Spiral Fiction Note’s diary

物書き&Webサイト編集スタッフ。

『マイ・バック・ページ』




監督:山下敦弘 原作:川本三郎 脚本:向井康介
キャスト:妻夫木聡松山ケンイチ忽那汐里石橋杏奈中村蒼韓英恵長塚圭史あがた森魚三浦友和


ストーリー・元・朝日新聞社記者の川本三郎によるノンフィクションを、妻夫木聡松山ケンイチの若手演技派初共演で映画化した社会派青春ドラマ。1960年代後半の学生運動を舞台に、理想に燃える若手ジャーナリスト・沢田と、革命を目指す学生活動家・梅山との出会い、立場の異なる2人がそれぞれの理想を追い求めて葛藤し、激動する時代を駆け抜けていく姿を描く。監督は「リンダリンダリンダ」「天然コケッコー」の山下敦弘




 朝に東中野のおすぎの焼き肉屋さんから帰り落ちるように寝てたけど十時過ぎに目が覚めたので、まあ外は雨だった。わけだけどじゃあ月曜観に行こうと思っていた山下敦弘監督『マイ・バック・ページ』を観に渋谷東映に。


真心ブラザーズ マイ・バック・ページ


 『モテキ』の原作のオムさんの完全にモデルであろう山下さん。


 1960年代後半の学生運動を舞台というだけあって妻夫木×松ケンなホリプロな役者陣だけど客層はわりかし高めな感じで『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』を観に行った時に近い。その時代を通りすぎた人達にとってあの時代は何だったのかってのは死ぬまで離れないだろうし抱えていくものなんだろう。


 革命を夢見た季節。それは敗北していった若者達だった人達とのちの影響。この作品は川本さんのノンフィクションだから現在だとザッカーバーグを描いた『ソーシャル・ネットワーク』みたいな距離で観ればいいのかなと思ったり。


 女の子に振られたアスペルガー症候群な男の子が現実ではコミュニケーションが上手く取れないが彼の天才的なプログラムで作り上げたフェイスブックで世界中で知らない人たちのコミュニーケーションが生まれたというある種の皮肉でもあり、FBによって中東では「ジャスミン革命」が起きた。


 日本では革命は起きなかった。大学で大学を否定していた若者は否定していた社会に組み込まれていった。


 しかし現在ネットによる繋がりで世界は変わるのかもしれないという時代になった。アルカイダのテロによる革命を支持する人は減り彼らの地盤も緩んでいるらしい、テロがなくても時代は変わるというのが支持していた人にも伝わった。


 僕としては今のこの時代をどうかつての学生運動してた人に見えているのかが気になったりもするけれど。


 原作を読んでいたので流れはわかっていたけど140分ぐらいかな、めっちゃ長く感じなかったけど、やっぱり長いかなあ、途中でトイレ行って終わりかけもトイレ行きたくなったし。まあ僕の尿意が近いんだけどパンフでも山下監督が言っているように当初はアメリカンニューシネマみたいな感じで尺も90分ぐらいにしようと思っていたらしいんだけどそのぐらいがよかったかもしれない。


 沢田(川本氏)は証拠隠滅罪で捕まるのだが、原作本ではジャーナリストとしてのプライドやソース元は明かさないという部分と捕まった後での彼らの仲間として罪がさらに重くなるかもしれない中での取り調べでの葛藤とそこで敗れた事を書いているが映画ではことさらその部分は少なく、沢田と梅山との関わりと時代背景等を丁寧に描いている。


 妻夫木は村上龍の自伝的小説『69』で主役を演じているし、松ケンは村上春樹の代表作の一つでこの作品と同時期を描いている『ノルウェイの森』で主役を演じているのでそれらと合わせて観ると面白いかもなって思いながら観ていた。


 wikiより
週刊朝日』編集部を経て『朝日ジャーナル』記者になったが、1971年秋、朝霞自衛官殺害事件で指名手配中の犯人菊井良治(当時日本大学2年生)を密かに面会取材。犯人が宮沢賢治について語り、ギター片手にクリーデンス・クリアウォーター・リバイバルの『Have You Ever Seen The Rain?』を歌う姿に接して個人的なシンパシーを持つに至り、アジビラ作成を手伝った挙句、犯人から証拠品(自衛官が殺害された時に着用していた腕章と、犯行時に使用された隊員ズボン)を譲り受け、これを焼却した。1971年11月19日に犯人が逮捕されると川本の行為も露見し、川本は1972年1月9日に逮捕され、会社は懲戒免職となった。同年9月27日、川本は浦和地裁にて懲役10ヶ月、執行猶予2年の有罪判決を受けた。この事件の経緯は自伝的な『マイ・バック・ページ−ある60年代の物語』に詳しい。


Creedence Clearwater Revival: Have You Ever Seen The Rain?


 映画の中で梅山がいうのはこの曲の「雨」とはベトナム戦争でのナパーム弾だと言っている。


 『69』では学校にバリケードをした高校生の話/ベトナム戦争学生運動に揺れた1969年、基地の町・佐世保の高校に通う、高校三年生の矢崎剣介<あだ名はケン>(妻夫木聡)がいた。彼は退屈とレールに敷かれた人生を何よりも嫌う自分を含めた生徒達を管理の檻に押し込めようとする教師達に反抗するため(本当は同級生のマドンナ、「レディ・ジェーン」こと松井和子(太田莉菜)の気を惹くため)に、親友の「アダマ」こと山田正(安藤政信)らと共に映画・演劇・ロックがごちゃ混ぜになった一大フェスティバルの開催を企画する(wikiより)


 『ノルウェイの森』では早稲田の学生だった村上春樹が観た景色。この作品は学生運動とかしている同大学の同世代に対してその運動に対しての恋愛をアンチテーゼとして書かれているので作品の中では学生運動は彼らの恋愛の物語の時代背景として描写される。が映画版は別に今の時代に置き換えてでもいいし、学生運動に対しての恋愛的なモチーフが活かされているように思えないのでわざわざその時代設定にしなくてもいいのになって思った。


 三作に共通する時代背景は戦後のアメリカ文化がどんどん入ってきて、ロックが日本の若者の中に浸透していく、していった光景だった。


 『マイ・バック・ページ』では記者として安全な所で取材しているという葛藤を抱える沢田が梅山と付き合うようになり、やがて身動きが取れなくなってしまう。彼らが信じたものはなんだったのか?
 梅山は大層な事をいい人を騙しているが不思議な魅力がある人物で彼を疑いながらも拒否できない沢田、やがて彼らが行動を起こした後にはスクープになるはずの取材も彼を思想犯としてとられるか殺人犯としてとられるかで出版社の中で沢田の在り方は違うものになっていく。


 夢を、野望を語る人間は最初はやはり大ほら吹きでしかない。その言葉に巻き込まれる事もあるしうさんくさいと拒絶もされる。じゃあ、行動してみろと言われる。そして行動を起こし始めて・・・。巻き込む側と巻き込まれる側。


 何かを得る時に何かを失うというのはよく聞く。時間をかけて行動すれば成功するというわけでもなくかけたほうがいい時もある。そしてタイミングを外せば全てが途方に暮れる場合も多い。
 そこに客観性はあるのかどうかはかなり重要なファクターになるだろうなって思う。冷静と情熱の間じゃないけど熱意を持ちつつ客観視する事ができなければ舵を取り損ない間違えた、失敗や敗北に向かうのだと思う。


 この作品の梅山は誰かに認められたかった。本物になりたかった。しかし他人の言葉を借り、偽わり巻き込んでいった。そこに記者としてジャーナリストとして本物になりたかった沢田が崩れさっていく物語だった。それはその時代の赤軍派の敗北の縮図のような何かが見てとれるようにも思ったり。


 梅田が彼女と京大に行ってカンパというか資金を提供してほしいと言いに行く。彼女は大学内で運動の旗や校舎にペンキで書かれた文字を見ながらもキャンパスを歩く、通りすぎて行くオシャレをしたカップルや女の子の集団を見る。彼女が本当に欲しかったのは梅山の求める革命なんかじゃなくそういう大事な人とのありふれた時間だったはずだ。
 彼女が通りすぎていくお洒落をしている女の子の学生を見る視線は大塚英志著『「彼女たち」の連合赤軍』に書かれていたその後の消費文化を担う女の子に通じていたと思う。たぶん、80年代以降の「セゾン文化」に繋がっているかなあって思いながら観てた。


『消費社会と吉本隆明の「転向」―七二年の社会変容』
 その一方で七〇年代初頭という時代は日本が消費社会へと足を踏み入れていく最初の時期でもあった。七〇年に『an・an』、七一年に『nonno』といった女性向けファッション誌が、七二年には『ぴあ』が情報誌として創刊され、記号化したモノや情報が商品となる時代へと変容が始まっていた。ファーストフード店の日本上陸、キャラクターやファンシービジネスの会社が次々と登場するのもこの時期である。やがて八〇年代に一気に開花する大衆消費社会に向けての社会変容が、連合赤軍のリンチ事件や紙不足、狂乱物価、五島勉ノストラダムスの大予言』刊行といった「世相」の深層で確実に始まっていたのである。(『「彼女たち」の連合赤軍』P173より)


 時代は当然ながら繋がり影響を次の時代に与えながら進んでいくので僕らが生まれる前のこの物語の時代が生まれた頃に影響を与え、その時代を作るのに至っている。


 原作本と違い映画らしいなってのは沢田が記者として五百円を持って一ヶ月東京を放浪それをネタにして書くコラムのためにテキ屋的なとこに居候して一緒に育たない、大きくならないウサギ(だったと思う)を一緒に売っているシーンが最後には円環し繋がるのは映画らしいなって思った。


 あとは人前で男が泣くのがカッコ悪いと思っていた時代と泣くのが当たり前の時代の差違とかは観る側に違った印象を与えるだろうし、これは敗北の物語だと言えるんだけど敗北していった世代と敗北した時代の後に生まれた人の価値観では感じ方も違う。時代が違っても届くものはあるけど違う届き方もある。


 ロッキンのサイトでの『Fleet FoxesニューAL『Helplessness Blues』は大いなる「無力感」の肯定だった』を読んでずっと気にかかっていると何か似ている。


 この2011年を生きる若き世代は、絶望を知ることはなかった。それは、すでに世界そのものだったのである。世界は、あらかじめ無力感の支配する風景として、そこにあったのである。


 少しずつ年を重ねていくたびに、ソーシャル・ネットワークで知り合った友達がはるか彼方で兵士として命を失っていく様を動画サイトで検索できるような世界を、ロビンはどう見ていたか。世界は、それに慄くより前に、あらかじめそのような絶望としてあっただろう。


 やっぱり山下さんの映画で一番好きなのは『松ヶ根乱射事件』かなあ。とか思いつつもこの時代を映画にするなら『アンラッキーヤングメン』を実写でしたらいいのになとよく思うけど、まあ無理だろうな。


天然コケッコー』 2007年07月29日07:03
シネアミュ−ズイーストウエスト/7月28日公開初日
 
言葉はさんかく こころは四角


監督/山下敦弘
脚本/渡辺あや
音楽/レイ・ハラカミ/主題歌/くるり
原作/くらもちふさこ
主演/夏帆


 山と田んぼに囲まれた田舎が舞台、小中学校合わせて6人の学校で唯一の中学二年生・右田そよを主人公に、東京から転校してきた大沢広海との関係、兄妹同然の学校の生徒達との卒業するまでの1年間を描く作品。


 山下監督に3月に会った時にも聞いた、ANAを観に行った下北のライブハウスで偶然会った時もこの映画の事を聞いた。
 脚本の渡辺さんは『ジョゼと虎と魚たち』から好きになったライターさんでトップランナーの観覧にも行った。
 くるりの音楽は東京に来てから僕の想い出とともあるし、邦楽のライブに行くキッカケを作ってくれたバンドだった。
 エンドロールには専門の友人が制作主任としてテロップに出ていた。終わってすぐに観たってメールをした。


 話にはすぐに入っていけた。スクリーンに映る映像は僕が見慣れたものにとても近い匂いがした。
 田んぼ、あぜ道、田舎特有の建物の雰囲気、人の感じ、時間のゆっくりさ、どれもが自分の故郷を思い出す要素があった。


 僕の知っているものにとても近かったから。観ていると懐かしくなってきた、帰りたいなって思った。それらが僕を育んだものだったものと同様の在り方をしていた。
 

 そよたちが話す方言も、舞台は島根みたいなんだけど、僕は岡山生まれの岡山育ちだから、まったく同じような言葉というわけでもないのだけど親近感が沸いたし、方言っていいもんだよなって思う。離れて解ることというものも確かにあるんだと。


 祭のシーンでの神楽とか出てきて、地元も祭の時期になると神楽やっててよく観に行った。神楽を観るのが好きな子供だった。
 祭の時期には相撲大会があって、勝つと山盛りの10円玉を片手で鷲掴みした分だけ賞金でくれるっていうのがあったなあって脳裏をよぎった。
 

 濃密なゆっくりとした時間が流れていた。

 
 映画の魔法がかかっていた。監督、脚本、原作、音楽、キャスティング全てが奇跡みたいな時間を描き出していた。

 山下監督は女の子を撮るとキラキラして、男を撮るとダメダメな感じになる。その両方の差が撮れるのがすごいなあと思う。


 そよたちはキラキラしている。そのキラキラはやがて終わりの時期を向かえてしまうんだけど、だからこそキラキラと輝くし、同時にせつなくもある。


 この映画の魔法がかかった作品は映画館で観た方がいい、絶対に。うん、間違いなく。


 こんなに祝福された映画は家でDVDで観ても感動はするだろうけど、あの雰囲気を映画館で観る事でキラキラが増すんじゃないかなと感じる。


 最後のシーンでそよがする行為はその魔法を自ら解くかのように、今までの時間にサヨナラするかのようにゆるやかな静かなシーンだった。


 観る人は終わりが近づいているのはわかっている。


 僕はほんとに終わってほしくなかったし、でも終わってしまうことはわかっている。

 
 そよは新しい場所へ、向かっていく、それまでの場所とは別れを告げて。


 くるり『言葉はさんかく こころは四角』が流れ出す、何回も聞いている曲だ。


 映像と音が重なって、目に涙が潤んできてしだいに零れていく。


 ああ、終わってほしくないんだ、終わらないでほしい、この濃密でゆるやかなキラキラしている時間が。
 

 終わった後には3時間ぐらいあるかのように感じられた。2時間しかないはずなのに、時間が本当に濃密でゆるやかにそして優しくてせつない時間が流れていたから、もっと観ていたかった。


 観終わって思ったのはすごくいいものを観れたという観れてよかったありがとうという気持ちとこんなタチの悪い作品作らないでくれよという気持ち。


 終わってからカフェに行った。頭が痛くなってきた。


 わかってるんだ、この感覚。たまにあるから。


 憧れと、憧れと今の現状の溝が深い事が。


 この気持ち、久しぶりだった。


 自分にとって影響を与えてくれるものを観た後に起こるこの感じは、どう説明したらいいんだろう。


 『ピンポン』公開初日の最初の回をシネマライズで観終わった時に感じた『僕らの日本映画が始まったんだ』というあの感覚みたく、『HAZARD』を観終わった後に感じた自分への苛立と吐きそうになるあの感じみたく、知恵熱みたいに頭が痛くなってくる。


 うん、悪くはない。この感じからまた始めることができる。


 脳内で暴れてるんだ、感情とか感動した事とか表現したい事とか暴れて何かがまたできて、イヤでも僕は動いていくから。


 『天然コケッコー』は風景がとても鮮やかだ。子供達の成長を見守るように、四季ごとに舞う。


 この映画には色彩が溢れて舞っている。


 それが余計にキラキラとせつなさを増す要素になる。


 この作品は時間が経てば経つにつれ、輝きが増してくる作品なんじゃないだろうか。


 中学を出て早10年以上が経ってる、だからまだ思い出せるけど。これが日々が過ぎてあの日が遠くなるにつれてもっと輝きが増すだろう、過ぎ去りし日々への想いがこの作品をさらに響かせることになるだろう。


 ゆるやかにしなやかにつよく、そしてせつなくやさしい。


 色彩が舞う、子供達の笑顔が、笑い声が響く。

 
 春、あぜ道の両脇にふわふわと揺れる薄ピンク色の桜が舞っているとても短いシーン。


 その細いあぜ道をカブかスクーターに乗っているおじいちゃんがゆっくりと走っていく、とてもゆっくりと。
 僕の知っている時間の流れがそこにはあって、あの短いシーンもなんだかすごく色彩あってゆるかやな時間が流れていた。


 この作品すごく好きです。


 色彩が舞っているんだ、そしてやさしくてせつない時間が。

マイ・バック・ページ - ある60年代の物語

マイ・バック・ページ - ある60年代の物語

69 sixty nine [DVD]

69 sixty nine [DVD]

「彼女たち」の連合赤軍 サブカルチャーと戦後民主主義 (角川文庫)

「彼女たち」の連合赤軍 サブカルチャーと戦後民主主義 (角川文庫)

ヘルプレスネス・ブルーズ [日本盤のみ歌詞/対訳、解説付]

ヘルプレスネス・ブルーズ [日本盤のみ歌詞/対訳、解説付]

アンラッキーヤングメン 1 (単行本コミックス)

アンラッキーヤングメン 1 (単行本コミックス)

アンラッキーヤングメン 2 (単行本コミックス)

アンラッキーヤングメン 2 (単行本コミックス)

松ヶ根乱射事件 [DVD]

松ヶ根乱射事件 [DVD]

天然コケッコー [DVD]

天然コケッコー [DVD]