12月の日記(2022年11月24日から12月31日分)
1月1日
年越しの瞬間はradikoで『三四郎のオールナイトニッポン 年越し初笑いスペシャル 2022→2023』を聴いていた。実際にradikoは一分ほど遅れているので三四郎が漫才をしている時に新年を迎える形になった。
大晦日に小川哲著『地図と拳』を読み切ろうと思っていたが、どうも今日読む日ではないなと思ってしまって、マーク・フィッシャーの最後の著書『奇妙なものとぞっとするもの──小説・映画・音楽、文化論集』を読み始めた。最後まで読んでわからないことが多いが、その中でとりあげていたフィリップ・K・ディック著『時は乱れて』がおもしろそうだった。
その後、新年まで数時間あったのでチャールズ・ブコウスキー著『郵便局』を読み始めて、それが2022年最後の読書となった。自伝的な要素が強いこの作品の最後の最後でブコウスキーの分身であるヘンリー・チナスキーが小説を書こうと思うところで終わった。なんというかちょうど今の自分に合う作品だったし、この小説が年内最後の読書でよかった。
この『郵便局』は光文社古典新訳文庫のシリーズで出ている。フォークナー著『八月の光』やドストエフスキー著『カラマーゾフの兄弟』などは積読のままになっている。2023年は古典を読んでいこうと考えていたので、この流れで『八月の光』を新年に入ったら早めに読もう。
毎年元旦は井の頭公園から始まる神田川沿いを歩き、柳橋で隅田川へ合流後は隅田川テラスを歩いて月島へ、最後は晴海客船ターミナルからお台場方面の東京湾を見るという古川日出男さんの小説である『サマーバケーションEP』の舞台を辿っていた。それをやるのは東京五輪が終わった最初の元旦までと決めていた。
選手村だった高層マンション群近くの晴海客船ターミナルも去年二月に閉鎖されたのでタイミング的にもちょうどよかった。
今年はのんびり元旦を過ごそうかと思ったけど、誰もいない(ように静まり返っている)場所を歩きたくなったので目黒川沿いを歩いて天王洲アイルに向かった。そこは帰るのがややこしい(交通の便が悪い)場所なので東京タワーを横目に豊川稲荷東京別院まで北上してお参りしてから半蔵門線に乗って帰宅した。
今年は生き延びること≒書き続けることを第一に優先しよう。去年は驚くほどなんにもできなかったからというのが大きいのだけど。芽が出るとしても運が良くて来年や再来年以降になるだろうけど、戌年だから雌伏期間ということでわかりやすく吠えたりもせずに、ただただ力をつけて蓄えて爆発させるための下地を作ろうと思った。
ブログは半月に一回は更新するけど、SNSはほとんどやらないことにした。
SNSはそれぞれのプラットフォームに適した言葉を当人は無意識なままに呟いたり書いたり、画像や映像データをアップさせて情報を収集していく。以前はさほど悪いことには思えなかったけど、今はやはり人間よりもそちらの側の方が立場が上になっていっているようにも感じるし、良い所と悪い所どちらもあるが悪い所がどんどん人間の大事な部分を奪っているようにも感じる。もはやSNSは居心地の良い場所ではなくなっていると思うのもあって、それならSNSからは少し離れて自分の作品を書いていきたいし、そのことに文字を費やしたいと考えることが増えたというのが大きい。
家に着いてからすぐにお風呂に入った。体がほぐれたのかリラックスできて夕方までうとうとしていた。三十分ぐらい寝て起きてまた寝るみたいなことを繰り返していた。
十九時過ぎにニコラの曽根夫妻から連絡があったので、茶沢通りにあるトリビアという鳥料理メインの居酒屋に行って新年のご挨拶をして軽く飲みながら食べた。
毎年元旦に行っているお店があるが、そこのマスターが体調を崩されてしまったので元旦の営業はお休みになってしまって、いつもと違うお店になった。そういう意味でも毎年のルーティン的なものが全部違う正月になった。
お店の鳥雑煮を最後に頼んで食べたら、柚が効いていてとても美味しくて正月って感じがした。お店が遅くまでやっていなかったのでわりと早めに解散したけど、二人と一緒に新年早々ご一緒させてもらってよかった。こういう繋がりがあるだけでも僕が東京にいる理由になる。
1月2日
初夢らしきものを見た。古い日本家屋のような家の廊下を歩いていたが、廊下の木は腐りかけているのか軋む音が大きく聞こえる。実際に歩いていたら沈んでいくような感覚だった。廊下の途中に不気味な人形のようなものが置かれていたが、その人形が上下左右に動きだした。おそらくそれを見ている登場人物である僕は恐ろしくなってその場から動けなくなって、ただその不気味な光景を見ているしかなかった。揺れ出していた人形の目玉の片方が落ちた。それが服の一部について白目の下半分の中で黒目が左右に揺れていた。声を出しそうになったらその夢が途切れた。
起きてからあの目玉に見覚えがあるなと思っていたが、おそらく寝る前に見ていた『あらびき団 あら-1GP2022』に出ていた「さるひげさん」の目だろう。
たぶん、3月公開のA24制作『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』でも主演のミシェル・ヨーの額についているあの目玉も同じものだと思う。でも、「さるひげさん」を見ていたから、それが無意識の中でよくわからない物語の一部へ反映されたのだと思う、たぶん。
目覚ましが鳴る寸前にその夢から覚めて起きた。もともと今日は神田明神に行こうと思っていたので着替えて最寄駅から表参道駅まで乗って、そこで銀座線に乗り換えて末広町駅まで乗車。そこから五分ほど歩くと神田明神に着いた。
新年の参拝の人がたくさんいた。まずは本堂でお賽銭を入れてお参りをしようと列に並んだ。後ろの家族が話していたけど、確かにこの数年って東京の正月は雨が降っていない。たしかに毎年元旦は神田川沿いを歩いていたけど、一度も雨に降られたことはなかった。
二十分ぐらい待っていたら自分の順が来た。その後は大黒様と恵比寿様にもお参りをした。早めに家を出ていたので帰りは電車に乗らずに、歩いて帰ることにした。二時間半ちょっとの距離だったのでちょうどいい散歩になる。
神田明神から南下して御茶ノ水の明治大学前の通りを下って神保町方面へ。そこから靖国通りをそのまままっすぐ西側に向かって歩いた。左手には武道館、右手には靖国神社を見ながら市ヶ谷方面へ。市ヶ谷駅から四谷駅を通って元赤坂の赤坂御所を沿うような形で明治神宮方面へ歩いて行った。
そう考えると前日に豊川稲荷東京別院に来ているので、自宅から見て東側にある東京の中心地を二日で歩いている形になっていた。明治神宮方面から国道246号へ出てから青山方面に、そこから渋谷に出てから東急百貨店渋谷本店へ。丸善ジュンク堂書店渋谷店で今年最初の小説を購入した。
マーク・フィッシャーの書籍でも紹介されていたフィリップ・K・ディック著『時は乱れて』を。
1月3日
『時は乱れて』を読み終わったら深夜の一時半ぐらいになっていた。正直そこまでは面白くはなかったが、設定は主人公たちの日常が実は外部によって作られていたものだとわかるというような、映画『トゥルーマン・ショー』のような設定だった。
主人公のレイグル・ガムが住んでいる町の外側へ出ようとするきっかけや、彼がずっと勝ち続けている新聞の懸賞クイズ「火星人はどこへ?」の全国チャンピオンの本当の意味などは読み手の興味を持続させるもので楽しめた。
もちろんディックが書いたこの作品や他のSF小説の影響を受けた作家たちの更なる影響を受けた人たちの作品を読んだり見たりしているので、わりとオーソドックスな作りだなとは思ってしまうが、原型がここにあるという感じがする。だからこそ、読んでおいてよかった。
そのあとフィリップ・K・ディックのウィキペディアのページを見ていたら、アメリカのオルタナティブロックバンドであるSonic Youthのアルバム『Sister』がディック作品からの着想で、タイトル名『Sister』はディックの生まれてすぐに亡くなった一卵性双生児の双子の妹を意味していると書かれていた。
Sonic Youthの名前ぐらいはさすがに知っているし、アルバムジャケットのデザインをプリントしたTシャツは今まで何度となく見てきていたが、ちゃんと聴いたことはなかった。ギター・ボーカルであるサーストン・ムーアのソロアルバム『Demolished Thoughts』は出た当時になんとなく気になって聴いてすごく好きなアルバムだったが、このアルバムをBECKがプロデューサーしたから買ったような記憶がある。
このタイミングはなにかありそうだなって思ったので起きてからTSUTAYA渋谷店に行って、『Sister』も含めて他のアルバムも十数枚レンタルしてきた。
二月末に仕上げたい作品のある章で登場人物が「コロナ」という単語が使われているアルバムについて他の登場人物と話をする場面があり、そのアルバムを手掛けたのがSonic Youthに一時在籍していたジム・オルークだった。
「シスター」という単語が脳内にあるせいか、登場人物表(僕は書き始める時に作っていて、そこにはイメージキャストとして役者などの画像を入れて生年月日や身長や血液型、作品における他の人物の関係性などを書いている)を改めて見たら姉妹が何組かおり、「妹」というワードを入れるとサブラインでもおもしろい展開ができるんじゃないかなと思ったので新しく書き込んだ。
作中にSonic Youthのアルバム『Sister』を出すことでそれができそうな気がする。だから、この作品のBGMはこれから仕上げまではSonic Youthでいくのがいい気がする。
昼間に歩いている時はradikoでTBSラジオ『伊集院光の深夜の馬鹿力』を聴いていた。歩き始めて最初の頃は『広瀬アリスのオールナイトニッポン』を聴いていたが、彼女がインドアなオタク気質な趣味というのは前から知っていたが、それでもテンションが高いのと声が明るくて爽やかな印象で、ちょっと歩きながら聴くのは合わないと思って『伊集院光の深夜の馬鹿力』に変えたら、正月早々どうかしている内容の放送で残念ながらそちらの方が僕には心地よかった。
夕方からの新年初の夜バイトのリモート作業中に『空気階段の踊り場』を聴いた。ゲストが後輩芸人のレインボーであり、そのまま『レインボーのオールナイトニッポン0』へと繋いで聴いたが見事なコンビネーションのようになっていて、レインボーのミニコントもラジオ内でやっていた。
『空気階段の踊り場』で何度かレインボーが出ているのを聴いていてどういうキャラとか、どういう話をするかは知っていたけど、コンビでラジオをやっても充分楽しませてくれるものだったので、このままレギュラー入りしてくれたら僕はリスナーとして毎週聴くだろうなと思った。それぞれのキャラも魅力的だし、いい意味でダメな部分もトークで上手く話せるのでラジオに向いていると思うのだけど。
そのあとは毎年正月にやっている特別な組み合わせの『欽ちゃんとオードリー若林のあけましてキンワカ60分!』を聴いた。この組み合わせでは三回目だが、若林さんだからこそ萩本欽一さんが話せることがあるんだろう。その二人だけの空間や雰囲気がとても羨ましく感じられるラジオであり、今回も「芸人」というものだったり、欽ちゃんが今まで言わなかったことをさらりと話していて、それを若林さんが心から楽しんで、聞かせてもらってよかったというのが伝わる返しややりとりをしている。こういうやりとりを聴かせてもらえるのはほんとうに素晴らしいことだと思う。そして、聴いていてめちゃくちゃおもしろかったので友人にオススメした。
STUTS - Expressions feat.Daichi Yamamoto,Campanella,ゆるふわギャング,北里彰久,SANTAWORLDVIEW,仙人掌,鎮座DOPENESS
1月4日
寝る前にTVerで『ゴッドタン』第20回芸人マジ歌選手権を見ていた。バカリズムが歌う際にその後ろの大きな画面で役者の夏帆さんがサプライズ的に出演していた。バラエティなどで先輩俳優などに褒められたりする際に画面のワイプに映った時に謙遜しがちみたいなネタの歌に合わせたものだった。
終わってから夏帆さんからバカリズムへのことを聞かれたVTRが流れてワイプに映るバカリズムが歌ったことを繰り返すみたいな展開だった。その際に夏帆さんは前に一緒にドラマに出たことの話をしていたが、バカリズムのことを升野さんと呼んでいた。そうか、普段とかはバカリズムさんとは言わないものなのか。『ゴッドタン』のプロデューサーの佐久間さんとかも升野さんって言っているのを聞いたことがある。「バカリズム」をバカリズムさんと升野さんという使い分けはどのくらいの彼との距離感で分かれるのだろうか、と思いつつ寝落ちした。
起きてから昨日レンタルしたCDを返却するために渋谷へと散歩がてら歩く。十時前にはスクランブル交差点前のツタヤ渋谷店に着いたので返却ボックスに投函して、またきた道を戻った。
正月というのもあるけど、渋谷駅付近のお店はまだ開いていない店舗が多くて出勤らしい人たちがたくさんいた。まだ買い物や遊びにくる時間ではなかった。
帰る前に九時からオープンしている蔦屋代官山書店に寄った。アメリカ文学の棚を見ているとジョン・アーヴィングの『神秘大通り』上下巻が目に入ったので裏面や帯を見てみた。この本が出たのは数年前だったはずだが、その頃は興味がわかなかった。その隣には『ひとりの体で』という単行本も上下巻で置かれていた。
書籍の著者紹介のところを読むと『ガープの世界』『ホテル・ニューハンプシャー』『サイダーハウス・ルール』などを書いたのがこのジョン・アーヴィングだとわかる、というか思い出した。著者名や作品名をそれぞれ知っていても読んでいなかったりするせいで、うまく結ばれていないけど、なんとなく知っているというあのあやふやさ。
『ガープの世界』は『爆笑問題カーボーイ』の中で爆笑問題の太田さんがその話の筋を講談のような感じで最初から最後まで話をしていたのを前に聞いた気がする。それもあって作品を読んでいないけど、読んだ気持ちにちょっとなっていた。
ポストモダン小説の大家であるピンチョンの作品は新潮社のシリーズで揃えているが、まあ進まない。難しすぎるというか詰め込まれているものが膨大すぎるから全部読み終わるのがいつになるかはわからない。だから、今年は古典文学の海外小説をできるだけ読もうとは思っているけど、ジョン・アーヴィングをひとつの軸にするのはいいのかもしれない。そこから帰る時に調べていたらデビュー作『熊を放つ』は村上春樹さんの訳で中央公論社の「村上春樹ライブラリー」から刊行されているようなのでそこから入るのがいいかなと思ったが、そのあとに周った書店にはどこにもなかったので仕方なくAmazonで注文をした。
家まで帰ってきてから昼ごはんを買いに行く途中に去年閉店した「天政」さんの前を通ったら、シャッターにお客さんたちからの寄せ書きのようなメッセージが追加されて貼られていた。これを見るとあたたかい気持ちにもなるけど、お店のおじちゃんやおばちゃんも年齢的にも体力的にもしんどくなってお店を辞めたのだろうからそのさびしさのようなものもあって、そういうあたたかさと老いについて考えるとその寂しさみたいなものが入り混じるような気持ちになる。
あとメッセージってもちろんお店の人に向けたものではあるけど、こういうことをやっている私たちというアピール感も若干感じられてしまい、子供が書いているものなどは親が書かせたっぽいし、など汚れた心でそんなことも考えてしまう。
僕が親だったら逆に恥ずかしくてやらせないし、ほんとうに感謝していたり、子供が可愛がってもらっていたら直接メッセージを書いたものを渡しにいく(それはそれで迷惑だが)と思わなくもないのだが、この辺りは人によって意見は分かれるんだろうか、どうだろう。
Tシャツをめくるシティボーイ 第8回 時代劇としての1990年代/ 文:高畑鍬名(QTV)
パン生地くんこと友人の高幡鍬名くんの連載の最新回が今朝アップされていた。
今回は現在映画公開中の『SLAM DUNK』の漫画からTシャツのタックイン、タックアウトについて論じるというもの、同時期に連載されていた『幽☆遊☆白書』も取り上げていた。
年末にお茶をした際に直接この話を聞かせてもらっていたところであり、『SLAM DUNK』のジャンプコミックスのものとその後に出た完全版や現在書店でも置かれている新装再編集版におけるタックインアウトの違いなどを詳しく書いていた。これは読みながら本当に偉いなと毎回思ってしまう。そこに目をつけて読んでいたのはたぶんパン生地君だけだ!と思うんだけど、だからこそ特別な視線がおもしろい。
夕方から日付が変わるまで仕事。その最中に友人と一件打ち合わせをした。明日から朝の仕事も始まるので徐々にいつもの日常に戻りつつある。
1月5日
今日から朝の仕事も開始。とりあえず今月のスケジュールを確認したり、下旬にある仕事の準備や予定を打ち合わせしたりする。
昼休みに外に出て、その帰りにトワイライライトに寄ってコーヒーで一服。日差しが差し込んでいてやわらかな光が窓際を照らしていた。
新年初だったからなにか書籍を買おうと思い、店内を見ていた時に戌井昭人著『沓が行く。』の帯に書いてあった「超短篇オン・ザ・ロード」に惹かれて手に取った。
もともとは連載していたものをまとめたと「はじめに」の部分で書かれていたが、毎回戌井さんが撮影した写真が掲載されているため、写真を載せるために紙の質が小説のものとは違っていて手に持った瞬間に「重い」と感じる重量だった。一枚一枚の紙が普段読んでいる小説の紙よりも明らかに重いからだろうが、このズシリ感がなにか呼んでいるように思えて購入して、淹れてもらったコーヒーを飲みながら冒頭だけ読んだ。
店主の熊谷夫妻と少し話をしてから家に帰った。今日から仕事始めのところも多いみたいで正月の雰囲気はかなり町から消えていたと思う。風は冷たくて大きく息をすると肺に冷たい空気が流れ込んできて冬だなって。だけど、新年ということもあって嫌な気持ちにはならなかった。
「岸辺露伴 ルーヴルへ行く」映画化!高橋一生・飯豊まりえやスタッフ続投
音楽はドラマシリーズ同様に菊地成孔さんとこの間のシーズン2というか二話やったときに菊地さんと共にクレジットされていた新音楽制作工房だった。
たしか十二月の「ビュロー菊地チャンネル」内の「大恐慌のラジオデイズ」の中で、ドラマ『岸辺露伴は動かない』の音楽の〆切りの話をしていたが、その際に音楽を確認するはずのプロデューサーたちがパリにいるみたいな話をしていた。その時にはこの映画『岸辺露伴ルーヴルへ行く』の撮影が始まっていたが、情報解禁前だったから詳細は話していなかったのだなと勝手に合点がいった。
夜仕事をしていたら昨日Amazonで頼んでいたジョン・アーヴィング著/村上春樹著『熊を放つ』上下巻が届いた。
村上春樹翻訳ライブラリーの新書サイズだが、レイモンド・カーヴァーの作品もこのシリーズなのもあって僕にとって村上春樹さんは翻訳者というのが強いし、そちらのほうに僕は影響を受けているとは思う。新書サイズの上下巻って珍しい気がする。
1月6日
夕方に今日から今年の営業開始になったニコラへ。曽根さんに聞いたら市場の関係で飲食系は六日から始めるところが多いとのことだった、たぶん。もしかしたら市場の開始は五日だったかもしれないが。
最初はカウンターにひとりだけで誰もこないかなと思って持ってきていた『熊を放つ』を取り出して読みつつ今年一杯目のアルヴァーブレンドを。
いよかんと金柑、マスカルポーネのタルトが出てくる頃にカウンター友達というか知り合いの藤江琢磨くんもやってきた。彼は今年主演した映画が公開されるだろうから飛躍の一年になると思うし、それをきっかけにめちゃくちゃ売れてほしい。そういうポテンシャルは彼にはあると思うし、二十代、三十代と飛躍できずにおっさんになってしまった人間としては本当に祈りに近い気持ちで彼には役者として表現者として大活躍してほしいと思っている。
野間文芸新人賞を受賞した町屋良平著『ほんのこども』の装幀イラストを描いている小山義人さんもその後やってきてカウンターに。僕が二人の真ん中にいたのでそれぞれと話をしていたけど、ある時点で藤江君と小山さん二人に話を振って交流というか、二人も含めて三人と少し話をしたりした。こういう馴染みのお店で偶然同じ時間を共有している雰囲気とかタイミングだとか、そういうものをもっと大切にしたいし楽しみたいと思っていたから新年早々藤江君と小山さんとご一緒できてよかった。
今日から公開になった城定秀夫監督『恋のいばら』をシネクイントにて鑑賞。去年は城定監督作品を三作品観て楽しませてもらったので予告編を見てちょっと楽しみにしていた作品。
「アルプススタンドのはしの方」の城定秀夫監督が、1人の男性とその元恋人と現在の恋人のいびつな三角関係を通し、誰もが抱く嫉妬や恋心を繊細かつエキセントリックに描いた恋愛ドラマ。
図書館に勤める富田桃は、自分を振った元恋人・湯川健太朗のSNSを見て、彼に真島莉子という新しい恋人がいることを知る。自分とは正反対の洗練された莉子に興味を抱いた桃は本人を特定し、ある理由から彼女に直接会いに行く。桃は莉子に、健太朗が撮った自分との秘密の写真データを取り返したいと話し、桃と莉子は秘密の共犯関係に陥っていく。
松本穂香が桃、玉城ティナが莉子を演じ、「ブラックナイトパレード」「鋼の錬金術師 完結編」の渡邊圭祐が健太朗役を務めた。「愛がなんだ」などの脚本家・澤井香織が城定監督と共同で脚本を担当。(映画.comより)
一人の男(健太郎)を巡って今カノの莉子と前カノの桃の三角関係を描くのではなく、二人の女性の共犯関係を描いていき、二人の関係はやがてはシスターフッド的なものになっていく。最後の方で桃が莉子の存在を知った理由や彼女の本心がわかるので百合っぽさもなくもないが、健太郎をめぐる話のように見えて実はそうではないということが徐々にわかってくる。
僕が見ていておもしろく感じたのは健太郎の祖母(白川和子)の描写であり、メインの三人以外では一番多く出演していた。彼女が捨てられていたゴミから拾い集めたもので作り上げたもの、そして孫の健太郎がいないところでの桃と莉子との交流がとてもいいシーンだった。そこはとても魅力的だったが、脚本が『愛がなんだ』など今泉力哉監督作品にも関わっている方だったのでもうちょっとポップさもあるのかなと思ったけど、微妙に感情が乗せにくかった気がして約百分の作品だがもとはもう少し長かったのをテンポ良くするために短くしてるんじゃないかなって思ったりした。
城定秀夫作品を見始めたのが最近だけど、バスに乗っているシーンがよく出てくるような。あと作中でシネクイントが出てくるのだが、メイン三人がエレベーター乗って降りる描写の時に明らかにシネクイントのエレベーターではなく、ガラスで外が見えるものとなっていて違う場所のものだったりとか、撮影に適していないから場所を違うところにしたんだろうけど、知っているだけにすごい違和感があった。
「小説は本を閉じたところで終わらず、物語の前の時間も後の時間もある。一方で詩は、切り取られた何かであり、独立している。前や後ろがないから、永遠と接触して、不滅のものと手を結んでいる」
古川日出男が初詩集「天音」 詩は永遠と接触する
古川さんのインタビューが日経に掲載されていた。長篇詩『天音』もっと広がって届くといいな。
まさにニコラス・ウィンディング・レフン監督の世界 “ネオンで溢れるノワール・ドラマ”『コペンハーゲン・カウボーイ』
ネトフリでニコラス・ウィンディング・レフン監督の新作の配信が始まっていた。Amazonプライムで以前は『トゥー・オールド・トゥー・ダイ・ヤング』のドラマもやっていたけど、彼は闇社会を描くのが得意だろうし、そこに彼特有のネオン的な配色とかその色合いが闇と混ざり合うことで艶かしさがあって、それが生(性)と死(詩)のグラデーションみたいで僕はとても好き。
『コペンハーゲン・カウボーイ』は六話とわりと短めなので早めに観ようと思う。その前にあと二話の『First Love 初恋』を見終わらないといけない、今は夏帆のターンみたいになっているところ。
1月7日
寝る前にTverで3日に放送された『家、ついて行ってイイですか?』新春SPのオナニーマシーンのイノマーさんのパートナーだった女性、ヒロさんのその後の部分を見た。
以前に放送した部分がそのまま放送されていたので再放送かと思ったが、現在の彼女の状況を見せる前にイノマーさんが亡くなる瞬間をとらえた映像を放送するのは見ていなかった人にも親切だし、前にも見て衝撃を受けた人にも再度人間が生きて死ぬとはどういうことなのかを新年早々に見せる意義はあると思った。見ながら前の時のように知らない間に泣いていた。
イノマーさんが病院で危篤状態になった時にバンド仲間であり、彼が会いたがっていた銀杏BOYZの峯田さんがやってきて彼に呼びかけて体を触った時に、危篤状態のはずのイノマーさんの体が動き峯田さんと抱擁するような互いに抱き締めるような形になったのを見ると号泣してしまっていた。前の時もそうだったし、今回もそうなるとわかっていても自然と涙が出て止まらなくなってしまっていた。あの時本当にイノマーさんは黄泉の国にほとんど行きかけていたはずなのに、峯田さんの声と体温によって呼び戻されたのだと思ったし、彼がまだまだもっともっと生きたいのだと思っている、体は心がそう望んでいるのだということがわかる場面だった。
人間の生命の生き物の根源的な力を見せつけられたように思える、そんなシーンだった。彼が亡くなって三年が経ち、パートーナーだったヒロさんは彼と一緒に住んでいた部屋を出ることにした。その引越しの当日を撮影したものが流された。
なにかを一度しっかり終わらせないと始めることができない、だけど、喪失はあまりにも大きすぎて決断することも幕を閉じるためにもそれほどの時間がかかったというのがわかるものだった。
少し前にB&Bのイベントページに「ヒロ×上出遼平 「STILL REMEMBER THE イノマー」『BAKA IS NOT DEAD!! イノマーGAN日記 2018-2019』(国書刊行会)刊行記念」というものがあって、詳細の箇所に「イノマーさんのパートナー・ヒロさん、日記に書き込まれた最期の日々にイノマーさんを密着取材した映像ディレクター・上出遼平さん、そしてもうお一方ゲストを迎えて、トークイベントを開催します」と書かれていたが、先日そこに峯田さんも参加することが発表された。
上出遼平さんは元テレ東でイノマーさんの最後をドキュメンタリーとして撮影した人であり、ヒロさんと上出さんならもう一人は峯田さんだろうと思っていた。もちろんイノマーさんオナニーマシーンのファンだった人がB&Bへ見にいくのがいいイベントだろうなと思う。
峯田さんのファンもイノマーさんとの交流とかはわかっているはずだけど、あまり峯田さんファンばかりになってもいけないというのもあったのか、参加する発表を遅らせた部分もあるのかなと思ったりしていた。
この放送を見てはじめてイノマーさんの存在を知ってイベントに行こうと思う人もいるだろうし、こういう時ってとりあえずお客さんがたくさんくることが大事だけど、彼のファンだった人にとっても一つの区切りになるだろうから、そういう人ができるだけ多く参加すると素晴らしいものになりそうだしなってほしい。
最初にイベントページを見た時に『家、ついて行ってイイですか?』で知っていたから興味を惹かれたが、もうひとりの登壇者はたぶん峯田さんだろうし、僕はそういうところで峯田さんを見たいなって思ってしまうミーハーなところがあるから、行くべきではないよなって。かなり涙が出たせいか見終わった後にはすぐに眠りに落ちていた。
銀杏BOYZ - 光 (Music Video)
九時前に目が覚めたので歩いて代官山蔦屋書店へ。今日は文芸誌の発売日なのでそれを買う目的で散歩へ。目当ての『群像』以外にも『文學界』『新潮』『すばる』『文藝』と五紙揃っていた。
『文藝』で今回から古川さんの新連載も始まるので『群像』と一緒に購入した。文芸誌は年々分厚く定価が上がっているので二冊購入すると三千円ぐらいになる。『文藝』は季刊誌なので毎月でないが、古川さんの連載がやっている間は買う。
あとは用事もなかったので帰りに池尻大橋のスーパーで昼ごはん用の惣菜を買って帰った。行き帰りの間はradikoで『バナナマンのバナナムーンGOLD』を聴いていた。占い師の島田さんの占いだとバナナマン設楽さんがほんとうに売れるのは2026年らしい、今出演番組数年間一位の人がもっと売れるっていう次元がどんなことかもう意味がよくわからない。
『群像』連載中の古川日出男『の、すべて』第十三回から読む。
前回は都庁でテロに遭った大澤光延こと「スサノオ都知事」の臨死体験、そして「スサノオ」という名が示す黄泉の国との逸話、神話を反復するような話を彼の伝記を執筆中のアーティストである河原真古登が聞く/知るというものだった。
今回は河原が新宿を舞台に彼も黄泉行きを試すというものとなっており、そしてこの伝記における大澤光延に関する関係者の中でいまだに出てきていないある人物に焦点をあてるものとなっていた。その人物を河原が自身にトレースすることで物語はひとつさらに深いところに向かおうとしているのがわかる。次回からフェイズが変わる、そういう雰囲気があった。
『文藝』2023年春号、『文藝』はリニューアルされてから本誌を購入したのはこれがはじめて。どうしてもこの装幀デザインはイヤだ(ダサい)なって思ってしまう、ポップなのがダメというわけではないんだけど、滲み出すものが僕は対象ではないなと感じてしまう。
最初に目次を読んでいて目に入ったのが今回の瀬戸夏子+水上文責任編集の特集「批評」の中になった大塚英志「ロマン主義殺しと工学的な偽史」だった。工学化していくもの(インフラとしてのSNS)と偽史との相性の良さ、Qアノンとは文学の問題であるというのは前から大塚さんが言われていることだが、それがここでも改めて言及されていた。
村上春樹は断片的な挿話を重ねていって、初期三部作を一緒の「サーガ」として見せながら、同時にデレク・ハートフィールドという、虚構の人物の上に小説を上書きすることで、読み手の拠り所をすかしてみせたわけでしょう。初期三部作において架空のサーガをつくることによって、代替歴史への欲望を批評してみせた手際は、やはり見事だったと今も思います。
(中略)
このフェイクの歴史をつくる欲望が問題なのは、それが「私」の拡張になること。つまりロマン主義です。だからフェイクはフェイクなんだと一度騙した後で、そのテーブルをひっくり返してあげなきゃいけない。そういう「義務」をあの時点での村上春樹だけはやってみせたわけです。だからオウムをあの世代で唯一、自分の方法の問題と言い切れた。「偽史」は文学の問題なのですから。
大塚英志「ロマン主義殺しと工学的な偽史」P125より
この大塚さんの文章はもうちょっと経ってから読み返してみようと思えるものだった。
今まで何度か大塚さんにはインタビューをさせてもらっているが、今年は『東京オルタナティヴ』もコミックとして出るだろうからその時にはお話を聞かせてもらいたい。去年お会いした時にはそのことは伝えてはいるが、どうなるかはわからないけれど。
その次はまだ古川さんの新連載には行かず、創刊90周年連続企画1『阿部和重が語る「J文学とは何だったのか」』を読み始めた。
ここで興味深いのは90年代の「J文学」を語る際のマップの真ん中に村上龍さんがいるということ、多くの「J文学」の書き手と呼ばれた人たちは村上龍さんの影響を少なからず受けていたという話を阿部さんもしている。
今また時代が似通ってきているところはありますよね。要するに当時は、サブカルに影響をあたえた文芸作品、ストリートカルチャーに最接近した文学の代表格として村上龍の小説があったと思うんですね。村上龍がデビューする1976年に何を持ち込んだかというと、それまでの文芸誌では見られなかったような、あるいは『太陽の季節』以来となるような銅時代の風俗や生々しい若者像だったと。そして80年代に入り、『コインロッカー・ベイビーズ』や『愛と幻想のファシズム』といった決定的な近未来SF作品でユースカルチャーを先導し、文学外のジャンルに対しても多大な影響力を持つほどになる。そういうこともあり、おそらく中上健次は村上龍に嫉妬していた。『異族』がなぜ失敗し未完に終わったかというと、中上には村上龍のようなポップでサブカル的なセンスが欠けていたからかもしれない。村上龍の作風がフューチャリスティックであるのに対して中上健次はノスタルジックであることが、80年代バブル文化への対応に中上が苦労する要因だったとも考えられる。だから、中上健次にはストリート感覚はあっても都市化されたサブカル性ではなく土着的な路地のセンスなので、そこに立ちもどって現代性を捨てて書いた『奇蹟』が大傑作になったという経緯になる。いずれにせよ、そうした潮流を経て出てきた90年代の作家というのは、多かれ少なかれ、村上龍のつくった磁場の中で書いているので、このマッピングになるというのはひじょうに理に適っていると思います。
『阿部和重が語る「J文学とは何だったのか」』P294
大塚さんのところでも中上健次の話は少しだが出てきており、ここで村上龍の影響下にある世代である阿部和重さんが中上健次について語っているのは興味深い。
その後、聞き手である「文藝」の元編集長だった阿部晴政さんがこのマップの中心が2000年代に入ると村上龍からセカイ系の先駆とも言われることになる村上春樹になると話をされていて、さらに90年代のストリート的なものからゼロ年代になるとサブカルやオタクカルチャーに移り変わっていったというのはまさにそうだったと思う。それが10年代も続いていって、今は阿部さんがいうようにサブカルもオタクカルチャーもネット文化も包括しながらのストリート的なものが、アンダーグランドなものや「戦争」や「内戦」的なものが90年代と似通っていると感じられる要素があるのだろう。
そのあとに古川日出男新連載『京都という劇場で、パンデミックというオペラを観る』を読む。内容は『文藝』サイトの紹介文では【「桁外れの物語力を持ったはずの京都が、ふいに敗れた」――何に敗れたのか。それはパンデミックという「物語」に。観光都市・京都を舞台に日本史と人類史が交叉する。古川日出男のシン・ノンフィクション、開幕。】とあった。
これは小説(フィクション)ではない、『ゼロエフ』の次のノンフィクション作品となるみたい。タイトルにあるように「京都」という場所をメインにしたものだが、画家の伊庭靖子さんやメディアアーティストの藤幡正樹さんとの対話ややりとりなども入っており、芸術というものと歴史というものを重ねていこうとしているのかなと少し思ったりもした。『の、すべて』の語り部である河原真古登もある種のメディアアーティスト的な総合芸術家だったりするので、その辺りもリンクしているようにも並行して読んでいると感じられる。
早稲田大学国際文学館主催【柳井イニシアティブ】展示とトーク「ここにいた」
小説家、彫刻家、工学者、メディア・アーティスト。
それぞれがそれぞれの視点から。
4人のアーティストによるパフォーマンスとトークセッション
年末に国際文学館(村上春樹ライブラリー)のサイトを見ていて一月二十八日に開催されるこの展示とトーク「ここにいた」を見つけたので早速予約をしたが、こちらに古川さんと藤幡正樹さんも登壇される。
藤幡さんと古川さんがUCLAで会ったことや、全米日系人博物館での藤幡さんのインスタレーションの話も前に古川さんの日記(ブログ)で読んでいた。
僕も2017年にロサンゼルスに行った際にこちらには寄っていたので記憶とお二人の邂逅がなにかリンクしている、そんな気すらした。僕の大叔父で初生雛鑑別師だった新市さんが日系移民だった服部さんという人の元で1939年の一年間お世話になっていたこともあって、ここは見に行かないといけないと思って訪れた場所だった。そのこともいい加減にまとめないといけないから三月末には仕上げるつもり。
話を『京都という劇場で、パンデミックというオペラを観る』に戻すとこの作品の中で、古川さんはご自身が色弱という話をされている。これはある時期にトークイベントか何かの対談かで話されていて僕は知っていたが、あまり公に言うことでもないので知らない人も多いのかもしれない。
僕が二十代でずっと追いかけていたバンド・Dragon AshのフロントマンであるKjこと降谷建志さんも昔雑誌かなにかで色弱かそういう先天的なものがあるという話をしていた記憶があって、ニコラス・ウィンディング・レフン監督も色覚障害があって色彩コントラストの強い独特な画面になっていて、それに惹かれる部分が僕にはある。
不思議と僕が惹かれる才能の人はそういう部分がある、普段はそんなこと思わないし、思いだしもしないのだけど。
今作では現代語訳された『平家物語』のことだったり、紫式部の話など現在のパンデミックと千年以上前の世界などを繋げていく、思考を深めていくというノンフィクションになっていくのだと思う。そしてこれがデビュー25周年に開始された新作ということになる。
1月8日
七時ぐらいに目が覚めて十時ぐらいまで作業をする。昨日の夜にやっておこうと思っていたが、なんだか頭が働かなかったので起きてからやろうと思っていた。やりはじめたら思ったより時間がかかった。
その作業中は深夜に放送されていた『オードリーのオールナイトニッポン』を流していた。年末のTBSでやっていた『クイズ 正解は一年後 2022』での春日さんの娘さんとロンブー淳さんの娘さんの走りっこ競争の裏話もあったが、若林さんが渋谷の東急百貨店が一月末に閉店になることについて話していたのが興味深かった。
若林さんがル・シネマでバイトしていたことは知っていた。僕の知っている人が彼と同時期にそこでバイトをしていたので、少しだけ当時の話を聞いているのもあったし、ラジオでも何度かそのことについて話もしていた。
Bunkamuraと東急百貨店は通路でつながっており、バイトをしていた若林さんはカップラーメンとおにぎりを持って、東急百貨店の屋上で昼休憩をしていたという。その後、芸人となってから稼げるようになったら車で東急にやってきて八階のレストランフロアでちょっと高めの料理を食べたいと思っていて、実際にそれはかつて行ったとも話をしていた。
僕にとっても渋谷という街は東急百貨店がわりと中心にある。若林さんも話していたように渋谷という一等地であれほどの広さを誇る丸善ジュンク堂書店は本好きには大切な場所だし、実際に僕は週に何度も足を運んでいる。いろんなジャンルの書籍がしっかり揃っている稀有な場所だった。それもあって渋谷という場所を思い浮かべると起点が東急百貨店渋谷・本店になっている。
ヒカリエには以前職場があったが、あの辺りや今も再開発中の駅の南の渋谷川方面や桜丘方面というのはあまり馴染みがなく、さほど足を運ばない場所だったため僕にとっての渋谷という感じがしない。今月末で一度閉店して現在の建物は壊してから高層マンション付きの大型の施設になるみたいだが、それができるのは2027年となっておりその間の空白はどうしたらいいのだろう。
百貨店というものは古き良き時代の象徴だからどんどん無くなっていくのは仕方ないかもしれないが、なにもかも新しくしていった先にほんとうに若い人やかつて足を運んでいた人が戻ってくるのか、あとBunkamuraという場所は演劇やクラシック系のコンサートなどでは非常に大事な場所なのでそこがすぐではなくても最終的には開発されてある期間使えなくなるのはそれらの関係者は頭が痛いだろうなと思う。
ル・シネマは宮益坂を上る手前の交差点にあった「渋谷TOEI」が営業していたところに移転することはすでに発表されている。2002年に上京してから渋谷はミニシアターがたくさんあったから僕には大事な場所となっていったが、この20年でほんとうに映画館の場所が変わっていき、何館もが閉館していった。だから、昔の記憶の場所と今現在建っているものと重なり合って僕の知っている渋谷はダブってみえてしまう。
東急百貨店本店跡地の再開発、詳細発表 地上36階複合施設に外資系ホテルも
https://www.shibukei.com/headline/16835/
午前中の作業が終わってから、このタイミングならと思って散歩がてら東急百貨店渋谷・本店へ向かった。昨日文芸誌も買っているので特に買いたい本はなかったが、大きな書店という場所は僕にとってはオアシスというか、心の落ち着く場所でもあるので毎日行ってもいいぐらいだ。それにもう一ヶ月も営業をしないのだから、できるだけ足を運んでおきたかった。
店舗に着いてからまず書店がある七階のフロアまで行ったが、いい機会だから屋上へ登ってみた。『オードリーのオールナイトニッポン』を今朝聞くまで、僕はなぜか勝手に屋上には夏の時期のビアガーデン以外では上がれないと勝手に思い込んでいた。フロアガイドを見ると屋上(RF)にはペットサロンとガーデニングが入っていたが、僕には関係のない場所だったのでそのことすら把握していなかった。ペットサロンとガーデニングってあったんだ!という驚き。
八階のレストランフロアからル・シネマに直通でつながっているエスカレーターがあるから使用することはあったが、さらに上へということをまったく考えていなかった。意識が向いていないと存在していても、そこにあるという認識ができない。それは存在しているのに見えないということでもある。視野狭窄。去年の夏で終わってしまったビアガーデンには早めに気づいて足を運ぶべきだったと後悔はしている。
丸善ジュンク堂書店でこの前はなかった『カラマーゾフの兄弟5 エピローグ別巻』の文庫があったので購入して帰った。
屋上にはちゃんとしたカメラを持って撮影している人もいた。僕みたいに若林さんのラジオを聴いて訪れる人もこれから来るだろうし、今月末の閉店までは懐かしむ人たちがたくさん訪れるんだと思う。そうやって思い出になって、建物自体は消えてしまうから記憶の中や写真や映像の中で存在するかつての場所になる。
寒竹ゆり監督が語る “あの時代”を描き、いろんな世代の記憶や感覚とリンクする『First Love 初恋』
あらすじ:1990年代後半、北海道の田舎町で野口也英と並木晴道は出会う。ふたりは瞬く間に恋に落ち、きらめくような高校時代を過ごす。卒業するとCAになる夢を叶えるため也英は東京の大学へ、晴道は航空学生として自衛隊に入隊し、離れ離れに。さらに境遇の違いから気持ちも徐々にすれ違って、ある日些細なことでケンカ別れしてしまうのだった。それから20年の歳月を経て、運命はもう一度ふたりを引き合わせるが―。
夏帆ターンが始まったかと思えた『First Love 初恋』第八話、そしてその次の最終話を見た。あれ、也英が昔晴道と一緒にいうメタタイムカプセルをひとりで掘り出して、そこに埋められていたマルボロのケースに入っていた晴道の高校時代の思いを書いた紙(手紙)を読んだ也英はいつの間に記憶が戻ったんだろう。いや、当時の記憶は戻っていないけど再会した晴道のことが好きになったという気持ちに正直になったということだったのか。なんかよくわからないけど、どうなったんだ。ここで出てきたタバコを彼女も仕事終わりに自分で買って吸ったりする。その匂いの記憶が記憶を呼び戻すキーになったってことだろうか、宇多田ヒカルの歌詞に出てくる「最後のキスはタバコのflavorがした」ってことにかけているのはわかるんだけど。
晴道は結婚間近だった恒美(夏帆)と別れる(恒美はあっさり身を引く。これは同じ夏帆さんが演じた『silent』の奈々にもちょっと通じている)が、也英の想いを知っても彼女から離れて海外へ旅立った。
最終回は昔のトレンディドラマみたいに海外にいる晴道の元へ也英が会いに行ってハッピーエンドを迎えるというものだった。三年経った最終回は也英の息子の綴が音楽で成功していたり、彼が恋心を抱いていたダンサーの詩と再会して、そこで晴道の居場所を知った也英に会いに行くという展開になっていく。父と息子の葛藤などは端折られており、綴の父はもう息子の成功を喜んでいる描写が言い訳程度には入る。
最終回は話がどんどん進んでいく感じだった。ちょっと急にクライマックスに向かっていくご都合的なものも感じられるが、今まで下地を作ってきているからそこまで気にはならないし、大事なのは也英と晴道の想い(初恋)の行方を描いているのだからという強気さも感じる。
也英と晴道が最初に出会った、互いに初恋を抱くきっかけの十代のシーンと現在の三十代の二人のシーンが交互に展開していく。東日本大震災やコロナパンデミックも作中に取り込んでいるあたりは丁寧に作られていたと思う。僕も同世代に近いので主人公たちの高校生時代から二十年を描いているから小道具やいろんなものにリアリティがあった。
也英を演じたのは二十代中盤以降から現在までを満島ひかり、十代から二十代前半を八木莉可子だった。二人とも素晴らしいと思うのだけど、やっぱり八木の顔と満島の顔の系統は違うで年齢を重ねてもそこが一致しなかった。
演技力とかもろもろで選んんでいるのはわかるんだけど、月日を経た前と後の役者さんの顔に違和感があると物語にどうも入りにくい、あと過去と現在が交互に展開しても同一人物には感じられないため感情移入しにくい。それだったら過去編は過去編で最初の方の回でやって現在は中盤以降でやるという方がまだよかった。
問題は話の展開場、過去と現在が交差することで二人の初恋を描こうとしているため最終回のようなストーリー展開になるのはわかるんだけど、どうしても同一人物には見えない。そこだけがなあ。
幻想の画家、夫婦の共鳴と差異。特別展「藤野一友と岡上淑子」が福岡市美術館で開催へ|美術手帖
少し前にフェイスブックかツイッターで回ってきた美術手帖の記事。恥ずかしながらこの藤野一友さんと岡上淑子さんのことをこれを見るまで知らなかったのだけど、この記事の一番最初に紹介されている藤野一友『抽象的な籠』という作品のことは知っていた。
『抽象的な籠』はフィリップ・K・ディック著『ヴァリス』の装幀イラストとして使用されていたものだったから見覚えがあった。現在は「ヴァリス」シリーズ(『ヴァリス』『聖なる侵入』『ティモシー・アーチャーの転生』)はハヤカワSF文庫になっているが、最初はサンリオSF文庫から出ており、その際に使われていたのがこの『抽象的な籠』だった。
【藤野一友特集をお見逃しなく!】
— 福岡市美術館/Fukuoka Art Museum (@fukuoka_fam) 2019年5月16日
「これがわたしたちのコレクション」では、画家・藤野一友の特集展示にも注目です。2階ギャラリーでは、フィリップ・K・ディック『ヴァリス』3部作の表紙を飾った《抽象的な籠》《眺望》《卵を背負った天使》を含む16点をまとめてご覧いただけます!
5月26日まで! pic.twitter.com/sZN1kD3LEs
このツイート(2019年のものだった)を見て知ったが、サンリオSF文庫版の「ヴァリス」シリーズ三部作の表紙はすべて藤野一友さんの絵を使用しているようだ。長いことその神秘的でありながらなにか違和感をも感じさせる絵のインパクトが印象に残っていたが、三部作全部同じ方が描いていたのか、知らなかった。この絵はディックの世界観にとてもよく合っている。
現在のところサンリオSF文庫は消滅していて、ハヤカワSF文庫で刊行されているのでこの作品たちが表紙の本は一般的には流通はしていない。
昔からのSFファンだったら知っているだろうけど、今は使われていないってことを考えるとこの『抽象的な籠』『眺望』『卵を背負った天使』の三作品を装幀イラストに使う人がいてもいいのに。『抽象的な籠』はすごく目を引くし、絵の構造としても物語が濃く漂っていて、こういう絵を使った小説だったら誰が書いていても僕は一度は手に取る。
1月9日
九時前に目が覚めたが、寝起きまなこのままでTVerで昨日放送したバラエティを流していたらうたた寝してしまい、気がつくと九時を過ぎていた。
今日九時から販売になる「NIKE SNKRS」で販売されるスニーカーを買おうと思っていたので、サイトに接続するがサイズと購入方法を選ぶと順番ですと表示が出て少し待っていると売り切れとなっていた。サイトを見てみるとほとんどのサイズは残っているように見えるが、二度ほど試したが売り切れているようだった。
そのスニーカーの名前で検索するとすでに定価よりも高い価格でスニーカー販売サイトで売られていたりした。転売ヤーがそうしていると思うのだが、そこで買うのは嫌なのでもう買えないかなと思って、名前で検索すると普通の「NIKE」のサイトのほうも検索の上のほうにあったのでそこで見てみると今回の2カラーと以前に出ていた2カラーの4種類が表示されていて、欲しい色をクリックしたら在庫はあるみたいだったので普通に注文できた。
「NIKE SNKRS」はアクセスが集中するので売り切れみたいなことになっていたのかもしれない。今履いているスニーカーも一年半ほど履き潰していて、ソールもすり減っているし右靴の親指の辺りは穴が空いてしまっていたのでそろそろ新しいものが欲しかった。
2020年の夏に福島県の6号線を歩いたスニーカーは今回購入したのと同じISPAシリーズのものだった。個人的にはこのISPAシリーズはデザインもカッコよくいい意味でNIKEぽさがないのも好みだったりする。
今日は何にも予定がなかったのでとりあえず家を出た。数日前から足腰を鍛えるための運動を始めたのでプロテインを飲んだ方がいいのかなと思って、ドン・キホーテ中目黒店まで行くことにした。渋谷方面に行くのと中目黒方面に行くのも距離的にはあまり変わらないからちょうどいい距離と時間だ。
お店についてプロテインをいくつか見たがあまりしっくりこなかったので、今度でいいやと思って店を出てから中目黒沿いを歩いて駅方面に向かった。川の水が流れているところに鉄板が敷かれていてそこをブルドーザーみたいな車種の工事用の車が音を立てて走っていて二度見した。そのまま進んでいくと水を堰き止めていて、写真のように工事なのか整備をしていた。初めて見た光景だったので新鮮だった。
そのまま前にパン生地くんと今度行こうと話していた飲食店前で店の名前を改めてチェックをしてから、坂を上って都道317号に出て、そのまま代官山蔦屋書店に寄って中をふらふらとしてから池尻大橋方面に戻った。
一度家に帰ってお昼ご飯用のお米をセットしてもう少し歩こうと思って駅前に。キャロットタワーの三階にある生活工房ギャラリーに行ってみた。
現在は「岡本仁の編集とそれにまつわる何やかや。」という展示が開催されていた。岡本さんは『ブルータス』あんどマガジンハウスで雑誌編集に携わっている編集者。
アイデアというかイメージを具現化するための思考をどうインプットしているのかアウトプットしているのかというのを展示にしている。写真がすごくよくて見入ってしまった。その場所に行きたいなと思えるお蕎麦屋さんとか場所があった。
家に帰ってくるとポストに「TBSテレビ」と印字してある封筒が刺さっており、なんだ?と思って開けてみると二月公開のドキュメンタリー映画『日の丸~寺山修司40年目の挑発~』の試写の案内だった。
映画館で特報みたいな短い予告を見ていたこともあって知っていた作品だったこともあり、試写の予定日の中からスケジュールで行ける日時があったのでウェブで予約した。
「ダシュウッド・ブックス」のお客さんは対話を求める人が多いので、AIやアマゾンではできないコミュニケーションが必要になります。マーケティングの視点だけで本を紹介するのではなく、対話を通して専門性を共有できる場所が実店舗の意義だと思います。会話を通して新たに発見できるものは多々ありますし、マーケティングやAIとは異なる観点から見えてくる写真や写真集は確実に存在します。
創造力というものは1+1が3にも4にもなるもので、何気ない会話や偶然によってもたらされることが多いと思います。実店舗はそのような対話を生み出せる。その点も「ダシュウッド・ブックス」の魅力だと思います。
須々田:現在、SNSやインフルエンサーの影響が強くなり、与えられる情報だけをそのまま鵜呑みにして、自分で経験したり考えることが希薄になっているように感じます。また、多くの人が便利で効率的なものだけを求めたり、拝金主義であったり……マーケティング重視のものづくりや進め方はビジネスとしては理解できますが、アートの分野はそれだけではいけない。アーティスト自身や購入者がそういう考え方だとすると、本当に作品の良さは伝わらないと思います。
私は「ダシュウッド・ブックス」でコンサルティングを担当し、セッション・プレスでは写真集も制作していますが、効率だけを求めて仕事に取り組むことをしては、人を感動させるものは作れないと思っています。私は、売れるかどうかよりも人の心を動かすことを重視しているので、たとえ、世の中の基準から外れていても、作品に人の心を打つ強さがあると感じた時、その感動を伝えたいと願い写真集を制作します。それは、人が記憶として心に覚えていることは、どう感じたかが全てであると思うからです。感動というのは、事実の正確さに感動するのではなくて、自分の心がどう動いたかに拠ります。生きた記憶というのは、どれだけ個々人の心に響いたかを指し、それが芸術であることの全てだと思います。
また、現在さまざまな場面でSNSの声や大衆の目に対して過度に敏感になっているように感じます。「清く、正しく、美しく」のような風潮が強くなっていて、それは生き方全般に関わることについて至る所で見受けられます。自分が関わっている写真の分野では、たとえそれが「清く、正しく、美しく」なくても、人の心を揺さぶるようなものであれば、積極的に世の中に出していきたいと思っています。つまり、生身の人間というのは、もっと複雑で不合理で不確かであやうい存在であるのだから、それを封印するのは、アートという本来のあり方の逆のベクトルのことだと思うからです。
リアルストアの重要性と写真集の可能性とは 「ダシュウッド・ブックス」須々田美和インタヴュー
Twitterで見かけていた記事を読み直した。数は大事だが、それによって操られているようなSNS隆盛の時代においてアートとは創作とはなにかということをしっかり経験によって答えられていて読んでよかったと思える内容だった。
大事なのは人の心打つ強さがあるかどうか、揺さぶれないのであれば芸術ではないという真摯な声と思いがある。
Frank Ocean - Nikes | (music video)
1月10日
日付が変わって寝る前に年末から読むのが止まっていたトマス・ピンチョン著『重力の虹』下巻とウィリアム・フォークナー著『ポータブル・フォークナー』を少しだけ読み進める。
『重力の虹』はもはや何を読んでいるのか、何が起きているのかわからないところもあるが、日本人兵が出てきた。ピンチョンは執筆の取材の日本に滞在していた時期もあると言われているし、日本人の感じとかはおそらくわかっているのだろう。
ある翻訳家の方がTwitterでピンチョンの話から映画『アンダー・ザ・シルバーレイク』はピンチョン風味と言われていた。僕はこの映画がかなり大好きなのもあって、ピンチョンを読むことにそれなりに意味を見出せるかもとちょっと期待はしている。日本人兵が出る前の部分で主人公とたぶん十代の少女との性交についての描写があったが、なんとなく村上春樹さんの作品の描写にも通じているような気がした。
『ポータブル・フォークナー』は第五部の「1902年 ザット・イヴニング・サン」を読んだが、短編としてもわかりやすい内容だった、このまま読んでいくと五部には『エミリに薔薇を』や『響きと怒り』のある一部分が収録されているようだ。これらは以前に読んでいるのだけど、この「ポータブル」は時系列順に並べてあるので前に読んだ時とは違う感触を覚えそう。
朝晩とリモートワーク。仕事中はいつものようにradikoで深夜放送を聴きながらの作業。『Creepy Nutsのオールナイトニッポン』ではR-指定さんの大晦日のコロナ感染の話や婚約指輪を渡す件などもあって、去年の終わりからの繋がりがあった。松永さんは年始の休みでラジオ大阪の『四千頭身 都築拓紀のサクラバシ919』にハマった話をしていた。
僕は『三四郎のオールナイトニッポン0』からSpotifyラジオ番組『83Lightning Catapult』(アルコ&ピースの酒井健太と三四郎の相田周二)を経てから『都築拓紀のサクラバシ919』を聴くようになったのだが、三四郎の番組からの流れってかなりあると思う。
ラジオのおもしろさはそれぞれのパーソナリティたちの仕事のことやプライベートなこと、総じて人生というか今を生きていることが生の言葉で、自分自身から発していることだし、それがもちろん大きな魅力。
コロナパンデミックになってから再びラジオを聴くようになってからは、そのレーベル(オールナイトニッポンとかJUNKだったり)だけでなく、他の局の番組とのリンクやパーソナリティ同志のやりとりや関係性を楽しめるのは他のメディアにはあまりない特徴だと思うし、ハマっていくとどんどん他の番組にも派生していって聴くようになってしまうのもよくわかるようになった。
「アントマン&ワスプ:クアントマニア」本予告
MCU(マーベル・シネマティック・ユニバース)のフェーズ5の一発目となる作品『アントマン&ワスプ:クアントマニア』の本予告が公開されていた。
わりと「アントマン」シリーズは好きなのでたのしみ。これが今年一発目のIMAXで観る映画になるのかもしれない。量子化学と家族の話だから、東浩紀著『クォンタム・ファミリーズ』のことがちょっと脳裏をよぎる。
今日は休憩中に行った整骨院で毎週お願いしている先生以外とは誰ともちゃんと話をしてないことに気づいた。レジとかでありがとうございますとかは会計後にいうけど、それはパブロフの犬みたいな習慣化されているだけで会話にはなってないし。かといって出社しても人と話さないで作業しているから同じか。
誰とも話さないことよりも家にずっといるほうがストレスは溜まっていそうな気がする。一日の間にやっぱり一時間ちょっとは散歩がてら外を歩くのが一番リラックスしている瞬間なのかな。
1月11日
先日注文していたNIKE「ISPA センス フライニット(ミネラルスレート/ラタン/マグマオレンジ)」が届いた。ぶっちゃけすごく履きにくいので慣れるまで時間がかかりそう。
アッパーのくるぶしの部分がその上まであって、伸縮する素材でちょっとソックス感もあって、つま先から入れるところがわりと狭いのでかかとを踏んで足を入れるみたいなこともしにくい。デザインとカラーリングは好きだし履き潰す。
履いた感触だとかなり軽いけどホールド感はあるし、足裏の感触の反発感ではないが弾力がちょうどいい。明日はこれを履いて肩慣らしならぬ足慣らしで少し距離を歩いてみようと思う。
Tシャツのタックイン/タックアウトを
「流行」「風俗」「習俗」の三段階で見ていくと、次のようにまとめることができます。
もともと下着だったTシャツは、人前で一枚で着るものではなかった。
そんなTシャツを外着として一枚で人前で着る行為は日本に定着した「習俗」である。
Tシャツの裾にを「入れる風俗」と「出す風俗」が時代ごとにあり、
「流行」という亀裂が入ることによって風俗は断絶、そして反転する。
1980年代の末までは当たり前だった「タックイン」という風俗が、
1990年代に流行したタックアウトによってひっくり返され、
タックアウトが次なる新たな風俗となっていく。
Tシャツをタックアウトする「流行」が「風俗」として定着したこと。
裾を出すことが単発の流行で終わらなかったこと。
何年も続いて風俗になったこと。
これが大切です。
「ダッドスニーカー」の人気に火をつけたのがBALENCIAGAの「TRIPLE S」でした。
2010年代の後半には「ダサいのがいい」という気分が醸造されたのは、
なんとなく生まれた気分ではなく、あるデザイナーが大きな役割を果たしていると思います。
それがBALENCIAGAの現アーティスティック・ディレクター、デムナ・ヴァザリアです。
彼は2015年にバレンシアガの舵取りを任されてから、チープなアイテムをモチーフにした作品で世間に衝撃を与え続けています。
Tシャツをめくるシティボーイ 第9回 同調圧力の時刻表/文:高畑鍬名(QTV)
パン生地くんの連載の最新回が更新されていた。Tシャツのタックインタックアウトについての論考をここまで書けるのは彼だけだろうしやはりおもしろい。時代ごとの移り変わりについての話とBALENCIAGAのスニーカー(この手のデザインは本当に一時から異様に見かけるようになった)が象徴する「ダサいのがいい」というのはわかりやすいし、いい切り口だと思う。
確かに90年代に思春期を迎えた僕たち四十代前後からするとそれってダサいよねっていうものが今の十代や二十代のファッションに取り込まれていることは多い。ただの90年代リバイバルだけではないものとの融合が起きていて、ファッションってほんとうに時代というものに照らされて変化していると感じることは自分が若者でなくなったからのほうがよくわかる気もする。
以前からミシェルが明かしているように、『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』の主人公は本来男性であり、最初にジャッキー・チェンにオファーされた役だった。しかし、最終的にはミシェルが役をゲットし、同作が高い評価を得ることになった。
ミシェル・ヨー、エイジズムに言及「年を取れば取るほど、能力よりも年齢で見られてしまう」
元々はジャッキー・チェンにオファーされていたのか知らなかった。でも、彼が断ったことでこの作品はまさしくマルチバースの別の可能性が現れて成功したのだと思うし、ジャッキーがオファーを受けていたらここまでの評価や全米でも当たらなかった可能性もある。それは結局のところはわからないのだけど。
日本時間1月11日(現地時間1月10日夜)、アカデミー賞の前哨戦とされる第80回ゴールデン・グローブ賞の授賞式がロサンゼルスのビバリー・ヒルトンにて3年ぶりにリアル開催。A24作品の『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』がミシェル・ヨー、キー・ホイ・クァンの俳優賞受賞で2冠、『ブラックパンサー/ワカンダ・フォーエバー』で女王ラモンダを演じ、助演女優賞を受賞したアンジェラ・バセットのスピーチなどで会場が沸いた。
『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』からは主演女優賞(ミュージカル・コメディ部門)にミシェル・ヨーが選ばれたほか、キー・ホイ・クァンが助演男優賞を受賞。
ミシェル・ヨーは先日も米の番組で、ハリウッドでは年齢を重ねることで役を得る機会が減ってしまうことを語ったばかりだが、アジア系女優として自身の闘いをふり返りながら40年立ってきたこの舞台に立ち続けることを力強く語っていた。
第80回ゴールデン・グローブ賞、ミシェル・ヨーが 『エブエブ』で主演女優賞!『犬王』は受賞ならず
今年映画でたのしみにしている『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』の主演のミシェル・ヨーが主演女優賞に選ばれ、その夫役のキー・ホイ・クァン(『グーニーズ』のリッキー・ワン(データ)役)が助演男優賞を受賞したといううれしいニュース。これで日本での三月三日の公開ももう少し拡大されるといいし、IMAXでの上映回数も増やしてほしい。
ハリウッドにおけるアジア人差別についてミシェル・ヨーはスピーチで語ったというニュースも見たし、アカデミー賞の前哨戦と言われているゴールデン・グローブ賞でこういう結果が出ているので、アカデミー賞でも彼女や『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』の快進撃がたのしみ。
アメリカにおけるアジア系移民の問題などもこれでもっと語られたり関心は持たれたりするだろう。日本にいるとやはりそういうことに鈍感になりがちで他人事のように思ってしまうが、自分が海外の映画や小説を読むことでわずかながら知っていることは現実の表象のひとつであり、海外にいけば自分も差別されたりするという意識がないと世界で起きている出来事や事件もどんどん理解できなくなってくる。
もちろん、日本に住んでいる海外の人たちへの差別とかそういうものだってゼロではない、差別主義者にならないために知らないといけないことはたくさんある。もっと自分の内側に沈み込めることと同様に外側に飛び出ていくこともしていかないといけないなと思う。なにはともあれ映画がほんとうにたのしみ。
朝晩とリモートワーク。多少仕事が進んだし、先週よりは脳みそも動いている気がするし、やる気が全くなかったモードから通常モードへは戻っていると思う。
1月12日
起きてからTVerで『あちこちオードリー』を見た。マヂカルラブリーとランジャタイという地下ライブ芸人出身の二組がゲストだったが、今回は非常におもしろかった。『あちこちオードリー』はゲストによっての当たり外れというよりも何回も見たい時と一回でいいやって時が極端に分かれている。だからこそ、続くものになると思うしマンネリ化しないのかなって思わなくもない。
木曜日は休みにしているので特に予定がなかったので、昨日届いたNIKE「ISPA センス フライニット」を履いてできるだけ距離を歩いて足に慣らそうと思った。というわけで元旦に寄ったけど本堂にはお参りができなかった豊川稲荷東京別院まで歩くことにした。だいたい一時間半ぐらいの距離なので足と靴を馴染ませるにはちょうどいい。
新しいスニーカーだからソールでアスファルトとかコンクリとか地面の感触がよくわかった。歩き潰してソールがすり減るとこの感触はなくなってしまう。
家を出てからすぐにradikoで『佐久間宣行のオールナイトニッポン0』を聴き始めた。番組の時間が約一時間半なので聴き終わることにちょうど到着する感じ、佐久間さんの2022年の映画やドラマや舞台のベスト10の話とか、映画の一位があれなんだ!という驚きもあったり。見事に聴き終わる頃には赤坂御所横の歩道を歩いていたので、豊川稲荷に着く前にイヤフォンを外して中へ入った。
平日だけど、わりと参拝しに来ている人がいたのでちょっと賑やかだったし、やっぱりここにお参りする人は多いんだなと改めて感じた。本堂へお参りしてから、元旦に参れなかった七福神の何柱かと三神殿(宇賀神王・太郎稲荷・徳七郎稲荷)と愛染明王と招福利生大黒天にお参りをする。あとは財布に入ったままの融通金を返して新しいものに交換させてもらった。
財布の小銭もほとんどなくなったし、新しいスニーカーで歩くのが心地よかったのでこのまま家まで帰ることにした。赤坂御所前で急に radikoがプチリと一瞬切れたりするのが続いたんだけど、なにかの思い過ごしだろうか。
GAGA近くの道を曲がって青山霊園の入り口へ、いま書いている作品にも出てくる場所だし、それもあって今日歩いたというのもあった。実際に久しぶりに来てみるとアイデアが浮かんだ。そして普段は歩かない場所を歩いて渋谷方面に向かった。
ほとんど家に帰った時にNIKEのRUNアプリで距離をみると18キロぐらいだったのでこのまま終わるともったいないなと思って駅の方に行って距離を稼いだ。家に戻ってくると20キロ超えていた。新しいスニーカーでこの距離を歩いても靴擦れもなかったし、歩いたぶんだけ馴染んだ気がした。
夕方にニコラに行ってアルヴァーブレンドとガトーショコラをいただく。
ニコラにいる時に昨日買っていた団鬼六著『死んでたまるか 団鬼六自伝エッセイ』を読んでいた。
大晦日に賭け将棋で勝ったあとにその金がないという相手の家に連れていかれて、女房を代わりに抱いてくれという話とか、最初の戦時下の捕虜になっていたアメリカ兵との交流とかエピソードがどれも強烈なインパクトがありながら、人間の業や欲望や哀愁、喜びや悲しみが散りばめられていてどんどんページが進んでしまった。
【あの声優がまさかの特別ナレーション担当】『オナ禁エスパー 竜丸短編集』コミックス発売記念PV【漫画】
帰る前にTSUTAYAのコミックコーナーに寄ったら竜丸著『オナ禁エスパー 竜丸短編集』が出ていて手に取った。この表題作は以前イゴっちから教えてもらって読んだ作品だったので、コミックスが出ていることをラインしたら、このプロモーション動画のURLが送られてきた。
売る気満々なのか?どうなんだろう。そして動画を最後まで見ると超大物声優がナレーションをしていた。これはシンジくんを彷彿させたいのか? この『オナ禁エスパー』はオナニーを我慢すればするほどにその超能力が強く高まっていくというバカバカしいものではある。そう考えるとシンジくんはアニメシリーズで病室にいるアスカを見ながら出してしまったので、これは出しません!みたいなことを深読みさせたいのか? どうなんだ、だとしたらかなりおもしろいぞと思っていたら、また新しいURLが送られてきた。
[特別読切] ゆまりのなか - 竜丸 | となりのヤングジャンプ
同じ作者の読み切り短編で僕は読んでいなかったものだった。『オナ禁エスパー』はそのまんまオナニーをテーマにしているのだが、こちらはこちらで同じベクトルではある。
幽霊に襲われそうになる少年と少女、二人が助かる方法がもうバカバカしくてこの漫画家さんが自分の好きなことだと思うがやりきっていてもはや清々しい。もうお手上げというか拍手するしかなかった。
1月13日
リモート作業中に郵便物がポストに入らなかったので、ということで郵便局の配達の人がドアをノックして教えて渡してくれた。その中に文藝春秋社からのものがあって、『水道橋博士のメルマ旬報』でもご一緒させてもらっていた編集者の目崎さんから西寺郷太さんの新刊『ナインティーズ』が送られてきていた。
郷太さんも「メルマ旬報」チームだったので知っている方だが、この自伝的小説は連載中には読んでおらず発売されたら買おうと思っていたものだった。目崎さんご恵投ありがとうございました。
ノーナ・リーヴスの西寺郷太さんが、アマチュア時代のさまざまな愛すべき人たちとの出会いから、プロデビュー後のバンドの華麗なる飛躍までを赤裸々かつドラマチックに描いた自伝的小説です。1990年代の下北沢をメインフィールドに数多くのバンド、ライブハウスが実名で登場します。「僕には野心しかなかった」と語る主人公のゴータ。彼の目に映った時代の景色とは? 読むとあの頃の音楽が聞こえてくる疾走感あふれる作品です。(担当編集者より)
90年代の下北沢のライブハウスを舞台にした自伝的な小説ということなので、とても楽しみ。今下北沢で遊んでいる二十代や十代の人からするとまったく知らない景色だろうし、今の下北沢とは被らないのかもしれない。そのぐらいこの三十年でかなり変わっていると思うし、僕自身は2002年に上京してからの下北沢しか知らないけど、この二十年の間で電車が地下を走るようになってからの再開発で全く違う景色になってしまった。それがいいのか悪いのかはわからないけど、たしかにあったものはもう失われたということだけは確かだ。
仕事で文字起こしをして構成していたある人のスピーチというか言葉がさらりとすごいことを言われていて、とても感動した。この言葉を読んだ人たちは勇気づけられるだろうし、同時に文章を書くということに対して畏怖の気持ちも覚えるものだった。
映画『別れる決心』予告編 2023/2/17(金)公開
夜は仕事がなかったので「月刊予告編妄想かわら版」の原稿を書いた。
二月も気になる作品はいくつかあるが、一番は『オールド・ボーイ』や『お嬢さん』を手がけたパク・チャヌク監督『別れる決心』かなあ、『アントマン&ワスプ:クアントマニア』と同じ日の公開だったはず。
『別れる決心』はル・シネマで観て、『アントマン&ワスプ:クアントマニア』はTOHOシネマズの新宿か日比谷でIMAX上映あればどちらかで観ようと思っている。
私は『曼陀羅華X』で誌上のオペラというのを産んでいったのだと感じる。あの小説のクライマックスは東京湾岸・天王洲での歌劇「サロメ」の上演だったので。そして、結局のところ、こういう「産めなかった作品、プロジェクト」が、あの長い『京都という劇場で、パンデミックというオペラを観る』という新作のタイトルにまで連なっていて、私はまたもや〈誌上オペラ〉に向かっているのだ。やるしかないでしょが。
ところで朗読劇「銀河鉄道の夜」だが、つぎの企画の出演者は、合計6人である。新年からみんなでオンラインで顔を合わせて、何時間も作業した。あと数日したら、対面でその顔を合わせて、スタッフも全員揃えて大人数となって、とんでもない〈基礎〉を作る。これは来月後半、ちゃんとインフォメーションを出します。大丈夫、ポシャらないから。さてさて、今年も「文学のリミットは一体どこにあるのか。どこまで(俺は)拡張しうるのか?」を、試すかねー。試すしかないでしょが。明るい気持ちで行きます!
<古川日出男の現在地>
第92回「ども新年ですねー、とホント軽く挨拶したい」
古川さんの「現在地」が更新されていて読んだ。そうか、『曼陀羅華X』のクライマックスで天王洲で『サロメ』の上演シーンがあったから、無意識に僕は目黒川を歩いて天王洲に向かったのか、と思ったりした。
正確な年月は忘れたけど、目黒川沿いを歩いて天王洲まで行ってそこから東京タワーまで行くと言うのは一度やったことがあった。たぶん、十年以上前のこと。
目黒川沿いを歩いて天王洲へ行くのは『LOVE』の舞台を歩くみたいなことだった。でも、池尻大橋から天王洲にはわりとすぐに着いてしまったから、距離を延長して東京タワーまで歩いてから浜松町駅近くの世界貿易センタービルに行った。そこの展望台から東京湾を見た。
当時付き合っていた彼女が浜松町駅近くで働いていたから、少し会おうということになって浜松町駅に向かったはずだ。彼女が来るまでの暇つぶしで「9.11」で旅客機が突っ込んでいったツインタワーと同じ名前のビルに惹かれて上った。そのことは自分の小説に取り込んで書いて、受賞はできなかったけど最終まで残った。それから編集者さんから連絡をもらって編集部へ話をしにいった。それが2011年1月とかだったはずだから、書いたのが前年だから歩いたのは2010年か2009年ぐらいか、干支も一回り前のこと。時間はあっという間に過ぎ去ってしまうことだけは確か。
朗読劇「銀河鉄道の夜」は今年も3月11日に上演されると思うのだけど、出演者も増えているし、どんな作品に変わっているのかこの目で観たいけど、どこでやるんだろう。
二月三月と少し先の予定が決まり始めてきた。このまま一気に三月が過ぎ去って春から梅雨に入っちゃうまであっという間だろうと思うからしっかりやるべきことをやって準備をしていないと今年もなにもできないままになってしまう。
1月14日
起きてから二日前にチケット取っていた『SHE SAID/シー・セッド その名を暴け』を観るために渋谷PARCO内にあるホワイトシネクイントへ。
少し肌寒かったが雨は降っておらず、十時ぐらいの渋谷は人もそれほど多くはなかったが、パルコ前のベイシングエイプの店舗前には人が並んでいた。ほとんど転売ヤーなのかと思いつつ、映画館直通のエレベーターに乗って八階へ。昨日の13日から公開で朝イチだったがそこそこお客さんは入っていた。
映画プロデューサーのハーベイ・ワインスタインによる性的暴行を告発した2人の女性記者による回顧録を基に映画化した社会派ドラマ。
ニューヨーク・タイムズ紙の記者ミーガン・トゥーイーとジョディ・カンターは、大物映画プロデューサーのワインスタインが数十年にわたって続けてきた性的暴行について取材を始めるが、ワインスタインがこれまで何度も記事をもみ消してきたことを知る。被害女性の多くは示談に応じており、証言すれば訴えられるという恐怖や当時のトラウマによって声を上げられずにいた。問題の本質が業界の隠蔽体質にあると気づいた記者たちは、取材対象から拒否され、ワインスタイン側からの妨害を受けながらも、真実を追い求めて奔走する。
「プロミシング・ヤング・ウーマン」のキャリー・マリガンと「ビッグ・シック ぼくたちの大いなる目ざめ」のゾーイ・カザンが2人の主人公を演じる。「アイム・ユア・マン 恋人はアンドロイド」のマリア・シュラーダーが監督を務め、ブラッド・ピットが製作総指揮を手がけた。(映画.comより)
この映画で描いているようにミーガンとジョディを中心としたニューヨーク・タイムズ紙でワインスタインを告発した記事が出たことから世界中で#Me Too運動が広がっていった。この映画でも記事が出るまでワインスタインを告発した女性たちはいたが、ほとんどの場合は泣き寝入りをすることになったり、あるいは晒し者のようになったり、記事自体を握りつぶされたりしている。地位と金をもっているワインスタインと性的な被害にあった人よりも性的加害者を守るシステムが存在していた。
示談に応じている女性たちは口外できないという約束を結ばされている。あるいは警察も届出を出しても協力的ではない(ワインスタインからの圧力や金によって)という事実があったため、ワインスタインによる悪事や被害は止まらなかった。
ミーガンとジョディは共にニューヨーク・タイムズ紙で働く記者でありながらも、母親である。ミーガンは冒頭の時点では妊娠中であり、出産して母となるが産後鬱を経験することになる。ジョディはすでに二児の母であり、ミーガンの鬱のことなども理解しているというバックグラウンドも描かれており、そこも大事な核となっている。
過去にワインスタインから性的な暴行や暴力を受けた女性たちに二人はアプローチしていくが、次第に二人や取材対象者たちも誰かに見張られているような気持ちになってくる。実際に映像業界には彼のスパイがたくさんおり、彼女たちが動き出したことを伝えていたこともわかってくる。この取材は記者もインタビューや話に応じた人たちも危険な目にあっていた可能性がかなり高かったようだ。
この作品で大きなキーマンとなるのは冒頭の90年代のアイルランドで映画の撮影をしているところに犬の散歩中に見つけて、その後映画業界に入ったある女性である。彼女は途中からまた出てくることになるが、彼女が抱えている病気と娘たちのこともあり、最終的に実名を出すことを承諾することになる。
実際にいろんな被害者に記者が取材に行っても多くの人たちはオフレコとして話すしかなく、声を上げようとしても名前を出すことができなかった。示談金を受け取っている場合には法的に口外できないこともあるし、自信が性的な被害に遭ったということを家族にも言えない人が多かった。それが映画では丁寧に可視化されているし、性被害は被害者が肉体的にも精神的にも追い詰められていき、長い時間をかけて人生や心を破壊されてしまうものである。そのことも映画では描いていた。
悪いのは明らかに加害者であるのに、被害者の人の方が責められるという現状がある。この背景というか基盤にあるのは家父長制であったり男性優位というものだ。
「傷物にされた」という言い方を聞いたりしたことがあるが、それは女性は嫁いで子供を産むということが前提であり、それを決めるのは一家の主人である父だという意識がなければ使わないものではないかと思う。
昔からずっと続いているこの悪しき流れがあり、父がパートナーである妻や娘の性に関与(自由に)していいという一家の主人の意志が彼女たちの性を縛っていた。家父長制と男性優位社会においては男性にとって都合のいいシステムが構築されてきたのは事実であり、それが女性たち、映画においてはミーガンやジョディたちのまえに巨大なレンガとして立ち塞がることになる。
記事として出すために、報道として正しいあり方としてミーガンたちはしっかりと取材をして証拠と証言を集めていく。だが、オフレコの証言者の名前が実名でないものはその信憑性が揺らいでしまう。だからこそ、ニューヨーク・タイムズ紙は最後まで取材した中で口外しないと約束をしていない人物からの実名を出していいという声を求めていた。
勇気ある一人の女性が実名で出すと話したことでこの記事の一撃でワインスタインの悪事は一気に広がり、それまで声を出せなかった多くの性的な被害に遭ったことのある人が自分に起きたことについて公表するようになり、世界中の女性たちが連携していくようになった。#Me Too運動はそうやって全世界的に広がって行った。
去年は日本映画界でもセクハラやパワハラ、性的被害について多くの声が出て問題が明るみになった。僕がずっと作品を観てきた園子温監督もその加害者のひとりとして取り沙汰された。何度も一緒に飲ませてもらったこともあるし、個人的な付き合いもあったが、この映画の最後の方に出てくるワインスタインと知り合いの男性がワインスタインに抱いているイメージに近いものだった。
正直当事者同士が好意や興味を持っていて、互いがそういう関係になってもいいというのであれば結婚してようが子供がいようが恋人がいようが当人同士の問題であり責任だとは思うし、そう思っている。だけど、監督やプロデューサーが映画の仕事に関して出演させてやる(仕事をあげる)とかいって誘い出して性的な関係を強要するのはまったく話が違う。それは立場を利用した最低の行為であり、擁護のしようがない。だから、やはり被害に遭った人たちにきちんと謝罪をしてほしい。そこからしか始まらないと思っている。
もちろん、いろんな流れがあって告発というか性加害の問題が取り上げられたのだけど、でもあの時SNSで罪人には石を投げつけてもいいというように自分が100%正義の側だという風に勘違いして事件とはなんの関係もなく、ある側面からしか見えていないのに罵詈雑言を投げつけていた人たちのことは本当に軽蔑しているし、それを煽った人たちも正しいという言葉に酔っていたように思えて気持ち悪かった。
それでも、ワインスタインの問題でも顕になった加害者を守るシステムを変えようとしている人たち、被害に遭った人たちをケアする制度やシステムを構築しようとしている人たちがいた。そういう人たちを尊敬するし敬意しかない。
この『SHE SAID/シー・セッド その名を暴け』は今の世界に違和感を感じている人は観た方がいいと思う。作品としての出来も素晴らしいし、ここで描かれていることは実際に起きたことだ。実際に声をあげたアシュレイ・ジャッドは本人役として出演もしている。ほんとうに勇気がいることだったはずだし、彼女のような人がいたからこそ記事は世に出ることになった。
自分にはそういうセクハラやパワハラとは関係ないと思っている人がどのくらいいるかはわからない、あっても自分や組織のためになかったことにしているかもしれない。だけど、そういう人こそ観ることでまず知ることができる。いや見てみないフリをしているこのおかしなシステムを改めて認識し、被害者が声をあげられないで苦しみながら生きていることから目を逸せなくなる、そんな作品になっている。
ミーガンとジョディによって書かれた記事によって大きなムーブメントが広がっていったように、この映画が公開されてより多くの人に届くことでそれはもっと広く深いところに届くといいなと思う。
映画に関してなんら文句はないが、邦題の副題につけた「その名を暴け」というのは観終わるとあんまり内容とは合っていないというか邪魔だなと思ったんだけど、みんなどうなんだろう。
敵というかミーガンたちが立ち向かうのはワインスタインだとわかっているから「その名」っていうのがいまいちよくわからないんだよなあ。『SHE SAID/シー・セッド』で充分意味が伝わってくるし、この映画に興味を持つ人は#Me Too運動のことも少なからず知ってはいるだろうからシンプルなほうがより強く深く届きそうな気はする。
映画を観終わってから同じ階のトイレに行ってから帰ろうかなと思ったら、同じ階にあるギャラリーで「MOTHERのミュージアム」というイベントが開催中だった。無料なので中に入ってみた。ゲームの「MOTHER」シリーズの主人公たちが歩いていくマップというかゲーム画面としてみていたものがレプリカ・スクリーンというものとして展示販売していた。
ゲームというとシリーズ全部を買って実際にプレイして最後までクリアしたものは「MOTHER」シリーズのみだ。プレステ1を買ってからはそれ以降新しいハードは買わなかったが、『MOTHER3』発売の時にゲームがやりたくてゲームボーイアドバンスを買った。というぐらいゲームと言ったら「MOTHER」シリーズぐらいしか思い入れがない。
でも、グッズを買うかというと何年か前のほぼ日手帳で「MOTHER」柄を買って使ってからは買わなくなっていた。同世代の人間は「MOTHER」好きな人が多いからかぶるっていうのもある。気にはなるんだけど、色々思うところがあってこの数年は買っていない。
基本的にはレプリカ・スクリーンが展示されていたが、金色に輝く怪しい像が展示されていた。これは『MOTHER2』に登場した「マニマニのあくま」と呼ばれるものだった。
記憶というものは恐ろしいもので、これを見てすぐに「フォーサイドの裏側にあったムーンサイドを作り出していたマニマニのあくまだ」と思い出した。これらの固有名詞がすぐに出たことにも驚いた。ビットのゲーム画面でしか見ていないし、こういう立体で見るのは初めてだというのに僕の中に残っていた記憶が浮かび上がってきてこの立体と一致したのだから。
『MOTHER』については「1」のラストのほうでわかる過去の出来事の真相(主人公の祖父母のジョージやマリアに何が起きたのか)を彷彿させるものを自分の小説の中で小ネタとして使いたいと前から思っている。
映画『アンダー・ザ・シルバーレイク』の中で物語の中で大きなキーとなるのがゲーム『ゼルダの伝説』だったので、そのオマージュとして僕の好きな任天堂のゲームを出したいというのもあるし、ラスボスであるギーグという宇宙人という存在と僕が想像している多次元を行き来できる存在は近いから使えるんじゃないかなって。
Nes EarthBound Soundtrack
1月15日
起きてからスマホを手に取ってからYahoo!ニュースを開いたら高橋幸宏さんが亡くなったというニュースがあった。僕は高橋さんの活動をほとんど追えていないし、YMOも申し訳ない程度ぐらいしか聴いておらず、METAFIVEの音源はわり好きでと聴いていたというぐらい。
「WORLD HAPPINESS 2011」に行った際に「Yellow Magic Orchestra with Fennesz,小山田圭吾,権藤知彦」が高橋さんの演奏を聴いた最初で最後だったような気がする。
「奇跡の世代」と音楽やってきた先に 高橋幸宏(前編)
躊躇なく、いろんな世代と新しい音楽を 高橋幸宏(後編)
門間雄介著『細野晴臣と彼らの時代』という書籍が出た当時に読んでいたが、インタビューで高橋さんが語っているような日本の音楽シーンを作っていく、中心になっていくことになる人たちとの出会いと交流がまずあって、それが今につながっている。その時そこに居たかどうかというまさに運命としかいいようのないものによって、日本の音楽が一気に鮮やかに花開いていくことになった。そして、彼らの影響は日本だけでなく海外にも広がっていった。
『細野晴臣と彼らの時代』は細野さんの歴史(個人史)で、YMO好きの人はすでに読んでいるだろうけど、僕のような門外漢が読んでもおもしろくて読むのが止まらなかった。二年ぐらい前に出ているから来年とかには文庫版とか出たりするのかも。
SNSを見ると僕よりも年上のリアルタイム世代の高橋さんファンの人が追悼の言葉を書いていたり、寄せていた。やっぱり人間は亡くなった時に残された人たちからどう思われていたかで生前の生き様や人間性がわかるものなんだなと改めて思った。いろんな人に慕われていて影響を与えていたことがわかるものばかりだった。
METAFIVE - Don’t Move -Studio Live Version-
起きてから夕方の仕事まで時間があるので、午前中は散歩しようと思ってradikoで『オードリーのオールナイトニッポン』を聴きながら代官山蔦屋書店まで歩いていく。
雨は降っていなかったが肌寒い気温で曇天模様の空だった。往復すると一時間半ぐらいなのでちょうどいい。蔦屋に近づくと駐車場から行動へ出る道のところにクラシックカーが並んでいた。たぶん、クラシックカー愛好者たちが自分の愛車を持ち寄ってどこかのルートを一緒に走るみたいなイベントなのだろう。前にも見たような気がする。
車には興味ないので書店に入ってブラブラして、二冊ほど欲しい本があったけど下旬になってから買おうかなと思って装幀は覚えておいた。
帰る時にスーパーに寄って卵があればできるCook Doの元と豚バラ肉を買って帰ってから、出る前に炊いておいたご飯と一緒に食べて昼ごはんにした。
スマホのカメラが高画質化するに従い、その存在が忘れ去られつつあった「デジカメ」ことデジタルカメラが、若者の間で再流行していると、米紙「ニューヨーク・タイムズ」が報じている。
(中略)
スマートフォンと比較すると、古いデジカメは画素数が少ないため、被写体の質感を詳細に捉えることができず、また、内蔵レンズの口径が大きいゆえに光を取り込むことができない。これらの理由で「写真のクオリティ自体は低くなる」が、この粗さが「スマホにはない魅力」として、若者たちを魅了しているのだと、同紙は説明している。
Z世代の若者はなぜ「20年前に親が使っていたデジカメ」を欲しがるのか?
なんとなく目に入った記事を読むとレトルブームの流れなのかデジカメがアメリカの若者の間で再流行しているらしい。
そういえば部屋にまだ昔使っていたデジカメがあるので探してみた。充電がなくなっていたのでバッテリーを充電してから本体の電源を入れてみるとSDカードに保存された五百枚強の画像データが残っていた。
偶然だろうけど、元旦に歩いた目黒川沿いを初めて歩いた時の画像から残っていた。その日付は2008年11月17日だった。約十四年前のものでそこからスライドショーで画像を見てみた。
東京タワーのあとに寄った世界貿易センタービルとその展望台から見た浜松町駅付近の光景の画像。
2008年の目黒川沿いから2012年8月7日の豊田利晃監督『I’M FLASH!』の舞台挨拶付きの上映を観にいった際の舞台挨拶を写したものが残っていた。
何年も前にデータを移行するためにある程度削除していたりするから思ったほどなかったり、Googleフォトに移行したものを多かったけど、存在すらも忘れていたような画像があったりして懐かしい気持ちになった。若いなあとか、こういう場所にも行ったんだな、とか、この時はこの人たちと一緒にいたんだなとか思って。
2012年に北アイルランドとイギリスに行く際にはじめてガラケーからスマホに変えてはずだから、それ以降はスマホで写真を撮るようになってデジカメを使わなくなった。スマホにいろんなものがまとまっていく便利さはあるけど、その便利さはつまらないって思う人はそれなりにはいるはずだ。
僕もiPodで音楽が聴きたいけどもう生産は終了していてサブスクで聴けって言われてもなんか嫌だからスマホで音楽は聴かないようにしていて、代わりにラジオを聴いている。なんかわからないけど、スマホでサブスク使って音楽聴く気にならない。
夕方の仕事前に大晦日に読むつもりだった小川哲著『地図と拳』をようやく読み始めた。第一章まで読み終えた。この厚さでこの先もっとおもしろくなって展開していくなら、すでに山田風太郎賞を受賞しているけど、直木三十五賞も間違いなく受賞すると思う。
今回はこの曲でおわかれです。
Sonic Youth - Schizophrenia - A-D-D
METAFIVE - The Paramedics (Live at METALIVE 2021)