総監督:庵野秀明
監督:樋口真嗣
准監督:尾上克郎
脚本:庵野秀明
特技監督:樋口真嗣
出演:長谷川博己(矢口蘭堂(内閣官房副長官))、竹野内豊(赤坂秀樹(内閣総理大臣補佐官))、石原さとみ(カヨコ・アン・パタースン(米国大統領特使))、市川実日子(環境省官僚)、犬童一心(古代生物学者)、柄本明(内閣官房長官)、大杉漣(内閣総理大臣)、緒方明(海洋生物学者)、片桐はいり(官邸職員)、神尾佑(外務省官僚)、國村隼(自衛隊関係者)、KREVA(自衛隊関係者)、黒田大輔(原子力規制庁)、小出恵介(消防隊隊長)、高良健吾(内閣官房副長官秘書官)、小林隆(自衛隊関係者)、斎藤工(自衛隊関係者)、嶋田久作(外務省官僚)、諏訪太朗(防災課局長)、高橋一生(文部科学省官僚)、塚本晋也(生物学者)、津田寛治(厚生労働省官僚)、鶴見辰吾(自衛隊関係者)、手塚とおる(文部科学大臣)、中村育二(内閣府特命担当大臣)、野間口徹(経済産業省官僚)、橋本じゅん(自衛隊関係者)、浜田晃(総務大臣)、原一男(生物学者)、ピエール瀧(自衛隊関係者)、平泉成(農林水産大臣)、藤木孝(東京都副知事)、古田新太(警察庁長官官房長)、前田敦子(避難民)、松尾諭(保守第一党政調副会長)、松尾スズキ(ジャーナリスト)、三浦貴大(ジャーナリスト)、光石研(東京都知事)、森廉(避難民)、モロ師岡(警察庁刑事局局長)、矢島健一(国土交通大臣)、余貴美子(防衛大臣)、渡辺哲(内閣危機管理監)ほか(映画.comより)
「ゴジラ FINAL WARS」(2004)以来12年ぶりに東宝が製作したオリジナルの「ゴジラ」映画。「ヱヴァンゲリヲン新劇場版」の庵野秀明が総監督・脚本を務め、「のぼうの城」「進撃の巨人 ATTACK ON TITAN」の樋口真嗣が監督、同じく「のぼうの城」「進撃の巨人」などで特撮監督を務めた尾上克郎を准監督に迎え、ハリウッド版「GODZILLA」に登場したゴジラを上回る、体長118.5メートルという史上最大のゴジラをフルCGでスクリーンに描き出す。内閣官房副長官・矢口蘭堂を演じる長谷川博己、内閣総理大臣補佐官・赤坂秀樹役の竹野内豊、米国大統領特使カヨコ・アン・パタースン役の石原さとみをメインキャストに、キャストには総勢328人が参加している。
まず、長谷川博己ファンはマストだろう。エヴァでいうところの赤木博士みたいな頭脳明晰な女性が市川実日子で、高橋一生はやっぱりいいし、アスカみたいなハーフというか英語と日本語混じりの石原さとみもよく、大杉漣&柄本明の政治家にいそうな感じ、他にもワンシーンだけ出てくる有名だろ頃なんかを見つけるのも面白いはず。
特撮ファンでもなく、『ゴジラ』シリーズの第1作目を60周年記念で公開されたゴジラ(1954年)<デジタルリマスター版>を観たことがあるのみ。作家の窪美澄さんにあんた観に行った方がいいと言われてリマスター版を劇場で観たことがあるのでゴジラに対して思い入れはない。ただ、中二の時に『エヴァ』アニメの放送があったリアルシンジ世代としては庵野秀明監督作品として観に行くしかないというスタンス。で、観た感想はわりと第1作のゴジラの作り手たちが込めていた平和への願いと現在の社会に対しての危惧というか皮肉があってストレートなお話だったように思った。
ゴジラは「天災」である、思考なんかはこの作品では感じられない。キャラクターとしての人格はない。だからこそいいのだと思う。ゴジラが最初に現れるシーンで、きっと「あれっ、ゴジラ?」と思う人もいるだろう、僕は最初からポスターなどに使われているゴジラのビジュアルをイメージしていたので、「ああ、幼虫というか成長する前の段階なのかな」と思った。実際、今作ではゴジラは進化していく、形態を変えていくわけだが、それを食い止めるために必要なのは「プロジェクトX」的な組織体系だった。だから、誰かが公開前にこのゴジラは歩く福島原発だということをツイートしていたがそれはやはり違う印象を持つ。
ゴジラが核分裂によって生命活動を維持していることや、なぜこんな生物になったのかは作中で予想されているが、そういう意味で第1作での「核」に対して物語により危惧していることをエンタメとして表出しているのは正しいというか毅然とした態度だと思うし、表現なんて極めて政治的であるのは当然なので、ミュージシャンに音楽に政治を持ち込むなというバカがいるけど、ゴジラに関して言う奴はいるのだろうか。
ゴジラ≒天災を食い止めるチームが機能し、立ち向かう過程で最初から出ていた総理大臣を含めた内閣の主要な閣僚があることでいなくなるからこそ矢口蘭堂率いる彼らの作戦が成り立つ。まるで戦後に、上の世代がことごとく死んでいなくなった若き経営者の卵たちが自分たちの思いや力を思う存分に振るって巨大な企業になっていったように思える。縦割りで自己責任を取りたくないから承認を取るための承認という連鎖による時間がかかる無駄さや判断の遅さは冒頭でコントのように展開するが、それが今の日本社会であるのは間違いない。震災後に転機だったが政治はそうならずに、日本だけではなくグローバリゼーションの波によって世界中が極右になってしまっている世界では、大きな声で判断してくれる人を欲しがっている傾向が反動して出てきてしまっているのだろう。
今作では男女間の恋愛的なものはなく家族愛みたいなものもない、それでいい。海外版とかだったら絶対にそこは入れないといけないことになるが、何せ監督は庵野秀明だ。彼がそれをゴジラでやる必要な全くないのだからこれで正しいと思うし、だからこそ、ただ自分の知っている東京が焦土化していくカタルシスをどこかに感じる。
破壊された世界ではもう再生しかないからだ。そして、最後にゴジラが放っていた放射性物質はのちに半減し消滅するという話が出る、あの壊滅的に破壊された東京の土地には新しいビルが建って、シンボルのようになったゴジラととも新しい東京が日本が始まるのだ、という荒野を前に矢口蘭堂たちのような日本の新しい世代への期待や希望のみが示される。さて、現実の世界はそうはならずに首をすげかえるだけの都知事選がある。
現実社会での政治には絶望しかないが、それでも、と思うしかない。なぜなら僕はこの時間の中でしか生きていけないし進めないからだ。希望の話をしよう、悪意だけの世界に染まる前に。
今年の夏は映画館で『シン・ゴジラ』を観たことをのちに思い出しそう。これから出てくるいろんな『シン・ゴジラ』評も楽しみだ。うん、映画館でまた観よう。