Spiral Fiction Note’s diary

物書き&Webサイト編集スタッフ。

「僕らが旅に出る理由」

古川日出男「4444」
第26話「どのくらい多くのマコーレー・カルキン・フルスロットルがいたのだろうか、かつて?」配信。


 近況:最新書き下ろし『MUSIC』が脱稿・入稿されました。詳細は寝て待ってください。雑誌「エクス・ポ」第二期0号(驚愕のボリューム!)に、戯曲『OK豚ピューター』が発表されています。1月20日発売の文芸誌「モンキービジネス」8号には掌編『とても短い』とカバーストーリー『惑星便り・4』が掲載されます。そして世界じゅうに謹賀新年。


 今年一発目の「4444」の配信。去年の「古川日出男ナイトvol.9」で来年(10年)に「MUSIC」と「4444」と「モンキービジネス」での短編作品が本として出る予定だと言われていたが、「MUSIC」は三月か四月には出そうだ。楽しみだなあ。三月には阿部和重ピストルズ」も出るし、その前に繋がっている「シンセミア」を読まないと。


 河出書房でのメールマガジンを登録しているとMMM(メールマガジンのためのメッセージ)で近況とは別の古川さんのメッセージが読める。そこには18年暮らした猫が危険な状態になったが奇跡的に助かって歩いているらしい、獣医には寝たきりになると言われたのに。
 そして今月の五日に「MUSIC」は脱稿されたとのこと。「MUSIC」の前作にあたる「LOVE」は「ベルカ、吠えないのか?」が犬小説だったのに対して猫小説だった。だから「MUSIC」も猫小説な部分があるはずだ、そして古川さんのとこの猫は生き延びた。古川さんの作品に猫がよく出てくるのはやっぱり飼われていたからなんだなって。文庫「沈黙/アビシニアン」の「アビシニアン」も猫の種類がタイトルだし。


 うちの近所の猫ズも生まれたての頃から見てるけど大きくなった。そして愛想がなくなった。隣の家の猫のはずだけどなんとなく野良猫的な感じだし、魚肉ソーセージで釣れる猫たち。









 「文化系トークラジオ Life」の「大忘年会09」でメールが読まれたので番組のバッジが来た。今まで何個かもらっていたのだけど仕事から帰って確認したら七個目だった。七個と言えば神龍(シェンロン)呼べるんじゃないという数だけどね。


 最初の一個目はメールとかじゃなくて、「Life」も聴いてなくて薦められていたけどきちんと聴いた事がなかった時に、「蓮沼フェス」でcharlieを紹介してもらってその時にバンドのアナのボーカルの大久保君とcharlieが話している時になんか僕はそこにいて、大久保君に「Life」バッジあげようとしてた。
 その時にバッジは浅野いにおさんの絵と番組ロゴの二つがあって、僕は浅野いにおファンだったのでそれを見て浅野いにおの方のバッジちょうだいってcharlieに言ってもらったのが最初の一個目だった。


 僕と「Life」って最初は番組よりもcharlieとバッジから始まってた。それまでラジオを聴かない人間だったのに。その帰りに今は「H&M」になってしまった渋谷のブックファーストに行ったら「Life」フェアしてて仲俣さんが選書されてた「さよなら妖精」買ったんだと思う。


 「Life」の文化系書店Life堂のvol1〜3のブックガイドのcharlieのごあいさつを以前書いたんだけ再録。きっと最近聴きだしたりした人は読んだ事がないと思うので。


BGM:僕らが旅に出る理由- 安藤裕子

 vol.1「戦場の渋谷」から「平坦な渋谷」へ
 

 渋谷ってのは、色々言われてめんどくさい街だ。80年代にはそこは、東京でいちばんきらびやかな街だって言われていたけど90年代に入る頃には、チーマーだのコギャルだのが渋谷を代表していることになって、ヒップホップな人たちも「リアルなストリート」はここにあるんだ、なんて言い出した。


 その想像力の裏側にあるものを簡単に言うと「“戦場”はここにある」ってことになるだろう。「平坦な戦場で僕らが生き延びること」とか「戦場のボーイズライフ」とか「渋谷はいま戦争状態みたいだ!」とか。豊かな社会を生きる僕たちの「いまここ」に読み取られた「戦争」が、「バイオレンスでブリンブリンな渋谷」に重ね合わされてきたわけだ。


 それはつまり、「センス」や「リアル」を巡る文化闘争ーオレたちだけが戦場の渋谷を知ってるーくらいしか、戦えるものがなかった、ってことなんだと思う。でもいまは? 21世紀になってからこっち、マジな「戦争」はとにかくあちこちで起きてる。日本もそれに参加すべきだ、とかまじめな顔で言われるようになってる。


 その結果、たくさんの人々が、たとえば「反戦」っていう「マジで熱くなれる戦い」の方に行ってる気がする。そこにあるのは、「ここ」じゃなくて「あそこ」で戦争が起きてて、それに気づいた僕らだけが、ひるがえって「ここ」にも戦争を持ち込むことができる、という理屈。なんかそれって、かつての「渋谷」を巡る文化闘争の、ねじれた反復なんじゃないの、と思う。


 リストに挙げられた本に、それぞれの選者が込めた想いについては、裏面のコメントを読んで欲しい。きっと、ここに並べられた本たちが「ただ好きだから」という理由で並べられていることが分かると思う。「リアルをたくさん知ってるオレの方が偉い」なんて感覚は、そこにはない。「好きでたまらないものを好きだと言える」から偉いんだと、僕なんかは思う。
 マルキューのショップ店員さんだって「服が好き」だから店員をやってるのであって、「リアル」だから店員になったわけじゃない、ってのと同じでね。


 『文化系トークラジオ Life』ってラジオ番組は、もはや戦場ですらなくなった渋谷と同じように「平坦」なこの時代に、「好きなもの」について喋るための場所。よかったらみんなも、平坦な渋谷を生きるように、ラジオの前で耳を傾けて欲しい。



 vol.2「セカイ・TOKYO・新宿」へお越しの皆様


 このブックフェアは、紀伊国屋書店じんぶんやと、TBSラジオで放送中の番組「文化系トークラジオ Life」とのコラボレーションで実現したものです。ブックフェアとうたってはいますが、パーソナリティ陣による選本だけでなく、CDも置いてあれば、リスナー制作の同人誌も置いてあって、なんだか悪ノリの過ぎたお祭りみたいになってます。


 そもそも『Life』という番組が、あれもこれもと放り込まれた「文化的具材」のごった煮みたいなものだし、別にそれで構わないのですが、せっかく紀伊国屋書店という「権威ある」場所で、反権威的象徴闘争(笑)を仕掛けたのですから、この場を借りて、今回のLife堂のテーマ、そして「祝祭」の意味について書いておこうと思います。


 世界を見渡すのが、本当に簡単になったなあと思います。小沢建二が『天気読み』で「星座から遠く離れていって景色が変わらなくなるなら/ねえ本当はなんか本当があるはず」と歌ったのは93年のこと。今では僕らは、Google Earthを使って、ずうっと遠くから、一気に「いまここ」までズームインすることができます。「セカイ」と「ここ」を等価に繋いでしまうテクノロジーは、おそらく僕らの欲望をもっとも的確に表現しているのだと思います。


 「いまここ」から「セカイ」を見渡し、一気に「いまここ」へと回帰する。いまここを起点にしながら、外部からの訪れによっていまここを変化させるというダイナミズム。日本の思想界隈ではこの数年、外部性を持った「力」の強度と、そこから生じる革命の可能性が論じられています。そして、「失われた10年」の影響を強く受けた若い世代の論者が、いままた「政治の季節」の中心になろうとしています。


 僕は、セカイの力の力で起きる革命ではなく、「いまここ」で起こる祝祭に、とびきりの美しさを感じます。なぜなら、それはひとりでは起こすことができないものだからです。今回のテーマの元ネタである『宇宙 東京 世田谷』(97年)に収められた名曲『Weather Report』でフィッシュマンズは、「風が吹き続けて いつもここにいるよ/だれかがいつもそばにいたはずさ」と歌っています。


 セカイから訪れる圧倒的な力で、不自由な現状を否定すること、それによる革命を目指すのは大事なことです。けれど僕はそれでも、まず「いまここ」にいる「だれか」のことを考えていたい。その誰かと手を繋ぐことで生まれる祝祭を、大切にしたい。『Life』という番組、そのリアル版でもある「Life堂」、それを作り上げてくれた人たち。僕はその全体をひとつの祝祭であると考えています。そして、その祝祭こそが、ほんとうの意味での「革命」を、「いまここ」にもたらしてくれるのだと。


 ここに訪れてくれたあなたが、僕らの大きな「祭り」の輪に参加してくれれば、これ以上の喜びはありません。



 vol.3「ナショナリズムとグローバリゼーションーコードギアスからネグリまで」


 池袋には、なにもない。冗談で言っているのではなくて、ほんとうになにもないと思う。


 新宿には、歴史がある。歴史の舞台があり、文学の舞台がある。「歌舞伎町」や「二丁目」と言えば、たいていの人がそこになにかの印象を持ち込むことができる。
 渋谷には、物語がある。テレビのイメージカットは、何度となく「渋谷の女子高生」や「マルキュー」を「若者」という物語の代表としてきた。
 韓国・ソウルの中心街、明洞は、よく「ソウルの新宿」「ソウルの渋谷」などと評される。海外の街を歩いていて、「ここは日本の池袋みたいな街」なんて紹介されることがあるだろうか?


 池袋には、それを代表するべき歴史や、物語が欠けている。いや、欠けているわけではない。巣鴨プリズンに蓋をするように屹立するサンシャイン60があり、西武があり、ナンパコロシウムだのウエストゲートパークだのと呼ばれた西口公園がある。
 KICK THE CAN CREWを生んだ池袋マダムカラスや、多くのビジュアル系バンドを輩出したCYBERなど、サブカル的な話題にも事欠かない。


 それでも、池袋には「なにかがある」という感じがしない。


 きっと池袋は、なにかになることを拒むくらい、「なんでもある」街なのだと思う。人によっては、この街は「大学の街」にも、「芸術の街」にも、あるいは「でっかい大宮」にも見えるのかもしれない。ロードサイドのディスカウントショップよりもはるかに豪華な、「なにもかもが揃っている」感じが、街全体を覆っているような。


 それはきっと「豊か」ということなのだと思う。なんでもあるから、ひとつにイメージを絞れない。ここは、人の経験だけ街のイメージがあり、それらは決して交差することがないのだけれど、それだけ独自の世界を保ったまま、同じ空間の中に共存していれるという、奇跡のような街だと思う。


 「文化系書店 Life」の第三弾を、この街で、大手書店三店舗を使って大々的に展開できることは、僕たちにとってほんとうにこの上ない喜びです。各店舗の関係者の方々に感謝。それぞれのお店が持つ独自の空気や選書に触れながら、願わくばあなたが、今まで見たことない池袋が見つけられますように。




 「希望」の話をしよう、その言葉がこの番組の核だと思う。


 僕には「希望」というとある小説の一節が思い出される。今本棚から取り出してペラペラとめくった。まだ十代後半の頃に、思い出したかのように僕は小学生の頃に兄が読んでいたので読んでいた「摩陀羅」シリーズが角川少年エースコミックとして最発売され、そこからシリーズ関連を買い漁った。原作者である大塚英志氏がノベライズした「摩陀羅 天使篇」(絶版)もその一つだった。


 「摩陀羅 天使篇」は「多重人格探偵サイコ」での大塚氏とコンビを組んでいる田島昭宇氏によって書かれる予定だった「摩陀羅 転生編」のその後の物語だった。連載していない作品のさらにその後の終わった後の物語という立ち位置。
 そして「転生」を繰り返した転生戦士たちが次世代にバトンタッチしていく話になるはずだった。


 著者の大塚英志さんの特徴して連載が終わらないままに中断される、出版社とケンカ別れするというある種のお家芸がこの「天使篇」でもあり、三巻で続きが出ないままに放置された。
 その後「マダラ ミレニアム」としてスニーカー文庫として一巻が出たが、徳間書店に移り「摩陀羅」というタイトルすらなくなり「僕は天使の羽を踏まない」というタイトルでこの「摩陀羅」というシリーズは原作者の手によって終焉を迎えた。


 「摩陀羅」とは手塚治虫どろろ」×三島由紀夫「豊穣の海」シリーズを元ネタにした作品でメディアミックスを前提として作られた作品だった。今の角川書店がマンガやアニメでやっているような事の走りみたいなメディアミックスが展開され、最後はメディミックスと関係のない出版社からタイトルも変わり、思春期の少年と少女が「ライナスの毛布」を手放すという物語として終わった。


摩陀羅 天使篇 ミカエルの廃都より
「希望とは常に救いようのない絶望に支えられている」

LOVE

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沈黙/アビシニアン (角川文庫)

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ベルカ、吠えないのか? (文春文庫)

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“反転”するグローバリゼーション

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文化系トークラジオLife

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chronicle.(DVD付)

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