Spiral Fiction Note’s diary

物書き&Webサイト編集スタッフ。

『MISERY』

 昨日、一日から始まった大盛堂書店さんでの碇本学選書フェアで書いたフリペ用のコメントを小出しにしてそれについての事を書いたり、昔どう思っていたのかコピペしてみようと思います。1〜5は古川日出男さんの作品なので最後にしとこうかな、と。そんなわけで僕にとって二十代前半で小説面白いなと思わせてくれたのは伊坂幸太郎さんでした。伊坂作品からは二作選んでます。



06・伊坂幸太郎アヒルと鴨のコインロッカー
伊坂幸太郎作品でまず人に薦めるのはこの作品。村上春樹作品でパン屋を襲撃したように伊坂幸太郎は本屋を襲撃する。伊坂作品って実は復讐がモチーフになった作品が多いが文体と言い回しで実はかなりライトになっている。


07・伊坂幸太郎ゴールデンスランバー
シナリオを書いている頃にこの一冊を読んで小説でこんなことが書けるんだ、すげえって思って読み終わった日にあった岩井俊二さんとこのプレイワークスの飲み会をブッチしました、すいません。のちに映画化したけどやっぱり小説でこれが書かれた事の凄さと伊坂作品の第一期最後なのは納得な一冊。



 これがフェア用のコメントですが、昔の日記やブログでなんて書いてあったか思い出すついでに探してみます。
 まずは『アヒルと鴨のコインロッカー』で関連して書いてたものを。



『SARA双樹』 2006年08月08日


うとうとと
胎児のように丸まって
片手には読みかけの『アヒルと鴨のコインロッカー


知らない老婆とどこかを彷徨っていた
老婆が持ってるバッグがなにやらいわく付きらしい
なぜかそのバッグを届けることになっている
老婆は親切な雰囲気を出していたが


次第に疲れ始める老婆は悪態をつき始めた
飽きれるが仕方なく付き合ってる僕は
なんでこんなことになったのかと考えてみたが
理由などわかるはずもないのだけど


とあるアパートの階段で座って休んでいると
老婆がぽつりと言った
あとは頼みます


そういって階段に置いてあったバッグに五百円を投げて
硬貨と階段の金属音が重なって鳴り響く


とぼとぼと歩く老婆と取り残される僕
僕は自然と感情を吐き出す


ふざけんな、ババア!


目が覚めると目の前は我が家の白い壁
丸まって寝ていた僕
なんなんだこのユメ


寝ぼけ眼のままで実家に電話
家族は元気だった
じいちゃんが兄と勘違いして帰ってくるなら電車で帰れと
まだ先だよ、帰るのはと言うと
ばあちゃんが電話に出て隣にいるじいちゃんに詳しい事を告げる


慌ただしい家だ、親子電話だから、ばあちゃんが話してるのに
もう一台の電話も双方通話でるから
おかんまで声を出す
こっちは一人なのに向こうは2人同時話してきて
3人でやりとり


もう10日もすれば涼しくなるからとばあちゃんが言う
ほんと?
まあ、週に一度ぐらいは生きてる事を伝えるために電話
向こうが生きてるか確認するために電話


大事な場所だけどずっと居たいとは思わない
落ち着く場所だけどずっとそこにいても仕方ない
最後に残るのはその落ち着く場所だろうけど
僕だけの場所を創ることもそこから出た意味だろうし


場所っていうのは所詮は僕と他者の関係性のことをいうから


切っても切れない血の繋がりの関係は死ぬまで続く、
いや死んでも続くのか?


いとも簡単に切れてしまう仲間や友達の繋がりは、
びっくりするぐらいに簡単なことで
少しずつ重ね合わせた時間で
出来上がっていくけど、それもまた


繋がることを怠れば、さらさらと
手の平の砂のように、さらさらと


風が吹いたら、すうと流れて零れ落ちるものらしい


零れ落ちたらもう手の平に戻ることはないらしい


いつかまた唐突に風に吹かれて手の平にお邪魔することも
ないこともないらしいが、


つかの間の再開はまた風に乗って
サヨナラしては


想い出だけ残して、さらさらと
姿だけ忘れないで、さらさらと



 ここに出てきている祖父は今日、忌野清志郎さんとhideさんの命日と同じ日になくなったので命日を忘れようにもみんなが清志郎さんやhideさんの事を語りだすと祖父を思い出す。


デイ・ドリーム・ビリーバー 忌野清志郎


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アヒルと鴨のコインロッカー』 2007年06月27日


 朝寝たら二時間少しで目が覚めた。


 2度寝もする気が起きなかったから、どうしようかなって思って映画観に行こうと思った。
 伊坂幸太郎原作『アヒルと鴨のコインロッカー』を恵比寿ガーデンプレイスのガーデンシネマで。
 渋谷に行って前売り券買って行ったら、水曜日は男女共に1000円均一なんだって、前売りを1500円でわざわざ買ってしまったのに。


 内容はこんな感じ・・・。


 『誰かが来るのを待っていたんだ。ディランを歌う男だとは思わなかった』


 仙台に越してきたその日に、ボブ・ディランの「風に吹かれて」を口ずさみながら、片付けをしていた椎名(濱田岳)は、隣人の河崎(瑛太)に声をかけられた。
 

 『あの声は、神様の声だ』


 そう言いながら、河崎はおかしな計画を椎名に持ちかける。


 『一緒に本屋を襲わないか』


 同じアパートに住む引きこもりの留学生ドルジ(田村圭生)に、
 一冊の広辞苑を贈りたい、と言う。


 『彼には調べたいことが二つある。
            一つはアヒル、もう一つは鴨だ』


 そんな奇妙な話に乗る気などなかった椎名だが、翌日、河崎に言われるままに、モデルガンを片手に書店の裏口に立ってしまった。本屋襲撃は成功。しかし、


 『これ「広辞林」だ・・・「広辞苑」じゃない!』


 不思議と笑みを返すだけの河崎。実は、その計画には、河崎とドルジ、そしてドルジの恋人で河崎の元カノ琴美(関めぐみ)、三人の、愛しくて切ない物語が隠されていた・・・。



 原作も読んでますし、伊坂ファンとしては、この作品の映像化はどうかなって思ってました。
 この作品自体が文章によるトリックでなりたっているから、映像化にしたら、というかできるのかって思ってた。うまいことできてた。


 瑛太もいいし、キーパーソンの一人として出てくる松田龍平もすごくよかった。主人公の濱田岳もおどおどしてる感じが出ててよかった。


 物語自体は説明できないので、したらネタバレする種類の話ですが、タイトルの『アヒルと鴨のコインロッカー』がこの作品の全てを物語ってます。
 ボブ・ディランの『風に吹かれて』がとても重要な歌として出てきます。
 河崎にとってボブ・ディランは神です。神の声として出てきます。


 この映画のキャッチコピーは、


 『神さま、この話だけは見ないでほしい。』


 です。神さまはもちろん誰のことだかわかるでしょ。


 河崎にとっての神、そのことをキャッチコピーにしてるということでこの物語の目線は主人公・椎名からですが、過去の回想・河崎・ドルジ・琴美の関わりや出来事は河崎の視点から語られているということです。


 河崎・ドルジ・琴美の三人のシーンで泣いてしまいました。


 この作品は原作が好きでしたが、この映画もすごく好きです。
 いろんな人に観てもらいたいと思います。
 なんだか観終わった後に世界が色彩を増すような作品です。
 そういえば、隣に座ってた女の子が始まる前になんだっけ?あのペッタンコな感じの靴は。それを脱いで裸足を床に付けているのを見てなんだかかわいいなって思いました。


 僕も映画観る時はたまに靴脱いで観るので気持ちわかります。
 リラックスして観たいんだよね。


 恵比寿から渋谷に戻る電車で内容を思い出して泣きそうになりました。


 なんで、最近こんなに涙もろいのか、泣き虫なのかわかりませんがなんだか優しい気持ちになりました。
 それと同時に哀しくもなりました。優しいと哀しいはたぶんすごく似ている感情なんでしょう。


 今月は映画をかなり観ました。映画館か試写会だと、


 『大日本人』×2『東京小説』『図鑑に載ってない虫』『スリーミング・マスターピース』『舞妓haaan!!!』『アヒルと鴨のコインロッカー』と七回か、まあ多い方かな。


 来月からはそんなに観に行けなくなりそうだし。


 伊坂作品はこれから『重力ピエロ』『死神の精度』が映画化らしいんですが。
 『死神の精度』は主演が金城武小西真奈美だったかな。
 この作品は短篇集だけどかなりいい出来なので映像化して余分なエピソード入れると駄作になりそうだけどどうなるのかなと期待してます。


 『重力ピエロ』は伊坂作品代表作でもあるし、主人公の兄弟・泉と春(英語にするとスプリング)が誰がやるかが気になる。
 今日『アヒルと鴨〜』観て、瑛太松田龍平に弟・春をやってほしいなって思った。


 希望とすると、
 兄・泉/加瀬亮、弟・春/瑛太
 兄・泉/大森南朋、弟/松田龍平


 でも、客を幅広く集めれる若手でわりと大掛かりな公開する作品にするなら、妻夫木聡が主演かもなんて思う。


 となると、
 兄・泉/安藤政信、弟・春/妻夫木聡
 の映画『69』コンビとかありだと思うんだけど。


 さて、どういうキャスティングになるのやら。


 『アヒルと鴨のコインロッカー』お勧めです。


 帰りにiPodに入ってるボブ・ディランの『風に吹かれて』を聴きました。


 人と人は『出逢い』ます。


 『出逢う』ということは他者を自分の人生に少なからず巻き込むということです。
 巻き込むということは他者に何かを『残す』ということになります。いい意味でもわるい意味でも。


 『答えは風に吹かれている』とディランは歌いました。


 僕にとってディランは神ではないので、『答えは風に吹かれている』とは思っていません。
 父親の世代はそうだったとしても僕たちの世代には『答えは風に吹かれて』いないのです。 
 だけど、風が吹くと心地好く感じるのです。なんだか優しい気持ちと哀しい気持ちが入り交じります。
 『アヒルと鴨のコインロッカー』はなんだか優しい気持ちと哀しい気持ちが入り交じる作品です。



 伊坂幸太郎さんをきちんと読み出したのは2005とか6年辺りだと思うが2003年に『重力ピエロ』と『アヒルと鴨のコインロッカー』の二作が出た事が伊坂さんが一気にブレイクするきっかけになったはずで。その年を境に書店員さんの中でも伊坂推しがけっこう見られるようになった記憶がある。だから読む前からこの二作がすごく面白いみたいなことを聞いていた。
 伊坂さんが今みたいに人気作家になった分岐点はこの年だったはずだ。大事なのはこの二作が同年に出てどちらも評価が高かったことで彼を推す人たちからの熱が書店に来るお客さんに伝播して読んだら面白いと一気にブレイクしていったのを見ていた。


 伊坂さんのこの例が一番僕には理想的だと思う。同年に二作同レベルぐらいで実質その作家の方向性というよりはファンが新規開拓できるものを出せるということがキーじゃないかと。
 一冊でのインパクトは知れていて、出すなら過剰に数発連発して(同レベルかまったく違う方向性のもの)存在感を出していくということが作品の質も重要だけど生き延びていくためには必要じゃないだろうか。
 園さんの言っていた質より量じゃないけど(だけどその質はもちろん最低限以上であるのだけど)新人でデビューしてもたいして刷られないし売れないから生活していくという体力もだし、昔みたいに何年に一冊とかペースは大御所とかもう売れている作家や兼業作家ぐらいだろうから専業だと無理だろう。


 過剰さというワードがやっぱり小説にも大事だからたぶん書き続ける事とそのアウトプットの速度がかなり重要になってくるはずだし、実際にそうなんじゃないかな。僕の二十代後半の人生を変えてしまった園子温監督と古川日出男さんはディスコグラフィーを見ればわかるようにその作品数もハンパないのだ。その速度が、速度だけが持ちうる強さが届くべき場所に届くそんな凶器。


 『重力ピエロ』と『アヒルと鴨のコインロッカー』は伊坂幸太郎の名前を出版界に知らしめる作品になったわけだけどどちらも実は復讐劇でもあったりして、伊坂作品わりと復讐ものとか多く感じる。だけど読者を引き込んでいるから主人公が誰かに復讐しようと思っていて悪い事というよりは応援したいみたいな方にいくのはライトに書かれているのと台詞のやりとりや台詞の言い回しでかなりそのダークな部分が薄れているから読めるんじゃないかな。



『小説と文学の狭間でナイフは意味をなくせ』 2008年07月23日


 八王子の書店で女性店員が会社員の男(33)に刺されて亡くなったとニュースを帰ってからヤフーニュースで見る。
 書店に強盗が押し入る小説なら伊坂幸太郎アヒルと鴨のコインロッカー」がある。この作品は書店に主人公たちが強盗に入る理由がある、明確な思いが、過去の出来事が。


 実際の世界で起きたこの事件は刺した男は仕事がうまくいかず、両親に相談したものの相手にしてもらえずに、むしゃくしゃして人を殺そうと思って包丁を買ってそこの書店に入って、バイトの大学生の女性を刺して、女性客に軽傷を負わせた。バイトの大学生の女性は亡くなっている。


 なんでそういうことが起きるのか、怒りや虚無感はなくならないままにゼロ年代は過ぎてしまう?


 お前が苦しむことを他の事に、他の人にぶつけて解消してもお前の苦しみはなくならない、むしろ増える。
 逮捕され刑務所に入れば仕事のことに悩まなくてもいいだろう、しかしもし出れても今度はまた仕事のことで苦しむ、前科一犯の人殺しという闇は一生つきまとう。そして何も悪い事もしていない20代前半の女性の命を奪ったことは償えきれない。


 書店に押し入って人を殺すということ、図書館や書店は知の象徴だ。そこで事件を起こすようなやつは知の欠片もない、あるいはないことを無意識に感じて破壊するためにそこで凶行に至ったのか、だとしても救いようもない。


 本屋で二度ほどバイトをしたことがあるが、僕は本屋の空間が好きだ。そこを血まみれにしたやつは許せない。


 なんで仕事でうまくいかなくて両親に相手にしてもらえないという怒りが他者に向かうんだろう、自分を包丁で刺して自害すればその悩みは永遠に解消されるのに。
 

 ロストジェネレーションの世代の作品をぴあフィルムフェスティバルで観た審査員が彼らの世代の作品にはどこか怒りがある、社会や何か大きなものに対してといったというのを聞いた事はあるが、世代の問題ではなくて国に漂うこの生きづらさは大きな枠組みが壊れて信頼感が失われたことによるのかもしれない。


 怒りや不安が消える事はないけれど、他者に向かうようなことはなくなってほしい、他者を殺して社会的な自殺をする弱さを認めたくもない、死ぬなら自分で自分を殺せ、周りを巻き込むな、それだけは人間としての最後の誇りだろ。それすらもないやつが一生懸命にこの戦場のような毎日を生きてる人間を傷つけている。救いがなさ過ぎる。


 そんなやつに届く表現があったらよかったのにとだけは思う、そんなことに至らずにすむような文学や映画や音楽や様々な表現がなぜなかったのか、あるいはなぜ届いていないのか。


 本屋で人を刺す前に手に取った一冊の小説で君の人生が変わればよかったのに。


 『ゴールデンスランバー』は映画については書いてたけど小説読んだ後に書いてなかったっぽい。ただ、覚えているのは読み終わった日にプレイワークスの飲み会あったけど行かなかったことぐらい。

アヒルと鴨のコインロッカー (創元推理文庫)

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ゴールデンスランバー (新潮文庫)

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