたが、左右ギリギリな感じで密だったのだが。ほんとうならフルで入れちゃったらパンパンになっていたのだろうけど、これだったらもう少し余裕が欲しいと思ったのは事実。
二部制に分かれたから、入場するまでもろもろグダグダで、運営!と思ったけど整理番号は早かったからまだよかった。1st setと2nd setのどちらを選びかというメールが来たのでGoogleの解答を送れるやつでおくっていたが、そのまま返信はこず、ZAZIKOのチケットでは1st setの時間帯になっていたのでそちらで入ろうとしたら、返信メールのステージがわかるものがいると言われて、もう入場っていうところで別の受付に行かされて、解答されないですねって言われて代わりに半券みたいなものをもらって、それと一緒に入場した。なんかチグハグというZAIKOのチケットで1st setの時間帯で表記されてるんだから、もうそれでよくない?と思った。すぐにその半券回収されるし、なんだかなって。

二度のライブの延期の間にTHUNDERCATはグラミー賞を受賞している。彼がもともと日本好きなので来日してくれたわけだが、違うアーティストだったらランクが上がったりしたらどうなったかわからない。普段行くライブとあきらかに客層が違う。年齢層も上だし、大人っぽいというか二十代とかが相対的に少なく感じた。音楽のジャンルも関係はしてるとは思うが。ちなみに海外のアーティストを観るのは韓国のロックバンドHYUKOH以来。
 1st setステージはたぶん二時間近くあったんじゃないかな。次の2nd setの入場が20時半からだったが20時過ぎまでは演奏していた。アルバムで聴いていて好きな曲も何曲も聴けたのは嬉しかったが、なによりもサンダーキャットの超絶六弦ベースもカッコよすぎて笑っちゃうんだが、それに加えて盟友のドラマーであるルイス・コールのドラムもとんでもなかった。ほんとうに気持ちのいい演奏で、リズムに気づいたらのって踊ってしまう、魔法のようなリズムが鳴っていた。この二人プレイヤーとしての次元が違いすぎる。ほんとうにライブで観れてよかった。

Thundercat ft. Louis Cole & Genevieve Artadi - Satellite [from Insecure - Season 5]

 

5月17日

ドクター・ストレンジマルチバース・オブ・マッドネス』の35歳問題に心が揺さぶられてしまい、劇場で2回観てしまったおかげでTOHOシネマズのシネマイレージポイントが6ポイントになり、次回の映画が一回無料になっていた。
TOHOシネマズ日比谷が入っている東京ミッドタウン日比谷の一階に眼鏡屋のアイヴァンが入っている。去年の3月に新しいメガネをそこで買ってから何度か落としてしまい、フレームにヒビ入って割れてしまっていたので、その交換も兼ねて、『シン・ウルトラマン』をTOHOシネマズ日比谷で観ようと思っていた。シネマイレージポイントで鑑賞料金の1800円は無料になっていて、IMAXのシアターでチケットを取っていたので、IMAX特別料金の500円のみを追加で支払っていた。なんかそれだけだと申し訳ないのでパンフも買った。「ネタバレ注意」となっていたので、観る前に読むのは諦めた。
家からTOHOシネマズ日比谷まで歩いて2時間ぐらいかかった。途中、首相官邸や国会議事堂の横を歩いていったがさすがに出勤時間と重なっていたので、省庁に勤めているであろう人たちがたくさん歩いていた。そこから『シン・ウルトラマン』を観るのはなかなかよい展開だった気がする。
ウルトラマン』も『仮面ライダー』もリアルタイムでほぼ見れなかった隙間世代なので、どちらにも思い入れはないが、庵野秀明脚本なら観たいというTVシリーズエヴァ」放送時に中二だったリアルシンジ世代。平日の午前中だというのもあるが、さすがに客層は50代ぐらいが半数を占めていた。

日本を代表するSF特撮ヒーロー「ウルトラマン」を、「シン・ゴジラ」の庵野秀明樋口真嗣のタッグで新たに映画化。庵野が企画・脚本、樋口が監督を務め、世界観を現代社会に置き換えて再構築した。「禍威獣(カイジュウ)」と呼ばれる謎の巨大生物が次々と現れ、その存在が日常になった日本。通常兵器が通じない禍威獣に対応するため、政府はスペシャリストを集めて「禍威獣特設対策室専従班」=通称「禍特対(カトクタイ)」を設立。班長の田村君男、作戦立案担当官の神永新二ら禍特対のメンバーが日々任務にあたっていた。そんなある時、大気圏外から銀色の巨人が突如出現。巨人対策のため禍特対には新たに分析官の浅見弘子が配属され、神永とバディを組むことになる。主人公・神永新二を斎藤工、その相棒となる浅見弘子を長澤まさみが演じ、西島秀俊、有岡大貴(Hey! Say! JUMP)、早見あかり田中哲司らが共演。劇中に登場するウルトラマンのデザインは、「ウルトラQ」「ウルトラマン」などの美術監督として同シリーズの世界観構築に多大な功績を残した成田亨が1983年に描いた絵画「真実と正義と美の化身」がコンセプトとなっている。(映画.comより)

シン・ゴジラ』の時に若手の役人やスペシャリストが集まって、ゴジラ対策をしたように、「禍威獣特設対策室専従班」というスペシャリストたちが「禍威獣」を倒すために活躍するというラインがある。そのメンバーでもある斎藤工演じる神永が逃げ遅れた子供を助けに行った際に、禍威獣と戦っているウルトラマンの近くにいたためで実は死んでしまっており、その体にウルトラマンが入ることでひとりの人間の身体の中に神永とウルトラマンの魂が共存するという形になる。子供を命懸けで守ろうとした神永の精神に触れた、見たウルトラマンはそのことで人類への希望、滅ぶべきではないのかもしれないと感じ、「禍威獣特設対策室専従班」として行動しながら他のメンバーと一緒に禍威獣と戦っていく。
ウルトラマン長澤まさみ演じる浅見が人間のままで巨大化するなどテレビシリーズで庵野秀明が好きだったというエピソードも入っている。観る前にTwitterでも山本耕史のことが話題になっていたが、外星人メフィラスは作中でもかなりおいしい役でインパクトがあった。メフィラスとウルトラマンの戦いはある存在によって決着はつかずに、メフィラスが退却するという歯切れの悪いものになってしまう。
その存在にとって(一応ネタバレ防止のため)、投下というか地球における人間という存在が他のマルチバースの知的生命体の脅威になるということからゼットンが召喚され、地球はすべて滅ぼされてしまうという展開になっていく。そこでもちろんウルトラマンが戦うことになるが、まったく歯が立たない。そこからは人類の知を結集させることでゼットンを倒す計算式を見出して倒すことに成功する、ヒーローと人類の勝利という感じになって終わる。ウルトラマンは神ではない、だから人類が自分達の力でなにもしないことは生きるということの放棄になってしまい、そして目の前の問題は解決しないという感じになっている。この辺りはやはり『シン・ゴジラ』の終盤を彷彿させるものがあった。その意味ではお仕事ものと言えるのかもしれない。
IMAXの大画面で楽しんで観ることができた。ゼットンのデザインとかは「エヴァ」の使徒じゃんと思ったりもしたけど。めっちゃ絶賛というわけではないけど、庵野秀明さんたち特撮好きがその影響を受けて、作り直すことに成功したことがわかるという意味でもオタクという世代の強さを感じさせるものだった。同時にこれはなにかの始まりという期待感はなく、沈没していく国が最後に見た夢みたいな哀愁のようなものを感じてしまう。
浅見が最初に「ウルトラマン」を見たときに「キレイ」と言ったこと、最後に神永に体を返すとも言える行動をある存在とのやり取りの中で終えて帰ってきた時に、自分が恋をしたかのように思えたあの「ウルトラマン」ではなくなったとどこかでわかったような悲しい顔、失恋に似たような表情をしており、他のメンバーの喜びと対照的だった。そのことを鑑賞後に先に見た友人から指摘されて、なるほどなあと思った。テレビシリーズでおさらいをする方が楽しめる作品なのは間違いないが、見てなくてもある程度はたのしめるのはさすがだなと思う。
「禍威獣」とされたが、「怪獣」というもの自体が自然災害のメタファだと思えば、「禍威獣」が現れる度にどんどんいろんなものが破壊されていく日本、というのはどこかでリアルさを感じてしまうだろうから、まさに今という作品だとも思う。

 

5月18日

日付が変わってから『競売ナンバー49の叫び』を読み終えて、次の『重力の虹』上巻に突入した。上下巻で1300ページぐらいあるこのピンチョンの代表作とも言えるこの作品を読み終えるのはどのくらいかかるだろうか。ピンチョンの作品は一気に読めるところと全然進まないところがあって不思議。あと歌がよく出てくるのも特徴なのかな。
ポストモダン文学を代表するトマス・ピンチョンのこの作品は百科全書的な知識の織り合わされたものであり、英語圏内文学でもっとも詳しく研究されている一冊と言われている。噂によると二、三回読むとわかってくるらしいのだが。前回は上巻ですぐに脱落したので今回はなんとか下巻の最後まで行きたい。

第一章 赤いエッフェル塔歴史学
1 ローアングルの鉄塔の系譜学
2 「映画」的なものをめぐる見えない運動
3 板垣鷹穂の「映画的」手法
4 「後衛」たちの鉄塔

第二章 第3村問題と郷土映画
1 『シン・エヴァ』に於ける再「物語」化
2 戦時下に育まれた手塚治虫の映画理論
3 『海の神兵』と文化映画実装問題
4 柳田國男のデータベース的映画論
5 郷土巡礼

第三章 原形質と成熟
1 「成長」もアニメ的「動き」と捉える手塚の美学
2 『シン・ゴジラ』という蛭子譚
3 「変身」「変形」への執着
4 エイゼンシュテインの原形質とゲーテの形態学
5 原形質から生成される人造人間

大塚英志著『シン・論 おたくとアヴァンギャルド』が来週発売。いやあ、たのしみ。このために『シン・ウルトラマン』観たところもあるし。
戦前から、そして戦中のメディアミックスと映画や芸術がどう戦争に利用され、あるいは利用(アニメ『海の神兵』は海軍だまくらかして作ったものだったりする)してきたのか。
戦争を生き延びた連中はそれを広告に転用してきたというのは今までも大塚さんが書いているけど、庵野秀明作品における鉄塔はなにからの引用なのかということとか映像学としても読み応えがありそう。これに加えて、夏には民俗学シリーズの『北神伝奇』と『木島日記』の今まで書籍化されていなかった三作品の小説も刊行されるし、大塚さんも63歳だし、やりのこしたことをできるだけやろうというモードに入ってきただろうか。

 

5月19日


青山真治監督『EUREKA/ユリイカ』デジタル・マスター完全版をテアトル新宿にて鑑賞。『Helpless』『EUREKA/ユリイカ』『サッド ヴァケイション』と続く「北九州サーガ」の第二作目。中上健次紀州サーガ」、そしてウィリアム・フォークナー「ヨクナパトーファサーガ」に連なる青山真治によるサーガ、同時代の阿部和重は小説で「神町サーガ」を書いた。
三時間半のこの作品をスクリーンで観るのは初めてだった。昔、レンタルでビデオかDVDで観たはずで、その後、古川日出男さんの小説を読むようになってから三島由紀夫賞受賞作を何作か読んだ際に小説版『EUREKA/ユリイカ』も読んだので、たぶん最初にレンタルで借りてから数年後に小説は読んだのだと思う。阿部和重さんと古川日出男さんの小説を読んだことで中上健次とフォークナーの小説を読むようになったことでより青山真治作品におけるサーガとフォロワーとしての存在は僕の中で大きくなっていた。

ストーリー:ある九州の田舎町で、バスジャック事件が発生した。生き残った運転手の沢井(役所広司)と直樹・梢の兄妹(宮﨑将・宮﨑あおい)は、心に大きな傷を負ってしまう。それから2年が過ぎ、町に戻った沢井は、2人きりで暮らす兄妹とともに暮らし始める。そこに従兄の秋彦(斉藤陽一郎)も加わり、4人の奇妙な家族生活が始まった。
そんな中、彼らの周辺でまたも殺人事件が続発する。沢井は小さなバスを買い、喧騒の町をぬけて4人でゆくあてもない旅に出るのだが...。

20年近く経った今観ても圧倒的な作品だった。遠景からバスや自転車、登場人物たちが走るシーンの映像が素晴らしくて、ショットの概念なんだと思うけど(違ったらすみません)、ほんとうに久しぶりに「映画」という映画を観たなと思えた。
バスジャックと作中で起きる殺人事件というのは90年代後期に日本で起きた出来事でもあり、二十年以上経った今ではどこか忘れそうになっていたあの当時の空気みたいなものが蘇ってきた。やはり沢井が声を荒げてでも、ある人物に「死なんでくれ」という魂からの叫びは僕にもしっかりと届いた。
宮崎あおいだけでなく、デビューした頃の尾野真千子と後の朝ドラ主演女優、現在は名脇役、バイプレーヤーとして多くの作品に出ている松重豊光石研利重剛塩見三省という面々。とくに当時四十手前の松重豊の面構えがよかった。
そして、なんと言っても役所広司がよくて、この前には黒沢清監督『CURE』にも主演しているわけで、役所広司という人のフィルモグラフィを見れば、現在評価されている監督たちの世に出る作品がいくつかあるわけで、しかもその作品が素晴らしいというのが恐ろしい、ぐらいすごい。また、今作に関わった人たちはそのことが誇りになっているだろうな、と思える。
三時間半ほぼモノクロで展開する意味が最後にわかる。
あと秋彦(斉藤陽一郎)とシゲオ(光石研)のやりとりは笑ってしまった。プラス梢(宮崎あおい)の三人は三作目『サッドヴァケイション』にも再登場することになる。もう閉館してしまったシネマライズで僕がスクリーンで観ることが間に合ったのは『サッドヴァケイション』だけだったので、今日スクリーンで観れてほんとうによかった。


青山真治監督作品で家にパンフがあるのは『サッドヴァケイション』と『エリ・エリ・レマ・サバクタニ』だけだった。『サッドヴァケイション』はシネマライズで観たけど、シネマライズで公開した作品はパンフの四隅のどこかにシネマライズと入ってるから、シネマライズで観て購入したパンフは全部残してる。いちばん古いのは上京後にはじめてシネマライズで観た『アメリ』。


映画を観終わって三茶に帰ってからニコラへ。すぐに家に帰る感じではなかったので、ビールと前菜がてらスナップエンドウ塩とレモンとオリーブオイル、パプリカにつめたやりいかとほんれん草のラグーをいただく。パプリカこんなにも美味しいんだなあ、と前から気になっていたのを食べて至福だった。

 

5月20日

乙一中田永一&山白朝子&安達寛高著『沈みかけの船より、愛をこめて 幻夢コレクション』が出ていた。以前にも同じく朝日新聞出版から『メアリー・スーを殺して 幻夢コレクション』というのが出ていて、その時にはもうひとり「越前魔太郎」が著者名に入っていた。
乙一中田永一、山白朝子、越前魔太郎というのは安達寛高氏のペンネームであり、ある種多重人格者の人格のひとつひとつに名前があるようなものに近いのかもしれない。
ひとりの作家がいくつかのペンネームを使用して使い分けているというのは現在はあまり多くないイメージがある。いるとしても乙一さんクラスの著名な作家でやっていて、ほかのペンネームでもヒット作を出したり、継続的に作品を出し続けているパターンはほぼないのではないだろうか。
タイトルと装丁デザインがいいので、それでもはや勝ちだなと思える一冊。前に主人公たちが海(のような亜空間)の底に向かっていくときに、この装丁デザインで描かれているような感じで、実物の倍以上のサイズのマッコウクジラたちが縦になって眠っていて、ある種ストーンヘンジのような形で浮かんでいるというシーンを書いたことがあったので、ああ、脳裏に浮かんでいた景色に近いなと思った。僕の場合は光とか届かない闇の中で発光するマッコウクジラたちみたいなイメージだったのだけど。

 

5月21日
ラジオ深夜便 5月19日(木)「雉鳩ノート」27日まで

古川日出男さんが今月ロサンゼルスに滞在(UCLAで基調講演)した時のことについて、アメリカの現在、観にいった舞台の話も聞けていい。日本とアメリカで違う自分で判断して安全を確認するということなどの話。
今、刊行順でトマス・ピンチョンを読んでいるが、舞台がロサンゼルスが出てくることも多いので親近感。僕も2017年の3月には古川さんご夫婦に会いにロサンゼルスに行き、UCLAに連れていってもらったことがあるので、このラジオを聴いていたら、また行きたいなと思う海外はまずロサンゼルスだなと思った。

古川日出男が語る、いま『平家物語』が注目される理由 「激動する時代との親和性」

古川さんのインタビューの前編が公開されていた。いろんなところで『平家物語』現代語訳をかくきっかけなどを話されているが、来週には映画『犬王』が公開されるので、ある程度の取材とかインタビューは収まっていくのかな。目の手術をしてからニット帽をかぶらず、眼鏡をしていない時の写真が増えたかな。

ピンチョンの『LAヴァイス』にしろ、デニス・ジョンソンの『煙の樹』にしろ、ティム・オブライエンの『本当の戦争の話をしよう』とかベトナム戦争が残した傷跡や戦地での小説を読むと、今の日本は近いものとして考えられる気になってくる。もう、日本自体が目に見えない焦土化している。
まだ、ベトナム戦争は民主主義の力やジャーナリズムで大統領とか政府が隠していたことを暴いて、終結させたし、大量破壊兵器をでっち上げてイラク戦争を起こしたことについても映画だったり小説でも書かれている。検証されている。機密文書とか破棄したら、基本的な根本が壊れる。信用できない国になっていることに気づかさないための「祭り」を続けようとしている。ドラッグとしてのオリンピックと万博にヘイトに。外に出る人が多いわけじゃないから、取り残されていくことに気づけないままドラッグ漬けにされる。海外の映画でもいいし、小説でもいい、外からの芸術に触れてる方がまだ気づける。ただ、それはもうインテリなハイソなものになってしまっている。
地獄を見てPTSDになったベトナムイラク帰還兵とかみたいな状況に経済大国から転がり落ちたことを信じたくない人たちはなっているように思えてくる。まあ、自分が狂ってしまうから世界がおかしいと思わないとやっていけないし、差別主義者にならないとしょうもない自己を守れないから中高年がもろにそっちに流れる。社会や国に安定や自分の存在意義なんか求めたら、あるのは格差だったり階級という上下を作ることに参加させられるだけじゃないか。
しかも、上にいけるような人間は自ら手を下さないよ、数字だけにとらわれて、本質を見ようとしないから何十万売れているコピペ本が数千部の小説より素晴らしいと平気で言う人たちがいる。その程度の「私」しか誇りしか持てなかったのは社会のせいなのか、時代のせいなのかは知ったことではないけど。
敗戦後に、僕は終戦じゃなくできる限り敗戦と書くけど、それまで日本国万歳と言って米国鬼畜と言っていた人たちが、アメリカは素晴らしいとコロッと態度を変えたことに、当時の子どもたちは違和感や大人は信用できないと思ったという話は読んだり聞いたりしてきた。
上記で書いたような人たちは、なにかのきっかけで、それは敗戦のような出来事になるんだろうけど、きっと態度を急変させるだろう。悪いのは自分ではなく、国や社会やメディアだと責任転嫁するだろう。そんなものだと思う。まあ、死ぬまでドラッグ漬けな人の方が多そうだけどね。
でも、自分の子どもや孫とかにそんなだせえ姿を見せるってこととかなんにも思わないんだろうか。僕とか結婚もしてないし子どもいないけど、自分の友人知人の子どもとかにそういうダサい人間に見られたくないって一応思うけどな。
やっぱり粋だとかの美意識ってやせ我慢の部分もあると思うんだよね。そういうカッコいい大人がいなくなったってことも大きいんだろうな。メルマ旬報用の日記のメモ代わりに書いてたら長くなってしまった。

3年前の2019年の5月21日にフェイスブックにこんなことを書いていた。

 

佐久間 上に立つ人の姿でいうと、本には「(最高の料理人は)ふだんから普通のように振る舞っているから、見つめる人にしか本当のすごさはわからない」と書かれていましたね。

斉須 そう、普通の人。「すごさ」を誇示したりしない、普通に生きている人なんです。ちょっと地味に見えるくらいなんだけど、忍耐力があって、決断力もあって……「すごい」ってこういうことなんだと、フランスで学びました。
とくに3店舗目でお世話になったレストランのオーナーは、ほんとうに優れた人でしたね。素材の買い出しに自ら行く。それを僕らに見せながら「これでよかったかい?」と聞く。それでお礼を言うとね、「ありがとうは私のほうだよ」って返してくれるんです。「私のために働いてくれているんだから」って。

佐久間 うーん、かっこいい! 威圧的になってもおかしくない立場で。

斉須 しかも東洋から来た、どこの馬の骨かもわからない若造にです。ほんとうは資産家なのに一切むだ遣いもしないし、慎ましやか。こういう人がいるんだって、12年間でいちばんの驚きだったかもしれません。

「才能だけでは押し切れない」、「ずっと現場」。佐久間宣行が“生き方”を教わったシェフの哲学

テレビプロデューサーの佐久間さんが仕事のやり方の影響を受けたというふれんつレストランのオーナーで料理人である斉須さんの対談。とてもいい、これをメガネブランド「J!NS」が母体のウェブサイト「J!NS PARK」で公開しているのもおもしろい。

 

5月22日

散歩がてら行った蔦屋代官山書店の料理関係の本が置いてあるフロアで前日に読んだ佐久間さんと斉須さんの対談のことを思い出して、『調理場という戦場』文庫版を探したら面出しな感じで数冊置かれていた。ある種の定番として読み継がれているのだろうなと思った。

 

古川:そうですよね。だからさっきの『平家物語』の話に戻ると、『平家物語』というのが、いろんな人が関わって作るひとつのマトリックスだったとしたら、すごく不思議なことに、僕が書いた『平家物語 犬王の巻』もまた、いろんな人がその人なりに取り組んでいく作業のマトリックスになってしまったという(笑)。たとえば、野木さんがこの原作から、登場人物を2人に絞って、彼らが出会って交流を重ねながら最後のステージになだれ込むまでの脚本を書いてくれたり、湯浅さんが僕では描写しきれない犬王の動きを、自分の予想の何倍も上回る形でビジュアライズしてくれたり……みんなが、ある意味、寄ってたかって生産的なことをしてくれたわけです。普通、寄ってたかると搾取しちゃうんですけど、寄ってたかってクリエイションしちゃったっていう(笑)。それはもう、ありがたいとしか言いようがないですよね。

古川:もし、僕の現代語訳が、今おっしゃられたような「定本」みたいな形になるとしたら……ひとまず『平家物語』が戦争礼賛の話だっていうイメージは、もうここから数年で全部覆されるのではないでしょうか。『平家物語』というのは「軍記物語」だから、戦争礼賛の話だと思われがちだけど、実はある意味、反戦文学であり……戦争か平和かという話ではなく、それとは別の何かを描いた物語なんだっていうことがわかったっていう。

古川日出男が語る、新たな『犬王』の誕生 「ある表現者の架空の自伝という思いで書いた」

古川さんのインタビュー記事の後編が公開されていた。『平家物語が』が反戦文学であるというのは、ノンフィクション作品『ゼロエフ』の終盤でも語られるのだけど、個人的には『平家物語』現代語訳と『平家物語 犬王の巻』と『ゼロエフ』は書店とかで一緒に並べて欲しい。

寝る前に『鎌倉殿の13人』最新話を見てしまい、源義経と彼の周りの人たちの最後を見ていたら、自然と泣いていた。もともと涙もろかったけど、この所さらに涙もろさに磨きがかかっている気がする。年のせいなのか、精神的に弱っているのかはわからない。ただ、確実に涙もろくはなっている。条件反射的に悲しいシーンで泣いてしまうタイプだと自覚はしていたが、最近はやはりひどい。
最後まで天才軍師として、戦うことが生き甲斐だった男として源義経を描いたのは素晴らしかったし、静御前の女としての覚悟の見せ方、正妻の里の嫉妬なども含めて、多くの伏線が回収されていた。最後に源頼朝が届けられた義経の首がはいった首桶を抱きしめながら、平家をどうやって倒したのかを話してくれ、と物言わぬ、死んでしまった弟に語り掛けるのはどうしても涙を誘う。今作において三谷幸喜脚本はずば抜けて素晴らしいと唸るしかない。

 

5月23日
羊文学「OOPARTS」Official Music Video

アルバムを聴いて気になっていた曲のMVがアップされていた。

寝起きに見た夢が少しいつもと違って変だった。道路のような場所を車のようなものが走っていると思って見ていた(見えていた)ら、人の顔が走ってきていた。トラックの荷台にかなり大きめの顔だけが乗っている、そんな感じ。その顔には見覚えがあった。女優の夏帆さんとしか言いようのない顔であり、なにかのタイミングで車というか走っている向きが変わり、僕には見えていた右側メインではなく、Uターンのように左右が入れ替わり、左側がメインになってさっき来た方へ走り出した。その際に顔は夏帆さんではなく吉岡里帆さんの顔になっていた。二人とも好きな女優さんではあるが、似ている顔のタイプには思えない。不思議だなあと夢の中で思ったら、目が覚めてベッドの上だった。僕の深層心理はいったいどうなっているのか、いつも見る夢はもうちょっと抽象的だし、有名人とかが出てくることはない。見ているかもしれないが覚えていない。ちょっと変な夢、顔だけが走っていくというのも普通に考えたら不気味だけど、そこでは違和感は感じなかった気がする。

その後、起きてからリモートワークを開始した。作業用のノートパソコンは支給されたものを使っていて、我が家にはテレビとか音楽再生用の機械もないので、自分のMacbookAirを近くで起動して画像や音楽を流している。
とりあえず、二話の途中だったParaviオリジナルドラマ『それ忘れてくださいって言いましたけど。』をもう一度一話から最新話の五話まで流していた。出演者のひとりが夏帆さんだからということもある。なぜかおやじギャグのようなものが連発される展開になり、ちょっと萎えた部分があったり、舞台である下北沢のカフェ「CITY COUNTRY CITY」に来るはずの西島秀俊さんがずっと来ないので、スケジュール的に無理で別撮りしたため、他の出演者がいるカフェに来れない設定なのではないかと思ったり、五話のゲストの物理学者役の北村有起哉さんとカフェにいるメンツとのやりとりがおもしろかった。
見終わってからはネトフリで四話まで見ていたアニメ『SPY×FAMILY』を最新回まで流してみた。コミックはたしか二巻ぐらいまで追っていたのでこの辺りは読んでいるはずだが、アニメのほうがコミカルさは増しているようで微笑ましい。


仕事終わってからニコラに行って、いちじくとマスカルポーネのタルトとアルヴァーブレンドを。一服しながら、この日記の本日分を書く。


今月はこの曲でおわかれです。
MINAKEKKE - Odyssey (Official Music Video)



UA - 微熱 (Official Video)

Spiral Fiction Note’s 日記(2022年3月24日〜2022年4月23日)

水道橋博士のメルマ旬報』連載「碇のむきだし」


ずっと日記は上記の連載としてアップしていましたが、日記はこちらに移動しました。一ヶ月で読んだり観たりしたものについてものはこちらのブログで一ヶ月に一度まとめてアップしていきます。

「碇のむきだし」2022年04月掲載『シャムロックの三つの葉』 映画『ベルファスト』を観たので、以前に北アイルランドに行った時の話を元に短編を書きました。


先月の日記(2月24日から3月23日分)


3月24日
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西島大介著『世界の終わりの魔法使い 完全版6 孤独なたたかい』をGET。新・三部作もついに完結編が発売になった。帯にも書かれている「生きなくちゃ!」というセリフは映画『ドライブ・マイ・カー』の作中劇である『ワーニャ伯父さん』のラストでのソーニャのセリフとも呼応している気がする。

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レオス・カラックス監督『アネット』4月1日公開、エドガー・ライト監督『スバークス・ブラザーズ』4月8日公開、とスパークス祭り、確実にDOMMUNEスパークス特集やるだろうなとこの巨大な看板ポスター(であっているのか)を見て思った。

PLANETSブロマガ連載「ユートピアの終焉──あだち充と戦後日本の青春」の最新回が公開になりました。『クロスゲーム』3回目「ゼロ年代における新自由主義の行方を描いていた『クロスゲーム』(前編)」です。
今回連載当時の2005年ぐらいの空気感をについて書いているので、あだち充論なのに浅野いにお作品について少し触れています。

 

3月25日
「BOOKSTAND映画部!」のレビューコーナー「月刊予告編妄想かわら版」2022年04月号が公開になりました。
4月は『アネット』『ハッチング-孵化-』『カモン カモン』『アンラッキー・セックスまたはイカれたポルノ』を取り上げています。


ゼロ年代の終わりぐらいに渋谷のライブハウス(たぶん7thFloorのような)でのイベントで青山真治さんがギターケースを持っていて、charlieこと社会学者の鈴木謙介さんと一緒のエレベーターに乗っていたら、同じ福岡出身のふたりが知っている歌を口ずさむみたいなやりとりをしたのを見た記憶がある。あれはなんのイベントだったのだろうか、おそらく佐々木敦さんがやっていた「エクス・ポ」関連だった気がする。
映画『サッド ヴァケイション』初日の舞台挨拶付きをシネマライズに観に行ったし、中上健次チルドレンだった青山さん。最後の作品となった『空に住む』は正直青山真治がなぜこんな作品を撮ったんだ?と思っていたから、次は「北九州サーガ」みたいなものに回帰してほしいなと思っていたのだけど、それは叶わなかった。
『ヘルプレス』『ユリイカ』『サッド ヴァケイション』の「北九州サーガ」三部作は映画も小説もどちらも好きだし、観られて読まれていってほしい。

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青山真治著『ユリイカ EUREKA』&『Helpless』文庫版。三部作目『サッド ヴァケイション』は残念ながら単行本のみで文庫化されていない。

 

3月26日
水道橋博士のメルマ旬報』連載「碇のむきだし」2022年3月26日号が配信されました。今年の2月と3月に観た映画日記です。
『アネット』『犬王』『THE BATMAN』『愛なのに』『MEMORIA メモリア』『余命10年』『猫は逃げた』などについて書いてます。


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数日前に購入していた千葉雅也著『現代思想入門』を読み始める。近所のツタヤ三軒茶屋店でも平台に積まれていて、週間ランキングで3位ぐらいに入っていた。現代思想もビジネス書的なものを読む人も読んでいるということもあるのだろうか。千葉さんの知名度や人気も高くなっているということなのか、哲学というものに惹かれている人が多いのか。個人的には千葉さんの小説がもっと読まれてほしい。

 

3月27日

ニコラで12時からのイベント『帰ってきた駆け込みアアニコ(VOL.11)』に行く。前回のイベントから約2年ぶりとなる徳島のアアルトコーヒー庄野さんとニコラの曽根さんが雑談を話すというもの。
コロナパンデミックが起きてからニコラもイベントはほとんどやっていなかったし、徳島でコーヒーの焙煎をしている庄野さんはお子さんの修学旅行が中止になったりしたこともあって、それまでは週末は東京だけではなく日本中各地でイベントなどに呼ばれていたのに、この2年は奥さんの実家の香川に二度ほど行っただけで徳島からは出ていなかったと言われていた。
毎回の二人の雑談はその時々で思っていることや考えていることを話すものになっている。お二人ともお店をしているので個人経営のことやコロナになってからのお店のやりかたや続けていくやり方だったり、これはフリーランスの人にも通じることでもあるので毎回聞いていておもしろいし、なるほどなあと思うことが多い。
あとはロシアとウクライナのことや政治のことであったり、右翼左翼とかSNSとの距離感など、いつも話しているような気はするが、「わきまえる」というのはこの二人でのトークイベントでキーワードだなって思う。

二時間ほどでイベントが終わってから、一度家に帰って仮眠してから、夕方に再びニコラに行って、庄野さんによるコーヒー教室『コーヒーのすべて』に参加する。
コーヒーの淹れ方を庄野さんが実践しながら話をしていくというものだが、僕は初参加だった。大事なのは自分が好きな豆を選ぶこと(知ること)、ミルで飲む前に挽くこと、豆の鮮度や焙煎過程で違う苦味や酸味などの違いとか、ほんとうにわかりやすいしおもしろかった。
庄野さんは2年前まではトークイベントだけではなく、コーヒー教室もたくさんやってきているから、やはり場数を踏んでいるからうまいと思う。それは35歳で何の経験もなくいきなりコーヒーロースターになった時にもひたすら焙煎して、売れなかったりしたら捨てて、それでも数をこなすことで技術をあげていったことの話とも おそらく関係しているのだろう。
ほかのコーヒー教室はわからないけど、アットホームでお客さんがリラックスして話を聞いている雰囲気があって、それは庄野さんの人柄と話し方、そして自由に受け取って、気になるとこだけ参考にしてくださいっていうフラットさのおかげなんだと思う。

終わってから、庄野さんとニコラの曽根さん夫妻といつもの美味しいお店で打ち上げ。途中から昼のイベントに 来れなかった藤江くんもやってきて、食べて飲んでたくさん話をした。その後、お店に帰って藤江くんの音源を出したレーベルの竜樹さんもやってきて、朝の4時過ぎまで飲んで話をしていた。やっぱり実際に会って話せるということはほんとうに幸せな空間と時間だと改めて感じた。

 

3月28日

朝四時すぎまで飲んでいた気はするけど、九時前に起きて仕事開始した。こういうときはほんとうにリモートワーク様様。
13時すぎてからの昼休みに運動がてら緑道を散歩する。桜はもう満開になっていた。この緑道の先の目黒川沿いも満開になっていて、昨日おととい中目黒でイベントをした庄野さんが目黒川沿い人手がすごかったと言われていた。


漫画・おかざき真里、原作・燃え殻著『あなたに聴かせたい歌があるんだ』ご恵投いただきました。
十年一昔、「聴かせたい」という願いに似た気持ちは現在進行形で、なんとか生き延びたから感じられる想いと後悔のあとさき、読者にとってのいつかと誰かを浮かび上がらせる作品。

 

3月29日

ニック・ランド著『絶滅への渇望 : ジョルジュ・バタイユと伝染性ニヒリズム』を購入。
マーク・フィッシャー『わが人生の幽霊たち――うつ病、憑在論、失われた未来』のタイトルと装幀に惹かれて読んだことでニック・ランドに興味を持ったのが最初だった。「幽霊」というのは「平成」に感じていたキーワードだったし、インターネットとグローバリズムが加速していったこと、それらと呼応するのはやはり鈴木光司さんの「リング」シリーズの貞子ことリングウイルスだったなと思う。
山村貞子は原作では半陰陽であったが、それらは映画化の際にはなくなりただの「キャラクター消費」として貞子という存在のみがまさに日本中へ増殖して広がっていったと思う。「リング」シリーズと加速主義とか絡ませたものは批評というか物語に組み込んで書いてみたい。結局加速していった先は増殖して溢れ出した綾波レイ的な「新エヴァ」の世界でしかなく、繰り返した世界の果てに日常に戻るしか想像力は向かない、あとは崩壊か破壊しかないから。
平成後期の2000年代以降に描かれた多次元や繰り返す日常の物語は、令和初期に完結して元の現実に回帰していく終わり方しかできなかった。だとしたら、繰り返されてきた日常や多次元そのものが幽界であり、そこにいた登場人物も現実に回帰した後では幽霊だと言えるのかもしれない。


菅田将暉オールナイトニッポン』と『三四郎オールナイトニッポンゼロ』リスナーなので、しゅーじまん(三四郎相田周二)の曲『Standby』がシークレットトラックとして収録されたアルバムをレンタルしてiPod nanoに取り込んだ。
この曲はサブスクで配信されておらず、そこにはシークレットトラックという概念がそもそもない、そしてCDをそもそも聴く装置がない人たち(両番組リスナーたち含め)が「しゅーじまんの曲が入ってると聞いたがサブスクにはない、あるのかないのか、何が本当なんだ?」状態になった話は菅田将暉三四郎、そしてクリーピーナッツの「オールナイトニッポン」で繰り広げられていてどの番組に聴いているので非常におもしろかった。

昨日の最終回は菅田将暉コロナ感染のため、最終回を一週間遅らせて(昇格した『クリーピーナッツのオールナイトニッポン』は一週開始がズレることになった)、菅田将暉の事務所の先輩であり『菅田将暉オールナイトニッポン』でガチすぎるデュエリストであることがバレたことで、色んな意味で人間味が溢れて好感度が上がったとしか思えない松坂桃李がいつも通りを崩さずに見事な代理を務めていた。彼がラジオに出て話しをする時には、なぜ普段ラジオをしたこともないのにできるんだという気持ちになり、同時に主役を張れる人間の圧倒的な強さと持っている感があり、松坂桃李はやっぱりすごいというアホみたいな感想になってしまう。

僕は音楽に関してサブスク使ってないから未だにCDやiTunesで買うか、レンタルをしている。ツタヤ渋谷店のレンタル階はコロナ前より人が増えた気がするけど、たぶん、気のせいではない。
アメリカではCDやレコードの売上が前年を越えたというニュースを見た記憶がある。ウイルスは目に見えない、サブスクなんかも結局のところ形はない、データだけだ。形がないものにはなかなか人は思い出や気持ちを残せない。人自体がいつか消えていく、それは遺伝子の乗り物だからとも言える。サブスクやSDGs的にいろんなものをシェアするのがよいことだとしても結局のところ人は形をほしがるし、形がないと認識が難しいという問題はある。
サブスクの大本や運営会社が潰れたら、それまで聴いていた曲は聴けなくなる(最終的にはどこか一強が残るだろうけど、使っているサブスクが安泰とは限らない。もちろんこの日記だってはてなブログが終了すれば消えて読めなくなるから、一応ワードで書いたものをコピペしてる)。しかし、世界の流れとしてはそれでいいのだろう。
スマホGAFAだけが生き延びるために世界中の人々がどんどんチャリンチャリンと課金していく。僕らはスマホの奴隷になってしまっているし、スマホが本体で操作する人間が奉仕者で外部装置みたいなことになっている。そもそもそれは今に始まったことではなくて宗教のシステム自体がそういうものでもあって、人間はなにかを自分より上位に置いて隷属しながら、自分よりも下の立場を作ることによってその狭間で安心する生き物でもある。
これからは紙の本を読むことがテロリズムに近いものになっていくだろう、分厚い本を読むことはより明らかな時代(あるいは時代精神ツァイトガイスト))に対しての抵抗になっていくと思うけど、そのことの意味や可能性すらもどんどん共有することができなくなっていくのかもしれない。また、4月以降はSNSの投稿はできるだけ控えようかなと思ったりしている。

 

3月30日

浅野いにお著『デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション』12巻。最終巻の通常版と限定版。個人的には限定版のTシャツはいらないけど、作中でも出てくる漫画「イソベやん」付きなので、祝アニメ化ということで久しぶりに限定版を買った。しかし、ビニールを開けちゃうと分離してしまうので開けられない。
デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション』のアニメが放送されたら見るかと言われたら正直わからない。人生でベスト3に入るほど好きな漫画『プラネテス』のアニメ見たことないし(なんか見る気がどうしても起きない)、実写映画は大好きだけど『ピンポン』のアニメも見たことがない。
最近最後まで見たのは『ゴジラ<シンギュラ・ポイント>』と『平家物語』ぐらいだし、前者はゴジラ×SF×円城塔という部分に惹かれたし、後者は古川さんが現代語訳したものを基にしたアニメ化だったから見たという部分が大きかった。

デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション』12巻では主人公の門出の父親が重要な役割を果たしていて、ネタバレになってしまうので詳しくは書かないが、物語の着地点としてはおそらくそれしかないと思った。
ディストピア的な世界を描くことで逆説的に門出たちの日常がより輝いて、それがほんとうに尊いものだったことを描きながらも、現実社会におけるSNSだけでなく差別や利害関係における構造も描写していった。この20年近くの日本を浅野いにおがしっかりと映し出した素晴らしい作品だと思うし、SF的想像力によって描いた世界は現実と確かに呼応している。

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『チ。』第7集は次巻の最終集に向けたラストスパート、カバーを外した方がカッコいいというかこの巻に出てくるセリフが描かれていて、読んだ後に再度見てみると熱い。願いや思い、誰かの希望が託されるということ、出会ってしまったということ、願いの連鎖が世界を変えていくその前夜。

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ニコラでめかじきとケッパーのラグートマトソース スパゲティーニと赤ワインをいただく。至福。

 

3月31日
PLANETSブロマガ連載「ユートピアの終焉──あだち充と戦後日本の青春」の最新回が公開になりました。
クロスゲーム』3回目(後編)は連載開始時当時の空気感、そして劣化版「柏葉英二郎」の大門秀悟が作ろうとしていた強豪野球部≒新自由主義の崩壊について書いています。


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昼飯を買おうと駅前に行ったついでにツタヤ三軒茶屋店に寄ると『デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション』完結&アニメ化もあって浅野いにおコーナーができていたが、壁に雑誌の表紙が飾られていた。

ASIAN KUNG-FU GENERATIONの10th Album『プラネットフォークス』をずっと流しながらこの日締め切りの「新潮新人賞」応募作の最終仕上げをした。現代から過去(1994年)へ巻き戻っていく構成にしたのは、たぶんこの30年ぐらいを描くのが自然な気がしたから。でも、やっぱり書き終えてみると逆だったなと思った。違うバージョンを書こうと思った。

 

4月1日
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今日から日記がわりにつけている新しい「10年メモ」(2022年4月1日から2032年3月31日まで)を書き始める。前の「10年メモ」は30代の毎日(2012年4月1日から2022年3月31日までの10年)の微細な記録だった。この「10年メモ」はちょうど40代の10年のことを書いていくことになる。まずはなんとか生き延びるしかないのだけど、別れも増えていく10年になるだろうなと思う。


トワイライライトでトマス・ピンチョン著『メイスン&ディクスン』上巻を購入して、コーヒーを頼んだので、そのまま屋上に上がった。
桜も散り始めているというのにとても寒く、またこの屋上に置かれているエアコンの室外機のファンががっつり回っていたので風がもろに当たってさらに寒くて暖かいコーヒーをすぐに飲んでしまった。

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公開初日のジュリア・デュクルノー監督『TITANE/チタン』をシネクイントの最終回で鑑賞。お客さんは金曜の20時半スタートだったがわりと入っていた。やっぱりパルムドールを獲っている作品だし、なんだかヤバそうな予告編だったりするのもあるのか、そういうものに惹きつけられる人や嗅覚が効く人が来ていたのだろう。

「RAW 少女のめざめ」で鮮烈なデビューを飾ったフランスのジュリア・デュクルノー監督の長編第2作。頭にチタンを埋め込まれた主人公がたどる数奇な運命を描き、2021年・第74回カンヌ国際映画祭で最高賞のパルムドールに輝いた。幼少時に交通事故に遭い、頭蓋骨にチタンプレートを埋め込まれたアレクシア。それ以来、彼女は車に対して異常なほどの執着心を抱き、危険な衝動に駆られるようになってしまう。自身の犯した罪により行き場を失ったアレクシアは、消防士ヴィンセントと出会う。ヴィンセントは10年前に息子が行方不明となり、現在はひとり孤独に暮らしていた。2人は奇妙な共同生活を始めるが、アレクシアの体には重大な秘密があった。ヴィンセント役に「ティエリー・トグルドーの憂鬱」のバンサン・ランドン。(映画.comより)

前半部分と後半部分でかなり作品のテンポが違う。
主人公のアレクシアの衝動的にも見える破壊行為によって彼女は元いた場所に居られなくなってしまい逃げることになる。それまではダンサーなのかな、爆音のクラブミュージックに合わせて車の前で妖艶に踊ったりしていた。自分の犯した罪から逃げた先で出会う消防士のヴィンセントと一緒に暮らし始めることになる。
ヴィンセントの前でほんとうのことを隠して生活をしていくのだけど(なぜアレクシアが隠していることに彼が気づかないのかと周りの人間は思う。彼もまた狂っている、いや信じたいことを信じることでなんとか生きているとも言えるのだろう)、アレクシアもヴィンセントもどちらもヤバいっちゃあヤバいもの同士のある種の共闘というかシンパシーがあったから一緒に居れたのだろう。
最後のシーンを観て、もうなんだかすごいことはわかるけど、なにを観せられたんだ?という気にもなってしまった。衝撃だけがあり、ふたりにだけ生まれた関係性とクライマックスでアレクシアの体の秘密とされているものが世に放たれる時、もう意味がわからないけどなんだかすごいものを目の当たりにする。やりたい放題だなと思って笑いそうにもなった。時間が経ってから自分の中で映像が蘇ったり、反芻してしまうものがある作品なんだと思う。

 

4月2日
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昨日『TITANE/チタン』をシネクイントで観たらポイントカードのスタンプが4つ貯まった。貯まると一回シネクイント系列で映画が観れるので、渋谷パルコに入っているホワイトシネクイントで朝イチで上映している『ベルファスト』を観ようと家を出た。
9時半からの上映だったのだが、8時45分ごろに着いてしまった。渋谷パルコ自体は10時以降にオープンで、映画館がある階への直通エレベーターも9時15分からとなっていた。30分待つのは正直しんどいなあと思って、近くの映画館で9時過ぎに上映している作品はないか検索すると、気にはなっていたジャスティン・カーゼル監督『ニトラム』がヒューマントラストシネマ渋谷で9時10分からだった。公園通りからタワレコの方に下っていき、ヒューマントラストシネマ渋谷が入っているココチビルへ。お客さんは朝早い時間だったが、20人近くはいた感じだった。

1996年4月28日、オーストラリア・タスマニア島世界遺産にもなっている観光地ポートアーサー流刑場跡で起こった無差別銃乱射事件を、「マクベス」「アサシン クリード」などで知られるオーストラリアの俊英ジャスティン・カーゼル監督が映画化。事件を引き起こした当時27歳だった犯人の青年が、なぜ銃を求め、いかに入手し、そして犯行に至ったのか。事件当日までの日常と生活を描き出す。1990年代半ばのオーストラリア、タスマニア島。観光しか主な産業のない閉鎖的なコミュニティで、母と父と暮らす青年。小さなころから周囲になじめず孤立し、同級生からは本名を逆さに読みした「NITRAM(ニトラム)」という蔑称で呼ばれ、バカにされてきた。何ひとつうまくいかず、思い通りにならない人生を送る彼は、サーフボードを買うために始めた芝刈りの訪問営業の仕事で、ヘレンという女性と出会い、恋に落ちる。しかし、ヘレンとの関係は悲劇的な結末を迎えてしまう。そのことをきっかけに、彼の孤独感や怒りは増大し、精神は大きく狂っていく。「アンチヴァイラル」のケイレブ・ランドリー・ジョーンズが主人公ニトラムを演じ、2021年・第74回カンヌ国際映画祭で男優賞を受賞した。(映画.comより)

主演のケイレブ・ランドリー・ジョーンズの顔つきや佇まいはどこかニルヴァーナカート・コバーンを彷彿させる。世界に対して屈折したような諦めたような憂鬱な顔にも見えるし、無邪気で世界をまるごと愛してるような顔にも見える。そして、長い髪と着る人によってはダサくしかならない服がカッコよく見えてしまう佇まいをしている。その姿はやっぱりカートっぽくもあり、昔シネマライズで観たガス・ヴァン・サント監督によるカートの死から着想を得た映画『ラストデイズ』という作品があったのを思い出した。
この『ニトラム』は実際の事件を映画化したものだが、ニトラムと呼ばれている青年がゆっくりと、しかし確実に悲劇に向かっていく様子を描いている。ニトラムと父親と母親の関係性でいえば、母親はどこか彼に対して冷たく突き放しているようにも感じられる。その分父親が甘やかしているようなバランスだが、それも一気に壊れていってしまう。そして、サーフィンをしたいと思ったがボードが変えないために金を稼ごうと芝刈りをするために訪問した家の女性のヘレンと出会ったことで、新しい庇護してくれる存在と出会い、束の間彼は心穏やかな生活を送るのだが、彼の無邪気であり同時におそろしい行動によってそれも終わってしまう。
精神的に不安定なニトラムは薬を飲んでいるが(抗うつ剤かなにかのはずだが)、彼の不安定さや情緒不安さは元々あったものに加えて薬の副作用というか、彼自身が薬への抵抗のようにどんどん症状は悪くなっていくようにも見えた。

上記の解説にはヘレンと出会って恋に落ちると書いてあるのだが、僕は観ていて二人が恋に落ちたようには感じなかった。彼女がニトラムの母とあまり変わらない年だというのもある。もちろん年の差で恋をすることはあるのはわかるが、彼らの関係が恋人のようには見えず、母の代わりに新しく庇護する存在としての女性がヘレンだったように見えた。彼女は犬や猫を何頭も何匹も飼っている金持ちだが、ニトラムも犬と猫とそこまで違いがあったのかどうか正直僕にはわからなかった。
幼い頃から「ニトラム」とバカにされていた彼はサーフィンもそうだったし、やりたいことができなかったり、友達や仲間が欲しくてもできずにずっとバカにされてきた。そういう憤怒のようなものが澱のように心に溜まり続けていく過程が描かれている。しかし、庇護的な存在だったヘレンが亡くなったことで、彼が手にしてしまった大金は銃器を買えてしまうという無差別銃乱射事件を起こすきっかけになってしまう。その前にはやさしかった父のある願いが不条理にたち消え、その因果を作った夫婦への復讐としても彼は銃撃を放つことになる。もちろん被害にあった夫婦は勝手な難癖である。

ニトラム、彼の起こした無差別銃乱射事件は彼を阻害しバカにし続けてきた世間や社会への怒りでしかなかった。もちろん、許されるわけはない。だが、この映画はとても他人事ではない。大きく一線を越えるというよりも、少しずつ少しずつボーダーラインに近づいていき、越えてしまうともう元には戻れないということを描いている。
誰にだって彼のように世間や社会へ牙を剥く可能性はある。とても悲しい物語であり、どの国でもどの地域でもどの町にでもニトラムになる可能性はある、そう誰にだってある。この映画を観ることでニトラムのようになる可能性のある誰かがラインを越えずに済む可能性はあるはずだ。表現だから観ることでラインを越える人もいるだろうが、抑止力になる人の数の方が多いと僕は思う。

 

4月3日
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あだち充著『アイドルA』を久しぶりに読む。今月のPLANETSのブロマガでの連載「ユートピアの終焉──あだち充と戦後日本の青春」で取り上げる作品。
グラビアアイドルとして活躍する里美あずさが高校野球の監督である父に頼まれて、瓜二つの幼馴染の平山圭太と入れ替わって高校野球部挑むという内容。まあ、漫画でできないような内容だし、あだち充が好き放題にするとこういうノリの作品になるなあと思わせるものでもある。
幼少期から野球部監督の父親に鍛えられたことであずさの野球の才能と身体能力は高く、甲子園大会の地区予選で準優勝に導くほどの選手となっていた。その間は圭太がずっと女装をしてグラビアアイドルの里見あずさとして振る舞っているという入れ替わりをやっていた。しかし、あずさ(選手としては平山圭太)はプロ野球球団に指名されてプロの野球選手となってしまう。そして、アイドルとしてその球団のマスコットガールにもなった里見あずさが選手として練習や試合に登板するときには圭太がアイドルやマスコットガールをやる羽目になるというドタバタコメディ&野球という漫画である。
不定期掲載であり、最初は休刊した「ヤングサンデー」で掲載されてその後は「ゲッサン」に掲載場所を移している。あだち充作品として実は連載作品でプロ野球を描いている唯一のものとなっている。

今作と同時期に連載の始まった『クロスゲーム』での主人公のコウとヒロインの青葉の関係性とも呼応している作品になっている。青葉は小学生の頃から野球をしており、そのピッチングフォームに憧れて高校から野球を始めるコウのお手本になっていた。
中学高校と野球部に入る青葉だが、女性のため練習試合などには出れるものの、公式戦には出ることができなかった。コウは青葉の姉で小学5年生の時に亡くなってしまった幼馴染の若葉に言われたことで、青葉がやっていた練習メニューをしながら体を鍛えていた。そのことも大きな要因となって甲子園を目指せるピッチャーへと成長していく。
クロスゲーム』の前作ボクシング漫画『KATSU!』でもヒロインの水谷香月はプロボクサーだった父の影響で幼少期からボクシングをしており、並の男性では叶わないボクサーとなっていた。高校からボクシングを始めることになった里山活樹の才能に惚れ込んでいき、香月は自分のボクシングの夢を彼に託すようになっていく。
この流れを『クロスゲーム』でも引き継いでいたが、この『アイドルA』は両二作品のヒロインが男性である主人公に自分の夢を託さないでもプロになったver.でもある。そして、『タッチ』からあだち充作品にはアイドルがたびたび登場していたが、今作ではプロ野球選手とグラビアアイドルの二刀流を「主人公≒ヒロイン」がこなしていく。だが、あずさになりきる圭太に関しても彼女の父や芸能事務所のマネージャーも次第に見分けがつかないほどなっていき、彼の変装の才能というか同化していく才能にも驚かされるという描写もなされている。
確かに「コントの世界」のような設定なのだが、『KATSU!』と『クロスゲーム』があることでこの作品はコメディというよりもその二作品のヒロインたちが叶えたかった夢を叶えるような設定として描かれている部分も興味深い。

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先日トワイライライトでトマス・ピンチョン著『メイスン&ディクスン』上巻を購入したが、トマス・ピンチョン全集は『メイスン&ディクスン』以外の作品は買っているけど、読み始めると脳みそが沸騰するような、解読不明になって結局ほとんどの作品は最後まで読めていない。
ピンチョンによる文学の複雑さと豊穣さに毎度打ち負かされているわけだが、SNSをしている時間があるなら一人の作家をしっかり読もうと思って、まずは一回読んだけど、下巻途中で挫折したピンチョンデビュー作『V.』上巻を再読し始めた。きっとある程度適当に読まないといけないんだよな、ピンチョンは。

古川日出男さんの長さで言えばメガノベル、ウエイトで言えば「重文学」を読み続けてきたことで、僕は以前よりも長くて重い作品を読めるようになっている。前よりもピンチョンの文章が入ってくることに驚いたし、読書もある種筋トレではないが、あるレベルを一定数こなさなければ読めないものもあるし、背伸びすることで読めないものに触れることでやがてそれが読めるようになる道筋を作ることもできることが体感として改めてわかった。
『V.』が執筆されたのは1959年から1962年にかけてらしく、発売は翌年の1963年となっている。約60年前に執筆中だったこのポストモダン文学を、ポストモダンももはやとうの昔に過ぎ去ってしまい、グローバリズムすらも終焉していくかもしれない時代に『V.』を読む。4月から8月末までの小説新人賞の予定とどの作品を応募するのかを再検討したのだけど、その期間中にピンチョン全集13巻読み切りたいが、たぶん無理だろう。せめて今年中にはすべて読み切りたい。

自分がずっと好きで作品にも関わらせてもらったことがある園子温監督からセクハラやパワハラを受けたことある人からの情報を募集していたり、そのことを煽っているアカウントや少しそのことに触れているニュースを見るようになってきた。
いいたいことはあるのだけど、この先どうなっていくのかはわからない。確かにセクハラやパワハラは許されないし、そのことで傷ついている人が当事者へ怒りを向けたりするのはわかる。
SNS において炎上したり、なにかで問題を起こした人には石を外部から投げろと煽る状況はかなり前からツイッターでは見るようになってきたが、正義という名の元に違うタイプの暴力が出現してきてしまう。ひたすらに悪だと、問題があるという人に石を投げたり炎上しているところにつけ火したり、新たな薪をくべることで多くの関係のない人たちが憂さ晴らしがてらしてしまっている部分もあるように感じる部分も正直ある。

ほんとうにいろんな気持ちが混ざる。そんな中、古川日出男さんがゲストに出たラジオをradikoで聴いた。番組のパーソナリティーである武田砂鉄さんとの話の中で今考えているようなことを改めて考えさせてくれる言葉がたくさんあった。
古川さんの新刊『曼陀羅華X』はオウム真理教をモチーフにして書かれた小説なので、そのことをメインに話が展開されていた。テロ事件を起こして死刑囚になった人たちを死刑にした時、それが法的に正しくとも、罪を犯した人が罰をうけるのが法治国家だとしても、ひとが一人その時には死んでいるという事実がある。僕たちがその息の根を止めるボタンを押して殺している側であるということに世間はなんら疑問に思わないし、選挙の当確が出た時のことを真似た報道さえも出てしまった。それが正しいことなのだ、と思えるのか? なんか正しさ故の暴力性のことを考える。国家だけが振るえる暴力があり、それは国民が母体にあり支持しているものだとしても、違和感を持つことしなくなったほうが危険ではないのか。という話がされていた。

オウム真理教の時に、この国のタガが外れ始めたこと、そしてオウムも東日本大震災原発事故も一気に風化していってしまう世界の問題や個人の人生へ与える影響。そういうことも考えないといけない。そのためにある一定時間を使って誰かやある対象について深く向き合うことは大事になってくるのだろうと思ったから、ピンチョンを今年しっかり読むことにした。もちろん、ほかの作家の作品も読みながら。
悪や正義という二項対立や敵や味方という考え方でものごとを考えてしまうと、分断のみが進んでいき対話すらできなくなってしまう。小説も映画も表現というのは答えを出すものではないし、答えを求めるものではない。その表現を見たり聞いたり読んだり感じたりしたことで新しい問いが出てくる。それを自分の人生において、世界や社会において当てはめたりしてその答えを自分なりに思考して探す。そういうものが芸術なはずだし、なんとかこの世界で踏ん張れる力になると僕は思うし、そういうことを古川さんの小説から学んだはずだ。だから、もっと自分の意見や考えだけでなく、ふいに僕に触れた物語の破片や裾のようなものをなんとか掴みたい。その全体像を現して、なんとか形にしたいと前より強く思うようになっている。

武田砂鉄 × 古川日出男【アシタノカレッジ】

 

4月5日
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大好きなギャグ漫画家の増田こうすけさんのコミックス『増田こうすけ劇場 ギャグマンガ日和GB 』6巻&『ギリシャ神話劇場 神々と人々の日々』4巻&『あの頃の増田こうすけ劇場 ギャグマンガ家めざし日和』がなんと3巻同時発売になっていた。
増田さんが漫画家になるまでのエッセイ漫画『あの頃の増田こうすけ劇場 ギャグマンガ家めざし日和』は何箇所も声を出して笑ってしまった。帯に「爆笑」「感動」とあるけど、感動はまったくしなかったけど大爆笑はした。

一日中雨で寒かった。仕事はリモートワークだけど、暖房入れても机に向かって椅子に座って作業をしていると足元がすごく寒いので、毛布を腰から下にかけて床に落ちている部分を巻き込むようにしてそこに足裏を乗せて床に素足がつかないようにして、なんとか寒さから体を凌いでいる。
冬の間ずっとこうしているのだが、まさか春分の日が過ぎてこんなに寒いとか、コロナだとか地震頻発だとか知っている人の名前がニュースに出ていていろいろと考えることもあるし、向き合って本音を言えるような場所や距離感でないと思っていることが言えない世界にどんどんなっているのだなと感じてしまう。クローズな場所で限られた人との間でしか情報は共有されなくなっていくという話を聞いたことがあるが、そうなっていくのだろうなと漠然と思った。

 

4月5日
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第63回メフィスト賞を受賞した潮谷験さんのデビュー作『スイッチ 悪意の実験』を読み始めた。日曜日にジュンク堂書店渋谷店に寄った際に、潮谷さんの3冊目が出ていて、デビュー作から1年で3冊出すというスピードもかつてのメフィスト賞作家たちの量も質も速さもある感じがしたので気になって3冊買って帰った。

夏休み、お金がなくて暇を持て余している大学生達に風変わりなアルバイトが持ちかけられた。スポンサーは売れっ子心理コンサルタント。彼は「純粋な悪」を研究課題にしており、アルバイトは実験の協力だという。集まった大学生達のスマホには、自分達とはなんの関わりもなく幸せに暮らしている家族を破滅させるスイッチのアプリがインストールされる。スイッチ押しても押さなくても1ヵ月後に100万円が手に入り、押すメリットはない。「誰も押すわけがない」皆がそう思っていた。しかし……。(公式サイトより)

悪意とはなにか?という話とミステリーが混ざり合って展開していくようだが、読み始めて100Pちょっとでスイッチが押されてしまうところまできた。この作品で主人公たちがバイトがてら参加した実験における人の悪意についての話と主人公の過去が交差してかなりスリリングであり、先がどんどん読みたくなってくる展開になっている。

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昼過ぎに散歩がてら家を出て駅前に行ったら、知人とばったり会ったのでお茶をしながら、ニュースになっている園子温監督のことで話をした。知人も園作品に関わっていたことがあり、だからこそ、というか自分たちが見たり聞いたりしていたこととニュースやSNSなどで流れてくるものの「差」というもの、また、僕らの距離感ではわからない事柄もあるのだけど、このことについて話せる人が周りにいないのでいいタイミングでお茶をすることができて、気持ち的にもすごく助かった。

飲みの席などで園監督が言っていた下ネタのようなものは確かにスルーしている部分もあったから、そのことを聞いて嫌な気持ちになった人はいたのだと思う。それに関しては僕たち同じ場所にいた人たちもそれがセクハラとの認識がなかったし、そういうことを言ってもいい空間にしていたことは申し訳なかったです、としか言いようがない。
女性に対しての性加害の報道に関しては、正直わからない。「やらしてくれるなら映画に出してやるよ」と言っている場面を見たこともないし、十何人とかでアトリエで飲んだりしている時に下ネタは言っていてもそんな話は出ていないと思う、聞いた記憶がない(僕がただ聞いていないだけなのか、そういうことがその場で言われていたかわからない)。女性に対してだらしないなあということと今回の性加害の問題はまるっきり違うから混乱する。

僕のようなファンがアトリエや家での飲み会にも呼んでもらったり、イベント後の打ち上げに参加する機会があったように、男女問わず役者志望の人、映画業界に入りたい人、演劇や音楽や美術といった映画以外のジャンルの人など様々な人たちが園監督の周りには集まっていたし、どっちかというと来るもの拒まずみたいなところもあった。
ファンとして近づきたい人も、なんかおもしろそうだからという人も、映画に出るチャンスを得たい人もなにかで一緒に仕事をしたいと思っている人もいろんな思惑がそれぞれにあった。園監督周りで人間関係を把握している人はおそらくいないんじゃないだろうか、園監督自身も誰が誰だか把握してないところがたぶんあると思う。

少人数で飲んでいる時はだいたい園さんが好きな映画とか都市伝説みたいな話を聞いていただけだった。好きな詩人とか影響を受けた作品の話をしている時はうれしそうだったし、あの空間はとても好きだった。
園監督は17歳の時には「ジーパンをはいた朔太郎」と称されていた詩人だったこともあって、詩集『悪の花』を書いたボードレールなどフランスの詩人たちの影響もかなりあったはずだ。その部分がエロスとタナトスという人間にとって生に欠かせないものであり、園監督の表現にも出ていたと思う。フランスの詩人って現代なら完全にアウトな人も多いのも事実だけど。
もし、報道に出ているような性加害のようなことがあったとして、飲み会が終わったあとで個人的に女性とやりとりをしているのであれば、知りようがないから聞かれてもわからないとしか答えようがない。

園監督を中心にした同心円状があって、監督との関係性や距離感によって関わっているスタッフや関係者それぞれが広がっていく円のどこかに位置している。だから、それぞれの人が見たり聞いたり知っていることのグラデーションがあって、その濃淡は位置や関係性によって違う。だけど、違うことと知らなかったことは同じではないし、世間から見れば知らなかったことにはならないのだろうというのもわかる。
園監督の近くにいたスタッフや関係者や、作品に触れて衝撃を受けた僕のような近いところにいたファンは、何を言っても擁護しているように見えてしまうだろうし、今のこの感じをどう言ったらいいのかわからない。

急に世間から石を投げてもいいよみたいな対象に園監督がなってしまい、ある種の正義感とそれが引き起こす憎悪と嫌悪と悪意が一緒くたになって飛び交っている光景を見せられても、自分の中での園監督への感情とそれらを見た感情が入り混ざってただただ複雑な気持ちになっていく。自分の感情や想いを言葉にする以前に見なければいいけど流れていくタイムラインやネットでのニュースが心をざわつかせる。
僕自身が出来事の加害者ではなくとも、当事者ではなくとも、加害者として批判をされている園監督と一緒に過ごした時間や思い出があり、その関係性から広がった事柄もある。
園監督にはまず今回の報道で出ている事柄に関して被害を訴えている人や声を上げている人たちに誠意を持って対応してもらうしかない。それしか僕には言えない。まずそれをしない限りは、その先の話に進めないと思う。

 

4月6日

朝起きたら園監督が直筆コメントを発表しているというニュースが出ていた。このコメントを読む限りは声を出している人や被害者の人に対して残念ながら謝罪はなかった。
事実と異なる点が多く、と書かれているのでそこが引っかかっているのだとすると、表に出て園監督自身が直接答えるしかないのだろうか。
また、現時点では被害者の声だけであり、加害者とされる園監督の言い分などを聞こうという声はあまりない。こういう問題では二次加害が起きてしまうから被害を訴えている人たちは名前や顔は出せないだろうが、そうなると本当に被害を訴えていたり、声を挙げている人たちではなく、今回の騒動を面白がって虚偽の情報を言う人もいるだろうし、もしかしたら園監督ではないほかの映画業界の人にされたことを園監督にされたことにしてしまう人がいても、それが本当のこととして通ってしまう可能性もある。
やはり園監督側の言い分であったり、釈明などの機会を作った上で判断をしてもらうということは必要なのではないか、と思う。出たら出たでまた炎上というかSNSで罵詈雑言が溢れかえるだろうし、どうしたらいいんだろう。

リモートワーク中はradikoでラジオを聞いていて、水曜日は火曜深夜に放送された番組を流している。TBSラジオの『アルコ&ピース D.C.GARAGE』『JUNK 爆笑問題カウボーイ』、ニッポン放送緑黄色社会・長屋晴子のオールナイトニッポンクロス』『星野源オールナイトニッポン』『ぺこぱのオールナイトニッポンゼロ』という流れだった。

園監督の報道について触れていた、がっつり話をしていたのは『JUNK 爆笑問題カウボーイ』の太田さんで、園監督についてオープニングから怒りながら批判していた。
太田さんが園監督に対して、作品に出ていた女優さんのこと、そして映画のことについて話をしていたことも胸に響いたが、同時に太田さん自身がビートたけし立川談志太宰治三島由紀夫たちに受けた影響と作品に罪があるという話から「芸術は罪です。罪だからこそ意義がある」と話を展開していた。
太田さんの持論でもあるが、表現というのものは人の人生を容易に変えてしまうものでもある。だからこそ、という太田さんの話であり、この部分まで含んで多くの人に聞いてもらいたい内容だった。
芸術は生きるために必要な罪であり、毒である。だが、その作り手が法や常識から逸脱してしまうことがもはや許されない時代になっている。今ちょうど読んでいるニック・ランド著『絶滅への渇望 : ジョルジュ・バタイユと伝染性ニヒリズム』の中でバイタユが論じたマルキ・ド・サドについての章だったので、頭の中がぐるんぐるんと回ってしまった。

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仕事の休憩中に書店で本日発売になった佐久間宣行著『ずるい仕事術』を購入する。『佐久間宣行のオールナイトニッポンゼロ』リスナーなので課金の思いも含めて、発売したら買おうと思っていた。しかし、結局、この日も仕事終わっても本を読む気にはなれずにページは開けなかった。
オールナイトニッポン」の配信もされたイベントの中で、佐久間さんが語っていたかつて大学生時代に浅草キッドと出会ったという話が水道橋博士さんのYouTubeで改めて語られていた。

 

4月7日
忘れるな。オウム真理教による無差別テロという忌むべき“物語”に立ち向かう小説『曼陀羅華X』(豊崎由美

豊崎さんの的確でありつつ今の時代に起きていることと書籍を重ねる、繋がっているんだよとわからせてくれる書評であり、『曼陀羅華X』へ興味を持ってもらえそうなレビューだった。
オウム真理教はテロを起こして国家転覆を謀り、終末を自らの手で起こそうとした集団なわけだが、オウム真理教に入信したことで知らない間に上の人間たちの判断によって、テロが起こされたことで加害者の側になって人たちも少なからずいるだろう。今はとてもその人たちがどうなっているのかが気になる。
村上春樹著『アンダーグラウンド』は2020年の夏に『ゼロエフ』の取材(福島県の6号線を踏破する)に同行するための準備のひとつとして読んだ作品だが、地下鉄サリン事件の被害に遭った方々のインタビューだった。続編でもあるオウム信者へのインタビュー集である『約束された場所で アンダーグラウンド2』も併せて読んでいたが、今一度僕は読み返さなければならないのかもしれない。

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15時30分から東映本社の試写室で辻村深月原作・吉野耕平監督『ハケンアニメ!』の試写にお声がけしてもらっていたので、運動がてら家から銀座まで約二時間ほど歩いていった。
青山一丁目辺りの青山墓地近く(国立新美術館手前)でヘリコプターが頭上を飛んでいった。前も飛んでいったのを見たことがあるが、どこに向かっているヘリコプターなのだろうか、そのまま赤坂を抜けて日比谷公園を横切って銀座へ。日比谷公園の花壇の花が色とりどりに綺麗に咲いていて、多くの人が撮影をしていたので、立ち止まって撮ってみた。


コロナになる前に何の映画は忘れたが試写で来たこともある東映本社の試写室にかなり久しぶりにやってきた。ここは働いている社員さんたちがいるフロアをふつうに横切っていくという珍しい場所。

直木賞作家・辻村深月がアニメ業界で奮闘する人々の姿を描いた小説「ハケンアニメ!」を映画化。地方公務員からアニメ業界に飛び込んだ新人監督・斎藤瞳は、デビュー作で憧れの天才監督・王子千晴と業界の覇権をかけて争うことに。王子は過去にメガヒット作品を生み出したものの、その過剰なほどのこだわりとわがままぶりが災いして降板が続いていた。プロデューサーの有科香屋子は、そんな王子を8年ぶりに監督復帰させるため大勝負に出る。一方、瞳はクセ者プロデューサーの行城理や個性的な仲間たちとともに、アニメ界の頂点を目指して奮闘するが……。新人監督・瞳を吉岡里帆、天才監督・王子を中村倫也が演じ、柄本佑尾野真千子が共演。「水曜日が消えた」の吉野耕平が監督を務め、劇中に登場するアニメは「テルマエ・ロマエ」の谷東監督や「ONE PIECE STAMPEDE」の大塚隆史監督ら実際に一線で活躍するクリエイター陣が手がけた。(映画.comより)

主人公の新人アニメ監督である斉藤瞳吉岡里帆)はかつて影響を受けて、自分の目標にしていた天才アニメ監督と呼ばれている王子千晴監督(中村倫也)と同じクールの土曜17時に違う局でアニメ番組を制作することになる。王子監督に勝ってアニメ業界の「覇権」を取ると一緒に出席したアニメフェスティバルの対談で宣言する。
アニメ業界を舞台にしたお仕事映画であるが、監督だけでなく、それぞれの作品のプロデューサーや宣伝や制作デスク、編集に作画監督美術監督色彩設計に脚本に制作進行、そして一緒にアニメを作るために仕事を依頼している会社の原画担当など、そして声優と多様な人々が登場する。それぞれの仕事と立場と関係性があり、ひとつの作品を作り上げるために協力をするわけだが、もちろん一筋縄ではいかない。

斉藤監督とプロデューサーの行城(柄本佑)、王子監督とプロデューサーの有科(尾野真千子)というそれぞれの監督とプロデューサーの関係性も見どころであり、この作品は限りなくお仕事映画になっているため、無駄な恋愛要素がほぼなく、そのおかげで非常に見やすいというかわかりやすいものとなっている。
あるとすれば、原画担当の並澤(小野花梨)と市役所観光課の宗森(工藤阿須加)が聖地巡礼企画で何度か一緒にいるうちにというのがなくはないが、ときおり真剣さを際立たせるためにコミカルな雰囲気が入るのだがその役割を担っているようにも見えた。
作品自体はアニメ業界を舞台にしたものだが、基本的にはスポ根的な構造なので非常にわかりやすく、観る人もさきほど書いたように多様な役職があるので、自分を誰かに投影しやすいので感情移入はしやすいものになっている。

主人公の斉藤瞳を演じているのは吉岡里帆だが、今作では行城プロデューサーに当初は作品作り以外のことに駆り出されて不満が大きくなっていく。宣伝も兼ねたファッション誌などの取材でおしゃれな感じにスタイリングしてもらって写真を撮ってもらう時にも「嫌だ」と彼女は不満をもらす。行城には作品を届けるためには何でもやって認知してもらおうというタイプであり、彼女は作品に集中させてくれと嫌がっているシーンも出てくる。彼は「ちょっとはかわいいんだから」とそれを利用しない理由がないという姿勢を通す。
実際に演じているのが吉岡里帆なので、どう見ても顔が整っていてパッと見で美人なので「ちょっとかわいい」レベルではないという逆ファンタジーが起きてしまっているが、創作をしている人で表に出たくない人は男女関わらずいるのも事実だ。
雑誌やメディアに出たら出たでビジュアルに関しての悪口を言われたりSNSで書かれたり、変な客(ストーカーまがいのことをするようなやつ)がついてしまうというデメリットも確かにある。だが、作品を届けるためにはそれをしないと届かない場所や人も確かにいるというのも事実だ。この辺りの問題もしっかり描いているのもリアリティがある。
吉岡里帆さんは好きな女優さんだが、映画に関してはこの作品という印象が今までなく、この作品での斉藤監督は多くの人から共感され、彼女の代表作になっていくのではないかなと思った。もちろん、彼女の存在感が出てくるためにはライバルとしての天才・王子監督を演じる中村倫也さんの存在感や天才っぽさやその実力と振る舞いがあるからこそだし、同時にそれぞれの監督とタッグを組む両プロデューサーを演じたふたりもとてもいい。

個人的なことで言えば、両監督と両プロデューサーの関係性を見ていて、おそらく試写に来ていた他の人とは違う理由で泣いてしまった。文春砲をくらってる園監督の右腕といわれている梅川治男って誰だよ、今まで名前すら知らなかったよ。
前々日に書いたけど「監督を中心に同心円状のグラデーションで監督との関係性や距離感によって関わっているスタッフや関係者それぞれが広がっていく円のどこかにいる。だから、それぞれの人が見たり聞いたり知っていることのグラデーションがあって、その濃淡は位置によって違う」んだけど、僕はノベライズを書くことになったのも脚本を手伝うことになったのも園監督から直接ラインが送られてきてやることになったし、手伝うことになったその二作品のプロデューサー以外とは関わりもないから、もう関係性とか人物相関図がどうなってるのかわからない。『ハケンアニメ!』を観て、ほんとうにこういう関係性で映画やドラマを作っていてくれたらよかったのに、としか思えなかった。

作中で両陣営が作るアニメ作品が登場するが、実際に王子監督が天才と呼ばれる所以を表現するためのアニメ作品『運命戦線リデルライト』を最初にお披露目するシーンでのアニメシーンはほんとうに鳥肌が立ってしまった。ここでしっかりと観客に彼が口だけではない天才だという印象づけができているので、この作品におけるリアリティラインが確保されて観る人に真実味を強く与えることができるものとなっていると思う。
僕はあまり多くはアニメを見ないので、もしかするとアニメ好きな人は違う反応かもしれない。そうだった場合はそこでの天才性を植え付けられるかどうかは変わってしまうかもしれないが、僕にはしっかりすごい作品を作る人だと感じさせてくれるアニメ動画だった。どちらの作品もそこを本気でプロのアニメ制作の人たちが手がけているので、出来栄えが素晴らしい。
働いている人は自分の立場と近い人を見つけて共感するだろうし、物作りのためのチームものとしてもたのしめる。かなり多くの観客に届く、素晴らしい作品だと思うのでヒットすると思う。

 

4月8日
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昼休憩で駅前の銀行に行った帰りにトワイライライトに寄って、今読んでいる『庭』の著者である小山田浩子さんの他の文庫『穴』を購入、一緒にコーヒーも頼んで一服する。解説とかあとがきから読む派です。できるだけ文庫版には解説やあとがきを入れてほしい派でもある。

一日中、朝9時から夜の22時までリモートワーク。肩と目が異様に凝った。深夜の2時前になっても眠れないので、ゴダイゴ『新創世記』をノートパソコンから流していたら落ちてた。最近のスリープミュージック。

 

4月9日
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このところ6冊ぐらいの書籍を同時並行で読み進めている。その中の一冊が散歩で行った代官山蔦屋書店の写真集などがあるコーナーで展開されていた、編集者でもある菅付雅信著『不易と流行の間 ファッションが示す時代精神の読み方』で、ちょっとずつ読んでいる。
もともとファッション業界誌で週刊誌である『WWD JAPAN』に連載していたものがまとまったものであり、連載中が全世界を襲ったコロナパンデミックだったので、ファッション業界とコロナ、そしてブランドや価値観や市場やサステナブル問題などの変化や新しい試みなどが取り上げられている。

ちょうど「13 政治がファッションになる時」までを読んでページを閉じようと思ったら、次は「14」ではなく、「対談1 ファッションは果敢に変わりながら、大事なものを守る」という著者の菅付さんと『WWD JAPAN』編集長の村上要さんの対談があったのでそこまで読んで今日のところは閉じようと読んでみた。
一神教ではない日本は、高み(ビルやピラミッドのようなもの)ではなく奥深さに価値を見出す(神社とか)強みを出していく方がいい(オタク的な価値観と通じているのかもしれない)という話もおもしろかった。ほかにもこんな部分は興味深かった。

M(注:村上要):そうですね。ことジェンダーの問題に関していうと、セクシャルマイノリティが発信側に立っているケースが多い業界だから、という理由もあると思うんですよ。だからすごくセンシティヴだし、敏感なところがある。ただしLGBTQ的なものに対しては早くから敏感だったけれど、人種や体型の問題に関して結構初歩的なところでつまづいて、炎上もしてきました。
 最近では「女性性」をどう表現するかがテーマになっています。22年春夏シーズンではもう一度曲線美を謳うというか、ボディコンシャスなスタイルが復活しました。ミュウミュウでは「オッパイ、半分見えてます」くらいの洋服が登場したり、2000年くらいのパリス・ヒルトンやブリトニースピアーズ再びみたいなスタイルがガンガン出ているんです。そういうクリエイションをした人たちに話を聞き、やっぱり「女らしさ」を謳歌したい人の存在を再認識しました。ジェンダーレスという志向は、もしかしたらそういう人たちをないがしろにしてきたんじゃないか、傷つけていたんじゃないかと反省さえしています。だからってジェンダーレスを全然否定するつもりもないんです。と同時に「男に媚びるためのセクシー」も別に否定しなくてもよくない? みたいな気持ち。双方があっていいし、そういうクリエイションがすぐさま出てきたのは、ファッションのレセプト(受容)能力をすごく発揮していると思ったんです。
その発信とレセプトの関係性が、ことジェンダーの問題に関しては高まっていて面白いと感じるのは、自分自身もセクシャルマイノリティだからかもしれないですね。

S(注:菅付雅信):ファッションは変化が激しいから、現場にいると目先の変化に右往左往しちゃうのかもしれませんね。でも大事なのは、変化しながらも、姿勢や精神は変えないことだと思うんですよね。見た目は変化しながらも、精神や哲学は変わらないブランドになっていくというか、変わらないメッセンジャーになっていくこと。そこを日本のファッション業界は見失いがちだと思うんです。
M:見失いがちですね。本当にそう思います。
S:欧米の強いファッションブランドは、まず変わらないものをしっかり決めて、あとは変えている気がします。「見た目はガンガン変えるけど、ブランドのスピリッツは変えないぞ」みたいな。そこが日本のブランドは全体的に弱い。強いのはコム デ ギャルソンとかイッセイミヤケのような、カリスマ・デザイナーの元でパリコレで戦っている人たちと、ユニクロのようなカリスマ経営者がいるところですよね。両方に共通するのは、世界で戦えているブランド。世界で戦うには、変わらない強いスピリットが必要です。でも日本の多くのブランドは、けっこう市場に合わせてドタバタしちゃう。

この書籍はファッション業界のことについて書かれているが、僕のようにファッション業界と関係なかったり、あまりファッションに関心がなかったりする、外部の人が読んでもおもしろいと思うし、他のジャンルや業界でも重なる部分がたくさんあると気づけるものになっている。

「第63回メフィスト賞」受賞作である潮谷験著『スイッチ 悪意の実験』を読了。かつては「恋愛ドラマ」の王道であった「月9」枠で放送された『ミステリという勿れ』がヒットし、4月から6月クールは『元彼の遺言状』が放送される。この二作品はミステリードラマであることも話題になっているが、この『スイッチ 悪意の実験』はこの「月9」枠でこの流れでいけばドラマの原作候補になっていたり、候補になりえる可能性があるのではないか、と思った。
映像化にかなり向いている(画の想像がかなりできた)内容であり、映画二時間というよりは連続ドラマでやるとかなりおもしろいものになるだろう。もちろんミステリーなので謎解きであるものの、いくつかの要素が重なっているし、登場人物もどんどん死んでいくというわけでもないから、主要人物はほとんど退場しない。
キーワードである「悪意」がどう展開し、物語と謎解きに関係していくのか、というのもかなりの見どころになりそう。と言っても単純にミステリーとしておもしろく、メフィスト賞受賞作らしく一筋縄ではいかない感じも好感が持てるし、もっと評価されていくんじゃないだろうか。
メフィスト賞応募時のタイトルは『スイッチ』だったようだが、刊行される際にサブタイトル的な『悪意の実験』が追加されている。このサブタイトルも実は読み手をミスリードというか、ある種の思い込みをさせる効用もある。サブタイトルはおそらく編集者が提案したのだろう。講談社文芸第三出版部の編集者ならたぶんこういう提案をして作品をさらに上に押し上げるんじゃないかな。
このサブタイトルによって、後半からの謎解きの際に「悪意」という単語にうまいことやられてしまったとわかってくる。潮谷験さんの二作目と三作目は一緒に購入していたので、そちらを読むがさらに楽しみになった。

 

4月10日
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水曜日のダウンタウン』の演出を手がける藤井健太郎さんとBISHなどが所属する「WACK代表取締役&音楽プロデューサーの渡辺淳之介さんの対談集『悪企のすゝめ 大人を煙に巻く仕事術』を買って読み始めたら最後まで一気に読んでしまった。
先日購入して読み終わっていた佐久間宣行著『ずるい仕事術』もそうだが、ヒットを出している人たちのアウトプットだけでなく、インプットや仕事に対しての考えやどう行動したのかが気になっている人が多いということだろう。
『ずるい仕事術』は新社会人の人だけでなく、部下を持つ上司の立場になったりした人など、さまざまな人へのアドバイスがあるので多くの人にとってタメになるし、実践的なアドバイスが参考になると思う。仕事をする上で知っておきたい心構えとかいかに自分がやりたいことをするためになにをしておくかが分かりやすく書かれていた。
佐久間さんが今の存在感をTV業界だけではなく、他ジャンルの人からも注目されるようになった背景には、細かい気配りなどの部分も含めてしっかりと先を見据えて行動をしていたこと、人とどう付き合ってやりとりをしたほうがいいかを考えていたからなんだと思う。

僕個人はビジネス書とか自己啓発書をたくさん読むほうではないが、佐久間さんのラジオのリスナーで番組のファンであり、藤井さんの手がけている『水曜日のダウンタウン』『クイズ☆正解は一年後』をたのしんでいるので読んでみようと思った。
WACK」所属のアイドルにはあまり詳しくないが、『水曜日のダウンタウン』でクロちゃん×アイドルオーディション企画「モンスターアイドル」はとてもおもしろかったし、BISHのブレイクぶりも知ってはいるので渡辺さんがどんな人かも気になっていた。
『ずるい仕事術』と『悪企のすゝめ 大人を煙に巻く仕事術』は一緒に読むことで自分に合うものや会社や組織の中でどう動いた方が自分のやりたいことができるか、がわかるんじゃないだろうか、別に対照的な裏表という感じではなく繋がっている書籍だと思う。このところ個人的にも考えることがあるので、こういう働き方に関する本の方が実は読みやすかったりする。その中で気になったのは下記の部分だった。

渡辺 「ネガティブ反応が出ちゃうかな」って思ったときの、それでも出す、出さないの判断の軸ってどこにあります?
藤井 最後は、自分の中のバランス感覚頼りになりますよね。でも、おもしろさが突き抜けてたら気にならなくなったりするんですよ。あまりおもしろくないから悪いところが目立つっていうか(笑)
渡辺 テレビはより一層だと思うんですけど、「否」に対してのアレルギーってすごいじゃないですか。「それって、どうにかならないのかなあ」って。
藤井 「10件クレームが来たら大ごと」みたいなね。たまに、「芸人たちをつらい目にあわせてる」って、批判をされることもあるけど、それはお互いある種の「大きな合意」のもとでやっているわけで。そういうクレームを1個ずつ受け止めていると、クロちゃんとかは、食い扶持がなくなっちゃう(笑)。
渡辺 クロちゃんの生活が(笑)。
藤井 ただ、クロちゃんって不思議で、いじめられる側に立っても苦情が来ないのに、「モンスターアイドル」のときみたいに、クロちゃんが強者の立場になると、苦情が殺到するんです(笑)。そこには、外見に対する差別的なものもあるだろうし、「あのクロちゃんが偉そうにするなんて許せない」っていう、潜在的に下に見てる感じもある。だから、クレームを入れる人のほうがひどいってこともありますよね。
渡辺 全体的な傾向として、抗議が来るとみんな日和っちゃいますよね。僕の場合も、コロナ禍でライブをやるときに「なんでやるんだ!」って言われると、ズシンとくるんですよ。「こっちはガイドラインに従ってやっているんだけどな」って。「ライブに行くのが生きがいです」と言ってくれる人がいても、「なんでやるんですか!」みたいな、少人数だけどマイナスの声のほうが大きく聞こえちゃって。
藤井 テレビ局でも、ポジティブな意見ってわざわざメールをしてこないですからね。
渡辺 たしかに、「あー、おもしろかった!!」で終わりですもんね(笑)。
藤井 昔は、抗議電話がかかってくると、そのしゃべり方だったりで、あきらかに普通じゃないから「この人の話は聞く必要がないな」ってわかったんですよね。この前も珍しくクレームがハガキで来たんですけど、めちゃくちゃ細かい文字がびっしりで「絶対こんなの見る必要がない手紙」というか(笑)。それと一緒で、ツイッターで文句を言ってくる人も、前後の投稿まで見にいけば、そりゃお金配りもリツイートしてるし(笑)、「この人の意見は聞く必要がないな」ってわかるんですけど、1つの投稿だけで見ると、画一化されたフォーマットの中では一見まともなことが書いているかのように見えちゃうんですよね。

この部分は園監督の問題で僕が感じていることにもちょっと通じていた。例えば、今回の件では普通にがんばっている人が可哀想という意見を見た(もちろん合意がないのは論外で性加害と言われたら、そうでしかない)。だが、そういう風に考えている人がもしお金配りツイートをリツイートしていたら、僕はその人の言うことについて、というか言っている人には藤井さんと同様な気持ちになるだろうなと思った。

お金配りおじさんは完全な勝ち組で、ネオリベ側で財を成した人だ。ゼロ年代以降に自己責任という名のせいでいろんなことが崩壊していったわけだが、その中で手段を選ばずに金を稼いでる人が勝ち(正義)的な価値観が強くなっていった。
貧しかったり、生活が困窮している人はその人のせいだ(努力をしていない怠け者みたいなニュアンス)ということになっていってしまった。プラスで言えばそこには正社員になれなかったロスジェネ世代と呼ばれた僕ら、もはや中年にも下の世代からそれに似たような視線は向けられている。そういう人たちを救ったり手を差し伸べるが公共の福祉であるはずなのに、それが断ち切られたりして、公助しないといけないのに自助でやってくれということを政府が言い出して、さらに家族や個人に責任や対応を押しやっているのが現実だ。
つまり、何をしても勝てばいいみたいな価値観が強くなった時代に、その代表格みたいな人がやっている下品な金配りツイートをリツイートするのはその価値観の軍門に下ったようなものなのだから、手段に関して文句は言えないのではないかと思ってしまう部分もある。

今回の件で言えば、報道されているように双方の合意がなかったり、何も知らないで誰かに飲み会などに連れて行かれて置き去りにされてそこで関係を強要されたのであれば、もちろんそのことに関して擁護のしようはない。
しかし、同時に「使えるものは使う」ということが今どのようなこととして捉えられているのかとも考えたりする。金持ちだったり文化的に豊かな家だったり、そういう「持っている人」がそれを活かすことは問題がないし、問題とはされていない(アメリカであれば、富裕層は寄付をしたりボランティア活動など社会的な貢献をするのが一般的であり、「ノブレス・オブリージュ」と呼ばれるものがある)。もしかしたら本人が気づいていないところで優遇されている場合もあるだろう。そういうものがない人間は夢や希望を叶えるため、近づくためにいろんなことをする。体を使おうが何をしてものし上がるチャンスを得ようとする人だっている。

だが、いわゆる枕営業みたいものに関しては俳優(男女性別問わず)が監督やプロデューサーなどの作品を作る上で決定権などを持っている人に近づいて、そういうことをしようとしたら、それを言われた人たちは断固として断らないといけないし、枕営業をして売れると後ろめたさやずっと隠さないといけないことができるからしないほうがいいときちんと伝えないといけない。
人は何かを隠し続けるとそれが心の奥底に澱のように溜まって行ってしまう。それはやっぱりいつか爆発したり、精神的ことだけでなく心身一体だから身体にも不調が出てきしまうのだと思う。もちろん、パワーバランスが上の人は枕営業みたいなものを強要するのもダメだし絶対にやってはいけない。昔はあったかもしれないが現在においてはもうありえないということしっかり認識するしかない。

映画や映像業界で言えば、たぶん俳優部や撮影部とかでそれぞれに労働組合とかみたいなもの作るか、組合まで行かなくても第三者機関に問題が起きた時に言えるような仕組みを作る。また同時に講習みたいなものを大手の映画会社主導でやっていくしかないのだろう。
僕がスタッフをしているウェブサイトの親会社は1月から株式譲渡で変わったが、前の親会社はIT系の大手だったので毎月コンプライアンス講習みたいなものが行われていた。ウェブで資料を読んで質問に答えて合格点になるまでやっていくというものだが、ハラスメントだけでなく個人情報の取り扱いや情報セキュリティや下請法や著作権などについてのものがあった。これは大手だとコンプライアンス違反によるリスクマネジメントという側面がかなり強いし、企業として社会的に信頼を得ることで会社の価値をさらに上げるというものだった。
こういうことは大手がまず率先してやっていくしかない、そうすれば下請けの会社とかにも広がっていくし、下請けの会社の人やフリーランスの人が大手や仕事を発注している会社の人間から横暴なことやコンプライアンス的にアウトなことをされた場合に泣き寝入りせずにすむようになる。映画撮影前に講習をするとかを撮影の条件にするとかして変えていくしかないと思う。

今はできるだけSNSは見ないようにしているけどたまに見てしまう。特にツイッターは共感と悪意を増幅させて拡散させていく装置なんだなと改めて思う。
正しいことをツイートしている人がいる、指摘している人がいる。そこに群がって標的に石を投げていいと思った人たちは悪意と憎悪をこの機会に、というぐらいにぶつけている。正しいことをしようとしているのに、なぜそこに加担する人たちが書いている言葉が罵詈雑言や誹謗中傷などの汚いものが多いのか、もちろん対象に向けての生理的な嫌悪感などもあるのだろうが、それにしてもそういうことは本質を歪めてしまうと思うのだけど。嫌悪だけでなく、妬みや嫉みであったり、今まで調子に乗っていたから気に食わないみたいな感じもあるのだろう。そういう人たちを見ると虎の威を借る狐ならぬ、正義の威を借る何だろう、偽善者でもないし小悪党でもないし、なんにせよ「地獄への道は善意で舗装されている」という言葉を思い出す。
今なら叩いていい、そういう感じがTHE村社会的な日本ぽさ全開で、個人の尊厳とか権利がなんだかんだ蔑ろにされてきたことに通じているんだろう。それって結局のところセクハラやパワハラに繋がっているとも思うし。個人の自由や尊厳や権利を守ろうとする国は文化を大事にするけど、日本はそうじゃない。

あとツイッターだけではないがSNSによって「書かされてしまう」問題もあるのだろう。その辺りのことは大塚英志さんの『大政翼賛会のメディアミックス 「翼賛一家」と参加するファシズム』『「暮し」のファシズム 戦争は「新しい生活様式」の顔をしてやってきた』『大東亜共栄圏のクールジャパン 「協働」する文化工作』がもっと読まれるといいのに。このシステムによって思っていないことや条件反射的に「書かされてしまっている」ことはないのか、少しは疑問は持った方がいいと大塚さんなら言うのだろうなと思った。

STUTS & 松たか子 with 3exes - Presence Remix feat. T-Pablow, Daichi Yamamoto, NENE, BIM, KID FRESINO(なぜこの曲かっていうのは『大豆田とわ子と三人の元夫』のエンディング曲を藤井健太郎さんがプロデュースしているから)

 

4月11日
清純派女優・夏帆が不信感を抱いた園子温監督の〝困惑演出〟 出演ドラマは黒歴史

Yahoo!を見ていたら目に入ってきたニュース。東スポの記事だが、夏帆さんがドラマ『みんな!エスパーだよ!』に出演したものの下着露出や性的なセリフがあったため、映画版のオファーを受けなかったと書かれている。
これを読んで思ったのが、夏帆さんが映画版に出ていないのはスケジュール的に無理だったという話を聞いたことがあるし、2015年公開の『映画 みんな!エスパーだよ!』には出演していないが、2017年に配信された園子温総監督Amazonプライムドラマ『東京ヴァンパイアホテル』では主役のKを演じている。
確かに現在の状況では夏帆さんにとって園監督作品に出たことは黒歴史にしたいとしても、この記事とタイトルは明らかにミスリードしている部分がある。
ドラマ版『みんな!エスパーだよ!』のあとに『東京ヴァンパイアホテル』に出演したことを知った上で省いているのか、調べもせずに書いているか。おそらく調べればすぐにわかることなので、この記事タイトルにするためにそのあとにもドラマに出演していることをわざと書かなかったではないだろうか。
せめて、こうやってネタにするなら、写真集が発売になったのだから、そのこととかに触れてあげるとかしてあげればと思うけど、でも、黒歴史とか書いている記事だから宣伝しても逆効果になってしまうのか。

夏帆が写真集に詰め込んだ、20代最後の2年間 「自分自身も世の中も、目まぐるしく変化した濃密な時間でした」

この写真集はカメラマンの石田真澄さんのツイッターやインスタグラムでどんな写真が撮られているか紹介されていて見ていて、すごくいいなと思っていた。
いろんな媒体でインタビューを受けているのも、届けたいという気持ちが強いんだなと感じさせられる。
夏帆さんは山下敦弘監督『天然コケッコー』は素晴らしかったし、『ブルーアワーにぶっ飛ばす』も『RED』もよかったけど、個人的には黒沢清監督『予兆 散歩する侵略者』がとてもよかったので何回も観ている好きな女優さん。

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大塚英志原作×山崎峰水漫画『くだんのピストル』を読む。このコンビでの『黒鷺死体宅配便』のスピンオフ的な作品かと思ったらどうやら違うらしい。表紙のピストルを持っている人だけど顔が犬な人物は坂本龍馬です。この漫画は主人公のくだんとごく一部の登場人物を除いて、犬とか馬とか動物の顔になっている。
幕末における黒船来襲、そして幕府の終わりと近代化の波がやってくる明治までを駆け抜けた人物たちを描いていくものになるみたい。
明治維新とはなんだったのか? そもそも近代化したはずの日本のこの状況とは? みたいなことで大塚さんはこの激動の時代を舞台にして漫画をやらないといけないんだろうなって感じて、山崎さんと組んで、ちょっとだけ見覚えのあるキャラクターを手塚治虫スターシステム的に転用していく形で今までの読者に興味を持たせながら、物語ろうとしているんだろうなと昔からの読者としては思う。

 

4月12日
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昼前に歩いて渋谷まで行って、パルコ渋谷にあるホワイトシネクイントでケネス・ブラナー監督『ベルファスト』を鑑賞。先日発表になったアカデミー賞脚本賞を受賞した作品。
劇場横には4月22日から公開のマイク・ミルズ監督『カモン カモン』のポスターが掲示されていた。偶然だが、『ベルファスト』もモノクロであり、『カモン カモン』と同日公開のジャック・オディアール監督『パリ13区』も予告を見ると同じくモノクロみたいだったの、そういう流れが来ているのかもしれない。
モノクロのほうがより美しさが際立つみたいな部分もあるだろうし、今作『ベルファスト』のように1969年という過去を舞台にした作品はモノクロのほうが味わいとノスタルジーもさらに増す。

俳優・監督・舞台演出家として世界的に活躍するケネス・ブラナーが、自身の幼少期の体験を投影して描いた自伝的作品。ブラナーの出身地である北アイルランドベルファストを舞台に、激動の時代に翻弄されるベルファストの様子や、困難の中で大人になっていく少年の成長などを、力強いモノクロの映像でつづった。ベルファストで生まれ育った9歳の少年バディは、家族と友達に囲まれ、映画や音楽を楽しみ、充実した毎日を過ごしていた。笑顔と愛に包まれた日常はバディにとって完璧な世界だった。しかし、1969年8月15日、プロテスタント武装集団がカトリック住民への攻撃を始め、穏やかだったバディの世界は突如として悪夢へと変わってしまう。住民すべてが顔なじみで、ひとつの家族のようだったベルファストは、この日を境に分断され、暴力と隣り合わせの日々の中で、バディと家族たちも故郷を離れるか否かの決断を迫られる。アカデミー賞の前哨戦として名高い第46回トロント国際映画祭で最高賞の観客賞を受賞。第94回アカデミー賞でも作品賞、監督賞ほか計7部門にノミネートされ、脚本賞を受賞した。(映画.comより)

ベルファスト』歴史背景

この作品は予告編もよくて気になっていたが、まずタイトルでもあり物語の舞台になっている「ベルファスト」に僕自身が一度行ったことがあったので、映画が公開したら絶対に劇場で観ようと思っていた。
祖母の兄で初生雛鑑別師だった新市さんは北アイルランドのアーマー州というところに第二次世界大戦後に相棒と移り住んで、亡くなるまでその地で過ごした。一度取材も兼ねて訪ねた際に、北アイルランドへの直送便はなかったのでロンドンのヒースロー空港で乗り換えてベルファスト空港に行った。そこから電車に乗ってアーマー州の最寄りの駅まで行ったことがあり、帰りも同様だったので数時間だけだがベルファスト市内を歩いたりして、少しだけ観光をしていた。タイタニック号が出港した場所としても世界的には有名な都市だが、9年ほど前だしあまり記憶はない。

予告編を見る限りは主人公の少年であるバディ一家が故郷であるベルファストから外へ出ていく内容だなとはわかっていたが、プロテスタントの暴徒が街に住んでいるカトリック住民へ攻撃を始めた宗教上の対立であり、昔からずっと知っている顔馴染みしかいなかったバディだけでなく、彼の家族にも大切だった場所が分断されていく様を描いている。
このことは北アイルランドの歴史における大きな遺恨を残した問題であり、ケネス・ブラナー監督自身が「『ベルファスト』はとてもパーソナルな作品だ。私が愛した場所、愛した人たちの物語だ。」と公式サイトでもコメントしているように、個人的な事柄を描いているが、それ故により多くの人にも届くものとなっている。また現在の世界における人種差別だけでないさまざまな分断が連鎖していっていることにも通じている。
大事な場所を捨てても、家族が一緒に生きられる場所を選ぶまでを約100分の尺で描いているのだが、非常にコンパクトながら軸のあるしっかりした作品になっていた。
バディだけでなく、母や父や兄、そしておじいちゃんとおばあちゃんという一家の顔がとてもよくて、いい家族だなあと思うし、ベルファストで生まれて生きてきた彼らも分断されて、宗教観の対立(北アイルランド紛争に突入していく)によって隣人や顔見知りと争ったり、傷つけ合うことはしたくないと大事な土地から出ていこうと決意する。とくに最後のおばあちゃんのセリフと顔はどうしても泣けてくる。

作品自体では宗教観の対立についてメインで描いているというよりは、急に(もちろんそれまでにいろんな経緯があるにしても)表出した生活に関わる問題にどう対処するのか、大事なものがなにか、何を選ぶのかをある家族を通して監督自身の個人的な思い出と絡めているが、語りがとても秀逸だった。これが脚本賞を取ったのはすごく納得できる。監督自身が描きたいもの、見せたいものにしっかりと的を絞って無駄なことをしてないし、争いが終わらない世界へ向けたはっきりとしたメッセージになっていた。

 

4月13日
後藤正文の朝からロック)野蛮な世界を変えるには


古川日出男、地下鉄サリン題材に長編 多様な世界観示す

ゴッチさんと古川さんの新聞記事をウェブで読む。

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ニコラに行って、日向夏マスカルポーネのタルトとアルヴァーブレンドをいただく。カウンターでいろいろ話せたので気力と体力もちょっとは復活ができた。ありがたい。

 

青山真治監督の撮影が予定されていた新作は妻のとよた真帆さんたちの手でなんとか形になるみたいだ。これはほんとうによかった。

 

4月14日
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小雨が降り始めたが昼前に散歩がてら代官山蔦屋書店まで歩いて行った。レイモンド・カーヴァー著『大聖堂』を手に取り、持っていたのかどうかわからなかったのでとりあえず購入した。
中央公論社から刊行されている「村上春樹翻訳ライブラリー」の中のレイモンド・カーヴァー作品は東京に来て、すぐに教えてもらって買い出して揃えていた。だが、数年前に断捨離がてら一度書籍をわりと多く古本屋に売った時にいくつか売ってしまっていた。そのせいで『大聖堂』が家にあるかどうかわからなかったが、やっぱり家にはあった。その時に手放したのは『ウルトラマリン』『象』だったようだ。
2007年に出された初刷と今回購入した2020年の7刷では、定価が前者は税抜きで1300円、後者が1500円だった。消費税も5%と10%と違うので約300円も同じ本でも違う、世知辛い。とりあえず新しいのは誰かにあげようと思って、古い前から家にあるやつに収録されている『ぼくが電話をかけている場所』と『大聖堂』をだけ読んで、自分の作業をそのあとはずっとしていた。


4月15日トマス・ピンチョン著『V.』下巻に突入。上巻は久しぶりの再読だったので最初のあたりはまったく覚えていなかった。ブームになってペットとして飼われたものの、次第に成長して大きくなっていくと人の手に追えなくなってしまい、トイレや浴槽から捨てられたワニたちがニューヨークの下水道で大きくなっているのを駆除する話が出てきて、それでなんとなく内容を思い出した。それにしても前よりは文章を読めるようになったと思うけど、それでもレイヤーや複数だし、固有名詞とかわからないものが多いのでやっぱり読みやすいとは言えない。でも、おもしろくないわけではなくて、このおもしろさのどのくらいを自分が理解できているのかがちょっとわからない。

『SOUL for SALE Phase Ⅱ』「奪った時間を売る方法」

「時間を奪うコンテンツが直接収益を上げる」ということではなく、「そのようなコンテンツには広告を出したい人がたくさん出てくるので、その人たちに『ユーザーの時間を奪っている』という事実が『売れる』」ということを意味している。いわゆる「三者間市場」というやつだ。

社会学者の鈴木謙介さんのブログがアップされていたので読む。もし収益を上げようとしたら「ユーザーの時間を奪う」方法を考えないといけないと思うと、なんだかなあ。


水道橋博士さんのYouTubeチャンネル「水道橋博士の異常な対談 〜Dr.Strangetalk〜」で映画評論家の町山智浩さんを迎えて、園子温監督の性加害問題についての対談が2回に分けて配信された。
町山さんが「園子温監督の作品を観てきていいたいことがあったんでこの場を借りて」と言ってから次回へというのはあんまり良くない気がする。2回目のほうがもともと再生数は下がりやすいだろうけど、これで余計に2回目のほうが見られなくなって、そこまでの見た感想でSNSに意見を書かれてしまうだろうしもったいないなと思った。

町山さんが話されているように園監督は「父殺し」をずっと描いてきた人であり、そのモチーフは庵野秀明監督もずっと描いてきている。庵野監督が一学年上だが二人は同世代であり、「大きな物語」が終わる前に映画や漫画やアニメに影響を受けた「おたく第一世代」で、彼らの父親たちは戦争を体験した世代だろう。
庵野さんを特集したNHKでのドキュメンタリーでも、エヴァなどの体が破壊されてしまったり、その体の一部が損なわれてしまうことに関して、彼は自分の父が事故で足を失って、それを見て成長したことを挙げていたと思う。
園監督もお父さんへの愛憎みたいなものがずっとあったし、それは作品にも表現されていた。それは父への反抗もあったのだろうけど、父に理解されないという気持ちの方が強かったのではないかなと思ったことがある。園監督の父への気持ちがある種、解放された(呪縛を解いた)のは『ちゃんと伝える』という作品を取ってからだったと思う。
その後に撮影した『ヒミズ』も「父殺し」の話だった。また、オイディプスコンプレックスは物語の王道パターンでもあるから『ヒミズ』が海外にも届いて評価されることにつながったのだと思う。

ヒミズ』以降に園監督がある種の権力を持って、かつてはモテなかったけどそれが可能になっていったという話もこの対談では出てくる。『ラブ&ピース』や『地獄でなぜ悪い』における主人公がなにものかになりたい人というモチーフはそれ以前のものからは変わっていないが、それらを撮影の何年か前に脚本として書いていたが、実際に撮影する頃には園監督自身の立場がその頃とは変わってしまっているという指摘もでていた。そこにはキリスト教の影響もあるだろうし、父がいなくなり、映画監督として成功を収めたことで父的な万能感を園監督が持ったという見方もできるのだろう。僕からすると園さんは父という感じはなかった。だけど、映画業界で一緒に仕事をする若い世代に対しては父的な形で接していたのかもしれない。

町山さんも水道橋博士さんも映画業界にいないから、今回報道に出ているようなキャスティングにおける性行為の強要などは知らないということ、映画業界では噂だったけど聞こえてきていなかったと言われていた。
ちょこちょこ撮影のエキストラに行ったり、お酒の席に呼んでもらっていた僕だって今回の性加害の話は聞いたことがないし、こういう噂があるんだよとも言われたこともない。
映画業界でない人でも風の噂に聞いていたという話もSNSで見たけど、映画業界の人でも町山さんや博士さんに会った時に直接そんな話をするとは思えないんだよなあ。
あるいは、もうひとつの可能性としては映画業界では噂になっていることは園監督と懇意にしている人たちは当然知った上で付き合っていると勝手に思われていたというパターンが考えられる。この二つが混ざり合っているから近そうに見える人でも知らなかったりする状況が生まれていたりしないだろうか。

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本日〆切だったものをなんとか提出した。寝る前に先日同時並行で読んでいる本のうち2冊読み終わったので新たに川上弘美著『どこから行っても遠い町』を読み始めた。
最初の「小屋のある屋上」からぐいぐいと引きつけられるものがあったが、そのあとの「午前六時のバケツ」と「夕つかたの水」を続けて読むと、連作短編小説とはわかっていたけど、「ああ、こういう風につなげてくるんだ」とうれしくなるほどの巧さがあった。
ひとつの町がより立体的になってくるし、人物の相関図が浮かんできた。もちろんほかの作家さんも場所や登場人物が連なっている連作短編小説作品を書かれているけど、川上さんの短編同士はその距離感がちょうどいいのだと思う。

 

4月16日
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シネクイントでエドガー・ライト監督『スパークス・ブラザーズ』の朝イチの回を鑑賞。昼からの予定前にちょうど終わる時間帯だったのでいいタイミングだった。

「ラストナイト・イン・ソーホー」「ベイビー・ドライバー」のエドガー・ライト監督が初めて手がけたドキュメンタリー映画で、謎に包まれた兄弟バンド「スパークス」の真実に迫った音楽ドキュメンタリー。ロン&ラッセル・メイル兄弟によって1960年代に結成されたスパークスは、実験精神あふれる先進的なサウンドとライブパフォーマンスでカルト的な支持を集め、時代とともに革命を起こし続けてきた。半世紀以上にもわたる活動の軌跡を貴重なアーカイブ映像で振り返るほか、彼らの等身大の姿にもカメラを向け、人気の理由をひも解いていく。さらに、ベックやレッド・ホット・チリ・ペッパーズのフリー、フランツ・フェルディナンドのアレックス・カプラノス、トッド・ラングレンなど、スパークスに影響を受けたアーティストたちが出演し、彼らの魅力を語る。(映画.comより)

スパークスが原案と音楽を手がけているレオス・カラックス監督『アネット』が公開されるということと、菊地成孔さんがブロマガの日記でスパークスについて言及して興奮した文章を書かれていたことで彼らに興味を持った。
この映画の冒頭でインタビューを受けているBECKは僕もすごく好きなミュージシャンで、おそらく海外アーティストでは一番多くライブを観ていると思う。そのBECKが絶賛していて、彼らがやってきた音楽や存在について称賛しているので、「おお、マジか」と思った瞬間に引き込まれていた。BECKから始めることを決めたエドガー・ライト監督さすがだ。後半にはエドガー・ライト監督自体もインタビューに答えていて、笑ってしまった。
スパークス」メンバーであるロン&ラッセルのメイル兄弟だけではなく、初期のバンドメンバーやプロデューサーや彼らに影響を受けたミュージシャンや俳優や作家たちが「スパークス」について語っていく構成になっていた。

早くに亡くなってしまったイラストレーターだった父のからの影響やメイル兄弟が大好きだった映画、そして影響を受けた音楽(ビートルズのコンサートを2回観ているらしい)や住んでいたLA(サンタモニカや彼らが通っていたUCLA)の環境などから始まっていく。過去の映像や新聞記事なども使われ、作中ではそれらのコラージュ的なものが出てきたり、紙人形やイラストでメイル兄弟やバンドメンバーや関係者などが再現映像に登場したりして、エドガー・ライト監督らしいポップで親しみやすいものとなっていた。
50年で25枚のアルバムという異様なキャリア、そして、デビューから現在に至るまでの彼らの音楽を聴いているとおそろしいまでにアーティストであり、彼らはずっとアートをしていた。自己模倣に陥らずに作ったものをどんどん壊しては新しいものを咲かせては、興味あるものへ移り変わっていく。表面上は変わり続けているが、芯にあるものは変わらないというまさにアーティストのお手本のような活動がわかってくる。

80年代になる前にコンピューターミュージック的なクラブダンスミュージックやテクノの走りのようなものをやっていたりする。その影響を受けた世代が世に出て売れていくとそのファンからすると、ひと回りして先祖であるスパークスの存在がよくわからない、真似しているという謎の状況が起きていたりしたらしい。彼らの音楽は変わり続けていき、その蒔いた種が発芽して大きく育って影響を与える頃にはまったく違うタイプの音楽をやっているので、そのつながりが若い世代には理解ができない、これはまさにミュージシャンズ・ミュージシャンだと言える。

兄弟のデュオがここまで長く一緒に活動している例はおそらくないはずだ。二人とも音楽に真剣であり、同時に二人ではないと作れないとわかっている。兄のロンが作詞作曲、弟のラッセルがボーカルだが、兄弟でビジュアルも正反対だし、ラッセルはイケメンな感じでフロントマンという感じがあるし煌びやか、彼の衣装の遍歴を見ていくとすごくその時代ごとのブームや流行みたいなものが出ていておもしろい。ロンは初期はヒトラーチャップリンみたいな髭を生やしていたのでそう書かれていたらしいけど、ある種不気味で寡黙な博士みたいな雰囲気だが、その正反対に見える兄弟が混ざり合うとロックでポップでテクノでネオクラシックといろんなジャンルを横断できてしまう。
ほんとうにすごくヘンテコだし、なにかが逸脱しているから目が離せない、だが、同時にそれはド直球のエンタメではないから、ヒットしてもそれをずっと望む人たちをすぐに置いてけぼりにしていって、また新しいことを始める。その姿勢がやはりアートだと感じた。壊しながら作り続ける。

映画を観ているとほんとうに初期から最新作までのアルバムを聴いてみたいと思って、この後の用事が終わってからツタヤ渋谷店のレンタルコーナーによった。彼らの名前を最初に世に知らしめた『キモノ・マイ・ハウス』と『ヒポポタマス』のみしか残っていなかった。ほかはスペースがぽっかり空いていたのでレンタル中みたいだったので、少し時間が経ったらまた顔を出してレンタルして聴いてみたい。

THIS TOWN AIN'T BIG ENOUGH FOR BOTH OF US


SPARKS - "THE NUMBER ONE SONG IN HEAVEN" (OFFICIAL VIDEO)



Sparks - What The Hell Is It This Time? (Official Video)



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シネクイントを出てから青山通り方面へ向かって、青山ブックセンター本店で西島大介著『世界の終わりの魔法使い 完全版6 孤独なたたかい』発売記念のサイン会へ。お店では『世界の終わりの魔法使い』原画展も開催されていて、こちらは26 日まで。
西島さんにはスタッフをウェブサイトの連載でイラストを描いてもらっていてが、コロナパンデミック中ということもあり、終わってからお茶しましょうと言ってからできておらず、ようやく直に会ってご挨拶することができた。

僕からイラストのリクエストは「黒い少年」で、このリクエストは初めてだなと言われていた。この「黒い少年」があれになるんですよ、ということであとはコミックスを読んでもらうしかないけど。この「黒い少年」のイラストいいよね、西島さんの描かれた漫画『すべてがちょっとずつ優しい世界』のキャラクターにもちょっと近しい。
担当編集者の島田さんもいらした。実は小学館から刊行された「漫画家本」で僕は何度かライター仕事で書かせてもらっているのだが、その編集さんが島田さんだった。だが、ずっとメールでのやりとりだったので今回はじめてお会いすることができた。cakesで田島昭宇さんのインタビューをさせてもらったのを読んでよかったので、声をかけてくれたとのことだった。そう言われてとてもうれしかった。

 

4月17日
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豊洲ピットでライブが夕方からあったので、午前中に原稿を書いて請求書(プリンターが家にないのでセブンイレブンプリントでPDFをプリントアウトして、それに捺印したものをスキャンしてスマホにデータをおとしたもの)を作って送信してから家を出る。
16時半には会場前で友人の青木と待ち合わせをしていた。家から豊洲ピットまでは3時間ちょっとだったので、渋谷―青山―赤坂―首相官邸と国会議事堂―日比谷公園―銀座―豊洲ピットという流れで歩いていった。
思いの外早く着きそうになっていて、1時間ぐらい余裕があったので晴海通りの勝どきエリアで右折して晴海客船ターミナルを見にいった。毎年元旦に井の頭公園神田川の源流から川沿いを歩いて、秋葉原を過ぎて柳橋のところで神田川隅田川に合流し、隅田川テラス沿いを歩いて晴海埠頭で東京湾に出るという古川日出男著『サマーバケーションEP』の物語を辿るということをやっており、東京オリンピックの翌年の元旦までと決めていたので今年が最後になった。
最終地点の晴海客船ターミナルは2月には営業を停止し、今年中には取り壊されるというニュースを見ていたので今はどうなっているのかなと思って立ち寄ってみた。近くには柵が敷かれていて立ち入り禁止になっていたので建物には近づけなかったが、まだ建物自体は取り壊されていなかった。付近の東京オリンピック選手村に使用されていたマンション群はいまだに人が住んでいないようだった。これから住めるようにしていくように工事をしている感じだった。
今まで歩いたことのなかった豊洲大橋を歩いて渡っていたら、晴海客船ターミナルの建物がはっきりと見えた。橋を渡ってから豊洲ピットに向かっていき、青木と合流した。

今年元旦に「晴海客船ターミナル」に行った時のことを書いたメルマ旬報の連載

「うるさがた Vol.2」というイベントでZAZEN BOYS×CHAIの対バンライブを観る。
席ありだったのでわりと楽ちんだった。席自体は少し右側のエリアだったけど、ステージはよく見えた。最初はCHAIからだった。ライブで観るのは初めてだったが、噂には聞いていたけど、NEOかわいいとポップを撒き散らしながらもステージを自分たちのスタイルで染め上げて、観客も知らないうちにその世界に巻き込まれて自然と音にノっているような感じになっていた。海外で人気があるのもわかるっていう音とパフォーマンス、すごくたのしくてワンマンで観たいと思わせるステージだった。

CHAI - NO MORE CAKE - Official Music Video (subtitled)



ZAZEN BOYSはいつも通りなパフォーマンスだが、音源化はされていない『杉並の少年』という曲が前よりもゴリゴリな感じのサウンドになっていた。あとThis is 向井秀徳がギターを持たずに歌う時に揺れたりしている感じはちょっとNEOかわいいに寄ろうとしているのかなと思った、なんとなく。
アンコールはZAZEN BOYSCHAIが全員登場してコラボ曲の『ACTION』を披露してくれた。演奏はZAZEN BOYSCHAIのメンバーは歌とダンスという感じだった。これをライブで観れることはこの先もほとんどないだろうから、ほんとうに今日ライブに来れて、二組とも最高にたのしかったし、最後にこの曲をやってくれてほんとうにいいライブだった。最後のコラボの動画とかアップしてほしい。

CHAI ACTION (with ZAZEN BOYS) - Official Music Video



帰りはさすがに豊洲駅から電車に乗って帰ったが1日で22キロも歩いていた。さすがに歩き過ぎた。

 

4月18日

酒井若菜さんが女優として、グラビアアイドルを始めたことから芸能界や映像業界で見たりしてきたセクハラやパワハラについて、ご自身の考えをしっかり書かれた『&Q』の連載「No.70」が公開になったので読んだ。
作品を作る人がいちばん大切にしないといけないものはなにかということ、そして自分が体験したものとそれに対しての行動や言動について書かれているものになっていた。読んだあとに『JUNK 爆笑問題カウボーイ』の太田さんが言われていたことにかなり近い印象を覚えた。
若菜さんだけではなく、今回のことで声がどんどん上がっていくことで、もう以前とは違う業界や体制になっていくのだろう。俳優部だけでなく、スタッフさんたち制作部の人たちももうパワハラやセクハラに対してはっきりと声を出して、働きやすく、個人の尊厳を守ることができる場所へ大きく動き出しているのを感じた。だからこそ、声を上げた人に対しての対応をしっかりしてほしいと思うのだけど。

朝から晩までリモートワークしていたので、昨日ライブで観たCHAIの音源を流しながらずっと作業をしていた。ほんとうに会社から支給されているもの(お昼に使う)と自分のノートパソコン(普段使い)が壊れたらいろいろ終わるなと思いながらキーボードを打っている日々。

 

4月19日

下北沢駅から3回乗り換えをして東村山市まで、電車の移動時間は50分ちょっとぐらい。どこかで乗り換え移動が遅かったりしたら、もう少しかかってしまって1時間ちょっとかかる感じだったと思う。
はじめて行く場所はできるだけ早めに行けるように移動するタイプなので、約束の時間よりも30分早く着いた。暇つぶしがてら東口の志村けんの像を見に行ったり、駅周辺をぶらぶら歩いていた。東村山駅は改装中みたいで、2025年ぐらいに完成する予定らしい。
11時半に古川日出男さんご夫妻と待ち合わせをして、まずはお昼ということで野口製麺所といううどん屋さんに連れて行ってもらう。お昼だと混むかもしれないということで集合時間を少し早めに設定してもらっていたおかげで、お店の外のテーブルで食べることができた。昨日の雨とは打って変わって晴れていて、暑すぎずにちょうどよい気温だったので心地よかった。
うどんが来る前に紅生姜の天ぷらや蒟蒻のおでんなども食べたが美味しかった。僕は東村山地粉猪肉汁うどんを注文。うどんも美味しかったが、うどんをつける肉汁に入っていた野菜も美味しく、猪肉もしっかりとした味だった。
お店では採れたてのたけのこの販売もしていて、たけのこうどんというのもあった。お二人が晩御飯用に処理されているたけのこを買ったら、どの部位がなににしたら美味しいか店主のおじさんらしき人が詳しく教えてくれていた。あと産みたての卵も販売していたりして、とてもいいお店だった。

食後に散歩がてら歩きながら色々紹介してもらってから、古川さんのお宅である「雉鳩荘」にお邪魔させてもらう。園監督のことで僕が思ったりしていることを聞いてもらったり、お二人から最近のことや僕が話したことに関しての考えとかも聞かせてもらった。
僕が座っていたテーブルの位置は、「雉鳩荘」と名付けているようにつがいの雉鳩がよく舞い降りてくるお庭がいちばんよく見える場所だった。つがいのようなムクドリはやってきたので見れたが、雉鳩は来なかった。だが、その鳴き声は耳を澄ますと何度も聞こえてきていた。
ずっと話を続けるというわけではなくて、時折誰も話さずに無言の時も何度かあったのだけど、そういう時は雉鳩とかの鳴き声を聞いたり、あと近所の飼い猫とかが時折庭にやってきたり、通路がてら横切っていくと言われていたので猫が来ないかなと出してもらったお茶を飲みながら見ていた。お二人も見たことがないという新顔らしい猫が隣の敷地の少し高さがあるところの隙間から顔を出していて、僕はちょうど猫の正面だったのでしばらく目が合っていた。二人とも猫を見つけるとどうやら今まで見たことがない子だと言われていた。その猫は庭には降りてこないで帰っていってしまった。また遊びにくるといいな。僕と猫ははじめての「雉鳩荘」にやってきた同士だったから、見つめ合う時間が長かったのかもしれない。
人と一緒にいる時に何もしないでいること、時間をのんびり感じられるというのはとても贅沢なことなんだなと思ったのも今日の発見だった。
お二人からアドバイスというかいろいろと話してもらったことで、すごく肩の力が抜けたというか楽になったのでありがたかった。そこでどんなことを言ってもらったかは書かないけど、信頼している人と空間と時間を共有してもらえることはほんとうにうれしいことだし、そこに居させてもらえるというのは信頼してもらっているということだから、それを裏切らないようにしたい。あとは自分のやるべきことだけをしっかりやっていて、その姿を見てくれている一部の人だけに信頼してもらえればいいやっていう気持ちでやっていこうと決めた。

 

4月20日
矢野利裕が語る、文学と芸能の非対称的な関係性 「この人なら許せる、耳を傾けるという関係を作ることがいちばん大事」

先月発売になった矢野利裕著『今日よりもマシな明日 文学芸能論』のインタビューがリアルサウンドで公開されていた。この機会に書籍も手に取って読んでみてほしい。
以下は矢野さんから著書をご恵投いただいた際に書いた感想。

序論、町田康論、いとうせいこう論、西加奈子論とこの書籍のメイン部分を読んでいくと文学と芸能、そしてそれらと表裏一体である政治と社会の問題がスムーズに繋がっていくのがよくわかる。それが見事であり、町田康いとうせいこう西加奈子を読んでいない人でも問題なく読めるし、たぶん彼らの作品を読んでみたいと思うだろう。
町田康はミュージシャンだった(現在も活動はしている)こともあり、彼の文体や言葉遣いが評価されることは多い。文体が物語を呼び、物語が文体を要請する。そして、その書き手である作家はある種「憑依」されている存在である。そのためには実は言葉を持ち、同時に持たない、という空洞さがいる。
シャーマン的な要素というのは「芸」にとって太古から欠かせないものだった。そして、シャーマンがなにかに「憑依」されても、それを見たり聞いたりする視線(他人)がいなければ、それは世界に影響をなんら与えない。
言葉がなければ世界は存在しないが、それは他者という存在が前提でもある。「芸」とはかつては神への祈りであったが、やがて大衆的なものへ降りていった。「祭り」とはまさしく共同体を維持するための行事であり、シャーマン的な存在がいなくても成り立つ大衆化された「憑依」ごっことも言える。
現在ではたとえばそれがライブなどステージとそれを観るものだとすると、なにものでもない者がステージに上がればなにものかになってしまう。そしてそれを中心にして観客は祭りをたのしむ。ステージ上の「芸人」は神であり、同時に生贄である。
時代を変えるようなカリスマが時折現れる。彼らは磁場の強い存在であり、民という砂鉄を引き寄せる。そうすると世界のパワーバランスが以前とは変わってしまう。一度変わってしまったものはもとには戻らない。だが、カリスマの磁場は次第に弱まっていき、あるいは新しい時代への生贄のように姿を消す(消される)。
「芸人」はある時は神であり、同時にある時は生贄であるというその構造はずっと変わらない、河原から演芸場へ、そしてテレビになりユーチューブやネットに移り変わった。「笑いもの」にするという言葉があるように、優劣がどちらかに伸びているものを見て称賛し蔑む、そこにはもちろん差別的な構造がある。
いとうせいこう論における「無数のざわめき」を拾い上げる、声や形にしていくこと、マイノリティと呼ばれる人たちが声を上げる場所を作る、それが染み出していくと世界に変化が起き始める。いとうせいこうの「芸」と「政治的なアクション」が繋がっているのは、社会やマジョリティーに届きにくい声、可視化されにくい姿を「芸」というフィルターを通して世界に繋げようとする試みでもある。たぶん、他人を信じているからできるのだと思う。彼のアクションはとても政治的であるが、そもそも「芸」と「政」がきってもきれない現実社会の写し鏡であり、表裏一体ということをわりとみんな忘れてしまっている。それを思い出させてくれる存在でもあり、失語症的になっていた彼は、自分の声ではなく「無数のざわめき」を知り、聞いたことでそれを自分を通して語ることで小説が再び書けるようになったという。
琵琶法師についての話も出てくるが、『平家物語』はひとりの作り手の声ではなく、琵琶法師たちが語り継いでいき、各自が足したり引いたりしたそれぞれの語りのバージョン(無数の物語)の集大成(リミックス)である。見えないものを幻視し、聞こえない声を聞く、そしてそれらを紡いでいった声たちの完成形が現在の『平家物語』となっている。
西加奈子論における「おかしみ」の話も「芸論」の大事な部分であり、共同体と逸脱者の関係性がある。かつては河原乞食と変わらないものであり、芸人になるということは社会からドロップアウトするという時代があった。しかし、逸脱しているからこそのおかしさとどうしても目が離せないということが起きる。そして、それを安全な場所から見ているという自分の差別意識に気づく。
西加奈子作品はそれらを内包している。だれかがなにかを必死でしているが、失敗していたりすると笑ってしまうことがある。しかし、その誰かは夢中でなんとか物事を完成させようと達成しようとしている。次第にその「夢中さ」にこちら側は応援してしまう、その場所にいれば手を差し伸べようとしてしまう。
「おかしみ」とは夢中と関係があり、「夢中」になっている当人ではなく、見ているものを関係者に、当事者の側に引き込んでしまう力を持っている。その「見る」という行為にある差別、「見られてしまう」という恐怖と光悦の関係。
ここでも何作品か取り上げられているが、アニメ映画化された『漁港の肉子ちゃん』についても触れられている。共同体と逸脱者の話がメインで展開されているが、そこでも「肉子ちゃん」の「夢中」さによる「おかしみ」、それゆえに彼女は笑われるが、同時に手を差し伸べられる存在にもなると書かれている。この部分を読んで、なぜ明石家さんまさんがこの作品のアニメ映画プロデュースをしたのかがちょっとわかったような気がした。
そして、小山田圭吾論へ、という流れ。
小説論としてもたのしめるけど、芸能論として「見られる」側の仕事をしている人にはすごく興味深く、感じ入る部分が多いのではないかと思う。芸能人というだけでなく、今や自分の顔を出して表現や仕事をすることが増えているので、かなり広い人にも人ごとではなく読める現在進行形の「文学芸能論」になっていると思う。

『犬王』試写、だけど、映画の感想っていうか古川日出男論的な

矢野さんの本を読んだ時に書いた「芸能」の部分を参考にして書いた映画『犬王』試写観たあとの感想。

朝の9時から24時まで朝と晩それぞれの仕事のリモートワーク。休憩中の散歩で息抜き。ほんとうに家で仕事している時はradikoで深夜に放送したラジオ番組をずっと聴いている。声を聴くとそのパーソナリティが身近になっていく不思議。あと好きな声とずっと聴いていれない声があるのも不思議。

 

4月21日

先週の土曜日に青山ブックセンターで開催されたサイン会で久しぶりにお会いした漫画家の西島大介さんと「今度お茶しましょう」と約束をしていたので、夕方から池袋で舞台を観に行く前にランチ&軽く飲むことになった。
吉祥寺駅で待ち合わせをして、アムリタ食堂というところでランチをいただく。お酒の飲み比べてと混ぜ麺を注文する。昼間からスピリッツやウォッカを飲む中年二人。
西島さんの漫画『ディエンビエンフー』がベトナム戦争を描いており、アジア料理屋からスタートという感じになった。『ディエンビエンフー』に関しては、説明が複雑なので、興味ある人は以前僕が西島さんにインタビューしたこちらをどうぞ。

分岐した先にあった本当の終わりに向かう漫画『ディエンビエンフー TRUE END』――未完、と二度の打ち切りというバッドエンドからトゥルーエンド、そしてその先に/漫画家・西島大介さんインタビュー(vol.1から6)

ランチを食べてから井の頭公園近くのいせや総本店に行って飲みながら、この日から漫画の連載が始まった『コムニスムス』について話を聞かせてもらったりしながら、僕の話も聞いてもらう。
園子温原作・碇本学著『リアル鬼ごっこJK』文庫版の装丁イラストは僕が自ら西島さんにお願いして描いてもらったので、西島さんに今回のことなんかを話す。夕方から観に行く予定だった舞台を誘っていた友人が急遽行けなくなったと朝連絡が来ていたので、夜どうしようかと思っていたこともあって普通に昼飲みをしていた。

西島さんは新作が開始されたということでプレスリリースとかもろもろあったみたいだが、時間的に問題はなくなったと言われたので夜の舞台をお誘いして一緒に行くことになったので、17時ぐらいまでいせやでダラダラと飲んで話をしていた。

西島大介著『コムニスムス』

1975年、カンボジア。僕は、最強2歳児の父親になった。
1975年。ピュリッツァ賞を目指してカンボジアに乗り込んだ日本の少年ヒカル・コンデは、通信社に買ってもらえるような写真が撮れずにいた。森を彷徨っていたある日、反政府組織クメール・ルージュの一団に遭遇。そこで見たのは、彼らを一瞬にして葬り去る幼児の姿。初対面のヒカルを「ちゃん」と呼び、慕うプティという名の女児。戦時下のカンボジアで、血の繋がらない親子のサバイバルが始まる--。



18時半から開演の東京芸術劇場シアターイーストでロロ『ロマンティックコメディ』を鑑賞。やはり観劇前にお酒を飲んでいたらダメだ、という当たり前のことを再認識。一瞬、寝落ちしたと思ったら舞台にあった店の看板が「コストコ」になっていた。
亡くなった(居なくなった)人が書いた小説を彼女の妹や友人や知人たちが集まって何年かに一度読書会をして、長い時間をかけて一冊の本を読んでいく。残された者の時間経緯と共に変わっていくそれぞれが抱えた思いや感情の揺らぎのようなものを喪失を浮かび上がらせながら描いていく作品だった。
全部をちゃんと観ていないから合っているかどうかはわからないけど、「いつ高」シリーズの最後を観て、ロロの青春は一度終わってネクストステージに入るんだろうなと思っていたけど、そういう場所に行こうとしている、大人になって成熟していくという感じになっている舞台だったんじゃないかなと思う。

もしかしたらこの作品にちょっと近いのかな、と思ったのは少し前から読み始めていた川上弘美著『どこから行っても遠い町』だった。
吉祥寺駅の改札で西島さんを待っている時にちょうど最後に二編を読み終わった。最後の「ゆるく巻くかたつむりの殻」という短編を読むと、最初の「小屋のある屋上」にもう一度接続するような形の作品になっていた。
「ゆるく巻くかたつむりの殻」の語り手というか主人公は「小屋のある屋上」に出てくる魚春の大将の平蔵の亡くなった妻である春田真紀という女性であり、作中で平蔵は生きていた頃の真紀に「いつかおまえ、好きな人が死ぬと、少しだけ自分も死ぬって言ってたよな」と言う場面があった。

生きていても、だんだん死んでゆく。大好きな人が死ぬたびに、次第に死んでゆく。死んでいても、まだ死なない。大好きな人の記憶の中にあれば、いつまでも死なない。

まさにこの引用した文章と『ロマンティックコメディ』は通じている部分があったんだと思う。アフタートークでロロの三浦さんが話されていることで余計にそう感じた。


西島さんは前から行ってみたかったというお店があるというので観劇後に小雨が降る中で劇場からあまり離れていない中華料理屋に入る。中華料理屋なのになぜかエスニックカレーがあった。西島さんはこれが目当てだったらしい。
カンボジアからやってきた華僑三世の方が店主で、西島さんの新作『コムニスムス』の舞台がカンボジアでその取材というかリサーチも兼ねて、いつかこの店に来たかったとのこと。鶏肉すごく美味しいけど辛いものが苦手な僕は何度か咳き込んでしまった。ここのカレーは成城石井でもレトルトで販売もされていて、西島さんはすでに食べているみたいだった。
お会計後に少しだけ店主の方とお話をされていた。30年ちょっと前に日本に来て他の料理屋さんで修行してからお店を出されたらしくて、どうやらポルポトの時代だったので外に出たくて、本当はフランスとかに行きたかったけど当時は大使館がなくて行けなくて、日本に来たと言われていた。
まさに歴史だ。西島さんは今後も通ってお話を聞いて作品の参考にするんじゃないかなって思う。昼から晩までアジアな一日だった。

 

4月22日

夕方までリモートで仕事をしてから、ホワイトシネクイントで今日から公開のマイク・ミルズ監督『カモン カモン』を鑑賞。
最後の回で金曜日ということもあり、わりと入っていたと思う。マイク・ミルズ監督、ホアキン・フェニックス主演、A24 制作というどれかに引っかかった人がやはり初日に観に来ていたんじゃないかなと思う。僕はその三つ全部な人ですが。
上映前に去年から気になっていたA24制作『LAMB /ラム』の予告編が流れていたので秋のたのしみ。また、アカデミー賞でも作品賞&監督賞&脚本賞にノミネートされていたポール・トーマス・アンダーソン監督『リコリス・ピザ』の予告編もやっていたので7月1日の公開が非常に楽しみ。

20センチュリー・ウーマン」「人生はビギナーズ」のマイク・ミルズ監督が、ホアキン・フェニックスを主演に、突然始まった共同生活に戸惑いながらも歩み寄っていく主人公と甥っ子の日々を、美しいモノクロームの映像とともに描いたヒューマンドラマ。ニューヨークでひとり暮らしをしていたラジオジャーナリストのジョニーは、妹から頼まれて9歳の甥ジェシーの面倒を数日間みることになり、ロサンゼルスの妹の家で甥っ子との共同生活が始まる。好奇心旺盛なジェシーは、疑問に思うことを次々とストレートに投げかけてきてジョニーを困らせるが、その一方でジョニーの仕事や録音機材にも興味を示してくる。それをきっかけに次第に距離を縮めていく2人。仕事のためニューヨークに戻ることになったジョニーは、ジェシーを連れて行くことを決めるが……。「ジョーカー」での怪演でアカデミー主演男優賞を受賞したフェニックスが、一転して子どもに振り回される役どころを軽やかに演じた。ジェシー役は新星ウッディ・ノーマン。(映画.comより)

マイク・ミルズ監督は家族を描いてきた映画監督というイメージがあり、今作でも家族を軸に映画を撮っているといえるのだと思う。伯父であるジョニーが甥のジェシーを預かることになり、突如して子供との生活ややりとりを学ばなければいけなくなる。そして、ジョニーの妹でありジェシーの母のヴィヴは彼らの母親の介護を巡って感情のぶつかりがかつてあったことも描かれる。だから、やはり家族の話であるのだが、結婚をしておらず子供もいない伯父は甥との生活の中で成長していく話であり、同時に大人と子供の関係性が穏やかに描写されていく。
モノクロでの撮影はもちろんアート的に見えるし、寓話っぽさも感じさせる。そして、これは物語だと雄弁に語っているようでもある。

ジェシーだけでなく、今作ではジョニーがいろんな都市の子供たちに未来のことなどをインタビューしている映像も挟まれていくが、その子供たちは役者ではなく映画のコンセプトを話して協力してくれた学校の生徒たちだという。だから、映画=フィクションでありながら、子供たちのインタビューはノンフィクション≒ドキュメンタリー的なものとなっている。親たちが移民でアメリカで生まれ育った子供であったり、人種や置かれている環境も違う子供たちが語る未来の話、そして、アメリカだなと改めて思うのは子供たちが非常に論理的に語りながらも、自分の意見をしっかりと言うという部分である。
子供は幼いと言っても、ひとりの人間であり、その自尊心や自己顕示欲などをしっかり持っている。個人として生きること、それは村社会で集団を外れると生きにくい日本の子供たちよりも大人に見えるなあと思った。だが、僕もジョニー同様に結婚もしていないし子供もいないので、今の小学生たちは今作のインタビューに答えている子供たちのようにしっかりしているのかもしれない。あるいは、子供と触れていない僕はそのことをただ知らないだけかもしれない。

ジョニーの仕事の関係もあり、預かったジェシーもロサンゼルスからニューヨークへ、そして他の都市に行くことになる。ロード・ムービー的な移動があることで、さまざまな都市の子供たちのインタビューもされていくことで、アメリカという国のさまざまなレイヤーが見ることができる。その中でジョニーもジェシーとの関係性において成長し、ジェシーも感情を爆発させることができるようになる。
大人と子供を描きながら、人が人であるために感情を殺さないように人と関わっていけるのか、観終わるとやさしい気持ちにもなるし、「カモン カモン」とジェシーが言うように未来に、先へ先へ行くためにどんな人でありたいのか考えることもなった。もう一回ぐらい観てみたいと思う。

 

4月23日

昨夜の『JUNK バナナマンバナナムーンGOLD』を聴きながら散歩していると友人のイゴっちからラインが来た。『少年ジャンプ+』で読み切り掲載されている弓庭史路著『國我政宗の呪難』のURLが貼ってあった。彼はよくおもしろい漫画を教えてくれるので、教えてもらったものは普段自分が気づかなかったり、読まないものだったりするのできちんと読む。
『國我政宗の呪難』は絵柄でいうと『アフターヌーン』とかで掲載している漫画の感じがする。こういうのは色々と漫画を読んでいたりすると感覚がわかるもので、漫画誌はその時々の時代でカラーは変わっていくのだけど、それでもやはり連載陣のカラーだとかある種のブランドのようなものがあって、雑誌というパッケージに編集長や編集者たちの色が刻まれているなと思う。だから、この『國我政宗の呪難』を読み始めてキャラクターの造形や性格や物語の設定もあるけど、絵柄とか線とかの感じが僕には『アフターヌーン』ぽいと思えた。

少年ジャンプ+』は今ノリにノっている媒体であり、本誌『ジャンプ』には載らないような作品が掲載されて、ここでファンを集めて人気が徐々に高まっていき、爆発していく。アニメの放送も始まった『SPY×FAMILY』もだし、『怪獣8号』も『地獄楽』なんかヒット作が出ている。『少年ジャンプ』では取り逃してしまう作品や漫画家をこちらの『少年ジャンプ+』で補完することで、より「ジャンプ」というブランド力を高めていっている。王者の戦い方だといえるし、業界のトップだからこそ危機感を持って、次世代をいかに育てて世に出すか、それをしっかりとお金を使ってやっている感じがする。そして、無料で読んだらコミックを買わないという意見がかつてあったが、この無料で読める『少年ジャンプ+』で掲載されている『SPY×FAMILY』や『怪獣8号』はコミックスとしても大ヒットしている。無料で読めて面白かったから読者はお金を出して買う。家に置きたいと思う。また、新規読者が一話などはポイントがなくても読めるようにしているので、お手軽読んで気になったものは読むというお試しができることが購買にも、ファン獲得にも繋がっている。

『國我政宗の呪難』は今回掲載されているのは読み切りだが、これがたくさん読まれてSNSで話題になったらするとおそらく連載に動き出すんじゃないかな、と思えるほど完成度が高いし、世界観が作られている。これは連載されるんじゃないかな、読んでおもしろかったし、この先が読みたいと思わせる内容だった。
『呪術廻戦』も大ヒットしているので「呪」や「術」がキーワードになっていて、この作品にも多くの人は入りやすいのかもしれない。僕は残念ながら『呪術廻戦』を読んでいないので詳しいことは言えないけど、「呪」という文字がタイトルに入っている作品が大ヒットしているということ、それはかなり重要な意味や大衆の欲望や無意識でのなにかを表しているのかなと思う。
「呪い」は反転すれば、「祝い」に転化する。逆もしかり。この「呪われた」かのように感じられる時代(かと言ってもどんな時代もその時代ごとの災厄が起きている。そして生き延びた人や生き残った人たちは亡くなったり居なくなった人たちの想いや意志や思い出や記憶を引き継いで日常を送り、次世代になにかを渡してきた)に生きるわたしたちはそれを反転する力を求めている、そんな気もする。そういうことは漫画に詳しいライターさんが書いているかもしれない。なにかを表現することはその表裏一体の間にいるともいえるし、生きていること自体がそうなのだろうけど。


今月はこの曲でおわかれです。
Godiego / Yellow Center Line

Spiral Fiction Note’s 日記(2022年2月24日〜2022年3月23日)

水道橋博士のメルマ旬報』連載「碇のむきだし」


ずっと日記は上記の連載としてアップしていましたが、日記はこちらに移動しました。一ヶ月で読んだり観たりしたものについてものはこちらのブログで一ヶ月に一度まとめてアップしていきます。

「碇のむきだし」2022年03月掲載 


先月の日記(1月24日から2月23日分)

 

2月24日
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栗本斉著『「シティポップの基本」がこの100枚でわかる!』 を読む。
木澤佐登志著『失われた未来を求めて』を読んで、『ニック・ランドと新反動主義』を再読した流れでフィリップ・K・ディック作品を久しぶりに読んでいた。そこにはネット社会だけでなく、ドラッグとスピリチュアル、実存の問題や新反動主義や加速主義なんかでつながっている。
BGMとして「失われた未来」としての鳴っている音でもあるヴェイパーウェイブや世界中で聞かれているシティポップ(70、80年代のシティ・ポップ&ネオシティポップ)なんかを聴いていた。この新書は僕のようにシティポップというものをほとんど聴いてこなかった人間にはちょうどいいカタログになるかなと思って読んだ。

 パームツリー越しに海が見えるリゾートホテルのプール、コンバーチブルに車でドライブする夜景きらめく摩天楼、流行りのカフェバーで味わうトロピカル・カクテル、ダンディな男性とセクシーな女性が主人公の大人の恋‥‥。そして、そんな風景を演出する「シティ・ポップ」と呼ばれるスタイリッシュなポップス。

中略

 そもそもシティポップとはどういう音楽なのだろうか。ここではっきりしておきたいのは、シティポップは明確な音楽ジャンルを指す言葉ではないということだ。例えば、ハードロック、プログレッシヴ・ロック、レゲエ、ボサノヴァといった音楽ジャンルは、リズムのパターンや楽器などの音色といった音楽的な理論のもとに、ある程度は定義付けられる。しかし、シティポップはジャンルというよりは、その音楽から醸し出される印象を重視している。もちろん、ソウル・ミュージック、AOR、ソフトロック、フュージョンといった音楽性の根幹があるとはいえ、それらのジャンルがそのままシティポップに当てはまるというわけではなく、あくまでも雰囲気なのだ。

 無理やり定義付けるとするならば、シティポップは「都会的で洗練された日本のポップス」ということになるだろうか。

中略

 かなり乱暴な言説ではあるが、シティポップはある種のファンタジーだと考えている。例えば、シャンソンを聴くとパリの街並みや石畳を想像し、ボサノヴァを聴くとリオデジャネイロの美しいビーチを思い浮かべるように、シティポップを聴くことで冒頭に書いたような摩天楼やリゾートや大人の恋模様の世界に浸ることができるのだ。ぜひとも、どっぷりとスタイリッシュなファンタジーの世界に入り込んでいただき、メロウでアーバンでグルーヴを感じられるシティポップの世界を堪能してもらえることを願っている。

なるほど、わかりやすい。世界中で日本のシティポップが聞かれるようになったのはインターネットの発達によって、音源が掘りやすくなったことはある。英語圏でサンプリングするものがどんどんなくなっていき、日本のシティ・ポップが再発見されたということもある。世界的なミュージシャンであるTHE WEEKNDのニューアルバム『Dawn Fm』で亜蘭和子『Midnight Pretenders』がサンプリングされていることもちょっとした話題になった。
トランプ元大統領にしろ、安倍元首相にしろ彼らのスローガンが「かつての栄光を取り戻す」ことだったように、あまりに複雑化した世界では単純だった(ように思える)インターネットが隆盛する前の時代に戻りたいという「後ろ向きな未来」を待望する人たち(既得権益や権力の側だと勘違いしている人)がわんさかいた。そこに陰謀論ポスト・トゥルースが入って来ればもう手に負えなくなってしまった。
アメリカ国内におけるストレスや不満はいつの時代も対外的な戦争によって昇華していたが、トランプ元大統領はそれを内側へのテロリズムにしてしまった。戦争は起こさなかったが、その悪意の刃は国内に向けられ、人種差別や移民差別にも向かった。といっても日本では1995年にオウム真理教がテロを起こし、その後は政権与党に舞い戻った自民党が国民へのテロをずっとしている状態なので、日本もアメリカも酷いのは変わらない。
そのこととヴェイパーウェイブやシティポップの再評価は無関係ではないと思う。ドラマや映画で80年代が舞台な作品が増えたのは、そのころガキだった僕らやその上の世代がプロデューサーになったり監督になったということだけではないはずだ。『ストレンジャー・シングス 未知の世界』の大ヒットと陰謀論ポスト・トゥルースはコインの裏表だと感じられる。

この新書を読みながら思ったのは、僕がいままで熱心にシティポップを聴かなかったことには「パームツリー越しに海が見えるリゾートホテルのプール、コンバーチブルに車でドライブする夜景きらめく摩天楼、流行りのカフェバーで味わうトロピカル・カクテル、ダンディな男性とセクシーな女性が主人公の大人の恋‥‥」という部分があまりにも自分と関係がなかったこと、理想にもしていなかったことが大きいのかもしれない。
僕は自動車の免許は身分証としてだけ持っているが、車の運転ができない。ペーパードライバー歴が20年を越えていて、免許を取ったあと何度か父親に助手席に乗ってもらって運転しただけだ。僕は運転がかなり下手くそである。そのせいで余計にこのまま普通に車に乗っていたら早々に事故る。事故って自分が怪我するだけならいいが、人を殺してしまうという考えが離れなくなってしまった。東京に上京したのも車を運転しなくても生活には不便がないということも大きい。
シティポップはドライブのBGM的にぴったりなものが多い。僕は車を運転しないという点で無意識にシティポップを外していたのかもしれない。今の僕はシティポップを「失われた未来」のBGMとして聴けるようになったのかもしれない。

The Weeknd - Out Of Time (Official Lyric Video)



f:id:likeaswimmingangel:20220224221849j:plainレオス・カラックス監督『アネット』試写を観に映画美学校へ。
ほぼ満席だったが、年齢層はだいぶ高かった気がする。レオス・カラックス監督も60歳だし、音楽を担当しているスパークスは活動歴が50年を越えているのだから仕方ないかもしれない。ターゲット層は僕よりも上になっていると思う。そもそも試写状は送ってもらっていたけど、観に行こうか悩んでいたら菊地成孔さんのチャンネルの擬似ラジオ「大恐慌へのラジオデイズ」第64回「マニアの受難」スパークスとこの『アネット』について語っていたので観よう!となったのだった。

ポンヌフの恋人」「汚れた血」などの鬼才レオス・カラックスが、「マリッジ・ストーリー」のアダム・ドライバーと「エディット・ピアフ 愛の讃歌」のマリオン・コティヤールを主演に迎えたロック・オペラ・ミュージカル。ロン&ラッセル・メイル兄弟によるポップバンド「スパークス」がストーリー仕立てのスタジオアルバムとして構築していた物語を原案に、映画全編を歌で語り、全ての歌をライブで収録した。スタンダップコメディアンのヘンリーと一流オペラ歌手のアン、その2人の間に生まれたアネットが繰り広げるダークなおとぎ話を、カラックス監督ならではの映像美で描き出す。ドライバーがプロデュースも手がけた。2021年・第74回カンヌ国際映画祭で監督賞を受賞。(映画.comより)

『アネット』のこの予告はたしかに物語とは筋は合っているけど、見始めたら「おおおおい!」と思わされる内容で逆にびっくりすることになる。
あとユーロスペースが製作でお金を出していることもあるのか、見覚えのある日本人俳優が数人出てくるので、短いシーンだけど意外というかそれが気になってしまった。主演のアダム・ドライバーだけじゃなく演者たちがずっと歌ってた。セリフの大半は歌っているので、ロックオペラという感じの宣伝をしているけど、わりと最初からすぐ歌い出すので全然きにならない。ミュージカルじゃないのかなって思って、ミュージカルとオペラの違いを調べたら、オペラはマイクを使わないベルカント唱法という発声法で、ミュージカルはマイクも使うしポピュラー音楽の発声法という違いがあるらしい。知らなかった。あと全然今作では踊らなかったけど、ミュージカルは役柄や感情を表現するためにダンスをするというのが一番わかりやすい違いなのかもしれない。たしかに全然踊ってなかった。
『アネット』の物語の軸のひとつは「ピノキオ」的な構造であり、それはある種のネタバレというか観てたのしむ、驚く部分なのでこれ以上は触れないけど、あとは男性性による加害性みたいなものをしっかり描いている。嫉妬という感情さえなければ悲劇は生まれないのにねって思ったりした。

 アネット役は当初から人形の予定で、日本の人形作家を含めさまざまな試作が行われたが、現場で操作可能という条件で仏のエステル・シャルリエが様々な年齢のアネットの顔を、ロミュアルド・コリネが胴体とテクニカル面すべてを担当。アネットは「父と娘、野蛮さと幼少期をつなぐリンク」というサルのぬいぐるみを抱いている。なお、ベビーアネットのステージの歌声はLYC(ロンドン・ユース・クワイア)所属の少女ヒーブ・グリフィスが担当した。(公式サイトより)

で、ネタバレなのかなって思っていたが、予告編でも意識的に見ようと思えばわかるのだけど、公式サイトにガッツリ二人の子どもでありタイトルになっている「アネット」が映画では人形として出てるって書いてる! 
生まれてからずっと「アネット」は終始人形です。だから、日本でいうと人形浄瑠璃みたいな感じにも見えるし、でも両親たちから人ではなく人形にしか見えないってわけではなく、人間だけど映画上では人形がずっと出てきてるんですよ。
で、さっきも書いたような「ピノキオ」的なものが感じられるわけです。そのため終始不気味さや異様さがある。だけど、見方を変えれば本当にアダム・ドライバーが演じたヘンリーには「アネット」はちゃんと人として認識できていなかったとも思える。だからこそラストシーンで、ということなのかも。
宣伝の方と観終わってから話をさせてもらったけど、レオス・カラックス監督ファンの人がわりと観にきているから最高傑作という人と意味わかんないという人に分かれているらしい。うん、よくわかる。

 

2月25日
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近くのツタヤ三茶のコミックコーナーの片隅に最近新たに浅野いにお作品がずらりと並べてあるのは『デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション』最終巻が来月出るからなのだろうか。また、なにか映像化するのか。
久しぶりに『零落』を読んだが、こんなことを描く漫画家にインタビューに行くのはかなり怖いだろうな。西島大介さんもクライアントが打ち合わせ前に漫画原稿を出版社に紛失された経緯を描いた『魔法なんて信じない。でも君は信じる。』を読んできたら、かなりビビってくると言われていた。
ふたりとも批評的な視線がかなりあるし、それを取り込んだ漫画を描いていたりするから付け焼き刃で話を聞きに行ったらライター(聞き手)はおもしろいことほとんど聞き出せないだろうな。西島さんにはインタビューさせてもらったことがあるので、いつか浅野さんにもしてみたいが、かなり読み込んでいかないとボロボロになりそう。

水道橋博士のメルマ旬報』連載「碇のむきだし」2022年2月25日号が配信されました。今年の1月と2月に観た映画日記です。『エッシャー通りの赤いポスト』『スパイダーマン』『コーダ』『さがす』『誰かの花』『ちょっと思い出しただけ』などについて書いてます。


「BOOKSTAND映画部!」のレビューコーナー「月刊予告編妄想かわら版」2022年03月号が公開になりました。3月は『MEMORIA メモリア』『THE BATMANザ・バットマン-』『猫は逃げた』『ナイトメア・アリー』を取り上げています。


古川日出男著『曼陀羅華X』発売延期のことを公式サイトの日記である「古川日出男の現在地」で知る。。今日は古川さんが作家デビューした2月25日、24年目突入の一日目だ。
個人的にデビュー24年目突入のお祝いと発売延期のことについてメールでご連絡した。僕としては『曼陀羅華X』が再び「産み」なおされて一冊になるのを待つしかない。

 

2月26日
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『新潮』に掲載された『曼陀羅華X  1994-2003』と『曼陀羅華X 2004』連載第一回を読もうと取り出して、寝るまでに『曼陀羅華X  1994-2003』だけは読み終わった。

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 そして、二作めだが、二作めにしておれをデビューさせた作品、あの一九九六年の十一月の広尾の居酒屋(ビストロ)で「書き足し」が決定した小説だが、これは翌(あく)る一九九七年の九月に脱稿した(実に苦闘した)。一九九八年の二月に出版された。日付まで記せば、発売日は二月二十五日。

主人公はある教団に拉致されて、そこの予言書と黙示録を書くことになった老作家、彼は教団を抜け出す時に教祖の生まれたばかりの赤ん坊を自分の子として外に連れ出し、現在は一緒に暮らしている。
そして、もうひとりの主人公も小説家であり、「眠り病」という病を取材している。彼は「東京港埋立第13号地」にある施設にいる「眠り病」の患者である「13号」と呼ばれる者たちと共に施設にいる。彼の語りのひとつが上記のものだが、彼の作家になるまでの流れが小説家「古川日出男」自身とかなりの部分で重なっている。そして、一九九八年二月二十五日に古川日出男デビュー作『13』が幻冬社から発売されている。

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朝作業をしてから散歩がてら渋谷まで行って、ジュンク堂書店渋谷店を覗くと「古川日出男コーナー」ができていた。これは『曼陀羅華X』(28日発売予定で搬入が早いところであれば25日夕方は棚に並んでいる店にあった。ジュンク堂書店渋谷店はたぶん25 日夕方には入荷していたはずだ)に発売に合わせたものだったはずだ。少しだけ残念な気持ちになったが、『曼陀羅華X』が出るまでここにあれば、お客さんの目に触れるから古川さんの作品に未知との遭遇的に出会う人もいるはずだ。

f:id:likeaswimmingangel:20220226133543j:plainタワーレコード渋谷店でロバート・グラスパー相関図をゲットした。

Robert Glasper - In Tune ft. Amir Sulaiman (Official Lyric Video)

 

2月27日
矢野さんの新刊『今日よりもマシな明日 文学芸能論』を最後の「補論 小山田圭吾と文学の言葉」の前まで読んだ。
序論、町田康論、いとうせいこう論、西加奈子論とこの書籍のメイン部分を読んでいくと文学と芸能、そしてそれらと表裏一体である政治と社会の問題がスムーズに繋がっていくのがよくわかる。それが見事であり、町田康いとうせいこう西加奈子を読んでいない人でも問題なく読めるし、たぶん彼らの作品を読んでみたいと思うだろう。

町田康はミュージシャンだった(現在も活動はしている)こともあり、彼の文体や言葉遣いが評価されることは多い。文体が物語を呼び、物語が文体を要請する。そして、その書き手である作家はある種「憑依」されている存在である。そのためには実は言葉を持ち、同時に持たない、という空洞さがいる。
シャーマン的な要素というのは「芸」にとって太古から欠かせないものだった。そして、シャーマンがなにかに「憑依」されても、それを見たり聞いたりする視線(他人)がいなければ、それは世界に影響をなんら与えない。
言葉がなければ世界は存在しないが、それは他者という存在が前提でもある。「芸」とはかつては神への祈りであったが、やがて大衆的なものへ降りていった。「祭り」とはまさしく共同体を維持するための行事であり、シャーマン的な存在がいなくても成り立つ大衆化された「憑依」ごっことも言える。

現在ではたとえばそれがライブなどステージとそれを観るものだとすると、なにものでもない者がステージに上がればなにものかになってしまう。そしてそれを中心にして観客は祭りをたのしむ。ステージ上の「芸人」は神であり、同時に生贄である。
時代を変えるようなカリスマが時折現れる。彼らは磁場の強い存在であり、民という砂鉄を引き寄せる。そうすると世界のパワーバランスが以前とは変わってしまう。一度変わってしまったものはもとには戻らない。だが、カリスマの磁場は次第に弱まっていき、あるいは新しい時代への生贄のように姿を消す(消される)。
「芸人」はある時は神であり、同時にある時は生贄であるというその構造はずっと変わらない、河原から演芸場へ、そしてテレビになりユーチューブやネットに移り変わった。「笑いもの」にするという言葉があるように、優劣がどちらかに伸びているものを見て称賛し蔑む、そこにはもちろん差別的な構造がある。

いとうせいこう論における「無数のざわめき」を拾い上げる、声や形にしていくこと、マイノリティと呼ばれる人たちが声を上げる場所を作る、それが染み出していくと世界に変化が起き始める。いとうせいこうの「芸」と「政治的なアクション」が繋がっているのは、社会やマジョリティーに届きにくい声、可視化されにくい姿を「芸」というフィルターを通して世界に繋げようとする試みでもある。たぶん、他人を信じているからできるのだと思う。彼のアクションはとても政治的であるが、そもそも「芸」と「政」がきってもきれない現実社会の写し鏡であり、表裏一体ということをわりとみんな忘れてしまっている。それを思い出させてくれる存在でもあり、失語症的になっていた彼は、自分の声ではなく「無数のざわめき」を知り、聞いたことでそれを自分を通して語ることで小説が再び書けるようになったという。

琵琶法師についての話も出てくるが、『平家物語』はひとりの作り手の声ではなく、琵琶法師たちが語り継いでいき、各自が足したり引いたりしたそれぞれの語りのバージョン(無数の物語)の集大成(リミックス)である。見えないものを幻視し、聞こえない声を聞く、そしてそれらを紡いでいった声たちの完成形が現在の『平家物語』となっている。

西加奈子論における「おかしみ」の話も「芸論」の大事な部分であり、共同体と逸脱者の関係性がある。かつては河原乞食と変わらないものであり、芸人になるということは社会からドロップアウトするという時代があった。しかし、逸脱しているからこそのおかしさとどうしても目が離せないということが起きる。そして、それを安全な場所から見ているという自分の差別意識に気づく。
西加奈子作品はそれらを内包している。だれかがなにかを必死でしているが、失敗していたりすると笑ってしまうことがある。しかし、その誰かは夢中でなんとか物事を完成させようと達成しようとしている。次第にその「夢中さ」にこちら側は応援してしまう、その場所にいれば手を差し伸べようとしてしまう。
「おかしみ」とは夢中と関係があり、「夢中」になっている当人ではなく、見ているものを関係者に、当事者の側に引き込んでしまう力を持っている。その「見る」という行為にある差別、「見られてしまう」という恐怖と光悦の関係。
ここでも何作品か取り上げられているが、アニメ映画化された『漁港の肉子ちゃん』についても触れられている。共同体と逸脱者の話がメインで展開されているが、そこでも「肉子ちゃん」の「夢中」さによる「おかしみ」、それゆえに彼女は笑われるが、同時に手を差し伸べられる存在にもなると書かれている。この部分を読んで、なぜ明石家さんまさんがこの作品のアニメ映画プロデュースをしたのかがちょっとわかったような気がした。

そして、小山田圭吾論へ、という流れ。
小説論としてもたのしめるけど、芸能論として「見られる」側の仕事をしている人にはすごく興味深く、感じ入る部分が多いのではないかと思う。芸能人というだけでなく、今や自分の顔を出して表現や仕事をすることが増えているので、かなり広い人にも人ごとではなく読める現在進行形の「文学芸能論」になっていると思う。

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アニメ『平家物語』のびわになんか既視感があると思ってたけど、『MUSIC』に出てくる猫のスタバと同じ目の色なんだ。と思ったけど、表紙だからってスタバとは限らないのかな。読み返したらスタバは灰色の毛並みだった。

 

2月28日
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前日の19時からニコラで俳優をやっている藤枝琢磨くんがフジエタクマ名義でデジタル配信で音源を出したので、そのリリース記念イベントがあった。
最初はちょっと固かった気がしたが、最近好きでよく聞いているという落語調のトークをしてからあとは声もしっかり出ていた。観ながらその前に矢野さんの『今日よりもマシな明日 文学芸能論』を読んでいたこともあって、彼はやはり舞台に立つ側の人なんだなと思った。惹きつけられてしまうものを持っているし、人前でしっかりと自分の創作を見せれる気持ちと才能がある。
彼の知り合いのお客さんも雰囲気がよくて、終わったあとには打ち上げがてらお店で
いろいろと世代や年齢を越えて交流しているのもとても素敵な時間と空間になっていた。
普段話し足りないことや話をあまりしていない人と深く話し込んだのもあって帰ったら日付が変わっていた。タバコを吸う人が多かったので風呂に入って寝ようと思ったが、起きてから目覚ましがわりに風呂に入ろうと思って『テレビ千鳥』を見ながら寝た。起きてすぐに湯船を溜めて風呂に入った。睡眠時間は少ないはずだが、心地よい朝だった。

羊文学「夜を越えて」official audio

 

自分が書いている小説のキャラクター名で応募していた作品が「第二回羊文学賞〈二次選考結果〉」二次選考に残っていた。忘れているぐらいのほうが残っているとうれしい。

 

3月1日
〈北海道・国後島を臨む水際編〉

第二次世界大戦後北海道はソ連に占領、鱒淵いづるを指揮官とする抗ソ組織はしぶとく闘いを続ける。やがて連邦国家インディアニッポンとなった日本で若者四人がヒップホップグループ「最新"」(サイジン)を結成。だがツアー中にMCジュンチが誘拐、犯人の要求は「日本の核武装」――歴史を撃ち抜き、音楽が火花を散らす、前人未到の長編。

新しきサウンドトラック≒カテドラル、そしてむかしむかし、ミライミライへ。

 

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家から数分の整骨院で股関節と肩甲骨を緩めてもらってから渋谷まで行き、そのまま青山と神宮、赤坂を通って市ヶ谷のSME湯浅政明監督『犬王』試写で鑑賞。
古川日出男さんが『平家物語』を現代語訳した後、南北朝~室町期に活躍した実在の能楽師・犬王をモデルにした小説『平家物語 犬王の巻』を書き上げた。それを原作としたアニメ映画がこの作品になっている。 古川日出男作品に通じていると僕が思っているのは、「孤児と天皇における貴種流離譚」であり、今作の映画はそれがほかの作品よりもエンタメに向かっている作品だった。

詳しくはnoteに書いた。プラスでUCLAとかの画像もいれておいた。

 

3月2日
言葉が世界と現実を再構築して僕らの眼前に現す、反戦を願い平和を祈りたい。 

様々な言語で書き留められた「戦争反対」という意思が、フェイクによる分断を無効化させながら拡散されて、世界中の人々を正気で結ぶ。(「(後藤正文の朝からロック)反戦の声、ささやかでも」より)


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3月最初の書籍の購入は田辺青蛙著『致死量の友だち』、徳井健太著『敗北からの芸人論』、上田岳弘著『太陽・惑星』。

去年に引き続き、「太宰治賞」の一次は通過したみたいだけど、今年は二次以上に行けるといいのだけど。

 

3月3日
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10時半からの『愛なのに』を新宿武蔵野館で観るために渋谷まで歩いて、副都心線新宿三丁目駅まで乗って新宿に着いたが9時半前だった。早すぎたので献血をしようと思ったので紀伊国屋書店新宿本店の横にあるビルの5階の献血ルームに行って、10時半までに終わるか聞いたら、献血あとなんで急いだりしたら危ないので難しいですねって言われたので次回にすることにして、歌舞伎町方面に歩いて行って「いわもとQ」でもりそばと鶏天丼セットを食べる。そばは普段からまったく食べないけどここでだけ食べている。この店の揚げ物はすごくあっさりというかカラッとしていて具材の味がすごく出ていて美味しい。いつも鶏天を頼んでしまう。

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10時過ぎてから新宿武蔵野館に行く。お客さんは平日の午前だとそこそこ入っていたと思う。城定秀夫監督×今泉力哉脚本『愛なのに』を鑑賞。

「性の劇薬」「アルプススタンドのはしの方」の城定秀夫が監督、「愛がなんだ」「街の上で」の今泉力哉が脚本を務め、瀬戸康史の主演で一方通行の恋愛が交差するさまを描いたラブコメディ。城定と今泉が互いに脚本を提供しあってR15+指定のラブストーリー映画を製作するコラボレーション企画「L/R15」の1本。古本屋の店主・多田は、店に通う女子高生・岬から求婚されるが、多田には一花という忘れられない存在の女性がいた。一方、結婚式の準備に追われる一花は、婚約相手の亮介とウェディングプランナーの美樹が男女の関係になっていることを知らずにいた。多田役を瀬戸が演じるほか、一花役を「窮鼠はチーズの夢を見る」のさとうほなみ、岬役を「由宇子の天秤」の河合優実、多田役を「よだかの片想い」の中島歩がそれぞれ演じる。(映画.comより)

去年から気になっている河合優実さんが出ているのと今泉力哉監督が脚本を手がけているということにで気になっていた作品だが、すごくおもしろかった。城定監督の作品は初めてだったが、コメディっぽさもありながらセックスシーンなどもある程度描かれていて、しっかりと見応えのあるものになっていた。さとうほなみさんと向里祐香さんのことは知らなかったけど、いいなって思えたし、彼女たちが本音をいうことが物語を躍動させていて重要な役割だった。

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映画が観終わってから中上健次全集の一巻を買おうと紀伊国屋書店新宿本店に寄ったが、改装中ということもあり4階に移動した文学コーナーは棚が少ないし、一巻がなかった。諦めて渋谷に電車で戻ってから、青山ブックセンターに寄ったがなく、MODIに入っているHMVにもなく、ジュンク堂渋谷店にもなくてどこにもなかった。
MODI前の渋谷マルイの壁に菅田将暉のアルバムの宣伝ポスターがどかーんと貼ってあった。月曜のオールナイトニッポン3組が終了したら、菅田将暉のあとは佐久間さんが昇格するのかしら、俳優&ミュージシャン枠で松下洸平大抜擢とかかしら、などとこのところ思ったりしている。結局好きな声かどうかだったりするからなあ、嫌いでも慣れることもあるし、生理的な問題がわりとあるよね、ラジオは。

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朝から全部で16キロほど歩いていたので家に帰ってからちょっとだけ仮眠してからニコラにご飯を食べに行った。
スナックエンドウ 塩とレモンとオリーブオイルをビールでいただいてから、ホタルイカと菜の花のリングイネを赤ワインでお願いした。締めはアルヴァーブレンド。旬の食材を食べるとしっかりと季節を感じられる。すっかり春だねえ。

 

3月4日
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昨日探していたがどこにもなく、アマゾンで頼んだ『中上健次集1』が届いた。『中上健次集4』は2020年に福島を踏破する古川さんの取材に同行するために読んでいた。そこには『紀州』が収録されていたから。個人的には古川さんの『ゼロエフ』は中上健次の『紀州』になると僕は行く前から思っていた。
中上健次集1』の解説が大塚英志さんだった。いろいろあって最終的に大塚さんにインタビューしにひとりで行った時に指定された場所がギャラリー「Hapworth16」というところだった。サリンジャーじゃんってことはそのあとに『このサンドイッチ、マヨネーズ忘れてる/ハプワース16、1924年』が刊行されてから気づいた。そこで話を3時間ぐらい伺ったあとにギャラリーを少し見せてもらった。
棚に大塚さんが尽力して出版された中上健次の劇画原作小説であり、最後の紀州サーガ『南回帰船』が何冊か置かれていた。僕は実物を見たことがなかったので手にとったら、大塚さんがあげるよと言ってくれて、一冊もらって帰った。

僕が最初に中上健次のことを知ったのは『多重人格探偵サイコ』のスニーカー文庫版での章タイトルがそのまま中上健次作品のタイトルだったからで、二冊うちもう一冊は大江健三郎作品のタイトルだった。大塚さんはサブカルの中に純文学とかいわゆる「文学」への導入を意図的に作っていた人なので、僕はそれにまんまと引っかかったというか影響を受けた人間だ。そういう人はそこそこいると思う。
大学も出てなくて学歴もないし、小説も大人になって読み始めたから、基礎教養とかがほとんどないけど、大塚英志作品を読んでいたことで純文学とか海外文学とか、社会学とか民俗学にわりと入りやすい体質にはなっていたんだと思う。そうじゃないと阿部和重作品とか古川日出男作品を読んで一気にハマったり、おもしろいと思って読めなかった気はしている。

全集みたいに分厚くてそこそこ単価がする書籍は実際に目で見て買いたいものだが(帯破れたり表紙カバーが傷ついていたりするのは嫌だから)、紀伊国屋書店新宿本店にもないし(今は改装していて文学コーナーは4階になっていて全然商品がなくて地方の書店かと思うぐらいぐらいなかった)、渋谷界隈の書店にもなかったのでどうしようもない。
前まではジュンク堂書店渋谷店には全部揃っていたのだけど、文学コーナーの棚が面出しに一つ使うようになってから姿を消した。まあ、売れないのはわかるけどあると思っていたので、なくなるときついというザ・資本主義だから世知辛い。だから、本はすぐに読まなくてもある時に買わなければならないということになって、積読がたまっていくサイクル。

名前は知っているけど読んだことのない『灰色のコカ・コーラ』が読みたかっただけだったが、そもそもこの中編が入っている文庫本とかがない。
宇佐美りんさんが芥川賞を受賞してさらに注目されてから、影響受けた作家として中上健次の名前を出したので、書店とかでも河出文庫から出ている中上健次作品が帯変えて並んでいたけど、そのラインナップの作品たちの中にも『灰色のコカ・コーラ』は収録されていないので、全集ぐらいしか読む手段がない。

河出書房新社の刊行予定スケジュールを見ていたら4月刊行の『文藝』の特集が「中上健次没後30年&フォークナー没後60年」とあったので、それに合わせて中上健次やフォークナー作品が刷りなおされたり、新訳とかで出たりするのだろうか、とちょっと期待している。
去年フォークナーの「ヨクナパトーファ・サーガ」の第一作『土にまみれた旗』が河出書房新社から刊行されて、帯の後ろに『ポータブル・フォークナー』が来春刊行予定になっていたから、普通に考えれば4月に出る『文藝』の特集に合わせるんだろう。
特集が中上健次にフォークナーだから、阿部和重さんに古川さんに小野正嗣さんはなんらかの執筆するだろう。個人的には大塚さんになにか書いて欲しいけど、どうかな。あとは中上健次と同じ時代と空間にいたひとりだし、河出からこのところ何冊か書籍を出している北野武さん辺りにもなんか依頼ぐらいはしてるだろうな、とか想像はできる。
2020年は三島由紀夫没後50年で、2021年はヘミングウェイ没後50年でどちらも2021年に『100 de 名著』で取り上げていたから、中上健次はまだ30年だけどフォークナーは今年か来年辺りやるんじゃないかな。

先月の8日に『THE BATMAN』試写を観に行った。情報解禁までは内容はもちろんのこと試写を観たことを言うな、SNSにも一切なにも書くなという宣誓書にサインして観たんですけど、なんか3月になってもうOKになったっぽい。まあ、アメリカでのプレミア試写とかが終わるまではってことだったんだと思うけど、一ヶ月近く経ったら記憶が曖昧になってきた。
3時間はあるけど観れるしミステリー要素があっておもしろい。問題はポップなMCUの『スパイダーマン ノー・ウェイ・ホーム』観た後では暗すぎる。というかあの『ジョーカー』のラインなので明るいわけがない。ダークな雰囲気が好きな人にはオススメ。黒い画面が多いのでIMAXとかいいスクリーンで観るほうがいい。
でも、子供と一緒に観に行っても子供は楽しめないかもしれない。大人になってからわかるかもしれないけど、諸々難しいことが多い。
ラストにおけるバットマンの「正義」というものはすごく現在的なものになっているので見どころかな、と。まあ、トランプが大統領の任期を四年した後のアメリカでヒーロー描くとなると難しかっただろうなとは思う。

 

3月5日
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浅野いにお著『デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション』最終巻となる12巻が月末に出るので、既刊11巻を昨日今日で再読。
23日には重大発表があるらしい。まあ、普通に考えたらアニメ化だろう。実写映画化やドラマ化はできる限りやめてもらいたいし、すげえ難しいと思う。日本の監督でこの内容をやったら成功するイメージが全然わかない。
クリストファー・ノーラン監督『インセプション』『インターステラー』『TENET』に『魔法少女まどか☆マギカ』要素もある。クリストファー・ノーラン監督のSF的想像力と拮抗する漫画作品になっているけど、SF大賞とかにノミネートもされていないみたい。SF村の人って『大奥』を評価するなら、この作品もマストだと思うのだけど。
気分はもう戦争』があの頃の雰囲気や空気を表現しているとすれば、この作品も現在の世界の雰囲気と空気をしっかりと表現している。ネットの発達と陰謀論や個人と集団の関係性や国家と民衆なんかは後から読み返すと今をしっかりと刻んでいると思えるものになるだろう。
緩やかに日常が終わりに近づいている感じは現在的であり、世紀末に信じられていたような世界が一気に滅亡するなんてことはなく、世界はすぐには終わらないがゆるやかに、しかし確かに終わっていくという雰囲気も今とシンクロしてる。
あとは『ドラえもん』のオマージュも入っているし、コミックの冒頭には『イソベやん』という作品が載っているのだけど...。巻数が進むと意外な展開を見せてきて、浅野さんらしいやりかたでおもしろい。
3年前の8月31日に「侵略者」の巨大な空母が東京に舞い降りてきて、世界が終わるかに見えたが、アメリカ軍が空母に投じた新型爆弾「A」によって大田区は高濃度の「A線」で汚染され、3年後に現在でも東京ではわずかな線量が確認されているが、攻撃された空母は渋谷の上空で停止し、現在はそこを中心に上空を回遊している。そんな時代の中、主人公の小山門出と中川凰蘭は高校を卒業し大学生になり、青春時代を過ごしている。漫画が始まったのが2014年だったから、東日本大震災原発事故のメタファもかなり感じさせるものだったけど、「侵略者」というワードが『寄生獣』におけるほんとうの「寄生獣」とは?ということを彷彿もさせるし、そんなのは手塚治虫海のトリトン』時代からあるが、10年代が過ぎて20年代になって、ロシアのウクライナ侵攻を見ていれば、移民のメタファにもなってくる。母船とそこから逃げている「侵略者」たちに対して虐殺するべきではないと訴えるグループがいたりするが、sSEALDs的なものが使われているけど、彼らの行動なんかはどっちかというと連合赤軍的なものが使われている。巻数が進むにつれてSF的な要素が増して物語が複雑化しているけど、違和感はない。だって、現実があまりにもSF化してしまった日常を生きているし、たぶん、漫画で起きていることはあるのだろう、起きうるのだろう、いや自分の知らないところですでに起きているのだろうと僕自身は思っている。

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『タコピーの原罪』上巻をコミックで読んでから、最新話までジャンププラスで読んでみて思ったのは、逆『デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション』的な内容と設定だなあ、と。

大塚:読んだあとに何かが残るとか、表現というのは自分にとって有益なものだろうって、暗黙のうちに思ってるんでしょうが、そうではありません。読んだあとに気持ち悪いものが残るのが文学なんです。たとえば、大江健三郎を読んだときにモヤモヤした澱のようなものが残って喉につっかえてしょうがないという体験です。そこから「私」や「世界」がつくり直されていく。でも「うざい」「私語りをするな」といった様々な理由で、そういうものをすべて捨ててきたわけです。お客さんに応えてものをつくるほうが楽だから。それにいま、考えさせる表現と言われるものも、基本的に「あなたは悪くないですよ」ということであって、「私」や「世界」の足元をぐらつかせるものではないわけですよ。

大塚:楽をしたいのはいまに始まったことではなく昔からです。だから気持ちいいもののほうが売れるし、それが大衆芸能になったわけです。だけど、大抵の表現というのは誤作動が起きて不愉快なものが入り込みます。それが大きな意味を持っているのです。それは処理できない情報だけど、結局は処理しなければいけない。そのためには物語という層を抜けなければいけないわけです。「私」について考える別の作法なのか、哲学なのか、どういう風に生きていくかという具体的なことなのか、あるいは別に学問体系なのか。そういった違う文脈が必要になってくる。つまり、物語のなかで処理できずに残ったものを、作品を離れてひとりで考えなければいけないわけですよね。

『広告』vol.416「虚実」大塚英志インタビューより

昔、大塚さんが作品のあとがきで「ぼくの表現はすべからく、夢を見せるためではなく、夢から醒めさせるためにある、と言える。」と書かれていて、僕の指針のひとつになっているが、それに通じる話でもあるインタビューだった。
また、旧劇場版「エヴァ」がトラウマ的に人に傷を残し、観た人に嫌悪感や吐き気すら感じさせたのは、あの時の庵野さんのどうにもまとめられないむきだしのものを観客が受け取ってしまったからであり、文学的なものでもあった。「シン・エヴァ」は成長し大人になった庵野さんがジグソーパズルを埋めていくような作業だった。だから、よかったね、とは観続けていた人になっているが、人に深く刻まれるかと言われたらそうでもないのだろう。

 

3月6日
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浅野いにお著『デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション』最終巻が月末に出る前に、最新号の『ビッグコミックスピリッツ』に掲載されている最終話を読んだ(コミック派なので一巻分まるまる抜けている)。ファミレスに揃っていたメンツとか見て、あれが起きて世界が崩壊しなかったのかなとか想像できた。この着地点しか確かにないのもわかる。

90年代末ぐらいにエルフから出ていたようなエロゲー(我が家には兄が買っていた『河原崎家の一族』があったので目を盗んでやっていた)だと主人公の選択によってフローチャート的に物語が進行していく。そこでは生きるか死ぬか、エロことできるかできないか(できても殺されるバッドエンドも多い)みたいな分岐点があった。まさに繰り返される諸行無常、生き延びてその終わらない日々を終わらすため、本当の結末(TRUE END)を目指していた。
その後に、『ひぐらしくのなく頃に』なんかも出てきた。宮台真司さんが言った「終わりなき日常」が繰り返されていく。世紀末は過ぎ去ってしまい、9.11が起きても世界はどうやら終わらなかった。
ゼロ年代になってから日常系的な作品、繰り返される日常と並行世界を描いたものが増えていく。新劇場版『ヱヴァンゲリヲン』はまさにそういう作品だったし、円環の理が閉じて物語はようやく結実した。

東日本大震災前後には『魔法少女まどか☆マギカ』が放送されていたが、そこで描かれたのは繰り返される終末を回避するために何度も同じ時間軸を繰り返していたひとりの少女の決意と勇気だった。
デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション』がクリストファー・ノーラン監督のSF的な作品×『魔法少女まどか☆マギカ』になっている。起こり得た可能性がすべてある世界、そこでの並行世界あるいは可能世界を描いていくと最終的な着地点は現時点でそれしかない、と思う。というかそれ以外を書けばバッドエンドにしかならない。

過去現在未来すべての時間軸と可能性があるということ、並行世界や可能世界というのは僕らがいる三次元の世界とは違う、もっと次元が増した世界でならありえることだと思う。だが、想像して表現ができてもこの肉体や精神では現状では知覚できない。
仏陀が悟りを開いたというが、それは彼が三次元の先に抜けたんじゃないかなって思うし、神様や仏様や宇宙人や未知の生命も四次元、五次元とかただ向こう側の存在なんだろうと考えればわりと整理しやすい。
デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション』はこの20年の空気を特に東日本大震災以降の時代の雰囲気を濃厚に描いている。それだけでも読むべき価値はあると思う。

 

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『怪獣8号』6巻が発売されていたので購入する。ツタヤとかで買うとビニールされているのは前からだけど、最近のジャンプコミックスとかっておまけのポストカードみたいなものが店舗特典みたいなのがついていて、それを表紙の上にしてシュリンクするから本のタイトルが隠れていて発売していることに気づかなかった。まさに本末転倒! 
客から特典について聞かれるのもめんどくさいからついてますよってことを表明しているんだろうと思うのだけど、無駄に本末転倒だよ、無人レジにしたことで特典は商品に入れ込むということになってるわけで、いろいろわかるんだけど、なんか本末転倒! 本末転倒っていいたいだけ。
防衛隊の新人の中でも最強クラスのキコル。その父で防衛隊長官の四ノ宮功と怪獣9号の戦い、そして、キコルの母で怪獣との戦いで亡くなった元防衛隊第2部隊長だったヒカルと功とキコルの家族の話がメインになっていて、普通に考えたらほんとうに主人公はキコルなんだろうね、英雄の子どもだから。
しかし、この作品の主人公の日比野カフカはそちら側ではなく、怪獣が体に侵入したことで人類の敵であるはずの怪獣に返信する能力を持つことになる。イレギュラーな要素を持つことで『ウルトラマン』や『デビルマン』から、最近の『進撃の巨人』の系譜に連ねる主人公にカフカはなっている。やっぱり読んでいる感じだと20巻とかまでいくって長さにならずに10巻ぐらいでまとまるんじゃないかなって思う。

樋口さんがオレンジ、松本さんがグリーンな衣装で二人が並ぶとすごく上品な感じになっている。松本さんの激しさと強さが感じさせられる話でゆるいとこがなかっただけに、樋口さんの「僕は今、結婚7年目で浮気をしたことはないですが」ってわざわざ入れてるとこで笑った。

 

3月7日
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前にツタヤ代官山書店に行った時にタイトルの『246』に惹かれて購入した沢木耕太郎さんの日記エッセイ。
1986年ぐらいの時期のものみたいだが、沢木さんの自宅はわからないが、仕事場が三軒茶屋にあったみたいでその頃の三軒茶屋の喫茶店なんかが出てきてちょっとしたタイムリープになる。この頃の沢木さんは今の僕よりも一才か二才ほど若いがしっかりしすぎていて、超大人な感じがする。やっぱり、ひと昔前の三十代の成熟度が今の四十代ぐらいな感じの成熟度になっているんじゃないかな。僕が未熟すぎるのをプラスしても、しっかり大人な雰囲気を文章から受ける。
「246」というのは国道246号であり、三茶に12年とか住んでいるのでいちばん身近な道路だ。いろんな歌にも出てきたりする。wikiで見ると国道246号は「東京都千代田区から神奈川県県央地域を経由して、静岡県沼津市に至る一般国道である」らしく、総距離は125キロぐらい。一日では無理だが、二日あれば歩けるし、いつか歩いてみよう。

NHKドラマ『恋せぬふたり』をようやく見始めた。とてもいいなと思える作品で、漫画『ひらやすみ』も映像化すると近い雰囲気や温度感になるのかなと思った。
アロマンティック・アセクシュアル(アロマンティックとは、恋愛的指向の一つで他者に恋愛感情を抱かないこと。アセクシュアルとは、性的指向の一つで他者に性的に惹かれないこと。どちらの面でも他者に惹かれない人)という言葉。
言葉が認識され始めると少なからず世界に広がっていく。昔だってそういう人たちもいたはずだけど、家のためとかで見合い結婚させられて、結婚して子供ができて家族になって、みたいな流れに逆らえなかった人もたくさんいたんだろうな、と思う。
このドラマでいいのは、理解できない人に無理に理解してもらおうとはしない、強要しないという考えがあって、セリフにしていること。
高橋一生さんと岸井ゆきのさん出演作の当たりというか打撃率が映画にしろドラマにしろ高い。そして、監督であり役者のアベラヒデノブさんが一話で家族におけるいいクッションみたいな感じで出ていた。

 

3月8日
charlieのブログ『SOUL for SALE PhaseⅡ』 『「プーチンの戦争」のユニークさ』


『灰色のコカコーラ』を読むために『中上健次集1』を購入して読んでいる。中公文庫『路上のジャズ』にも収録されていた。見落としてしまっていたけど、やっぱり全集の方がデザインもだけど、分厚くてよい。
『灰色のコカコーラ』を読んでいると佐藤泰志の小説に近いものがあるなと思った。中上も佐藤も戦後生まれでジャズ好きな部分があるからなのだろう。前に佐藤泰志の小説を読んでいると村上春樹の初期作品に近い文体のように感じた。でも、中上健次村上春樹は似ているとは感じない。
中上健次佐藤泰志村上春樹という戦後生まれでジャズを好きだった彼らの「一人称」と自意識みたいなものは時代の空気が文章に表れているのだろう。
ただ、中上の『灰色のコカコーラ』は彼が二十代の時に書かれていて、佐藤泰志きみの鳥はうたえる』は彼が三十代になってから世に出ている。ここで時間差が生まれているから、佐藤も中上の影響はあったのかもしれない。中上は「紀州サーガ」を書いていたし、佐藤も故郷である「函館」を舞台にした作品を残した。
村上春樹は同じような時代やジャズという共通項はあるけど、サーガを書かなかった。その代わりに翻訳というものがあったのかもしれない。
中上は病死で、佐藤は自殺して共に四十代で亡くなっている。村上春樹だけが生き延びて、世界中で知られる作家になっていった。その差はなんなんだろう、とふと思う。村上春樹ノモンハン事件とか戦争について書いた。壁を抜けて、井戸の底に降りた、ということが実際にも作家としても生き延びるためには必要だったのかもしれない。そう考えれば、W村上である村上龍も戦争については何度も書いている。
村上春樹プリンストン大学の客員研究員として招聘されて渡米しているけど、以前には江藤淳プリンストン大学に留学していた。どちらもアメリカに行くことで日本を発見したと言われている。三島も同様だし、彼の場合はフェイクのフェイクの素晴らしさみたいなもの(彼のヴィクトリア朝コロニアル様式の邸宅 )、そしてディズニーランドが好きだったりして通じているところがたぶんある。
でも、島田雅彦の自伝みたいな本でニューヨークにいたときに同じくニューヨークにいた中上がちょこちょこ会いにきたみたいなことを書いていたけど、中上は江藤や村上とは違うものを見つけたような気もする。
ジャズはキーワードとしてあるはずだし、でも、子供世代はロックンロールだったから文脈が違う。ジャズの子供がR&Bで、孫がラップだとすれば、やっぱりヒップホップやラップが当たり前な世代の言葉が中上健次村上春樹世代を引き継いでいくんじゃないかなって思う。

戦後、私が手にした日本の小説は、中上健次を除いて、すべて子ゴリラの視点で書かれているように思える。太平洋戦争を扱ったものにおいて、それはことさらに顕著である。軍部やその他の支配者が描かれていないというのではない。私はずっとこう教えられてきた。軍や財閥が戦争を引き起こし、大多数の国民は引きずられて犠牲になったのだ、と。そうではないことははっきりしている。国民が望まなければ、戦争は起こりはしないのだ。教育や宣伝や報道や法律の影響はあったにせよ、当時の国民は戦争を望んだのである。狂熱があったはずだ。私が戦後の小説に激しい苛立ちを覚えるのは、その熱をはらんだ空気が暴露されていないからだ。唯一、想像をかき立てられるのは林芙美子の「浮雲」である。この小説は、戦争によって引き裂かれた被害者の恋愛ではなく、侵略した仏印の密林の熱気によって育てられた恋愛が描かれているからだ。
「この戦争は、ゆき子にとって生涯忘れる事が出来ないのだ。あの時は、本当に幸福だった……」
 戦争は悪だ。しかしその悪は現在にも形を変えて満ちている。殺されかけた子ゴリラの視点では、永久に悪を暴露することはできない。自分の空洞を直視し、薄汚れた日本語を憎み、殺す側の領地に深く踏み入って、初めて悪と向かい合う事ができるのである。
村上龍『長編のあとの疑問』 『コインロッカー・ベイビーズ』執筆後に読売新聞に寄稿した文章、『村上龍全エッセイ1976-1981』収録。

戦争という「非日常」における日々の中の狂熱については、15年戦争時に代表作となる作品の大部分を発表している太宰治がいる。彼はその熱に浮かれてもいたと思うし、だから書けたんだと思う。その熱狂が敗戦によって終わればもう死ぬしかなくなってしまったようにも思える。だって、彼が浮かれていた「非日常」は終わってしまったのだから、あとは悲しすぎて誰かを道連れにして死ぬぐらいしか狂熱は残されていない。太宰治という作家は「非日常」における浮かれた身体と時間、その終焉を体現してしまったという意味ですごく日本的な作家なんだと思う。バブルでもネトウヨでもなんでもいいんだけど、「祭りのあとにさすらいの日々を」耐えきれないメンタリティーというか。
コインロッカー・ベイビーズ』を書き終えたばかりの村上龍は「悪」について意識している。村上春樹もその後、「悪」について書くことになったけど、長編小説を書く際に、自分の内部へ降りていくという行為を得ないと、作家は「悪」について見つめて、書くことはできないのかもしれないなと思った。

一年前にFacebookに書いていたもの。その一年後に中上健次『灰色のコカコーラ』を読み終わった。

 

3月9日
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『新潮』2022年4月号掲載の古川日出男戯曲『わたしのインサイドのすさまじき』を読む。
登場人物は女性四人の戯曲。つまり俳優が四人いたらできるというのが今まで発表されている古川戯曲に比べると登場人物も少なく、舞台装置もわりとシンプルなものになるなという感じがした。
物語の中のセリフで男優とか女優とかの言い方とか、かつては看護婦だったけど今は看護師となったこと、シングルマザーでノンフィクションライターでもあった紫式部の本名は隠されたままで、藤原という名字はわかっているが下の名前はわからないということ。古い歴史において女性たちの実名がわからないのはフツーのことだった。みたいな会話がなされている。ジェンダーのことがかなり多く出てくるし、少し前に『新潮』に古川さんによる現代語訳『紫式部日記』が掲載されたことで、この戯曲が生まれたんだと想像できる。警察病院を舞台にしているが、そこに入院している舞台の演出家がいるが、彼の病室のドアは見えないが真ん中に存在しているという風になっており、看護師と女性警察官、舞台女優二人が登場人物であり、見えない演出家との関係性ややりとりが最終的に四人での舞台に昇華されていくというものだ。そして、犬と猫に関する描写がたびたび出てきて、そこにも古川日出男作品らしさがある。


最近はradioheadの『Lift』とこのバージョンの『Fog』をよく聴いているんだけど、純文学系を読む時にはradioheadがよく合うというか僕にはちょうどいいのは、たぶん読んだあとに後味の悪いものが残る(作り手の我という他者性が読み手の中に侵入してきそうになる、あるいは混ざりそうになる嫌悪感みたいなもの)という部分で共通しているからなんだと思う。

 

3月10日
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ワクチン接種3回目を近所のキャロットタワーの4階で。会場のスタッフの人たちがかなり若い感じで大学生ぐらいに見える人が多かった。このご時世だし、飲食店とかバイトも少ないだろうから、バイトとしてやってるのかなとか思いながらしっかりとした動線ですぐに注射は終わった。注射のあと15分は椅子に座って待たないといけないので、持っていっていた堀江敏幸著『オールドレンズの神のもとで』を少し読み進める。

一旦家に寄ってから着替えてバッグをバックパックに変えて渋谷まで歩く。そこから神保町駅まで行き、15時までブラブラして時間を潰す。

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まん防期間中は事前予約しないと入れない「PASSAGE」に15時直前に入店。
お目当ての大塚英志さんの私家版批評集『昔、ここにいて今はもう、いない。』がラスト一冊だった。追加を宅配便で送ったと昨日夜に大塚さんがツイートされていたが、あぶないあぶないギリギリセーフ。ちょうど堀江敏幸著『オールドレンズの神のもとで』を読み始めたので仲俣さんの棚にあった堀江さんの小説と一緒に購入した。この店はノーキャッシュレス、現金では会計ができない。棚は個人が多いけど出版社もあったりして、これからいろんな人が参入したらよりカオスで個性的なお店になりそう。

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最後のページで鉛筆でかかれていたナンバリングは9/50だった。
事前に予約して神保町に行って実際に店舗で手にとって買う。本はハードとソフトを兼ね備えている。だからこそ売り切れてたら?という気持ちにもなる。これが電子書籍なら、買いに行って帰るという時間であったり、売り切れてたらとドキドキも発生していなかった。体験も込みで書籍であり、本だと思う。

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終わって三茶に帰ってからニコラでコーヒーを。明日3月11日にニコラの上の3階にオープンする本屋&ギャラリー&カフェ『twililight(トワイライライト)』にも顔を出してお店の中と屋上を見せてもらった。いよいよ明日オープンだ。

 

3月11日
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2011年に刊行された古川日出男著『馬たちよ、それでも光は無垢で』(新潮社)、2021年に刊行された『ゼロエフ』(講談社)。2020年に古川さんが国道4号線と6号線と阿武隈川周辺を歩いて考えたこと、震災文学としての『平家物語』という思考など、読んだ人もまだの人もこの作品たちに触れてほしい。と3月11日を迎えたことで新たに思う。

 

古川日出男 × 管啓次郎 × 小島ケイタニーラブ × 柴田元幸「コロナ時代の銀河 -朗読劇『銀河鉄道の夜』-」
柴田元幸& デビッド・ボイドほか翻訳・監修
英語字幕版 & フランス語字幕版 完成
2022年3月11日 14時46分 無料配信 スタートします。

 

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ニコラの上の3階に本日オープンした『twililight』(トワイライライト)に行ってきた。
熊谷さんが淹れたコーヒーを飲んで、古本コーナーにあったレイモンド・カーヴァー著『ささやかだけど、役にたつこと』を購入した。
大きな窓から入る光の明るさやあたたかさが室内を満たしている感じで、とても落ち着ける。屋上からは茶沢通りが見下ろせて、知っているはずの道が少し違って見えた。
お店は13時から20時(まん防期間中、終われば21時まで)まで開いていて、火曜日と第三水曜日が休みでそこはニコラと同じなので、2階と3階どちらも顔をだしてみてください。

朝起きるとワクチン接種三回目の副反応なのかかるいダルさと頭痛があったので、痛み止めを飲んでから仕事をリモートワークで開始した。休憩中にトワイライライトに行ってから痛み止めが切れ始めたのかちょっとずつ頭痛が復活してきた。やっぱり三回目接種後はわりと副反応が来るという話は聞いていたが、本当だったみたいだ。
19時からドミューンの現場に行って、ジャズドミュニスターズのライブを生で見るつもりだったが、夕方以降にダルさと頭痛が戻ってきたのと、あだち充論の原稿締め切りがあるので諦めて家で試聴した。うーむ、副反応と締め切りめ。

3月12日
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昨日トワイライライトで購入したレイモンド・カーヴァー著『ささやかだけれど、役にたつこと』。
メフィスト賞に応募する時には必須項目に「人生で最も影響を受けた小説3作」というのがあって、それを自分が書くとすると、レイモンド・カーヴァー『愛について語るときに我々の語ること』、大塚英志『摩駝羅 天使篇』、古川日出男『サマーバケーションEP』になる。
『サマーバケーションEP』は聖地巡礼のように物語と同じように井の頭公園神田川の源流から川沿いを歩いて晴海埠頭(晴海客船ターミナル)まで行き東京湾に出るということ実際に十回行っている。最初の一回目で書かれたフィクションと自分の現実というノンフィクションが混ざり合う感覚があったし、実際に歩いてみると書かれたことよりも書かれていないことがなんなのかがわかるのもおもしろい経験だった。『ゼロエフ』では国道4号線と国道6号線はNHKの撮影クルーがいて、僕と田中くんは国道6号線を古川さんと一緒に歩いた。そして、晩秋の阿武隈川周辺に関しては古川さんと僕のふたりで川沿いを取材として歩いた。それは『サマーバケーションEP』を繰り返していた僕へのある種のサプライズでもあった。古川日出男作品で物語として好きな小説はほかにもあるけど、人生に影響を与えたとなるとこの作品になる。
『摩駝羅 天使篇』は人生でいちばん繰り返して読んでいる作品であり、電撃文庫から刊行されているにも関わらずラノベ的では全然なかった。正直やっていることが「天皇小説」なのだから、ラノベのレーベルから出ていることが不自然だった。ある時期の大塚さんは自分が原作をやっている漫画やこの小説に「天皇」を出していた。しかし、「天皇」が出てくると掲載されていた漫画誌は休刊し、この小説も3巻以降は出ていない。
インタビューでこの小説について伺った際に、ほんとうは『タイガーマスク』のメディアミックス的なことを梶原一騎の弟の真樹日佐夫あたりから持ち込まれて始まったものだったと言われた。それ故に最初の一巻では虎のマスクのリアルファイトの選手が出てきており、当時大塚さんがハマっていたUWF的な戦いが繰り広げられていた。しかし、『摩駝羅』シリーズというファンタジーに向かっていくと正直書けなくなってしまった。それは「摩駝羅」で組んでいた田島昭宇さんの絵がどんどんうまくなってリアルさが増していくと剣や魔法の世界を描くことに異和感を持ったことと同じものだったのだろうと言われていた。つまり漫画家と原作者では漫画家の方が先に自分の技量や世界観との差異を感じ、原作者も自分自身が実作者になったときにそのことに気づいたという話だった。だからこそ、多くの「摩駝羅」ファンがいまだに大塚さんに『摩駝羅 天使篇』のリブートや続編を求めているけど、単純に書けないのだという話だった。
僕は古川日出男作品について「孤児と天皇貴種流離譚」という説を用いて論じることができると思っているのだが、自分が書く作品で「天皇」に関するものが出てくるのは古川さんの影響もあるが、最初のところは大塚さんの作品によるものだと思う。その意味で影響はモロに受けているし、自分が書いたものを読み返すと無意識に『摩駝羅 天使篇』的なモチーフを使っていてビックリすることがある。
『愛について語るときに我々の語ること』は映画の専門学校時代にシナリオの先生から提出したプロットにダメ出しされたあとに読んでみろと勧められたのが『愛について語るときに我々の語ること』に収録されている『足もとに流れる深い川』だった。言われてからすぐに購入して読んで驚いた。それまで読んだことがない短編作品で終わり方もこんな作品があるんだと知った。日本ではレイモンド・カーヴァーの作品は村上春樹さんが訳しているが、僕は小説家の村上春樹に出会う前にレイモンド・カーヴァーの翻訳者として村上春樹に出会っている。そして、影響を受けたことになる。『愛について語るときに我々の語ること』を読まなければ、その後も海外文学を読んだり興味を持つことはなかったのは間違いない。翻訳した村上さんも『足もとに流れる深い川』が最初に出会ったカーヴァーの作品であり、読んで胸が震えるほどびっくりしたと語っている。カーヴァーもチャールズ・ブコウスキーにも惹かれるのは自分が最近は言わなくなっているがホワイトカラーではなくブルーカラーに近い学歴や人生であり、彼らに共感できることが多いからだとも思う。それもまた別の話だけど。

なんなんだろうな、このシングルの時のジャケットの四人の並びの絶妙さ、でもくるりでしかないっていう距離感というか、とても不思議な四人。

 

3月13日

2月上旬に『THE BATMAN』試写を観に行った。その時に情報公開(アメリカでのプレミア公開以降)までは内容はもちろんのこと試写を見たこともSNSに書いたり、言わないという誓約書にサインして観た。
本編とはほぼ関係ない最後の部分で映画には出演と言われていたけど、どこにも出ていないだろうバリー・コーガンらしき人の声が聞こえるシーンがあった。マット・リーヴス監督は続編に関しては否定はしてないが、今のところ予定はないみたいなことを言っているのだけど、どう考えてもそのバリー・コーガンらしき声の主はジョーカーでしかなく、この記事だとバリー・コーガン演じるジョーカーが出るシーンあったけどカットしていたらしい。そう考えるとカットしたのに最後の最後で姿は出さずに声だけ出演になったバリー・コーガンがかわいそうだし、続編作る満々じゃんとは思ってしまう。
ノワールものが好きな人は今作の『THE BATMAN』好きだと思う。ポップで明るいヒーローものが好きな人にはあまり受けないと思う。

〈著者より——私(古川)はここで読者の容赦を乞わねばならない。この『曼陀羅華X』の連載はすでに十回を数えて、今回で十一回めとなる。が、『曼陀羅華X 2004』および、その前身である『曼陀羅華X 1994—2003』内の二つのパート、「小文字のx」と「Y/y」を私はなかったことにする。私はいま、とんでもない宣言をしているのだとは自覚している。それでも物語の真の要請には服したい。私は『曼陀羅華X』から麻原彰晃を消す。これはその名前を消すのである。
私が「そうしてしまうこと」の真意の判断、また、当然ながら是非の判断は、読者に委ねる〉

15日に発売される単行本『曼陀羅華X』が「新潮」で連載されている時、毎号読んでいた。これは「野性時代」で連載されていた『黒いアジアたち』が東日本大震災が起きたこともあり、最終的に単行本にもならなかったことが大きかった。
好きな作家さんの作品は連載中に読んでおかないといけない、単行本にならない可能性がある。いや、連載を並走していなかったせいで形にならなかったのではないか、とすら勘違い的に感じたことで、次作『女たち三百人の裏切りの書』以降からは連載で追いかけはじめた。
上記の引用(2020年12月7日に発売された「新潮」誌(2021年新年号)の、掲載原稿の冒頭部分)で古川さんが「なかったことにする」と言われて単行本『曼陀羅華X』には入らない「小文字のx」と「Y/y」の2パートは、個人的には東京湾岸における物語として『LOVE』『MUSIC』『ゴッドスター』『ドッグマザー』に連なる物語だと思って、連載を読んでいた。
「なかったことにする」と言われているので、掲載誌「新潮」でしか読めないことになってしまっているのだが、この2パートを再生させて違うアナザー『曼陀羅華X』になったりしないかなと思ったりもする。

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散歩がてら有楽町まで歩く、気温が高くなってきたのと花粉が、花粉がすごいのだけが大変だった。
渋谷から青山墓地を抜けて、赤坂へ。首相官邸前と国会議事堂を横目に日比谷公園を横切り有楽町ビッグカメラ7階へ。
ユーチューブでもアップされている佐野元春先輩の『約束の橋』でアンコールの最後を締めたが、『自問自答』の中では1945年8月6日に広島を焼き尽くしたあの超越的な光の炸裂による破壊から現在のウクライナの若い兵士の最後に口から出た言葉「お母さん」という事柄を入れ込んでいて、This is 向井秀徳ネクストフェイズに入ったように感じた。
ウォーターフロント』も久しぶりに聴いたが前とは少し違うバージョンになっていた。馴染みある曲もアコースティック&エレクトリックのライブでは進化し続けている。

向井秀徳アコースティック & エレクトリック - 約束の橋

 

3月14日
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曼陀羅華X』の発売日は明日だけど、家から散歩がてら歩いて行けるジュンク堂書店渋谷店にお昼過ぎに行くともう入荷されていた。発売日が変更になったのだが、前の発売日に合わせて「幻視する作家 古川日出男」特設コーナーができていたので、そこに『曼陀羅華X』が収まったことで完成したぜ、という気持ちになった。
なにはともあれ、古川さん『曼陀羅華X』刊行&発売おめでとうございます!
連載で追いかけて読んできた作品だけど、やはり一冊としてまとまったものを読めるのはうれしい。『曼陀羅華X』ももちろんだけど、『ミライミライ』『ゼロエフ』など過去作もこの機会に読まれてほしい。

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古川日出男著『曼陀羅華X』を読み始めようとカバーを外したら、作中に出てくる二つの小説『666FM』と『らっぱの人』のタイトルが現れた。


渋谷に歩いていく途中にスマホで「太宰治賞」のサイトを見たら二次選考通過作品がアップされていたが、そこには自分の名前と作品はなかった。2年連続で一次通過、うーむ、二次選考の壁が厚い。送った作品はあるサーガのひとつのなので短くして一つの章として組み込もうかと思う。いいことと悪いこと両方ある春になったみたいな暑い日。

 

3月15日
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アピチャッポン・ウィーラセタクン監督『MEMORIA メモリア』をヒューマントラスト渋谷にて鑑賞。

ブンミおじさんの森」などで知られるタイの名匠アピチャッポン・ウィーラセタクンが「サスペリア」のティルダ・スウィントンを主演に迎え、南米コロンビアを舞台に撮りあげ、2021年・第74回カンヌ国際映画祭で審査員賞を受賞したドラマ。とある明け方、ジェシカは大きな爆発音で目を覚ます。それ以来、彼女は自分にしか聞こえない爆発音に悩まされるように。姉が暮らす街ボゴタに滞在するジェシカは、建設中のトンネルから発見された人骨を研究する考古学者アグネスと親しくなり、彼女に会うため発掘現場近くの町を訪れる。そこでジェシカは魚の鱗取り職人エルナンと出会い、川のほとりで思い出を語り合う。そして1日の終わりに、ジェシカは目の醒めるような感覚に襲われる。共演に「バルバラ セーヌの黒いバラ」のジャンヌ・バリバール。(映画.comより)

主人公のジェシカに聞こえる不思議な爆発音のような音をめぐる冒険ともいえる今作は、音に関することからレコーディングスタジオに勤務するサウンドエンジニアに会いに行ったりなど音の原因を探ろうとしていく。そして、魚の鱗取りをしているエルナンと出会い彼と話をし始めるとそれまで謎だった爆音の正体がわかるという展開になっている。
爆発音の正体はそれまでの展開からは少し意外な気もしたが、考古学者とのやりとりなどの箇所もあるので、絶対にそれはないだろというわけでもなく、むしろ最初はびっくりもしたがしっくりもきた。だけど、ジム・ジャームッシュ監督『デッド・ドント・ダイ』にもティルダ・スウィントンは出演しているのだけど、その際に彼女がゾンビ関係なく、あるものと遭遇してそのまま消えたシーンがあり、今回の原因元がそれと限りなく近いため、偶然なのかアピチャッポン・ウィーラセタクン監督が『デッド・ドント・ダイ』を観ていて、あえて彼女をキャスティングしたのではないかと思えてしまった。

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歩いて恵比寿にあるLIQUIDROOM で「D.A.N. presents “Timeless #6” 」のライブを観る。サード・アルバムがよすぎるD.A.N. とゲストはドラマ『大豆田とわ子と三人の元夫』のエンディング曲を手掛けたSTUTSのツーマンだったが、客層が若くておしゃれな人が多かった。
フロアの床には正方形でひとりぶんのエリアがテープで区切られていた。客数はマックス入れていないとしてもそれでもソールドアウトでかなり人がいる、圧迫感のような感じもした。コロナで客数を制限するライブが当たり前になっているから、区切っていても左右が空いていない感じだとかなり人が多いという印象を受けた。

昨日ライブで観たSTUTSはなんというか弟っぽいというか、演奏終わってMCで間違えてこのボタン押しちゃって、すみませんみたいなことを一緒にライブをやっていた鍵盤やラッパの人に言っていたりして、でも、演奏とかはガンガン攻めていくという雰囲気がその前に大河ドラマ『鎌倉殿の13人』を見ているせいか菅田将暉演じる源義経みたいだなと思った。ようするに天才肌だけどお茶目で底知れない。そのせいでメインのD.A.Nがお兄さんみたいな、源頼朝みたいにすげえちゃんとしてる(弟に比べちゃうから)なって思っちゃった。『大豆田とわ子と三人の元夫』のエンディング曲「Presence I」もはじめて人前でやったって言ってたけど、ライブバージョンもよかった。

LIVE FILE : STUTS “Contrast” Release Live / Digest

 

3月16日
昨日ライブ終わったあとに恵比寿の親友と飲んでから歩いて帰ったら3時過ぎていたので起きてからも多少の二日酔いがありつつも、9時からは仕事を開始。作業が溜まっていなかったので助かった。

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休憩中に駅前まで歩いて発売になった千葉雅也著『現代思想入門』と『WIRED』最新号を購入する。どちらも読めるのは明日の休みだけど、『WIRED』は特にたのしみだし、いいデザインだ。雑誌でたまに買うのってブルータスとか特集によるけど、あとは『WIRED』ぐらいな気がする。

デジタル資産を専門とする米国の法学者ジョシュア・フェアフィールドは著書『OWNED』で、スマホを所有する現代人は自らの土地をもたないデジタル小作農と同じであり、もはや所有「されている」存在だと書いている。デジタル資産の4つの権利 ──ハックする権利、売る権利、そこにCodeを走らせる権利、Codeを禁止する権利──を取り戻すことは、「所有」することと不可分だった自らのアイデンティティやプライヴァシーを取り戻す営為なのだ。

っていう部分を読むと森博嗣著『女王の百年密室』のことを思い浮かべるよね。

 

3月17日
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藤井道人監督『余命10年』をTOHOシネマズ渋谷にて鑑賞。
原作は読んだことないけど、うまくギリギリのところで感動ポルノにならずに作られていた。
約二時間観ているといちばん変化するのは主人公の茉莉(小松菜奈)ではなく、彼女の恋人になる和人(坂口健太郎)であり、序盤で自分の部屋から飛び降りた男の再生の話でもある。その意味でもくさっているような人生を諦めていた男がどんどんいい表情になっていく、その顔の変化がしっかり作られていた。
その和人にとって師匠的なポジションをリリー・フランキーさんが演じている。日本映画界はどんだけリリー・フランキー頼りなんだよとは思うのだけど、しっくりくるのだから仕方ない。和人を光の方へ導くのが茉莉であるものの、人生における師匠のような存在に出会えたことがやはり大きい。
会社にしろそうでない場所であっても、年上の同性でも異性でもいいのだけど自分にとっての道標になるような存在がいるといないとではまるで違う。さらりと和人とリリー・フランキー演じる焼き鳥屋の店主のやりとりは描かれているが、そこが人が成長するには大事な部分だろうなとも思った。
構造的には本来は和人が主人公でヒロインが茉莉。一度「象徴的に死んだ」和人の再生の物語だが、主人公とヒロインの位置が変わることで茉莉視点の話になっている点がうまいと思った。
治療方法がなく余命10年、大学三年生のときに受けた手術後の10年生存率はほぼ0%な茉莉は、生と死の境界線にいる生者であり死者でもある。だからこそ和人がどちらに引き込まれるか、とも言えるが茉莉の家族が人としてちゃんとしていることもあり、彼女が和人に与える影響は光の側の方に、つまり生者の側になる。
そして、人が大人になる時には大切なものや大切だった人がこちらではなくあちら側に移行していく、まるで供犠のように。スヌーピーにおける年下なのに、みんなと同じ背格好になるライナスが幼さの象徴として手放せないライナスの毛布のように、これは和人の成長譚でもあるから、彼の成熟と共に茉莉はやはりこの世界から損なわれてしまう。それを茉莉の側から書いたことで感動ポルノにならずに済んでいたようにも感じられた。
リリイ・シュシュのすべて』における主人公の蓮見の成熟のための身代わりになる星野のように、この『余命10年』は星野の側から見た世界とも言えなくもない。この構造は蓮見と星野が入れ替わっても物語として強い。物語の王道パターンなので広く届けるエンターテイメントに向いている。

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映画観た帰りに本日発売になった大塚英志著『大東亜共栄圏のクールジャパン 「協働」する文化工作』を購入。ここで書かれている田河水泡の漫画教室と『のらくろ』を読んだ若い世代が戦地に行った部分が読みたくて。

3月18日
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PLANETS刊行『モノノメ』2号が届いたので『ドライブ・マイ・カー』鼎談から読む。かつての村上春樹作品における鼠や五反田君は主人公の分身であり、負の可能性だった。『女のいない男たち』で久しぶりに出てくる主人公が友達になったり関わる男性たちは、鼠や五反田君とは違う完全な他者だが、彼らは途中でいなくなったり、自殺してしまう。その話を読んでいたら、友達がいないまま生きてきた老人の問題のようにも思えなくないのだが、『村上RADIO』っていなくなった鼠や五反田君に語りかけているようなものなのかな、と鼎談と関係ないことを思った。

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ティム・オブライエン著/村上春樹訳『本当の戦争の話をしよう』は改めて今だからこそ読まれるべき作品なのだろう。

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宝田明著『銀幕に愛をこめて ぼくはゴジラの同期生』
週刊ポスト」の映画コーナーでご一緒していたのむみちさんが構成を手がけられていて、ご恵投いただいたもの。改めて読み返してみようと思う。

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ニコラでガトーショコラとアルヴァーブレンドを。
雨が降って寒かったから温かいコーヒーはほんとうに温まるし美味しく感じた。

寝る前に福岡にいる水道橋博士さんの元弟子の山本くんと電話をする。4月から東京に帰ってくるのでその話、オフィスと住む場所がこの間歩いた場所だった。いろんなことがうまくいくといいし、これからもいろんなことを話していくと思う。福岡に帰った頃よりも声の感じがよく、自信がついたのがわかる。

 

3月19日

1945年8月6日午前8時15分、あの光の眩しさや
1945年8月9日午前11時2分、あの雲の赤と黒の色合いや
どっか遠い知らない国の 街の空に鳴り響く戦闘機の爆撃音や
焼け焦げた赤ん坊を抱きしめた時の体温や
故郷から遠く離れた国に無理矢理連れてこられた若い兵士が
ライフルで右目を撃ち抜かれ 死ぬ間際に放った「お母さん」という叫び声や
そしてまた生まれ死んでいく
繰り返される諸行無常

13 日の日曜日に向井秀徳アコースティック&エレクトリックをよみうりホールで観た。
その日の映像がアップされていた。理由はわかる。この『自問自答』に向井さんが普段は歌わないことを、上記の歌詞を入れて歌ったから。
明らかに前とは違うフェーズに入っていたThis is 向井秀徳を見て鳥肌が立った。

 

3月20日
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ブックオフで見つけた中上健次著『鳳仙花』文庫版。
『鳳仙花』が収録されている全集は持っていないので、読むのも初めて。中上健次作品の新潮文庫版は全部絶版か権利問題が変わっているのでもう出ていないのだと思うのだけど、全集以外で読めるようになるといい。今年は没後30年だし。
今日明日で『曼陀羅華X』を読み終わるので、『鳳仙花』自体は連休最終日に読めるといいのだけど。

 

3月21日
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古川日出男著『曼陀羅華X』読了。連載時にずっと読んでいたものが単行本にまとまったものを読んだわけだが、その感触はかなり異なる。
単行本として読むとかなりソリッドな印象を受けるし、よりエッジさが増している。硬くて鋭いというのはナイフ的なものをイメージするが、それは作中の内容とも関係しているのかもしれない。

単行本になる際には掲載時には書かれていたふたつのパート(「小文字のx」と「Y/y」)が削られている。それは連載の途中である2020年12月7日発売号の『新潮』に掲載された「11回」の時に著者の古川さんが「私はなかったことにする」と宣言していたので当然といえば当然である。
「小文字のx」には本編に出てくる老作家とはちがうもうひとりの小説家(おれ)が出てくる。彼は夢遊病患者で埋立地にある施設にいる。
「Y/y」の主人公のららは本編の老作家のガールフレンドの異父妹の看護師であり、「おれ」がいる施設で働いている。このふたつのパートは東京湾岸が見ていた夢のようにも思えなくもなかった。

また、ある種の予見としてこれらのパートにはコロナパンデミックが世界中で大流行し、日本でも売れに売れたカミュ『ペスト』について語られる部分があり、現実と呼応してしまっていた。単行本でもフォークナー『八月の光』が重要な作品として登場しているが、なくなったパートではThe Jesus & Mary Chainの曲が出てきていた。そして、猫も。だが、それらは単行本では描かれていないので、この小説は犬小説の要素が大きくなっていて、猫小説の要素はなくなっている。

「小文字のx」における教団にデビュー作を盗まれたという「おれ」が語る経歴はほぼ著者の古川さんと被る、というかたぶん本人に限りなく近い。それはデビューに至るまでのことが今まで聞いていたこと、読んでいたことと大部分重なっていたからだ。
新興の出版社からデビュー作を出すまでの流れであったり、それまでどんな仕事(ライター)をしていたか、そしてデビュー日までが「おれ」と古川さんでは同じだと言える。だから、あまりにも自分のことすぎたから削るしかなくなったという可能性も浮かぶ。『ゼロエフ』はノンフィクションのルポルタージュだったから、ご自身と家族のことは書かないといけなかったから、そういう反動はあったのかなかったのか。

曼陀羅華X』となる作品の連載中には『ゼロエフ』の取材と執筆が重なっている。前述した「私はなかったことにする」という宣言は晩秋の阿武隈川に行く前に書かれていた。帰ってきて連載を読んでかなりビックリした。
そもそも『ゼロエフ』の夏の福島の取材に行く前から『曼陀羅華X』に関してはかなり難産というか、大きな決断をしないといけないとは聞いていた。たぶん、『ゼロエフ』がなければ『曼陀羅華X』は今回の単行本のような形にはならなかったと思う。

曼陀羅華X』では老作家が書いた黙示録と預言書から生まれた人物たちが現実に姿を現す。表紙カバーの「X」の後ろにいる「ペスト医師」のような人物(DJX)もその一人だ。『ゼロエフ』で登場人物として作中に登場している僕自身はそれもあってか、DJXにシンパシーを覚える。不思議と。

『ゼロエフ』と『曼陀羅華X』は東日本大震災オウム真理教によるテロという戦後日本における大きな転換期とそのあとを描いている部分もあるが、簡単に風化させていくから現実がこうなってしまうのだという強い意志も感じるられる。そして、現実をデザインしろ。という小説家がどこまでいけるかのかという気持ちが伝わってくる作品だが、ふたつでひとつみたいな部分があるようにも感じる。

読み終わってから渋谷方面に歩いていき、そのまま青山に向かう。「本の場所」での古川日出男さんの『曼陀羅華X』朗読イベントに行った。いつもの「本の場所」でのイベントとは違うようで、メールでいただいた場所は行ったことはないけど、何度もその前を通っている建物の10階だった。まん防期間中ということもあって、お客さんは全員で20人ぐらいだったろうか。
2年ぶりぐらいだと思うが古川さんの朗読が生で聞けてよかった。やっぱり朗読自体がカッコよくて笑っちゃうし、逆もしかりだった。警察に関する朗読の時にパトカーのサイレンが聞こえたり、窓の外が次第に夜に落ちていき、周りの建物の灯りが浮かび上がっていった。それは意図的でないし、演出ではないのに完璧な風に見えた。やはり古川朗読は圧倒的だしすごかった。その後、少しだけ近くのお店で軽い打ち上げに参加させてもらった。やっぱりイベント終わりにお酒を飲みながら少し緊張が解けた空気の中で話ができるのはうれしい。

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イベント終わりに古川さんご夫妻から翌日が誕生日ということでお祝いとしてトラベラーズノートブックというものをいただいた。万年筆は持ってないけど、そういうもので、なんか青いインクでこのノートには思いとか気持ちを書き記したいと思えるものだった。気にかけていただいてありがたい。
39歳の誕生日の初日は大盛堂書店での『ゼロエフ』発売に関する古川さんとのトークイベントの収録だった。そして、39歳最後の日も古川さんのイベントだったから、39歳という一年の最初と最後が古川さんのイベントだったのは感慨深いし、なにか不思議な気持ちだ。このことはSNSには書かないし、このブログを読んだ人にしかわからないけど、それでいい。

 

3月22日
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誕生日はだいたい映画を観ることが多く、今回はもともと休みだったので朝イチの回で観ようと思って二日前にチケットを取っていた。シネクイントにて今泉力哉監督『猫は逃げた』を鑑賞。雨というか寒さがすごい&先日の地震で火力発電所が止まっていて節電を呼びかけられるという春分の日の翌日とは思えない状況だったし、平日ということもあってか僕を含めて3人ぐらいだった。まあ、これは仕方ないとは思う。

「愛がなんだ」「街の上で」の今泉力哉が監督、「性の劇薬」「アルプススタンドのはしの方」の城定秀夫が脚本を務め、飼い猫をどちらが引き取るかで揉める離婚直前の夫婦とそれぞれの恋人、不器用な4人の男女を描いたラブコメディ。今泉と城定が互いに脚本を提供しあってR15+指定のラブストーリー映画を製作するコラボレーション企画「L/R15」の1本。漫画家・町田亜子と週刊誌記者の広重の夫婦。広重は同僚の真実子と浮気中で、亜子も編集者の松山と体の関係を持っており、夫婦関係は冷え切っていた。離婚間近の2人は飼い猫のカンタをどちらが引き取るかで揉めていた。そんな矢先、カンタが家からいなくなってしまう。亜子役を「追い風」の山本奈衣瑠、広重役を「孤狼の血 LEVEL2」の毎熊克哉、真実子役を「階段の先には踊り場がある」の手島実優、松山役を「ミュジコフィリア」の井之脇海が演じるほか、お笑いコンビ「オズワルド」の伊藤俊介、中村久美らが脇を固める。(映画.comより)

『愛なのに』では監督を務めていた城定監督がこちらでは脚本で、脚本を書いていた今泉監督がこちらでは監督をしてスイッチしていながら、作品同士に接点があるというコラボレーション企画の一作。
猫のカンタをめぐる話であり、離婚寸前の夫婦とその夫婦それぞれの浮気相手の四人がメインで展開していく。最終的にはカンタをめぐって四人が一堂に会するところでのやりとりがシチュエーションコントのようにも感じられて、それぞれの思いや気持ち、性格が一気に交差することで観客としては笑えてくるのだが、その場にはいたくないと思える感じがさすが今泉監督だなと思った。セリフや恋愛模様にある人たちの喜怒哀楽が出ていて、とても人間らしい。
『愛なのに』でのセックスシーンでのエロさと比べると『猫は逃げた』はライトな感じになっているので、どうしても比べてしまうのでこちらはもっとライトか見せなくてもよかったのかなと思ったり、それは本当に人の好き好きだとは思う。

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小説現代」最新号が発売になっていたので二次選考通過していた第二回羊文学賞の結果を見る。本が出る一ヶ月前とかに連絡がない時点で最終とかに残っていないのはわかっていたのだけど、二次選考通過作品には選評が掲載とアナウンスがあったのでどんな感じかなと思って読んでみた。
ペンネームとして使っている「汐崎宿波(しおざきしゅくは)」はこのところ書いているサーガみたいないろいろと繋がっている作品群の中心人物みたいな人物の名前。
「純文学的なお話でした。」と言われたらそうかもなあって思うし、「小説現代」とコラボしている以上はエンタメに向いてないといけないもんなとは思う。とりあえず、「汐崎宿波」に関係するサーガのひとつが今書いているものなので、今月末の〆切に間に合うようにあと一週間ほどやっていく。

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映画館を出たら雨だったものがみぞれになっていて、家に向かって帰っていくとほぼ雪になっていた。
それで三島由紀夫著『春の雪』という作品タイトルを思い浮かべた。帰る前にロフトによって、昨日誕生日プレゼントでいただいたノート用のカートリッジ式の万年筆を購入して帰ってから、カートリッジを入れて青いインクで青文字で「水、雨、雪」と書いてからノートに書くのをスタートした。


3月23日
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トワイライライトでコーヒーを飲みながら、前に来た時に気になった梅原猛中上健次著『君は弥生人縄文人か』の古本を買って読む。熊野って中上作品で知っているけど、知らないことだらけで面白い。

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コーヒーを飲んでからニコラに移動してコーヒーとイチゴとマスカルポーネのタルトを頼んだら、毎年恒例でありがたいことにお祝いプレートにして出してもらった。イチゴだけではなく文旦もモリモリに乗っていた。
まずは40歳、この10年はできるだけ健康でいれるようにしないといけないなと思う。心か体どちらかが弱るとどうしても片方ももっていかれる。基本的には精神面では強い方なので体をしっかりしとけば、ほどよい希望と絶望の間で生きていけると思おうとしている。

23日に重大発表があると行っていたけどやはり『デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション』アニメ化のお知らせだった。コミックス最終巻は30日発売だし、放送がいつかわからないけど、浅野いにお作品では初のアニメ化だし、アニメ次第では浅野さんの作品がもっと広く読まれていくことになると思うのでたのしみ。

コロナパンデミックになって2回ぐらい延期になっていたサンダーキャットの来日ライブのお知らせメールがようやくきた。
東京は恵比寿ガーデンホールだけど、案内メールで「コロナ禍でのイベント開催に係る規制、キャパシティ制限を踏まえて本公演の開催を実現するため、各日2回公演制 (1st Show / 2nd Show) への変更しなければならないことをご了承ください」とあって、希望時間帯を送る感じになっていた。その分ライブは短くなるだろうけど、いい判断だと思う。



今月はこの曲でおわかれです。
ASIAN KUNG-FU GENERATIONYou To You (feat. ROTH BART BARON)』Music Video



踊ってばかりの国ニーチェ』LIVE@新木場USEN STUDIO COAST(2022.1.05)

Spiral Fiction Note’s 日記(2022年1月24日〜2022年2月23日)

水道橋博士のメルマ旬報』連載「碇のむきだし」

ずっと日記は上記の連載としてアップしていましたが、日記はこちらに移動しました。一ヶ月で読んだり観たりしたものについてものはこちらのブログで一ヶ月に一度まとめてアップしていきます。

「碇のむきだし」2022年02月掲載 今回は映画日記(1月&2月)


先月の日記(12月24日から1月23日分)


1月24日
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「メタヴァース」と言葉が生まれたSF小説スノウ・クラッシュ』がもう出てないかと書店に行ったらまだなかったけど、大友克洋著『童夢』があったので購入。この赤いビニールというかカバーが独特な匂いで懐かしい。

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チャック・パラニューク著『サバイバー』を読み終えた。
ファイト・クラブ』の3年後に発表された作品の新訳版だが、主人公ともうひとりの主人公みたいな存在or役割が可能な人物(分裂したもうひとり、今作では双子の兄)とクレイジーにしか見えないヤバいヒロインとカルト集団という設定と構造はほぼ同じで『ファイト・クラブ』の語り直しみたいな話だった。『ファイト・クラブ』は映画化されたことでビジュアルイメージもあるから強い。どちらも世紀末における終末感と世界を破壊したいという願望や期待みたいなものがある。

PLANETSブロマガ連載「ユートピアの終焉──あだち充と戦後日本の青春」の最新回が公開になりました。
クロスゲーム』2回目は月島四姉妹の原型となった「居候」シリーズ、ヒロインの月島青葉とあだち充作品のヒロインについて取り上げています。

 

1月25日
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朝イチで『コーダ あいのうた』をTOHOシネマズにて鑑賞。さすがに8時20分からの回なので10人ちょっとぐらいだった。でも、シネマイレージデイなので1200円。

とある海辺の町。耳の不自由な家族の中で唯一耳が聞こえる女子高生のルビー(エミリア・ジョーンズ)は、幼少期からさまざまな場面で家族のコミュニケーションを手助けし、家業の漁業も毎日手伝っていた。新学期、彼女はひそかに憧れる同級生のマイルズと同じ合唱クラブに入り、顧問の教師から歌の才能を見いだされる。名門音楽大学の受験を勧められるルビーだったが、彼女の歌声が聞こえない両親から反対されてしまう。ルビーは夢を追うよりも家族を支えることを決めるが、あるとき父が思いがけず娘の才能に気付く。」(Yahoo!映画より

タイトルのコーダは「Child of Deaf Adults」(ろうあの親を持つ子供)の意味らしい。劇中でも一度だけど言及されていた。このままでは日本だと意味わからないから「あいのうた」となんとなくよさげな副題がついたのだろうが、そういうのが感動ポルノと結びついちゃってんだろうね、素晴らしい映画なので蛇足だなあと観終わってから思った。
コロナになる前に計画されたり作られていたりするorこの最中で作られた映画だと濱口竜介監督『ドライブ・マイ・カー』には韓国手話が出てきたし、まだ観れていないが韓国映画『声もなく』の主人公は話せなく、そして手話もしないかできないらしい。そして、この『コーダ』が公開されていることは時代的なものも含めて通じてる気はしている。
まずは語り(ナラティブ)がある。その拡大や可能性として手話がある(当然ながら映画は映像なので手話は画になるし、手話のやりとりの場面ではスクリーンから目がより離せなくなる)。
そして、マスクという仮面は人から表情を奪った。それに対してより雄弁なコミュニケーションとして手話が際立つ部分もある。基本的には会話するときに相手の顔を終始見ていなくても、表情から多くの情報を得ながら会話をしている。この前に、仕事関係でウェブ面談をした際にはじめてやりとりする相手のうち二人が社内だからかマスクをしたままだった。知らない人でPC上での動画のやりとりで顔の表情わからなかったら、自分の言葉がどのくらい届いているのかわかんないから、手応えがまったくなかった。
コロナ大流行における語り(ナラティブ)とマスクという表情を隠す仮面がより、『コーダ』という映画と呼応している部分はおそらくあるのだろう。
事前に手話での下ネタが多いとは聞いてたけど、たしかに多かった。ある意味ではおおらかなんだけど、耳が聞こえるルビーと聞こえない家族における違いもあって、ルビー以外は性に貪欲というか前向きな感じでもあった。
娘を持つ父親が観たら号泣すんだろな、とも思うので、娘を持つ父親やかつて娘だった人が観たらどんな感じなのか知りたい。
あとメキシコ出身の音楽の先生が素晴らしかった。ルビーの才能を見出すんだけど、彼女が抱えているものをレッスンによって吐き出させる。それが見事というか、あらゆる芸術っていうのは感情の発露が始まりにあるわけで、芸術を軽んじる人や国家なんてもんは、人の感情を蔑ろにして舐めてるわけでしょ。人はただ経済を動かすコマだと、ただの数字としか見てない。芸術が人の感情とともにあることが基本的な人権と平等に結びついていると思うし、それを最低限教えてる国は芸術をしっかり保護している。で、嘲笑う国は芸術を守らないし、数字は書き換えるしデータは証拠隠滅で破棄する。
だから、『コーダ』みたいな映画(オリジナルはフランス『エール!』)は日本の大手映画会社では作れないだろうなと思うし、もしリメイクしたら感動ポルノに成り下がるんだろう。


1月26日
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ニール・スティーヴンスン著『スノウ・クラッシュ』新訳文庫版上下巻。文庫で上下巻で出すときは二冊で一つのイラストになるのがやっぱよいですね。

「BOOKSTAND映画部!」のレビューコーナー「月刊予告編妄想かわら版」2022年02月号が公開になりました。2月は『ゴーストバスターズ/アフターライフ』『ちょっと思い出しただけ』『リング・ワンダリング』『愛なのに』を取り上げています。


1月27日
f:id:likeaswimmingangel:20220127183807j:plainお昼前に家を出て12時から上映の片山慎三監督『さがす』をシネクイントで鑑賞。前作『岬の兄妹』をトークイベントに出演した樋口毅宏さんからお声がけしてもらってスクリーンで観た。すごく笑ってしまったし、同時に社会からこぼれ落ちてしまった兄妹の生きる力や脆さや世間というもの、人の欲望について描ける監督なんだと思ったのを覚えている。ユーモアはある種の残酷な時に笑いになったりもする。そして、その片山監督の新作ということで気になっていた作品。

「岬の兄妹」の片山慎三監督が佐藤二朗を主演に迎え、姿を消した父親と、必死に父を捜す娘の姿を描いたヒューマンサスペンス。大阪の下町に暮らす原田智と中学生の娘・楓。「指名手配中の連続殺人犯見たんや。捕まえたら300万もらえるで」と言う智の言葉を、楓はいつもの冗談だと聞き流していた。しかし、その翌朝、智が忽然と姿を消す。警察からも「大人の失踪は結末が決まっている」と相手にされない中、必死に父親の行方を捜す楓。やがて、とある日雇い現場の作業員に父の名前を見つけた楓だったが、その人物は父とは違う、まったく知らない若い男だった。失意に沈む中、無造作に貼りだされていた連続殺人犯の指名手配チラシが目に入った楓。そこには、日雇い現場で出会った、あの若い男の顔があった。智役を佐藤が、「湯を沸かすほどの熱い愛」「空白」の伊東蒼が楓役を演じるほか、清水尋也、森田望智らが顔をそろえる。
映画.comより

平日の昼までまん防適用されているのもあると思うが、それでも十人以上は観客がいたと思う。
楓がいなくなった父を探すというタイトルのまんまの話かと思いきや、かなり早い段階でそれは裏切られていく。父が見つけたと言っていた連続殺人犯の山内と楓が出会ったところから物語はほんとうの意味で動き出す。父の名前を使って日雇い現場で働いていた山内は父のスマホを持っており、彼は父が経営していた元卓球場の一室で寝泊まりしていた。
物語はここから3ヶ月前、13ヶ月前、と父と山内の関係性について時間を遡っていくことで描き出すことになる。ネタバレになるので詳しく書かないが、前作『岬の兄妹』とも通じる事柄が出てくることになる。

父がどうしてお金が必要だったのか、なぜ彼が卓球場を再建したいのか、という理由が明らかになってくる。遡ることで過去になにが起きていたのかがわかるのでちょっとミステリーっぽさもあるのだが、現在に時間軸が戻ってからある種のどんでん返しがいくつか起きる。途中でそれってどうなのか?と思わされた箇所もあったが、その部分ものちに違う意味があったのだとわかる。
楓が自分のことが好きな同級生に父がいるかもしれないある島に一緒に行ってほしいと頼んだ際に、一緒に行ってくれたら付き合ってあげると言われ、彼はじゃあ、胸見せてえやと言う。彼女はそれを承諾し、胸を見せて二人は島に向かうことになるのだが、言うこと聞くから胸見せろやっていうのはなんだか非常におっさんっぽいというか、今の中学生もそんなことを言うのだろうか、言うかもしれない、なんだかなって思ったのがその場面だった。その場面も伏線的に回収はされるのだけど、なんだかモヤモヤした。

楓が父を「さがす」という話だったが、しかし、彼女がほんとうに探していたのは誰なのか? というダブルミーニング的な要素も出てくる。終わり方やいろんな伏線が回収されていくのだが、この前に観た『コーダ』と近い部分がいくつかあるせいか、この作品をすごくよかったとどうも言いにくい部分がある。片山監督が『岬の兄妹』に引き続き描こうとしているものはわかるのだが、時間軸を現在、3ヶ月前、13ヶ月前、そして現在と進めていく構造のせいなのか、前作のように人に観た方がいいよと勧めるかと言われれば、悩みどころ。前作を観ている人ならば勧めるかもしれない。
だが、二度、三度とどんでん返しがあり、日本映画であのコミカルでおもしろいおじさんというイメージがついている佐藤二朗が見せる喜怒哀楽と狂気と欲望の行き先を見せてくれるので観る価値は充分あると断言できる。ただ、内容についてまったく受け付けない人もゼロではないだろうなと思う。

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最近は中島らも著『僕にはわからない』や穂村弘著『整形前夜』などのエッセイを何冊か併読しているのだけど、そこに今日ゲットした燃え殻さんの新刊『断片的回顧録』を加えた。表紙の装丁デザインだと思っていた写真の部分は実際表紙に直張りしてあって、すごくいい。
ニコラでアルヴァーブレンドときんかんといよかんマスカルポーネのタルトをいただく。柑橘類好きなんで最高に好きな組み合わせ。


1月28日
水道橋博士のメルマ旬報』連載の今月の原稿は「晴海埠頭」について書こうと思って、『二〇一八年のサマーバケーションEP』を読み返した。東京湾岸の話なので『曼陀羅華X』にも通じてるところがあるし、『ゼロエフ』の原点みたいなところがある。

『二〇一八年のサマーバケーションEP』vol.1


『二〇一八年のサマーバケーションEP』vol.2

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ブラックボックス』を三分の一ほど読んだ。なんとなくだが、砂川さんは純文学から出てエンタメに移行する作家さんになるような気がする。

 

1月29日

TLで流れてきた資生堂150周年企業広告の動画を見た。声が出そうになる、やっぱ資生堂すげえなって。
ブランディングとしてすごいし、広告にしっかりお金を使える企業としての体力と見せたいビジョンを伝えようとする精神があるからこそできるんだろう。それは資生堂にとっての意志であり中軸にあるものがしっかり受け継がれていることでもあるのだろう。

f:id:likeaswimmingangel:20220128211302j:plainちょうど『花椿』のアートディレクターをずっとされていた仲條正義さんの『僕とデザイン』を読んでいたので、おお、上記の動画を見て資生堂って思ったのだった。
花椿』の作り方だけではなく、仲條さんの仕事への態度や考え方、生来の粋な部分と洒落っ気があるのもわかって、これは勉強とかでどうにかなるものではないなと思いながら最後まで読んだ。
もちろん、今から考えるとお金があった時代に豊潤な予算の中で、仲條さんは遊んでいる、しかし、できたものはクオリティがたかいからこそ、どんどんいい才能が集まって、それが伝播していくという好循環が生まれていた。今こういうことはなかなか難しくなってきている。だからこそ、というか仲條さんがずっとアートディレクターとして関わった『花椿』、そして最初に就職した資生堂の150周年企業広告を見ると納得できるのだと思う。

 

1月30日
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奥田裕介監督&カトウシンスケ主演『誰かの花』舞台挨拶付上映をユーロスペースで鑑賞。

鉄工所で働く孝秋は、薄れゆく記憶の中で徘徊する父・忠義とそんな父に振り回される母・マチのことが気がかりで、実家の団地を訪れる。
しかし忠義は、数年前に死んだ孝秋の兄と区別がつかないのか、彼を見てもただぼんやりと頷くだけであった。
強風吹き荒れるある日、事故が起こる。
団地のベランダから落ちた植木鉢が住民に直撃し、救急車やパトカーが駆けつける騒動となったのだ。
父の安否を心配して慌てた孝秋であったが、忠義は何事もなかったかのように自宅にいた。
だがベランダの窓は開き、忠義の手袋には土が…。
一転して父への疑いを募らせていく孝秋。
「誰かの花」をめぐり繰り広げられる偽りと真実の数々。
公式サイトより

かつてと同じ人であるはずなのに、記憶が混濁し、忘却しつつある父(高橋長英)に兄と間違えられる次男の孝秋(カトウシンスケ)、交通事故で亡くなった兄のこととその痛みが終始家族の中にずっと、ただある。
居た人が居なくなった空白は家族が年を取り、老いていくとより露わになってきてしまう。居なくなった人はその時から時が止まってしまうから、老いとは対極になっていってしまう。その人が若ければ若いほどに。そして、孝秋たちが被害者家族ということも時間が薄めてくれるだけでなく、時に濃くなり孝秋の感情を揺さぶる。
植木鉢が落ちて人が亡くなった事故は実は父による事件かもしれない、そうなれば加害者の側に、加害者家族となりえる可能性が出てくる。しかも、被害者は父と母(吉行和子)が暮す上の階に越してきた楠本家の若い父親だった。
孝秋はその楠本家の母親(和田光沙)と息子(太田琉星)と交流が始まることで、被害者家族である彼らともしかしたら加害者家族であるかもしれないという自分、しかし、兄の事故で被害者家族でもあるという中で、さまざまな感情を抱えていくことになる。

最近、たまたま大友克洋全集「OTOMO THE COMPLETE WORKS」で刊行された『童夢』を読んだ。団地を舞台にしたサイキック同士の戦いを描いているが、この『誰かの花』も団地が舞台になっている。
かつて団地というものは高度経済成長と共に増えていった。しかし、それはもうだいぶ前に終わっており、失われた30年と言われるように終わらない不況が続き、子供が減っていった日本において団地も老朽化などの問題を抱える場所となり、海外からやってきた人たちが集団で住むようになったりとかつてとは違うものとなっている。

観終わってからこの映画について考えたのだけど、そういう団地が舞台であり、認知症を患っているはずの70代ぐらいの老いた父がもしかしたら意図的に、隣の部屋のベランダにあった植木鉢をそこから下の道を歩いていた上の階に住む若い父親に当たるように落としたとしていたら、というこの物語は、より深刻で怖いものにも感じられた。というのはそれはまるっきり今の日本そのままであるようにも思えてしまったからだ。

老いた父(父性)はヘルパーさん(村上穂乃佳)や妻に介護をしてもらい、生き長らえている。時折、はっきりと物事を言ったりして、完全にはボケてはいない。だが、記憶は混濁している時の方が多い。そのことで実の息子である孝秋は父が本当に認知症なのか少しは疑う時もあったはずだ。
だが、その父の世代はある意味では幸福であるといえる。戦後に生まれて経済成長と共に青春や若い時期を過ごし、上の世代にあった敵国となったアメリカへの愛憎もなく、ただアメリカの文化を当たり前のように受容して日本の戦後における青春を謳歌した。そして、幻想としての一億総中流の時代を年功序列と生涯雇用がある時代で働いてきたから、もちろん家父長制を疑うことなく生きてこれたとも言える。
そんな時代を生きた老いた父性が、それらが崩壊した時代を生きる若き父性をもし意図的に殺めたとしたら、その可能性があるのだとしたら?という物語にも見えてくる。

そして、タイトルにある「誰かの花」はダブルミーニングのように幾つも重なるものとなる。そこにはもうひとつの父性が加わる。それは孝秋の父と母が住む隣に住む男性の岡部(篠原篤)である。植木鉢をベランダに置いていた人物であり、彼は自ら手を下したわけではないが、彼の家のベランダにあった植木鉢が上の階に越してきた一家の父親を殺してしまったという事実がある。そして、劇中で彼もまた父であることが描かれるが、上の階に越してきた楠本家とは真逆の家族関係であり、植木鉢もそのことと関係があったことがわかる。だからこそ、悲しい余韻を残す。
被害者のこと、加害者になりうること、それらを描いた映画だが、意図的なのかそうではないかはわからないが、僕はこの作品に今の日本社会における父性の移ろっていく様、そして老いと責任について描いているように感じた。それを自分と近い世代の息子がどう受け止めるのか、どう対応していくのかというのは他人事ではないからこそ、深く染みる。


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木澤佐登志著『失われた未来を求めて』をちょっとずつ読んでいる。もともと、マーク・フィッシャー著『わが人生の幽霊たち――うつ病、憑在論、失われた未来』が出た時に、何にも知らずにタイトルに惹かれて&ジャケ買いしてから、前作『資本主義リアリズム』を読んだ。レディオヘッドをずっと聴き続けている人であれば、『資本主義リアリズム』の表紙には親近感を持つだろう、僕もそうだった。木澤さんの『ダークウェブ・アンダーグラウンド 社会秩序を逸脱するネット暗部の住人たち』もその流れで読んだ。
それ以降、基本的に木澤さんの書いているもので書籍になったものは読んでいるが、『ニック・ランドと新反動主義 現代世界を覆う〈ダーク〉な思想』はマーク・フィッシャーの書籍と関連しているのでまあ気になる人は読んでみたらいいと思う。ただ、『闇の自己啓発』はそこまでおもしろくはなかった。
そういうラインに早川書房というかSF的な想像力も加わってきていて、編集者の溝ロカ丸さん辺りが関わっていたり、「SFプロトタイピング」であったり、「世界のリーダーはSFを読んでいる」フェアみたいな、ちょっと自己啓発的なものとそういうものがくっつき始めた気はする。「世界のリーダーはSFを読んでいる」っていうのが気になるのは、じゃあ、こんな世界になった原因ってSFになっちゃうよとも思わないのだが、めんどくさいからつぶやかない。
前に書いた長編『浸透圧』はマーク・フィッシャー著『わが人生の幽霊たち――うつ病、憑在論、失われた未来』自体を作中に出したし、「平成」という時代を「昭和の亡霊≒幽霊」というものとして描けないかなって思っていたところがある。なんで「昭和」からして未来である「平成」が幽霊なのかということは、『失われた未来を求めて』というタイトルとも通じる部分もあるし、『インターステラー』で描かれたような3次元よりも先の次元では、すべての時間軸が同列に存在しているのが描かれていた。過去も現在も未来もそのすべての可能性が同じように同じ場所で存在している。それはなんか想像としてわかる気がした。そういうのも関連してる。
2月に書き上げようと思っている小説は『浸透圧』をバージョンアップさせたものにしたいので、『失われた未来を求めて』を読むとなにかヒントがありそうな気がしている。

 

1月31日
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ぶ厚い雲に覆われ陽が差さなくなった遥か未来の地球。
植物が枯れ酸素も薄くなった世界。
しかし人類は、人を植物に変える技術を開発し、わずかな酸素を作り出して生き延びていた。
先の見えない世界でも人として生きるか、苦しみを捨て植物として新たな生へ踏み出すか。
人々は選択を迫られるーー

安田佳澄著『フールナイト』を最新刊の3巻まで買って読んだ。
めちゃくちゃおもしろかった。今同時期に連載しているものだと、ジャンプ+の大ヒット作品『怪獣8号』とかなり近しい。『寄生獣』や『進撃の巨人』や『亜人』、古くは『ウルトラマン』と『デビルマン』的なものの後継、派生的なものが『怪獣8号』にはあるが、『フールナイト』は『亜人』や『寄生獣』の植物バージョンという感じもする。人類にとって脅威となるべきものと同質のものが主人公に宿るというパターン、あるいはそれになってしまうというものの系譜。
『怪獣8号』も『フールナイト』も別種の「トランスヒューマニズム」的な想像力であったり、現在の世界と呼応している部分があるんじゃないかなと思ったりもする。
『フールナイト』では寿命がつきかけた人間に「転花」という技術を使うことで、2年以内に徐々に人が植物になっていき、「霊花」と呼ばれるものになっていく。そうしなければ陽がほとんど差さなくなった世界では酸素が手に入らないからでもある。そのため、「酸素税」は異様に高く、貧困と格差がより広がっている舞台になっている。
主人公のトーシローは精神を病んだ母と暮らしており、貧しさと絶望の中にいた。彼は心の豊かさ(転花すると1000万もらえる)のために体に種を入れ、2年後には植物になってしまう手術を行うが、金はすべて奪われてしまう。だが、トーシローには転花したかつて人間「霊花」となったものの声が、意識を感じる不思議な力が備わっていた。そして、彼の同級生だったヨミコが働いている国立転花院でその力を使って、かつて人だった「霊花」を探すようになるのだが。という話。
「希望とは常に救いようのない絶望に支えられている」という『摩駝羅 天使篇』の懐かしいセリフを思い出した。

講談社が主催している「漫画原作大賞」に4作品応募できた。大賞なら連載確約+20万だが、優秀賞なら10万、奨励賞なら5万。奨励賞以上で賞金もらいたい。去年『週刊ポスト』の連載が終わったこともあり、今年はどう考えてもライターとしての原稿料は三分の一になってしまう、いろいろヤバすぎる。連載も原稿料もほしい。なにか引っかかってほしい。明日からはメフィスト賞応募作品に1ヶ月しっかり取り組む。

 

2月1日
水道橋博士のメルマ旬報』連載「碇のむきだし」2022年2月1日号が配信されました。
毎年元旦に井の頭公園神田川の源流から川沿いを歩いて東京湾へ歩いていく(古川日出男著『サマーバケーションEP』の物語を辿る)、そのラストにある今年閉鎖されて解体される「晴海客船ターミナル」についてです。
今回で神田川沿いを歩くのは10回目になりました。ラストの目印である「晴海客船ターミナル」というランドマークも無くなるし、東京五輪も終わったし(晴海埠頭付近は選手村のマンション群が建ち並んでいる)、これで完了です。
東京湾岸の物語はいつか長いものを書いてみたい。古川さんが『新潮』で連載していた東京湾岸を舞台にした『曼陀羅華X』が今月末に出るのでそちらもたのしみ。連載時にあったあるパートは途中でなかったことにすると宣言されたので、連載バージョンと単行本バージョンではかなり読み味が変わってくる。僕はなかったことにしたパートの物語がかなり好きだったのだけど。


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去年試写で観たけど、もう一度スクリーンで観たくなっていたのでシネクイントでウェス・アンダーソン監督『フレンチ・ディスパッチ ザ・リバティ、カンザス・イヴニング・サン別冊』を鑑賞。映画の日なので、なにか観たいということもあって。
お菓子みたいなカラフルさで可愛らしさとセンスが人気なウェス・アンダーソン監督の最新作だが、今回はある雑誌のメイン記事3つ(としてストーリー三本)と編集部や創刊者でなくなった編集長(ビル・マーレイ)の話とで構成されている。
試写で観た時同様に一番最初の牢獄のアーティストであるモーゼス・ローゼンターラー(ベニチオ・デル・トロ)と看守であり、彼のモデルとなるミューズのシモーヌ(レア・セドゥ)と画商のカダージオ(エイドリアン・ブロディ)が出てくる美術の話が楽しかった。これがもっと長いと話的には難しいのかもしれないけど、けっこうお腹いっぱいになるところもある。でも、あとの二つの学生運動と警察署長の料理人の話もポップでたのしい。108分の上映時間のはずがそれよりも長く感じられるのは内容が込め込まれているというのもあるのだろう。出演者が多く、構造が割とパッと見ではわからないということも関係していると思う。
ウェス・アンダーソン監督が雑誌文化に敬意を持っているし、影響を受けてきたことが伝わる話なので、出版業界の人やライターや物書きの人は見るとよりいろいろと感じ入ることがあると思う。ちょうど、ライター仕事で思うことがあったので、前回より編集長のセリフが沁みた。

映画を観終わってからTwitterを見たら石原慎太郎氏が亡くなったというニュースが流れてきた。それで下記のインタビューのことを思い出した。
「メディアの時代のメディアミックス的な人間としての石原慎太郎」とかの話は自分が大塚英志さんにインタビューしたけど、今読んでもおもしろい。
大塚英志×西川聖蘭『クウデタア 完全版』刊行インタビュー:アンラッキーなテロ少年と戦後文学者をめぐっての雑談」

 

2月2日
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休憩で外出した際に前から気になっていた大和田俊之著『アメリカ音楽の新しい地図』を購入。The Weekndのニューアルバム『Dawn FM』を聴きながら読もうと思ったけど、彼はカナダ出身のアーティストだった。

3月公開の映画の試写が来たので申し込みをした。ネタバレとか内容に関してはかなり厳重な対応をするというのが文面とか資料から感じられる。果たして、どんな感じなのだろうか。とりあえず、試写の初日を申し込んで予約をした。

前に応募していたもので一件進展があったのだが、今後のことを考えるとどうしようか悩む。いろいろと微妙なところがある。

 

2月3日
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浅草ロック座に川上奈々美ストリッパー引退興行を観に行こうと杉山さんに誘ってもらったので浅草に行って、14時の公演の前にSPICE SPACE UGAYAというスパイスカレーのお店でランチを。牛すじとドライキーマのあいがけのご飯大盛りを注文する。牛すじはとろとろだし、キーマとパクチーがよく合う。最終的には混ぜて食べるとさらに新しい美味しい味になって、三度楽しめた。
その後、近くの喫茶店でコーヒーを飲んでからロック座に向かう。

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着いたら13時半少し過ぎていて2階にあるチケット売り場への階段にちょっと人が並んでいた。僕らは男女だったのでカップル割で9000円だった。普通に一人で入るより男性は1000円安くなったのでラッキー。

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一回の公演が1時間50分(休憩10分)で1日に4ステージ。一回入れば入れ替えはないので、ずっと中にいることはできるというシステムらしい。14時からの回はお客さんは40人程度で女性のお客さんは10人近くいたと思う。
前にストリップを観に行ったのは数年前の新宿だったが、やっぱりとても不思議な空間である。女性が丸見えになった、ご開帳の時にポーズを決めると常連ぽいおじさんのお客さんたちから熱い拍手がなっていた。そういうルールなのか、そうなのか。踊り子さんたちはやはりアスリートに近いという印象があり、あれだけ踊るのを1日で4回の1ヶ月公演というのはすごい体力だし、体はどんどん引き締まっていくのだろう。
正直なところでいうとご開帳したりしても性的な興奮はなかった。どう見ていいのかわからないという部分もあるのだろう。踊り子さんたちの姿は美しいと思うけど、やはり空間自体が不思議なだと思っている自分がいる。女性たちの体の半分はあるであろうミラーボールがステージの奥で回ってライトの光を乱反射するように光を踊り子さんやステージ、そして客席に投げてくる。そのミラーボールが真ん中で分かれていて右と左の左右で縦に違う速度で回っていたりするし、球自体もふつうのミラーボールのように横に回っているので、光が乱れまくっていてそれがとても印象的でもあった。
川上奈々美さんの引退興行の月間であるのだが、彼女が出てきた2回とも歌をしっかり歌っていた。なぜ2回も歌ったんだ?と思ったりもした。そういう売りなのかな。また、全体的に『ベルサイユのばら』をモチーフにしている演出と構成だった。やっぱり場内にいるおじさんたちの行動が気になって踊り子さんのポーズ、おじさんたちの反応を見てしまっていた。どういう気持ちで見ているのだろうか、それも不思議に結びついていた気がする。

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帰りにニコラに寄って、アルヴァーブレンドモンブランをたべる。ずっとメニューにあって見ていたけど、食べたことはなかった。「はじめて食べました。ずっと食べてなかったんで」と言ったら、「一回食べたことあるならわかるけど」と言われたのだが、僕の中では「(メニューで見てたけど)ずっと食べてなかったんで」というニュアンスだったけど、そこは省いちゃダメなんだなと思った。

 

2月4日
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木澤佐登志著『失われた未来を求めて』を読んでいると、マーク・フィッシャーと「資本主義リアリズム」の話から、カウンターカルチャーの亡霊やLSDと知覚の扉なんかの話に展開していく。失われた未来とサイケデリックやメランコリー、ジョセフ・ヒース『反逆の神話』で描かれた「反体制と消費資本主義」、世界からの阻害と生の意味の喪失という現代的な話などマーク・フィッシャーの遺作となった『アシッド・コミュニズム』について、どんどんわかるようなわからないような難しい話になっていく。
かつてのカウンターカルチャーとヒッピーたちが夢見た神秘主義(スピリチュアル)とサイケデリクスの欲望の先にあった地球の外側にある宇宙ではなく、精神世界(内的宇宙)へのトリップという自己革命の夢、それがインターネットへと結びついた先の現在。
この評論を読んでいると、後期のフィリップ・K・ディック作品を読み直すほうがわかりやすい気がしてきた。2000年以降にディックを読み始めた人間としては、オールドSFの書き手である彼の作品はまるでインターネット的なものであり、それは当然ながらインターネットとなる前にその要素となった神秘主義LSDなんかのサイケデリクス的なものが彼の話には描かれているからだったのだろう。
というわけで、『ヴァリス』シリーズを読み直したくなってきたので、『ヴァリス』とは構造自体はあまりかわらない『スキャナー・ダークリー』と『流れよ我が涙、と警官は言った』も引っ張り出してきた。

ヴァリス』(と、その続編)が、今日考えられるかぎりの「宇宙と脳と神秘哲学をめぐる情報システム」を扱った最初で最大の唯一の文学思想的な試みであったことからは、読者は逃れようはない。面倒なのでここには書かないが、カルトを脱出するのはそんなに困難なことではないけれど、そんなことを考えるより、やはりいったんはディックの周到で狂気に満ちたPKDカルトに浸ることである。そうすれば、これだけは請け合うが、読み終わったのちに何が何だかわからない自分がそこにぽつんと取り残されるのを感じることだろう。

 

f:id:likeaswimmingangel:20220204215804j:plain大盛堂書店で橋本倫史著『水納島再訪』をゲット。

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塩田明彦監督『麻希のいる世界』をユーロスペースにて鑑賞。劇中歌をThis is 向井秀徳が作っているので観ようと思った作品。
前作『さよならくちびる』同様に音楽の話であり、女性二人と男性一人の関係があり、というのは同じだが、年齢が下がって高校生になっていた。男が窪塚愛瑠なんだけど、笑いそうになるぐらいに父の窪塚洋介みたいな話し方だった。あれはわざとなんだろうか、ふつうにやってるとしたら父のコピーすぎる。で、彼の父親が我々にはARATAだと未だに思ってしまう井浦新さん。未だに渋川清彦さん見てもKEEさんだと思っちゃう現象だ。映画『ピンポン』でのペコの息子が育って、スマイルが父親役ですよ、時が経たなあ。

映画は前作同様に塩田監督の性感帯を寄せ集めて煮詰めたような内容だが、観ているのが正直しんどくなるほど破綻していた。3時間ぐらいあるのを半分ぐらいにしてるのか、なんか端折った?みたいなことが多々あり、ご都合主義が連発する。
たぶん、主役の女の子ふたりの撮りたいシーンありきで作って、それを優先させたらしっかり破綻したみたいな、正確には破綻すらしてなくて、なんだこれ?みたいな話になっていく。
メインの女の子の麻希がテレキャスを鳴らす音はThis is 向井秀徳なんだけど、それも演奏と歌うとこはフルでは流さないし、あと主人公の由希が麻希の才能(歌)を信じて突き進んだけど、正直説得力が感じられないからただ痛い。『コーダ あいのうた』観たあとだと、よほどの声か歌唱力がないと納得もできないし、フィクションの前提や土台が固まってないから、観てる方はしらけてしまう。
歌ものの難しさはそこもあるし、百合がしたいのかしたくないのかも微妙で振り切らないと観る方も困る。

 

2月5日
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朝と昼のご飯は浅草に行った時に買ったペリカンの食パンとベーコンとスクランブルエッグ。このパンかなりふわふわしていて美味しい。

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田島昭宇画業35周年記念画集『冬暮れの金星』(写真はついてたポストカード)&『プラネタリウムの天使』届いた。

大和田俊之著『アメリカ音楽の新しい地図』を読んだので、アリアナ・グランデとテイラー・スウィストとラナ・デル・レイブルーノ・マーズのアルバムを散歩がてらいったツタヤ渋谷店でレンタルしにいった。一緒にブラッド・オレンジも聴きたいと思ったので追加した。MacBook Airに外付けのCDとDVD読み込みをつないでiTunesに音源を入れている。どうもSpotifyとか音楽ストリーミングサービスを使いたいという気がおきない。たぶん、スマホだけで完結する感じとかにならないようにしているのが自分には大きいんだと思う。

 

2月6日
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オススメされたタイムリープもの『明日への地図を探して』をアマゾンプライムで観た。
去年映画館で観た映画ベスト10にタイムリープものの『パーム・スプリングス』を入れたが、どちらもヒロインが理系というか、近しい部分がある。『パーム・スプリングス』のヒロインがタイムリープから抜け出すために取ったまさに「たったひとつの冴えたやりかた」が僕的にはリアルだし、とても好きだった。この作品はどんなやり方でリープから抜け出すんだろうと思いながら見ていた。
ビデオゲームがヒントになるという部分は『アンダー・ザ・シルバーレイク』を思い出したが、爽やかな青春タイムリープものっていう感じで、長さ的にもちょうどいいと思った。
主人公のマークとヒロインのマーガレットという風に物語は進んでいくが、実は主人公は、という展開になる。『ブレードランナー2049』みたいに主人公が選ばれし者(救世主)ではなかった(今作ではマークがタイムリープの原因ではなかった)パターンだが、その理由やタイムリープを断ち切るためにマークはマーガレットに寄り添って力になっていく。
見ながらタイムリープ、ARGと陰謀論にディズニフィケーション、がうまく組み合わされたSFミステリもどきのアイデアが浮かばないかなあ。とか考えていたら鈴木光司さんが「リング」シリーズである程度やっていた。現実はシュミレーションとかも含めて。リングウイルスだった貞子が映画によってその存在だけが飛び抜けてしまったせいで、一連の小説がちゃんと評価されてない人だと思う。

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KATO CHA
その場で当たる!をやってみたが、最後の仲本工事さんだけ外れてゲットできなかった。

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小林信彦著『ムーン・リヴァーの向こう側』という小説がほぼ新品に見えるぐらいで200円だったので購入。1995年の初刷だから27年前だけど、売った人は読んでなかったんじゃないかなって思うほど。小林信彦さんというと『日本の喜劇人』しか読んでいないから小説は読んだことがない。
一緒に買ったのが村上春樹著『アンダーグラウンド』の単行本。こちらは文庫版を持っているが、単行本の分厚さがいい。『ゼロエフ』の取材に同行する前に文庫版と中上健次著『紀州』と共に参考資料して読んでいた。

 

2月7日
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画像は『マトリックス レザレクションズ』(https://wwws.warnerbros.co.jp/matrix-movie/news/?id=2)より
自己啓発としての陰謀論 『マトリックス』のモーフィスがネオに渡すレッドピルとブルーピル。

 主にオルタナ右翼陰謀論者のコミュニティでは、”TAKE THE REDPILL”(レッドピルを飲め)は彼らにとっての符丁のように機能している。主流メディアと知的エリート層によって捏造された、偽りと仮象の世界から目覚め、この世界の「真実」にアクセスすること。言ってみれば、このレッドピル的な世界認識と、先に述べたARG的な世界認識とが結びついたところにQアノン陰謀論は、存在している。ARG的な世界認識は、現実世界に別のレイヤーとして物語世界を重ね合わせる。他方で、レッドピル的な世界認識は、この二重化された現実世界/物語世界というヒエラルキー的な階層構造を反転させる。つまり、Qアノンが紡ぎ出す物語世界=陰謀論的世界こそが「真実」を写した世界であり、現実世界と呼ばれているものは実のところ偽の世界に過ぎない、という転倒した世界認識が、レッドピルがもたらす「覚醒」によって獲得されるのである。
 想像(力)と現実とが価値反転するという構造は、しばしばポジティブ・シンキングの領域においても見られる。ポジティブ・シンキングとは、乱暴に一言でまとめれば「強い思考やイマジネーションはものごとの原因となる」という考え方で、たとえば成功哲学で知られるナポレオン・ヒルの著書の邦題『思考は現実化する』は、ポジティブ・シンキングの要諦を簡潔に示したものだ。他にも、一九〇三年に原著が刊行され、現在でも盛んに翻訳されているジェームズ・アレン『「原因」と「結果」の法則』では、私たちは思うことは必ず現実になるし、そのことに例外はひとつもない(ただし努力すれば)、と説かれる。このように、ポジティブ・シンキングにあっては、いわば想像が現実の条件となっている。言い換えれば、未だ現実化していない想像の領域にこそ最大の強調点が置かれるのだ。付言しておけば、ドナルド・トランプは、ポジティブ・シンキングの唱導者として知られる牧師、ノーマン・ヴィンセント・ピール(彼は十九世紀アメリカの霊性運動ニューソートから霊感を得ていた)に学び、とりわけ著作『積極的考え方の力』を若い頃から熱心に愛読してきたとされる。
 自己啓発書には、そのメッセージの受け手(読者)と同時に、送り手(著者)が常に必要となる。教育社会学者の牧野智和によれば、現代は、目標とするべき、規範となる自己のあり方や生き方を断定し、そこへ向けて読者を導いていくようなメッセージが大量に発信・消費される時代であるという。いみじくも、牧野は著書『自己啓発の時代』の中で、自己啓発が氾濫する情況から、この世界全体を一つの原理のもとに単純化してくれるようなメッセージと、それを断定的に与えてくれる権威へのニーズの、現代におけるかつてない高まりを剔抉してみせている。陰謀論もまた、「世界全体を一つの原理のもとへと単純化する」ニーズに支えられた最たるものであることは、今さら指摘するまでもないだろう。
木澤佐登志著『失われた未来を求めて』205-206Pより

ある時期に須藤元気さんの自己啓発本にハマっていた時期があった。近い時期に園子温監督に実際に会いに行ったりして、そこからいろんな人と出会うきっかけができたりしたこともあったので、自己啓発の効果やバタフライエフェクトというのはわりと信じていた。
でも、生粋のネガティブが根底にあるので、どこかで冷めた目で見ていたり、客観視できてしまうために一瞬熱が高まっても持続はしないし、引いた目で見れてしまうので自己啓発は自己暗示として使えなくもないが、けっこうヤバいと思ってもいた。
トランプが支持されたこともQアノン支持者がいることも、日本維新の会の支持者がいることも上記の引用を読むとよくわかる。
それらが跋扈して勢いを持ってしまうのはもちろん(主流メディアと知的エリート層が多い)リベラルの側の問題もあるが、実際はそれまで白人至上主義だったのに移民たちによって仕事などが奪われてしまう(本人が努力してないことが多いわけだが)ことが許せない彼らの自己啓発としてのトランプがいたし、大阪と維新の問題もおそらくそれと被るものがあるはずで、だからこそすごく難しい。
水道橋博士さんが『藝人春秋2』で書いたように関西のテレビ制作会社と作っていた番組というメディアによって、長い時間を使ってやってきたことと維新は結びついているので、外側に出るかそれについて客観的な見方ができなければ、陥った自己啓発的な状況からはたぶん抜け出せない。だが、自己啓発にハマった人がそれを抜け出しても、不安定になった精神を支えるものや場所や時間が必要になる。
複雑化する世界に耐えきれないから単純化する方向に向かう。

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TAKAGI BOO
今日も最後の仲本さんところで外れた。

 

2月8日
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前に見かけたときに気になっていた『東京百年物語2 一九一〇〜一九四〇』を購入。

明治維新から高度経済成長期までの100年間に生まれた,「東京」を舞台とする文学作品を時代順に配するアンソロジー.社会制度,文化,世相・風俗などの変遷を浮かび上がらせ,「東京」という都市の時空間を再構成する.第2分冊には,谷崎潤一郎川端康成佐藤春夫江戸川乱歩堀辰雄岡本かの子ほかの作品を収録した.

田河水泡のことなんかを調べたいと思うと約百年前の1920年ごろの東京のことが知りたいし、調べる必要があったので、収録されている著名な作家の作品はわりと読んでいないのでちょうどいい勉強にもなる。

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映画の試写会場まで2時間かからないぐらいだったので歩いて行く。映画については3月以降に。
早めに試写会場に着いたので周りをうろうろしていたら、日比谷公園が近くだったので久しぶりに行ってみた。今年のGWには去年と一昨年中止になってしまった「MATSURI SESSION」やってほしい。

 

2月9日
木澤佐登志著『失われた未来を求めて』を読み終えて、『ニック・ランドと新反動主義 現代世界を覆う〈ダーク〉な思想』を久しぶりに再読したので、その際にBGMでヴェイパーウェイブを聴いていた。その流れでNight Tempoの曲も聴いた。
僕はスポティファイとか音楽ストリーミングサービスがどうも苦手で、いまだにiPod nanoを使っている。有線イヤフォンだし、MacBook Airに外付けHDDを繋げてCDのデータを取り込んで、iTunesで音楽を聴いている。だから、いまだにCDはレンタルするので、ツタヤ渋谷店に行っている。けっこう、レンタルスペースには人がたくさんいる。
書籍にしても著者名とかタイトルをあまり覚えていなくても、装幀デザインでその作品を覚えている。たぶん、それがあるので、装幀デザインが(僕からすると)ダサいと思うものはよほど人に勧められないと手に取りたくないのかもしれない。装幀とかCDジャケットって中身からのインスピレーションだったり、作り手が手に取って欲しい人を想像して作るわけだから、それが自分にとってどうかなって思うものはたいていの場合、いい意味で予想を裏切ることは少ない。だけど、自分のそのセンスがマジョリティでないこともよくわかっている。
アメリカではCDとヴァイナルの売れ行きがコロナになってから上がったとのニュースを前に見た。結局のところ、人は目に見えるものを欲しがるし、物がなければ存在を把握しにくい。このフェイスブックもそうだけど、結局のところサービス元が終わったらデータは消えるし使えなくなるし、音楽ストリーミングサービスも同じだ。OSがバージョンアップし続けて行くので、それをやめればサービス的に無理なものもあるし、バージョンアップして行く中で支えていたものが急に使えなくなることもある。
結局のところ、トランスヒューマニズムが推し進められ、肉体が滅びなくなって(機械との融合)、脳や記憶のデータをどこかに保存し再生できるようになってしまえば、ある意味で人は死ねなくなる。そういう未来がユートピアなのかディストピアなのかは人によって違うだろうが、そういう未来が予想できてしまう時代の中で(Apple Watchの馴染み方もAirPodsのようにコードがなくなっていく先を考えれば、そのうち当たり前にスマホは体内に入って行くだろうし、ハイスペックなコンタクトレンズがその役目を果たすのかもしれない)、今のところインターネットの功罪はあるが、世界がいい方向に行っているのかと言われると頭をかしげてしまう、だから、それが始まる前の時代や黎明期の希望があった頃を懐かしく思う、そういうものとしてレトロフューチャーを消費するということはあるのだろう。80年代とはインターネットのなかった時代であり、もしやり直すならそこからという意識はゼロではないのではないかと思う。
Night Tempoは「シティ・ポップ」と呼ばれる1980年代の日本のショー、歌謡、ディスコを再構築して「フューチャーパンク」(Future Funk)というジャンルを誕生させ注目を集めた。日本の歌手竹内まりやの「プラスチックラブ」をリエディットしたバージョンはユーチューブで700万以上のクリック数を記録した(wikiより)。
彼は韓国のDJ兼プロデューサーだが、『82年生まれ、キム・ジヨン』を訳された斎藤真理子さんにインタビューをした際に『ピンポン』の著者であるパク・ミンギュは村上龍高橋源一郎の影響を受けていると公言していると言われていたし、村上春樹吉本ばななの小説は直訳文体で韓国では読まれたこともあって、直訳文体的なものの影響を受けた書き手が現れていく流れができたとも教えてくれた。文化は合法であろうが海賊版であろうが、アンダーグランドなところからでも国境を越えて影響を与えあう。
まあ、日本が他国に影響を与えれるのはその時代が特に強いとは思う。金持っていた時代だからこそ、他国にとっての失われた未来でもあったし、サンプリングとかもされていない、掘りがいのあるものとして日本の音楽は掘って海外で新しく知られていっているのも事実。
KADOKAWAのメディアミックスについての研究だって日本じゃなくてカナダとか他国の学者とかのほうがちゃんとやっているし(摩駝羅関係のメディアミックス資料はマーク・スタインバーグにたいてい渡してるって言ってた)、戦前戦中の超有名作家の未発表原稿はたいてい中国とかに残っている大東亜共栄圏におけるメディアミックス的に作っていた雑誌とかに載っているものが多い、向こうは資料としてきちんと残しているけど、日本はやべえ資料は廃棄して証拠隠滅してたから残ってなかったっていうオチだったりもする。


ポニーキャノンが公式で許可してアップしてる。こうやって許可して再生数を伸ばした方が利益になるとわかっている。

新田恵利って言われても、『めちゃイケ』とかで岡村さんとかおニャンコ直撃世代の人が憧れていたアイドル的なことでテレビ出てた人だよなって感じしかない。

 

2月10日
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小林信彦著『ムーン・リヴァーの向こう側』読了。内容は「男は39歳、辛口で知られるコラムニスト。離婚歴あり。東京・山の手に、今は独り住まい。内省的な性格。性的な悩みを抱えている。そんな男の前にあらわれた女は27歳、古めかしい言葉をさらりと使う。六本木や西麻布の喧噪が苦手。新潟の出身だというが、その挙動はいたって不可解…。かくて、瀕死の巨大都市「東京」の光と影とに彩られた、物哀しくもユーモラスな恋愛譚が始まる。」というものなのだが、読んでいくとなんというか出来損ないの村上春樹作品みたいな印象を受ける。小林さんのほうが村上さんよりも年上だということもあるだろうし、いろんな面で当時の村上春樹さんと比べてもどこか古臭いという感じがした。
ただ、祖父の時代から青山に住んでいて現在(1995年辺り)は渋谷に住んでいる主人公が出会った20代のライターの女性の謎を追いかけていくうちに自分の出自がわかってくるという意味では、タイトルもそうなんだが、ポール・オースター著『ムーン・パレス』にも通じている。都市計画というものや変わっていってしまう東京について書きたかったんだろうなと思うし、東京生まれの著者が知っているかつての東京の姿を物語の謎に結びつけているのはおもしろかった。隅田川を渡る渡らないというそれだけがかつて深川とかに住んでいた人からしたらまったく違う場所、「異界」だったというのは現在だとわかりにくいものだろうけど、こうやって残すことが大事なことだと思う。小林さんは村上春樹作品やポール・オースター作品をどのくらい意識したのか、まったくしてないのかと言われるとさすがどうかなって思える感じの内容ではある。
でも、今書いているものに活かせる要素がいくつかあったので、読んでよかった。

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仕事が終わってからニコラでお茶をしてから歩いて渋谷に向かって、『ゴーストバスターズ アフターライフ』をTOHOシネマズ渋谷にて鑑賞。
主役のフィービー(マッケンナ・グレイス)はいわゆるリケジョ的な才媛で眼鏡っ娘役だが、顔が整いすぎてて、このまま成長したらものすごい美女になるんだろう。高1ぐらいの冴えない兄貴のトレヴァーだがアメリカは免許取れる年齢ってのがデカい、ゴーストバスターズの車を運転する大人ではないフィービーに近い存在が必要になるから。フィービーの同級生であだ名がポッドキャストなムードメーカーな少年はアジア系で『グーニーズ』のデータに近い(彼よりメカニックというわけでないが)。あとは兄貴が一目惚れした彼より2つ上のバイト先のアフリカ系の女子高生の四人が新しいゴーストバスターズ的な存在となる。

フィービーの祖父である元祖ゴーストバスターズだったイゴン・スペングラー博士が田舎町で封じ込めようとしていたゴーストの封印が解かれそうになって、新生ゴーストバスターズが活躍するという物語になっている。
シリーズの1と2のアイバン・ライトマン監督の息子であるジェイソン・ライトマンがメガホンを取っていることも大きいのか、家族というか親子の話にもなっている。変人で家族を捨てた父親だとずっと思ってきた娘のキャリー(フィービーの母)と父との関係性の再生も軸にある。

なんにも知らないままで観たけど、楽しめた。あとあれはどこまでネタバレしてんの?っていう。それもあるから某メジャー作品同様に過去から現在という時間の積み重なりが大きく作用している。
オリジナルが難しい時代、祖父の血をある種隔世遺伝的に引き継いだ若き科学者のフィービー、祖父の遺産を孫が使うということは物語として強い。しかし、キャリーは家賃が払えないからずっと疎遠で少し前に亡くなった父の田舎の屋敷に子供をふたり連れて戻るしかなかったという設定でもある。
シングルマザーであるキャリーは僕と年は変わらない、カート・コバーンビリー・コーガンも親に捨てられた、両親の離婚が当たり前みたいに増えたアメリカのジェネレーションXはグランジオルタナの筆頭となった。キャリーも年齢からすれば、ジェネレーションXの最後尾辺りになる。日本だとそれはロストジェネレーションと呼ばれた世代と重なる部分がある(ジェネレーションXのほうが長いのだが)。

僕は基本的にはロストジェネレーション≒ごっつ直撃世代(松本人志病)だと思ってる。冷笑的に世界をひねくれて見る癖がついてしまった。最後のガラケー世代とも言える。そして、上と下の世代のハブになるはずの役目はインターネットが果たしてしまい、宙ぶらりんになってしまった。だからこそ、キャリーにいちばん感情移入をしたような、こんなことを書いてる。
どんな時代でも間に合わなかった遅れてきた青年ばかりだし、救われなかった人たちのほうが多い。だけど、救われなかったからといって誰かを救えたりするならば救いたいし、なにかで手を差し伸べることができる時には手を差し伸べる人ではありたいと思う。たぶん、そういうことを今はなにかの形にしたいのかもしれない。
結婚していないパートナーもいない子供もいない、そういう自分がこの数年、35を越えてからよく考えるようになったのは引き継がれるものだとか、されないものだとか、いろいろあるんだけど、たぶん、その辺りの事についてこれから付き合っていくんだろうな。

 

2月11日
去年の12月に『水道橋博士のメルマ旬報』の連載「碇のむきだし」で書いた『2021年映画ベスト』 をnoteに転載しました。


f:id:likeaswimmingangel:20220211122621j:plainオススメされた『デジタル・ファシズム』を読む。なんとなく聞いたりしていたことがわかりやすく書かれている。THE新書という感じもした。
お金に関しての部分はほかの本で読んでいたので、わりと知っていた。税金を納めることの意味みたいなことをなんの本で読んだか忘れたが、日本で税金を納めるためには円で収めることしかできない。つまり、税金があるから日銀が発行する紙幣には信用と価値が生まれているし、それによって支配が可能になる。だからこそ、ビットコインなんかの国というものを超えたものが当たり前になると、当然ながら円の信用は落ち価値がなくなっていく。というか日本に住んでいる人を支配できなくなる。だから、中国系のキャッシュレス機能が知らない間に入ってきて、利用者が増えていくと円が元に知らずと置き換えられてしまう(中国化されてしまう)という話だったはずだ。
資本主義の諸問題を解決するためには、GAFAをはじめとする企業なんか資本主義をさらに推し進めて、資本主義の持つ国家や因習などを解体する作用に期待すべきとする思想が加速主義だった気がするが、それはリバタリアニズム(個人的な自由、経済的な自由の双方を重視する、自由主義上の政治思想・政治哲学の立場)とも関わっている。
この『デジタル・ファシズム』読む前に久しぶりに『ニック・ランドと新反動主義』を読み返したので、脳内でいろいろと混ざってる。
この新書でも最初にSF作家であるアーサー・C・クラークの話が出てきていた。もちろんSF的想像力に関しては疑わないけど、そこまでみんなSFってちゃんと読んでるのだろうかとも思ってしまった。結局のところ『デジタル・ファシズム』で危惧されているようなことの行き着いた先は伊藤計劃さんが『ハーモニー』で書いてるんだよなあ、改めてこの新書が売れるなら『ハーモニー』はもっと読まれてもいいのになあ。

 

2月12日
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友人の鎌塚くんが原案で、糸井のぞさん作画のコミックス『僕はメイクしてみることにした』が発売になったので買いにいった。残り一冊だったけど、かなり動いているみたい。
何話かはWebで読んでいたけど、こんなに早く形になるんだと驚きもある。まずは出版おめでとうございます! めでたい。
僕はトモズとドン・キホーテでバイトしていた期間が10年以上あるので、けっこうコスメ関係は売っていたのでなんとか名前とかはわかったりする。防犯シールとかめっちゃ貼ってたもん、高額商品とかに。
この漫画の内容はすごく映像化に向いていると思う。そもそもウェブでのPV数もすごかったみたいなので、すでに話は来ていそうだが。
『佐久間宣行のオールナイトニッポン0』で先々週あたりの放送回で元テレ東佐久間さんがブログかなにかを読んで40歳を越えてはじめて化粧水を使ったという話をしていた。なんで今まで誰も教えてくれなかったんだよ!みたいな話だったので、僕がコミックスの担当なら『佐久間宣行のオールナイトニッポン0』に献本で送る。で、読んだらおもしれえって話になってラジオとかで話してくれるかもしれない。
その流れからテレ東深夜枠とかTBSでドラマ化とかいけそうだし、総じてParaviはけっこうオリジナルコンテンツを作っているので、この『僕はメイクしてみることにした』はドンピシャな気がする。佐久間さんがParaviで『考えすぎちゃん』(ワンクールだけTVでもやった)とかやっていたのを見ていて、けっこうテレ東とTBSのドラマ班が出ていたし、『生きるとか死ぬとか父親とか』はプロデューサーだったので、そういうメディアミックスもいけるんじゃないかなと他人の作品で青写真を描きながら、読んでます。

 

NHK+で『星野源のおんがくこうろん』を見る。解説員がふたり(パペット)いて、ひとりはTBSラジオでお馴染みと言っていいのかな、高橋芳朗さんで、もうひとりが先日ちょうど読んだ『アメリカ音楽の新しい地図』の著者の大和田俊之さんだった。
第一回はビートメイカーのJ・ディラだった。なんとわかりやすい。スパイク・ジョーンズのMVは流れるし、Eテレっぽくない気はちょっとするけど、これ民放だとたぶんできないんだろうな、星野源さんならなんでもやっていいですみたいなスポンサーいないだろうし。
以前『おげんさんといっしょ』でサンダーキャットのことを紹介してたのを思い出した。コロナでいまだに来日公演は延期されたまま(チケット取ってるけどもはやアナウンスがない)だけど、来日したら絶対に星野源とサンダーキャットはコラボかなにかするだろうなと思う。


AmazonプライムでやっていたやつがYouTubeに場所を移したのね。
プロレスものではないけど、有田さんの語り手は好きでこのシリーズはAmazonプライムでは全部見ている。
相方としての福田さんの相槌もかなりいいし、有田さんの語りはやっぱり知らない人にも伝わる熱量とわかりやすさがありながらも、話術としてうまいなあと思う。
平家物語』だったら平家にも源氏にもなりたくないけど、琵琶法師にはなりたいっていうか。
語り部の使命はできるだけ生き延びて見たり聞いたりして後世に残すことなんだよね。
伊藤計劃著『ハーモニー(新版)』の最後にある伊藤さんを佐々木敦さんがインタビューしたのを読んで、語り部のことをちょうど考えたばかりだった。

 

2月13日
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松居大悟監督『ちょっと思い出しただけ』をヒューマントラスト渋谷で鑑賞。
毎年のある日だけを定点観測の逆回転していくことで、今は別れてしまった二人(照生(池松壮亮)と葉(伊藤沙莉))の日々と想いの変化、コロナで変わった東京が描かれていて、すごくよかった。
クリープハイプの曲が主題歌で尾崎世界観さん出てるし、中央沿線や座・高円寺も舞台になってるし、ニューヨークの屋敷さんも出てるので、水道橋博士さんは観たのだろうかとちょっと観ながら思った。とツイートしたら博士さんが反応してくれたので、観てもらえるといいな。

照生の後輩のダンサーの泉美役が河合優実さんだった。僕が彼女を認識したのは『サマーフィルムにのって』からだったけど、松尾大輔監督『偽りのないhappy end』にも出ていて(こちらのほうが撮影とかは先だったはず)、2月末公開の城定秀夫監督『愛のなのに』も予告編見るとかなりメインだし、一気に来てるなあと思う。
実際にキャスティングされて撮影が終わって、それを観て僕がそう思っているというタイムラグはあるから、映画関係者の中ではもっとだいぶ早く評価されたり、使いたいという人がいるはずで、それがどんどん増えている状態なんだろう。

そのタイムラグにとって、観客には「あれ、この人このところめっちゃ観るな」という状況になって、ブレイクして知名度が上がっていくというサイクルがおそらくある。『偽りのないhappy end』にちょいと出ていた三上愛さんも最近めっちゃ見るようになったし、バイトしている「monokaki」の主体である「エブリスタ」で投稿していた小説が原作となっているドラマ『Liar』の主役になっていた。

『ちょっと思い出しただけ』は物語的には『花束みたいな恋をした』や『ボクたちはみんな大人になれなかった』と比べやすいものでもある。
『ちょっと思い出しただけ』は中央線で、『花束みたいな恋をした』は京王線、的な物語である。もちろん舞台がそうだからであり、僕個人としては『花束みたいな恋をした』の舞台に馴染みがあり、住んでいた近くだし、主役の麦と絹に近いものがあったのでかなり沁み入ったし、最後のファミレスは号泣してしまった。
『ちょっと思い出しただけ』はメインふたりのやりとりがすごくよくてけっこう笑う箇所が多かったのが対照的に思えた。ちょっとオフビートな感じもするのだけど、それは後述するこの映画がオマージュしているジム・ジャームッシュ監督『ナイト・オン・プラネット』(原題『Night on Earth』)と関係があるのかもしれない。
でも、どちらも横浜の観覧車が見える場所が物語の大きなポイントになっているので通じている。

どちらの作品でも猫を飼っている。
『ちょっと思い出しただけ』は二人が別れたあとに猫は照生が引き取って育てている。物語として毎年彼の誕生日という一日を遡っていくため、飼い猫はどんどん小さくなっていく。
逆にというか『花束みたいな恋をした』では、二人が同棲し始めて神社で拾った黒猫はどんどん大きくなっていく(当たり前だ。時間が進む方向として)が、黒猫はどんどん大きくなり、ふたりが心の距離が離れていくような不吉さのメタファーのように見えてしまう。
同じようなことは城定秀夫監督『愛のなのに』と同じプロジェクトで制作された今泉力哉監督『猫は逃げた』の予告編を見た時に感じた。離婚寸前の夫婦が飼っている猫が逃げてしまう。猫は愛に置き換えられる。「愛は逃げた」というわかりやすさとして、猫はたぶん登場している。猫は映画に向いているのはメタファーにちょうどいいからだろう、あと一軒家であろうがマンションであろうが屋内で飼えるからなのかな。

『ちょっと思い出しただけ』は『ボクたちはみんな大人になれなかった』と重なる部分がある。それはヒロインが同じく伊藤沙莉であり、時間軸が過去に巻き戻っていくという手法を取っているからだ。
ただ、『ボクたちはみんな大人になれなかった』は燃え殻さんの小説と映画では構成が違う。現在から過去に巻き戻っていくのは映画版のほうである。
そういえば、どちらにも篠原篤さんが出ている。先日観た奥田裕介監督『誰かの花』にも出演されていた。篠原さんは橋口亮輔監督『恋人たち』で知ったけど、映画館で観ていると偶然的に同じ役者さんが立て続けに出ているのを見ることがあるけど、あれもさっきのキャスティングとかのタイミングみたいなものと近いなにかがあるんだろう。
映画『ボクたちはみんな大人になれなかった』も『ちょっと思い出しただけ』も現在のコロナパンデミックの状態からそれより前の時代に遡っていく。
僕が映画『ボクたちはみんな大人になれなかった』を観た時に思ったのはその手法を使っているせいでヒロインである「彼女」が出てくるのが遅く感じられてしまったことだった。たぶん、そのせいで「ボク」にうまく感情移入できなかった部分がある。原作である小説にあるエモさみたいなものはやはり「彼女」と出会ってからの「ボク」の言動や気持ちにあるので、それが遅れてしまうとある程度成功した人が過去を振り返っているように見えてしまう面もある。

『ちょっと思い出しただけ』はクリープハイプ尾崎世界観さんが自身のオールタイムベストに挙げるジム・ジャームッシュの名作映画『ナイト・オン・ザ・プラネット』に着想を得て書き上げた曲を基に松居大悟監督が書き上げたオリジナルストーリーになっている。
作中にも『ナイト・オン・ザ・プラネット』が出てくるし、伊藤沙莉が演じる葉はウィノナ・ライダー同様にタクシードライバーである。また、ジム・ジャームッシュとも親交があり、彼の作品に出ている永瀬正敏さんも出演しているが、彼は公園のベンチでずっと妻を待っているという役どころだが、それはジム・ジャームッシュ監督『パターソン』のラスト近くで永瀬さんが出てきたのを彷彿させる。
つまり、ジム・ジャームッシュ監督『ナイト・オン・ザ・プラネット』があり、そこから着想を得て尾崎さんがクリープハイプとして『ナイトオンザプラネット』という曲を作り、それを元に松居大悟監督がオリジナルストーリーの映画にした。
故にジム・ジャームッシュ監督『ナイト・オン・ザ・プラネット』をオマージュしながらも、それぞれの作り手の思いが各自のクリエイトに昇華されている。それもあって、尾崎世界観自身も映画に登場し、重要な役回りになっていた。

松居大悟監督は舞台もやっていることもあって、作中に舞台の場面がいくつかあったりして、コロナパンデミックの現在の舞台の状況も描きたかったのかもしれない。
あと葉がタクシードライバーだけど、東京五輪に向けてタクシーが新型タクシーになったけど、外国のガタイのいい人も乗り降りするのにいい大きさのやつね、時間が遡るからタクシーも新型から昔のものになっていくのもよかった。そう考えるとフィリップ・K・ディック『ユービック』みたいなとこもある。
観終わったあとには心地よい気持ちになった。外は雨だったから濡れながら家まで歩いて帰ったけど。



手話通訳付きの映像を観ていると、その通訳者たちの肉体性にしばしば感動する。聴覚に障害があるがゆえに、むしろ肉体が雄弁になっているという現実を目の当たりにしている、と感じるというか。私は半年以上が経ってから再度視聴する東京オリンピック2020開会式に呆れると同時に、通訳者たちのその存在感に感激していて、いったいこういうギャップはどこから来るのだろう、と考えざるをえなかった。

手話ということだと最近だと『ドライブ・マイ・カー』や『コーダ あいのうた』とアカデミー賞にノミネートされた作品に共通して出てくる。
古川さんの新刊『曼陀羅華X』に出てくる老作家と彼がかつて拉致された教団から脱出する際に連れ出した教祖の息子(赤ん坊だった)は聾なので、その血の繋がらない親子の会話は手話であり、それが描写されていた。
『コーダ あいのうた』について感想を書いた時にも書いたのだけど、「語り/ナラティブ」ということがよく言われるようになった先に身体性を伴った手話の「語り/ナラティブ」というものが改めて表現の世界でも意識的になってきているのかもしれない。

 

2月14日
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人生初の歌舞伎はコクーン歌舞伎『天日坊』シアターコクーンにて鑑賞。10年ぶりの再演だが、前回は観れておらず、今回がはじめてとなった。
宮藤官九郎脚本であること、そして主演であるメインキャスト三人が中村勘九郎中村七之助中村獅童という布陣であるので観たかった。
もともとTBSドラマで宮藤官九郎脚本『池袋ウエストゲートパーク』をリアルタイムで見てから、その後のクドカン脚本ドラマはほぼ見ているし、彼の映画監督作品もほぼ劇場で観ている。舞台は数回しかないが。
池袋ウエストゲートパーク』から何度もクドカン脚本ドラマの主演を務めたのは長瀬智也さんだったが、去年の『俺の家の話』をもって芸能と表舞台からマスクを脱ぐように降りていった。ドラマ自体もそんなことを感じさせるメタフィクション的なものもありつつ、「能」と「プロレス」を交ぜながら一家の伝統と意志を次世代に引き継ぐ話として描いていて素晴らしかった。それは『スパイダーマン ノー・ウェイ・ホーム』同様に20年という時間の積み重ねと言える層ができたことで、その流れを知っているものにはより深くに沁みこんで届くものになっていた。

宮藤官九郎はその名前の通り、「大人計画」主宰の松尾スズキさんから、先代の中村勘九郎さんに似ているということから付けられた芸名だったはずだ。まあ、20年以上前のことを思えば似てなくはない。
今回の再演には前回同様にメインの売れっ子の歌舞伎役者が三人いる。
先代である五代目だった中村勘九郎中村勘三郎)の長男の現・六代目の