Spiral Fiction Note’s diary

物書き&Webサイト編集スタッフ。

『s(o)un(d)beams』

 クッキーシーン用に書いたレヴュー。


salyu × salyu「続きを」(from "s(o)un(d)beams")special movie


salyu×salyu『s(o)un(d)beams
 声に惹かれて震える。そんな経験があなたにはあっただろうか? 
 僕にはあった。それがsalyuだった。salyuが一般的に(世間に知られ始めたという意味で)認知されたのはsalyuのプロデューサーである小林武史ミスチル桜井和寿を中心とした「ap bank」の活動資金や融資金を集めるために結成されたバンド「Bank Band」の曲『to U』からだと思う。


 今から十年前のゼロ年代初頭に小林武史の盟友とも言える映像作家・岩井俊二監督作『リリイ・シュシュのすべて』において物語のキーパーソンとしての歌手「リリイ・シュシュ」としてsalyuは世に出る形になった。作中では映画内のプロモーションビデオに現れる形のみだった。


 三十代半ばから二十代後半の世代は九十年代に思春期を過ごし、今やある種のジャーゴン的な使われ方にすらなって今の二十代前半や下の世代に全く通じなくなったミニシアター系や単館系映画を多感な頃に観た世代にとって映像作家・岩井俊二は非常に影響を受けたクリエイターだったことは言っておきたい。


 その後、salyu名義として彼女は小林武史プロデュースでデビューする。僕は正直彼女がsalyuとしてデビューしたことを知らなかった。COUNTDOWN JAPAN 04/05でなにげなく彼女のステージを観た。
 salyuはまだシングルを二枚ぐらいしか出してなくその次の年に発売される曲になった『彗星』を聴いて僕は虜に、その声に一気に持って行かれた。彼女が「リリイ・シュシュ」だとわかったのは曲数がなくて普通に「リリイ・シュシュ」の曲を歌っていたからだった。


 僕はあまり女性ボーカルに惹かれたりすごく追いかけたりしたことがなかった。ただ『彗星』という曲がきっかけだったが彼女の天性の声に惹かれてしまった。


 それから彼女のライブやツアーはできるだけ観に行くようになった。当初は新宿ロフトでのスプリットライブ等にも小林武史はキーボードとして必ずいるような感じで彼がsalyuに対しての期待も凄いのだと感じていた。
 salyu自体の人気も『to U』以後には確実に出てきたのだけどファーストアルバムツアーの後のアコースティックツアーの辺りから少しずつだが人気が出ているのを肌に感じるようにはなっていた。Bank Band『to U』の前から彼女のツアーのラストではsalyu ver.『to U』で締めていた。


 小林武史とのクリエイションの中で彼女はさらにボーカリストとしてアーティストとして成長し、自分の考えをいかに表現するかを体現しながら楽曲を発表していく。一度は小林以外のプロデューサーと組んだりしながらも去年の終わりには『リリイ・シュシュ』プロジェクトが再始動もしたりしている。


 salyuとしてではなく自らをププロデュースする形でのsalyu×salyuとして音楽プロデューサーにコーネリアスを、作詞には元ゆらゆら帝国坂本慎太郎七尾旅人いとうせいこうという布陣でリリースされるのが、すいません前フリが長過ぎましたがsalyu×salyu『s(o)un(d)beams』 という新しいアルバムです。


 salyuの公式サイトでのコーネリアスとの対談インタビューによるとこのプロジェクト自体は二年以上前から始まっていた。salyuが4年くらい前に出会った”クロッシング・ハーモニー”に感銘を受けた事が始まっているそうだ。


 一曲のカバー曲以外はコーネリアスが曲を。この二人が組むと声と音がこんなにも実験的でありながらもポップでしかもsalyuの声が非常に意識的に声の強さを出す事に成功している。引き出せているように聴いていて感じる。


 salyuの声を「日本のビョーク」というミュージシャンの人もいるぐらいなのだが、コーネリアスの楽曲と自身の声に非常に意識して展開させたこのアルバムはその発言に頷けるものとなっていると思う。


 小林武史というプロデューサーに見出され世に出たsalyuは自らをプロデュースしたsalyu×salyuプロジェクトは彼女を新しい次元にステップに見事に立たせたのだと思う。このプロジェクトは続けて欲しいし、小林武史とまたsalyuとしての楽曲作りにも期待が高まる。


 一曲目『ただのともだち』(詞・坂本慎太郎)、六曲目『奴隷』(詞・坂本慎太郎)、七曲目『レインブーツで踊りましょう』(詞・七尾旅人)、九曲目『Mirror Neurotic』(詞・いとうせいこう)がオススメな楽曲ですが、トータルの楽曲をコーネリアスがしているのでアルバムとしての完成度も非常に高いものになっています。

s(o)un(d)beams

s(o)un(d)beams


Radiohead ~ Lotus Flower ~


RADIOHEAD『The King Of Limbs』
 14日にTwitter上で流れた情報、それはRADIOHEADニューアルバム『The King Of Limbs』が週末にリリースされることが突如発表になったということだった。その後RADIOHEADの公式twitterで日本語で「渋谷 ハチ公広場 金曜日18時59分」とツイートされ様々な憶測が流れた。


 それは渋谷の三台のビジョンでニューアルバムから『Lotus Flower』のPVが世界で最初に流されるということになるはずだったイベントの予告だったが、ライブパフォーマンスなどの憶測が流れ、そのことを否定するも渋谷のハチ公前に人が集まり混乱になる可能性が高いと「ホステス・エンタテイメント」から企画自体が中止になった事が発表された。


 僕自身は六時に仕事が終わりその中止になった事を知らぬまま渋谷に向かっている電車の中で中止を知った。とりあえずハチ公前を見ようと思いハチ公広場に向かった。金曜日だった事もありたくさんの人が待ち合わせしていたが、なんとなく普段よりも欧米系の外人の姿が多かったように思えた。何も起こらないのならばと僕は家路を急いだ。
 その後その予定された時間ぐらいに『Lotus Flower』のPVがYou Tube上にアップされ一日前倒しでニューアルバムの配信が「今すぐ発売」となった。


 僕もTwitterのTLを眺めながら予約していたのでダウンロードを開始したが、何度かサイトが重いせいかうまくいかずにいたが数分後にはダウンロードできた。一通り全八曲を聴いた時に二曲目『Morning Mr Magpie』と七曲目『Give Up The Ghost』と八曲目『Separator』が特にいいなと思いその後も何度も繰り返してアルバムを通して聴いた。


 全体的にはなんというかしなやかなダンスを見ている体験を聴いたようなリズムというのだろうか、僕の中にゆっくりと溶け込んでいくような音だった。
 『Lotus Flower』のPVでトム・ヨークがダンスしているせいかもしれないがそんなイメージ。ちなみにそんなPV監督はBLUR『Coffee & TV』などでも有名で以前に僕もレヴューを書いた『リトル・ランボー』のガース・ジェニングスのようです。


 このアルバムに付属するもの全てがこのアルバム『The King of Limbs』ではないかと何度も聴きながら思う。そこで思い出したのが大塚英志著『定本物語消費論』だった。


「1980年代の終わりに、子供たちは「ビックリマンチョコレート」のシールを集め、「人面犬」などの都市伝説に熱狂した。それは消費者が商品の作り手が作りだした物語に満足できず、消費者自らの手で物語を作り上げる時代の予兆であった。1989年に於ける「大きな物語」の終焉を出発点に、読者が自分たちが消費する物語を自分たちで捏造する時代の到来を予見した幻の消費論」(本の裏面の紹介文より)


「『ビックリマン』において子供たちは、一枚一枚のシールという目に見える商品を購入することを通じて、実はその背後にある『ビックリマン神話』を手に入れようとしていた。商品の実体はシールでも、ましてやチョコレートでもなく、<神話>そのものだったのである。『ドラクエ』や『ファイブスター物語』でもそれは変わらない。消費者は<神話>や<歴史>の全体像を知る手段として、その断片であるソフトやコミックを買うのだといえる」(文庫版 P66より)


 音源のダウンロードではシールのような実物ではなくデータであるので目には見えないが、ネット上でリリースされることやTwitterでの告知やそれにまつわるツイートなどが可視化される。そして中止になっても知らないでハチ公前に集まった人達が期待していたのは<神話>や<歴史>をニューアルバムについての何かがハチ公前で起きる事が目の前で起こるだろうという期待、それは一種の<祭り>であった。


 大規模なものではないにしてもリアルタイムで流され拡散される情報によりRADIOHEADに期待する人達が洋楽ロックに興味ある人がネットを通じてその祭りに参加しようと期待値を膨らませていた。その流れも今回のアルバムには付随してしまうものだった。
 中止になったからこそすぐに前倒しでダウンロードを始める事でこの祭りは不満で潰される事なく哀しみの後の喜びのように届けられた。現実において彼らの音は届いた。だが、彼らが今まで作りだしてきた音楽にあるリズムとそのメッセージ性が現実の中において聴けば聴くほどにある種の形を僕の中で作りだして行く。


 僕がそうやって<祭り>だったり<祝祭性>という言葉を使うようになったのは社会学者・鈴木謙介著『カーニヴァル化する社会』を読んでからだが、彼は本文を始める最初の「ふたつの「祭り」+1/お祭り化する日常」において、


「夢を語る/騙ることが問題なのではなく、こうも容易くたくさんの夢を見ることができる時代に、なぜ私たちは夢から醒めることができないでいる、あるいは醒めようとしないでいるのかについて考えるのが、本書の役割であるのだから」(P12より)


 と書かれているのだがさきほど出した『定本物語消費論』の著者である大塚英志はかつて『MADARA』という漫画の原作をしており、その作品はメディアミックスされ今の角川書店におけるメディアミックスの基になっているのだが、その終焉として『MADARA』というタイトルがタイトルからもなくされ終わらす為に書いた『僕は天使の羽を踏まない』という作品の文庫後書きにて、


「ぼくは中途でしばしば物語ることを放棄するし、読者に小説の外側の世界をいつも突きつけようとする。なるほど、しばしの間、夢を見ていた読者にとってぼくは迷惑で無責任な小説家なのだろうが、しかし、ぼくにとって小説は夢を見せるためではなく、醒めさせることのためにある」(文庫版 P282より)


 と書いている。僕がずっとRADIOHEADに感じていた事は彼らの音楽は夢を見せるものではなく醒まさせる事にある音楽という事だ。

ザ・キング・オブ・リムス

ザ・キング・オブ・リムス


Kimonos - Soundtrack To Murder


Kimonos『Kimonos』
 This is 向井秀徳LEO今井によるユニット「KImonos」のアルバム『Kimonos』はナンバーガールを得てそして現在進行形のザゼンボーイズを率いている向井秀徳サウンドに似ていながらもLEO今井とのコラボレーションの中で違う色が混沌として混ざり合い響くものとなっている。それら二つのバンドサウンドが好きな人はさらに楽しめるはずだし、苦手だった人はLEO今井のヴォーカルにより引き込まれるのではないだろうか。


 最初に一通り聞いて特に印象的だったのはラスト『Tokyo lights』だった。もしもナンバガールが続いてたらこんな曲もあったんじゃないかと思った。ナンバガールのその向こうの景色のようなサウンドだと思った。
 が、もともとこの曲はLEO今井の曲でアルバム『City Folk』収録されているものだった。そして元の彼の方を聴いてみるとサウンドが全然違う。曲のテンポも雰囲気もロック調ではなかった。向井の音楽性とLEO今井の音楽性が混ざり合うとどことなく洋楽ロックテイストのようなものが孕まれていくようだ。


 文学性を持っていたナンバガール的な歌詞にLEO今井が持つヴォーカルと英語圏で暮らしていたその感覚からくる歌詞がお互いにしっかりと自分を殺さずにきちんと主張している音が心地いい。
 バンド名「Kimonos」はアートワークを大正時代の美人画(着物を着ているがピアノを弾いている女性など)を使う事から決まったという。西洋と日本が見事に調和したミックス感が自分たちの作っている音と合うと思ったことからと聞くとなるほどなあと納得してしまう。アルバムにあるのはやはりミックス感であるから。


 彼らがスタジオに入りいろんなカヴァーを試みる。その中からアルバムに収録されているのは細野晴臣『Sports Men』だが、この曲があると知らずにアルバムを聞いていて鳴りだした時には興奮した。いろんなカヴァーを聴いているしいろんなアーティストが歌っているのも知っていたが、とても前からそこにあったような当たり前の景色の様に存在していた。この二人によって演奏されているのがまるで決められていた様にアルバムに完全に溶け込んでしまっていた。


 このユニットが発表されてザゼン好きな僕は期待と不安が入り混ざった。ザゼンサウンドがとても好きだし彼らの狂う様なサウンドは圧倒的なカオスと正確なテクニックに裏づけられたリズムによってシーンの中でも孤高の存在のようなものだと思っている。その中心である向井秀徳という彼のプロジェクトはどういう風に展開するのかと。


 杞憂に終わった。ずっと繰り返して聴き続けた。飽きない、聴く度に自分の中に溶け込んでいくのに新鮮な感じはあくならない。LEO今井のヴォーカルの心地よさも向井のサウンドザゼンのようにいい意味で狂っていない、が的確に今を照らしながらその中の景色をサウンドを色彩をミックスして見れなかった色や風景、聴けなかった音やその囁きを届けてくれる。


 一度でいいからこのアルバムを全曲通して聴いて欲しい。僕にはニヤリと微笑むThis is 向井秀徳LEO今井が浮かんだ。このやられた感はとても幸福な気持ちだ。そしてまた再生してしまうのだ。

Kimonos

Kimonos


快快『Y時のはなし』
 批評家・佐々木敦氏が代表を務める「HEADZ」の演劇/パフォーミング・アート作品をリリースする新レーベル「play」の第一弾リリース作品の快快(faifai)『Y時のはなし』のDVDについて。


 まずは彼ら快快(faifai)について。2004年結成(2008年4月1日に小指値(koyubichi)から快快に改名)メンバー10+サポートメンバーによる東京のカンパニー。
 ステージやダンス、イベントに楽しく新しい場所を発信し続けるパフォーマンスカンパニーであり、日本という枠をとっくに飛び越えて海外でもそのパフォーマンスを展開している。


 作風としてはまずは多幸感、そして祝祭性がある。極めて今の時代のポップさがあり身体性があり、ゼロ年代に対するカウンターあるいはアンチテーゼとして機能するカラフルでハッピーなポップさが咲き乱れている。
 そんな彼らについたあだ名は「Trash & Freshな日本の表現者」「現代の蜃気楼、ファイファイ」というもの。
 今月の9月4日にはスイスのチューリッヒ・シアター・スペクタルにて『my name is I LOVE YOU』がWinners of the ZKB Patronage Prize 2010を受賞する快挙を成し遂げている。


 僕が初めて舞台で観たのがその『my name is I LOVE YOU』だったのだが、感想としてはかわいいとかっこいいが混ざり合っている、そして身体を使い、舞台をめいいっぱい使いダンスなどで身体性が発揮されている。観る側の視覚で捉える身体性が示す物語、台詞は英語なんだが、まるで英語がサウンドトラックのように聞こえた。


 舞台をまるで観ないというわけではないし大人計画などの小劇場出身の舞台を観に行ったりすることはある僕だけども彼らの動きや物語に孕まれている多幸感というハッピーさは初めて味わう感じだった。そして毎日という平凡な日常の中にある祝祭性を感じれた。
 それらの感覚<多幸感/祝祭性>はネガティブなものが支配したゼロ年代を吹き飛ばしてしまう素晴らしさがあった。くよくよしても変わらない世の中に対してわたしたちはいくらでも楽しむ事ができるのだという明確な意思表示、カラフルに彩られている世界への気づきが彼らのパフォーマンスにはあり、観ている者をそちら側に振り向かせてくれる。


 DVD化された今作『Y時のはなし』は二年前の日本初演時にも大反響を巻き起こした『R時のはなし』をタイトルも新たに、さらにアイデアを盛り込み長編としてリマスターしたもの。


 夏休みの学童保育を舞台に、子どもと大人、人形と人間、夢と現実が、子どもの頃に一度は夢見たスペクタクルと夏の終わりの悲しみが鮮やかに交差する物語。
 

 本編にもカエルだったり宇宙人だったり三人一組を一人で演じたりと怪演している天野史郎によりアニメーションが重ねられているので実際に舞台を観た時とまた違った『Y時のはなし』に仕上がっている。


 この作品は役者が人形を持って演技をする、つまりはある種の人形劇でもある。人形を持っている役者ももちろんそのまま映し出され演じている。時折人形ではなく彼ら自身が人形の代わりにもなる。人形というデフォルメと人間という身体性が混ざり合っていく、人間の肉体では不可能な事を人形では行なえる。身体で表現できるダンスや躍動感が対比と言うよりはそれらがプラスされて世界を広げていく。小道具もその使い方はポップであり時にはバカバカしくて自然と笑みが溢れてしまう。楽しんでいるというのが画面を通してでも伝わってくる。


 舞台上で流されている映像も、実際の景色やファミコンのドット画像なんかが僕らの幼年期の原風景と重なっているような感じを受ける。それらのものが合わさってお互いの輪郭を薄くして全てものがそこにあるのが自然な雰囲気になってくる。でも、どことなくワンダーランドであって多幸感が溢れ出る。


 ある人が観れば子どもの遊びの様に感じられるかもしれない。真剣に「かめはめ波」を放つ人間を観た事が君はあるか? 大人になっても真剣に楽しんで遊ぶ事の正しさと幸福さ、そこに巻き込まれてしまう事の心地よさ。それは世間に世界に社会にある問題に背を向ける事ではない、きちんとこの世界でどれだけ「play」できるかという挑戦だ。何もしなくても世界が変わらないのならまずは僕たちがわたしたちが、まず出来る限り楽しんで世界の色彩を変えてしまえばいいのだと彼らの舞台を観ていつも思う。


 そして彼ら快快はA.T.フィールド(『新世紀エヴァンゲリオン』の監督・庵野秀明氏は「A.T.フィールドは心の壁のようなもの」と言っている。) を張らずに多くものを受け入れるキャパシティがあり、観ているもののそれを取り払ってしまうし、軽々と越えて入ってきてしまう。だから彼らの多幸感や祝祭性が僕らの中に芽生えていく。


 このDVDを観たらきっと生で彼らのパフォーマンスが観たくなるだろう。舞台で観ればもっと違ったものが。


 真剣に「かめはめ波」を放つ大人に僕らもなればいい、ポップな散乱銃でカラフルな風景がこのテン年代(by 佐々木敦)に広がればいいと思う。快快は世界中を走り回って祝祭を与える。

Y時のはなし [DVD]

Y時のはなし [DVD]


The Mirraz『TOP OF THE FUCK'N WORLD』
 以前に読んだ元格闘家の須藤元気著『風の谷のあの人と結婚する方法』という本に『守・破・離』の法則がわかりやすく書いてあった。以下引用。


 学びの基本は『守・破・離』の法則。守って破って離れる。最初は先生の教えを忠実に『守』ります。そこで物事の基礎を身につける。それができたら次は、基礎を『破』りつつ、そこから自分の色をつけていく。いわばアレンジ。アレンジができたら先生から『離れて』完全にオリジナル化する、それが『守・破・離』の法則。


 全ての創作はこれに当てはまると思う。完全なオリジナルというものはいろんなジャンルにおいてないだろう、基本がない人間はアレンジとか言ってる場合でもない。


 そんなわけでThe Mirraz(ザ・ミイラズ)の3rdアルバム『TOP OF THE FUCK'N WORLD』の話を。彼らミイラズはアークティックモンキーズのパクリバンドと批判されてもいる。まあ、ボーカルの畠山も自ら公言している。ミイラ取りがミイラになるなんて事はあるのかないのか? 


 なんて事も思ったりするのですが、世界的に大ヒットしたアークティックモンキーズのファーストアルバム『Whatever People Say I Am,That's What I'm Not』の有名な煙草を吸ってるおっさんみたいな若者のジャケットがあります。ミイラズの0thアルバム『be buried alive』のジャケットは包帯をぐるぐる巻きにされたミイラさんが煙草を吸っている。もう超が付くほどに自覚的にパクって出てきたのがわかる。あまりにも意図的に。戦略的になのかもしれない。


 ゼロ年代以降に洋楽ロックフォロワーでもろにそれらの音楽を真似て出てきた日本のバンドなんてそれよりも前の時代よりも少ないわけで、洋楽ロック市場は縮小傾向だし、いろんなジャンルが細分化して多様化してジャンルがクロスオーバーしなくなっている、幅広くいろんなジャンルを聴く人は聴いているとしてもそれは音楽マニアのごく一部だ。 と思う。
 情報が溢れすぎていろんなジャンルを横断する事は困難になってきている。一般的にはもはや細分化された小さな枠の中でそれぞれがそれぞれの好きなものを愛でるという状況だ。他の枠の中の事は知らないのだ、それをネット社会は完全に完璧に可能にした。


 アークティックモンキーズ自体を洋楽聴かない人が増えてて元ネタ知らないんだからね、ミイラズがパクってると言っても本家の事を邦楽ロックだけ聴く人は知らない。だから洋楽ロックまんまやっても邦楽ロックしか聴かない人にはわからない。


 3rdアルバム『TOP OF THE FUCK'N WORLD』はどうなのか? 『守・破・離』の法則のように自分の色をつけてオリジナル化できているのかということだが、完全に離れているわけではないが、完全ってのは無理だろうけども、彼らは自分たちのスタンスをきちんと打ち出している。


 ミイラズを最初聴いた時の印象はラッドウインプスみたいだなあと思った。早口でまくしたてるボーカルが。 情報過多な世界みたいな早口で一気に溢れんばかりの詞を歌う。ある種のこの世界の過剰さを体現してる。
 ミイラズもラッドウインプスも歌詞の内容的には「キミとボク」のセカイ系の感じで、ミイラズはそれもあるけど外部を持ち込んでそこで留まっていないなって思った。そこにしか可能性がないと思っていたので僕は聴き始めた。歌詞は言葉の量の過剰さ、そして固有名詞が多々出てくる。


 江戸川コナン刑事コロンボドラゴンボールにジャンプにワンピース、ジュダイにエイトフォー逆襲のシャアとか諸々。


 歌詞に『逆襲のシャア』って!って思ったけど。まあ、ジャンプのくだりは二十代男子の日常みたいな感じで親近感。永遠に続きそうだったドラゴンボールも終わって終わりそうにないワンピースもいつかは終わってしまうんだろう、ずっと続くものなんてあるのかなっていう、「ああ、それ思った事あるわあ」と。
 「終わらな来日常」や『うる星やつら ビューティフルドリーマー』のような同じような毎日の繰り返しに見える僕らの人生も終わって行くんだろうなあ、でもそれでも続くものってあるのかなっていう、その感覚だけが現実感のようなリアル。


 そして自分の痛みをひたすら訴えて悲観的なものやそういうセカイ系とかなんかもういいっすわみたいなのが小説にしろ、音楽にしろ、映画にしろ、溢れまくったゼロ年代はもう終わらして、きちんと次に向う姿勢がこの十年代には求められる創作の形で、それらが新しい時代を作るのだと思っていた。彼らは外部を取り入れて「キミとボク」の閉じたセカイではなく開かれた世界に対峙しようとしているのが伝わる。


 先日、クラブイベントで初めて観たミイラズのライブで感じたのはどことなく儚い感じがした。今自分たちの方向性を見つけて真似してた影響された部分から少しずつ脱してオリジナルに向っていこうとしているのがわかる、3rdアルバムを聴くとそれは確信に変わった。でも何か今にも崩壊してしまいそうなそんな空気やロックンロールの儚さが僕には感じられた。


 そのギリギリの所でやってるからこそ突き抜けれるのかもしれない。極めて彼らのドキュメンタリー的な要素も含みつつ自分たちが好きなものや影響されたものから脱して飛び立つ瞬間の、メタモルフォーゼするその瞬間がこのアルバムには収められている。


 ミイラズがきちんと自らの羽で飛び立って行くのか、落下してしまうのかはわからない。だけども飛び立つ瞬間は全ての希望と絶望を含んでいる。そんなドキュメンタリー。

TOP OF THE FUCK’N WORLD

TOP OF THE FUCK’N WORLD


浅野いにお『素晴らしい世界〜浅野いにお初期オリジナル作品集完全版〜』
 生きていればきっと、
 いつかいいことがある。 
 僕らの生きる
 優しくも悲しく、
 楽しくも切なく、
 そして強くはかないこの素晴らしい世界で・・・・・・。


 浅野いにおという漫画を知らなくても今年公開された宮�あおい主演『ソラニン』を知っている人は多いと思う。『ソラニン』はゼロ年代の初期のロスジェネ世代のモラトリアムを描いたものだった。
 この作品をリアルタイムで雑誌連載時から読んでいた僕には作中に出てくる彼らは僕自身の分身のようにリアリティのあるものだった。僕はバンドや音楽をしているわけではなかったけど、その流れる空気感の中で二十代の前半をゼロ年代を過ごした一人だったから。


 『ソラニン』の雑誌連載が終わった07年に「リーマン・ショック」が起こった。この世界的な大不況は僕らが二十代前半に味わえた、味わう事でなんとか現実に向き合う事から少しだけ逃げ出すことを根底から覆した。
 僕らの下の世代はもはやモラリアムを過ごす余裕すらも奪われてしまった。そういう意味で『ソラニン』という漫画での登場人物たちに憧れてしまっては困るし肯定できるわけではないと浅野いにお氏も雑誌インタビューで述べていたが、この作品は『ロストジェネレーション』と呼ばれる世代がかなり思い入れが強い作品となってしまった面がある。


 映画『ソラニン』で楽曲の『ソラニン』と『ムスタング』を提供したASIAN KUNG-FU GENERATIONは最新アルバム『マジックディスク』の中には『さよならロストジェネレイション』が収録されている。浅野いにおとボーカル・後藤正文が同時代を生きて似た体験をしているからこその映画への楽曲提供、雑誌での彼らの対談のある種の意思疎通や共闘感が窺えた。


 『さよならロストジェネレイション』を聴いた十代のアジカンファンには「ロスジェネって何?」「バブルって何?」という人もいるらしい。「ロスジェネ」の意味なんか知らなくてもいいけど、そのぐらいにかつてあったことはすぐに忘れられている。今の不景気の元凶や流れの根本すらも若い世代には共有されていないのかもしれない。


 そのキーワードとしての「ロスジェネ」と「ゼロ年代」という単語。浅野いにおは2000年に『ビッグコミックスペシャル増刊Manpuku!』で読み切り作品『普通の日』でデビューをした。
 その後月刊サンデーGENE-Xの第一回GX新人賞に「宇宙からコンニチハ」が入選し、翌年から同誌で『素晴らしい世界』が連載開始された、それが著者の初の単行本となる。それは二巻からなる連作短編集で一話完結だが、登場人物たちが微妙に繋がっている世界の話である。


 GX創刊10周年スペシャルエディションとしてその『素晴らしい世界』が完全版として発売された。コミック二巻と違うのは雑誌掲載時のまま掲載順に特別編集されている点と、コミケ会場限定版小冊子収録スピンオフやPR用に書き下ろされたショートストーリーが完全網羅されている店だ。


 僕はコミック一巻が店頭の新刊コーナーに置かれている時にその表紙(熊の着ぐるみの頭を被って走る絵のやつ)が気に入ってジャケ買いしたことから浅野いにおという作家を知り追いかけるようになったので雑誌掲載時の状態を知らなかった。今回のスペシャルエディションを読むとこうだったのかと思うところが多々あった。
 コミック二巻の最後に掲載されている『桜の季節』が一番最初に掲載されている、しかもコミック版よりも絵がまだヘタで微妙に違う。コミック二巻に掲載された『桜の季節』はラストプログラムとして載っているので見比べるのもいいと思う。


 『桜の季節』と言えば亡くなってしまった志村が在籍していたフジファブリックの名曲と同名タイトルではあるが、『素晴らしい世界』という作品は中村一義の作品からの影響を受けていると浅野氏が『QJ』でのインタビューで答えているように九十年代からゼロ年代にロックンロールをかき鳴らした、ポップな色彩をまき散らした日本のバンドたちの影響が見られる。


 スペシャルエディションに掲載されている順にタイトルを挙げると「桜の季節」「脱兎さん」「坂の多い街」「森のクマさん」「ワンダーフォーゲル」「白い星、黒い星」「サンデーピープル」「mini grammer」「Untitled」「シロップ」「バードウィーク」「雨のち晴れ」「砂の城」「おやすみなさい」「月になると」「素晴らしき世界」「あおぞら」「春風」「桜の季節」「それから」「花火」「デッド・スター・エンド」「愛のかたち」「HARRY STORY」と並んでいる。


 何個か思い出せる曲名とタイトルが一致する。その光景が、かつて過ぎ去っていった風景が、極めて僕らが過ごして通りすぎたモラトリアムな時期を救ってくれた、並走してくれた、慰めてくれた曲と同じ名前を持っている。そういう意味でも『素晴らしい世界』に流れる空気感は極めてゼロ年代的なものをもち、それらの楽曲を過ごして十代から二十代へ、学生から社会人となる過程を過ごしていた「ロスジェネ」世代には極めて身近な作品になりえる。
 ただ、身近な友人の中で浅野いにお作品が苦手な人を見るとそれらの楽曲に思い入れがない、好きではない人にはやはり苦手な作家となりやすいというのもこの十年でわかったことではある。浅野いにおが描く世界観はそれらの影響下から派生しているのでそれらに親近感を持つ人はその世界に違和感なく入り込める。『ソラニン』という作品もそういうものだったのでないかと思う。


 浅野いにお氏がイメージイラストを描いているTBSラジオ『文化系トークラジオ Life』という番組がある。この番組は06年から開始され現在まで続いている。番組名に「文化系」とつくようにサブカルチャーから社会時評をするトークが人気な番組だ。浅野いにおの本を絶対に見かける場所といえばサブカル好きには外せないスポット「ヴィレッジヴァンガード」だ。どの店舗にいっても浅野いにお作品は平積みされている。


 僕はそうやって出会ってしまうのがいいなって思う。ある日初めて聴いたラジオで、興味もないのに友達に付き合った本屋で、たまたま入ってしまったCD屋で、僕らには「未知との遭遇」が必要だ。
 その遭遇は僕らを知らない場所に連れて行くし、出会う事のなかった誰かを引き寄せる力を持っている。今まで知らなかった痛みを教えてくれる、あるいは忘れられない景色を、そしてふと思い出してしまう後ろ姿や匂いみたいなどうしようもない気持ちも、きっと。


スチャダラパー(feat.小沢健二) - 今夜はブギーバック(LIVE)


小沢健二『ひふみよ』ツアーファイナル@福岡サンパレス
 「雨のよく降るこの星では 神様を待つこの場所では」と『天気読み』で歌われたような土砂降りの雨の福岡での「ひふみよ」のコンサートツアー最終日。九州に来るのは中学の修学旅行以来だろうから13年ぶりぐらいだろうか。ホテルで荷物を置いて会場である福岡サンパレスへ。雨の中多くの人が傘を差してグッズ売り場に並んでいた。


 僕も並んで「うさぎ」の絵が書かれたTシャツを購入した。「うさぎ」は彼の父が編集している季刊誌『子どもと昔話』の中で連載されていた小説『うさぎ』であり、この物語はグロバリゼーションが支配する世界の欺瞞やそれを風刺しているもので彼の現在の立ち位置の一つを現しているものだったりする。


 小沢健二の『うさぎ』の連載も読んでいて、正確には彼女に貸されたので読んだのだけど、そして「うさぎ」の絵とか見ると思い浮かべるのはイギリスのロックバンドのRadioheadがモチーフで使っていた「ハンティングベアー」を思い出した。
 Radioheadのメンバーはオックスフォード郊外にある全寮制のパブリックスクールにてメンバー五人が出会いバンドを組んでいる。イングランドあるいはウェールズパブリックスクールは地主貴族を核とするイギリスの名望家階層の子弟を養成するものとしてイギリス社会では深く浸透しているらしい。


 小沢健二も所謂良家の出であり、東大卒である。Radioheadのボーカルでありでフロントマンであるトム・ヨークとは同じ年生まれだった。
 Radioheadがしている活動にはチベット独立運動支援や途上国の債務帳取り消し訴えた国際的キャンペーンである「ジュビリー2000」や人身取引をなくすキャンペーンやイギリス政府の地球温暖化に関する政策の変更を訴えるキャンペーンなどがあり、共通項が何個は見つかる。この辺りの事はプロの音楽ライターが書いてそうだけど。
 

 開場してから三階の席に。それなりに観やすい位置ではあった。会場の感じは中野サンプラザよりも大きくて国際フォーラムAよりは小さいと言ったところか、構造も似ていた。


 開演すると二曲目が終わるまで会場内に入れませんとアナウンスがされていた。19時を少し過ぎてから会場内の電気が消されてそこは暗闇になる。「門構えに音と書いて闇」という朗読がその後されるのだが、全ては暗闇の中で始まった。


 暗闇の中で聴こえてくる一曲目は『流星ビバップ』だった。その暗闇のままで『ぼくらが旅に出る理由』が演奏される。
 僕はこの曲を聴きながらふいに泣いてしまった。この曲に思い出があるわけじゃなかったが、でも小沢健二その人の声がCDで聴いていたのと違ってすごく逞しくて優しさに溢れているように感じたらうるっときた。


 曲の途中で暗闇は照明の光によって消えて小沢健二が目に見えるようになると会場の歓声が炸裂する。
 13年待たされていた観客はその想いを成就させるかのような叫びやあるいは悲鳴を彼に届けようと、もしかしたらこれは夢なんじゃないかと思う自分たちの頬を張るように叫んでいる。叫びは祈りでもあるような中、ステージの中心にいる13年間待たせた男はその声を受け入れていた。


 待たせた男が悪いのか、待っている女が悪いのか、そんな事が脳裏に浮かぶ。


 二曲を演奏し、リズムに乗って小沢健二が朗読を始める。彼はこのコンサートツアーを始める時にアルバム『LIFE』やその頃の曲をやりますと、みんなはそれを持っていてくれたはずだと言っていた気がするがもちろん一筋縄でいかない男は、この13年という月日が経っていることを観客にきちんと呈示する。


 朗読は旅人として世界を回っていた彼の言葉として、現在の小沢健二の言葉として、みんなが聴きたかったかつての曲はアレンジもされて歌詞の一部も変更されながらも過去として、過去と現在が交互に現れていくようなライブだった。


 『天使たちのシーン』はアレンジが変わっていた。アルバム収録の音とは違うが僕はわりとすんなりと入ってきた。僕はライブの中盤まではわりと客観的に客席とかを観ていたのだけど、アレンジが違う事で多少戸惑う人も少なからずいたのは雰囲気としてあった。昔の曲のアレンジに思い入れがある人は特にそうなっていたと思う。新曲『いちごが染まる』は新しい彼がどうなっていくのかを静かに見守るような感じだった。


 「いちごが染まるとあなたは喜ぶ わざわざ見にくる 頬に笑みをたたえて」という歌詞だった。いちごと小沢健二その人を置き換え可能な感じがする。いちごが染まるように彼も機がが熟すのを待っていたのかもしれない。


 『ラブリー』のイントロが始まると会場内が震える、歓声で。みんなが聴きたいのはこの曲だろ?という感じの笑みを浮かべていたように見えた。実際は一時間後にやりますが歌詞変えてるからその練習ですということで練習タイム。


 「Life is comin' back」は「感じたかった」に、「Can't you see the way it's a」は「完璧な絵に似た」に変更されていた。その後の朗読での「大衆音楽」という言葉が象徴するかのよう。
 『カローラ2にのって 』を歌っていた人が『うさぎ』を書いてるんだからどうなのこの曲、やるの? やらないの? という疑問があったのだがやった。しかし、メロディーがその前の朗読で言っていたかのような「シルクロード」的な極めてアジアンチックなメロディーラインに乗っていたのが面白かった。


 『天気読み』や『戦場のボーイズ・ライフ』など聴きたい曲が演奏され、僕はどことなく周囲を何度も見回していた。
 一階席も見えたし二階席も角度的に見えた。小沢健二という九十年代を象徴するミュージシャンに興味もあったが、彼に恋い焦がれたかつての女の子がどう今の小沢健二を受け止めるのかの方が実際は興味があったのは確かだ。


 それはなんというか『新世紀エヴァンゲリオン 新劇場版』が公開される初日の初回に並んでいる人にどんな人がいるのかという方が本編の映画よりも気になるというようなものだろうか。


 ツアーが始まる前からの興味はそういう彼に影響を受けて待ちわびていた人、特に女性のファンと、かつての王子が帰還し世界を旅して覚醒し王になった小沢健二の振る舞いにあった。


 王というのは僕が勝手に思ってたことで、<ジョゼフ・キャンベル『千の顔を持つ英雄』で示された英雄神話の基本構造の中で彼は英雄神話を「出立」「イニシエーション」「帰還」の三部構造として把握していて、これはフランスの文化人類学者ジェネップが示した通過儀礼の三段階説の「分離」「移行」「統合」とも一致する>というのを大塚英志著『ストーリーメーカー』で昔読んでいたことに関係している。


 <英雄はこちら側の世界から「分離」されて向こう側の世界に「出立」し、向こう側での冒険や経験が主人公がそれまでの自分(例えば「子ども」であったり不安定で何かを「欠落」させた状態)から新しい自分に「移行」していく、「イニシエーション」の過程としてあり、そして最後は元居た世界に「帰還」し、その世界に再度「統合」される、という「行って帰る」物語の基本的な枠組みを物語として生きるわけです。>っていうのが英雄神話の基本的な構造で小沢健二がこれに当てはまるのではないかと考えていた。


 『ラブリー』の練習というかリハーサルの時点で僕が思ったのはかつての王子の小沢健二は昔キスをして恋させてしまったかつての女の子たちに王として帰還しその魔法を解こうとしてるみたいだった。
 別のいい方だと小沢健二はまた夢を見させるためではなくかつての夢から覚まさせるためにライブをやっているような気がした。客観的にライブを観ていたのでそう感じた部分があったとは思うが。

 『今夜はブギーバッグ』が始まると会場の温度とテンションは一気に上がった。福岡最終日だから来るとしてもスチャだろとつぶやいたら知人からスチャのファンに謝りなさいと言われたことがあったが、まあ本当にスチャダラパー来たよね。
 まあ謝るしかないぐらいに最高にいいパフォーマンスをスチャダラパーはしてくれた。小沢健二スチャダラパーの関係がいかにいいのかがわかる曲だった。


 小沢健二の『今夜はブギーバッグ (Nice Vocal)』とスチャダラパーの『今夜はブギー・バック (smooth rap)』が合体してたような気がした。さすがにテンション上がったというか久しぶりにライブで拍手以外で手を突き上げた。その衝動が抑えられなかった。


 新曲である『シッカショ節』は「歌謡曲」の元祖であるかような日本的な祭りの音楽的なリズムだった。ライブでのカウントも「ワン、ツー、スリー、フォー」ではなく「ひー、ふー、みー、よー」としているだけに海外を周り、だからこそ日本語でできることをしようとしているみたいだし、じゃないと『ラブリー』の歌詞の変更もなかったはずだ。この曲はスタッフからのサプライズで天井から提灯が降りてきて続けてもう一回やった。


 先に他のライブを観た人からすでに言われていたが一番好きだと言っても過言ではない『ある光』は最初のワンフレーズだけだった。で、そこから新曲の『時間軸を曲げて』に繋がっていった。歌詞を聴いているとどことなくSF的な感じもしたし、歌詞の中で自分のことを「我」という言葉を使っていて「王」っぽいと勝手に思った。


 で、『ラブリー』の本番が来た。ここでの盛り上がり方は歌詞が変わっても関係ないみたいらしかった。「Life is comin' back」は「感じたかった」に、「Can't you see the way it's a」は「完璧な絵に似た」になってもこの歌が持つある種の普遍的なポップは古くなる事はないようだ。


 音や匂いは聴いたり嗅いだりした瞬間にその当時に一気に引き戻してしまう魔法がある。僕は聴きながらこの曲はやはり魔法がかかる奇跡的な曲なんだなって思った。


 小沢健二の歌詞の中には何度か「東京タワー」が出てくる。もうすぐ「東京スカイツリー」ができればかつての東京のシンボルは次世代の「東京スカイツリー」にその存在やポジションを明け渡す。
 かつての古き良き時代のシンボルとして「東京タワー」はなるのかなんて考えたりするけど、そんな時に小沢健二が復活したのも何か意味があるのかもしてないなんて思ったりもする。


 『愛し愛されて生きるのさ』は夢を見させるためではなくかつての夢から覚まさせるためにライブをやっているような気がしていた僕には歌詞がすごいメッセージだなって思った。高らかに現実を生きようって歌ってるように聴こえた。


 最後のアンコールは『いちごが染まる』をやった。MCでスチャのBOSEとの話でお客さんとダイレクトに繋がっているのがわかって嬉しいと言っていた。
 友達に協力してもらいながら自分でホームページを作ってBOSEに電話してブログに載せてもらった。そこだけしかなかったのにみんなが見つけてくれて、ブログやツイッターや電話や会ってライブやるよって言ってくれる繋がりで広がって、マスコミはあとから気が付いてフォローしてくれたと。



 愛すべき 生まれて 育っていく サークル
 君や僕をつないでいる穏やかな 止まらない法則



 『天使たちのシーン』の歌詞を体現するかのような今回のツアーコンサート『ひふみよ』だったのかなと観終わって歌詞を思い出していた。


 前出の大塚英志がかつて自分の作品(「僕は天使の羽根を踏まない」の文庫)のあとがきで書いていたことだが「しかし、ぼくは中途でしばしば物語ることを放棄するし、読者に小説の外側の世界をいつも突きつけようとする。なるほど、しばしの間、夢を見ていた読者にとってぼくは迷惑で無責任な小説家なのだろうが、しかし、ぼくにとって小説は夢を見せるためではなく、醒めさせることのためにある。それは小説だけではなく、まんがや批評めいた文章や、あるいは大学の教壇で授業をすることを含めて、ぼくの表現はすべからく、夢を見せるためではなく、夢から醒めさせるためにある、と言える。」と書いていた事が僕の脳裏のどこかに埋まっているためか僕にはこのライブにそれと同じようなものを感じてしまう。


 ただ、小沢健二がかつてかけてしまった魔法は、あるいは見せてしまった夢は強力すぎて本人ですら解くのに、醒まさせるのに非常に困難なものとなっているような、逆に解こうと醒まさせようとすることでそれを強固なものとしてさらに魔法がかかり、夢を見させてしまった人もたくさんいると思った。


 王子から王になったとしても彼は一国の主として安定を築こうとするとは思えないし、ましてや千年王国の基盤を作ることもなく、またふらりと旅に出かけてしまうのではないか。誰もが捕まえようとしても捕まえる事が出来ない旅人として放浪し時折現れて喜ばしてはまた風と共に去って行くのだろうか。そんなことを帰京し思いながら彼の曲を聴いている。


Oasis『Time Flies...1994-2009』
 1994年4月、アメリカのシアトルで27歳で自らの頭をショットガンでぶち抜いてその人生の終始を打ったアーティストがいた。そう「ニルヴァーナ」のカート・コバーンだ。彼の死によりグランジも終わり、新しいムーブメントや若者にとっての「神」であるかのような次世代の新しい指針が必要になった。何かの終わりは新しい何かの始まりでしかないのはいつの世もそうであるように。


 同じく4月、ノエルとリアムのギャラガー兄弟を軸にしたバンド「オアシス」は時代を作り上げたかつての少年、若者のカリスマになってしまったカートが神への供儀として捧げられ、失われた世界で「スーパーソニック」としてデビューを果たす。


 カリスマ自体が時代を作るわけではなく、カリスマは磁石のようなもので、彼らに惹かれるファンや支持者はある種の砂(鉄)として強力な磁場に吸い寄せられていく。その砂の流れが時代と言ってもいいのかもしれない。だからこそ時代の流れができあがった後に新しい磁場が発生すると砂はまた次なる時代の流れに向かっていく。役割を終えたものは自然と回収されるかのように神の元へ帰っていく。


 マイケル・ジャクソンの死による彼の再評価はこの新しいディケイドにポップな散乱銃による色とりどりなものが溢れる前兆として最後に咲き誇ったように僕には思えた。


 「オアシス」は三枚目のシングルとして「ニルヴァーナ」の「I Hate Myself and I Want to Die(自分が嫌いだし死にたい)」への反発として「Live Forever(永遠に生きる)」と歌った。この1994年にデビューアルバム『Definitely Maybe』を発売し英国初登場一位を記録し彼らの歴史が始まった。


 そしてそのデビューから16年の歳月が経った今、2010年に発売された『Time Flies』という彼らの歴代シングルを網羅している作品がリリースされた。バンドのリーダーでありソングライティングをメインで務めていたギャラガー兄弟の兄・ノエルの脱退によってオアシスという時代は終わり実質的にこの作品が最後の「オアシス」作品となるだろう。


 彼らが第一線でロックンロールバンドとして活動していた16年という歳月の中であまりにも大きく世界の流れが変わってしまった。その中でも彼らは言いたい事をいい、暴れてたりケンカをしたりと様々な問題を起こし、ロックンロールの最後の生き様を見せていたように僕には思える。そしてその限界が訪れたのが2010年だったということだろうか。彼らは、リアムやノエルはこれからも音楽を続けて行くだろうし、ビッグマウスは健在だろうが、彼らのようなバンドはもう現れないだろうと収録されている曲を聴きながら思う。


 洋楽ロック不振は海外バンドを呼ぶフェスのラインナップを見てもわかるように客を以前のようには集められない、昔だったら考えられない日本のアーティストを呼ぶ事でなんとか集客を増やそうと努力しているのがわかる。音楽業界自体の落ち込みと若者の洋楽離れがそれにさらに拍車をかけている。


 そう意味でもオアシスというバンドのように日本でも売れるロックバンドというものはこれから少なくなっていくし、彼らの楽曲のように僕らですら口ずさめるようなロックが出てくるのかは疑問だ。


 彼らがこうやってビッグバンドとしての「オアシス」に区切りをつけて終焉したことで次世代のロックが、新しいムーブメントがゼロ年代終わり頃から萌芽しつつ、それらが今のテン年代に入り一気に実ろうとしている事と符号させる。
 しかし、彼らが残した楽曲はこうやって残る。いつしか彼ら自体が「Champagne Supernova」のようになってしまったなと思っていただけにこうやってきちんと終止符を打ったことは嬉しいような哀しいような複雑な気持ちになる。


 ノエルの脱退で浮かんだのは旧約聖書『創世記』に登場するカインとアベルの兄弟の話だった。彼ら兄弟が神ヤハウェに各自の収穫物を捧げた。兄・カインは農耕で取れた収穫物を、弟・アベルは羊を放牧し肥えた羊を。神はアベルの供物には目を留めたがカインの供物は無視(シカト)した。カインはそのことによる嫉妬でアベルを殺してしまったが、アベルの血は神に向かってこのことを訴えた。神ヤハウェはカインにアベルの行方を問うと「私は永遠に弟の監視者なのですか?」と答えた。


 ノエルはリアムを殺さずにすんだ。でも彼らの「オアシス」を殺すことで互いを生かすことを選んだ。そして「オアシス」は完全に僕らの、ファンのものとしてこの16年のロックンロールの記憶として残った。

タイム・フライズ・・・1994-2009

タイム・フライズ・・・1994-2009


group_inou / ZYANOSE


group_inou『_』
 group_inouを最初に観たのは代官山UNITでのスペシャ烈伝でのライブだったと思う、その時の印象が強くてそれ以来新譜が出れば聴いている。その日に「COMING OUT」「MAYBE」の二曲で完全にやられた。
 最高にカッコ良くてリズムが早くてこんなにヒップホップでまったく聴いたこともない曲で乗れまくっている自分に驚いた。そしてライムがアイロニーをすかさず入れている辺りもとてもキャッチーに響いた。


 ライブ中にMCのpcがステージから降りていて僕の前方二メートルもないくらいの場所に立っていた女性の真ん前に立ってずっと目を見て「君の彼氏は絶対に浮気してるさ」とひたすら連発していた。あまりにも現実味のない光景とそのライムが示すものの皮肉で僕はあまりにも面白くてずっと笑ってしまったのを今でも印象深く覚えている。


 前々作『FAN』収録「COMING OUT」「MAYBE」や前作『ESCORT』収録「RIP」は電光石火のごとくリズムとライムが聴く者の中にある感情を動かす言葉の強さとポップを兼ね備えていた。group_inouの特徴の一つはそれらが挙げられると思う。


 最新作『_』はどうだろうか、アルバムタイトルは3曲目「STATE」の歌詞にある「俺たち なんだか 記号 ずっと前からアンダーバー」から取られているはずだ。


 このアルバムは全体的に非常にポップだ。「COMING OUT」「MAYBE」「RIP」のように一気に持って行くタイプの曲はオープニングナンバー「ZYANOSE」。
 全曲9曲はどの曲も粒ぞろいで前の二枚のアルバムよりもアルバムとしての完成度や強度は比較的に高いものになっている。


 5曲目「HALF」上での「全ては システマティックになってく 答えろ 試されていること分かるだろ?」は脳内リフレインを始めて僕はその言葉の意味を考えてしまう。group_inouのライムはニッチというか心や感情の隙間に入り込んでくる。柔軟さと強さがある。


 なぜだろう、ここまで染みてくるのは、そして聴くものの中に入り込んでいろんなことを考えさせてしまうのは。そのライムが乗っかっているリズムや音はポップで体はそれに反応して乗れるし、ライブならばダンスして暴れて揺れるのには持ってこいだ。ライムの歌詞だけならば非常にシニカルなのに音に乗ると反比例するようにポップに聴こえてくる。そして聴こえて届くとシニカルなライムが強く響いてくる。


 彼らのライムの中には「光景」「景色」が何回も出てくる。今現在の「景色」や「光景」はやがて消えて行くし姿を変えて行く、だからこその「景色」や「光景」の変化に苛立つしそれを見ていた誰かのことを思い出したりする。だけどもその変化の中でしか僕らは生きていけない。
 「永遠」とは「一瞬」の中にしか存在していない。僕らは永遠の中に生きている、一瞬の連続だ。永久凍土に閉じ込められたマンモスは氷が砕ければマンモスもろとも崩壊する。


 gruop_inouの音楽は「一瞬」を生きている、僕らと共に時間を進んでいくサウンドトラックになる

_ (アンダーバー)

_ (アンダーバー)


東浩紀クォンタム・ファミリーズ
 批評家であり思想家である東浩紀氏の処女小説『クォンタム・ファミリーズ』(以下『QF』)は09年の年末に、そうゼロ年代の最後にこの世にドロップされ、このテン年代(by 佐々木敦)の最初の年2010に第23回三島由紀夫賞を受賞した小説だ。


 例えば、批評家・思想家としての東浩紀を知らなくてもこの作品は存分に魅惑的だし、ある意味では世代間で分断されてしまっているジャンルとしてのSF、今やあらゆるカルチャーは世代間において分断されてしまっているように思える。その分断の中SFというジャンルが若い世代にもまた広がる可能性を秘めている小説であり文学である。
 ゼロ年代最後の年に若くして三作の長編を残して亡くなってしまったSF小説家の伊藤計劃がいた。『QF』と彼の処女作である『虐殺器官』は新しい時代のSFのスタンダードとして後世に語られる作品だろう。


 僕らが今、生きているこの世界は9.11以後の世界でテロリズムと言う言葉がもはや一般化し、グローバリゼーションという新しい宗教が完全に物事の根本を変えてしまった世界だ。そこで生活する僕たちにとって、物語は何を教えてくれるのだろうかという問いに対してこの二作のSF小説は想像することの萌芽を読者に与えてくれる。


 82年に死去したアメリカのSF作家であるフィリップ・K・ディック(代表作は『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』『高い城の男』『ユービック』等)が81年に発表した『ヴァリス』という作品と85年に村上春樹が出版した『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』という二作が『QF』の中で大きな役割を果たしている。
 主人公である葦船往人はこの二作品と村上春樹が以前に書いた短編について作品の中で言及し、それらがキーとして作品に関わってくる。上記の二作品を読んでいるとこの物語はさらに奥行きを増す。


 あらすじ・2035年から届いたメールがすべての始まりだった。モニタの彼方には、まったく異なる世界の、まったく異なるわたしの人生があるのだ。高度情報化社会、アリゾナの砂漠、量子計算科学、35歳問題、幼い娘、ショッピングモール、そして世界の終わり。壊れた家族の絆を取り戻すため、並行世界を遡る量子家族の物語。


 例えば『35歳問題』は作中においては『ひとの生は、なしとげたこと、これからなしとげられるであろうことだけではなく、決してなしとげられなかったが、しかしなしとげられる《かもしれなかった》ことにも満たされている。生きるとは、なしとげられるはずの一部をなしとげたことに変え、残りをすべてなしとげられる《かもしれなかった》ことに押し込める、そんな作業の連続だ。ある職業を選べば別の職業は選べないし、あるひとと結婚すれば別のひととは結婚できない。直接法過去と直接法未来の総和は確実に減少し、仮定法過去の総和がそのぶん増えていく。そして、その両者のバランスは、おそらくは三十五歳あたりで逆転するのだその閾値を超えると、ひとは過去の記憶や未来の夢よりも、むしろ仮定法の亡霊に悩まされるようになる。それはそもそもがこの世界に存在しない、蜃気楼のようなものだから、いくら現実に成功を収めて安定した未来を手にしたとしても、決して憂鬱から解放されることがない。』と物語の序盤で書かれている。


 この問題が並行世界と結びついているのは言うまでもなく、誰もが思い描いてしまう《かもしれなかった》世界の物語の根本として提示されている。


 物語は往人がいた世界、娘の風子の世界、息子の理樹の世界が繋がり、往人は存在しなかった幼い娘の風子がいる世界へ人生がリセットされるかのように移動する。妻の友梨花や風子の世界で彼女が作りだした最初は単なるソフトウェアだった汐子と物語は繋がって行き、彼ら家族の物語が少しずつ集まり寄り添いながら展開していく。並行世界で出会うことのなかった彼らが互いに出会う時に物語が収束し始め世界の謎が少しずつ解かれていく。


 並行世界がひとつの世界に集まる時に家族は何をするのか、どこに向かうのか。そして物語を操っていたのは一体誰なのか、誰の思惑が反映していたのか、そして最後の第二部の後の物語外2が何を意味するのか、世界の終わりとは何なのか、ハードボイルドとは何か、読み終わっても全ての物語がキレイにわかるようにはできいないのかもしれない。それは読者によってどう受け止めるかが違ってくるタイプの小説だからだ。


 この『QF』から新しいSFの流れが始まるだろう。新しい何かを感じさせてくれる作品には過去の作品からのオマージュや影響がありながら現在と未来を見据えてた表現がある。だからこそこの作品がテン年代最初の『三島由紀夫賞』を受賞したことは新しい希望がこの作品の中にあると思う。


 東浩紀は明確な意志で小説家として物語る事を決意した作家だとこの『QF』は教えてくれる。

クォンタム・ファミリーズ

クォンタム・ファミリーズ


くるり『僕の住んでいた街』
まず最初にアルバムタイトル『僕の住んでいた街』がすごくいいなって思った。くるりは京都で結成されたバンドで現在は岸田繁佐藤征史の二人がメンバーであり、メンバーが増えたり減ったり、サポートメンバーも様変わりしている。日本だけには留まらずグラスゴーマサチューセッツ、パリ、ウィーンなど海外でもレコーディングしている。


このアルバムタイトル『僕の住んでいた街』がバンドを結成してから14年の歳月を思わせる。いろんな人と出会い別れ、いろんな街に行って滞在し去り、また新しい街へ、時には昔住んでいた街にまた向かってみたりと今現在自分たちがここにいる理由やその過程があり、収録されている曲たちにも様々な景色がある。


シングルのカップリングを集めた二枚組のアルバムで、一枚目の一曲目「東京レレレのレ」のみが新曲として入っている。この曲は盆踊り的なリズムでくるりらしい、なんだかくるりって天の邪鬼な事をするんだけどどこかしたらポップで時折ロックになったりとギアチェンジしていくバンドだなと前から聴いていて感じる事が多い。


二曲目以降はシングルに収録された年代順に収録されている。流れで聴いていくとシングルやアルバムのリード曲ではないだけにさらに自由度が高い感覚を受ける。それは違う言い方だと冒険しているかもしれないし、リード曲にはならないがその分バンドの色が濃くなっている部分もある。


アルバムやベストにも収録されている曲もたくさんあるが、それらだけを聴いていた人にもぜひ聴いてみてほしい。表に対しての裏というのではなく同じ時期に作られてもベクトルや意識が違うとこんなにも違うものができているんだと感じれるし、それ故にこのくるりというバンドの奥行きや音楽に貪欲な事に気付いてさらに好きになれるアルバムだ。


個人的にはライブに行くといつも期待してしまう「すけべな女の子」や「The Veranda」「pray」「ガロン」「サンデーモーニング」「りんご飴」など好きだった曲以外にも今まで聴けてなかった曲がシングルで聴かないでも聴けるというのはいい機会だ。


「The Veranda」
外の空気はきれいだろう
梅の花びらしか 季節の到来教えてくれなかった


春になったら変わるだろって
言った通りになるのかな


君からの便りもなく 一つの季節は過ぎてって
しかめっ面したとき ちょっと思い出してまた消えた


二枚とも17曲入りで収録できるギリギリまで曲が入っている。彼らのいろんな想いや時間が溶け込んでいる。このアルバムからくるりを聴き始めてもいいだろうし、今までアルバムでしか聴いてなかった人にもくるりの音楽の自由さを感じられるものになっている。

僕の住んでいた街(初回限定盤)

僕の住んでいた街(初回限定盤)


世界の終わり『EARTH』
「貴方が殺した自由の歌が僕の頭に響く」
「貴方が殺した自由の歌は貴方の心に響いていますか?」
「貴方が殺した命の歌が僕の頭に響く」
 

 これらは「虹色の戦争」の歌詞の一部分で初めて聞いた時からこの歌詞の部分のインパクトがすごくて頭の中で巡る、巡る、めぐる、廻る、メグル、巡って脳内リフレインした。
 「貴方が殺した自由の歌が僕の頭に響く」「貴方が殺した自由の歌は貴方の心に響いていますか?」「貴方が殺した命の歌が僕の頭に響く」って巡る。


 「世界の終わり」の『EARTH』のアルバムのジャケットはバンド名「世界の終わり」をローマ字表記したもので「SEKAI NO OWARI」とある。


SEKAI
NO
OWARI


 で「NO WAR」って部分が虹色でデザインされていて、それがメッセージだったと気付いたのは買ってしばらくしてだった。すごいネーミング。
 「世界の終わり」のイメージって最終戦争とか、大事な人が奪われたりいなくなったりこの世界が崩壊して彩りを失うことを意味するのに、ローマ字にして虹色で「NO WAR」が隠されている。この精神は何だろうかと僕は思った。それによりさらに彼らに興味を持った。何度も繰り返してアルバムを聴いた。


 世界を終わらさないための「NO WAR」であるのが本当の意味での彼らのバンド名なのか、意図的なダブルネーミングか。だとするとこのバンドはかなりひねくれててアイロニーもたっぷりだ。期待値が上がってくる、どこまで行くのか。
 どこまで本気で世界を変えようとしているのか、戦おうとしているのか、ポップなメロディにそれに反するような歌詞や言葉がそれらに乗って聞き手の中で巡り、その意味を考えてしまう。


 ツインギターにピアノにDJという四人編成でそのDJはピエロのお面を被っている。しかも名前は「LOVE」で二代目だそうだ。メンバーのインタビューを読むとヴォーカル・ギターの深瀬慧は中学もほとんど行かず、その後に二年間アメリカに留学するつもりが二週間でパニックになり、その後精神病院に入り退院し音楽を始めている。


 その後、プロミュージシャンになるよりもライブハウスを作るよう方が簡単だとバンド結成よりも前にライブハウスを作り活動を始めた。そこに集まったメンバーが今の四人であり、深瀬の学歴もなく、将来に対しての不安や夢も希望もない状態、そして「死にたくない」というもの、それらの危機的な絶望的な状態からの「生きる」という理由を探し、もう一度歩き出すために考えに考えた末の決断がライブハウスを作りバンドを始めることだった。


 ライブハウス「EARTH」にはスタッフが15人いるらしい。彼らはひとつのコミュニティである。「世界の終わり」というクリエイティブカンパニーでもある。
 同じ意志を持ったコミュニティとして世界と向き合おうとしているような感じがする。この感覚はとても正しいのでないかと思う。グローバリゼーションが破壊したある意味での経済活動やインタネーットの普及で変わってしまったクリエイティブの表現の中で僕ら個人は戦うものが多すぎるし、孤独だ。


 その孤独を武器に世界に自らを表明する創造的表現をしていくのか、あるいは集団としてカンパニーという仲間と共に世界に向かい合うかという選択ぐらいしかないのかもしれない。
 大きなレコード会社だとかを抜いてしまい、自分たちのカンパニーで今までだったらレコード会社がしていたことを自らの手でやり、活動していくというのが「テン年代」(by 佐々木敦)のスタンダードな音楽活動になるのかもしれない。


 それがスタンダードになるのなら彼らの鳴らす豊潤な音楽と刹那的にも思える歌詞の相互作用により多くの支持を得ていくバンドになるだろう。このアルバム『EARTH』はその「世界の始まり」になるはずだ。極めて「テン年代」的な、このディケイドを代表するバンドになる可能性が高いと思う。彼らがこの先どう展開していくのかが楽しみだ。

EARTH

EARTH


古川日出男『MUSIC』
 何かに名前をつけるとそこに意味が生まれてその名前による因果が始まる。名前とはそのものを解放し呪縛する。そして名前はひとつだけではない、例えば親から付けられた名前は変わらないが(法律的には変える事は可能だがほとんどの人はしない)、その人と対する人との関係性で愛称は変わるし、呼び名も変わる。


古川日出男著「MUSIC」の冒頭は「その猫にはまだ名前がない。いずれは名前が付けられる。その雄猫にはスタバと。しかし、いまはまだ名前がはない。」と始まる。夏目漱石著「我輩は猫である」の冒頭は「吾輩は猫である。名前はまだ無い。どこで生れたかとんと見当がつかぬ。」と始まる。
 前者は名付けられるが、小説は猫の視点だけで語られてはいない。後者は名付けられないままに、その我輩と自ら名乗る猫が語り手として小説を語る。


 「我輩は猫である」は有名な「猫小説」である。ならば「MUSIC」は「猫小説」であるか否か。もちろん「猫小説」だ。
 「MUSIC」の前史には三島賞受賞作品「LOVE」という作品がある。もちろんこの「LOVE」も「猫小説」であり、対となるのは直木賞候補になった「ベルカ、吠えないのか?」という著者の作品で犬たちの系譜の小説で第二次世界大戦から冷戦終了までを犬の視線でその一族史で語る「犬小説」だった。


 「LOVE」は目黒川が流れ東京湾に注ぐ流域の目黒区、品川区、港区が舞台となっている。僕は以前目黒川の始まりである国道246で区切られた世田谷区と目黒区の目黒川の始りから東京湾まで歩いた事がある。天王洲アイルまで、その後そのまま東京タワーまで歩いていった。東京タワーに歩いていったのは僕の理由があったからだったが。


 僕は歩きながら小説の中に出てきた品川駅が港区にある事を確かめたり、国立自然教育園に立ち寄ったりした。歩いて僕が感じたのはここはかつて海だったんだという事。


 「LOVE」=「愛」は明治維新以降に英語が入ってきてその訳として「愛=あい」という言葉が当てられ定着した言葉。だから「愛」という漢字は存在していたが「愛=あい」という意味ではなかった。
 首都・東京は海を干拓し侵蝕していった、近代以降の土地、そこを舞台にした物語。だからきっと「LOVE」なんだと僕は思った。その続編にもなり、数名の同一人物のその後が描かれているのが「MUSIC」だ。


 「LOVE」の文庫のあとがきに古川さん本人が「LOVE」「ゴッドスター」「MUSIC」は同じ系譜にあると書いている。「LOVE」が新潮文庫から発売されたことでこの三作は新潮社から刊行されている。
 古川日出男新潮三部作とも言えるかもしれないが、僕はこの三作の舞台がさきほど書いたようには海を干拓し侵蝕していった、近代以降の土地、そこを舞台にした物語である共通から「古川湾岸三部作」と名付けたいと思う。
 ただし新作「MUSIC」は東京と京都という二都が舞台になりさらにスケールを拡げている。京都には僕が目指した東京タワーではなく京都タワーが存在している。もちろんシンボルは物語の中で重要な意味を持つ。


 作者の古川日出男氏は「朗読ギグ」やイベント等で自身の作品を朗読している。彼の作品の特徴は声に出して読むことで文体が、単語がさらに強化される「小説」である。そこには何があるのか? そうリズムがある。
 文体のリズムがあり、声を出して読むことでそれは「音楽」にもなりえる言葉の強さがある。古川さんと「朗読ギグ」をしたZAZEN BOYS向井秀徳さんが作る音楽のように言葉とリズムがせめぎ合い新しい音楽と文学を創造する。そして作品を読んでいくと古川さんの小説と向井さんの音楽が共鳴していることに気付く。彼らは共犯者なのだと僕は読みながら感じて嬉しくなった。


 「MUSIC」はスタバだけの物語ではなくスタバと邂逅する人物たちの物語でもある。彼らはもちろんスタバと邂逅するし(一人はスタバと名付ける名付け親だ)、そして物語の主軸になるスタバが「MUSIC」を鳴らし、ニャつがどしどしと蹴って歩いて横断して連鎖させて地面という譜面に音符を書きなぐる、もちろんその肉球で。


 スタバと邂逅する人物たちも彼らも彼らの行動や思惑で音符を、そして各自の物語が、音符が鳴り響いて音楽が生まれて「小説」になる。この作品はそういう小説であり音楽だ。ハーメルンの笛吹きのような猫笛で数十匹の猫を引き連れていっていても、物語の始まりにはスタバがいる。そうこれは現在進行形の僕らの時代の「猫小説」なのだ。


 物語の最後は畳み掛けるように終結していく。様々なピースが、音符がそこに集結して一気に鳴らす。文体のリズムは音楽だとも思うし、そういうことを意図的に書いているのが古川さんの小説の特徴だ。ジャンルのクロスオーバーみたいだ。


 古川さんらしいというかお得意でもある言葉遊びみたいな単語の使い方やルビ。それが物語の展開にしてもそこから起因している所が大きいし、だからやっぱり読みながら、読み終わって思うのは古川文学は、古川さんは小説を「マジメにふざけて」やっているということだ。


 そこには覚悟とか自信とか自分にしか出来ない事をやろうという明確な意志がないと無理だからだ。新しい何かを生み出そうとする明確な意志だ。それが「マジメにふざける」ことができる本質というかコアだ、そう核だ。だからこそ僕は惹き付けられる。


 あなたが今現在最高にエッジが効いてて、音楽が鳴り響き、笑っちゃうぐらいにふざけている小説が読みたいのならこの「MUSIC」がある。


 笑ってしまうぐらいにカッコいいのか、カッコいいから笑ってしまうのか、どっちなのかわからないけどそれは新しい時代を作る最先端を疾走するエッジの効いた音楽も小説も一緒だと思う。


 古川日出男作品を読むと無性に歩きたくなる。僕らの人生に「物語」が溢れていることを教えてくれる、あるいは再認識させてくれる。そこには著者が歩いて見たその景色の肌触りが小説を通して僕らに伝わってくるから。


 僕らは歩いて生き、生きて歩いていく。

MUSIC

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