Spiral Fiction Note’s diary

物書き&Webサイト編集スタッフ。

『あるいは修羅の十億年』刊行記念イベント 古川日出男×柴崎友香


 土曜日に青山ブックセンターにて『あるいは修羅の十億年』刊行記念イベント 古川日出男×柴崎友香を観に行ってきた。
 作家・古川日出男さんと柴崎友香さんは、実はものの見方や感じ方はかなり近いお二人。作品だけだとまったく違う印象を受けそうだが、描写や照射する方法や角度がガラリと違うということが改めてよくわかった。そして、それを見抜いている柴田元幸さんのすごさを思う。


 大阪、奈良、そして京都という場所の土地は歴史の教科書に出てくるが、その歴史と言葉(関西弁など)は紐付けされている、つまり歴史が内包されている。
 教科書に出てくる地名などが間近にあるということ。関西出身である柴崎さんはそれが当たり前だった。東京に出てくることで離れたことで書けることが出てきたと言われていた。
 古川さんは郡山だから小学生の頃に歴史の教科書を読んでもまったく頭に入ってこなかった、地名も馴染みがないし、日本の歴史は西から始まってどんどん東に向かっていった。地元の郡山の言葉にその歴史性は薄いのだと。
東京はどうだろう。


 江戸幕府が始まってからずっと日本の中心であるということは四百年以上の歴史が言葉に孕まれている。そして、日本の中心は江戸城でありいまの皇居。
東京の空虚な中心は、そこを中心に、守るように発展していった。しかし、四百年以上経つそこは逆にどんどん自然に戻っている。森に。聖なる森、空虚な中心として。
 『あるいは修羅の十億年』は2026年という近未来だが、現実感がある。それは東京という街は現実というリアリティと、みんなが思いたいリアリティやフィクションで受け付けられているリアリティが同時に存在し、いくつもの層が照射され、その数だけ存在している場所だからだ。古川さんが描いた鷺ノ宮や大井という町の未来よりも、ウェブラルコンタクトレンズであろうが、近未来にありそうなハイテク装置よりも2026年の東京に住む人たちも腹が減り、今日は何ラーメンを食べようかなって思っているという事柄がとりあえず現実的である。


 世界で起きていることをそのまま書くと、そんな都合のいいことありませんよと言われるが、実際には起きているのにと柴咲さんは言った。だから、もっとも本当らしいことが嘘であり、もっとも嘘らしいことが本当になってしまう。
正史よりも偽史を書いて、認識されていることとは違う角度から歴史を書く方が鋭かったりもする。正史とは時の権力者の残したいものだけだから。残されなかった、消されてしまった歴史や事柄を想像し書くことで炙り出せるものや見つけようとした答えへのまずは問いができるのかもしれない。
 古川さんも柴崎さんも町の、歴史の、時間の、人間の居たという地層を小説で書いているということがほんとうによくわかったトークイベントだった。
 先週引き篭もった時に、書いては休んで、その休んでる時間で柴崎さんの『私がいなかった街で』を読んだ。舞台は三軒茶屋が出てくる。わたしが家から出ない時にわたしが読んでいた小説は三軒茶屋を舞台のひとつし、第二次世界大戦の終わる時に柴崎さんの祖父が広島にいたという話や、大阪の話が出てくる。


 僕は元旦に古川さんの『サマーバケーションEP』の舞台をひとりで歩いた。帰ってきてから古川さんに新年のご挨拶としてメールを送ってまたやってきましたと書いて途中で撮った猫の写真を送った。その時、古川さんは先月号の『群像』に掲載された猫小説を書いていた。
 晴海埠頭が終点で、月島を元旦に歩いていて晴海埠頭が近づくと僕しか歩いていないようになって、世界中の人が消えたんじゃないかって思えた。だから、僕はメールで僕しかいない世界は僕以外のすべてのものがある世界でした、と書いた。
 『私がいなかった街で』もそういう小説だった。古川さんの小説にいつも感じることは、古川さんは「時間」というものを書こうとしているということだ。自分が存在していない時間もいる時間もいなくなったあとの時間も。だから、今日のおふたりのトークイベントはいろいろと合点が行くことが多かった。




 イベント後に古川さんに『ハル、ハル、ハル』にサインしてもらう。『あるいは修羅の十億年』は東大でのエリクソンとの講義の時にサインをいただいていたので。
 実は僕が最初に古川作品を最後まで読んでハマるきっかけになったのは元カノさんに借りたこの単行本で、八年ほど前のこと。僕の人生がそれまでとまったく違う流れに向かいだしたのは2008年。元旦早々にチャーリーにLife界隈の新年会に呼んでもらい、古川さんのイベントに行き始めて、小説を書き出したから。




この物語はきみが読んできた全部の物語の続編だ。ノワールでもいい。家族小説でもいい。ただただ疾走しているロード・ノベルでも。いいか。もしも物語がこの現実ってやつを映し出すとしたら。かりにそうだとしたら。そこには種別なんてないんだよ。