Spiral Fiction Note’s diary

物書き&Webサイト編集スタッフ。

Spiral Fiction Note’s 日記(2023年4月1日〜2023年4月15日)

3月下旬の日記(2023年3月16日から3月31日分)


4月1日

亡くなった大江健三郎さんの小説で自分が好きなものですぐに浮かぶのは『M/Tと森のフシギの物語』と『静かな生活』だった。この大塚英志さんのツイートを見て納得した。
僕が人生で一番繰り返して読んだ小説というのは大塚さんの『摩駝羅 天使篇』(3巻で未完)であり、そもそも「天使篇」が「M/T」をやっていたと言われている。だから、先祖返り的に好きというか興味を持ったのだとわかった。
「天使篇」を僕なりにやってみたいと思っていて、そこに映画『アンダー・ザ・シルバーレイク』を組み合わせるならロサンゼルスのハリウッド付近だった舞台を青山と赤坂にしてみたらどうだろう、というのが未だ書き上げられていない長編小説なのだが、そこに大江光的な存在も出してしまっている。もう一回『M/Tと森のフシギの物語』を再読する時期なのかもしれない。
昔僕が出した小説について、その新人賞の編集者座談会において編集者に「間接的に中上健次の影響が見える」と言われたことがあった。大江健三郎中上健次も知ったのは大塚さんの作品からだ。そこから古川日出男さんや阿部和重さん青山真治さんという少し上の世代の作品を読んだり観たりして中上健次の存在感をより感じるようになった。
村上龍さんと村上春樹さんも中上健次との関係性があり、その上には三島由紀夫がいる。そして、大江健三郎が戦後日本文学の最重要作家として存在していて、そこに至ることになる。大江健三郎中上健次からアメリカのウィリアム・フォークナーに辿り着く。
僕が影響を受けている文学はそういう意味では正統的な日本文学の系統なのだろう。勝手に師匠のように思っているのは古川日出男さんだが、ルーツを遡れば中上健次大江健三郎になる。そして、フォークナーがいる。そのことを意識した上で書くと今までよりも狭いかもしれないが深いところにはいけるのかもしれない。


起きてから少し作業をしてから、歩いて渋谷のヒューマントラストシネマ渋谷へ向かう。佐近圭太郎監督『わたしの見ている世界が全て』初日舞台挨拶つき(佐近圭太郎監督、主演の森田想さん、中崎敏さん、熊野善啓さんが登壇)で鑑賞。
朝10時から舞台挨拶が始まってからの映画上映だったが、ほとんど埋まって満席になっていた。注目度はかなり高そう。年齢はわりと高めだったかな、内容的には10代や20代よりも30代や40代のほうがちょっと見覚えがあったり、こういう状況になる(かつて経験した)というのもあるのかもしれない。

自分ひとりの力で生きてきたつもりの女性が、疎遠だった兄弟との交流を通して大切なことに気づいていく姿を描いたヒューマンドラマ。

遥風は価値観の合わない家族の元を離れベンチャー企業で活躍していたが、目標達成のためには手段を問わない性格が災いし、パワハラを理由に退職に追い込まれてしまう。自ら事業を立ち上げて見返そうとする遥風だったが、資金の工面に苦戦する。そんな折、母の訃報を受けて実家に戻った彼女は、実家を売却して現金化することを家族に提案。姉は興味を持たず兄と弟は猛反対するが、遥風は彼らを実家から追い出すべく「家族自立化計画」に乗り出す。

アイスと雨音」の森田想が主演を務め、中村映里子、中崎敏、熊野善啓が主人公の兄弟を演じた。監督は「東京バタフライ」の佐近圭太郎。(映画.comより)

映画・音楽ライターの宇野維正さんが以前にオススメされていて気になっていた作品、タイミングがよかったので初日に観てみようと思った。
遥風のいた会社に近いところで働いていたが、僕自身は残りの三兄弟的な人間なのでどちらも非常によくわかる。遥風の個人主義でいろんなものをはっきりさせたい人は渋谷というかベンチャー企業にはよくいるタイプだと思う。もちろんそれは悪いことではないが、自分ができてしまうものだから他人にもそれを求めてしまったり、できないことがそもそも理解できない、あるいはできない人は甘えているという考えに陥りやすい。そこには自己責任という考えが染み付いているのかもしれない。
残りの三兄妹はそちら側ではない人たちなので、考え方も仕事のやり方も違う。つまり生活が違う。そこに母が亡くなったことをきっかけに実家を売ろうとして、他の兄妹が決めかねていることなんかに口を出してどんどん動いていってしまうことで混乱や衝突が起きていく。腕のあるコント師が長尺のネタでやっていてもおかしくない。
観ていると何度か笑いが起きるのはそのシチュエーションの気まずさやタイミングの悪さなんかが客観的な視線で見ているからであって、当事者だったらけっこうきついなっていう。その意味ではシニカルな視線と笑いのある作品となっていた。
あと遥風は生前の父と母と疎遠だったなんらかの理由はあったようだがそのことは深掘りしていない。もしかしたら脚本にあって撮影はしているかもしれないけど、編集でカットしているんじゃないかな。本編が82分と長くなくテンポよく進んでいくので、そのあたりの説明的な部分は端折った可能性が高い。そのおかげで非常に観やすい。新自由主義が影響を及ぼしたゼロ年代以降の家族関係と仕事のやり方(あり方)における関係性が非常にうまく描かれていたと思った。


渋谷から一度家に帰ってから、そういえば今日は下北沢のB&Bの周年日で、メルマ旬報でお世話になっていた原さんとかいるかなと思って鎌倉通りの坂をのぼってボーナストラックに。原さんはまだ来ていなかった(さすがにオールナイトで営業する日に昼過ぎにはいないか)ので店内をのんびり見た。
最近来てもイベントの時だけだったので本棚をじっくり見ることができていなかった。海外小説の棚がわりと充実していて、東急百貨店渋谷本店に入っていたMARUZEN&ジュンク堂書店渋谷店が閉店してから、外文がある程度揃っているところが近場でなかったので、B&Bはわりといいなと思った。


ラテンアメリカ文学の棚も気になるものがあって、前に読んだ『ペドロ・パラモ』の著者のフアン・ルルファの短編集『燃える平原』が目に入った。読んだことないので手に取った。あと先日B&Bでイベントを見に来た際に装幀家の水戸部功さんが師匠である菊地信義さんの本が月末に出ると言われていたものも出ていたので、周年のお祝いがてら一緒に購入した。

やっと家についてご飯を食べたら16時前になっていた。そのあとは22時までライティングの作業をする。エイプリルフールだけど嘘もつかず、嘘もつかれず過ごした。歩いている時にradikoで聴いていた『三四郎オールナイトニッポン0』と『バナナマンバナナムーンGOLD』では日付が変わってからの放送だったから冒頭からエイプリルフール的なネタというか嘘を言っていたりした。
三四郎ANN0」はCreepy Nutsの R-指定の結婚式に行った話を相田さんがしていて、エピソードがてんこ盛りなのに彼らがもうラジオをやっていないのですぐに話せないっていう、一応許可は得ているからと相田さんが話をしていた。Creepy Nutsのファンよりも先に三四郎顔が R-指定の結婚式話を聞くことになるのもなんかおもしろい。
「バナナムーン」はやっぱり中村倫也さんの結婚についてだったけど、ちょっとだけ日村さんが二人の出会いに関わっていた。この二組はほんとうに声が心地いいし歩いている時に聞くと内容はわりと忘れちゃうけど、そのぐらいの方がちょうどいい。家に帰って作業中に二回目も聴いたから内容を覚えているんだけど。

 

4月2日
radikoで『オードリーのオールナイトニッポン』を聴きながら作業。若林さんの3月31日で再開発のために閉店した八重洲ブックセンター本店ではじめて漫画を買ってもらってそれ以降も自分にとっては地元にあった身近な本屋という話から八丁堀に実家があるので製本所などが目の前にあったことから親子二代で東京生まれなのに阪神タイガースファンの理由などを話ししていた。そこから、春日さんの西武マンとしての埼玉西武ライオンズファンであることから西武鉄道が作った経済圏で生まれ育ったという話になっていた。
ノベライズ『リアル鬼ごっこJK』が出た時にサイン本を作らせてもらった八重洲ブックセンター本店の内田さんは西武ライオンズファンでもあるので、今回のラジオはドンピシャだなと思ってfacebookにそのことを書いたら反応して聞いてくださっていた。
ラジオを聴き終えたのでネトフリで『機動戦士ガンダム』を1話から小さなウィンドウにして画面に出しなが文字起こしの作業を。少し聞いては止めて書き置きしてを繰り返すのでなにか別の音や画面に映像があるほうが僕ははかどる。とりあえず、アムロがブライトにぶたれて有名なセリフをいうところまで。


お昼過ぎに家を出て渋谷PARCOのホワイトシネクインへ。3回目の鑑賞となるダニエルズ監督『エブリシング・エブリウェア・オールアットワンス』を。
現在の渋谷PARCOに建て替える前の旧渋谷パルコに入っていた映画館がシネクインだったが、現在はシネパレスがあった渋谷ロフト前に移転していて、新生渋谷PARCOにはホワイトシネクイントが入っている。シネクイント&ホワイトシネクイントは今までたくさんのA24作品を上映してくれていて、僕はこの二つの映画館でいろんなA24作品を観てきた。
今作はアメリカでの映画の賞レースでも勝ち続けてアカデミー賞を最多受賞したが、僕はホワイトシネクイントでやると思っていたらTOHOシネマズ系からのロードショーになっていた。そのおかげでIMAXでも観ることができたのだけど、31日からホワイトシネクイントでも上映が開始するというのでここで観たいというのが大きくて3回目になった。
最初に観たA24作品はシネマライズハーモニー・コリン監督『スプリング・ブレイカーズ』だった。一番好きなこのレーベルの作品である『アンダー・ザ・シルバーレイク』はアップリンク渋谷で鑑賞した。その二つともすでに閉館してなくなってしまっている。渋谷の単館系映画館がどんどんなくなっていて、2002年に上京してから渋谷にくる大きな理由だったそれらは姿を消していて思い出の風景もかなり薄れてしまっている。そういうこともあってシネクイントにはがんばっていってほしい。

3回目もしっかりたのしめたし、わかっているからこそ先に反応して笑ってしまうところもあった。やっぱり主人公のエヴリンが他の並行世界の(なれたかもしれなかった)自分に接続してその特技をインストールして使えるようになるという設定が響く。
コインランドリーを運営しているこの映画の主人公の時間軸の彼女がさまざまな夢は抱いた(国税庁でエヴリンと夫のウェイモンドがいろんな仕事のことを話すことがフリにもなっていた)が何者になれなかった、それゆえに別の平行世界がどんどん広がっていたことですべての並行世界において最弱(最低)である彼女が最強になれる、そのアイデアがとても僕は好きだ。だからこれは僕の物語にもなるし、あなたの物語にもなる。その上でこの作品がおもしろくない、嫌いという人たちの意見もわかるような気がする。これを認めると崩れるものがある人はいるし、そういう人は無意識に嫌悪もするだろうなって。


18時ぐらいに副都心線に乗って西早稲田駅で降りてシーシャ屋の「極楽満月」へ。友人の隆介くんが「エブエブ」を観たから話したいというので約1ヶ月にお店に。隆介くんの知り合いのかぼすくんという人も一緒にいたので、特に自己紹介もせずに普通に三人で2時間近く話しながらシーシャを吸っていた。彼が帰った後にちょっとだけ打ち合わせもしたけど、ほとんど映画とか雑談。

お店の常連の人が来た瞬間に見ていたスマホから目を離して、店内にいるみんなに「坂本龍一が死んだって」と言った。そのあとすぐにTwitterでもその話題がタイムラインに上がり続けるようになった。特報ニュースもスマホのポップアップにも出てきた。
僕はやはり真剣に聴いていたファンではないけど、ほんとうに世代や国を超えていろんな人たちに影響を与えた人なのだというのがツイッターでもよくわかる。僕が好きなのはやっぱり中谷美紀さんの曲。あと韓国のラッパーと組んでいた『undercooled』という曲、こちらも十数年ずっとiTunesに入っている。

中谷美紀/砂の果実 




23時過ぎにお店を出て副都心線に乗ったが、前みたいに渋谷駅では降りずに中目黒駅で降りた。池尻大橋方面に向かうところの目黒川で散りかけの桜が見れてよかった。日曜の夜だし、ほとんど人もいなかったので夜桜を満喫しながら歩いて家に帰った。

 

4月3日
目覚ましをセットしている30分ほど前の6時半に目が覚めた。月曜日は可燃ゴミの日なのでトイレで用を足してからゴミ箱からゴミ袋を出して指定の集積場へ持っていく。日中は暖かいがまだ朝方は肌寒い。
そのまま朝の作業を。今日はラヴクラフト原作/田辺剛作画『狂気の山脈にて』の漫画4巻を資料として読む。小説を先に読んでいるので展開はわかっているが、絵になると「古のもの」とかの描写がほんとうに気持ち悪い、すごい画力で描写力だなと改めて思う。
小説を読んでいて、そのあとでコミカライズしている漫画を読むことである種のラヴクラフトが書いた「クトゥルフ神話」のパターンや物語が馴染んできたような気がする。
4月になってから初めての朝仕事のリモートワーク開始。3月中に返事のなかった案件が先方から来たので、とりあえずスケジュール確認してもろもろ決めていく。今年は護国寺に行く用事が3月から急に増え出したのだが、そういうご縁のある年なんだと思うことにする。


昼休憩の時に西友にご飯を買いに行った帰りにトワイライライトによって気になっていた歌集の我妻俊樹著『カメラは光ることをやめて触った』を購入。店主の熊谷くんとちょっと坂本龍一さんの話をする。

ビックリマン」新作アニメは現代が舞台、ヤマトは高校生でフェニックスはコンビニ店長

「“ビックリマンシール三億枚事件”と呼ばれる窃盗事件も起こるほど、ビックリマンシールに価値が見いだされている世界が舞台」と聞くと闇落ちしたアリババが犯人なんじゃいかと思ってしまう。
ヤマトが主人公でほかの5神帝の中ではティーザーではジャックと牛若はいるけど、ほかのフッドと一本釣りとアリババが出てきていない。おそらく同級生かなにかの形では出ると思うけど、ビックリマンという話をやる以上は一人だけ闇落ちするアリババは特異な存在だし人気もあったからたぶん、そういう役割で出てくるんじゃないかなと予想。

夕方にニコラに行って一服しながら作業。カウンター友達の藤江くんがやってきたので近況を聞いたり話したりする。彼が主演している宮崎大祐監督の映画『Platics』が秋ぐらいに上映とのことだったのでたのしみ。
先々月末から起きているトラブルも終わりが見えてきたし、新しいライティング仕事も今のところ順調なのでこのままうまくスケジューリングして、自分の作品にももう少し時間が使えるようになれたら今月はいいかなと思う、そういう感じ。

 

4月4日
なんだが冷たいなと目が覚める。気持ち背中の方が濡れている感じで寝汗がひどかったのかと思いながらトイレに行く。ベッドに戻る前に鏡に映った背中がびっしょりと濡れてグレーのパーカーの色合いが濃い灰色になっていた。なんだろ、これって思ってもう一度寝転ぼうと思ったら枕の首側のほうの布団が濡れて染みができていた。
前々日に低反発枕を洗っていた。一日ずつ表裏を変えて干していた。家の中に入れた時に気持ち重く感じたがたぶんそれが乾いていない水分であり、昨日寝た時に頭と肩の重さによって中にあった水分が枕の外に漏れ出たのだろう。
何年も使っていた枕で正直初めて洗ったのだけど、これはもう捨てようと思った。ピローケースは先月下旬に新しくしていたが、このまま枕もドン・キホーテ辺りで新しいのに変える時期なんだろうなということにした。
午前中に郵便局の再配達を頼んでいたので、11時過ぎまで文字起こしの作業をしていた。カーテンも布団のシーツカバーとピローケースも変えたのに、ずっと壁に飾っているポスターは同じだなと気づいた。


これまではゲルハルト・リヒター展に行った時に買ったリヒターがデザインしたもののポスターを飾っていたが、違うものにしようと思って2年前にル・シネマで開催された「ヴィム・ヴェンダースレトロスペクティヴ」の際に購入していた『アメリカの友人』のポスターに変えてみた。
ヴィム・ヴェンダースレトロスペクティヴ」で上映された10作品は全部観ていて、最後はヴィム・ヴェンダース監督の集大成的な『夢の涯てまでも』を観た。あの時のビジュアルイメージのポスターがあったらよかったのになって思ったが、売っていたのは『アメリカの友人』と『パリ、テキサス』の二種類だった。『夢の涯てまでも』みたいなそれまで作ったものの要素がほぼ全部入っていて、打ち込んだ熱量がすごいもの、もはやカオスでありながらハーモニーになっている、そんな作品が作れるのは素晴らしいことだなと思えた。

郵便局の配達を受け取ってから、散歩がてら代官山蔦屋書店まで歩いていく。『フワちゃんのオールナイトニッポン0』を聴いていたら、新年度もいつもの楽しいフワちゃんで何度か笑いそうになった。
本屋をちょっと見たあとに旧山手通りの向こうの目黒川のほうに坂をくだっていくとほとんど桜は散っていたが花見客がたくさんいた。そのままドン・キホーテ中目黒店に寄って2000円ぐらいの低反発枕を購入した。
帰っている途中で『フワちゃんのオールナイトニッポン0』は最後まで聴いたので、そこからスポティファイで『83Lightning Catapult』を聴き始める。

松阪牛ロンダリング事件再び?


風俗嬢との関係のお悩みに関しての投稿をアルコ&ピース酒井健太三四郎相田周二の二人がお答えする回だったが、以前にも風俗嬢から松坂牛のギフト券をもらったというお悩みがあり、これは本当にいけるのか? 風俗嬢もマジなのではないか? という話題になったことがあったが、実際の現役の風俗嬢などから上客からもらったものをお客さんにあげているだけという報告があり、松坂牛ロンダリング事件みたいな言い方になった。
今回もそういうことかと思いきや、風俗嬢と相談主の関係性も以前のものとはかなり違うものになっていた。そのことで二人もかなりどっちかわからないという感じになっていた。

家に帰って昼ごはんを食べてから、ひと休憩してからもう一つのライティング作業を夜までやる。明日にはひと段落するので、そこからまた自分の作品をやる時間ができる。

 

4月5日
起きてから今日中に〆切を予定しているライティング作業を開始。BGMとして『アルコ&ピース D.C.GARAGE』をradikoで流す。そのまま『爆笑問題カーボーイ』を聴きながら、作業は中断して朝からの仕事のリモートワークを始める。来週は忙しくなりそうな感じ、今のところ問題はなさそうだけど、丁寧に進めていかないとあとから大変になりそうなのでじっくりと慎重にやりたい。
星野源オールナイトニッポン』を聴き始めたら、冒頭に坂本龍一さんの『千のナイフ』がフルでかかっていた。星野さんがなにかを話してから曲というわけではなく、始まった瞬間に曲が流れ出して最後まで説明もなく流したのがほんとうに追悼という感じでよかった。

Ryuichi Sakamoto Thousand Knives 




14時過ぎに休憩をとった。渋谷駅前の大盛堂書店で土曜日に行われるイベント参加の抽選に当たっており、該当する書籍『本当に欲しかったものは、もう』が今日発売になっていた。イベントまでに購入すると抽選の際に指定されていた整理番号がもらえるというもの。一回のレジに書店員の山本さんがいらしたのですぐに書籍を出してくれてお会計後に整理券を渡してもらえた。休憩時間内に帰ろうと思ったので、土曜日にと言ってきた道を戻った。
この本のイベントに行こうと思ったのは執筆陣の中に知人の木爾チレンさんがいて、『88967人のフォロワー様へ』という一編を寄稿していたから。この短編は恋愛リアリティーショー番組に出て有名になった女の子が主人公の一人称のものであり、有名になることとそこの番組で勝ち取った栄光がその後の人生において虚しくなっていく、崩れ落ちていったという経験を描いているものだった。
チレンちゃんや妹の倉田茉美さんを知っていると書かれていることにメタ感をすごく感じるし、なんだか昔岡崎京子さんの漫画を読んでいた時に感じたような、この資本主義社会(新自由主義)における女の子の堕ち方のようなものが描かれていた。その意味で虚実が入り混じっているので少し嫌なリアリティーとどこまでがそうなのだろうかという気持ちが読んでいくと混ざっていく。
昔から恋愛リアリティーショーのようなものはあったが、この10年ほどはそこにSNSによる視聴者からの投稿が当事者たちの神輿をどんどん高くしていき、ある日急に手を離して地面に叩きつけたりするということが起きている。
ただ表舞台に出るということの意味がひと昔とはまったく意味の違うものとなってしまった。そのことを経験した女の子のお話というドキュメンタリーのようにも読める。
鏡とは自己愛を加速させる装置だが、スマホはその意味で自己愛を爆速させるものであり、SNSによって本当のことも嘘もなにもかもが相手に届く可能性を持ってしまった。スマホSNSのコンビネーションは自分も他人も愛せるし殺せるという双刃の刃になってしまっている。
しかも、正しい、正しくないとは関係なく数字すら取れれば金にはなるので倫理観は二の次になり、暴露系や迷惑系が増えるという温床となっている。
『88967人のフォロワー様へ』を読むと恋愛リアリティーショー番組が好きな人はいろいろと思うところがあるのではないかと思う。また、自分のSNSとの向き合い方もちょっと考えるきっかけにもなるかもしれない。

行きも帰りも4日深夜から新しくはじまった『あののオールナイトニッポン0』をradikoで聴いていた。過去3回の単発時もおもしろかったし、レギュラーになってほしいと思っていたのでたのしみにしていた。あのちゃんらしいスローテンポだけど、自分の言葉としてしっかりトークをしていて、テンションが上がったりする時とか言った言葉について自分で振り返るところなどとてもよかった。
昨日始まった『Adoのオールナイトニッポン』も聴いていたが、そう考えると「オールナイトニッポン0」で2年目を迎えたフワちゃんって本当にラジオパーソナリティーとしてすごく成長をしたんだなと初めてのレギュラー二人の放送を聴きながら思ったりもした。あのちゃんは最後に前番組を担当している星野源さんの『くだらないの中に』を弾き語りしていたがすごくよかった。単発の時も弾き語りはあったけど、トークだけではなく今後も弾き語りはやってほしい。

Yaeji - Passed Me By (Official Video)


帰ってからリモートワークの続きやっていた。YouTubeでYaejiの新曲のMVがアップされていたので聴いた。仕事が終わってから本日中が〆切だったライティング作業を最後までやってから先方に送ったので本日の仕事は一旦終了。


夕方にバリューブックスで頼んでいた岡田利規著『遡行: 変形していくための演劇論』が届いた。前にバリューブックスで本を売った時のポイントで買えた。今書いている作品のタイトルを『遡行』にしたのだけど、もしかすると昔に見たこの書籍から取っている可能性があるんじゃないかなって。
演劇論だから読んで参考になるかどうかわからないけど、なんか執筆のお守りみたいになるかなって気がちょっとしている。少しだけ自分の作品の執筆をしてから寝る。

 

4月6日
5時半過ぎに目が覚めた。横になったままTVerで昨日寝る前に見た『あちこちオードリー』のブラックマヨネーズゲスト回をもう一度流しながら、体が起きるのをのんびり待っていた。


7時前に支度をして家を出て渋谷へ。副都心線に乗って北参道で降りて20分ほど歩いてTOHOシネマズ新宿で8時30分から上映の『デヴィッド・ボウイ ムーンエイジ・デイドリーム』IMAXで鑑賞。
木曜日は基本的には仕事をしない日にしていて、先日の夜に朝はなにか映画が観たいなと思って探していたら、IMAX上映が6日までっぽかったので大画面&大音量で体験したいと思った。先日坂本龍一さんが亡くなって、坂本さんとボウイの二人が共演していた大島渚監督『戦場のメリークリスマス』のことが無意識に脳裏にのぼったのか、ボウイのことが浮かんだ可能性もある。

世界的ロックスター、デビッド・ボウイの人生と才能に焦点を当てたドキュメンタリー。

デビッド・ボウイ財団初の公式認定映画で、ボウイが30年にわたり保管していた膨大な量のアーカイブから厳選された未公開映像と、「スターマン」「チェンジズ」「スペイス・オディティ」「月世界の白昼夢」などの40曲で構成。全編にわたってボウイ本人によるナレーションを使用した。

ドキュメンタリー映画くたばれ!ハリウッド」「COBAIN モンタージュ・オブ・ヘック」のブレット・モーゲンが監督を務め、ボウイやT・レックスらの楽曲を手がけた名プロデューサーのトニー・ビスコンティが音楽プロデュース、「ボヘミアン・ラプソディ」でアカデミー録音賞を受賞したポール・マッセイが音響を担当。(映画.comより)

デヴィッド・ボウイという人はほんとうにクリエイティブな人で創作意欲に溢れていた人であり、変わることを恐れなかったのがわかるドキュメンタリーだった。カオスという言葉が何度も出てくるのも特徴かもしれない。25歳ぐらいで「ジギー・スターダスト」としての姿で熱烈な支持を若者から集めていたデヴィッド・ボウイはそこからどんどん変わり続けて、自分が望む創作に向かっていく。
本当の自分は表には出さないままで彼は創作者として自らが求める姿として人々の前に現れ魅了して行った。変わり続けることでずっと第一線にいた人だからこそ、カオスの大事さがわかっていたのだと思う。
映像が非常にサイケデリックなものとなっており、宇宙的なものやサイバースペース的なものやカオス的なものがうまく表現されていた。同時に鳴り続けているデヴィッド・ボウイの楽曲がほんとうに素晴らしく、映像とマッチしていた。タイトルにある「ムーンエイジ・デイドリーム」というのは彼の楽曲から取られているがまさに名は体を表すというピッタリなものだった。


11時過ぎに上映が終わったので、久しぶりにTOHOシネマズ新宿近くのいわもとQで天ぷらそばを食べようと思ったが、改装中かなにかでお店はやっていなかった。残念。そばを食べるというとここなんだよなあ。前も通った時閉まっていたけど改装なのかビル自体のメンテナンスなのかわりと時間がかかっている。


紀伊国屋書店を覗いて、宇野常寛著『遅いインターネット』文庫版が出ていたので購入。書き下ろしの新章が追加されているのがうれしい。『遅いインターネット』は単行本で出ている『砂漠と異人たち』や現在『群像』連載中の『庭の話』に繋がっているものであり、ここから読み始めるのも入りとしてはいいと思う。

タックインの一般化をめぐる2020年と2017年という二つの基準点をどう考えるか。
「近年はウエスト部分をきちんとマークするスタイルが主流になっている」と、
2017年にここまでタックインについて書いているなら、2017年が一般化した記念の年なのではないか。
否であります。
Tシャツの裾を入れるのが若者のあいだで一般化したのは、あくまでも2020年なのではないか。
とても細かい話になりますが、カウントアイテムなのかズームアップアイテムなのかの違い。
ここに大きな重心があると思います。
2017年の「ベルテッド・スタイル/ウエストマークベルトウエストマーク」は、サブテーマ。
2020年の「男女問わず一般化したトップスイン・スタイルに再注目!」はメインテーマです。

つまり、Tシャツの裾を裾を入れてベルトを垂らして、
「“だらしのない”雰囲気、アンバランスな雰囲気をあえて楽しむ若者」は、
目立ちはするものの一般化したと言えるほど多くはないと。
2017年の段階では、まだ街の無意識はTシャツの裾を入れていなかったと。
これは街の無意識が、この街の誰も彼もがTシャツの裾を入れている状態だ。
と、ACROSS編集部が判断したのが2020 年になってからのことだったわけです。

Tシャツをめくるシティボーイ 第20回  Tシャツの裾と二つの定点観測・2020年代編 / 文:高畑鍬名(QTV)

家に帰ってから友人のパン生地くんの連載の最新回を読む。確かに数年前には自分よりも若い世代、10代や20代のおしゃれな人はTシャツの裾をタックインしているのが当たり前になっていた。僕はどうしても裾を入れるということに抵抗がある。それは体型も関係していると思う。太ってお腹が出ているとタックインするとさらにお腹が目立ってしまうということがあり、どうもできない。
今回の最後のほうにタックアウトしているのは『電車男』でタックアウトするようになった取り残されたオタクだということが書かれているが、そういう意味では僕はシティボーイではなくオタク的なファッションなのだろうと思うし、思い当たる。

 

4月7日
最近目覚ましが鳴る前に目が覚める。寒いからだろうか、とりあえずビンと缶とダンボールの回収の日だったのでいくつか外の指定された場所に持っていく。ラヴクラフト著『アウトサイダー』から二つの短編を読む。ダークファンタジー系なのだが、やっぱりこの人が書かないといけなかったもの、ある種の恐怖みたいなものが一連の作品を読んでいると伝わってくる。
リモートワークの仕事を開始する。窓の外は風が強いみたいで一度外の物干し竿にひっかけている干す用のハンガーが飛ばされて窓に当たってガゴンみたい音がした。雨は降りそうだけど、まだ降っていなかった。休憩中に駅前に行った時も風は強かったが雨はまだという感じだった。だが、3月末よりも寒くなっているのを感じる。
仕事はもろもろ決まったりしたので4月中旬以降はわりと忙しくなりそうなスケジュールになってきた。何度か会社と他社へ行かないといけない用事ができたけど、行くのが嫌というよりも電車に乗るが嫌っていう気持ちの方がデカい。


リモートワークが終わってから渋谷に出て、ベン・アフレック監督『AIR/エア』をヒューマントラストシネマ渋谷にて鑑賞。
世界で一番人の名前がついて履かれているスニーカー、それがバスケットシューズの「エアジョーダン」シリーズ。もはや、NBAよりもバスケットボールよりもいちプレイヤーのマイケル・ジョーダンの名前の方が有名であろうというぐらいの存在となったバスケの神様。
この映画はマイケルのシグネチャーモデル「エアジョーダン」が生まれるまでの物語。正確に言えば、NIKEバスケットボール部門だったソニーが主導してNIKENBAデビュー前のマイケル・ジョーダンが契約するまでの話となっている。

「アルゴ」のベン・アフレックが盟友マット・デイモンを主演に迎えてメガホンをとり、ナイキの伝説的バスケットシューズエア・ジョーダン」の誕生秘話を映画化。

1984年、ナイキ本社に勤めるソニー・ヴァッカロは、CEOのフィル・ナイトからバスケットボール部門を立て直すよう命じられる。しかしバスケットシューズ界では市場のほとんどをコンバースアディダスが占めており、立ちはだかる壁はあまりにも高かった。そんな中、ソニーと上司ロブ・ストラッサーは、まだNBAデビューもしていない無名の新人選手マイケル・ジョーダンに目を留め、一発逆転の賭けと取引に挑む。

CEOフィル・ナイトをアフレック監督が自ら演じ、主人公ソニーの上司ロブ役で「モンスター上司」のジェイソン・ベイトマンマイケル・ジョーダンの母デロリス役で「フェンス」のビオラデイビスが出演。(映画.comより)

NIKEやスニーカー、NBAマイケル・ジョーダンが好きなら常識のことだが、NBAデビュー前のマイケルはNIKEだけとは契約しないと言っていた。当時のNBAではコンバースが一位、アディダスが二位の選手との契約数であり、NIKEは三位だった。また、当時のスーパースターだったマジック・ジョンソンとラリー・バードはコンバースと契約しており、アディダスRun-D.M.C.が着用したことなどから若者に人気のアイテムとなっていた。NIKEはランニングシューズでの成功は収めていたが、バスケットでは上位2社から大きく差を広がられており、このままで部門閉鎖というところになりかけていた。
ソニーはドラフト3位でシカゴブルズに入団が決まっていたマイケル・ジョーダンの圧倒的な才能に惚れ込み、NIKEとは契約をしないと言っている彼を、母親と父親を説得することでなんとか契約に持ち込もうとする。
黒人一家は基本的には母親が仕切っており、ジョーダン家も同様だった。ソニー代理人との交渉では相手にされなかったことから実力行使に出て、ノースカロライナにあるジョーダンの実家に行き母親のデロリスにクビ覚悟で直談判する。このことがのちのNIKEというブランドが世界的な大成功を納めるかどうかという分水嶺となる。ここでのソニーとデロリスのやりとり、その後ジョーダン一家と代理人NIKE本社に訪れた際のプレゼンにおけるソニーの言葉はぜひ作品で見てほしい。人を動かす言葉がそこにはあった。普通に泣いてしまいまった。あれは感動する。

当時の話でいうとスーパースター選手だったマジック・ジョンソンとラリー・バードですらシグネチャーモデルは作られていなかった。また、NBAではシューズにおいては白もしくは黒の面積が51%以上という規定があった。
ソニーコンバースアディダスではただのルーキーとして扱われるジョーダンのために、それまで前例のない個人の名前を冠したシグネチャーモデルのバッシュを試作し、ジョーダン一家にプレゼンすることにした。しかも、黒×赤というブルズカラーを用いて規定違反のカラー、毎試合ごとに罰金が課せられることになるが、それは全部NIKEが支払うことにした。規定違反で罰金を払うことで話題となり取り上げられることで宣伝になるとの判断だった。
叛逆的であり革新的なその「エアジョーダン」は一年目から脅威的な売り上げを叩き出し、マイケル・ジョーダンは二度のスリーピート(三連覇)を実現してしまう名実ともに最高のバスケット選手であり、最高峰のアスリートとして歴史に刻まれる選手となった。そのことは「エアジョーダン」というブランドの価値をどんどん高めてNIKEの世界制覇の土台となっていった。

監督であるベン・アフレックはCEOであるフィル・ナイトを演じている。フィルは仏教などを生活に取り入れており、世代としてはヒッピーなので違和感はない。ヒッピーカルチャーを謳歌していた人たちは禅や仏教を取り入れていたのはスティーブ・ジョブズなどを筆頭に有名すぎる話。
現在におけるIT系の大手を最初に立ち上げた人たちはヒッピーカルチャーを楽しんでいた人たちなのは自明で、クスリをやってトリップするのとネットという仮想現実世界へという思考は重なっている。結局のところ、大麻LSDよりもネットやSNSのほうがヤバかったねっていうのが現在ではあるのだが。
ベン・アフレックは実話を元に2時間という尺でこの物語を非常にうまく作っている。基本的にマイケル・ジョーダンはほとんど出てない。実際の映像などで本物の彼のプレイなどは一部見られるものの、青年時代の彼の後ろ姿などは映るが顔は出ないという演出になっているのが非常にうまい。世界中の人が知っているマイケル・ジョーダンの青年期を誰か役者にさせて顔を出しても違うということになってしまう。だから、後ろ姿や握手の際の手などにおさえることで観る人に本物の彼を想像してもらうという形を取っている。また、マイケル・ジョーダンの母親役にはマイケルからの希望でヴィオラ・デイヴィスに演じてほしいと言われたらしい。このお母さんが素晴らしいんだよね、最後の契約手前まで行った時のある条件に関してのところがほんといい。

ネトフリにある2020年のドキュメンタリーシリーズ『マイケル・ジョーダン:ラストダンス』を見るとより楽しめるはず。ちなみにこの映画はAmazonスタジオが制作しているけど。ベン・アフレックの監督としての手腕も素晴らしい。
お仕事映画ではあるので、観るとがんばろうと思えるが、フィル・ナイトみたいな上司とかそうそうにいねえだろとか、ソニー自身がバスケの師(グル)と呼ばれるほどの知識や見識があったからこその結果なんだよっていう、でも、大事なことは映画の中のセリフにたくさんあるのでどれかが仕事で悩んでたりする人は突き刺さると思う。

 人は、未読の本からも影響を受ける。日々、本の姿を眺めつつ、いつかその本を手にする日がくることを予感しながら、その関係を味わうのである。さらにいえば、その書名、本の佇まい、そして、それを買おうとした内心からの促しによって、少しずつ人生を変えられている。
 読む日が到来する。それは人生が変わるときでもある。

若松英輔著『藍色の福音』P27より

読めないけどどんどん本を買い、積読がたまることに意味があると思うのはまさに上記のような気持ちがあるから。電子書籍に手を出さないのはこれが大きい。なにかアウトプットするものがないと見えないから。紙の本はハードウェアとソフトウェアのどちらも兼ねている。人間も同じだ。


寝る前に帰りに買っていた『群像』連載古川日出男『の、すべて』第16回を読む。偶然&必然が小説と現実の間で引き起こされている、そんな不思議な感覚を覚える。
大江健三郎著『セヴンティーン』第一部と第二部が読んでいると脳裏に浮かぶ、アルファベットの名前とその行為、作品内で大江さんの追悼が行われているような気すらしてしまう。また、『ミライミライ』&『曼陀羅華X』と繋がるものもあるように思えた。

 

4月8日
起きてから散歩がてら代官山蔦屋書店まで歩いていく。BGMがてらradikoで深夜に放送された『三四郎オールナイトニッポン0』を聴きながら。歩いている途中で何度か三四郎の二人のトークで笑ってしまう。マスクはしているけど、多少誰かに見られていないかと気になってしまう。
見られてもいいのだろうし、イヤフォンをして歩いているのだからなにもなく歩きながら笑っていると思われる方が可能性としては低いの、そう感じる自分がいる。マスクはそういう意味で仮面になっている。2年以上マスクをしているからもはや当たり前のものになって「していない」と思っている時や瞬間があったりする。この不思議な仮面は「ある」のに「ない」という両義的なものになっていて、口元を見せる/見られるという意識がコロナパンデミック以前/以後では全く違うものになっているのだな、とこうやって書いている時に改めて認識する。
昨日、『群像』を買った時に同じ平台に置かれていなかったので忘れていた『文藝』2023年夏号を購入して帰る。まだ午前9時過ぎだというのに書店にもそこそこお客さんがいる。ちょっと前から海外からの旅行者の姿は渋谷で一気に増えたように感じる。場所柄かこの店にも海外からやってきたと思われるお客さんの数が増えていきている。これは以前に戻りつつあるのか、以後の新しい状況なのか、どうなのか。


『文藝』連載古川日出男『京都という劇場で、パンデミックというオペラを観る』第2回を読む。『の、すべて』最新回では大江健三郎作品のことが浮かんだが、こちらでは古川さんが以前住んでいた家の設計者である原広司のことから彼の友人の大江健三郎の言及がされていた。連載で読んでいるとこのような同時代的なシンクロが起きる。
京都(京都駅と金閣寺)の話がメインだが、ラーメンの話もあった。ラーメンというのは古川作品を読んでいるとよく出てくる食べ物である。また、過去に書いた作品(『金閣』など)も内包されている(言及されている)ので多重構造ともいえる。文章を読んでいると『ゼロエフ』と同系統の京都を舞台にした現在進行形のものとなっていると思う。

16時半から大盛堂書店で開催されるトークイベントに行くつもりだったが、昼前から始めた作業が終わりそうになかったので今回は諦めることにした。なんとか18時前には作業分は終わったので本日はこれで終了。

岡田利規著『遡行: 変形していくための演劇論』をちょこちょこ読んでいるが、ラインが引かれているところがめちゃくちゃある。これは古本として状態がいいと言えるのか否か。
ラインが引かれているところを読んでいるとえんぴつで線を引いた前の持ち主は演劇に興味が強いか役者志望か役者の人ではないかと思えなくもない。だとしたらこんなにライン引いたものを売るなとツッコミたい衝動にかられる。

 

4月9日

2月に試写で観ていたダーレン・アロノフスキー監督✕ブレンダン・フレイザー主演『ザ・ホエール』をホワイトシネクイントで朝イチの回で鑑賞。渋谷PARCOもオープン前の9時台だったけど、お客さんは20人ぐらいはいた。年齢層は40代以上が多めな印象。
試写で観た時にいい映画だと思ったし、パンフもほしいし、フレイザーアカデミー賞主演男優賞受賞したし、A24作品だし、ということで。パンフを買う時に『SCREEN』部冊の「A24」特集号も買った。前に見た時に買いそびれていたもの。

ブラック・スワン」のダーレン・アロノフスキー監督が、「ハムナプトラ」シリーズのブレンダン・フレイザーを主演に迎えた人間ドラマ。劇作家サム・D・ハンターによる舞台劇を原作に、死期の迫った肥満症の男が娘との絆を取り戻そうとする姿を描く。

40代のチャーリーはボーイフレンドのアランを亡くして以来、過食と引きこもり生活を続けたせいで健康を損なってしまう。アランの妹で看護師のリズに助けてもらいながら、オンライン授業の講師として生計を立てているが、心不全の症状が悪化しても病院へ行くことを拒否し続けていた。自身の死期が近いことを悟った彼は、8年前にアランと暮らすために家庭を捨ててから疎遠になっていた娘エリーに会いに行くが、彼女は学校生活や家庭に多くの問題を抱えていた。

272キロの巨体の男チャーリーを演じたフレイザーが第95回アカデミー賞で主演男優賞を受賞。メイクアップ&ヘアスタイリング賞とあわせて2部門を受賞した。共演はドラマ「ストレンジャー・シングス」のセイディー・シンク、「ザ・メニュー」のホン・チャウ。(映画.comより)

2回目で感じたのはこの物語は「父」になる話でもあったんだな、と。A24作品ならホアキン・フェニックス主演『カモン カモン』もそうだったし、大ヒットした『トップガン マーヴェリック』も中年以降の結婚もしておらず子供がいない白人男性が、前者は甥っ子、後者は親友の息子を仮の息子として、仮りの「父」にとなって振る舞う、役割を体験することで責任ある大人になるみたいなことが描かれていた。燃え殻さんの小説『これはただの夏』も同様のテーマがあったように思える。

今作ではチャーリーはかつて結婚しており、実子である娘のエリーがいるが、彼はエリーが8歳の時に恋人だったアランの元へいき家族を捨てていた。そのため、エリーからすれば父に捨てられたという想いは拭えないまま成長している。また、チャーリーも妻だったメアリーとは連絡はしていたが娘とは直接会えなかったため、父と娘は同じ時間を共有できず、互いに距離があり、チャリー自身は「父」としての責任を取ってきていなかった。彼が最後に選択することやエリーに話すことはひとりの人間としてのものではあるが、「父」としての役割をまっとうしたかった部分もあるように感じられた。「父」になるのかという問いかけは、かつての先進国だったアメリカや属国の日本が抱える家父長制の破綻やフェミニズムや多様性の間で揺れ動くものと繋がっている(キリスト教原理主義統一教会なんかの宗教はその新しいものを受け入れるわけがない、根本が覆る。あと社会の構造がそれらの宗教と結びついて成立しているから一筋縄ではいかない&それが当たり前になりすぎて常識ということにされている)から同時多発的に映画や小説などの表現で描かれて出てきているのだろう。

ハムナプトラ』で一躍人気俳優となったフレイザーは薬物など様々なトラブルで表舞台から消えていたが、今作でアカデミー賞主演男優賞を受賞して復活した。A24制作『エブリシング・エブリウェア・オールアットワンス』でウェイモンドを演じたキー・ホイ・クァン助演男優賞を受賞して輝かしい復帰を果たした。今年のアカデミー賞はアジア系の台頭と復活劇が制した。とてもわかりやすい話になった(なってしまった)。
『ザ・ホエール』は予告などでも謳っているが「最後の七日間」の話であり、フレイザー演じるチャーリーは死ぬ、そしてそれを演じきったフレイザーは役柄として一度死んだことで蘇ったと言えるだろう。英雄神話構造では英雄は一度(象徴的に)死ぬ、それを「鯨の胎内」に入るという。そこから出て現世に帰還したものは王となる。だから、フレイザーの復活劇はあまりにも物語として王道パターンであり、誰にとってもわかりやすい。そのことはとても素晴らしくて危険だ、とも思う。

14時から1時間ちょっとオンラインでライティング仕事の二週間ごとのミーティングをやる。提出した原稿などが思ったよりも先方に好評だったみたいでよかった。今まで自分の連載も含めて書いたものに対してほとんど褒められてこなかった(そもそも読まなれてなかったので感想もほぼなかった)ので、仕事で書いたものによい反応をしてもらえるのは非常に精神的にも助かるしやる気もでる。この状態のまま最後までしっかり〆切を守りながら相手の求めるものを書いていければと思う。

終わってから別のライティング作業の続きをする。こちらはまだ余裕があるけど、進めておかないと急に大変になるだろうから、早めに終わらしておきたい。

 

4月10日

 書き手を志す人にとって、書き手に書き手として遇されることほど大きな喜びはない。 
 書き手になるには、書き手になれると信じて書くほかない。誰かと比べ、秀でている必 要はないが、言葉を紡ぐ自分を信頼しなくてはならない。自信とはそういうものだろう。 さらにいえば、生み出すべき言葉が、己れの内にすでにあることを信じなくてはならない。ただ、そのときに、自分以外の誰かが、書く人になり得る萌芽を見出してくれていたら、その道は、ずっとはっきりとした、確かなものになるだろう。
 あのとき、加賀が語ってくれた言葉を受け止めていたのは、二十歳の自分ではなかった。それから幾つかの耐えがたいと思われた出来事を経て、それでも言葉を杖にして立ち上がるほかなかった内なる書き手だった。あれだけ熱量ある言葉を、意味あるものにできる可能性が内在する。加賀との対話は、そうした未知なる自分に気づかせてくれた。何か胸に熱いものを宿したまま、部屋に戻り、母に興奮気味に作家との対話をめぐって話した のを覚えている。
 もちろん、あのとき、そう感じたのではない。それから四半世紀以上の時間を経て、イエスの生涯を描いた本が刊行された際、加賀がその書評を書いてくれたのを読んだとき、それまで気が付かなかった精神の地下茎のようなものを一気に了解した。
 精神は、しばしば花に喩えられる。たしかにある人の言葉が契機になって、何かが開花する、ということはある。だが、花が咲くためには、すでに茎が育っていなくてはならな い。種子のような存在が、ある衝撃を受ける。そこで起こる変化は、根を張ることなのである。

若松英輔著『藍色の福音』P161-162

昨日寝る前に『藍色の福音』を読んでいてメモしておきたくなった部分。
目に見える花が咲く前に、眼には見えない地下で根が張らないといけない、そのためには茎も育たないといけない。「精神の地下茎」という言葉はわかるような気がする。僕の中に沈んでいった、いろんな人たちからかけてもらった言葉がそういうものの一部になっているのだろう。

寝て起きる時になんらかの夢を見ていた。父が出てきたような気がする。父が運転する軽トラに乗っていたような、気がする。たぶん、見知っている四角い空間、助手席から見える景色、軽トラに乗ってどこに向かっていたのか、何をしようとしていたのかは思い出せない。ただ、父が出てきたのは思い当たることがあった。
祖母の兄の初生鑑別師だった新市さんについて去年の夏に父にアンケートを書いてもらった。彼は20代中頃に貯めたお金でヨーロッパに行きアルプス山脈などに行った後で北アイルランドに住んでいた叔父を尋ねていき、そこで一ヶ月以上過ごしていた。僕が調べたことの裏をとることも含めて父にいろいろ質問をして書いてもらった。去年の10月頃に帰った時に「あれは書いとるんか」と言われた。気にはなっているのは声の感じでわかった。
僕はそのことについてノンフィクションで書くべきか、フィクションにしてしまうか、毎回変えてしまう。何かの賞に出すスケジュールを組めば自ずと〆切ができる。そして、毎回これはノンフィクションよりもフィクションに、いやフィクションよりノンフィクションにと揺れてしまって素材はあるのに書けずにいる。
『藍色の福音』を読んでいく中で、なぜか父が「あれは書いとるんか」と言ったことを思い出した瞬間があった。たぶん、そのことで夢に父が出てきたのだろうし、軽トラ以外の車もあったけど、わりと小回りが効くという理由で実家に帰った時に福山駅に迎えにきてもらう時や送ってもらう時には軽トラに乗せてもらうことが多かったから、それが夢にも出てきたのだと思う。早く書けって言われている気がした。

起きてから可燃ゴミを捨てに行くと少し先のゴミ集積所のところに空の卵パックケースが道路に転がっていて、その近くには割れたいくつかの卵が広がっていた。車に轢かれたりして黄身が広がっていく感じで道路が汚れていた。
昨日も昭和女子大学近くの歩道橋を歩いていると空の卵パックケースが転がっていて、その先の階段でいくつかの卵が割れていた。西友とかでは卵はかなり品薄になっている。こうやって路上で見るというのは品薄になっていて、特売みたいに普段の高騰している価格よりも安い値段で出したものを何パックか買ったけど賞味期限が来て食べられなくなって捨てたものだったりが散乱しているということなんだろうか。初生鑑別師と鶏卵は繋がる。これは偶然か必然か、あるいは。

リモートワークを始める。カーテンを開けて採光していると干している洗濯物が普段よりも強く揺れている。気温も暖かいみたいなので昼過ぎに洗濯物を取り込んで、次の洗濯物を洗って干した。雨が続いていたからこうやって洗濯できるととてもいい気持ちになる。
仕事が終わる頃に早めにスケジュールを決めたいインタビューの日時が決まる。今月は珍しく、今やっているウェブサイト関連で2件出版社に行ってお話を聞くことになった。個人でやっているライティング仕事も引き続き月に一回は出版社に行って話を聞くので、合わせると3つある。
問題は文字起こしなんだけど、機械やAIには今の所頼っていないので自分で最初から聴き直して文字起こししたものから構成文章を作成するので時間は多少かかる。でも、最初から聴き直しているほうが構成する時にやりやすい。
AIとかである程度は文字起こしできるみたいだし、誤字とか間違いも少ないからそこを修正すれば使えるとは聞くのだけど、構成の時にそれで自分は上手くできなそうな気がしてしまう。仕事って早すぎても遅すぎてもいけないと思っているので、自分で文字起こしするのが個人的にはその中間に入れる気がしている。

先々日の『群像』と先日の『文藝』で古川日出男さんの連載を読んで自分が感じたことを古川さんにメールしていた。やはり、この日記でも書いているように大江健三郎さんのことも書いた。夕方過ぎに古川さんから返信があった。
福島に行かれていることはTwitterにも書かれていたことはその後気づいたが、僕へのメールにはそのあとに向かった場所のことが書かれていて、それは『ゼロエフ』に関するところだったから、僕に伝えてくれたのがわかってうれしかった。

小島ケイタニーラブ - フォークダンス 


仕事が終わって風呂に入ってから、今日まで期間限定配信されている『ラジオ朗読劇「銀河鉄道の夜」』の3回分を聴いた。2回は聴いているこの朗読劇を改めて聴いてみると皆さんの声と音楽が心地よく、優しさにみちていると改めて感じられた。

 

4月11日
寒くて目が覚めて、8時ぐらいから作業開始。9時前に近所のセブンイレブンに朝食のパンを買いに行く。
お店の入り口付近で僕とは反対側から歩いてきた杖をついているおばあさんと目があって会釈をしたら、「ちょっと手伝ってもらえますか」と手を出された。お店の入り口はちょっと傾斜になっていて、おそらく足腰が悪いおばあさんからすると僕からするとどうということもない角度がきついのだとわかった。右手で出された手を握って、左手で背中の方を支える形でお店の入り口に誘導した。お礼を言われたので「どういたしまして」と言ってパンのコーナーに向かって会計をして出る時に見たらおばあさんはカゴを持って店内をゆっくり歩いていた。
おばあさんの言い方がすごく感じよかった。お店にははじめて来た感じではなかったから、何度か僕みたいにお店に入るタイミングが一緒の人に声をかけているのだと思うけど、見ず知らずの人にお願いをする言い方とかそういうものが「申し訳ない」っていうのも強くないし、図々しいわけでもない。その感じがナチュラルに聞こえてきて、これなら言われた方も手を貸しやすいなって思った。おばあさんの手があたたかいのがそのあとも残っていた

 『木島日記』復活!『木島日記もどき開口』は柳田國男vs.折口信夫の「仕分け」バトルです【前編】【後編】

6年前にKADOKAWA版が刊行された時に大塚英志さんに話を伺ったインタビュー。久しぶりに読んでみてもけっこうおもしろい内容なんだよなあ。
星海社から刊行される『木島日記もどき開口』の上下巻は二冊で5000円を越える。刷り数もあるだろうが、紙自体の価格も上がっているだろうから、ファンアイテム的なところも出てきている。この価格帯だと前からの僕のような大塚英志ファンなら手を出すだろうが、新規はかなり難しくなってくる。


ランチ友達でもある杉山さんと今年最初のランチを下北沢のアンジャリで。僕はカレー2種類(エビカレー&サンバル)を頼んでいただいた。
サンバルのほうはサツマイモが入っていてすごく美味しかった。量はそんなに多くはないけど、ご飯のほうにあるものを混ぜてルーと一緒に食べると味変みたいな感じになるので、何パターンかの味も食べれてよかった。


カレーを食べたあとにボーナストラックに移動して入り口のドーナッツ屋でそれぞれドーナッツとドリンクをテイクアウトして、共有の飲食スペースに。
3時間ぐらいちょうどいい気温と日差しの中でいろいろと話をした。あっという間に時間が過ぎて夕方になったので下北沢で解散。
時折、こうやって食べたり飲んだりして話ができる時間を持てるはうれしい。わりと自由な時間で仕事をしているからできることではあるけど、同世代と思っていることや近況を話し合えるのはやっぱり大事だなって思う。

 

4月12日
リモートワークが始まる前にちょっとライティング作業の資料読み。リモートのWebサイトスタッフ仕事は今度インタビューに行く諸々の調整とか発注関係をやる。二転三転したけど、とりあえず日時が決まって、一緒に行って撮影してもらう人にもスケジュールを調整してもらって発注書を作って送付とか、自分でいうのもなんだけどちゃんとしていると思う。
これまで仕事をしてきた出版社関係でこんな感じで発注をちゃんとしているところはない。というわけで出版社と仕事をするとそのことがわかっていないので、日時とかの変更とか言われたら(発注関係の)スケジュール感が!と思うことが出てくる。結局、仕事とは諸々の調整なのかとも思ったりする。

あののオールナイトニッポン0(ZERO) | 2023/04/11/火  27:00-28:30 

仕事中はずっとradikoでラジオを聴いていて、水曜日は火曜深夜の番組を流している。『アルコ&ピース D.C.GARAGE』『JUNK 爆笑問題カーボーイ』『星野源オールナイトニッポン』と聴いてから『あののオールナイトニッポン0』を聴いたら最初にかかった曲がgroup_inouだった!
番組ジングルがゆらゆら帝国だし、あのちゃんの曲以外で流れたのが先週はandymoriにZAZENBOYS、今週はgroup_inouくるりだった。あのちゃんのセレクトにしては年齢がちょっと上な気もするから、ディレクターチョイスなのか、あまりにもドンピシャなセレクト。

group_inou / MAYBE (LIVE)


放送でgroup_inou『EYE』が流れたのはほんとうにうれしかった。 心のベスト10の3位以内には『MAYBE』がいつも入っている。僕のゼロ年代の大事な一曲。


休憩中に散歩と昼飯を買いに出た時に緑道沿いを歩いていたら猫がいた。毛並みもいいしそこそこ大きいから飼い猫っぽい気がする(地域猫の印的な不妊治療後の耳のカットが見当たらなかったし、雄猫はそんなにいないと聞いたことがあるし)。ずっと見ていても逃げなかったので写真を撮った。

仕事が終わってから15日〆切の応募する作品を書き進める。タイトル『遡行』にしているけど、この前寝起きに「金色の光の中、無色に見える尿をもらした」という言葉が浮かんできて、なんか小説の一文に使えるかなと思った。そこにもうちょっと言葉を足して、『完璧な金色の光の中、無色透明に見える尿をもらした』というのを作品のタイトルにするのもありかなって。
僕としては村上春樹さんの短編『4月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについて』のタイトルに近い気がした。「完璧な金色の光の中、無色透明に見える尿をもらした」だけの一文だと佐藤泰志さんぽいかなって。書き終えてしっくりきたらこの長いほうにするかもしれない。

 

4月13日
巨大な蛇を夢で見た。
何かの部屋のような四角い場所で、でも外側から中が見えるような感じだったから舞台のセットのようなところ。そこには高校時代の友人がおりタバコを売っていたのか上半身を窓の音に出していた。彼が北側の壁のほうだとすると僕は西側の壁近くのソファかなにかに座っていた。
友人がタバコを吸っている姿は窓ガラスから見える。その上半身の少し先に木があって彼がタバコを吸っていない手を伸ばした。木にはなにか細長い紐のようなものが巻き付いていて動いていた。僕はそこが蛇だと認識できた。彼は気にせずに蛇を掴んで部屋の中に入れて、見せようとしてきた。
僕の視線はソファに座って彼を見ているものと、その部屋自体を斜め上の上空から見ている神視点の二つを行き来していた。彼が蛇を部屋の中に入れるとその普通のサイズだった蛇が一瞬でアナコンダぐらいの大きさに変わった。友人はそのことには気づいていないのかそのままタバコを吸っていた。もしかするとアナコンダサイズに見えているのは僕だけかもしれない、と思った。そして、目が覚めた。
蛇を夢で見るのは吉兆というかわりといいことだみたいなことを聞いたことはあるが、蛇の色も覚えていないし、この状況はなんなんのかよくわからない。二つの視線と蛇の大きさが変わったことが、なんらかの予知夢的なことがあるのか、僕の無意識にあるものをわかりやすくしているのか、なんなんだろう。


作業を開始してから10時になったので駅前のツタヤの本屋で今日発売の村上春樹著『街とその不確かな壁』を買ってきた。かなり積んであったのを見て祭り感はあった。土日で集中して読む時間は取れそうにないので、今月末には読めると思う。
原稿用紙1200枚と帯の後ろにあった。このぐらいの太さの本がいい。古川さんの長編は大抵原稿用紙1000枚以上あるので、このぐらいの長さが僕からすると長編だなっていうサイズになっているところがある(あきらかに基準がおかしくなっているが)。
W村上といえば、村上龍村上春樹の群像デビュー組、W春樹といえば、角川春樹村上春樹角川春樹はメディアミックスによって角川書店を作り替えた(メディアミックスを加速させた)ことで出版の歴史において重要な人物。村上春樹は、大江健三郎三島由紀夫と並ぶ、日本の文壇からは距離を取りながら世界的に評価された孤高の小説家のラインにいると思う。海外で日本文学の話をするならこの3人が軸になる。

二代目角川書店社長だった角川春樹は、初代だった父の角川源義柳田國男折口信夫から教えを受けた国文学を学んだ人であり、春樹の名前は島崎藤村の本名である島崎春樹から取られている。
村上春樹の父は国語教師であり、二人の春樹は年は10歳も変わらないので父親はおそらく世代が近いので、村上春樹の「春樹」も国語教師の父が島崎藤村の本名からとった可能性はあるんじゃないかなって思っているのだけど、誰か調べた人はいるのだろうか。
島崎藤村というとロマン主義の詩人、その本名からつけられた角川春樹村上春樹もそういう流れがあったりしないかな。田山花袋は詩人時代からの友人だった柳田國男から「君はロマンが過ぎる」と言われていたらしい。田山も柳田も藤村藤村と付き合いはあった。
田山花袋の『布団』が自然文学主義の方向性を決めて、私小説の始まりだと言われている(その前にいくつか他の作家のものはあった)が、その流れは村上春樹に確実にあるし、でもロマン主義っぽい気もする。

映画『ドライブ・マイ・カー』が小説家・村上春樹の時代を終わらした感じがしたし、世界的な時代の流れ(Metooなど)もあって村田沙耶香さんや川上未映子さんが「ポストムラカミ」として日本文学に興味ある海外の人から注目されている。
それらのことや村上さん自身の年齢もあるだろうから、昔描いた中編をこうやって書き直そうと思ったのであれば、「ポータブル・ハルキムラカミ」みたいな作品になってるんじゃないかなってちょっと期待している。
僕が生で見たことある村上さんは2015年の福島の郡山で開催された「ただようまなびや」にシークレットゲストで来たとき。カキフライの話をして、『四月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについて』の朗読を聞いた。その短編が収録されている『象の消滅』が春樹入門でいちばんいいテキストじゃないかなって思う。


夕方に作業をやめて、歩いて赤坂見附方面へ。渋谷のタワレコと公園という名前がついているがもはや公園ではない宮下パークを向けて246にぶつかったらそのまま皇居方面にまっすぐ。1時間半ほどで草月ホールに着く。開場まで時間があったので、2月の『MATSURI SESSION』の時同様に豊川稲荷赤坂別院に行ってお参りをした。人はほとんどいなくてちょっと肌寒い感じだったが、心地いい空気だった。
246の上の赤坂御所方面に渡る歩道橋から旅客機が二機飛んでいるのが見えた。


開場時間前に豊川稲荷を出て草月ホールに戻って、電子チケットを見せて中に入る。一回席だが、右側の後方のところだった。会場がそこまで広くないのでそれでも肉眼でかなり見やすい位置だった。
バカリズムライブ『fiction』の初日。バカリズムのライブは今までライブでも映像でも観たことがないのでほんとうに初見という感じ。3月の東京03Creepy Nutsとの武道館ライブを観たこともあって、作家のオークラさんにテレビプロデューサーの佐久間さんという繋がりからテレ東でやっていた「ウレロ」シリーズをparaviで見返していた。
東京03劇団ひとりバカリズム早見あかりというレギュラー陣だった。オークラさんと佐久間さんがラジオで孤高の天才としてバカリズムの話を何度もしていたので、タイミング的にいいかなと思って先行を申し込んだら取れてしまった。
周りの会話を聞いているとかなり常連というか毎回ライブには足を運んでいる人が大半の感じ、年齢層は50代から20代とわりと広くてバラけている、女性の方が多い感じだった。
コントとしては6本あって、幕間にはスクリーンでバカリズムの顔を使ったアニメっぽい動画が流れるという構成になっていた。タイトルにある「フィクション」が通じているテーマであり、最初と最後がつながっている。
最初の時点でバカリズムが一人で二役をやっていき、フィクションとして作った人物とのやりとりをしていく。そこにはフィクションのお約束を守らないバカリズムこと升野英知がいる。そのやりとりは常識やお約束についてのツッコミになっていき、メタフィクションの様相を見せてくる。最終的には一人で何役もすることになるのでセリフを覚えるのが大変だったと終わった後の挨拶で話していた。
「ゾーン」に関するネタがあった。野球選手がバッターボックスでピッチャーが投げる球が止まって見えたり、球の軌道が線になって見えるとか、いろいろとゾーンに入るという言い方がされているが、サラリーマンが「ゾーン」に入った時などのコントだった。
僕はこれが正直おもしろく感じなかった。それは何年も前に落語家の立川吉笑さんの『ぞおん』という新作落語を見ていて、正直やっていることは近いというのも大きかった。
吉笑さんの落語では主人公の貞吉が奉公先の番頭さんに挨拶にいくが、番頭さんが「ぞおん」に入ってしまい、話が早すぎて何を言っているかわからない。先輩たちから番頭さんが「ぞおん」に入ったら集中力をそいで元に戻せばいいと言われて、それを試みるのだが、というものだった。バカリズムのものはスクリーンにイラストを出しながらセリフなどを言っていくというものだったが、『ぞおん』のほうがおもしろかったし、あの強度にはこのネタは勝るところがないように思えた。
ドラマ『ブラッシュアップライフ』の脚本もあって、今日なんとか仕上がってできましたという話もあったほど、ほんとうにギリギリ初日に間に合ったようだった。ところどころ噛んでいるところもあって、まだ完成形にはなっていないように見えた。
また、最初と最後で繋がっていくメタフィクション構造が微妙にうまくいっていない気がした。あれは演じるのがめちゃくちゃ難しいのだと思う。おそらく四日間で四公演あるから最終日ぐらいに完成するのかもしれない。僕の周りの人たちはかなり笑っていたから、いつもライブ観ている人にはその機微みたいなものを含めてたのしめていたみたい。
幕間のアニメっぽいもののほうが本編のコントよりも僕は笑ってしまっていたから、合う合わないもあるんだけど、「フィクション」というテーマならもっとすごいものになるはずだとおもったし、観に行く前からハードルを上げまくっていたことも影響したのかもしれない。


外苑前駅まで歩いてそこから電車に乗って最寄駅へ。10日ぶりのニコラへ行ってビールとスナップエンドウ塩とレモンとオリーブオイルとサルシッチャとラルドのクロスティーニをいただく。
この数年お会いしていなかったカウンターで何度かご一緒したことあるお客さんが僕の後にこられたので飲みながらいろいろと話をしていたら、閉店間際まで長居してしまった。でも、すごくたのしい夜だった。

 

4月14日

作業を少ししてからリモートワークを開始。昼前には家を出て護国寺駅に行って、講談社で働いている友人と合流して昼ごはんを食べにいった。
最初に行ったお蕎麦屋さんは満席で入れなかったが、そのあとに行った「自然派十割蕎麦Sobaful」というお店で豆乳チーズきのこそばをいただく。そばを食べるようになったのが最近といえば最近で、たいていセブンイレブンのざるそばかいわもとQで食べるぐらいなので、お店でこういうノーマルではないお蕎麦を食べるのは初めてだったかもしれない。ラー油が辛いので混ぜてくださいと言われたのでしっかり混ぜたらほとんど辛さがなくなった。味はマイルドですごく美味しかった。その後、ちょっとお茶をしてから解散。

講談社前で自分の会社の人と合流してから、担当の方に連絡して社内の一室で一時間ちょっとお話を聞かせてもらった。先方の担当者さんが数名いらしたけど、いろいろと話をしてもらえたのでとてもいい話が聞けた。僕一人ではなく会社の人がもう一人来てくれたことでだいぶ雰囲気も変わったと思うので、そちらもありがたかった。
今年3月の誕生月に入ってから護国寺にご縁ができて、今までしたことのない仕事が始まっている。昼の仕事はいつも通りだが、個人のライター仕事に関しては護国寺関連のものが3月から始まったおかげで収入的なことだけでなく、おもしろそうな案件に関わらせてもらっているので生活の面でも精神的にも非常に助かっている。新しいことが始まる時はわりといろんなことがすんなり決まって動き出すものなんだなって実感している。

僕はSNSってまったくやらないですけど、短いセンテンスでどれだけ自分の主張を通すか、明らかにするかというのが文章の特徴だと思うんですよね。

その点、小説はまったく逆で、長い時間性の中で何かを語る、何かを与えるというのが物語です。与えられたものもすぐにロジカルに説明できないものも多くて、何日か何ヶ月か何年か考えてやっとわかることもあるわけですよね。あるいは、10年経って何気なく読み返してみて「あ、こういうことだったのか」と腑に落ちることもあるでしょう。

僕は、そういうものの力を信じたいんですよね。センテンス1つや2つで説得する世界というのはあまり興味がありません。

――そういう、短くて勢いがあるセンテンスが力を持ってしまっている状況に危機感や対抗心はありますか?

でも、そういうものって消えていくんですよ。長い時間で見れば、残るのはそっちじゃないと思う。実のあるものが残ると思いますよ。

だから、そこまで心配はしていません。そういう耳ざわりのいい言葉で動かされてしまう人がいること、それは不安ではありますけど。

SNSが出てきた時は「ここから新しいデモクラシーが生まれるのかな」って期待がありましたよね。でもだんだんそうじゃなくて、パンドラの箱を開けたみたいな感じになってきた。それは怖いと言えば怖いんだけど……。

でも、やっぱり僕は、物語の力を信じています。そこまで悲観的ではないですね。

「残りの人生、いくつ長編を書けるだろう」村上春樹が70歳を超えて考えるようになったこと

「読む」と「書く」の関係は呼吸に似ている。そう感じたのは、本が読めなくなり、文章を書けなくなったときだった。ときおり、心の息がつまるのである。深く吸うためには、深く吐かねばならない。深く書くために必要なのは、語彙の数や技法ではなく、深く読むという対極的な営みであることを認識するのには、それからずいぶん時を経なくてはならなかった。

(中略)

「読む」とは、文字をたよりに意味をくみとることに留まらない。「心を読む」あるいは「空気を読む」というように、目には見えない何かを「読む」というときにも用いられる。しかしよく考えれば「文字を読む」というときでさえ、そこで実際に行われているのは、文字を扉にしながら、意味という不可触なものを感じ取るという営みだ。
 意味を認識することが「読む」ことの真義であるとすれば、人は、じつに長い時間を費やして言葉を読んでいる。ふとしたときに数年前に、あるいは数十年前に手に取った書物の意味が氷解するということがある。あのとき、自分があの本と向き合っていたのは、このときのためだったのかと感じることもあるだろう。

若松英輔著『藍色の福音』P188-P189

帰りの有楽町線半蔵門線の中で村上春樹さんのインタビューを読んだ。若松さんの『藍色の福音』と重なるものがあると感じた。もちろん、このことに関してさまざまな意見があるのもわかる。
も、僕はやっぱり村上さんが言われているように物語の力を信じたいと思う側だし、ツイッターも含めて短いセンテンスのものは瞬発力や爆発力や拡散力も大きいと思うけど、やっぱり残りにくいと思っている。そもそも人間という存在が矛盾に満ちているし、わかりにくい存在なのだからわかりやすさを求めていても限界は早いと思う。
「与えられたものもすぐにロジカルに説明できないものも多くて、何日か何ヶ月か何年か考えてやっとわかることもあるわけですよね。あるいは、10年経って何気なく読み返してみて「あ、こういうことだったのか」と腑に落ちることもあるでしょう」というのは本当にそうだと思うし、簡単に答えを欲しがっていくことは人間的な豊かさを捨てていくことなんじゃないかな。

福島県浜通りの新地町にいて、私は東日本大震災後に、ここを定期的に訪れている。最初の記録は『馬たちよ、それでも光は無垢で』内に書きとどめた。その太平洋岸を、その日は朝から昼まで、たったひとりで歩けた。右膝を少し痛めているので、そこには数時間いたのだけれども、歩いた距離はそれほどでもない。でも、海岸を見て、砂浜を見て、流木を見て、鳥たちの声を聞いて、階段をゆっくりのぼって、階段をゆっくり下りて、同じところもグルグルして、日蔭で休んで、突っ立って、座って、ボウッとして、ということを繰り返していたら、なんだか微笑めた。私はその海岸を、あの巨大な津波が襲った直後の姿からしか、知らない。そうした海岸が、何かは圧倒的に変わり、何かは圧倒的に変わらず、そこにあって、私を受け容れていた。私は微笑んだ後に、ちょっと踊りたいと思って、周囲からは散歩の人も釣り人も、ちょうど消えたところだったので、実際に(右足の膝は庇いながら)踊った。56歳になりながら、俺はこんなふうに踊るんだな、と思った。その事実は驚きだった。でも、やはり、楽しい事実だった。あと30年生きて、86歳になってもここを再訪できたら、手足の先っぽだけでもいい、やっぱり踊ってみたいなと思った。踊るように動かしてみたいなと思った。そういう老人になれるかどうかが、ある〈土地〉と真摯に向きあえるかどうかなんだよな、と思って、ある〈土地〉の時間の幅にも触れあうことなんだよなと思って、たぶん少しは泣いていた。

古川日出男の現在地』「雨にもまけず風にもまけず創りつづけるような、そんな 2023.03.25 – 2023.04.14 福島・東京・埼玉」

先日古川さんから返信が来た際に、新地町に来ていますと書かれていた。僕は『ゼロエフ』の取材の国道6号線を歩いた2020年夏の最初の日にそこを古川さんと田中くんとNHK撮影クルーと新地町の土地に入った。そして、その年の晩秋には古川さんと二人で阿武隈川が宮城湾に注ぐ所まで歩いて、亘理で宿を取ってからその翌日の最終日に宮城県から南下する形で再び新地町に入ってその歩行の旅は終わった。という同じ時間を共有したということがあるから、僕に新地町に来ていると言われたのだと思う。あの町の海岸で古川さんが踊っている姿はリアルに浮かぶ。
86歳の古川さんはきっと新地町で踊っている。真摯に向き合い続けているからこそ、古川さん、いや日出男さんは30年後に土地と時間と共に踊っているだろう。軽やかに優雅に、ミクロからマクロへマクロからミクロへ、存在や可能性が集結して分散して、土地の記憶と溶け合って風と共に舞う、景色が見えるはずだ。

 それにしても「もどき」とか「語り直し」などと書いていて改めて思い出したのが、小説『木島』『北神』の趣向の種である。
 二十年以上前、自作のノベライズという形で小説を書きはじめたとき、ぼくが下敷きというか様々な借用のソースとしたのが大江健三郎だった。小説『サイコ』の方は大江公彦、つまり大江健三郎三島由紀夫の本名公威からとった「公彦」という語り部が登場する。
 『摩陀羅天使篇』ではあからさまに大江光そっくりの青年が森の王として登場する。

 それらは、ぼくらの年代がおよそ自覚的に読み始めた小説が、当り前のように大江であったという時代であったが故に許された遊びで、気がついた読者も苦笑いしてやり過ごしてくれれば済んだ。

 しかし、この『もどき開口』を改めて読み直した時、ぼくが下敷きとまでいかなくともお手本として常に意識していたのが大江の『万延元年のフットボール』『同時代ゲーム』『M/Tとフシギの森』の三作であることを今更、痛感した。これらは一つ一つの作品の中で複数の時に矛盾する神話が語り直され、つまり、もどかれ、そして、この三作自体が前作の語り直し=もどきとしてそれぞれある。その関係を「バトル」と言うとさすが気が引けるが、神話や儀礼は最初にあった出来事の反復であり、それがレイヤーの如く重なり共振していくという構成になっている。

 それを真似できるとは思わなかったが、物語と物語がバトルとまでいかなくとも拮抗し、軋み、時には砕けもするような小説を書いてみたい、という思いつきがかつてぼくの中にあった。
 そんなことを告白するのはもう文学にも大江についても書くことはないと随分昔、大江の戦後文学の本も大半を処分してしまったにも拘わらず、大江の死によってついあれこれと思い出したからで、他人から指摘される前に告白しておく。
 中上健次村上春樹もみんな最初期に「大江」をうっかりやってしまうのだが、無論彼らと比較にもならないぼくもまた「やらかして」しまったのが「もどき開口」である。

 そういう時代の人間の書いた小説である。

『木島日記 もどき開口』著者解題/大塚英志

今月末に星海社から刊行される『木島日記 もどき開口』についての大塚さんの文章を仕事が終わってから読んだ。
今月の1日に書いたのが大江さんが亡くなったことに関して、『M/Tと森のフシギの物語』と『摩駝羅 天使篇』について書いているので、半月毎に区切っているこの日記のような文章の最後にこの話題が来るのはなんだかとても僕にはしっくりくる。
この4月は大江健三郎という特別な小説家が亡くなったことによるある種の喪失感と彼がやってきたことを直接的にも、僕のように間接的に影響された人間が考えたりする月になった。

 

4月15日
雨が落ちる断続的な音と肌寒さで目覚める。ラヴクラフト著『アウトサイダー』の最後に収録されていた『魔女屋敷で見た夢』を読み終わって、新潮文庫から出ている「クトゥルー神話傑作選」三冊はこれで読み終わった。
前に打ち合わせした際に資料として星海社から出ている「新訳クトゥルー神話コレクション」も田辺剛さんのコミカライズした漫画と一緒にもらっていたので小説としては残り3冊は家にある。


H・P・ラヴクラフト著/森瀬繚訳『クトゥルーの呼び声 新訳クトゥルー神話コレクション 1』&『未知なるカダスを夢に求めて 新訳クトゥルー神話コレクション 4』&『宇宙の彼方の色 新訳クトゥルー神話コレクション 5』とあり、新潮文庫で読んでいたものも多数収録されていて、新訳なのでおそらく読みやすさも増しているのだと思う。2と3が抜けているのでそちらは一冊めを読んでよかったら自分で購入するのもいいかもしれない。
この所、眠りが浅くて夢を見るのはラヴクラフトの一連の作品を読んでいるせいじゃないかなと思ったりするのは、内容が内容だから。「クトゥルフ神話」とも「クトゥルー神話」とも呼び方も違うところがあったりするこの一連の偽史というか神話体系はアニメになったり、ドラマや映画のモチーフになったりしていまだに現役というか、より神話としての物語性を増しているようなところがある。その意味ではなんというかネットっぽいし、インターネットが最初に目指した仮想現実的なものと親和性も高いのかもしれない。


午後からは家にこもって本日中〆切の作業をするので、本を読み終わってから昼ごはんの材料を買いにオオゼキに向かった。家から徒歩数秒のマンションの駐車場スペースだったところをこの数日工事をしていると思ったら、コインランドリーができあがっていた。もう少ししたら稼働するかな。雨の日とか洗濯物が乾かない時にはここの乾燥機を使うのはありだろうな、ちょっと助かるかもしれない。
ダニエルズ監督『エブリシング・エブリウェア・オールアットワンス』を3回観たことで、その舞台となったコインランドリーが家の近くにできると僕の中のなにかが物質化して現れた、みたいなちょっととんでもなことも想像してしまう。

『夜明けのラヴィット!』が早朝からスタートして、Tverで配信してくれるのでテレビがなくても見れるのでうれしい。
「令和の笑っていいとも!」とも言われる「ラヴィット」だけど、そもそも「笑っていいとも!」をリアルタイムで見ていて知っている時点でほとんど中年だし、今の二十代前半より下は見ていたとしても幼すぎてほとんど覚えていないはずだ。だから、その例えすら伝わらないのだろうな。
「令和のラヴィット」としてゆるやかに長く続いて欲しい。基本的にお昼過ぎに配信される長すぎるオープニングと19時以降に配信される本編は月曜から金曜日までたのしみに見ている。

【速報】岸田総理の演説会場周辺で爆発音 発煙筒を投げたとみられる人物を拘束 岸田総理は直ちに避難し無事 和歌山 雑賀崎漁港

昼ごはんを食べていたら、岸田総理の演説中に何者かが爆発物を投げたというニュース速報が出た。テロリズムは民主主義の国幹を揺るがすものなので許すことはできない。だが、安倍元首相の殺害によって明らかになった統一教会との関係性について自民党ははっきり言ってしまえば何もしていない。国民が忘れるのを待っているだけだ。
北朝鮮からのミサイルが飛ぶ時期や回数に関しても統一教会マネーだという話はあるし、だとすれば自作自演であっただけだ。その辺りのことに関して自民党はなんら責任も取っていないし、変わるつもりはないのだろう、というのはわかる。

テロはダメであるというのは大前提だが、今回の発煙等を投げた犯人は動画や画像を見ると男性に見えるが、彼もまた統一教会の二世とか被害者だった場合、自民党はまた揺るがされる可能性が出てくる。もちろん、犯人にそういう動機はなくて他の理由で自民党を許せないなどの可能性もあるが、安倍元種首相にしろ岸田首相にしろ、二代続けて総理大臣が襲撃されるということ自体が異常な状況であり、犯人の思想や動機はなんらかあるにしてもそういう国を作ってしまった政治家たちに責任がないとはさすがにいえないと思う。
「平成」という時代が「大正」ぽいなと思ったことは何度かあるが、「令和」が「昭和」と重なるのはやはり、戦争の影がちらつくことテロリズムの問題などがあるからだ。
テロは模倣犯を生んでしまう、連鎖してしまう。今回のことで危惧するのは今の人権問題などについてまったく真剣に取り組むようには見えない政権与党がメインで政策を作るような国家がかつての治安維持法のようなことを推し進めてしまう可能性を高めてしまうことだ。より不健全な自由のない社会に進む可能性が出てきてしまう。
それを監視するのも主権者である国民の責任であり、選挙における投票なのだけど、どう考えても今の状況では自民党以外の政党が政権与党になれる可能性がほぼなく、維新のようなポピュリズム政権が支持されるのも危ないし、結局、まともな選択肢(投票先)がないという話になって堂々巡りしてしまう。もちろん、そんな風に選択肢を狭めたのは僕たち国民の問題なのだけど。
自分が嫌いなものや理解できないものへの攻撃的な態度や行動や言動に対して、僕たち国民の多くだけでなく政府がしっかりと批判することなく、スルーしてきたことで加速させてしまい、尚且つこのような形でどんどん表面化しているようにも感じる。人に対して粗雑な扱いをしてしまう、しても批判されない社会というのが僕の今住んでいる場所であるということを認識することから始めるしかない。僕ら個人がまず人に優しくしようと思うことが大事だし、もちろん自分を大事にしないといけない。

Mukai Shutoku Acoustic & Electric - 自問自答 3.13 2022 



今回はこの曲でおわかれです。
クラムボン「ピリオドとプレリュード」 Music Video