Spiral Fiction Note’s diary

物書き&Webサイト編集スタッフ。

『君たちの居た時間』Part 5

 

    7


 浩輔は廊下を歩きながらベンチに座って順番を待っている人達に脇目も振らず受付で聞いた目的の部屋を目指した。廊下の突き当たりのドアを開くと三月の終わりの優しい日差しとまだ乾燥し冷たい風に出迎えられた。
 日差しが柔らかい。屋根を支えている細い鉄柱の影が伸びていた。
 L字型の通路の途中で立ち止まり空を見上げた。初めて来た場所のその空は澄んでいた。なぜここに自分はいるんだろうと一瞬少しだけ思った。
 好奇心がなかったわけではなかったし、自分の知らなかった世界を少し見てみたいという欲求も少なからずあった。知らない世界を見てみたいというごくありふれた思い。好奇心から始まっていったのは間違いなかったが、それが発端で会いたいという欲望が少しずつ膨らみ始めていった。
 単純に三崎理沙に会いたいという感情。その時は蕾だった、その後知らないままに大きくなっていくことも知らずにそこにいた。理沙とはメールでやりとりをしていた。
 彼女の想いの一部、哀しみは伝わってきていた。デジタル化された想いだとしても伝わるものはある。少なくとも浩輔には伝わった。
 思い込みだと言われればそれまでだろう。思い込む事で信じられる事もあるんだと思う。そして彼女のメールから伝わってくるものを確かめたかった。会って話がしたいと思うようになっていった。メールでのやりとりは簡単で早い、だけどどこか喪失感がある。
 顔の変化や仕草、その瞬間のなんとなく感じる雰囲気とか実際に会って話さないと伝わらないもの。だからここに来た。
 来る事も知らせずに。通路から見える彼女がいるはずの病棟の壁はぼろぼろで年月を感じさせた。この病棟は外部から見えない場所にあり、この忘れられた雰囲気は日の当たらないジメジメした木陰のような寂しさを醸し出していた。
 ぼろぼろなのはこの場所がキレイである必要がないからだった。世間からも関係者からも歓迎されていないという事実を物語っている。現実は哀しい。
 病棟の横に植えられた名前もわからない木は花をつけていない、しかしどんな色の花がすぐそこまで匂い始めている春に咲くのか知ることもない。風がひ弱な枝を揺らす。貧相な感じがした。空気は乾燥していた。
 枝に止まったカラスがじっと浩輔を見ていた。僕が来たと知ると彼女はどう思うだろうかと考えながら彼は歩いた。喜んでくれるだろうか? それとも、迷惑に思われるだろうか?
 せめて笑って話ができたらそれでいい。それだけだ、それ以上はなかった。期待してはいけない。それはわかっている。携帯を取り出し時間を確認すると午後2時少し前だった。ここは一応、病院だから電源をオフった。
 電源が入ってなければ意味のない哀しい機械の重さ。感情がないのならば人間も意味のない悲しい個体なのだろうか。
 降りる駅を一つ間違えたにしては計算よりも早く病院に着いていた。通路で繋がったもう一つの病棟のドアを開けた。明らかに先ほどの病棟とは違う空気感があった。
 暗く湿っている。確かに何かいる、姿は見えないが感じる、何か。なんだかそれは哀しい誰かの想いのように暗く沈んでいて訪問者にまとわり付くような。
 床はさきほどの病棟のタイルとは違い、テレビで見たことのある田舎の生徒数もいなくなって取り壊される運命の木造造りの校舎の廊下を思い出させる木の床。
 ミシッ、ミシッ。ここが長い間、時代から取り残されているのは間違いない。ミシッ、ミシッとスリッパ越しに木の床の軋む音が聞こえてきては哀しさが漂った。誰かの泣き声みたいにミシッ、ミシッと音を立てる。
 話し声も何も聞こえない、窓を揺らす風の音が聞こえていた。受付と書かれた窓には六十を確実に過ぎているおばあちゃん看護婦が座っていた。戦時中からこの仕事をしていてもおかしくないと浩輔は思った。
 なぜかふてぶてしい感じのする威圧感のある態度。見舞いに来たのは見ればわかるはずなのにおばあちゃん看護婦は言う。
「何の用ですか?」そう言いながら看護婦は浩輔の顔から服装全体をゆっくりと見た。
 何の用って病院に来る理由なんて診てもらうか見舞いしかないだろう。それに隔離されているここに来る自体で見舞いに決まってるでしょと言いたかったがそんなことを言えば面倒になって目的を果たせないかもしれないので冷静に言った。
「三崎理沙さんのお見舞いに来たんですけど」
 おばあちゃん看護婦は壁にかけられている円い時計をチラッと確認した。
「えーとお名前は?」
「栗山浩輔です」と答えた。
「あっそう、三崎さんね。面会は三時からだから一時間後に来て」と抑揚の無い声で言い放つ。
「えっ? 三時からなんですか?」
「規則だから」
「規則ですか?」
「知らなかったの?」
「知らなかったです。今からってダメですか?」
「無理ね、規則だから」
「規則ですかあー」
「規則は守るから意味があるの」
「そうですね」
 おばあちゃん看護婦は視線を落としなにかノートに書きはじめた。彼はこの一時間をどう過ごそうかと思いながら、とりあえずここから出ようと入り口のドアに向かって歩き出す。会えないなら今ここにいる必要はない。
 木造の床がミシッ、ミシッと音を立てる。あざ笑われているかのようだった。いきなり見舞いに来て驚かそうと思ったら、この有様かと自分が情けなくなった。
 L字型の通路に出るとカラスが止まっていていた木の枝にコンビニのビニール袋が飛んで来て引っかかってガサガサと風に弄ばれていた。ビニール袋は強くなった風に飛ばされて宙に舞った。それを目で追った。


     8


 誰も使わなくなった公衆電話。辺りは暗闇で唯一の灯りといえば公衆電話を囲うアクリル製のカバー上部に付けられた電灯だけだった。けたたましく公衆電話が鳴り始める。
 音の無いこの空間で鳴り響く電子音。
 終わりを告げるような、始まりを告げるような、そんなサイレンだ。サイレンはただ鳴り響く。電話のカード残高表示は「8」を横にしたメビウスの輪の電子表示。公衆電話を支える鉄柱の根本で浩輔は目を覚ました。
 寝ていたというよりは何かどこからか浮かび上がってきたようだった。サイレンが鳴り響く公衆電話をチラッと見上げた。なんで公衆電話がと思いながらその音を聞いていた。
 永遠に鳴り止まないようなサイレンは誰かに止めてもらいたいかのようにその連続性を止めない、いや待っている。そう彼を。
 ここにいる唯一の存在である浩輔に出てもらうことを待っている。ぼんやりと上空を見つめる。どうしてだか、ここにいる生命体は僕だけだと浩輔は感じている。うっすらと光る電灯の灯りが見えた。
 その先の空は堕ちるような、吸い込まれるような闇がただ広がっていた。その闇には恐怖はなく溶けるような、いつか彼が産まれる前にいた場所のような闇だった。
 目を完全に覚まそうとしてポケットにいつも入れている目薬を取り出して注した。果たしてこれが現実なのか夢なのかわからなかったが、目だけは覚ましたかった。いつから僕はドライアイになってしまったのかと思いながら両目に溢れるほどの量を流し込む。
 零れ落ちて行く症候群。
 目薬を英語で言うとアイドロップス。目に落とすというそのまんまの意味。
 アイ=愛、ドロップスはそのままに愛ドロップスと言葉遊びのようにするとなにかおもしろい言葉に感じた。
 愛に落ちる。
 愛を落とす。
 落ちる愛。
 落とす愛。
 しかし、落ちようが落とされようがきっと愛は零れ落ちていくんだろう。目の奥がかゆい感じ、カラカラに乾いている目の表面、潤いを欲している。心がカラカラで愛に落ちても、きっと何かが零れ落ちてしまう。そんなイメージが頭の中で舞う。いつも人のぬくもりを欲してしまう。満たされてもさらに欲して大事なモノを見失うイメージ。
 雨の中を走る気持ち良さ、ずぶ濡れになるのは気持ちいい。雨に打たれるのは生きている感情そのものだ。ただ降りしきる雨を吸収することはできない。 
 ずぶ濡れになる、ただ降りしきる雨の中を疾走する。目がいつも乾くように体自体も乾いている。全身で雨を感じたいという欲望。
 アイドロップス、レインドロップス、落ちてくるものを受け入れる。あるいは落ちていく。潤いを感じたい、いつだって僕は乾いている。目を閉じてイメージする。
 想像することが大事なんだと自分に言い聞かせる。涙を流す、感情自体が零れ落ちていくイメージが浮かんだ。きっと大事な何かだ。きっと、きっとそうだ。涙は溢れ、流れていく。流れ落ちる。
 感情の湖はいつも急に満ちて全てが滑り落ちてカラカラになる。満たされたと思った瞬間にゼロになる。揺さぶっている何かが潜んでいる。きっと自分の中に。
 いつも喉がカラカラでオアシスを求める野生動物の咆哮。ひたすらに、とこしえに叫ぶ。見えない何かを威嚇する、そんな咆哮。
 ただ叫びたい衝動に駆られる。ただ、ただ、叫びたくなる。叫ばなければ自分を見失ってしまいそうだ。
 見失わないための咆哮、誰か此処にいるこの存在に気づいてくれよと懇願するように空気を振動させる。
 狩り狩られる生存競争。太古から終わらずに続く弱肉強食。生と死のサイクル、自然界のサイクル。循環するもの、巡り巡って回る輪。きっとそのサイクルから人間は降りてしまった。いや、放棄したのかもしれない。
 そしてそのことの重要さと将来の危機にようやく気づいてリサイクルという発想になっていったのかもしれない。もう一度サイクルの輪に戻れるのだろうか。浩輔の脳内で言葉が浮かんでは消えていく。
 物質主義からの解放、資本主義と言う宗教からは誰も完全には逃げきる事ができないというこの世界での暗黙の了解。
 走っても逃げきれないと言う諦めに似た消費と経済活動。
 巨大な耳の巨大ネズミが陽気な音楽にのって踊っている。陽気な死のメロディーが鳴る。その後ろには世界中の貧困や難民で死んだ子供達の屍でできた絶望という島がある。
 表の夢との表裏一体で成り立つ資本主義の裏の一面が。豊かな国の子供や何も知ろうとしない大人には見えないもう一つの哀しみのアイランドが。暗闇の世界に浮かんでいる。
 見て見ぬふりを覚えようか? そうしなければ心の健全は失われる。どこでなにがどう間違えたのか? 彼にはよくわからない。でも想像しようと。
 資本主義が切り離したサイクル、この国の方から切り離したサイクル。サイクルに加わる一番簡単な方法は死んだら火葬せずに土葬してもらえばいい。好きな詩からの受け売りだけど。
 僕の肉体がプランクトンたちに分解され、花や木の根に養分として吸収され酸素や二酸化炭素として空に放出されるならば、そのサイクルに戻れるはずだ。それならば彷徨せずとも済むはずなのに。そうすれば、大気に放出された僕がいつか君に出会えるはずだから。
 目薬が染みる、視界が一気に働き出した。両目の端から涙のように零れ落ちる。今、また何かが自分の中から零れ落ちたと思う、ただ思う。大事な何かが。
 何が零れ落ちたかはわからないが。しかし浩輔はそう思わずにはいられない。いつかそれを見る事はできるのだろうか。
 公衆電話のボヤーとした灯り、それを包むような暗闇をミジンコがふらふらと横切っていった。ときおり目の前をミジンコのような透明な物体が通り過ぎて行くことがある。それはミドリムシのようだったりもするが、色はなく透明だ。
 透明ビニールみたいに透けて見える。輪郭だけは掴める感じが、手応えがある。上から下へ下から上へ、左から右へ左から右へ統一性なく泳ぐように流れるようにミジンコ達はただ通り過ぎて行く。浩輔の存在を無視するかのようにただ通り過ぎていく。通り過ぎていく。ただ通り過ぎていく。それが何なのかはわからないし、興味もさしてない、ただそれらが或るということだけ認識している。
 そうただ或る。
 寝たままで両目から零れ落ちる液体を手で拭う。右手をグーの形で上げて、ゆっくりとパーに開いていく。末端神経に働きかける、血流が指先に流れこんでいくがわかる。パーになった指を意識だけでさらに開く、力をこめると連動するように右肩、右の肋骨腹筋が張った。
 小指、薬指、中指、人差し指と折っていく、親指を折り、またグーの形にする、さらに力をこめる、腕の血管が浮かび上がる。
「ああー、うわー、うわぁーーー、ああ、あーーーー」
 喉がかれるほどの大声で叫んだ。暗闇に向かって咆哮する、空気が震える。その咆哮で公衆電話のサイレンをかき消そうとするが電子音が一瞬意識の外に放り出されただけですぐにサイレンが耳に戻ってきた。
 天に突き上げた右手を下ろしてふぅっと溜息をついた。そして、おもいっきり息を吸い、限界まで息を吐き出した。胸が大きく上下する、横隔膜の存在を感じる、そこに或ることを。両足を折り曲げ、腹の近くまで持ち上げる。その時背骨を少し丸める、ゆりかごのように反動を付け、勢いを増して三回繰り返して低姿勢のままに、ダンゴムシのように丸まって着地する。
 踏ん張った足が勢いよく地面に着いた。少しだけ地面が沈んだ。
 地面は黒いゴムのようなものに覆われていた。寝ていた自分の体の形に少しだけ凹んでいた。まるでテンピュールの巨大なマットレスみたいだ。それから彼は未だに鳴り響くサイレンを止めた。


 さっきまでなかった月が現れて、まんまるに光っていた。月の上円部の半月の一番高い頂点部分が少しずつ内側に凹み始める。まるでリンゴのように。
 凹んだ部分から伸び出した毛細血管のような赤い筋が月の中心部へ向かう。赤い筋の先端に一つの球が現れ始める。その球が割れるように、真ん中に筋が通り、二つに、四つに、八つに、細胞分裂を繰り返していく。
 分裂する、バイバイゲーム、膨れ上がるように。ハロー世界。グッバイ世界。出会って、別れて、バイバイゲームの始めを告げる。分裂する、縦に割れ、横に割れ、次第に球は変化していく。縦横変化、細胞分裂、終わりの始まり。
 月の中で育つ細胞分裂の証。やがて一つの球は人の形に変わっていく、子宮のような月の中で赤子は眠る。ドクッ、ドクッ、ドクッ、ドクッ。脈打つ音が暗闇に響く。浮遊するかのような音が。正確なリズムを刻む、それがその世界でのたった一つの音。そして重力を振り切り浮遊するための内なる証であるかのような、そんな生命のリズム。
 カウントダウンが始まった、終わりまで最後の時までを鳴らすリズム。月の下円部の一番地上に近い部分に穴が空きそこから根が出てくる。根が下円部から上円部伸びていく。上円部の凹んだ部分の上で絡み合うと緑色の根が次第に紅に染まっていく。
 血が巡るかのように赤く赤く染まる。赤く赤く染まり、ビビッドな赤になる。やがて絡まった根の先から花が咲き始める。大きな大きな白い花。空に咲く花、闇に浮かぶ白。循環する赤い血、闇の中に佇む白い花が天に向かい華やかに咲く。
 地上の公衆電話の受話器は揺れている、本来の置き場に置かれずに宙をぶらぶらと揺れている。そこにはもう誰もいない、浩輔だった者の姿はすでにない。意識だけが存在して月に咲く花を、大気に溶けて見ている。瞼が重くなるかのようにうとうとしてくる、堕ちると思う感じがして意識が消えそうになる。
 花に吸い込まれて行くと感じた時に意識が花に溶けた。その空間には月に咲く大きな白い花。
 宙ぶらんになっている受話器の公衆電話だけが存在している。月の内部に宿った赤子の心臓の鼓動だけがただ響いていた。


 ドクッ、ドクッ、ドクッ、ドクッ、ドクッ、ドクッ、ドクッ、ドクッ、ドクッ、ドクッ。
 ただ連続する鼓動がそこにはある。
 ドクッ、ドクッ、ドクッ、ドクッ、ドクッ、ドクッ、ドクッ、ドクッ、ドクッ、ドクッ、ドクッ、ドクッ、ドクッ・・・・・・。


     9


 湿った部屋。飼い主がいないからふて腐れたような犬みたいな温度、でも誰かが来たら、触れてくれたら嬉しくてしっぽを少しだけ振る。でも飼い主の事を思い出してしっぽを振るのをやめて何食わぬ顔をする、そんな室内に宇美は足を入れて電気をつける。私ではない人間の生活臭がする、その人だけが持つ匂いというか肌触りみたいな部屋触り。
 少しだけ埃がたまっているようだ。それが主を失った時間の証拠として至る場所に存在、点在している。とりあえず何から手をつけたらいいのかわからない。ベッドに腰を下ろして考える、これからのこと。
 宇美は部屋の中のものを見渡して使える物と使えない物に区別していく。使える物は私が使えばいい、使えない物は処分するか引き取ってもらうかしかない。おそらくほとんどの物は処分する、服はどうしようか悩む、私とは趣味が違う。
 何を止めればいいのか考える、まずは水道と電気とガス、携帯も? 携帯も止めないと支払いは続くだろうし、あとはパソコンのネット回線も切らないとダメだなあって部屋を見ながら思案する。
 パソコンが置いてあるデスクの前のイスに座ってパソコンを起動する。デスクトップには様々な種類のファイルが並べられている、仕事のものだろう。
 ひとつだけ気になるファイルがある、「Mayonaise」と。開くとそれはシナリオが書かれている、彼女と彼の物語が。宇美は人の日記を盗み読みしているような気持ちになる。でも止めようとは思わなかった。
 途中でそのタイトルと同じ曲が入っているアルバムを見つけてパソコンに入れて聴き始める。その曲だけが何度も何十回もリピートされる、繰り返される。途中で彼女と彼の物語は突如として終わる。
 続きはない。頓挫されている、彼女と彼は再び出会っていない。この物語は彼女の遺書であり過去であることを感じる、続きはない。宇美はデスクの二段目から空のCD―Rを取り出してその物語を焼き付ける。
 この物語の続きは私が引き継ごうと思う、いや引き継がなければならないと使命感すら持つ、私以外にはいないからと。その時からダイバーでドライバーだった宇美はダイバー、ドライバーではなくなる、もうひとつの人格を持つようにもうひとつの自分以外の物語を引き受ける。
 それから美宇は彼女のように冷蔵庫から冷えたビールを取り出して部屋を出る、湿った部屋から逃亡して階段を駆け上る、できるだけ全速力で、細胞が呼吸困難になるぐらいの勢いで屋上のドアを叩き開ける。
 終わりかけのオレンジ色の夕日に照らされているコンクリートの地面の屋上に一人立っている、唯一の生命体として、初めて地球に降り立った地球外生命体のように、長い影が伸びている。
 呼ばれているかのように後ろを振り向くとそそり立つ巨大で赤にペイントされた地球人が作り上げたスペースシャトルが目に入ってくる。だから彼女はそれを睨みつける、しだいに睨みつけるのに飽きてきて憂いを帯びたような顔つきでその赤い塔を見つめる。
 乾いた喉がつばを飲み込む音が自分の中で反響してビールのプルタブを開けると全速力で走ってきた結果として一気に泡が吹き出して握っていた手を濡らす、泡はコンクリートの地面に染み込んでいく。
 ビールを一口飲んで、それから残ったビールを一気に流し込む。ゲホッゲホっとむせて涙ぐむ、ビール缶をコンクリートに置いて前方に見える赤い塔、東京タワーを見つめる。それから思考する。あの部屋に置かれているもののことを。
 服はやはりもらっておこう、物語を続けるために、それに携帯も。


     10


 人が乗っていないタクシーが何台も茶沢通りを通り過ぎていった。青信号になるとドラッグストアのバイトの友達で酒飲んでテンションの高い溝口さんと大学生の古瀬はできていないスキップをし始めた。へたくそだけど可愛い感じだった。
 浩輔と理沙はそれを指差して笑いながら歩いていた。彼は理沙の重そうな荷物を持った。なぜかそうしたかったから。
「ありがとう」と左側の理沙が言った。
「だってふらついてるじゃん」
「栗山は優しいね」
「普通だと思うけど」
「じゃあ、普通に優しい」
 手ぶらになった理沙は両手を重ねて自分の息を吹きかけていた。一月の終わりの風は凍てつくような冷たさだった。理沙の白い息が流れていくのを見た。
「寒っ。雪振るかもしれないね」
「ほんと寒いね、ほら」
 理沙の右手を浩輔は左手で握りしめて自分のコートのポケットにお招きした。冷たい小さな手だった。
 ポケットの中で小さな理沙の細い指と骨がゴツゴツした浩輔の指が絡まって、握りしめ合っていた。二人の距離が少し縮まって肩と肩を寄り添う距離になった。
 小柄な理沙の頭は浩輔の肩に預けるような形になった。目が合って彼らは少し微笑んだ。そこには安心感があった。ほんとに愛しく可愛い存在だった。握った手の実感の全てが嬉しかった。
 寒さで彼の顎が震えて上下の歯が当たる音がしたのを聞いた理沙は笑った。それを見てつられて顎を鳴らしながら彼もまた笑った。ポケットの中の手は強く握りしめられていた。心がそこにあるみたいに温かかった。
 彼らはゆっくりと浩輔の家までの距離を恋人のように歩いていった。彼の家での二次会に理沙が来たのが浩輔の家に来た最初で最後になった。

 外のバス停で居眠りをしていた停車したバスのクラクションで目が覚めて歩き出した。また同じ病棟を抜けて、L字型の通路を越え、もう一つの病棟へ。おばあちゃん看護婦は「来たな、小僧」という感じで浩輔を見た。
 浩輔が言うべき事を言う前に待合室に通され、おばあちゃん看護婦は理沙を呼びに行った。彼は待合室で数分待たされた。足音が聞こえた。ストーブがあったが焚かれてなかった。
 室内にはたくさんの暇つぶし用のサイドがボロボロでジュースが染みたりして変色した本が置かれていた。横にスライドさせる木製のドアを理沙が開けて浩輔を見た。
「えー、なにやってんの? なんでいるの、ここに!」
 理沙はかなり驚いた。そして少しだけ笑っていた。彼の第一次作戦は成功した。
「見舞いに来たんだけど」
「ひょっとして一時間前ぐらいに来なかった? 声が聞こえたの。あー面会時間知らないで来たバカがいるなって思って」
「そうだよ。そのバカは君の知り合いだったわけ。いきなり来てビックリさせようと思ったんだよ、そしたら失敗した」
「そのバカが自分の知り合いだったとは。ホントに言って来てくれたらよかったのに。もし検査とかで会えないかもしれないし」
「あー、考えなかったわ、それ」
「でも、ありがとう」
「元気そうだね、咳とはどう?」
「だいぶ楽になったよ、前よりは。ねえ、ここ陰気くさいから外行こう」
「出れるの? 結核病棟に隔離されてるのに、いいの?」
「ここゆるいんだ。それに私もう出ても大丈夫なんだよ。着替えてくるね」
 理沙は部屋から出て行った。浩輔はぼんやりと天井の木目を眺めていた。元気そうでよかった、検査とかで会えないとか考えていなかった自分を心で少し笑った。彼女の両親とか彼氏が来ていたらやばかったなあとも。
 理沙がさっきまで来ていたピンクのパジャマから普段着の仕事先に通勤するときのような格好でドアを開けた。
「行こう」
「どこへ?」
「駅前でお茶でもしよう」
「元気な結核患者だな、まったく」
結核持ちですが元気です」
「左様でございますか」
「イエス
 彼女が先頭で歩いて病棟から出て行った。彼はそれについて行った。歩きながら病状のこととかメールのこととか話しながら新小岩の駅へ向かった。駅へ着いてミスドに入ってお茶をした。なんだか久しぶりに会った中学の同級生みたいな感じで彼らはよく笑った。彼女はよく話したし、辛かったこととかこれからのこととか聞かせてくれた。自分に気を許してくれていることが嬉しかった。
 二時間ぐらい話して彼女を病院まで送って行こうとすると彼女はそれを断って浩輔を駅まで逆に送ってくれた。
「じゃあね」と言って彼女に手を振った。彼女も「またね」と言って手を振ってくれた。改札を抜けて振り返った。
 彼女はそこに立っていて笑顔で手を振ってくれていた。彼も笑って手を振った。なんだか泣きそうになった。帰りの電車の中で理沙が幸せになればいいなと過ぎ去る景色を見ながら願った。


 理沙の見舞いに行って2ヶ月後に理沙が退院して会社を辞める事になり店に荷物を取りに来た。二ヶ月の間に浩輔は店の社員とセフレみたいな関係になってしまっていた。ドラッグストアには薬剤局もあり、そこの薬剤師の責任者の浩輔よりも九つ年上の薬剤師の社員だった。きっかけはとても簡単なことだった。
 処方箋を持って来た老婆とヤクザ崩れのような息子だと思われる男。その日は処方箋が多く、客をかなり待たしていた。待つことに耐えきれなくなった息子はドスの効いた声で怒鳴り散らし、責任者である彼女を責め立てた。その迫力にお嬢様育ちの彼女は耐えきれずに泣いてしまった。
 事態はなんとか終着したが、休憩室と名ばかりな狭い部屋で彼女はその恐怖からまた泣き出した。品出しをして喉が渇いた浩輔が部屋に入ると泣いている彼女がいた。事情を聞かされ、まだ泣き止まない彼女の頭を幼い女の子を慰めかのように浩輔はよしよしと撫でた。そのことで彼女は彼に好意を持つようになった。
 彼女にはバツイチの四十代の歯科医の恋人がいた。歯科医は一度の失敗で結婚願望を捨てていた、それもあったのか展開しない恋人との関係が浩輔に恋心を持たせたのかもしれなかった。
 ある日、飯に誘われてそのまま近くの道玄坂のラブホテルで彼らは体を重ねて、朝まで一緒に過ごし渋谷で別れた。その彼女とセックスをして浩輔は理沙が好きだと思い知った。その薬剤師の彼女とのセックスで一度もイカなかった、イケなかった。
 男性的に自分はダメかとすら思った。好きでもないその女性としてわかったのは自分が本当は誰が好きなのかという哀しい真実だけだった。
 理沙が荷物を取りに来たその日、仕事が終わったらその彼女と会う事になっていた。浩輔はこんな関係、そうセフレみたいなことは止めようと言おうと決めていた。荷物を取りに来た理沙の顔を見てもうまく話せなかった。見舞いに行ってミスドで話せていたことが懐かしく感じた、なんであれがまたできないのかと思った。肉体の欲望と心が向いている所が違いすぎて、浩輔は自分が嫌になっていた。胃の中が嫌な感じで溢れた。
 理沙の顔を見てもきちんと話せない、そんな自分が気持ち悪くなった。心では理沙のことを思っている、体はそのことと正反対の行動をしている自分が気持ち悪くなった。
 それは二十数年生きていて初めて経験だった。自分が、自分という存在が気持ち悪くて仕方ない。
 トイレに駆け込んで指を突っ込んで吐こうとしたが何も出てこなかった。吐かせてくれなかった。吐きたくて仕方ないのに。吐いて楽にさせてほしかった。
 吐き出せない自分。泣きそうになった。浩輔に人間がこんなに哀しい生き物だと教えてくれたのは理沙だった。こんなことを彼女に一生伝えられるわけもなかったとしても。


 浩輔と理沙はその翌年の飲み会で久しぶりに会う。十人ぐらいの飲み会で理沙は彼の正面に座っていたがほとんど話はできなかった。彼は勝手に緊張して話す事ができずにいた。
 理沙はよく笑っていた、よく飲んでいた。病気から完全によくなった感じがした、あるいはそう見せようとしてそうしていたのかもしれない。彼女は忘れて行くだろう。結核になってしまったことは忘れられなくても、そこにいい想い出はないのだからできるだけ忘れて前に向いていくだろう。
 僕らはその忘れたい過去を思い出させるパーツなのだからと笑う彼女の顔を見ながらビールを飲んでいた。それから何度かあてもないメールを理沙に送った。
 返事はいつもあっさりしたものだった。ライブも映画も誘ったが理沙はあたりさわりのない理由で断った。理沙に会いたい気持ちだけが強くなっていった。でも、もう会えないんだということは浩輔にもわかっていた。


 退院してから二年後の春、浩輔が彼女を忘れようと誘ったライブに彼女はもちろん来なかった。彼の専門の入学式が行われた当初は渋谷公会堂という名前だったその会場は命名権を買われて渋谷C.C.Lemonホールと名を変えていた。 
 浩輔は隣の空席を見つめながらステージで歌う一番好きな女性歌手のsalyuの歌声を聞いていた。だが、浩輔は一度も席を立つこともなく、理沙の空席を見つめながら初めてその歌姫の歌声で心が動かない自分がそこにいることを知った。
世界が止まったみたいだった、実際その日は彼にとっては止まっていたのだった。
「髪切れって店長がうるさいんだよ。耳ぐらいこえても問題ないと思うんだけど、そんなの気にする客いないと思うでしょ。でもさあその赤茶は社員として問題ないの」
「ないよ〜、問題。このぐらいの赤茶で文句言われたら辞めますよ。だって髪ぐらい自由にしたいし、客の方が髪すごいのに。そのぐらいで切れって言われるんだ、めんどくさいね」
 そんなことをレジで話していた赤い髪の理沙は浩輔の前からいなくなった。彼女の後ろ姿だけがどうも頭から離れないままに。
 いつかどこかで、この東京での日々を過ごして行ったらどこかの街ですれ違うのかもしれない、そんなことを思った。その時、理沙に声をかけれるのだろうか。もし、三崎理沙は浩輔が声をかけたら笑って話をしてくれるだろうか。
 そんな時は何を話せばいいんだろう。いつかどこかですれ違えたら声をかけるべきなのか、かけるべきではないのか、そんな事を想いながら歩いた。立ち止まり目が乾燥して目薬を注した。
 両目から目薬が零れ落ちた。空を見上げれば桜色の景色が緩やかに揺れていた。


     11


 宇美は貯め込んでいた有給を使う、一気に消化する。実家に帰る理由が理由なだけに上司も許可を出す、宇美の計画通りに。山陽新幹線で東京に上京した時には停車しなかった品川駅から乗って一番近くの新幹線が停まる福山駅まで帰る。その後駅前のローターリーから井笠バスに乗って井原方面へ三十分ぐらいの道程を辿って帰る、実家へ。久しぶりに帰ると見慣れた東京の街と違ってなにかスローに感じた、せかせかしていないような、ある種の停滞感のような流れがあった。
 平日の二時過ぎのバスに乗っている若い人は宇美ぐらいであとは年寄りと子連れだった。バスは次々に老人と母子を飲み込んでは吐き出して国道を進んでいく。
 実家に帰ると両親が出迎えてくれた。父も母も白髪が増えていてあきらかに老けていた、この一年が二人には長過ぎたのかもしれない。それは私にとっても長かった、二十を超えてからは周りの大人が言うように時間が経つのが早くなった、しかしこの一年だけは時間は緩やかに早足にならずに競歩のようなスピードと的確さだけで刻まれた。刻一刻と秒針は重くまわった。二日間は決められた用事をこなす、しめやかにこなす。
 一旦落ち着いて両親とご飯を食べてから二階の部屋で持ってきたキャリーケースからノートパソコンを取り出してあの物語を読む、そして同じくキャリーバッグから彼女の服を取り出して着てみる。
 普段は着る事のないおとなしめで上品な感じのするワンピースとシックな黒のジャケット。そして彼女のアクセサリーケースに入っていたカーブド・ティアドロップのピアスを右耳に付ける、銀色の涙が耳に重量感をもって伝わる。


 翌日、舞人の実家に電話すると舞人の母親が出た。舞人は現在ジーパンを作っている工場にいるということを教えてもらう。宇美の地元の残った友達から舞人の意識が戻ったことだけは教えてもらっていた。どこにいるのかを知る必要があった。
 舞人の母は宇美が名字を名乗ると声色を変えた、警戒心は解けたように、ある種の同じ意識を持つものへの共感と同情心から。
 彼の事件自体は解決されていない、同郷の友人によれば犯人のGTRの三人組のバックには暴力団が絡んでいて裏工作で警察と話がついていて捕まらないだとか、昔、岡山ナンバーの車に彼女を拉致られて強姦され殺されたその女の彼氏とその仲間たちが乗り込んだが逆に返り討ちにされて殺された怨みから岡山ナンバーが広島県内に入るとその幽霊たちが追い掛けて岡山ナンバーを狩るという都市伝説的な話にまで広がっていた。
 夕方になって工場に出向いた。宇美は舞人に会える喜びで、いっぱいだった。物語を引き継ぎ、彼女と彼の物語がこれからまた始まる期待に。でも、彼の前では美宇は彼女を演じなければならない、宇美は宇美でありながらも別の人物としてこの物語を引き受けることにした、彼が思い出すまでは。
 五時を過ぎて従業員たちが工場から出てきて各自の車やバイクに乗って帰っていく、皆一様に宇美を一瞥する、彼女の格好がその場には馴染まない、都会の装いと匂いを放っていた。
 髪を後ろで結んだ舞人らしき人と四十ぐらいの男性が出てくる。宇美の鼓動は高く速くなる。舞人が近づいてくる、舞人だった。舞人ともう一人の男性は宇美と目が合うと軽く会釈して通り過ぎていく。
「舞人」
 その声で二人は足を止めて振り返る。
「舞人、わたしだよ」
 不思議そうに宇美を見る舞人の顔は子供みたいに、思える。もう一人一緒にいた男性が口を開いた。
「清水君の知り合いの方ですか?」
「あっ、はい、浅野美羽です。清水君の同級生の」
 舞人は宇美の顔を見ているが声を発しない。やがて視線は自分の足下へ逸らした、なんだかつまらないような顔をしている、自分には関係ない話をされて退屈している小学生のようだ。
「うーんとね、知らないんだと思うんじゃが、清水君はずっと寝ていた以前の記憶が曖昧というかほとんど記憶にないらしいんよ、だからあなたのこともきっと」
「えっ、記憶がないんですか」
 宇美はあえて少し大げさに言う。
「事故の時に頭を打って、それが原因らしいんだけど。眠っていた期間が長過ぎて脳の記憶が失われたと医者には言われたらしい。特にあの事件当時のことは覚えてないらしんよ」
「そんな、ねえ舞人。私だよ、美羽だよ。わかんないの? ほんとうに。思い出してよ、舞人、ねえ」
 舞人の腕を掴むと舞人の表情は恐怖を感じるように色を変えた。本当に私が誰だかわかっていないことを宇美は認める。認めたくないが認めるしかないその表情で、だから物語を続ける。
「話したいことがいっぱいあったのに」
「きっと今の彼には無理でえ。時間が経てば戻るわけでもないじゃろうし、かわいそうだけど彼は君のこと思い出せないかもしれない」
 宇美は彼女と舞人と過ごした日々を思い出すように自らの中で反芻する、もはや細胞の中に埋め込まれた記憶として。
 私の中に彼女の人格が芽生えるように違う自分の存在が宇美の内面から零れ出してアスファルトに落ちる。
「すいません、それでは」
 中年の男性は頭を下げて歩いていく、舞人もそれに倣うように歩き出して宇美に背を向けた。だんだんと舞人が遠くなっていく、秋の緩やかな日差しで舞人の影が長く伸びていた、亡霊のようなそれを見ている。
 宇美の足が勝手に動き出していた、走っている。舞人の後ろまで行って手を掴んだ、舞人は驚いたように振り返って彼女の顔を見た。ぼろぼろに泣きながら舞人の胸に顔を埋めた。舞人はそれを受け入れるように美羽の体重を受けて頭を片手で撫でている。
「舞人、思い出したの」
 泣きながら嬉しさが滲む声になって顔をあげると穏やかな表情の舞人がいる。
「大丈夫、お姉さん、泣かないで僕も泣きそうになっちゃうよ」
 優しく残酷な言葉だった。
 美羽はゆっくりと宇美の内部に溶けてしまう、姉の人格とシンクロした妹は顔を舞人の胸に埋めて泣いた。


 国道313沿いにできていたファミレスで宇美と舞人はご飯を食べた。和風ハンバーグ定食とオムライスを。車で国道沿いをドライブがてら走らせているとツタヤができていたり、かつての光景は新しく大型資本のチェーン店に成り代わっていた。だだっ広い駐車場には数台の車しか停められていない、かつてはそこには個人経営のカラオケ店があったことを思い出した。
 記憶は残されているのに、その実物は永久に消え去っている。
 店内では一方的に宇美が昔の事を脳内ハードディスクから取り出して話をする、時折自分が知らなかったことすらも美羽が時折顔を出してどんどんこの口から零れ落として彼に届けようとするが舞人は理解できていない、でも話を聞いている、美羽の物語を、美羽と舞人の物語を、だが届かない。美羽は途中、舞人の実家に連絡を入れた。
 国道沿いの道は車線の幅が変わり、二車線が三車線に広がっていて、以前そこにあった家の数件がなくなり、なかった建物ができている。美羽の住んでいたアパートにも行った、灯りがもれていて違う住人が住んでいるらしかった。猫のミカはいなかった、違う猫が歩いていて宇美が近寄ると逃げていった。
 二人が一緒によく行ったレンタルショップも宇美にとって懐かしいだけで舞人には意味がなかったし、前に二人が観た作品のパッケージを見せても舞人は反応しなかった。
 宇美の実家方面に車を走らせた。途中右折して高屋川沿いの道に入った時に舞人が「停めて」と言うので端に寄せて車から降りた。
 舞人は川を見ている、以前よりも水位が低くなって下のコンクリートの感じがわかる、工事がされていた。
 歩いて橋のほうへ向かうと水面に黒い物体が顔を出していた、目が暗闇に慣れるとそれはヌートリアが泳いでいる姿だった。
「久しぶりに見た、ヌートリア
ヌートリア、今日は一匹かな」
「いつもは一匹じゃないの」
「二匹で、夫婦でいることが多いんだけどなあ、今日は一匹だけみたい」
「いっつもは一緒なんだね」
「うん、いっつも一緒だよ」
 川の側を手を繋いで歩いた。舞人は宇美に警戒心を抱いていない。保護者と手を繋いでいる子供のような安心感のある顔をしている。姉と彼が一緒に居た時間は彼には失われたが、私の中で存在している。姉が、美羽の残した物語が私に作用して姉の過去が亡霊のように私と共にいるのを感じている。
 車まで戻ると携帯が光っていた、着信ありを知らせる、七色の光が暗がりの車内でホタルのように光っている。
「ホタルみたいだね」
「うん。七色に光るからね」
 メールは以前に何度か会った事のある香樹からのゲリラライブの誘いだった。宇美はホタルという言葉で何かを思い出している、姉が彼に言ったはずの言葉、観に行けなかったホタルのこと。
 車にエンジンをかけて走り出す、実家に車だけ置いて舞人の手を握って小学校の方へと歩き出す。なされるがままに舞人は宇美に着いていく、ある意味さらわれている、でも舞人は彼女に従う。
 小学校の前のお宮の境内に入っていく。灯りがあまりなく仄暗い、川の音がする、わずかに水の流れている音が聞こえていて二人は導かれるようにその音の方へ。
 境内の赤い橋を渡らずにその横を抜けていく、雑草が踊るように風に揺れている。ざわざわと踏んで進んでいくと行き止まりのようになっていて下に降りれる階段のようなものがあった。そこには宇美と舞人の腰ぐらいの高さを雑草が一面に生えている。
 川を挟んだ向こう側を見るとぼわぁと点滅するかのような光があった。一匹だけ光っていたホタル、いるはずもないホタルの飛光、秋の時期外れの残像を残しながら舞っている。
「えつ、なんでホタルが」
「きっと生き残って待っててくれたんだよ、僕らを」
「そんなことって、え、だって今は」
「きっと取り残されたんだよ、ぼんやりしててさ。僕みたいにずっと寝てて起きたら一人だったのかもしれないよ」
「……、お姉ちゃん」
「どうしたの、なんだか悲しいの?」
「ううん。嬉しいの。ホタルが飛んでて」
「うん、ホタル」
「ホタルがね、飛んでいるね」
「キレイに踊ってるみたい」
 舞人は宇美の手を強く握った。
「ホタルの光」
 次第にホタルの数が増えて、闇から這い出してきて光り出す、イルミネーションのように点滅を、異なったリズムで発する。
「どうなってるの、嘘でしょ、こんなことって」
「嘘じゃないよ、目に見えるこの世界だよ、真実だよ」
 舞人を見ると、握られていないもう一方の片手で指揮者のタクトを振るような仕草で手を振っている。
 宇美の目に捉えられた舞人は微笑んで返事をしなかった。
 指揮者のタクトに合わせて光がゆるやかに乱舞している、乱れながらも舞い踊っている。
 宇美も握り返して舞人の方を見て笑った。
 舞人が笑っているのを見て、それが嬉しくて宇美の中の美羽が泣いていた。それを宇美は感じている、つよくつよく心で。光は増殖してホタルの飛光は優しく舞いながら、やがて二人がいるほうにも現れて誘うかのように光り消えては舞う。
「ねえ、美羽。見える? 光たちが待っているのが」
「思い出したの、舞人。お姉ちゃんの事」
「お姉ちゃんって? 何言ってるの美羽」
「違う、わたしは……」
「美羽、キレイだねホタル」
 宇美は握られた手を強く握り返した。
「そ、そうだね。舞人今度はわたしが連れて行ってあげるよ」
「どこに」
「東京タワー、行こうって約束したじゃない」
「約束した?」
「忘れちゃったの。思い出してよ、わたしたちの魔法の言葉」
「魔法の言葉って?」
「333のテッペンカラトビウツレって魔法の言葉」
「333のテッペンカラトビウツレ」
「そう、何かが生まれる魔法の言葉」
「何かかが生まれる魔法の言葉」
「そう何かが生まれるの、だからきっと」
 その続きは声にならなかった。
「333のテッペンカラトビウツレ」と愉快そうに舞人が唱える。
 その空間はミクロコスモスでありキングダムだった、彼らだけの場所、彼らの、そうひとりの記憶喪失者の男と彼の失った時間を共に過ごしたひとりの女の魂、ふたりを結びつける現在進行形の彼女の妹の、二つの肉体と三つの魂を内在している世界。
 暗闇の中で宇美と舞人が飛光を続けるものたちに包まれている、ゆるやかで優しい時間の終わり。


『君たちの居た時間』Part 6