Spiral Fiction Note’s diary

物書き&Webサイト編集スタッフ。

『君たちの居た時間』Part 4

第二章「Hotcake」


     1


 小さな流れに漂う小舟に乗って遊んでいると思っていると、やがて大きな流れに辿り着き、いや巻き込まれて複合していき小舟では頼りなくなってしまう、川がいつか海に注いでいく。
 小舟から新しい大型船に乗り換えなければならなくなる。小舟で海を漂流することができたとしてもそれは端からみれば危険な冒険でしかない。潮崎宇美は今、人の波の上をダイブして進んでいく、いや運ばれていく。宇美はダイバーだ、潜るのではなく泳いで人並みをアライブしていく。
 音がそうさせる、汗と興奮と耳鳴りみたいな爆音が混ざり合って、跳ね上がって、人の背中を伝って、あるいは肩車されて、タイミングを計って音が弾ける。その瞬間、刹那だけを見定めて、とぶ、飛ぶ、跳ぶ、舞ってその空間の一部として融ける、わずかな間だけだとしても。
 最前線に送りだされたダイバーはスタッフによって抱えられるように受け止められて地上へ生還する。足が、肉体が地上を確かめたらすぐにサイドの扉に向かって走り出す。
 そしてまたサイドの中央ぐらいの扉を開けて他の観客に混じりながら人並みに溺れながらもかき分けてポジションを確保してまた準備する。発射台になってくれる人には肩を叩いて頷き返してくれれば契約は終了。あとは跳ぶための音が鳴る時を待ってダイバーは人の海に発射される。
 宇美はライブハウスの外にあるロッカーの前で着替えている。女子お得意のTシャツの上からTシャツを着替えるテクニック。いつも顔を会わす仲間たちと笑顔で別れて、またライブでと笑って。
 公園通りを下っていく。渋谷という街は昼も夜も人で溢れている、夏場に樹木の蜜に集まる昆虫みたいに。ここには人を引き寄せる様々な事柄が時間に関係なく変化しながら存在している。
 スクランブル交差点の信号待ちをしている、初めて来た時には人の多さで怖かった渋谷にもう恐怖はない、慣れてしまった。
 東京の喧噪も人の多さも、数をこなせば人は慣れてしまうのだということを地元から離れて知った。
 進路を選ぶ時に可愛がってくれていた弓道部の先輩がいる明治大学にしたのはただ先輩が東京は面白いよと言ったからだった。先輩とはたまにお茶したりお酒を飲みに行ったりする、姉と同級生の先輩とは姉の話はしない。
 姉の美羽が大学を進学せずに就職したのは父の仕事がダメになったからだったから宇美が三年になり、大学に行くと決めた時に二人の間に明らかな溝という隔たりはできた。
 姉も大学に行きたかったのは知っているが、就職を決めたのは姉の判断だったし奨学金なりなんなりと方法はあったはずで、姉はそれを放棄して我が家を支える自己犠牲に酔った。
 酔ってから一年しないうちに家から出れなくなった。宇美はこの二年の大学の長期の休みに一度も実家に帰らなかった。休みの間ひたすらバイトをして欲しいものを買う為の金とライブ費用を作った。今しか遊べないと本能的に嗅ぎ取っていた。
 仕送りで節約すれば生活だけならできた。だから働いた分は全て自分のために使う事ができた。姉に申し訳ないと大学に入った当時はある種の罪の意識を感じていた。今はない。
 大学の友達に誘われてライブに行くようになり、考え方は変わった、自分が選んだ事がこの先の生き方を決めてしまうならできるだけ楽しんで、この人生を楽しみ尽くことにした。
 部屋に自分から閉じこもってしまう人の心配をする必要なんてない。それを選んだのならその結果なり報いはどうせ自分に向かってくるのだから。
 信号が代わり歩き出す群衆にまみれている、スクランブル交差点を通過して行く、京王線の乗り場までもう少し。


     2


 夢から覚めない舞人の見舞いに行きながらも美羽はバイトをしている。季節が過ぎて行くのを肌で感じる。閉じこもっていた部屋から出ると一日が、一ヶ月が過ぎるのが早いと感じるようになった。ただ目覚めない彼にも同じように時間は過ぎて残り時間は減っている、時が過ぎるのだけは平等らしかった。
 彼が倒れてから美羽は東京に行こうと思い始める、彼の代わりに、いや彼が起きた時に、目覚めた時に東京に来れるようにするために自分が先に行っていようと。だから深夜帯の時間をメインにして働いた。目標金額を決めて、計画性を持って未来を見定めて動いて計算して働いた。
 同時に変わりたいと思っていた自分自身の外見も、彼が起きた時にびっくりさせれるように、驚かせようと磨きをかける。彼女は体脂肪を燃やす、走って部屋の姿見に映る自分が少しずつ変わっていく喜びを隠せないでいた。
 いつも深夜の5時過ぎにやってくる二つ上の伊園ゆかりと会計時に話すようになる。彼女はいつもバンで送り迎えをしてもらってコンビニの駐車場に降りる。
 コン、コンと高いヒールの音を店内に響かす。美羽は「彼氏なんですか?」と聞くと送迎だよと笑って答える。
 ゆかりは福山の風俗で働いていた。美羽のネームプレートを見て「潮崎さんもうちで働く、うちんとこ、わりとお金いいんよ」と美羽は困ったように笑って「うちは無理かな」と答えた。
「気持ち良くてお金ももらえるのにもったいないなあ、男受けしそうな体なのになあ」
「男受けする? そうなんかなあ。でもサービスしないといけないんじゃろ、それなのに自分も気持ちよくなるもんなん?」
「うちはなんか受容体っていうか、相手が、相性がよければそうなる感じ」
「そういうもんなん、うちにはわからんなあ」
「だからうちこの仕事向いていると思うんよ。溜まったもんを吐きだすのを手伝ってお金もらって気持ちいいしね、そういうのって大事やろ。人間っていろんなことが溜まる前にある程度出さないといつか爆発してしまう、爆発したらもう手には負えないから」
「うん、そうかもしれんなあ」
「たまったら出す、深呼吸と一緒じゃ。すーはーすーはーして出して入れてを繰り返すんよ。人間なんてそんなもんで」
 美羽はくったくのない顔で話すゆかりに好感を持つようになる、不思議な連帯感のような、いつも会う深夜の仲間。
 ゆかりは美羽の仕事が終わる六時まで立ち読みしたりしながら待つようになる。互いの家に行ってその後話をして泊まって昼過ぎに起きて昼ドラを見たりする。
「温泉の女将ってそんなにモテるんかなあ」とか「子供何人も生んだらきっとうちはぶよぶよになる」とかゆかりが言うのをこくこくと頷きながら聞いている、時には美羽がゆかりに急かされて舞人の話をしたりする。一度二人で彼の見舞いに行った。もちろん彼は目覚めないままで、ゆかりは不思議そうに彼を見つめる。
「起きないと美羽誰かに持って行かれちゃうぞ」
「聞こえないよ、ゆかり」
 美羽は一緒にいてくれるゆかりの存在がありがたくて、起きない舞人のことが悲しくて、ごちゃ混ぜな気持ちで揺れている、泣きそうになった美羽に気づいたゆかりが手を握った。
「こういう時はすっきりした方がええ、そうじゃドライブしよう」
「ううん。でもゆかり免許ないんじゃ」
 美羽の声を遮って「任せて」と携帯を取り出して誰かに連絡をし始める。
「ちょっとしたら来るってさ」
「誰が来るん?」
「うちの彼氏」
「いるの?」
「あれっ、言ってなかったっけ?」
「聞いてないよ」
 ごめんごめんと謝りながら彼が来るのを嬉しそうにしているゆかりを見て羨ましかった。舞人はすぐ側にいるのに、私たちはどこにも行けない。
 しばらくしてパトカーのサイレンが近づいてきた。ゆかりは笑顔で「彼来たよ」と美羽に告げる。窓から駐車場を見ると本物のパトカーが停まっていた。
「ゆかりの彼氏の職業って」
「警官。かっこいいでしょ」
「でも、私用でパトカー使ったらっていうか勤務中なんじゃ」
「うちらが一緒に見回りしたらええじゃろ」
「いやあ、そういう問題じゃないでしょ」
「いいの、いいの、細かいことは」
「細かくないって」
「細かい事は放っといたらええんじゃ」
「もう、ゆかりは」
「あんたが笑ったら可愛いな」
「そうかな、ありがと」
 ゆかりは美羽の手を引っ張って階段を下りていく。美羽はなんだか楽しくなってきて笑う、ゆかりはその顔を見て「良い顔だね」と言った。


     3


 散歩がてら川沿いを歩いている、ヘッドフォンから流れてくる音に合わせるように歌いながら歩いている宇美がいる。アパートのある柴崎一丁目を出てから甲州街道沿いを少し調布の方へ歩くと交差するような川があり、名前は野川といった。初めてその名前を見た時に宇美はまんまじゃんと口に出した。
 野川は多摩川水系多摩川支流であり南下すれば世田谷区を縦断しやがては多摩川に注ぐ。宇美は地元にいたヌートリアの姿を探してみたが、やはりいなかった。
 ヌートリアは関東には進出してないらしいと気になって大学の図書館で調べて初めて知った。地域限定キャラクターの様な存在だった。それは宇美にとっての大きな変化だった。
 当たり前のことが当たり前に存在しない、通用しない。言葉のイントネーションの違い、それらが地元を遠く離れて東京へ来たということを実感させた。
 京王線に乗って明大前まで行くことも彼女にとっては都会のシステムに自らが取り込まれ染まることだった。地元に井原鉄道が開業したのが九十九年だった。それまで電車に乗ることのなかった彼女はそれに乗る必要性を感じなかった。
 一番近くの大きな街の広島県福山市にはそれまで通りバスで遊びに行っていた。だから最初に大学までの電車通学は新鮮であり過酷だった。人がこんなにも溢れていることを肌身で初めて感じた。
 野川を北上して歩く、歌がうまいとか下手とかではなくただ歌うことが好きだった。住み始めたアパートの壁は想像以上に薄かった。六畳のワンルームで二畳程度の物置ロフトが備え付けられていて風呂とトイレは別々の二階の角部屋で六万八千円だった。実家にいた時のような感覚で住むことはできなかった。
 初めての一人暮らしで知ることも多く対処のしようもなく、知らないことが多々起きた。風呂上がりに歌うといういつもの行為は近所迷惑になることも。
 歌っていると壁が何度も悪意を感じる叩かれ方をした、翌日には隣人の大学生らしい男が苦情を言いにきた。怖かった、初めて話す人にこれまでの敵意を向けられることがいままで一度もなかった、ドアが閉まって男の姿が消えた時には玄関に座り込んだ。
 だから宇美は自分が歌える場所を探した。近所を、地図を見ながら散策した。野川を北上すると三鷹市に入ることがわかってそれを確かめに行った。散歩やランニング、ペットを連れた人たちが東京にある自然を感じようと川沿いを歩いていた、そこに混じって歌いながら歩いた、誰の目も気にせずに、すれ違い様に会釈をして、時折、いないとわかっていながらもヌートリアがいないかなと思いながら川を覗いて。
 大学は先輩もいたのですぐに慣れていった。アルバイトも始めた、近所のアミューズメントパークの中にあるゲームセンターで週四ぐらいで働き始めた。決めたのは歩いて五分もかからず時給もそこそこによかったからだ。そこのメンバーとも年齢が近くすぐに仲良くなった。そこにいた男の子のたいていはやはりゲーム好きな子たちだったから閉店後には残って対戦ゲームやカードを使ったサッカーゲームを楽しんでいた。たまにはみんなで飲みに行っては朝まで飲んでいた。
 東京に来るまでビールも飲めなかった宇美はそこで次第に酒への抗体ができていく、飲めなかったビールも飲めるようになっていく、最初のうちは酔いつぶれて家に送ってもらったりはしたが、そこで何かが起こるようなことはなかった。だから安心して飲めて次第に酒に強くなっていった。
 仕事は一階の景品ゲーム担当でクレーンゲームの商品補充や掃除、たいてい客に声をかけられる時はクレームに近い、取れないからなんとかしろと。それを笑顔でやり過ごす、あげることはできないからすぐに落ちる所に商品を移動したりしてなるべく客にお金を使ってもらうことが大事な仕事だった。
 地域的な問題か調布市甲州街道で繋がっている府中市は東京だけど宇美の地元にいたようなヤンキーがよく来た。
「東京にもヤンキーがいるんだ」
 見慣れている種族なので宇美は怖がらずに対応できた。でも、彼らは一応にディズニーのキャラクターのぬいぐるみとかを熱心に取っていた。だいたいサンダルでスエット、どこかにキャラクターの絵が入っている。
 パッと見は怖いからそれを少しでも和らげようとしているのかもしれないと思えなくもない。くまのプーさんの巨大なぬいぐるみを何千円も使って取るヤンキーカップルは何組もいたし、声をかけられると文句を言われるのでその度にすぐに落ちる位置に見えるが巧いようにアームのフックを当てないと取れない場所に置いた。
 鉄則として金を使わさないといけない、原価率から出る一個につき何円使ってもらって利益を出すかでアームの力の強弱はセッティングされた。そんなことにも資本主義がと最初は思った、だがそれが商売だった。
 景品が取れた時は拍手をしたり、取った彼氏にすごいですねと声をかければ子供のような無邪気さで喜ぶ顔をするのでもっと取りやすい位置にしてあげればよかったと何度も思いながらプーさんを抱きしめる金髪で眉毛がほぼない彼女を見ていつも「それは熊だよ、実際いたら速攻で逃げるよ。でもヤン車で逃げればいいか」と声に出さずに思ったりしているバイトの日々だった。


     4


 バイトが終わって帰ろうと店内から出るとバイトの男友達の坂上久志が駐車場でBMXに乗って遊んでいた。店舗は二階建てで、一、二階にゲームセンター、一階の一部分に「ガスト」と「マクドナルド」が併設され、二階部分には「フラココ」というカラオケ店が入っている。彼はBMXを持って階段を上って行った。そこからBMXに乗って降り始めた。
 危なげなく自転車が階段を降りて行くのを見ながら面白そうと感じて、すぐに乗せてもらった。
 東京に来てから電車通学で自転車に乗る機会はなくなっていた。自転車って、BMXって楽しいと体で感じた。彼と自販機でジュースを買って飲みながら話をしていると坂上が有名な映画のタイトルを口にした。
「『E.T.』って映画あるでしょ」
「うん、昔よくテレビでしてたから姉ちゃんと見てた」
「あれの有名なシーンの自転車で飛ぶやつ」
「一番のシーンは指と指だよ、ティティーってやつ」
「そりゃあ、あれも名シーンだけど、やっぱ空飛ぶ自転車でしょ」
「まあね、かごにE.T.入ってて一緒に飛ぶんだよね」
「あの時に乗ってた自転車がBMXなんだよ、で一緒に映画を兄貴と見てて欲しいなって言っててさ。で大学に入ってからバイト代で買おうと思って最初にこれ買ったんだ」
「おお、なんか良い話じゃん。でも、けっこう高いんでしょ、それ」
「普通のママチャリとかに比べると高いけど丈夫で頑丈だからいいよ、安もんってすぐに錆びたりするしね」
「バイト代貯めて買おうかな」
「もし買うなら言ってよ、知り合いのお店に一緒に行ったら安くしてもらえるからさ」
「ありがとう。うん、今月はまだ無理だけど。そういえば坂上君のお兄さんはBMXは買ったの?」
「兄貴は買ってないんじゃないかな。俺が小三の時に両親離婚して別々に育ったからそこは知らないんだよね。きっと買ってたら俺に自慢したと思うし」
「そっか、離婚してるのか。うちはしてないけどお姉ちゃんが引き蘢ってて、だから親がすごい疲れてる」
「大変だね」
「お互い様」
「帰りますか」
 宇美はそのまま歩いて調布方面へ、坂上は新宿方面へBMXを走らせた。
 

 三ヶ月後に貯めたバイト代で坂上がよく行くBMX専門店で初めてのBMXを宇美は購入する。坂上からのアドバイスも事前に聞いていたが、一目惚れしたものを。
 そのBMXは「FLOVAL FLYER」という名前だった。
 一九八〇年代に生まれた傑作24インチクルーザーだと買う時に店員に言われたが八三年生まれの宇美には懐かしくあるわけもなく、ただカッコいいと思っただけだった。
 全体的にブラックで統一されたデザイン、サドルと前輪を支えるフォークとハンドルバーの対照的な白さがよくて一目惚れして買っただけだった。価格は友人価格で六万円少しだった。金額的には宇美が今まで自分の金で買ったことのあるものの中では一番高いものではあったが満足だった。
 それから宇美は大学までをその愛車「FLOVAL FLYER」で甲州街道沿いを走って通うことにした。満員電車で受けるストレスは確実に人間の中の何かが壊れていく感じがして嫌だったし、電車賃も浮いて経済的でもあった。
 服装は愛車に乗る日はデニムのパンツになってスカートを履くことは少なくなっていった。
 甲州街道を「FLOVAL FLYER」で突っ走る彼女が、宇美がいた、背中の真ん中ぐらいに伸びた黒髪が風に踊って優雅に舞いながら進んだ。満員電車では不可能だった歌も自由に歌えた。だから好きだったジュディーアンドマリー「Over Drive」なんかを晴天の日には歌いながらペダルを漕いでいた。
「走―る雲の影を飛び越えるわっ」
 気持ち良さそうに歌う宇美が甲州街道にいる。この曲はまだ宇美が小学六年生だった時に姉がラジオで流れてきて気に入って当時はまだカセットテープだったけど、それに録音したのを宇美に聴かせた曲だった。懐かしい曲だった、少し姉の事が浮かんだがすぐに頭から払い落とした。でも姉の顔が離れなかった。
 生まれた時からずっと一緒にいた一番身近な存在が姉だった。今は遠く離れてしまったけど。愛しい姉だった。
 ヘッドフォンから流れるその曲を周りをまったく気にせずに歌いながらペダルを漕いだ、それは本当に風に歌えばという状態で心身とも気持ちよくて開放感をもたらした。
 雨の日にはカッパの煩わしさがあったが、帰り時の雨ならばカバンを雨具と雨よけのナイロン袋で覆って宇美自身は雨に濡れながら打たれながら甲州街道を愛車と共に走り抜けた。降り注ぐ雨が生命を満たしているような実感があった。雨に濡れながら、雨に歌って彼女は東京の道をすり抜けて駆け抜けていった。
 朝の登校時にいつも宇美を追い越して行くロードバイクがいた。明大前手前で抜かれることも多々あったので彼女は次第にそのロードバイクに乗っていた彼がいつもどこにむかっているか気になっていた。しかし、横をかけていくそのロードバイクの速さに追いつけるはずはなかった。
 自転車の性能そのものがまったく違う種類のものであったから。
 彼のは舗装路での高速走行に特化した自転車で、ここ都会である東京を駆け抜けるのに一番適していた。彼女のそれは短距離やスタント用のものであったから。
 宇美は彼に追い抜かれるのが嬉しくなっていった、それと同時に自分もあれに乗ってその速さを体感したいと思うようになるのは自然のことだった。
 彼は、彼でいつも追い抜いて行く彼女のことが気になっている、追い抜く時にかすかに聞こえてくる声や歌を聞くのが毎日の日課のようなものになっていた。
 だからこれはもうひとつのボーイミーツガール、東京の片隅で彼らはすれ違う、いや追い越して追い抜かれるだけの関係だが互いは互いの存在を確かに感じて認めていた。走っている時に体が風を感じるように。


     5


 彼は、宇美を追い越して行く彼の名前は栗山浩輔。
 浩輔は甲州街道沿いにある明大よりも少し代田橋寄りの東放学園専門学校デジタル映画科の二年生だった。
 家族と暮らしている世田谷区の仙川からロードバイクで通学していた。その学校にやがて美羽が入学するがその前に彼は卒業していく、だから彼と彼女は出会わない。
 その年に浩輔は卒業制作で撮った作品で自分の監督能力のなさを思い知る。それは夢見ていたものに自分が向いていないということを受け入れるということだった。
 そこから彼は迷走した、その事実を受け入れたくなかったから。卒業後も就職せずにフリーター生活をしながら作品を撮ってみるがうまいこといかなかった。ただカメラを持って何かを記録することはずっとしていきたいとは思っていた。
 映像は撮った瞬間に過去になり編集可能なものは真実とはズレていく、しかしそれは残る、記憶の残像のように未来へ。浩輔は様々な作品を観ることでドキュメンタリーに傾倒して行くようになる。自分の撮った作品に出てくれたノイズ系のバンドを追い掛けたりすることで彼らと関係のある左翼系の本も読んでいき思想が変わり始める。
「世界ってなんだ。何かに搾取されているのか、俺らは何かに」
 本を読みながら自分に世界に問うように彼は言った。
 自分の作品がうまくいかなかった理由の結論として物語を作るという行為が、誰かに何者かを演じさせることが違うと感じた。それが嘘だという自分の感覚が物語を創造できない理由だと発見する。そこにすでに存在している人間に違う誰かとして演じさすということが違うと、だからさらにその素材そのものである人間を撮りたいとドキュメンタリーに走る。それと同時にデモや運動に参加してその中から映像を撮るようになる。
 彼の中で新たに変わる瞬間が来る。
 メーデーの行進に参加しながら映像を撮っていた。浩輔は労働者の側からの視線として。警察官が一般人とメーデー参加者を隔てる壁になっている。
 デモをしても警察官の波が一般人と参加者を隔てることでデモをしている人たちを隔てて一般人からの関心を失わせ、見世物にしているようにしか感じなかった。
 警察官はただそこにじっとしている、動かない人の壁としてだけ存在している。内側を行進する彼らは声を荒げて叫んでいる。中には警官を罵るような言葉を投げつける者もいる。しかし警官たちはそれを無視する、音が聞こえないかのように。その中でカメラを回しながら内側にいながら浩輔は客観視している、カメラというフィルターを通すことによって当事者でありながら第三者の目を持って歩いている。
 その行進の行列と警察官の壁の均衡が一瞬で崩れた。一人の参加者が警官の壁を突破した、いきなりだった。だから浩輔は一瞬遅れたが、すぐに駆け出してその地点をとらえる。
 警察官がその中年の男を捕まえて地面に倒した。それを見た行列の一部が壁を突き破って助けようとする。だからそこは緊張し張りつめた糸が切れてしまった後の世界、混沌が一気に広がり感情が爆発し始める、それは平温から沸点に一気に飛ぶ速度で。
 メーデーの参加者と警官が重なりながら倒れている、下に潰された人を助けようとさらに人と人がぶつかり、助けようとするものを阻むものが制止する為に叫び、それに対しての抵抗としてさらに叫ぶ、怒濤だと、混沌そのものがここにあると浩輔は傍観者になりながら思う。
 理解できない者同士がぶつかるとこうにしかならないと直感する、しかし起きた出来事は録画され続ける。
 その空間、時間がビデオカメラを通しながら浩輔の視線でRECされている。客観視しながら集団の怖さが身に染みる。
 互いの利害と意見、思想と現実がぶつかっている、わかりあえることは永遠にないように感じた。救いがないと。
 その何十人もの、何百人もの声が入り交じる現場で彼は思う。人と人がわかりあう為には何が必要なのか、それが知りたいと本能が蠢いている。でも、カメラのRECは停まらない、この終焉をきちんと見届ける必要が彼にはあった。


     6


 愛車で甲州街道を走り抜ける宇美は大学2年になっている、しかし追い抜いて行く彼はもういない。それが寂しく感じるがどうにもならないことだった。彼が専門を卒業したことを彼女は知るよしもない。
 三年になれば校舎はお茶の水に移る、宇美の商学部を初めとして法学部、商学部政治経済学部、文学部、経営学部、情報コミュニケーション学部の三年、四年生は御茶ノ水駅の駿河台校舎に移る。三年になったら宇美は彼が乗っていたようなロードバイクを買って御茶ノ水まで通学しようと考えていた。
 もっと速く東京を駆け抜けることが、風を感じれたらきっともっと楽しいと。宇美のふとももは平均的な女子大学生よりもかなり筋肉質になっている、毎日の通学によって、かなりの運動量が彼女の体を自然と鍛え上げていた。
 同じ大きさの車輪が回れば回るほどに、地球が自転すればするだけ車輪の回転数は増えていく。自転車が好きな理由のひとつは車輪が回る、自らペダルを踏んで回すということだった。
 車輪は時計のように進む、戻ることはない。時間は前にしか進めない、自転車もそうだった。進むことしかできない、二つの車輪の円が回ることで自分が前に進んでいることを、肉体を持って体感できる。
 一年の当初から彼女は友人に誘われたことがきっかけで月に二、三回はライブを観に行くようになっていた。体を動かすことが好きだったし、歌は歌うことの方が好きだったがライブの一体感は一人ではどうしても味わうことの出来ないものだった。
 自転車で鍛えられた足腰は背の大きくない宇美が自分以上に背の高い男子に囲まれながらモッシュの嵐の中にいても耐えることのできる体力をもたらしていた。ダイブを一度するとその快感に震えた。だから何度も好きな曲のサビで彼女は人の波を泳いでいった。
 宇美は大学生活を、東京を満喫していた、故郷から遠く離れて初めての一人暮らしも寂しくはなかった。新しい発見と友人や仲間たちがいて、面白そうなことや興味があることに首を出せば退屈しないですんだ。
 時折、ダイブをしてスタッフに受け止められてすぐに左右のドアから通路に抜ける瞬間に姉の美羽のことがよぎることがあったがすぐに打ち消してモッシュの中に混ざりながら音楽と人が作り出す空間に酔いしれながら生きている熱を放散してまた飛んだ。


 三年になる前の春には美羽が上京してきた。家探しの間は久しぶりに同じ部屋で寝た、昔のように姉妹で仲良くたくさん話したということはなかった。
 なにかがズレてしまっていて、数年ぶりに会った従姉妹のようにどこか他人のような気がした。不動産屋には付き合ったがたいていの日はバイトやライブがあってアパートに着く頃には美羽は寝てしまっていた。その少しの会話の中で美羽が閉じこもってからここへ来ることになった展開が少しだけだがわかった。
 上京資金を貯めていた時に仲良くしていた風俗嬢の人の話が何度か出て、そのゆかりという人に好感を持った。美羽の同級生だった舞人という名前は宇美も知っているがそれは中学までの彼だった。その彼によって美羽が東京へ来る理由ときっかけができたことを宇美は知った。
 美羽は宇美のアパートから十分ぐらいの柴崎駅よりは隣のつつじヶ丘駅寄りのアパートを借りた。大学三年生になった宇美と専門学生になった美羽の接点はさほどない状態のまま進んだ。美羽は新しい環境に慣れるのが精一杯で一から対人関係を作り、その先の未来を見据えて動いていかなければいけなかった。
 一方の宇美は貯めた金でGIANTというメーカーの初心者用のロードバイクである「OCR3」という車種の赤を二台目の愛車にした。一代目はバイト先の後輩の女の子が自転車を欲しがっていたのであげた。
 宇美は前よりも速く東京を駆け抜けれるようになっていった。御茶ノ水まで飛ばして、できるだけショートカットして細い路地を、大通りを東京の道、いや地図を体の中に染み込ませていく。
 山手線の円を斜めに横切っていくことが二台目の愛車ならばできた。私の名前の一部分は宇宙の「宇」だから自らの横切っているんだって、これはまるで「アクロスザユニバース」だって思うとなんだか嬉しくなってさらに早くペダルを踏みこんだ。
 お台場でライブがあれば大学から新橋まで愛車で行くこともあった、自転車で東京湾間近まで出ていけることが感覚で、体の中の東京の地図の中で理解できた。
 東京という大都市が、巨大な街の連なりが愛車ひとつでこんなにも身近で狭いものになるとは知らなかった。宇美はロードバイクで東京の東部分、山手線を支配している気がした。こんなにも気持ちよくて開放感がある、みんなそのことを知らないで満員電車に乗るなんてどうかしてると。
 いつものように甲州街道を、去年までの校舎を通りすぎながら彼女は風と共に歌っている。


『君たちの居た時間』Part 5