Spiral Fiction Note’s diary

物書き&Webサイト編集スタッフ。

『ハンサムな大悟』


 アゴラ劇場にてロロ『ハンサムな大悟』鑑賞。大悟という登場人物の一代記なのだが、ロロの役者陣がさまざまな大悟と関わりのあった人物に入れ替わって物語っていく。舞台装置というか大きな布が様々なものに変化していくのが本当に素晴らしいし観ている人の想像力を増幅していた。
 大悟の特殊な能力とでもいえるものへ本人はさほど執着がない、必要としているのは他者である。ライナスの毛布のような、幼児期の架空の友達のような鳥とあの大悟の作ったものは観るものがそれぞれに解釈できるというか作・演出の三浦さんもアフタートークでわからないということを言っていた。
 創り手がわからないけど作品に出してしまうもの、無意識化にあるものは本人よりも批評家だったり観た人が感じたもので当人に輪郭や肌触りがわかるようなことがあると思う。そういうところを越えていくとトークゲストの豊崎さんが言っていたようにのちにこの作品が初期ロロのメルクマールになるのかも。
 役者さんたちにあるのはなにか完璧な信頼感みたいなたくましさを感じる。台詞の言い方や感覚はやはり舞城王太郎好きな部分が出ているなと思えた。舞城作品を映像化や舞台でやるとロロ的な台詞の展開や言い回しになりそうだなと思う。たいして覚えてもいない同級生とか見ながら自分に反射された。
 物語の終盤での一代記なので人生の後半がテンポ良すぎるほどに進んでいくのはリアリティがあって、なにかを失っても大きなものが終わっても人生は続いていってしまうし終わらないのだということの意味はデカいなあと思った。ほんとうに十年後とかに再演したら全然違う形になってそうだな。
 最近、舞城王太郎の『淵の王』を読んだのもあって、あれは第三者が語るというスタイルなので、しかし語り手はその物語に実際関与していない。僕はあいつのことを知っている、ずっと見ているという風に。ロロの大悟は第三者ではないが大悟の知り合いが語り出す辺りの雰囲気とかがいいなって思った。
 あの舞台で聞くといいなって思う台詞の言い方っていうか舞台の文体みたいな言葉ってのは不思議で、あれって文字だけだとちょっと違和感がありそうな言葉なのに役者が身体性を持っていうと二重、ダブっているみたいな2・5次元感覚?みたいなのっていつもいいなって思う。