Spiral Fiction Note’s diary

物書き&Webサイト編集スタッフ。

『朝日を抱きしめてトゥナイト』

 朝、仕事前の楽しみである『デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション』は十月から連載再開とか書いてあるし樋口さんの『愛される資格』も最終回だし来週から月曜日楽しみがなくなった。『愛される資格』は年内には単行本出るみたい、最終回にニコラまた出てきたよ〜。つうわけで夜は予定が終わったらニコラに行こうと思った月曜日。




朝日を抱きしめてトゥナイト公式サイト↓
http://lolowebsite.sub.jp/ASAHI/tonight


 仕事が終わって自転車を飛ばして渋谷の東急の前の道をまっすぐ進んで井の頭線沿いを走るとすぐにこまばアゴラ劇場に着く。早すぎた、しかしこの辺りはどうも長居できそうな場所が見当たらないのでとりあえずなにか食おうかと思ったがマクドは嫌だしつけ麺も重そうだ。セブンイレブンでサンドウィッチとフランクフルトを食べる。
 なんかいつもより小さい?気がするフランクフルトは腸詰めフランクフルトだった。皮っていうの表面の腸の部分がうまし、これはいい。腹は満たされたが時間は満ちてこないのでブラブラ歩こうと思ったけど高校生や大学生が帰宅なのかたくさん歩いててなにかが削がれる。若さなどもうないさと君が言ったとか言わないとかドイツが優勝したけど、どうでもいい。
 さて初めてのロロの舞台。一度古川さんの十五周年イベント少しだけ観てはいた。


作家デビュー15周年記念 声を狩る2013 古川日出男の「朗読空間」
http://d.hatena.ne.jp/likeaswimmingangel/20130225
↑ここでも書いているけど快快に近しいものをその時感じている。




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「その頃、町があって、その町は、今も、あるのだった」


そして、その町には、その頃も、今も、お祭りがあって、お祭りは飲んで歌って踊って騒いで、夜通し、太陽が昇るのを待ちながら繰り広げられていた。


だから、今日も、いままで通り、夜通し、飲んで歌って踊って騒ぎ続けるはずだった。


でも、いつまでたっても、朝はやってこなかった。


誰一人そのことに気づかなかった。


誰一人そのことに気づかないまま、永遠に飲んで歌って踊って騒ぎ続け、そして、終いには、疲れ果てて、バタバタと死んでしまった。


そんな中、唯一、トシちゃんと彼女だけがいつまでもいつまでも踊り続けた。


夜が明けないまま、朝日だけがそこにあった。





といったような伝説がどこかにあるかもしれないから、「朝日を抱きしめてトゥトナイト」というお祭りを始めます。
そうそう、なんだか僕は今、無性ににお祭りがしたい気分で、神輿を担ぎたい気分で、だからお祭りをして、神輿を担ぎます。
神輿だけじゃなくて、もっといろんなものも担げたらいい。
町も、魚も、肉も、花も、母も、祖母も、夜も、朝も、君のことも、いっしょくたに担いでやりたい。
担いで担いで、最後、真夜中、反対側で太陽が、物語になってしまう前に、早く早く、抱きしめてやりたい。



朝日を抱きしめてトゥナイト。



三浦直之
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 最後の押しきるような祝祭性はゼロ年代終わりに感じた次の十年がカラフルな散乱銃が放つポップな世界になるんじゃないかと思ってた僕にはなにか懐かしく、震災を経て今のようなギスギスした空気を切り裂く強さだと思った。
 今の空気を大げさに言っているように思われるかもしれないが前に戦争が終わったのは1945年だ。来年で七十年が経つ、僕の祖母(93)やそういう世代がこの世からどんどんいなくなっているからあの頃の嫌な空気やそういうことに巻き込まれていった雰囲気を知っている人は当然減っている。震災の後に情報はどうだったろう、すべては明らかにはされていない、当然だ。水俣病イタイイタイ病について国が認めるまで何十年かかった?
 表現と言うのは個人から出てくるものだけど同時多発的にいろんな人たちが同時に近いものを作ったり発想を形にしたりしていく。こういう時だからこそロロの演劇のようなポップさが人間の時間を大事に、いや繋がって今に至る事の意味や重要さを明るくテンション高くやってしまう、やりきる強さはロックだしパンクなものを秘めていると思う。思うだけだ、違うという人もいるだろうけど僕はそう思う。
 時代と表現は切り離せない。電光石火で駆け抜けて笑っちゃうぐらいの速度で投げかける台詞や役者の身体の有限さは僕らが生きていることを改めて感じさせてくれる。


 ロロの三浦さんが古川日出男さんを好きなのは聞いていたけど鑑賞した感じだと影響受けているのはわかる。あとだいぶ前にロロは舞城王太郎的なものを舞台でやっているボーイミーツガールものだとも聞いていた。
 時間というものを描いている、だからそれは個々人の記憶の集合体だ。細部は異なる、同じ体験は個々人で感じかたも違うし記憶はやがて個人の都合よく変えられる。時間≒家族の歴史。そういう視線みたいなものは古川日出男作品に通じていると思った。過剰さ、しかしながらある種の健全さを思わせる過剰さはエロとグロを引いたような舞城的な勢いと青春のような、『阿修羅ガール』みたいなものをどこか感じた。気のせいかもしれないけど舞城作品も好きだろうなとはやはり思った。


 演劇月なせいか演劇の強さがよくわかる。身体性の限界と一回生、台詞の繰り返しの強度とインストール性。ロロはそこにさらに多重な空間を作り上げているみたい。異なる空間や関係性や視線が同居しているからそこに時間が屹立している。目に見える時間。演劇つよいわ、やっぱり。
 ロロも前にアゴラで観た快快も役者さんが情景を説明しながら自分が動いて台詞を言うところのリズムと言うか言葉のニュアンスみたいなものが似ている。
 なんだろう、ポップな感じが近いからなのかなあ。あれは文章にしたら伝わらないんだよな、口に出さないとわからない感じなんだよな。口にして言葉にとして聞くからのニュアンス、リズムが演劇空間だからこそ余計にいいなと思えるのか、あれ文章で書いてあるのを読んだだけだと弱いんだよ、絶対。
 あと斜め前に立川吉笑さんがいらしてビックリした。ロロお好きでよく観ているらしい。 吉笑さんがレギュラーで出ている『噺家が闇夜にコソコソ』を最近見るようになった。



 駒場東大から自転車で南下してなんとか淡路通りに出て帰宅する途中にニコラに寄っていつものプラスさくらんぼ。樋口毅宏連載小説『愛される資格』最終回に出てきたので、小説にも出されたユカさんに小説に出されてましたよ〜と教えてあげたらすぐに買いにいった。