Spiral Fiction Note’s diary

物書き&Webサイト編集スタッフ。

「ヘヴン」

東京事変- 閃光少女


 朝二時間寝たら目が覚めてしまった。休みなのに朝の七時過ぎには起きた。それから僕は読みかけのスティーヴン・キングバトルランナー」を読もうと思ったのだけど何かが違うというか、今の気分に合わなかったのでどうしようかとパソコンで音楽を聴いていた。


 机の上にはパソコンとプリンターとまだ読んでいない本を置いていて、二週間程の前にcharlieがブログで「聖痕と世界と少年少女(『ヘヴン』編)」というエントリーを書いていて「ヘヴン」自体は著者の川上未映子が出ていた映画「パンドラの匣」を観た帰りに買ってからずっと放置していた。


 手に取って読み始めてみた。wikiから引用するとあらすじは「斜視が原因でクラスメイトたちから日々暴力を振るわれ続ける「僕」はある日、『わたしたちは仲間です』と書かれた手紙を受け取る。差出人は、同じクラスの女子たちからいじめを受けているコジマだった。それ以来、2人の秘密の通信が始まり、「僕」はコジマの言葉を支えに感じ始め、少しずつ友情を育んでいく。」というもの。


 charlieのブログを読んでいたせいもあって、展開自体はある程度わかっていたが一気に読み終わってしまった。僕とコジマを結びつけたのはともにクラスで虐められていることであり、僕にとっての斜視とコジマにとっては父親と暮らした思い出を失わないための汚い格好という「聖痕」であった。


 が、この作品ではもう一人の「コジマ」であるかのようなシャドウとしてのイジメグループを裏で支持していると思われる百瀬という人物が存在感を急激に増す。


 僕は百瀬になんで僕なんだと、僕が斜視だからイジメをしているんだろと問うが、彼は斜視なんかどうでもいい、ただ君じゃなくていいんだ、誰だっていいんだ、そういうムードがあってそこに君がたまたま居ただけと言いきってしまう。


 ここで僕とコジマを結びつけたはずの「斜視」=「聖痕」は意味は揺らぐ。僕と百瀬のやりとりでは百瀬の発言は僕にとってはセカイをコジマを否定してしまうものだった。


 この百瀬の言う事は特に間違っているような気もしないし、僕が聞きたくはない事実というかある種の正しさを持っている、これは漫画「ボーイズ・オン・ザ・ラン」の青山にも通じている部分で、僕や「ボーイズ〜」の主人公の田西に圧倒的な事実を言ってしまう。事実は大抵の場合、人を傷つける。


 なぜなら彼らは自分を守るためにその事実から目を逸らし、逃げていたのに自分にとって最も憎い、あるいは敵対する人物からそれを告げられてしまうものだから混乱してしまう。


 この混乱は今までの自分の考えや意識を猛烈に揺さぶり、それに従うか抗うかに走るしかない。


 しかも、この作品で主人公が自らを自らとしてあるための「斜視」が、コジマに好きだと言われて肯定された「斜視」が1日の手術で、たった一万五千円で治ってしまうということを医師から告げられてしまう。


 「聖痕」などなかったというか、それは「聖痕」たりえなかった。この治るかもしれないことをコジマに告げる。その事は二人を結びつけていた絆など存在していたつもりだったのだと告げるようなものだった。


 「キミとボク」の在り方が世界の存続を決めてしまう「セカイ系」に対してのカウンターである「アンチセカイ系」のように読めてしまった。


 ちなみに「セカイ系」とは「『主人公(ぼく)とヒロイン(きみ)を中心とした小さな関係性(「きみとぼく」)の問題が、具体的な中間項を挟むことなく、『世界の危機』『この世の終わり』(これらについては後述する)など、抽象的な大問題に直結する作品群のこと』と定義される場合があり、代表作として新海誠のアニメ「ほしのこえ」、高橋しんのマンガ「最終兵器彼女」、秋山瑞人の小説『イリヤの空、UFOの夏』の3作があげられる」と定義されている。


 クライマックスでコジマは圧倒的なことになってしまうが、園子温監督「愛のむきだし」での満島ひかりが演じたらどうだろうと考えてしまったが、映像化しそうな気がする、この作品。「本屋大賞」にノミネートされてるから賞取った瞬間に映像化が発表されそうな予感も。


 終わりには「ヘヴン」の僕は「斜視」を手術で治す。彼はコジマの思想と百瀬のある種の無思想の狭間で混乱し揺れながらセカイの在り方を見定める、そして「斜視」を治すことで今までとは違う世界の見方を、手に入れる。


 この作品の人物の百瀬の台詞を読んでいると「ボーイズ〜」の青山を思い浮かべるし、彼の無思想が完全に考え抜いて悪だと認めた上で行動し始めると伊坂幸太郎「重力ピエロ」の葛城になるのではないかと思ったり。


 夕方に家を出てABC(青山ブックセンター)六本木店に行って「『早稲田文学』3刊行記念 『早稲田文学』プランナー/ディレクター・市川真人さんミニトーク ゲスト:古川日出男さん」を観に行く。
 「古川日出男ナイト」かトークイベントがある時にしかABC六本木店には行かないのだが積極的にイベントをうって読者と作者・本を結びつける活動をしているのでいい印象しかない。


 知り合いの編集の人と挨拶がてら少しお話をしてから市川さんと古川さんのトーク。お二人の後ろにはスクリーンがあってプロジェクターで「フルカワヒデオ200ミニッツ」の朗読と映像が流された。「早稲田文学」3を買うと「フルカワヒデオ200ミニッツ」の朗読ギグDVDが付いている。


 ライブで観たイメージが強くてまだ聴いてない。


 トークの内容では古川さんの作家としての在り方とか村上春樹という人物に対しての評価とか。あとはいろんな集約システムがあるけど、人生はミリットがある、そう限界が、人は死ぬ。


 集約システムで集められた様々な膨大なデータは結局それを観たり聴いたりするには膨大な時間がかかる。人生のミリットは長くなっていないのに集約システムがいろんなものを補完・保存しても時間は足らないから、結局そういうことはどうでもよくなっていくんじゃないかと。
 まあどんなに膨大にあっても人間というものは限界があるので。それにみんなが気付くのは意識をはっきりするようになるのは十年ぐらいかかるんじゃないかって。


 「できない」んじゃなくて「やらない」とかね。古川さん夫妻は携帯持ってないらしいけど生活に不便はないとか、ツイッターの話だと140字の制約の中でやるからよくて、日本人は俳句とかそういう文化があったから字数制限が、だから余計に合っているだろうと。


 で、この制限ってのは締め切りだったり枚数だったりって決まりがある中で何かをするから工夫するから自由がある。締め切りがなかったらいつまで経っても書けないし、枚数もこれくらいって決めてないと書き上げれない、制限がない何やってもよいと自由はなくて不自由になる、だって終わらないから、なんでもありだと工夫はなくなる。


 人生もミリットがあって、無限じゃないから有限な時間の中で生きるからということにも通じているんだと思うし、そういうことなんだろうなと解釈。


 体を鍛えないとダメだなって、これはよく古川さんのトークでよく聞くんだけど村上春樹さんの影響もあるのは前にも読んだ事がある。で、配られた四年前のWB(早稲田文学のフリーペーパー)の古川日出男×重松清対談の中で「いちばんわかりやすいのは、「作家って、繁華街で酒飲んでガーっていって、エキセントリックにやんなくていいんだ」ってことを教えてもらいました。「早起きして走ってればいいんだ」と(笑)」ってもうずっとこの考えはブレてないんだよなあ。


 でアナウンスされたのは今年は文庫『LOVE』(三島賞受賞)が3月25日発売、で、続編だと思ってたけど古川さんからすると『LOVE』とリンクしている単行本『MUSIC』が4月30日発売ってことと、「サマーバケーションEP」「ハル、ハル、ハル」が文庫で6、7月ぐらいに、河出書房のweb連載の「4444」は44歳になってから44の掌編を集めて一冊になって夏ぐらいに出るみたいで、あと二冊ぐらい後半に出るみたい、怒濤だな。


 文庫ってのは新規読者にはちょうどよいし、お手頃価格になるし読み始めるにはちょうどいい。「LOVE」「サマーバケーションEP」「ハル、ハル、ハル」はかなり読みやすいし、音読して読みたくなる文体のリズム構成でもあるので(それは古川作品の特徴だけども)発売したら手に取ってたら面白い読書体験になると思うんだけどなあ。


 僕としては「サマーバケーションEP」を読んで勝手に「スプリングバケーションEP」やったのがけっこうな転機だったと思っている。26歳の時に人生の方向性が決まるって言いますよね? あれ言わなかったっけな、僕26歳の時に古川日出男作品にドハマりして出てた作品全部読んで小説書きたいって思ったから。まあ、転機っていうかアリ地獄でもあんだけど夢と言う名の呪いね。


 朝方「ヘヴン」をたまたま読んだけど店内のコーナーに「川上未映子さんの本棚」ってのがあってなんだかリンク。しっかし、マルケス百年の孤独」ってどんだけ多くの作家に影響与えてんだ。まあサリンジャーも。未だに「百年の孤独」買ってから全然読んでない。


 帰ってから録画してた「めちゃイケ」を見ると岡村さんが「本番ではマジメにふざける」と言っていた。この精神は古川日出男さんという作家も同じであると思うし実際にご本人に聞いた事がある。僕もマジメにふざけたいと思う。


 今夜の「めちゃイケ」はお笑い番組が自身の番組を批評しながらもその批評的な笑いをテレビで提示するというある種画期的なことをしているんじゃないかと思った。しかし、こういうことになるまでテレビを見ている人間の価値基準は自分で考えれずに世間の空気に籠絡してんのかとも疑ってしまう。


 イジメに繋がるからという理由でコーナーは潰れていく、まあ、親が「芸人さんは体を張ってお金を稼いでいるの、それで生活してんのよ」とすらも言えないのかな、今回の番組内容はかなり視聴者に向けての意思表示だった。


 最後のナレーションが物語っている。


「実はテレビの倫理が強く叫ばれるようになった十年前、「めちゃイケ」は世間やメディアからたくさんの批判を受けて当時大人気だった「しりとり侍」というコーナーを失った重い経験を持っています。ただ、食べ物やファッションにも好き嫌いがあるように、これからも「めちゃイケ」がテレビを見る全ての人から愛されることは、きっと永遠にありません。時には批判を受けたり、疑問を持たれたり、鼻で笑われたり、安心して見ていられないとチャンネルを変えられる日もあるでしょう。しかし、そんな「めちゃイケ」を支える百人のスタッフも全員が岡村と同じプロフェッショナル。十年前の反省を活かして笑いがイジメを助長したりするのではなく、そのイジメの向こう側にある笑顔に届くようにと日々安全なバラエティを制作しています。楽しくなければテレビじゃない。おそらくフジテレビのバラエティにはどの番組にも、どのスタッフにも、どのタレントにもそんな愛と覚悟があるのです。みなさんこれからも安心してフジテレビをご覧下さい」


 これは番組からの自己擁護にも聞こえなくもないが、こんなことをバラエティ番組が意思表示として言わないといけないような空気感がこの国を覆っている事は確かな事実だ。


 僕らはそんな空気の中を今生きているんだと思うと悲観的な気持ちになってしまうけども、もうそんな空気は変えていくしかないし、もうそんな息苦しさに席巻されていても生きている心地はないし、耐えていけないだろう。
 

 只石や高塚という専門の友達と話している時に僕が最近使う「ポップ」の意味を聞かれて少し戸惑ってしまった。僕の中にあるなんとなく感じる雰囲気を「ポップ」と僕は呼んでいて、それが大衆的だとそういう意味とはまた少し違って自分でもうまく解釈、呑み込めてなかったから。


 今少し僕の中で呑み込めて言葉にできるとするとテン年代の僕の感じる「ポップ」は前ディケイドだったゼロ年代を覆い尽くしていた空気に対するカウンターのことを僕は「ポップ」だと自分では思うようになっている。


MGMT Song For Dan Treacy New Song All Points West Festival Liberty State Park NJ


 発売されたVampire Weekend「Contra」と四月に発売されるMGMT「Congratulations」がすでに今年を代表するアルバムだと音楽雑誌等で言われている。読者やリスナーを煽っているように感じなくもないが、それだけこういうポップな新しい音楽が「Kid A」から始まったゼロ年代の空気感を払拭することを多くの人が期待して祈っているのは伝わる。

スポーツ

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ヘヴン

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重力ピエロ (新潮文庫)

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