Spiral Fiction Note’s diary

物書き&Webサイト編集スタッフ。

Spiral Fiction Note’s 日記(2022年11月24日〜2022年12月31日)

先月の日記(10月23日から11月23日分)

11月24日

古川日出男長篇詩『天音』を朝起きてからゆっくり読む。『ゼロエフ』の終盤から通じるものも感じられたし、「日本」について内外の空と陸と海から詠うリズムと言葉と視線があった。不思議な読み応えだった。
「日本」というものを描くとすると「天皇制」の起源となる日本神話に、国産みの話は外せない。そこには空と陸と海があるから、彼方の宇宙へと向かう意志と物語がある。空の海は彼岸であり、大地は此岸であり、人間とは空と大地の間で生きている。浮かび続けることはできないから何度も飛び跳ねてその重力に抗う。やがて肉体が滅べばそこから解放されて空へ、宙へ、彼岸へ向かう。
古川日出男論を書くとしたら外せないものとして「捨て子たちの貴種流離譚としての天皇小説」というものが軸になると前から思っている。フィクションから始まった国だからこそ、その連なりにある「天皇制」と「国家」を描くことが外で戦う時には限りなくドメスティックで世界に通じる特殊なものとなる。だから、この長篇詩は内外に開かれているし向いている。
長篇詩にカブトガニが出てくる。一般的にはどうなんだろう、馴染みはあまりないものなのだろうか、僕が高校で通っていた笠岡市にはカブトガニ博物館があったし、小さい頃からカブトガニという存在には馴染みがあった。それもあって偶然だが先日実家に帰った際に、図書館でカブトガニについてちょっと調べていたからシンクロしているようだった。
作品を並べてみると『天音』は持ち運べるサイズなのがわかるが、『おおきな森』がほんとうに鈍器というのがよくわかる。


『天音』を読み終えてから休みだし映画でも観に行こうかと思って家を出て渋谷に向かった。映画の上映の一時間以上前に渋谷についたのでSyrup16gのニューアルバム『Les Misé blue』が出ているからちょっとタワレコに寄ってみた。
ドラマ『silent』で主人公の紬が働いているので聖地というか、お客さんも増えたりしているのだろうか、平日の午前中だったし新譜が出るという日でもなかったからお客さんはそこまで多くは感じなかった。
昨日からYouTubeSyrup16gのチャンネルでアルバム収録曲全部聴けるようになっているが、やはりCDを買ってお金を払いたい。今はMacBook Airに繋げている外付けHDが修復不可能でそこにiTunesのデータを入れているので新しくは音源を読みができないが、来月には新しい外付け買うし、そこに今使っている外付けのデータを移行させてから読み込ませればいいやって思った。とりあえず、出てすぐ買うことがいちばんのファンとしての貢献なので購入した。映画を観るという気はしなくなったのでそのまま家に向かって歩いて帰った。

 

11月25日
「BOOKSTAND映画部!」のレビューコーナー「月刊予告編妄想かわら版」2022年12月号が公開されました。12月は『ワイルド・ロード』『MEN 同じ顔の男たち』『ケイコ 目を澄ませて』『ジャパニーズスタイル』を取り上げました。


古川日出男の現在地」2022年11月25日「依然、熱も出さない」

私は、私の朗読というアクションには〈文学〉があることを信じていて、かつ、あらゆる音楽、そのうちの力強さを秘めた〈音楽〉には〈文学〉を駆動させるものがある、本源にあるのだと確信できているからだ。私は何を言っているのか? ほとんどの人間は言語を用いて思考していて、つまり、その人というのは言語から成り立っていて、だから〈文学〉とは人にじかに触れるものなんだよ、それでもって〈音楽〉は人を直接揺さぶるし。ほら、言いたいことはわかるでしょう? ということだ。

明日は読書会「古川日出男、長篇詩『天音』譚」がLOKOGALLERYで開催される。朗読をされるのかはわからないけど、そこで僕は〈文学〉に直に触れることになるはずだ。刺激的で魅力的な時間と空間において。



今月中旬過ぎに出ているのに気づいて購入したマリオ・バルガス・ジョサ著/寺尾隆吉訳『ガルシア・マルケス論 神殺しの物語』を少し読み始める。
インスティトゥト・セルバンテス東京で開催された『「ラテンアメリカ文学のブーム」の原点―マリオ・バルガス・ジョサ『街と犬たち』の魅力』を聞きに行った際に話に出ていた一冊。長い間、絶版になっており、研究者でも読むのが難しい感じになっていたものが復刊された形だ。
しかし、二段組で500近くある。マリオ・バルガス・ジョサこんなにも書いたということはやっぱりガルシア・マルケスについて興味がかなりあったし、彼が書いたものとコロンビアとか南米の歴史からその背景を解き明かしたいという欲望もあったのだろう、この論でいろんなことが描かれてしまったガルシア・マルケスはマリオ・バルガス・ジョサとその後ケンカ別れすることになるのも冒頭を読んだだけだがわかる気がちょっとした。

ウーマンリブ「もうがまんできない」新キャストに仲野太賀・永山絢斗皆川猿時


主人公は旅するロバ、イエジー・スコリモフスキの新作「EO」公開

二作品とも舞台と劇場公開が来年四月と五月だから先だなあと思いつつも、半年後だと思うとわりとすぐな気もする。
ウーマンリブの舞台は大人計画の先行申し込んで取れたら観に行きたい。『EO』は前にロバが出てくる映画があると言われていて気になっていたので、公開日が決まったというニュースに反応できた。2023年の春はコロナの次のおおきな波が来て終焉している頃ぐらいだろうか、それとも冬場にインフルエンザが大流行した後だろうか、なにかが終わったあとのような気がしてしまう。


朝晩のリモートの合間にニコラで一服。アルヴァーブレンドと苺とマスカルポーネのタルトをば。

 

11月26日


近藤恵介・古川日出男|読書会「古川日出男、長篇詩『天音』譚」を LOKO GALLERYにて。
先週イベントが発表になったのだが、今日は17時から仕事入れていた。とりあえずすぐにシフトを調節してもらった。16時に家を出て歩いてLOKO GALLERYへ。散歩がてら行く蔦屋代官山書店とほとんど同じエリアなので40分ほどで着いた。

読書会だけどどうするのかなと思ったら、ギャラリーにあるzenta coffeeの一階と地下一階とふたつの場所に分けて、近藤さんと古川さんが上と下を行き来して行う形です、と最初にコーヒーとお菓子をもらったさいにスタッフの方に教えてもらった。
近藤恵介×古川日出男による「譚」シリーズの展示とイベントに何度か来ているので、なんとなく地下のほうがいいなと思った。ここは一階のカフェエリアの横に展示エリアがあり、そこの階段を上って二階も展示エリアがある。地下一階も使おうと思えば展示ができるという三層になっており、以前の画廊劇「焚書都市譚」 でも観客は3グループに分かれてアテンダントによって下から上へ上から下へとそれぞれのグループごとに移動しながらそれぞれの3つのエリアで行われている同時に行われている劇を観るというものがあった。その時には地下は冥界ぽかった。冥界ー地上界ー天界、長篇詩のタイトルは『天音』だから、上から音が響くイメージ、だから下から上に上るほうがいいかなって(終わったら上に上がるのは確実だし)。

地下に降りていくと近藤さんが準備をされていたのでご挨拶をして少しお話をさせてもらった。カブトガニの話と実家に帰った時の話から平櫛田中のことを話したら、反応してくださったので嬉しかった。美術関係の人なら知っているけど、一般的にはそうでもない、でも地元には田中美術館があるので昔から馴染みがあるのが人間国宝だった彫刻家の平櫛田中。身近なことほどの当たり前になって価値がわかりにくいということはあるよなって感じたから、調べたり興味を持ったわけだけど、そうか美術関係の人だったらその話もできるのか、と思った。僕が美術史とかそういうことに疎いから意外だと思うのだけど、美術畑の人ならこの話できるんだなって自分の狭さを知るわけでもあるが。
その後、一度一階に上がってから近藤さんの展示「絵画の手と手」を観た。木の枠組みで作られた立体、にいくつかの色紙がいくつか貼られ、中にも作品が置かれている(孕まれている)。ほかにも顔が描かれているが半分が違う紙で隠されているものなどがあった。二階ににあった金色の紙を使ったものが作品は大きくないけどインパクトがあった。たぶん、そこに描かれていた(写真なのかな?)手が紙を持っているという構図なのだけど、色合いと構図がなにかしっくりきた。サイズ感も含めて好きな作品だった。

17時近くなったので再び地下へ降りていく。地下チームの最初は古川さんで一階は近藤さんで、20分ごとに2回入れ替わる。20分×4のあとに二人で合作をするという流れだった。
古川さんは参加者にこの『天音』はほかの小説などの書籍となにか違う場所があるのですがわかりますか?と問うた。この長篇詩の書籍には帯がない。そして小説を読む人には作家になりたい人とそうではなくただ読みたい人、あとはどんな人がいると思いますか?と問い、それは例えば書評家と呼ばれる人や編集者がいると、そして帯文は編集者が考えたものがつけられるのだ、ということでみんなに紙を一人ずつに配った。そこには

左側には

小説家・古川日出男、初の[          ]
混乱するな、この詩篇
混乱するな、この記述!

右側には

圧倒的な[     ]、天の音が[     ]
ハロー、アマテラス日本
ハーイ、猿田彦19

と印字されていた。帯の惹句についての話があり、読んだ上でこの二つだとどちらかが帯にあったほうがいいと思うのか、参加者に挙手で聞いた。僕は右側だった。左側よりも右の方が多かった。そこから選んだ理由をひとりずつに古川さんが聞いていく。

僕は古川さんの作品を読んでいたら「混乱」するから「混乱するな」というのは違うと思ったし、右側だとアマテラスとかカタカナがあるから漢字もカタカナもひらがなも、数字もあるからバランスがいいし、「ハロー」「ハーイ」という呼びかけの方がいいなと思った。そちらのほうが開かれていると思った。
下には10人ぐらいいたのかな、みんなの意見を聞いてそれぞれに古川さんが感想とかを話していく。それで一回目は終わって、上と下が入れ替わって近藤さんが降りてきた。

近藤さんは今回の装幀の表紙になった作品についてから話を始めた。ビジュアル的なものと古川さんの作品との呼応や反応、今回の展示の準備中に装幀の話が来たのもあって繋がっているということ、そして詩人・古川日出男の原初とも言える、彼の師匠のひとりでもある吉増剛造さんとの関係性の話を展開していく。
2006年ごろに出た『ユリイカ古川日出男特集号における吉増剛造さんの詩集『草書で書かれた、川』を古川さんがノヴェライズした『川、川、川、草書で』と今回の『天音』の連なりと相似性、いや原初があるのではないかと、近藤さんが過去の作品から今のこの長篇詩を紐解いていく、いや発見したものを僕らに伝えてくれる形だった。
だから、そういう層が、過去と現在が重なり合っているということに近藤さんが自覚的であり、読み解こうとしているのだなと思えた。近藤さんと古川さんの合作ではいつも大事なものとして「層」が重なること、パッと見では一面に見えるものの後ろ側には幾重の層があるという表現がなされている。それは時間であり空間であるから、そこに留まりながら超越するものを表現したいのかなと僕には感じられる。少し質問タイムがあって、また一階と地下一階が入れ替わった。

一階もさきほどの地下一階での挙手で右側か左側かで挙手して分かれた意見をそれぞれに聞いたということだった。地下一階で出た意見が一階では違うものへ反転していたとか、あるいは宗教的だということも人によっては違うということ、それらを聞いて意見は変わりましたか?と再び聞かれる。
さきほどは右側が多かったが左側のほうが良くなった人が二人ほどいた。変わった人の意見を聞きながら、変わらない人の意見を聞く。そして、ほかにも長篇詩の中から帯に使うとしたらどんな文言がいいかという問い、それを二人ほど答える。そこでタイムアップ。

近藤さんと古川さんが交代して最後の時間。『平家物語』現代語訳からの手書きでいくつかの作品を書いたこと、一緒に作品を作る際に書かれた文字が毎回違うことなど、小説家として文字を書くということ以外に古川さんはその形などを使おうとしているのではないかという考察。それはたぶん近藤さんと通じて一緒に作業ができることにも通じているのだろうなと思った。近藤さんは用意してきたものが多かったのか時間が足りないという感じだったけど、古川さんと違うアプローチでこの長篇詩をどう感じたのか、物質としてそこから中身について考えることを伝えることで、あなたはどう思いますか?という問いをずっとしていた。



一階と地下一階のそれぞれ二セットが終わり、地下で二人の作業が始まるのを誰も声を発せずに見ていた。古川さんが書いた文字を用意した板に近藤さんが糊で貼っていく。その紙は近藤さんによって切られていくし、貼られて重なっていく。以前にも二人のこの作業を見たことがあるのでちょっと懐かしい気持ちにもなった。
「層」を重ねるということ、この行為は極めて現代的だと思う(インターネットが当たり前になった世界では人々だけでなく歴史すらも異なる層が積み上がっている、かつてならば多重人格的だったものは分人化と言われるように、人はそもそも対する相手ごとに自分がありその層の重なりあいが一人の人間だし、生きていることはそもそも多層的であるということがネットで可視化されてわかりやすくなった)。そういう感覚を持った上で時間や空間を捉えることは非常に創作的だし想像的でありながら批評性もある。
さきほどの帯分で出た作品の中からどれか選ぶとしたら、という問いで出たものも書かれていたが、それを近藤さんが知ることはないので、貼る際には切られて分かれていく。
たとえば「GOD IS DOPE DOG IS HOPE」と上下に並んだ言葉は真ん中で切られたりもして片方が貼られたりする。ふたりはお互いに何を話していたかのかを知らない。その打ち合わせはされていない。ということが例えばそういう一つの行為でもよくわかった。その発端を知らなくても書かれた文字列やどこに配置するのかを近藤さんが決めて貼るということは別々のものがひとつに交わっていたことを視覚的に見せているようだった。
そして、できあがった作品をどこに置くのかを近藤さんが一階へあがり、二階へあがり、もう一度一階に戻ってきて場所を決めた。


それから締めというか近藤さんから古川さんに三つほど質問があり、最後は第一刷発行日が2022年11月22日なのか、その日付の意味を問うと古川さんからなぜその日付にしたのかという答えがあった。なるほどなと思った。やっぱりそれに関わるのだなって。だからこそ、この長篇詩は移動し続けているしカブトガニが出現もする。
そのあとに近藤さんが今回の展示への批評を古川さんに聞いて終わるという流れだった。僕からは木で作られた立体の向こう側に二人はいるんだけど、その空間の中に二人が孕まれているような、同時に孕まれていないような、内外同時に存在しているようにも見えた。
「層」と「境界線」というのはお二人の作品で感じるものであり、冥界ー地上界ー天界それぞれに境界線はあるとしても、それはグラデーションのようなものだと思うし、もちろん彼岸と此岸の間にもグラデーションはあるだろう、世界に宇宙に次元に孕まれながらも孕まれていないというところで人間は生きている、それが生命だと思う。
「境界線」で漂うこと、行き来することがある意味では芸術的なことだろうし、「境界線」を行き来することが人間的な生命力(イマジネーション)だと考えるようになったのは古川さんの作品を読むようになったからだ。だからそこにはマクロもミクロももちろんあるし、涅槃も娑婆もあるけど、それらをズームアップもしダウンもして行き来できる。この一連の流れを見て、読書会に参加できて感じたことを書いてみるとこんな感じになる。


終わってから古川さんに持ってきていた『天音』にサインを入れてもらった。カブトガニの青い血ということのイメージから持ってきていた三色ボールペンの青で書いてもらおうと渡したら、なぜか最初に赤色が出ていた。古川さんからあれこれって言われて、ボールペンの色変えのところをくるりと回して青色に変えた。赤で書かれたところに青で一部分重ねて書いてもらってなにか今回っぽいと思った。
長篇詩『天音』にはカブトガニが出てくるのだが、今月実家に帰った際に図書館でカブトガニについて調べ物をしていたからとてもシンクロしているようだった。笠岡市にある高校に通っていたが、そこにはカブトガニ博物館があった。
幼少期から笠岡の海に父と釣りに行っていたり、同じ福山市の生活圏内なので笠岡市の海(瀬戸内海)とカブトガニ井原市平櫛田中美術館と田中さん同様に僕には馴染み深いものだった。だから、地元ネタとして調べようと思って図書館で干拓したことで瀬戸内海のカブトガニが減少の調査とそれによってできた「カブトガニ保護センター」ができ、「カブトガニ博物館」になったということを書いた資料を読んでいた。
平家蟹よりも昔から瀬戸内海にはカブトガニがいたのだろう。その青い血と装幀にある青はかかってはいないらしいけど、その部分は色合い的に青が選ばれているのだが、みようによっては空であり海であり青い血である。その青い血がなにに利用されているのか、それが発行日の日付に関係している。
そして、この長篇詩は日本からアメリカやイタリアへと移動する。コロナパンデミック以後の世界では移動は困難だった、ということも踏まえて考えれば世界の国々は空と海でつながっている。

この詩には「天音」という存在が出てきた。僕がはじめて読んだ時には『ゼロエフ』における終盤の「ゼロエフ」とこの「天音」が結びついた。僕が古川さんの取材に同行して一緒に歩いた阿武隈川において、『ゼロエフ』では古川さんと僕と「ゼロエフ」は一緒に行動を共にして湾岸を歩いていた。その部分が書かれた章である「国家・ゼロエフ・浄土」が掲載された『群像』を読んだ時に一瞬驚きはした。でも、「ゼロエフ」は一緒にいただろうな、と思えた。
僕には見えずとも感じられなくても、古川さんが幻視していた、いや感じていたのであればいてもなんら不思議はないと思えるのは一緒にその背中をずっと見ながら歩いていたからだ。そのことがあるせいか僕には「天音」が「ゼロエフ」と限りなく同質な存在というか、イメージが近いものとして読んだ。ノンフィクションの『ゼロエフ』があり、そのことによって小説をさらに広げることを、ある種の限界に来ていたものから解き離れたタイミングで管啓次郎さんから詩のお誘いがあったと考えれば、ノンフィクションと長篇詩はある種の双生児でもあるような気もする。そこから連想的ではあるがタイトル同士の言葉の響きが呼応していることを伝えた。

「ゼロエフ」は英数字では「0f」と表現されている。「天音」は英数字にしたら「10on」である。「0f」は「オフ」を想起させる言葉だ。「0f」の二字を倍にしてみたら「00ff」となり、「0 0ff」ともみえる。そうすると「10 on」と呼応している気になる。もちろんこれは言葉遊びだし、古川さんも意図していることではない。だけども、「0」と「10」という数字の幅が、「off」と「on」という対する英語があるということを読者である僕が感じる。これってすごい豊かなことだしおもしろいことだろう。
と書いたが、実際にはそこまでしっかり説明はできないままで古川さんに伝えたけど、『「0f」の二字を倍にしてみたら「00ff」となり、「0 0ff」ともみえる』ということはしっかり伝えたかった。
そのあと一緒に写真を撮ってもらってちょっとだけ別のことを話ししてから僕はギャラリーを出て家へ歩いて向かった。シフトを調節したけど、単純に間五時間を空けて家に戻ってから21時から三時間作業をリモートでするようにしていたから。
もう一回『天音』を読む前に近藤さんが言われていた『川、川、川、草書で』を読んでみようと思う。


この前のThundercatとのツーショットの時も思ったけど、さすがに痩せないとこういう時に自分が太っていることがすごくわかってしまうので痩せようと思うよね。

カブトガニの「青い血」が医療分野で重宝される理由とは?


「生きている化石」カブトガニ 人類救う不思議な生き物


映画『キラーカブトガニ

この映画は現在のコロナパンデミックにおけるカブトガニの青い血が消費されていることへの皮肉ではなさそう。ある意味で皮肉的なものを勝手に孕んでいるのがこういう映画だったりしそうだけど。

 

11月27日

先日買ったジョン・グリシャム著/村上春樹訳『「グレート・ギャツビー」を追え』を少しずつ読んでいる。主人公の作家のマーサーがフィッツジェラルドの生原稿を盗んだ一団からそれを裏で手に入れているかもしれない書店店主のブルースに近づいて真相を探るという内容。
最初に泥棒の一味がプリンストン大学の図書館から生原稿を盗み出すまでもかなりボリュームがあり、その次にはブルースが書店を開くまでが描かれてからマーサーが出てくるという流れになっているので、マーサーの主人公感があまりない。ようやくマーサーがブルースと出会ったというか交流が始まったところに入った。ここまで長くは感じたけど、けっこうおもしろい。


菊地成孔さんの新バンド「ラディカルな意志のスタイルズ」のライブ「反解釈1」を観るために新宿BLAZEへ。ここの箱は初めて来たがもともとコマ劇場があったところすぐにこんなライブハウスがあったのか。キャパ800人ぐらいのちょうどいいサイズのキャパだった。
以前の「反解釈0」は渋谷WWW Xで行われたそれはプレ公演的なものだったが、今回はメンバー全員がブランド「ハトラ」がデザインのしたユニフォーム、というかそれぞれのパーソナリティに合わせた衣装(メンバーごとにそれぞれパーツが違ったりして全部同じということではない、ただ全体的に見ると統一感のあるものとなっていた)を着てライブをするという意味では本公演という形になっていた。

ハトラ、菊地成孔主宰バンド「ラディカルな意志のスタイルズ」の衣装を制作 


「ラディカルな意志のスタイルズ」は今の所音源をリリースしていないので、前回のライブで曲を聞いただけであり、一曲はYouTubeでもアップされているが、彼らの音を聴こうと思えばライブに行くしかない。

菊地成孔の最終バンド<ラディカルな意志のスタイルズ>「反解釈0」より(長尺) 



前回の「反解釈0」と今回の「反解釈1」はほとんどプレイした曲は同じだったと思うのだが、今日は終盤で去年の4月にスタジオコーストでラストライブをして解散した「DC/PRG」の『FKA(Franz Kafka's America)』をやった。バンドが違うからカバーというのか、ほんとうに心地よい音に満たされた。「DC/PRG」大好きだったので、この曲をまたライブで聴けるとは思いもしなかった。
ライブの最初から最後までたのしくて最高なリズムと空間になっていて、来てよかったと思いながら音に揺れていた。
アンコールはメンバーのパーカッション担当のダーリンsaekoさん主催のラテンバンド「ロマンティック・ババルー」のメンバーと大儀見元さんを加えた演奏となった。ラテン的なものもありながらパーカッションの乱舞が最高に踊れたし、すげえたのしかった。でも、あれはラテン文学っぽいんだよね、いやこのバンド自体が文学ぽいんだけど、そういう意味で文学と混ざり合った音楽の揺らぎがある。
次の「反解釈2」は未定みたいだけどライブやるなら観に行くつもりだし、この「反解釈」シリーズは数字が毎回増えるという形になるけどできるだけライブで観たい。

 

11月28日

休憩中に駅前の銀行に行った帰りに三茶TSUTAYAのコミックコーナーで山本直樹著『定本 レッド 1969-1972』1巻を見つけたので購入。
Amazonプライムで配信中の『仮面ライダーBLACK SUN』が全共闘世代、学生運動が激しく、そして終わっていた1970年代を描いていたのでこの機会だし、山本さんの描いた連合赤軍を読んでみたいと思った。


その帰りにトワイライライトに顔を出して前から気になっていた堀静香著『せいいっぱいの悪口』とレジ近くに置かれていたホルヘ・ルイス・ボルヘス著『詩という仕事について』を購入した。
最近はいくつか小説を並行して読んではいる。ピンチョン著『重力の虹』とフォークナー著『ポータブル・フォークナー』という分厚い作品がその中に含まれているのでなかなか読み終わらない。息抜きというかエッセイや日記は味変ではないけど、すごく読みやすくて読みだすとわりとすぐに読み終わってしまう。フィクションかノンフィクションかという差もあるけど、物語への集中具合が落ちているのかもしれないし、この世界における誰かの日常や視線のほうが今は求めているのかもしれない。
お会計後に店主の熊谷くんと少し話をして帰る。

菊地成孔の粋な夜電波』のリスナーなせいで(?)赤坂イコール「力道山の刺された街」というイメージがこびりついてしまい、おまけに今バイトが赤坂で連載させてもらっている『水道橋博士のメルマ旬報』の編集してる原さんは博報堂ケトルでBizタワー勤務で思いっきり上から見下ろされてるっwっていう状態で昨日はバイト先の隣りの店(韓国系)が警察の摘発にあって屋上からうちのトイレに逃げ込んだ店員がいたりしたらしい、まあ御用になったらしいけど。
周りは韓国系のお店が多くて、こないだ飯を食いに行ったら一緒に行った人がその店の隣りのビルの会員制のイタリアンかフレンチレストランがあってそこに知り合いに人に連れて行ってもらったらスタイル抜群でキレイどこがバニーガールの格好でいるらしい(都市伝説か!)なお店もあったりするらしい、まあ日本のヤクザ的な匂いがするが。で韓国の人があの辺り買い占めて韓国街にしようとしてるとか。
赤坂舞台にして日本人と韓国人の抗争とかノワール的なもん書けたら面白そうだなって。日本人と韓国人の恋とか抗争とか、逃げだしたバニーガールが赤坂を走るとか。
日本人の男が韓国人の女に「いいよ、俺韓国人になるわ」って言ったらその女の兄貴が韓国のヤクザみたいなもんで「お前国捨てれるのかよ!」って言ったら「余裕ですけど、何か?」「ええ!いいのそれで。愛国心とかないの」「たかが場所ですし」「い、いやあ、そういうこと言われると今やってることむなしくなるだろ」「価値観の問題ですね」とか。
つうわけでいい加減読もう読もうと思って読んでなかった『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』を買おうと思いました。

10年前の2012年11月28日にFacebookでこんなことを書いていたらしい。「メフィスト賞」用に応募しようと思っている長編の完成させられていない作品があって、その最初の部分で赤坂からバニガールが逃げるところから始めるというのは書いているのだけど、この時のイメージが元みたいだと過去から教えられる。なんとか2月末までに終わらす。

朝晩とリモートワークだったけど、また最近腰と背中がバキバキになってきている感じがするから、整骨院で教わった体操とか一連の動作を寝る前とか仕事が終わってからやっていかないとこの先ほんとうにきつくなりそう。あと急激に寒くなってきたので余計に体が縮こまりそうだから、できるだけ動かさないとより固くなるかもしれない。

 

11月29日

『エルピス—希望、あるいは災い—』第六話を寝る前に見る。卓朗が取材した証言者の元妻へのインタビューによって死刑囚として収監されている松本に冤罪の可能性が出てきた。そのVTRを報道ではなく、バラエティの『フライデー・ボンボン』で流すことを元報道のチーフプロデューサーの村井が決める。そして、報道されるや否や拓朗や恵那が思いもしなかった反響が起きることになる。
恵那は報道の『NEWS8』に取材をしてきた記者として番組に出ることになるのだが、そこで村井がかけた言葉はタイトルにもある「災い」を感じさせるものだった。それは恵那とよりが戻ったかのように見える政治部の官邸キャップの斎藤は副総理の大門の側に行っており、その溢れんばかりの才能は災難でもあるのだと告げる。つまり才能というものは希望でもあり災いにもなると言っているのかもしれない。そして恵那が『NEWS8』に出演する直前に斎藤からLINEが届く
というのが今回の流れであり、最終的には少女連続殺人事件が起きた八飛市は副総理の大門の地元だとわかり、事件の隠蔽と松本を犯人にしたのは彼の力が働いたのではないか、と匂わして終わる。
『フライデー・ボンボン』はリニューアルする形で終わる。それは証言者の妻へのインタビューを勝手に流したことの責任でもあり、会社組織における粛清のようなものだった。いつもの打ち上げのスナックのようなところで恵那が最初はひとりで、その後拓朗とふたりで歌う『贈る言葉』を歌う。今の部署から飛ばされることになった村井へ恵那が向けて歌うシーンも心に響く。そして、同時に制作から違う部署に飛ばされることになった拓朗も彼女と歌うシーンは非常にエモーショナルだった。あとは元々佐野PがTBSにいて、そこでできなかった企画のドラマがこの『エルピス』というのもいろいろ感じさせるものがある。
この六話で前半戦終了のようになっており、恵那は『NEWS8』のメインキャスターへと復帰することになる。ここで一緒に取材をしてきた恵那と拓朗は局内において立場が真逆になってしまう。次回の後半戦からその違う立場になった二人がどう絡んでいくのか、この事件の黒幕であろう大門に迫っていけるのか、そして局をやめて大門のところにいって政治のほうに向かった斎藤と二人がどう絡んでいくのか、非常に楽しみな展開になってきた。
拓朗役の眞栄田郷敦は今まではなんとなく名前ぐらいは知ってるだけだったけど、このドラマに出たことで明らかに役者として知名度があがり、信頼度のようなものが視聴者に感じられてるのではないかと思う。それは次のドラマや映画につながるはずだ。
その時にそこに居るということは、運とか出会いとかをどう引き寄せるかということが大きくて表現者には重要な要素なんだよな、と改めて感じた。

Mirage Collective "Mirage - Collective ver. feat. 長澤まさみ" (Official Music Video)




デヴィッド・ロウリー監督『グリーン・ナイト』をTOHOシネマズ六本木にて鑑賞。TOHO系だとあとは新宿と日比谷のシネシャンテで上映しているが、どちらもスクリーンが小さかったので大きめのスクリーンで上映している六本木で観ることにした。

指輪物語」の著者J・R・R・トールキンが現代英語訳したことで知られる14世紀の叙事詩「サー・ガウェインと緑の騎士」を、「スラムドッグ$ミリオネア」のデブ・パテル主演で映画化したダークファンタジー。「A GHOST STORY ア・ゴースト・ストーリー」のデビッド・ロウリーが監督・脚本を手がけ、奇妙な冒険の旅を通して自身の内面と向き合う青年の成長を圧倒的映像美で描く。

アーサー王の甥であるサー・ガウェインは、正式な騎士になれぬまま怠惰な毎日を送っていた。クリスマスの日、円卓の騎士が集う王の宴に異様な風貌をした緑の騎士が現れ、恐ろしい首切りゲームを持ちかける。挑発に乗ったガウェインは緑の騎士の首を斬り落とすが、騎士は転がった首を自身の手で拾い上げ、ガウェインに1年後の再会を言い渡して去っていく。ガウェインはその約束を果たすべく、未知なる世界へと旅に出る。

共演は「リリーのすべて」のアリシア・ビカンダー、「華麗なるギャツビー」のジョエル・エドガートン。(映画.comより)

ダークファンタジーとして映像の素晴らしさ、キャラクターの造形なども魅力的だった。原作というか元になっている「サー・ガウェインと緑の騎士」を読んだことはないのだが、今作ではサー・ガウェインを主人公に英雄神話構造のラインをしっかりとやっている展開になっていた。
クリスマスの日にアーサー王と円卓の騎士やその知り合いたちが集まって団欒を過ごしているところに異様な姿の斧を手にした緑の騎士が馬に乗ってやってくる。アーサー王の甥っ子であるガウェインがクリスマスの遊び事として彼の挑発に乗ってその首を切り落とす。だが、その首を手に持った首無しの緑の騎士は一年後のクリスマスに自分を探してその首を同じように切り落とさせろと言って去っていく。ここはいわゆる旅への誘いであり旅への召喚になっている。
実際にはガウェインの母でありアーサー王の妹であるモーガンがなんらかの魔術で緑の騎士を出現させているような描写があり、怠惰な生活を送り未だに騎士になれない息子にはっぱをかけているように見えた。その意味ではグータラな息子を旅立たせ、通過儀礼をさせて大人(騎士)にさせようとしている内容なので、息子はずっと母の手のひらで彼は踊らされているとも言えるかもしれない。
モーガンも可愛い子には旅をさせよ的に送り出すわけだが、その旅において彼を守護するアイテムとして腰紐を持たせたり(途中で盗賊(バリー・コーガン)に奪われたりもする)するなど過保護さも見せている。また、ガウェインの恋人のエセルと途中に出てくる城の主人の妻(奥方)である奥方はアリシア・ヴィキャンデル一人二役で演じており、彼との性的な関係やそれを匂わし、彼女たちは彼に力を与える/奪うような対の存在のようになっていた。
母とエセル/奥方という女性たち「妹の力」に庇護されているのが主人公のガウェインであり、その部分も英雄神話では英雄は女性たちに庇護されながら冒険をするという定番となっているのでデビッド・ロウリー監督はかなりこの辺りも意識しているのではないかと思った。そういう部分も含めてガッツリと通過儀礼のお話だった。
途中までは馬に乗っているが、わりと早い段階からガウェインの冒険を導く存在として動物のキツネが出てくる。A24作品は神話的なモチーフが多いから動物が比較的よく出てくるのだが、逆説的に言えば動物を出すというのは神話のような物語を作りたいという意識の表れなのかもしれない。

緑の騎士がいる朽ちた教会のような場所には川を下っていくというか小舟で渡っていく描写があるが、それは此岸であるこの世から彼岸であるあの世に行くという「鯨の胎内」に入る的なモチーフだろう。緑の騎士と対峙する場所は此岸、あの世でもあるといえる。その前にきのこを食べて幻覚を見たりする、あれはマジックマッシュルーム的なものなのか、という風にガウェインの旅はどこまでが彼が体験している現実なのか、もしかすると夢や幻ではないかという可能性もいくつかのポイントで感じられる。
緑の騎士に首を差し出せと言われ、二、三度ガウェインは恐怖から緑の騎士に待ってくれと懇願する。つまり決意と覚悟がない。そこで彼はある未来を見ることになる。自分がアーサー王亡き後に王となるが、息子を戦で亡くし、自分たちも敵によって滅ぼされ自分の首が飛ぶというビジョンを、そしてそれを見た彼は覚悟を決めて緑の騎士に身を任せると首は切り落とされずに故郷へ帰れと言われる。つまり、騎士未満であるガウェインには覚悟がなかった。しかし、この旅を通じて覚悟を持った。だから騎士となる資格を得たという通過儀礼を果たしたというものであり、きちんと旅に出た故郷へ帰るという「行って帰ってくる」という物語の基礎をなぞるようにして、匂わして物語は終わる。
ダークファンタジーのダークさは全体のビジュアルなどにあるが正統派なファンタジーともいえる。そして、今作でも「扉」が象徴的なものとして出てくるが、デビッド・ロウリー監督作品では繰り返されるモチーフであり、監督は扉を開けること入って出ていくということが物語の核にあるのだろうと思われる。A24ブランドの素晴らしさを堪能できた作品だった。

終わってから19時から池袋で友人と飲む約束があったので渋谷まで歩こうと思ったら思いのほか雨が強く、コンビニで傘を買って青山を抜けて渋谷へ向かってJRに乗ったところで友人からラインが来ていたのを知った。映画を観ている時間帯に予約していたお店が大規模な水漏れで営業ができないと電話がきたので他の店を探すというものだった。池袋にはすでに向かっていたので、とりあえず池袋でいいかを確認した。
ジュンク堂書店池袋本店で待ち合わせをして、その近くにあるお店に入った。ヒューガルデンばっかりを飲みながら今年のことと来年の話をした。彼が来年やろうとしていることはおもしろいのでなにか一緒にできればと思ったけど、その話に関わるものと僕がつい最近関わりができたこともわかり、これはやるしかないという感じになった。
偶然なのか必然なのか、捉え方はその人次第だけど、四十代の最初の一年が加速できなかっただけに来年はしっかりやろうと二人で話せたのはとてもうれしかったし、テンションがあがった。こういう時間や関わりがあるかないかで全然違うものだから。

 

11月30日
朝から竹橋駅近くの会社に行く。今使っている作業用ノートパソコンは親会社が変わる前にリースされていたものを使わせてもらっていたが、そろそろ今の会社がリースしたものにしないといけないとのことなので交換しにいった。
基本的にはリモートで作業をしているのでできるだけ出社はしたくない。という気持ちがあるのでこういうことは早々に終わらすのが一番なので早めに動いたという感じ。
前の機種はPanasonicレッツノートだったが新しいのはDELLのものでキーボードの配置が微妙に違うので慣れるまでちょっと時間はかかりそう。あとレッツノートはかなり軽かったが今回のDELLはわりと重い。これは持ち運びしたくない感じの金属的な重さがある。
移行作業をして、前のものを社員に渡して回収してもらったので昼休憩も兼ねて会社を出て家に帰った。帰りが遅くなると田園都市線は混むし、早く帰ってリモートしたほうが気楽。

映画『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』特報【3月3日(金)公開】 


A24×ミシェル・ヨー『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』の予告を『グリーン・ナイト』上映前に観たけど、これ特報観たら最後にIMAXで、とあるのに気づいた。
絶対にIMAXで観たら最高なやつだ。と思ったら監督は『スイス・アーミー・マン』の人か、大丈夫かな。でも、公開日にIMAXで観たいな。
この作品に『グーニーズ』のデータ(中国系の少年)役のキー・ホイ・クァンが出ていて、それもあってこのところ彼の名前をよく見るようになったということなのだろうか。

最先端のカオス!A24「エブエブ」特報披露 ダニエルズ「多くのアジア映画へのラブレターでもある」

あらすじ:破産寸前のコインランドリーを経営する中国系アメリカ人のエブリン(ミシェル・ヨー)。国税庁の監査官(ジェイミー・リー・カーティス)に厳しい追及を受ける彼女は、突然、気の弱い夫・ウェイモンド(キー・ホイ・クァン)といくつもの並行世界(マルチバース)にトリップ。「全宇宙に悪がはびこっている。止められるのは君しかいない」と告げられ、マルチバースに蔓延る悪と戦うべく立ち上がる。

アメリカでの公開から約一年遅れだけど、日本で確定申告が始まる三月ってのは内容ともピッタリではあるんだな。
A24はアメリカの映画制作会社だというのもあるだろうけど、移民とかの話をしっかり作ってきていて、新しい才能を世に出そうとしていてほんとうにクリエイティブ。

 

12月1日

8時半前に起きて家から出て渋谷に向かう。道玄坂草間彌生さんの宣伝用のフラッグというか、左右にいっぱい見えた。自分と同じ誕生日の著名人が草間彌生さんと大橋巨泉さん、マルセル・マルソーなんで少しだけ親近感がある。


『すずめの戸締まり』をTOHOシネマズ渋谷にて鑑賞。
1日は映画の日なので1000円。昨日、仕事の週一のミーティングの中で前にこの映画を観て感じたことを社員さんが話してくれていたこともあって、話の流れから僕も観てその感想を来週教えてほしいと言われたのでノリで観ることにした。そうでなければたぶん観ることはなかったと思う。

鑑賞後に帰り道を歩きながら作品について考えたのは、主人公のすずめは最初は登校のために自転車に乗っていて、住んでいる九州からミミズを封印していたダイジン(猫っぽいなにか)を追って椅子に姿を変えられた宗像と共に四国へ船(フェリー)で渡ることになる。見知らぬ土地で出会った女の子は原付きバイクに乗っていた(一度乗せてもらう)が、そこでひとつイベントをこなしてから再びダイジンを追いかけて神戸へ向かう。バスを待つが偶然通りかかった女性の車で明石海峡大橋を渡り本州へ渡ってそこでも封印のイベントをこなしてから、神戸から新幹線に乗り東京へ向かう。そして宗像の家と東京でのイベントを終わってから東北までは宗像の友人の車で向かうことになり、すずめの故郷に着く前から途中から叔母と二人乗りした自転車で、という風に北海道を除いた日本列島を南から北へさまざまな移動手段ですずめは北上することになる。
基本的にはすずめは出会った人の善意のみで支えられている、今の日本がギリギリまだなんとか姿を保っているのを見ているようだった。それも悪意がなさすぎるというファンタジーにも見えた。
すずめは日本列島を縦断するが飛行機には乗らない。だが、空から何度かは落下する、ショジョは飛べはしない。ただ、落下する、先進国からもう浮上することはない日本のメタファみたいに。
ジブリのヒロインは飛ぶことができたし、彼女たちと一緒なら男の子たちも飛ぶことができた。男性は自分ひとりでは飛べない、飛べるのは呪いを受けた者だけ。宮崎駿のように機械芸術論の影響下にあり飛行機(戦闘機)という機械の美しさに惹かれるが戦争は描けないように、それ以後の新海誠はもう少女たちが飛べないことを知っているし、少年たちが彼女たちから庇護されることも期待していないし、通過儀礼のようなストーリーラインを使いながらそれすらも諦めているように見えた。
あと父親の存在が皆無なのはもはや「父性」的なものは消失していることの表れなのだろうか。すずめにも宗像にも父の存在がない、育ての親として叔母と祖父がそれぞれにいる。
すずめが宗像のどこに惹かれたのかわからない、イケメンという以外では一緒に困難を共にした、という吊り橋理論ぐらいか。しかも、彼女は自分が封印解いたことにはなんら反省もない。宗像もそのことはあっさり許して自分が見つけるのが遅かったからだと不問にしている。
セカイ系でしかないその世界で震災を扱いながらも表面しか描けないのは宮崎駿が戦争を描けないのに似ている。そういう意味ではまさに今の日本ぽい。
一番の問題は主人公と相手役の宗像に感情移入ができないことなんだと思う。一番人間らしいのが叔母。すずめは他者や世界の事を気にしているようで、基本的には自分のことしか興味がないからこそ、セカイ系にしかならない。なんというか違和感ばかりが残る。
右大臣と左大臣は人身御供的な存在であり、一時的に宗像がその役割になるが、それを外すことが彼への好意だとして外すことがドラマティックに見えるが、君と僕だけがいればいいというのは大人が子供に向けて作る作品としては危険だとは思う。それは世界や社会がどうなろうがいい、金や数字を稼いで勝ち組になればいいというものと通じてしまっている価値観にも思える。
もののけ姫』でダイダラボッチの首を返して終わるのに似ていることも含めて、あの頃も劇場で観てダイダラボッチは許さずに人間滅ぼした方がいいんじゃないかって思ってしまったが、今回もちょっとそれに近い気持ちになってしまった。

渋谷から帰るときにヤマダ電機によって外付けHDの前と同じ容量の2TBのカード型というか薄い横置きのものを買って帰る。帰ってから一度フォーマットしてから修復不可能になっていた前の外付けに入れていたiTunesなどのデータを移行した。
ようやく先日買った Syrup16gのアルバム『Les Misé blue』をiTunesに取り込むことができた。とりあえず問題はなさそうだったのでご飯を食べに家を出る。昼間に降っていた雨のせいかかなり肌寒くなっていたが、もう12月に入ったのだから当然の寒さなのかもしれない。


ニコラでアンコウとブロッコリーのオレキエッテとそれに合わせてもらった白ワインをいただく。アンコウの身も美味しいし、ブロッコリーがそこから出た煮汁というか出汁のように吸い込んでる感じでわずかな苦味とその旨味が混ざり合っていた。
ワインは嗅いだらちょっと塩味がありそうな感じだったが飲んでみるとナシとかの感じに近い風味でオレキエッテによくあって美味しかった。

 

12月2日

朝起きてから昨日放送された『silent』第八話をTVerで見る。この三回くらいは奈々(夏帆)がメインというか見せ場をほぼ持っていっているし、セリフがキラーチューンぐらいすごいものを連発していて視聴者を揺さぶっている。
スマホGoogleのDiscoverをタッチするといろんなニュースや僕が興味持ってそうな話題などが並んでいるが、このところこのドラマにおける夏帆さんの凄さや女優として改めて評価されているなどのものが出てきて、ずっと好きな女優さんなので正直うれしい。でも、これも検索履歴とかから僕用にアルゴリズムで出しているわけだろうけど、まあ、日記で書いたりするときに調べたりするから、まあそうなるよな。

このところストーリー自体はあまり進まないでメインキャラの近過去にあった出来事と人間関係を描いてる。たぶんそのことでエモさが強まってるし、登場人物たちと同世代の人にはより響いてるのかな。
前回の最後に主人公の紬(川口春奈)が通っている手話教室の先生である春尾(風間俊介)と奈々が知り合いだということがわかる感じで今回に続いたが、二人は大学時代に同じ大学であり、春尾は就職のためにノートテイクボランティアをした際に奈々と出会って、その笑顔に惹かれて自分も手話を彼女に教えてもらうようになった。そして、二人の距離は近づいていったが、春尾は知り合いたちにも手話を教えて大学で手話サークルを作ろうとしていると彼女に話す。そのことを知った彼女は怒り、そういうことのために自分は手話を教えたわけではないということなどを伝える。画像の善意の話はその最中のものであり、春尾は話せるのに手話するのが大変で口から「めんどくさ」と言ってしまい、奈々はその口を読んでしまう。そこから距離ができた二人はせっかく手話でやりとりもできるようになったが以前のような距離には戻れなくなり、春尾は手話教室の先生へとなっていた。紬と想(目黒蓮)と春尾と奈々は知り合いであること、そういうつながりから数年を得ていろんなことを体験して大人になった二人は再び向き合って話を、手話でやりとりをするというのがこの回のメインだった。

ここまで奈々の存在が大きくなるとちょっとWヒロイン的な感じもしてくるが、ここからは想と母の律子(篠原涼子)の息子とは母の関係性についてになってきそうな感じ。息子への思いなどもこれまでに見せてきているし、篠原涼子を母親役に起用している時点でそこでのやりとりは終盤の大事なものになるのは間違いがない。
今回の放送分を見ていると登場人物たちのように二十代中頃から三十代手前までぐらいが、十代や二十代前半で一度別れた人との再会の最初の時期であり、その後もらせん階段を上るようにそれが時折起きるのだけど、人は病気になったり亡くなったり、仕事や金銭的なことや思想なんかの違いから会っていた人ともまったく会わなくもなることが増えていく。どちらかというと再会は減っていき、必然的に別れが増えてくる。だから、このぐらいの世代の再会と別れが一番いい時期なのかもしれない。
僕個人が今年はそういう別れが多い一年だった。お久しぶりに再会できた人も何人かいたけど、全部自分が足を運んだところで会えたなあ、と思う。結局のところ、SNSはきっかけにはなるけど実際に会えるかどうかっていうのがデカすぎることをコロナがこれでもかと僕ら人類にわからせてしまったのだと思う。


昼休憩の時に昨日レンタルで借りていたCDを返却しに渋谷に行って、帰りに丸善ジュンク堂書店渋谷店でリチャード・パワーズ著/木原善彦訳『惑う星』を購入した。レジの近くで書評家の豊崎由美さんとばったりお会いしたので、ご挨拶。

パパ、この惑星に僕の居場所はないの? 地球外生命の可能性を探る研究者の男、その幼い息子は絶滅に瀕する動物たちの悲惨に寄り添い苦しんでいた。男は彼をある実験に参加させる。MRIの中で亡き母の面影に出会った少年は、驚くほどの聡明さを発揮し始め――現代科学の最前線から描かれる、21世紀の「アルジャーノン」。

と新潮社の公式サイトには書かれているが、実際に帯の後ろに書かれている概要では、

地球外生命を探る研究者シーオの幼い息子ロビンは、母アリッサの急逝で情緒不安定になっていた。シーオは、妻の知人が取り組むfMRI(機能的磁気共鳴映像法)を用いた実験に息子を参加させる。生前のアリッサが残した脳のスキャンデータを元に、母の感情をロビンに追体験させ、彼の精神を解放しようというのだ。その効果は目覚ましく、ロビンは周囲が驚くほどの聡明さを発揮し始め、母が生涯をかけて取り組んだ動物保護への意識も研ぎ澄まされていく。彼の眼には、人間がこの惑星にとって有害と映っていた―――ブッカー賞最終候補作。

とあり、あれ帯文のほうがかなり詳細な感じで書かれているし、母から受け継いだ動物保護の意識と地球にとって有害な存在としての人間っていうのがもっとわかったほうが読み手は興味がそそられるような、僕はそそられるんだけどな。
あと母の脳のスキャンデータを追体験するというのはA24×コゴナダ監督『アフター・ヤン』のことを思い出した。こちらはAIロボットのヤンが故障し直せなくなってからそのメモリを一家の父が見ることになる。そしてメモリを見ることで父が知らなかったヤンの一面を知っていくというものだった。

こういった小説や映画で描かれるような誰かの脳にある記憶などを見ることができる世界がやってくるのかもしれない(昔からSFでは描かれていた気はするが)。この経験は自分ではない誰かの人生を追体験できることを意味するが、それは小説や映画という創作物がずっとずっと前からやってきたことでもある。だけど、今よりももっと極パーソナルなものを人は求めていくのだろうか、どうなんだろう。でも小説って作家のパーソナルな意識と無意識の集合体だからそっちに回帰はしないのかな、と書いてみてそういうのは僕が小説が好きだからであって、マジョリティではなくなっているものなんだよなあ。
あと関係ないけどリチャード・パワーズっていう名前が強いよね。彼の『われらが歌う時』はもう絶版だしさすがに文庫版で出してくれないかな。出た当時はあれほどオバマ大統領の出現を予感したとか言っていたんだし、ブラック・ライヴズ・マターが盛んになっている今だからこそ、あの小説は十代とか大学生ぐらいが手に取れるような形になっているほうがいいと思う。


昨日買った竹田ダニエル著『世界と私のAtоZ』を少しずつ読み進めているが、トラヴィス・スコットってそんなことになってたんだとか知った。Z世代における意識についてかなりわかりやすく書かれていておもしろい。
僕はここで出てくるミレニアム世代になる(アメリカの世代では、日本だとロスジェネ最後尾)けど、彼らの方がレトロなものに惹かれる理由とかも、スピリチュアルなものにフラットに、というかライトに触れているのはアメリカにおける多民族で移民が多いと両親や上の世代が信仰している宗教を熱心には受け入れないし信仰しない人が多くなるけど、ある程度はマインドのためにちょっとしたお守りが欲しいというものはわりとあるんだろうなってわかる気がする。特にアメリカだとそうなるだろう。
アジア系の活躍と連帯の話とかも日本いたら全然わからないことだし、そういうことを体験していたり、身に染みている人たちがブラック・ライヴズ・マターを支持するのは黒人の人たちだけではなく、自分たちも同じ状況であり白人至上主義がまだ強いというのがデカいんだな。
近年は映画業界でもアジア系の俳優がメインになったりした作品がハリウッドでも賞を取ったりすることがアメリカに住むアジア系への理解を推し進めているのはとてもいいことだし、アメリカはほんとうにどんどん変わっていっている。

 

12月3日
昨日に引き続きレンタルしていたCDを返却するついでに散歩がてら渋谷まで歩く。9時前には家を出たのでTSUTAYA渋谷店に着いた時には開店前だったので返却ポストに入れてからきた道を戻った。
途中で246沿いを左側にある旧山手通りに曲がって代官山蔦屋書店を覗こうかなと思った。ドラマ『silent』で夏帆さん演じる奈々がこの通り沿いにある西郷橋を歩いているシーンがあったが、橋に近づいていくとロケバスが何台かあり、撮影スタッフさんが何人か見え、交通整理をしていた。本当に何かロケしてるんだなって思って、橋を渡り切るというか通っていたら本当に夏帆さんが奈々の衣装でスタッフと一緒に立っていた(通行人がいなくなるのを待っていて)。おお、昨日ドラマを見たばかりだったのもあるし、ここでロケしてたなって思ったら本当に偶然通りかかったら撮影をしていて驚いた。でも、この西郷橋を代官山のほうから246方面に歩いているということは奈々は代官山か恵比寿方面に住んでいるってことなのだろうか。
西郷橋はドラマや映画やAVとかいろんな映像作品にも出てくるし雑誌のモデルさんが撮影しているのを時折見る場所だが、ロケバスが停めやすいっていうのがデカいんだろうか。


山崎峰水 漫画/大塚英志 原作『くだんのピストル』参巻。
黒鷺死体宅配便』も巻数ごとに収録されている各タイトルが同じアーティストの曲名で統一されていたが、今回は壱巻が藤田敏八監督(『危険な関係』『もっとしなやかにもっとしたたかに』『にっぽん零年』『帰らざる日々』『十八歳、海へ』)、弐巻が黒木和雄監督(『祭りの準備』『夕暮れまで』『とべない沈黙』『日本の悪霊』)、参巻が長谷川和彦監督(『迷い鳩どもの凱旋』『悪魔のようなあいつ』『青春の蹉跌』『青春の殺人者』『夢見る力』)とそれぞれ映画監督で統一されその作品名が付けられている。
大塚英志著『多重人格探偵サイコ』(角川スニーカー版)の二冊の章タイトルが大江健三郎中上健次の作品から取られていて、僕は彼らを知るきっかけになった。出会うことのなかったものに読者が出会うかもしれないといういたずら心というか、タイトルを毎回考えるのがめんどくさいのもあるだろうけど。

そのことをツイートしたら大塚さん引用RTで答えてくれていた。『迷い鳩どもの凱旋』『夢見る力』は連合赤軍について長谷川和彦監督がかつて撮ろうとしていた映画のタイトルなので、いまだにこのタイトルの作品は存在していない。


『くだんのピストル』と一緒に買っていた安田佳澄著『フールナイト』五巻を読む。
僕個人は『チェンソーマン』に疎く、漫画は読んでいないのだが、アニメの第一話を見た時に感じたものとこの『フールナイト』は根本のところでは一緒な気がしてきた。
集英社のジャンプ的な王道エンタメが好きか小学館のちょっとサブカル的なエンタメが好きかという違いな気もするのだけど、僕は集英社的なジャンプ的なものはそこまでハマってきていない。
みんなが『ドラゴンボール』『幽遊白書』『ワンピース』とかが好きで語っているのをみるとなんというかすごく不思議な気持ちになる。リアルタイムでかつての黄金期と呼ばれていた時期のジャンプを毎週リアルタイムで読んでいたけど、読んでいただけだった感じだった。今日から映画で公開された『スラムダンク』も読んではいたけど思い入れがない。
『フールナイト』『チェンソーマン』のどちらも描かれているのは親世代やさらにその上の世代たちが受け入れてきたフォードシステムによって完成された大量消費と大量生産という資本主義以降の世界からの遺産という名の負債を背負わされた者たちが主人公であり、『チェンソーマン』においては「悪魔」という異種の要素と結合した主人公が同じく「悪魔」と戦っている。

『フールナイト』はぶ厚い雲に覆われ陽が差さなくなった遥か未来の地球が舞台になっており、植物が枯れ酸素も薄くなった世界において生き残った人類は、「転花」(人を植物に変える技術。死期の近い人間に「種」を植え込み、約二年かけて「霊花」と呼ばれる植物にする)を開発してわずかな酸素を作り出して生き延びているという舞台設定になっている。母親の手術代のために「転花」という技術を受けた主人公のトーシローは「転花」して二年経ったあとに人間がなる「霊花」と呼ばれる植物たちの声が聞こえるようになり、幼馴染みのヨミコが働く国立転花院で臨時職員として働くことになる。
物語では「植物」になることで貧しい人たちは金銭を得ていたり、残された家族に金を渡そうとしたりするが、そこには政治的な思惑も絡んできて「転花」に反対する勢力や「霊花」となっても動き回るアーヴィという存在が現れる。『フールナイト』は『寄生獣』に近いもの、現在的な背景を取り込んで進化させているようにも感じる。
どちらも若者(主人公)が奴隷のように搾取され虐げられている構造があり、何もかも失った主人公は「悪魔」となり、「転花」の施術を受けることで人間でありながら人間ではない者へとなることで生き延びているというところが、極めて現代的であり『ウルトラマン』『デビルマン』から続く系譜にもなっていると思う。ジャンプ+初のヒット作のひとつ『怪獣8号』もこの系譜にある。個人的には『フールナイト』はTBSの金10でドラマやったらバッチリな感じだと思うんだけど。

 

12月4日

山田詠美著『私のことだま漂流機』を寝る前から読み始めて、夕方に読み終わる。
昨日代官山蔦屋書店に寄った際に購入していたもの。帯には本格自伝小説とあるが、読んでいる感触としてはエッセイに近いものだった。
幼少期から小説家となり、文壇で出会った大物たちの話や尊敬している宇野千代さんのこと、恋人や慣れ親しんできたブラックカルチャーであったり、黒人の恋人との付き合いで知った差別や偏見について、そして作家を目指す人へのアドバイスみたいなものが書かれていた。
毎日新聞連載だったこともあるのだろうが、ひとつひとつがちょうどいい長さで非常に読みやすい。山田詠美さんが宇野千代さんに憧れたように、エイミー(なんかエイミーと呼びたくなるね)が下の作家にも多大な影響を与えているのはわかるので、そういうふうに手渡されていくものが確かにあるのだなと納得もした。

 けれど、ひとりの人間が取り込めるものには限度がある。追い付かないよ、さあ、どうする?
 そうなった時には、自分の書いているもの、あるいは、書こうとしているものが、もしかしたら、もう、とうの昔に誰かによって書かれてしまっているのではないか、という恐れを持つべきだと、私は思う。そんなふうに怖気付くだけで、剽窃から一歩遠ざかることが出来るだろう。すると、そこにはオマージュが残る。
 誰だって、人の真似から入るのだ。大好きな作家の本を読み込み、こんなものを自分も書いてみたいと切望し、あれこれとなぞってみる。その結果、似たようなものは書けるかもしれない。けれども、それは、あくまで、かつて誰かが書いたものに「似たもの」なのである。
 そっか、ただの似たものに過ぎないのか、とがっかりする。でも、私は、その「がっかりするもの」を知らないと「がっかりしないですむもの」を書けないと思うのだ。
 どんどん書く。読んで、また書く。
「小説家を志すきみへ」(P275より)

 しかし、時と共に、その悲しみの腫れはひき、やがて、しんとした凪の時間がやって来る。痛みの芯は、永遠に心の中に残り、時折、疼くに違いない。けれども、時が経てば、そんな状態を諦めと共に受け入れられる。
 もしも、小説を書きたいと思い続けて来た人ならば、それに気付いたあたりが「書き時」であると、私は思う。誤解を恐れずに言えば、大切な人の死は、小説と驚くほど親和性が高い。もちろん、その喪失の体験が、小説の言葉を獲得するまでには、長い時間をかけてクールダウンが必要なのだが。
 私は、自死した三人を思い出さずにはいられない。何故、私だけが生き残っているのかと、考えることから逃れられない。たぶん、一生、そうなのだろう。そして、その秩序を失った感情の渦に、ひとつひとつ正確な言葉を与えて、整えて行く。それが、私にとっての「書く」という行為だ。
 とてつもなく緊張を強いる作業の連続ではあるが、辛抱強く続けていると、やがて、物語が立ち現れて、死んだ筈の人々が生き返るのである。その瞬間、ただ「書く」が「小説を書く」に進化する。そんなふうにして、私は、自分の内なる領域で、多くの人を生き返らせて来た。
 小説とは、甦りの魔法のようなもの。私には、私だけの言葉をまとって、甦って欲しい人がいっぱいいる。
「君よ知るや創作の糧」(P297-298)

以前読んだ島田雅彦著『君が異端だった頃』は最近文庫化になっていたが、山田さんと島田さんでは年齢は山田さんの上だが作家デビューは島田さんの方が早いものの、同世代で文壇バーなどにも顔を出して昭和の大御所の作家との交流があった最後の世代であり、山田さんのこの本にも何度か島田さんの名前が出てくる。どちらの作品にも出て来る重鎮の作家として中上健次がおり、島田さんの方ではその付き合いはかなり濃く二人の関係性などは少し憧れるものがあった。山田さんも中上さんと会った時の印象をしっかりと書かれていてそこも楽しめた。
『私のことだま漂流機』と『君が異端だった頃』は今は大御所の作家となった二人のデビュー前から小説家となってそこから関わった人たちの思い出や交流などが書かれていて、どちらも読むとその時代を知らなかった、間に合わなかった世代でもその輪郭が少し浮かび上がって来るものとなっている。
上記で引用したものは読んでいて、これは覚えておきたいと思ったので引用する形で自分で書き写してみた部分。

 

12月5日
Tシャツをめくるシティボーイ 第4回  ルシンダ・バラード、下着だったTシャツの運命を変えた女 / 文:高畑鍬名(QTV)

12月になったので都築響一さんのメルマガ「ROADSIDERS' weekly」を登録して連載が始まっていた友人のパン生地くんの連載の最新回まで読んだ。雑誌『POPEYE』の表紙から見るこの50年近くのTシャツの裾のカットインorアウトの歴史から始まる第一回目から楽しめた。この4回目は映画『欲望という名の電車』におけるマーロン・ブランドの存在がいかにTシャツの運命を変えたかという回だった。 この連載は全22回連載されるみたい。
パン生地くんは2021年10月末には新宿眼科画廊で「1991年の若者たちがタックアウトしたTシャツを2021年の君たちは」展を開催した。それはファッション史であり若者文化論であり、ある種の戦後史でもあると感じたので、この連載もどこかの出版社から一冊の形で纏まるといいなと思う。

 

 さて、Lilla Flickaの歌詞は、フェミニズムも、リベラリズムも、ダイバーシティも包摂した、非常に現代的で、ジェンダーのみならず、肉体やその経年変化(実年齢)も手放す臨界にまで至っています。しかし、「20世紀は唾棄すべき不自由で不平等な時代だが、21世紀はそれを撤廃しよう。そして自由と平等を普通に共有できる社会が素晴らしいのだ」といった、些かながらユートピアックに過ぎる理念への、パップミュージックからの回答にもなっています。21世紀は、20世紀に比べて圧倒的に自由ではありますが、自由であるが故の苦しさも存在する。そこを言語化されているように感じました。

 Lilla Flicka氏も加藤咲希も完全なバイリンガルです。つまり彼女たちの中では日本語と英語の歌詞が同時に立ち上がって、並列して頭の中に流れている。リリックというものは取扱説明書や論文とは違います。多言語国家だったらありうるかもしれませんが、日本ではそんな脳の使い方をするリリックはあまりない。もしかしたらLilla Flickaの21世紀的な感覚はそうした脳の使い方にも関係があるのかもしれません。それこそ20世紀までのバイリンガル歌手たちは、「本場風のワンランク上の英語発音」を誇る以上のことはできなかったと思います。バイリンガルトランスジェンダーバイセクシュアルに相当するもので、本作にはその感覚が横溢しています。

菊地成孔も賞賛するシンガーソングライター Lilla Flickaとは何者? <新音楽制作工房>と作り上げた『通過儀礼』の世界に迫る

【MV】Lilla Flicka & 新音楽制作工房『HAL9K』(Official Music Video) 



外付けHDを新調してからまたiTunesにCDを借りて音源を取り込んだりしていて、その流れで菊地成孔さんがプロデュースをしているオーニソロジーの新譜『食卓』をiTunes Storeで購入した。CDなどでは販売していなかったから仕方ない、そのまま来年一月のオーニソロジーのライブも予約した。それもあって、菊池さんが主宰している「新音楽制作工房」が関わったアルバムが出るというのを上記の記事で知ったのでBASEで注文してみた。CDが届くのは少し先のようだが、菊地成孔さんが関わる音楽には触れていたいと思う。

コロナパンデミック以前から僕が追いかけていたのは影響を受けていたのは、古川日出男さんと向井秀徳さんと菊地成孔さんの三人だった。古川さんであれば朗読などのイベントや書店で行われるもの、向井さんと菊地さんはそれぞれにいくつかの音楽のプロジェクトがあるので、ソロであったりバンドであったりと自分が好きなものはライブにできるだけ行った。それはパンデミック以降になってからも変わらない。
以降になってからはライブやイベントは中止になったり延期されたりもしているが、それでもこの三人に関しては何度も足を運んでこの目で見て耳で聞いてきた。そのことで僕はなんとか生き延びてきたような気がしている。そういうわけでLilla Flickaというミュージシャンの音楽にも興味がある。まずはそんなきっかけでいいと思う。

「あののオールナイトニッポン0」三回目やるんだ! 前の二回とも聴いていてすごくおもしろかったので今回もたのしみ。正直あのちゃんは「オールナイトニッポン」の「0」か「X」のどっちかでレギュラーになってほしい。

ano「ちゅ、多様性。」Music Video 


最初に聴いた時に「すげえ相対性理論っぽい」と思ったら、あのちゃんと元相対性理論の真部さんによる共作曲らしい。
アニメ『チェンソーマン』第七話のエンディングテーマでその回の中身とリンクしているらしいがアニメは一話で止まってしまった。この曲はポップさとその歌詞の内容の真逆だからキュートでダーク。

 

12月6日

ナマモノはずっと苦手で食べても美味しいと思えずにいた。年齢もあるだろうし、出されたものは残さないようにできるだけ食べるようにしているので少しずつ食べる機会が増えてきたこともあるのか、この数年で少しずつ美味しいと感じられるようになってきた。そういう人間なのでお鮨屋に行くという発想はまったくなく、小学生高学年の頃に友達と一緒に回るお寿司のチェーン店には何度か行ったがその時にはエビフライ巻とコーン巻、タマゴやアナゴだけを食べていた記憶がある。
ランチとお茶を数ヶ月に一回行く友人から、12月に入るし年末ということで豪華に鮨ランチに行こうと誘ってもらったので行くことにした。こういうきっかけがないと行くことは永遠にないし、誘われたら行くという姿勢にはしている。
というわけで約30年ぶりぐらいにお寿司を食べにいくことになった。三茶の肉のハナマサのすぐ近くにある鮨かんてらさんへ。カウンターだけのお店で、おお大人って思いながら職人さんが握ってくれたお鮨をいただいた。ランチは旬の握りが十品と巻物とお吸い物というメニューだった。
赤身とかマグロとかの脂が多い具材には赤酢のシャリ、白身とかイカには普通の白いシャリという風にシャリもそれぞれに合わせたものだった。いくつか食べてから写真をという感じで撮ったけど、イカは歯ごたえがあって乗っていた炭塩とも合っていたし、旬ではないけどサンマのいいのがあったからと言って出してもらった炙った握りも大間マグロの赤身もすごく美味しかった。おお、鮨うまいって初めて思いました。今年40歳にして。
目の前で握ってくれた職人さんも聞いたら魚のこととかも短いけどわかりやすく話をしてくれる人だったし、お店もすごく居心地もよかった。
食の解像度が低い人間で外食をほぼしないのだけど、こういうお店で美味しいものを食べられるのは幸せだし、誘ってもらえてよかった。そのあとの喫茶店に移ってからたくさん話もしたけど、こういう時間があるから東京にいるんだろうな。


先日渋谷に行った際に道玄坂を下っていると「ルイヴィトンと草間彌生」のコラボした広告フラッグが等間隔で設置されていた。僕と同じ誕生日の有名人が草間彌生さんと大橋巨泉さんとマルセル・マルソーなので、多少親近感があったが、現代美術と世界最大手の大手ブランドのコラボって現代美術が大資本に飲み込まれてる証明でしかなくないと思いつつ気になっていた。
二日前に読み終えた山田詠美著『私のことだま漂流記』の中で、エイミーの親友であり担当編集者の石原正康さんの話があった。石原さんは今や幻冬社の取締役兼専務執行役員/編集・出版本部本部長なのだが、見城徹社長の角川書店野性時代』編集長時代に編集者として山田詠美さんの『ソウル・ミュージック・ラバーズ・オンリー』を担当しており、直木賞受賞へと導いたことでバイトから社員になったと書かれていた。
そもそもそれ以前に石原さんは小説を書いていて、「野性時代新人文学賞」最終選考に残ったことで見城さんと知り合いになって受賞を期待されていた。そして、その時に新人賞を受賞したのが草間彌生さんの『クリストファー男娼窟』だった。それによって小説家を諦めた石原さんは編集者となり、エイミーの親友であり担当編集者となった。だからエイミーは草間さんに感謝しているという文章があった。
だいぶ前から『クリストファー男娼窟』のことは知っていて気になっていたから、そこの部分を読んですぐにamazonで注文していた。さきほど家に帰ると届いていたのでペラペラとめくる。
草間さんの1984年当時のあとがきがあり、2012年の文庫版のあとがきがあった。その後に解説があり、解説を書いているのが古川日出男さんだった。まったく知らずに注文していたのでちょっと驚いた。それは角川書店(現KADOKAWA)と幻冬社の関係性のことがちょっと脳裏によぎったからでもある。
幻冬社角川書店にいた見城徹さんが独立して立ち上げた出版社であり、彼が「野性時代」編集長時代に多くの直木賞作家やヒット作を出していたことで、ベテラン作家たちも新規のその出版社で書くことになったのは有名な話である。
古川さんのデビュー作『13』と二作目『沈黙』と三作目『アビシニアン』までは幻冬社から出ている。そのことは公式サイトの読み物にある「特別寄稿「最初の編集者の告白」」というもので最初の担当者だった幻冬社の志儀保博さんが当時のことを綴っている。

四作目となる『アラビアの夜の種族』は角川書店から発売となり、『13』と『沈黙/アビシニアン』はその後角川文庫となって出されることになり、それ以降古川さんの小説は幻冬社からは出ていない。
草間彌生さんの『クリストファー男娼窟』文庫版の解説を古川さんが書いているというのは角川書店幻冬社を関係性と古川さんと幻冬社の関わりを知っていると、歴史を感じるものだった。

 

12月7日

仕事が終わってからニコラでラ・フランスマスカルポーネのタルトとアイノブレンドをいただく。薄切りにしたラ・フランスとそのコンフィを固めたものがタルトとマスカルポーネの上に乗っていたが、水々しくて甘くて美味しかった。

『「グレート・ギャツビー」を追え』を読み終えた。文庫の帯の裏に著者のジョン・グリジャムの作品『狙われた楽園』の紹介がされており、そこに今回の重要人物であり書店の店主であるブルース・ケーブルが作家の不審死の謎を追うと書かれているので、ということは今作では盗品であるフィッツジェラルドの直筆原稿の行方を知っているかもしれない彼が捕まったりバッドエンドな終わり方ではないのだろうなとちょっと思っていたけど、まさにその通りな終わりだった。まあ、そうなるわな。

「新人作家の犯すもう一つの間違いは、第一章で二十人の登場人物を紹介することだ。五人で十分だ。それなら読者の頭も混乱しない。次。もし類義語辞書(シソーラス)に手を伸ばしたいと思ったら、三音節以内の言葉を探すべきだ。僕はかなり立派な語彙を有しているが、そんな僕でさえ未だ目にしたこともないような難しい言葉をひけらかす作家くらい腹立たしいものはない。次。お願いだから、頼むから、会話にはクォーテーション・マークをつけてもらいたい。そうしないとわけがわからなくなるんだ。ルールの第五条。たいていの作家は語りすぎる。だから常にそぎ落とすことを考えてほしい。センテンスを短くするとか、必要のないシーンを削るとかね。もっと続けることはできるけど」
『「グレート・ギャツビー」を追え』P412より

上記の引用は作家のマーサーへブルースが伝えた小説を書くポイントだが、これはとても実用的だと思った。そぎ落とすのは難しい、僕には。でも、語りすぎてもいけないということも段々わかるようにはなってきた。


『群像』2023年1月号に掲載されていた町屋良平さんの野間文芸新人賞受賞のことばを読んで、『ほんのこども』もう一度読み返したいと思った。あとは先日読み終わった『私のことだま漂流記』の著者の山田詠美さんのインタビューがタイムリーだった。古川日出男さんの連載『の、すべて』第十二回読んで、スサノオ都知事と呼ばれた大澤光延と彼の病室を訪ねてきた面会人の河原真古登との会話を読んでいて、光延の発言で「ああ、スサノオの大事なとこ(逸話)それあった!」と納得した。

仕事の休憩中に外に出た時にこの日記は24日に始まり翌月の23日までが一ヶ月分となっているけど、それを守る必要はないよなとふと思った。もともとは日記を『水道橋博士のメルマ旬報』に掲載する際に原稿締め切りが23日だったのでそれに合わせている形がずっと継続していた。それもあって一回分の日記が長くなり容量も大きくなっているのもそろそろ考えなきゃなと思った。
水道橋博士のメルマ旬報』も終了したわけだし、もう、その縛りを継続しなくてもいいし、替え時だなと思ったので今月はちょうど12月なのでいつもなら23日で終わるけど、31日の月末までにしようと思った。来年の1月からは半月を一回として月に二回分に日記をわけることにした。

 

12月8日

10時少し前に新宿三丁目駅に着いた。映画は10時半からだったのでちょっと時間があるので歌舞伎町の方へ歩いていき、新宿で映画観るときはお約束な「いわもとQ」へ。朝ご飯と昼ごはんを兼ねるので天ぷらそばを注文した。
値段はそこまで高くないけどほんとうに天ぷらの揚げ加減が絶妙というか、そばも美味しいんだけどやっぱり天ぷらが食べたくなるお店。ちょっとお腹いっぱいになったので歩いて新宿シネマカリテへ向かって歩く。


どのくらいぶりか思い出せないが新宿シネマカリテでジュリオ・クエスティ監督『殺しを呼ぶ卵 最長版』を鑑賞。
前に予告編を見たときに気になっていて、養鶏場が出てくる映画ということもあり、初生雛鑑別師だった大伯父のことを調べたりしているので興味があったという感じで、ジュリオ・クエスティ監督についてはまったく知らなかった。

「情無用のジャンゴ」で知られるイタリアの鬼才ジュリオ・クエスティが、巨大養鶏場で繰り広げられる愛憎劇を通して資本主義社会の非情と人生の虚無を描いた猟奇サスペンス。

ローマ郊外にある巨大養鶏場。社長マルコは業界の名士として名を知られていたが、経営の実権と財産は妻アンナに握られている。マルコは同居しているアンナの10代の姪ガブリと愛人関係にあり、妻への憎しみを女性へのサディズムで発散していた。やがて3人それぞれの隠された欲望が暴かれ、事態は予測不可能な方向へと転がっていく。

「男と女」などの名優ジャン=ルイ・トランティニャンがマルコ、「わらの女」のジーナ・ロロブリジーダがアンナ、「キャンディ」のエバ・オーリンがガブリを演じた。1968年の初公開時に世界配給された国際版ではカットされた残酷描写などを含む「最長版」を、2022年12月より劇場公開。(映画.comより)

正直なことを言うと途中から何度か寝てしまった。前の列のおじさんはいびきをかいていた。映画を見る前に天ぷらそばを食べたことでお腹いっぱいになって眠くなったこともあるだろうけど、眠気が吹き飛ぶぐらい夢中になるという内容ではなかったのかもしれない。音楽がフリージャズっぽいのとか前衛音楽みたいな感じでそれはけっこう心地よかった。
B級サスペンスって感じではあり、作品説明にあるようなオートメーション化と資本主義社会みたいなことはやろうとしているのはわからなくないが、メインの三人の欲望がわりとありきたりであり、そのせいでB級ぽさが強まっていた気はする。眠気がない時に観ても多少退屈だったような気もしなくはない。レトロな映画を観たって感じになるのかな。


燃え殻&二村ヒトシ著『深夜、生命線をそっと足す』を渋谷に戻ってから帰り道がてら立ち寄った丸善ジュンク堂書店渋谷店で購入。
二村さんには今までに、二回か三回ほど飲み屋さんとかイベントでお会いしたはずだが、話をたくさんさせてもらったわけではないけど、懐の深そうな人だなってイメージ。燃え殻さんとのやりとりはおもしろそうだなって。


家に着いてから荷物を置いて、駅前のスーパーへ。うちの近所の天ぷらとフライのお店「天政」さんの前を通ったらシャッターになんか張り紙がしてあった。年末の営業日のお知らせかな、大晦日とその前の日とか地獄みたいなことになるから。朝イチからひたすら天ぷらをあげていて、お客さんもずっと並んでいたので。去年はあえて大晦日は営業していなかった記憶があるけど。
駅前に向かっていたので歩きながら、張り紙を読んだら「閉店いたしました」って書いてあって、「閉店します」じゃなくて閉店したんだってわかった。帰りも通る時に読んだら12月4日に閉店されていたみたいで、お店は55年営業されていたことがわかった。
先週はメンチコロッケと肉詰めハンペンを買ったけど、そんな様子もなくいつものお店の人もなんにも言っていなかったので、ほんとうに近しい人とかすごい常連さんだけには話していたのかなと思った。僕は月に一、二回程度買っていたぐらいでお店の人とは町中ですれ違ったら挨拶するぐらいには顔を認識していた。
「天政」さんはテレビの「アド街ック天国」とか雑誌の三軒茶屋特集だとだいたい出てくる有名なお店。この数年はお店のおじちゃんやおばちゃんも体調を崩したりとかで営業日も金土日とか週末ぐらいになっていた。でも、こういうお店の締め方がいいなって思う。前もって閉店しますって言ったら、普段は来ない人や昔は来ていたけど遠くに住んでいる人とかが押し寄せてきたらお店の人も疲れちゃうし、普段から買っている人にも迷惑になっちゃうだろう。
事後報告って形のほうがいいよな。お店が閉店する時には思い出がある人とか寂しがったりするけど、普段から買い物していた人がそういうのなら理解もできるし、逆にちゃんとお店に通っている人の方がわかっているから言わないよねってこの数年で思うことが何度かあった。
だから、今んとこ東急百貨店渋谷店に入っている丸善ジュンク堂書店渋谷店が百貨店と文化村の再開発で来年の1月末で営業が終わってしまうのはマジで寂しい(僕は年間で十数万は丸善ジュンク堂書店渋谷店で本を買っているので言っても許されるはず。
「ピンチョンとかフォークナーとか高いんだよ、海外文学」と昔は思ってたけどこんなにもいろんな国の文学が母国語に訳されて読める国なんてほかにないだろうし、知的好奇心と豊かさのひとつだったのが海外文学だと思う。もちろんかつての海外への憧れも含まれていた時期があるのも事実。でも、もはや先進国でもなく30年を越えて失われ続けていくのに加えて円高とかもあるから翻訳されていく海外文学ってどんどん減っていくだろうし、読む人も減っていくから出してくれるだけでもありがたい、とりあえず気になっていたら発売したら早めに買って少しでも実数販売に協力したいって気持ちになる)。
海外文学がしっかり揃っている書店って渋谷だとやっぱり丸善ジュンク堂書店だったし品揃えも幅広かった。ル・シネマが渋谷東映の跡地にはいるように、どこか渋谷で移転してくれるといいけど、あの広さはなかなか確保できないだろうから難しいのかな。となると海外文芸が古典から最新作まである程度網羅しているのが近くだと青山ブックセンター本店ぐらいしかなくなってしまう。代官山蔦屋書店は文芸コーナー自体が年々小さくなっているから海外文学自体も減っている(ある程度古典作品もあるにはあるが、なんせ文芸フロアが広くない)。

風が泣いている(生演奏)  ザ・スパイダース 1967

東急百貨店渋谷店付近でよく井上順さんを見かける(調べたらうちの父親と生年月日がまったく同じだった)のと「天政」さんが55年の営業ってことで開店時の1967年ということでザ・スパイダース
「メルマ旬報」チームのてれびのスキマさんが出した『芸能界誕生』を読むとその時代がよくわかる。僕よりも上の世代の人からしたら当たり前なんだろうけど、戦後の芸能界というのものがどういう風にできていったのか、芸能プロダクションの始まりというものだって戦争で生き残ったジャズメンたちが進駐軍のどさ回りしたところからなわけで戦争が大きく関わっている。
日本初の長編アニメ映画といわれる『桃太郎 海の神兵』だって当時の海軍をある意味で騙くらかして作っちゃってるわけで、今に続く日本の芸能やエンターテイメントは第二次世界大戦が大きく関わっているし、始まりでもあるんだけど、僕が行っていた映画学校でもそんなことは教えてくれなかったし、エンタメ関係の人もそんなことを知らないか気にしていない。そういうバックグラウンドとか知らないで創作するのって怖いなって思う、それは海外の作品に触れることで知れる部分やきっかけがあるはずなんだけど、そのきっかけが減ったままでなかったことして消費していく世界はやっぱりロクなことにはならないと思う。

 

12月9日

本日公開のアレックス・ガーランド監督『MEN 同じ顔の男たち』をシネクイントにて鑑賞。
前からシネクイント系列で予告を見ていたしA24制作作品なので観ようと思っていた。お客さんはそこまで多くはなかったけど、おそらく僕と同じようにA24だと思われる。じゃないと初日には観に来ないと思うんだが。

エクス・マキナ」のアレックス・ガーランドが監督・脚本を手がけ、「ロスト・ドーター」のジェシー・バックリー主演で描くサスペンススリラー。

夫の死を目撃してしまったハーパーは、心の傷を癒すためイギリスの田舎町へやって来る。彼女は豪華なカントリーハウスの管理人ジェフリーと出会うが、街へ出かけると少年や牧師、警官に至るまで出会う男すべてがジェフリーと全く同じ顔だった。さらに廃トンネルから謎の影がついてきたり、木から大量の林檎が落下したり、夫の死がフラッシュバックするなど不穏な出来事が続発。ハーパーを襲う得体の知れない恐怖は、徐々にその正体を現し始める。

ダニエル・クレイグ主演の「007」シリーズでビル・タナー役を務めたロリー・キニアが、同じ顔をした不気味な男たちを怪演。(映画.comより)

夫が死んでから田舎でリフレッシュしようとした主人公のハーパーだが、廃トンネルから謎の存在に付きまとわれるようになる。その人物は全裸(全身金色っぽい)で一度は警察に捕まえられるが、釈放後には体に葉っぱを植え付けるな謎の行動をして再度ハーパーの元に現れることになる(精霊とか人ではない存在っぽい)。そして、管理人のジェフリーと同じ顔をした牧師(神父かも)や高校生などが次々と現れる。そして、彼らに追われて襲われそうになるがなんとか逃げていくハーパー。彼らの左手は中指とクリス指の間から肘にかけて真っ二つになるが、代わる代わるカントリーハウスでハーパーに襲い掛かろうとする彼らの手はどれも同じであり、足も右足が折れていたという共通点が見え、どうやらひとりが全員であり全員がひとりという存在であるらしい。

カントリーハウスで仕事をしつつリラックスしようとするハーパーだが、亡くなった夫との最後のやりとりを彼女は度々思い出す。口論の最中、夫に殴られてしまったハーパーは彼に家から出ていくように伝え、もう二度と会わないと言い放ち家から彼を追い出す。だが夫は上の階の部屋に押し入りそこのベランドから彼女がいる部屋のベランダに飛び移ろうとしたが失敗し地面に叩きつけられて死んでしまう。
夫が落ちる瞬間を彼女は見てしまっていた。そして、地面に落ちて彼が死んでいる姿はジェフリーたちの手のように柵によって裂かれて真っ二つになっており、右足も同様に曲がらないはずの方向へ折れていた。つまり、彼女を襲う謎の彼らは亡くなった時の夫と同じ状態になっていた。
最後の二十分ほどはグロいものが苦手な人にはかなりきつい描写になっていた。僕も見ながらちょっとしんどかった。その描写は何度も繰り返されて最後に「ええ? そうなるの、どういうこと?」と思うような状況になって終わる。

庭になっていた林檎をハーパーが勝手に食べたシーンがあるので、どこかアダムとイブ的なモチーフを入れ込んでいるのかなと思っていたが、そこまでシンプルなものではなかった。いろんな場所でハーパーを見ている、追いかけてくる全裸の謎の男(男ではない可能性もあると思わされることが終盤に起きる)やジェフリーたちによってハーパーは恐怖を覚えるので、これは女性が普段生活する際に男性の発言や行動によって加害されているというのを劇的な描写にしているのかとも思った。
もちろんそういう部分は亡くなった夫との最後の別れ話でも描かれているように感じられたが、最終的に起きる出来事が見事にそれを吹っ飛ばすというか、彼らがなにものなのかなぜそんなことをしているのかという説明がないので、この作品をどう捉えたらいいのか、あのシーンや登場人物はなんなのかと考えることになる。
あとカラスが途中で出てくるし、冒頭だったか森で死んでいた鹿(だったと思うんだけど、四足歩行の動物で大きくはなかった)とかは『グリーン・ナイト』同様に神話ぽさもある。同じくA24制作『ミッドサマー』とか好きな人にはオススメできるけど、あれが無理な人は観ない方がいい。

SZA - Nobody Gets Me (Official Video) 

 

12月10日

昨日『MEN 同じ顔の男たち』を観た際にシネクイントのポイントカードが4つ貯まって一回無料券となったので帰り際に城定秀夫監督『夜、鳥たちが啼く』の11時25分上映回のチケットと引き換えた。


寝る前に原作小説である佐藤泰志著『夜、鳥たちが啼く』(『大きなハードルと小さなハードル』収録)を読んでいた。
映画を観に行くので久しぶりに文庫本を引っ張り出して再読となったが、今作もそうだが佐藤さんの小説は三人を描くものが多い。映画化された『そこのみにて光輝く』『きみの鳥はうたえる』はそうだったし、『オーバー・フェンス』『草の響き』は二人がメインなせいかアンバランスだった気が(小説が元々そうだし)。

『夜、鳥たちが啼く』を書いたときの佐藤さんは今の僕と同じ40歳で、翌年首を吊って自殺した。没後は全作品が絶版になっていたけど『佐藤泰志作品集』が出て『海炭市叙景』が映画化されてから、いろんな作品が映画化されたからそれに伴ってその度文庫版は新たに刷られたり、帯が付け替えられて絶版にはならないで手に取ることができる。
佐藤さんは生きている間に評価されたかっただろうなあと思っちゃうけど、彼が亡くなっていることで今も読まれたり、映画化される一因でもあるからモヤモヤというかなんだかなあとも思う。でも、映画化されてなかったら読まなかったし知らなかったままだったのも事実なんだよなあ。

「アルプススタンドのはしの方」の城定秀夫監督が、作家・佐藤泰志の同名短編を映画化。同じく佐藤泰志原作の映画「そこのみにて光輝く」などの高田亮が脚本を手がけ、人生を諦めかけた作家とシングルマザーの奇妙な共同生活を描く。

売れない作家・慎一は同棲していた恋人に去られ、鬱屈とした日々を送っていた。そんな彼のもとに、友人の元妻・裕子が幼い息子を連れて引っ越してくる。恋人と暮らしていた一軒家を母子に提供し、自身は離れのプレハブで寝起きする慎一は、これまで身勝手に他者を傷つけてきた自らの無様な姿を終わりのない物語へとつづっていく。一方、裕子はアキラが眠ると町へ繰り出し、行きずりの男たちと身体を重ねる。互いに深入りしないように距離を保ちながら、表面的には穏やかな日常を送る慎一と裕子だったが……。

主人公・慎一を山田裕貴、裕子を松本まりかが演じる。(映画.comより)

原作を読んで観たことでわかったのは主人公の慎一と元カノの文子との過去が映画では多めにオリジナルで描かれていた。映画は115分で約二時間あり、原作を読んだ感じではそこまで長くなるような内容ではないのでなにかエピソードを追加しているのだろうなと思ったらそこだった。現在、過去(回想)が繰り返されていて偶然だが前の日に観た『MEN 同じ顔の男たち』と同じパターンだった。

正直なところ、その過去が余分だったように思う。慎一と文子(中村ゆりか)、そして裕子と邦博(カトウシンスケ)という二組のカップルの過去を描いたことで余白がなくなってしまい、慎一と半同棲のようになった裕子の二人の男女の関係性や緊張感がなくなってしまい、原作では描かれていたエロティックが過去を描いたことで消えていたように感じた。
過去を詳細に描かないことで読者(観客)への想像力を膨らませ、妄想させることで半同棲の二人の緊張感とか距離感におけるエロティックを感じさせていたものがお話にするために描いてしまって色気がなくなってしまった。原作とは裕子の元夫の邦博が浮気する相手が映画では違って慎一の元カノの文子にしてしまったせいで、残された二人がセックスしてもなんというか、ありきたりになってしまった。映画として出てくる登場人物がそうなるとわかりやすいし、まとまって見えるからそういう設定にしているのだと思うが、そのせいで世界があまりにも狭くなってしまった。慎一と裕子がはじめて一線を越えるシーンがあるが、やっぱりそこが全然エロくないからもったいない。それは過去を描き過ぎたせいだと思う。

 

12月11日
二度寝をした。いい加減に起きようと思ったらもう10時過ぎだったので眠気覚ましに近所のツタヤの本屋まで行く。昨日から購入しようと思っていた浅田弘幸著『完全版 I’ll―アイル―』1&2巻を。
ジャンプコミックス版はBOXに入れたままずっと保管している。僕にとってバスケ漫画は『I’ll』しかない。この作品を読んで高校はバスケ部に入ったぐらいには影響を受けているし、ほんとうにあの当時は毎月たのしみにしていた。
浅田さんには一度だけ田島昭宇さんの展示でカイマンに行った際にお会いしてご挨拶をさせてもらったことがある。
今回の完全版はもともとの集英社ではなく小学館クリエイティブからの刊行。編集者の島田一志さんが巻末にインタビューなどをしているのでそういう繋がりがあったのかなと思ったりした。僕も小学館から刊行されていた「漫画家本」で何度か執筆させてもらったが、その時は島田さんからご依頼してもらったので、いろんな繋がりや縁は感じる。


14時から田島昭宇さんの挿画展のサイン会の抽選に当たっていたので阿佐ヶ谷へ向かう。電車に乗ると下北沢に出ても、渋谷に出ても最低2回は乗り換えをしないと阿佐ヶ谷まで行けない。休日の電車には乗りたくないのもあって、家から阿佐ヶ谷まで歩くと一時間五十分ぐらいだったので散歩がてら歩いた。三茶からだと井の頭線も中央線も北上するとわりと近い距離にある。自転車があればかなり近い。なぜか電車に関しては北上するものがないので電車移動すると無駄に遠くなる。
地図アプリを見ながら井の頭通りや甲州街道を横切ったり沿って歩いたりして阿佐ヶ谷商店街へ辿り着く。途中で毎年正月に歩いていた神田川を一度横切って善福寺川も見えた。善福寺川神田川と合流するポイントでしか見ないので新鮮だった。


14時の少し前に田島昭宇 挿画展「夢限PAYAPAYA黒白〈KOKU-BYAKU〉」を開催中の阿佐ヶ谷ギャラリー白線に着く。数人のお客さんが待っていた。ちょうど田島さんがタバコを吸いに出てきたのでご挨拶してちょっとお話をさせてもらった。
時間になってからこの時間帯のサイン会に当選した人が中に入って商品などを購入してから田島さんにサインをしてもらうといういつもの流れになっていた。
画集のデザインもされている奥さんのヨーコさんにも挨拶して、並んで順番を待ってから装画集にサインしてもらう。みんなひとりひとり田島さんと話をしているので多少時間はかかるけど、そのことは全然気にはならない。みんな仲間意識があるのもデカいんだろうけど。
僕は『多重人格探偵サイコ』の最初のサイン会からずっとサイン会には足を運んでる(TSUTAYA渋谷店に朝早く並んだり、毎回のサイン会の抽選も当ててきた)。今はなきcakesで田島さんにインタビューをさせてもらい、今はなき『水道橋博士のメルマ旬報』の自分の連載(「碇のむきだし」)では当時書いていた岩井俊二監督と園子温監督の作品に関するイラストを描いてもらって、その度にイラストを取りにいき毎回飲み屋でご一緒させてもらうというファン冥利につきる誉れ(使い方間違ってるか)だった。
僕は好きなものが多くないし、世間的に受け入れられているものにあまり好意的な反応ができないけど、好きになったものや惹かれた人に関してはわりと猪突猛進型で、関係者に近い感じになりやすい。それは関係者に近いファンであって関係者ではない。田島さんや古川さんについてはこれからもスタンスは変わらないだろうけど、今年終わっていったものに関しては変わるだろうな、と思う。


田島さんにサインしてもらいながら色々話をしていたら、サインしてもらう際の名前入れのひとりずつに渡される自分のやつがあって、すでに終わっている人の名前を田島さんが間違えて書いてしまったので、間違えてますよって言ったら、「あっ」みたいな顔になって、でも修正はうまいんだよって黒ペンで修正して上から新たに名前を入れてもらった。こういうのも会ってサインしてもらっているからできるコミュニケーションだった。

終わったあとは曇っていてかなり冷えてきていた。帰りも歩くのはしんどそうだったので西永福駅まで歩いてそこから井の頭線下北沢駅まで電車に乗って、そこから歩いて帰ることにした。
家の近所の銭湯の前で文春の編集者の目崎さんとバッタリお会いしたので少し立ち話。年末ですねって。そのあと17時から22時までのんびりと仕事をした。室内にいてもかなり寒いから師走っていうのと冬感が出てきた。

 

12月13日
朝晩とリモートワーク。その合間や休憩時間にTVerで『silent』第八話を見る。想と母親、そして家族の話になっていて泣いてしまった。感動的なシーンは条件反射的に泣けてしまうので仕方ない部分もあるのだが。
昨日寝る前に見た『鎌倉殿の13人』の北条政子の演説シーンでも涙が出てしまった。あのシーンのために今までがあったとも思えるし、三谷脚本すごいと改めて感じるものだった。こちらはあと一話で最終回であり、すでに終盤だが最初からずっと北条一族の家族ドラマを描いてきたともいえる内容であり、これあと一話で終われます?みたいなことになっている。どう終わるんだろう?
主人公である小栗旬演じる北条義時の最後がクライマックスでは描かれると思うが、妻に毒殺されるのか、あるいは家族たち全員によってある種の人身供養的に殺されてしまうのか、などの予想もあるがどれも違う感じがする。アガサ・クリスティーのある作品に脚本を書いた三谷幸喜さんがヒントを得たという話があるので、残った全員が犯人とかの説なども出ているわけだが、今のところは息子の北条泰時が執権を握るとこが最終のラストにあると想像できるので彼の手にというよりも義時が自ら死んだり、殺してもらうように企んでいて、息子が執権になるのを後押しして終わるのかもと思った。でも、あれだけ人を殺してきた義時だから殺されたりする終わりも充分にありそう。

『silent』の今回は家族回であり、耳の聞こえなくなった想とかつて耳が聞こえていた頃に彼にとって大切だった音楽(紬と付き合う上でも大事なアイテムとなった)への想いが溢れる内容になっていた。もちろん、音楽は今の彼には聞こえないが、CDにあった歌詞カードの歌詞を読むことはできる。彼はそうやって新しい音楽にも触れようと動き出していて、紬に最新のものを教えてほしいと話すシーンもあった。前向きに彼が動き出したという面でも感動的だった。
ドラマを見ているとiPodやCDで音楽を思春期にリアルタイムで音楽を聴いていた想たちの最後の世代にとっての音楽は、サブスクのような見えないものではなく、CDジャケットや歌詞カードなども含めて音楽であり、それは見えるし触れるものだった。
紬が作中でCDが好きという発言をしていたし、彼女が働いているタワレコという場所はCDに囲まれていて、どこか憧れに似たものをかつてはみんなが持っていたという象徴の場でもある。
耳が聞こえなくなってもCDや歌詞カードがあれば想は音楽を感じることができるし、どんなことを歌っているのかも歌詞を見ればどんなものかがわかる。そういうシーンを見ていると二十代の若者が主人公であっても僕のような四十代の人間にも通じるものがある。
サブスクによってどれだけ便利になっても、音楽への間口を広げてくれても、いろんなものを手軽に聴けるようになってきても、それだけでは物足りないのだ。形や触れることができることで人間はそれらを記憶して大事な思い出として自分に残っていくものとなるから。サブスクはその辺りがめちゃくちゃ弱いというかやはり難しいと思う。このドラマはコロナパンデミック以降の世界のコミュニケーションの難しさやどう他者と接していくのかということを描いてしまっているが、同時に音楽というものへの接し方が変わったことにも意図的なのか無意識なのか視聴者に考えさせてしまうものとなっている。

この間、鮨ランチを一緒に食べた友人からおすすめされていたネットフリックスで配信中のドラマ『First Love 初恋』のエピソード1を仕事が終わってから見た。
佐藤健演じる主人公の妹が聾者であり、彼らは手話を使って会話をしていた。一話では出てきていないがこちらにも『silent』にも出演している夏帆さんが出演しているのは知っていたが、一話には出てこなかった。二話以降に出てくるようだ。彼女が今作でも手話を使うのかはわからないが、同時代性と言ってもいいのだろうが共通点があるなと感じられる。

 

12月13日
『エルピス―希望、あるいは災い―』第八話「少女の秘密と刑事の工作」を日付が変わってから寝る前に見る。組織について描くということに関しては、同じく渡辺あやさんが脚本を手がけたNHKで放送された『今ここにある危機とぼくの好感度について』は大学組織をコミカルさを入れていたが、今作でのテレビ業界組織に関してはよりシリアスに描いている。組織は一枚岩ではないし、それぞれの個人がそれぞれの思惑や動機や理由で動いているので表面上で見えることの中側は多様であり、一致していない。だが、それを外側から見るとわかりにくいものであり、表面上でしか外部には判断ができない。
少女連続殺人犯の本当の犯人と思われる人物の父と元警察庁官僚出身の副総理が繋がっており、副総理が事件を裏で握りつぶしているという黒幕感をわざと出しているが、どう考えもそれは撒き餌のようなもので大事なのはそこではない。この作品で描こうとしているのは組織と個人、利害と真実、社会と自由における現代の僕らが置かれている状況なんだろう。
岸本拓朗役の眞栄田郷敦どんどんいい面構えになっていっている。あと拓朗にとってのキーパーソンが桂木信太郎(松尾スズキ)っていう、松尾さんおいしいよね。

河出書房新社からドラマのシナリオブックが出るとのことで非常にうれしい。このまま渡辺あやさんが書かれた過去の映画やドラマの脚本もシナリオブックで出してくれたら最高なんだけど。

『エルピス』を見てからすぐには眠れなくなっておそらく2時半ぐらいに寝落ちした。朝8時ぐらいに目覚ましをかけたが、もう少し寝たかったので二度寝をした。起きると10時10分ぐらいになっていた。眠りが浅かったのか、夢を見ていた。内容は忘れてしまったが、また芸能人のような著名人が出てきたような気がする。
10時20分からのTOHOシネマズ渋谷で上映される映画『月の満ち欠け』のチケットを取っていたが、もう間に合わない時間だった。そして、9時から販売抽選予定だったNIKEとsacaiのコラボのズームコルテッツもすでに完売で終わっていた。それが取れなかったら買おうかと思っていた「ラディカルな意志のスタイルズ」の「反解釈1」のフーディーのLサイズも売り切れていた。こういう時はもうどうにもならないので諦めるしかない。
とりあえず、TOHOシネマズ渋谷まで歩いて行ってチケットだけ発券しようと思ったが、上映開始していると発券はできなく、スタッフに尋ねてくださいとのことだったので諦めた。シネマイレージポイントはこの場合は貯まるんだろうか、と思っていたが帰ってからTOHOシネマズサイトを見たらポイントは追加されていた。そのままなにもせずに帰るのも癪だし、スニーカーもフーディーも買ってないので浮いた分で小説を買おうかなと丸善ジュンク堂書店渋谷店に向かった。


チャールズ・ブコウスキー著/都甲幸治訳『郵便局』が発売されていた。
僕が唯一墓参りにいったことある作家はブコウスキーだけなぐらいは好きだし、訳が都甲さんなら読むしかないっていう一冊。

夕方から22時までリモートで仕事をする。仕事の合間に今後のスケジュールを確認してみると残り半分ぐらいだが、ちょこちょこ人と会う予定があってその辺りは嬉しいしたのしもうと思う。もろもろ来年のことを考えているが、変えていくことと変えないことをそうしていくかが大事になりそう。

 

12月14日

防衛費を増額して「トマホーク」を購入するっていうニュースを見ると戦後日本はずっとアメリカの属国だったのを改めて思い出す。
阿部和重著『オーガ(ニ)ズム』文庫版上下巻が来年の2月に出るので、『シンセミア』『ピストルズ』をいろんな人に読んでもらいたいなと思った。年末年始に「神町サーガ」読み返すのもありかもしれない。
しかし、岸田首相の防衛費増額とその責任は国民という発言は自殺願望のような、もう首相辞めたくて仕方ないんじゃないかんと思ってしまう。アメリカと自民党とかいろんなものに板挟みになって無茶苦茶な判断をすることで逃げ出したいようにすら見える。

園子温監督『エッシャー通りの赤いポスト』
ジョン・ワッツ監督『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』
リドリー・スコット監督『ハウス・オブ・グッチ』
シアン・ヘダー監督『コーダ あいのうた』
片山慎三監督『さがす』
奥田裕介監督『誰かの花』
ウェス・アンダーソン監督『フレンチ・ディスパッチ ザ・リバティ、カンザス・イヴニング・サン別冊』
塩田明彦監督『麻希のいる世界』
ジェイソン・ライトマン監督『ゴーストバスターズ アフターライフ』
松居大悟監督『ちょっと思い出しただけ』
レオス・カラックス監督『アネット』
湯浅政明監督『犬王』
城定秀夫監督『愛なのに』
マット・リーヴス監督『THE BATMAN
アピチャッポン・ウィーラセタクン監督『MEMORIA メモリア』
藤井道人監督『余命10年』
今泉力哉監督『猫は逃げた』
ジュリア・デュクルノー監督『TITANE/チタン』
ジャスティン・カーゼル監督『ニトラム』
吉野耕平監督『ハケンアニメ』
ケネス・ブラナー監督『ベルファスト
エドガー・ライト監督『スパークス・ブラザーズ』
マイク・ミルズ監督『カモン カモン』
ジャック・オーディアール監督『パリ13区』
サム・ライミ監督『ドクター・ストレンジマルチバース・オブ・マッドネス』
ジャック・リヴェット監督『北の橋』
白石和彌監督『死刑にいたる病』
樋口真嗣監督『シン・ウルトラマン
青山真治監督『EUREKA/ユリイカ』デジタル・マスター完全版
ジョセフ・コシンスキー監督『トップガン マーヴェリック』
佐向大監督『夜を走る』
青山真也監督『東京オリンピック2017  都営霞ヶ丘アパート』
ヤン・ヨンヒ監督『スープとイデオロギー
ドミニク・グラフ監督『さよなら、ベルリン またはファビアンの選択について』
青山真治監督『サッド ヴァケイション
狩山俊輔監督『メタモルフォーゼの縁側』
ポール・トーマス・アンダーソン監督『リコリス・ピザ』
フランチシェク・ヴラーチル監『マルケータ・ラザロヴァー』
ヨアキム・トリアー監督『わたしは最悪。』
タイカ・ワイティティ監督『ソー︰ラブ&サンダー』
神代辰巳監督『宵待草』
タイ・ウェスト監督『X エックス』 
城定秀夫監督『ビリーバーズ』 
バンジョン・ピサンタナクーン監督『女神の継承』
工藤梨穂監督『裸足で鳴らしてみせろ』
エリック・ロメール監督『緑の光線
ヴァルディマル・ヨハンソン監督『LAMB/ラム』
石原海監督『重力の光』
タナダユキ監督『マイ・ブロークン・マリコ
セリーヌ・シアマ監督『秘密の森の、その向こう』
ジャン=リュック・ゴダール監督『勝手にしやがれ
ジャン=リュック・ゴダール監督『気狂いピエロ
久保田直監督『千夜、一夜』
コゴナダ監督『アフター・ヤン』 
ジョーダン・ピール監督『NOPE/ノープ』
ジャニクザ・ブラヴォー監督『Zola ゾラ』
デビッド・リーチ監督『ブレット・トレイン』
沖田修一監督『さかなのこ』
川村元気監督『百花』
深田晃司監督『LOVE LIFE』
ウォン・カーウァイ監督『花様年華
ウォン・カーウァイ監督『2046』
ニック・モラン監督『クリエイション・ストーリーズ 世界の音楽シーンを塗り替えた男』
今泉力哉監督『窓辺にて』
ライアン・クーグラー監督『ブラックパンサー/ワカンダ・フォーエバー』
アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ監督『バルド、偽りの記録と一握りの真実』
デヴィッド・ロウリー監督『グリーン・ナイト』
新海誠監督『すずめの戸締まり』
ジュリオ・クエスティ監督『殺しを呼ぶ卵 最長版』
アレックス・ガーランド監督『MEN 同じ顔の男たち』
城定秀夫監督『夜、鳥たちが啼く』

年末になったらマイベストを作ろうと思って今年劇場(試写会場)で観た映画をリストアップしてみた。
青山真治監督とジャン=リュック・ゴダール監督が亡くなったので追悼上映を観にいったがやっぱり『EUREKA/ユリイカ』は別格だった。
新作なのに城定秀夫監督作品を三作品観ている。もう一作上映されていたはずなので四作品公開されているはず。あとはA24制作か関連作品はできるだけ観に行っている。


樋口毅宏著『中野正彦の昭和九十二年』をご恵投いただきました。『水道橋博士のメルマ旬報』で連載していたものを加筆修正したもので、メルマガの連載から単行本になった最後の一冊になるかな。

 

12月15日

数日前に購入していた菊地信義著/水戸部功編『装幀百花 菊地信義のデザイン』を読む。菊地さんは今年亡くなられて、その弟子といえる水戸部さんが編著されたこの一冊は興味があった。
水戸部さんは古川日出男さんの大作(ギガノベル、メガノベル)などの装幀も手掛けられているのもあって認識した好きな装幀家さん。この講談社文芸文庫のデザインは菊地さんがずっと手掛けられていたが、水戸部さんが引き継いでいる。こういう師弟の流れも感銘を受ける。


数年前にドキュメンタリー映画『つつんで、ひらいて』を観て、知らないうちに自分が読んでいた小説や書店で見ていた装幀デザインをずっと手掛けられていたんだなって知った。僕は弟子筋というか水戸部功さんのほうを先に認識していた。
年譜を見ていると古川日出男著『聖家族』(デビュー10周年目の出版)は菊地さんが装幀を手掛けられていて、僕はずっと水戸部さんが手掛けたと勘違いしていた。
古川さんのデビュー15周年に出版された『南無ロックンロール二十一部経』、20周年の『とても短い長い歳月』、『おおきな森』や『ゼロエフ』という節目や重要な作品は水戸部さんが手掛けているからそう思っていたわけだけど、菊地さんが装幀した『聖家族』の流れを水戸部さんが引き継いでいるともいえるのか。

先月、村上春樹ライブラリーを案内してもらったエリックさんと会う約束をしていたので家を出る。トワイライライトの前で待ち合わせをして三階にあるお店へ。店主の熊谷さんとエリックさんを引き合わせることができれば、と思っていたので二人がこの先なにかしたりという縁ができればと思う。
店内の書籍を見てからコーヒーを頼んでしばらくエリックさんと小説の話をした。お互いに興味があることとか近いので話も弾んでどんどん話してしまった。


カフェタイムが終わってから店を出る前に安堂ホセ著『ジャクソンひとり』を購入した。安堂さんのトークイベントも26日にあるので店内では選書フェアをやっている。
偶然だが友人のパン生地くんからそのイベントに行かないかとちょうどラインが来た日だったので気になったというのもある。イベントの日は仕事が入っていて行けないけど、おそらくこの作品は芥川賞候補になるだろうし、読んでおこうと思った。


三茶から駒沢大学駅へ246方面にまっすぐ歩いて20分ほどのほとんど駅前にある「CORI. VEGAN FOOD & CRAFT BEER」へ。
エリックさんはヴィーガンというわけではないらしく、たまに一ヶ月とか肉とか取らないことをやったりはするみたいだった。そういう話をしていなくて、前に行ったことのあるお店ということで行くことになったのでどうなんだろうかと思ったので行く最中に聞いてみた。どちらかというとこのお店で出している長野県軽井沢で作られているクラフトビールKOKAGE」が好きでそれを飲みたいという感じだった。
僕もビールは好きなのでお店で三杯ほど違う味のものを飲んだ。澄んでいる感じもあり非常にマイルドで飲みやすい。調子に乗って飲みすぎて気がついたら酔っ払ってしまう感じだなと思った。
エリックさんからクラフトビールの話を聞いたりもして、ほかのものも飲んでみたいなって思ったし、トワイライライトに引き続き小説の話とか文化のこととかそれぞれの家族の話なんかもできて、すごくいい時間になった。また、次はクラフトビールを飲む約束をして別れた。来年はいろんなクラフトビールを飲むというのもたのしみのひとつにしてみようかな。

 

12月16日
起きたら直木賞芥川賞候補が発表になっていた。安堂ホセ著『ジャクソンひとり』は芥川賞候補になっていて、読むのがたのしみになった。

仕事前に『silent』第十話を見る。先日、代官山の西郷橋でドラマの撮影をしているのに偶然出くわして、夏帆さんが待っているのを見たがこのシーンの撮影だったみたい。
今回は紬と想の関係において耳の聞こえない想が紬と一緒にいることで寂しそうな表情が以前よりも多くなっていて、またなにも言わずに離れてしまうのではないかと感じさせるものとなっていた。その二人の相似形として未来の可能性として春尾と奈々の関係性も描かれていて、二人が飲んでいるところにやってきた湊斗が加わったことで奈々が本音を言うシーンなどもあってそこはとてもよかった。
ある時期が過ぎて再会した春尾と奈々だからこその空気、それもあって主人公の紬と想の関係性が今はとても危ない、終わりに想が向かっているように見えて効果的であり、あと一話で最終回なのでどこまで二人が信じられるのかと描くのだろう。


仕事が終わってから歩いて青山にあるブルーノート東京に行く。Rei presents "JAM! JAM! JAM!" 2022のライブ。メンバーはRei(ヴォーカル、ギター)、YUNA [CHAI](ドラムス)、TAIHEI [Suchmos, 賽](キーボード)、岩見継吾(ベース)、Special Guest(東京のみ):タブゾンビ[SOIL&"PIMP"SESSIONS](トランペット)という面子。
地元の友人と彼の昔の仕事の同僚の三人だったが、席がステージまん前の最前列だった四人テーブルで僕の右側は数十センチにないところにステージがあり、ライブ中にReiとタブゾンビのセッションもギターやトランペットが当たるかもしれないという緊張感があるぐらいの近さだった。
CHAIのYUNAさんによるドラムも気持ちよかったし、タブゾンビさんのトランペットはカッコよくて色気があった。ベースの岩見さんの指遣いも見惚れてしまったし、TAIHEIさんのキーボードがメロディアスな部分を支えていた。Reiささんはパッと見は小さいがギターを演奏している時の勇ましさとそのプレイスタイルはとてもブルーノートのステージに映えていた。音楽として聴いていてただただ心地よかった。

 

12月17日

朝起きてから渋谷まで歩いて行って円山町にあるユーロスペースへ。昨日から公開が始まった三宅唱監督『ケイコ 目を澄ませて』の初回を鑑賞。
次の回の上映後とその次の回の上映前に三宅監督と岸井ゆきのさんの舞台挨拶があったがほとんど席はうまっていたので初回なら舞台挨拶もないから人が少ないかなと思って二日前ほどにウェブでチケットを取っていたが、行ってみると注目作ということもあるのかかなり埋まっていた。

きみの鳥はうたえる」の三宅唱監督が「愛がなんだ」の岸井ゆきのを主演に迎え、耳が聞こえないボクサーの実話をもとに描いた人間ドラマ。元プロボクサー・小笠原恵子の自伝「負けないで!」を原案に、様々な感情の間で揺れ動きながらもひたむきに生きる主人公と、彼女に寄り添う人々の姿を丁寧に描き出す。

生まれつきの聴覚障害で両耳とも聞こえないケイコは、再開発が進む下町の小さなボクシングジムで鍛錬を重ね、プロボクサーとしてリングに立ち続ける。嘘がつけず愛想笑いも苦手な彼女には悩みが尽きず、言葉にできない思いが心の中に溜まっていく。ジムの会長宛てに休会を願う手紙を綴るも、出すことができない。そんなある日、ケイコはジムが閉鎖されることを知る。

主人公ケイコを見守るジムの会長を三浦友和が演じる。(映画.comより)

今年はシアン・ヘダー監督『コーダ あいのうた』に始まり、TVドラマ『silent』にネトフリドラマ『First Love 初恋』と聾者が出てきて手話を使う作品が多かった印象があるが、今作も主人公のケイコは生まれつき耳が聞こえないので家族とのやりとりなどは手話で行っている。物語は耳の聞こえないケイコの日常が淡々と進む。ホテルのルームキーパーの仕事をしながらほぼ毎日のようにジムに通ってボクシングの練習をしている。荒川と都電荒川線だろうか、電車の走る音、という流れるものの近くでの生活、ケイコが放つパンチの音とリズム、そして見据えている景色や人たちの顔や仕草や動き、とても静と動が刻まれている作品だなって思った。終わり方もとてもよかったし佇まいの素晴らしい映画だった。もしかすると何年か経ってからもう一度観る方が染み入るような、スルメイカ的な作品のような気も少しする。

樋口さんの新刊『中野正彦の昭和九十二年』が販売元のイーストプレスが発売前の回収を決めたことについて、樋口さん自身の意見というかコメントをツイートされていた。
僕は献本を送ってもらっていたので家にあるし、昼間映画を観終わって丸善ジュンク堂書店渋谷店に寄ったら数冊は棚にあったのを見かけた。書店にすでに届いているものも回収ということなのだろうから、タイミングよく買えた人もゼロではないはずだ。
しかし、この件に関しては数日前にイースト・プレスのこの書籍の担当編集者ではない人がヘイトスピーチやツイートなどをそのまま使っていることは許されないという内容をツイートしていた。そのことで会社は回収という判断を下したのだろうが、すでに刷って発売を待つという段階だった時点で印刷するという判子は押されているのだから、それを判断した上の人たちは表現とか出版ということにどういう考えがあるのだろうか。
「今後、献本した方たちが読んで、世間に感想を伝えることで、イーストプレスが方針を改めてくれることを期待します。」と最後に書かれていた。僕は送ってもらっているのでこの本を読んだ上でこの本が差別やヘイトを助長するのか、そして小説としておもしろいかどうか、を書かないといけないよなあ。

読んだ上で『中野正彦の昭和九十二年』がヘイトを助長しているのかどうか(しているわけないんだけど、)はわかるし、その上でおもしろいかおもしろくないかっていうことなんだけど、もはや回収されてしまっては一般には普通に読めないのでその判断はできない。
偶然だけど、KADOKAWAから刊行した『クウデタア 完全版』の前のバージョンである『アンラッキーヤングメン クウデタア』はイースト・プレスであり、そこのあとがきで「国内では、イースト・プレスが引き受けてくれたが、そもそもこの企画を持ちかけ、当初はいたく乗り気だったサブカルチャー系の相応に知られる出版社の編集者は、テスト版が描き上がった時点で全くメールが戻ってこなくなった」とあって、その辺りぐらいから今回の件に繋がるものがあったんじゃないかなって思った。違うかもしれないけど。

大塚英志×西川聖蘭『クウデタア 完全版』刊行インタビュー:アンラッキーなテロ少年と戦後文学者をめぐっての雑談


「クウデタア」が一人の人間の内部で起きること------戦後文学者と少年テロリストたち/『クウデタア』原作者・大塚英志さんインタビュー(前半)


「クウデタア」が一人の人間の内部で起きることーーーー戦後文学者と少年テロリストたち/『クウデタア』原作者・大塚英志さんインタビュー(後半)

 

12月18日

古川日出男×管啓次郎×小島敬太「天の音をみんなで聴け」長篇詩『天音』(Tombac)全文朗読会

古川さんの長篇詩『天音』の朗読イベントを聞きに、見にB&Bへ。先月の26日のLOKO GALLERYでの近藤恵介さんと古川さんの読書会に引き続きという形で参加したが、前回はワークショップに近い形だったので朗読自体はなかった。
僕が今回一番気になっていたのは今までの朗読(&朗読セッションなどのコラボ)では古川さん自身が書いた小説がメインだったし、朗読劇などの画廊劇なども物語という核があったが、長篇詩だと朗読をする際にはどう変わるのだろう、変わらないのだろうかというものだった。

最初は古川さんによる『天音』全文朗読があり、その後のパートで管啓次郎さんと小島敬太さんとの鼎談という流れだった。
座っていたのは古川さんが朗読する際にマイクに向かってまっすぐ立つと体の左側が見える場所の一番後ろの端だった。マイクー古川さんー僕がちょうど90度ぐらいな感じ。お客さんたち全員が座って見ていたのもあってとても見やすかった。
『天音』自体は三度ほど読んでいたのもあったし、目の前で朗読している著者がいるのに手元にある本の文字を追うのはやっぱりなにか違うなと個人的には感じた。
トークイベントなどで登壇者の発言をメモすることに夢中になるとその時々の言葉を話している人の顔を見る時間がなくなったり、その時に醸し出すものやリアクションがわからないほうがもったいないと思うようになってからはメモは基本的には取らなくなった。だからそれに近い。
始まる前に手に持って用意していたが開かずに、朗読している古川さんを見ていた。
朗読のあとに管さんがお話しされたことの中に、小説は人間を描くものだが、詩は人間だけではなく動物や植物や自然や天体やすべてを描くものだというものがあった。そう聞いた瞬間に宮沢賢治だと思ったし、古川さんの小説がどこか詩を感じさせるのは宮沢賢治をリスペクトしていることもあるし、賢治同様に人間以外のものを小説に書いてきたことがあるのだろう。それゆえに古川日出男作品は世界文学になると僕は信じているし、そういう未来を待っている。

2008年の『ベルカ、吠えないのか?』文庫版の刊行イベントではじめて朗読を聞いてから14年、何百とは言えないけど何十回と古川さんの朗読を聞いて体験していた僕が今回の長篇詩の朗読で感じたのは、「あっ、怖さがない」というのであり、いつもの此岸と彼岸の境界線に連れていくようなものではないということだった。
いつもながらの凄みはあるんだけど柔らかいしポップさもあった。この日はじめて古川さんの朗読を聞いた人はたぶん驚いたと思うけど、いつもとモードが違うというかフォームが異なっていたと僕には感じられた。
終わったあとに古川さんにも朗読の感想を短く伝えたのだけど、いつもの小説を読む際は古川日出男という人物から(物語における登場人物の感情や文体のリズムや展開などから)のいろんな色だったり光や闇が放出されるようなイメージがある。
放出される時の色や光や闇が此岸と彼岸を繋げてしまうから境界線がなくなっていく。その狭間に古川さんと朗読を聞いている人たちはいるような感じになる。だからそれが僕のいう怖さであり、今までに何度か本当に怖さもありながらゾクゾクするようなゾーンを感じさせてもらったことがある。

今回の長篇詩の『天音』は朗読する姿を見ていて真逆に感じた。いつもは古川さんから放出されていたが、古川さんに入ってから出て行っているようなイメージ。
古川さん自体は透明な筒みたいになっていて、そこに長篇詩で書いた文字たちによって生み出された色や光や闇が様々な角度で透明な筒の中に入っていき、乱反射してもう一度外に出ていく。だからなのか、怖さはなかったし、狭間に連れていかれるような感触はなかった。
いつもよりもポップさをより強く感じたのは、トークでも話に出ていたように小説は句読点で区切るが、詩はそれが基本的にないということも関係しているのかもしれないけど、どうなんだろう。

とても不思議だった。最初は正直古川さんの体調が悪いのかと思った。それぐらいにいつもとは違うモードかフォームだった。終わったあとにそんな風にいつもとの違いを伝えると、「そうか、器になっていたのかもしれないね」と言われた。なるほど、器か。
透明な筒というのは僕のイメージだったが、トーク部分で小島さんが人間というのは洞窟であり、そこで鳴らしたものが出るという話とも繋がっているようにも思えた。

例えば顔が似ている人の声は似ているというか近い、それは骨格が近いからだろう。骨格というのは洞窟であり筒でもあるし、楽器にもなる。骨格というのがスピーカーなら似たような声が出る時点で顔などの姿も近いはずだ。
ある人の声が好きというのはその骨格が好きということかもしれない、ならその声と似ている人のことも好きなっても当然だ。顔が好きということは声が好きであり、声が好きということは顔が好きということだ。自分が好きな顔というのは自分が好きな声ということだろう。
ということを考えたのはB&Bがあるボーナストラック付近はドラマ『silent』の舞台で聖地みたいな感じになっていることの連想でもある。『silent』は高校時代の恋人が東京で再会するドラマで、かつて主人公の紬と付き合っていた想は高校卒業付近から「若年発症型両側性感音難聴」を発症したことで音のない世界で生きることになったことで、彼女や同級生たちに知られたくないとそのことを言わずに関係性を断ち切っていた過去がある。そもそも高校時代に紬が最初に想に惹かれた、好きになったきっかけはその声だった。そして、彼が好きだった音楽を聴くようになった彼女は現在タワレコ渋谷で働いている。閑話休題

小島さんが話されていたように洞窟の中で声を出してみる。らー、らー、らー、と。洞窟の内部で反響する、それに合わせたりずらしたり、違う言葉を重ねていけば音楽が生まれる。
あるいは内部に感情というものが描かれる、その時々の気持ちや想いや外部からの影響を受けたものが何かの図形やイメージや物語となって現れる。
人間という洞窟の中に生まれたものは芸術と呼ばれるものの種子のようなものであり、人間が人間であるという根本を支えるものだ。それを洞窟の外に出して、この個人の身体性を伴いながら言葉にしたり絵を描いたり演奏したりすると他者に届く可能性が出てくる。もちろんそれには好き嫌いがあるし、相手に届くことも届かないこともある。

洞窟から生み出された長篇詩であり、天音が朗読することで器になった古川さんの元にパッと戻ってきてすぐに外に遊びにいったような(小学生が家の玄関を開けてランドセルを置いてすぐに友達の家に遊びに行くような)軽やかさが非常にポップに感じられたんじゃないかな。
鼎談の時に古川さんが朗読して小島さんがギターを弾いて一緒にやったあとに、管さんがここにいるみんなもそれぞれ好きなところを朗読しようと提案された。
古川さんの朗読と小島さんのギターとみんなの朗読が混じった時にこの澄みきった明るさが『天音』の持つ力であり、詩の持つエネルギーなんだろうなって思うと知らずと微笑んでしまっていた。

 

12月19日
日付が変わってからNHK大河ドラマ『鎌倉殿13人』の最終回をNHKオンデマンドで見る。主人公である北条義時の最後を描いたものとなったが、私怨から毒をずっと盛られており、弱ってしまった彼と姉の北条政子のやりとりの中で義時は頼朝から引き継いだ鎌倉のために自分の手を汚して殺してきたものたちの名前を告げる。そこには政子の息子である頼家の名前があり、薄々感じてはいたが弟が手を下していたことを知ってしまう。そして、その者たちが13人いることがタイトルのダブルミーニングとなっていた。
毒のせいで体が動かなくなる義時は姉に飲むと動けるようになる飲み薬を取ってくれと頼むが、京都にいる幼い帝の血を引く者を鎌倉の邪魔になるために殺すと決めている彼の手をもう汚させないためにその場で床に中身を全部落とす。それを一口でも舐めようとなんとか動かない体を動かして床にこぼれたそれに舌で触れようとするが、政子がそれを着物の裾で払うようにして飲ませなかった。義時は死が来ることをもう認めるしかなくなり、頼朝から授かった小さな観音像を息子の泰時に渡してくれるように託けて死んでしまった。ここまで偉くもなりたくもなく、自分の手を汚していなかった政子が最後の最後にその手を汚して弟の義時の命を結果的に奪うことで自分の手を汚す、それは彼女の覚悟の現れであり、ずっと手を汚し続けてきた弟にできる最後のことだった。
アガサ・クリスティの作品が最終回のヒントのように語られていたが、一人の犯人ではなく複数人によって、義時は最終的には命を奪われた形となった。彼が今まで殺してきたものたちが多すぎた。だから、最後の最後は英雄としては殺さない、こういう終わり方にした三谷幸喜は素晴らしい判断をしたと思った。

TVerで『M−1グランプリ2022』が全部配信されていたのでそれを最初から見る。スマホはもう結果が出ているので見れないので最後の優勝が決まるまでは手も触れなかった。
個人的には真空ジェシカのネタが好きだった。
さや香の一本めのネタもおもしろかったし、最終決戦におけるウエストランドロングコートダディさや香の三つ巴はウエストランドの勢いがあったが、僕はさや香に入れたかなと思えた。

ウエストランドの優勝を見届けてからTwitterにゃんこスタースーパー3助のツイートを見た。
今週金曜深夜に放送した『三四郎オールナイトニッポン0』で小宮さんが言ってたことが実現したんだから、嬉しいよなって思った。ラジオを聴いてるからこの動画見てもらい泣きしてしまった。というかウエストランドの優勝とかよりもこの動画いちばん泣けた。


仕事が終わってから家からわりと近い場所にあるニューマルコで『水道橋博士のメルマ旬報」の副編集長だった原カントくんさんとプチ忘年会。
今年はちょっといろんなことが多すぎた。だけど、それについて話せる人は思いのほか少ない。飲み終わってから原さんの家の方まで散歩がてら歩きながら話をした。夜風が気持ちよかった。

 

12月20日
起きてから昨日放送された『エルピス—希望、あるいは災い—』第九話「善玉と悪玉」を見る。ほんとうはTOHOシネマズ新宿で8時台の『THE FIRST SLAM DUNK』のチケットを取っていたが起きれなかった。でも、シネマイレージポイントが6になったので一回無料なので金曜日に『THE FIRST SLAM DUNK』を改めて観にいけばマイナスではないということに自分の中でしておいた。
今回のドラマの主人公は村井(岡部たかし)であり、彼がかつて報道からバラエティに移動させられた理由がわかる。それも大門副総理に関するものであり、村井は拓朗(眞栄田郷敦)へ自分が撮影したデータなどを託すことになる。
だが、その取材対象者である大門の娘婿の大門亨とやりとりを拓朗がするようになるが、最後に最悪の展開が訪れる。そして、村井の怒りが爆発するラストは恵那(長澤まさみ)がずっと抱えていたものを破壊するようなものとなっており、村井によって恵那は解放されたように見える終わり方をした。次回は最終回だが、どのように思っていくのか、期待しかない。

上出 すごくよくわかります。俗に言う「自主規制」などもそうですね。これはやってはいけないということがなんとなく蔓延していて、膠着していく。私事ばかりで恐縮ですが、「家、ついて行ってイイですか?」(テレビ東京)という番組で、イノマーというバンドマンが死んでいくという瞬間まで放送したことがあります。最初はやはり「それダメだよ」と言われました。人が死ぬ瞬間なんて流していいわけがないと。

 でも、ちょっと待ってくれ、なんでダメなんだっけということを問えば、問われた方もわからないわけです。ちゃんと議論することができれば、違う結果も出る。実際にその放送は大きな反響があって、人の死を映すなというクレームは1個もないわけですよ。やってみたら案外、いろんな扉を開けることができるんですよね。そしてその効果の大きさを思えば、地上波放送のテレビはやはり大きな存在です。そういう意味でも、テレビはまだまだやりがいがある世界ではあるんですけどね。

上出 ちゃんと届けるということもそうですが、自分の伝えたいニュアンスでちゃんと届いているか、ということもつくり手として気になります。だからこそ、僕は自分が伝えているメッセージの「確かさ」も常に気にしています。ただそこは本当に自信がないので、基本的には逃げているかもしれません。「こういうものだ」「こうあるべきだ」ということはなるべく言わないですね。無理に結論を出さずに「現実にこういうことがある」ということに留めざるを得ない。

渡辺 うんうん、わかります。テレビの仕事をしていると、とにかくわかりやすさを求められることが多い。さっさと答えを提示して視聴者に考えさせるなと。でも受け取り手のリテラシーはそこまで低くはないと信じたいんですよね。答えのない問いを自分で解きほぐすことこそ面白いし、心の底の探求や成長につながるのだと思います。さらに誰かと話したくなって対話が生まれたり。

テレビはもう本当にダメなのか? 渡辺あやと上出遼平は、視聴者の 「答えが知りたい」欲求に抗う

上出 宗教でお金を稼ごうとしているのと、今テレビがやっていることは僕にとってはすごく近いと思っています。安易な答えを与えることでお金を稼いでいるという点で。一部の宗教がしているのは「なぜあなたが生きているのか」「なぜあなたが病になったのか」「なぜあなたが今不幸なのか」ということに無理やり答えを与えてあげることですから。テレビは概ね同じことやってるような気がしてます。

渡辺 たしかに。今思ったんですけど、私は生い立ちとして人間の複雑性みたいなものをずっと考えなくてはいけない境遇にあったんですね。そこで多少鍛えられたので、人間に対するわからなさはある程度受け入れられるんです。ただ、こと経済であるとか自然の危機であるとか、その問題の大きさであるとか、そういう複雑さにはたぶん耐えられないんですよ。なので、それらに関してははっきり言ってもらえると安心するというところがあるなと思いました。

渡辺 先日、 岡山県の片田舎でトマト農家を続けている、兼業映画監督の山崎樹一郎さんと対談したんです。そこで出てきた話なのですが、都会だと表向きのその人とだけ付き合っていればいいのですが、田舎にいるとお互い思想とは別の部分で人付き合いをしなくてはいけなかったりする。

 たとえば昨日はすごく立派なことを言ってたくせに、今日は二日酔いでグダグダだとか、もっと丸ごとの人間としてお互い見せあわざるを得ない。それの真逆がおそらくSNSのような場所で、そこではその人の思想など一面だけでのやり取りが先鋭化されていく。それでは話したようで話したことにならないんじゃないかと思うんです。その人が本来どういう人なのか、どういう姿形をしていて、どんな人生を歩んできたのかなど、立体的にわからないと本当の対話は成立しないのではないかと思います。

 田舎ってすごいなと思うんですが、たとえば祭りとか、右であろうが左であろうが今日はそれを置いといてなんとか成功させなければいけない、みたいな状況が年に1回あったりするんですよね。そしたらホリエモンひろゆき内田樹先生みたいな人がみんなでひとつの祭りを盛り上げるというようなことが起こるわけで、なんだか非常に豊かなことですよね。

渡辺 テレビというか、表現がそのまま持っている原罪については私も同じことを思っていました。私たちは基本的に、人の不幸を搾取しながら仕事をしています。しかも、そんなことは見せずに「いいことをしている風」に仕事をしてきてしまっている。それは視聴者にはあまり共有されてないことでもあるので、今回、上出さんがおっしゃったことが視聴者の方々に読まれることはとても意義のあることだと思います。私自身もこれをいつ打ち明けたらいいだろうとずっと思っていたので、いい白状の機会を与えていただきました。

視聴者に無理やり答えを 与えるテレビは宗教に近い? 「エルピス」のエンディングに迫る 


観終わってから渋谷方面に散歩。丸善ジュンク堂書店渋谷店に寄って窪美澄著『タイム・オブ・デス、デート・オブ・バース』を購入。
装幀イラストが宮崎夏次系さんなのでかなり雰囲気もあって、どんな作品になっているのか気になるものでとてもいい。先週の土曜日に寄った時に見かけた樋口さんの新刊『中野正彦の昭和九十二年』は一冊もなかった。回収されたのか売れたのかはわからない。

夕方から24時までリモートワーク。寒さが増してきているので終わると体が冷えているのもあって湯船にお湯を溜めてバブを入れて浸かるのがルーティンになっている。湯船に浸かるのが一番のリラックスというか、体に必要なことになっている。

STUTS “90 Degrees” LIVE at 日本武道館 June 23, 2023 

『エルピス—希望、あるいは災い—』のエンディング曲でも大活躍しているSTUTSの武道館ライブがあるのを知った。これはめちゃくちゃ行きたい。
2023年6月というと半年後。半年後のイメージは今はあまり沸いていないけど、たぶん来年は生き延びることと書き続けることをテーマにしないといけない、いやそうしようと思っているのでこのライブも観たいし、それまでにいくつかの作品の最後にエンドマークを打って終わらせたい。

Mirage Collective – "Mirage Op.5 - tofubeats Remix (feat. 長澤まさみ)" [Official Audio]

 

12月21日
深夜にTBSラジオで放送した『爆笑問題カーボーイ』のゲストが爆笑問題の事務所の後輩であり、今年の「M-1グランプリ」チャンピオンに輝いたウエストランドだったのでそれを聴きながら朝からリモート作業。
太田さんが「M-1グランプリ」当日に収録で一緒になったさんまさんや他の芸人の方々に「おめでとう」と言われた話をほんとうにうれしそうに話しているのが印象的だった。
もちろんウエストランドが期待されていて愛されていたこともあるのだろうが、太田プロから独立してタイタンを立ち上げて、今の場所を確立した爆笑問題への、太田さんという人物が愛されているということも感じた。ラジオを聴いているとよくわかるが本当に田中さんのほうがヤバい、サイコパスよりな思考の人であり、だからこそこの二人はやってこれたのだろうし漫才師としての強さにもなっているのかもしれない。
以前に松本さんが太田さんに「M-1グランプリ」の審査員やらないかと公の場所で言った時に「マジで、やめてくれ」と思った。太田さんが審査員になってしまうと松本人志ゲームマスターであるゲームの中に取り込まれてしまう。そうすればそのゲームを覆すことはできない。太田さんは自分は人の漫才を評価できないと言っていたが、本能的にそのゲームに関わらないことを選んだのだろう。もし、審査員になっていたら同じ事務所の後輩であるキュウとウエストランドの結果も変わっていた可能性は高い。

僕自身が小学校の中学年以降から思春期にかけてダウンタウンに強い影響を受けている。ダウンタウン松本人志の祝福&呪縛を受けた世代としては、「M-1」「キングオブコント」「ドキュメンタル」「人志松本の○○な話」などで勝ってもゲームマスターの松本さんより上にはいけない、みんな松本人志に認められておもしろいと思われることが誇りになる。だけど、それはある種軍門に下ることになる。
だから、自分と同世代といえるキングコングの西野さんやオリエンタルラジオの中田さんはそのゲームで戦っても自分が王になれないことがわかって、吉本を離れて自分がゲームマスターになる方向を模索して成功した。そう考えるとふたりは太田プロを辞めてタイタンを設立した爆笑問題や太田さんに近い。
日本の「失われた20年」はもはや30年となっていて、その時代にずっとお笑いで天下を取ってきたのが松本人志だった。僕が松本人志の呪縛が抜けたのはいつだったのだろうか、ラジオ番組『放送室』が終わって、体を鍛え始めた頃のような気がする。
たぶん、一強というものが好きではないし、そういうところから自分の興味が離れて行ったのも2000年代以降だったし東京に来てからだった。
爆笑問題がずっと漫才をやり続けたことが今回の結果だと思うし、そういう先輩後輩関係があるからこそ、今回のラジオでの四人のやりとりがほんとうに微笑ましいし、おめでとうございましたという気持ちになった。

朝晩とリモートワークで『爆笑問題カーボーイ』だけでなく、『アルコ&ピースD.C.GARAGE』『星野源オールナイトニッポン』『ぺこぱのオールナイトニッポン0』を聴いていた。ラジオが自分の生活の中の一部にだいぶなってきた、沁み込んできているなと思う。それにしても男性のパーソナリティーばかりを聴いている。女性だとふわちゃんぐらいか。霜降り明星を聴いていないのは、彼らの声は僕にはちょっと高く感じてどうも聴きやすい声ではないと感じてしまうから。

TVerで何度か見ている味ぽんの CMで、皿にもやしを敷いてその上に豚薄切り肉を重ならないように上に置いてラップをして数分チンした後に味ぽんをかけて食べるというメニューがある。それを昨日お昼にやってみた。そこそこの味だった。
豚肉ももやしもしめじも半分残したので今日もお昼に作って炊いたご飯と一緒に食べた。チンしたあとにラップに穴を開けて皿に溜まった水分や脂分をシンクに捨ててからポン酢をかけてネギと卵の黄身を乗せて食べてみた。昨日はその水分がかなり残っていたのでポン酢とか薄まってしまったので、捨ててからポン酢をかけるのがいいのだとわかった。これは果たして料理なのかは疑問だが、簡単。

 

12月22日

ニコラでシュトーレンとアルヴァーブレンドをいただく。一口齧ってから写真撮ってなかったと思って撮ったので左上が欠けている。クリスマスっぽいことはないもないのでこのシュトーレンが今年のクリスマスらしい唯一のもの。

それがなぜ「奇妙なもの」に見えるのか?
「奇妙なもの」と「ぞっとするもの」という混同されがちな感覚を識別しながら、
オルタナティヴな思考を模索する
H・P・ラヴクラフトH・G・ウェルズフィリップ・K・ディック、M・R・ジェイムズ、
デヴィッド・リンチスタンリー・キューブリックアンドレイ・タルコフスキー
クリスタファー・ノーラン、ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー
ザ・フォール、ブライアン・イーノゲイリー・ニューマン……
思想家、政治理論家、文化評論家マーク・フィッシャーの冴えわたる考察がスリリングに展開する、
彼の生前最後の著作にして、もう一冊の代表作。

マーク・フィッシャー著/五井健太郎訳『奇妙なものとぞっとするもの──小説・映画・音楽、文化論集』が出ていることを知って休憩中に書店に行って購入。同じエレキングブックスから刊行された『わが人生の幽霊たち』の装幀に惹かれてなんとなく手に取ったことで読み始めたマーク・フィッシャー。これが生前最後の著作らしい。年末にのんびり読む。

樋口毅宏『中野正彦の昭和九十二年』を最後まで読む。
普通に読んだらヘイトを助長しているようには読めない。主人公である中野正彦は安倍晋三を安倍お父様と尊敬しているヘイターであり差別主義者であり、男尊女卑の人物である。彼の視線から見えているものや彼が称賛しているものは間違いなく現実で起きているものであり、それを90年代サブカルに影響を受けている樋口さんが当時の悪趣味や鬼畜系みたいなものの延長戦で皮肉強めに書いているという感じの反ヘイト小説になっていた。
作中では石原慎太郎三島由紀夫について何度も言及されているけど、大江健三郎の『セヴンティーン』やその第二部『政治少年死す』的な要素も感じられる。この二作品の主人公にとっての「天皇陛下」がこちらでは「安倍お父様」になっていて、トルコ風呂と中野がいく五反田のある特殊な風俗店とか、テロリストを描いていることもあって通じる部分はいくつかあった。大江の作品は山口二矢がモデルだし、『中野正彦の昭和九十二年』にも当然ながら彼の名前が出てくる。
確かに今の日本の現実を見たくない人には嫌なものかもしれないし、実際の新聞記事や雑誌やツイートなどを取り込んでいるので記録としてはいいのかもしれないとは思った。
特に終盤のあたりの地獄絵みたいな展開は読んでいて気持ちのいいものではないけど、樋口さんがそれがもし起きうるとしたらというシミュレーション的に描こうとしたのもわかる。でも、個人的にはそれをやりたかったのはわからなくもないけど読んでいてそこは冷めちゃった。

樋口作品でいうと『さらば雑司ヶ谷』『日本のセックス』『民宿雪国』の系譜にある。そういう作品でも差別主義者とか中野正彦みたいな思想や行動している人物はたいてい因果応報の報いを受けるわけで、樋口さんの今まで書いてきたものと格段『中野正彦の昭和九十二年』が違うというわけでもない。だから、回収というのは本当によくわからない。これはさすがにヘイトや差別を助長しているとなるとマジで読者がなにも読めないって出版社が言っていると思われても仕方ない。
安倍晋三元首相暗殺を予言した小説」と帯にあるぐらいだから、まあ扇状的に煽ることで興味を沸かそうとしていたと思う。結局のところ、この書籍が出るのに反対だったイースト・プレスの編集者が担当編集者にこのヘイトを助長するような本が出るのは許せないみたいなやりとりをした個人的なライン画像をツイートして、それを世間に晒して自分の意見を言ったことで発売前回収になってしまったわけだけど(そのツイートは削除されている)、その人のやっていること自体が山上容疑者の銃撃みたいだし、それで統一教会問題がバレてしまった自民党や安倍政権を支えていたものが世間に知られたように、イースト・プレス内で意思疎通ができていないとか諸々の問題が世間に知れ渡ったっていう相似系になったのがとても皮肉。
ぶっちゃけ著者が悪いとは思えない内容だったし、イースト・プレスが「刊行における責任の所在が曖昧」だということが発覚して協議の上で回収することにしましたって文言を出してるんだから、責任の所在をはっきりして刊行するしかないんじゃないかな。

 

12月23日

朝起きてから渋谷まで歩いて、副都心線新宿三丁目駅まで乗って歌舞伎町方面へ。TOHOシネマズ新宿で井上雄彦監督『THE FIRST SLAM DUNK』をIMAXで鑑賞。

1990年から96年まで「週刊少年ジャンプ」で連載され、現在に至るまで絶大な人気を誇る名作バスケットボール漫画「SLAM DUNK」を新たにアニメーション映画化。原作者の井上雄彦が監督・脚本を手がけ、高校バスケ部を舞台に選手たちの成長を描き出す。

湘北高校バスケ部メンバーの声優には、宮城リョータ役に「ブルーロック」の仲村宗悟三井寿役に「ガンダムビルドダイバーズ」の笠間淳流川楓役に「ヒプノシスマイク」の神尾晋一郎、桜木花道役に「ドラえもん」の木村昴赤木剛憲役に「僕のヒーローアカデミア」の三宅健太を起用。1990年代のテレビアニメ版も手がけた東映アニメーションと、「あかねさす少女」のダンデライオンアニメーションスタジオがアニメーション制作を手がける。

ロックバンドの「The Birthday」がオープニング主題歌、「10-FEET」がエンディング主題歌を務め、作曲家・音楽プロデューサーの武部聡志と「10-FEET」のTAKUMAが音楽を担当。(映画.comより)


否定的なファンも抱きしめる。『THE FIRST SLAM DUNK』が描いた「震災」と「スラムダンク論」|照沼健太

↑これ読んで興味を持った&すでに観ていた人から勧められたこともあって観に行くことにした。僕みたいにネタバレ気にしない人は読むと興味湧く内容だと思う。そもそもストーリー自体はある世代以上ならなんとなくは知っているからこの作品にあるサプライズ的な部分を知りたくない人は何の情報もいれないで観た方がいいと思う。
あと『SLAM DUNK』を知らない、読んでない若い世代でも登場人物たちの関係性とかがわかる構成になってはいるから漫画とか読んでなくても観るのは問題ない作品になっていた。

「少年ジャンプ」で連載していた漫画『SLAM DUNK』では赤毛桜木花道が主人公だったが、今作ではその主人公が違う湘北高校バスケ部の宮城リョータであり、彼の視線や漫画では描かれていなかった家族などのバックグラウンドが描かれていることで同じ物語だが新鮮な体験ができるものとなっていた。
リョータの幼少期と家族の話と彼ら家族が暮らしていた場所、そして喪失から違う場所での生活、一年先輩である三井寿との最初の出会いと衝突、赤木剛憲との信頼関係、一年後輩である天才プレイヤーである流川楓と問題児の桜木花道との関わり、とレギュラーメンバーとのエピソードも現在進行形としての試合の間に挟まれていく。
連載時にリアルタイムで読んでいたがめちゃくちゃハマっていたわけではなく、最初から最後まで読んでいたので内容は知っているけど、映画を観ているとその時々のセリフやシーンを思いの外覚えていたので自分でも驚いた。
いいファンではないとは思うけど、映画を観てすごく満足したしおもしろかった。絶賛の声しか聞こえないのも納得できた。あと試合のあとの漫画では描かれていないシーンもよかった。

The Birthday - LOVE ROCKETS【MV】(映画『THE FIRST SLAM DUNK』オープニング主題歌) 



10-FEET – 第ゼロ感(映画『THE FIRST SLAM DUNK』エンディング主題歌) 


SLAM DUNK』で音楽がThe Birthday10-FEETって合わないだろうと思ったが映画館で聴いたらとても合っていた。IMAXで観たので音も良かったから余計にそう思えたのかもしれない。

「いわもとQ」でそばを食べて帰ろうと思ったら店舗の周りに車が何台か停まっていて工事をしているみたいでお店はお休みだったので諦めて駅に向かった。

家に帰ってから一時間ほど仮眠してから中目黒駅に向かって、友人のパン生地くんと駅前でお茶をした。喫茶店を出てから行こうと思った別のカフェが年末で閉店時間が早くなっていて閉まっていたので駅前のスタバでコーヒーを買って目黒川沿いを歩きながらのんびりと話しながら歩いた。
月曜日もプチ忘年会をして中目黒まで散歩がてら歩いたので週に二回目黒川沿いを歩くという珍しいことになった。
『THE FIRST SLAM DUNK』の話になってパン生地くんも観ていてその感想と井上雄彦さんのロングインタビューなどが掲載されている今回の映画についての本を読んで、インタビューがすごくよくて創作欲を刺激されたと教えてくれたのでそれも読んでみたくなった。来年も会おうという話をして別れて家に向かったが風がほんとうに体の芯を冷やすような寒さで冬だねえって思った。



家に帰ったら「メフィスト特別号」が届いていた。第64回メフィスト賞受賞作の須藤古都離著『ゴリラ裁判の日』が一冊にまるまる全文掲載されている。編集者座談会を読んでめちゃくちゃ気になっていた作品。

 

12月24日
2022年映画マイベスト

一位・ジョン・ワッツ監督『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』
二位・城定秀夫監督『愛なのに』
三位・サム・ライミ監督『ドクター・ストレンジマルチバース・オブ・マッドネス』 
四位・吉野耕平監督『ハケンアニメ』
五位・マイク・ミルズ監督『カモン カモン』
六位・タナダユキ監督『マイ・ブロークン・マリコ
七位・三宅唱監督『ケイコ、目を澄ませて』
八位・コゴナダ監督『アフター・ヤン』 
九位・松居大悟監督『ちょっと思い出しただけ』
十位・工藤梨穂監督『裸足で鳴らしてみせろ』
新作ではないが別格・青山真治監督『EUREKA/ユリイカ』デジタル・マスター完全版

スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』はサム・ライミ監督「スパイダーマン」シリーズ三作、マーク・ウェブ監督「アメイジングスパイダーマン」シリーズ二作、今回のジャン・ワッツ監督「MCUスパイダーマン」三作という歴史の積み上げ(層)によるクロニクルが今作品である種の集大成としてまとまったこと、コロナパンデミックによる映画館での観客の人数制限などが明けた際に公開初日0時からの最速上映の満席の中で観て、あのサプライズで観客から歓声と拍手が深夜の映画館を満たしたという体験。
映画の出来プラス観た時の情景としてコロナをいつか思い出す時に僕にとっては象徴的な一場面になったと思えるというのがやはり大きい。

『愛なのに』は出演してたさとうほなみさん、河合優実さん、向里祐香さんの女優さんがとてもよかったし、観ながら何度か笑ったけどちょうどいいリアルさとかあって好きだった。

ドクター・ストレンジマルチバース・オブ・マッドネス』 は今年珍しく二回観に行った作品で最後のほうのゾンビフォームみたいなダークサイド版千手観音verみたいなストレンジがなぜか異様に好きになってしまった。あとマルチバースという概念自体は違和感はないし、四次元とか五次元ってそういうものだろうしなあって。人は過去から逃れられないっていうのだけリアル。

ハケンアニメ』はお仕事映画として楽しめた。アニメ好きではないのでアニメ好きな人からするとツッコミや不満はたくさんありそうだけど。
試写を観た当時はいろいろ起き始めたころだったので、こういう優秀なプロデューサーがいたらなって思っていた。

『カモン カモン』は『トップガン マーヴェリック』同様に父にはなれない(なれなかった)中年の男(あるいは初老)と甥っ子や友人の息子という存在によっていかに「父」になれるのか、という問題意識が通じていて、このタイプの作品はアメリカだけではなく、日本でもちょこちょこ出ているのでかつての先進国の問題であり、同時に家父長制の問題とも結びついているように思った。マイク・ミルズ監督はフェミニズムとか現代の問題についてちゃんと描ける少ない男性監督だよな。

『マイ・ブロークン・マリコ』は漫画も素晴らしかったけど、無駄にエピソードを追加して二時間とかにしなかったのも好感が持てるし、喪失を受け入れるために残されたものは日常から逸脱してまた日常に戻るしかないのだということを改めて教えてくれた。友情の話だけど、死んでしまったマリコは男性性による加害による被害者なので、その原因を考えるとけっこうしんどくもあった。

『ケイコ、目を澄ませて』は『コーダ 愛のうた』や去年の『ドライブ・マイ・カー』や今年のドラマ『silent』など聾者が登場する作品であり、作中で手話が使われているものが増えていると感じる今年最後の締めくくりのように思える作品だった。ただ、映画の佇まいが素晴らしく、音の聞こえないケイコがボクサーとして練習する際に放たれる音が心を何度も震わせた。終わり方も好きだった。

『アフター・ヤン』はSFなんだけど、人の記憶とはなにか?という話であり、近未来の話ではあるけどとても現在性のある物語だった。A24らしいとも思えたし、映像としても素晴らしかった。

『ちょっと思い出しただけ』は去年の『花束みたいな恋をした』に通じるものでもあるのだけど、ある恋人たちの一年のある日を過去に遡って描いていく。別れることになった二人の愛しい時間や出会った頃の距離感を描いていくことで僕たちはもう戻れないのだと思うと二人がより愛おしく感じられた。

『裸足で鳴らしてみせろ』は優しい嘘をついてある人の願いを叶えようとする青年二人の物語なんだけど、優しくて甘酸っぱい話になっていて、印象的なシーンが多くて観終わってしばらく経ってもあの二人元気かなって思える、そんな作品だった。ラストシーンがとても沁みた。

今年亡くなった青山真治監督の『EUREKA/ユリイカ』デジタル・マスター完全版はやっぱり映画館で観るべき作品だと思った。追悼もかねて「北九州三部作」のふたつを映画館で観れたのはよかった。
九州バスジャック事件を予見した作品でもあるが、そのネオ麦茶とかサカキバラとか1982年生まれの少年犯罪事件が90年代後半とゼロ年代だけでは終わらなかったこと(成年後もなぜかその年の生まれの人たちが秋葉原やもろもろで事件を起こすことになる)、今年になって山上容疑者も含めて考えてみると1980年代前半生まれが凶行をしていったことはけっこう真剣に考えないといけないんだよなって。

木曜日に放送したドラマ『silent』最終回をTVerで見る。最後まで微笑ましい内容の恋愛ものになっていたが、基本的には悪者的な人は存在しない作品になっていた。
恋敵的な人たちの恋愛や人間関係や過去も描いたことでそれはできなかったし、時代的にももう恋敵を悪く描くというようなものは視聴者受けが悪いというのもあるのだろう。その上でライバルも人間として魅力的に描くことで作品自体に好感を持ってもらえることが大事になっていた感じもする。個人的には夏帆さんファンなのでこの作品で女優として再評価されたのはうれしかった。
それにしてもピュアすぎる関係性に見えたのだけど、視聴者はそういうほうがいいのかな、どうなのだろう。最後は紬と想が卒業した校舎の中で互いの思いを伝え合うというものだったが、二十代になってもそこまでピュアなのかと思うところはあった。
紬は想の変わってしまったものを見ていて、想は紬の変わらないものを見ていた。だからこそ、紬が高校時代の象徴であるポニーテールではない結ばない髪型で彼と会うということなど芸が細かない描写が多くて、非常に丁寧な作品だったと改めて感じた。

飯塚 あとそれとは別で、オークラとはしょっちゅう飲んでて、そこでオークラはいつも、コントと音楽の融合みたいに別のジャンルと一緒にライブをやりたいってことをよく語ってたんですけど、俺はコントはコントとしてやりたい人だから正直ピンとこなくて。でも、キングオブコントで優勝させてもらったことで「東京03はコントをやる人たち」っていうイメージが徐々についていく中で、「コントだけじゃない別の何かがあればな……」と思い始めたときにちょうど10周年記念公演があって、そのときにやったのが「悪ふざけ公演」だったんですね。そうやってオークラがずっとやりたかったことと、僕が「そろそろそういうことをやったほうがいいのかな」と思った時期が合致したって感じです。

オークラ クリーピーのラジオでも話したんですけど、FROLIC A HOLIC自体をどう括っていいのかわからないっていうのがあるんですよ。日本ってジャンルが決まってないものに対する評価ってなかなかしないじゃないですか。でも、そこを突き進んだらそれはそれで面白いんじゃないかって思ってきて。

──なるほど。

オークラ それに、自分たちがこれからやろうとしていることについて「なんて言っていいかわからない」って言ってしまえば、観てる側にもちゃんとそういう目線が生まれるじゃないですか。

──たしかにそうですね。

オークラ あと、僕らの時代って、ライブでウケました、テレビに出ました、バラエティ番組で成功しました、冠番組を持ちましたっていう流れが芸人の王道としてあったじゃないですか。でも、東京03ぐらいからそれがちょっと崩れ始めたんですよ。今の若手からすると東京03は新しいタイプの芸人のモデルケースみたいになってるという事実もあって、そういうところも「括れないもの」として見てもらうことでまた新しい評価がされるんじゃないかなと思って。Creepy Nutsみたいなラッパーの世界も「売れたらダメ」みたいなところがあるじゃないですか。そんな中でこの人たちも括りというものに対して悩んでるのかなって勝手にシンパシーを感じたので、それもこのタイトルにつながってます。

東京03×構成作家・オークラ×プロデューサー・石井玄 インタビュー】 どうなるかはわかんないけど、面白そう。

東京03 FROLIC A HOLIC feat. Creepy Nuts in 日本武道館 なんと括っていいか、まだ分からない」の一次、二次先行と全部抽選で落ちてしまったが、一緒に行こうと誘っていた友人が二次で注釈ありのS席をゲットしてくれたので観に行けることになったのでめっちゃうれしい。
STUTSのチケットを先行で取った日にわかったので、来年武道館に行く日がすでに二回あり、三ヶ月ごとというのもなんか生き延びろと言われている気持ちになる。

 

12月25日
TBSラジオ爆笑問題の日曜サンデー』のゲストに伊集院光さんが出ていて、その中で伊集院さんが今年を漢字一文字にすると「終」だったと言われていた。
レギュラーだった朝のラジオが終わって、三遊亭圓楽師匠が亡くなっていろんなものが終わっていき、来年のための布石のような感じだったと話されていた。そこからご自身の師匠が亡くなられたことで親子会で再び始めた落語についてどうしようかという話を太田さんとずっと話されていて、田中さんはほぼ口を挟まないで二人のやりとりを聞いているという感じで、そういう自然な三人だからこその空気感もよかった。
僕も今年の漢字を一文字で選ぶとしたら「終」だと思う。園子温監督のセクハラパワハラ問題があって、水道橋博士さんが政治家になってそしてやく十年続いてきた「水道橋博士のメルマ旬報」が廃刊となった。やっぱり三十代になってからの繋がりや続いていたことが特にこの二年ほどで終わっていったけど、今年でほとんどクリアになってしまったという感じが強いから。伊集院さんのような多忙な人間ではないけど、僕はラジオで話されていることに共感したし、僕自身が来年からまた少しずつ積み上げていくしかないのだと12月が近づいてきて、そして来年がすぐになってきている今はそんな風に考えることが増えている。これまでとは違う関わりとか新しい場所で何かが始まるように動くために、まずは体調を崩さないように意識的に動かしたりしないと持たないなとは思う。

 

もっとも、8月の時点で兆候はあった。データインテリジェンス企業のMorning Consultが、2021年11月と2022年7月のデータを比較して、「スーパーヒーロー映画を楽しめていない」と答えた人の割合が増えていることを報告したのだ(※2)。7月の調査では、マーベルファンの18%、また一般成人の41%が「楽しめていない」と回答。2021年11月から、それぞれ5%ずつのポイント増加が見られた。このときも、マーベルファンの31%は「数が多すぎて少し疲れた」と答えたのである。

マーベル・スタジオは、MCUという巨大なユニバースそのものに注目させる戦略を取り、『アベンジャーズ/エンドゲーム』までの「インフィニティ・サーガ」を成功に導いてきた。しかしフェーズ4が終わりを迎えたいま、ファンの3分の1以上が「ユニバース疲れ」を感じている。確かにあっという間の3年半だったが、『アベンジャーズ/エンドゲーム』の世界的な盛り上がりを思えばこそ、この変化は重い意味を持っている。

もっとも12月の『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』は、名実ともにフェーズ4最高の評価を得た一作だった。RTでは批評家93%・観客98%、CSでは「A+」という最高評価を記録。ただし、同作はマーベル・スタジオ単独ではなくソニー・ピクチャーズとの共同製作。しかもマルチバースの強みと、映画版『スパイダーマン』の歴史をフルに活かした、言うなれば禁じ手めいた魅力にもあふれる作品だったのである。

マーベルファンの3分の1以上が疲弊している。その原因は? MCU「フェーズ4」を総括(前編)

ちょうど前日に今年の映画マイベストの一位にジョン・ワッツ監督『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』を選んでいたので読んでみた記事。
僕のような半端なMCUシリーズ観客からしてもあの量は生粋の熱狂的なファンには大変そうだなって感じていたが、この数年はコロナパンデミックで公開日がズレたりしたことなども影響しているのでちょっとかわいそうなところもある。
ディズニーチャンネルに入りたいと思えないので、ドラマシリーズはなにひとつ見ていないけど、作品としての出来はよくておもしろいとは見ている人たちからは聞く。だけど、どうも興味が沸かないんだよなあ。ミーハーなファンなのでドラマは無視して映画館だけで新作を観ている。『アントマン&ワスプ』の新作は予告編を劇場で観るとIMAXとかで観たいなとは思うんだけど、今後はすごく気になるシリーズやヒーローは今の所ないかな。まあ、『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』の三作目はもちろん劇場で観るつもりだけど、それで僕の中では一つの終わりを迎えそう。

 

12月26日
「BOOKSTAND映画部!」のレビューコーナー「月刊予告編妄想かわら版」2023年01月号が公開されました。1月は『ファミリア』『SHE SAID/シー・セッド その名を暴け』『キラーカブトガニ』『イニシェリン島の精霊』を取り上げました。


3月17日(金)公開|『零落(れいらく)』長尺予告 


浅野いにおさんの漫画を竹中直人監督&斎藤工主演で映画化した作品。原作がかなり好きなのでキャスティングとかもろもろ思うところはあるのだけど、劇場で観てしっかりどんな風になっているのか確かめたい。主題歌がドレスコーズになっていて、予告編ではフリーライターの役で志摩さんが出ているのが確認できる。そういうのはしなくてもいいんじゃないかなって思ってしまうが、いろんな要因や理由があるんだろうから映画さえ面白くなっていてくれたらいい。

 

大根:まず、カメラがソニーの「VENICE 2」っていう、今のシネマカメラの最高峰のもので……。さらに、めちゃくちゃ高級なレンズをいっぱい持ってきて、なおかつ照明部として、重森さんがよく一緒に組んでいる中須(岳士)さんっていう、映画を中心にやっている凄腕の照明の方を連れてきて。そこまで予算があるわけじゃないから、限られた機材で、いろいろ工夫しながらやろうって言ったのに、日本でもトップレベルの機材とスタッフを持ってきて、「あの脚本には、多分これが合っていると思う」って。

大根:そうですね。だから、その「ポップ」っていうのはどういうことかって言ったら、大衆的であり、刹那的であり、セクシーでもあり……っていうようなことだと、僕は解釈していて。セクシーっていうのは性的に捉えられがちですけど、僕の中では人間的な魅力ということで、色気って言葉に置き換えてもいいんですけど。

大根:ですよね、「#村井さん」がトレンド入りしてましたからね(笑)。でも、それは結構明確なポイントが見えていて。第6話で、恵那が『ニュース8』に出ることになって、放送前に自販機のところで斎藤のLINEを読んでいるときに村井がやってきて、「今だったら、やめられるし、代わりに俺が出てもいいぞ」っていう、そこそこ長いシーン。ここが肝だなっていうふうには思っていたので、ここはとにかく村井をカッコ良く撮ってやろうと思って撮ったんですよね(笑)。実際、岡部たかし史上、いちばんカッコ良いシーンになったと思うし、あの村井はセクシーですよね。

大根:そうですね。僕の中にあるサブカル的資質っていうのは、やっぱり一生剥がれないものではあるんですけど、その一方で、そういった趣味性とか、自分の得意技を作品に反映させる仕事は、ある種やりつくした感じもあって。もう自分がいちばん喜ぶような仕事は、終わったかなっていう。最近は、自分のためではなく、誰かのために仕事をしたいというモードに入っている感じはありますね。

『エルピス』大根仁監督ロングインタビュー 画期的な撮影から長澤まさみとの再タッグまで

朝晩とリモートワークで休憩中に見つけた記事。『エルピス』は今夜が最終回。リアルタイムというよりは翌日に見ることになると思うが、大根仁監督のこのインタビューはかなり読み応えがある。
岡部たかしさんがどんどんカッコ良くなっていったし魅力的になっていたこともこのドラマのおもしろさを加速させたと思う。菊地成孔さんと新音楽工房が音楽を手掛ける『岸辺露伴は動かない』のドラマと同時刻で放送というのもちょっともったいない気はするのだけど、リアルタイムではなくてもTVerNHKオンラインなどで見られる環境がいくつかあるのでありがたくもある。

30日まではずっとなんらかの仕事が入っているのだけど、気分的には上がらないまま、来年の目標とかも考えたりはしているが、心と体がうまく一致していないので無理はしないでとりあえず大晦日と新年を迎えて、すっと何かから抜けるように心と体が一致してうまく動き出せればいいなとか思っている。無理してもよさそうな雰囲気はないとこは雌伏しておくのが一番いいだろうから。

 

12月27日
朝起きるのがとても億劫になってきた。とりあえず、冷たい水で顔を洗って口を濯ぐと目が覚めるような気がする。寒さで布団から出たくないということはあるけども、なんだか気持ちの問題のようにも思えなくもない。早く今年が終わってしまえば、来年になったら気持ちが変わるかも、一新できるみたいなことも思っていたりする。でも心の奥の方ではそれらは実際のところはただの日常の続きでしかないから、いつだって変えればいいのに、何かで区切ろうとしていることの方が問題ではないかという思いもあるのがわかる。
やる気が起きないという時には無理した方がいいのか、しないで雌伏的にテンションやモードが変わるのを待つのがいいのか、どちらがいいのかは今はよくわからない。ただ、起きてとりあえず、リモートで作業を開始する。


休憩中に駅前に行ったのでTSUTAYA三軒茶屋店でニック・ホーンビィ著/森田義信訳『ハイ・フィデリティ』を購入する。昔、この作品を原作にした映画を二度ほど観ているはずなのだがあまり記憶にない。ただ、90年代のレコードショップを舞台にしている今作はもはやその時代がレトロフューチャー的に消費もされるようになった20年代ではちょうどいい距離感なのかもしれない。中年には懐かしい時代であり、若者世代には生まれる前のインターネットすらほとんどないと言える親世代が見てきたものを追体験できる作品となっているのだろうか。

寝る前に『エルピス』第十話、最終回を見ていた。前回の善玉と悪玉の話が効いている。恵那は元恋人で大門副総理の元にいる斎藤とある取引をする。その際にも斎藤から恵那は明日病気や事故になって放送には出れない可能性があるとすらりと言われている。これが大門側にいる人間の発言であり、非常に恐ろしいことだ。
斎藤は彼女のしようとしていることを理解しているが、それを含めて将来まで向けて考えた自分の案をしっかりと話して伝えた。ここは魅力的な見せ場だった。
恵那が冤罪事件を解決する方向へ舵を切った、そちらの案を取って副総理の息子婿の告発を報道しないという相手側の意見を飲んだことでいろいろな賛否両論が出ているようだが、今までの流れからもそれが嫌なほどにリアルであり、彼女や拓朗にとって追いかけていたものをひとまず選んだということなので僕は違和感はなかった。結局、冤罪事件のほうが最終的には大門への疑惑の目は広まっていくし、相手が時間稼ぎはするかもしれないが、どちらかの二択ならそちらのほうがこれからのことを考えても最良だろう。
最後には牛丼屋に誰かがやってくるがわからないというラストだが、公式のSNSではそれが村井だったというのがわかるようになっていた。これで眞栄田郷敦の評価は一気に高まっただろうし、若手の中でも顔と名前がドラマ好きには知れ渡ったはずだ。そして、村井役の岡部たかしさんはさらにいろんな作品に引っ張りだこになるだろう。坂元裕二戯曲の舞台で観てから僕は認識したのだけど、こういういぶし銀的な俳優さんが注目されるのはとてもいいことだと思う。そして、大根仁監督が撮ると魅力がさらに増すことが再証明された長澤まさみさん、これが三十代の代表作になるはずだしさらに躍進していくと思うと次作もたのしみになってくる。俳優さんってほんとうにいい脚本と監督や共演者に恵まれるかどうかが大きいなと改めて感じた。
これを見ていたから昼ごはんはセブンイレブンの冷凍コーナーで売っている牛丼の具を買ってきて食べた。ドラマに出てきたあの牛丼屋さんいつか行ってみたい。

朝晩とリモートワークをしているけど、やっぱり気持ちが乗らない。早く新年になってほしいと思ってしまう自分がいる。最近のリラックスはほんとうに仕事終わりにバブを入れた浴槽に浸かることだけだ。

 

12月28日
朝の仕事の最終日、仕事納め。来年の仕事の準備も思ったよりもスムーズに進んだのでよかった。仕事中はradikoで深夜ラジオを流していてプラスでお昼過ぎたら『ラヴィット』の前半部分を見ている。昨日のラストで川島さんからいきなり司会を任されることになった山添さんだ。しかし、今日の放送は年間のベスト発表みたいな感じでVTR振り返りがメインだった。夜の生放送スペシャル『ゴールデンラヴィット』の準備でいつものスタッフよりも人数が全然いないし、レギュラーもゲストもいないから山添さんにという形なんだろうか、夜のスペシャルでどうなっているのかが楽しみだなと思いつつ見ていた。

kjとMEGUMI夫妻、ほんとうにカッコいいわ。昔ピカソドン・キホーテ)でレジしてるときに二人来たけどkjを前に冷静にいつも通りしようと逆に緊張してMEGUMIがいたことに気づかず、他の人に言われて知ったのも十何年か前か。

 

林 あります。作家さんが売れてくると周りがどんどん言わなくなるから、作家さんから逆に言われることもありますね。「ちゃんとこれ面白いですか?」とか「ファンが面白いと言っているからって面白いとは言わないでください」と言ってくる方もいらっしゃるので、逆にピリッとさせられるというか、ああ、遠慮したらダメなんだと。たぶんここでつまらないと言わなかったら、僕の役割はほぼいらなくなっちゃうので。作家さん自身、本当につまらないと確信しているものをあえて見せてくることもあって、そういうときに面白いと言ってしまったら、信頼がなくなるんですよね。とはいえ、べつに無理やりつまらないと言う必要はなくて。なので、迷いながら、でも自分の本心に従って、ちゃんと面白いかどうか、つまらなかったらどうすべきなのか、面白かったら何を強化すべきなのか、そういうことは伝えるようにしています。

佐久間 一緒に仕事する作家さんで、「この部分をもっている人とは何か一緒にでかいものをつくれるな」という共通したものっていうのはあるんですか?

林 それがないんですよね。ヒット作家で共通点とか、ヒットする作品の共通点とかよく聞かれるからちょいちょい考えるんですけど、ないんです。愚直にマジメに、ということですね。マンガの仕事がそもそもそういう構造になっているので、机に向かい続けている人しか生き残らない。描くのがしんどいという人はなかなか難しい。でも、そういう人でも売れている人がいるんですよね。こればっかりは本当にわからないです。

佐久間 売れる、売れないはわからないですよね。だから、僕は芸人のネタには口を出さないようにしているんですよ。責任を取れないから。芸人から「ここの部分どうですか?」と言われたときには正直に意見を言うし、自分の才能といわゆる現行バラエティの折り合いが付かない人にアドバイスみたいなことはするけど、ネタはその人本人の宝物だから口は出さないようにしている。それもあって、審査員の仕事は極力やらないようにしています。

佐久間 そうそう。それをしているから、本当に信じられない飛距離の大ホームランを打てるんだと思います。自分の得意分野という話で言うと、お笑いの場合はやっぱり松本(人志)さんがヒットメーカーになってくるんですけど、松本さんの場合、本人が天才で面白いうえに、自分でルールをつくっちゃっているじゃないですか。だって、大喜利の『IPPONグランプリ』もトークの『すべらない話』も、すべて松本さんがルールをつくってますよね。これはオードリーの若林くんが言ってたんですけど、天下を取る人って自分の教科書を世間に押しつけられる強さがある人なんですよ。じゃないと、天下は取れない。他人のルールで戦っているかぎりは覇権を取れないんですよね。

佐久間宣行(テレビプロデューサー)×林士平(『少年ジャンプ+』編集者) 【仕事術からエンタメの未来まで】炎の20,000字対談!

佐久間さんと林さんの対談がアップされていたので読んでみた。いい加減に『チェンソーマン』の漫画も読もうかなという気にもなってくる。
売れる売れない問題は本人の努力や才能以外にも運やタイミングの問題があるので、そこだけは誰にも決めることができない。ほんとうに女神が微笑む瞬間に飛び込めるのかどうか。

夜の作業中の21時からリアルタイム配信で『ゴールデンラヴィット』が放送されていたのでそれを聴きながら(映像を見れるものが仕事のパソコンしかないので)作業をする。ほんとうに『ラヴィット』という番組は「令和の笑っていいとも!」だと思えるし、そういう存在になっていくのだろうと改めて感じた。ただたのしい笑いの空間になっていて、司会の麒麟の川島さんとTBSアナウンサーの田村真子さん、曜日ごとのレギュラー陣との掛け合いがとても好きだし、今この番組出ている芸人さんやタレントさんたちにとってはものすごいプレゼントというか、キャリアの中で大事な番組になっていくだろう。来年以降もTVerでしか見れないが平日のたのしみとしてずっと見続けていきたい。

朝晩とリモートワークで朝が本日までだが、夜は30日まであるので仕事納めになるのは明後日。いつもの元旦の新年会的な飲みは行っているお店の都合でなくなったと連絡があった。そういう部分でも毎年とは違う始まりになるんだなって思うと、2023年はいやでもこれまでと違うフェーズに入ることになりそう。

 

12月29日

起きてから夕方まで予定がないので、散歩がてら蔦屋代官山書店まで歩く。二階の漫画や音楽関係のフロアにあった井上雄彦著『THE FIRST SLAM DUNK re:SOURCE』を購入。
先日映画を観たあとにお茶をしたパン生地くんからオススメされた一冊。井上さんのインタビューを読むといいよと言われていたので読んだが、創り手としての気持ちや今作に至る過程がしっかり語られていた。背中を押してもらったようなやる気が出る話だった。
読み切り短編『ピアス』も収録してある。こちらは宮城リョータが主人公の作品で今回の映画にも関わってくる設定が出てきているものとなっている。読みながら「ああ、こういう話だったんだな」と思い出したが、ピアスを開けるところは覚えていたのに、そういう彼の細部の設定のことはすっかり忘れていた。
さほど『SLAM DUNK』の熱心なファンではなくなんとなく毎週読んでいた僕が覚えているのは、最初に「週刊少年ジャンプ」に掲載されたのが1998年の2月であり、僕はその3月の誕生日に自分でピアスを開けたから余計に記憶に残っているんだと思う。この漫画の影響ではなく、安藤政信さん憧れで開けたのだけど。


一階に降りてから小川哲著『地図と拳』も購入した。大晦日に読もうと思った。640Pというそこそこ分厚い本。たぶん、直木賞受賞するんじゃないかなって思うんだけど、小川さんの作品だと今年出た『君のクイズ』はおもしろかった。
でも、前の『ゲームの王国』はおもしろいと思えなかった。よく考えたら『三体』もおもしろいと思えなくて一巻で諦めてしまった。
パン生地くんとも話をしていたんだけど、僕は小説内ゲームがそもそも好きではない、というかゲームというものに興味がない。最後にやったのはゲームボーイアドバンスとセットになっていた『MOTHER3』で、その前はプレステ1で最初に出たFF(ジャンプで応募者に当たるやつ)だった。みんながゲームとかアニメとか好きすぎるんじゃないかなって思うのんだけど、そういう人の方が少数派になっているのもわかる。こういう分厚い小説をお金を出して買う人のほうが絶対少ないからこそ、分厚い本を出せる作家を応援したいという気持ちもある。

Tシャツをめくるシティボーイ 第7回  日本で一番Tシャツの裾をインしにくい場所 / 文:高畑鍬名(QTV)

そのパン生地君こと高畑鍬名くんの連載の最新回がアップされていたので読む。今回は「オタク」と呼ばれる人たちのTシャツのタックイン、アウトのことについての考察と歴史のことを書いていた。

菊地成孔の新バンド ラディカルな意志のスタイルズとは何なのか? 二度のライブから〈反解釈〉のアンサンブルを考える

「ラディカルな意志のスタイルズ」について菊地さんは今の所音源を出すつもりはないと「大恐慌へのラジオデイズ」でも言及されていて、ライブでしか体験できない音になっている。次の「反解釈2」は都内かあるいはどこかの地方なのか、都内でやる限りは行きたい。


17時半ぐらいに家を出てトワイライライトに寄って、石川直樹著『全ての装備を知恵に置き換えること』を購入してから店主の熊谷君と少し話してから二階へ。


18時からニコラに行って皿洗いのヘルプを。24時までの営業で年内最後だったので最後の方は常連や顔見知りの人たちばかりになっていたが、とてもいい雰囲気でそれぞれのテーブルやカウンターのお客さん同士が話をしていたのもよかった。
24時すぎにいったん落ち着いたのでまかないサラダとワインをいただく。今年は上の三階に熊谷君が店主の書店のトワイライライトがオープンして今までと人の流れというかお客さんも新規の人が増えていたと思う。トワイライライトはこれからいろんな人たちが混ざり合い交流していく場所になると思うのでとてもたのしみ。

 

12月30日

結局お店をあとにして残っていた常連二人と去年同様のパターンを繰り返し、終わったら朝の6時を過ぎていた。そこから家に帰って11時過ぎまで寝たがけっこう二日酔いな感じで気持ち悪かった。でも、夕方から夜バイトの年内最後のリモートワークだったので、このまま家にいたら家から出ないで終わると思って重い体を無理やり起こして渋谷に歩いて向かった。円山町のライブハウスの壁にSAPPOROビールの宣伝ポスターが貼ってあり、その中の一枚がDragon AshのKjだったのでつい写真を撮ってしまった。やっぱり男前だなあと当たり前のことを思った。
Kjの隣のさとうほなみさんはゲスの極み乙女のドラマー(そちらは「ほな・いこか」名義)でもあるが女優業でも大活躍している。今年彼女が出演した城定秀夫監督『愛なのに』はとてもよかった。

SOPHIA / ゴキゲン鳥~crawler is crazy~(Official Music Video)


昨日ニコラの曽根さんとソフィアの話をして、そのあともなぜか90年代のビジュアル系の話をしていた不思議な年末。

 

12月31日

ドストエフスキー著/亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』1〜4のバリューブックスのポイントで購入したもの。
年末に読まなくなった書籍を引き取ってもらった際に今までのポイントが貯まっていたのもあって、読んでこなかったものを買おうと思ってこれにした。来年は古典をできるだけ読もうと思っていることもあって。このシリーズはこのあとの「5エピローグ別巻」というのもあるらしいのでそれも来年購入して全部読みたい。

起きたら10時過ぎだったのでとりあえず家を出たが、渋谷に行くのもどうかなって思って池尻大橋の辺りで引き返して三茶方面に。スーパーで蕎麦用のイカとエビの天ぷらを買って書店も覗くが何も買わないで家に買ってきた。大晦日だし、このブログをアップしたらこのあとはずっと小川哲著『地図と拳』を読んで、本日中に最後までいければと思っている。
今年は基本的には去年からの続きで何年か続いていたものが終わっていくという一年だった。僕自身に力もなく、その時期の幸運な最中に努力もしていなかったから、終わっても次に何かつながったり、始めることができなかった。自業自得だろう。
ということもあって、来年は生き延びることと書き続けることに注力したい。もし、何かの芽が出たりするとしても時間はかかるだろうし、再来年以降になにかの形にするために地味ながらやっていくつもり。まずは体調面のこともあるので人生でマックスの体重になってしまっているので徐々にでも減らしていかないといけないし、生き延びることを考えるとそのどちらも意識的にやらないともうダメだろうなと思う。
来年は雌伏の年でいいから、雪の下で春を待つ植物のように見えないところで根を奥深くまで伸ばしたい。

2022年はこの曲でおわかれです。
syrup16g - Everything With You (Official Audio)