三宅唱監督『きみの鳥はうたえる』初日舞台挨拶を新宿武蔵野館で。原作の小説を少し前に読んでいた。
佐藤泰志作品にあるものは屈折した気持ちや暴力が描かれるが、日常の些細な描写なども素晴らしいのは、最初は例えば部屋の中など三人称で描写しながら、その部屋の中にいる主人公などの一人称からの視線や感情、五感の描写からまた彼を含んだ空間の三人称という風にスヌーズに移行していく。そこがほんとうに文章として端正だし、詩のように滑らかに世界を描写している。
その作品を現代に置き換えて、小説では東京だった舞台が函館になっている。予告編を見る限りは、朝焼けの中を歩く主要人物である「僕」(江本佑)と佐知子(石橋静河)と静雄(染谷将太)のシーンは美しい、青春という響きがよく似合う、同時にかつて自分も体験したような懐かしさすらも連れてくる。原作とラストはだいぶ異なっている。そこの解釈はわかれるところだろう。
静雄と母親、彼が病人に向かって行う行為などが省略されている。三人の関係性の変化はあるのはわかるが、「僕」が数字を数える最初の出会いの反復の部分でほんとうの気持ちを告げて、佐知子がというオープンエンドで終わる。屈折した主人公が出てくるのが佐藤泰志作品ではあるが、映画では最後にその屈折を覆す。それがほんとうにいいのか悪いか。
舞台が現代でクラブみたいな場所で酒を飲んで楽しんでいるのはまったく問題ないというかいいと思えた。問題は函館って感じが特にしない。夏なので雪も降らないのは当然だが、函館じゃなくてもよくない?という感想がどうしても出てしまう。佐藤泰志の地元が函館で三宅監督も北海道出身だからっていうことぐらいではないだろうか。おそらくまったく北海道に行ったこともない、地域的にも遠い場所の人が観たときにこれは北海道だ、函館だってたぶん思わない。
原作で描かれている佐知子と静雄がバーのマスターたちと海に遊びにいく、映画だと山にいったってことになっていたかな、その前から二人はどうも好き同士になっていったみたいな予感、そして帰ってきてからそのことを告げられる。それはいいのだが、気持ちは変わるから。映画だと佐知子が静雄を好きになった描写や変化があんまりわからないので、えええ?いつよ?みたいな感じになって、置いてけぼりにされる。クラブでふたりが一緒にDJが鳴らす音にのってたけどさあ、あと同居人の彼女みたいなセックスしている女の子とそうそう付き合うかしら、その部分の三人があまりにもさっぱりしているのでドラマがなくて、そのわり最後に感情爆発してしまうので、から回っているような印象を受けてしまった。