Spiral Fiction Note’s diary

物書き&Webサイト編集スタッフ。

『GO』


 宮藤官九郎脚本『GO』を読みながらAmazonプライムで映画『GO』を流した。我が家にはゼロ年代の中頃までのクドカンシナリオブックはたいていある。『I.W.G.P.』から出た角川の脚本の単行本シリーズ。今もそうだけど、当時もほとんどドラマのシナリオ本というのは出ることはなかったが、クドカン作品はこういう形で出ていたので勉強だと思って買っていたのだった。
 昨日、ちゃんこを食べながらの新年会で、話の流れから行定勲監督で一番の作品は『GO』だ、という話になった。そりゃ、そうだ。僕は『贅沢な骨』が好きだが。麻生久美子さんを知ったきっかけだったし、好きな女優さんになったのが『贅沢な骨』だった。

 『I.W.G.P.』(2000)、『GO』(2001)、『ピンポン』(2002)とクドカン脚本で、彼の名前が玄人ではなく、僕ら一般のドラマや映画好きに知られていく、ブレイクしていく時にキングであり杉原(クルパー)でありペコであったのが、窪塚洋介、窪塚くんであったことの意味。それはとてつもなく大きなものだったはずだ。
 2003年からは『木更津キャッツアイ』が始まる。その後のゼロ年代に起きることを予見していたかのような作品だった。地元で中高の友達と遊びながら暮らすという(スクールカースト下位でイジメられていたり居場所がなかったり、そこにいたくなかった人は昔同様にどこか違う場所に行ったはずだが、SNSの流行に従いネットでも繋がりやすい世界になってしまう)地元まったり系。経済不況による親の収入減と上京思考の低下によるものなどいくつかの時代要素が関係はしていたが、東京に行かなくてもいい、そういう夢を見る人がいなくなった時代だった。固有名詞の失われていく様は浜崎あゆみコブクロの歌などヒットソングに現れていた。

 話を戻すと、宮藤官九郎脚本作品が若者に響いていく中で重要な役者だったのは窪塚くんだった。今なら窪塚洋介的な存在は菅田将暉になるのだろうけど、なにか少し違うと思う。
 2000年という新しいミレニアムの始まりにあった新しい予感、僕たちのリアルを内包した作品と新世代が世に出ていくのをリアルタイムで見せてくれたのが宮藤官九郎脚本作品と役者としての窪塚洋介だったんだろう。だから、映画『GO』は原作小説自体もよかったのに加えて、彼らがブレイクする必然すらも孕んだ奇跡的な作品なので名作でしかないということになる。
 シナリオ本を読んでると、タワケ先輩の指紋押してきたくだり、正一が死んでから妹が泣きたい時の話をクルパーにするところは涙が止まらない。テンポがめちゃくちゃいいとか宮藤官九郎がすげえということを改めて思い知らされた。

 ネトウヨみたいな人たちはこういう作品を観ても自分の国に帰れとかクソみたいなくだらないことを言うのだろうか、おそらく言うのだろう。彼らに共通するのは他者への想像力の欠落だ。同時に自分がその人の立場になった時のことをイメージする事もできないのだろう。そういう人たちは考えてるフリをしているだけで、自分にとっての都合のいいことだけを並べて、正しさを強調する。そのことで何もない自分を守ることに必死なのだろう。太宰治の小説の多くが戦時下にあった特殊なワクワク感で書かれている、そして、戦争が終わると彼は自殺することになった。ワクワク感が失われてしまった後にはもう、彼は戻れなくなってしまった。「私」というものを国や政治なんかに託してしまう、それを担保に自分を誇るために国を誇ること、それが間違えていても話を聞かなくなる。否定されるのが怖いからだ。だけども、国は間違えてきたし、国という概念も永遠のものではない、ということに気づかない。気づいていても知らないフリをしてなんとか逃げ切ろうとする。
 個人と個人の付き合いにおいて、国やその人のバックボーンを見て上だとか下だとか思うような人にはなりたくない、そういう考え方をする人は個人の自由や尊厳を軽く見ている気がする。グローバリゼーションの波がやってきて、自由に行き来することに恐怖を覚えた結果が今の世界中の先進国に起きているナショナリズムの台頭、アレルギーの結果だ。
 思考停止するような世界、繋がりすぎてしまうことは他者への憎悪しか生まなかった。もっと違う可能性を夢見ていたのが2000年、新しいミレニアムという時代だったはずだ。911イスラム戦争と報復、テロリズムの時代、リーマンショックという世界を巻き込んだ出来事、東日本大震災という自然災害と原発事故という人災、21世紀の最初の20年に起きたことは未来という言葉を踏みにじるようなディストピアへの一歩にしか見えない。だけど、この先を生きていく僕らができること、思考することの意味。考えることをやめて、ただ流れに身を任せて誰かや違う国だったり出自だったり、をひたすら罵倒するような想像力のない人たちに何か届けれるとしたらそれはなんだろう。

 思考停止しないために考えることと行動すること、また同時に身体的に移動することについてこのところよく考える。「国境線なんか俺が消してやるよ」と『GO』の中でクルパーは言った。国境線は消えないかもしれない、だけど、自分のまっすぐ伸ばした腕、360度ぐるりと回ったその自分の手の届く範囲の世界の外に他者がいる。そこから手を伸ばせ、その先にいる人たちに会いにいく、話をする。それは自己拡張に近い、他者という世界を知ることで僕らは自分の痛みだけではない、誰かの痛みを知り、自分の喜びを外に広げていく、誰かの喜びも知ることができる。