Spiral Fiction Note’s diary

物書き&Webサイト編集スタッフ。

『君たちの居た時間』Part 1

第一章「mayonaise」 


     1


 真っ白でシンプルな部屋、余計なものはあまりない。雑多なのはノートパソコンが置かれている机にある仕事の資料や読みかけの本やチェック用のノートとペンの筆記用具。雨上がりの虹のような七色の蛍光ペン
 風呂場から出てきた美羽(みう)はすぐに部屋の蒸し暑さを感じる。体感としての手触り、いや肌触り。この部屋は夏は蒸し暑く、冬は凍えるように寒い。室内の温度の感覚を完全に掴んでから美羽はバスタオルで体の水滴を拭き取る。
 部屋に置かれた姿見ミラーの前に立ち、バスタオルは床に放る。水分を含んだそれはドバッと落ちた。鏡に映る自らの裸体を見て、ボディラインを確認する。
 濡れた髪は染めていない黒、艶やかだ。少しだけ上を向くような乳首もまだピンク色を保っていて、くびれはもちろん、ある。寝る前の腹筋背筋は欠かさない、もうあの頃の体型には戻りたくはない、本能的にそう感じている、だから実践する、筋肉を付け過ぎずに女性としてのゆるやかさを兼ね備えた肉体を保つための筋トレを続ける、自らに課した義務として。
 太腿もスラっと見える、普通に立っていてもふとももの内側どうしはペタッとくっつかない。鏡に映る自分の中心を見る。センターラインを、体の中心に真っ直ぐな線を引いて。
 センターラインには大きくもなく小さくもない鼻があり、風呂上がりで血行が良くなり少し赤みを増した口、少しデベソであまり好きではない不格好なへそ、濡れた陰毛から雫が床に落ちる。
 水滴が落ちた床を凝視する。聴覚があの時の窓の外の雨音を思い出す、音が大きくなってくる。雨が踊るような不連続音、レインダンスが脳内に聴こえてくる。窓を打つ雨が大きく、感覚が短くなっていく、どんどん落ちてくる。
 おちる、オチル、落ちる、堕ちる、ドロップする、記憶を再生している。
 歩き出してテーブルの上に置かれたピアスを手に取り、左耳につける。そのピアスはクロムハーツのカーブド・ティアドロップ、純銀の涙。正面から見ると上辺が下辺よりも幅が短く上辺と下辺が丸みを帯びた台形をしている。名前の通り上から下へ涙の流れがカーブした模様が浮き上がっている。横にすればスタッドがあり、アルファベットのCのようで下側がくるんとカーブしている。
 美羽はピアスをつけてまた姿見の前に立つ。涙が耳に落ちていると思う、シルバーで、金属でできた涙が堕ちてきていると。ゆっくりと左手でカーブド・ティアドロップを触る、思い出すように、愛撫するかのように触れた。
 右手は少しだけ渇き始めた陰毛を摩りながら性器の方へ下りていき、その内部に触れて、触れる事によって次第に濡れていく入り口の感覚が体と脳内に満ちていく。慰めるように自らの指で触り擦る、小さな吐息が漏れる。漏れては床に落ちていく、そう、吐息が堕ちていく。
 美羽の頬は風呂上がりの火照った血色のいい桃色とは違う、自らの内部で起きる熱のチークでその頬を染める。美羽は思い出している、彼を。元気だろうかと思いながら指は激しく動き、情熱的な性を一点に集め閉じ込める。それが漏れだすかのように体の表面には汗の粒が浮かび始め、汗の玉が体の表面に伝う。
 次第に膝が崩れて床に座る格好になりながらも指の動きのそれを止めない、雨の音が脳内に降っている、レインダンスが遠くに聴こえて、視界は歪んでいく、潤んでいく、自らの涙によって。その姿は殉教者みたいにどこか神聖な雰囲気すら漂わせて。
 会いたいよと思う、もうずっと会ってないのと思う。もうどのくらいの間、うちと君は会っていないのだろう、もう何年もうちらの物語は邂逅していないねって思う。
 情熱的な性の臨界点を突破して倒れ込むように床に横になる、ひんやりとしているフリーリングの床だけに現実感がある。美羽自身の体は何かの容れ物のようにどこか輪郭が曖昧になっている。熱を帯びていた体には床の冷静な温度が優しくて突き放されたかのように、いい、ちょうどいい。
 産毛が逆立っている腹は腹式呼吸みたいな激しい上下をしている、膝を折り曲げて両腕でそれを抱くようにして丸まる。
 まるで胎児のよう。
 雨の中で生まれていると遠くなっていた雨の音がまた近づいてきて認識する、今私は誕生したと、誕生っておかしいなと笑う。もうずっと誕生してから二十五年も経っているのにと。だからRe-birthしたんだ。再生いや、再誕生した。目を閉じて心音を感じる。
 ドクッ、ドクッ、ドクッ、ドクッ、ドクッと一定のリズムが刻まれて、このリズムが停まる時、うちは死ぬんだ。リズムを失った時にうちは死ぬ。
 瞼を開けて立ち上がる、少し体に力が入らないが、冷蔵庫からボルビックの1・5リットルのボトルを開けて直接口で飲む。
 喉が鳴る、一気に半分以上を飲み込んでひんやりとした液体が喉を通って胃へ落ちていくのがわかる。胃に溜まっている感じ、重力で水が落ちた感じがはっきりとする。
 ボトルを冷蔵庫に返す、中にはボルビックのボトルとスーパードライの缶ビールぐらいしか入っていない。缶ビールを持って窓の方へ行きプルタブを開ける。ビールを飲みながら開けた窓、開かれた外側。
 缶ビールを持っていない右手を外へ出すと夜になっても帰れない子供達のいたずらみたいな熱さのリズムが右手に絡み付いてきた。指には慰めた自分の残り香が少しだけ余韻を残しているがそれすらも蒸発しそうだった。
 服を纏っていなくても暑いと感じて汗が滴る、数日前には群馬の館林で四十度二分の最高気温を叩き出した。
 秋がいつやってくるのかわからないというか秋って季節の存在感が今の所まるでない。記憶喪失者がずっと夏を漂うように終わらない。ずっと秋が控えのままにベンチを温めていて夏が威勢を張り続けてもおかしくはないような暑さ。
 秋は英語でオータムともフォールとも言う、フォールのほうがなにか落ちていくようで秋には合う、フォールとドロップは似ている。いろんな想いや感情が零れ落ちていく、掴もうとしても落ちていくものは掴めない、ドロップしてフォールしていく。
 最後まで零れ落ちなかったものが何であるのか知りたいと美羽は思う。残っていたビールを一気に飲み干す、そんなにビールが好きではないのになぜか毎日のように飲んでいる、ライフワークみたいなものになってしまった。この苦さに慣れた事は大人になった事になるんだろうか、ねえ?
「ねえ? って誰に向かって言ってんだろう。最近独り言が増えたかもしれないな」とさらに独り言を宙に吐く。
 ビール缶をステンレスの台所に置くと乾いた金属音がした。その虚無みたいな音は美羽の中に響いた。
 いい加減に美羽はベッドの上に置いておいた下着を、ブラは付けないでショーツだけ、ホットパンツとこの前に仕事をやった映画の宣伝用のTシャツを身につける。
 点けたテレビのニュースは数日前に起きたペルー沖で起きた地震のことだった。ペルーってマチュ・ピチュがあったはずだ。マチュ・ピチュはインカの遺跡で、それぐらいしかわからなかった美羽はパソコンを立ち上げて検索した。
 画面にはこう示されている。「マチュ・ピチュ」は世界遺産にクスコと共に最初に指定されている。
 現地語で「老いた峰」という意味を持ちペルーのウルバンバ谷に沿う標高が二〇五七メートルの高い山の尾根に位置し、山裾からはその存在を確認できないという解説がノートパソコンの画面には表示されている。
 存在を確認できないという言葉。
 隠されている存在、存在を確認するためにはその山を登らなければならない、それは冒険だなって美羽は思う。
 それらは「空中の楼閣」あるいは「インカの失われた都市」と呼ばれる。
「失われた都市か、誰にどう失われたんだろ。そこにいた人はどこへ行ったのかな。どこかに行けたのかな」
 机に置かれた雑誌の特集で踊る文字と「インカの失われた都市」が自らの中でリンクしてそれを見てそう言った。それを一瞥してから髪を結んで冷房をいれ、メールをチェックし返信すべきものは早めに返した。
 点けっぱなしのテレビの音量をゼロにして隣にあるコンポのイジェクトボタンを押す、トレイが出てくる。CDラックから一枚のディスクを取り出す。
 ジャケットは全体的に赤く、描かれているのは膝下が水に浸かっている自由の女神、ジャケットの上の方には白文字で「Smashing Pumpkins(スマッシングパンプキンズ・日本での通称はスマパン)」とバンド名がある。
 二十世紀最後の年に解散したアメリカのロックバンド。劇的な展開で憂鬱を醸し出す楽曲構成と評価されている、これもまた調べたらそんな風に書かれていた。調べようと検索すれば大抵の事は誰かが書いていてくれている。
 郷愁と破壊力が混じり合ったロックンロールを鳴らす。ドラムが破壊的なまでに巧くて美羽はライブ映像で彼のプレイを見てボーカルよりも好きかもしれないと思った。美羽がロックバンドでボーカル以外に惹かれるのは初めてのことだった。
 彼らの音は破壊と再生を繰り出す。歌詞の内容も叙情的な物語のような詞。和訳を見るとそこには物語が存在していた。
 ボーカルのビリー・コーガンの泣いているようなそれでいて包み込むような声が美羽は好きだった、もちろんドラムのジミー・チェンバレンの超絶プレイも。バンド自体はグランジオルタナティヴを代表するニルヴァーナとデビュー時から比較され続けたが共にグランジオルタナティヴロックを代表するバンドとして世界的に有名でありアイコン的存在として認められている。
 ジュネレーションX(アメリカ合衆国において一九五九〜一九八〇年に生まれた世代)と呼ばれる世代に圧倒的な支持を受けたらしい、美羽はスマパンニルヴァーナのどちらの全盛期を見ていないし、聴いてもいなかったからそれらは音楽雑誌で仕入れた知識だった。ある意味では彼らに遅れた世代だった。
 ニルヴァーナのギターボーカルでショットガンを使って自らの頭をぶち抜いて死んでしまったカート・コバーンビリー・コーガンのかき鳴らす悲しみは共に両親の離婚により不条理なまでに彼らの当たり前に存在するはずだった幸せを奪われた悲壮感や屈折していく社会への反抗心と共に彼らの、ジュネレーションXの心の片隅に居座った。
 居座ったというよりは彼らの孤独の拠り所として、あるいはライナスの毛布のように傍らに。ビリーもカートも幼き頃に共に両親が離婚して彼らは親と過ごしていない少年期を送った、それを共有できた世代の彼らはカートやビリーを圧倒的に支持したのだと美羽は分厚いカート・コバーンバイオグラフィーを数年前読み終わった後に感じた。
 だとしたらここにいる私は、私たちの世代は何を支持できるのだろうか。それすらも失われたままかもしれない。
 美羽がコンポにCDをセットしてスタートボタンを押し一曲目が流れ始めた。アルバムは解散から七年後の二〇〇七年七月にドロップされた、それはほんの一ヶ月前のことだった。
 二十一世紀に再結成して(オリジナルメンバーはビリーと超絶ドラムのジミーだけだったが)リリースした「Zeitgeistツァイトガイスト)」という再生の祈りを込めたオリジナルアルバムだった。ジャケットをラックには戻さずにデスクに置いてコンポのボリュームを絞った。再生の祈りがロックンロールに乗って届けられる。イスに座ってアルバムを手に取って眺める。
ツァイトガイストってどういう意味だっけ」
 パソコンの辞書で検索する、出てきた和訳は「時代精神」だった。
時代精神って、どういうことだろ。二十一世紀の時代精神ってこと? 難しくてうちにはわかんないよ、ビリー」
 アルバムを置いた。明日の打ち合わせのために置いてある半分まで読みかけの小説を読み始める。この小説を映画化する打ち合わせが明日入っていたから物語の流れだけでも最低頭に入れておかないといけない。部屋でボリュームを絞って流されるサウンドトラック。
 最後まで読んで体を伸ばそうと立ち上がるとCDはすでに停止していてこの空間の音は生死を彷徨っていた。
 美羽だけがRe-birthされて動いて音が生じる。それからいつもライフワークとして日記のように美羽は過去に起きたことを思い出しながら綴って再構築していた。
 いつかシナリオにするために、それは美羽と彼の物語だった。しかし、その物語は頓挫したままだった、彼との出会いのそれ以前から彼と出会った場所という柱、シーン、台詞、そして別れ。
 彼とは再び出会っていない、物語は一時停止をしたまま、美羽のみが動き続けている。物語は頓挫されたままだ。でも時間は止まることなく美羽は時間を失い続けている。


 目薬を注してから窓を開けると蝉のオスがメスを呼ぶための求愛の儀式が聞こえてきた。人騒がせな求愛の歌が。昔実家に住んでいた時に夜になると隣の家のおじさんのへたくそな、しかし大きな歌が風呂場から我が家に流れ込んでいたのを思い出した。
 冷蔵庫から缶ビールを持って部屋から出る。美羽の部屋は二階だ、七階にある屋上への扉までペタペタとサンダルを鳴らして階段を上って屋上へ出る。星はないに等しいが、ないわけではない。東京にも星はある、少しだけ。
 東京に来るまでは東京には星空なんかないと思っていた、地元の夜空は星がよく見えた、ここでも少しは見えることを彼にも教えたかった。いつもより空気がねっとりとしている感じを受ける。
 屋上に出て振り返ると美羽の部屋の窓からは反対側になって見る事のできない東京タワーが赤く光っている。
 宇宙に突き刺さっているかのようにも、空から落ちてきた巨大な古代建造物に見えない事もない赤い塔。スペースシャトルみたいに宇宙に飛んでいったら楽しいかもしれないと思って美羽は少し笑ってフェンスまでペタペタ歩いていく。
 緑色の金網に寄りかかって缶ビールを飲み始める。
「上った事ないなあ」
 彼は上ったことあったんだっけなあ、確かないはずだ。うちにスマパンを教えてくれた、ここにはいない彼は。
「なによ、新東京タワーって。これは旧になっちゃうの、君はお古になっちゃうの。東京タワーは一つだけでいいのに。二つもいらないよね、君は君の存在を孤高に示してくれてればいいのに、きっと君は古き良き時代の象徴とか言われちゃうんだろうな、まったく」と愚痴る、誰に言うでもなく。
「ねえ、舞人」と彼の名前を美羽は呼ぶ。
 今、自分の横にはいない懐かしい名前を声に出して、呼ぶ。
 舞人が読んでいた「わたしは真悟」という漫画の中に東京タワーが出てきていたことがここに住もうと思った理由だった。
 キーワードとしての「333のテッペンカラトビウツレ」という台詞とともに。美羽はその漫画を読んで全然理解できなかったのだけは覚えている。当時の美羽にとっては難解だったのだ、少年と少女、そしてその二人の子供としての自意識を持つロボットの物語。
 今読むと少しは理解できるのだろうか。だけど最後のシーンの残された言葉だけは覚えている。そう覚えていた。私にはそれが残されているだろうか、あるいはあるのだろうかと美羽は目を閉じた。
 深夜0時になり東京タワーの輪郭を露にしていた電飾が消えて闇の中に埋没する、神隠しのように消える。
 神の数え方は柱と言ったはずだ、塔も柱だよねと美羽は闇に向かって言う、ただそう言った。
「舞人は今何を見てるの。君はテッペンにでも座ってこの夜空を見てる? ねえ君は・・・」
 美羽はまた声に出して言う、雨上がりの夜空があるだけで、缶ビールを一気飲みする。美羽は缶ビールを握りしめて潰し床に置く、そして扉をあけて降りていく。
 屋上は瞬間的な主を失ってまた無人になった、車の走行音が聞こえる、いつものそれに戻った。月はでていない。風が吹いてきて中身のなくなった缶ビールを倒す、カランっと渇いた金属音が東京の夜に響いて呑み込まれた。東京タワーがスペースシャトルのように飛んでいって、後には暗闇と静けさだけが残された。


     2


 美羽は当然のように仕事をこなした、ライフワークとして。企画されている映画のことを考える、画を想像しながら。毎日の生活のために仕事をして家に帰る、を繰り返す、ごく当たり前に。監督に頼まれた小説の分解と台詞を洗い出す。
 一応の目処がつく、監督が美羽の洗い出したものを元に脚本を書き始める、あとは終わるのをとりあえず待つことになる。他の同時進行の企画も進める、毎日は嫌でも進む。
 九月に突入している、映画の専門学校時代の友人からメールが届く、ライブへのお誘いだった。
 白く垂直に立つ鉄板にはなぜか「GATE7」とだけ黒字でペイントされている。何番まであるんだろう? そんな疑問が浮ぶ。美羽は駅から降りてくる人々をのんびりと見ながらただそう思った。
 下北沢駅の南口に立っている、背中には「GATE7」がある。以前あったドトールとツタヤは姿を完全に消している。知らない間に街が変化していた。
 一度、駅の階段から吐き出されるように人々が降りてくるのを待った。二度目で荒木果歩が手を振りながら歩いてくる。立ち止まらずに進む、美羽は後を追いかけるように南口商店街を抜けていく。並んで歩きながら会話をする、狭い道幅に人がごった返している。避けるように隙間を縫うように歩いて追い越していく。
「今日見るバンドは彼氏のバンドなんだ。美羽ちゃん優しい目で見てよ、きびしいことは言わないで」
「優しいって。彼氏できたんだ、何やってるの?」
「うん、ドラマー、彼氏はドラマーなのだ」
「なのだってあんた。古いって」
 王将前まで抜け、そのまま茶沢通り方面に歩く。ファミリーマートの前にはライブ待ちの若者がいるが通り過ぎる。居酒屋やカフェ兼ライブスペース、ライブハウスなどが並んで建っている。セブンイレブンが見えてそのまま三軒茶屋方面に進むと酒屋カクヤスがあり、そこの地下がライブハウスになっている。地下のライブハウス、ベースメントバー。
「ここだよ」
 果歩が手招きして地下へ潜っていく、美羽もまた続いて潜っていく。入場料とドリンク代を払い、地下倉庫へ。ビールを頼んで乾杯をした。近況を報告し合う。
 果歩は映画学校を出たが映画関係の仕事には就いていない、アパレルのショップ店員になっている。果歩は彼との出会いを話しだす、嬉しそうに。美羽は優しい表情で聞く、実際三歳下の女の子だ、妹よりも年下だが妹と恋バナをしたことはあったのか思い出せない。
 一組目のバンドが出てくる、今日は四組出てくると果歩が言う。果歩と美羽はリズムを取りながら、揺れる。しかし聴覚は完全には持っていかれずにお互いの声を、耳元で囁きながら会話する。二杯目を頼んでまた飲み始める。
 果歩が煙草に火をつけて、煙がゆらゆらライトに照らされて天井へ、地上へ逃げようとするが途中で消える。
 ゆらゆらと昇る煙、音は左右のスピーカーから発せられているが、直に体にぶつかる所に二人はいない、死角になる柱の後ろにいる。近況報告は続く、酒は減り、煙草の灰は床に落ち続ける。
 二組目がセッティングを始める、果歩がステージに近づいて声をかける。
「秀悟、友達の美羽ちゃん。これが彼氏の秀悟で、ギターボーカルの香樹君とベースボーカルの美夏ちゃん」
「ども、果歩の友達の美羽です」
「こんばんは、美羽さん」
 とベースの弦調整をしながら岡崎美夏が言う。
 可愛らしい女の子のそれ。黒髪のストレートがライトに照らされて画になる。ギターの大澤香樹はアンプをいじっている、美羽の方を見た時に少し恥ずかしそうに会釈をしたので好感が持てた。
 ドラムの小林秀悟は果歩と話した後は確かめるようにドラムを叩いてチェックをしている。
「オッケーだね」
 香樹がそう言ってまた美羽を見て頭をさげてステージから降りていった。美夏と秀悟もそれに続く。美羽と果歩は柱の後ろではなく、前で、スピーカーの音を直に体に受ける側に移動する。
 暗転、ライトがステージを照らして三人が出てきて各ポジションにつく。周りの気配を感じる、さっきの一組目よりも人が居る、密度が増した。
 座っていた少年に見える男の子も立ち上がってステージを見ている。ドラムが鳴って、香樹の声が弾けて、ベースとドラムが絡む、次第に早さを増していく、速い、音の速度が伝わる、音速。
 香樹の高い声が緊張を一気に引き裂いて新しい空間を創造する、その世界の輪郭を増すように美夏の声が重なっていく、三重奏が地下に舞う、音の獣がそこに居る人に喰らいつく。
 喰らいつかれればつかれるほどにリズムが体内に蠢く、そして知らぬ間にその世界の住人となる。
 香樹の声と美夏の声が混ざりながら速度をさらにあげた、それはもう叫びだった。美羽はリズムを取る、ゆれるユレル揺れる、揺れた。音の獣が揺さぶる、音の速度、スピード、音速の律動が攻めて満たす、空白の部分を。
 ギターが感情を表わすように鳴らされて、ドラムが力強く正確なリズムで、二つを繋いで安定感を持つベースラインが、彼らに飼い馴らされた獣が縦横無尽に音速で舞う、揺れながら見とれる。そして笑う。だってカッコいいのって笑ってしまうでしょ、もう笑うしかなくなるのと美羽は心の中にいる誰かにそう言う、言いながら、揺れながら、笑って、揺れた。


 ベースメントからオン・ザ・グランドの世界に美羽と果歩は帰還する、歩道の手すりに腰を落ち着かせる。
 汗ばんでいる、揺れただけ体が熱を持っていた。外の風は少しだけ湿気があった、でも地下の空気よりはどんよりしてないだけいい、自然な風が髪を揺らした。
「これからどうする? 飲みにでも行こうか」
「それもいいね、もうちょっと涼んでいたいけど暑いねえ」
「ちょっと待ってれば秀悟たちも来るから」
 果歩が煙草を買いにセブンイレブンの方へ歩いていく。美羽は手すりに座って地面のコンクリートを見ている、何か吸い込まれるような柔らかい黒さだった。
 数分後、果歩がナイロン袋を下げて戻ってくる。缶ビールを放り投げてくる、放物線を描いて。同時にベースメントに潜っていた秀悟、香樹、美夏があがってくる。
 女性陣三人が手すりに座って、男性陣二人がその前に立って果歩が買ってきたビールを飲み始める。
「かんぱーい」それぞれの缶ビールがタッチする。五人の間で会話が始まる。
「美羽さん出身どこ?」
「私は岡山。場所わかる?」
「ええと、関西の方だよね?」
「大きく言うと確かに関西だよ」
「香川の隣だっけ」
「バカ! 香川の隣に県あったら、四国じゃなくて五国じゃん」
「えっ? じゃあどこだ」
「みんな東京出身だもんね、そんなもんよ、岡山の存在なんて」
「ごめんね、みんなバカで」
「広島の隣でしょ、ねえ美羽さん」
「正解、広島と兵庫の間」
「ああ、そこかあ」香樹と秀悟が頷いている。
「関西風お好み焼きと広島風お好み焼きの間に挟まれてるんだね」と秀悟が言う。彼はほろ酔いになり始めている。
 酒に弱い香樹は美羽さんも仲間だなあと思う、俺たちを誉めてくれたから。届いたと誇っている、嬉しい、ライブはやっぱり最高だとみんなの話を聞かずに自分の中でもう一人の自分と話している。最高だったよ、今日の出来。もっとデカイとこでやりたいよ。もっといっぱいの客の前でやりたい。美羽さんの言ってくれた音の獣っていいな、いいよなあ、うん、いいよ、その感じ、ロックが宿ってる、届くって気持ちいいな。
「聞いてるの、香樹」
 その美夏の声で現実に戻る、ごめんと謝る。
「何の話だった?」と展開していた話に追いつこうとする。
「美羽ちゃんのマンションの屋上から東京タワー見えるんだけど、東京生まれって意外と上ったことないよねって話」と果歩が補足する。
「俺もないし、香樹もないだろ」
「ないなあ、美羽さんは」
「私もないんだけど、いつか行きたいなあって」
「じゃあ、上れないけど見に行こうよ」
 酔っぱらい笑顔がこぼれる香樹は美羽の手を握って歩き出す。美羽は「えっ?」と言う表情をするが香樹の少年のような笑顔をされてついていく。
「おいおい」と秀悟が言いながら、酔うと急にわけわからない事するよねえって笑いながら美夏も、果歩は秀悟の隣に。歩き出す小さなコミュニティ。
 香樹を先頭に、美羽、美夏、秀悟と果歩の夜の小さなコミュニティの一団が歩き出す、片手には缶ビールを持って夜のピクニックみたいに。セブンイレブンと八百屋の間の坂道を上っていく、ハーメルンの笛吹きに着いていった子供達もこんな感じだったのかもしれないと手を握られてながら美羽は思って、温かい手を感じる。
 握られた手が意識を持ってるみたいに思えた。
 道の左右の路地には人の温もりのある家があり、光や音があって、時折自転車が横切っていく。ヒールを履いてきた果歩がきついと唸っている。秀悟が果歩の後ろにまわって背中に手を置いて押す。香樹は後ろを振り返らずに美羽を引っ張っていく。美羽の右手は香樹に、左手は美夏の手を。
 幼かった頃のお遊戯みたいで楽しい、なんだか無邪気だ、こういう気持ちはずいぶんと久しぶりだった、大人になってからたぶん初めてだ。でもいつ以来だろう。
 それを忘れて大人になったのかもしれないなと坂を上りながら感じた、いろんな事を忘れていっている。
 坂を上り終えるとT字に道がなっている。右側には小田急の線路があり踏切がある。左手は下りになっていて家々が立ち並んでいる。果歩と秀悟を待ってから今度は下り坂を下っていく。果歩が疲れた様子で「どこー」と言うのを受けて香樹が答える。
「これからこの坂道を下っていく途中の左側のどこかの路地というか道から東京タワーが見えるんだよ、美羽さん」
「ほんとに、見えるの。ここ下北だよ」
「うん。見える」
「マジかよ、香樹。ここ世田谷区だぞ、東京タワーってあれ何区だっけな」
「たぶん、港区かな」
「だから見えるんだっての、嘘じゃないからさ。前に見つけたんだ」
「ほろ酔いだからなあ、香樹は。大丈夫かいな」
「まあ、酔ってても酔ってなくても香樹嘘はつかないじゃん」
「酔ってるけど大丈夫さ。ほんとだって、さあ」
 香樹は手を離す、美羽に探してごらんと指示するように。美羽は美夏の手も離して先頭を歩き出す。視線は遠くの空に。
 坂道を下っていく、ここで林檎を落としたら勢いよく転がっていくだろう、傾斜の坂道を、五人は美羽をリーダーにして進む、歩く、下る、横見をしながら、探している東京タワーを。
 どこかに見えるだろう、東京のシンボルを。
 美羽はやがて視線のその先に見つける。そこが何番目の路地の道であるかはここでは教えれない。それは発見するものだから。実際に自分で確かめることができる。本当に下北沢の路地から東京タワーは見える。
 全体像ではない、半分から上のライトアップされた赤い塔が夜空に突き刺さって小さく存在感だけを主張している。美羽が立ち止まり、他の四人も立ち止まる、見とれる、向こうの夜空に。
「333のテッペンカラトビウツレ」
 美羽は声に出して言う。
「美羽さん何それ?」
 香樹が赤い塔を見ながら聞いた。
「魔法の言葉よ、昔読んだ漫画の」
「へえ、魔法の言葉かあ、ちょっと変だね。333のテッペンカラトビウツレってどこに飛び移るの?」
「飛び移ると生まれるのよ、何かが」
「何かがって?」
「教えない、自分で探さないとダメだよ」
「探すか」
「そう自分の手で探すの。大事なものは探してる間にもっと大事なものも見つかるの、そういう魔法」
 そう魔法の言葉だよね、きっと。君に会いたくなったよ、舞人。
 君の顔を少し忘れてしまったんだ、今思い出そうとしても思い出せない、ボヤけてしまうのはなぜだろう。
「美羽さん、ねえどうしたの」
 美夏のほうを振り向く美羽の頬を涙が伝う。涙に気付いて抑えようとするが止めることができない、ただ流れてくる。
 涙が流れては落ちる、落ちて、いった。君に会いにいこう、君の顔を思い出すために、取り戻しに。止まらない、感情が発芽して一気に開花した。
 膝を曲げて座り込む形になって泣く、心配そうな四人に大丈夫だからとだけ言う、果歩が優しく背中を撫でている。
 住宅街は静まり返っている。時折タクシーや乗用車が五人を照らしては消えていく。美羽は立ち上がって遠くの夜空を潤んだ目で見つめた。
 そして見つけた、うちらのランドマークを。
 美羽は帰りにレンタルショップに立ち寄ってずっと観る事のなかった魔法使いの少女が家を出て俗世間で修行するアニメのDVDを借りる。自分のマンションで久しぶりに観る映画の内容はすべて覚えていた。
「うちは大人になれたんかな」とテレビ画面の少女に向かって独り言をつぶやいた。返事はなく画面の中の少女は箒に乗って空を翔ていった。


     3


「いつだったかは忘れた、ただ疲れてた」
 その始まりで清水舞人は何か文章を考えようとした。目の前の信号は赤だった。言葉遊びをするのが日常的に好きだった。勝手に物語の破片を作る事や思い浮かべる事が。


 いつだったかは忘れた、ただ疲れてた。どうしようもないこととか、つまりはどうでもいいと言われてしまうことの範疇、そこに捕われる思索。ぼんやりとしてた、お香の煙の舞い上がる様、やがて見えなく消えて行く後先。
 何が話したかったっけと記憶喪失、茫然自失、いわゆる迷子、コインロッカーベイビーいずこへ。
 痛みだけ残る透明少女、過ぎ去る夏の日、街に残る不協和音。せめて傷跡残して、想い出に浸った振りして現実逃避、逃避行できない常識ある思考、試行錯誤して空っぽの空。
 空を泳ぐ天使は生け捕りにすると、羽根が高く売れるって都市伝説、羽根を生きたまま切り取られた天使が人間世界に馴染んで暮らしている。まあ、ごく一部のものがね。他のものはある手段で羽根をまた手に入れ飛び去って行く。
 飛べない天使は黒い雨に打たれて、希望を失う、できるのは少女に真実を教えてやるだけ、本当の飛び方を。飛んだ少女は意識だけ残して、体を捨て去って、残された体を天使が食べる、そういう契約、いやそれが儀式、儀式とは神話を反復することだから。
 少女の肉体を食べた天使は決まったように新宿をうろついている。いつも男を誘惑している、ノセられた男は天使の上に乗っかって白濁した液体を、ただ欲望のままに吐き出して。気が付いたら男は路上で寝てる、あれが真実なのか夢なのかわからずに気持ち良さと不快感が入り交じり、やがて白濁とした自己嫌悪に襲われて、欲望を持て余す若者に襲われて、希望を失った。
 白濁した欲望を手に入れた天使は、やがて子を産む。小さな羽根の生えた天使を産み、我が子の羽根を引きちぎり、飲み込む、まるで笑うように泣くように矛盾した感情に弄ばれて一対の羽根を体内に取り込む。羽根を無くした天使の羽根が再生する、
 天使は子供の羽根の傷跡にキスをしてコインロッカーに入れる。子供は泣かない、すでに子供は自分の運命を受け入れている。
 泣くのは今ではない、生死の境目の瞬間に世界が終わるような始まるような響きをあげる、それが合図だ。
 やがて扉は開かれるだろう、そこから始まりを告げよう。扉が開かれる、その瞬間、透明少女が笑っている。赤ん坊の泣き声にかき消されて透明少女は新宿の街角に溶けて消える。
 その瞬間、少女は「サヨナラ」と赤ん坊に言う、赤ん坊の脳裏に直接。この世界で、母体代わりのコインロッカーから引き離される、羽根を失った天使の欠片は「サヨナラ」を知る。
 ひとりぼっちになる、世界とは引き離された場所であると本能が認識する。赤ん坊の中で本能が蠢く、全能全てが欲するのはその引き離された場所であり、戻るべき手に入れるべきものだと、赤ん坊は保護された人間の中で眠りにつく、全てを忘れたような顔で。


 赤から青になり信号待ちで連なり動き出そうとしている車の横を通り抜けていく、スクーターのエンジン音と排気ガス。舞人は時速六0キロで飛ばして進み、次の信号を前方と後方から車が来ていないのをサイドミラーでちらっと確認してから、スロットを緩めて右に重心を傾ける。
 直進して左側に見えてくる工場、何台もの配送トラックが工場の敷地内に停めてある。駐車場に愛車の高校時代から使っている白と水色のジョルノを停めて工場内に入っていく。
 いつものようにタイムカードを切って、ロッカーだけが並べられた更衣室で白衣に着替える。カーブド・ティアドロップのピアスを外してロッカーに置くと乾いた金属音がした。アクセサリーは付けるなと言われている、それらが弁当等の商品に混入すると大問題になるからだった。
 舞人はその通達などはどうでもよかったが、十六の誕生日に儀式のようにピアスの穴を開けてからノーマルなリングの、三百円ぐらいのピアスを常にしていた。
 一年もいなかった大阪のアメ村で一目惚れして初めて買ったブランド物のピアスがカーブド・ティアドロップだった。だから無くしたくはなかった。彼が唯一持っている重量感があるピアスで耳の空洞を塞いでいてくれた。それを外すと体に空洞ができた。埋め直すのは最低でも八時間後だ。空洞なまま働く、金のために。
 髪の毛を全部隠すヘアーキャップをしてマスクをする、さらに頭巾のようなものをかぶる、体の表面で出ているのは両目の横長の楕円形の部分と手首より先だけ。
 更衣室は二階にあり、二階の廊下からは窓ガラスで工場内のレーンが下に見える。おばちゃんたちが一本のレーンに十何人かついている、そのレーンが現在は三本稼働している。
 一階に下りて工場内に入る時にエアーシャワーを浴びる、埃や髪の毛を吹き飛ばす。髪の毛や異物の混入は死活問題だから、会社はそこに異常なまでに気をつけ、徹底させる。ここまでして混入するのならば何かよほどの古(いにしえ)からの縁があるに違いないとすら思えた。
 知り合いのおばちゃんたちに挨拶をしながら、自分の持ち場である仕分けのレーンがある場所に行く。他のメンバーがいて、そこのまとめ役の社員で課長と呼ばれる須藤さんから今日の説明を受ける。
 新商品が出る火曜日はいつもそうだった。新商品がある日はいつもよりも時間がかかる、おばちゃんたちは慣れていない、いつものルーティンワークではない、新しい弁当に悪戦苦闘する、流れ作業はチームワークだ、乱してはいけない。舞人たち仕分け部は弁当を各店舗ごとに仕分けする。
 ひとりの担当分は左右一本ずつのレーン、例えば、「特選幕の内弁当」がおばちゃんたちの手により各具がつめられて最後のラップまでされ一箱に潰れない程度八個や十二個で詰められる、それは弁当の大きさによって違う。
 弁当が入ったケースが十段積み重ねられたものが何個も作られては仕分け室に送られてくる。右側をずっと行ったところにはおにぎりを専門に作る部屋があり、そこからも各種のおにぎりがケースに入って送られてくる。
 レーン手前に小さなレジのような機械があり、バーコードスキャンがついている。弁当のバーコードをスキャンすると小さなレジにその担当レーンに必要な弁当の数の合計が出る。真っ直ぐに二十〜三十メートル伸びたレーンにはだいたい二メートル置きに店番の表示がある、その赤い数がその店が発注した数量だ。レーン担当が商品を入れていく、レーンは左右で一組だと数えると六組ある。舞人も入れてバイトは全員で五人、シフトで最低四人はいる、それでも休みが被れば課長がヘルプで入る。
 仕事の流れは四人が各レーンにいる。一番目の担当者がスキャンをして必要な数を取って二番目のレーンに残りのケースを渡す、それをスキャンして三番目に、と流れて。各担当は徒競走のように走り出し、ケースを押して各店舗に必要な数だけ入れて左のレーンから右のレーンへとUの逆の字を描く。終わって数に余りがなければ次の商品を。余れば入れ間違いの可能性があるのでまた最初から正しい数が入っているかチェックする。
 最初のうちはいい、次第に時間が迫ってくる。仕分け室の後方の壁は開く、配達トラックが荷物を積めるように開閉式になっているために夏はクーラーの意味がない、しかも目と手以外は白衣で覆われている、汗が溢れ出して床に落ちる。薄緑色の飲食業のキッチンの床のように油のような何かの膜がうっすらと覆い、滑りやすい、それに落ちる。そしてトラックの運転手が待っているのが目に入る。無言のプレッシャーがかかる、無言の早くしろよの圧力が背中を押す。舞人は走る、そこで一番若い十九歳だったから、体力と精力があって一番先頭のレーンを任されている。一番目のレーンは人がいない日には最後の数の少ない六本目のレーンもこなす。
 放置されたように置かれるいろんな種類のケースからスキャンして入れていく、店舗が少ないから時間はかからない。しかし昼前でトラックに積み荷をしくのでどっと疲れる、汗だらけになっている。
 昼間に仕分けするのはトラックが運んでいく夜の便、夕方に仕分けするのは深夜の便。舞人たち早番は朝の九時から十七時まで、深夜の遅番は昼便だけだが数が圧倒的に違う。深夜はしたことはなかった。
 いつも舞人は仕分けしながら考えている。この先のことを。高校を出て簿記の資格推薦で入った商業大学も一年経たない間に辞めた。辞めたのは東京に行こうと思ったからだ、大阪が水に合わなかったのもあるが、やりたいと思っていたシナリオや映画のことが退屈な大学生活の中で次第に膨張していった。
 今のままでは自分はやりたいこともせずに死んでしまうのではないかという疑問が次第に存在感を増すようになった。そして限界量を超して破裂した。
 高校卒業前に友人達と行った東京に憧れを抱いた、テレビや雑誌で見ていたフィクションとしての東京がノンフィクションの現実のものとして自分の中に入ってきた、それはやっぱり大都会だった。大学は自分の人生にたいした意味はないと秋には区切りをつけた。親に何も言わずに大学の退学届を持って実家に帰って東京に行くと告げた。父は息子の思い込んで言い出すとやらないと気がすまない性格を充分にわかっていたから諦めて退学を許した。
「だったら最初から東京の大学行ったらよかったんじゃ」
 父に冷静に言われて頷いた。高校時代の舞人にはその判断ができてなかった、東京は岡山からは遠すぎてわからなかった。地図でわかる数値としての距離ではなくて心理的に符合するものではなかったから。卒業前に行った事で東京を初めて確認した。そしてまだ大阪が自分に合わないとは思っていなかった。
 辞めたのは年の明けた一月でコンビニのバイトをしていたために二月までは大阪にいた。そこから東京に行って家探しをした。連絡をまったく取っていなかった母方の叔父が東京にいたので世話になって家を探した。雑誌や漫画で知っていた下北沢周辺に住もうとしたが家賃が高いから叔父にヤメておけと言われた。不動産屋に勧められた西永福駅から北にある善福寺川の方へ歩いて五分ぐらいの高千穂大学の近くのアパートに決めた。
 広くはないが、日当たりもよく二階の角部屋だった。西永福駅京王井の頭線だから明大前で乗り換えて新宿に出れるし渋谷にも一本で行ける。舞人が行こうと考えていたシナリオのセミナーは新宿だった。ここまでは大学を辞める前から描いていたシナリオ通りだった。問題は意外な、舞人が想像していなかった所から起きた。
 不動産屋と契約をして金を振り込む、鍵を大家から渡してもらうことになっていた。だが大家が忙しくて時間がないと言う、しまいには旅行に行っていると言いだす。大家は鍵を直接舞人に会って渡すと言っていた。不動産屋は鍵を持っていない。舞人は叔父の家で待つ、大家からの連絡を。
 やることのない暇な舞人は東京の街へ繰り出す、地図を片手に。東西南北の感覚が掴めない、乗り換えがうまくわからない、自分の場所を把握するのに時間がかかる、それは問題ではなく新しい感覚、発見だった。新しい土地にいる自分を知る。叔父に言われて映画の専門学校もチェックする、パンフレットを集めて帰ってくる。専門に行った方がいいのかもしれないと読みながら思い、バイトしながら金を貯めて専門に行くのがベターかもしれないと考え始める。
 連絡はまだない、一週間が過ぎる、三月の中旬になっている。舞人の不安は増していく、しかし東京にいるということの心地よさはある。いやそれだけしかなかった。
 キレる、叔父が、舞人よりも早く。銀行員の叔父がおかしいと言いだす、こんな契約ヤメた方がいいと舞人に告げる。叔父の家に一週間以上もいて申し訳ないと思いだしている舞人は叔父に従う。不動産屋に行き、契約を解除する。不動産屋もそれは申し訳ないと受け入れた。
「今回は縁がなかったと諦めろ。一年経っても来たいと思いたいならまた出てきたらいい。大学辞めたんだから車の免許を取ったりパソコンの勉強をして必要なものを身に付けておけばいい」
 一緒に行った帰りに叔父から正論を言われる、舞人はしぶしぶ了承する。舞人のシナリオは崩れる。大学を辞めてしまった舞人は居場所が実家しかない。一年後のために母親の知り合いが務めているコンビニの弁当工場で働き始める。敷金と礼金を貯める目的で。それ以外に目的はない。だからレーンを走った。走るしか方法がなかった。


     4


 舞人は課せられたノルマをこなしていく。手があいたら、暇なときは東京の事を自分の物語を想像する、これからのビジョン。それがいつもの舞人だ。その日の舞人は違う。
 二〇〇一年九月十二日の舞人はいつもと違うビジョンが浮かんでいる、残像がこびりついている。昨日、寝ようとして布団に入ってテレビの灯りだけがあった部屋。テレビ番組が突如差し替えられて報道番組がいつものバラエティ番組を侵略して前倒しで始まる。その後繰り返しテレビで流されることになる世界貿易センターのツインタワーに突っ込んでいく飛行機と崩壊するタワーの映像が。
 炎上する超高層ビル。混沌のような、煙が空に立ち上っていく。灰色と黒の螺旋の煙。
 最初に突っ込んだ飛行機が事故なのか事件なのか判然としないままにカオスだけが世界にバラまかれた。続け様に二機目の飛行機が突入する、事故ではなく事件だと誰もが画面からの映像で確信する。その後の会見で米大領のブッシュがテロだと明言する。テロってなんだと舞人は思う。それより飛行機がビルに突入するその様がまったくリアリティを持たない、現実に起きている感じがゼロだ、皆無だ。でも起きている、ハリウッドの出来の悪い低予算映画にみえる、デキの悪いパロディ映画、安っぽい画。映像は薄っぺらなのにそこにある悪意を感じる、何かのフラストレーションを。誰かの、何者たちかの完全なる意志を。
 ビルが崩壊し爆風が街中を席巻する、何もかもを吹き飛ばす。完全に計算された以上のカオスが全然知らない街のニューヨークに満ちて、それがテレビやメディアを伝って全世界へ伝播された。世界の時間軸スイッチを何かが押した。世界はそれ以前以後に分かれた、新しいラインができる、世界は変わった、いや変わってしまった。ボーダーラインがひかれる、数字の911が、ラインとして。
 舞人にすらそれは理解できる、これが新しい何かの始まりで今までの何かの終焉であることを岡山の片隅にいながら感じている。世界貿易センタービルから落ちていく人影に現実感はない、悲しみもない。
 見えている自分自身にも現実感はなかった。
 世界は刻一刻と変幻自在に移ろうのに自分はまた同じように明日も弁当を仕分けするんだと考えるとげんなりした。僕の生活には現実感はない、ない、無だ、無駄だ、ゼロだ、ひとしくゼロに近い朝がやってくる、秒針は止まらない。
 舞人の部屋は母屋から道路を挟んだ離れの二階。一階は荷物置き場で急な階段をさっきのニュースの事で冷めてしまった気持ちで降りる。ドアを開けて外に出る、左手に見える信号はずっと点滅の赤ランプ。赤のランプがぼやけるような余韻を残す。
 赤信号の方へ歩いていく。その信号は国道313に面している。右に行けば広島の福山方面、左に行けば総社市岡山市に通じている。なんとなく左方面を歩き始める、たまに車が通るが大型トラックが多い、ライトの列が通り過ぎていく。真っ直ぐに国道沿いに進むと川と橋が見えてくる。高屋川だ、街灯があるが心細く、川が流れている音が聞こえるか聞こえないかぐらいに微か。
 この橋の部分で小中と同じだった同級生がバイクの事故で一週間意識不明になって、そして死んだ。国道313沿いを中型バイクで走行していた友人と橋の横から出てきた乗用車がぶつかったとだけ聞いた。
 高校二年の冬だった、初めて舞人が触れた死の肌触りがそこにあり、友人の死に顔を見たその刹那、理性の門で閉ざされていた感情が解き放たれて一気に流れ出し止める事はできなかった、ただ下へ流れ落ちていった。誰もがいつかはこうなるんだとだけ思った、空は曇っていた。雨が流れ落ちそうだった、でも流れ落ちてはこなかった。灰色の空がただあった。小中と一緒だった同級生たちの泣き声が空を振るわせていた。
 そのまま歩いてコンビニで缶ビールを二本買って橋の所まで戻る。枯れた献花を蹴って川に落とした。カサっと渇いた音。ビールを開けて中身を少しだけ白いコンクリートに垂らしてそこに缶ビールを置いた。もう一本を開けて飲みだす、すぐに口を離す。
「にがいな。なあ、飛行機がビルに突っ込んでいったよ、嘘みたいに。嘘みたいだけどホントに」
 ゆっくりと飲み続ける、何度か車のライトが照らして、また闇に包まれて。飲みきった缶ビールを地面に置いたビールの横において手を合わせる。じゃあなとだけ言って川沿いを歩き出す。このまま川を北上して小さな橋を渡って道を下ると舞人の家に戻れる。
 川面が月に照らされている、蠢く意志をもった黒の流れだった、呑み込まれてしまいそうな妖しい黒光りを放っていた。舞人は誘われるように覗き込む。
 様々な想いが混濁して自らの内を走る、駆け回る、時間の感覚が消えている。
 ばちゃっと川面が波打った、その音で我に返る。魚が跳ねた音ではなかった、小動物が跳ねた後に響くそのばちゃっという音。この川でそんな音を鳴らすのはヌートリアしかいない。ヌートリア岡山県に多く存在しているカワウソのようなものだ。
 幼い頃は川沿いを歩いているとよく水面から顔を出して泳いでいるのを見た記憶があった。今は黒光りの中でいるかどうかは見つけられない。でもヌートリアかなにかに見られている視線を感じた、視線を見つけることができずに歩き出す。


     5

 
 ばちゃっと音を立てたのはヌートリアの雄だった。ヌートリアは日本では岡山県に一番多くの数が生息していると言われている。
 イネや水路ぞいの野菜に大きな被害を与えるため、毎年二〇〇〇〜三〇〇〇頭が捕殺されている、暗黙の了解の元に。
 岡山県での捕殺数は、全国の九割以上を占めている。つまりここがヌートリアの墓場であり彼らのデッドライン。
 ヌートリアとは本来スペイン語でカワウソ(の毛皮)を意味し毛皮はカワウソのように上質で、カワウソの毛皮として売買されたためにこの名前が定着した。草食性で流れの弱い河川の岸辺の土手などに巣穴を掘って普通は雌雄のペアで生活をする。
 結氷するような寒冷地では生息できない。だから北海道にはいない、存在することができない。温暖化すれば屯田兵のように北上し新しい住処をそこに獲得するかもしれない。
 半水性で水辺の生活に適応しており、泳ぎが得意で五分以上潜水することができる。二十〜五十センチぐらいでひょうたん型の体系で指には水かきもついている。
 かつての日本では海狸鼠(かいりねずみ)、沼狸(しょうり、ぬまたぬき)などとも呼ばれていた。「勝利」にかけて沼狸(しょうり)という呼び方は戦争中に縁起がよいと軍に喜ばれて重宝された。
 一番の特徴は前歯が大きくオレンジ色をしている。原産地は南アメリカの中・南部であるとされており、日本に輸入されたのは一九〇七年、今から百年近く前のことだ。場所は東京の上野動物園だった。始まりは舞人が行き損なった東京からだった。
 それから一九三九年にフランスから軍用の毛皮獣として百五十頭が輸入される。つまり日本軍に招かれて入国する。そして人類にとって、彼らにとって重要な傷跡を残す第二次世界大戦がある。防寒用の毛皮として肉は食用として使われるために飼育が施される、数はあっという間に増え続ける、爆発的に。百五十頭は繁殖を繰り返す、人間の手によって五年で四万頭までに、膨大な数に膨れ上がる。
 生命が膨張する、自然界のルールを無視して、あるいは放棄して。この頃がヌートリアの全盛期だと言える。
 その後戦争の終焉と共に人から必要とされなくなる、多数が放逐され屠殺された。見放される、戦争の終わりと共に。忘れられた。
 生き延びたものが野性化する、ごく当たり前に野性に適応する。種の保存のために、無意識に、彼らの遺伝子がそうさせた。自然繁殖を始めた外来の動物であったヌートリア帰化動物と言う。ブラックバスブルーギルと同じように、本来の日本の生態系を壊す。この国に本来いなかったものが本来いたものを排除する、自らの繁栄と遺伝子レベルの命令のために。人間の愚かさをも反映して復讐する。
 なぜ岡山県南部に多いのか? それを解明する資料はない。ただ西日本の各地で見られる動物である。最近はさらに範囲が広がり千葉や静岡でも発見されている、彼らはテリトリーを順調に拡げている。
 いや初めの地に近づいている。彼らが最後に狙うのはおそらく北海道だ。日本最北端の道の川や湖でのんきに泳いでいる彼らが見れたのならば本州では極楽鳥が求愛ダンスを踊っていても何ら不思議はないだろう。
 その時日本は亜熱帯化している。近未来の日本。
 この物語は舞人と美羽の物語として、ボーイミーツガールとして語られる、その中にヌートリアは記号として登場するだけの脇役に過ぎない。
 舞人と美羽はまだ再会していない。

 正確には中学を卒業してから一度だけ会った。その再会した一度とは舞人の愛車のスクーターのジョルノが壊れて普段は三十分かかる隣の笠岡市にある高校にバスで行った帰りだった。バス停から降りて高屋川沿いを舞人が歩いていた、ヌートリアがひょっこりと顔を出していて、トレードマークの歯と同じようなオレンジ色が川に反射する夕方に。
 川沿いを舞人とは違う市内の進学校の制服を着た美羽が自転車で通りかかり、中学を卒業してから三年振りぐらいに話をした。
 舞人が美羽の自転車に乗って、美羽が荷台に乗って坂道を上った、二人乗りをして、オレンジ色の夕暮れに、高校三年の男女。舞人の背中には美羽の体温があった。坂道を上り終えてY字に分かれている所にくる。舞人の家は左側を下る、美羽の家は右側を下る。
「行くよ」とだけ行って舞人はハンドルを右に切る。
「清水くん家反対じゃろう」
「いいよ、なんか、送って行った方がいいかなって」
「ありがとう」
 美羽は一つ下の学年の後輩と別れたばかりだった。左手は舞人の腰に、右手で髪を結んでいたヘアゴムを取った。髪がふわっと広がって風に遊ばれた。
 自転車は美羽の家まで勢いを増して下っていった。舞人はなんだか楽しくなって後ろを振り抜いた。ほんわりと笑っている美羽の顔があった。少しだけ大人の女性の顔になっていた、中学の時よりも。舞人もニコッと笑って前を向いてもっと早くペダルをこいだ。
 その数日後、彼女がいなかった舞人が美羽を映画に誘おうと美羽の家に電話をかけたことがあった。あの時自転車で坂道を下ってから美羽の事が気になっていた。
 携帯が今のように普及する前世紀、最後の高校生や中学生たち。同級生たちの中で携帯を持っているものはわずかだった、それに県境の田舎だった。
 舞人も美羽も携帯を持たずに不便なく生活していた。舞人は高校三年の冬にした年賀状配達のバイトで稼いだ金で、親に保証人になってもらって初めての携帯を手にした。
 美羽は卒業して就職する際になってようやく自分の番号を持つ。
 だから舞人は高屋川沿いの道の我が家に下る道にある郵便局のスロープ部分にあった公衆電話から美羽の家へかけた。電話に出たのは美羽の母親だった。舞人は顔から火が出るような恥ずかしさがあった、全てがおばさんに漏れてバレているようなバツの悪さ。おばさんはそれを察したのかすぐに美羽に変わる。
 美羽の後ろでは妹らしき女の子が歌を歌っているのが聴こえてきた。美羽にはひとつ学年が下の妹がいたはずだった。
 その声は大きく心地よく歌っているのが電話越しでわかる。
「後ろの声ってさあ」
「うん、妹。風呂上がりとかだと歌ってるんよ、いつも」
「電話越しなのに潮崎の声より大きく聞こえる」
 舞人は公開している映画のタイトルを言って今週か来週の土曜日に観に行かないかと聞いた。美羽もあれから少し彼の事が気にはなっていた。しかし電話のある部屋には母がテレビを見るふりをして聞き耳を立てているのがわかったし、風呂上がりの妹は「あの飛行機くもり空わって」をのんきに歌っていた。とっさに口から出たのは「用事があるからごめん」だった。
 彼は「そうかあ、じゃあまた」とだけ言って電話を切った。母は「あらまあ、残念」と言った顔で振り向いてすぐにお笑い番組に視線を戻した。
 妹は母と姉の空気を察して歌うのを止めた。姉妹は自分たちの部屋に戻った。二段ベッドの上に寝転んだ美羽は目を閉じて深呼吸をした。吸っては吐いて吸っては吐いてを大きく繰り返した。妹はCDラジカセにお気に入りのCDを入れようとしていた。
「宇美、音大きくしないでね」
「はいはい〜」
 爆音が部屋中に響き渡り、寝転んでいた美羽は飛び起きて天井で頭を打ちかけた。音はすぐにいつもの音量まで下げられた。
「これすごくいい歌詞じゃけえ、大きい音がいいなって」
「大きすぎるでえ」
「ごめん、でも聴いてみてよ。そういえばなんで最近シングルも大きいのばっかになったんじゃろう、なんでかな」
「姉ちゃん知らんよ、そんなこと。宇美が聴けって言うから聴こうとしてんのに、なんで喋るんよ、少し黙りいや」
「だって気になったんじゃもん」
 美羽がベッドから降りて宇美の隣に腰掛けて「無罪モラトリアム」のケースを手に取る。歌詞カードを取り出してもう一度初めから再生をしながら歌詞を見ながら聴いた。宇美は歌詞を見ないで歌えていた。
 両親から合わせて「ミウミ」と呼ばれていた姉妹は梅雨過ぎに訪れた父が職を失うという一家にとっては過去最大で最悪な出来事で将来の進路をまったく違うものを選び、数年間交わらない人生を送ることになる。
 姉の美羽は優等生だった。宇美は同じ高校に通い、姉を知る先生からはお姉さんみたいに落ち着きを持ちなさいとよく言われたが、彼女のひょうひょうとした自由さの方が自分の人生を、あるいは周りの人間に起きた出来事を巧く処理して前に進むには向いていた。
「お姉ちゃん、モラトリアムってどういう意味だっけ?」
「猶予期間とかなんかじゃない、自分で辞書で調べなよ」
「めんどくさー」
 そういうことが気になるとすぐに答えを知ろうとする性格の美羽は机にあった三省道堂の大辞林をすぐに手に取り調べる。
「知的・肉体的には一人前に達していながら、なお社会人としての義務と責任の遂行を猶予されている期間。また、そうした心理状態にとどまっている期間」とあり、そのまま言葉に出して歌っている妹に伝える。
「なんかむつかしいね、それ」
「うん、むつかしいなあ」
「うちらはそのモラトリアムな時期の前なんかな」
「まあね。まだ社会人じゃないし。大学生とかじゃないのモラトリアムな時期って。たぶん」
「大学四年で遊ぶからモラトリアムってこと」
「そうなんかな、そうかも」
「もう少しでうちらもモラトリアムな人間じゃね」
「なんかそれ変じゃな」
 美羽は自分自身がその状態に陥るなんて思ってもいなかった九十九年、高校三年生だった。まだ二十世紀だった。
 宇美は高校二年で宇美が高校を卒業する次の年度まで彼女達は同じ家で過ごす、一人は途中で時間を失って、一人は広がる世界に心を躍らせながら。


     6


 舞人が弁当工場でレーンに沿って仕分けして走り回って汗だらけになって上京資金を貯めていた頃、美羽は実家の自分の部屋にいた。だからその時にはもう世紀の数字は変わって二十一世紀になっていた。テレビ画面はテロのニュースではなく魔女の女の子が十四歳になって普通の世界に出ていったりする作品で有名な監督のアニメ映画が次々に、永遠に流されていた。
 美羽は世界との距離を取っていた、自分の部屋が世界から自分を守る唯一の城であり、そして世界に出ていけない牢屋でもあった。永遠のように流されるアニメはテレビでしているものを録画したものだった。美羽は部屋の灯りもつけずにテレビの灯りだけが部屋を照らしていた。
 食い散らかされたポテチの袋の内側の銀色を、お菓子のゴミを照らす、以前とは変わってしまった自分自身も。
 無意識にビデオデッキに入れているテープが映し出す物語を美羽自身が欲していることに本人はまだ気付いていない。いや気付けない。おばけのような幼い子供が創り出す空想の友達のようなかわいらしい猫のキャラクターを人は成長する時に捨てていく、あるいはある年齢に差し掛かると世界という社会に人は出ていくことになる。
 今までの環境を捨てて、新しい世界へ、それはかつて通過儀礼と呼ばれ大人になる儀式だった。大人がいなくなってしまった、あるいは大人になることを諦めてしまった世界には通過儀礼などもう存在しないが。だからそのアニメは未だにテレビで再三放映される。繰り返される。
 ごく一部の人間は大人になってこの物語を捨てていく事の必要性を物語の中から察知する、その匂いを嗅ぎ取っていく。大多数はそれに気付かないし、当たり前のように毎年放映されるその物語群に意味を必要としない、ただの娯楽として受け取る。そうそれが資本主義だから。だから美羽もまだそれに気付けない、その物語群に流れる本来のメッセージを、気づけずに受け取れない。だがルーティンワークのようにその映像を流す、パブロフのイヌのようにテレビがあれば流れているのはその物語群でないといけないと思い込むかのように。
 自分が必要としているメッセージがあることを本能では嗅ぎ取っている、しかしまだ完全に嗅ぎ取れはしない。本能のアンテナは受け取るべきものを傍受できないままで。雨ざらしのままに放置されている。だから美羽はこの部屋から出ていけない、家から外へ出ていけなくなった、もう一年が経っている。
 高校時代に気をつけていた髪の毛のケアもされずに一年間分の髪は伸びた、二十歳になる美羽の肉体は自分の平均身長から考えられる平均体重よりも二十キロ以上も多くなってしまっていた。
 美羽と舞人の生まれ育った町は岡山県の南西部にある井原市だ。いはらしではなくいばらしと読む。
 西隣には広島県福山市があって岡山と広島の県境で、舞人が通っていた高校がある笠岡市は瀬戸内海に面している。
 温暖な気候の地域で中国山脈から降りてくる寒さも瀬戸内海の温かさで雪もあまり積もることもなく、日照時間が全国的にも長く「晴れの国岡山」と県庁は唱っている。
 井原市一級河川高梁川の支流である小田川広島県神石群神石高原町を源に北から南に流れ、市の中心部で東方向の矢掛町方向に流れを変える。
 北と南を山・丘陵に挟まれた盆地を形成している。美羽の家の後ろには山がそびえている、舞人も幼い頃は祖父母と一緒に日曜日になると山に登った、高山寺というお寺に参るために。
 二人が生まれ育った町は「中国地方の子守唄」発祥の地だ。だが、今の二人には子守唄は必要ない、子守唄よりも欲するものがあった。
 覚醒の響きにも似た強い願い。
 舞人はこの町から出て東京へ行くという前向きな願いがあった。美羽には自分を外界から守り閉じ込めたこの部屋から出ていく勇気が、欲しかった。
 二人の再会の時は近づいている。それは平凡で退屈な戦場の中に潜んでいる、息をひそめて。コンビニの弁当工場の片隅でそれは始まる。


『君たちの居た時間』Part 2