Spiral Fiction Note’s diary

物書き&Webサイト編集スタッフ。

「1Q84」BOOK3

 土曜日は友達と下北で飲んで深夜の一時過ぎに帰って「トップランナー」見たりして寝て起きてから村上春樹1Q84」BOOK3を読んで読了しようと思ったのだが、どうも寝れなくて結局の所朝の五時過ぎぐらいから残り3分の1を読み始めた。


 七時前ぐらいに読み終わった。僕はこの終わりで良いと思う。確かにこの続きをやろうと思えば続きはあるのかもしれない。この物語はたぶんこれで終わったのだと思う理由は、物語の基本構造とも言える、英雄神話などによくある構造で締めくくられている所。


 英雄神話はたいてい生まれ育った村を出て行き怪物を倒したりお姫様を助けたりして冒険をする。途中で通過儀礼のように一度死にかけたり死んであちら側に行って戻ってくる。そして新しい能力を手に入れて困難を乗り越え、目的を達成する。そして生まれ育った村に凱旋帰国のように帰って行くという、行って帰ってくるという環の構造。


 「1Q84」は初恋ボーイミーツガールの延長線にあってセカイ系みたいな月が二つある、元いたはずの「1984」ではなく「1Q84」に「青豆」や「天吾」は迷い込んでしまう、そして彼らはセカイ系みたいなある意味で閉じた彼ら世界で再会し、再びそこから出ていく。
 だからBOOK1で「青豆」が「1Q84」に迷い込んだ三茶と池尻の間の首都高3号線が始りならば、終わりは必然的にそうなる。村上春樹という作家が世界で通用するのは「構造」があるからだと大塚英志氏が何かで書いていたと思う。吉本ばなな宮崎駿もそうであると。


 彼はその「構造」を使い、物語というよりも「小説」を書いている。この作品では回収されてない部分もわからない部分もあるのだがこの作品に出てきた「説明しなければわからないことは、説明してもわからない」ということにも関係しているのかもしれない。
 つまりは説明されなくてもわかる部分はわかる人にはわかるのかもしれないし、作者はそれをいちいち説明する必要性もないと持っている部分や箇所はそのままにしている。それがこの世界だ、小説もそういう現実の部分を反映している。だから全てが明らかにされる必要はまるでない。


 映画「第9地区」みたいに宇宙人達がなぜ地球に来たのかなぜあの破棄力のある武器を使わないのかとかっていうのは説明されないんだけど僕らはそれをわかる必要もないしわからないということがわかる。
 映画の主人公のヴィカスたちのように彼らの事がわかっていると思ってたけど実際は何にもわかってなかったことがわかるような、そういう部分もあるんだろうなって思った。


 これで終わるんだと思う。たぶん、だけど。青豆や天吾たちが戻ってきた世界が「1984」だとは限らないという、そこまでは確認されない。
 ただ彼らはそこが「1984」であろうが「1Q84」であろうがそことも違うさらに別次元であろうが彼らは再び巡りあったことで一緒に生きていく決心をし互いに必要としている。だからこれはボーイミーツガールの延長線であり、村上春樹という作家がいろんな要素や物語を注ぎ込んだ「小説」であるが、村上春樹的な「恋愛小説」なのだ。きっとこれは「恋愛小説」だと僕は思う。


 でも、やっぱり終わらないでBOOK4出るのかな。出なくてもいいような気がどうもしてしまう。だってこの後書くとしたらもろもろの伏線回収とか説明だったりになるのもなんだかなあって思うし。「説明しなければわからないことは、説明してもわからない」ってのはそういうのをしないっていう前フリなんじゃないかって思うんだけど、どうだろうか。


 読み終わった後に池尻出口を見に行った。「1984」年から26年後の現実世界のそれを。










radiohead - lift (Pinkpop 1996)


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1Q84 BOOK 1

1Q84 BOOK 1

1Q84 BOOK 2

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1Q84 BOOK 3

1Q84 BOOK 3