Spiral Fiction Note’s diary

物書き&Webサイト編集スタッフ。

ロロ『マジカル肉じゃがファミリーツアー』


 ロロの新作『マジカル肉じゃがファミリーツアー』をKAATで鑑賞。旅シリーズ三部作の最後の一作は家族の記憶を巡る旅。
 忘れていくこと、なにか形が残るもの、跡がわずかにあるもの、日々積み重なるもの、家族に自分が含まれる前のこと、シリアスにならずにどこか懐かしくてポップさのある物語だった。
 誰もがどこか通じる経験をしている、そんな共通体験に近いことが幼い頃にあったのではないだろうか。僕が観ながら思い出したのは、母が小学生とか中学生の頃によく言っていたことだった。幼い僕がテレビを見ながら「飛行機が落ちた」と何度も言っていた。それは日航機事故のことらしいのだが、僕は当然ながら覚えていない。だが、母にとっては僕の幼い頃の印象的な出来事であり、幼い息子の発言だった。同じように昭和天皇崩御の際も、僕は小一になるかならないかの時だが同じような感じだったと言われたことがある。
 当人にとってはもはや身に覚えもないことだが、家族や一緒に過ごしていた人には深く強く刻まれていて、何かあるたびにその話になることで、当事者でありながら覚えていない僕にもそれは自分の記憶のようにゆっくりじんわりと染み込んできて既成事実となっていった。
 一つのコミュニティにおける記憶とはそういう相互補完のようなものがあるのだろう。誰かが忘れていても誰かが覚えている、あるいは少しずつ細部の違うものが混ざり合いながら形を変えて記憶されるようなもの、誰かがそうだと思いたかったことなんかの集合体であり、そのコミュニティにいた人たちがいなくなれば消えていく。
 僕の記憶もあなたの記憶も、こうやってブログに書いて残していても、ネットが僕が死んでからも残ったとしても、書かれた瞬間にそれはどこかズレていく。家族という最小の単位の社会における冒険とは、ある時期を形成していたメンバーによる記憶の集合体を巡るものだ。だからこそ、愛おしくていつかなくなっていくせつなさがある。家族にいい思い出がない人にとってはそれは封印されるものとなっていく。ロロはそれをまっすぐにポップに描き切る。今につながるかつての幸福な時間を。




 第一弾だった『BGM』は下北沢のスズナリで鑑賞。
 移動すること過去と現在が交差していく。過去は地層のように重なっていき現在の足元にあるイメージ、掘り起こすとそれは化石みたい。化石はその時の想いや景色を孕んでいて、現在からの光でミラーボールみたいに光る、あるいは光らない。
 ロロ的想い出小旅行。三部作的な旅シリーズで一番好きなのは実はこれ。新しい次元に入った感じを受けた。
 友達の女の子の結婚式に向かう男二人。彼らは恋人である。過去の旅と現在の旅が重なることで浮かび上がること、生きていることの多幸感、誰と一緒にいることが大切なのかということ、僕はこの作品がロロで一番好きかもしれない、そうとても好きです。




 第二弾だった『父母姉僕弟君』はシアターサンモールで鑑賞。
 白昼夢のような此岸と彼岸の境界線が曖昧になって入れ替わるように進んでいく。
 いつか会えなくなってもまたいつか会える、またね、じゃあ、こんどね、ごめんね、ありがとう、いつかまた巡りあうまでハローグッバイ、過去と現在とありえた未来がそこにあり、僕らは今日を日々を。
 ロロという名前を最初に聞いたのはいつだったか忘れたが、教えてくれた人からは舞城王太郎(&古川日出男)×ボーイーミーツガールだよって言っていたので興味を持ったのだと思う。この『父母姉僕弟君』は再演だったはずだが、ラストのあの景色はロロを教えてくれた人が言っていたことが表現されている気になった。そういう景色が舞台にあったから。