Spiral Fiction Note’s diary

物書き&Webサイト編集スタッフ。

「船に乗れ!」

 先日と言ってももう2日前の土曜は六本木ABCにて「古川日出男ナイトvol.9」を堪能した。仲俣さんの「海難記」の「パフォーマンス的読書とオーディエンス的読書〜パワーズと古川日出男の新作をめぐって 」に書かれている「パフォーマンスとしての読書」というものをこのイベント自体は古川日出男という著者が自ら行なう、ある種の降霊術会(古川さんが文字にして書いた瞬間に言葉は死ぬから、朗読する事は甦らすことだと以前に言われているので)だった。


 古川さんの著者は声を出して読みたくなる。「聖家族」はほぼ声を出して読んだし、途中で笑ったりもした、声を出す事である種の身体性みたいな部分が自分に付加して物語が進んでいく感覚だった。


 twitterよりもはてなよりも前からやっているmixiで「古川日出男」について自分の日記で検索してみた。一番昔では06年11月で「LOVE」を読んでいる。一番古い記憶は友人の只石家にあったハードカバー版「ベルカ、吠えないのか?」の冒頭でスパイをソビエトのジジイが殺すくだりを読んで変な小説だなって思った。
 その後田島昭宇氏が表紙を書いていたから「サウンドトラック」の文庫を買ったけど放置していて、07年の07年に後に買ったけど借りて「ハル、ハル、ハル」を読んだ。僕が実際に古川日出男作品を貪るように刊行されているものを再読を含めて全部読んだのは「聖家族」が刊行された08年だった。だから去年僕は一気に傾倒したし、そこには「文化系トークラジオ Life」を発端として繋がったものや人の影響も多大だった。


 2007年07月27日「ハル、ハル、ハル」


 昨日借りた古川日出男『ハル、ハル、ハル』を読み終える。


 一日一冊で読んでる、ハイペース。


 内容は忘れて行くし、残るものは残るし、たいていのものは失われていくのが自然の摂理、小説は人工物だから、人工物の定理ってやつかも。


 古川日出男の文章はきっと、声に出して読むと速度を増す。


 暴力的な表現は、彼の文章は世界と対峙し、胎児でなくなったもの全ては世界と対峙する。


 彼の文章は対峙し対決姿勢であることの表明だろうし、世界と対決する雰囲気が炸裂してる。


 速度という武器、絶叫、飼い馴らされた感情、疾走、希望も絶望もない日常。


 世界にレイプされる自分、Rape Meって歌うことでしかレイプ根絶に対して表現できないって感じたカート・コバーンみたいな叫びなのか。とか思ってしまった。


 犯され続けてそのうち殺されてしまう前に世界に圧倒的な他者に牙を向けるという自発的な意志を持つ作家なんだろうな。


 確実に好き嫌いが分かれる作家、お勧めはしないけど。


 何の疑問もなく生活できる人には毒にしかならない、逆に疑問だらけの人には起爆剤になってしまう。


 そんな感じの文章と物語、と速度と暴力。


 と僕はmixi日記で書いている。この時はまるで僕は古川さんに傾倒していない時期で「LOVE」と「ハル、ハル、ハル」しか読んでない。でも、この感覚がほぼ最初にあった事が結局の所僕がハマる要素を持ち合わせているようだ。


「何の疑問もなく生活できる人には毒にしかならない、逆に疑問だらけの人には起爆剤になってしまう。」と書いていたけど今考えるとそれは逆で「何の疑問もなく生活できる人には毒にはならない、逆に疑問だらけの人には毒となり起爆剤になってしまう。」だろう。

 
 これも「13」冒頭での「この世には毒蛇というものがいないことをあたしは知っている。人は、ある蛇によって死に、ある蛇には影響を受けないで(咬まれても)平気で生きる。そして後者の毒を無毒とみなす。決めたのは人の側だ。けれど、試してごらん。人間の唾液を他の動物に注入すれば、ある種の動物は死ぬから。それじゃあ、人間は有毒? あたしはそれを本で読んで学んだ。」とここも少なからず符合する。


 だからこそ惹かれる部分があって、僕は小説に一気に寄っていく事になった。土曜日は「パフォーマンスとしての読書」を体験し、翌日の日曜日はなんとなく休みにしていて、それは朗読を聴くとなんらかのぐったり感を感じると予感していたから。



 日曜日は木曜日に四谷三丁目の喫茶茶会記である「藤谷治×仲俣暁生トークセッション「演奏と読書」」に行くので藤谷治著「船に乗れ!」三部作というか三巻までを一気に読み切ろうと思ってた。目覚ましよりも早く目が覚めて一巻目「合奏と協奏」を読み始める。


 <ストーリー>
音楽一家に生まれた僕・津島サトルは、チェロを学び芸高を受験したものの、あえなく失敗。不本意ながらも新生学園大学附属高校音楽科に進むが、そこで、フルート専攻の伊藤慧と友情を育み、ヴァイオリン専攻の南枝里子に恋をする。
夏休みのオーケストラ合宿、市民オケのエキストラとしての初舞台、南とピアノの北島先生とのトリオ結成、文化祭、オーケストラ発表会と、一年は慌しく過ぎていく。


 一巻目は青春ものっていう感じがして平穏なインディアンサマーみたいな温かさがあるように思えて、読みながら微笑みが出てしまうような感じだった。昼前には散歩がてらに渋谷に出てこの間壊れたインナーイヤフォンの修理を取りに行った。渋谷はガヤガヤしてていつもよりは人が多いけど知っている渋谷だった。渋谷のツタヤで探していたCDを探したがなかった。2 Many DJ'sとSowlwaxだったけどSoulwaxが一枚しかなかったからやめた。


 一巻目のBGMはSigur Rosだった。電車で最寄り駅まで帰ってまたツタヤでクラシックを借りてBGMにしようと思ったけどどれがいいのかわからないから「のだめカンタービレ Best 100」を借りてみた。八枚組だった。


 「のだめ」は大学が舞台で「船に乗れ!」は高校が舞台。「のだめ」はコミックスである程度読んでいてドラマも一応見ていた。「のだめ」の主要人物はのだめと千秋で基本的には彼らは音大の中でも周りから一目を置かれる才能がある。コミックのテンションがわりとコメディーちっくなのも大きいけど彼らはどんどん高みを目指して次のレベルへ移行しながらものだめと千秋の関係が描かれている。


 クラシックとか音大とか音楽学校にまるで詳しくない僕は「のだめ」のイメージがあった、それが「船に乗れ!」と上手い具合に対照的に二巻以降がなっていった。二巻の中頃から主人公のサトルと南の不調和音ぐらいがかなりシビアになっていき重い、これはかんなり重い。
 サトルが音楽に対しての将来を考え、あるいは自分の才能の事、そして南との関係と彼が犯してしまう事柄が絡み合ってやがて音楽に挫折していく辺りが二巻後半から三巻で描かれ、読みながらけっこうしんどくなる。


 二巻の中頃で一度仮眠したら思いのほか寝すぎて「ガキ使」が始まる前ぐらいまで寝てた。二時間仮眠のつもりが四時間少し寝てた。小説や映画、音楽もだけど、食べ物だとか体内に入れるとグッタリ疲れることは多々ある。僕は人の作品で「船酔い」じゃないけど酔うというか自分でも思ってないようなダメージだとかなにかを受けてしまうことがる。起きたら体が痛かった。


 日曜日中に読み終わる事はないと思ったけど読み進めた。三巻の後半部分で南との事、犯してしまった罪の事柄に関してサトルが取る行為は読み手の感情に様々なものを運んでくるのでしんどいと言えばしんどい。世界がどうしようもないことで成り立っている辺りとかは高校の時に保健室の先生から「ネガティブだねえ」と言われた僕が読んでいたらどうだったろう、と思いながら考えた。


 高校の時の僕には辛いかもしれない、あるいはまったくわからなかったかもしれない。今の僕の年齢というよりは今の僕には受け入れれるというかわかる感覚がある。
 僕は何かを諦めたことは何度もあるけども挫折というものするほど何かに一生懸命だったことがあったろうかとか思うとない。挫折するほどこっぴどく誰かに何かを言われた事も指摘された事もないし、圧倒的な差を見せられても僕はまだ挫折できるほどにその差を感じることができていないんじゃないかって思う。


 挫折をするためには何かについて心身とも励んでレベルが上がって初めて見える景色が、どうしようもないぐらいに手に負えない、先人達やライバルとの圧倒的な才能の差を感じないとできないことだろう。見えなかった壁がそこにあると知るまで行かないとわからない、わかってしまった後にはもうどうしようもないことになっている。


 僕はたとえ挫折するとしてもそこのレベルにすらいないということを読みながら感じた。でも、世界がどうしようもないことで成り立っているからこそ、それに抗いたい気持ちと、それを認める矛盾する気持ちも自分の中にあるのだという事も感じた。


 読み終わった後は感情がまとまらないし、カオス感が増した。木曜日のイベントまでにこの感情がどうなっていくのだろう。


 「演奏と読書」続報によると藤谷さんは当日チェロを弾かれる予定らしい。その音色が僕にどんな風景を心情をもたらすのか、当日藤谷さんと仲俣さんの話を聞いて僕の中はどうなるんだろう。


 過去が増えていくと未来は減っていく、当然だ。オギャーと産声をあげた瞬間から人生のカウントダウンは始まる。生きていくと過去は地層のように積み重なるし、登るべき下るべきなのか未来は減り続ける。地層をときどき確かめて過去を思い出して懐かしがったり後悔したり、する。僕らはいろんな感情の中で生きていくしそれらにこんがらがって生かされていく。


 小説は「物語」や「感情」の地層なのかもしれない。著者が積み重ねた地層を読者がそれを一番下の始まりから最後の地面の所まで辿る。だから声に出す「パフォーマンスとしての読書」の方が地層を探れる作品もあるだろうし、そうではないものもあるだろう。


 世界がどうしようもないことで成り立っているということに抗う、認めるという矛盾した事が同時に存在できることという事を考えた。考えは書いてもまとまらないや。

ハル、ハル、ハル

ハル、ハル、ハル

13 (角川文庫)

13 (角川文庫)

船に乗れ!〈1〉合奏と協奏

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船に乗れ!(2) 独奏

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船に乗れ! (3)

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