Spiral Fiction Note’s diary

物書き&Webサイト編集スタッフ。

『君たちの居た時間』Part 3

     13


 美羽は動き始める、舞人によって止まっていた時間を動かすゼンマイが巻かれたように。美羽はまず家を出る。両親を説得することから始まる。美羽の両親は娘が家から出れる、いや出ようとすることに喜び、安堵し、これからのことを心配しつつ応援する事にした。
 かつて美羽が通った高校への通学路の途中にある国道313沿いから一本奥に入ったアパートを借りる。実家からは自転車で二十分ぐらいの距離にある。生活に必要最低限なものだけ揃えた。
 家賃は月に管理費を入れて四万四千で和六畳、洋六畳、DK七畳、風呂トイレ別の二階建ての一階だった。正直美羽一人の生活には広すぎる、広い部屋だった。
 探した家のほとんどは同じような家賃で同じような間取りだった。近くに大学や専門学校などがないので一人暮らし用の物件はあまりなく、車で通勤するのが日常的な地域だったから駐車場も付いているのが当たり前だった。
 玄関を入り、廊下を行くとダイニングキッチンがあり、ダイニングキッチンの南側、さっきの廊下横に洋室があってバルコニーがある。北側には和室、和室の横には洗面所とトイレ、その奥に風呂場がある間取りだった。美羽の一人暮らしが始まる、人生で初めてのひとりの生活が。美羽は歩いていける国道313沿いのコンビニでバイトを始める。とりあえず一年は働く事になれようと思った。
 引っ越し当日、両親が荷物を軽トラで運んでくれた。父と母と美羽の三人で引っ越しそばを食べた。母は泣いていた。嬉しさと寂しさが混じって、美羽もそれを見て泣きながらそばをすすった、父はその二人を見て泣いた。
 その夜、舞人がバイト帰りにケーキを持ってきてお祝いをしてくれた。あの雨の日以来、会っていなかった。メールと電話のやり取りだけだった。美羽は一人暮らしとバイトを始めていたから彼と久しぶりに会った。
 十月の中旬になろうとしていた、夜風はもう冷たくなっている、風に湿度は感じられない乾いたものになっている。
 インターフォンが鳴って、美羽は舞人を出迎える。ダイニングキッチンで二人はテーブルに向かい合ってケーキを食べる、美羽のリクエストはチーズケーキだった。フォークが皿に当たる金属と陶器の音がする。二人はどこか緊張している。普通とも言える状態で会うのは初めてだった。会話もぎこちなく弾まないままに食べ終わる。
 舞人は鞄からスマパンの「Siamese Dream」を入ったCDショップの袋を美羽に渡す。美羽は袋から取り出してジャケットを見ている。
「すごく好きなバンドなんよ。引っ越し祝いにあげようと思って」
「ありがとう。うん聴くね。このジャケットの天使みたいな女の子かわいい」
「いいでしょ、このジャケット」
「今聴いてみてもいい」
「うん、聴こうか」
 美羽は食器とフォークをシンクに入れて隣の洋室に入っていく、舞人もそれに付いていく。洋室は美羽の寝室になっていた。机の上に置かれた小さなCDラジカセにセットして聴き始める。
 美羽と舞人はベッドに腰掛けて、美羽はジャケットからライナーノートを取り出して読んでいる。舞人はそのまま寝転んで目を閉じている。CDは停止する、全曲が流れて終わる。美羽はライナーノートの日本語訳を追いながら曲を自分の中に取り込んでいた。
 舞人は横になったままで眠りに落ちている、彼に取って彼の好きなロックは子守唄代わりだった。舞人は疲れた肉体と休みを欲する精神が穏やかになるのを感じて、守られているような気持ちにすらなって眠りの側に落ちた。 
 美羽は舞人の顔を、子守唄を我が子に歌った母のような慈愛に満ちた表情で見ている。こうやって男の子の寝顔を見るなんて初めてなんじゃないかと思う。思っていたよりも睫毛が長いんだなとか、彼の寝顔を見ると母性本能をくすぐられるようにそれが発芽してくる気がした。
 守られたいけど守ってあげたいという不思議な本能。美羽はありがとうといいながら舞人の髪を撫でた。それから自分も舞人の横に寝転んだ、舞人の手を握った。真っ白な天井が視線の先にはあった、彼はある程度お金が貯まればこの町からここからいなくなってしまうんだとぼんやり思うとどことなく寂しくなった、今横にいる彼がいなくなることは絶望的に寂しい。
 バルコニーに出ると風が冷たかった。少しかけたように見える月がぼんやりと宙に浮いている。ドアを閉めて部屋に戻ると舞人が目を開けていた、まだ少し眠たそうな顔をしていて、夢を見てるみたいな顔だった。
「ねえ、今何時」
「十一時前かな」
「そっかあ、じゃあ帰ろうかな」
「もう帰るん?」
「明日もバイトだし」
「そう、仕方ないね」
 舞人がベッドから起き上がってドアの方へ向かう、その後ろ姿を見ると美羽は寂しくなって抱きついた。
「まだ帰んないでほしい」
「だって」
「一緒にいて。うちじゃダメかな」
「ダメってことじゃないけど」
「ことじゃないけど?」
「美羽は僕の事が好きなとかじゃないじゃない」
「好き、だよ」
「違うよ、僕があの部屋から連れ出したから。一人じゃ寂しくて一番近い僕に依存してるだけだよ、きっと」
「そんなことないよ」
「依存してるだけ、寂しいから。とりあえず一番近い僕に一緒にいてほしいだけだと思う」
「そんなことないよ、うちは舞人が好きになったの。あの日連れ出してくれて、迎えにきてくれてこの人なんだって思ったの」
「僕じゃなくてもよかったんだよ、それなら」
「舞人が来てくれたから、舞人だったから、うちは。お願いだから一緒にいて。もう少しだけ」
 美羽は舞人の上着の裾から手を入れて直接舞人の体温を感じて、触る。身長のあまり変わらない二人、美羽の唇は舞人の首筋をそっと舐めて舞人の抑えているものを刺激する、大胆に、解放していく。舞人は少しずつ性的に興奮して、押さえつけようとする理性のタガがカチッと外される、美羽の唇のねっとりとした愛撫と上半身を撫で回す手の指に動きによって解放される。
「ああ、もうっ」と舞人は理性を捨てた。
 舞人は体の向きをくるりと変えて美羽の唇に自分の唇を押しつけて、舌を美羽の中に入れて激しく動かしていく、美羽もそれに応える。舞人は服の上から美羽の胸を触る、美羽の息が少し荒くなったのがわかる、吐息が漏れる。
 もっと触ってほしいと美羽は思う、直に触ってほしいと、濡れだしているのがわかる。そのまま二人はベッドにもつれながら倒れて舞人が覆い被さっていく。
「もっと触って、直接触ってほしい。もっとキスして触って」
「うん」
 舞人は美羽の服を脱がしていく、ベージュのブラとショーツだけの美羽がベッドにいる。下着はところどころほつれたりしている。彼女は引きこもっている間、下着など気にしなくなっていた、同じもの、今まで持っていたもので済ましていた、こんなことはありえないことだったから。
 興奮の中で冷静な自分の存在に美羽は気づいて、下着ぐらいは引っ越しする時に新しい物を買っておくべきだったと遅すぎる後悔をした。裸を見られている。
 贅肉がついてくびれていない腹回りも、陥没していない失われた鎖骨も、痩せたいと強くその時思った。
 触られながら女性としてメリハリのあるラインを取り戻したい、全体的にまるみだけを帯びたこの体から脱却したい。舞人の指がブラの中に入っていく、鳥肌が立つように全身の毛が泡立つ、胸を揉まれている。
「あぁん」と我慢したくても声が漏れた。その声に反応するみたいに舞人は触っていく、触れていく。指で乳首が転がされるみたいに弄られると美羽の声は大きくなっていく。
「お願いだからもっと舐めて、噛んで強く吸ってほしい」
 舞人にされるがままにブラを外されて、舞人はむしゃぶりつくように乳首を舐めて甘噛みして、もう一方は強く握られて揉まれた。乳首を舐められるとクリトリスの内側に響く快感があった。
 自然と美羽の腰は動いて欲してしまう、舞人の肉体を、そのものを。美羽は舞人の頭を掴んで感じている、舞人の体温を、存在を。乳房を揉んでいた手は美羽の丸みを帯びた肉体を次第に下半身に行くように撫でながら、ショーツの中へ侵入していく。
 ざわざわとした陰毛に触れて、さらに奥へ行くとそこは濡れている、舞人はその入り口をゆっくりと触る。舞人自身の興奮も高まって息が荒くなる。
 美羽は舞人の髪を撫でながら、その顔はとても色っぽいと感じる。普段では見る事はできない、違う角度の舞人の顔があった。色っぽい大人の舞人が目の前にいて、それを感じて味わっている。
「舞人も脱いで」
 舞人の服を美羽は脱がしていく、ボクサーパンツ一枚になった舞人を今度は下側にして美羽が上になる。筋肉の上にうっすらと肉が付いているような体だった。しなやかで柔軟な肉体だった。美羽は舞人の体を手と口で、撫でて触って舐めて確かめて試みる、彼の気持ちのいい場所を探した。
「触って」
 舞人の声に導かれて誘われるままに美羽は舞人のボクサーパンツの中に手を入れて彼の性器に触れて握ると包んで上下に動かす。舞人の性的な興奮が昂っているのを性器から感じる。熱い、とても熱くて脈を打っている。
 強くて早い、律動している。美羽はその律動を自分の中に欲する、舞人の律動を。
 濡れている自分の中へその律動が欲しい、クリトリスが疼いている、もっと濡れて欲しくなる、舞人が自分の中へ入って動いてほしいと完全に開いていく。舞人は美羽のショーツを脱がせる、濡れた後がついて湿り気のあるそれを取る。舞人は自分のボクサーパンツも脱いで、二人の下着を床に落とした。
「舞人、きて」
 頷きながら舞人は美羽の股を広げて中に入っていく、熱くて、包まれる錯覚に陥る。腰は自然に動いてしまう、自分の中にあった律動が、熱量を持って擦れてさらに熱さを増していく。そして美羽の中は濡れていく、舞人を受け入れるためだけに。
 理性を隅っこに追いやって性的な気持ちよさだけを求めている、お互いの温度を感じる事が全てになった。舞人と美羽は感受性だけになり、お互いを感じるためだけの存在。
 揺れて擦れて入って入られて包まれて包んで、伸縮する空洞とそれを埋める空洞の音だけが部屋に溢れた。美羽は自分の上で揺れている舞人の片耳にあるカーブド・ティアドロップを見つめている。彼を抱き寄せてそのピアスごと耳を口に含んで下で弄んで食した。
「好きだよ、舞人」
 美羽は満たされている気持ちになる、人に好きだと言うことができる。人に触れている事ができるという幸せが彼女を満たす。
「好きだって、愛してるって言って」
 美羽は自然に口にしてしまう、愛してると。今のこの状態は愛されてるんだから、ねえ舞人と。腰を振っている舞人はその言葉を呑み込めない。
 舞人は愛ってなんだよって思う、思えば思うほど、自分が離れていく、腰を振っている自分を少し上から見ているような客観性ができてしまう。愛ってなんだよ、愛ってこういう時のオプションみたいな言葉なんだろうか、僕は今、愛を感じているか? いや感じてはいない、これを愛って言える自信なんかない、愛ってなんだ? なんだっけ?
 僕はそんなもの知らない、見た事はあるような気はする、病院にいた祖母と祖父の関係性の中で、あの葬式の中で。終わってからわかるのがきっとそれだと思う、だからここにはまだそれはないんだって舞人は思う。でもこれはきっと美羽には伝えられないし、届かないと本能的にわかる。彼女は言葉にしてそれを言われたいだけ、そこにそれがなくても言われたいんだっていうのがわかる。
 でも舞人はその言葉を言わない。いや言えない。
 美羽の開いた口に、舞人からの言葉を待っているその口に舞人は親指をつっこんで、美羽は本能的に舌で指を愛撫するように舐める、艶かしく指が唾液にまみれていく。舞人の口から美羽の期待する言葉は出て来ない、イケズだと美羽は思う、舞人、嘘でいいから言って欲しかったのにと。
 舞人は真っ白になっていく。擦れて白く摩耗する快感が性器から体の真ん中のラインを上がって脳に届く、スーパーノヴァしている、快感が放出する。美羽の激しく上下する白い腹の上に白濁とした思いの精液を吐き出した。


     14


 世界は巡り白くなっていく、冬がやってきて風は寒気を運んでくる。美羽は仕事に慣れていく。袋に商品を入れることを繰り返すと手は荒れるがハンドクリームを寝る時に塗って対応をしている。
 遅番が急に来なくなって辞めたから週に二度ほど遅番として深夜帯で店長と働くようになった。他の三日は中番として。遅番が終わり暗闇の中の早朝に外に出ると吐く息は白く、ふわっと宙に放出されて消える。その光景はなんだか好きだった。
 二人は付き合おうという言葉はないままに共にいる時間が増えていく。週に二日や三日、舞人は美羽のアパートに泊まるようになっている、ごく自然なこととして。舞人がいる時間が増えて蓄積するだけ、美羽の部屋には舞人のものが増えていく。
 それは本だったり、CDだったりビデオだったり、下着だったり冬服の一部だったり。舞人はバイト終わりのランニングを止めてない、まだ走り続けている。ライフワークの一部だから。いつも同じ道程を走っている。
 美羽も舞人のように時間を作ると動きやすいジャージに着替えて三十分のジョギングを始めている。一人暮らしを始めてから一ヶ月以上が過ぎて三キロ減っていた。
 今まであまりにも動いてなさすぎた、怠けていた肉体が急に急かされて脂肪が一気に落ちていく。あと二十二キロ減らして標準体重に戻そうとジョギングと筋トレをする。もう環境を変えた、あとは自分があの頃に戻らないために変わらないといけない、そう変化して、メタモルフォーゼする。この脂肪という服を脱ぎ去って新しくなる、私は新しい人になりたいと走る。


 魔女の女の子の映画を二人で見ようとした時に、それはとくにすることもなくて、彼女にすればおもしろいテレビもなかったからだった。デッキに入れて再生すると舞人はすぐに取り出してカセットの中からテープを指で引き出して、ぐちゃぐちゃに引き出して床に放った。
 舞人は無表情だった、怖いぐらいに。美羽はなぜか自分の中の大事な思い出が粗末に扱われたように思えて怒鳴った。
「何するん。舞人だってしていい事と悪い事あるよ。これうち大好きって知ってるでしょ、なんでこんなことすんの、ねえ、なんで」
「このアニメ好きでも嫌いでもないけど美羽が引きこもってた時にこれとかずっと見てたって言ってたじゃろ。もうあそこから出たんだからこれを見る必要ないじゃん。この女の子は家から出ていくって話だし。美羽、もう家から出たんだよ、観て感傷的な気分になるには早いと僕は思う。何年か経って今が懐かしめるようになったら見ればいいんだよ、今じゃない」
「だとしても言えばいいじゃろ、なんでテープこんなことにしてるんよ」
 床に落ちたビデオテープは中身のテープがとぐろを巻くような、光を反射する薄っぺらい蛇に見える。
「ごめん、だけど言う前にしちゃったんだ」
「謝るならしなければいいのに、もう」
 舞人はダイニングのドアを開けて玄関に向かっていく、美羽もそれを不満な顔つきで追っていく。
「どこ行くの? 帰るん?」
「レンタル屋で借りてくるよ、さっきの」
「いいよ、もう。しばらく見る気しなくなったから」
「じゃあ、帰るよ」
「待ってよ、帰らなくてもいいじゃん。うちにおってよ。一緒に借りに行こうかなんか違うやつでも、ねえそうしよ」
「じゃあ、そうする」
 玄関を出るとバルコニーの下の方から猫の鳴き声がした。覗き込むと小さな猫がいた。
 白色で片耳が少し黒くて右側の肩の部分に小さな三日月みたいな黒いペイントがあった。愛嬌のある可愛いらしい顔だが少し美羽たちを恐がっているようだった。「ミャア」と小さく猫らしい鳴き声で鳴いた。
 美羽は玄関からアパートの中に一度戻って出てきた。手には台所から持ってきた魚肉ソーセージがあって、しゃがみ込んで猫の前でブラブラさせた。子猫はメトロンームみたいに左右に首を動かしたのでかわいくて美羽は「ミャア」と言いながら魚肉ソーセージを小さくちぎって子猫の足下に投げた。
 子猫は一度その破片を見てから美羽と舞人を窺ってから恐る恐るそれに喰らいついた。むしゃむしゃと一気に食べて喉に詰まらせて一度吐き出した。心配そうに見ている二人をよそにすぐに吐き出したそれをまた口に入れた。
 催促するように「ミャア」と鳴いたので美羽が手に持っているソーセージをちぎり足下に投げると今度はすぐに食べ出した。それを確認して玄関にソーセージを置いてから笑顔で二人は歩き出した。レンタルショップまでは歩いて片道十分少しぐらいだった。
 国道313沿いを歩く、美羽は舞人の上着のポケットに右手を入れて舞人の左手がそれを握った。  
 ヘッドライトの明かりが道路を流れていく、雲一つない空に満天とはいかないが星が輝いていて、二人は空を見上げながら歩く。星座の名前も知らないままに星を見ながら歩いた、冬の散歩道を。


     15

 
 二年間、舞人は実家にいながらバイトをして上京費用と学費を貯めようと考えていた。それを計画的に確実に、目標に近づけていた。舞人には目標があり、美羽にはなかった。
 美羽は舞人を応援する気持ちとある種の嫉妬を感じている、口には出さない。出すと何かが終わると思った。やがて舞人はここを出ていってうちは置いていかれる。という未来が少しずつ近づいていることも理解していた。
 一緒に東京へという気持ちもなくもなかったが、自分が何をやりたいのかわからなかったし、東京へ行ってもずっと一緒にいれるわけではないことはわかりきっていた。
 成人式の日は晴天で市民会館の前では舞人と美羽の同級生たちが着慣れていないスーツや着物で久しぶりの再会を果たしていた。舞人と美羽はそこにはいない。
 美羽は晴れ着だけレンタルし着付けしてもらって近所の写真館で両親と共に記念撮影をしていつもの服に着替えた。それから両親と久しぶりに実家でご飯を食べた。成人式に行く気はなかった。行ってもどこか恥ずかしい気持ちになるのがわかっていたから。
 話の流れ的に今どこで何をしてるのと聞かれる。フリーターであることを誇るつもりは毛頭ないにしても、就職したのに辞めたこともうっかり言ってしまいそうだ、墓穴を掘りたくはなかった。それに美羽が通っていた高校は進学校だったからほとんどの同級生たちは大学に通っている。だから彼らは大学二年生だ、あるいはごく一部が専門学校に通っている。
 就職したのは美羽ぐらいなもので、あとは卒業後の進路を決めなかった人間は数人いたが彼らと面識はないし、どうなったのか知らない。
 憧れがなかったと言えば嘘になる。キャンパスライフをおくる同級生たちとどんな話をしたらいいのか考えるだけでイヤだった、だから美羽は行かないし行けない。
 その日、舞人は普通にバイト先のコンビニ弁当工場で働いていた。同じ仕分けのメンバーや話をするおばちゃんには成人式のことを言われたが、出席するつもりはまったくなかった。金をきちんと稼いでおく方が成人式に出るよりも彼には意味があった。
 舞人は美羽のアパートの合鍵を持っている、仕事が終わってから美羽の部屋のダイニングで寝転んで「わたしは真悟」を読んでいた。文庫コミックスは四巻積まれている。
 その漫画は少年と少女が出会ってやがてその二人の子供としての意識を持ったロボットが二人を探すというSFだった。美羽は昭和五十七年二月、舞人は三月生まれだった。この漫画が始まった年は美羽と舞人の誕生年でもあった。
 二ヶ月後には二十歳になる舞人は自分が生まれ育った年月とほぼ同じだけ過ぎた漫画に、物語に今出会っている。バイト先で昼休みに休憩室で寝ていると四十を過ぎた資材部の社員と一緒になって、漫画家を目指した事があるというその伊藤という人に「わたしは真悟」とつげ義春は読んだ方がいいと勧められた。
 普段の舞人なら話だけ合わせてそれを読んでいなかったかもしれない、その漫画が自分と同じ年に始まったことを知ると読んでみたくなった。自分と同じ時間が経過しているということが妙に興味を持たせた。
 二十年前の生まれた当時の物語を。だから帰りに本屋に寄って探した。文庫コミックスの四巻までしか在庫はなかった。残りの三巻を探しに美羽の家とは反対方向の広島の方へ国道313号を走った。国道近くにあるブックオフで探したが最終巻の七巻しかなくそれをとつげ義春の漫画を二冊購入してから舞人は家に帰らずに美羽のアパートで読んでいる。
 美羽は実家でご飯を食べてくるとメールがあった。黙々と舞人は読み続ける、時間の感覚をなくして物語に没頭して世界はむしろその漫画の中に比重がある。
 四巻を読み終える、続き読みたいがなくて気になるが七巻には手を出さないでつげ義春を読もうとしたが目が疲れていたから電気を消した。寝室でベッドに横になると月明かりが部屋に差し込んでいる、真っ暗闇ではなくて窓の方からの光が揺れる。カーテンをあけてバルコニーに出るといつもの子猫がいた。
 魚肉ソーセージをたまにやっているので舞人にも慣れてきている。美羽は三日月の模様からミカと名付けて呼んでいる。「ミャア」といつものを欲しそうに鳴くので仕方なく台所から魚肉ソーセージを持ってきてちぎりながら与えた。
 夢中でむしゃむしゃと食べる。ミカは食べ終わるとちょこんと座って舞人を見ていた。その顔はいつか見たような、そんな気がした。
 思い出している、この感じた事ある視線を、思い出そうとする。車に轢かれて自ら川に落ちていったあの猫と同じ目をしていた。舞人は窓を閉めて寝室に戻る。ベッドに寝転んで目を瞑ると自然と眠りに落ちた。


 振り下ろされるバット、車のガラスが割れた、音が弾ける。バットがすぐに振り下ろされて、そのバットを受けていた者はなんとか両腕でガードしたが、砕ける音が響く、叫びも同時に、する。そのもがき苦しむ顔は舞人自身だった。
 舞人は自分が自分に対してバットで殴っていることに気づきながらもバットを持っている方の舞人はヤメない、腕の次は太腿を、すねをバットで打ち砕いた。
 腹を蹴りあげられて仰向けになったもう一人の舞人は口から血を流している、目はもう虚ろだ。「やめろ」とバットを持つ方の舞人の側で声がする、しかし声を無視するようにバットは頭を、脳天をとらえる。
 骨がイヤな音だけたてて砕け割れる、脳漿が飛び散る、飛び散っている。暗闇が全てを支配している、その中でバットを持っている舞人と脳漿が飛び散った舞人だった者はホタルのように自らの内部から薄緑の発光をしている。
 脳漿だけは豆腐みたいな白さでほのかに光っていた。
 ガサガサっと何かが動く。何かが下にいるとバットを持つ舞人は空気の揺れで嗅ぎ取る。足下に何かが潜んで動いている、鼠のような大きさのそれが。
 目を凝らすがそれは見当たらないままに音のみがある。目を凝らす、今足の間を抜けていった、いった後に姿がぼんやり見えた。
 倒れている舞人の脳漿をちびちびと舐めている、それの姿が。顔があった、あの大谷の顔が。サイズは人間の大谷のものよりも縮小されている。体はヌートリアのような鼠のような小動物のものだった。二本足で立っている、舞人をちらりと見て細長い舌を出すとまた脳漿を舐め始める。
 大谷の顔を持ちヌートリアのような体の二本足で立つそれはまさしく侏儒だった。
「気持ち悪いんだよ」と胃液が上がってくるのを感じて舞人はその侏儒にバットを振り下ろした。侏儒は身軽に避けてバットがとらえた頭からはさらに脳漿が飛び散った、それを嬉しそうに地鳴りのような「ググゥグッグゥ」という鳴き声で歓迎した。
「東京へ行って夢が叶うと思うのか、叶わないから夢なんだよ。現実と夢の区別は付けた方がいいぜ、それが大人になるということだ。それが唯一の現実の在り方だ。そんなに現実は甘くはない、お前みたいな田舎者はカモにされるためだけ。叶えるやつはこんな所にいないのさ。今も罪の意識に苛まされているようなお前にはほど遠い夢だ。夢という牢屋に閉じ込められて終わった後に気づくのさ、間違えていたとな。平凡な戦場の中でただ死んでいくだけさ」
 侏儒ははっきりと嘲るような口調で舞人に言い放つ。
「俺はここから出ていくんだ、夢なんかじゃない、現実の続きをやりに東京へ行くんだ。現実の地続きじゃないとやりたいことはできやしないんだ。お前のような夢の中へ現れては悪夢しか見せないやつは黙ってろ、邪魔なんだよ、いつもいつも現れやがって」
「邪魔だとは侵害だな、俺は潜在意識の中からお前に気づかせてやっているだけだろうが。美羽に一言、愛してると言えばいいんだよ。美羽はお前を受け入れてくれる、そう完全に。二人で幸せな家庭を作ればいい、何も東京に行く理由なんかどこにないさ。ここで子供を作って家庭を築くのが身の丈にあった幸せというものだ。現実的な幸せさ、夢ではない、叶わない夢など捨ててしまえ」
「俺は行きたいところに行って、好きなことをやるだけだって。美羽は美羽の人生がある、自分で決めたことをするしかないだろ、それでたとえ不幸になろうとも、それを自分で選んだ事に意味があんだよ、だからお前は消えろ」
「消えろと言っても消えないもんなんだよ、悪夢ってのは。俺は侏儒だからな。悪夢に潜んでいるだけの、ただの侏儒の類いさ」
「うっせんだよ、消えろって」
 バットは的確に低い軌道で侏儒の、やつの頭をとらえて、鼻を潰して力任せに引っ張ってぶっ飛ばす。侏儒は後方へ、闇の中に消える。ボチャっと水の中に落ちるような音だけがする。
 目が覚めた舞人はまたかと思う。いつも見る夢を見てしまったと、額は汗の玉が浮かんでいる、一月初旬だというのに。冷蔵庫でミネラルウォーターのペットボトルを飲むが途中でなくなる。財布を持って家を出るとバルコニーの下で猫がまだちょこんと座っていた、いつもの猫のそれに戻っている。
「ミャア」と鳴いていつものを欲しがった。舞人はしゃがんで猫の頭を撫でる、いつもは触ろうとすると逃げる、美羽が触っても逃げないが。舞人が触って初めて逃げずに舞人に撫でられていた。「ミャア」とミカが鳴く、舞人はコンビニへ歩き出した。


     16


 美羽はひとりぼっちの部屋にいた。久しぶりに両親との一家団欒の後にこの広い部屋では孤独が支配してしまう。舞人はどこに行ったんだろう、漫画が置いてあるし、バッグも置いたままで。早く帰ってきてくれないかな、一人だと寂しすぎるこの部屋は、そして広すぎる。
 玄関の鍵が開く音がして舞人が戻ってくる。手にはレンタルショップの袋とコンビニの袋を下げて。美羽は「おかえり」とだけ言ってレンタルショップの袋を受け取る。
 舞人はコンビニの袋からペットボトルを冷蔵庫に入れて五百ミリリットルのペットボトルだけをテーブルの上に置いた。レンタルショップの袋の中から取り出したビデオテープを取り出してデッキに入れる。舞人と美羽は一緒にいるときは借りてきたビデオを見ている。交互に借りては一緒に見るのが生活習慣の一部のような感じになってき始めている。
 舞人は観終わるとノートに感想のようなものを書いている。監督や役者、脚本家など分かる範囲で。美羽は最初のうちは面白いとかつまんなかっただけの感想だったが一緒に観ているとなんとなく構造のようなものがわかってきて、あのシーンは入らなかったよねと口にするように少しずつなってきている。美羽は舞人と観る映画によって今まで観なかった物語群に触れている、感化され始めている。物語について考えるようになっている。
 自分のこれからの物語をどう展開していくか、何が必要なのか考える、うちはどんな物語を欲しがって、進もうとしているのか、それを真剣に考えて、考えている。物語を放棄して閉じこもっていた頃の美羽はいない、あの部屋から出る事が通過儀礼のように美羽に変化を与え続けている。


 ベッドの下の床に二人の衣類が散乱して縺れている、ベッドの上で裸の二人は寝転んで向き合っている。舞人は楽しそうにさっき読んだ漫画の事に話す。借りて来た映画は語るほど二人の心を掴まなかったから。
 舞人は東京タワーの話をする、「333のテッペンカラトビウツレ」と声に出して言うと美羽はなんだか魔法みたいだねと言う。舞人はそう魔法だったんだとその返答は正しいと思い、胸の中にその言葉を仕舞う。
 侏儒が出てきた夢の話を美羽に聞かせる、内部が発光してホタルみたいだったことを言うと美羽は昔家の近くのお宮の原っぱにホタルがいて観に行った事を思い出して舞人に教える。
「ホタルってまだ出るのかなあ、今年の夏とか」
「数は少ないだろうけどまったくいなくなるほど汚れてないんじゃないかな」
「じゃ夏に観に行こうか、ホタル」
「うん。あと一緒東京タワーもいつか行けたらいいね」
「僕が東京に行った時に遊びに来ればいいんだよ」
「……うん、そうする」
 美羽は幼い頃に見たホタルのことを思い出す。
 何匹もいて揺らめいていた。ぼわぁーと光っては消えて、光っては消えた。舞人は美羽の胸で穏やかな呼吸をして眠りに落ちている。
「一緒にホタル見るのきっと今年が最後だね。東京タワーかあ、遠いね」
 そう儚げにつぶやいて傍らにいる恋人の髪を撫でた。


     17


 ホタルをその夏、舞人と美羽は一緒に見る事はできない。それは舞人の誕生日の三月に彼に起きた出来事がそれを困難にした。ホタルは二人の目の前で揺らめく事はない。少しだけ春が顔を出して陽気な気温になったりすることが増えてきた三月の下旬。
 深夜二時過ぎのレンタルショップの駐車場で唸っているエンジンの振動。人は出歩いていない時間帯、静寂を壊すように鳴り響いている。持ち主は車の横にいる携帯で話しながら煙草を吸っている二十代そこそこに見える金髪の男、髪の根本はプリンになっている。
 その携帯の話し相手は県境を超えた広島の福山にいた。彼らは金髪プリンの友人の二人でボーリングをしてそこにいた二人連れのギャル風なヤンキー女にちょっかいをかけて遊んでいた。その女たちの彼氏たちに見つかってもう少しでしばかれそうになったので逃げている途中だった。
 友人が運転をして国道ではなく、くねくねと曲がった山道から岡山の方へ逃げている。彼らは追われている、が彼らには運転には自信がある。追っている側に負けるはずはないと確信している、この地理なら自分たちの方が有利だから撒ける。だから余裕をこいて助手席の奴は電話に出た。
 問題は追いかけているほうだった。彼らは岡ナン狩りをして深夜の暇つぶしをしている輩だった。福山に、広島県内に入ってきて遊んでいる岡山ナンバーを追いかけてしばきあげる岡山ナンバー狩り。
 それをやっている集団や個人はいろいろといるが今追いかけてきている黄色に塗装されたGTRはとことん追いかけて車の中にいるやつも潰すという、もっとも凶暴な部類に属している。
 喧嘩はもちろんのこと運転技術もレベルが高い、それしか暇つぶしがないのだから嫌でも熟練してしまう。一定の距離を保って追いかけている。だから追いかけられていた二人が待ち合わせのコンビニで金髪プリンと合流した後に駐車場に黄色のGTRはやってくる。
 GTRからはいかにもな様子の武闘派が三人降りてくる、この時点で勝敗はすでに決している。この悲劇にようやく最近全部揃えた「わたしは真悟」をまた読み返して深夜に小腹が減って、コンビニに寄っていた舞人は巻き込まれる、金髪プリンの仲間だと勘違いされて一方的にボコられて手錠のようなものをされ、あるいは紐で手をくくられ、車に連れ込まれ線路下に連れられていく。
 金髪プリンが高校の同級生だったことで立ち話をしていた不運が悲劇の始まりとして。舞人は大谷にしたように突如として暴力に襲われる。一方的な不幸の銃弾の的になる、不幸の散乱銃で体を撃ち抜かれた。そして砕ける諸々。
 だから舞人と美羽は一緒にホタルを見に行けない。GTRの三人組は徹底的に彼らを潰した、巻き込まれた舞人も同様に。だから朝になり散歩をしていた婦人数人に見つけられた時には血が固まって赤から黒へと変色している。
 赤から黒へ、生命のデッドラインを越えてしまう。
 婦人の悲鳴で意識が戻った金髪プリンたち三人はそれによって意識が覚醒してしまい痛みに気づく、ただ頭の打ち所の悪かった舞人だけ意識が戻らない、病院に運ばれるがある種の植物状態になる。
 数ヶ月が過ぎ肉体の傷や怪我はなんら問題なく回復している。ただ舞人は目を覚まさない、理由はわからないままに、夢から覚めない、目覚めない。
 桜はとうの昔に散った。梅雨の時期も過ぎて七年間地中にいた蝉が鬱憤を晴らすかのように鳴いていた。
 美羽はある日の昼間、舞人の病室にいる。夏の病院で、個室で、外からさんざめく鳴く蝉の歌が聞こえている。
「どうして起きんの舞人?」
 イスから立ち上がって舞人の顔を覗き込んだ。わずかに上下する胸、髭は伸びている、眠ってはいるが彼はまだ生きている、呼吸は続いている。舞人が美羽の部屋にやってきて外へ連れ出したように、眠りの側からこちら側へ引き戻したいが、その術が美羽にはわからない。
 窓から見える国道沿いの車の緩慢な流れを見ながら病院を訪れてすぐに廊下で舞人の祖母に言われたことを思い出していた。
「いつもありがとうね。でもあんたも若いんじゃし、美羽ちゃんの人生を生きてくれた方がええんよ。この子はいつ起きるかはわからんけえなあ」
 その言葉である決心がついた、美羽の今後の。
「舞人寝てるけど聞いてね。うちな来年東京に行く事にした。舞人が行こうとしてた専門にいこうと思って。だから舞人が目覚めて来年間に合えばまた同級生じゃし、遅れたら私の後輩になるで。だから早く起きて、お願い」
 ゆっくりと上下する胸とわずかな呼吸音、美羽は舞人に黙ってキスをする。
「早く起きてよ。舞人を殺してうちも死んだ方が楽かな」
 自らの両手を舞人の首に持っていって絞めようとする。
 少しずつ、力が強くなっていく。美羽は少しずつ赤くなっていく舞人の顔を見て、なんてバカなことをしてるんだろうと力を弱めてイスに座り込んだ。首を締めていた両手を見ながら泣いた、一筋の涙が零れて落ちていった、両手で顔を覆った。
 夏で蝉が鳴いていて、美羽は未来を決めていた。


『君たちの居た時間』Part 4