Spiral Fiction Note’s diary

物書き&Webサイト編集スタッフ。

『君たちの居た時間』Part 2

     7


 蝉の合唱が一休みする前の夕暮れ、午後六時過ぎはまだ暑く日差しもある。舞人は工場出入り口から出て駐車場の方へ歩き出す。いつもと同じような日だった。
 日差しが照りつけて焼けたようなアスファルトの匂いがした、停めていた原付きのシートは触らなくても昼間の熱を吸収しているのがわかる。シートを開けて半ヘルを取り出してシートに腰掛けてキーを差し込んでエンジンを回転させた。
 ミラーを見ると歩いてくるおばさんがいた。ミラー越しにその人と目があって、その人は軽く会釈をする。舞人は座ったままで振り返り、顔を確かめた。
「清水君じゃろ。美羽の、潮崎美羽の母です」
「はあ、潮崎さんの」
「昔電話してきてくれたじゃろ」
「あ、はい」
 帰りの途中にある喫茶店に美羽の母親の車の後をついて舞人は原付で行く。店内に流れているのはジャズだった。
 誰だかわからないが泣くような歌い方をしているのが印象的だった、店内は薄暗く年期の入った様子で、マスターが注文を聞きにきた。やがてブラックコーヒーが二つテーブルに置かれた。美羽の母親はそのまま何も入れずに飲み始めた。
 舞人はミルクを少しだけ入れて飲んだ。昔電話した時の事を少し思い出して打ち消した。
「清水君にお願い事があるんじゃけど」
「はあ、お願い事ってなんすか」
 母親は鞄から手帳を出してアドレスのようなものを書いて舞人に渡す。彼女は語りだす、娘の美羽についての事柄を。夫、美羽の父親の義孝がリストラされてしまったこと、それは美羽が高三の梅雨を過ぎた頃で美羽は経済的な面から進学を諦めて就職した。その後、義孝が再就職したので一つ学年が下の妹の宇美は東京の大学に進学した。真面目に働いていた美羽が上司とうまくいかずに会社を辞めてしまい、引きこもってしまっていること。
「よかったらメールしてくれんかな。あの娘部屋に引きこもってしもうて、わたしやお父さんが会社に行ったあとにはお風呂とかご飯食べてるみたいなんじゃけど」
「はあ」
「同じ年ぐらいの相談相手って言うんかな。話だけでも聞いてもらえるというかメールとかでもあの子が外に繋がっていかんとこの先心配なんよ、ずっと引きこもって」
「心配ですもんね」
「それに昔電話してきてくれたことあったじゃろ。で同じ職場におるってわかってなあ、清水君になら頼めるっていうか、頼みたいなっておばちゃん思ったんよ」
「そういうことですか」
「お願いします」
 母親の顔がくしゃっとなって涙が零れる。舞人はその顔をまっすぐに見ていた。目尻のシワや口元、皮膚感にも老いは出ていて自分の母と同じぐらいの年ならそれは自然の成り行きだった、自分がもう二十歳になるというのだから親はもっと年取るよなと少し感慨を感じながらアドレスの書かれた紙を手に取る。
「いいですよ。メールぐらいなら」
「ほんとに。ありがとう。お願いね。なんか楽になったわあ」
 と涙をハンカチで拭いて舞人に断りをいれて煙草を吸い出した。煙草の煙がモヤモヤと天井に上がっていく、ぼんやりと煙を舞人は眺めてなんだか哀しくなって、その哀しみに苛立った。
 席を立って帰る準備をしようとすると母親が機嫌を取るように煙草を消した、まだ半分以上残っていた。
「じゃあ、帰ります」
「あ、ありがとうね。気をつけてね」
 頷いて財布を取り出そうとすると奢るからと言われたのでしまって喫茶店を出た、原付のエンジンをかけて店の方を見ると母親が半分になった煙草に火をつけてまた吸い出していた。舞人は軽く会釈をすると笑顔で手を振られた。
 彼女の中では何かが解決したかのような笑顔だった。
「何にも解決なんかしてないのに、大人は能天気だな」
 舞人はスタンドを下げて道路へ出ていった、山の曲がり角、体の重心を右側に傾けて坂を下っていく、次第に町が見えてくる、オレンジ色に包まれて、それを反射する町が下り坂から見下ろせた。
 この場所から速くでていきたいと思って、スロットルを回してスピードを上げた。


     8


「いきなりのメールでごめん。覚えてるかな? 小中と同じだった清水舞人。元気にしてる? 今はコンビニ弁当工場でバイトしてる。大学は一年で辞めちゃって東京に行こうと思って金貯めてるとこ。そこで潮崎のお母さんに会って話して潮崎のメアド教えてもらったんだ。暇な時にメールでもしてよ。またメールしてもいいかな?」
 テレビを流れるいつもの物語を見ながらポテチを食べている時にしばらく鳴ってなかった携帯が鳴った。誰からも鳴らなくても料金は親が払っていた。美羽は知らないアドレスからだったが、メールが来た事自体が嬉しかった。
 誰かと繋がったような気がしたから。
 誰でもいい、繋がったことが久しぶりだったから嬉しくて、この舞人からのメールを何度も読んだ。清水くんって、高校の時に会ったのが最後かな、チャリを二ケツして乗ってそれで映画誘われたけど断ったんだった。
 げえ、お母さんと同じ所で働いてんのかあ、大学辞めたんだ。フリーターってやつか、東京に行くためにお金貯めてるなんて偉いな。それに比べてわたしはダメだな。まったく、とほほだな。
 何度も返信用にメールを書いては消した。
 今まで起こったことを書こうと思ったけど書いては送るべきではないと思ってクリアした。三時間後ようやく返事を送信した。
「メールありがとう。今度またメールして。私は今家事手伝いって感じです。なんにもしてないんだけど、実際(笑)。メール楽しみにしてるね」
 簡単なことだけ書いた、自分で書きながら家事手伝いってなんだよと思ったけどそれ以外に言葉が見つからなかった。プータローとか無職ってなんだか人に言い辛いし、家事手伝いってうちみたいな女が使う隠れ蓑だったんだと初めて気付いた。その後には腹が鳴って、新しいポテチに手を出した。メールを久しぶりに打ったから親指が痛くて、その痛みが新鮮だった。
 ふとメールする相手すら今の自分にはいなかったんだと気が付いてしまい、孤独だと知ってしまう。
 手に取ったポテトチップスの袋を壁に投げつけて、嗚咽するかのように泣いた。久しぶりに現れた感情。美羽の周りを美羽自身ではどうしようもできない巨大な暗がりの塀が取り囲んで哀しみを投げつけているかのような錯覚を美羽は覚えた。
 いやだ、いやだ、なんでうちがこんな目に遭うの? うち悪い事なんかしてないのに。もうイヤだ、ここから出たいのに。でも出て何をすればいいのかわからない、わからなくなってる? わからない? 私は何になりたかったんだろう、どこへ行きたかったんだろう、なにもかもがイヤになってここから出る事を放棄して閉じこもって、でも出ていきたいのに、どこに出ていけばいいのかわからない、この感情は哀しみなの? それとも怒りなの? 何がこんなにもうちの中の大事なものを揺さぶるんだろう、うちはなんだ? うちは出ていって何がしたいのかもう考えられない、考えられないんだ。
 涙と鼻水で顔がぐじょぐじょになった美羽はベッドに横になる、ちらっと携帯を眺める。
 携帯は震えない、その時震えてはくれなかった。


     9


 舞人は止まらない。家に帰ってから夕食後に一休みしてからランニングを始めている。だいたい一枚のMDが終わるのを目安に走ることにしている。
 次第に暮れていく空の変化を見ながら、川沿いを、途中山寄りの道を選んで。あまり人に見られたくはないからという意識が働いて。
 田んぼの近くの一定間隔の電柱、その上空を小さな黒い翼が飛び交う。コウモリたちが薄闇の空を横切っていく。舞人に外からの音は入ってこない、ヘッドフォンをしている、片手にはMDウォークマンを持って。流れているのはドラゴンアッシュ「LILY OF DA VALLEY」というその年の三月に出たものだった。舞人が東京から岡山に戻ってきて最初に買ったCD。
 ランニングしながら舞人はふと思い出す、美羽のことを。この辺りに家があったはずだと確信する。高校三年の時にした年末の年賀状配達エリアがこの辺りで美羽の家にも配った記憶があった。
 街灯の間隔も十数メートルと離れている道を舞人はリズムに乗って走る、過ぎていく家の雰囲気を確かめて記憶と照合しながら。
 見覚えのある家を見つけてスピードを落として玄関近くに行って表札を確かめる「潮崎」とあり、美羽の母親の軽自動車と父親のものらしきセダンが停まっていた。
 二階の部屋に灯りが灯っていて彼女はあそこにいるのかもしれないと思った。
 舞人はそれ以上何もせずにすぐに走り始める、通っていた小学校を通り過ぎて道路に出る、真正面には大晦日になるとお参りにいく、お宮が見えた。
 道路は川沿いにあって緩やかなカーブを描いていて下には川が見える。進んでいくと道は狭くなり下に見えていた川もある程度近くになっている。道路に高低差がある。田舎の夜だから車は少なくなっている、時折乗用車が家路を急ぐように横をヘッドライトの光でぶん殴っていく。
 ヘッドフォンから流れ出す音に乗って足は前に出る、ドラムが早く打ち付けられテンポが速いほどつられて速くなる。曲に合わせて一気に全力で走り出す、この曲が終わるまではできるだけ全速力で。でも三分以上も全速力は続かない、途中でスピードを一気に緩めて歩き出す、息が荒い、汗がじわじわと吹き出してくる。
 体が少し重くなったようにすら思う、筋肉が悲鳴をあげている。歩いているようなスピードでしばらく進んでから呼吸が整えばまたランニングぐらいのスピードで走り出していく。
 その真っ直ぐな道路を突進むとY字に道が分かれている、そこで舞人は折り返す。そこから先は民家が減っているので暗さが増す。時間の間隔でこの真っ直ぐな道を二回折り返してストレッチ代わりに歩いて帰ると時間的には一時間ぐらいになると感覚でわかっている。折り返して緩やかなカーブの所でまた向きを変えて走り出す、二度目のY字で足を止める。
 いつもなら折り返して真っ直ぐの道をまた走り出していくが、走る気が起きないから歩き出した。
 体が熱を持っている、表面が汗で濡れている。歩き出してからまた一気に汗が噴き出してきた。ヘッドフォンからはそれまでとは違う穏やかで優しい楽曲と歌が流れ出す。
 その曲が終わって目の前に広がる景色に目を向けた。暗がりの中に溶けている人の生活の匂いと真黒ではない青みを含んだ空に敷かれた星の煌めきがただ存在しているのを舞人はその目で見据えて、体感する。僕の世界は今はここしかないと。
 最後の曲が、気が付くと終わっていた。無音が始まる、シークレットな曲が始まる部分までのブランク部分が再生される、無音として。
 向こう側から車のヘッドライトの明かりが近づいてくる。舞人は緩やかなカーブがある手前まで歩いて来ている。車は急ブレーキをかけて、ブレーキ音だけが夜に響いてすぐに発車して舞人の横を去って行く。
 片耳のヘッドフォンを外して車が急ブレーキをした所まで歩いていくと急ブレーキの痕とアスファルトのこげた匂い、轢かれた猫がいた。
 血まみれな猫は舞人を凝視して、街灯の薄明かりでその猫が本当は白い柄であることはわかる、内蔵が潰れたらしく腹の辺りから何かが地面へボタボタと落ちている。
 猫は舞人を無視するかのように川の方に向けて潰れた前足と後足をひきずりながらとぼとぼ歩き出す、ものすごくゆっくりと、スローモーション再生のようにも見えた。舞人は息を呑んで猫の行方を見ることしかできない。
 ガードレールの所まで歩くと猫は下を覗いた、川までの高低差は五メートル近くあった、猫はジャンプするのでもなく体を前に出して落ちていった。下の川の近くに生えている野草の上にバサッという音だけ立てて、落ちた、自らドロップアウトしていった。舞人は覗き込もうと近寄ったが、無音だったヘッドフォンからシークレットトラックが始まって流れ出して我に帰った。
 下を見ないで前を向いてリズムに合わせて夜を走る。
 舞人は走りながら亡くなった祖父のことを思い出した。
 祖父は寡黙な人で反対に祖母は祖父が話さない分も話すような人だった。二人とも八十を越えても元気で朝起きて散歩に一緒に行っていたから足腰が鍛えられていて元気だった。しかし祖父は脳卒中で倒れて半身不随になった。それがその年の春だった。祖母はいつも病院に行って世話をして付き添いをしていた。
 周囲のものは祖父よりも祖母が倒れると心配をするほどだった。舞人も見舞いに行くと祖母も嬉しそうにし、祖父もすぐに舞人だと理解した。
 声にならない声で「がんばりなさい」とだけ舞人に言う。舞人はまだ動く方の手を握って、摩りながら「うん、がんばるからじいちゃんも」とだけ言った。「がんばれ」とは言えなかった。八十年以上も生きてきた人に自分のような二十年そこそこしか生きてない人間が言える言葉ではなかった。それから夏前のゴールデンウィークの初日に眠るように息をひきとり祖父が亡くなって、通夜と葬式があって、そういうことが初めてだった父はあたふたしながらなんとか通夜と葬式を終えた。
 あっという間に過ぎていった、祖父は死んでも瞼が閉じずに、何回も閉じさせたがそのうちに開いた。だからみんな諦めた。まだこの世界を見ていたいんだと各自が自分に言い聞かせた。
 祖母は介護で疲れきっていたからそこから解放されたというある種の安堵感とずっと寄り添ってきた夫を亡くした虚無感が入り混ざっているように見えた。
 死んでしまった祖父の顔よりも祖母を見る方が舞人には辛く、泣けてきた。愛とかあんまり信じてないけどこれはきっと愛なんだろうと。終わった後にわかるのがそれなんだと、愛は過去形だと、過ぎ去った後に押し寄せるものが愛なんじゃないかと舞人は坊さんのお経を聞きながら隣に座っていた祖母を見て強く思った、愛は過去形だ、過ぎ去った後に残る優しい痕。


     10

 
 舞人と美羽のメールは続いている。舞人が美羽に好きな漫画や音楽を教えながら探る、美羽に何があったのかを探る、慎重に慎重を重ねて。今の状態に陥った原因のキーワードを手に入れようとしている。そのうちに何個かのキーワードが手に入る。美羽も舞人に少しずつ心を開き始めている。
 会社の上司とうまくいかなくなって辞めたと母親は言っていたが、その上司から交際を申し込まれ美羽が断るとストーカーになって美羽を追い回していたこと、家の近所にまで休日でも車で現れるようになったこと、一度車に連込まれて強姦されそうになったこと、会社に言うにも親族経営で上司はそこの専務の息子だったために美羽が辞めるしかなかったことがメールで舞人に徐々に知らされる。
 舞人は早速手を打つ、自室のパソコンでキーワードを打ち込む。キーワードから関連した企業名などが出てくる。舞人の中でシナリオを作り始める。
 美羽の物語に一つの区切りをつけようと、物語を作りながら想像する、そしてそれは実行に移される。
 それから数日間、舞人はランニングをしない。いつも通りのライフワークをしないでシナリオを考えている。二度、美羽の務めていた会社にも足を向ける。
 五日後、舞人はバイトを午後四時前には早上がりさせてもらってバスで家に帰り、さらにバスに乗って県境を越えて広島に入る、突入する。
 バスはまだ通勤通学帰りで混み合っていない、老人や幼子を連れた母親や障害を持っている人が乗っている。地域的に車がないと買い物にも行き辛い、家に二・三台は車を所有している土地柄だ。
 車に乗れない人がバスを使う、バスは社会的弱者の乗り物みたいに思えてきて、そんなことを考える自分がイヤだった。外の景色を眺めていると頭の中で音楽が鳴り出してきた。
「弱いものたちが夕暮れさらに弱いものを叩く」という有名なフレーズを口ずさんだ、僕は弱いのかな、潮崎は弱いのかなと。
 バスジャックするやつは自分より弱いものを人質に取ってどこへ行きたいんだろう、バスジャックしたってジャンボ機をハイジャックしてもどこにも行けやしないのにきっとそれを知っていてあえてジャックするのかもしれない。
 どこにも行けない事の確認として何かを終わらそうと。どこにも俺たちの世代は行けやしない。前の世代のやつらにやり尽くされて、色んなものを消費するためだけに存在している気すらする、社会が成り立つために。
 だとしてもずっと部屋から出れなくなった彼女を、美羽を部屋から出すぐらいなら僕にできるんじゃないだろうか、弱いものが弱いものを叩くことになっても窓ガラスに映る自分に舞人は問う。 
 テレビで見た超高層ビルに突っ込む飛行機とその後のカオスに自分の中に潜む闇が影響されていることに舞人は気づいていない、美羽を助け出すという正義感が実は自分の中に芽生えた暴力性で支えられている事に。今はまだ気付けていない。
 鞄から送られてきた資料を取り出して読む。大事なのは美羽の元上司の顔写真だった。大谷浩司という男の顔。
 三十を少し過ぎていて細身な感じを受ける。顔はどことなく爬虫類を思わす感じで髪はすでに薄くなり始めている。調べたのは高校の同級生で昔から覗きや人の噂話が好きだったやつで趣味を活かして探偵会社に入った狭山哲嗣という男だった。
 バスを福山の駅前で降りて、駅前のスポーツショップで金属バットを購入した舞人はさらに違うバスに乗る、本日三度目の。始発から六番目のバス停で降りて十分近く歩いてコンビニに寄ってアクエリアスのペットボトルを買って飲み干す。
 いつもよりも喉が渇いていた、緊張してるな、と舞人は思う。そして、また歩き出す。
 時計はすでに五時半を過ぎて六時近くになっている。会社の駐車場には車が二台停車している、一台は営業用の車らしく社名が印字されている。
 大谷の車は、ある、三代目のF30型のセルシオが。大谷は家に帰らずに会社のパソコンで出会い系のサイトを見ていた、それが運の尽きだった。舞人は汗ばむ手の平をジーンズにこすりつける。外はもう暗くなり始めている。
 会社から人が出てくる、顔写真の大谷だった。
「ビンゴ」
 そう言って道路側の会社の塀の外から見ていた舞人はバットを握る。大谷が車にキーを差し込もうとする瞬間。
「すいません」と大きな声がして投げられたバッグが車に当たる。
 振り返るとバットを持った舞人が走ってきている、大谷は危険を察知して急いでドアを開けようとする。開けて乗りもうとするが大谷の目線の先にはバットを振りかぶった舞人のそれが見える。
 大谷はドアから手を離してしゃがみ込んだ、バットがドアのガラスを叩き割った。砕ける音が響いた、欠片がしゃがんだ大谷に落ちてくる。大谷は逃げようとするが目線の先には新品のバットの金属の魅惑的な輝きがある。
「ねえ、大谷さんでしょ」
「ち、違います」と震えながらなんとか逃げようと考えている大谷は嘘をつく。
「嘘はやめよう、大谷さん。ねっ」
「なんだ、お前は」
 舞人は軽く笑って後部座席のガラスを叩き割る、真顔になって大谷を見下す。怖々と舞人の顔を見ている大谷は舞人の両足が震えているのに気づかない、気づけば逃げる道が開けたかもしれなかった。舞人は心の中で落ち着け、冷静になれ、落ち着けと言い聞かせている。人に暴力を振るうことの恐怖が今更になって足下からやってきている。なにかが零れていくのも感じている。
「大谷さんだよね?」
「私は大谷では」
「違わないでしょ、俺いろいろ調べてるんだから。嘘はあんまり言わない方がいいよ。危険が増すだけ、あんまり怒らせんなよ。結局はあんたに返ってくるだけだしさ」
 本能がこれ以上は止めろと言っているかにも思えた、でもやらなければならないと彼は恐怖を押さえ込む、だからうっすら笑う。
 笑うという行為そのものは太古の昔、人類が、いやまだ原始人だった頃に獲物を狩るために見いだした手段のひとつだった。
 やるかやられるかの狩猟、獲物は逃げようと最後の力を振り絞って原始人に攻撃を仕掛ける。原始人はこの獲物を捕らえないと自分たちが、家族が飢え死にしてしまうことを身にしみて知っている。
 生と死のやりとりの中で獲物の獣たちは吠えて鳴いた、その音は、攻撃音はすぐさまに原始人の横隔膜を揺らす、動物は横隔膜を揺らされると恐怖心が出てきてしまう。
 原始人たちは一斉に恐怖心が連れてきた死の気配に脅える。
 脅えが伝わった瞬間にそこから獲物は逃げ口を探してその原始人を狙って一点突破を図る。それを防ぐために、あるいは恐怖から発狂して人々は笑った、恐怖心を取り除くために生き延びるために原始人は笑った、生存をかけて。
 笑いは恐怖心を拭い去る手段だったから、舞人は笑った、足の震えは修まった。そしてもう一度後部座席にスイングした。
「今度嘘付いたら大谷さんの体がこれでこうなるんでよろしく」
 バットで割れてなくなった箇所を差して示す。
「は、はい」
「質問に答えてくれればいいから、わかった」
 舞人のその声は生徒に優しく諭すような先生のような声色だった。
「はい」
「昔ここに務めてた潮崎美羽って女の子知ってるよね」
「はっはい、知ってます」
「お前が彼女にした事を話せ」
「私は彼女に何もしてませんよ、本当です。勝手に辞めただけですから」
「ほんと? 聞いた事と違うけど間違いないの」
「本当ですから」
「勝手にって言いましたよね?」
「はい、勝手にです」
「はい、不正解」
 ふんっと鼻を鳴らして大谷の右足にバットを叩き付ける。金属が骨を叩き折るイヤな音が響く、すぐに大谷の断末魔のような叫びが続く。泣き叫びながら転げ回り数回自分の頭をタイヤにぶつける、鈍い音。舞人はそんな状態の大谷の顔の前にバットの先を向けてから腹を何度か蹴り上げる。
 少しだけ車から大谷の体が離れる、大谷は片手で腹を抑えて、片手を顔の前に出して謝るようにしながら「ごめんなさい、ごめんなさい」と言い続けている。
 アスファルトに倒れている大谷の右耳辺りをスニーカーで踏んで、ゴルフのクラブを打つようにバットを構える。
「潮崎美羽はお前にセクハラされて、強姦までされそうになったと言っていたけどそれは嘘か? 嘘だったらわかってるよな、どうなるかは」
「う、ううぅ。本当、です」
「おかげで彼女会社辞めるはめになったけど悪いって思ってんの?」
「思ってます、本当に申し訳なかったと」
「謝るんだぁ、悪いとか思ってないくせに。俺が来るまで忘れてたろ、潮崎の事。罪の意識がないんだよ、あんた」
「すいませんでした、ごめんなさい」
 絞り出したかのようなか細い声がした、さらに嫌気が増した。ゴキブリを叩き潰す時のような嫌悪感が体中に走った、潰しても動いている、蠢くやつらの生命力の気持ち悪さ。それに似たものを大谷の表情と声から嗅ぎ取った。
「謝っても許されないことってあるんだよ、勝手に神に祈ってろ。神様なんていないとは思うけどさ。はい、じゃあバイバイ」
 舞人はバットをゴルフのクラブで打つように振り上げて、もがく大谷の顔をさらに踏みつけて振り下ろす。恐怖で目を閉じていた大谷には鈍い音が聞こえて、今まであった圧力がなくなっていることを感じる。舞人は振り下ろしたバットを大谷の顔を踏みつけていたスニーカーの裏で受けた。舞人が大谷を見下ろしている、表情を失った顔で冷徹に言う。
「もしこれで潮崎になんかしたらお前マジで終わるからな、わかったか」
 うんうんと頷いている大谷、紺色のスラックスは失禁した尿で色が濃くなっている、地面のアスファルトも尿が濡らした。走ってくる時に投げていた鞄から数枚の写真を取り出して大谷に投げつける。
 投げつけられた写真はヒラヒラと舞って一枚は大谷の股間辺りに落ちる。舞人は顎を上げて目で見ろと命じる、大谷はそれを取って見る、顔色がさらに変わる。
 女子高生とラブホテルに入っていく写真だった。
「こっちにはこれがある。もしなんか潮崎にしたらこれが親族や関連会社にバラまかれることになるんで。一応お知らせしときます」
「なんでここまでされないといけないんだ、俺が、俺が何したっていうんだよ」
「潮崎はお前のせいで死んだんだよ」
「死んだって、彼女が、本当に? 死んだのか」
「だからお前を今ここで一回ぶっ殺して彼女を生き返らす」
「そんな、むちゃむちゃな」
「正確には死んだも同然な生き方をしている、お前のせいで」
「それは彼女がそう選んだからだろう」
「そう選ばざるえない状況にしたのはあんたじゃろうが。選びたくなくても俺らはそれしか与えられていなかったんだよ。わかんのかよ、お前らに。わかってもらいたくもねえけど、わかるとか言うなら頭ぶち砕いて脳漿を車に飛び散らかしてやんぞ」
 舞人は自分の今の状況とダブらせて感情を吐露した、大谷に言っても仕方のないことを。そう言いながらも舞人は美羽にまったく問題ないとも思ってはいなかった、そういう状況に追い込まれたとしても彼女に責任がないわけではなかった。
 潮崎のためだと言いながら自分の中にあるわけのわからない怒りや哀しみを発散したかっただけではないかと冷静な自分が問う。そうだな、きっと、でも今はここを乗り切ってからだ、その問いに向き合うのは。
 インスタントカメラを取り出して大谷を撮る、フラッシュがたかれて肉体的にも精神的にもズタボロになった三十過ぎの男をフィルムにその瞬間を焼き付ける。舞人はカメラを鞄に入れてバットを持って歩き出す。
 バットは地面のアスファルトに当たってカラカラと音を鳴らしている。乾いた感情のサウンドトラック代わりに。
「覚えとけよ、お前。顔忘れないからな」
 大谷は最後に吠えた。そうでもしないと自分の中にある自尊心が完全に音をたてて崩れさる気がしたからだった。
 最後の一線を越えないために。彼のなし崩しのプライドがそうさせた。最後に吠えた、自分であるために。
 舞人はゆっくり振り返って、大谷を睨んだ。そして跳ねた、一気に加速して、その時大谷はさっきの恐怖心のせいですぐに動けない。舞人が飛んだ。
 バットを振り上げて動けない大谷目掛けて飛んだ。
 大谷の顔面がある場所にバットを振り下ろすように。大谷はやっと動く、体を反転して避ける。
 アスファルトを叩いた金属音がして、タイヤの横に大谷の顔がある状態になっていた、舞人はすぐに次の行動に。
 バットを大谷の顔に目掛けて振る、顔の少し上を叩き上げる。金属と金属がぶつかる音が、鳴った、大谷は泡を吹いて気絶する。
 舞人はそれを見て一気に加速する、一気に駐車場を駆けていく。鼓動が早い、いつも走っているときよりもさらに速く走って駆ける。
 さっきのコンビニまで戻って昨日停めておいた原付のシートを開けて鞄を詰め込んだ。バットは足を置く場所に立てて、両足の太腿で挟んだ。エンジンをかけて発車する、一瞬だけ後ろを振り返る、大谷が来れるはずもないのになんだか後ろが怖かった。
 罪の意識だったのかもしれない、すぐにスロットルを回して加速する。風が少し肌寒く感じる。もうすぐ神無月になる。


     11


 舞人は眠れないままで四日間が過ぎる。工場へ行き働いて家に帰る、疲れは確かにあるが、夜眠れない。寝ようとすればするほどに眠れなくなっている。
 一瞬意識が睡魔に取り込まれるが、その刹那、あのバットで叩き潰した骨の砕ける音と大谷の悲鳴が聞こえて目が覚める、時計はまったく進んでいない。
 バットはあの日、家に帰ってから、深夜に高屋川に捨てた。それから毎晩眠れない舞人は深夜の二時過ぎに家を出て国道313沿いを歩いてコンビニでビールを買って飲みながら川沿いを歩く。友人の分も買って備えるのも忘れずに。
 その四日目、立ち止まってバットを投げた辺りを見ている。川の流れは穏やかで、吸い込まれそうな気がして怖くなる。
 藍色にも似た夜空に月が出ている、川に映ってゆらゆら揺れている。道の小石を揺れている水面の月に向かって投げた。小石が水面を割って、月がわれて消えた。次第にまた元の状態になると月がまたゆらゆらと現れた。
 その月を雨雲が一気にさらっていく、雨が降りそうだったから帰って寝転んだ。天井の木目はぐるぐると不規則に円を描いている、顔に見える気がしなくもない。
 幼い頃は天井の木目が怖いと思って上を向いて眠れなかったのを覚えている。今はなんだか哀しく苦しんでいるような顔に見えた。
 無音の部屋だったので、何か優しい曲が聴きたくてスマパンのアルバム「Siamese Dream」を取り出してトラックナンバー9「Mayonaise」を選んで再生した。
 目を瞑って音に集中する。途中まで聴いて立ち上がってアルバムから日本語訳した歌詞カードを天使のようなかわいい女の子二人の写真のジャケット取り出して曲の頭からまた再生する。今度は日本語の意味を読みながら歌を聴いた。
 

ほとんど本物の愚か者
それに気づけないほどクール
そしていつもこう感じるほど年をとった
ずっと年老いて こう感じるんだろうな
約束も悲しみも もういらない
もう 従いもしない
誰か僕の声が聞こえるかい
僕はただ僕でいたいだけ
できるなら きっとそうするよ
時が許せばきっとそうするんだって
分かってくれよ


 寝転んでいた舞人の目から涙が一滴零れていく、それを手で拭って起き上がりCDを停止した。充電中の携帯を充電器から外して、ポケットに入れて部屋を出て階段を降りて家から出ていった。
 ぽつりぽつりと小雨が降り出していた。舞人は川沿いの道路から水面を見ていた。さっきまで空に浮かんでいた月は雨雲に隠されたままだった。
 水面を小雨が打ちつけて、跳ねてその流れに取り込まれている。
 舞人は斜面を降りていく、人が一人歩いて降りることのできる部分があり、降りるとコンクリートで作った一メートルほどの幅の通路がある。幼い頃はそこで釣りをしたり、水遊びをしていた。
 幼い頃は泳いだりできるぐらいにきれいだった、今は川で遊んでいる子供を見ない、子供が川で遊ばなくなったのか、遊べないぐらい汚れてしまったのか、おそらくはその両方だろう。
 ヌートリアは未だに住んでいるのに。舞人は川に足を入れる、思いのほか冷たかった。水面は股下ぐらいまであるが流されるという事はなく進んでいく。バシャバシャと川の中を歩いていく。だいたいの予測地点まで来て足で探ってみる。
 感触はなく、その周囲を円を描くようにして確かめる、感触はない。前方へ進む、バシャバシャと。
 サンダルを履いている右足の親指に冷たい感触がある、しゃがみ込んで手を水面の中へ入れる。掴んで水面からそれを引き上げた。舞人の手には大谷に振り下ろしたバットがある。
 水面が激しく雨で打たれ始める。空を見上げると大粒の雨が舞人の顔を濡らしていく。バットを持っていない方の右手で携帯を取り出して美羽宛に短いメールを打った。
「会って話がしたい」
 返信はすぐに来た。
「私も会いたい」
 舞人は携帯をポケットにしまって歩き出した、バシャバシャと。斜面を上り家へ続く坂道。四方に道があり舞人の家へ下る手前に寺と郵便局があった。郵便局のスロープ部分に緑の公衆電話が備え付けられている、あの懐かしい公衆電話。
 一度受話器を手に取ったが今電話するよりも直接会って話をしたい思い直し、受話器を元の場所に戻した。何かに見られているような気がした舞人は背中の方へ振り向く。
 その直線上には川を隔てて経ヶ丸という山が暗闇に輪郭を飲み込まれた巨人のように存在している。川沿いの山に上る手前の一角には墓があり雨の中その周辺の少し上をうっすらと見える仄かな青い光が揺らめいていた。
 いまにも消えてしまいそうな仄かな青い光は恐怖を感じさせる事もなく、ただそこに存在するものだと自然に思えた。舞人は普段は見えないものに周波数があっただけだと冷静に判断して、そうなぜか思えて坂道を下った。
 離れの玄関でずぶ濡れになった服を脱ぎ、バットと携帯だけを持って階段を上がった。バットは押し入れの奥に入れた。タオルで体を拭いて横になり薄い毛布をかけてすぐに眠りに落ちた。四日振りの眠りだった。
 窓を打ちつける雨、ただ落ちるように眠る、とても穏やかな顔をして。舞人はそれから五時間後に様子を見に来た母親に起こされた。母親は毎朝起こしにくる。
 階段の下のびちゃびちゃの服について何か言っているがただ洗濯しといてとだけ言ってから母親を部屋から追い出してから肌寒いので服を着た。雨はまだ降っていた、窓を開けて雨と空を眺めた。金曜日、舞人は休みだった。
 窓にあたる雨音で美羽は目が覚めた。気が付いたらベッドで寝ていた。舞人からのメールに返信してから母親に仕事帰りに買ってきてと頼んでいた「カレカノ」の最新刊を読んでから、そのコミックスの第一巻からまた読み返していた。その途中で寝てしまった、三巻が寝ていた美羽の横に転がっていた。
 ドアがノックされる。
「美羽、お母さんこれから仕事行ってくるから。ご飯はテーブルの所に置いているからね。食べたら洗っといてなあ。行ってくるから」
「うん、わかった。いってらっしゃい。気をつけてね」
「いってきます」
 ドアの前の人のいる気配が遠ざかっていく、少しだけ寂しくなる。朝早く仕事に行く父とはほぼ顔を合わさない、母は毎日声をかけてから仕事に行く。引きこもってすぐの頃は強引に父と母が部屋から連れ出そうとし美羽は生まれて初めて暴れた。
 泣きながら暴れた、抑えようとした父に殴られたが「お父さんのせいだ、私だって大学行きたかったのに」と言った後、父は肩を落として表情をなくした。それでも溢れ出してしまった感情がセーブできないで父と母に罵詈雑言を吐いてしまった。
 その日から言った言葉が美羽自身に返ってきて傷口をさらに深くし、両親を傷つけてしまった事の後悔で自分をさらに苦しめた。
 両親が仕事にでかけると家でひとりぼっちになる。自分の部屋から出てテーブルに置かれた食事を食べて風呂に入る、シャワーだけを浴びてまた部屋に戻り、いつものように何度も観たアニメを再生する。映像がただ流れていると安心する。
 何度か外に出ようと玄関まで行った事はあるが、玄関を開けて外に出る事はできなかった。出たとしてもどこにも行きたい場所がなかった、なかったのだから開けることができずにいた。玄関のドアが美羽と世界を隔てる境界線、ボーダーラインだった。世界は家の外側にしかなかった。
 

     12


 舞人は傘を差して家を出た。雨は弱まらずに雨粒は大きなままだった。濃い灰色の雲が空の支配者として数時間の間ずっと君臨していた。時刻は午後の一時を過ぎていた。いつもはランニングするコースを歩いていく、先には美羽の家がある。
 美羽の家の前まで行くと両親の車はなく、二階の部屋は明かりが点いているのがわかった。家の前の道路に傘を差した舞人が佇んでいた。親からはぐれた迷子が見つけたお菓子の家を見るような懸命さと呆然さを持って。
 携帯を取り出して初めて美羽の携帯に電話をかけた。数コール後に美羽が出た。人と話していない、声を出していない人間の儚げな声だった。
「ごめん、電話して。今何してた?」
「なんにもしてなかった」
「声ちっちゃいね、潮崎さん」
「うちあんまり人と話さないから、ごめんなあ」
「そっかあ。これから少し話をしないかなと思って」
「いいけど、何を話すん?」
「うん、そうだね。今日は雨が強いね」
「うん、雨降ってるね。今日はバイト休みなん?」
 舞人は携帯を片手に歩き出す、玄関の方へ。
「うん、今日は休みなのに雨なんよ、まったく。いっつも休みは雨って感じがするわ。金曜日って雨の日多いよなあ」
「そう? 金曜日は雨ってイメージないなあ」
 玄関のドアに手をかける、横にスライドして開く、鍵がかかっていなかった。美羽の母はいつでも娘が出ていけるようにあえて鍵をしないで仕事に行っていた。
 防犯に対して田舎なりの寛容さと不用心さで、そのおかげで容易に舞人は潮崎家に入る事ができる。
「ごめん、ちょっとだけ切るね」
「う、うん、すぐにかけてきてくれるん?」
「すぐにかけるから」
 携帯を握りしめて靴を脱いで入った事のない潮崎家にあがる。不法侵入をしていると思う、悪気は全く起きなかった。明かりのない一階部分は人の温度がなく、ジメッとした湿度があった。
 真っ直ぐに行くと突き当たりの壁があり、その右側に二階への階段がある。舞人は一段ずつゆっくりと上っていく、足音と存在感を消した記憶喪失者の足取りで。
 美羽へ一歩一歩と近づいていく、階段を上りきると左右に二つずつ部屋がある。気配の感じる右の奥の部屋の前で立ち止まり見据える。半透明で黒い液状のスライムのようなものがドアや部屋の壁に張り付いて蠢いているのを、五感を超えた何かで舞人は捉える。
 携帯を取り出してから美羽の携帯へかけるとわずかに部屋の中から美羽の声がする、舞人はドアを開けた。
 美羽はいる、一瞬何が何だかわからないと言った表情をして言葉を発さないで後ずさりした。何が起きているのか把握できずに。
「久しぶり」
 舞人の言葉だけがある、言葉が伝う。
 美羽は答えれない。ただ驚いている、予期しない訪問者に、いや侵入者に。家族以外の人間に久しぶりに会ってしまって。
「直接会って話そうと思った。で玄関のドアが空いてたから。これって不法侵入だよな、ごめん」
「えっ、なんでどうして清水君がここに」
「聞いて欲しい事があるんだ」
「だから、なんで清水君が来てるの? なんでここにおるん?」
「僕が潮崎と話したかったから」
「だって、なんでおるんよ」
「君と話したいことがあるんだ」
「何。何が起きてるん。話す事って」
「話したいっていうか聴いてほしいことかな」
 舞人はまっすぐに美羽を見る、美羽はその視線に耐えれない、彼の視線がまっすぐすぎてすぐに逸らしてしまう。
 同時にぶくぶくと太ってしまった、かつてとは違う自分の有り様を恥じる、なんだか胃液がこみ上げてくるような苦さが迫ってくる。
 家族以外の人間に会えた喜びよりも恥ずかしさが勝る、自分の部屋が、ありふれた空間がぐにゃっと歪んだ。
 瞬間的に歪んだ景色はすぐに戻り色彩もいつもの光景に、ただ心臓の鼓動が速く打っているのがわかる、心臓がここにいるよと自己主張を必死にしているみたいだった。
「ね、ねえお願いだから帰って、帰ってよ、出て行って」
 見られたくない今のうちの姿。美羽は小さく震えている、舞人にもそれが伝わってしまう。震えが伝わる、舞人にも。
「すぐに帰るから。ねえ大丈夫?」
「大丈夫、じゃない、大丈夫な人間はこんなとこに……いない」
「そんな悲しい顔せんでよ、なあ」
「見ないでうちを、見ないで、お願い」
「見ないでって」
「今のうち見たらわかるでしょ、前と全然違う。ずっとここに閉じこもって、この家から出れなくなって、太って、こんなんになって、ねえわかる?」
「出れないって、出たいと思ってんだろ、なあ」
「出たいよ、出たいけど。玄関まで行ってドアを開けようとまではするんよ、でも開けてどこにも行きたい所がないの、どこにも行けない」
 美羽はそう言いながら手で顔を覆う。舞人は決心する、この状況を変えるために自分が動くしかないと。
「わかった、僕が連れ出してやる」
「どこにも行けないの」
「どこかに行きたいかなんて出てから考えればいいんだ」
 ずかずかと美羽の部屋に入っていく舞人に美羽は後ずさる。やがて窓際の砂壁に当たって止まる、わずかに砂壁の砂が落ちる。舞人は目の前に立っている、恐怖心が美羽を支配して舞人にそこら辺にあったものを投げつける。コミックスやビデオテープ、ポテチの袋や枕なんかを。
 舞人は何も言わずに投げつけられるものを防ぎもせずに立っている。さっきまでテレビで流れていた作品の「ラベル」が貼られているビデオテープを投げる、それは舞人の右目の少し横に当たり骨に当たった渇いた音がする。
 ビデオテープは落ちて、舞人の右目の少し横から血が流れ始める。涙のように右目の横から血が下へ流れていく。頬の下から落ちて畳に染み込んだ。血はゆっくりと畳の隙間に沈む。
 舞人はゆっくりと右手で右目の端を触る。人差し指のつま先に血が付いた、それを顔の正面に持っていって見る。手をまた顔に持っていく。
 一筋の血の流れを止めるように手の平を当ててその一筋のラインを口元にスライドさせるかのように動かした。舞人の右頬の真ん中あたりから口元にかけて血で汚される。少数民族の儀式の化粧のような強さがそれにはある。
 手の平にはうっすらとした血が。
 美羽は動けずにいる、自分を両腕で抱きしめるような形になって震え出している。そこにあるのは恐怖心だった、理解できない舞人の行動の意味に。
 舞人は美羽の手前まで行くとしゃがみ込んで美羽の頭を血の付いていない左手で撫でた。
「恐がらないで」
 舞人の手が美羽の頭を優しく撫でる、次第に美羽の震えのような痙攣は治まって。恐怖心が小さく小さくなっていく。
「大丈夫、怖くなんかないよ、落ちついて。怖くない、大丈夫だから、ねえ大丈夫だよ」
 その一声で救われる。美羽の両腕は主人を失った腹話術の人形のように力を無くしてだらんと下りる。
 救い主が目の前に現れて報われた殉教者の視線の熱さに似た強さと高揚で、その目は舞人を見つめる。舞人は美羽を抱き寄せる、ギュッと。きつく、抱きしめた。
 美羽の顔の前には舞人の胸元があって男の匂いがした。自分では決して発することはできないものが漂って鼻孔を刺激する。その刺激は子宮が収縮して拡張するような自分が女であることを感じさせる匂い。
 舞人の両手は美羽の背中をさすっている、よしよしと。少しずつ解れていく感覚、溶かれている感覚。
 何かが崩落したみたいに、美羽は泣き出した。
 この部屋に閉じ込めて手の届かなくなっていた感情が色彩を纏って自分の中にまた戻ってくる。失ったと思ったそれらは部屋の隅々に隠れていた、いつか宿り主に戻るのを待ちながら。
 涙が頬を伝って、舞人の胸元を濡らした。ひっくひっくとしゃくり上げるように泣いた、舞人は優しく頭と背中を撫でていた。美羽のだらんと下りた両腕は自然に舞人の背中をもとめた。舞人の背中に美羽の指の先が食い込む、強く、深く。
 美羽は舞人をもっと自分の側に引き寄せようとする。舞人は今まで以上に強く美羽を抱き寄せた。舞人の胸で美羽は押しつぶされる、くすぐったいような温もり、圧迫されて咳き込むと舞人が力を抜く。二人の微妙な距離がある。
 あの愛おしい温もりが失われたことに美羽は悲しくなって舞人を見る、視線がぶつかる。舞人がゆっくりと話しだす。美羽は視線を今度は逸らさないままで。
「四日前に潮崎が言ってた、セクハラしたっていう上司に会ってきた」
「上司って、大谷さんに」
「うん、いろいろ調べて。あいつの会社の駐車場で待って。俺は潮崎がここから出るために何かできるかなって思って。とりあえずその原因になったそいつに罰を与えようって。それはなんでかわからない。潮崎のためにって言ったけど、本当は自分の中にあるわけわからない怒りとか虚無感みたいなもんを吐き出したかっただけなんだと思う。それで待ち伏せしてそいつの車のガラスをバットで叩き割って、そいつの手や足の骨をバットで叩き折った」
「叩き折ったって、まさか死んじゃったの大谷さん」
「いや、殺してなんかない。あいつは泡吐いて気絶して。僕は逃げた。家に帰ってから高屋川にそのバットを捨てて。それからずっと眠れなくなった。昨日の深夜、実際はもう今日になってたんだけど、川にバットを取りに行ったんだ。それで潮崎に会ってこのことを言おうと、聞いて欲しいと思って。潮崎に許してほしかったんだ。潮崎のためだと自分で思いながら自分の中のもんを発散させただけにすぎなかった。自分に関係のない人を傷つけた、単なる悪意しかなかった、僕の中には、怒りみたいな悪意しか」
「許すよ、うちは。許したい清水君を。今、会えてここにいてくれて嬉しい」
 美羽は両手で舞人の頭を包んで自分の胸に引き寄せる。
「許すから、うちは清水君のしたこと。そうだね、ここから出てどこにも行きたい場所がなかった。でも行くべき所があったんだよね、大谷部長の所に行ってひっぱたいてやればよかったんじゃね。それで終わらせばよかった。会社を辞めてすぐに登録制のバイトやって街角で携帯の新商品を宣伝するのをやったんよ。ミニスカート履いてテカテカのビニールの服着てさ、汗かくと皮膚呼吸ができない感じのやつを着てね。福山の駅前だったんだけど通りかかった人が話しかけてきて高校の同級生の男の子だった。すごく下品な笑い方して、お前何やってんだよ、恥ずかしくねえの。こんなとこでこんなことしてって笑われた。それでそのバイト辞めてもうどこにも出ていきたくなくなった」
「そうだったんだ」
「うん、それがこの二年の全てだった。全部うちがしたの、全部逃げたの」
「そいつも、その同級生もバットで殴りに行こうか」と少し微笑みながら舞人が言う。
「やめてよ、もう大丈夫。もし今度会ったときは自分でひっぱたくから、清水君はやっちゃダメだよ、もう」
「うん、わかった」
「もう人を傷つけないでお願いだから」
「約束する。救いにきたのに救われてるな」
「救ってくれてるよ、清水君。ここに来てくれて今こうして」
「やっぱりやりすぎだよなあ、大谷って人。一応警察に言わないように写真で脅したんだけど、ダメかもなあ」
「脅すって何? もっと何かしたん?」
「高校の同級生に探偵会社に務めてる奴がいるから大谷の事調べてもらったら、女子高生とラブホに入る写真も撮ってサービスでくれて、この事言ったらこの写真親族とか関連会社に送るぞって言っといた」
「大谷さん援交なんかしてんの、やっぱり最低。やりすぎじゃないよ、そんなことしてるやつには、そのぐらいがいいよ、ほんとに最低」
 舞人は美羽の胸で笑った、なんだかこうやって普通に話していることが自然で美羽の口調も知っている昔の彼女みたいで安らいだ気持ちになった。胸元で舞人が笑っているのを感じている。美羽は何だか嬉しかった、人と笑って話せるということが久しぶりに味わえて、生きている感じがした。
 抱き寄せていた舞人の頭から両腕を外した。そのまま手は舞人の手を握った。あたたかい温もりがある、舞人の体温が手の平から伝わってくる。
「あたたかいね、手」
「うん、潮崎の手も」
「美羽って呼んでほしい」
「美羽」
「舞人って呼ぶね、うちも」
「美羽の手もあったかい」
「うん」美羽が目を閉じた。舞人も目を閉じて唇を近づけた。唇が触れた瞬間に舞人は目を開いた、美羽も目を開いていた。
 ひっついた唇はすぐに離れて、お互いの唇には笑みが浮かぶ、笑い出してしまう。
「なんで目開けてんだよ」
「そっちだって目開けてたじゃろう、お互い様じゃ」
「そうじゃけどさあ、なんか雰囲気が」
「雰囲気がね」
 そう美羽は微笑む。
「やっと笑った」
 舞人は繋がった手を離して、両手で美羽の顎のラインを支えるようにして「目を閉じて」と言った。「うん」と言った美羽はゆっくり目を閉じる、舞人も目を閉じて美羽にキスをした。
 お互いの唇ののりしろを擦り付けて、舌を相手の中に差し込んで歯や歯茎や口内を、確かめて舌と舌を絡ませて、両腕は相手の背中を触り、長く強くその瞬間を抱き寄せていた。
 美羽と舞人の吐息が次第に漏れて性的な響きを含んだ吐息が発せられていた。それは十分以上続くものだった、彼らにはもっと短くまどろんで感じられた。舌と舌を絡ますのを止めて唇を離すと唾液が垂れた。
 舞人は立ち上がって美羽に手を差し出した。美羽はしっかりとその手を握りしめて頷く。舞人に連れ去られるようにして部屋を出ていく、灯りの点いていない廊下を、階段を下って静まり返った一階に降りた。玄関まで舞人が美羽を引っ張って行く、少し強引な強奪者に誘拐された姫はゆっくりと少しずつ前へ。
 玄関の縁で立ち止まって美羽と舞人が横に並ぶ形になった。美羽は素足で三和土に下りる、ひんやりとしている。舞人もソックスを脱いで同じように下りた。美羽が玄関のドアに手をやるが、動かない。舞人が後ろから美羽の手に自分の手を重ねる。
 凍り付いていたドアが動いて開く、庭が目前に広がっていく。雨はまだ降り続いている、永遠のような雨。美羽は素足のままでその境界線を越えていく、土の感触がある、水を含んだ土のそれが。
 一歩、一歩と進んでいく、舞人はそれを見守るように後ろにいる。屋根がなくなる部分まで出ていく、美羽の髪が、顔が、服が雨で濡れていく、両手を広げて全身で雨を受けている。
 目は開いたままで雨が降り注いでくる空を見上げている。
「雨だあ、雨だっ。雨だよ、雨が降ってる、雨が」
 舞人の方を振り返って笑う、雨で濡れているのもまったく気にしない顔で無邪気に笑う。
「ねえ出れたよ、外出れた、外に」
「うん、出れたね」
「ありがとう、舞人。ほんとにありがとう」
「よかった、とりあえず」
「雨、雨だよ、なんだか嬉しい、雨が降ってて、私今雨に打たれてるよ」
「打たれてる、雨に打たれて笑ってる」
「なんでこんなに嬉しいんだろう」
「世界と触れているからだよ、きっと」
 美羽は舞人に片手を差し出す、舞人は進んでその手を握って隣に立つ、同じように空を見上げている、雨が舞人と美羽を濡らし続ける。浮かぶ雲は灰色で速く動いている。
「でもこのままだと風邪引くと思うよ」
「そうだね、風邪引いちゃうね。そうなったとしてもすごく嬉しい。雨だ、雨、あめー、わぁぁぁーーー」
 高揚を冷ますかのように雨空に向かって美羽は吠える。二件隣の柴犬がそれに反応して吠えたのを聞いて舞人と美羽は笑って一緒にさらに大きな声で雨が落ちてきたその方向へ再び咆哮する、細胞が、魂が生き返るかのような儀式だった、そう雨乞いの儀式のような再生の式日


 神に祈っても祈りは届かない。でも君の叫びは誰かにきっと、きっと届く。


『君たちの居た時間』Part 3