Spiral Fiction Note’s diary

物書き&Webサイト編集スタッフ。

「ヴァリス」

 食材をKYな西友で買って帰る時に「そういえばブロス買ってねえや」と思い家の途中にあるファミマで購入し、歩いていると家の近所で傘を差した「大人計画」主催で役者だったり、作家だったりやってたブログがお金を出してた会社の経営不振で終わってそのまま終了してそのブログをロッキンから「俺はモテても困らない―松尾スズキの突然独身ブログ」を出した松尾スズキさんとすれ違う。


 そういえばもうすぐシアタートラムで鈴木蘭々主演で舞台があったような気がする。というかたぶんもうやってる。蘭々は確かに可愛いことは間違いない、一度か二度たまたま見かけたが可愛い、でも。今回の舞台はあんまりすごく観たい!というまでなぜかいかない。前観に行った「大人計画」の舞台が大竹しのぶさん主演「女教師は二度抱かれた」だったからなあ、あれは凄すぎる、後遺症が残る。


 発売してすぐに「俺はモテても困らない―松尾スズキの突然独身ブログ」を立ち読みした時にまあブログは読んでいたので内容的には新鮮さがなくてたまに載っている写真が完全にうちの近所とかの見た事ある風景で、今のとこに住み始めて一番見かけた芸能人が松尾スズキさんであるが故に勝手に親近感を覚えている。だが声をかけたことはない。


 ブログでもブロスでも松尾さんが書いているような、声をかけようとしている店員の雰囲気だとか、彼は気づいている。僕らの視線を。だがいつも声をかけないでくれオーラを発しているので非常に声をかけづらい。しかし、僕はそれなりにお金払って書籍とか買ってるっすと思うんだが、でも拒否という名のA.T.フィールド全開なために僕はチラ見するしかない。先週のブロスには「リリー・フランキー」と間違われたと書いている、そのボケをかますべきなのか?


 今週のブロスに至っては表紙が「ラブプラス」っていう気持ちいいぐらいに他のテレビ雑誌との差異があってさすがだなと思った。裕木奈江を取り上げて、「裕木奈江」という異物がいたからこそ「萌え」という抗体が日本人には出来ていたのだとか、速すぎたために裕木奈江は消えてしまったとか、「奈江」=「萎え」><「萌え」と似てる発音だけど意味は逆とか冒頭ページで特集するのは面白い。


 松尾さんはブロスでは「お婆ちゃん!それ偶然だろうけどリーゼントになってるよ!!」を連載している、通り過ぎて家に帰って気づいた。今買った本に連載してるじゃんって。





 家に帰ると「ほぼ日」手帳が届いた。これで四冊目の「ほぼ日」手帳になる。今これを書いている時点で十月に入った、今年はあとワンクールしかないし、あとワンクールで10年代(テン年代)に突入。


 「ほぼ日」手帳が梱包された箱には「セフティ・マッチ氏の焚火話」よりと書かれた言葉があった。



 いまからでも遅くはないよ。
 うつむく仔犬にも、そう教えた。
 いまからでも遅くはないぞ。
 老いた亀にも、そう耳打ちしてやった。
 そうだ。ほんとうにいつでも、
 いまからでも遅くはないものなんだ。

 
 
 使い始めた07年の手帳を見てみた、今よりもだいぶ体重が少ない事もだいぶ大きな変化だけどちょうど二年半前ぐらいから今の僕の状態というか色んな人と知り合いになっている、そういう人と初めて会った、会うキッカケの年だったことも見て思い出した。二年半でびっくりするぐらい多くの人に会ったんだなって思う、それまでの生活では考えられない数だから。

 
 それは僕をそういう場所に連れて行ってくれたりきっかけを作ってくれた人(charlieとか)がいて、僕もそれなりに出て行って動いて話した事が作用してなんらかの形になったり、繋がったりしている。この二年とかで僕が知ったのは動き出して色んな人と話すと世界は広がりながらもある意味では狭まっていって面白いものだと思えたし、人と人は色んな角度で繋がっているということを実感した。


 動き出さないと、アクションを起こさないとリアクションは返ってこない。行動はなんらかの結果や乱反射して思わぬ事に結びついていく。動いた事で悪い結果が起きたり巻き込まれる事はもちろんあるし、それは引き蘢っていた青年がいきなり家から飛び出して車に轢かれるということだってあるだろう。それは運だったり関係性だったり時の流れだったり、動き出すタイミングだったりで変わる。たぶんタイミングというものがかなり大きく人生に作用してくる。


 僕が人生において「性善説」「性悪説」とか関係なくて、友人の死によって人は運によって作用されタイミング次第で大きく変わってしまうというのを感じたのが高二だったから、それが考えの基礎になってしまっている。


 大事なのは運を引き寄せてタイミング(勝機)をきちんと見る事のできる感覚、そして勝機を見たら迷わずに飛び込むしかないということ。それが出来ればやりたいことを叶える可能性は高まるんだろう。運を引き寄せるためにはいろんな人と会うことが一番大きいと思ってる。
 繋がりが運を、きっかけを運んできてくれたりする、もちろん不運を絶望も運んでくるから見極めるしかない、だから多くの人に会う事で見る目を養うしかないような気がする。


TBSラジオ「文化系トークラジオ Life」2009年9月27日「"居場所"の現在」Part1配信
http://www.tbsradio.jp/life/2009/10/2009927part1.html


 仲俣さんにお借りした本もようやく二冊目のフィリップ・K・ディックヴァリス」っていう本。81年にアメリカで出版され日本では82年に刊行。サンリオSF文庫っていうとこから出てて今は廃刊になっているので、現在は「創元推理文庫」から刊行されている。
 映画「ブレードランナー」の原作「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」を書いていたり「トータル・リコール」「マイノリティ・リポート」などの原作を書いたSF作家として非常に評価の高いらしい、僕の生まれた年に死んでいた。僕の誕生した二十日前にこの世界からは消えた、だけど書籍は残って27才の僕が読んでいる。


 彼は神経症の治療やその他の理由からアンフェタミンを常用した時期があり、自殺未遂を繰り返し、薬物中毒施設に入院した経験もあると説明されている、思いっきり「ヴァリス」はその手の経験を得た上で書かれた作品っぽい、まだ冒頭数十ページだけど。読んでる感じとしてはスティーヴ・エリクソンとかに近い気もするからエリクソンは彼の影響も多少受けているかもしれない。
 僕の好きなアメリカの小説家はチャールズ・ブコウスキーレイモンド・カーヴァーとアル中の詩人で短編にエッジのある人たちなんだが、どうも好きな、読みたくなるアメリカ人作家がわりと日常的にはぶっ壊れているという所がダメな部分が多分にあるのが染みだしているから惹かれてしまうのかもなあ。

 
 高原基彰さんにオススメしてもらったスティーヴン・キングバトルランナー」を新潮社海外文庫で探してもないなって思ってたらスティーヴン・キングが別名儀で、「キングが小説家としてのキャリアをスタートさせた当時、米国出版業界では1人の作家は1年に1冊だけ出版する、という風潮があった。そのころ多作型の作家は、別ペンネームを使うことで年に複数冊の作品を出版していた」という理由からリチャード・バックマンで書いた本だった。まあ、近所にないからamazonで頼んじゃったけど。
 文化的教養っていうか本屋もスペース限られているし、売れない本を置かないのはわかるんだけど、この状況はやっぱり世界の図書館っていうか基礎的な本とかを帰るのがもはやamazonしかないって状況は便利だけどダメだろう、偶然の出会いが減っちゃうからなあ。


 しかし、「バトルランナー」も1982年出版か、同級生だよこの本も。キングも酒に溺れる日々や精神が安定しない時期があり、薬箱に入っている薬なら何でも飲んでしまうという、軽い薬物中毒の時期もあったって、お前もか! おいおいアメリカ人作家ってそれ通過儀礼なのか。


 しかし、前に「未知との遭遇」の回で佐々木敦さんが人に紹介されたものはとりあえず読んだり観たり聞いたりしてみることにしてるっていうのを習ってみようと思って、それなりにしてる。人からの紹介って自分の価値観とか趣向と違うから新しい発見がある。しかしだな、最近その傾向がSF系統と海外作家にやけに偏ってるのがどうもいろんな影響を僕に与えそうだなって感じる。

ヴァリス (サンリオSF文庫)

ヴァリス (サンリオSF文庫)