Spiral Fiction Note’s diary

物書き&Webサイト編集スタッフ。

Spiral Fiction Note’s 日記(2022年10月24日〜2022年11月23日)

先月の日記(9月24日から10月23日分)


10月24日

木下龍也著『オールアラウンドユー』を読む。現代短歌の旗手の中でも『情熱大陸』にも出たりと代表的な若手の歌人であり、トップランナーとして短歌を引っ張っていっている感じがしている人。買ったまま読んでいなかったので、読んでみた。
掲載されている短歌全体的に色気がある。穂村弘さんにも感じる色気、この感じはなんというかいわゆるモテる人が持つ匂いとかしぐさみたいなもの、繊細さといたずら心があって母性本能をくすぐるようなものだとそうではない側の人間としては感じるものだ。ようするにたいていの男性からするとうらやましい、と思えるものが短歌から溢れている。と思えた。
男女関係なく現代短歌はツイッターなどとの相性の良さもあって、歌集もたくさん出るようになっているし注目もされている。Wikipediaを見ると木下さんは穂村弘さんの歌集を読んだことがきっかけで作歌を始めたとあった。そう考えると納得できるところもある。
上の世代を代表する歌人穂村弘さんで、彼の影響を受けている木下龍也さんが今注目されているというのはとてもいい流れと循環のサイクルだ。そして、木下さんの歌集を読んだ人がまた作歌をはじめて短歌の世界が豊かにつながって広がっていく。木下さんも穂村さんのようにエッセイなども書かれていくのだろうか、それも読んでみたい。

 

――渡辺さんがよくお仕事をされていたテレビ局も……ということですね。

渡辺 ただ、大組織も一枚岩ではないので、中には「これは絶対におかしい」と感じてなんとかしようともがいている方たちも確実にいらっしゃるんですよ。そういう方がたまたま私のところに来てくださったことが、近年の私の脚本の傾向につながっていると思います。

――佐野Pが最初に渡辺さんとお会いしたのが2016年ということは、『WW』や『ここぼく』とほぼ同時期に『エルピス』の企画開発も始まっていたということですか?

渡辺 そうですね。だからその……ちょうど安倍政権の絶頂期みたいなときですよね。当時、政権与党の批判が言えなくなっている萎縮した空気を感じていました。昔は、総理大臣や政治家の悪口なんてみんな平気で言っていたし、新聞にもそういう風刺漫画が普通に載っていたじゃないですか。それがこの10年くらいで、誰も言わないというか言っちゃいけないような風潮になって、それがものすごく怖かったんです。

――常にクオリティの高い作品を書かれる渡辺さんの、脚本の書き方が気になっています。以前、どこかのインタビューで「頭の中にファイルがどこからか届き、それを読み込んでいく」イメージで書かれるとおっしゃっていて、なんだそれは! とびっくりしました。

渡辺 そうなんですよ(笑)

――そのファイルが届くために、まずは登場人物の履歴書を綿密に考えたり、人物相関図を掘り下げたりはされるんですか?

渡辺 掘り下げるというより、今回の『エルピス』なら、キャスティングがまだ全然決まっていない段階から、佐野さんと私の間で主人公は長澤まさみさんで思い浮かんでいて。じゃあ、長澤さんの周りに誰と誰と誰がいて、どんな関係性でどんなことが起きたら面白いだろう、というイメージを最初にひたすら膨らませます。

なんというか、面白いことが起きる配置というかバランスみたいなものがあるんですよ。それを考えて考えて、あるとき「いける!」という感覚がカチッとハマったとき、なんか天からファイルが届くんです(笑)。あとはそこで起きていることを、ただ傍観者として書き留めていく、という作業ですね。

「リスクが高い」とどこからも断られた…ドラマ『エルピス』が実現に至るまで 脚本家・渡辺あや 1万字インタビューより

渡辺 私は人を傷つけない表現なんてないんじゃないかと思っています。しかし今、リスクに対して制作側が過敏になり、傷は非常に避けられる風潮があると感じています。今回も私と佐野さんは最後の最後まで議論を重ねていきました。佐野さんはプロデューサーとして作品や役者さんのことを守らなくてはいけない立場にあります。でも私は、今の社会の中で人間の業を肯定したり、受容できる場はエンタメぐらいだと思っています。報道やドキュメンタリーでは無理でも、ドラマや映画ならそれは描ける。人間って、そもそも都合の悪い生き物だと思うんですよ。

「途中で怖くなってしまったようです」 「エルピス」脚本・渡辺あやが明かす 民放で社会派ドラマが実現しない理由より

今夜からフジテレビで放送開始のドラマ『エルピス』の脚本を手がけている渡辺あやさんのインタビュー記事が公開されていた。
以前にNHKで放送された『ワンダーウォール』(のちに劇場版が公開)と『今ここにある危機とぼくの好感度について』の二作は『エルピス』に繋がっているのがよくわかる。あの二作品は今の日本だけではなく、世界中で起きていることを描いている作品だった。
もちろんインタビューでも言われているように巨大なテレビ局の中でもさまざまな意見や利害関係や考え方、政権との関わりがあり、一筋縄ではいかない。その二作品は大学を舞台にしていたが、今回はそれがテレビ局になっているバージョンとも言えるようだ。
ほんとうにたのしみでしかない作品。TVerでリアルタイムで見たいけど、明日は久しぶりに出社して他社にインタビュー取材で伺うのであまり目が冴えても、頭が冴えても支障が出そうなので明日以降のたのしみにしたい。まあ、放送後にTwitterでいろんな反響が出るだろうけど、そこもスルーしておかないと。

フジテレビ『silent』

各所で話題になっているドラマ『silent』の第一話をようやく見る。三話まではTVerで配信されているので気になっていた。
泣ける恋愛ものを今の自分が見てハマるだろうか、とか思っていたのだが、夏帆さんも出演しているらしいと知ってちょっと興味が沸いた。なるほど、僕らの世代でいうと『愛していると言ってくれ』にちょっと近い感じだ。
主人公の青羽紬(川口春奈)と高校時代の元彼である佐倉想(目黒蓮)を中心に描くドラマだが、高校卒業後に想から急に振られてしまった紬。東京に上京してタワレコでバイトをしている彼女は同級生だった戸川湊斗(鈴鹿央士)と付き合っている。紬がある日、電車で想を見かける。そこから物語は始まっていくのだが、という話。

佐倉想は高校を卒業するあたりから耳に違和感があり、現在では難聴になっていて耳が聞こえない。想は恋人のような桃野奈々と一緒に過ごしていることが多いが彼女も聾者であり、二人は手話でやりとりをしているのが中盤以降にわかる。
一話の最後では想を見つけた紬が会えなくなってからの思いを言葉で彼にぶつけるものの、耳の聞こえない彼は手話で「うるさい、聞こえない」と伝える。その手話を彼女がわかるはずもなく、かつての恋人同士だった二人だが今は会話すらできない状態になっているというラストで終わった。
ああ、これは確かに泣いてしまう。伝えようとしても伝えることができず、それを受ける側もその手段を失ってしまっている。もう、届かないのだということはせつなく、かなしく、いたい。それが一話のラストシーンならば、この先どうなっていくのか、多くの人が次回以降を期待するし、話題になるもわかる。

冒頭での付き合い始めた際のクリスマスでお互いにあげたのがイヤフォンで色違いみたいな件が映画『花束みたいな恋をした』と同じじゃんって思ったけど、そういう人はわりといるポピュラーなことなのだろう。まあ、音楽好きだったカップル(あるいはきっかけが音楽だとか)だし、高校生だから妥当なプレゼントだし。スピッツを想が聴いているシーンがあって、これをきっかけにまた十代や二十代の人たちがスピッツを聴くきっかけになっていくのだろうか、すでにSpotifyなんかではスピッツを知らない世代が新しいファンにとして聴いているのだろうと想像する。
あとは『愛していると言ってくれ』だと榊晃次(豊川悦司)に年の離れた義妹の栞(矢田亜希子)がいたが、『silent』では紬には弟(青羽光:板垣李光人)、想には妹(佐倉萌え:桜田ひより)がいてふたりも高校の同級生であることで繋がっているというのも大事な要素(&設定)になっている。この辺りの人間関係や家族関係によって、想が高校の同級生たちには伝えていなかった(教えていなかった)耳が聞こえなくなったことが別のラインで伝わっていくという展開になっていて、この辺りもすごくわかりやすくていいドラマになっていた。

主人公ではなく相手役の想が難聴になって手話を使っている設定だが、確かに昨今の映像作品では手話を使っているものが増えてきている。映画『コーダ あいのうた』や濱口竜介監督『ドライブ・マイ・カー』(韓国手話)という国際的にも評価の高い映画にも手話は重要な要素として出てきていた。また、古川日出男著『曼陀羅華X』でも主人公の老作家の血の繋がらない息子は聾者であり、手話が二人の会話(コミュニケーション手段)になっていた。これは近年よく言われている「語り(ナラティブ)」ということも強く関係しているだろうし、もちろん手話はボディランゲージでもあるので映像的には映える部分もあるはずだ。
あとはコロナパンデミックによって人々がマスクをして口元が見えなくなったということも影響しているのだろう。冒頭で紬が想の声を聞いてその声が好きになったというところ、そこで彼は言語について話をしていた。世界中にはいろんな言語があると。言語が違えば意思疎通は難しい、そして言葉で話す紬とその声が聞こえずに手話を使っている想はまったく違う言語を使って生活をしている。かつて当たり前にできていたことができなくなってしまっている。言語が違ってしまっている。そういうものを描いている作品なんだと思う。
もちろん、同じ言語だからと言って意思疎通ができるわけではないし、今の世界の状況は敵か味方に別れてしまい、もはや会話が成り立たない。相手の側に歩み寄るということはできなくなっている。そういう意味ではこのドラマは意思疎通についてを今なりのやりかたで描こうとしているのであれば、素晴らしい作品になると思う。とりあえず、四話の放送日前には二話と三話を見よう。

 

10月25日

久しぶりに竹橋駅近くの会社に出社。九段下駅で降りてから十分ほどの距離。さすがに九段下駅から東西線に乗り換えて数分の無駄な乗り換えはしたくない。オフィスは改装工事をしてからははじめて入ったけど、前よりも席は減っている感じだった。まあ、リモートワークの人が増えているし、みんなが出勤するわけではないからちょうどいいのだろう。
とりあえず、十五時から集英社でインタビュー取材の仕事があったのでそれまでオフィスで作業をしていた。会社から歩いて十分ほどの距離にあるので出社したほうがいろいろと楽なこともあった。しかし、普段人がいないところで作業することになれてしまったせいか、たくさん人がいると落ち着かない。
座っていた席の島というか長机というか、そのブロックには同じチームのスタッフの人もいなかったので、ずっとradikoで『JUNK 伊集院光 深夜の馬鹿力』『Creepy Nutsオールナイトニッポン』『フワちゃんのオールナイトニッポン0』を聴きながら作業をしていた。家を出るときは『空気階段の踊り場』を聴いていたので、普段とあまり変わらないといえば変わらない感じで仕事をした。
元々火曜日は朝の仕事がない日だったが、インタビューの日時の候補からこの日がベストだったので休みではなくなったけど、一日分稼げるからいいかって気持ちだった。
もらった候補日の他の日はすでに予定を入れていたが、その一つは相手のスケジュールの問題で延期になっていた。だけど、諸々インタビューに関しては決めたり、お願いすることが多いので、その日に変えることもできなかったけど、この日でよかったんじゃないかなって思った。早めにインタビューできたほうが文字起こしとか構成とかも余裕ができるのはありがたい。


昼休憩の時に神保町駅のほうに歩いて行って、インタビューする際に訪れる住所を一度確認してから、東京堂書店阿部和重著『Ultimate Edition』を購入した。約十年ぶりの短編集らしい、この前に出た長編『ブラック・チェンバー・ミュージック』の舞台は神保町だったので、なんかそこから繋がっている感じもして少し嬉しかった。

いつも記事の写真をお願いしているフォトグラファーさんと集英社の指定されたビル前で待ち合わせしてから受付をして中に入る。今回はお話を聞かせてもらう編集者さんが三名で話を聞くこちらは一名なので同時に文字起こしなどの余裕はまったくなく、ICレコーダーで会話が録音できてなかったら死ぬと思いながら、時折レコーダーのデジタル表示が動いているか確認していた。
最初はリモートインタビューみたいな感じになりそうだったけど、やっぱり対面じゃないとわからないことがある。相手の顔をしっかり見るとか話している空気感とかで話をどう展開するかとか、リモートはその辺りがほんとうに難しいし、なによりも余談がしにくい。
話が横道に逸れていくとそこから本題に関わる話とか意外な部分が聞けることがあるけど、やはりそういう空気にするのは対面でないと初対面では特に難しい。いろいろ聞かせてもらえたので文字起こしをして、そこからどう構成していくかで記事の出来も変わってくるのでしっかりやらないといけない。終わってからは会社に戻らずに九段下駅まで歩いてそこから一本で最寄り駅まで帰った。
久しぶりに出社したけど、バイトスタッフなので時給ということもあるのでリモートならすぐに終わって次の仕事とか移りやすいし、予定があったらすぐに動けるけど出社と退社の移動する時間には時給は発生しないことを考えるとちょっと損したような気持ちにもなってしまう。だから、一回家に帰ってから残りをリモートに切り替えた。これは社員とかだと年棒性とか毎月のサラリーが決まっているからまた違う感覚なのだろうけど、時間で働いていると移動時間ができるだけないほうがいいと思ってしまう。

『接続する柳田國男

太田出版のWebマガジン「OHTABOOKSTAND」で大塚英志さんによる柳田國男に関する連載が始まっていた。しばらく続くようなので追いかけて読んでいきたい。

「BOOKSTAND映画部!」のレビューコーナー「月刊予告編妄想かわら版」2022年11月号が公開されました。11月は『窓辺にて』『土を喰らう十二ヵ月』『ある男』『グリーン・ナイト』を取り上げました。

 

10月26日
仕事の休憩時間を午前中にスライドさせて二週間ぶりに歯医者に行って、前にレーザー治療してもらったところを診てもらう。この期間中に一度歯茎がぷくりと膨らんだこともあり、完治はしてないなとわかっていた。
先生もだいぶよくなったけど完全には治っていないとのことで再びレーザーを照射してもらった。今回は一種類だけだったが、前回の時のような痛みはほとんどなかった。これも菌がほとんどいなくなっているか、活動が弱まっているということなのだろう。
次回も二週間ぐらい経ったらまた診てもらうことになった。レーザーはすぐに治っちゃうから儲からないんだよねって終わったあとに言っていたので、効き目はやはり高いみたい。最初に顎が痛くなった時のことを考えるともう痛みはまったくないと言えるほど治ってきている。だが、また菌が残っていれば歯茎が腫れる可能性もあるので、あと数回二週間置きぐらいにレーザーするならこちらとしては負担がほぼないので助かるのだが。


仕事が終わってから渋谷に出てシネクイントへ。上映中のニック・モラン監督『クリエイション・ストーリーズ 世界の音楽シーンを塗り替えた男』を鑑賞。
水曜日のサービスデーだったこともあるのか、かなりお客さんは入っていた。クリエイション・レコーズのレーベルからデビューしたり、音源を出したバンドのことを考えると僕ら40代以上がどうしても多くなってしまうのは仕方ない。

1990年代のブリットポップ・ムーブメントを牽引し、オアシス、プライマル・スクリームティーンエイジ・ファンクラブマイ・ブラッディ・ヴァレンタインなどを輩出したイギリスの音楽レーベル、クリエイション・レコーズ。その創設者アラン・マッギーの波瀾万丈な人生を映画化。

スコットランド生まれのアランはロックスターを夢見ていたが、保守的な父親と衝突してばかり。ついには故郷を飛び出しロンドンで暮らし始める。仲間と共にクリエイション・レコーズを設立し、トラブル続きのレーベル運営の中、アランは宣伝の才能を開花させていく。次第に人気バンドを輩出する人気レーベルとなるが、その一方、レーベル運営のプレッシャーや家庭問題によって精神的に追い詰められていく・・・

トレインスポッティングダニー・ボイルが製作総指揮を手がけ、同作の原作者アービン・ウェルシュが脚本、同作に出演したユエン・ブレムナーが主演を務めた。監督は『ロック、ストック&トゥー・スモーキング・バレルズ』などの俳優ニック・モラン。(映画.comより)


アラン・マッギーが語る『クリエイション・ストーリーズ』。その音楽革命の裏側、Oasisに関する証言も | CINRA

内容としてはアラン・マッギーと「クリエイション・レコーズ」meets『トレインスポッティング』という映画であり、当時のイギリスにおける文化背景も序盤で強く感じるものとなっていた。映画『トレインスポッティング』に関わっている人たちが作った作品なのでそう見えるのは当然とも言えるし、「トレスポ」好きな人には間違いなくたのしめる一作になっている。
家父長制を絵に描いたような強権的な父に反抗するかのようにデヴィッド・ボウイセックス・ピストルズに魅了されて音楽を始める主人公のアラン。後半では彼の創造性や芸術性があることを後押ししてくれた母の理解があったことがわかり、涙を誘う展開も用意されている。そして、ドラッグによってボロボロになったアランを救ってくれるのは母亡き後は父と妹たちだった。そういう意味での家族についての、父と息子の物語でもある。

ミュージシャンとしてデビューするために友人と故郷のグラスゴーからロンドンに出ることになるアランだが、一緒に行かなかった二つ下の友人がボギーという少年で、彼ものちにロンドンに出てくることになる。アランが作ったレーベル「クリエイション・レコーズ」から音源を出して人気になっていたジーザス&メリーチェインのドラムをボギーはアランから言われてするようになるが、その時点で彼はプライマル・スクリームの活動も行っていた。そう彼はプライマル・スクリームのフロントマンであるボギー・ギレスピーであり、時代を作った「クリエイション・レコーズ」創設者のアラン・マッギーとプライマル・スクリームのボギー・ギレスピーが少年時代から一緒に音楽をしていたということが後の時代を作る一つの要因(可能性)となっており、ロックの歴史のひとつになっていた。
映画としては二時間なのでアランがロサンゼルスでライターの女性にレーベルを畳むまでを宿泊しているホテルのプールサイドでインタビューを受けているという感じで進んでいく。ちょうどそのときは世界中でヒットしてロックスターとなっていたオアシスのライブがアメリカで行われているという時期ということになっていて、それを示すような看板が移動中の車から見えるシーンが出てくる。

アランがグラスゴーからロンドンに出てきてから知り合った仲間とレーベルを立ち上げ、借金と返済を繰り返しながら、いろんなバンドを見つけては世に出していくという歴史を描いているが、そこには音楽と情熱とドラッグがあった。
九十年代のイギリス、ロンドンの音楽シーンというもの、もちろん所属していたバンドたちが売れていくこともあり、大手レーベル(ソニーなど)の傘下にもなっていくのだが、彼らは魂を売り渡すのかどうかという葛藤もあり(そのたりの描写は多くはないが少しはある)。
映画を見ているとインディーレーベルだった「クリエイション・レコーズ」が果たし役割のようなものがわかる。メジャーとインディーの垣根は彼らのレーベルの出現によってかなり無くなっていった。だが、それは同時にインディーでも大ヒットを出して業界で戦える人たち(日本でも出てくることになったが)の出現であり、世界中に広がっていく。だが、現在の世界で考えれば、IT系に多いスタートアップ企業は最終的にはGoogleなどにバイアウトしてしまえば勝ちみたいな流れを考えるとアランたちのパンクスピリットとは真逆なような気がする。

ネットフリックスなどで六話から九話ぐらいの連ドラにすればそれぞれのバンドについて一回ずつぐらいはできそうだし、内容も濃くできた部分はかなりあっただろう。しかし、主役はアランなので彼の人生を彩るものとしてバンドメンバーたちや彼らが様子も描かれている感じになっていた。彼らのバンドストーリーも見たいという気にはなった。作中で出てくるのはジーザス&メリーチェインやプライマル・スクリームだけではなく、マイ・ブラッディ・ヴァレンタインティーンエイジ・ファンクラブやオアシスなどレーベルから世に出ていった有名なバンドばかり。
マイ・ブラッディ・ヴァレンタインがアルバム『ラヴレス』の制作が二年かかり、金もかかりすぎてレーベルが倒産しかけるなどのエピソードも出てくる。そのせいでバンドのリーダーであるケヴィン・シールズとアランたちレーベルの関係が悪化して、マイブラは移籍することになったと言われているが、映画の中ではケヴィンは自分のやりたいことを押し通していく強引さがあり、だからこそ時代に残るバンドでありアルバムを作り上げた。アランたちが被害者のようにも見えなくもないが、どこを主軸にして物語を見るかで全然違う質のものになってくる。これもロックの歴史における一ページである。
母が亡くなったあとにグラスゴーに帰ってロンドンに戻る列車に乗れなかったアラン(この列車に乗れないために間に合わないという件は度々出てくる。実際の話かどうかはわからないが『トレインスポッティング』を感じさせる)は諦めて地元のライブハウスに妹と行くのだが、そこでオアシスのライブを見て感動し契約を結ぶ。そう、偶然の出来事からオアシスというビッグバンドのデビューが決まる。
オアシスのメンバーも実際の彼らとは微妙に似ていないのだけど、ノエルの太々しさと未来を見据えていた感じなどはうまく出ていたと思うし、僕は4thアルバムのツアーからしかオアシスのライブは生で観れていないが、兄弟喧嘩を繰り返し世界で最大級のロックバンドになったオアシスがすでに解散してしまっている現在を知っているものからすれば、彼らの運命が決まったその瞬間を見るだけで涙が出てきてしまった。ここからオアシスの歴史が始まったのだという未来人のような視点からの感動があった。そして、その終わりのことも脳裏に浮かんでいた。

Primal Scream - Loaded (Official Video)




帰り道の東京百貨店前の信号を渡る時に見えた渋谷スクランブルスクエア。毎回夜通るときは思うけど、あれだけちょっと近未来感、悪い意味で『ブレードランナー』的な想像力の中にある建物。

僕がオアシスやレディオヘッドを聴くようになったのは高校からで、同級生の友人が聴いていたのがきっかけだった。いまだに付き合いがあるので観終わったあとにラインで「『クリエイション・ストーリーズすごくよかった!」と送ったら、「ネットじゃボロクソに書いてあったがw」と返ってきた。なんというか、がっかりもした。
二十年以上の友人であり、何度も海外のロックバンドの来日ライブに一緒に行っていたから僕が最初にこの映画の感想を伝えたいのが彼だった。しかし、友人であるはずの僕が観た感想の「よかった」という言葉に対して、「どこがよかったの?」とかではなく、まだ観ていないからといってネットでの感想や反応について書いてくることの意味が正直わからないし、最後の「w」はほんとうに人の気持ちを逆撫でるものだとわかっていないのだろう。
僕ら中年以上のおじさんがSNSなんかで文章の最後に笑いの意味で使う「w」は冷笑系というか、いろんなものを下に見ているような感じがする。僕はそう感じたのが何年も前だったから、そこからはできるだけ使わないように気をつけている。冷笑系によってこの世界が悪くなった部分が確実にある。なんだかやるせない気持ちになったし、会話にはならないなと思ったのでラインを閉じて歩いて家の方に向かって歩いた。

 

10月27日
『エルピス―希望、あるいは災い―』 第1話あらすじ

TVerでやっと『エルピス―希望、あるいは災い―』第一話を見た。映画『ジョゼと虎と魚たち』以降、ほとんどの映画やドラマを見ている渡辺あやさんが脚本を手掛けるドラマ。演出を大根仁さん、プロデューサーに佐野亜裕美さんということも話題になっていたが、エンディングのクレジットを見たら衣装(スタイリング)のところに伊賀大介さんの名前があり、企画のところにはテレ東を退社した上出遼平さんの名前もあった。この企画というのはエンディングの企画・プロデュースということらしい。音楽は大友良英さんで主題歌はSTUTSが音楽プロデュースを手掛ける音楽集団。
もう主役の長澤まさみさん含め役者陣もすごくいいが、スタッフも手練ればかり、各局のドラマやバラエティーで頭角を現していたり、新しいものを作っている人たちは局を変わったり、フリーになったりしながらこうやって集まることで新しいチャレンジをしているわけで、優秀な人たちは今後作品ごとに集まるようになっていく作り方が増えていくターニングポイントの作品にもなりそう。
一番最初に勝海舟役で映画に出ている役者として松尾スズキさんが演じる人物が出てきていきなり笑いそうになってしまったが、彼が眞栄田郷敦演じる岸本に向けて言った言葉が一話の最後に彼の過去と結びついていることがわかるのもうまい展開だった。
冤罪をテーマにしているが、長澤まさみ演じる主人公の浅川と岸本、そして浅川の元カレであり現在は官邸キャップのエース記者の鈴木亮平演じる斎藤というメイン三人の関係性や置かれている状況を見せながら進めていくのだけど、どうなっていくのか先が見たくなる見応えのある展開だった。また、情報バラエティに報道から飛ばされてチーフプロデューサーの村井を岡部たかしさんが、一話で重要な役割を果たし道筋を作ることになるヘアメイクの大山を三浦透子さんが演じている。この辺りの配役もとてもいい。
渡辺あや脚本ドラマだと前作はNHKで放送された『今ここにある危機とぼくの好感度について』は多少コメディというか笑える要素もあったが、今作はかなりシリアスなものになっていく感じがするが、最後まで絶対に見ると思う。しかし、いろいろ展開としては怖い感じになっていきそうな。

ドラマを見終わってからニコラに行ってスコーンとアルヴァーブレンドをいただく。


昼過ぎに熊倉献著『ブランクスペース』1巻から3巻(最終巻)のコミックを買っていたので読み始める。
少し前に親友のイゴっちからオススメされて気になっていたので、一気に読もうと思っていたもの。偶然だが、昼前に散歩がてら買い物で家を出るときにradiko で聴いていた『佐久間宣行のオールナイトニッポン0』(26日深夜に放送された分)でも佐久間さんが今週のオススメのエンタメとして紹介されていた。だから、読むにはベストなタイミングだった。

『ブランクスペース』 #1 緑茶も紅茶も

ある雨の日、女子高生の狛江ショーコは、同級生の片桐スイが不思議な力を持っていることを知る。 ふたりの出逢いをきっかけに、やがて"空白"をめぐる物語が動き出す―――。 デビュー作『春と盆暗』が話題となった新鋭が描く、新たなる奇譚。

主人公のショーコと想像したものを目には見えない「空白」として生み出すことができるスイの物語は、ふとしたことから友達になった二人の日常系のほのぼのした作品かと思いきや、それとは違う方向に動いていく。彼氏が欲しいがいつも振られているショーコはなにかが人より秀でているということもない平凡な女の子。そして、幼い頃からその不思議な能力のことを理解し、誰にも言わないようにしてきたスイ。
スイはクラスの中でイジメられるようになり、その「空白」でナイフなどを作り出し始めてしまう。そのことを察知したショーコは「彼氏を作ろう」と提案する。彼女の能力は思い浮かべたらすぐに形になるのではなく、その材料というか素材をイメージしたものを合体させていくものだった。スイは図書館でいろんな本を借りており、鋼材であったり何かを作る際の素材になるものについて調べていた。文学も好きでいろんな作家の文章や詩人の詩などが作中で引用もされている。

「彼氏」を作るためにはまず人体について把握しないといけないため、スイは解剖学などを学んでいく。だが、工具などは作れても「生命」は素材だけがあってもどうもうまく形を成さない、つまり生命を吹き込めないでいた。だが、スイはほんとうに「テツヤ」という彼氏を作ることに成功してしまう。
残念ながらショーコにはその姿は見えない。テツヤと過ごすことでスイはなんとかイジメなどを耐えることができるようになるのだが、以前に彼女が想像して作ろうとしていた飢えた犬が知らぬ間に「空白」として動き出しており、町に不穏なことが起き始めてしまう。
「空白」として生み出せるようなものはある種のイマジナリーフレンドのようにも見える。だが、人が想像できることは実現できるという言い方もあるが、世界中にはあらゆる人が想像した「なにか」が溢れているはずであり、それはほとんど形になることはない。これは「想像」でありながらも「創造」について描いている作品でもある。

なにかを「創造」して作り上げることの難しさであり、喜びであり、後悔である。作り出したものが創作者を幸せにするとは限らない。だが、目に見えないからほんとうに存在していないとは言えない、という僕らのイメージともこの物語は結びついていく。
この物語にはショーコとスイ以外にも「空白」に関わる人たちがでてくる。すでに亡くなった人が書いた自費出版で一冊だけ存在流小説を読んだ男とその書き手の甥っ子にあたる人物であり、小説に出てくる女性も彼らには見えないが彼らと一緒にコーヒーを飲む席にいるという不思議な状況が起きていく。
最終的には巨大化した凶暴な飢えた犬の「空白」とテツヤやその女性たち「空白」が見えない戦いをすることになる。ショーコは主人公でありながら、不思議な能力はなく、なんとかスイを助けようと奮闘する姿が描かれる。そこには損得もなく、ただ友達だというだけである。学年が変わってからクラスが変わってからはスイがクラスでどんな扱いを受けているのかショーコは知る術がなく、スイもそのことを話さない。それもあって、スイは作り出した「テツヤ」に癒しを求めるようにもなるが、スイにとって目に見える世界に繋ぎ止めてくれる唯一の存在が彼女だとも言える。だから、ガール・ミーツ・ガールの物語と言ってもいいのだろう。
日常系にも見えるちょっとほのぼのしている絵柄だからこそ、この物語は成り立っている感じもする。例えば、『GANTZ』のようなリアルな絵柄ではこの少しふんわりとした世界観は成立しないだろう。リアルさを求めると「空白」で存在しているものが嘘っぽくなってしまう可能性もある。この絵柄だからこそ活きる設定と物語展開だと思える。
三巻で終わるからこそ間伸びしないで描き切れた内容だと思う。やっぱり「想像」と「創造」におけるプラスとマイナスを日常系SFという形で描いている素晴らしい作品だと思った。

 

10月28日
朝からリモートワークで先日のインタビューの文字起こしを進めながら他の作業も並行してやっていた。昼休憩の時に銀行に行って通帳記入と国民年金の支払いに行って、昼食を買いに出た。家から出てすぐの時にradikoで『四千頭身 都築拓紀のサクラバシ919』を聴こうと思って、イヤフォンジャックをスマホ本体に差そうとしたら手元が狂ってスマホが地面に落ちてしまった。そのまま拾ってからイヤフォンを差しこんでラジオを聴きながら駅前に向かった。
途中でスマホをいじろうとしたらメイン画面のよく使うカレンダーアプリのアイコンの下にゴミみたいな黒い点のようなものがあったので指で払おうとしたが取れず、光の加減で画面に逆卍みたいな感じでヒビが入っていた。久しぶりに見たヒビ割れ画面。
黒い点は落ちて地面に当たった時にヒビが入った最初の地点というか箇所であり、わずかに欠けている感じでそこからヒビが上下左右に広がる形になっていた。まあ、パッと見ではわからないぐらいなので放っておけばいいのだが、僕はこうなってしまうと気になってしまって仕方ないのでそのままAmazonの画面から過去に注文したところから再注文でガラスフィルムを頼んだ。
これで何回目かは忘れたが、スマホ本体の画面自体が割れることを考えたらガラスフィルムを買い替えておけばそれが割れても本体が割れる可能性は低くなる。このまま割れたままだと次に落とした時には衝撃がフィルムを通り越して本体の画面に直撃してしまう恐れがある。画面が割れたままでずっと使っている人がいるのを見るけど、そういうのは僕には信じられない。確かに本体画面が割れているとスマホ自体が高価なものだからすぐに機種変更とかできないから若い人は割れたままでも気にしていない(変えられない)人が多い印象だけど、そのヒビ割れはやっぱりそのままでいいということにしてしまうとなにかがこぼれ落ちるような気がしてしまう。さらにボロボロにもっとひどく割れていってしまうという恐怖感がある。


銀行に行ってから買い物をしたあとにトワイライライトに寄って、昨日書店で見て気になっていた小沼理著『1日が長いと感じられる日が、時々でもあるといい』を購入して、店長の熊谷くんとちょっと世間話をした。


家でリモートワークの続きをしていたら、先日アマゾンで頼んでいた阿部和重著『Deluxe Edition』文春文庫版がポストに届いた。今読んでいる『Ultimate Edition』の前に出た短編集だが、これは読んでいなかったので読みたくなったので探したが、わりと前の文庫でいくつかの書店を行ったが見当たらなかったので困った時のアマゾンで探して頼んでいたもの。こちらは文春で今回の短編集の単行本は河出書房から出ている。
阿部作品はデビューした講談社からよく出ていた時期や新潮社からよく出ていた時期などがあり、今は文庫でもなかなか書店で見つからないことが増えてきている。平成に出てきた重要な日本文学を代表する作家だから、作品が電子書籍で読めるのは大切だけど、書籍でもある程度は大きな書店では揃えておいてほしいものだけど。

フジテレビで放送中の『silent』を四話まで見た。今クールは気になるドラマが多いので久しぶりにTVerで何作か見ている。
『エルピス―希望、あるいは災い―』はなんと言っても渡辺あや脚本という時点で見ない理由がない。個人的なことを言えば、かつてのシネクイントで『ジョゼと虎と魚たち』を観て完全に持っていかれてしまったわけだが、その脚本が渡辺さんだった。彼女が岩井俊二監督のオフィシャルサイト「円都通信」内のシナリオ応募コーナー「しな丼」に応募したことでプロデューサーの目に止まり、『ジョゼ』で脚本家デビューしたことを知っていたにもあって、その後名前が変わった「プレイワークス」に僕も応募して一応引っかかって作品を開発するところまでは行った。その後は担当さんとうまく行かずに(僕がいろいろとわかっていなかった)映像化とかには進めなかった。

その後も渡辺あや脚本の映画が公開されれば映画館に観に行っていたし、『天然コケッコー』の素晴らしさとかはmixiにすごく思い入れを持って書いた。映画公開に合わせてNHKの『トップランナー』に渡辺さんがゲスト出演の時には応募して当てて観覧もした。ぐらいには好きな脚本家さんであり、NHKでいちばん最初に脚本を書いた『火の魚』が2009年で、翌年には『その街のこども』がさらにその翌年の2011年には朝ドラ『カーネーション』を手掛けることになった。
僕は初回から最終話まで見た朝ドラは『カーネーション』と宮藤官九郎脚本『あまちゃん』しかない。その後は『ロング・グッドバイ』(レイモンド・チャンドラー原作を元に日本を舞台にしたもの)、『ワンダーウォール』、『ストレンジャー〜上海の芥川龍之介〜』、『今ここにある危機とぼくの好感度について』とNHKで放送されたドラマ脚本を書かれた。
『ワンダーウォール』『今ここにある危機とぼくの好感度について』は大学を舞台にしながらも、安倍政権下になってからの日本社会の縮図のひとつとして大学組織における個人と組織というものを描いていた。そこには見えない透明な壁があり、それに押しつぶされる個人が苦情を言おうとしてもその対応をする者も派遣社員や委託社員であり、怒りや願いは届かないというシステムになっている、というどこにもで起きている構造をしっかりと描いていた。

『エルピス―希望、あるいは災い―』は大学組織からテレビ局に舞台を移して(企画自体は『今ここにある危機とぼくの好感度について』よりも前にあったので、そちらが今作の大学ver.的な部分もある)いることでよりすごいものになるだろうと思っていたけど、一話を見るとやはり画面から目が離せないものになっていた。朝ドラの放送時間帯は朝食や出勤などの準備で見るものだから説明セリフとは言えなくても画面を見ていなくてもわかるものというのがそれまでは当たり前だったものの、『カーネーション』は画面を見ていないとわからない、セリフには頼らないで役者の動きや表情で物語る作品になっていたが、そのことをあらためて思い出した。やっぱり渡辺あや脚本は明らかになにかが違う。そして、それを映像化しようとする者の覚悟が問われているものとなる。
最終回まで確実に見るドラマだなと思ってとりあえず初回は二回見たので二話の前にもう一回見ようと思う。

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『silent』に関しては、僕らの世代でいうと『愛していると言ってくれ』とかを思い出す人が多いのだろうけど、十代二十代の若い世代だけではなくそういう上の世代にもウケているというニュースを見かけた。

LINE、タワレコ、世田谷代田…ドラマ「silent」が“実名”にこだわる理由〈脚本家、プロデューサー・インタビュー〉

このインタビューの中で脚本を手がけている生方さんは「『手話を使う』『川口春奈目黒蓮2人のラブストーリー』という“お題”をもらったところからスタートしました」と答えている。
生方さんが脚本家の坂元裕二さんを尊敬すると答えているのはなんとなくわかる。一話を見ている時に『花束みたいな恋をした』にちょっと近しいものがあるなと思って、プロデューサーとかスタッフがその映画に関わっているのかなと思ったんだけど、坂元さんのドラマ『いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう』には関わっている人たちだった。
最初から「川口春奈目黒蓮」というキャスティングは決まっていてやるならラブストーリーというのはわかる。そこに「手話を使う」プロデューサーが三題噺のようにお題を出したことがたぶん重要なんだと思う。

なぜ手話なんだろうか、ということ。去年公開された『ドライブ・マイ・カー』では韓国手話、今年一月に公開された『コーダ あいのうた』は主人公以外の家族が聾者で家族間のコミュニケーションは手話だった。
曼陀羅華X』として刊行された古川さんの小説のその最初のパートである『曼陀羅華X 1994-2003』は「新潮」2019年10月号に掲載されて、リアルタイムで読んだ時に僕はそこで主人公の老作家とその息子が手話でやりとりをしている場面の描写があったので、これは今言われている「ナラティブ(語り)」ということに関する古川さんとしてのひとつの可能性や方向性を出しているのかなと思った記憶がある。
実際には『曼陀羅華X』はオウム真理教をモデルにしている教団が出てくる。老作家はかつて教団に拉致されて彼らの予言書を書かされており、逃げ出す時に教祖の息子を連れ去って自分の子供として育てていた。生まれたばかりの息子は聾者だった。老作家のガールフレンドは戸籍上は彼の母だが、息子とのやりとりのために二人は手話を覚えて彼にも教えることになったという設定があった。
その頃から手話については少し気になっていたら、『ドライブ・マイ・カー』『コーダ あいのうた』という世界的にも評価された作品で手話が出てきたのでなにか流れがあるのだろうかと考えていた。今年公開になる三宅唱監督で岸井ゆきの主演『ケイコ 目を澄ませて』は耳が聞こえないボクサーの実話をもとに描いた人間ドラマであり、そこに続いていくものになるだろう。そして、タイミング的にも『silent』最終回近くで公開になるはずなので、話題になるんじゃないかな。そもそも前評判がかなりいい映画なので、追い風にはなるだろう。この「手話」というのは確かに「ナラティブ(語り)」ということにも呼応はしているはずだが、おそらく現在のコロナパンデミック下における状況が一番反映しているようにも思える。
この数年僕たちはずっとマスクをしていて相手の口は見えず、自分の口も基本的には他者にはあまり見せなくなっている。同時にSNSにおける分断なども言われているが、同じ言語を話していても会話にならないということが起きてしまっている。もともとそういうことはあったけど可視化されたと言えばそうなのだろうけど。

『silent』の冒頭では高校卒業間近になって耳が聞こえなくなる佐倉想が言語について一年生のあいさつで生徒代表なのか体育館で話しているシーンがある。その声に惹かれた主人公の青羽紬は彼との距離を縮めていき、付き合うことになる。ドラマでも言語のことをあえて言っていると思った。
日本語や英語やさまざまな言語が世界中にはある。それが違うと意思疎通はなかなか難しい。そして、聞こえていた音が聞こえなくなる難聴が発症してしまったため、そのことを知られないために同情されたくないために紬に別れを告げ、同級生たちと連絡を絶った彼が数年後に東京で紬と再会してというドラマである。
紬と想はかつてはなんら問題がなく言葉によって意思疎通ができていた。それが当たり前すぎて疑うことはないものだった。だが、難聴になった彼には彼女の声は届かない。もう共通言語が失われてしまっている。彼は実は声は出せるのだが基本的には家族の前でしか話さない。彼はもともとは聾者ではないから、でも自分の声で話しても自分自身にはその声は聞こえない。だから相手には届いても、それに対して相手が話す言葉は届かない。もちろん作中ではスマホが話した言葉を文章にしてくれるアプリで会話は成り立っている。だが、そこにはどうしても埋められない溝がある。
また、想は生まれつきの聾者ではないので、生まれつきの聾者の人からすれば自分達とは少し違うという感じに見られている。というバリエーションも描かれている。障害を持っていてもそれがいつからなのか、ということでその人が見てきた景色や辛さの度合いは違うし、理解できることとできないことがある。差別される人の中でもそこでさらなる差別や区別は実際には起きてしまう。
そういうことを丁寧に描こうとしていると思えるし、現在の紬の恋人であり、想とも友人だった戸川湊斗の存在もかなり大きい。彼のある種の諦めのようなもの、親友への思いと彼女への思い。自分では彼女は満たされていないのではないかという不安。お似合いだった二人の季節を知っているからこそ、彼女が彼の横にいる時がいちばん笑っていてきれいだということ、それは湊斗にはできないことであると知っている。その彼の気持ちや想いをしっかり一話使ってやっていたのもすごく好感が持てた。僕ら多くの人は湊斗の側だろうし、主人公やヒロインみたいなポジションにはいないことを知ってしまっている。その意味でも湊斗という登場人物がいることは視聴者が感情移入しやすいなと思った。あとはこのまま回が進んで行っても今のところはダークサイドには落ちないかなという気もする。
このドラマは途中で二部とか数年後に飛ばないと大きな展開が作れないような気がするから、今出ている登場人物たちがどうなるかはちょっと想像できないところはあるけど。このまま時間が何年か後とかに進まないようであれば、大きな事件か出来事(『いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう』のスタッフがいるけど、東日本大震災みたいなことが作中に起きるとかではないと思うが)が起きないと難しい気はする。
手話に関してはこのコロナにおける状況が反映されているのだろうし、たぶん幅広い層がこのドラマに惹きつけられるのはシンプルなラブストーリーが見たいという気持ちとこの時代における心情がうまく重なっているからなんだろう。


仕事が終わってから夜は予定をいれていなかったので少し歩きたいと思って蔦屋代官山書店へ。単行本の時に気になっていたけど、読んでいなかった山本文緒著『自転しながら公転する』 の新潮文庫版が出ていたのでとりあえず買ってみた。単行本の時と装幀デザインは同じ写真を使っている。このデザインはとてもいいと思う。山本さんはお亡くなりになってしまったが、僕は作品は読んだことがないのでこの作品から読もうかなと思ったというのもある。


その帰り道で気づいたが、三宿の交差点近くの道路がずっと工事中だったが、工事が終わったらしく、三宿二丁目から淡島通りが繋がっていた。最終的には淡島通りから井の頭線池ノ上駅近くを抜け、東北沢駅前から井の頭通りの大山交差点まで抜ける道路になるらしい。

 

10月29日
Amazonプライムで配信が始まった『仮面ライダーBLACK SUN』を見ながら寝ようかなと思ったけど、気が向いた時にしっかり見ようと思ってやめてradikoでラジオを聴いていたら寝落ちしていた。

私はじつは新作の執筆にも入った。これは小説ではない。しかしながら、私が執筆に臨む時、あらゆる対象は文学的に腑分けされる。というわけで、その新作というのはノンフィクション(=非「小説」)ではあるのだけれども、当然フィクションの力によって駆動されている。私のいまの仕事の状況はとんでもないものであるから、こんな時期に新作を起動させるのは無茶というか、無理無体というかベラボウというか乱暴というか、俺なにやってんだよ死んじゃうじゃんこれじゃあ、なのだが、しかしスタートさせた。起筆後の何日か、私はほとんど歯が折れるかと思った。じつを言うとわたしは過去に、それは具体的には2016年3月の、小説『ミライミライ』の連載第1回の執筆のさなかになのだけれども、ぎりぎりと気合いを入れすぎて前歯を折ったことがある。私はそういう時だけは、他の同業者に、「あんたも歯が折れるぐらい本気で書いてみろよ」と突きつけたい気持ちになるのだが、こういうのもハラスメントなのだろう。何ハラ? そして私が思い出すのは、ああ、いまってハラコ飯の季節だなあ、ということで、それが何かを知りたい人は『ゼロエフ』の第3部をブラウズするか、さっさとネット検索してほしい。
古川日出男の現在地(2022年10月28日)「本気になる」より

起きてから古川さんのブログが更新されているのに気づいて、寝たままスマホで読む。歯が折れるほどの本気、という言葉に鼓舞されるというか、やってみろと言われているような気がした。それは最後の「ハラコ飯」の話になっているから。『ゼロエフ』で僕は古川さんと二か所で二回、「ハラコ飯」を一緒に食べているから。そのことは長いあとがきでも触れられている。

読んだとに夕方の仕事までの時間をどうしようかと思ったけど、昨日渋谷にいったときにジュンク堂書店にあるかなと思って探していた本が出ているかもと思って散歩がてら渋谷へ向かう。
31日がハロウィンだからこの週末の土日の渋谷はコスプレした人たちで溢れるのだろうか。コロナパンデミックになってからいろいろとためこんだものがここで爆発したりお祭り騒ぎになっても不思議ではない。昼間の渋谷はまだそんな雰囲気はなくて落ち着いていた。


ジュンク堂書店で高島鈴著『布団の中から蜂起せよ: アナーカ・フェミニズムのための断章』を見つけて購入。
家に帰ってから序章と「第1章 アナーカ・フェミニズムの革命」までを読んでから、買ったままの窪美澄著『夏日狂想』を読み始めた。こちらは小林秀雄中原中也を語る上で欠かせない、そして二人と三角関係になった長谷川泰子をモデルにした主人公の物語であり、明治の終わりに生まれ大正時代に彼らに出会うのだが、『『布団の中から蜂起せよ』に通じるものがあるなと思う。
令和に書かれたエッセイを大正を舞台にした小説が響き合っている。少しでもマシな方へ時代が動けばいいけど、安倍政権と統一教会の政治と宗教の問題は二冊で書かれているような特に女性の生きづらさを増すことになった家父長制などを求めていることが判明している、人々の自由や権利に逆行しているものであるから、それは壊れてさって崩れ落とさないといけない。それぞれの生活の中でなにかが少しでもマシな方へ動くような気持ちや言葉を持たないといけないのは、どんどんそちら側の方へ押し戻そうとする権力や都合のいい人たちは存在しているから。どちらも読み応えがあるし、頭の中でいろんなことが巡るとてもいい書籍。

 

10月30日
仮面ライダーBLACK SUN』

時は2022年。国が人間と怪人の共存を掲げてから半世紀を経た、混沌の時代。
差別の撤廃を訴える若き人権活動家・和泉 葵は一人の男と出会う。
南光太郎──彼こそは次期創世王の候補、「ブラックサン」と呼ばれる存在であった。
50年の歴史に隠された創世王と怪人の真実。
そして、幽閉されしもう一人の創世王候補──シャドームーン=秋月信彦。
彼らの出会いと再会は、やがて大きなうねりとなって人々を飲み込んでいく。
(公式サイトより)

Amazonプライムで配信が始まった『仮面ライダーBLACK SUN』を二話まで視聴。82年生まれの僕が幼少期にリアルタイムで見ることのできた最後の昭和「仮面ライダー」が『仮面ライダーBLACK』とその続編にあたる『仮面ライダーBLACK RX』だった。それもあってやはりほかの「仮面ライダー」とは違う思い入れがある。あとは敵役であるシャドームーンがカッコいいという印象が残っているので、「ガンダム」におけるアムロとシャアという好敵手みたいなものとして幼少期に刷り込まれているものになっている。

監督は白石和彌さんであり、若松孝二監督に師事していたもんなと思われる世界観というか設定になっていた。2020年と50年前の学生運動が盛んだった1970年が交差している。
1970年に南光太郎と秋月信彦は大学生ぐらいの青年であり、怪人差別をさせないという運動に参加していくことになる。そして、現在の世界においては幽閉されていた秋月信彦はヘヴン(創世王から作られたもの)を飲まされていたので老けておらずそのままの姿であり、南光太郎はそれを拒否していたために年相応という感じで老いているということになっている。
最初にブラックサンとシャドームーンを西島秀俊さんと中村倫也さんが演じると発表された際に、幼馴染のような関係性もあるふたりにしては年が離れすぎていて、大丈夫か?と思っていたがなるほどこういう設定があるからこそ年齢の離れている二人の役者さんが演じても問題がないようになっているのだなとわかった。

この井上淳一さんという方のツイートの一連のツリーを見たが、これはそうだと二話でわかるものだった。
明らかに岸と安倍という祖父と孫の総理大臣や学生運動世代(≒怪人)というメタファというかガッツリやっているし、人間を怪人に改造するというのはまさに「731部隊」における人体改造である(野田秀樹さんのNODA MAP『エッグ』でも扱われていた)し、怪人へのヘイトスピーチは現在における在日の方々であったり性的マイノリティへのものであり、メタファでもなんでもなくわかるようにやっている。
現実的な怪人たちは政権とべったりでそのことで利用もされている。そうではない主人公の南光太郎と秋月信彦も彼らと戦うというわけではない、らしいという手前で二話は終わっている。これはかつての1970年の彼らの青春の季節における新城ゆかり(芋生悠)との関係性や想いも反映されていそうだ。1970年代の雰囲気がわかりやすく伝わる衣装もいいなと思ったら伊賀さんだった。

『エルピス―希望、あるいは災い―』でもスタイリングを務めているメルマ旬報チームの伊賀大介さんが今作でもスタイリングで参加されていた。伊賀さんは大根仁監督作品はもちろん、アニメの細田守監督作品、『シン・ウルトラマン』という人気話題になった映画もだし、最近だと『大豆田とわ子と三人の元夫』や『17才の帝国』などのテレビドラマにも参加している。
『シン・ウルトラマン』と『仮面ライダーBLACK SUN』という長い歴史を持つヒーロー作品の節目の作品に関わっていることはすごいことだし、スタイリストの北村道子さんの作品集が出ているけど、伊賀さんにスタイリングについてのインタビューとか作品やその時代に合わせて意識するようなこととかを聞いてまとめたような書籍とかどこか作って出してくれないかな。

二話まで見ている感じだとまだ南光太郎と秋月信彦が変身しても怪人なのだろう。ビジュアル的には仮面ライダーではなく怪人ぽいフォームになっていて、いわゆる仮面ライダーみたいな姿、完全体になるのはもう少し先のようだ。今の状態は『真・仮面ライダー 序章』の仮面ライダー・シンに近い感じだった。
この作品と来年公開の庵野秀明監督『シン・仮面ライダー』は「仮面ライダー生誕50周年企画作品」ということだから、最初の『仮面ライダー』が放映されたのは1970年代ということを考えると、今回における学生運動の季節だったこともリンクする。
白石和彌監督が手掛けるならばもちろんそれらをモチーフに入れ込みながらも、安倍政権以降の日本社会やなぜこういうヘイトが溢れる時代になっているのかという深掘りも作品に入れることで原作の漫画である石ノ森章太郎による「仮面ライダー」への回答をしようとしているようにも思える。

起きると左目のまぶたが少しだけ腫れていた。虫に刺されたのか、寝ている時に左側の顔が枕にめり込んでしまったりして変な当たり方をしていたのか、両目とも二重だけど、腫れているとさらに奥二重みたいな感じになっていた。気のせいかまぶたが腫れていると幼くなった感じの顔つきになっている。

 

10月31日

『ポータブル・フォークナー』を寝る時に少しずつ読み進めている。『ポータブル・フルカワヒデオ』ともいえる『とても短い長い歳月』も読みたくなったので久しぶりに手にしてみた。
最後の部分にこの作品集をミックスしたDJ産土こと三田村真と古川さんのコメンタリーが収録されている。ちなみにDJ産土こと三田村真は『ミライミライ』の登場人物である。そこで今作にミックスされた過去の作品について読んでいると初期の『13』や『沈黙』や『アビシニアン』を読み返したくもなってきた。
前日に古川さんの「現在地」を読んだ感想をメールしていたら、その返信が返ってきた。「小野賢章 × 細谷佳正 朗読劇 THE CLASSIC ~「平家物語」「犬王の巻」の世界~」もあって京都に行かれたようでその帰りにお返事を返してくれたみたいだった。前に「現在地」でも触れていた「長編詩」は来月、そう11月には出るよと教えてもらった。8日の「皆既月食」のライブイベントに加えて11月の楽しみが増えた。

映画『零落』

知らぬ間に浅野いにお『零落』の映画化の発表されていた。実は映像化するという話は耳に入っていたので監督は竹中直人さん、主役の斎藤工さんが漫画家の深澤ということは知っていた。
大学生で深澤と関係をもつことになる風俗嬢のちふゆは趣里、深澤の妻で漫画編集者であるのぞみがMEGUMIが演じると発表されていた。これは原作漫画が大好きな人間からすると原作の雰囲気からはわりと違う役者さんのキャスティングになっていた。
趣里MEGUMIはなんか違うと思うんだけどなあ、ちふゆを実写化でやるなら河合優実だと思ってたところもある。だが、実際にどういう風に演技をするのか、脚本や演出もだし、役者さん同士の絡みでこのちょっと大丈夫かなという気持ちはなくなるかもしれない。浅野いにおファンとしては映画館で観た上で判断はしたい。あまりヒットはしなかったけど、『うみべの女の子』の実写化のキャスティングはよかったし、あの漫画の雰囲気が漂っていた。

10月も最終日だが、朝と晩どちらもリモートワーク。
昨日夜からの仕事は『オールナイトニッポン55周年記念 佐久間宣行のオールナイトニッポン0 presents ドリームエンターテインメントライブ in 横浜アリーナ』の有料配信を見ながら作業をしていた。昨日はノーマルの配信を見たので、今日は副音声の解説ありを聴きながら作業をした。
ライブはミュージシャン枠で花澤香菜さんとライムスターとサンボマスター、芸人さんはしゅーじまん、はんにゃの金田、森三中の黒沢さんという布陣だった。なぜかCreepy Nutsも出ると思っていたのは、たぶんオールナイトニッポン関連の別のイベントである「東京03 FROLIC A HOLIC feat. Creepy Nuts in 日本武道館 なんと括っていいか、まだ分からない」とごちゃ混ぜになっていたからだろう、こちらにも佐久間さんが出るから。あとドリエンの冒頭で佐久間さんがR-指定の熱愛報道をイジっていたからライムスターの前に二人が出ると思っていて、サンボマスターの山口さんが大トリだと言った時に、あ、クリーピー出ないんだって、勘違いだってわかった。
横アリは遠いのでやっぱり行こうとは思えなくて、アジカンのライブですら行ってないし、でもこういう風に配信があるのはほんとうにありがたい。一回普通に全編を通してみて楽しんでから、副音声のあるほうを見るとかなりたのしめた。
佐久間さんがアーティストのライブ中はライブを直接には見れなく、違う場所で映像を見ながら副音声という形で話すというものだったが、佐久間さんが表で演者とトークをしにいっているときには花澤さんもひとりで長い時間話していたし、しゅーじまんと金田コンビが一番長く副音声をしていたけど、それがおもしろかったから個人的には大満足だった。
三四郎オールナイトニッポン』好きとしては、金田ゲスト回もなかやまきんに君ゲスト回と同じぐらい何回もリピートで聴いている。見終わってから気づいたけど二人の掛け合いは前から好きだったから余計に心地よかったんだと思う。

佐久間さんはテレ東を退社したこともそうだし、ラジオでも妻子とか家族の話もされているけど、コロナによって大きく変わった世界でみんなが抱えていることや感じたことなんかも含めながら、サラリーマンとしての部分とクリエイターとしての部分どちらも話せる稀有な存在としてその身近さがプラスにかなり働いたことはあるのからこそ、ここまで支持されているように思える。
佐久間さんの強さは類似する人はほぼ皆無だということなんだろう。この一強すぎる人に憧れると戦い方を間違える人もいそうだ。演劇とか映画とかエンタメで好きなものを好きっていうことをはっきり言えることが佐久間さんの良さであり、魅力なんだろうけど作ってきたものはおもしろくて魅力があるという裏付けがあるからこそ、誰も真似のしようがないんだよな。

今年もあと二ヶ月、とりあえずここまでできないことが多すぎたし動けなかった。気持ちとか抱えている問題は一気には好転することはないから体を動かすとか目標を決めて強引に動き出すしか風景や気持ちには変化は起きないのだろうな。

 

11月1日
『エルピス―希望、あるいは災い―』第二話を見る。

東日本大震災で起きた原子力発電所放射能と汚染水問題と欺瞞しかなかった東京五輪を報道した側の責任と呵責をわずかな時間で描いてドラマで見せてきた(TVerでは安倍晋三元首相の画像の静止画だったが、リアルタイムのテレビではニュース動画だったらしい)。
佐野PがTBSで企画が却下されて関テレに移籍したから実現したという話はインタビューで話されているけど、そもそもTBSで無理だったというのがこのドラマでも描いてるテレビ局の中でも利害や思惑や上層部と現場の考えが違うということを表してる気がする。
死刑は時の政権によって、彼らの思惑と都合だけでいきなり実施される。安倍政権下でオウム真理教の死刑囚が一気に死刑になったのはどちらも国民へのテロを犯した存在であり、安倍政権は彼らを処刑することで自分たちの相似形を消すことによって正義の側のフリをしようとしたようにしか見えなかった。
で、違う宗教団体へ怨恨で安倍は殺されたわけだから巡り巡っている。
偶然だが、配信開始になった『仮面ライダーBLACK SUN』では岸と安倍の祖父と孫をモデルにした総理大臣たちが描かれている。きっとこれは2010年代の歴史修正主義ポストトゥルースの跋扈へのフィクションからの返答であり、抗いかたなんだと思う。しかし、『エルピス』はまだ二話だというのに、先を見るのは正直怖い。

Mirage Collective – “Mirage” (Official Visualizer)



第1回 「諸行無常セッション」とは何か(聞き手:九龍ジョー

「『平家物語 諸行無常セッション(仮)』映画化記念 「皆既月蝕セッション」古川日出男×坂田明×向井秀徳」のサイトが公開になって古川さんのインタビューが公開されていた。九龍さんが一番適役な聞き手なのは間違いがない。昨日ぐらいに九龍さんが『平家物語 諸行無常セッション(仮)』についてのツイートをRTしていたのもこの流れがあるからだったんだろうな。
太田出版hon-nin』で連載していた『叱れフルカワヒデオ叱れ』の担当がたしか九龍ジョーさんだったはずだから、この機会は九龍さんもかなりうれしいんじゃないかなと勝手に想像した。

竹林寺で「諸行無常セッション」を見た時の感想かなにか書いているかなと思ったら、Facebookに書いていた。以下そのまま引用。


古川日出男×向井秀徳×坂田明平家物語諸行無常セッション』を観に八十八ヶ所のひとつである竹林寺に。高知駅から1時間20分ほどだったのでのんびり歩いていく。
知らない町の知らない道、やがて川沿いを歩く。海に注ぐ川沿いの景色、潮の匂い、地形、船なんかは高校が瀬戸内海の面する笠岡市だったし、親戚が福山の鞆の浦で漁師だったから知ってるような気がする。
北アイルランドもロサンゼルスも福島も月島も地元の井原市も、車社会として整備された近代の町はどこかはじめてという気がしない。僕以外のものはなにもないような、僕以外のものがすべてあるような、いろんな町の道を歩く度に思う。
地図アプリを見ながら歩いていく。日曜日の町で歩いている人はいない。途中で竹林寺にいく道が明らかに山道、石段があって途中の木に「へんろ」と赤字で書かれた布があった。
祖母がよく八十八ヶ所、お遍路さんをしていたからこの道も祖母がかつて歩いたはずの道だろう。山道は涼しい、陽が当たらない道はひっそりとしていて生き物の気配がない、天狗が出てきそう。
開場より30分前には着いたので竹林寺の中に。撮影に来ていた河合さんがいたので挨拶したら、メルマ旬報チームでもある松原隆一郎さんもいらしたのでご挨拶を、古川さんの奥さんの千枝さんにもご挨拶して立ち話。
整理番号入場のために駐車場近くで待機。いとこのだいちゃんの車でやってきた浦谷さんに会ってお二人と少し話を。
開場して真ん中、六列目ぐらいのイスをget。トイレに行ったらThis is 向井秀徳いるし、ザゼンのベース吉田さんもいるし。終わったら吉田さん物販してた。
最初は向井秀徳ソロ、寺でのライブでも「繰り返される諸行無常 よみがえる性的衝動」「くり、くり、くり、くりくりくり繰り返される諸行無常」と『6本の狂ったハガネの振動』をやる。『Water Front』は桂浜的な歌詞に、『魚』も、『ふるさと』も陽が落ち始めた境内に合う、琴線にどうしても触れてしまう。『MY CRAZY FEELING』もね。『天国』が鳴り響く。
あなたがいれば そこは天国
あなたがいない そこは地獄
あなたがいれば 地獄も天国
あなたがいない 天国は地獄
次は坂田明さん。サックス漫談かと思うぐらいにトークでお客さんを笑わす、歌うしサックスでも歌う。ずっと第一線にいる人はキュートでユーモアがある。サックスめちゃくちゃカッコいいしさ。なんかズルいよね。
古川さんが出てきて、盛者必衰諸行無常の響きありと。『平家物語』のあまりにも有名な冒頭。我が物顔で政を自分達の都合のよいことで押し通す、他者の言葉に耳を貸さないものはどんなに栄えても必ず滅びるということ、いまの安倍政権が浮かばない人はいないだろう。
向井さんと坂田さんとの諸行無常セッションが始まる。坂田さんが原文を読み、古川さんが訳した文を、時には英語が、向井秀徳がエレキを鳴らし、坂田さんが原文を読みサックスが鳴る、古川さんは朗読パフォーマンスモード全開で、こちら側とあちら側を往き来してるみたい、重なる原文と訳した文、楽器の音がこの場所をこちら側とあちら側の境目に呼び込んでしまうみたい。
心地よくてうとうとして彼岸に連れていかれそうになると、いきなりぶん殴られて此岸に引き戻されるような感覚、ロスで観た『耳なし芳一』の時みたい。ゴーストの囁きが混ざる、過去と現在が混ざりながら爆ぜる。
古川さんが朗読パフォーマンスの時にあっちに行ってしまうと思うあの感覚。
アンコール『自問自答』が歌われながら同時に『平家物語』の最後のほう、琵琶法師が歌え歌え琵琶を鳴らせと!
途中から古川さんアドリブでマイクに向かっていたと思う。
とんでもない異空間になっていた。あれは映像で観てもすごいだろうけど、あの場所に居て観ることに意味があるとしか言えないものなはずだ。
終了後に松原さんと感想を立ち話して、行きが偶然にも一緒の飛行機だった管啓次郎さんと関戸さんが千枝さんと話されていたのでご挨拶を。古川さんは関係者の方々やいろんな方と話をされていて顔を出せそうにないからご挨拶はできなかった。まあ、仕方ないよね。『犬王の巻』の感想と共に後日メールしよう。
浦谷さんたちが車に乗っけて駅まで行くよーと言ってくださったので甘えて乗せていただく。
あの街灯のない山道とか夜は恐怖だろう、だけど昔は夜はそういうものだったんだ。琵琶法師には光が届かない、『犬王の巻』の友魚のことが浮かんだ。
『朗読劇銀河鉄道の夜』チームの皆さんと会えたのも嬉しいし、あの場所で『平家物語諸行無常セッション』観れて本当によかった。
やっぱり移動することがキーになるんだろうな。

 


佐久間宣行著『脱サラパーソナリティ、テレビを飛び出す~佐久間宣行のオールナイトニッポン0(ZERO)2021-2022~』&東野幸治著『この素晴らしき世界』新潮文庫版を渋谷のジュンク堂書店で購入。佐久間さんの本は明日発売日だが、やはりジュンク堂には前日にはあった。

二ヶ月ぶりに会った知り合いと渋谷で二時間近く話をしてから、別れる時に「良いお年を」と言い合った。次に会うのは来年というのはわかっていたので自然とそういう言葉が出た。11月に入ったから今年ももう二ヶ月だから、間違えてはいないのだろう。
言った時よりもその帰り道で「よいお年で」という言葉が口から出た時よりももう少し輪郭を持ったような、今年の時間の流れを強く感じさせた。
今年はなんにもできなかった。というか終わっていくとか変わっていくものをただ見ていた。「ことばと新人賞」も『ことばと』最新号が出ていたので新人賞のところを見たら二次通過に残っていなかった。いつもこの新人賞に送っている友人も同じだった。そのことをラインをしたら彼はあるメルマガで連載がいよいよ始まると教えてくれた。それはとてもうれしいし心から楽しみにしていたのでほんとうによかった。
家に帰ってTwitterを見ていたら水道橋博士さんがうつ病と診断されて休職しているという話が出ていた。博士さんはしっかり休んでもらって少しでも良くなってほしいし、ご家族は大変だろうけど支えてあげてほしい。

僕はブログでも書いているけど、自分がお世話になっている(いた)とか知り合いだとかいう理由では投票していないと決めていた。それは柳田國男が最初の普通選挙で自分の考えではなく、周りの人間の顔色を見て誰に投票するかを決めていたという日本的な村社会の情けなさを「魚の群れ」と嘆いたというのを知っていたからでもある。そもそも山本太郎の言動には昔から不信感があったから博士さんが出馬しようがれいわには入れるつもりはなかったし、入れなかった。
博士さんに投票した人はその人なりの思いや願いがあったのだろうからそのことは否定できない。そして投票した人たちも今回の休職に関しては責任とか感じないでいいとは思う。いろんなことが複合的に混じり合って、そのタイミングで起こったことだろうから。ただ、世の中には自分に近寄ってきた、集まってきた人のエネルギーを吸い込んで(取り込んで)しまうタイプの人間がいる。僕がそう思うようになったのは園監督と出会ったからだ。

「東京ガガガ」や自主映画時代や商業映画を作る際に園さんの周りには言い方は悪いが、僕も含めてだが有象無象の人たちが集まってきていた。
TOKYO TRIBE』公開時に洋泉社のムックに詩人としての園さんのことを作品と絡めて書いた。詩とは体内にある血や思考が言語となって噴き出すものであり、園さんという杯(器)に集まってきた有象無象の人たちの汗や血液や経血や精液なんかが流れ込んでいると。だから、園さんは若々しいのだ、終わらない青春を過ごしているのだ、と。
そして杯に自身から流れ出たものが吸い込まれた人たちは通り過ぎていく、青春を。まるで夢や希望から脱皮するように。その時期が今思うと『地獄でなぜ悪い』ぐらいまであったような気がする。
園さんが自身のセクハラや性加害について声をあげた人たちに対して、最初に出した声明文では謝罪がなく、事実と違うことを報道したり、扇動した人たちを訴えると書かれているのを読んだ時に愕然とした。完全に一番の悪手だったし、一番やってはいけないことだった。まずは被害に遭ったと声をあげた人に謝罪するしかないのに。もう、ダメだと思った。周りにいるやつらは何してるんだと思ったが、僕が知っている人たちはだいぶ前からほとんどいなくなっていた。

僕は園さんに近いところにいるように見えただろうけど、報道とかであったことは知らなかった。それは言い訳ではなく、近いところにいるから知っているんだろうと思われていたのかもしれないし、その話を誰かに言われたことも聞かれたこともなかった。人間関係というのは各個人同士だけのものがあって、他人はわからない関係性やグラデーションがある。
もしかすると僕がもう一歩踏み込んでいなかったのは、距離を最低限取っていたのは僕の血や精液(これはもちろんメタファである)が飲み込まれてしまう、青春や夢や希望が消えてしまうと無意識に感じていたからなんじゃないかとこれを書きながら思った。つまり、れいわ新撰組の代表に感じるのはそれに近いものだと言えるし、そう感じる。だから、近づいてはヤバいのだと。うつ病になるのはそれだけが原因というわけではないし、いろんな要素が絡んでいるけど、影響はゼロではないと思った。

最初から連載陣に入れてもらっていた「水道橋博士のメルマ旬報」は博士さんが政治家になったことで九月末にクローズした。あれ、博士さんが政治家になったから「メルマ旬報」終わったんだけど、博士さんが休職しちゃったとなるとクローズすると決まってからの自分の中で湧き上がっていたいろんな気持ちとか喪失感とテンションが下がりまくっていたこととか、あの日々や時間ってなんだったんだよ、と思わなくもないのだけど(文章で書くとなんかひどい感じになってしまうが)、クローズの問題に関しては前にも博士さんが体調不良で休んでいて復帰した時に本当は「水道橋博士のメルマ旬報」って畳むべきだったし、このことは何人かの人たちとは話したことがある。
終わり方ってやっぱり大事なんだと改めて思う。
なによりも博士さんには早く元気になってほしいとほんとうに思うし、願ってる。治すのに時間は前よりもかかるかもしれないけど、博士さんが一番やりたいことであるはずの『ビートたけし正伝』と『百瀬博教一代』を書くことが一番必要なのかもしれない。

Shunji Yamada『閉店後のカフェ』

 

11月2日
前日の夜に読み始めた佐久間宣行著『脱サラパーソナリティ、テレビを飛び出す~佐久間宣行のオールナイトニッポン0(ZERO)2021-2022~』は日付が変わって深夜の一時半ぐらいに読み終わった。佐久間さんがテレ東を退社してからのコロナパンデミック下で放送されたラジオをまとめたものになっていた。
最近スポティファイで『佐久間宣行のオールナイトニッポン0』を最初の放送から聴き始めていて、ちょうど2021年に入って5月ぐらいまで聴いていた。僕はラジオを久しぶりに聴き始めるようになったのはコロナが拡大してリモートワークになった時期からだから、今聴き直している部分はリアルタイムで聴いているものだったのでちょっと懐かしい感じもするし、短いタイムスリップしているような感覚にもなる。
未来からあの時のこと知っているし、みたいな。それもあってか、今回の書籍の部分はつい最近聞き直したところが多かったので、読んでいるとラジオでの声が蘇る感じですらすら読み進めれた。読むラジオ的な書籍なんだけど、そこに現実のラジオも重なっていた。
実際のラジオだと佐久間さんの笑い声がすごく重要であり、あの笑い声がいろんなことを吹っ飛ばしたり、聴いていて心地よくなる。おもしろいと思ったら素直に感情を出して笑ってしまう佐久間さんというおじさんはおじさんが嫌われる原因のほとんどからかけ離れたところにいる。そのことはリスナーが佐久間さんへ寄せる信頼であったり、話を聴きたいと思わせる要因でもあると思う。これは中年男性以降の、まあおおまかにいえば男性のケアの問題にも関わっているのだろう。

TBSテレビ『ラヴィット!』

『ラヴィット!』は当日放送されたオープニングは昼過ぎと本編は19時にTverがアップされたらその日にだいたい作業しながら見て(流して)いるけど、ほんとうにエンタメ(笑いに食にテーマパークに音楽にトークに流行)がこれでもかって入れてあってこういうものはやっぱりテレビでしかできないものだなって思う。
テレビがないので僕はリアルタイムでは試聴できていないけど、生放送で『ラヴィット!』ができているのは黎明期のテレビにあったようなワクワク感とかハプニング的なものもあって、希望というか可能性なんだろうなって。
令和の『笑っていいとも!』みたいな感じもあるんだけど、『ラヴィット!』は『ラヴィット!』として昭和と平成という時代をデータベースにしながらもそれを遊びながらも笑いでコーティングしているのがすごい。『笑っていいとも!』みたいに芸人以外の文化人とか新しく出てきたみたいな人がレギュラーになって一般にも知られていくという感じにはならないと思う。川島さんの回しとかの能力とレギュラーの芸人さんたちの場を作る空気感で成り立っている部分はある感じがするから、海のものと山のものともわからない人が入るとそれは難しそうな。

今日のシークレットゲストはCHEMISTRYだったけど、見てたら驚くぐらいに若かった。特に堂珍さんが変わらない。二人とも40代半ばだけど、デビューの前から『ASAYAN』で見ていたから知っているわけだけど、あの頃の10代とかが今40代ぐらいの中間管理職ぐらいになって、テレビ局でもディレクターとかプロデューサーになって、好きだったものや影響を受けた人たちと仕事をしたり、呼んだりするということがある。というがそれが二十年周期みたいに世代ごとにそれぞれのジャンルにある。だから、下の世代に影響を与えて支持される人は最初のピークのあとにもう一回再ブレイクというか波がくることがある。そう考えるとわりやすく大衆的なものであるテレビではないYouTubeSNSを見て影響を受けた若い世代の人たちが大人になって、自分達が好きだった人を呼ぼうとした時にはテレビじゃないだろうし、そもそも共通認識にはなっていないから、流行の繰り返しとか二十年周期的なものは目に見えない形になっていくのだろうか。

CHEMISTRY - PIECES OF A DREAM ,Point of No Return / TFT FES vol.3 supported by Xperia & 1000X Series


syrup16g宮本浩次YEN TOWN BANDChara椎名林檎コーネリアスピチカート・ファイヴ……約30年もの間、活躍を続けるベーシスト・キタダマキ。初めてキャリアを訊いた【インタビュー前編/連載・匠の人】

兵庫さんのキタダマキさんのインタビュー前編。
Salyuのファーストアルバムが出る頃から追いかけるようになって、彼女のライブではずっとマキさんがベースだった。そことは関係なくSyrup16g観に行くようになったから、ベーシストというとキタダマキさんと亡くなったDragon Ashの馬場さんっていうのが自分の中にはある。

 

11月3日

先週予定していたが、スケジュールが合わなくなってしまったので今日に延期になっていた村上春樹ライブラリーにやってきた。


村上春樹、あれから1年を語る。」村上さんの周りに起こった変化の一つ、移転先の新しい事務所で行われたロングインタビュー。世界は激動の1年、村上さんはどう過ごしていた?


2017年にUCLAで行われた古川日出男さんの朗読を観に行ったときに知り合ったエリック・シリックスさん。先月一日に早稲田大学で開催された古川日出男×向井秀徳朗読セッションをリアルタイムでレコードに一発録りするというレコードプロジェクト『A面/B面 ~Conversation & Music』をエリックさんを企画していた。そのときにコロナパンデミック前にイベント終わりに古川夫妻と打ち上げした以来の再会となって少し話をした。
エリックさんは現在は早稲田大学国際文学館(村上春樹ライブラリー)で准教をされていて、「今度村上春樹ライブラリー案内しますよ」と言われたのでその言葉に甘えて遊びに来た。30分ほど一階のカフェでお茶をしながら古川さんの作品のことなんかを話をしてからライブラリーのほうへ上がった。


村上春樹作品や翻訳した作品、海外で翻訳された書籍が展示されていて、装幀好きとしてはたまらないものとなっていた。僕はレイモンド・カーヴァーの翻訳者として村上春樹さんに出会ったから、その印象がずっとあって、彼の小説を読み始めたのは二十代半ば以降だった。サイトでも年譜がアップされているけど、ご自身のオリジナル小説も多いのだがそれ以上に翻訳された作品がかなり多いのがわかる。
村上作品で翻訳された海外の書籍なんかはエリックさんにどこの言語かとか教えてもらったりしながら見たけど、国じゃなくて言語で同じ作品でもいくつもの装幀パターンやバリエーションがあったりして、そのデザインでどんな売り方がしたいのかもなんとなくわかる。昔は日の丸的なものがどこかに入っているものが多かったり、タイトルもなんでこれみたいな時期が2000年より前のものも多い。書籍が刊行順に並んでいるところ最初に入ったエリアはトンネルがモチーフになっていると教えてもらった。


別フロアでは企画展「翻訳が拓く世界」が開催中で、そちらも案内してもらった。ほかの日本人作家の翻訳本について二人であれこれ言い合ってたのしかった。今は予約制で時間が区切られているけど、ゲストで入れてもらったので長居できた。当日でも入れるけど時間帯ごとに予約以外プラス十人ぐらいらしい。
一階のカフェは予約なくても使えるし、ホワイトチョコのドーナッツは美味しかった。大学は明日が学祭で学生がたくさんいて、祝日だったからかカフェもライブラリーにも人はたくさんいた。
早稲田大学国際文学館主催で作家さんのトークイベントとかもやっているので(桐野夏生さんや多和田葉子さんとか一線級の人が)サイトをチェックして、気になったら観に行くといいと思うし、僕もまたイベントで遊びに行くと思う。無理だろうけど、いつか村上春樹さんと村上龍さんの対談とかしてほしいな。
今度はエリックさんをトワイライライトに連れていって熊谷くんに紹介できたらなと思ったので軽く日程を決めた。


20時からニコラで開催されたイベント「閉店後のカフェ」にいく。Yatchiさんと山田俊二さんのふたりのピアノのライブ。前に予定されていたが、コロナの影響で中止になっていたものの振り替え公演という形だった。お客さんは満席でみんな料理をたべたりワインを飲んだり、デザートとコーヒーや紅茶を、という感じでとてもよい雰囲気になっていた。
Yatchiさんは始まる前にカウンターで少しお話をさせてもらった。ピアノはちゃんとエロくていい音で心地よかった。ほとんどYatchiさんのことは知らなかったのだけど、インスタをフォローさせてもらったら、折坂悠太さんのライブのバンドセットの重奏の鍵盤としてライブも参加されているようだった。
折坂さんがメジャーレーベルに所属するギリギリの時にニコラでのライブを観ているので、いろんなところで人間関係は繋がっているなと改めて思った。折坂さんのライブを撮っているのは古川さんをずっと撮影している河合(宏樹)さんだったりする。
僕はずっと観客の側だから見るということしかできていないけど、おもしろそうなところに呼ばれるようになりたいなとも思いつつも、いや、そういう考えよりもしっかり自分のことも向き合うことが大事だし、それ以降のことは考えても仕方ないなとも思った。自分をあまり過大評価してもよくないし、あたりまえだと思ってしまっているけど、ただそこに居るだけなのだから。
折坂さんと重奏のライブでのYatchiさんの鍵盤の演奏もみたい。山田はカウンターの常連友達というか知り合いで、彼のピアノも何度も聴いているけど、最初はちょっと緊張しているような気がしたけど、後半はのびのびしているように見えたし、お客さんもずっとやっていた「閉店後のカフェ」に来ていた人たちも多かったのでお客さんと笑顔で話をしていて、微笑ましかった。
お客さんがほとんど帰ったあとに残って知り合いと話していたら、アンコールで連弾していたのだけど、自然と一緒に弾き出して「閉店後のカフェ」その後の連弾が始まった。とてもリラックスしている音が明るく店内に響いていた。

折坂悠太(重奏)-トーチ @ SWEET LOVE SHOWER SPRING 2022

 

11月4日

今泉力哉監督『窓辺にて』をヒューマントラスト渋谷にて鑑賞。

「愛がなんだ」の今泉力哉監督が稲垣吾郎を主演に迎え、オリジナル脚本で撮りあげたラブストーリー。

フリーライターの市川茂巳は、編集者である妻・紗衣が担当している人気若手作家と浮気していることに気づいていたが、それを妻に言い出すことができずにいた。その一方で、茂巳は浮気を知った時に自身の中に芽生えたある感情についても悩んでいた。そんなある日、文学賞の授賞式で高校生作家・久保留亜に出会った市川は、彼女の受賞作「ラ・フランス」の内容に惹かれ、その小説にモデルがいるのなら会わせてほしいと話す。

市川の妻・紗衣を中村ゆり、高校生作家・久保を玉城ティナ、市川の友人・有坂正嗣を若葉竜也、有坂の妻・ゆきのを志田未来、紗衣の浮気相手・荒川円を佐々木詩音が演じる。第35回東京国際映画祭コンペティション部門に出品され、観客賞を受賞した。(映画.comより)

今泉監督『街の上で』の続編みたいだなと思った。共通の役者さんが数名いることもあるし、ロケ場所も同じなんじゃないかなと思えるカフェというか喫茶店もでてきた。主人公の市川茂巳(稲垣吾郎)の友人の有坂正嗣(若葉竜也)とその浮気相手の藤沢なつ(穂志もえか)は『街の上で』はカップルだったからというのもあるのかも。
市川茂巳と妻で編集者の市川紗衣(中村ゆり)と彼女が担当している小説家で浮気相手の荒川円(佐々木詩音)の三角関係。そして、有坂正嗣と妻の有坂ゆきの(志田未来)と正嗣の浮気相手の藤沢なつという三角関係。どちらの夫婦も一方が浮気をしているというふたつのラインがあり、物語は展開していく。

茂巳は直木賞っぽい文学賞を受賞した高校生の久保留亜(玉城ティナ)に受賞会見の時に質問したことをきっかけにやりとりをするようになる。彼女にはちょっとヤンキーっぽい水木優二(倉悠貴)という彼氏がいる。茂巳と留亜は恋愛関係などになることはなく、かつて作家だったが今は物書き(フリーライター)の中年男性とこれからも書き続けるであろう天才的な高校生作家として交流をしていくことになる。
浮気が作中で描かれるのでラブホテルのシーンが何度か出てくる。これは今泉監督の前作『猫は逃げた』は城定秀夫監督『愛なのに』のコラボもラブホが出てきたのでその流れもあるのかなと思ったりもした。『街の上で』と『猫は逃げた』の流れで観ているとその延長にあるような気がしたからか、二時間半近い上映時間は正直長く感じてしまった。
最終的に紗衣の浮気相手の荒川円と茂巳が向き合って話をするシーンが見どころでもあるし、荒川が作家として停滞していたところから脱するきっかけになるのだが、小説家というものは映画やドラマで書かれるとちょっと安易な使われ方になってしまうよなとも思った。
なにかを打破したり、個人的な経験や体験や想いとが発露できて小説になることはあるはずだけど、濾過されるまで時間はもっとかかるというかゆっくりゆっくり醸成されていくものでもある。一気に書き上げることはできなくもないのだろうけど、その辺がちょっと気になってしまった。
観にきていたあきらかにおじいちゃんに近いような年齢のおじさんのいびきが途中から聞こえてきたから笑いそうになってしまった。スローテンポな感じもするし、大きな派手な事件とかは起こらないから会話のやり取りとかを楽しめないとそうなってしまうのかもしれない。だけど、間違いなく『街の上で』が好きだった人には響く作品だし観て欲しい。

映画は時間を作って観に行ったが、朝晩とリモートで仕事をしていた。
今月になってから夜の仕事がシフトを出す際に五時間以上にしてほしいとのことだったので、前よりも終わるのが平日は二時間遅くなってしまった。それもあってか仕事が終わってお風呂に入ってから寝る前に本を読むという習慣が崩れ始めている。
メルマ旬報の連載も終わったし、その分の原稿料がなくなるから夜仕事の時間が増えるとそれをまかなえるのだけど、時間が減ってしまうのはストレスが溜まりそうだからうまく気分転換したり、適度にサボろう。

 

11月5日
起きてからしばらくうとうとしていた。寝る時に『佐久間宣行のオールナイトニッポン0』をスポティファイで聞いていたせいか、夢の中に佐久間さんが出てきて、どういう展開なのか流れなのかはわからないが最後のあたりでは伊集院光さんに僕が会いに行くという不思議なものだった。寝ていても聴こえてくる声が脳内の記憶とかイメージの場所を刺激したのだろうか。でも、ほかのお笑い番組とかドラマを見ながら寝落ちしてもその番組や作品に出ている人が夢に、ということはあまり記憶がない。

夕方の17時から24時までリモートで仕事が入っているので、このまま家にいると一日中家にいることになってしまうので散歩がてら蔦屋代官山まで歩く。小説とかでは欲しいものはなかったが、二階の漫画コーナーに松本直也著『怪獣8号』8巻が新刊台に置かれていたので購入して帰る。
帰ってから『怪獣8号』8巻を読み始めると天才たちに置いて行かれてしまうキャラの葛藤とそこからの覚醒が描かれていて少し胸が熱くなった。主人公のカフカが副隊長に連れて行かれた場所の件で江戸時代から「怪獣」が現れていて、人は戦ってきたという話が出てきた。ああ、そういう設定になっていたのかと思うし、もちろんフィクションだけど江戸時代からということになれば、「怪獣」はやはり自然災害のメタファがいちばんしっくりくる。

『怪獣8号』を読んでから買ってきた味噌漬けの豚肉を焼こうかと思ったが時間がまだお昼前だったので、見れていないドラマ『silent』五話をTVerで見る。今回は三年ぐらい付き合っていた紬(川口春奈)と湊斗(鈴鹿央士)が別れるところがメインで展開。最後には想(目黒蓮)と紬がカフェでやりとりをして未来に進むのかなという感じで終わった。しかし、予告編でも出てきたが耳が聞こえなくなってからの想の近くにいた奈々(夏帆)との関係性や彼女の想いみたいなものも次回は描かれそう。そう考えると登場人物それぞれの想いや気持ちの決着を一話ぐらいは使ってしっかり描いていくのであれば、より心に沁みるものになっていくんだろうなって思う。

焼いた味噌漬けの豚肉と棒棒鶏サラダとご飯で昼ごはんを済ましてから、夕方までの間で小沼理著『1日が長いと感じられる日が、時々でもあるといい』と高島鈴著『布団の中から蜂起せよ: アナーカ・フェミニズムのための断章』の残りを読み終える。
誰かの日記は自分とは異なる現実や日常であって、それを読むことはそこには書かれていない自分のそれらの輪郭も浮かび上がるような気がする。そこには他者がいて、その人の人生がある、ということはなにか救いのようなやわらかな光のような暖かさが感じられる。
パートーナーや家族のことが書かれている日記には嫉妬ではないけど、羨ましさもある。それは自分が一人暮らしが長いからなんだろう。誰かと一緒に生活をしていないという時間はなにかが積み上がるという感じはしないし、最近書籍でもいろんな人の日記が出ているけど、そういうものでパートナーと暮らしていたり家族で住んでいない人のほうが少ないと思う。自分ではない誰かと空間を共有していないと書けることは限られるというか、僕のように備忘録的に観た映画や読んだ小説とかのことしか書くことってあまりないような気もする。
日記は過去のことしかないから、当時感じていた著者の気持ちや考えが読むと今に孵化するように読み手の中に入ってきて、少し混ざる。読んでいくことで時間軸がいくつか増える。それを知れるという多様性や多幸感があるように思えるから、読んでいくとページが少なくなってくると少し寂しくなった。
高島さんの本はしっかりと読者をアジってる、煽っているのがちゃんと伝わってくるもので、社会や世界の方が間違えている、人が人らしく生きにくくしているという表明であり、敵意をむきだしにしているものだった。この本を読んだことで生きる活力を持つ人は絶対にいる。

仕事の前に週一回の電話を実家にかける。来週金曜日から日曜日までコロナパンデミック前ぶりの実家に帰省するという話は二週間前ぐらいに話をしていた。101歳の祖母と母が電話を変わったのでいつものやりとりをした。祖母はいつもほとんど同じことを言っているけど、その時に来週帰るよと伝えた。
母と電話を変わってからその後ろで祖母が居間にいるであろう父や兄に「来週帰ってくるんじゃって」ということを言ってた。そうすると父はいらんことを言うなというニュアンスのことを言っているのがわずかに聞こえてきた。
ボケがきている祖母はこのまま僕が帰るまでの間はずっと、帰ってくるのは何日だ?みたいなことを家族に毎日のように聞くから、言わなくてよかったのにということを母から言われた。だとしたら、ちょっと前にこの日に帰省すると伝えているのだから、おばあちゃんには帰るまでは言わないでとか先に言ってくれていたらまだしも、全然聞いてないし、知らんがなっていう感じがして理不尽だなって思いながら電話を切った。

 

11月6日
寝る前にツイッターを見ていたら、交通事故のニュースがあって大型トラックに衝突したバイクに乗っていた若者が亡くなったというものがあった。その若者はYOSHIという歌手・俳優と書かれていた。
僕はその名前を見て何年か前に観た大森立嗣監督の映画『タロウのバカ』という映画に出ていた少年の名前と一緒だなと思ったが、実際に亡くなったのはその映画に出ていた彼だった。
『タロウのバカ』には菅田将暉と仲野太賀が出ていたので観に行った記憶がある。YOSHIが亡くなった日にちょうどテレ朝の仲野太賀主演ドラマ『ジャパニーズスタイル』第三話のゲストが菅田将暉というのはタイミングというかなにかを感じさせてしまうものになっていた。偶然だけど、そういうときに人は自分が理解できるように物語に当てはめてしまう。それがいいのか悪いのかはわからない。



『タロウのバカ』公開時のインタビューなんかで生意気だけど、おもしろそうな人だなと思っていたが、その後の活動はしらなかったのでYOSHIKIプロデュースのボーカリストオーデーションで彼のことを知ったという人が多いのもツイッターで見て知った。
若くして亡くなるとどうしても神格化されやすい。彼のWikipediaを見てみると最初に注目されたきっかけが、

2016年、13歳のとき、Off-Whiteのベルトを腰ではなく首に巻いて『Off-White南青山』のグランドオープンパーティに訪れた際、Off-Whiteを起業したファッションデザイナーのヴァージル・アブローに出会う。「そのベルトの使い方は面白い」とヴァージルのInstagramにYOSHIの写真を投稿してもらい、一夜明けたらYOSHIのInstagramのフォロワーが約1万5千人に増えていたという。

というインパクトのあるものだし、そのヴァージル・アブローも去年癌でなくなって世界中でニュースになったので神格化やカリスマみたいな感じにしようとする人が現れても不思議ではない。ただ、これをきっかけに『タロウのバカ』を観て大森立嗣監督作品に出会う若い人も少なくてもいそうだから、そういう別れとともに出会いがあればと思う。

起きてから246を越えて昭和女子大学方面に向かってブックオフでなにか気になるものがないか見てみるがピンとくるものはなかった。そのままキャロットタワー2階のTSUTAYAに行って書店フロアで『すばる』12月号の古川さんが今年の5月にUCLAで講演した「『現代(いま)が文学的ターニング・ポイントとなるための要件』」が掲載されているので立ち読みをする。読み終わったあとにさすがにこれは買っておこうと思ってレジに持っていく。

〈言葉〉は、果たして、この二年あるいは五年で、巨大なインパクトを受けたのか。何か変わったのか。僕らは〈文学〉をやってると、〈言葉〉というのは書き言葉だと思ってしまうわけですよ。書かれたものを読む、あるいは、書くために文字を使う。これが〈文学〉だと。文字ですね。
 でも、ご存知のようにもうひとつ、〈言葉〉には話し言葉というものがあります。いま話してる言葉です。これは文字ではないですよね。僕がこう喋ってても。これは、無文字です。
 で、パンデミックになってから少なくともこの〈言葉〉に対して何が起きたかははっきりわかる。マスクを着けているから表情が見えないですよね。口元が全然。
〈言葉〉っていうのは、僕がこうやって喋ってることをテープに録ってそのまま文字に起こすと、今日のこの会場で古川はこういうことを喋ったんだよと全部わかるかといったら全然わかりません。(以下、あえて間を空けながら)ど こ で、ゆ っ く り 喋 っ て(と語り、今度は力んで)力を入れたのか、(力みをやめて)抜いたのか、など全然わからない。そういうものを表現しているのは、実は、言葉が持っている身振り、表情ですよね。
 僕はアメリカの手話のことはわかりませんが、日本の手話だと、手だけではなく顔の表情とかもすごく使います。眉を上げ下げするとか。パンデミックになって聾の人たちがいちばん困ったのは、みんなマスクをしてしまうこと。口元が見えていれば、口の動きだけで人が何を言っているのかわかるし自分たちもそうやって口を使っている。それが無視されて、言葉の表情というものを奪われてしまった。パンデミックになって起きたことは、「話し言葉の貧困」だと思います。話し言葉が極端に貧しくなっていった。表業の消えた世界です。
 でも、そうやって話し言葉が貧困になったなと思うと同時に、本当に貧困になってるのは話し言葉だけなんだろうか、というふうに僕は考え始めたんです。書き言葉の貧困というのは、たとえばこの二年、この五年で起きてはいないのか?と。
『すばる』2022年12月号掲載「『現代(いま)が文学的ターニング・ポイントとなるための要件』」P71-P72より

ここで古川さんが言われている手話に関しては、『曼陀羅華X』の主人公の老作家の息子である啓のことも思い浮かべるし、ドラマ『silent』が大ヒットしている背景にあることにも通じていると感じる。マスクで口元が見えないということとコミュニケーション に関してのメタファとしてドラマは現在を、今を描き出していると思っている。だからこそ、若い世代だけではなく上の世代にも届いているはずだ。

使い始めてどのくらい経ったのかわからないがMacBook Airと一緒に使っている外付けHDが壊れてしまったようで新しくデータがコピーできなくなった。
2TB(テラバイト)の容量のうちまだ1.5TBぐらいは空いているのだけど、こうなったら新しいものを買って今入っているデータを移しておかないと後々困りそう。
MacBook Air自体の容量は少ないのでiTunesや音声データとか容量のでかいものを外付けに逃していたのに。金曜日に実家に帰るから今月はあまり金銭的に余裕がないから、こういう機械類の急な出費は痛い。

 

11月7日

アマゾンプライムで配信中の『仮面ライダーBLACK SUN』の九話と最終話である十話を仕事前に見る。最終回のオープニングはオリジナルのオープニングテーマがかかり、映像もそちらに寄せているものとなっているようだった。そこでスタイリストで参加している伊賀大介さんの名前を発見して、なんかスマホで写真を撮ってしまった。
十話のラストにおける葵の行動とこれからやろうとしていることを見ると1972年と2022年が円環でつながるようなものになっており、光太郎や信彦と行動を共にしていたゆかり再びのようになってしまっていた。ゆかりが暴力革命を目指したような方向性に葵も向かうとなるとそれはなんというか現実よりもロマンを取るというか、そうやって日本の学生運動は敗北して瓦解していったのに、と思ってしまう。そして、これはシーズン2を作るための流れやフリということもありえるのかなと思ったり。あと葵のモデルはどうみてもとグレタ・トゥーンベリなんだけど、作中で彼女が改造されて怪人になっちゃったというのは転向のメタファっぽいけど、あれはいいのだろうか。などと思いながらも十話が一番見応えがあった気がした。
リモートで仕事を始めながらPLANETSチャンネルの座談会を自分のPCで流しながら作業をした。

批評座談会〈仮面ライダーBLACK SUN〉

ここでも宇野さんが言われていたが、主人公の光太郎の過ごしてきた50年がほぼ感じられないというか、まず魅力的ではない。もちろん役者の西島秀俊さんは光太郎として演技をしているけど、それに寄りかかりすぎているという見方もできるのだが、キャラクター描写というかエピソードがないので主人公感があまりない。ただBLACK SUNになる人という感じになっている。
ここでも話が出ていたようにツイッターなどのSNSでこの作品が賛否両論になっているが、フィクションに政治性を入れることなんか世界的には普通のことだし入れるべきだという考えはあって、マーベルなんかかなり政治色は入っているのに関わらず、今の日本はそれができなくなっているというか、しっかり描いてこれていなかったからこの作品を叩いて潰してしまうとこの次の作品が出てくる土壌がなくなったり、当たり前にならないことが危惧されていた。
やはり十話が一番盛り上がったし、あれが一話だったらなという話もあったのであの最終話からのシーズン2をやるとしたらどんなふうにやるのか見てみたいと思ったし、ぜひシーズン2をやってほしい。
学生運動ともろもろの現実でのことをトレースして取り込んでいるけど、うまくいっていない部分もあるし、怪人のバックグラウンドもわかりにくいし設定が弱いのでツッコミどころが多いという話も出ていたが、ここでの座談会は頷けることばかりだった。
配信ドラマのフォーマットで作るようになってまだ時間はさほど経っていないし、世界でも見られるという意識もこれから研ぎ澄まされていくんじゃないかな。森直人さんがフリップに書かれていたけど、ギレルモ・デルトロ×若松孝二というのはすごくわかりやすい。BLACK SUNとシャドームーンが仮面ライダーになるまえの怪人みたいな中間形態のフォルムはカッコいいから、そこは世界でもウケそうというのもわかる気がする。僕もちょっとフィギュア欲しくなったのは正直なところ。


休憩で家を出ると近所の病院だったようなところ、昔からすでに廃院みたいになっていた建物が完全に解体されて建物自体がなくなっていた。それで辺りを見渡したけどマンションは何棟も建っているけどだいたい高くて五階ぐらいのものしかなかった。僕が住んでいるこの辺りは高いマンションとかは建てられない地域なのかもしれない。ここにマンションが建っても周りとほとんど同じ高さになるだろうから景色はあまり変わらないのかなと思って通り過ぎた。


駅前のツタヤで『群像』最新号を買い、西友でフライの惣菜を買ってから帰り道にあるトワイライライトに寄って店主の熊谷さんと少し話す。村上春樹ライブラリーの感想などを伝えて、エリックさんと来月お店に来る日はイベントがないかなどを聞いた。
気になっていたリトルモアから出版された詩人の大崎清夏著『目をあけてごらん、離陸するから』というエッセイを購入した。


朝晩とリモートで作業だったが、夜は作業が一旦おさまったところでコンビニに行こうと外に出るとなにかいつもよりも明るくて空を見上げた。月がスーパームーンなのかなと思えるほどの明るさだった。明日は皆既月蝕になるらしいけど、その前触れのようなものなのだろうか。

 

11月8日
起きてから前日放送された『エルピス』第三話を見る。冤罪事件を追っているアナウンサーの浅川恵那が正義だと思って突き進んでいくという流れだった。そのことによる反応や反響のプラスとマイナスが次週以降に描かれるのだろうが見ながら痺れる。そして、世間的には勝ち組である若手ディレクターの岸本卓郎が同級生が自殺で死んだことを抱えていることが明かされる。そして彼のようには思わないで痛みを忘れていく連中が成り上がってずっと勝ち続けること、勝ち組であり続けることをその同級生たちが集まる結婚式で描いていく。卓郎がこの先痛みと向き合うことになっていくのだと思う。


ドラマを見終わってから学芸大駅近くにあるBOOK AND SONSで開催中の『石田真澄 夏帆写真展「otototoi」』 を見に行こうと思っていたので家を出る。
家からは歩いて40分以内のところで世田谷公園前を通っている三宿通りをほぼ南下する感じになっている。前に兎丸愛美さんがモデルになった笠井爾示写真展「羊水にみる光」を見にいったことがあるので三宿通りを歩きながらデジャブのように、ゆっくりとしだいに思い出していく感じだった。気温は二十度を超えていたので上に羽織っていると少し汗ばむ感じだった。
展示は一階と二階にそれぞれあって、写真集からのものだと思うけど淡い光と夏帆さんが映ったものが多くて、やわらかくてやさしい写真が多かった。写真集とは別のZINEもサンプルで置かれていたが、実物は売り切れていた。


BOOK AND SONSから家に帰ってきて『群像』2022年12月号掲載の『の、すべて』第11回を読む。今回は語り部である河原が語られる存在である大澤光延の妻である大澤奈々(旧姓:櫻井)に話を聞くというものになっていた。彼女の実家は製薬会社であり、医療関係のことやワクチンのことを、そして夫である光延について古くからの付き合いである河原のインタビューに答えるという形。二人には五人の子供がいることがわかる。
そして、政治とは恋愛に似ているのだと。イメージが響きあい、ロマンティックでありアート(芸術)でないのだと、芸術家である河原に話す。そして、テロの襲撃を受けて二年以上経つが、居場所をマスコミや世間に知られていない入院中の光延のもとに河原が訪ねていき話をする。そこで光延は政治家の暗殺の話をする。伊藤博文犬養毅高橋是清は銃殺、原敬は刺殺されたが、大澤光延は殺されなかった、死ななかった。そのことの意味はなにかと語って終わる。
この河原が光延の身近な人たちにインタビューするのは彼の伝記を書くためだが、当人ではない他者が語ることでその輪郭が露になるという流れであり、妻まで言ったのだからここでひとつの章というか区切りはついて、新章に入るということなのだろう。


平家物語   諸行無常セッション(仮)』映画化記念 古川日出男×坂田明×向井秀徳「皆既月蝕セッション」 をWWWにて鑑賞。

かつては単館映画館の雄だったシネマライズ。僕が最初に上京してそこで観た映画は『アメリ』だった。その後も何十回も足を運んだ。しかし、現在はWWWとWWW Xというライブハウスになっている。
2015年にWWWで「記録映像 シブヤ炎上轟音上映会~AKASAKA / SAPPORO~」というナンバーガールの15周年記念のライブ上映を観た。僕はナンバガには間に合わなく、古川さんと向井さんの朗読ギグにも間に合わなかった。その後、古川さんの小説を読むようになってから、ZAZEN BOYSのリズムがわかるようになったというかかっちりハマるようになって2010年代は一番ライブに足を運んだバンドになった。その上映の時も本日同様にステージの奥のスクリーンに映像を映すものだった。その後もここで環ROYとか好きなアーティストのライブを何度か観ているが、明らかに二階部分に当たるところがいちばん観やすい箱であり、一階というかステージ前のエリアは正直見上げる形になるので観にくい、特にスクリーンが。というわけで二階エリアの最前にあるバーのど真ん中をゲットした。このセッションは全体像を見ることがいちばんいいとわかっていた。

河合宏樹監督が最初に挨拶をしてから映画『平家物語   諸行無常セッション(仮)』が上映された。高知県竹林寺という最高のロケーションで映像もカッコよくて臨場感があるし、古川さん坂田さん向井さんの言葉と音によって彼岸と此岸の間にいるかのように思える、そんなトリップ感すらある。
寺院と鐘の音というのは磁場というのか、明らかにその場所が現実(生活)の空間とはまるで違う。異次元や亜空間なんかの狭間に人を置くというか漂わせる。そのことが映像にも出ていると思う。
観客として竹林寺で観ているけど凄すぎて怖かったし、今日観客の人終わりかけの頃何人か泣いてたのは凄すぎるとか感動とかごちゃ混ぜになっていたんだと思う。この作品は爆音というかいい音響施設で観るのに適しているから来年映画館でぜひ観てほしい!

映画『平家物語   諸行無常セッション(仮)』を観てから「皆既月蝕セッション」はどうするんだろう、同じことできないよなと思ったら、古川さんによる『逆回転耳なし芳一』(『耳なし芳一』をわけたシーンを最後から最初に戻っていくから、最初に耳がちぎられてしまうというところ)から『平家物語』の木曾義仲の件と『犬王の巻』へ。
坂田明さんは竹林寺の時も今日のセッションでも感じたけど、声量がとんでもなくて、サックスを吹かれているから心肺が強いんだとは思うけど、体の芯にぶつかるみたいな声を出されていてそのことに感動する。僕が坂田さんを最初にお見かけしたのは坂田さんが書かれているミジンコについての本を出された時にB&Bで向井さんがゲストだったトークイベントだった。それもあって、この三人が一緒にセッションしていることって不思議ではないんだけど、観客として見ていたものが融合しちゃった感じもある。

アンコールで向井さんが歌い出してひたすら繰り返した「蕎麦屋の二階」は笑っちゃったし、笑っちゃうぐらいカッコいいしバカバカしくてたのしかった。声が風邪ではないだろうけど、いつもより声が涸れている感じだった。コロナパンデミックになってから向井さんはステージではビールを飲まなくなっていたけど、今年になって中村達也さん率いるLOSALIOSとの対バンの時ぐらいからビールをまた飲むようになった気がする。同時にZAZEN BOYSはまたそれまでずっとやってきた楽曲のリズムが変化している、特にカシオマンのギターのリフとかが。
そして、古川さんですよ。朗読のモードがまたOSがアップデートされたというかいうかバージョンが次のフェイズに入ってる。鬼気迫るというか、空間を完全に掌握しているんですよ、もちろんお二人とのぶつかりあいもしながらのセッションはあるにしても。

古川さんは『平家物語』上梓してすぐの2017年になってからトランプが大統領に就任したアメリカに渡米してロサンゼルスのUCLAで三ヶ月日本文学のゼミをされていて、僕が遊びにいったのは2月終わりと3月頭だったけど、3月のUCLAでの「GHOST STORIES NIGHT」というイベントの中で小泉八雲著『怪談』収録『耳なし芳一』の朗読をされた。同時に英語と中国語の訳があり、後ろのスクリーンには小林正樹監督『怪談』の「耳無芳一の話」が流されていた。今日もいらっしゃっていたが管啓次郎さんのワークショップの発表会で生徒の発表の間に朗読があったはずなんだけど、あの時も完全に朗読のレベルが異質だったし、幽玄みたいな空間になっていた。あの時もフェイズが変わったんだなと思ったし、そのことは古川さんに伝えた。
その後、日本に戻ってきてから5月の竹林寺での坂田明さんと向井秀徳さんとの『諸行無常セッション』があった。そして、2022年11月8日、今日の『皆既月蝕セッション』では『逆回転耳なし芳一』が朗読されて僕の中でこの五年を経て繋がって鳴り響いたように思えた。
ライブが終わってから古川さんにその話をしたら意識的ではなかったらしく「ほんとだ、繋がっているね」と言われていた。マジか、とも思ったけど、映像で前のセッションでがっつり『平家物語』の朗読をしているから『平家物語』から浮かぶのは琵琶法師、なら『耳なし芳一』というのはそうなんだよね。だけど、UCLAのことは無意識だったと思うけどなにかが結びつけているように思える。

耳なし芳一』は般若心経を耳だけ写経し忘れて、怨霊に耳を千切られて持っていかれてしまうというものだけど、2017年と2022年ということで考えるとすごく意味があると感じる。耳が千切られても音がまったく聞こえなくなるわけではないのだけど、象徴的だ。聞こえなくなるという感じがする。
2017年はトランプが大統領になって「アメリカ・ファースト」と言って、現実の壁を作ろうとしたし「ポスト・トゥルース」が世界中に広まっていった。トランプが象徴するように自分たちが正しいと思うもの以外のものには聞く耳を持たないものであって、外部の声は届かないし聞こえない、と言えた。

2022年は依然としてコロナパンデミックの最中である。人々はずっとマスクをしていて、他人の口元は二、三年近く見る機会が減っている。話題になっているドラマ『slilent』は主人公のかつての恋人が聾者になっており、東京で再会するというものだ。耳の聞こえない相手との恋愛ものは昔からあるから定番といえば定番だ。だけど、見ているとすごく今っぽいと感じる。それは主人公の紬は高校時代の恋人だった想から勧められて彼が好きだった音楽を聴くようになって、現在ではタワレコでバイトをしている。想は高校卒業間近で耳が聞こえにくくなって難聴となり、そのことを紬や友人たちに知られたくないから自ら別れを言い出して彼女たちと連絡を絶った。だが、彼女たちは再び出会ってしまった。しかし、彼にはもうほとんど音は聞こえず、手話か文字を書いたりスマホでの文字入力での会話のやりとりしかできない。また、彼は聞こえないが声は出すことができるが、家族以外の前では出さない。紬たちと再会しても声は出さなかった。自分が話して相手に届いて、相手がそれに声で返しても彼には聞こえないからだ。それならスマホで相手の声を文字に変換して、それに彼が文字を入力するほうが間違いがない。ただ、紬が最初に想のことが気になったのはその声だった。
この『slilent』における現在性というのは声による会話と手話という違うコミュニケーションの差をどうしていくか、かつて当たり前に伝わっていたものが伝わらなくなってしまったあとの人と人のコミュニケーションを描いていることだと思う。そしてマスクが当たり前になってしまった世界では聾者の人たちは聞こえなくても相手の口元を見ることでなにを言おうとしているのかが計れたがそれができなくなってしまっている。
コロナパンデミックになってからのコミュニケーションの難しさ、伝わらなさ、2017年以降に顕著になった自分が信じているもの以外は聞かない、聞こえないという他者不全、そんな世界をどう回復していくのかコミュニケートできるのかということを描いていると感じる。

2017年と2022年の『耳なし芳一』の朗読を聞きながら、聞き終えて僕の中ではそれらのことが浮かんで、結びついていた。これは単純な思い込みだが、やはり『曼陀羅華X』『ドライブ・マイ・カー』『コーダ あいのうた』と聾者が出てくる作品が僕の中では繋がっている。それはナラティブ(語り)ということが言われ始めたぐらいから、言葉だけではない語りがあって、そのことは言葉よりも先にあったはずで、コミュニケーションができなくなっていく社会や世界で見つめ直そうとしている、語るべきだという思いが創作者にあるんじゃないかなって。もちろん手話は映像的に映えるから映像に向いているという部分はあるのだけど。
そんな風に「耳」からの連想していた。聞こえているから届くとは限らないし、意味が理解できるわけではない。言語が異なるから相手に伝わらないのであれば、その言語を理解しようとしないとなにを言いたいのかはわからないし、互いに伝わる言語を作るかボディランゲージでもいいから伝えようとするしかない。たぶん、今それが置き去りに、ないがしろにされていると思う。
だから、古川さんが2017年と2022年に『耳なし芳一』と『逆回転耳なし芳一』を朗読したことを考える。そして感じたことはこうやって書いてみる。

ライブ終わってからフロアで何年かぶりにお会いできた方が何人かいらして、少しだけどお話ができたのもうれしかった。対面で人と話すことも少ないし、いきなり会っても会話がうまくとはならないからぎこちないし続かなかったりもするんだけど、それも含めて話している感じがした。 SNSでなんとなく近況とか生きてるってわかってはいるんだけど、実際に会うということはすごいことなんだなって改めて思った。

 

11月9日

休憩時間に急いで家を出て渋谷駅で11日から13日の帰省のための新幹線の往復チケットを購入した。なんかネットで買うには登録とかしないといけないんだけど、数年に一回しか使わないからいいやって。それで渋谷まで来てチケットを買ったが帰る金曜日も戻る日曜日もほんと指定席は埋まっていた。週末だから仕事でも観光とかでもみんな動いているんだなと改めて思った。
そのあとは散歩がてら家まで歩いて帰ろうと思ってスクランブル交差点を渋谷駅からTOHOシネマズがある方を渡った。そのまま道玄坂方面を坂を上ろうと思っていたら、そこからスクランブル交差点をTSUTAYA方面に向かおうと赤信号で待っている海外の人たちが数人いた。ひとりは大きなバッグを背負っていて、それは明らかに「マリオブラザーズ」のクッパのトゲのついた甲羅を模倣したものでかなりのインパクトがあった。デカくて目立つものだった。そして、そのバッグを背負っている人の顔は見たことのあるものだった。彼はどう見てもアメリカのミュージシャンでベーシストのThundercatだった。
僕が気づいた時に周りの人も何の人だろうみたいに見ていたが、欧米系の白人の人が声をかけていて、あっ、これはやっぱり本人っぽいなと思った。お付きの人のごつい人たちではなく友達な感じの普通の人たちと一緒だったのでワンチャンあるなと思って、青信号になって大盛堂書店前に渡り切ったところで勇気を出して、Thundercatなの?と聞いてみたらそうだと言った。手とかのタトゥーや髪型も明らかに彼なのだが、一応聞いてみないとと思って。そのあとはヘタクソな英語で聞いたら、仕事やライブではなくバカンスというか遊びにきたと言っていた。
アルバムがすごく好きで今年5月の来日ライブにも行ったということを伝えたらすごく笑顔になったので、写真を撮ってくださいとお願いして撮ってもらった。最後に握手をしてもらったので、エンジョイと声をかけて別れた。Thundercatは『ドラゴンボール』とか日本のマンガやアニメ大好きだし、ほんとうに日本好きなんだなあ。
昨日の「皆既月蝕セッション」あとに古川さんに挨拶して帰るときに握手してもらって、帰って風呂入ったり手は洗ってるけど、その次に握手してもらったのがThudercatっていうのはなんかすごいな。なんだろ、皆既月蝕パワーなのか。

Thundercat - 'Dragonball Durag' (Official Video)




夕方にニコラに行って作業しながら黒いちじくとマスカルポーネのタルトとあるヴァーブレンドをいただく。やっぱり毎週飲んでいるコーヒーを飲むと落ち着く。先週は「閉店後のカフェ」でビールは飲んだけどコーヒーを飲んでいなかったので、二週間ぶりだった。
今日は朝と晩と8時から24時までリモートワークだけど、ほんとうに昼間に渋谷に新幹線のチケット買いにいってよかった。ウェブで買ってたらThundercatに会えてないわけだし、足を運ぶとこういういいことがある。もちろん、反対に悪いことが起きたり巻き込まれる可能性も増えるのだけど、ラッキーな一日だった。

 

11月10日

今日というのか本日の24時からTOHOシネマズ新宿で『ブラックパンサー/ワカンダ・フォーエバー』をIMAXで観るので、映画館で観た以来の一作目をアマプラでレンタルして観る。というか作業しながら自分のパソコンで流していた。流れとかどういうキャラクターとその関係性かがわかっていれば深夜にたのしめると思った。
明日の11日公開作品だが、新海誠監督『すずめの戸締まり』と同じ公開日なのは仕方ないが、TOHOシネマズのスクリーンを新宿や日比谷というIMAXがあるところを見るとほとんどがすずめに取られていて、TOHOシネマズ日比谷のIMAXで観てから新幹線に乗って帰るつもりだったが、終わるのが13時過ぎの回しかなくそれだと実家に着くのが18時以降になる可能性があるので諦めて、24時の最速上映で観て朝方帰って仮眠してからお昼前に家を出て12時の乗り換えしない便で帰ることにした。
驚くというか怖いのはIMAXとかだけではなく何個もスクリーンがあるところで三つか四つは『すずめの戸締まり』を上映するということになっており、平日の金曜日の午前中からそこまでほとんどのスクリーンで満席になるほどに観に来るわけないし、ほかの公開映画がスクリーン取られて上映回数が減っている。なんか横暴だなって思うし、そんなに初日から観に行く映画じゃないだろって思うけど、興行収入とかで記録を作るためにはスクリーンを独占するという手法で公開の金曜日から土日の週末を抑えておいてできるだけ観客を入れたいということなのだろう。そういうのは経済的には正しいのかもしれないが、新海誠作品が人気があるとしてもそのやり方って多様性ぶち壊している権力者の振る舞いなんだけど、それでいいのだろうか。と『ブラックパンサー/ワカンダ・フォーエバー』のIMAX上映が減らされてしまった人としては思う。もちろん、こちらも大作なんだけど、今の日本の映画はアニメでなんとか維持されているし、そこに客がいるからそれが許されるんだろうけど。まあ、映画館で僕は観に行く理由は完全になくなった。
だが、アメリカではスクリーンのほとんどを『ブラックパンサー/ワカンダ・フォーエバー』が占めているというニュースを見て、どっちもガッカリだよという気持ちになった。

 

11月11日

24時から日付が11日になった直後に上映されるライアン・クーグラー監督『ブラックパンサー/ワカンダ・フォーエバー』をTOHOシネマズ新宿で観るために夜の新宿へ。歌舞伎町には夜はほぼ来ないけど、アジア系の人よりも黒人系の人の方がたくさん見かけたがなんか勢力図とかまた変わっているのだろうか、まるでわからない世界。

マーベル・シネマティック・ユニバースの一作として世界的大ヒットを記録し、コミックヒーロー映画として史上初めてアカデミー作品賞を含む7部門にノミネート、3部門で受賞を果たした「ブラックパンサー」の続編。主人公ティ・チャラ/ブラックパンサーを演じたチャドウィック・ボーズマンが2020年8月に死去したが、代役を立てずに続編を製作した。

国王ティ・チャラを失い、悲しみに包まれるワカンダ。先代の王ティ・チャカの妻であり、ティ・チャラの母でもあるラモンダが玉座に座り、悲しみを乗り越えて新たな一歩を踏み出そうとしていた。そんな大きな岐路に立たされたワカンダに、新たな脅威が迫っていた。

監督・脚本は前作から引き続きライアン・クーグラーが担当。ティ・チャラの妹シュリ役のレティーシャ・ライト、母ラモンダを演じるアンジェラ・バセットをはじめ、ルピタ・ニョンゴマーティン・フリーマン、ダイナイ・グリラ、ウィンストン・デューク、フローレンス・カスンバらが前作キャストが再登場。新たに「フォーエバー・パージ」などで知られるテノッチ・ウエルタが参加した。(映画.comより)

映画が終わると深夜の3時前になっていた。本作と『ファルコン&ウィンター・ソルジャー』パンフが売店で販売されていたので並んで購入する。パンフ販売が公開日からだから日付が変わって映画が始まる時だったので映画前に買えなかったのは仕方ない。
同じく11日公開新海誠監督『すずめの戸締まり』も0時から公開で終わるとそれを観た観客もパンフやグッズを買うので、鉢合わせの形になり、深夜というのに劇場内はかなり混雑していた。こんな時間にこんなに人が集まるというのはどちらの作品にもちゃんと集客力や人気があるということだ。

ブラックパンサー/ワカンダ・フォーエバー』は実質的には前作の主人公であるティ・チャラことブラックパンサーの妹のシュリが主人公。ティ・チャラ王亡きあとは二人の母親である先代王のティ・チャカの妻であるラモンダがワカンダを統治していた。物語はシュリが次のブラックパンサーとなるという物語なので2019年の『アラジン』を彷彿させるところもあった。
『アラジン』では王の娘であるジャスミン姫が主人公アラジンと結ばれるのは今まで通りだが、アラジンが玉の輿的に王になるのではなく、彼女自身が王だった父の意志を継いで王になるというところが新しい時代やフェミニズムの力を感じさせるものだった。アラジンはジャスミン王の夫でありパートナーとしてそれまでと基本的には変わらない感じになっていた。それを観た時にはこの作品を観た小さな女の子たちはお姫様になりたいという気持ちだけではなく、自分が主人として王にだってなっていいんだと思うのであれば、希望はあるなというものだった。僕は男性であるけど、やっぱり今までやってきた仕事なんかも女性が多い職場だったり、一緒に仕事をしてきたのも女性が多かったし、僕自身が正社員ではなくバイトなので社会がどのくらい男性の正社員が金銭的にも立場的にも融通されているかとかもまあ多少は肌身で感じてきたからそういう姫が王になればいいというメッセージはすごくいいなと思えた。
今作ではティ・チャラを演じたチャドウィック・ボーズマンが現実で亡くなっており、続投ができず、代役を立てないことが発表されていたので彼女がメインになるだろうということは予想されていたのもあって、予告編などから想像できる展開ではあった。
また、今回ワカンダと戦うことになる海の帝王のネイモアとその一族たちとの戦いがなんだろう、あんまり興奮しなかったかなあ。そもそも初登場とあるネイモアと海の帝国の誕生の背景や設定などに関してかなり時間を使っているので途中でダレるところは正直あった。
あとネクストアイアンマン的な存在であるアイアンハートことリリ・ウィリアムズが思ったほど活躍もしないし、二つの国の対決にも参加しているがそこまでの見せ場はなかったような気がした。というわけで『ブラックパンサー』を観た時の興奮にはまったく届かない二作目となったが、しかし、それでもチャドウィック・ボーズマンが亡くなった場所は埋めることはできないし、なかったことにはしないで前に進もうとした、この作品に関わった人にはやはり敬意を払いたいと思える作品だとは言える。

作中では兄のティ・チャラを自分の用いる才能である科学技術で救えなかったシュリは、前作登場時からだが神や一族にある伝統のようなものを信じずに、科学者として技術開発をすることによって国や民の生活をよりよくしようとする現代的な考えの存在に、無神論者にも見える。彼女自身が次のブラックパンサーとなるというのは兄の役割を自分が引き受けることであり、それを次世代に引き渡していく役割や責任を持つことを選んだということだ。そう考えれば、この二作目で明らかにチャドウィック・ボーズマン演じたティ・チャラからシュリは大きなものを受け取ったのだし、成長をしたということだろう。でも、終盤とエンドクレジットに差し込まれるシーンでは次の王になるのはシュリではないし、その戴冠式みたいな儀式の時に彼女が訪れて会いにいった人のことを考えると、彼女はワカンダには囚われない生き方を選んだようにも見えるが、今後はどう展開していくのだろうか。
ポストクレジットシーンでは血は引き継がれるという王道なことはやっていたが、それがいちばんしっくりは来るだろうから文句は言えない。あとは敵役であるネイモア以外の主要人物がほとんど女性というのも今の時代という感じがした。
観終わってから一時間半ほど歩いて帰ろうと考えていたが、眠さもあるし座席にずっと座っていたので腰がきつかったのもあって劇場をでてすぐにタクシーに乗った。ちょうどクレジットカードのポイントをDポイントに交換していた分があったのでそのポイントを使ってD払いをしたら足りなかったのは百円ちょっとだったので助かった。


10時過ぎに起きてから渋谷駅まで歩いて山手線で品川駅まで出る。金曜日は有給とって『ブラックパンサー/ワカンダ・フォーエバー』観てから実家に帰るというつもりだったので、映画が前倒しになった形。とりあえず、12時台ののぞみに乗れたのでよかった。


三時間半ほどで広島県福山駅に着いた。いつもはここからバスで実家近くまで帰るのだが、バスの時間も福山についてから一時間後ぐらいだったので今まで乗ったことのなかった福塩線神辺駅まで出て、そこから井原鉄道に乗り換えて帰ることにした。それでも福塩線にノルマで30分もないけど時間があまったので駅併設のテナントを見て歩いた。
福山城が建つ山がもともとは蝙蝠山と呼ばれていて、中国でコウモリは福を呼ぶ生き物とされていたことから福山と呼ばれるようになったらしい、そういう背景があるので「バットマン」の舞台であるゴッサムシティと福山氏が友好都市提携を結んでおり、こバットマンの等身大が置かれていたらしい。福山城バットマン関連のライトアップなども映画公開時にはしていたようだ。


福塩線神辺駅まで電車に乗ったが学校帰りの中学生や高校生が多かった。みんなマスクはしているけど、通勤通学の時間にたくさん人が居る場所に長い時間いないといけないからこうなるとコロナになる可能性は減らないよなと思った。帰る前に母が福山でもコロナはそこそこ出ているというのは仕方ないことだろう。ある程度の大きさの都市部では通勤出勤でどうしても人の密度が高くなってしまうから。
神辺駅で井原線に乗り換えて、地元の子守唄の里高屋駅まで乗る。井原線にはかなり前に一度だけ乗ったような気がするが、福山から帰るのに使ったのはたぶんはじめてだと思う。
コロナパンデミック前の2019年9月に帰って以来なので三年ぶりの実家だった。今年で102歳になった祖母と父と母はそれだけ分老いていたが、元気そうだった。四人で一緒に晩御飯を食べたが違和感もなにもなくそこにいるのが当たり前な感じだった。福山のほうに働きにいっている兄は22時過ぎぐらいに帰ってきたのでいろいろ話をしてから、二階で寝た。不思議と懐かしいという感じがしないのがちょっと不思議だった。

 

11月12日

朝起きて母に作ってもらった朝食を食べてから父と一緒に墓参りにいく。かなり勾配の墓地なのでさすがに祖母も登れないし、股関節が悪くて数年前に手術でボルトを入れている母も当然来れないので、二人で掃除もかねて参った。父が前に来たのは8月末ぐらいだったらしいが、少し伸びた草とかを取ったり除草剤を撒いた。
曽祖父母の墓石には十字があるのはキリスト教徒だったからで、父も幼少期は家の近くのあった教会に通っていたという話は何度も聞いていたし、その時期の写真も見たこともある。この時ではないが夜に話をしていたら、父にとっては祖父である住平さんは内村鑑三となんらかに繋がりがあったらしいとのことだった。
内村鑑三ウィキペディアを見ると再臨運動というのをしている時期があり、それは東京や関西が中心だったがのちに北海道から岡山まで及び、多くの聴衆が出席したとあった。その時に聴衆として参加して内村の話を聞いて刺激されてキリスト教に改宗したのか、入信したのだろう。今まで我が家で内村鑑三という名前は聞いたことがなかったけど、知らないことの方が多いのが当たり前なんだろう。


「中国地方の子守唄」に関する看板。


墓参りから帰ったあとに父の車に乗せてもらって井原市立図書館へ。「中国地方の子守唄」に関する研究というか卒論であったり、生まれ育った高屋町の地名の由来や江戸時代に幕府の天領だったり、福山藩の一部っだったことなんかをあたらめて調べようと思っていた。
三階の実習室を借りて、井原市に残る伝説なんかについて井原市教育委員会が残したものなどを見て、持ってきていたMacBook Airでそれを書き(打ち)写していたり、二階から持ってきた資料を読んだりした。


三時間半ほどしてから図書館を出てから現在はリニューアルの改装中で一時閉鎖されている井原市平櫛田中美術館まで歩いていく。
小学生の頃はよく授業の一環で観に行っていたが、子供には怖さのある彫刻や建物だった記憶がある。大人になるとその凄さも多少はわかるようになってくるし、地元を代表する芸術家などでもっと知りたいと思うようになったし、なにかネタにはなるよなっていうところもある。
令和5年4月18日にリニューアルオープンということで中には入れないが、外見の見た目も前とは全然違う近代的な建物になっていた。ここに関しても父が話してくれたのだが、平櫛田中の代表作というと六代目尾上菊五郎をモデルにした「鏡獅子」だが、今リニューアルする前の平櫛田中美術館ができたころに内装の仕事をしていた父は「鏡獅子」が搬入されるときに手伝ったと言っていた。そういうことも知らなかったことのひとつだった。


平櫛田中美術館の外観を見てから井原駅へ向かった。駅の構内に設置されている場所は美術館が閉館中のこの時期には平櫛田中の作品がわずかだが展示されている。僕はそのことを実際には見ていなかったが、ネットで調べて自分の短編小説に出して書いていた。だから、一回はちゃんと自分の目で見たいと思っていたし、そこでもメインにしたのは「鏡獅子」ではなく「転生」という鬼が人を吐き出しているという作品だったのでしっかり直で見たかった。
井原市ゆるキャラ「でんちゅうくん」は不思議なキャラクターだ。というのはもちろん名前は平櫛田中から取られているし、彼の代表作である「鏡獅子」がモデルになっている。だが、この「鏡獅子」は先ほども書いたように六代目尾上菊五郎がほんとうはモデルだ。正確には歌舞伎役者の六代目尾上菊五郎が「鏡獅子」に扮した姿を平櫛田中が彫刻作品として作り上げたものをディフォルメしたものである。つまり、ほんとうのモデルである六代目尾上菊五郎の存在がポンと消えていることになっているとも言える。ゆるキャラにしてはモデルが明確に存在しているが、井原市と歌舞伎役者の六代目尾上菊五郎は関係はない。これは「ガンダム」シリーズにおけるモビルスーツには人間が搭乗していたが、「SDガンダム」シリーズになるとそのモビルスーツ自体がひとつの生命(キャラクター)になっている。そして、最終的にはそのSDキャラクターが巨大なSDキャラクターに乗り込むという不思議なことが起きていたのだが、その感覚に近いようなことになっている気がしなくもない。



いちばん直で見たかった「転生」。長い舌のようだが、よく見ると人間であり、生ぬるい人間は食うに食えないということを表していると言われている。だいたい二メートルの高さがあるが、筋骨隆々であり実際の人間の体型なので顔の表情がとくに印象に残った。一緒に展示されている「鏡獅子」の木彫彩色は思いのほか大きくて迫力があったが、こちらは彩色されているものがより見たくなるものだった。
今度帰ったときにはリニューアルオープンしているだろうから、その時は美術館で改めて観てみたいし、今のこのイレギュラーの状態を自分の目で見ることができてよかった。


平櫛田中作品を観たので井原駅から家までは散歩がてら40分ほど歩いて帰る。途中のホームセンターで風呂とトイレ掃除につかうカビキラーとかブラシを買ったらけっこう重かった。我が家はみんな足腰が弱くて屈むのもつらいのもあるけど、おばあちゃんがボケて活動的でなくなってからは掃除が完全に手を抜いているというかできていない感じで、久しぶりに帰ってみると基本的にはキレイ好きな人間としては風呂場やトイレの汚れが気になって仕方なかった。
近所の高屋川は水が全然なくて草がボーボーで、道を広げる工事をしていた。昔は泳いだり遊んだりした場所だったし、外来種である歯がオレンジ色のヌートリアも時折見たけど、だいぶ前からここは子供が遊べない、ヌートリアも住めない場所になってしまった。

家に帰ってから風呂場の壁のタイルにカビキラーをかけまくってからブラシでゴシゴシこすったり、トイレもできるだけ尿で黄ばんだ便器とかを汗まみれになって掃除をした。掃除しに帰ったわけではないけど、気になったままでそのままにしておくほうが気持ちが悪いのは性分だからどうにもならない。
掃除をしたあとに兄は仕事でいなかったのでまた四人で晩御飯を食べた。そのまま僕はずっとビールを飲みながら、おばあちゃんと父と母といろんな話をした。おばあちゃんはボケがかなりきているから同じことを何度も聞いてくるし、それに答えてもわかっていないところがあったり、叔父(父の弟で祖母の次男)が生まれた時に未熟児だったのか小さくてダメになるかもと思ったということを何度も話すが、僕と叔父が入れ替わっていた。次男繋がりなんだろうか、父も母もそれは違うとか言っても繰り返された。よほどインパクトが強かったのか記憶に残っていていて、事実ではないことが本当のことのように混濁しているんだろうなって一緒にいるとよくわかった。
おばあちゃんとは指相撲を何度かして全部僕が勝ったけど、その握る力がほんとうに強くて100歳越えてるのにあんなに力が出るのはすごいなって思った。シワシワの手はとてもあたたかった。

 

11月13日
外から小さな雨の音が聞こえていたが、ご飯を食べるころには次第に強く降るようになっていた。おばあちゃんと最後に挨拶をして握手というか手を握ってお別れをしてから福山駅まで父の車に乗せてもらったが、雨はやまずにずっと降っていた。
渋滞するかもしれないので早めに着いたので一時間前の福山から品川の乗車券に変えてもらって11時台ののぞみに乗った。指定席はほぼ満席だった。そして三列席の真ん中だったのでほとんどそこに座った状態だったので腰がかなり痛くなった。
新幹線は品川駅で降りて、山手線で渋谷駅まで行ってからそこからは歩いて帰ったが、東京は雨が降っていなかった。


夕方過ぎてからニコラにお土産のもみじ饅頭を持って行って、ガトーショコラとアルヴァーブレンドをいただいた。いつもの馴染みのある場所とコーヒーのあたたかさは落ち着くものだった。

STUTS×SIKK-O×鈴木真海子 - Summer Situation (Live at USEN STUDIO COAST 2021)


好きな曲のライブバージョンがアップされていた。

 

11月14日

コトゴトブックスで注文していたアアルトコーヒーの庄野雄治著『融合しないブレンド』(【限定焙煎「融合しないブレンド〜コーヒー豆ver.〜」&特製ブックカバー&古書付き】)が届いた。『融合しないブレンド』が出る頃にどこで買おうかなと思っていたが、ちょうど木村さんとお茶をした後ぐらいだったのでコトゴトブックスでお願いしていた。
金曜日に配達されてきたが、ちょうど実家に帰った日だったので、今日再配達してもらった。古書は向田邦子著『寺内貫太郎一家』だったのも、家に帰って戻ってきたタイミングだとなんか符号する感じもする。
ニコラにヘルプで入る時しかコーヒーを淹れないので、豆が届いたら家でも淹れてみるタイミングとしてはいいかなと思ったのもちょっとある。最近はいろんな人の日記やエッセイを読んでいて、ちょうど読み終えたので寝る前に一編ずつ読もうかな。

午前中に行った整骨院で腰と背中がいつも以上にバキバキに固まっていると言われた。確かに新幹線の往復もだし、普段は仕事終わりにしているストレッチなんかもまったくしなかったから固くなってしまうわけだ。今週はもう一回来ればと言われたのでタイミングを見て行こうと思った。
大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の最新作は昨日寝る前に見たけど、木曜日放送の『silent』最新話は朝晩のリモートの作業中には集中して見れないなと思ってまだ見れていない。先週の金曜日の深夜からのラジオを聴くだけでほとんどの時間はたのしめたから助かった。

僕はあと8ヶ月で60歳になるんですけど……年齢は感じますよ。年齢を超越できる人間はいない。20歳、30歳、40歳、50歳は何にも感じませんでしたが、今59歳になって、何と言うんですかね、サナギが蝶になる感じというか。それは青年というか若造みたいだったのが、おじさんやパパという時期を越して、いきなりおじいさんになる感じというか……。実際、僕は家庭と子供が無いので、パパっぽい時期が無いんです。写真を見てもずっと同じ顔をしていて、50代で流石に変わるかなと思ったら変わってなくて。コロナ禍は偶然ですけど、57、58歳になって急に変わってきた。もちろん変わらない部分もあるんですけど、現実的に老けるということがドサッと襲ってきたのは事実ですね。なので年齢は感じていて、これを表現に使わない手は無いなと思いますし、自然に反映されますね。最終的に70歳や80歳になると老けて体が動かなくなって円熟していくしかないかもしれないですが、60歳はまだ暴れるおじいちゃんなんです。おじいちゃんの第一形態というか。
(中略)
個人的には今が一番アナキズムです。海外には(ウィリアム・S・)バロウズみたいなかっこいい80歳もいましたかしね。ああいう極端な例は日本にいなかったですが、バブル期を20代で経験して、60歳になった人の動き方はあるでしょうし、今まで日本にいなかったようなタイプの人たちが出てくるのかもしれないですよね。歳を取ったら円熟というのは希望で言っているだけで、円熟なんか80歳になっても遅くない。あんちゃんメンタリティーがおじさんメンタリティーに変わっただけですよ。

3年ぶり関西公演「かっ飛ばす」菊地成孔とペペ・トルメント・アスカラールーー菊地成孔が語るダンスカルチャー、60歳を迎える「サナギが蝶になる感じ」

菊地さんのインタビューがあった。ぺぺまた観たいけど今回は東京はない。ドラマ『岸辺露伴は動かない』の主題歌である『大空位時代』を音源で出してほしい、そしてまたライブで聴きたい。

 

11月15日
スマホを使うにしてもそれでYouTubeばっかり見ていると結局ひろゆきやDAIGOやガーシーの方へ流れて信奉者というか疑いがなくたのしいよとか言うようになって、こちらとしてはリテラシーなくなってるぞという方に行くけど、radikoでラジオを聴いている人はあんまりそっち側にはいかない気がする。その差はなんなんだろうと考えていた。その差は今の時代にはすごく大きなことだと思う。
最近のラジオは同時に映像も配信しているけど、やっぱりラジオ局とそこのスタッフが作るということは出る側にきちんと緊張感があるんだと思う。もちろん聴衆率が低ければ番組は終わるんだけど、やっぱり公共の放送というパブリックなものというのがデカい。YouTubeという枠組みの中でやっている人は出演者が編集したりとスタッフを兼ねている人もいるが、スタッフも自分で雇ったりしていると他者性や客観性がどうしてもなくなっていくし、数の論理で過激なことだったり数字を稼ぐために逸脱してしまう部分が出てくる。もちろん過激なものはおもしろいし刺激的だが、大事なものを売り渡したりしてしまう可能性がある。そういうものに直感的に嫌悪感を持っているのだと思う。だから、この辺りの問題はいかに客観性を持つか、パブリックなものとはなにかをある程度は考えていないと刺激を求めて過激なほうへ、カルトな方へ向かいやすいのかもしれない、などと寝起きの頭で思った。

午前中は去年末に泌尿器科でもらったボアラという軟膏がなくなっていたので、久しぶりに病院に行って新しいのを処方してもらおうと思って雨の中駅近くにある病院に向かった。僕の前にはひとり待っている人がいたので順番的に二番目だったので9時半の診察開始から5分以内には診てもらえた。
症状自体は悪化していなくてストレスとか体調を崩すと抵抗力とか弱くなるので皮膚が赤くなるというのは変わらないみたいだった。軟膏の処方箋をもらって帰る途中に軟膏を出してもらった。前は口唇ヘルペスがストレスとかではできやすかったが、今年になってからは二週間ぐらいで治っては気がついたら赤く炎症するというのを繰り返していた。思いのほかわかりやすい体だった。

11日に実家に帰ったので毎週見ているドラマをTVerで見るタイミングがなかった。『エルピス―希望、あるいは災い―』第四話「視聴率と再審請求」と『silent』第六話「音のない世界は悲しい世界じゃない。」はじっくり見ようと思っていたので今日ようやく見ることができた。『鎌倉殿の13人』は昨日見たけど、その二つとはなんか違うのは大河ドラマで今までずっと見ていて物語も終盤であり、主人公の義時はダークサイドに落ちているのと現代劇ではないと言うのもあるような気がする。

『エルピス』は主人公の浅川恵那がずっと飲み込めないこと、吐くという行為が最初から描かれていたが、もう一人の主人公である岸本拓朗もチーフディレクターの村井によって自分の過去と向き合わされることで吐くという行為、そして覚醒への始まりに至るという展開になっていた。
「勝ち組」という言葉に翻弄されつつもしがみつき、ずっと自分と母親は負け続けているのだという拓朗の告白、白と黒の勝ち負けの二元論では掴めない、その中にあるグラデーション、それぞれに感じるものや立場をいわゆる勝ち組と呼ばれる場所にいるはずの青年が語るシーン。その構図もテレビ局における人間関係や権力や利害関係も重なっていく。
村井役の岡部たかしさんを僕がちゃんと認識したのは小泉今日子さんの会社「明後日」の2018年の公演舞台『またここか』だった。でも、僕の感触では明らかにそれ以降にテレビドラマや映画で岡部さんを見る機会は一気に増えた気がする。映像関係の人が観に来ていてそこからキャスティングされる機会が増えたんじゃないかなと思うのだけど、実際はどうなのだろう。
『エルピス』は内容的に集中して見ないといけないと感じるし、見終わると恵那たちのような吐き気というか胃に重いものがたまるような、すぐに咀嚼できないものが現れたような気になる。それもあって何度もすぐに見返せるタイプのものではない。

続けて『silent』を見始めて思うのは、『エルピス』とは方向性は違うがこちらも目が離せない内容であること。当然ながら手話のシーンでは字幕は出るが、手話のわからない僕たちは画面を見る以外になにを話そうとしているのか伝えようとしているかがわからない。つまり、手話を扱ったこのドラマはながら見が非常に難しい。
『silent』はもはやスマホで映像や音楽を垂れ流ししながら、ほかのことができるようになった世界において画面を見ないと内容がわからないものとなっていて、そのある種の不自由さが釘付けにするものになっていると思う。しっかりと見るという環境に視聴者を置ければドラマがしっかり作られていれば深く届くという証左なんだろう。手話は映像的に映えるということだけではなく、画面をしっかり見るしかないという状況に視聴者や観客を向かわせることになっている。
第六話は想と大学時代から友人になって、彼に片思いをしていた生まれつきの聾者である奈々にスポットがあたった回になっていた。二人が出会った数年前は今のようにショートではなくセミロングぐらいの髪の長さの奈々を夏帆が演じている。そうそう昔の夏帆だって感じにもなった。
2007年公開の渡辺あや脚本『天然コケッコー』の主演が夏帆であり、ある時期までの彼女はその時のイメージが強く残っていた。映画自体は素晴らしすぎてmixiにすごく熱のこもった文章を書いたはずだ。舞台が自分の地元を彷彿させるものだったのも大きかった。夏帆黒沢清監督によるドラマ『予兆 散歩する侵略者』と宮藤官九郎脚本『監獄のお姫さま』ぐらいから一気にフェーズが次に入った感じがする。
想の高校時代の彼女であり、東京で再会した紬に会いに行った奈々はカフェで手話でのやりとりの中で、紬が想から手話を習っていると言われ、「私が想くんに手話を教えたの」「プレゼント使いまわされた気持ち」「好きな人にあげたプレゼント」「包み直して他人に渡された感じ」と手話で伝え、彼の声はどんな声と聞く。好きな人と電話したり、手を繋いで話をしたりする夢をたまに見るのだと、それに憧れるけど相手ができてもその夢は自分には叶わないのだと、手に入ることはないのだと伝えることになる。このあとの最後に奈々と想が路上で会うシーンで一気に持っていくのだけど、なんというかほんとうにすごいなって、奈々が主人公の恋敵というよりも彼女にも視聴者は感情移入できたし、立場の違いも明確にしているが聾者でもグラデーションがもちろんある。それは『エルピス』の拓朗における勝ち組のそれとも重なっている。
「私が想くんに手話を教えたの」「プレゼント使いまわされた気持ち」「好きな人にあげたプレゼント」「包み直して他人に渡された感じ」という手話のセリフは本当にすごいなと改めて思った。

 

11月16日
RAMU - Aoyama Killer Monogatari (Night Tempo Showa Groove Mix)


昨日放送した『マツコの知らない世界』の特集「80's Japanese POPSの世界」 のゲストがNight Tempoだったので見ていたら、最後にスペシャルゲストで菊池桃子さんが出てきたのだが、菊池桃子さんと夏帆さんは同じ顔の系統な気がする。その間の中間の顔があるとよりわかりやすいと思うのだが、個人的には系統は同じだと思うんだよなあ。


昨日買った田中慎弥著『完全犯罪の恋』講談社文庫版と加藤シゲアキ『できることならスティードで』朝日文庫版を休憩中にちびちび読む。
朝晩とリモートワークだったけど、整骨院に今週は二回行けたので腰の調子がかなりよくなった気がする。先日の雨で一気に冬になったような肌寒さだし、コロナの陽性者も東京はまた一万人を越えて始めてきたのでいろいろと年末に向かってまたヤバい感じになってきた。

 

11月17日

『silent』第6話を見返した。いわゆる主人公の恋敵であるポジションの奈々(夏帆)にスポットがあたる回。終盤の紬(川口春奈)と奈々がやりとりするシーンにおける奈々のセリフ(手話)のすごさ、ラストのスマホを耳に持ってくるシーンでの彼女の夢と現実の決して埋まらないものを見せる演出がやはりうまい。
とはいえ、もはや恋敵ですらここまで視聴者に感情移入できるように描かないとドラマを見てもらえないし、テンプレ的な性悪女的なものはやりにくいというのもあるのだろう。
ブラックパンサー/ワカンダフォーエバー』でも今回のヴィランであるネイモアと彼が統治する帝国とワカンダの戦いも同様であり、ネイモアたちはスタンダードなテンプレ的な悪ではなく、第三国や当事者以外の存在の利害関係や政治的なものによってワカンダと戦うしかなくなる。
9.11以降の世界では勝ったものが正義であり、それぞれの価値観と利害のための正義と正義が戦い殺し合いだした。勝てば正義とされ、負ければ悪となる。自己責任という言葉もそれに拍車をかける。
安倍政権の長期化(それを支え続けた統一教会について右翼は文句を言わないのだから、もはや右翼は右翼ですらない。日本とか政権与党になにもない自分を重ねている奴は中年男性から上が多いのはわからなくもないが、トランプ支持者の白人男性たちと変わらないメンタリティだ)や、トランプが大統領になってポスト・トゥルースが蔓延してしまったから嘘や虚偽でも数を取ればよくなるし勝てばなにをしてもよくなると考えるやつが増加する、三権分立や民主主義を破壊してもよい、嘘をつき続けて責任を取るとだけ言ってなにしなければ国民は忘れていき責任の所在はなくなる。
ウェブでの数字やviewが取れれば勝ちとなる世界ではかつての教養や知識はバカにされたり、意味を失う。品や教養がない世界になるのは経済的な貧困さが増しているのもあるし、スマホばかり見ていたらアルゴリズムによるオススメの行く末は想像に難くない。自分で考えることを放棄していることにすら気付けなくなってしまう。
大きな物語が終焉したあとに細分化と断絶が増していく世界では、人は繋がりすぎてもいけないしアルゴリズムに支配されない未知との遭遇がより重要になる。分厚い本が鈍器でもあり、時代に対する一緒のテロに、読者はある種のテロリストになるということを古川さんが前に話されていた。そのことが日に日に沁みるようになっているのは、時代や環境や周りの人たちと自分の関わり方もあるのだろう。
『silent』や『ブラックパンサー/ワカンダフォーエバー』はこんな時代のいい側面のひとつだとは思う、だけど反対側の部分がひどすぎる。


去年、ニコラが10周年の時に出した『Nicome Vol.6』二刷りができたので、お店に行った時にいただいた(寄稿者だから)。ニコラでお茶やお食事をする際にお土産として連れて帰ってもらえるとうれしいです。

 

11月18日

朝晩とリモートワーク。このままだと家から出なくなってしまうので昼休憩時に渋谷に散歩がてら行く。ついでに日曜日観ようと思っていた映画の日時指定券を購入した。その帰りに東急百貨店 渋谷・本店前の信号を渡ろうして建物を見上げたらなぜか『左利きのエレン』とのコラボの「閉店SALE」の垂れ幕がかかっていた。
いつも渋谷に来ると顔を出すのは七階の丸善ジュンク堂書店。広さももちろんだが品揃えも多岐にわたっているし、外国の文学や小説、外文がしっかり揃っているのもありがたい書店なので、百貨店の建て替えと再開発の関係で1月末で閉店というのはかなり痛い。
渋谷で外文がしっかり整っているのはここぐらいだったし、青山方面まで行けば青山ブックセンター本店があるが、歩いて行くにはちょっと遠い。代官山蔦屋書店も外文はあるが棚があまりなくて、年々書籍の棚は減っている。新刊系はあるが昔の作品を、と思ってもないことが多いのでたいていは丸善ジュンク堂書店で買っていた。
渋谷は2002年に上京してから単館系映画館に足を運ぶことで馴染んでいった街だったが、その映画館もなくなったり移動したりして、かつてとは全く違う状況になっている。東急百貨店一帯が再開発されて新しくなった時には前のこの景色はどんどん薄れていくだろうし、渋谷っていう場所は留まらないから景色が変わり続けていてほんとうに生き物みたいだと思う。

リモート作業中と休憩中はビュロー菊地チャンネルのフェイクラジオ「大恐慌へのラジオデイズ」と radikoで『ハライチのターン!』『おぎやはぎのメガネびいき』『ナインティナインのオールナイトニッポン』『マヂカルラブリーオールナイトニッポン0』を聴いていた。

大恐慌へのラジオデイズ」の最後の20分ぐらいでジャニーズの話、というかKing & Princeの話があって、僕はあまりキンプリのことは知らないけど、ジャニーズ帝国の中心人物であるジャニーさんが亡くなり、SMAPがいなくなったあとのSMAP席を彼らにという部分があったのであれば、かなりの負担もあっただろう。グループ名は本来なら玉座につく正当な王というものだが、祝福が反転し呪縛になってしまって彼らは離脱するしかなくなったようにも見えなくもない。

是枝裕和×坂元裕二が初タッグ!映画「怪物」来年公開、「夢が叶ってしまいました」

坂元さん脚本ということで非常に観たいのだが、今の所タイトルが『怪物』というだけでキャストも内容もわからない状態。特別映像では少年二人が森のような緑豊かな場所にいるということだけしかわからない。どちらかが成長した姿が菅田将暉さんとかが演じるんじゃないかなと、『花束みたいな恋をした』から引き続き坂元裕二脚本映画に出たりしないかなと期待している。

 

11月19日

サム・ファーザーズが彼の師であり裏庭の兎とリスが彼の幼稚園であったなら、老いた熊が動き回る森は彼の大学であり、老いた雄の熊自身、もうずっと前に妻を亡くし子もいなくなったので今や性を超越し自らの祖先と化していた熊自身が彼の最終学歴だった。
ウィリアム・フォークナー著/マルカム・カウリー編/池澤夏樹訳/小野正嗣訳/桐山大介訳/柴田元幸訳『ポータブル・フォークナー』収録『熊』P265より

寝る前に読んでいた『熊』に出てきた一文。すごく印象に残ったのでメモしておいてこうやって書き出してみると「彼の大学であり」以降の文章ってすごく複雑だ。
そもそも意味が分かりにくいのはフォークナーぽくもあるけど、これたぶん今のプロの作家が書いたら編集者や校閲からチェックが入ると思う。流れるような文章ではないけど、うまく咀嚼できないというか気になってしまう強いインパクトがある。しかし、この『熊』は読んでいると異様に眠くなる。


起きてからTVerで『silent』第7話を見る。前回の奈々が紬に言った「プレゼント」ということが回収というか違う意味に転換する内容だった。彼女が想にあげたものを包みなおして紬に渡されたというセリフがあったが、ふたりが人間として向き合い話をすることで、その意味が反転してそのことに意味と喜びを感じたような感じになったほっこりするものだった。最後には手話教室の教師である春尾(風間俊介)と奈々が知り合いであるということが最後に視聴者にわかって終わった。
奈々への好感度というか視聴者は感情移入できる回が続いたので、このあとにどう主人公である紬へ主軸を戻していくのかが期待。タイトルの『silent』は難聴になって耳が聞こえなくなった想と紬のやりとりが手話になったことなんかも含めていると思うが、さすがに最終回とかで紬の耳が聞こえなくなるみたいな展開はやらないだろうし、90年代ならやっていたかもなって。野島伸司脚本『この世の果て』みたいなラストは今の時代にはやらないと思うし、プロデューサーも脚本にOKは出さないと思うから、衝撃的なラストではないだろうけど、ここまで注目を集めたドラマが紬と想が結ばれるみたいな終わり方以外にはどう着地するのか。あとは想とその母の律子(篠原涼子)の親子関係とかも出てくるかな。

近藤恵介・古川日出男|読書会「古川日出男、長篇詩『天音』譚」


長篇詩『天音』刊行記念イベントの情報がなかなかでなかったが、今日やっと出た。イベントの日時が来週土曜日だったので出していたシフトを調節してもらって行くことにした。というか絶対に行きたかったから休ませてくれなかったらめちゃくちゃねばったと思うが、いつも遅刻もせずにしっかりシフトを守っているのでOKはすんなりだった。よかったよかった。
詩人・古川日出男としてのモードを見たいと思っていたし、近藤さんと古川さんはLOKO GALLERYで何度も協働で制作してきたから場所(上記の写真はその時のイベントのもの)としては一番最適なのはよくわかるからこそ、ここでのイベントには行きたかった。来週が楽しみだ。

 

11月20日

前から楽しみにしていたアレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ監督『バルド、偽りの記録と一握りの真実』をヒューマントラストシネマ渋谷の朝イチの回にて鑑賞。

公式サイト

「レヴェナント 蘇えりし者」「バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)」で2年連続のアカデミー監督賞受賞を果たしたアレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督が、自伝的要素も盛り込みながら、ひとりの男の心の旅路をノスタルジックに描いたヒューマンコメディ。

ロサンゼルスを拠点に活躍する著名なジャーナリストでドキュメンタリー映画製作者のシルベリオ・ガマは、権威ある国際的な賞の受賞が決まり、母国メキシコへ帰ることになる。しかし、何でもないはずの帰郷の旅の過程で、シベリオは、自らの内面や家族との関係、自らが犯した愚かな過去の問題とも向き合うことになり、そのなかで彼は自らの生きる意味をあらためて見いだしていく。

イニャリトゥ監督にとっては2000年に発表した「アモーレス・ペロス」以来、故郷メキシコで撮影した作品となった。「バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)」「Biutiful ビューティフル」も共同で手がけたニコラス・ヒアコボーネとイニャリトゥ監督が脚本を担当し、「愛、アムール「セブン」などで知られる撮影監督のダリウス・コンジが65ミリフィルムでメキシコの風景とシルベリオの旅路を美しくとらえた。主人公シルベリオ・ガマを演じるのは、「ブランカニエベス」などで知られるメキシコの俳優ダニエル・ヒメネス・カチョ。2022年・第79回ベネチア国際映画祭コンペティション部門出品。Netflixで2022年12月16日から配信。11月18日から一部劇場で公開。(映画.comより)

観ていて感じたのはラテンアメリカ文学におけるマジックリアリズムをガンガン映画で映像でやりまくってるなあというもの。前々作『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』から引き継がれてるものもあるし、わかりやすさとか楽しいエンタメを求める人にはまったく勧めない。たぶん、理解ができないから。しかし、アメリカ文学の巨匠であり、サーガを描いたウィリアム・フォークナーと彼の影響を受けたマリオ・バルガス=リョサガブリエル・ガルシア=マルケスたちラテンアメリカ文学好きな人たち、そして、日本文学ならば大江健三郎中上健次古川日出男作品を読んで好きな人には刺さる一作。彼らの小説を実写化でやるとかなり近いものになるのではないかと思う。だから、彼らの作品を実写でやるのは並大抵ではないし、難しいのだなと逆説的にわかった気になった。
今作はネトフリが作って配信される映画だが、先に一部映画館で公開という作品である。製作費がすごくかかってるのがよくわかるのは画だけでなく、作中に出てくる家の大きさや調度品やパーティー会場などもだが、出てくるエキストラの人数もかなり多い。金持ちの道楽じゃないけど、金があるところと(互いの利益や考えはあるとして)映画製作者が組んでやるからできる映画芸術というものはある。
こんなもん(褒めている)世界中で理解したり楽しめる層は一部しかいないよ、とは思わなくもないのだが、それは日本に住んでる僕の感覚だし、海外の人はわりとラテンアメリカ文学的な世界観は理解してるのかもしれないと考える。ゴダールの映画(『勝手にしやがれ』『気狂いピエロ』)でもフォークナーの名前や彼の作品名出てくる(かつての教養としてなのかもしれないし、当時ゴダールがたまたま読んでいたのかもしれない)し、ラテンアメリカからの移民は世界中に数えきれないほどいるわけで、ネトフリなら世界中の至るところで観られるのだからしっかり評価もされるし楽しめる人も多いのかもしれない。日本だと受けは悪いだろうなってなんとなく思ってしまうが、『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』が楽しめた人は絶対に面白がれる。あの批評性とかが好きならばニヤニヤすると思うんだけど。
アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ監督の批評的な視線と作風、創作者とその人物が作り出した作品との関係性があり、その現実と創作のミルフィーユみたいな多層構造の接ぎ木みたいにマジックリアリズムが使われているのも映像としてかなり意欲的に意図的にやっているから、ところどころでやりすぎだよと思って笑えてきたけど、素晴らしい作品でした。

 

11月21日
朝と晩リモートワーク。隙を見て整骨院へ行って診てもらう。先週は腰がガチガチだったけど、今週は多少はマシになっていた。先々週は新幹線での往復でずっと座りっぱなしだったし、実家にいるときは普段やっている肩甲骨や腰なんかを動かす体操をしていなかったのでモロに影響が出ていつも以上に肩甲骨や腰なんかが固くなっていた。治療後にほかの患者さんがいなかったので普段は診てもらっている時に話す程度だが、終わってからも少し先生と世間話をした。
週に一回実際に会って話すというのはこの整骨院とニコラしかないけど、こういう距離で通えて顔を見て話せる場所があるというのはコロナパンデミックになってからかなり助けられている。
その後、実家からお米を送ってもらう日について母からメールが入っていたので返信をする。兄の勤め先が尾道のほうに支店を出すのでそのスタッフとして呼ばれているらしく、実家からだと高速使ったりしてもかなり時間がかかるので会社が借りてくれたウイークリーマンションに住むことになるというのは帰った時に聞いていた。とりあえず、今日広島のほうに行ったようでしばらくはそちらで生活するらしい。そうなると実家は祖母と父と母だけになる。メールを送ったら母から電話が来て話をしているとそれなりに寂しいのだろうなと感じた。そう考えると今月上旬に帰郷したタイミングはちょうどよかった。ボケが進んでいる祖母はおそらく兄が仕事から帰ってこないみたいな感じでそのことを父と母に何度も聞くことになるのだろう。

『われらが歌う時』以降のリチャード・パワーズ作品は新潮社から刊行順にコンスタントに出版されていてうれしい。『オルフェオ』以降には刊行の翌年には日本語で読めているのはすごいし素晴らしいことだと思う。
『われらが歌う時』はオバマ元大統領誕生を予見したみたいな小説でもあるのだが、単行本は絶版になっているのか、新潮社のサイトにはなくAmazonでも下巻が高くなっている。文庫版は出ていないので今はなかなか読むのが難しくなっているのがもったいない。

 

11月22日
Mirage Collective - Mirage (Studio Live Session) 



YONCEに加えてbutaji、長岡亮介ハマ・オカモト、荒田洸らも「エルピス」主題歌に参加


00時までリモートで仕事をしていたので、終わると同時でMirage CollectiveのYouTubeチャンネルで配信公開されたYONCEがボーカルのライブセッションをリアルタイムで見る(聞く)。
『大豆田とわ子と三人の元夫』でも組んでいた佐野PとSTUTSが再びという形になっている。「大豆田〜」でも主題歌にはいろんなバージョンがあったが、今回もそれを踏襲するというかバージョンをいくつか用意していてアルバムとしてもリリースするということらしい。こういうこともしっかりやっているのはおもしろいことがやりたいからだろうし、同時代のジャンルが違う人たちと何かを作るということも含めていろんな戦い方があるのだということ、そしてニュースになったり話題になることを仕掛けていくことで作品自体をさらに広く届けようとする強い意志の現れだと思った。

曲を聞いてからドラマ『エルピスー希望、あるいは災いー』第五話「流星群とダイアモンド」を見る。前回は恵那が正義にまっすぐだったが、今回は拓朗が突っ走るという展開。
いろんな力によって恵那は冤罪事件のことを諦めかけており、拓朗がひとりで取材を進めていくことになる。そこで死刑囚の松本が逮捕される一番大きな決め手となる証言をした男に不信感を覚えた拓朗が彼の周りの人物たちに体当たりのように話を聞き込みしていく。そこで彼の発言が虚言であり、それによってなんらかの報酬を得続けていることが元妻からの証言を撮影することに成功する。
拓郎は前の恵那同様にスタッフをだまして生放送にそのインタビュー動画を流そうとするがそれはバレてしまい叶わない。だが、チーフプロデューサーの村井に共犯だと思われた恵那はその動画を放送後に呼ばれて見せられ、拓郎がとんでもない取材をしたことを知って冤罪事件をあらためて追いかけようと決める。という流れだった。
警察や検察の判決を覆すことになる元妻の証言。だが、恵那の元恋人である政治部の斎藤の存在と彼を可愛がっている現副総理の大門は警察庁長官の出身であり、今後どのように二人が暴こうとする真実の前に立ち塞がるのかが気になる。今の所だと真犯人は大門や警察か政府の有力者の関係者であり、それを隠蔽しているような匂わせも多少あり、三億円事件の犯人が警察や政府関係者の子供だったという説辺りを参考にしているのかもしれない。三億円事件に関しては実は事件自体が作り事で当時の過激派や学生運動をやっていた連中をローラー作戦的にしょっぴくために行われたという話もある。国家権力というものは時にその暴力装置を使うことをためらわず、大きな力によって個人を簡単にひねりつぶすことができる。真相はわからないことが多く、ブラックボックスの中は一般市民には触れられない、見ることはできない、知ることはできない、その中を知ろうとすると消されてしまう、という可能性はゼロではないが、同時に陰謀論的なものもそのせいで出てくることになってしまう。陰謀論的なものを語る人がすべて嘘ではないとしても、生半可な気持ちでそういうものに深く入れ込んでいくと単純に信じていたもの全部を疑うことになってしまう危険性もある。そういう意味でほんとうに今の世界はややこしすぎる。おそらくこれから後半は個人と集団(国家権力)というものをさらに深いところで描いていくドラマになっていくはずだ。一回放送分をほんとうに見るといろんな感情が沸き出てしまい、眠れなくなってしまう。


仕事が終わってから親友のイゴっちと久しぶりにご飯に行く。何を食べても美味しい居酒屋さんでたくさん食べてビールを飲んだ。気心知れているからこそ言えることや話したいことがあって、それが言い合えたし聞くことができてとてもたのしい時間だった。
二軒目ということで駅近くのすずらん通りの中にあるクラフトジンを中心にした「BAR CIELO」というところに入った。バーテンダーの人にいろいろ説明してもらいながら四杯ほど僕は飲んだ。イゴっちは飲み比べとかしながらいろんなジンを楽しんでいた。
ふだんまったくお酒を飲まないけど、こうやって一緒に飲みながら時間を共にできるのはたのしいことだし、信頼してる人じゃないと長い時間は無理だなって思う。あとこういう感じで楽しく飲めた日の後はほとんど二日酔いにもならないのが不思議だ。

 

11月23日

起きると窓の外では雨が降っている音がしていた。休みだから代わりに昨日出勤していたので夕方の仕事までは時間があるから、21日に発売になった古川日出男長篇詩『天音』を買いに行こうと思って家を出た。
雨は降り続けていたので傘を差して歩いて丸善ジュンク堂書店渋谷店に行ったけど置いていなかった。昨日の時点で入荷したとツイートしていた紀伊国屋書店新宿店に行くのがベストだと思ったので副都心線に乗った。新宿三丁目駅で降りれば傘を開けずに地下から紀伊國屋書店に行けるから雨もさほど気にならない。
祝日だけど雨ということもあるのか電車の乗客はそれほど多くなかった。二階の詩集が置いてあるレジ近くのコーナーで『天音』がポップと共に数冊積まれているのを見つけ、写真を撮ってから購入して帰る。
コーナーのところの写真は無断で撮っているのでネットでは上げられないなと思いつつ、渋谷駅までの帰りの電車の中でGoogleフォトで撮った写真を確認しようとしたら「この日を覚えていますか?」みたいな過去の画像を勝手に集めたものが画面の上に出ていた。
今日は昔付き合っていた人の誕生日なので、その関連の画像が出てきた。彼女が『ハル、ハル、ハル』の単行本を貸してくれなかったら古川さんの小説を読まなかったし、それがきっかけだったからそんな日に『天音』を買うのはちょうどいいなって思えた。
『ハル、ハル、ハル』を読んでなかったら、たぶん『ゼロエフ』の取材で古川さんと一緒に福島県宮城県を歩くこともなかったし、作中に僕が出てくることになかったと思う。そう考えると人になにかを貸すとかおすすめすることで人生が変わっちゃうことがあるのは、とてもすごいことだし怖いことだしおもしろいことだなって。だけど、やっぱりその時にデータじゃなくて本だったりCDだったりと物質であることが大事だと思う、手渡すことができて返す時にも手渡すことが前提だから。

今回はこの曲でおわかれです。
オーニソロジー - アマリリス (Official Video)