Spiral Fiction Note’s diary

物書き&Webサイト編集スタッフ。

『美澄の小部屋』vol.6


 B&Bで『美澄の小部屋』vol.6 長嶋有さんがゲストな回のお手伝いみたいなことをしてきた。毎回ゲストでお客さんががらりと変わるのも面白いです。長嶋さんに新作『愛のようだ』にサインをいただきました。




『胸は、みせてくれるかどうかだ!』と作中の言葉を書いてもらいました。ほんま、そう。



 窪さんと長嶋さんの話の中でフィジカルという話が出てきた。窪さんはR-18文学賞から出た作家として官能小説などのオファーがデビュー時多かったわけだが、セックスというものを小説で描くということ。セックスは男女、男同士でも女同士でも体と体の交わりである。
 例えば、簡単な描写で終わらすこともできるし一連の流れを丹念に書くこともある。男女でもセックス後の快感の持続や気持ちのあり方も十人十色だ。
 いろんな体位があるが、正常位をするのとバックでするとなにが違うかと言われたら、翌日とか終わってからバックですると太ももとかが怠くなる感じがある、普段使わない肉が動いて筋肉痛ほどではないが怠さを感じる時に肉体というものについて考えたりする。そういうことが書かれているかどうかというのはリアリティだけの問題ではなくて読み手が話の中にうまく入っていけるか感情移入ができるかどうかという意味でも大きい部分だとは思う。



 長嶋有さんの新作『愛のようだ』はドライブ小説であり、長嶋さんは都内にいて知り合いの作家もそうだとみんな車を運転しないから運転する小説を書いてみようと思ったと言われていた。助手席に座ってでのドライブと運転手としてのドライブは明らかに違う。
 運転するということもフィジカルが関係してくるという話が出ていた。始まる前にもカフェでお話をさせてもらったのだが、『サイドカーに犬』だったり長嶋作品にはドライブもの、運転するということと移動するということが度々出てくる。
 ここではないどこかに向かうためのドライブではないというのが大きなポイントなのかもしれない。つまりドライバーたちには帰る場所があるのだ。
 長嶋作品に漂う男性の弱さだったり情けなさも帰る場所がある。離婚しても彼女がいなかったりしても、同年代の親友と呼べる人やツイッターで出会った人、ボードゲーム仲間とか、「家」ではないかもしれないが所属している心から信頼できる「コミュニティ」が帰る場所としてある。この事が極めて現在的であり、読んでいてほんわかとする部分になっている。遠くの親族より近く(の距離に感じられるネットとか)の他人だ。
 『サイドカーに犬』では娘はサイドカーに乗っている。子供は行く先を決めることはできない。運転できない。娘はやってきたヨーコさんによって自転車が乗れるようになる。この事は娘が自らの意志によって今まで行けなかった場所に行けるということではあるが、やはり子供にはほとんど「生活」に関しての主導権や選択権などない。だから、物語の最後に帰ってきた母の選択には逆らえない。


 
 『愛のようだ』はサウンドトラックとして聴ける曲が作中に出てくるのをそれをYouTubeで聴きながら読むという事もできる。主人公が友人の恋人のことを好きになってしまったと気づいたこと、そしてその想いをどうするか決めた後のことなんかがとてもわかると思えた。人はなにかを決意したからといっても実行できるわけではない。
 様々な要素が絡んでくる時に人はどうにもできないという場面に多々出くわす。それはとても人間の人間らしい生活の一部だし、そのことをずっと引きずりながら生きていくのだから。




『愛のようだ』
愛と恋はどう違うのかと言われたら言葉が違う
恋はきっといろんな場所に咲きかけるし彩られている
恋から愛に変化することはあるんだろうか
次元が違うような気がどうもしてしまう
愛とはそう容易くたどり着けるものだろうか
結婚して子供ができて家族になったら恋の名前は愛に変わるのだろうか
たぶん、みんなそう思いたいだけだしそうならないと気持ち悪いのだ
出会った瞬間に恋に落ちることはあるだろう
愛に落ちたら人はどうなってしまうのか
きっとかえってこられないものを愛と呼ぶんだろう
そして、それは通り過ぎた季節のように
過去形でしかない
愛するという現在進行形はどうも嘘くさい
愛してたという過去形はもう触ることのできない真実味がある
愛のようだ
愛するようだ
愛してたようだ
南極で氷河に閉じ込められたままのマンモス
氷から取り出せばその肉体はバラバラになってしまう
きっとそんなものだ
刹那の中にしかないのならばそれは過去形の想い
愛のようだ