Spiral Fiction Note’s diary

物書き&Webサイト編集スタッフ。

劇団、本谷有希子 第15回公演『甘え』

妻夫木&松ケン、激動の60年代描く「マイ・バック・ページ」で初共演
 二人の主演もよいけど山下敦弘監督×向井康介脚本コンビが『松ヶ根乱射事件』以来のタッグというのでぜひ観たい。 『リンダリンダリンダ』もいいんだけど『松ヶ根乱射事件』の方が面白かった。 山下さんは『天然コケッコー』という傑作もありますし。夏帆の相手役だった岡田将生が今やブレイクしているという時間の流れも感じますが。


 12日の休みは何となく気が向いて小池栄子主演だったのであんまり観に行く気がなかた劇団、本谷有希子 第15回公演『甘え』の当日券があったので観に行くことにした。ハコは青山円形劇場。徒歩で運動がてらに青山まで。


 途中で渋谷のツタヤでLCD Soundsystem『This Is Happening』を買った。『クッキーシーン』でインタビューがあって読んでて気になってた。 質問作成、文は伊藤英嗣さんだった。で、帰って開けたらライナーノーツと対訳が伊藤さんだった。


LCD Soundsystem - Drunk Girls (HD)


 あとは太田出版から出た新しい雑誌『リバティーンズ』も。『特集:Twitter 最終案内 〜これは終わりか始まりか?〜』ってやつで、『文化系トークラジオ Life』のサブパーソナリティー津田大介さんの「Twitterはじめます♥ 津田大介さん、どうしたらフォロワーふえますか?」や仲俣さんや佐々木さんの書評や演劇批評などもレヴューも掲載。かなり力のはいった雑誌。


劇団、本谷有希子 第15回公演『甘え』



 本谷有希子のプロデュースユニット『劇団、本谷有希子』は今年劇団旗揚げ10周年で自身生誕30年となる本作は日本に実在した文化「夜這い」をモチーフした作品。小池栄子を主演に、水橋研二安藤玉恵広岡由里子、大河内浩という出演陣。


 小池演じるキョウコは父親(大河内浩)と住んでいて働かずに家にいる。父親はキョウコの母親はモデルだったといい、彼女が出て行ったのはお前が生まれたからだとののしる。キョウコは働きにも出させてもらえない。何度も父を殺そうと試みるができない。
 父親はお前が出て行くなら俺は自殺するからなと脅す。殺したいと思うのなら出て行けばいいのにと思うのだが、それができない。父親の恋人(広岡由里子)となんとか結婚させて自分の身代わりを作って逃げようと考えている。


 父親は泥酔しては言ったことを忘れている。そして寝ながらいつも泣いている。自分は寂しいと無意識に。キョウコの友達のヤリマンを安藤玉恵が、その友達が好意を持っている先輩を水橋研二が演じている。


 先輩ら五人に回されてしまう、セックスを頼まれると断れない友達に対してキョウコは日本には昔「夜這」という習慣がありと話す。そのシステムがないと村や集落が成り立たなかったのだと。
 いろんな人を受け入れることのできる友達に人間として素晴らしいんだと説く。そのうち先輩も友達とキョウコの自宅を訪れるようになり読書家の彼女の部屋にある本を読むようになっていく。


 先輩は「立派」が嫌いだ。「立派」な人間になりたくなくて、汚れているぐらいが人間としていいと。乱交の後の寝転んでいるみんなの寝顔を見て汚れていて醜くてそんな顔を見せてくれる光景が好きだと。しかし、彼はキョウコとの関係や「立派」なドエストスキーなどの本を読むことで変化してしまう。


 キョウコは自分の価値観を変えようとする。それまで自分を作り上げてきた内面や価値観を変えようと戦う。父との関係や自分自身を。


 本音や建前の間で揺れる人間関係。コミカルにも見える動きや狂気じみる人間の部分など笑える部分もありながら本谷作品独自の人間関係の中から発せられる人間のオロカワイ(愚か+可愛い)さ。台詞の感じとテンポがいい。


 大河内浩、広岡由里子は演劇で叩き上げられていて存在感もあるし、凄いいいなって思う。親父のあの感じは殺したくなる。


 映画で観ててわりと好きな役者の水橋研二安藤玉恵は共によくて。水橋さんの価値観が変わってしまって戸惑う辺りは見所だし、安藤さんは馬鹿な考えない女で頭が悪い役だけどそれ故に人間の本質を現してしまっているようで味がある。


第12回公演『ファイナルファンタジックスーパーノーフラット』*1
パルコプロデュース「劇団外、本谷有希子」『幸せ最高ありがとうマジで!
第14回公演「来来来来来


 ↑みたいな前に観た三作品に比べると主人公の「自意識」問題の表現は変わっている。映画化された『腑抜けども、哀しみの愛を見せろ』や本谷さんの自伝的な要素もある『ほんたにちゃん』とかにあるような自意識過剰感とは違う。


 『生きているだけで愛』とかもそうだったけどゼロ年代的な自意識過剰やメンヘルを描いていた。それは痛みを伴うような笑いだったり、救いようのない他者との交わりの対人関係におけるアイロニーがあったが、『甘え』はギアチェンジしたみたいなネクストモードに入った感じがする。


 以前舞台でやって、小説にもなっている『乱暴と待機』も映画化されるので観たい。


2010年今秋公開『乱暴と待機


 憎しみが軸になると人間関係は壊れているけどある意味で離れられない。『乱暴と待機』の予告観るとわりと『甘え』のモチーフにも近いかな。罪悪感は逃れても、そこから離れても終始その人を呪縛する。そういう関係性もあるし、それに対してどう向き合うか、終わらせるかを選ぶか、それを一生抱えて生きていくか。そこにユーモアを足している作風かなあ。


 来年二月にパルコプロデュースで「劇団外、本谷有希子」第二回公演するみたい。

ディス・イズ・ハプニング

ディス・イズ・ハプニング

リバティーンズ マガジン No.1

リバティーンズ マガジン No.1

乱暴と待機 (ダ・ヴィンチブックス)

乱暴と待機 (ダ・ヴィンチブックス)

*1:2007年06月15日 吉祥寺シアターにて劇団、本谷有希子第12回公演『ファイナルファンタジックスーパーノーフラット』を観る。
 最初の20分ぐらいうとうとしてて内容が微妙にわからなかったけど、目が起きてから少しして話の展開が変わったっぽいので流れはわかりました。

 『複数の女達が一人の男のもとで同じ髪型、同じ洋服、同じ立ち振る舞いを強要される奇妙な状況下の物語』

 というお話です。

 スーパーノーフラット=超三次元世界

 同人誌等の二次元の世界の女の子しか好きになれなかった男がパソコンで出会った三次元の女の子に恋をした。そして2年の月日を経て二人が遊園地で出会う。初めて会った日にその女の子は彼の中で死んでしまう。それから彼はその日見た女の子と同じ格好をさせた女の子たちと共同生活をするようになるのだが・・・。

 これも映画になってもおかしくないような気がする。遊園地とかサーカスってなんだか陽気な音楽の裏に人間の負の部分を覆い隠す感じがする、この作品には遊園地が出て来るんだけど。
 明るく見せて灯りで照らして闇を隠さないと人は闇に取り残されて笑う事ができなくなるのか?
 深層心理は闇に根ざしているから逆の陽気な遊園地だと差が表れて余計に闇が強調されたりする。

 話は少しわかりずらいような箇所もありますが、話自体はなんか現代社会に対するアイロニーもあり、普通なら現実が嫌で虚構の世界に逃げ込むものだが、この話の主人公は待遇のいい現実社会ではなく苦しむ虚構の世界に自分の愛や価値を見出していた。

 ネット社会の匿名性、悩みを抱える人たち、繋がりの曖昧な関係性、他者と同じ格好やことをすることで得られる安心感、現実を否定し虚構の中での価値観にアイデンティティをもとめる。

 この本谷さんって人の作品は映画化する『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』とか芥川賞候補になった『生きてるだけで、愛。』とかこの舞台とか現代人の痛いとこを描いてるなあ。

 自意識過剰とか躁鬱とかネット中毒だったり三次元ではなく二次元に逃げて生身の女を拒否する男とか、観た舞台も笑えるシーンあったけど実は本当は笑えない事だったりする。

 他人の不幸は笑える、笑う事が可能だが、自分に置き換えると笑えないし痛過ぎるってことがある。自分の痛々しさに多少は気付けるとしてもさすがに笑えない。

 観終わるとなんだったんだ、おい!みたいな不思議な感じが。
 最後に主人公が取った行動とかわかるんだけど作品自体の意味とか考えるとわからなくなるような、少しの不愉快な感じとか残る。
 不愉快な感じが残るというのは出てきた誰かが自分の嫌な部分に似ていたり作品の話の中の何かが自分に反応しているような感じだ。

 自分に対して不愉快な感じ、嫌悪感が起きることはあまり多くはないが僕は一度あってものすごい吐き気に襲われトイレに駆け込んで指を入れて吐こうとしたが吐けずに自分に対しての気持ち悪さと嫌悪感を感じた事がある。
 
 人間は大抵自分を好きな部分と嫌いな部分が美味い具合にバランスをとってひしめき合っていて、ひょんなことでバランスが偏ると自己中なるか他人を拒否るようになる。

 この世界はバランスを崩しやすい、自分が思う自分、他人から見た自分、客観視できる自分、さらには匿名性での自分、自分がいろいろで多様化すると自分があやふやだ。

 後味の悪さとかなんかそういうのって残る。

 『ジョゼと虎と魚たち』が一番好きな映画な理由は最後のシーンで恒夫の嗚咽する痛さが生々しくて観終わった後もずっと残るから、それはこの先もずっと。

 痛みは残るんだろうなあ。そんな作品を創ろうとか思いました。