Spiral Fiction Note’s diary

物書き&Webサイト編集スタッフ。

Spiral Fiction Note’s 日記(2023年3月16日〜2023年3月31日)

3月上旬の日記(2023年3月1日から3月15日分)


3月16日

昨日表参道に行った際に、久しぶりに寄った青山ブックセンター本店で『アメリカの夜 インディヴィジュアル・プロジェクション 阿部和重初期代表作1』&『無情の世界 ニッポニアニッポン 阿部和重初期代表作2』の二冊を購入した。
どちらも装幀デザインがよすぎる。収録されている作品に関しては以前に出た講談社文庫や新潮文庫とかでももっているものもあるけど、やはり買っておきたかった。

父と娘の風景|相鉄東急直通記念ムービー|Father and Daughter 


朝起きてから作業をしながら『佐久間宣行のオールナイトニッポン0』をradikoで聴いていたら、途中でハナレグミの『家族の風景』なんだけど、PUNPEEの声が聞こえてきて、なにこれコラボってる?と思ったらこれだった。 

90年、91年、92年。
次々に新しいカジュアル・ファッションがトレンドになっていきます。
キレカジ、リバカジ、デルカジ、フレカジ、イタカジ。
「〇〇カジ」というネーミングから「カジュアルであること」は大前提。
そして注目したいのは、カジュアルでありつつ、渋カジへの反動もある点です。
「Tシャツにジーンズなど、シンプルでラフなイメージだった」ことへの揺り戻しで、
綺麗な服を着ていこうというよ、という意識がトレンドにあらわれています。

Tシャツをめくるシティボーイ 第18回  渋カジとは何だったのか・その後 / 文:高畑鍬名(QTV)

友人のパン生地くんこと高畑鍬名君の連載の最新回が15日にアップされていた。「〇〇カジ」というパターンでいろんなネーミングがあったことを初めて知った。当時まだ小学生の中学年ぐらいだし、田舎だしそもそもファッションすらなんにも興味を持てていなかったから知らなくても当然な気もする。
最後の方には「UNDERCOVER」を立ち上げた高橋盾さんがまだ文化服装学院とかにいたぐらいの街角スナップに写っているものがあった。裏原へと続くブームや現在にも繋がっているものの始まりの景色のようなものも掲載されていて、Tシャツのタックイン&タックアウトをめぐる連載だが、やっぱり日本のファッション文化におけるクロニクルを描くことにもなっている。


渋谷に向かっている間はスマホで『オールナイトニッポン』2023年度のパーソナリティー発表会を見ながら歩いていた。

Ado、あの、あいみょん 『オールナイトニッポン』2023年度 新パーソナリティに決定!

オールナイトニッポン0』担当の佐久間さんと三四郎のどちらかがCreepy Nutsが卒業して空いてしまう『オールナイトニッポン』月曜日に昇格するかも、みたいな話が出ていたが、どちらも大好きなので二組ともこのままの枠でずっとやってほしかった。佐久間さんは仕事の量もあるけど、そもそも裏のTBSラジオが『伊集院光深夜の馬鹿力』なんでオファーされても断るだろうなって思っていた。中高生時代にラジオに夢中になったきっかけである伊集院さんの裏を普通はやらない。そもそも裏をやって勝負する必要が佐久間さんにはないから。
Adoは前に『オールナイトニッポン』やったのを聴いたけど、なんか違うような。GOLDにあいみょん出すなら、あいみょんのほうが一部には合っているような。で、『オールナイトニッポン0』のぺこぱのあとはあのちゃん。正直あのちゃんだと思ってた。過去3回のラジオがめちゃくちゃおもしろかったし、順当だろうし聴きたかったパーソナリティーなのでうれしい。新しくパーソナリティーに決まった三人がみんな「あ」から始まるのはなんなんだろう、少し不思議。
裏のJUNKも山ちゃんは毎週じゃないけど、ほかは全部毎週聴いていて、その中で一番若いのが山ちゃんだし、ほかはみんな50オーバーでベテランすぎて入れ替わりもないし下の世代は入れない感じ、良くも悪くも安定していて変わり映えはしない。
つまり、どこかで一気に変わるかJUNKが消滅して新しいブランドにするか。結局新陳代謝をして若手を育てないとベテランがいなくなり始めたら、ベテランと若手を繋ぐ中間層が誰も育ってなかったみたいなことになる。僕らの世代、80年代前半生まれを見ればわかる。


渋谷PARCO内にあるDOMMUNE にどのくらいぶりかわからないけど、たぶんここは二回目かなと思うが、「AMAZON EXCLUSIVE「DOMMUNE RADIOPEDIA」【大百科86】 菊地成孔大谷能生の「XXX et XXX」〜DOMMUNISM的接続 【第2巻】「マイルス・デイヴィス東宝映画」Chapter2」の公開収録を観(聴き)にやってきた。
Amazon Podcastで第1巻は聴いていて、公開収録しますよっていうのをTwitterで見てすぐに申し込んでいた。3時間半ぐらい収録していたが、Podcastで配信する際には編集して短くなるはずで、そもそも今回の収録でわかった「東宝映画」の映像をかなり流していたので、その部分は音声を活かしたりいろいろと処理はすることになると思う。だから、現場でいろんな映像を観ているほうがたのしいしどういうことなのかがよくわかる。クレイジーキャッツが出ている映画や「若大将」シリーズとかいろんなものが流れていた。

(カラー化)新倉美子 ラビアン・ローズ 昭和28年 1953


ハナ肇さんとフランキー堺さんのドラムプレイの話でこちらも流していたけど、フランキー堺さんがドラムで、ベースが高島忠夫さん。高島さんはちゃんとベースを弾いているが他の役者さんはあてぶりらしい。
何度も菊地さんがネタみたいにいう話だけど、高島兄がバンドをやったときにサクソフォンで参加して、その時に高島パパがものすごく丁寧に扱ってくれたらしい。曲が終わるたびに胸ポケットに万札入れてきたとか、ライブ終わりの打ち上げに豪勢なところに連れて行ってくれたと言われていた。高島さんがミュージシャンをほんとうに尊敬してたってことなんだろうなって思う。

マイルス・デイヴィス植木等が同年の生まれであることから本来だったら一緒に語ることがないものを結びつける(それはすごく批評的な行為だし、知識とユーモアが必要になる)というもの。もちろん、DOMMUNEのスタジオの音響でマイルス・デイヴィスのレコードやCDの音を聴くのもすごくいい体験だった。
情報量が多すぎたので配信された際に聴いてみたらもう少し輪郭がしっかりしそう。紹介していた作品に出ていた方の多くが亡くなっている、存命の人もいらっしゃるけど、僕の世代で1960年代や1970年代とかの東宝映画、しかもクレイジーキャッツとかが出ているものに精通している人はほとんどいないとは思う。
菊地さんと大谷さんの語り口もおもしろいんだけど、固有名詞とかに関してはどうしてもジェネレーションギャップが出てきてしまうのは仕方ない。日本の戦後芸能界がいかにジャズメンたちによって作られたか、てれびのスキマさんの新書『芸能界誕生』にも詳しく書かれていたけど、映像を観るとより説得力が増してくる。

 

3月17日

朝起きてから夕方過ぎまでリモートで仕事をする。昼間に西友に惣菜を買いに行ったが曇っていて天気が崩れそうな感じでちょっと肌寒かった。15日に相談に行った件についていろいろと進展があった。そのことについては思うところはあるけど、正直これでいいんじゃないかなって思う。
18時に仕事が終わってから家を出て渋谷のユーロスペースに向かう。空の色合いが雨が降りそうな感じになっていた。金曜日なので円山町は人がたくさんいる。マスクはやはりしている人の方が圧倒的に多い。
本日から公開の浅野いにお原作漫画を竹中直人監督で映画化した『零落』を。19時の回しかユーロスペースではやっていないみたいだが、20人ぐらいはお客さんが入っていた。

ソラニン」「おやすみプンプン」などで知られる漫画家・浅野いにおが漫画家の残酷なまでの業を描いた同名コミックを、俳優のみならず映画監督としても活躍する竹中直人のメガホンで実写映画化。

8年間連載してきた漫画が完結し“元”売れっ子漫画家となった深澤は、次回作のアイデアが浮かばず敗北感を募らせている。すれ違いが生じていた妻のぞみとの関係も冷え切り、自堕落で鬱屈した日々を過ごしていた。そんなある日、風俗店を訪れた彼は、猫のような眼をしたミステリアスな女性ちふゆに出会う。自分のことを詮索しないちふゆにひかれた深澤は、ちふゆとともに彼女の故郷へ行くことになるが……。

斎藤工が主演を務め、NHK連続テレビ小説「ブギウギ」でヒロイン役を務める趣里がちふゆ、「台風家族」のMEGUMIが深澤の妻・のぞみを演じる。(映画.comより)

特に後半での主人公深澤の大学時代の彼女のセリフとかからこれってスティーブン・スピルバーグ監督の自伝的な映画『フェイブルマンズ』と通じているテーマなんだなって思った。芸術家、こちらでは漫画家、あちらは映画監督という生き物はどういう存在なのか、家族との関係とかについて描いているところが共通していた。
原作の浅野いにおさんは1980年生まれ、主人公の深澤を演じた斎藤工、その妻で漫画編集者の町田を演じたMEGUMI、町田が担当している売れっ子の漫画家の牧原を演じた安達祐実は僕と同じ1981年度の学年であり、同世代感を感じる物語でもある。

サンデー毎日宮台真司、襲撃事件の全貌を明かす 田原総一朗が迫るニッポンの闇 コミュニケーション喪失時代の不気味な影 | 週刊エコノミスト Online 

サカキバラやネオ麦茶ら秋葉原の加藤やPC遠隔操作など1982年生まれの男子が凶悪事件を起こし、ダークサイドに落ちて行った印象があるが、この年度生まれに犯罪者が多いというわけではなく、世の中に衝撃を与え、のちまで印象を残す事件を起こした者が多かったからだ。学年は一学年上だが、1982年早生まれなのでずっと気にかかってきた。
そして、安倍元首相を銃殺した山上徹也は1980年生まれ、上記の宮台さんを襲撃した倉光実は1981年生まれ。僕と同世代。
ロスジェネ末期でゆとり世代よりも上、なにか日本社会の空洞さと共にあったような、これはなんなんだろうなって。一応考えているのは1980-1985年の80年代前半生まれは括れるような気がするのは、ポケモンとハリポタがもろに直撃していないってことなんじゃないかなって。その二つを楽しんでいた人はいるだろうけど、弟や妹世代のカルチャーで共通言語っていう気がする。ロスジェネの僕らより上や団塊ジュニアはいろんな共通言語があるし、細分化も広がる前だと思う。

僕が浅野いにおさんにシンパシーを勝手に感じるのは同世代であり、90年代に十代を過ごしてきたということによる価値観が近いからなんだと思う。それは思春期に日本が崩れていく様を見せられながらどうにもできないという感覚、アイロニカルな視線を持つことでなんとか保ってきたものがあった。
社会人になる頃には不況の煽りを受けて非正規雇用になる人が多かった(それによって下の世代は古き日本的な正規雇用を求めることになる)。上のアナログ世代と下のデジタル世代の中間にいるのにネットの普及によって、すっ飛ばされて宙ぶらりんになってしまったとか、そういう感覚は『おやすみプンプン』で描かれていた。

ヒロインのちふゆは趣里が演じているが、ショートカットの髪型もあって画面に顔が映る際の角度によって、「ああ、お母さん伊藤蘭さんだもんな」って思うほど顔のパーツが似ているなって。
エンドロールには『東京ヴァンパイアホテル』でお世話になった方々の名前もあったし、冒頭と最後に出てくるのはこちらもお世話になった八重洲ブックセンターでロケをしていた。
主題歌を歌っているドレスコーズの志摩さんが深澤にインタビューするライターとして出演しているのだけど、たぶん出版社の中でそこの編集者とライターの2人が深澤にインタビューをしているシーンがあって、もちろんICレコーダーは置いてあるんだけど、画的な問題だったのか2人ともノートパソコンすらテーブルに置いてなくて、ライターがノートにメモしている感じで取材を進めていた。
僕も今までいろんな方にインタビューしたことがあるけど、この時代にインタビューする時とかにパソコンとか開いてないとちょっとリアリティがないんだが。もちろん、ICレコーダーを回していてノートにメモ取りながら話を聞くこととかはあるとは思うけど、1人で取材しているならわからなくもないけど、2人いたらどっちかはノートパソコンかタブレットはさすがに持ってきてるよ。

映画自体はなんというか、良くもなく悪くもないっていう感じ。なんだろうな、漫画のセリフがそのまま使っているところとかの違和感は多少あるけど、あまり原作からは変えないようにはしたのかな。時折、漫画だと違和感なかった部分が映像になるとちょっと気になった。
だけど、僕がしっくりきていないのは竹中さんが浅野さんの漫画が好きで、この作品に惚れ込んでいても、監督の竹中さんも脚本の倉持さんもこの世代の感覚をわかっていないということなんだろう。


映画が終わって帰っていたら雨がちょっと降っていた。緑道の桜もまだまだ咲き始めたばかりみたい。開花宣言は出たし、この肌寒い日が過ぎたらすぐに満開になりそう。

 

3月18日
朝目が覚めると部屋が寒かった。外からは雨が降っていそうな音がしていて、玄関ドアを開けてみたらやっぱり小雨が降っていた。とりあえず、作業を開始する前にスマホを持って散歩へ。radikoで『三四郎オールナイトニッポン0』を聴きながら傘を差して緑道を歩く。ゲストは今月末で一部を卒業するCreepy Nutsの2人。
40分ぐらいで家に帰ってきたので最初は松永だけでR-指定はきておらず、寝坊かみたいな話になっていた。これまでの流れもあって家でほんとうに生地からピザを作っていたみたいで、少し遅れてピザを持ってきたR-指定が到着する少し前ぐらいまでを聴いて、それ以降は家で残りを聴いた。
ピザはほんとうに美味しかったようでみんな絶賛していた。なんにもしていない松永はコンビニにパシリにいかされていた。なぜ、ゲスト回なのにスタジオの外に。三四郎Creepy Nutsの関わり合いを考えるともう少し深い話をするかなと思ったら、最後の方でもう少し感傷的になりたかったよみたいな話を相田さんが話をしていた。
東京03 FROLIC A HOLIC」の二日目の最後の方で佐久間さんがCreepy Nutsの2人とセットのラジオブースで感傷的になっていたことについて、なんでだよ、俺たちの方がラジオでの関係深いだろ、とか言いつつ終わっていった。あえてなんだろうけど、こういういつも通りのやりとりとバカバカしい騒がしいノリとツッコミはこの二組だからこその空気感だったし、この最後の絡みでよかった。

 いつも正解ばかりを求めてしまうのは、生きている実感が足りないから、その代わりに正解というまがいものにすがってしまうのです。でも、そんな不確かなものに支えられて生きていくのは、なかなかしんどいことです。なぜなら、 それはまがいものだけに、肝心なときほど頼りにならないし、どんなに求め続けても満たされることがないからです。
 だから、少しくらいハチャメチャで一貫性がなくてもいいから、ときには周りに迷惑をかけてもいいから、面白く生きたほうがいいですよ。いつも他人に迷惑をかけないことばかりを気にかけている大人は、自分の生の可能性を奪われたままに生きているのに、 それに気づいていません。そんな人たちは、自分がせっかく我慢しているのにと、他人に当たり散らすことに終始しがちです。
 社会に適応できないと生きていけない。そんなことを言う大人は嘘つきですよ。そんな大人の言う「社会」なんて、その人が見たせまい世界の断片でしかなくて、彼らはいまあなたが見ている世界を見ていません。自分を窮屈な枠組みに閉じ込めることでしか 生きることができない恨みを、子どもを通して晴らそうとしているんですから、そんな言葉に聞く耳を持たなくてよいのです。

鳥羽和久著『君は君の人生の主役になれ』P35-P36より

休憩中にニコラの曽根さんからオススメされてお借りしていた『君は君の人生の主役になれ』を読み始めた。
小説でも映画でもいいけど、オープンエンドだと怒るバカや正解をくれって人が明らかに増えているし、こういうことでした!みたいなものでないと売れないってことってこの「正解を求めてしまう」ことに通じているのだろう。
SNSもそうだけど、基本的にネットは工学的なものだから放っておいたら「正解」のほうに行ってしまうのだと思う。今起きているさまざまな問題は「工学的な考え」と「人文的な考え」が解離してしまって、その間を結ぶ共通言語みたいなものがないってことなんじゃないだろうか。「自分がせっかく我慢しているのにと、他人に当たり散らすことに終始しがちです」ということだって、2ちゃんねる作ったあいつや暴露系ユーチューバーを支持している人がいることに通じている。
日本の村社会における集団的な同調圧力とかはいまだに社会にはあるし、本人は無意識でもその鬱憤を晴らすために、あの人には石投げていいですよってなったら一斉に投げたり攻撃する光景はSNSではよく起きている。特撮ヒーローとかのアイコンを使っている中年というか初老に近い男性がネトウヨ的な差別的な発言しているのを見ることも多くて、お前はヒーローから何学んできたんって思うことも多々あるけど、二元論というか善と悪しかないと思い込んでいるか、正解があるっていう前提なのか、どうなんだろう。
総じて芸術というのは正解がないわけで、人間の見たくないものも見せるんだけど、そういうことがどんどん損なわれていることが問題だと思う。コロナパンデミックにおける芸術支援が日本はちゃんとできていないのは、基本的人権と芸術というものが切っても切れない関係性であり、人の営みにおいてとても重要なものという認識がないからだろう。
「自分がせっかく我慢しているのにと、他人に当たり散らすことに終始しがち」なのは、単純に日本という国がそこに住んでいる人たちの人として生きるために大事な権利を疎かにしてきたせいでもあるんだろう。でも、そいつらに同調しているってことはなにをしてしまっているかぐらいはきちんと理解しておいたほうがいい。

SUPERCAR / RECREATION (Official Music Video) 


不条理なことに関しては気持ちとしてはほぼ終わっていて、今月から少し関わっているライティングの仕事に関して来月以降のことが決まり始めてきたのでよかった。なんとなくこの曲を聴きたくなった。


18時を過ぎてから家を出て茶沢通り沿いを北上して途中から鎌倉通りの坂をのぼってボーナストラックに。B&Bで「水戸部功×鈴木成一 「現代装幀の中心点」『装幀百花―菊地信義のデザイン』(講談社)刊行記念」トークイベントを。
大塚英志作品はずっと鈴木成一デザイン室が手掛けているので昔から鈴木成一さんの名前は知っていた。数年前に漫画『クウデタア 完全版』の刊行時に大塚さんにインタビューした時に装幀の話になって、鈴木さんが装丁家になってすぐの頃からお願いしているみたいなことを言われていた。二人共筑波大学だから繋がりが昔からあったのかもしれない。鈴木さんは大学時代に鴻上尚史さん主宰の「第三舞台」とかのポスターなどをやったりしたことがこの仕事をするきっかけになったらしい。


『装幀百花―菊地信義のデザイン』の最後の方に菊地信義さんの年表みたいなものがあり、2008年に古川日出男著『聖家族』単行本を手掛けられていたのを知った。たしかに特徴的な文字がグッと迫ってくるような迫力がありながらも余白があるというデザインだった。『聖家族』は古川さんのデビュー10年目の記念的な小説で、その後は菊地さんの弟子筋の水戸部さんが15年目の『南無ロックンロール二十一部経』、20年目の『とても短い長い歳月(THE PORTABLE FURUKAWA)』と大事な年に刊行される装幀を手掛けている。2020年の『おおきな森』と2021年の『ゼロエフ』も水戸部さんの装幀であり、特別な作品は水戸部さんが装幀をしている印象がある。
書店で装幀見るのが好きだし、この二人が何を話すのかな、という興味があった。もちろん菊地信義さんという圧倒的な先達との関係性や影響の話があるし、菊地さん鈴木さん水戸部さんと世代の違う装幀家たちの上の世代に対する思いや受け継いでいるもののことなんかがじっくりと話されていて興味深いものばかりだった。

 

3月19日
起きてから『オードリーのオールナイトニッポン』を聴き始めたら、若林さんだけの声が聞こえてきたけど最初から音声がいつもの感じではなく、どうやらスタジオではないらしいなと思っていたら、目隠しされてニッポン放送のスタジオから連れてこられた春日さんが登場して、そこが「東京ドーム」だという話になった。その後、来年の2月に『オードリーのオールナイトニッポン』のイベントを東京ドームで開催することが発表された。
2人とも野球少年であり、プロ野球だけでなくプロレスの試合もこの東京ドームで何度も観ているので感慨深かったようで、いつもの何倍だよと思うので春日さんが興奮して話をしていた。
僕は東京ドームに行った記憶もないし、2人の興奮している様を聞きながらちょっとうらやましい気持ちになっていた。僕にはそういう場所ってたぶんない。憧れの場所だとか、小さい頃にいつかここに立ちたいみたいな所もなかった。
若林さんはお父さんに何度か東京ドームに野球の試合を連れてきてもらったさいに、お父さんが仕事関係の誰かに頼んでチケットをもらったのかなにかで、その人にペコペコ頭を下げていた時のことを話していた。うちは父親が本当に出不精で母の実家かときたま瀬戸内海に釣りに行く以外は出かけなかったし、外食すら行ったことがなかったので、そういうエピソードがまったくない。
当たり前の話だが「普通の家庭」なんかはなくて、どの家庭もそれぞれ違って比べても様々なグラデーションがあって、同じものはひとつもない。ただ、ある程度の大きめの共通項やその時々の時代性みたいなものはあるとして、それからも外れているとそういう話を聞いたら物語としては頭で理解はできるんだけど、個人的な経験がないのでどこかなにか浮遊しちゃうというか、半分ズレているような受け取り方になってしまう。僕が客観的になりやすいのはそういうこともあるのかもしれない。
そのあとは18時前までずっと作業を進める。思いのほか時間がかかっているが、いろいろとタイムリミットが迫ってきた。アウトプットの形としては2、3パターン出さないといけないので今やっている一番スタンダードな形ができてしまえば、あとは問題がない。どこを削っていくのかという判断がなかなか難しい。


家を出てから歩いて中目黒を経由して恵比寿方面に向かって、1時間ほどで恵比寿ガーデンプレイス内に復活した恵比寿ガーデンシネマに初めて足を運んだ。去年亡くなった青山真治監督の一周忌記念として『エリ・エリ・レマ・サバクタニ』 が一週間の期間限定上映をしていたので、この作品は映画館で観るべきものだというのは公開時に観ていてしっていたから。
自殺を誘発してしまうレミング病というものが蔓延した世界が舞台になっていて、そこにいわゆるノイズミュージック系の音楽をやっているミズイ(浅野忠信)とアスハラ(中原昌也)の2人の奏でる演奏がそのレミング病を抑える効果があると知った富豪ミヤギ(筒井康隆)はその病気にかかってしまった孫娘のハナ(宮﨑あおい)を救うために2人に演奏をしてもらうためにやってくる。という物語になっている。
ポスターにもなっているミズイが演奏して、目隠しをしたハナの場面は覚えていたがほんとうに最後ぐらいのシーンだと思っていたら、そのあとにも多少物語があってそのことは完全に忘れていた。
ノイズミュージックなので耳障りな部分もあるが、なぜか気持ちよくなる、眠くなるような不思議な心地よさもあり、あれはなんなんだろう。ノイズだから一定していないし、本来であれば心地よさとは真逆のような音が爆音とはいえないけど、映画館の音響で聴くことでなにかがゆるやかに鼓舞されて次第に気持ちよさすらも感じてしまうような、ドラッグに近いといえば近いのだろうけど。一週間限定で19時半からの回のみで日曜日だったからか30人ぐらいはお客さんがいたと思う。
終わってからまた1時間ほど歩いて帰った。ノイズミュージックを聴いたあとだったからか、映画館の外に出た世界はいつもよりも静かだった。

 

3月20日
起きてから昨日の作業の続きを少ししてから、リモートワークで作業を開始。お天気だったので洗濯をしてから干して、昼過ぎに池尻大橋のほうのオオゼキにご飯を買いに行く。その帰りに散歩がてら歩こうと思ったのでTSUTAYA三軒茶屋店に向かう。


浅田弘幸著『完全版 I’ll―アイル― 3』を購入。高校からバスケ部だったのはこの漫画を読んだから、『スラムダンク』は読んでいたけど響かなかった。もう、そのくらいで趣向なんて出来上がっていた。バスケが好きなのは振り切れない重力をなんとか振りきろうと走って飛んで走って飛ぶから。

SWITCH Vol.41

買わなかったけど立ち読みしていたら、佐藤浩一さんと寛一郎さんの親子ファンションシューティングのページがあって、ちょっと前までは親子っていうのをあまり出さなかったような気がしていたが、息子さんもいろんな作品に出るようになったから変わったのだろうか。そもそも三國連太郎さんから三代続いての役者っていうのも伝統芸能以外だと珍しい気がする。
あと戌井昭人さんの連載にスタイリストの伊賀大介さんが出ていたのも気になった。もう一回ぐらい読んでから買うか決めようかなって。

――肩肘を張らなくなったきっかけは何だったのでしょうか。

 結婚が大きかったです。34歳の時に映画監督の青山真治と結婚しました。映画監督って裏方の存在。青山と結婚したことで、監督の妻として現場に差し入れを持って行ったりするようになり、プロデューサー、大道具、小道具さんらスタッフ側の立ち位置になったんです。それが気楽で楽しくて。女優より向いているんだと気づきました。

とよた真帆さん](上)亡き夫、映画監督の青山真治さんへ 「生まれ変わってきてくれたら」

昨日青山真治監督『エリ・エリ・レマ・サバクタニ』を観たばかりだったので、SNSに書いたりしたからかアルゴリズムで妻のとよた真帆さんの記事が出てきた。
この記事にもあるように表に出ていた人が裏方になると見えるものも変わるだろうし、いいパートナーであり、お互いにいい出会いだったんだろうなって思える内容だった。
そういえば、映画を観る前に来場特典みたいな感じでもらった「SPECIAL ISSUE」は青山真治監督と蓮實重彦さんの対談が掲載されていた。その中で蓮實さんがとよたさんを幼少期ぐらいから知っているみたいな話をしていて、とよたさんのお父さんと知り合いかなって思ったけど調べてみると蓮實さんの長男ととよたさんが学習院初等科の同級生だったから、その頃から知り合いらしい。自分の子供の同級生が自分の「映画表現論」に影響を受けて映画監督になった男と結婚するっていうのは中々痺れるというか運命っておもしろいって思われただろうな。

 

3月21日

正気のまっとうな読者が知る芸術や文学とは異質だったが、狂えるアラビア人アブドゥル・アルハザードの禁断の書『ネクロノミコン」に仄めかされたものであることを私たちは認めた。それは中央アジアにある近づきがたいレンの屍を食う教団が使うおぞましい霊魂の象徴なのだ。古きアラビアの悪魔学者が描写する不気味な輪郭があまりにもはっきりと見て取れた。彼が記す ところによると、その輪郭は、死者を悩ませて亡骸を齧った人間の魂の隠微 な超自然的出現を描いたものなのだという。
 私たちは緑の翡翠をつかむと、白くなって洞穴のような眼をした持主の顔を最後に 一日見、墓を元通り埋め直した。盗んだ魔除けをセント・ジョンのポケットに入れて、 あの忌まわしい場所から急ぎ足に立ち去った時、蝙蝠が群なして――まるで何か呪われた不浄な滋養物を求めるかのように――盗掘したばかりの地面へ下りて来るのを見 たような気がした。だが、秋の月の光は弱く青ざめていたから、はっきりとはわからなかった。

『狂気の山脈にて クトゥルー神話傑作選』収録『猟犬』P74より

 老人は椅子とテーブルと本の山を指差し、部屋を出て行った。腰を下ろして本を見てみると、どれも黴臭い古書だったが、その中にはモリスターの荒唐無稽な『科学の驚異』、一六八一年に出たジョーゼフ・グランヴィルの恐るべき『打倒されしサドカイ派』、一五九五年リヨンで印刷されたレミギウスの戦慄すべき『悪魔崇拝』、さらには狂えるアラビア人アブドゥル・アルハザードが書いたという、その名を口にするのも忌まわしい「ネクロノミコン」のオラウス・ウェルミウスによる禁断のラテン語訳まであった。私は「ネクロノミコン」を実際に見たことはなかったが、この書物にまつ わる奇怪な噂は耳にしていた。話しかけて来る者はなく、聞こえるのは、外の看板が夜風に軋む音と、婦人帽をかぶった老婆が無言で回しつづける紡ぎ車のひゅうひゅう、 ひゅうひゅうという音ばかりだった。部屋も、本も、そこにいる人間も、じつに病的で薄気味が悪いと思ったが、父祖の古い伝承が私を不思議な祭儀に招いたのだから、 変わったものに出くわしても気にするまいと腹を決めた。それで本を読もうとすると、 たちまち、あの呪われた「ネクロノミコン」に書いてあった何かに夢中になり、震えながら読み耽った。それは読めば正気をなくすか意識を失うほどおぞましい思想と伝説だった。だが、そのうち、長椅子の正面にある窓の一つが――まるで誰かがこっそり開けたかのように――閉まる音が聞こえたと思って、厭な気分になった。

『狂気の山脈にて クトゥルー神話傑作選』収録『祝祭』P101からP102より

起きてから資料として『狂気の山脈にて クトゥルー神話傑作選』を読み進める。「ネクロノミコン」のところをメモ代わりに書き出してみた。

ネクロノミコン」はラヴクラフトの一連の書物に登場する架空の書物であり、彼が創造した「クトゥルフ神話」の中で重要なアイテムとなっている。彼と彼の友人だった人たちが始めたゲームというか執筆していったある種のシェアワールドにおいて、土台となっているのが「ネクロノミコン」であったりする。
諸々のキーワードなどを使うことでその世界観を拡張していったものだが、さまざまなフィクションにおいて「クトゥルフ神話」の要素が使われているし、直接ではなくても間接的に影響されている人もいるだろうから、その波及と影響力は観測ができないのだと思う。そういうアイデアサグラダ・ファミリアのように完成することがなく、ずっと現在進行形みたいな形で続くだろうから最終的にはAIがこれらに関する物語とかを収集して体系化するんじゃないかなって思う。


13時から高円寺駅で待ち合わせをしていたので、家から歩いて1時40分ほどの距離だったので歩いて向かうことにした。春分の日で電車もいつもよりは混んでいるだろうなと思ったことも大きい。いつもの散歩みたいにradikoを聴きながら中央沿線のほうに北上していく。
Creepy Nutsオールナイトニッポン』は菅田将暉が最後のゲストとして登場、三四郎が乱入しないかなって思ったけどさすがにそれはなくて3人での和気あいあいとしたトークはとてもよかった。そのあとの番組である『フワちゃんのオールナイトニッポン0』ではフワちゃんが前番組終わりにCreepy Nutsを連れてきてトーク、こういう流れや絡みがあるのもすごくいい。
4月からAdoが月曜一部になってからどういうやりとりが繋がりができていくのか、あるいはできないのか、関係性というのは作ろうとしたらできるものでもないし、タイミングとかがけっこう大事だから、その辺は誰かが無理やり繋げて関係性を作ろうとしてもできない時はできない。果たしてどうなるのか。


2月に「MATSURI SESSION」に行った際に久しぶりにお会いしたマシュー・チョジックさんとランチかお茶しましょうと言っていたのでこの日になった。マシューさんがいきつけのネパール料理屋さんでグリーンカレーをいただく。ほうれん草のカレーって食べたことなかったけどとても美味しかったしナンの感触もよかった。
このあとコーヒーにこだわりのある頑固親父みたいな人がやっている喫茶店に移動して、そこでもずっと話をしていたらあっという間に3時間過ぎてしまった。吉祥寺駅から下北沢駅まで電車に乗って帰ったがやはり平日ではないファミリー層が多く乗っていたので祝日だなあって思った。下北沢駅から茶沢通りを南下して一度家によってからニコラへ。


橋本竜樹ライブ「開店休業 Vol.3」を聴きにニコラへ。カウンターでよく会う常連さんもいたし、竜樹さんの知り合いのかたもたくさんいて、心地いいライブの空間になっていた。ちょっとせつなげな声とゆるやかなリズムがちょっと哀愁もありながらもそれでも軽やかさもある演奏だった。
終わってからは残ったメンツで軽い打ち上げのような感じで飲んでたくさん話をした。この日はほんとうに人とたくさん話し続けた日だったような気がする。たぶん、話すことで自分の中でなんらかの形になったり、再確認ができた部分もあったんじゃないかな。

 

3月22日

お昼過ぎから横浜のKAATに舞台を観にいくつもりだったが、昨日も遅くまで飲んで話してしまい、今日〆切の作業がかなりキツキツになっていたので行くのは諦めることにした。
午前中に少しだけ外に出ようと思って代官山蔦屋書店へ向かう。池尻大橋の目黒川沿いの始まりのところから桜並木が見えたのでちょっと寄ってみた。まだ六分咲きぐらいかな、週末には満開になっているのだろう。


一昨日ぐらいに友人とラインをしていたら、この済東鉄腸著『千葉からほとんど出ない引きこもりの俺が、一度も海外に行ったことがないままルーマニア語の小説家になった話』をオススメされた。たぶん、僕が好きな感じのものでもしかしたら嫉妬するかもしれないとのことだったので、そういうことなら読まないといけないなって思ったので購入。41歳の誕生日に買った、新しい一年の始まりの記念の一冊。

くるり - 春風 


星野源オールナイトニッポン』で星野さんが『春風』をかけていて、久しぶりに聴いたけどやっぱりいい曲だった。

そのまま渋谷に出て、ニトリに行って新しいカーテンとベッドシーツとピローケースを買った。1月にタロット占いをしてもらった時に誕生日の前後で変えるといいよって言われていたのを覚えていた。
単純な話で僕はワンルームに住んでいて、ずっとリモートワークなのでほとんど家にいるからずっと同じ景色を見ていて、そこにいる。ワンルームだと部屋の中で面積が一番あるものというとカーテンとベッドシーツが他のものと比べても比較大きくて一番目に入ってくるものだから変えると気分が変わるよっていうぐらいのことだろう。
たしかにカーテンってカビになったりとかしない限りは引っ越しぐらいでしか僕は変えないし、ベッドシーツとかは長く使うと寝返りとかの集積で記事が破れたりする時があるからその時は交換するぐらいだった。だから、誕生日に部屋の中で目に入る面積の大きいものを変えるのはベストなタイミングのように思えた。
シーツとピーローケースは紺色だったものを白地に茶色の線で花とかが描かれているものに、カーテンは真っ黒だったものをちょっと茶色ぽくて丸が重なったものがデザインされているようなものにした。持って帰る時にカーテンが生地の問題なのかずっしりくる重さで天気もよくて気温も高いからしっかりと汗をかいた。

カーテンやシーツを交換しながらTVerで朝放送した『ラヴィット』の前半部を見ていると、3月22日が大橋巨泉さんの誕生日ということで巨泉さんが司会をしていた『クイズダービー』を模したクイズを『ラヴィット』内でやっていた。
僕同様にWBCに興味のない人間にとってこの番組はとても大事なものだと思う。視聴率はどう考えてもWBCで持っていかれるので番組としてはめっちゃ攻める、やりたいことをガッツリやる。尚且つ出演者もスタッフもこの番組をおもしろがっているのが伝わってくるのって素晴らしいなと改めて思わされるものだった。こういう番組がもっと見られて長く続くといいのだけど。


昼ごはんを食べてから22時ぐらいまで〆切りのあった作業をしていた。なんとか形になったので、一服がてらニコラへ。
お腹も空いていたのでスナップエンドウ 塩とレモンとオリーブオイル、ほたるいかと菜の花のリングイネとそれに合うワインをお願いした。
スナップエンドウが歯応えもあるし、エンドウの味が塩とレモンとオリーブオイルでより引き立っている。ビールにめっちゃ合う味、スパークリングワインを出してもらったけど、合っていた。この時期には毎年出されているほたるいか、ニコラではちゃんと季節のものがわかるからより食べたくなる。
菜の花がなくなったらエンドウ豆になる。そんな風に季節の流れとともに食材も変わっていく。もちろんほたるいかも菜の花も美味しいんだけど、それに合う赤ワインも出してもらったから、3月後半の旬のものがしっかり身体に入ってくる、そんなこともうれしい。ニコラで料理を食べると旬ということと、季節というものをより感じる。
その後にアルヴァーブレンドを頼んだら、誕生日ということで特別にデザートを出してもらった。毎年作ってもらっていて申し訳ないとは思うけど、誰かに誕生日を祝ってもらうのはうれしいしありがたい。僕が柑橘系が好きなのでデザートには土佐文旦がたくさん使われていて美味しかった。
カウンターでのんびり常連さんと話しながらよい誕生日の一日が終わった。

 

3月23日
7時過ぎに目が覚めた。スマホを見て天気予報を見ると今日は雨が降ったりして天気はよくないらしい。桜も咲き始めたばかりだけど雨で落ちちゃうかな。満開の桜というのは春爛漫で気持ちいいし、始まりの季節ということを感じさせてくれるので好きだったりする。春先に生まれた人間にとっては年度末とかよりも自分が年を重ねるのと桜が咲いて散るのはリンクしているということが多いのだろう。
昨日はもともと舞台を観に行くつもりで休みにしていたので、本来は休みである木曜日に出勤という形でリモートワークを始める。窓の外では雨が降っている音がしていた。
作業が思いのほかスムーズに進んだ。月末までのスケジュールを考えてもちょっと余裕が欲しかったのでこれはありがたい。

リモートワークのあとに別件でライティング仕事の相手方とのミーティング。昨日、舞台も行かずに最後まで作業をしていたものを読んでもらって、概ね好意的な反応だったのもうれしかったし、今後の作業や金銭的な話もしっかりとできたのがほんとうによかった。最初の2ヶ月ぐらいはお互いに探り探りでうまくいく流れを作っていかないといけないが、この感じだと僕のライティング仕事は最後までしっかりできると思う。

カメラ目線の、おしゃれ意識の高い若者たちが裾を出し始めた1989年。
カメラ目線ではない、街の無意識レベルでTシャツの裾出しが一般化した1991年。
裾出しが世の中に浸透していく1989年から1991年の3年間を、裾出しの「テクニック期」と呼びたいと思います。

Tシャツの裾を出す、という行為は「渋カジ」の若者たちが路上で勝手に始めたものです。
しかし、あっという間にファッション誌がテクニック化し、それを指南するようになります。

Tシャツを「一枚で」着て裾を出している最初の観測例は、1987年の第2回で東京代表になった若者2名。
もう少し対象をゆるく、重ね着や長袖も含めて、タックアウトだけをカウントすると…
1886年は1名、1987年7名、と1988年は4名、1989年は2名、1990年が23名、1991年、29名。
渋カジの誕生した1989年を境に、裾を出す若者の数が一気に増えることがわかります。

Tシャツをめくるシティボーイ 第19回  Tシャツの裾と二つの定点観測・1990年代編 / 文:高畑鍬名(QTV)

友人のパン生地くんの連載の最新回が昨日アップされていたのを読む。
今回も雑誌のスナップショットの画像がかなり多いのだけど、やはり雑誌という媒体に何十人、何百人とその時々の若者たちのファッションが掲載されていることが大事だなと思う。
もちろん、ファッション誌というものに載るというのは、そこの編集部スタッフやファッション関係者のプロがセレクトしてチャンピオンとか決めているから権威的なものだし、そちら側の都合や思惑もあるだろう。それも含めてカタログ的にいろんな若者がその当時の思い思いの格好をしているものが一箇所にあるというのは、時が経っていくと当時の空気感を知ることのできる最もよいサンプルとなる。
今はインスタグラムでもいいけどハッシュタグとかで紐付けられてもそれぞれのページに飛ぶしかないし、一挙に集まるわけではない。やはりネットとスマホの普及と発展は文脈や繋がりを飛び越えてしまうので、カタログ的なものがわかりにくくなるし、空気感というものがわかりにくい。細分化されて分断されている以上、クロスオーバーしないと自分が興味ないものについては触れることがかなり難しくなってくる。
パン生地くんの連載を読んでいるとTシャツのタックイン&タックアウトの歴史を考察していく中に、ファッションというものがいかに時代ごとに変わっていったのか、そしてファッション誌という媒体の影響力があったのかを改めて知ることができるなと感じる。

『神回だけ見せます!』 #15 マスクマン!(ゲスト:ガッツ石松

『神回だけ見せます!』シーズン3も最初からこの最後まで全部見た。この『マスクマン!』のマスクマン(ガッツ石松さんの若い頃とお母さん、師匠のエディさん)の声をあてている人たちについて伊集院さんが、以前の蛭子能収さんがゲストの『マスクマン!』の時同様に途中で声をあてている人がわかっていて、そのことで涙をこらえていたような表情になっていた。
『マスクマン!』を見たあとに伊集院さんと佐久間さんが話している言葉がその人へのエールにもなっていて、僕もお世話になった人だからほんとうに届いてほしいと思った。たぶん、このことを知らずに見た方がいい番組であるとは思うのからここでは名前は出さない。

 

3月24日
起きてから寝る前に三分の二ほど読んでいた宮嵜守史著『ラジオじゃないと届かない』を最後まで読み終える。ここで宮嵜さんがラジオに興味を思ったエピソードもいくつか語られているが、そこには『神回だけ見せます!』シーズン3の「#15 マスクマン!(ゲスト:ガッツ石松)」で伊集院さんと佐久間さんが語った人たちの名前が出てくる。
偶然のような、いや、彼らが影響を与えた人は僕が知らないだけで数えきれないほどいるはずで、佐久間さんのラジオ本でも大学生の頃に浅草に友達と行った際のエピソードでも彼らが出てきたのを覚えている。そういう影響を受けた人たちが文章であったり映像で語られることで、なにかが少しでもいい方へ向かうといいなと思うし、そうなっていくんじゃないかなって期待もしている。
『ラジオじゃないと届かない』には宮嵜さんが今まで関わった番組のパーソナリティーの人たちのロング対談も収録されていて、それが非常にテンポよく読みやすいのでパッと見は分厚いがすらすらと読めてしまうものだった。
対談相手としては、極楽とんぼおぎやはぎバナナマン、ハライチ、アルコ&ピース、パンサー向井、ヒコロヒーがいて、最後にはchelmicoの鈴木真海子とのアフタートーク的なものも収録されている。第5章「これまでのラジオ、これからのラジオ」パートではパンサー向井、ヒコロヒー、鈴木真海子になっているのも今後についての象徴的なメンバーなのかなと思ったりもした。
対談相手もだし、JUNKメンバーは全員男性であり、どう考えてもこれから先には女性のパーソナリティーも増えていくとは思うので、ヒコロヒーとラジオ大好きで実際にラジオもやっている鈴木真海子という二人がいるのはすごく納得できるものでもあった。パンサーの向井さんにはTBSラジオの朝の顔として長く続けてほしいのだろうし、期待もあるんだなっていうのがわかる対談だった。
読み終わってからリモートワークの作業を開始。『神回だけ見せます!』 #15 マスクマン!(ゲスト:ガッツ石松)について昨日夜にツイートしていたのに、いいねがたくさんついていると思ったら佐久間さんがリツイートをしてくれていた。


正午から週一のミーティングをやってから休憩で外に出た。先日行ったお店で領収書をもらったが店舗控えを渡されていたのでその交換も兼ねて池尻大橋駅のほうへ緑道沿いに歩いていった。曇っていたがまだ雨は降らないで持ち堪えていた。用事とお昼ご飯とかを買って帰ってから少し経ってから夕方過ぎには雨が降り出した。

古川日出男の現在地』 2023年3月24日「そこからここからここへ、ここへ」

寝る前に古川さんの近況ブログがアップされていたので読む。『群像』連載中の小説『の、すべて』のラストスパート、脱稿へ向けての話。連載を最初から読んでいるが、そうかこの作品は原稿用紙1000枚を越えるのか、毎月読んでいるとそういう感覚がちょっとわからなくなっていく。
前に『群像』で連載していた『おおきな森』もギガノベルというくらいの分厚さになったが連載を読んでいたので、実際に書籍に物質化したときにほんとうに驚いた。
原稿用紙1000枚くらいの文量というのは他の作家さんだとほぼない、長い作家歴を誇ってもそのクラスは今の作家さんだとあまりいない気がする。分厚さが鈍器として機能する、この『の、すべて』は3月31日に脱稿されて、今年の真ん中ぐらいには連載が終了して、その後単行本になるはずだ。その時、僕はまた書籍として物質化したこの作品をこの手で感じたい。

 

3月25日
「BOOKSTAND映画部!」のレビューコーナー「月刊予告編妄想かわら版」2023年04月号が公開されました。4月は『ザ・ホエール』『聖地には蜘蛛が巣を張る』『ヴィレッジ』『ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』を取り上げました。


月曜日に仕事でお会いする人たちがこの映画観てないわけないよな、と思って週末のうちに観ておこうと庵野秀明監督『シン・仮面ライダー』をTOHOシネマズ新宿でIMAX鑑賞。
朝8時台の初回だったがさすがに土曜日だからそこそこお客さんはいた。年齢層は50代以上が多い感じではあったが、若い女性もいたし(池松くんとかのファンもいるかな)全体的にはバランスのいい感じに見えた。

1971年放送開始の特撮テレビドラマ「仮面ライダー」を、「シン・エヴァンゲリオン劇場版」「シン・ゴジラ」の庵野秀明が監督・脚本を手がけて新たに映画化。

主人公・本郷猛/仮面ライダー役に「宮本から君へ」の池松壮亮、ヒロイン・緑川ルリ子役に「賭ケグルイ」シリーズの浜辺美波、一文字隼人/仮面ライダー第2号役に「ハケンアニメ!」の柄本佑を迎え、新たなオリジナル作品として描き出す。

ルリ子の兄・緑川イチロー森山未來、父・緑川弘博士を塚本晋也、秘密結社SHOCKERの上級構成員・ハチオーグを西野七瀬、同じくSHOCKER上級構成員のコウモリオーグを手塚とおるがそれぞれ演じる。テレビアニメ「ヨルムンガンド」「天元突破グレンラガン」などで知られる作曲家・岩崎琢が音楽を担当。(映画.comより)

緑川ルリ子(浜辺美波)が本郷猛/仮面ライダー1号池松壮亮)と一文字隼人/仮面ライダー第2号(柄本佑)へ想いを託す赤いスカーフという名の首輪、庵野さんがこのモチーフが好きなのは「エヴァ」でも見られたものだった。
中世ヨーロッパでは戦さに行く若者にその恋人や許嫁が自分の家の家紋入りのスカーフを渡していたという。ようするにこれは私の男だという意味でもあり、それがネクタイの始まりとも言われている。だからネクタイは買うものではなく女性から贈られるものみたいな話を聞いた記憶がある。
サラリーマンはその意味で専業主婦に首輪をつけられていた存在とも言える。それが高度経済成長と共に増えていき、一億総中流という幻想を生んだ。もう、それもとっくの昔に終わっているのに、その幻想にしがみついていたり、経済大国だったということに気づかないフリをし続けて、世界から見て、アジア圏で見て、現実的に日本がどんな状況かを把握して適切な政治や判断をしてこなかったし、国民も見て見ぬフリをし続けた結果が現在。
今回の1号は無職っぽいし、2号はジャーナリストっぽい、彼らに首輪をつけたという感じだった。もともと中世のスカーフを男性に送るのは武運を祈るものだったが、それは祝福と呪縛に二重の意味があった。今作においても緑川ルリ子が2人に巻いた赤いスカーフは2人にとっては呪縛であり祝福となった。圧倒的な力を手に入れて仮面ライダーとなった2人が人間性を残す、最後の結界として赤いスカーフはあり、ショッカーを滅ぼすという彼女の願いも含まれていた。
明らかに意味を持ったスカーフを巻くシーンを見ながらそんなことを考えていた。同時に緑川ルリ子は設定も含めて「エヴァ」の綾波レイのある種のバージョン違いのような存在なので、そんな人間らしい願いや祈りを込めてしまう、感情が出るような行為をしてしまうと、最終的に彼女にどんな運命が待ち構えているかは想像できてしまう。

緑川ルリ子の兄である緑川イチローが変身して、チョウオーグ(仮面ライダー第0号)になって華麗に舞いながら戦うときにはナンバーガールを爆音でかけてほしかった。演じている人が森山未來だったから。
また、あきらかにほかの石ノ森章太郎原作特撮作品のキャラを匂わす名前やキャラクターが出てきていて、「石ノ森章太郎アベンジャーズ」みたいことをほんとうにやりたいのかなとも思った。でも、さすがにそこは庵野さんなりのサービス精神かもしれない。
ハチオーグ(西野七瀬)と戦うシーンで、なんで刀持ってチャンバラしてんねん!と思ったんだけど、そもそも『仮面ライダー』という作品自体が東映の時代劇(チャンバラ)に起源を持ち、『柔道一直線』スタッフが多く参加したトランポリンアクションだったのもあり、「おたく第一世代」の庵野さんらしい気配りというかオマージュということなんだと思う。
エヴァ」同様に父と息子の話にもなっており、イチローが話すことってちょっと「人類補完計画」ぽさもあった。今作では本郷猛という第三者が彼の父と妹の願いを託されて仲介というか媒介する話にもなっていた。
緑川ルリ子を演じた浜辺美波のショートボブにフェティシズムめっちゃ感じた。ほんとうに美形じゃないとあの髪型って似合わないとは思うんだけど、さすがにあれは庵野さんの趣味だよな。いや、髪型がそもそも綾波レイと同じなんだって観終わってからわかった。髪の毛が青くない代わりに瞳がある状態になると青くなるのもそういうモチーフなのかもしれない。
リアルタイムな「おたく第一世代」が観て、この作品をどう感じたのかが気になる。僕は楽しめたけど、配信では観ないだろうし、劇場で一回観たからそれでいいやって感じではある。

二号ライダーの柄本佑のひょうひょうとした感じは「エヴァ」の加持ぽさもあった。アンチショッカー同盟を緑川ルリ子と本郷猛と組む政府の人間の二人を『シン・ゴジラ』や『シン・ウルトラマン』にも出演していた竹野内豊斎藤工が演じていて、その名前が最後に一文字隼人とやりとりする際に明かされるあたりの演出はよかった。そして、ポスターで緑川ルリ子が一文字隼人に赤いスカーフを巻いているのも映画の最後に意味がわかるのでそれを含めてなかなかよいビジュアルイメージ。

──エヴリンが春節パーティのシーンで着ている、背中に「PUNK」と書かれた赤いセーターがまた絶妙なのですが、シャーリーさんはインスタグラムでこのセーターを選んだ理由を「エヴリンはパンクだと思うから」と話していました。ミシェルさんはどう思いますか?

シャーリーは、エヴリンのことをパンクだというより、「パンクになりたがっている」と考えていたような気もします。娘の前でクールぶっているというか。それに、エヴリンはたぶん「PUNK」の文字に気づいていなかったんじゃないかなと。春節では赤い服が好まれるので、せっかちなエヴリンはきっと、お店でセーターを見つけるやいなや「よし、赤だ! いい色だ!」って即決したはず(笑)。
キャラクターを理解した上での衣装選びが、シャーリーのすごさです。衣装がかかったラックを見た瞬間、「これこそ私がエヴリンになるために必要としていたものだ!」と感激しました。ミシェル・ヨーが絶対に着ないような色やデザインばかりですが(笑)、これこそがエヴリンなんです。

ミシェル・ヨーが語る映画『エブエブ』。主人公エヴリンは「チームワーク」と「アジア・フェミニズム」でできている。

『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』日本公開日だった3月3日に『GINZA』のウェブサイトにアップされていたミシェル・ヨーインタビューを今日偶然見つけて読んだ。この時点ではこの作品がアカデミー賞を席巻する前だった。3日と7日に僕は2回劇場で鑑賞しているが、劇場公開が終わる前にはもう一度観にいきたいと思っている。4月の上旬ぐらいまではやるとは思うんだけど、大きなスクリーンではもう上映はしないだろうけど、いいタイミングでまた観たい。

昼過ぎに帰ってきて、ご飯を食べてから読みかけだった鳥羽和久著『君は君の人生の主役になれ』を最後まで読む。これは今中学生や高校生ぐらいの知り合いのお子さんとかにあげたいなって思える内容だった。これはいい本だわ。そのあとは月曜日にあるライター仕事関連の作業を寝る少し前まで進めた。明日には一通り終わっているはず。

cero - Nemesis(Live at 日比谷野音 “Outdoors" 2022.7.16)


ceroもニューアルバムが5月に出るみたいでこの曲や『Fdf』とかシングルで配信されていたものが収録されるみたいなのでたのしみ。

 

3月26日
目が覚めてパソコンのradikoのサイトから『オードリーのオールナイトニッポン』を再生して聴き始める。春日さんが朝のテレビ番組で水族館のペンギンがいるところのロケでMCの加藤さんの落ちるなよというバラエティノリを受けてペンギン用のプールというか池みたいなところにお笑いの仕事として落ちたことで、水族館側が事前に聞いていなかったこととペンギンたちが驚いてしまうと抗議のツイートをしていた。
ツイッターを見てみるとわりと加藤さんと春日さん番組に対して批判的なものが多かった。みんなほんとうに動物好きだなって思うし、ちょっと前まではOKだったと思われるバラエティノリも許してはくれないんだなって思うとなんとも言えない気持ちになる。中には迷惑系ユーチューバーとやっていることが同じだという意見もあった。それはさすがに違うだろ、だってテレビ局がやっている撮影なんだから責任の所在は春日さんや加藤さんにあるのかと言われると番組にあるはずで、個人のユーチューバーとは違う。
そもそも芸人さんがロケに行っている以上、水たまりがあれば落ちる展開の可能性は高いんだから、そこはスタッフも前もって言っておいて許可取るとかしてないとダメでしょう。そりゃあ芸人さんはMCとか他の芸人なりタレントの絡みの中で「落ちるなよ」と言われたら落ちるよ、それが仕事なんだから。もちろん、そういう芸人ノリを許さない人もわかっていない人もいるわけだから、事前に話をしてマジでダメだったら芸人さんにここは本当にNGとか伝えるようにすればいい。結局そういうことに尽きるんじゃないだろうか。
あとは中村倫也さんと水卜麻美さんが結婚発表をしたので、いろんな番組で若林さんも仕事をしている水卜さんの結婚の話題と先ほどの春日さんのことをどう話すんだろうと思っていた人たちは多かったと思う。
僕は中村倫也さんの結婚のニュースを見て、彼は『バナナマンバナナムーンGOLD』のファンで何度かゲストとかで出ているのでそちらで話題にはされるだろうなって、バナナマンの二人には報告しただろうなって思っていた。
『オードリーのオールナイトニッポン』を聴いていくと若林さんは春日さんのペンギンの話題と水卜さんの結婚については一切触れなかった。これは非常に正しいやりかただなって。
春日さんの件に関してはその番組の生放送がある月曜日におそらく謝罪なりなんなりをMCの加藤さんがするだろうから、先に触れておくのは下手なことをして炎上させたりするのはよくないから、触れないことにしていつも通りの放送をしていた。
水卜さんについても同じ日テレだし、そちらを触れたら春日さんのほうも触れないとおかしいとツッコまれるという判断だったんじゃないかな。
放送の中で来年のラジオイベントの話を先週に引き続きしていたけど、初の東京ドームは『オードリーのオールナイトニッポン』のイベントというのはありかもしれない。問題は広い会場だと席とかがどういう価格帯になっていくのか、とかそういうのがある程度早くわかるといいなと思う。

10時前に散歩がてら外に出て昼ごはん用に惣菜を買ってから、家に戻ってから今日まで視聴可能だった『東京03 FROLIC A HOLIC feat. Creepy Nuts in 日本武道館 なんと括っていいか、まだ分からない』の3月5日の公演をもう一度観た。
自分がいった4日は一回しか観ていないのに、配信で視聴できるこちらは何度も観ているので、徐々に自分が観た方の公演の記憶が薄まっている気がしていた。
初日のラストの若林さんの無茶振りはすごくおもしろかったのは間違いないが、何度も春日さんがゲストの2日目のラストを見ているとそちらのほうがどんどん初日の景色を追いやっていっているような。そのあとは明日の仕事用にやっておかないといけない作業をする。わりとのんびりとした一日だったが、また明日以降忙しくなりそうな気がする。

 

3月27日

起きてから午後からの仕事の作業と確認をしてから洗濯物を回して干してから整骨院に行って見てもらう。その帰りに駅前のツタヤの書店によってなんとなく気になった又吉直樹著『月と散文』を買って帰る。
小説よりもエッセイ的なものが読みたくなったのは、自分が小説を書こうと思うとエッセイとかのほうが読むリズムというか頭というか精神に合う感じがするから、小説読んじゃうと文体とか影響されるってのがデカいんだろうけど。


16時から護国寺で仕事だったので渋谷まで歩いて、半蔵門線永田町駅有楽町線に乗り換えた。いつも通り早く家を出ていたので護国寺で降りずに一つ前の江戸川橋駅で降りて歩いて行こうと思って地上出口に出ると見覚えのある景色が広がっていた。
2022年の元旦までは毎年元旦に井の頭公園にある神田川の源流から川沿いを歩いていた。神田川秋葉原の先にある柳橋隅田川と合流し東京湾に向かっていく。最終的には月島の先の晴海客船ターミナルのところまで歩いていたのだが、この川は神田川であり、桜が川に迫り出している方の歩道を歩いていたので、あっここか!と思った。
いつもは画像の奥の方からスマホで写真を撮っている方に向かって歩いていて、そのまま駅の地上出口近くの信号を渡っていくので自分が立っている向きが違うだけで何度も歩いていて知っているはずの景色がちょっとだけ他人のふりをしているような、でもすぐにわかったけど、みたいな。ここは源流からだと3時間半かからないぐらいの地点、そういうことはわかるのでまた自分の中で東京の中心部の地図の精度が高まっているような気にもなる。
東京は特に山手線の中は歩いてもすぐに通過できるほどの広さでしかなくて、歩いている人の方が街同士の距離感とか高低差みたいなものは捉えやすいと思う。
車で移動する人はその視点で街を捉えているし、電車のほうがショートカットできない場所とかがあって、すごく湾曲していり、遠回りに思えるようなとこもあるので街同士の距離感とか脳内での東京の地形のイメージは一番いびつになってしまうはず。歩くと繋がっていなかったものがどんどん繋がる発見があっておもしろい。

3時間ほど出版社の一室で仕事をしてから電車に乗って帰る。一緒にお仕事した方と前回同様に三茶で打ち上げというかお酒を飲みながら話をたくさんさせてもらった。
飲んで食べて話して、すごくいい時間だった。お店を出たら雨がわりと降っていて、ああ、洗濯物がって思ったけど諦めてニコラに行って酔い覚ましに濃いめのアルヴァーブレンドをいただいた。
ニコラでもたくさん話をして、いつも家で作業をしてほとんど話さないからそういうのが一気に出てる部分もあるんだろう。まあ、こういうコミュニケーションを実際のところ求めてるし、それを楽しんでいる自分もいる。だから、今やらせてもらっているライティングの仕事はいろんな意味でありがたい。

 

3月28日
前日わりとビールを飲んだはずだが酔いは残っていなかった。家に帰る前にニコラでコーヒーを二杯飲んで、水をたくさんもらって飲んでいたのが良かったもしれない。仕事の前に昨日もらった資料を読んでみた。とある雑誌の記事のコピーなのだが、そのタイトル文の中に「構造と力」というワードが入っていた。浅田彰著『構造と力』が出たあとのものだと思うけど、当時の若者はやっぱり読んだ上で自分のジャンルのことなんかを考えたりしたのだろう。
リモートワークを始めるがやる作業はいつも通りの流れ。ふつうは3月末が年度末なので他の会社は今が一番忙しいのだろうけど、今昼間働いているところはなぜか2月末が年度末なので3月はすでに新年度になっている。そのズレもあってか他社にお願いしている案件もすぐには返ってこないので決めたいことが決められないのがちょっと嫌だけど、向こうからすればなんで年度末じゃないんだよって感じだろうから、待つしかない。

本誌 Decades は 2020 年、緊急事態宣言下の急激な社会規範の変化による体感時間の変容の認識/錯覚について写真で編むことを試みて、写真家 岩根愛氏により創刊されました。
他者との距離に緊張する日々が終わりつつある今日にはどのような未来の予兆があり、それらは次に起こるどんなことの前の記憶として思い返されるでしょうか。

第2号では、写真家と作家、同世代で組まれたそれぞれ10組に、2021-22年に撮影された写真、出来事についてのエッセイが依頼されています。
ひとつにはコロナ禍であったとも言える「時間」は、しかし、2011年3月11日から続く時間や、自然環境が都市の姿へと変貌していく時間、戦時下のウクライナにも個人の中を流れ、やがては眼差しを交わすだろう私たちの間にも流れるものになる。
福島、東京、北京、杭州、ソウル、シェムリアッププノンペン石巻ワルシャワウクライナチェコモルドバ、カリフォルニア、高知──、それぞれの時間の変容を照らし合わせ、積み重なる今に思いを巡らします。

『Decades No.2 CONTEMPORAL JOURNAL 2021-22』

休憩中に代官山蔦屋書店まで散歩がてら歩いていく。思ったよりも日差しが強くて暖かった。家を出る前に洗濯機を回したが、これならもっと早く回して干しておいたら今日中にかなり乾いたのになって思ったが後の祭りだった。
古川さんと柴崎友香さんが寄稿している写真雑誌『Decades No.02』が先行発売しているというのをTwitterで見ていたので寄ってみた。買って帰ってから文章を読んで、写真を見てみるとすごく写真が目に入ってくる。これは紙質もよいし、写真を見てることにきちんとこだわっているんだろうなってわかる。
また、当たり前だが雑誌として写真が紙に印刷されていること、そのことはデジタルで撮影していても紙という物質に写した以上、雑誌は経年変化していく。もうビニールを開けてから酸素に触れる、そこから時間が時計の針が進み始める。そうするとこの雑誌はどんどん僕の日常と共に時間が経過していく。そのことに意味があるように思えるようになってきた。
デジタルデータは当然だが、基本的には劣化しない。それは物質ではなくデータというものだから。写真というのはやはりプリントアウトして物質化することで人間に馴染むというか思い出とかが蓄積されるものなのだろう。もちろん小説も紙に印字された書籍とデジタルデータの電子書籍では同じ本でも違ってくる。
例えば、古本屋にある日焼けしてタバコの匂いが染み込んでいるような本を見つけた時に、その時間を通過してきたことが愛おしいような気になる。前に所有していた人が何人いたのかもわからないけど、誰かの家に置かれていた時間が染み込んでいる、そういうものが結局記憶と結びついていく。
デジタルデータはかさばらないし持ち運びやすいのだけど、やはり記憶とうまく結びつかない面があると思う。とくに写真集とかって電子書籍でずっとキレイなままのデータのつるりんとしたものよりも紙にプリントされたものの質量や存在感があってはじめて持ち主にとって意識できるものとなるのかなって。
電子書籍で写真集を買ったことはないけど、買うなら紙で写真集も買うだろうし、小説も電子書籍オンリーでない限りは紙で読んでいるのは物質としての価値が自分にとっては大切。自分という存在がいつか消えてなくなるから、そういう意味でもやっぱり形がないと僕には不便だし、手触りと記憶の問題が大きいのだろう。

外に出た時に最終回だった『Creepy Nutsオールナイトニッポン』を聴いた。いつも通りのコーナーをやっていつもみたいな放送で終わった。それがすごくよかったし、冒頭ぐらいから最終回だからって聴いたこともないのに今日だけ聴いて「エモ泥棒」するやつとか聴くなとか言っていてクリーピーっぽいなって思った。確かに最終回だけ聴いたり見たりして「感動しました」みたいなことを言う(ツイートする)人はたぶんある程度はいる。それはどこにでも現れる「エモ泥棒」で、感動している自分に酔っているみたいなもの。
タモリ倶楽部』が終わるってなってから、最近は見てないんだけどなんたらかんたらみたいな思い出ツイートしている人もいっぱいいたけど、最近見てないなら言わないほうがよくないすかと思ってしまう。大昔に意識的ではなく偶然何度か見た程度で思い出もないからそのことには僕は言及はしない。『Creepy Nutsオールナイトニッポン』はコロナパンデミックが始まった頃からは毎週聴いていたから名残惜しさはここで書いても文句は言われないだろう。

このあとの『フワちゃんのオールナイトニッポン0』は家に帰ってから聴いた。フワちゃんの友達の佐藤栞里さんがゲストだったけど、二人ともずっと笑ってるし、また曲を流したら一緒に歌うし、なんでこんなにこの人たち笑ってるんだろうなっていう、幸せというか多幸感があって、それを深夜帯にしてるのってすごいことだなって聴いててうれしくなってしまった。
佐藤栞里さんが無敵というか、もちろん生きてきた中で嫌な思いとかもしてきてるだろうけど、こんなにも楽しいっていうのが伝わる笑い方はすごく愛されてきた人じゃないと無理じゃないかな。捻くれていない感じとかも含めて、この人がこのままずっと笑っていてくれたら周りの人もだし、テレビとかメディアで見たり聴いたりする人にも微笑みが届き続けるんじゃないかなって思う。フワちゃんもすごいけど、佐藤栞里という人はほんとうに稀有な人だと思う。


久しぶりに青山真治著『ヘルプレス』を読む。このタイトルにもなっている『ヘルプレス』と同じかそれより短いぐらいのイメージの中編を書いてみたいなって思った。長編でこの先書こうと思っている作品に出てくる登場人物を主人公にしたスピンオフなら書けそうな気がする。
いつも書く時には脳内キャスティングをしていて、この長編も一応登場人物表みたいなものは作っていたが、このスピンオフも別に登場人物表を作ってみた。あちらでは脇役だけどこちらでは主役、ちょっと哀愁もありつつ一人でいる時の姿や表情が僕の中で画になる人に前に決めていた人から変えようと思って探していたら、ああ、この人ならこの短編でイメージ沸くし、書きたい話とマッチする人が見つかった。
昔から好きな俳優さんだったので、その画像を探して登場人物表にコピペして、長編のほうもその画像に変えた。Twitterでその人のアカウントを見つけたのでフォローしたらすぐにフォローし変えてもらった。これはうまくいくんじゃないかとな。こういう流れが来ているならたぶんこれでいい。原稿用紙70枚ぐらいでカブトガニの青い血と万年筆の青いインクが重なる話を書いてみよう。

 

3月29日
夢も見ずに寝ていた。目覚まし時計がなるほんのわずか、時間にしたら30秒前ぐらいに目が覚める。あの感じってなんなんだろう。体内時計がしっかりしているということなんだろうか。
目覚まし時計と一緒にセットしているスマホの目覚ましタイマーが鳴る前に目が覚めて、鳴った瞬間に止める。体の中の時間を把握する能力がうまく機能しているのか、なにかの予知的に体が反応して目が覚めてしまうのか、いつも不思議だ。寝起きはいいというのもそれと関係しているかもしれない。


今やっているライティングの仕事の資料のひとつとしてラヴクラフトが書いた「クトゥルフ神話」の小説のコミカライズを仕事前に読んだ。昨日書店に行った時に最近読んだばかりの短編と同じタイトルの漫画が出ているな、と思ったら思いっきりその作品のコミカライズ作品だった。
田辺剛著『ダニッチの怪』は読んでいる時に禍々しい話だと思っていた小説が、漫画で描かれるとかなり雰囲気がわかりやすいものとなっていた。これができるのってほんとうすごいことだ。ラグクラフトの書くダークファンタジー的要素と「古のものども」という存在はしているが人間には見えないもの、「クトゥルフ神話」おいて重要なアイテムである「ネクロノミコン」がこの漫画では原作を知らなくてもわかるように描かれている。入門者向けでもあるし、今まで読んでいた人も納得できるクオリティなんじゃないかな。
僕みたいな読み始めた人は最初にコミカライズで絵のイメージがあったほうが読む際の補助にはなるしいいのかもしれない。しかし、2巻同時に発売して新刊コーナーにあったら2巻で終わるかと思ったのに3巻に続いていた。それだけやられた。原作の短編が文庫だと80ページぐらいだったから、2巻ぐらいって勝手に思い込んでしまった。寝る前に読まなくてよかった。これ読んで寝たら悪夢見そうな。

BEEF | Official Trailer | Netflix 


スマパンの『today』が流れてるなって思って見ていたら、クレジットが出てきてA24の新作ドラマだとわかった。『ミナリ』のスティーヴン・ユァンも出てるし、アジア系の俳優がメインのものようだが、けっこうおもしろそう。

浅野:そうですね。だけど最近の作品は、道徳や倫理観みたいなものを求められがちじゃないですか。だけど、「そうじゃない」みたいなことがほとんど。ぼく自身、綺麗ごとばっかりは漫画に描けないので、醜いとされる感情も漫画に乗せてしまう。

ぼくは自分のことをバランサーだと思っていて、みんなが明るい話を描いていたら暗い話を描く。いまもそうですけど、当時「頑張りすぎてしまった30、40代の人」の話があまりにもなさすぎると思っていたので、これは成立するんじゃないかと思ったんです。

─たしかに、少年漫画などは学生の主人公の漫画が多いですよね。

浅野:そうなんですよ。でも、10代の読者はかぎられている。このままではメディアとして振り幅が狭いし、ぼく自身も説得力を持って描けるだけの筆力がついてきた、ちょうどいいタイミングでした。漫画はエンタメなので面白く描かなきゃいけないんですけど、深澤のようなしんどさを描いたものも必要だと。

─無力感を感じていた時期から、どのようにして作品づくりに向き合うことができるようになったんですか?

浅野:「諦め」ですね。

─諦め。

浅野:いろんな種類の諦めが重なって、自分の身の丈を知りました。そうすると、自分の間抜けさみたいなものに気がついて、どんどん面白おかしくなってきちゃうんです。別に、黒歴史というわけではなくて、過去の積み重ねでいまの自分があることはわかっています。ただ、着地点が思っていたところよりも随分下がったところにいるなって気づく。でもそれも、諦めることで「まあいいか」っていう気持ちになれました。

漫画家だと、20代で頑張りすぎて燃え尽きる人って多いと思うんですよね。そこからもう一歩進むためにどうしたらいいのかっていうのは、『零落』の場合は露悪的な人間になるという解決の仕方でしたけど、それぞれ模索しながらじゃないと見つからないものだと思います。

映画『零落』浅野いにお×斎藤工×趣里が語り合う。駆け抜けた先の虚無感から脱するには?

諦め、諦念か。僕のように20代30代がんばってこなかったような、燃え尽きるほどのところにいけなかった人間は諦めの手前にずっといるのかもしれない。諦めまでいけなくても年齢や環境と共に身の丈は知ってしまっているから、『零落』を読んで主人公の深澤に感情移入もできたのだろうし、燃え尽きるほどに漫画に打ち込んで諦めるところにいけた彼に憧れではないけど、いいなと思ってしまった自分もたぶんいる。

リモートワークをやっていると夕方ちょっと過ぎてから雨が降り出した。最近は本当によく雨が降っている。この時期だと花散らしの雨ということなのだろう。去年はこんなに春に雨が降ったのだろうか、たぶんこんなには降っていなかった。
いまだに外に出る時にはマスクをしているのは花粉対策もあるが、マスクをするのに慣れてしまったせいだ。でも、どうせ店に入る時にはまだマスクの着用についてのお知らせがあるからつけたり外したりするのがめんどくさいというのが勝っている。
こんなに雨が降ると花粉もそんなに舞っていない気がするし、僕はあまり症状が出ていない。今年の花粉がヤバイと言っていたが実際にひどい花粉症の人は雨がこんだけ降ってもダメなのだろうか。天気予報を見ていたのでこの間みたいな失敗はおかさないように夕方に昨日から干している洗濯物は取り入れていて大正解だった。

仕事が終わった後に短編を書く準備として詳細とかいろいろ書き出してみる。冒頭から数枚書けた。明日の休みは1日かけてこの青い血と青いインクが重なる話の続きを書いてみる。この作品のceroのアルバム『POLY LIFE MULTI SOUL』とそれ以降に出たシングル(次のアルバムに収録される)、そのリズムを意識する。

 

3月30日
8時に目が覚めて、横になったままベッド横のテーブルの上にあるMacBook Airを触って、TVerのサイトで深夜に放送した番組を流して数分したら二度寝をしてしまっていた。再び目が覚めると10時前だった。ちょっと寝過ぎてしまった。
顔を洗ってから銀行に行って住民税の分割払いの3月分を支払機みたいな機械で支払ってから、ツタヤによって今日出たばかりの『ひらやすみ』最新刊を買って帰った。


真造圭伍著『ひらやすみ』第5集。今まで通りの都会のありえそうなやさしいユートピア(フィクション)ではあるけど、ちょっとだけ息苦しさについての物語になっていた。これを読んで憂鬱な人間関係を解消しようと動き出したり、自分が耐えきれない集団や仕事から離れるという決断をする人もいそう。
テレ東深夜かTBSの火曜22時ぐらいからドラマ化しても違和感はないけど、映画じゃないだろうな。


家に帰るとちょうど配達員の人が玄関前にいたので受け取った。先々日Amazonで注文していた田辺剛著ラヴクラフト傑作集『時を超える影』の2巻が届いていた。
ライティング仕事の資料でラヴクラフトの「クトゥルフ神話」の小説を読んでいたので、コミカライズも読んでみようという『ダニッチの怪』からの流れでこちらも。
どちらも小説の方は恐怖小説とかのラインなのだけど、「未知の存在」(「古のもの」「大いなる種族」「盲目のもの」など)のビジュアルとして絵として描くと恐怖の部分がちょっと薄れて(基本的には不気味な姿だけども)SFやダークファンタジーさが増すのかもしれない。時空を超える話だったりするから余計にSFぽい。


漫画を読んでからニコラに夕方すぎに行くまでは作業をする。一服がてら行ったニコラではそら豆と木苺のモンブランとアルヴァーブレンドをいただく。モンブランは口に入れた時に一瞬濃厚なそら豆の味がするけど、スーと濃厚さが消えてなめらかさが残る。深煎りのアルヴァーブレンドとよくあった。
帰ってからは作業の続きを。最初は一人称にしていたのは主人公の視線がわかるほうがいいなと思ったのと、彼が書き残したものを誰かが清書しているという感じにすることでメタぽさを出せればと思ったけど、違うなと思って三人称にして、青のイメージをもっと前面に出すような冒頭に変えた。

 

3月31日
いつもより早く起きて昨日の続きを開始。とりあえず、仮でつけていたタイトルがどうも馴染まないのが気になる。YouTubeで限定アップされているceroの去年日比谷野外大音楽堂で開催された「Outdoors」のライブを二回ほどすでに流していたが、冒頭の最初の一曲のタイトルってなんだっけと思ってみたら『遡行』だった。

cero - 溯行


今書いている作品の本編のほうのタイトルも漢字二文字が二つ入っているし、これなら繋がっているなと思ったのでこちらの曲からタイトルをもらうことにした。

いつも通り少し早めにリモートワークで仕事を開始。仕事はたまっていないのでのんびり進める。4月以降はインタビューする仕事がいくつかありそうだけど、他の会社とかは今日が年度末で、うちの会社は2月末が年度末だったせいでそのズレで色々と交渉というか日程とかを詰められない。その辺が4月に入ってからスムーズにいくといいのだけど。

樋口 おふたりは作品づくりにおいて、リアリティについてどう考えていますか? ノンフィクションにおけるリアリティと、フィクションにおけるリアリティはどのように違うのでしょうか。

ダルデンヌ弟 私たちの映画はSFでもなければ、幻想的な映画でもありませんから、その意味ではリアリズムと言えるかもしれません。ただし私たちの映画のリアリズムは、現実をコピーしているわけではありません。それをすると失敗作になってしまう。

樋口 では、どのように描くのでしょう?

ダルデンヌ弟 現実をそのままコピーするのではなく、自分たちが見つけた“何か”を表すことが必要です。例えば画家がある人の顔を描く時に、現実の顔をそのまま描くのではなく、画家がその人の中に見つけたものを描くことと同じです。今作では、トリとロキタの友情の深さが軸として描かれています。

映画に何ができるのか? 映画は何をすべきか? 名匠ダルデンヌ兄弟に聞いた

樋口毅宏さんの『LEON』ウェブでベルギーのジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌ監督の新作『トリとロキタ』についてインタビューしている記事を読む。『トリとロキタ』はちょっと気になっていた作品なので来月タイミングが合えば観たい。リアリズムだけど、作り手が見つけた「何か」を表すこと、それが作り手の主観であり視点ということなのだろう。

3月も今日で終わり。先月末からのごたごたもあったけど、新しい書き仕事も二つ始まった。どうしても長年続けてきたこれまでの状態は嫌でも終わっていき、新しい状態に移行する時期だったのだろう。そうしか思えない展開だったし、まあ、そう捉えるのが僕としても理解しやすい。
終わるものは仕方ないし、その時になにかが始まってくれるのはほんとうにありがたい。もちろん不条理なことだったり不義理なことをされたら文句もいうし、行動にもでる。そうことも含めて終わるものをしっかり終わらせる、ゆっくりと確実にそこからは離れる。
そして、新しい仕事に関してはやったことのないジャンルのことだったりもするからやっていてワクワクもするし、ちょっと不安でもある。ただ、こういうタイミングでうまく繋がって転がり出したのであれば個人的には問題はないし、最後までしっかりやりたい。結局のところタイミングというのが大事だ。そして、言葉や態度というものが最終的に信頼できるかどうかになってくる。

誕生月だったので、自分としてはやっぱり始まりの時期だしここから一年が回り始める。本厄にしてはなかなか順調な滑り出しだろう。
締切と約束をきちんと守って、しっかり自分の思ったことは伝えていく。新しく始まったことが次に繋がるかどうかはわからないけど、それをやっていけばなにかまた新しいことには繋がる。そういうことでいいと思う。

今回はこの曲でおわかれです。

それからベックだけは十代のうちから聞いておきなさい。「ベックって……これ? なにか……ヘンテコな音楽」
それがいいのよ、と叔母は言った。人生はヘンテコなの、だから、それがリアリズムなのよ。

古川日出男著『LOVE』より

Beck - Thinking About You (Lyric Video)