Spiral Fiction Note’s diary

物書き&Webサイト編集スタッフ。

「未だ見ぬ明日に」

 昨日の昼間にワイドショーを見ていたら、秋葉原の殺傷事件のニュースであるゲストのおっさんが自分が若い頃には「復讐するは我にあり」とか読んだりしましたが、もう今の時代はわからんですなみたいなことを言っていた。


 「復讐するは我にあり」は専門時代に授業でこれを観ろって言われて観た記憶がある。緒形拳さんが主演だったはず、殺人を犯しながら逃亡して最後には捕まる話だった。観た時はかなりインパクトがあった。その頃観た昔の映画でぶっ壊れててすごかったのは沢田研二主演「太陽を盗んだ男」とかだった。もういろいろおかしい所があってもぶっちぎってて映画人が作った映画という印象を受けた。その時の助監督で勝手に撮影したりとかいろいろで身代わりに捕まったのが黒沢清監督だったような気がする。


 事件の加害者のネットへの書き込みで「俺が必要じゃなくて人が足りないから来い」という会社へのいらだちはかなりの人が今感じてることなんじゃないか。誰でもいい、人がいるだけだから仕事に来いってことは自分の価値なんてないのと一緒だ。だからと言って秋葉原に行ってまで知らない人を殺すのはわからない、その会社の人間ならまだわかるけど。
 犯人は知ってる人間ではなくて知らない人間なら冷静に自分の鬱憤とした思いを発散できると思ったのかもしれない。


 この事件によって連鎖的に会社や社会に憤りを感じている人間がアンチヒーローに憧れて凶行を起こす事だけは起きないでほしい。


 もうヒーローにはなれないことなんて高校に入るぐらいにはたいていの人間は気付く、人生に挫折だってする。
 諦めの悪いやつだけは最後まで足掻く、足掻く事ぐらいしかできないからだ、ヒーローになれないってわかっていてもアンチヒーローは目指さない。そこに救いはないって知っているからだ。
 終わらすにしても他人を傷つけて、自分で自分を殺せないから、自殺する勇気はないけど、人を殺して最後にどうしようもない自意識の拡大と自己陶酔によって社会的に自分を抹殺する事を望む。


 誰だって絶望する、でもそこで堕ちても何かを探して光の破片を探して、絶望の底から見える希望だってあるはずだ。社会とか世界はそうそうに変わらない、糞だって言ってもいいのかもしれないけど、全てがくだらないとは思わない、変わりたいのなら世界を変えようとしなくてもいいはずだ。自分が変わらずに世界が変化するはずはない、自分の見方が変われば世界の見え方や色は変わる。


 こんな時だからこそ、人と人が出会う事の意味がもっと語られるべきだと思う。
 
 「未だ見ぬ明日に」悲しみだけなんていらない、誰かと誰かが出会って新しい物語が、動き始めるような喜びを。