Spiral Fiction Note’s diary

物書き&Webサイト編集スタッフ。

『フラッシュバックメモリーズ 3D』

 ばると、ばると、ばると〜、ばると、ナイン〜(ロート製薬のCMソングのノリで)っつうことで新年になってバルト9に初めて行ってきた。
 松江哲明監督『フラッシュバックメモリーズ3D』を観に。お昼の13時の回だけどほとんど埋まってたんじゃないかなあ。年齢層もわりとバラバラだったような気がする。
 上映前の予告では園子温監督『地獄でなぜ悪い』の予告というかキャストとかの名前が出て劇中歌でもあるあの歌が流れてた! 公開はいつだろうか。あの歌は編集の時に聴いて頭から離れなかったけど『園子温初期作品DVD-BOX』に入ってる東京ガガガの詩集の中に実はあったりするんだよねって編集見させてもらった後に気付いたのだけど。



キャスト:GOMA & The Jungle Rhythm Section他
ストーリー:ディジュリドゥアーティストや画家の肩書を持ち、国内外で精力的な活動を続けてきたGOMA。活動10周年を迎えるにあたり、記念として映像制作を行ってきた最中の2009年11月、首都高速で追突事故に遭ってしまう。事故後、記憶力に問題があることが発覚。高次脳機能障害が後遺し、軽度外傷性脳挫傷と診断される。GOMAは自分が演奏していたディジュリドゥが楽器であることも覚えていなかったが、リハビリに励み、復帰に向けて少しずつ動き出す。



チェック:『童貞。をプロデュース』などの松江哲明監督が、事故により高次脳機能障害を負ったアーティストに取材したドキュメンタリー。2009年に追突事故に遭ったディジュリドゥ奏者のGOMAが、ディジュリドゥが何なのか認識できないほどの症状から、少しずつ回復していく様子をGOMAと妻の日記を交えて描く。フラッシュバックをアニメーションで表現するなど型にはまらない表現方法をとりながら、松江監督らしくドキュメンタリーの対象に寄り添い、GOMAのスタジオライブの模様や家族と共に再生していく姿を感動的に映し出す。(シネマトゥデイより)



 今、映画館で観るべき作品だとか言われる作品は多々ある。単純にこの映画はそう言われてしまうと思う。だって3Dが活かされてとても効果的な映像をスクリーンで観ることができるからだ。一般の家庭の3Dシステムはあまりないわけだしやはり映画館での方が視覚的に楽しめるものであるのは間違いない。


 GOMAさんの過去の写真や映像を時間軸の流れで見せていくが同時にGOMA & The Jungle Rhythm Sectionのライブが展開される。彼らのライブは3Dで浮かび上がって立体的だがかつてのGOMAさんの失われた記憶(写真やビデオ)だったり彼が高次脳機能障害となった後に書き始めた日記や妻の日記、彼が事故後に書き始めた絵などは3Dの背景として同時に展開されていく構成。


 3Dで観る視覚体験とリズムのテンポ&GOMAさんの人生(写真や映像)の断片の融合が見事にハマってた。しかし音が気持ちよすぎて睡魔を誘ってしまうのだ! 僕わりと本当に眠いか気持ちよすぎるとライブ観に行っても寝てしまうのです。
 現実か虚無か、記憶とは人間とはなんの集合体であるのか? なぜ生き続けていくかという疑問に答えはないけど理由を探し求めていくことはできる。


 写真とか映像をかつての記憶として使っているけどあれは編集すごく大変だろうなって思う。だって彼らの演奏のリズムとか合ってるし取捨選択するのも大変だろう。ドキュメンタリーな部分は彼らのライブだったりするわけだがそこにかつてのGOMAさんの活動を被せていく事で彼の人生を立体的に見せていく。しかしその事を彼はほとんど忘れてしまっているという。


 生きている僕という存在の中にある記憶と意味。
 記憶は堆積していく、地層のようなものミルフィーユ状になっていく中で取り出せるものや印象深いものはわずかでたいていのものは忘れていく、でも忘れていくものや薄れていくものが繋がり集積した記憶が過去として存在している。それがなくなってしまうということ。


 彼はディジュリドゥを事故後にリハーサルをしながらでもプレイできた。以前からやっていると思って絵を描きだしたが事故前に彼は絵を描いてはいなかった! 楽器を演奏する事や絵を書く事という身体性におけるものは細胞だったりそういうもの中に刻まれているのか。
 脳で処理される記憶と体が覚えている記憶。ディジュリドゥはプレイできたのに絵は書けたのに事故後に電車やバスに乗ろうとするとカードのシステムがわけわかなかったりする。漢字も忘れてはいるが書けなくはない。家の外に出ると居場所がわからなくなって迷子になってしまう。


 自分が何者であるのか、生きていく意味は、この記憶は? 考えれば考えるほどに深みにハマるようなものを考えていくとすべては虚無であるような感覚、軽い目眩、失望と絶望の間の揺らぎ。それでも人は生きていこうとするのはなんでだろう?


 理由がある人は残ればいい。
 ただこの世界が面白くないということはないと僕は思っていて。面白くねえなあ人生って時は面白そうな人に会いに行ったり場所に行ってあとはマッチング次第だけども変化がある方に行くのは劇的じゃないけど変わるかもしんないかもしんないかもしんないっていうノリで行くぐらいしか絶望スパイラルドツボから抜け出せない気はする。


 『フラッシュバックメモリーズ 3D』は体験する映画であって。僕はGOMAさんに感情移入はできなかったけど自分だったらとか自分の人生について考えたり想像する。
 
 
 たまに歩いてていろんな事を考えているから意識は脳内景色に溶けているけど駅構内とか道とか問題なく歩けてて障害物や人を避けている瞬間にあれなんで僕は歩けているんだろう?って思ってしまうことがよくある。身体の記憶じゃないけど覚えている感覚っつうか歩けてしまうこととか脳内での事とか別なのに同時にできているのはなんなんだろう。
 

 でも、このしょうもないブログでもなんでも何かを残せておくというのは残したいと思うのはやがて僕が消えゆく存在であるからということに他ならないのだろう。僕が何かを書きたいのは時の流れに少しだけでも抗いたいと思うからなのか、きっとずっとそういうことを考えて生きて死んでいく。

 
 体験した後に残る余韻はそんなことを改めて考えさせる。そういう映画だった。