Spiral Fiction Note’s diary

物書き&Webサイト編集スタッフ。

飴屋法水×古川日出男 「震災と福島、そして<ことば>」


飴屋法水さん作の戯曲「ブルーシート」が、2014年、第58回岸田國士戯曲賞を受賞しました。
この作品は、飴屋さんが福島県いわき総合高校合宿所に住み込み、東日本大震災に見舞われた高校生一人一人と丁寧に向き合う中で生まれたもの。会話の断片やモノローグを重ねることで過去の記憶と現実の日々とを鮮やかに掬い取り、“震災後の日常”を描いた新たな表現として注目を集めました。


4月19日には、ドキュメンタリー児童劇「教室」を併録した『ブルーシート』が白水社から刊行されたことで、上演を見逃した方の元にも広く届けられています。(B&Bサイトより)


 台風が去った後に降り出した雨の先に虹が見えて、僕は見れていないのだけど、その時どうしていたかというと仕事先の赤坂から自転車に乗って青山通りを渋谷方面に走っていた。雨を体で受けてもう全身は当然ながらびしょびしょでジーパンも雨のせいでビチョビチョでなんか居心地が悪いのに自転車を漕ぐからどこか引っ張っているようなふとともの感じとか、でも雨が降れば降るほどに濡れたらもうそこも意識しなくてもいいんだけどそこまでは降らない、だからこれはゲリラ豪雨にはなれなくてならなくてだから通り雨って感じで強くなったと思ったら弱くなってエイベックスの前とか通りすぎて表参道の交差点のとこで一気に原宿方面に下っていく、で下るときはいつもブレーキに指をかけて、だって急にタクシーが停まったりドアが開いたり人が飛び出てきたりするから。そういう危機意識みたいな恐怖があり坂道を下ると今度はラフォーレが見えるとこで左に曲がって宮下公園方面に進むと雨は微少で降るなら降ってほしいのだけどとまた交差点を曲がるとタワレコが見えて信号を一気に駆け上るとパルコんとこでそこの細い道を進んでシネマライズ前に出て下って角海老んとこからドンキホーテのとこでてH&Mの前を通ってラブホとライブハウスで汗や男女の交わる液体がシーツを汚す区画の坂道をガアアって上って道玄坂出たら一気に246を下る、でも雨だから雨はまだやんでいなくて目の前には傘の人たちが視界を削るから、で、削ると同時に隙間を潜るんだけど傘の人たちは自転車の気配には中々気づかないから、だからギリギリで抜けて信号待ちでいつものタイミングで黄色になって赤になるとき、横の信号がね、僕が行こうとする方向ではないない側が赤で、目の前が青になる瞬間にかけだすととりあえず邪魔がいないから一気に歩行者の、傘が雨に打たれている隣を走り去っていく、雫は飛んでいるかもしれない、ブレーキは当然かけて坂道を下る、で下る。雨はほとんど小雨か傘がいらないぐらいなのだけど傘を差していない自転車の僕にはスピードがあるから弱い雨もちょっとだけ威力を増して僕にあたる、あるんだけど気にならないよぐらいの勢いでブレーキに指をかけたままで進む、家へ家へ、家まではすぐで。だけども家について『新潮』に連載している古川さんの『女たち三百人の裏切りの書』の第四回があと十ページぐらいあるからそれだけは読んでから下北に行こうと思っていたから読んでまた家を出る。当然自転車で、だから今日は赤坂さから下北まで乗っている、雨に降られている。雨は小振りだ、下北も傘で道が塞がる中を進む、ブレーキに指をかけていつでも停まれるように、歩行者に気をつけてその隙間を抜けて、だから虹は見ていないのだけど見れなかったんだけど虹は誰かが見ていて撮っていてツイッターとかにあがっていて、だけども僕は見てない景色なんだけどたくさんの人が見た虹が同じものなのか違うものなのかは僕にはわからなくて僕は今日虹を見ていなくて、虹は出ていない、いや出ていたはずなんだけど虹の先にあったのはなにかなんて問いに対しての答えはそもそもない。だって虹を見ていないから、ブレーキは軽く握っていた。たくさんの虹がスマフォの中でアップされていてそれを見た僕に虹が出ていた事はわかるんだけど、その虹の向こうに僕だったり君だったりがすでにいてその先で撮っている人の視線の向こう側に僕らはいたかもしれないし、見れなかった虹のふもとで虹を見ていた人はもう雨がやんでいてきっと傘も邪魔なんだけど捨てれなくて手に持ちながらスマフォで撮っていたはずで、傘はもう差さなくてもいいんだけど虹の向こう側はまだ雨が降っていたんだろうか、とか思いながらというのは嘘で、今書きながら思ったんだけどね。だからブレーキをゆるく握って下北に到着した。


 ノリで書いてみましたがB&Bでのイベントにはまったく関係ありません、すいません。



 飴屋法水さんと古川日出男さんのイベントをB&Bで。いやあ、飴屋さんの名前は知っていたんだけど舞台は観た事ないのでどういう感じなのかお二人の感じと言うか雰囲気がどうなのかまったくわからないぞという感じで来てみた。古川さんは今年の最初に蜷川幸雄演出での『冬眠する熊に添い寝してごらん』の戯曲を書かれているし演劇と古川さん今年はいろいろあるだろうなと、元々25歳までは演劇やられていた方だし。
 二人で『ブルーシート』REMIXと言えるものが店内で披露された。古川さんは前日ぐらいに全部朗読するみたいなことになったと言われて、まるまる『ブルーシート』をやっていた。
 古川さんの朗読に創作論だが福島のことや『聖家族』について書いている『小説のデーモンたち』の部分を飴屋さんが読んでそしてミキサーからの音、最終的には実際の舞台の映像が流され、重なる、並走する、しかしズレている、ただただ目の前で起きているもの。演劇だなと思う、映し出された舞台の映像でランニングマンをしている少年、重なる朗読、だが読まれているシーンと映し出される椅子取りゲームやランニングマンは少し時間差がありズレている、しかしそこで展開されているもの、台詞、並走する、時間が多層にある、目の前で広がる。
 言葉がリフレイン。演劇の身体性における繰り返しがランニングマンで映し出されている、そこに重なる古川さんの朗読がある。繰り返されることで持ちうる強度と限界性がズルいと思う、演劇だからこその表現であるのがよくわかる、生身だから目の前で展開されるから、圧倒的に強い。
 だから、眼前での二人は演劇をしていた。


 70分ぐらい二人で朗読しながらの『ブルーシート』REMIXが終わって対談を。飴屋さん対談苦手だから朗読したら帰りたい感じだったらしいけど始まる前にさすがにそれはお金払ってきてもらってるしダメだよねって思われたらしく古川さんが聞き手な感じで質問を受けながらの対談。
 創作についての話になると飴屋さんは自分がすべて決めれないし『ブルーシート』もプレハブの前と言うか運動場みたいな外でやることになったのも学校をずっと歩いて演劇のスタジオみたいなこともあるけどそこになったのは一週間前位だったと。
 古川さんは水槽の大きさの話からどのくらい水をいれるか金魚の種類や藻とかいろいろ育てて水槽の中を作り上げる、だけどそれは小説というひとりの作業だからできることだと。あとメガノベルを何冊も書かれているので書いているとこれは千枚はいかないが八百枚ぐらいだなとかわかる、妊娠していていつ頃が出産だみたいな感じでわかるそうだ。
 あとはいますぐできるものではなくそうではないものを作るというのが自分のクオリティの問題というか姿勢だとも言われていた。飴屋さんの話し方や考えている感じ、ふああっとしててつかみ所がないような感じが誰かに似ていると思ってたんだけど去年『ただようまなびや』で鼎談を見た吉増剛造さんだ。太極拳というか相手に触らずに飛ばしちゃうと言う感じかな、なんか仙人みたいな感じ、浮世離れというほどじゃないんだけど考え方とか受け止め方が一般の人とは違う、次元なのか思考そのものかわからないけど明らかに脳内のアプリケーションの組み方は僕らとは違うのだろう。




 7月11日、昨日は古川さんのお誕生日でした。おめでとうございます〜。ケーキのロウソクを消す前の古川さん。
 マルセル・マルソー大橋巨泉太田克史さんと同じ誕生日でしたが、今日飴屋さんも同じとわかったので今後はマルセル・マルソーに飴屋さんと同じ誕生日だと言おうと思いました。
 本当に超良企画でした。また、飴屋さん×古川さんやってほしいな。

ブルーシート

ブルーシート

小説のデーモンたち (SWITCH LIBRARY)

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