『水道橋博士のメルマ旬報』連載「碇のむきだし」
ずっと日記は上記の連載としてアップしていましたが、日記はこちらに移動しました。一ヶ月で読んだり観たりしたものについてものはこちらのブログで一ヶ月に一度まとめてアップしていきます。
「碇のむきだし」2022年03月掲載
先月の日記(1月24日から2月23日分)
2月24日
栗本斉著『「シティポップの基本」がこの100枚でわかる!』 を読む。
木澤佐登志著『失われた未来を求めて』を読んで、『ニック・ランドと新反動主義』を再読した流れでフィリップ・K・ディック作品を久しぶりに読んでいた。そこにはネット社会だけでなく、ドラッグとスピリチュアル、実存の問題や新反動主義や加速主義なんかでつながっている。
BGMとして「失われた未来」としての鳴っている音でもあるヴェイパーウェイブや世界中で聞かれているシティポップ(70、80年代のシティ・ポップ&ネオシティポップ)なんかを聴いていた。この新書は僕のようにシティポップというものをほとんど聴いてこなかった人間にはちょうどいいカタログになるかなと思って読んだ。
パームツリー越しに海が見えるリゾートホテルのプール、コンバーチブルに車でドライブする夜景きらめく摩天楼、流行りのカフェバーで味わうトロピカル・カクテル、ダンディな男性とセクシーな女性が主人公の大人の恋‥‥。そして、そんな風景を演出する「シティ・ポップ」と呼ばれるスタイリッシュなポップス。
中略
そもそもシティポップとはどういう音楽なのだろうか。ここではっきりしておきたいのは、シティポップは明確な音楽ジャンルを指す言葉ではないということだ。例えば、ハードロック、プログレッシヴ・ロック、レゲエ、ボサノヴァといった音楽ジャンルは、リズムのパターンや楽器などの音色といった音楽的な理論のもとに、ある程度は定義付けられる。しかし、シティポップはジャンルというよりは、その音楽から醸し出される印象を重視している。もちろん、ソウル・ミュージック、AOR、ソフトロック、フュージョンといった音楽性の根幹があるとはいえ、それらのジャンルがそのままシティポップに当てはまるというわけではなく、あくまでも雰囲気なのだ。
無理やり定義付けるとするならば、シティポップは「都会的で洗練された日本のポップス」ということになるだろうか。
中略
かなり乱暴な言説ではあるが、シティポップはある種のファンタジーだと考えている。例えば、シャンソンを聴くとパリの街並みや石畳を想像し、ボサノヴァを聴くとリオデジャネイロの美しいビーチを思い浮かべるように、シティポップを聴くことで冒頭に書いたような摩天楼やリゾートや大人の恋模様の世界に浸ることができるのだ。ぜひとも、どっぷりとスタイリッシュなファンタジーの世界に入り込んでいただき、メロウでアーバンでグルーヴを感じられるシティポップの世界を堪能してもらえることを願っている。
なるほど、わかりやすい。世界中で日本のシティポップが聞かれるようになったのはインターネットの発達によって、音源が掘りやすくなったことはある。英語圏でサンプリングするものがどんどんなくなっていき、日本のシティ・ポップが再発見されたということもある。世界的なミュージシャンであるTHE WEEKNDのニューアルバム『Dawn Fm』で亜蘭和子『Midnight Pretenders』がサンプリングされていることもちょっとした話題になった。
トランプ元大統領にしろ、安倍元首相にしろ彼らのスローガンが「かつての栄光を取り戻す」ことだったように、あまりに複雑化した世界では単純だった(ように思える)インターネットが隆盛する前の時代に戻りたいという「後ろ向きな未来」を待望する人たち(既得権益や権力の側だと勘違いしている人)がわんさかいた。そこに陰謀論やポスト・トゥルースが入って来ればもう手に負えなくなってしまった。
アメリカ国内におけるストレスや不満はいつの時代も対外的な戦争によって昇華していたが、トランプ元大統領はそれを内側へのテロリズムにしてしまった。戦争は起こさなかったが、その悪意の刃は国内に向けられ、人種差別や移民差別にも向かった。といっても日本では1995年にオウム真理教がテロを起こし、その後は政権与党に舞い戻った自民党が国民へのテロをずっとしている状態なので、日本もアメリカも酷いのは変わらない。
そのこととヴェイパーウェイブやシティポップの再評価は無関係ではないと思う。ドラマや映画で80年代が舞台な作品が増えたのは、そのころガキだった僕らやその上の世代がプロデューサーになったり監督になったということだけではないはずだ。『ストレンジャー・シングス 未知の世界』の大ヒットと陰謀論やポスト・トゥルースはコインの裏表だと感じられる。
この新書を読みながら思ったのは、僕がいままで熱心にシティポップを聴かなかったことには「パームツリー越しに海が見えるリゾートホテルのプール、コンバーチブルに車でドライブする夜景きらめく摩天楼、流行りのカフェバーで味わうトロピカル・カクテル、ダンディな男性とセクシーな女性が主人公の大人の恋‥‥」という部分があまりにも自分と関係がなかったこと、理想にもしていなかったことが大きいのかもしれない。
僕は自動車の免許は身分証としてだけ持っているが、車の運転ができない。ペーパードライバー歴が20年を越えていて、免許を取ったあと何度か父親に助手席に乗ってもらって運転しただけだ。僕は運転がかなり下手くそである。そのせいで余計にこのまま普通に車に乗っていたら早々に事故る。事故って自分が怪我するだけならいいが、人を殺してしまうという考えが離れなくなってしまった。東京に上京したのも車を運転しなくても生活には不便がないということも大きい。
シティポップはドライブのBGM的にぴったりなものが多い。僕は車を運転しないという点で無意識にシティポップを外していたのかもしれない。今の僕はシティポップを「失われた未来」のBGMとして聴けるようになったのかもしれない。
The Weeknd - Out Of Time (Official Lyric Video)
レオス・カラックス監督『アネット』試写を観に映画美学校へ。
ほぼ満席だったが、年齢層はだいぶ高かった気がする。レオス・カラックス監督も60歳だし、音楽を担当しているスパークスは活動歴が50年を越えているのだから仕方ないかもしれない。ターゲット層は僕よりも上になっていると思う。そもそも試写状は送ってもらっていたけど、観に行こうか悩んでいたら菊地成孔さんのチャンネルの擬似ラジオ「大恐慌へのラジオデイズ」第64回「マニアの受難」でスパークスとこの『アネット』について語っていたので観よう!となったのだった。
「ポンヌフの恋人」「汚れた血」などの鬼才レオス・カラックスが、「マリッジ・ストーリー」のアダム・ドライバーと「エディット・ピアフ 愛の讃歌」のマリオン・コティヤールを主演に迎えたロック・オペラ・ミュージカル。ロン&ラッセル・メイル兄弟によるポップバンド「スパークス」がストーリー仕立てのスタジオアルバムとして構築していた物語を原案に、映画全編を歌で語り、全ての歌をライブで収録した。スタンダップコメディアンのヘンリーと一流オペラ歌手のアン、その2人の間に生まれたアネットが繰り広げるダークなおとぎ話を、カラックス監督ならではの映像美で描き出す。ドライバーがプロデュースも手がけた。2021年・第74回カンヌ国際映画祭で監督賞を受賞。(映画.comより)
『アネット』のこの予告はたしかに物語とは筋は合っているけど、見始めたら「おおおおい!」と思わされる内容で逆にびっくりすることになる。
あとユーロスペースが製作でお金を出していることもあるのか、見覚えのある日本人俳優が数人出てくるので、短いシーンだけど意外というかそれが気になってしまった。主演のアダム・ドライバーだけじゃなく演者たちがずっと歌ってた。セリフの大半は歌っているので、ロックオペラという感じの宣伝をしているけど、わりと最初からすぐ歌い出すので全然きにならない。ミュージカルじゃないのかなって思って、ミュージカルとオペラの違いを調べたら、オペラはマイクを使わないベルカント唱法という発声法で、ミュージカルはマイクも使うしポピュラー音楽の発声法という違いがあるらしい。知らなかった。あと全然今作では踊らなかったけど、ミュージカルは役柄や感情を表現するためにダンスをするというのが一番わかりやすい違いなのかもしれない。たしかに全然踊ってなかった。
『アネット』の物語の軸のひとつは「ピノキオ」的な構造であり、それはある種のネタバレというか観てたのしむ、驚く部分なのでこれ以上は触れないけど、あとは男性性による加害性みたいなものをしっかり描いている。嫉妬という感情さえなければ悲劇は生まれないのにねって思ったりした。
アネット役は当初から人形の予定で、日本の人形作家を含めさまざまな試作が行われたが、現場で操作可能という条件で仏のエステル・シャルリエが様々な年齢のアネットの顔を、ロミュアルド・コリネが胴体とテクニカル面すべてを担当。アネットは「父と娘、野蛮さと幼少期をつなぐリンク」というサルのぬいぐるみを抱いている。なお、ベビーアネットのステージの歌声はLYC(ロンドン・ユース・クワイア)所属の少女ヒーブ・グリフィスが担当した。(公式サイトより)
で、ネタバレなのかなって思っていたが、予告編でも意識的に見ようと思えばわかるのだけど、公式サイトにガッツリ二人の子どもでありタイトルになっている「アネット」が映画では人形として出てるって書いてる!
生まれてからずっと「アネット」は終始人形です。だから、日本でいうと人形浄瑠璃みたいな感じにも見えるし、でも両親たちから人ではなく人形にしか見えないってわけではなく、人間だけど映画上では人形がずっと出てきてるんですよ。
で、さっきも書いたような「ピノキオ」的なものが感じられるわけです。そのため終始不気味さや異様さがある。だけど、見方を変えれば本当にアダム・ドライバーが演じたヘンリーには「アネット」はちゃんと人として認識できていなかったとも思える。だからこそラストシーンで、ということなのかも。
宣伝の方と観終わってから話をさせてもらったけど、レオス・カラックス監督ファンの人がわりと観にきているから最高傑作という人と意味わかんないという人に分かれているらしい。うん、よくわかる。
2月25日
近くのツタヤ三茶のコミックコーナーの片隅に最近新たに浅野いにお作品がずらりと並べてあるのは『デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション』最終巻が来月出るからなのだろうか。また、なにか映像化するのか。
久しぶりに『零落』を読んだが、こんなことを描く漫画家にインタビューに行くのはかなり怖いだろうな。西島大介さんもクライアントが打ち合わせ前に漫画原稿を出版社に紛失された経緯を描いた『魔法なんて信じない。でも君は信じる。』を読んできたら、かなりビビってくると言われていた。
ふたりとも批評的な視線がかなりあるし、それを取り込んだ漫画を描いていたりするから付け焼き刃で話を聞きに行ったらライター(聞き手)はおもしろいことほとんど聞き出せないだろうな。西島さんにはインタビューさせてもらったことがあるので、いつか浅野さんにもしてみたいが、かなり読み込んでいかないとボロボロになりそう。
『水道橋博士のメルマ旬報』連載「碇のむきだし」2022年2月25日号が配信されました。今年の1月と2月に観た映画日記です。『エッシャー通りの赤いポスト』『スパイダーマン』『コーダ』『さがす』『誰かの花』『ちょっと思い出しただけ』などについて書いてます。
「BOOKSTAND映画部!」のレビューコーナー「月刊予告編妄想かわら版」2022年03月号が公開になりました。3月は『MEMORIA メモリア』『THE BATMAN-ザ・バットマン-』『猫は逃げた』『ナイトメア・アリー』を取り上げています。
古川日出男著『曼陀羅華X』発売延期のことを公式サイトの日記である「古川日出男の現在地」で知る。。今日は古川さんが作家デビューした2月25日、24年目突入の一日目だ。
個人的にデビュー24年目突入のお祝いと発売延期のことについてメールでご連絡した。僕としては『曼陀羅華X』が再び「産み」なおされて一冊になるのを待つしかない。
2月26日
『新潮』に掲載された『曼陀羅華X 1994-2003』と『曼陀羅華X 2004』連載第一回を読もうと取り出して、寝るまでに『曼陀羅華X 1994-2003』だけは読み終わった。
そして、二作めだが、二作めにしておれをデビューさせた作品、あの一九九六年の十一月の広尾の居酒屋(ビストロ)で「書き足し」が決定した小説だが、これは翌(あく)る一九九七年の九月に脱稿した(実に苦闘した)。一九九八年の二月に出版された。日付まで記せば、発売日は二月二十五日。
主人公はある教団に拉致されて、そこの予言書と黙示録を書くことになった老作家、彼は教団を抜け出す時に教祖の生まれたばかりの赤ん坊を自分の子として外に連れ出し、現在は一緒に暮らしている。
そして、もうひとりの主人公も小説家であり、「眠り病」という病を取材している。彼は「東京港埋立第13号地」にある施設にいる「眠り病」の患者である「13号」と呼ばれる者たちと共に施設にいる。彼の語りのひとつが上記のものだが、彼の作家になるまでの流れが小説家「古川日出男」自身とかなりの部分で重なっている。そして、一九九八年二月二十五日に古川日出男デビュー作『13』が幻冬社から発売されている。
朝作業をしてから散歩がてら渋谷まで行って、ジュンク堂書店渋谷店を覗くと「古川日出男コーナー」ができていた。これは『曼陀羅華X』(28日発売予定で搬入が早いところであれば25日夕方は棚に並んでいる店にあった。ジュンク堂書店渋谷店はたぶん25 日夕方には入荷していたはずだ)に発売に合わせたものだったはずだ。少しだけ残念な気持ちになったが、『曼陀羅華X』が出るまでここにあれば、お客さんの目に触れるから古川さんの作品に未知との遭遇的に出会う人もいるはずだ。
タワーレコード渋谷店でロバート・グラスパー相関図をゲットした。
Robert Glasper - In Tune ft. Amir Sulaiman (Official Lyric Video)
2月27日
矢野さんの新刊『今日よりもマシな明日 文学芸能論』を最後の「補論 小山田圭吾と文学の言葉」の前まで読んだ。
序論、町田康論、いとうせいこう論、西加奈子論とこの書籍のメイン部分を読んでいくと文学と芸能、そしてそれらと表裏一体である政治と社会の問題がスムーズに繋がっていくのがよくわかる。それが見事であり、町田康、いとうせいこう、西加奈子を読んでいない人でも問題なく読めるし、たぶん彼らの作品を読んでみたいと思うだろう。
町田康はミュージシャンだった(現在も活動はしている)こともあり、彼の文体や言葉遣いが評価されることは多い。文体が物語を呼び、物語が文体を要請する。そして、その書き手である作家はある種「憑依」されている存在である。そのためには実は言葉を持ち、同時に持たない、という空洞さがいる。
シャーマン的な要素というのは「芸」にとって太古から欠かせないものだった。そして、シャーマンがなにかに「憑依」されても、それを見たり聞いたりする視線(他人)がいなければ、それは世界に影響をなんら与えない。
言葉がなければ世界は存在しないが、それは他者という存在が前提でもある。「芸」とはかつては神への祈りであったが、やがて大衆的なものへ降りていった。「祭り」とはまさしく共同体を維持するための行事であり、シャーマン的な存在がいなくても成り立つ大衆化された「憑依」ごっことも言える。
現在ではたとえばそれがライブなどステージとそれを観るものだとすると、なにものでもない者がステージに上がればなにものかになってしまう。そしてそれを中心にして観客は祭りをたのしむ。ステージ上の「芸人」は神であり、同時に生贄である。
時代を変えるようなカリスマが時折現れる。彼らは磁場の強い存在であり、民という砂鉄を引き寄せる。そうすると世界のパワーバランスが以前とは変わってしまう。一度変わってしまったものはもとには戻らない。だが、カリスマの磁場は次第に弱まっていき、あるいは新しい時代への生贄のように姿を消す(消される)。
「芸人」はある時は神であり、同時にある時は生贄であるというその構造はずっと変わらない、河原から演芸場へ、そしてテレビになりユーチューブやネットに移り変わった。「笑いもの」にするという言葉があるように、優劣がどちらかに伸びているものを見て称賛し蔑む、そこにはもちろん差別的な構造がある。
いとうせいこう論における「無数のざわめき」を拾い上げる、声や形にしていくこと、マイノリティと呼ばれる人たちが声を上げる場所を作る、それが染み出していくと世界に変化が起き始める。いとうせいこうの「芸」と「政治的なアクション」が繋がっているのは、社会やマジョリティーに届きにくい声、可視化されにくい姿を「芸」というフィルターを通して世界に繋げようとする試みでもある。たぶん、他人を信じているからできるのだと思う。彼のアクションはとても政治的であるが、そもそも「芸」と「政」がきってもきれない現実社会の写し鏡であり、表裏一体ということをわりとみんな忘れてしまっている。それを思い出させてくれる存在でもあり、失語症的になっていた彼は、自分の声ではなく「無数のざわめき」を知り、聞いたことでそれを自分を通して語ることで小説が再び書けるようになったという。
琵琶法師についての話も出てくるが、『平家物語』はひとりの作り手の声ではなく、琵琶法師たちが語り継いでいき、各自が足したり引いたりしたそれぞれの語りのバージョン(無数の物語)の集大成(リミックス)である。見えないものを幻視し、聞こえない声を聞く、そしてそれらを紡いでいった声たちの完成形が現在の『平家物語』となっている。
西加奈子論における「おかしみ」の話も「芸論」の大事な部分であり、共同体と逸脱者の関係性がある。かつては河原乞食と変わらないものであり、芸人になるということは社会からドロップアウトするという時代があった。しかし、逸脱しているからこそのおかしさとどうしても目が離せないということが起きる。そして、それを安全な場所から見ているという自分の差別意識に気づく。
西加奈子作品はそれらを内包している。だれかがなにかを必死でしているが、失敗していたりすると笑ってしまうことがある。しかし、その誰かは夢中でなんとか物事を完成させようと達成しようとしている。次第にその「夢中さ」にこちら側は応援してしまう、その場所にいれば手を差し伸べようとしてしまう。
「おかしみ」とは夢中と関係があり、「夢中」になっている当人ではなく、見ているものを関係者に、当事者の側に引き込んでしまう力を持っている。その「見る」という行為にある差別、「見られてしまう」という恐怖と光悦の関係。
ここでも何作品か取り上げられているが、アニメ映画化された『漁港の肉子ちゃん』についても触れられている。共同体と逸脱者の話がメインで展開されているが、そこでも「肉子ちゃん」の「夢中」さによる「おかしみ」、それゆえに彼女は笑われるが、同時に手を差し伸べられる存在にもなると書かれている。この部分を読んで、なぜ明石家さんまさんがこの作品のアニメ映画プロデュースをしたのかがちょっとわかったような気がした。
そして、小山田圭吾論へ、という流れ。
小説論としてもたのしめるけど、芸能論として「見られる」側の仕事をしている人にはすごく興味深く、感じ入る部分が多いのではないかと思う。芸能人というだけでなく、今や自分の顔を出して表現や仕事をすることが増えているので、かなり広い人にも人ごとではなく読める現在進行形の「文学芸能論」になっていると思う。
アニメ『平家物語』のびわになんか既視感があると思ってたけど、『MUSIC』に出てくる猫のスタバと同じ目の色なんだ。と思ったけど、表紙だからってスタバとは限らないのかな。読み返したらスタバは灰色の毛並みだった。
2月28日
前日の19時からニコラで俳優をやっている藤枝琢磨くんがフジエタクマ名義でデジタル配信で音源を出したので、そのリリース記念イベントがあった。
最初はちょっと固かった気がしたが、最近好きでよく聞いているという落語調のトークをしてからあとは声もしっかり出ていた。観ながらその前に矢野さんの『今日よりもマシな明日 文学芸能論』を読んでいたこともあって、彼はやはり舞台に立つ側の人なんだなと思った。惹きつけられてしまうものを持っているし、人前でしっかりと自分の創作を見せれる気持ちと才能がある。
彼の知り合いのお客さんも雰囲気がよくて、終わったあとには打ち上げがてらお店で
いろいろと世代や年齢を越えて交流しているのもとても素敵な時間と空間になっていた。
普段話し足りないことや話をあまりしていない人と深く話し込んだのもあって帰ったら日付が変わっていた。タバコを吸う人が多かったので風呂に入って寝ようと思ったが、起きてから目覚ましがわりに風呂に入ろうと思って『テレビ千鳥』を見ながら寝た。起きてすぐに湯船を溜めて風呂に入った。睡眠時間は少ないはずだが、心地よい朝だった。
羊文学「夜を越えて」official audio
自分が書いている小説のキャラクター名で応募していた作品が「第二回羊文学賞〈二次選考結果〉」二次選考に残っていた。忘れているぐらいのほうが残っているとうれしい。
3月1日
〈北海道・国後島を臨む水際編〉
第二次世界大戦後北海道はソ連に占領、鱒淵いづるを指揮官とする抗ソ組織はしぶとく闘いを続ける。やがて連邦国家インディアニッポンとなった日本で若者四人がヒップホップグループ「最新"」(サイジン)を結成。だがツアー中にMCジュンチが誘拐、犯人の要求は「日本の核武装」――歴史を撃ち抜き、音楽が火花を散らす、前人未到の長編。
新しきサウンドトラック≒カテドラル、そしてむかしむかし、ミライミライへ。
家から数分の整骨院で股関節と肩甲骨を緩めてもらってから渋谷まで行き、そのまま青山と神宮、赤坂を通って市ヶ谷のSMEで湯浅政明監督『犬王』試写で鑑賞。
古川日出男さんが『平家物語』を現代語訳した後、南北朝~室町期に活躍した実在の能楽師・犬王をモデルにした小説『平家物語 犬王の巻』を書き上げた。それを原作としたアニメ映画がこの作品になっている。 古川日出男作品に通じていると僕が思っているのは、「孤児と天皇における貴種流離譚」であり、今作の映画はそれがほかの作品よりもエンタメに向かっている作品だった。
詳しくはnoteに書いた。プラスでUCLAとかの画像もいれておいた。
3月2日
言葉が世界と現実を再構築して僕らの眼前に現す、反戦を願い平和を祈りたい。
様々な言語で書き留められた「戦争反対」という意思が、フェイクによる分断を無効化させながら拡散されて、世界中の人々を正気で結ぶ。(「(後藤正文の朝からロック)反戦の声、ささやかでも」より)
3月最初の書籍の購入は田辺青蛙著『致死量の友だち』、徳井健太著『敗北からの芸人論』、上田岳弘著『太陽・惑星』。
去年に引き続き、「太宰治賞」の一次は通過したみたいだけど、今年は二次以上に行けるといいのだけど。
3月3日
10時半からの『愛なのに』を新宿武蔵野館で観るために渋谷まで歩いて、副都心線で新宿三丁目駅まで乗って新宿に着いたが9時半前だった。早すぎたので献血をしようと思ったので紀伊国屋書店新宿本店の横にあるビルの5階の献血ルームに行って、10時半までに終わるか聞いたら、献血あとなんで急いだりしたら危ないので難しいですねって言われたので次回にすることにして、歌舞伎町方面に歩いて行って「いわもとQ」でもりそばと鶏天丼セットを食べる。そばは普段からまったく食べないけどここでだけ食べている。この店の揚げ物はすごくあっさりというかカラッとしていて具材の味がすごく出ていて美味しい。いつも鶏天を頼んでしまう。
10時過ぎてから新宿武蔵野館に行く。お客さんは平日の午前だとそこそこ入っていたと思う。城定秀夫監督×今泉力哉脚本『愛なのに』を鑑賞。
「性の劇薬」「アルプススタンドのはしの方」の城定秀夫が監督、「愛がなんだ」「街の上で」の今泉力哉が脚本を務め、瀬戸康史の主演で一方通行の恋愛が交差するさまを描いたラブコメディ。城定と今泉が互いに脚本を提供しあってR15+指定のラブストーリー映画を製作するコラボレーション企画「L/R15」の1本。古本屋の店主・多田は、店に通う女子高生・岬から求婚されるが、多田には一花という忘れられない存在の女性がいた。一方、結婚式の準備に追われる一花は、婚約相手の亮介とウェディングプランナーの美樹が男女の関係になっていることを知らずにいた。多田役を瀬戸が演じるほか、一花役を「窮鼠はチーズの夢を見る」のさとうほなみ、岬役を「由宇子の天秤」の河合優実、多田役を「よだかの片想い」の中島歩がそれぞれ演じる。(映画.comより)
去年から気になっている河合優実さんが出ているのと今泉力哉監督が脚本を手がけているということにで気になっていた作品だが、すごくおもしろかった。城定監督の作品は初めてだったが、コメディっぽさもありながらセックスシーンなどもある程度描かれていて、しっかりと見応えのあるものになっていた。さとうほなみさんと向里祐香さんのことは知らなかったけど、いいなって思えたし、彼女たちが本音をいうことが物語を躍動させていて重要な役割だった。
映画が観終わってから中上健次全集の一巻を買おうと紀伊国屋書店新宿本店に寄ったが、改装中ということもあり4階に移動した文学コーナーは棚が少ないし、一巻がなかった。諦めて渋谷に電車で戻ってから、青山ブックセンターに寄ったがなく、MODIに入っているHMVにもなく、ジュンク堂渋谷店にもなくてどこにもなかった。
MODI前の渋谷マルイの壁に菅田将暉のアルバムの宣伝ポスターがどかーんと貼ってあった。月曜のオールナイトニッポン3組が終了したら、菅田将暉のあとは佐久間さんが昇格するのかしら、俳優&ミュージシャン枠で松下洸平大抜擢とかかしら、などとこのところ思ったりしている。結局好きな声かどうかだったりするからなあ、嫌いでも慣れることもあるし、生理的な問題がわりとあるよね、ラジオは。
朝から全部で16キロほど歩いていたので家に帰ってからちょっとだけ仮眠してからニコラにご飯を食べに行った。
スナックエンドウ 塩とレモンとオリーブオイルをビールでいただいてから、ホタルイカと菜の花のリングイネを赤ワインでお願いした。締めはアルヴァーブレンド。旬の食材を食べるとしっかりと季節を感じられる。すっかり春だねえ。
3月4日
昨日探していたがどこにもなく、アマゾンで頼んだ『中上健次集1』が届いた。『中上健次集4』は2020年に福島を踏破する古川さんの取材に同行するために読んでいた。そこには『紀州』が収録されていたから。個人的には古川さんの『ゼロエフ』は中上健次の『紀州』になると僕は行く前から思っていた。
『中上健次集1』の解説が大塚英志さんだった。いろいろあって最終的に大塚さんにインタビューしにひとりで行った時に指定された場所がギャラリー「Hapworth16」というところだった。サリンジャーじゃんってことはそのあとに『このサンドイッチ、マヨネーズ忘れてる/ハプワース16、1924年』が刊行されてから気づいた。そこで話を3時間ぐらい伺ったあとにギャラリーを少し見せてもらった。
棚に大塚さんが尽力して出版された中上健次の劇画原作小説であり、最後の紀州サーガ『南回帰船』が何冊か置かれていた。僕は実物を見たことがなかったので手にとったら、大塚さんがあげるよと言ってくれて、一冊もらって帰った。
僕が最初に中上健次のことを知ったのは『多重人格探偵サイコ』のスニーカー文庫版での章タイトルがそのまま中上健次作品のタイトルだったからで、二冊うちもう一冊は大江健三郎作品のタイトルだった。大塚さんはサブカルの中に純文学とかいわゆる「文学」への導入を意図的に作っていた人なので、僕はそれにまんまと引っかかったというか影響を受けた人間だ。そういう人はそこそこいると思う。
大学も出てなくて学歴もないし、小説も大人になって読み始めたから、基礎教養とかがほとんどないけど、大塚英志作品を読んでいたことで純文学とか海外文学とか、社会学とか民俗学にわりと入りやすい体質にはなっていたんだと思う。そうじゃないと阿部和重作品とか古川日出男作品を読んで一気にハマったり、おもしろいと思って読めなかった気はしている。
全集みたいに分厚くてそこそこ単価がする書籍は実際に目で見て買いたいものだが(帯破れたり表紙カバーが傷ついていたりするのは嫌だから)、紀伊国屋書店新宿本店にもないし(今は改装していて文学コーナーは4階になっていて全然商品がなくて地方の書店かと思うぐらいぐらいなかった)、渋谷界隈の書店にもなかったのでどうしようもない。
前まではジュンク堂書店渋谷店には全部揃っていたのだけど、文学コーナーの棚が面出しに一つ使うようになってから姿を消した。まあ、売れないのはわかるけどあると思っていたので、なくなるときついというザ・資本主義だから世知辛い。だから、本はすぐに読まなくてもある時に買わなければならないということになって、積読がたまっていくサイクル。
名前は知っているけど読んだことのない『灰色のコカ・コーラ』が読みたかっただけだったが、そもそもこの中編が入っている文庫本とかがない。
宇佐美りんさんが芥川賞を受賞してさらに注目されてから、影響受けた作家として中上健次の名前を出したので、書店とかでも河出文庫から出ている中上健次作品が帯変えて並んでいたけど、そのラインナップの作品たちの中にも『灰色のコカ・コーラ』は収録されていないので、全集ぐらいしか読む手段がない。
河出書房新社の刊行予定スケジュールを見ていたら4月刊行の『文藝』の特集が「中上健次没後30年&フォークナー没後60年」とあったので、それに合わせて中上健次やフォークナー作品が刷りなおされたり、新訳とかで出たりするのだろうか、とちょっと期待している。
去年フォークナーの「ヨクナパトーファ・サーガ」の第一作『土にまみれた旗』が河出書房新社から刊行されて、帯の後ろに『ポータブル・フォークナー』が来春刊行予定になっていたから、普通に考えれば4月に出る『文藝』の特集に合わせるんだろう。
特集が中上健次にフォークナーだから、阿部和重さんに古川さんに小野正嗣さんはなんらかの執筆するだろう。個人的には大塚さんになにか書いて欲しいけど、どうかな。あとは中上健次と同じ時代と空間にいたひとりだし、河出からこのところ何冊か書籍を出している北野武さん辺りにもなんか依頼ぐらいはしてるだろうな、とか想像はできる。
2020年は三島由紀夫没後50年で、2021年はヘミングウェイ没後50年でどちらも2021年に『100 de 名著』で取り上げていたから、中上健次はまだ30年だけどフォークナーは今年か来年辺りやるんじゃないかな。
先月の8日に『THE BATMAN』試写を観に行った。情報解禁までは内容はもちろんのこと試写を観たことを言うな、SNSにも一切なにも書くなという宣誓書にサインして観たんですけど、なんか3月になってもうOKになったっぽい。まあ、アメリカでのプレミア試写とかが終わるまではってことだったんだと思うけど、一ヶ月近く経ったら記憶が曖昧になってきた。
3時間はあるけど観れるしミステリー要素があっておもしろい。問題はポップなMCUの『スパイダーマン ノー・ウェイ・ホーム』観た後では暗すぎる。というかあの『ジョーカー』のラインなので明るいわけがない。ダークな雰囲気が好きな人にはオススメ。黒い画面が多いのでIMAXとかいいスクリーンで観るほうがいい。
でも、子供と一緒に観に行っても子供は楽しめないかもしれない。大人になってからわかるかもしれないけど、諸々難しいことが多い。
ラストにおけるバットマンの「正義」というものはすごく現在的なものになっているので見どころかな、と。まあ、トランプが大統領の任期を四年した後のアメリカでヒーロー描くとなると難しかっただろうなとは思う。
3月5日
浅野いにお著『デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション』最終巻となる12巻が月末に出るので、既刊11巻を昨日今日で再読。
23日には重大発表があるらしい。まあ、普通に考えたらアニメ化だろう。実写映画化やドラマ化はできる限りやめてもらいたいし、すげえ難しいと思う。日本の監督でこの内容をやったら成功するイメージが全然わかない。
クリストファー・ノーラン監督『インセプション』『インターステラー』『TENET』に『魔法少女まどか☆マギカ』要素もある。クリストファー・ノーラン監督のSF的想像力と拮抗する漫画作品になっているけど、SF大賞とかにノミネートもされていないみたい。SF村の人って『大奥』を評価するなら、この作品もマストだと思うのだけど。
『気分はもう戦争』があの頃の雰囲気や空気を表現しているとすれば、この作品も現在の世界の雰囲気と空気をしっかりと表現している。ネットの発達と陰謀論や個人と集団の関係性や国家と民衆なんかは後から読み返すと今をしっかりと刻んでいると思えるものになるだろう。
緩やかに日常が終わりに近づいている感じは現在的であり、世紀末に信じられていたような世界が一気に滅亡するなんてことはなく、世界はすぐには終わらないがゆるやかに、しかし確かに終わっていくという雰囲気も今とシンクロしてる。
あとは『ドラえもん』のオマージュも入っているし、コミックの冒頭には『イソベやん』という作品が載っているのだけど...。巻数が進むと意外な展開を見せてきて、浅野さんらしいやりかたでおもしろい。
3年前の8月31日に「侵略者」の巨大な空母が東京に舞い降りてきて、世界が終わるかに見えたが、アメリカ軍が空母に投じた新型爆弾「A」によって大田区は高濃度の「A線」で汚染され、3年後に現在でも東京ではわずかな線量が確認されているが、攻撃された空母は渋谷の上空で停止し、現在はそこを中心に上空を回遊している。そんな時代の中、主人公の小山門出と中川凰蘭は高校を卒業し大学生になり、青春時代を過ごしている。漫画が始まったのが2014年だったから、東日本大震災の原発事故のメタファもかなり感じさせるものだったけど、「侵略者」というワードが『寄生獣』におけるほんとうの「寄生獣」とは?ということを彷彿もさせるし、そんなのは手塚治虫『海のトリトン』時代からあるが、10年代が過ぎて20年代になって、ロシアのウクライナ侵攻を見ていれば、移民のメタファにもなってくる。母船とそこから逃げている「侵略者」たちに対して虐殺するべきではないと訴えるグループがいたりするが、sSEALDs的なものが使われているけど、彼らの行動なんかはどっちかというと連合赤軍的なものが使われている。巻数が進むにつれてSF的な要素が増して物語が複雑化しているけど、違和感はない。だって、現実があまりにもSF化してしまった日常を生きているし、たぶん、漫画で起きていることはあるのだろう、起きうるのだろう、いや自分の知らないところですでに起きているのだろうと僕自身は思っている。
『タコピーの原罪』上巻をコミックで読んでから、最新話までジャンププラスで読んでみて思ったのは、逆『デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション』的な内容と設定だなあ、と。
大塚:読んだあとに何かが残るとか、表現というのは自分にとって有益なものだろうって、暗黙のうちに思ってるんでしょうが、そうではありません。読んだあとに気持ち悪いものが残るのが文学なんです。たとえば、大江健三郎を読んだときにモヤモヤした澱のようなものが残って喉につっかえてしょうがないという体験です。そこから「私」や「世界」がつくり直されていく。でも「うざい」「私語りをするな」といった様々な理由で、そういうものをすべて捨ててきたわけです。お客さんに応えてものをつくるほうが楽だから。それにいま、考えさせる表現と言われるものも、基本的に「あなたは悪くないですよ」ということであって、「私」や「世界」の足元をぐらつかせるものではないわけですよ。
大塚:楽をしたいのはいまに始まったことではなく昔からです。だから気持ちいいもののほうが売れるし、それが大衆芸能になったわけです。だけど、大抵の表現というのは誤作動が起きて不愉快なものが入り込みます。それが大きな意味を持っているのです。それは処理できない情報だけど、結局は処理しなければいけない。そのためには物語という層を抜けなければいけないわけです。「私」について考える別の作法なのか、哲学なのか、どういう風に生きていくかという具体的なことなのか、あるいは別に学問体系なのか。そういった違う文脈が必要になってくる。つまり、物語のなかで処理できずに残ったものを、作品を離れてひとりで考えなければいけないわけですよね。
『広告』vol.416「虚実」大塚英志インタビューより
昔、大塚さんが作品のあとがきで「ぼくの表現はすべからく、夢を見せるためではなく、夢から醒めさせるためにある、と言える。」と書かれていて、僕の指針のひとつになっているが、それに通じる話でもあるインタビューだった。
また、旧劇場版「エヴァ」がトラウマ的に人に傷を残し、観た人に嫌悪感や吐き気すら感じさせたのは、あの時の庵野さんのどうにもまとめられないむきだしのものを観客が受け取ってしまったからであり、文学的なものでもあった。「シン・エヴァ」は成長し大人になった庵野さんがジグソーパズルを埋めていくような作業だった。だから、よかったね、とは観続けていた人になっているが、人に深く刻まれるかと言われたらそうでもないのだろう。
3月6日
浅野いにお著『デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション』最終巻が月末に出る前に、最新号の『ビッグコミックスピリッツ』に掲載されている最終話を読んだ(コミック派なので一巻分まるまる抜けている)。ファミレスに揃っていたメンツとか見て、あれが起きて世界が崩壊しなかったのかなとか想像できた。この着地点しか確かにないのもわかる。
90年代末ぐらいにエルフから出ていたようなエロゲー(我が家には兄が買っていた『河原崎家の一族』があったので目を盗んでやっていた)だと主人公の選択によってフローチャート的に物語が進行していく。そこでは生きるか死ぬか、エロことできるかできないか(できても殺されるバッドエンドも多い)みたいな分岐点があった。まさに繰り返される諸行無常、生き延びてその終わらない日々を終わらすため、本当の結末(TRUE END)を目指していた。
その後に、『ひぐらしくのなく頃に』なんかも出てきた。宮台真司さんが言った「終わりなき日常」が繰り返されていく。世紀末は過ぎ去ってしまい、9.11が起きても世界はどうやら終わらなかった。
ゼロ年代になってから日常系的な作品、繰り返される日常と並行世界を描いたものが増えていく。新劇場版『ヱヴァンゲリヲン』はまさにそういう作品だったし、円環の理が閉じて物語はようやく結実した。
東日本大震災前後には『魔法少女まどか☆マギカ』が放送されていたが、そこで描かれたのは繰り返される終末を回避するために何度も同じ時間軸を繰り返していたひとりの少女の決意と勇気だった。
『デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション』がクリストファー・ノーラン監督のSF的な作品×『魔法少女まどか☆マギカ』になっている。起こり得た可能性がすべてある世界、そこでの並行世界あるいは可能世界を描いていくと最終的な着地点は現時点でそれしかない、と思う。というかそれ以外を書けばバッドエンドにしかならない。
過去現在未来すべての時間軸と可能性があるということ、並行世界や可能世界というのは僕らがいる三次元の世界とは違う、もっと次元が増した世界でならありえることだと思う。だが、想像して表現ができてもこの肉体や精神では現状では知覚できない。
仏陀が悟りを開いたというが、それは彼が三次元の先に抜けたんじゃないかなって思うし、神様や仏様や宇宙人や未知の生命も四次元、五次元とかただ向こう側の存在なんだろうと考えればわりと整理しやすい。
『デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション』はこの20年の空気を特に東日本大震災以降の時代の雰囲気を濃厚に描いている。それだけでも読むべき価値はあると思う。
『怪獣8号』6巻が発売されていたので購入する。ツタヤとかで買うとビニールされているのは前からだけど、最近のジャンプコミックスとかっておまけのポストカードみたいなものが店舗特典みたいなのがついていて、それを表紙の上にしてシュリンクするから本のタイトルが隠れていて発売していることに気づかなかった。まさに本末転倒!
客から特典について聞かれるのもめんどくさいからついてますよってことを表明しているんだろうと思うのだけど、無駄に本末転倒だよ、無人レジにしたことで特典は商品に入れ込むということになってるわけで、いろいろわかるんだけど、なんか本末転倒! 本末転倒っていいたいだけ。
防衛隊の新人の中でも最強クラスのキコル。その父で防衛隊長官の四ノ宮功と怪獣9号の戦い、そして、キコルの母で怪獣との戦いで亡くなった元防衛隊第2部隊長だったヒカルと功とキコルの家族の話がメインになっていて、普通に考えたらほんとうに主人公はキコルなんだろうね、英雄の子どもだから。
しかし、この作品の主人公の日比野カフカはそちら側ではなく、怪獣が体に侵入したことで人類の敵であるはずの怪獣に返信する能力を持つことになる。イレギュラーな要素を持つことで『ウルトラマン』や『デビルマン』から、最近の『進撃の巨人』の系譜に連ねる主人公にカフカはなっている。やっぱり読んでいる感じだと20巻とかまでいくって長さにならずに10巻ぐらいでまとまるんじゃないかなって思う。
樋口さんがオレンジ、松本さんがグリーンな衣装で二人が並ぶとすごく上品な感じになっている。松本さんの激しさと強さが感じさせられる話でゆるいとこがなかっただけに、樋口さんの「僕は今、結婚7年目で浮気をしたことはないですが」ってわざわざ入れてるとこで笑った。
3月7日
前にツタヤ代官山書店に行った時にタイトルの『246』に惹かれて購入した沢木耕太郎さんの日記エッセイ。
1986年ぐらいの時期のものみたいだが、沢木さんの自宅はわからないが、仕事場が三軒茶屋にあったみたいでその頃の三軒茶屋の喫茶店なんかが出てきてちょっとしたタイムリープになる。この頃の沢木さんは今の僕よりも一才か二才ほど若いがしっかりしすぎていて、超大人な感じがする。やっぱり、ひと昔前の三十代の成熟度が今の四十代ぐらいな感じの成熟度になっているんじゃないかな。僕が未熟すぎるのをプラスしても、しっかり大人な雰囲気を文章から受ける。
「246」というのは国道246号であり、三茶に12年とか住んでいるのでいちばん身近な道路だ。いろんな歌にも出てきたりする。wikiで見ると国道246号は「東京都千代田区から神奈川県県央地域を経由して、静岡県沼津市に至る一般国道である」らしく、総距離は125キロぐらい。一日では無理だが、二日あれば歩けるし、いつか歩いてみよう。
NHKドラマ『恋せぬふたり』をようやく見始めた。とてもいいなと思える作品で、漫画『ひらやすみ』も映像化すると近い雰囲気や温度感になるのかなと思った。
アロマンティック・アセクシュアル(アロマンティックとは、恋愛的指向の一つで他者に恋愛感情を抱かないこと。アセクシュアルとは、性的指向の一つで他者に性的に惹かれないこと。どちらの面でも他者に惹かれない人)という言葉。
言葉が認識され始めると少なからず世界に広がっていく。昔だってそういう人たちもいたはずだけど、家のためとかで見合い結婚させられて、結婚して子供ができて家族になって、みたいな流れに逆らえなかった人もたくさんいたんだろうな、と思う。
このドラマでいいのは、理解できない人に無理に理解してもらおうとはしない、強要しないという考えがあって、セリフにしていること。
高橋一生さんと岸井ゆきのさん出演作の当たりというか打撃率が映画にしろドラマにしろ高い。そして、監督であり役者のアベラヒデノブさんが一話で家族におけるいいクッションみたいな感じで出ていた。
3月8日
charlieのブログ『SOUL for SALE PhaseⅡ』 『「プーチンの戦争」のユニークさ』
『灰色のコカコーラ』を読むために『中上健次集1』を購入して読んでいる。中公文庫『路上のジャズ』にも収録されていた。見落としてしまっていたけど、やっぱり全集の方がデザインもだけど、分厚くてよい。
『灰色のコカコーラ』を読んでいると佐藤泰志の小説に近いものがあるなと思った。中上も佐藤も戦後生まれでジャズ好きな部分があるからなのだろう。前に佐藤泰志の小説を読んでいると村上春樹の初期作品に近い文体のように感じた。でも、中上健次と村上春樹は似ているとは感じない。
中上健次―佐藤泰志―村上春樹という戦後生まれでジャズを好きだった彼らの「一人称」と自意識みたいなものは時代の空気が文章に表れているのだろう。
ただ、中上の『灰色のコカコーラ』は彼が二十代の時に書かれていて、佐藤泰志『きみの鳥はうたえる』は彼が三十代になってから世に出ている。ここで時間差が生まれているから、佐藤も中上の影響はあったのかもしれない。中上は「紀州サーガ」を書いていたし、佐藤も故郷である「函館」を舞台にした作品を残した。
村上春樹は同じような時代やジャズという共通項はあるけど、サーガを書かなかった。その代わりに翻訳というものがあったのかもしれない。
中上は病死で、佐藤は自殺して共に四十代で亡くなっている。村上春樹だけが生き延びて、世界中で知られる作家になっていった。その差はなんなんだろう、とふと思う。村上春樹はノモンハン事件とか戦争について書いた。壁を抜けて、井戸の底に降りた、ということが実際にも作家としても生き延びるためには必要だったのかもしれない。そう考えれば、W村上である村上龍も戦争については何度も書いている。
村上春樹はプリンストン大学の客員研究員として招聘されて渡米しているけど、以前には江藤淳もプリンストン大学に留学していた。どちらもアメリカに行くことで日本を発見したと言われている。三島も同様だし、彼の場合はフェイクのフェイクの素晴らしさみたいなもの(彼のヴィクトリア朝コロニアル様式の邸宅 )、そしてディズニーランドが好きだったりして通じているところがたぶんある。
でも、島田雅彦の自伝みたいな本でニューヨークにいたときに同じくニューヨークにいた中上がちょこちょこ会いにきたみたいなことを書いていたけど、中上は江藤や村上とは違うものを見つけたような気もする。
ジャズはキーワードとしてあるはずだし、でも、子供世代はロックンロールだったから文脈が違う。ジャズの子供がR&Bで、孫がラップだとすれば、やっぱりヒップホップやラップが当たり前な世代の言葉が中上健次や村上春樹世代を引き継いでいくんじゃないかなって思う。
戦後、私が手にした日本の小説は、中上健次を除いて、すべて子ゴリラの視点で書かれているように思える。太平洋戦争を扱ったものにおいて、それはことさらに顕著である。軍部やその他の支配者が描かれていないというのではない。私はずっとこう教えられてきた。軍や財閥が戦争を引き起こし、大多数の国民は引きずられて犠牲になったのだ、と。そうではないことははっきりしている。国民が望まなければ、戦争は起こりはしないのだ。教育や宣伝や報道や法律の影響はあったにせよ、当時の国民は戦争を望んだのである。狂熱があったはずだ。私が戦後の小説に激しい苛立ちを覚えるのは、その熱をはらんだ空気が暴露されていないからだ。唯一、想像をかき立てられるのは林芙美子の「浮雲」である。この小説は、戦争によって引き裂かれた被害者の恋愛ではなく、侵略した仏印の密林の熱気によって育てられた恋愛が描かれているからだ。
「この戦争は、ゆき子にとって生涯忘れる事が出来ないのだ。あの時は、本当に幸福だった……」
戦争は悪だ。しかしその悪は現在にも形を変えて満ちている。殺されかけた子ゴリラの視点では、永久に悪を暴露することはできない。自分の空洞を直視し、薄汚れた日本語を憎み、殺す側の領地に深く踏み入って、初めて悪と向かい合う事ができるのである。
村上龍『長編のあとの疑問』 『コインロッカー・ベイビーズ』執筆後に読売新聞に寄稿した文章、『村上龍全エッセイ1976-1981』収録。
戦争という「非日常」における日々の中の狂熱については、15年戦争時に代表作となる作品の大部分を発表している太宰治がいる。彼はその熱に浮かれてもいたと思うし、だから書けたんだと思う。その熱狂が敗戦によって終わればもう死ぬしかなくなってしまったようにも思える。だって、彼が浮かれていた「非日常」は終わってしまったのだから、あとは悲しすぎて誰かを道連れにして死ぬぐらいしか狂熱は残されていない。太宰治という作家は「非日常」における浮かれた身体と時間、その終焉を体現してしまったという意味ですごく日本的な作家なんだと思う。バブルでもネトウヨでもなんでもいいんだけど、「祭りのあとにさすらいの日々を」耐えきれないメンタリティーというか。
『コインロッカー・ベイビーズ』を書き終えたばかりの村上龍は「悪」について意識している。村上春樹もその後、「悪」について書くことになったけど、長編小説を書く際に、自分の内部へ降りていくという行為を得ないと、作家は「悪」について見つめて、書くことはできないのかもしれないなと思った。
一年前にFacebookに書いていたもの。その一年後に中上健次『灰色のコカコーラ』を読み終わった。
3月9日
『新潮』2022年4月号掲載の古川日出男戯曲『わたしのインサイドのすさまじき』を読む。
登場人物は女性四人の戯曲。つまり俳優が四人いたらできるというのが今まで発表されている古川戯曲に比べると登場人物も少なく、舞台装置もわりとシンプルなものになるなという感じがした。
物語の中のセリフで男優とか女優とかの言い方とか、かつては看護婦だったけど今は看護師となったこと、シングルマザーでノンフィクションライターでもあった紫式部の本名は隠されたままで、藤原という名字はわかっているが下の名前はわからないということ。古い歴史において女性たちの実名がわからないのはフツーのことだった。みたいな会話がなされている。ジェンダーのことがかなり多く出てくるし、少し前に『新潮』に古川さんによる現代語訳『紫式部日記』が掲載されたことで、この戯曲が生まれたんだと想像できる。警察病院を舞台にしているが、そこに入院している舞台の演出家がいるが、彼の病室のドアは見えないが真ん中に存在しているという風になっており、看護師と女性警察官、舞台女優二人が登場人物であり、見えない演出家との関係性ややりとりが最終的に四人での舞台に昇華されていくというものだ。そして、犬と猫に関する描写がたびたび出てきて、そこにも古川日出男作品らしさがある。
最近はradioheadの『Lift』とこのバージョンの『Fog』をよく聴いているんだけど、純文学系を読む時にはradioheadがよく合うというか僕にはちょうどいいのは、たぶん読んだあとに後味の悪いものが残る(作り手の我という他者性が読み手の中に侵入してきそうになる、あるいは混ざりそうになる嫌悪感みたいなもの)という部分で共通しているからなんだと思う。
3月10日
ワクチン接種3回目を近所のキャロットタワーの4階で。会場のスタッフの人たちがかなり若い感じで大学生ぐらいに見える人が多かった。このご時世だし、飲食店とかバイトも少ないだろうから、バイトとしてやってるのかなとか思いながらしっかりとした動線ですぐに注射は終わった。注射のあと15分は椅子に座って待たないといけないので、持っていっていた堀江敏幸著『オールドレンズの神のもとで』を少し読み進める。
一旦家に寄ってから着替えてバッグをバックパックに変えて渋谷まで歩く。そこから神保町駅まで行き、15時までブラブラして時間を潰す。
まん防期間中は事前予約しないと入れない「PASSAGE」に15時直前に入店。
お目当ての大塚英志さんの私家版批評集『昔、ここにいて今はもう、いない。』がラスト一冊だった。追加を宅配便で送ったと昨日夜に大塚さんがツイートされていたが、あぶないあぶないギリギリセーフ。ちょうど堀江敏幸著『オールドレンズの神のもとで』を読み始めたので仲俣さんの棚にあった堀江さんの小説と一緒に購入した。この店はノーキャッシュレス、現金では会計ができない。棚は個人が多いけど出版社もあったりして、これからいろんな人が参入したらよりカオスで個性的なお店になりそう。
最後のページで鉛筆でかかれていたナンバリングは9/50だった。
事前に予約して神保町に行って実際に店舗で手にとって買う。本はハードとソフトを兼ね備えている。だからこそ売り切れてたら?という気持ちにもなる。これが電子書籍なら、買いに行って帰るという時間であったり、売り切れてたらとドキドキも発生していなかった。体験も込みで書籍であり、本だと思う。
終わって三茶に帰ってからニコラでコーヒーを。明日3月11日にニコラの上の3階にオープンする本屋&ギャラリー&カフェ『twililight(トワイライライト)』にも顔を出してお店の中と屋上を見せてもらった。いよいよ明日オープンだ。
3月11日
2011年に刊行された古川日出男著『馬たちよ、それでも光は無垢で』(新潮社)、2021年に刊行された『ゼロエフ』(講談社)。2020年に古川さんが国道4号線と6号線と阿武隈川周辺を歩いて考えたこと、震災文学としての『平家物語』という思考など、読んだ人もまだの人もこの作品たちに触れてほしい。と3月11日を迎えたことで新たに思う。
古川日出男 × 管啓次郎 × 小島ケイタニーラブ × 柴田元幸「コロナ時代の銀河 -朗読劇『銀河鉄道の夜』-」
柴田元幸& デビッド・ボイドほか翻訳・監修
英語字幕版 & フランス語字幕版 完成
2022年3月11日 14時46分 無料配信 スタートします。
ニコラの上の3階に本日オープンした『twililight』(トワイライライト)に行ってきた。
熊谷さんが淹れたコーヒーを飲んで、古本コーナーにあったレイモンド・カーヴァー著『ささやかだけど、役にたつこと』を購入した。
大きな窓から入る光の明るさやあたたかさが室内を満たしている感じで、とても落ち着ける。屋上からは茶沢通りが見下ろせて、知っているはずの道が少し違って見えた。
お店は13時から20時(まん防期間中、終われば21時まで)まで開いていて、火曜日と第三水曜日が休みでそこはニコラと同じなので、2階と3階どちらも顔をだしてみてください。
朝起きるとワクチン接種三回目の副反応なのかかるいダルさと頭痛があったので、痛み止めを飲んでから仕事をリモートワークで開始した。休憩中にトワイライライトに行ってから痛み止めが切れ始めたのかちょっとずつ頭痛が復活してきた。やっぱり三回目接種後はわりと副反応が来るという話は聞いていたが、本当だったみたいだ。
19時からドミューンの現場に行って、ジャズドミュニスターズのライブを生で見るつもりだったが、夕方以降にダルさと頭痛が戻ってきたのと、あだち充論の原稿締め切りがあるので諦めて家で試聴した。うーむ、副反応と締め切りめ。
3月12日
昨日トワイライライトで購入したレイモンド・カーヴァー著『ささやかだけれど、役にたつこと』。
メフィスト賞に応募する時には必須項目に「人生で最も影響を受けた小説3作」というのがあって、それを自分が書くとすると、レイモンド・カーヴァー『愛について語るときに我々の語ること』、大塚英志『摩駝羅 天使篇』、古川日出男『サマーバケーションEP』になる。
『サマーバケーションEP』は聖地巡礼のように物語と同じように井の頭公園の神田川の源流から川沿いを歩いて晴海埠頭(晴海客船ターミナル)まで行き東京湾に出るということ実際に十回行っている。最初の一回目で書かれたフィクションと自分の現実というノンフィクションが混ざり合う感覚があったし、実際に歩いてみると書かれたことよりも書かれていないことがなんなのかがわかるのもおもしろい経験だった。『ゼロエフ』では国道4号線と国道6号線はNHKの撮影クルーがいて、僕と田中くんは国道6号線を古川さんと一緒に歩いた。そして、晩秋の阿武隈川周辺に関しては古川さんと僕のふたりで川沿いを取材として歩いた。それは『サマーバケーションEP』を繰り返していた僕へのある種のサプライズでもあった。古川日出男作品で物語として好きな小説はほかにもあるけど、人生に影響を与えたとなるとこの作品になる。
『摩駝羅 天使篇』は人生でいちばん繰り返して読んでいる作品であり、電撃文庫から刊行されているにも関わらずラノベ的では全然なかった。正直やっていることが「天皇小説」なのだから、ラノベのレーベルから出ていることが不自然だった。ある時期の大塚さんは自分が原作をやっている漫画やこの小説に「天皇」を出していた。しかし、「天皇」が出てくると掲載されていた漫画誌は休刊し、この小説も3巻以降は出ていない。
インタビューでこの小説について伺った際に、ほんとうは『タイガーマスク』のメディアミックス的なことを梶原一騎の弟の真樹日佐夫あたりから持ち込まれて始まったものだったと言われた。それ故に最初の一巻では虎のマスクのリアルファイトの選手が出てきており、当時大塚さんがハマっていたUWF的な戦いが繰り広げられていた。しかし、『摩駝羅』シリーズというファンタジーに向かっていくと正直書けなくなってしまった。それは「摩駝羅」で組んでいた田島昭宇さんの絵がどんどんうまくなってリアルさが増していくと剣や魔法の世界を描くことに異和感を持ったことと同じものだったのだろうと言われていた。つまり漫画家と原作者では漫画家の方が先に自分の技量や世界観との差異を感じ、原作者も自分自身が実作者になったときにそのことに気づいたという話だった。だからこそ、多くの「摩駝羅」ファンがいまだに大塚さんに『摩駝羅 天使篇』のリブートや続編を求めているけど、単純に書けないのだという話だった。
僕は古川日出男作品について「孤児と天皇の貴種流離譚」という説を用いて論じることができると思っているのだが、自分が書く作品で「天皇」に関するものが出てくるのは古川さんの影響もあるが、最初のところは大塚さんの作品によるものだと思う。その意味で影響はモロに受けているし、自分が書いたものを読み返すと無意識に『摩駝羅 天使篇』的なモチーフを使っていてビックリすることがある。
『愛について語るときに我々の語ること』は映画の専門学校時代にシナリオの先生から提出したプロットにダメ出しされたあとに読んでみろと勧められたのが『愛について語るときに我々の語ること』に収録されている『足もとに流れる深い川』だった。言われてからすぐに購入して読んで驚いた。それまで読んだことがない短編作品で終わり方もこんな作品があるんだと知った。日本ではレイモンド・カーヴァーの作品は村上春樹さんが訳しているが、僕は小説家の村上春樹に出会う前にレイモンド・カーヴァーの翻訳者として村上春樹に出会っている。そして、影響を受けたことになる。『愛について語るときに我々の語ること』を読まなければ、その後も海外文学を読んだり興味を持つことはなかったのは間違いない。翻訳した村上さんも『足もとに流れる深い川』が最初に出会ったカーヴァーの作品であり、読んで胸が震えるほどびっくりしたと語っている。カーヴァーもチャールズ・ブコウスキーにも惹かれるのは自分が最近は言わなくなっているがホワイトカラーではなくブルーカラーに近い学歴や人生であり、彼らに共感できることが多いからだとも思う。それもまた別の話だけど。
なんなんだろうな、このシングルの時のジャケットの四人の並びの絶妙さ、でもくるりでしかないっていう距離感というか、とても不思議な四人。
3月13日
2月上旬に『THE BATMAN』試写を観に行った。その時に情報公開(アメリカでのプレミア公開以降)までは内容はもちろんのこと試写を見たこともSNSに書いたり、言わないという誓約書にサインして観た。
本編とはほぼ関係ない最後の部分で映画には出演と言われていたけど、どこにも出ていないだろうバリー・コーガンらしき人の声が聞こえるシーンがあった。マット・リーヴス監督は続編に関しては否定はしてないが、今のところ予定はないみたいなことを言っているのだけど、どう考えてもそのバリー・コーガンらしき声の主はジョーカーでしかなく、この記事だとバリー・コーガン演じるジョーカーが出るシーンあったけどカットしていたらしい。そう考えるとカットしたのに最後の最後で姿は出さずに声だけ出演になったバリー・コーガンがかわいそうだし、続編作る満々じゃんとは思ってしまう。
ノワールものが好きな人は今作の『THE BATMAN』好きだと思う。ポップで明るいヒーローものが好きな人にはあまり受けないと思う。
〈著者より——私(古川)はここで読者の容赦を乞わねばならない。この『曼陀羅華X』の連載はすでに十回を数えて、今回で十一回めとなる。が、『曼陀羅華X 2004』および、その前身である『曼陀羅華X 1994—2003』内の二つのパート、「小文字のx」と「Y/y」を私はなかったことにする。私はいま、とんでもない宣言をしているのだとは自覚している。それでも物語の真の要請には服したい。私は『曼陀羅華X』から麻原彰晃を消す。これはその名前を消すのである。
私が「そうしてしまうこと」の真意の判断、また、当然ながら是非の判断は、読者に委ねる〉
15日に発売される単行本『曼陀羅華X』が「新潮」で連載されている時、毎号読んでいた。これは「野性時代」で連載されていた『黒いアジアたち』が東日本大震災が起きたこともあり、最終的に単行本にもならなかったことが大きかった。
好きな作家さんの作品は連載中に読んでおかないといけない、単行本にならない可能性がある。いや、連載を並走していなかったせいで形にならなかったのではないか、とすら勘違い的に感じたことで、次作『女たち三百人の裏切りの書』以降からは連載で追いかけはじめた。
上記の引用(2020年12月7日に発売された「新潮」誌(2021年新年号)の、掲載原稿の冒頭部分)で古川さんが「なかったことにする」と言われて単行本『曼陀羅華X』には入らない「小文字のx」と「Y/y」の2パートは、個人的には東京湾岸における物語として『LOVE』『MUSIC』『ゴッドスター』『ドッグマザー』に連なる物語だと思って、連載を読んでいた。
「なかったことにする」と言われているので、掲載誌「新潮」でしか読めないことになってしまっているのだが、この2パートを再生させて違うアナザー『曼陀羅華X』になったりしないかなと思ったりもする。
よみうりホールで開催される向井秀徳アコースティック&エレクトリックのライブを観るために家を出る。
散歩がてら有楽町まで歩く、気温が高くなってきたのと花粉が、花粉がすごいのだけが大変だった。
渋谷から青山墓地を抜けて、赤坂へ。首相官邸前と国会議事堂を横目に日比谷公園を横切り有楽町ビッグカメラ7階へ。
ユーチューブでもアップされている佐野元春先輩の『約束の橋』でアンコールの最後を締めたが、『自問自答』の中では1945年8月6日に広島を焼き尽くしたあの超越的な光の炸裂による破壊から現在のウクライナの若い兵士の最後に口から出た言葉「お母さん」という事柄を入れ込んでいて、This is 向井秀徳がネクストフェイズに入ったように感じた。
『ウォーターフロント』も久しぶりに聴いたが前とは少し違うバージョンになっていた。馴染みある曲もアコースティック&エレクトリックのライブでは進化し続けている。
向井秀徳アコースティック & エレクトリック - 約束の橋
3月14日
『曼陀羅華X』の発売日は明日だけど、家から散歩がてら歩いて行けるジュンク堂書店渋谷店にお昼過ぎに行くともう入荷されていた。発売日が変更になったのだが、前の発売日に合わせて「幻視する作家 古川日出男」特設コーナーができていたので、そこに『曼陀羅華X』が収まったことで完成したぜ、という気持ちになった。
なにはともあれ、古川さん『曼陀羅華X』刊行&発売おめでとうございます!
連載で追いかけて読んできた作品だけど、やはり一冊としてまとまったものを読めるのはうれしい。『曼陀羅華X』ももちろんだけど、『ミライミライ』『ゼロエフ』など過去作もこの機会に読まれてほしい。
古川日出男著『曼陀羅華X』を読み始めようとカバーを外したら、作中に出てくる二つの小説『666FM』と『らっぱの人』のタイトルが現れた。
渋谷に歩いていく途中にスマホで「太宰治賞」のサイトを見たら二次選考通過作品がアップされていたが、そこには自分の名前と作品はなかった。2年連続で一次通過、うーむ、二次選考の壁が厚い。送った作品はあるサーガのひとつのなので短くして一つの章として組み込もうかと思う。いいことと悪いこと両方ある春になったみたいな暑い日。
3月15日
アピチャッポン・ウィーラセタクン監督『MEMORIA メモリア』をヒューマントラスト渋谷にて鑑賞。
「ブンミおじさんの森」などで知られるタイの名匠アピチャッポン・ウィーラセタクンが「サスペリア」のティルダ・スウィントンを主演に迎え、南米コロンビアを舞台に撮りあげ、2021年・第74回カンヌ国際映画祭で審査員賞を受賞したドラマ。とある明け方、ジェシカは大きな爆発音で目を覚ます。それ以来、彼女は自分にしか聞こえない爆発音に悩まされるように。姉が暮らす街ボゴタに滞在するジェシカは、建設中のトンネルから発見された人骨を研究する考古学者アグネスと親しくなり、彼女に会うため発掘現場近くの町を訪れる。そこでジェシカは魚の鱗取り職人エルナンと出会い、川のほとりで思い出を語り合う。そして1日の終わりに、ジェシカは目の醒めるような感覚に襲われる。共演に「バルバラ セーヌの黒いバラ」のジャンヌ・バリバール。(映画.comより)
主人公のジェシカに聞こえる不思議な爆発音のような音をめぐる冒険ともいえる今作は、音に関することからレコーディングスタジオに勤務するサウンドエンジニアに会いに行ったりなど音の原因を探ろうとしていく。そして、魚の鱗取りをしているエルナンと出会い彼と話をし始めるとそれまで謎だった爆音の正体がわかるという展開になっている。
爆発音の正体はそれまでの展開からは少し意外な気もしたが、考古学者とのやりとりなどの箇所もあるので、絶対にそれはないだろというわけでもなく、むしろ最初はびっくりもしたがしっくりもきた。だけど、ジム・ジャームッシュ監督『デッド・ドント・ダイ』にもティルダ・スウィントンは出演しているのだけど、その際に彼女がゾンビ関係なく、あるものと遭遇してそのまま消えたシーンがあり、今回の原因元がそれと限りなく近いため、偶然なのかアピチャッポン・ウィーラセタクン監督が『デッド・ドント・ダイ』を観ていて、あえて彼女をキャスティングしたのではないかと思えてしまった。
歩いて恵比寿にあるLIQUIDROOM で「D.A.N. presents “Timeless #6” 」のライブを観る。サード・アルバムがよすぎるD.A.N. とゲストはドラマ『大豆田とわ子と三人の元夫』のエンディング曲を手掛けたSTUTSのツーマンだったが、客層が若くておしゃれな人が多かった。
フロアの床には正方形でひとりぶんのエリアがテープで区切られていた。客数はマックス入れていないとしてもそれでもソールドアウトでかなり人がいる、圧迫感のような感じもした。コロナで客数を制限するライブが当たり前になっているから、区切っていても左右が空いていない感じだとかなり人が多いという印象を受けた。
昨日ライブで観たSTUTSはなんというか弟っぽいというか、演奏終わってMCで間違えてこのボタン押しちゃって、すみませんみたいなことを一緒にライブをやっていた鍵盤やラッパの人に言っていたりして、でも、演奏とかはガンガン攻めていくという雰囲気がその前に大河ドラマ『鎌倉殿の13人』を見ているせいか菅田将暉演じる源義経みたいだなと思った。ようするに天才肌だけどお茶目で底知れない。そのせいでメインのD.A.Nがお兄さんみたいな、源頼朝みたいにすげえちゃんとしてる(弟に比べちゃうから)なって思っちゃった。『大豆田とわ子と三人の元夫』のエンディング曲「Presence I」もはじめて人前でやったって言ってたけど、ライブバージョンもよかった。
LIVE FILE : STUTS “Contrast” Release Live / Digest
3月16日
昨日ライブ終わったあとに恵比寿の親友と飲んでから歩いて帰ったら3時過ぎていたので起きてからも多少の二日酔いがありつつも、9時からは仕事を開始。作業が溜まっていなかったので助かった。
休憩中に駅前まで歩いて発売になった千葉雅也著『現代思想入門』と『WIRED』最新号を購入する。どちらも読めるのは明日の休みだけど、『WIRED』は特にたのしみだし、いいデザインだ。雑誌でたまに買うのってブルータスとか特集によるけど、あとは『WIRED』ぐらいな気がする。
デジタル資産を専門とする米国の法学者ジョシュア・フェアフィールドは著書『OWNED』で、スマホを所有する現代人は自らの土地をもたないデジタル小作農と同じであり、もはや所有「されている」存在だと書いている。デジタル資産の4つの権利 ──ハックする権利、売る権利、そこにCodeを走らせる権利、Codeを禁止する権利──を取り戻すことは、「所有」することと不可分だった自らのアイデンティティやプライヴァシーを取り戻す営為なのだ。
っていう部分を読むと森博嗣著『女王の百年密室』のことを思い浮かべるよね。
3月17日
藤井道人監督『余命10年』をTOHOシネマズ渋谷にて鑑賞。
原作は読んだことないけど、うまくギリギリのところで感動ポルノにならずに作られていた。
約二時間観ているといちばん変化するのは主人公の茉莉(小松菜奈)ではなく、彼女の恋人になる和人(坂口健太郎)であり、序盤で自分の部屋から飛び降りた男の再生の話でもある。その意味でもくさっているような人生を諦めていた男がどんどんいい表情になっていく、その顔の変化がしっかり作られていた。
その和人にとって師匠的なポジションをリリー・フランキーさんが演じている。日本映画界はどんだけリリー・フランキー頼りなんだよとは思うのだけど、しっくりくるのだから仕方ない。和人を光の方へ導くのが茉莉であるものの、人生における師匠のような存在に出会えたことがやはり大きい。
会社にしろそうでない場所であっても、年上の同性でも異性でもいいのだけど自分にとっての道標になるような存在がいるといないとではまるで違う。さらりと和人とリリー・フランキー演じる焼き鳥屋の店主のやりとりは描かれているが、そこが人が成長するには大事な部分だろうなとも思った。
構造的には本来は和人が主人公でヒロインが茉莉。一度「象徴的に死んだ」和人の再生の物語だが、主人公とヒロインの位置が変わることで茉莉視点の話になっている点がうまいと思った。
治療方法がなく余命10年、大学三年生のときに受けた手術後の10年生存率はほぼ0%な茉莉は、生と死の境界線にいる生者であり死者でもある。だからこそ和人がどちらに引き込まれるか、とも言えるが茉莉の家族が人としてちゃんとしていることもあり、彼女が和人に与える影響は光の側の方に、つまり生者の側になる。
そして、人が大人になる時には大切なものや大切だった人がこちらではなくあちら側に移行していく、まるで供犠のように。スヌーピーにおける年下なのに、みんなと同じ背格好になるライナスが幼さの象徴として手放せないライナスの毛布のように、これは和人の成長譚でもあるから、彼の成熟と共に茉莉はやはりこの世界から損なわれてしまう。それを茉莉の側から書いたことで感動ポルノにならずに済んでいたようにも感じられた。
『リリイ・シュシュのすべて』における主人公の蓮見の成熟のための身代わりになる星野のように、この『余命10年』は星野の側から見た世界とも言えなくもない。この構造は蓮見と星野が入れ替わっても物語として強い。物語の王道パターンなので広く届けるエンターテイメントに向いている。
映画観た帰りに本日発売になった大塚英志著『大東亜共栄圏のクールジャパン 「協働」する文化工作』を購入。ここで書かれている田河水泡の漫画教室と『のらくろ』を読んだ若い世代が戦地に行った部分が読みたくて。
3月18日
PLANETS刊行『モノノメ』2号が届いたので『ドライブ・マイ・カー』鼎談から読む。かつての村上春樹作品における鼠や五反田君は主人公の分身であり、負の可能性だった。『女のいない男たち』で久しぶりに出てくる主人公が友達になったり関わる男性たちは、鼠や五反田君とは違う完全な他者だが、彼らは途中でいなくなったり、自殺してしまう。その話を読んでいたら、友達がいないまま生きてきた老人の問題のようにも思えなくないのだが、『村上RADIO』っていなくなった鼠や五反田君に語りかけているようなものなのかな、と鼎談と関係ないことを思った。
ティム・オブライエン著/村上春樹訳『本当の戦争の話をしよう』は改めて今だからこそ読まれるべき作品なのだろう。
宝田明著『銀幕に愛をこめて ぼくはゴジラの同期生』
「週刊ポスト」の映画コーナーでご一緒していたのむみちさんが構成を手がけられていて、ご恵投いただいたもの。改めて読み返してみようと思う。
ニコラでガトーショコラとアルヴァーブレンドを。
雨が降って寒かったから温かいコーヒーはほんとうに温まるし美味しく感じた。
寝る前に福岡にいる水道橋博士さんの元弟子の山本くんと電話をする。4月から東京に帰ってくるのでその話、オフィスと住む場所がこの間歩いた場所だった。いろんなことがうまくいくといいし、これからもいろんなことを話していくと思う。福岡に帰った頃よりも声の感じがよく、自信がついたのがわかる。
3月19日
1945年8月6日午前8時15分、あの光の眩しさや
1945年8月9日午前11時2分、あの雲の赤と黒の色合いや
どっか遠い知らない国の 街の空に鳴り響く戦闘機の爆撃音や
焼け焦げた赤ん坊を抱きしめた時の体温や
故郷から遠く離れた国に無理矢理連れてこられた若い兵士が
ライフルで右目を撃ち抜かれ 死ぬ間際に放った「お母さん」という叫び声や
そしてまた生まれ死んでいく
繰り返される諸行無常や
13 日の日曜日に向井秀徳アコースティック&エレクトリックをよみうりホールで観た。
その日の映像がアップされていた。理由はわかる。この『自問自答』に向井さんが普段は歌わないことを、上記の歌詞を入れて歌ったから。
明らかに前とは違うフェーズに入っていたThis is 向井秀徳を見て鳥肌が立った。
3月20日
ブックオフで見つけた中上健次著『鳳仙花』文庫版。
『鳳仙花』が収録されている全集は持っていないので、読むのも初めて。中上健次作品の新潮文庫版は全部絶版か権利問題が変わっているのでもう出ていないのだと思うのだけど、全集以外で読めるようになるといい。今年は没後30年だし。
今日明日で『曼陀羅華X』を読み終わるので、『鳳仙花』自体は連休最終日に読めるといいのだけど。
3月21日
古川日出男著『曼陀羅華X』読了。連載時にずっと読んでいたものが単行本にまとまったものを読んだわけだが、その感触はかなり異なる。
単行本として読むとかなりソリッドな印象を受けるし、よりエッジさが増している。硬くて鋭いというのはナイフ的なものをイメージするが、それは作中の内容とも関係しているのかもしれない。
単行本になる際には掲載時には書かれていたふたつのパート(「小文字のx」と「Y/y」)が削られている。それは連載の途中である2020年12月7日発売号の『新潮』に掲載された「11回」の時に著者の古川さんが「私はなかったことにする」と宣言していたので当然といえば当然である。
「小文字のx」には本編に出てくる老作家とはちがうもうひとりの小説家(おれ)が出てくる。彼は夢遊病患者で埋立地にある施設にいる。
「Y/y」の主人公のららは本編の老作家のガールフレンドの異父妹の看護師であり、「おれ」がいる施設で働いている。このふたつのパートは東京湾岸が見ていた夢のようにも思えなくもなかった。
また、ある種の予見としてこれらのパートにはコロナパンデミックが世界中で大流行し、日本でも売れに売れたカミュ『ペスト』について語られる部分があり、現実と呼応してしまっていた。単行本でもフォークナー『八月の光』が重要な作品として登場しているが、なくなったパートではThe Jesus & Mary Chainの曲が出てきていた。そして、猫も。だが、それらは単行本では描かれていないので、この小説は犬小説の要素が大きくなっていて、猫小説の要素はなくなっている。
「小文字のx」における教団にデビュー作を盗まれたという「おれ」が語る経歴はほぼ著者の古川さんと被る、というかたぶん本人に限りなく近い。それはデビューに至るまでのことが今まで聞いていたこと、読んでいたことと大部分重なっていたからだ。
新興の出版社からデビュー作を出すまでの流れであったり、それまでどんな仕事(ライター)をしていたか、そしてデビュー日までが「おれ」と古川さんでは同じだと言える。だから、あまりにも自分のことすぎたから削るしかなくなったという可能性も浮かぶ。『ゼロエフ』はノンフィクションのルポルタージュだったから、ご自身と家族のことは書かないといけなかったから、そういう反動はあったのかなかったのか。
『曼陀羅華X』となる作品の連載中には『ゼロエフ』の取材と執筆が重なっている。前述した「私はなかったことにする」という宣言は晩秋の阿武隈川に行く前に書かれていた。帰ってきて連載を読んでかなりビックリした。
そもそも『ゼロエフ』の夏の福島の取材に行く前から『曼陀羅華X』に関してはかなり難産というか、大きな決断をしないといけないとは聞いていた。たぶん、『ゼロエフ』がなければ『曼陀羅華X』は今回の単行本のような形にはならなかったと思う。
『曼陀羅華X』では老作家が書いた黙示録と預言書から生まれた人物たちが現実に姿を現す。表紙カバーの「X」の後ろにいる「ペスト医師」のような人物(DJX)もその一人だ。『ゼロエフ』で登場人物として作中に登場している僕自身はそれもあってか、DJXにシンパシーを覚える。不思議と。
『ゼロエフ』と『曼陀羅華X』は東日本大震災とオウム真理教によるテロという戦後日本における大きな転換期とそのあとを描いている部分もあるが、簡単に風化させていくから現実がこうなってしまうのだという強い意志も感じるられる。そして、現実をデザインしろ。という小説家がどこまでいけるかのかという気持ちが伝わってくる作品だが、ふたつでひとつみたいな部分があるようにも感じる。
読み終わってから渋谷方面に歩いていき、そのまま青山に向かう。「本の場所」での古川日出男さんの『曼陀羅華X』朗読イベントに行った。いつもの「本の場所」でのイベントとは違うようで、メールでいただいた場所は行ったことはないけど、何度もその前を通っている建物の10階だった。まん防期間中ということもあって、お客さんは全員で20人ぐらいだったろうか。
2年ぶりぐらいだと思うが古川さんの朗読が生で聞けてよかった。やっぱり朗読自体がカッコよくて笑っちゃうし、逆もしかりだった。警察に関する朗読の時にパトカーのサイレンが聞こえたり、窓の外が次第に夜に落ちていき、周りの建物の灯りが浮かび上がっていった。それは意図的でないし、演出ではないのに完璧な風に見えた。やはり古川朗読は圧倒的だしすごかった。その後、少しだけ近くのお店で軽い打ち上げに参加させてもらった。やっぱりイベント終わりにお酒を飲みながら少し緊張が解けた空気の中で話ができるのはうれしい。
イベント終わりに古川さんご夫妻から翌日が誕生日ということでお祝いとしてトラベラーズノートブックというものをいただいた。万年筆は持ってないけど、そういうもので、なんか青いインクでこのノートには思いとか気持ちを書き記したいと思えるものだった。気にかけていただいてありがたい。
39歳の誕生日の初日は大盛堂書店での『ゼロエフ』発売に関する古川さんとのトークイベントの収録だった。そして、39歳最後の日も古川さんのイベントだったから、39歳という一年の最初と最後が古川さんのイベントだったのは感慨深いし、なにか不思議な気持ちだ。このことはSNSには書かないし、このブログを読んだ人にしかわからないけど、それでいい。
3月22日
誕生日はだいたい映画を観ることが多く、今回はもともと休みだったので朝イチの回で観ようと思って二日前にチケットを取っていた。シネクイントにて今泉力哉監督『猫は逃げた』を鑑賞。雨というか寒さがすごい&先日の地震で火力発電所が止まっていて節電を呼びかけられるという春分の日の翌日とは思えない状況だったし、平日ということもあってか僕を含めて3人ぐらいだった。まあ、これは仕方ないとは思う。
「愛がなんだ」「街の上で」の今泉力哉が監督、「性の劇薬」「アルプススタンドのはしの方」の城定秀夫が脚本を務め、飼い猫をどちらが引き取るかで揉める離婚直前の夫婦とそれぞれの恋人、不器用な4人の男女を描いたラブコメディ。今泉と城定が互いに脚本を提供しあってR15+指定のラブストーリー映画を製作するコラボレーション企画「L/R15」の1本。漫画家・町田亜子と週刊誌記者の広重の夫婦。広重は同僚の真実子と浮気中で、亜子も編集者の松山と体の関係を持っており、夫婦関係は冷え切っていた。離婚間近の2人は飼い猫のカンタをどちらが引き取るかで揉めていた。そんな矢先、カンタが家からいなくなってしまう。亜子役を「追い風」の山本奈衣瑠、広重役を「孤狼の血 LEVEL2」の毎熊克哉、真実子役を「階段の先には踊り場がある」の手島実優、松山役を「ミュジコフィリア」の井之脇海が演じるほか、お笑いコンビ「オズワルド」の伊藤俊介、中村久美らが脇を固める。(映画.comより)
『愛なのに』では監督を務めていた城定監督がこちらでは脚本で、脚本を書いていた今泉監督がこちらでは監督をしてスイッチしていながら、作品同士に接点があるというコラボレーション企画の一作。
猫のカンタをめぐる話であり、離婚寸前の夫婦とその夫婦それぞれの浮気相手の四人がメインで展開していく。最終的にはカンタをめぐって四人が一堂に会するところでのやりとりがシチュエーションコントのようにも感じられて、それぞれの思いや気持ち、性格が一気に交差することで観客としては笑えてくるのだが、その場にはいたくないと思える感じがさすが今泉監督だなと思った。セリフや恋愛模様にある人たちの喜怒哀楽が出ていて、とても人間らしい。
『愛なのに』でのセックスシーンでのエロさと比べると『猫は逃げた』はライトな感じになっているので、どうしても比べてしまうのでこちらはもっとライトか見せなくてもよかったのかなと思ったり、それは本当に人の好き好きだとは思う。
「小説現代」最新号が発売になっていたので二次選考通過していた第二回羊文学賞の結果を見る。本が出る一ヶ月前とかに連絡がない時点で最終とかに残っていないのはわかっていたのだけど、二次選考通過作品には選評が掲載とアナウンスがあったのでどんな感じかなと思って読んでみた。
ペンネームとして使っている「汐崎宿波(しおざきしゅくは)」はこのところ書いているサーガみたいないろいろと繋がっている作品群の中心人物みたいな人物の名前。
「純文学的なお話でした。」と言われたらそうかもなあって思うし、「小説現代」とコラボしている以上はエンタメに向いてないといけないもんなとは思う。とりあえず、「汐崎宿波」に関係するサーガのひとつが今書いているものなので、今月末の〆切に間に合うようにあと一週間ほどやっていく。
映画館を出たら雨だったものがみぞれになっていて、家に向かって帰っていくとほぼ雪になっていた。
それで三島由紀夫著『春の雪』という作品タイトルを思い浮かべた。帰る前にロフトによって、昨日誕生日プレゼントでいただいたノート用のカートリッジ式の万年筆を購入して帰ってから、カートリッジを入れて青いインクで青文字で「水、雨、雪」と書いてからノートに書くのをスタートした。
3月23日
トワイライライトでコーヒーを飲みながら、前に来た時に気になった梅原猛&中上健次著『君は弥生人か縄文人か』の古本を買って読む。熊野って中上作品で知っているけど、知らないことだらけで面白い。
コーヒーを飲んでからニコラに移動してコーヒーとイチゴとマスカルポーネのタルトを頼んだら、毎年恒例でありがたいことにお祝いプレートにして出してもらった。イチゴだけではなく文旦もモリモリに乗っていた。
まずは40歳、この10年はできるだけ健康でいれるようにしないといけないなと思う。心か体どちらかが弱るとどうしても片方ももっていかれる。基本的には精神面では強い方なので体をしっかりしとけば、ほどよい希望と絶望の間で生きていけると思おうとしている。
【重大発表】「デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション」アニメ化決定です!!!! pic.twitter.com/th6dGq6w95
— 浅野いにお/Inio Asano (@asano_inio) 2022年3月22日
23日に重大発表があると行っていたけどやはり『デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション』アニメ化のお知らせだった。コミックス最終巻は30日発売だし、放送がいつかわからないけど、浅野いにお作品では初のアニメ化だし、アニメ次第では浅野さんの作品がもっと広く読まれていくことになると思うのでたのしみ。
コロナパンデミックになって2回ぐらい延期になっていたサンダーキャットの来日ライブのお知らせメールがようやくきた。
東京は恵比寿ガーデンホールだけど、案内メールで「コロナ禍でのイベント開催に係る規制、キャパシティ制限を踏まえて本公演の開催を実現するため、各日2回公演制 (1st Show / 2nd Show) への変更しなければならないことをご了承ください」とあって、希望時間帯を送る感じになっていた。その分ライブは短くなるだろうけど、いい判断だと思う。
今月はこの曲でおわかれです。
ASIAN KUNG-FU GENERATION 『You To You (feat. ROTH BART BARON)』Music Video
踊ってばかりの国『ニーチェ』LIVE@新木場USEN STUDIO COAST(2022.1.05)