Spiral Fiction Note’s diary

物書き&Webサイト編集スタッフ。

『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』

 土曜日に早上がりしておすぎのお店で焼き肉を数人で食べた。来るはずだった友人の一人が集合時間十分前にメールしたら突発性難聴になって実家にいるという連絡しろや、というか「おそっ!」と思いながら結局朝の五時過ぎぐらいまで店にいてタクシーに乗って帰って爆睡し、起きてから山下敦弘監督『マイ・バック・ページ』を観に行った。


 日月は珍しく連休なシフトだったので読書と溜めといた番組を消化。撮っていたけど一話の途中までしか観ていなかった「ノイタミナ」枠の『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』の先週までの七話を一気に観たらハマったというか来たっ。


あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。 PV2


概要
幼馴染の死という過去を抱えた若者たちの淡い恋や罪の意識、絆や成長といった内容を扱う、ドラマ性を重視した内容が志向されており、物語の展開に従って複雑化していく人間関係なども描かれる。死んだはずの幼馴染であるヒロインが幽霊として主人公の前に現れるというファンタジー的な題材が用いられてはいるが、作中では彼女を型通りの幽霊のように描写することは避けられており、生きた人間と変わらず振る舞う姿を描写しながらも、その姿が鏡に映らなかったり、主人公以外の人物たちにその姿が見えていないことを示すことで、彼女が霊的な存在であることを描写している。
埼玉県の秩父市を舞台設定のモデルにしており、実在する建物、風景などが多く登場する。



あらすじ
幼い頃は仲が良かった宿海仁太本間芽衣子安城鳴子松雪集鶴見知利子久川鉄道ら6人の幼馴染たちは、かつては互いをあだ名で呼び合い、「超平和バスターズ」という名のグループを結成し、秘密基地に集まって遊ぶ間柄だった。しかし突然の芽衣子の死をきっかけに、彼らの間には距離が生まれてしまい、それぞれ芽衣子に対する後悔や未練や負い目を抱えつつも、高校進学後の現在では疎遠な関係となっていた。
高校受験に失敗し、引きこもり気味の生活を送っていた仁太。そんな彼の元にある日、死んだはずの芽衣子が現れ、彼女から「お願いを叶えて欲しい」と頼まれる。芽衣子の姿は仁太以外の人間には見えず、当初はこれを幻覚であると思おうとする仁太であったが、その存在を無視することはできず、困惑しつつも芽衣子の願いを探っていくことになる。それをきっかけに、それぞれ別の生活を送っていた6人は再び集まり始める。(wikiより)


 実は撮り溜めていて一話の数分見て放置していて何気なくまた再生して他の事しながらのながら聞きしてたら「メンマ」(本間芽衣子)が死んでいる設定ってわかって、「ええっ?」そんな内容だったのかって思って最初から見たら一気に先週分まで見てしまった。まったく内容とか全然知らなかったので。


 僕はこういう物語にどうも惹かれてしまうのは青臭いからだろう、センチメンタルさをなくせないからなんだろう。


 もはや街で高校生を見ても自分とは十歳以上離れてるんだなあって思う年になったりしてるので作中の主人公達もそのぐらいな年齢で、通りすぎた時代というノスタルジーやセンチメンタルな部分が嫌でも呼応し反応してしまう。
 あとは秘密基地とかそういう仲間なんかの部分ってのは近いような事をしていたから懐かしさもありつつ、失ってしまった、逝なくなってしまった人を抱えて引きずっていくのは残された側の問題として年齢を超えていつも存在する。


くるり ピアノガール


 小学・中学が一緒で高校の時に死んだムネとかの記憶とか。僕が人生で最初に見た死だったし紫色になった死に顔を見た時に涙と鼻水が栓を壊して崩壊して嗚咽に近い状態になったのも始めてだった。
 そして一番悲しかったのは小学生の時にやっていたソフトボールで可愛がってくれて知っている彼の両親の姿で、崩れ落ちそうなおばさんをおじさんが支えている光景だった。


 出会った人とは全て別れるし、この世に生まれた者全てはやがて消える。わかりきっている当たり前の事。これから年を重ねれば当然好きであろうが嫌いであろうが色んな人とお別れをしていく。そんな最初のこの世の摂理をはじめて知る事になったのが友人の彼だったのだから僕の中で強く残る。


 だから高校の時はありきたりに生きる事と死ぬ事を考えていた。思春期によくある悩みってやつだ。僕はデブだったけど健康優良児で体も弱くなかったし死に直面する事はなく過ごしていて現実感はなかった。


 性の目覚めは否応なく生死を巡る問題に繋がってもいるからそういう事ばかり考えてた。だからドラマの中の物語や登場人物に憧れたりしながら生死とはなんだろうと物語の中に答えや考えの参考になる事を探そうとどんどんドラマにハマっていったのだと思う。結局そうやって物語に魅せられてその延長線上にいる。それを作る側になろうと足掻いている。


 僕が人生に大事な要素に「運」をあげるのは彼の死が大きかった。彼が事故った日に僕は沖縄に修学旅行でいた。彼もそこにいた可能性はあったからだ。あの日泊まっていたホテルで数珠が急に切れたのはきっと偶然ではないと思う。


 そして本当に死ぬってなんだろうと思って考えたのは肉体が焼かれ消滅し残された側にその人の記憶や想い出が残っているうちはまだまだ本当の死ではない、その残された人達も消えた後にその死んだ人の記憶の想い出が完全にこの世界から失われた時に本当に死ぬんじゃないかと思うようになった。


 本だったり何かを創作物を残せたら自分の想いや記憶に近い遺伝子のようなものが子供ではない人に届くかもしれない。そんな可能性を思うのは少しでも長くこの世界から失われたくない気持ちがどこかにあるのかもしれない。


 『あの花』を見て思ったのは人生における最初の記憶。僕の脳内にある思い出せるのは予防接種か何かで注射を打ちに病院に車で行く途中に泣いて嫌がる僕に両親がトランスフォーマーのおもちゃを買い与えて病院に向かった記憶だ。
 これが真実なのか後に作られた記憶なのかもはや誰にもわからない、僕にも両親にも。記憶とは脆弱で後から作り替えれるものだから。人の記憶は曖昧で気持ちや時間で変化さえしてしまう。


 そんな中で今の僕や君やあなたが死んだら僕や君やあなたを知っている人の中で記憶になり月日が経ってその人が人生を歩んでいく中で全然違う人間に僕や君やあなたはその人の記憶の中でなって変化していくかもしれない。


 記録は正確で記憶は不正確。そこに感情も加わるから不確定要素が増す。それぞれの人の記憶はバラバラで感情でさらに変化して同じ出来事を体験してももちろん感じる事も思う事も違って一つの事実でも各自の真実は違う、物語の細部はてんでバラバラだ。
 

 だからひどくいびつで噛み合なかったりする、でも時にはピタッと収まるように上手くいったりする。こんなにも不平等で無慈悲な世界で僕らは出会っては別れていく。その中でどんな風に生きていくか想いを伝えていくのか、行動していくのかどうしようもない出来事が起きていく。


 本当は『あの花』や今月はわりとたくさん小説読んだから、昨日はタイミングよく電話してきた翔史とビール飲んでからライブ観にいって茶したりした事を書こうと思ってたんだけどどうも僕の話は文章は本題からズレていく。