批評家・宇野常寛氏の新刊『リトル・ピープルの時代』が発売された。2011年という年は東日本大震災と福島原発の問題という日本という国にとって未曾有の危機を向かえその結論も先行きもまだ見えていない。宇野氏は第一章と第二章の原型となった部分が仕上がった直後にあの大震災後が起き彼はこの震災の事を考えに考え抜いて彼の中で繋がり始め全てを書き直す事になった。
そして発売されたのがこの『リトル・ピープルの時代』だ。500ページを越えるこの新刊は大震災後から村上春樹と彼が用いた「壁」と「卵」の比喩からこの本の目的を書く序章から始り第一章は村上春樹を取り上げながら『ビッグ・ブラザーからリトル・ピープルへ』を、第二章はウルトラマンから仮面ライダーを扱いながら『ヒーローと公共性』を、第三章では貨幣と情報のネットワークが世界をひとつに繋げた世界『拡張現実の時代』を、第一章から第三章までを繋げた「大きなもの」への想像力を取り戻す『石巻のリトル・ピープル』と補論が三つ、その一『「ダークナイト」と「悪」の問題』、その二『AKB48-キャラクター消費の永久機関』、その三『<歴史>への態度ー「宇宙世紀」から「黒歴史」』と全三章と補論三章から成る。
本書を読んだ感じとしては宇野氏が大震災後に考えに考え抜いた震災後の社会と文化においての「鍵」を彼がきちんと呈示するために、多くの人に読んでもらうためという気持ちが前面に現れている。
一つは圧倒的に読みやすいと言う事だ。村上春樹の小説を読んだ事がない人も、『ウルトラマン』や『仮面ライダー』や『機動戦士ガンダム』や『新世紀エヴァンゲリオン』や『木更津キャッツアイ』をたとえ知らなくてもこの本は読める。それはそれらについての説明が丁寧になされ関係性やどう社会の影響を受けているのか、あるいは社会を映し出していたのかが本当に丁寧に書かれている点だ。
500ページのこの本は確かに分厚いし少々重い。聖書かと思うぐらいに厚い/熱いがだからこそ彼が伝えたい事が丁寧に読む側に伝えようとする意志の元で書かれている。
伝えようとする意志がページを次へ次へとめくらせていく。そうして本のページはどんどん減っていき気が付いたら終わってしまう。
第一章では村上春樹『1Q84』における「リトル・ピープル」から『ビッグ・ブラザーからリトル・ピープルへ』を展開する。
「ビッグ・ブラザー」とはジョージ・オーウェルの小説『一九八四年』に登場する独裁者、正確にはカリスマ的な独裁者の疑似人格的なイメージ(キャラクター)の事。
60年代末は「政治の季節」であり「終わりの始り」だった、世界的な学生反乱の時代でありフランス五月革命にベトナム反戦運動に日本の全共闘運動がありその敵はビッグ・ブラザーつまり国民国家を形成する大きな物語が発揮する権力だった。
「リトル・ピープル」とは『1Q84』に登場する小説『空気さなぎ』に登場するカルト教団「さきがけ」が崇める超自然的な存在。
私たちは誰もが、老いも若きも男も女も、ただそこに存在しているだけで決定者、すなわち小さな「父」として不可避に「機能してしまう」時代・現代において世界は小さな「父」=リトル・ピープルたちで溢れている。
貨幣と情報のネットワークが世界をひとつにつなげた結果、これまで触れ合うことすらなかった「父」同士が衝突するようになった。<911>に現れた新しい暴力、グローバル化の反作用の本質がある。
日本人の小説家として世界で唯一とも言える知名度と評価される作家である村上春樹はこの加速度を増すリトル・ピープルの時代に追いつくのも精一杯な現状である。それは「文学」と呼ばれる想像力の敗北でもあると宇野氏は告げる。
現在の世界と私たちとの関係を、「巨大なもの」のイメージを捉えるために村上春樹と比肩し得るのは国内の市場評価と国外における文化的評価されているポップカルチャー群である。ビッグ・ブラザーとは『ウルトラマン』であり、リトル・ピープルは『仮面ライダー』であるのだと。
春樹作品における「井戸」をひたすら潜り続け、つながることのない壁を越えてつながるコミットメントのための思考として。
批評にも想像力が必要だ。と彼は告げる、つながることのなかったものをつなげていくために深く深く潜る。
そして自然と壊死していったビッグ・ブラザーと今や世界中に溢れているリトル・ピープルから第二章『ヒーローと公共性』へと批評は繋がっていく。
ウルトラマンと仮面ライダーは国内市場による存在感と海外における文化的評価を保持している点で春樹以外の作家を挙げるよりも妥当である。前者は60年代の「政治の季節」に後者は70年代の「政治の季節」の終わりに社会現象化することで国内のポップカルチャー全般に決定的な影響を与えた。
『ビッグ・ブラザー』は誰かに倒される事もなく自然と壊死していった。「政治の季節」が終わりリトル・ピープル的なヒーローである仮面ライダーが出現し世界から政治性を物語性を排除した。
ウルトラマンは「光の国」という外宇宙のユートピアから来訪した超越者だったが仮面ライダーはショッカーの一改造人間が脱走し反旗を翻した存在だった。ウルトラマンには「光の国」という<外部>から揺るぎない正義を人類社会に持ち込む事ができたが仮面ライダーには<外部>が存在しないことを意味していた。
<ここではないどこか>から<いま、ここ>へ。
『ウルトラマン』と『仮面ライダー』の作品群や長年の流れを現実社会の変化と関わりから紹介していく。
70年代後半から80年代かけて大きく発展したロボットアニメ群『機動戦士ガンダム』や『マジンガーZ』や『新世紀エヴァンゲリオン』に代表される男子児童の成長の受け皿としての、拡張された身体=依り代としてのキャラクターとして位置づけ、進化させていった。
これらは父親(祖父)からロボットを与えられ社会自己実現の機会を得る表現構造を踏襲している。戦後日本(=12歳の少年)が迎えた消費社会下の男子児童に強く支持されていく。
ロボットアニメという表現が70年代後半から80年代にかけ台頭した。ロボットという装置は男性性の虚構化(拡張)による擬似的な獲得であると同時に壊死を始めたビッグ・ブラザー(の語る大きな物語=歴史)を代替するものとして機能した。
『スーパー戦隊』シリーズ『メタルヒーロー』シリーズがそれらのアニメブームと共に70年代から80年代前半に(特撮)ヒーロー番組の中核を担うことになる。
第二章はこれらの年代的な影響などを順だって記述しながら日本におけるヒーローの歴史をわかりやすく記している。そして1995年がやってくる。
阪神大震災とオウムの地下鉄サリン事件という悪夢が日本を揺るがしその後の監視社会の始りでもあったと思う、一方ではウインドウズ95の発売によりインターネットが普及し始めた年でもあり、村上春樹を「転向」させた年だった。
その後の春樹作品にはオウム地下鉄サリン事件と阪神大震災が象徴的に扱われる事になる。そして怪獣映画/ウルトラマンは息を吹き返す。ビッグ・ブラザーの復活ではなくその死を確認する想像力を発揮させる。平成『ガメラ』シリーズ、平成『ウルトラマン』、『エヴァンゲリオン』はその不可能性を体現しながらその後のリトル・ピープルの時代の想像力の萌芽を残していくことになる。
ビッグ・ブラザー≒ウルトラマンの死を明言する事で『エヴァンゲリオン』は社会現象となり、第三次アニメブームを牽引し、文学、ポピュラーミュージックなど他ジャンルにも広く影響を与えていくことになる。そしてこの時期にインターネットの普及に伴い拡大していった現代のオタク系文化の消費者コミュニティの下地が整えられていった。
ビッグ・ブラザーが完全に死滅した新しい世界=リトル・ピープルの時代が始まっていく。その変化がほぼ完了したときに『仮面ライダー』=リトル・ピープルが意外なかたちで再び復活を遂げた。
サンフランシスコ体制のもたらした戦後的「ねじれ」を正面から引き受け/引き受けざるを得なかったウルトラマンに対し、浅草東映的な娯楽時代劇をルーツにもち、石森章太郎の原作に存在するアングラ・カルチャー的な政治性すらも剥奪した仮面ライダーというヒーロー、いや表現の回路がリトル・ピープルの時代に息を吹き返す、いや本来のポテンシャルを発揮しだしていくのが平成『仮面ライダー』シリーズである。
春樹も昭和のヒーローもいかにして「父(正義の執行者)になる/ならない」を問うことで表現を成立させていたが生まれかわった『仮面ライダー』たちが直面したのは自動的かつ不可避に世界に溢れかえっている「父」たちの世界だった。そこで問われるのは「父」たちの関係性、いかにして「父」同士がかかわるか、だった。
そしてここからが『リトル・ピープルの時代』の想像力を宇野氏がさらに突き詰め、批評していく本書のメイン部分になっていく。
ここまではここに至るまでの大事な過程だろう。なぜ『リトル・ピープルの時代』になったのか、どういう歴史の元にヒーローが作られて自己批評をしていったのか。そこを読みやすく何度も大事な事は反復しながら書く事でここでの語りや批評性が増していく。
そこは僕が思うには園子温監督作品のように冒頭や物語序盤は主人公たちのモノローグがこれでもかと語られるのに似ている。その理由について園子温監督は冒頭で主人公たちの内面を出していく事で彼らのその後の行動に観客に違和感が起きなくなると語っていた。
平成『仮面ライダー』が直面した世界に溢れかえる「父」たちの関係性と「父」同士がかかわるかを描き批評するためにそれまで歴史や繋がり流れをきちんと呈示することで『リトル・ピープルの時代』がより明確に読者に伝わるように展開されている。
平成『仮面ライダー』シリーズの第一作『仮面ライダークウガ』から第十一作『仮面ライダーW』までを順を追っていく。
その間にはアメリカ同時多発テロが通称「911」が起きている。「911」以後の世界に「正義」は存在しない世界で仮面ライダー同士がバトルロワイヤルを行い最後の一人までになるまで戦いが終わらない第三作『仮面ライダー龍騎』などが現れる。
「リトル・ピープル」が世界中に溢れかえり「貨幣と情報のネットワークが世界をひとつにつなげた結果、これまで触れ合うことすらなかった「父」同士が衝突するようになった。<911>に現れた新しい暴力、グローバル化の反作用の本質がある。」というものだ。
そこでは彼らは正義ではなく自らの欲望のために戦う。そこにはかつての大文字の「正義」はない。あるのは欲望だけだ。あるいはいかにケリをつけるのか。
平成『仮面ライダー』シリーズの世界を旅しその9作品のライダーに変身する能力を持つ第十作『仮面ライダーディケイド』において過去ライダーに変身するだけではなく召喚する事が可能になる。データベースとしての機能が彼の進化である。それは「壁」であり「システム」自体であるヒーローを生みだした。
そして第三章では世界はもはや革命では変化しない。この世界を受け入れ、徹底して内在し、ハッキングすることでしか更新されない『拡張現実の時代』について。現代における「コミュニケーション」それ自体が「キャラクター」化と通じ現実の多重化=<拡張現実>を孕む。そのために「コミュニケーション」と「キャラクター」について語られ終章『石巻のリトル・ピープル』へと。
この本は宇野常寛という批評家のファンや気になる人が大多数読むだろう。村上春樹を読んだ事のなかった若い読者が彼の小説を読み始めたり、年齢層の高い読者が平成『仮面ライダー』シリーズを見始めるかもしれない。そういうある種の新しい出会いも引き起こすかもしれない。
そうじゃない人には向かないかと言われるとそうじゃない人に読まれたい、読んでもらいたいという意向も読んでいて感じる。それが宇野氏の<拡張現実>であり、彼が批評の言葉や時代に合った言葉をきちんと伝えていこうとする明確すぎる意志と真摯な態度だ。
そしてこの本の印税は被災地に寄付される。
僕はこの本を読みながら拡張現実と内部に潜る事を考えた。読んでて自分がこれから書きたい物語をどう構築すべきかと考えるといろんなヒントがあった、問題は孕んで生み出す僕の力っていう事もあるんだけど。
この本を読んだ事によりある種のクリエイターは次の想像力を思考し画策し行動して新しい表現を作り送り出していくのではないかという何かが感じられる。その何かはやはりまだ言葉にできないが、感覚としてはある。
その想像力を<いま、ここ>にどこまでも<潜る>事でこの現実を多重に<拡張>していく事で次の一手が切り開ければと思う。
以前に作家の古川日出男さんがトークの中で言われていた事を思い出す。
空中に混ざっている物語を、物語はすでに存在していて、それを捕まえる。それは物語に呼ばれるようなもので、古川さんは呼ばれる声を聞く耳がないといけないと。しかしみんながそれを持っていないし、持っていても声が小さいから捕まえられない人が多いって。「日出男、お前なら書ける」って言われるということを言われていた、それに一緒にトークに参加していたダンサーの黒田さんも同意していた。
物語は自分の中からも出てくるが、実際はその空中に混ざりあって存在している物語に自分が上って捕まえに行く、呼ばれたからには全身全霊で自分の中のすべてを出し切らないと上っていけず、物語を形にはできない。
この物語を捕まえて孕んで生み出すというのは<潜る>という行為に近いのではないだろうか。
新刊『馬たちよ、それでも光は無垢で』において福島出身の古川さんは震災後に故郷を訪れる。そこは<いま、ここ>であり<ここでないどこか>ではない。そこで彼はかつて自身が書いた東北六県を巡る『聖家族』のキャラクターが現れる。
現地に赴いて自身の中に潜る事で古川さんと彼が書いた作品の登場人物とその土地の歴史が混ざりあって<拡張現実>の世界を描いているという風にもとれる。
村上春樹が出身だった兵庫が大きく被害にあった阪神大震災以後に<転向>したように福島出身の古川さんも<転向>とまでは言わないが以前とは違うモードになっている。
レビューとして
宮藤官九郎脚本、窪塚洋介主演『ピンポン』をシネマライズで公開初日に観た時に僕は「僕たちの時代の映画だ」と思った。そこで展開されるのは僕たちの感受性に近いキャラクターや身体性などでワクワクと興奮した。
僕は同じように『リトル・ピープルの時代』を読み進めていく中で同じようなものを感じた。そこにある言葉や批評は今の時代に適しているものだと。
この本自体が著者である宇野氏の基本的な批評家としての姿勢を前面に出していて、さらにその先を見据えるために言葉を紡いで今の現状を、現在から未来に対してどう捉えて動くべきかを彼の好きな「仮面ライダー」等を引き合いに出しながら丁寧に語っている。
明らかにギアは変わっている。311以降変わらざるえない状況の中で批評家が批評家としてどう自分の言葉を批評を届けるべきなのかが考えられている。それは第一に読みやすさである。「仮面ライダー」等の固有名詞がわからない人にもわかるように大事な事は反復しながら進められている。
村上春樹のエルサレム演説についてきちんと言葉にしている批評家たちがどのくらいいるのだろう。例えばビッグブラザーの亡霊にしがみついているような文芸批評家の言葉が現在をきちんと捉えて未来を想像できるのだろうか? そんな売春婦の金切り声をよそ目に僕らは次へ移行する。
<拡張現実><ハッキング>する事で世界は変えられるのなら世界を変えてしまえばいい、全ては想像力から始まる。僕たちの親やその上の世代が世界を現実を革命できなかったとしても僕たちは新しい想像力と共に世界を変えれるという希望がそこにはある。
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