9月上旬の日記(2024年9月1日から9月15日分)
9月16日
日付が変わる手前まで読書をしていた。井伏鱒二著『山椒魚』を読み終えてから、小林秀雄著『Xへの手紙・私小説論』と三島由紀夫著『春の雪』を少し読み進めた。『春の雪』はようやく物語が大きく動き出すところに入ってきた。悲劇の始まりの入り口に主人公の松枝清顕とヒロインの綾倉聡子が立ってしまった。
9月上旬の日記をはてブにアップしてから、noteに半年前の日記をアップした。
6時前に少し肌寒くて目が覚めた。敬老の日ということで休みだが、可燃ごみの日だからゴミ袋を集積所に持って行ったら地面が雨で濡れて色が変わっていた。
天気予報を見ると午前中は少し雨が降るらしい。気温は下がるだろうが湿度が気になる。実際に気温が下がるのは週末以降らしいので蒸し暑いかもしれない。
8時半まで少しだけライティング作業をして散歩へ。前に代官山蔦屋書店のサイトを見ていたら「A24 BOOK FAIR」が16日から開催とあった。
着いてからフェアの場所を探したら2号館にあった。月末に『憐れみの3章』が公開されることに合わせてヨルゴス・ランティモス監督『ロブスター』の上映を先週ぐらいに見ていたこともあって、その作品のスクリーンプレイが気になっていた。
A24のサイトでは10月以降にアカデミー賞を席巻した『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』のスクリーンプレイも発売ということで、欲しいなと思っていくらぐらいか見てみたら、本体は$60で配送料が$22.77だった。今日は$1=¥140.52 だから日本円にすると11,630円だった。海を越えるし輸送量に関してはこのぐらいだろう、以前にもA24の公式サイトのショップから「エブエブ」のポスターを買ったけど、そのぐらいだったので違和感はない。
実際に置かれている商品を手にとって値札を見てみると税込で13,200円だった。うーむ、これだけの本を輸送してもらうとか利益とか考えてみたら妥当か。でも、めちゃくちゃ欲しいわけでもないしなあ、と元に戻した。
第31回松本清張賞受賞作の井上先斗著『イッツ・ダ・ボム』を。装丁のデザインになっているのは文藝春秋社の地下の駐車場に実際に描かれたグラフティを用いている。これまで何作かの受賞作品のものとちょっと印象が違っているのがいいなと思った。
10月末に松本清張賞の〆切があるので前回の受賞作は読んでおこうということもあった。この賞に応募するためにエンタメ作品にしないといけないので僕にはちょっと荷が重いが、僕なりにエンタメのフリをした純文ぽい作品を書き終わらせて応募する。
『山椒魚』を昨日読み終えたのもあって、井伏鱒二著『荻窪風土記』の文庫も一緒に購入した。元々井伏鱒二作品を読もうと思ったのは、高校で通っていた笠岡市出身でその名前を冠して短編小説賞が開催されている小説家の木山捷平の作品をいくつか読んだ中で、実家が近い井伏のことも出ていたからだった。
木山もだし、井伏もそうだし、太宰治もだしあの頃の小説家たちは中央沿線に固まっているなって思うし、小林秀雄もそうだし、彼の妹と結婚した漫画家の田河水泡もある時期は中央沿線に住んでいたりするのも興味深い。
田河水泡について書こうと色々と以前から調べていた。ちょっと前に応募する先を変えたこともあって、田河水泡という漫画家になる前の青春期の、高見澤仲太郎だった頃のことを書こうと思った作品は彼が生まれ育ったエリアに近い場所にある出版社の賞に送ることにした。そこの住所も含めて僕には意味があるところで、そういう自分ごとに寄せる、意味を持たせる方がいいなと思う。
18時からはニコラでライブイベント「真夜中の航海」に。カウンター友達というか知人のピアニストである山田俊二さんの企画で、ミュージシャンの古川麦さんと扇谷一穂さんがゲストな一夜。
最初に山田さんの演奏、数曲後には扇谷さんが参加して、古川さんも参加、休憩後に古川さんの演奏、扇谷さんと山田さん参加という風に、いろんなバリエーションでやっていた。
山田さんが作曲したものに古川さんが歌詞をつけて歌った曲はウォン・カーウァイ監督『ブエノスアイレス』からもインスピレーションを受けたものでとてもよかった。扇谷さんが歌う声もゆっくりと揺れる蝋燭の火みたいな派手ではないけど、強い風でも消えない芯があるような確かみたいなものを感じられた。
終わってから出演者の人たちとちょっとだけ残っていた客で飲みながらのんびりと話をしていて、とても落ち着く空間だしたぶんお酒を飲みながらタバコの煙が舞っていて、話し声が絶えない空間がカフェだと思うし、夜の歴史を作ってきたんだろうなって。
家に帰ったら日付が変わりかけていて、Spotifyのポッドキャスト番組『83 Lightning Catapult』最新回がアップされていたので、それを聴きつつ寝落ちした。
9月17日
ジャクソン5のティト・ジャクソンが70歳で死去 | Daily News | Billboard JAPAN
I Want You Back - The Jackson 5
昨日の夕方前にティト・ジャクソンさんが亡くなったというニュースを見た。マイケル・ジャクソンの兄であり、ジャクソン5のメンバーであり、世界的なセレブと言っても何ら問題のない著名人だが、僕は一度だけお会いしたことがある。
ミュージシャンの西寺郷太さんの弟の阿楠さんが以前に三茶でやっていたバーのサンキングで忘年会か何かをしている時に、郷太さんを訪ねてお店に来られたことがあった。店内には十人ぐらいいたが、みんな来ることを知らなかったのでびっくりして、そのままなぜかみんなティトさんに握手してもらって記念写真を撮るという流れになった。とても温和な優しさが溢れ出ているような人だった。そこにはV6の井ノ原さんもいたから、その写真は絶対にSNSにあげるなよと言われたのも今では良い思い出。
当時の画像をGoogleフォトで探したらその写真は2013年12月25日だった。そこにいる人たちは今は会う機会がなくなった人たちが多かったりして、ちょっと懐かしく思えた。ご冥福をお祈りします。きっと、お父さんやお母さん、仲の良かった弟のマイケル・ジャクソンと一緒に過ごしているといいな。
昨日が祝日で休みだったので代わりに火曜日はリモートワーク。7時前に起きてからペットボトルの回収を集積所に出してから、ちょっとだけ読書。
仕事を始めてからはradikoで『空気階段の踊り場』『JUNK 伊集院光 深夜の馬鹿力』『chelmicoのオールナイトニッポン0』を作業用BGMがてら流す。
「chelmicoANN0」は五年ぶりらしい、フワちゃんの後枠で僕が最初に浮かんだのは彼女たちchelmicoだった。ニッポン放送のポッドキャストもやっているし、彼女たちがレギュラーでも違和感ないなって思う。あとANNブランドで今の所女性二人っていない気がする。ただ来月からは月曜日「ANN0」は月毎に決まったパーソナリティーがやっていく感じになるらしい、ある種それがオーディション的なことになるのかどうなのだろう。
From Q presented by Aston Martin Ginza | TOKYO FM | 2024/09/15/日 19:00-19:55
菊地成孔さんがパーソナリティーで今回のゲストは武井壮さん。数日前に放送されていたのに気づいていなかったので作業中に流していた。
月に一回ぐらいの頻度で放送していたけど、今回でとりあえず一区切りらしい。武井さんスーパーカーも好きだし、アストンマーチンの車や映画『007』シリーズについても話をされていて、菊地さんとのやりとりもいつものバラエティよりは抑えている感じはした。真面目な話と世界的に売れたいという野望とかを話していても武井壮だからこその謎の説得力、菊地さんもそれを楽しみながらトークしていてこの組み合わせよかったな。
音楽評論家のアダム・ハーパーは、ヴェイパーウェイヴ (Vaporwave) なる音楽ジャンルに「浅薄で捨て去られるようなガラクタを、ときに神聖もしくは神秘的な何かに変容させる不気味な傾向性」を認めている。ウラジーミル・ソローキンが、ソ連時代のジャンクヤード――ソ連崩壊という「歴史の終わり」によって築かれた瓦礫の山と廃墟――からサルベージしてきた過去の諸断片を自在にパッチワークすることで奇怪でキッチュな小説を組み立て上げるように、ヴェイパーウェイヴもまた、放棄されたジャンル音楽の遺物――八〇年代から九〇年代のムード音楽(ラウンジミュー ジック、スムースジャズ、エレベーターミュージック、等々)―――をサンプリング&加工(スクリュー、ループ、 ピッチ変更)して再構築することで、過去に取り憑いた夢とメランコリーを亡霊という形でいまここに回帰させてみせる。そして、そこにもやはり、ある種のなつかしさが常にあるのだ。
前述のジグムント・バウマンは、ミレニアル世代に象徴される、未来ではなく過去へユートピアを求める心性を指していみじくも「レトロトピア」と名付けた。理屈の上では、過去は変えようが なく、反対に未来は自由の領域としてある(そこではすべてが可能性として潜在している)。だが、未来がすでに失われている、あるいは未来が終わった後の世界を生きている者たちにとっては、むしろ過去は無限の可塑性を湛えた、操作と再造形の可能性の場として立ち上がってくる。フェイクニュース、陰謀論、偽史の氾濫……。ポスト・トゥルースとはレトロトピアの時代に特有の現象といえるだろう。
木澤佐登志著『終わるまではすべてが永遠』P70-71より
今月末発売のマーク・フィッシャー『K-PUNK アシッド・コミュニズム』の帯に惹句を寄せています pic.twitter.com/h3aSUSmvix
— kzwmn02 (@euthanasia_02) 2024年9月17日
リモートワークが終わってからライティング作業前に読書。木澤佐登志さんの新刊を読んでいたら「ヴェイパーウェイヴ」と「レトロピア」に関することが記載されていて、前にも書かれていたと思うがこの説明が一番わかりやすい。
マーク・フィッシャーの「K -PUNK」シリーズ三冊目が出るみたい。この装丁デザインもいい、たぶん最初に一冊目の時に三冊目まで出るみたいなことが書かれていた気がするのでこれで終わりみたい。
火曜日はSpotifyで『アルコ&ピースのしくじり学園放送室P』(ゲスト:ドリアン・ロロブリジーダ)、『あのと粗品の電電電話』、『ランジャタイ国崎の伝説のひとりぼっち集団』が配信されるので夜は聴きながらライティング作業をする。
「アルピーしくじり」のゲストのドリアン・ロロブリジーダさんはドラァグクイーンで、僕も説明を聞くまでわかっていなかったけど、「drug ドラッグ」ではなく「drag ドラァグ」であり、男性が女性用のドレスなんかを着るものの慣れなくて引きずっていたことに由来する(諸説あるらしいが)みたい。なるほど。
「あの粗品」のいつもの温度感のトークはなんか安心。「国崎ひとりぼっち」は隔週公開で今回の配信で二回目。伊藤さんがいた時とあまり変わらないというか、さらに伸び伸びしてるようなテンション。一人でトークできちゃうことを証明しちゃっている。
9月18日
月曜日が祝日で昨日休みだった火曜日に出勤したけど、来週も同じパターンだった。今日水曜日はなんとなく有給使いたくなって使っていたのでのんびり起きる。
Facebookの「思い出」をなんとなく見ていたら、上の画像が出てきた。
12年前の2012年に僕は北アイルランドのポータダウンにいた。ひとりで行く初めての海外だから、それまでスマホは使いたくないと言ってガラケーをまだ使っていたけど、海外だしGoogleマップを使いたくてスマホにしたのもこの旅行からだった。
祖母の兄で初生雛鑑別師だった新市さん、排日運動が激しかった1939年に日系移民の人たちに呼ばれてカリフォルニアで一年間楽しくやって、帰ってきて長男だから見合いして子供だけ作って逃げるようにイギリスに飛んだ。
大戦勃発で日本がイギリスの敵国民になったらマン島に収容されたのに雛のシーズンにはその腕を見込まれていたから外に呼ばれて鑑別しまくった。日本人だからプレミアがついてめちゃくちゃお金も出してもらった。たぶん、これが初生雛鑑別師が一年で家が建つほど稼いでいたみたいな都市伝説の真実。
日本が勝つと呑気に信じていたから、日本に帰りたがっていた人にそのお金を貸したりしていた。敗戦後にも日本には帰りたくないから一緒にいたもう一人の仲間と仕事をよくしていたイギリス人に北アイルランドのアーマー州にある養鶏場を任された。
お父さんとお母さんが亡くなった時に日本にだけ帰国したけど、相方の人が亡くなって、かつての鑑別師の仲間たちがやってきて日本に帰ってきたらどうだと言ったけど、もう日本には自分の帰る場所はないと言ってポータダウンで静かに亡くなった人。
radikoで『アルコ&ピース D.C.GARAGE』と『JUNK 爆笑問題カーボーイ』を聴きながら朝のルーティンでライティング作業を8時半までやってから、家を出た。
夕方から雷や雨がという予報だったが、午前中にしてはすでに暑かった。日差しも強いのにちょっと湿気があるという最悪な天候、歩くには一番最悪な感じだからすぐに汗がわきでてきた。
TOHOウェンズデイで鑑賞料金も安いので三谷幸喜監督『スオミの話をしよう』をTOHOシネマズ渋谷にて鑑賞。さすがにお客さんは多くはなかったけど、年齢層は高かった。
三谷さんの舞台作品は一度も観れていない。映画はデビュー作『ラヂオの時間』から『みんなのいえ』『THE 有頂天ホテル』『ザ・マジックアワー』『ステキな金縛り』までは続けて観ていて、間が空いて前作『記憶にございません!』で今作という感じでわりと観ている方だと思う。
長澤まさみ演じるスオミが突如行方不明になり、その元夫四人と現在の夫を含めた男たち五人が彼女について語り出すというミステリーコメディ作品。コメディとあるようにスオミが行方不明になっている理由なんて最初に思った通りのことでなんも驚きもないし、おばさま方らしき人たちが笑っていたシーンはちょっと僕には寒く感じてしまうところで、そういうものなのだろうなと感じた。
映画館で寝るにはいい映画だと思う。はっきりとつまらないと言える映画だった。最後に長澤まさみと男たちが歌い踊るエンディングがあって、カーテンコールをしっかりやっているのだけど、そこが一番笑えた。三谷幸喜が長澤まさみを起用していろんな役柄を見たかっただけなんじゃないかな。野田地図で長澤まさみの素晴らしさを観ていたこともあって、すべてが真逆に感じたのでよりひどい評価というか、つまんないと言い切れてしまうのかもしれない。
#あの のオールナイトニッポン0
— あののオールナイトニッポン0【公式 毎週火曜27時~放送】 (@ano_ann0) 2024年9月17日
お聴きいただきありがとうございました🙇♀️
ゲスト:#熊元プロレス (#紅しょうが)🐻
初の番組グッズ・パジャマのデザイン案を
熊プロさんと考案👚✉️🐟
radikoのタイムフリー👇https://t.co/XYOF93MwrT #あのANN0 pic.twitter.com/MUIHoO9LzY
渋谷への行き来は『あののオールナイトニッポン0』を聴いていた。前にゲストで来た友達のメイプル超合金の安藤なつもそうだったし、今回のゲストである紅しょうがの熊元プロレスといい、あのちゃんとふくよかな女性とのトークはいつも以上に彼女がリラックスしているように感じる。あと自然と下ネタというか、性の話とかをあのちゃんがわりとしていて、ゲストの方が濁そうとしていたりとその関係性とかノリも楽しい。
家に帰ってご飯を食べた後に先月頼んでいたZAZEN BOYSとスタイリストの伊賀大介さんのコラボTシャツが届いた。これ着て来月のZAZEN BOYS武道館ライブ行くんだ。
夕方前から今日はこのあとは全部読書で併読している本を読み進めることにした。小林秀雄著『Xへの手紙・私小説論』が読み終わって、次は同じ著者の『作家の顔』に。目次を見るといろんな作家の名前があった。中原中也の名前もあったが、僕が一番読みたいのは彼の妹の夫である漫画家の田河水泡のことだった。やっぱりこの辺りの作品論とかでは小説や詩についての評論はあるけど、漫画のこととか田河水泡についてはいないみたい。雑誌とかで対談とかはしているはずだけど、この手の書籍には収録されていないのかな。
ガブリエル・ガルシア=マルケス著『百年の孤独』新潮文庫版を最後まで読み終わる。長かったけど、ほとんどわかっていないと思う。
ある一族とその町の栄枯盛衰譚だから壮大さもあるけど、極めてミクロというか個人史にも近い。かつていた父や母たちの名を継いでいく、名付けられる子供たちや子孫が多いので死んだはずの人が蘇っているようだし、文章で読んでいくと同じ名前だから混乱もする。そのことで彼岸と此岸が入り混じったかのような錯覚も起きる。だけど、生きていること自体がすでに死んでしまった人たちの先の日々を進んでいるだけで、過去やいなくなった人たちが消えるわけではなく、一緒に引き連れていく。
あるいは人間には聞こえない音や見えない(感じない)色があるように、この三次元では彼らは亡くなって焼かれて骨になり、土の中にいるが、その意識や記憶は四次元やさらなる次元では生きているように存在しているかもしれない。
僕らは見えている、五感で感じているものだけですべてではないから、この小説に書かれているもの、マジックリアリズムと呼ばれるものは僕には何か腑に落ちてしまうし、そういう現実はあるだろうと思う。何度読んでもわからない部分や自分では理解できなかったりする部分はあるだろうけど、それでいいだろうし、わかったと思うようなおごりはこの物語とは真逆にあるのではないか、と思う。こういう過去の小説が改めて今の時代に読まれていることは興味深い。
現在のエンタメとは違うし、考察しがいはあるだろうけど、このことを拒否するような、無粋なことはせずにただ書かれてるテキストに読者がどう感じるかだけでいい。
週に一度実家に電話をして、103歳になった祖母と少しだけ話す。父や母が言うにはかなり痴呆がかなり進行しているらしい。いつも話すことは「元気にしよんか?」「元気だよ、おばあちゃんは」「元気じゃ、またいつか会おうな」というやりとりがマストでプラス二言三言加わる。
一緒に暮らしている父や母からするともういろんなことが混ざり合っていて、父を違う誰かと間違っていたり、かつてあったのかもしれない出来事について文句を言ったり、亡くなってだいぶ経つ兄妹のことを言ったり、幼少期になりたかったものについて許してくれなかったお父さんへ恨み言を言ったり、急に混乱してしまうというらしい。
数年前に帰った時にもボケが来ているのは話していてわかったけど、きっと今のおばあちゃんには過去しかなくて、それらが羽化するために蛹になっている蝶みたいに、すべてのものが溶けて蛹の中でドロドロになっている。見方によればすべてが混濁している。何かが急に浮かび上がってきてその時の、時間軸の自分に戻る。そうすると年老いた息子やその嫁は誰かわからない。という感じなのだろう。そこにはいくつも過去の時間軸が同時にあり、彼女は生きてきた時間すべてと共にある。だから死んだはずの誰かはその瞬間には生きているし、もう過ぎ去ってしまったことを急に思い出してしまう。
『百年の孤独』はそんな祖母の脳内で起きているようなことが描かれている作品なんじゃないだろうか、起きたことも起きていないことも存在していて、すでに死んでしまった人たちも時折現れる、辻褄が合う合わないではない、終わりの景色の中でただすべてがそこにある。その孤独は誰かと共有はできずに、その人だけのもの。それを小説として表現しているのが『百年の孤独』だと僕には思えた。
「第一部 オン・ザ・ストリート」は、語り手の私が、素性不明のグラフィティライター・ブラックロータスに関するルポルタージュを執筆すべく格闘する姿が描かれる。正体を暴きたいわけではなかった。新宿駅西口の地下通路に無許可で仕掛けられた一作を皮切りに、わずか2ヶ月弱で「日本のバンクシー」と呼ばれるようになったブラックロータスの作品は、なぜこんなにも人々の心を動かすのか? それを知るために、グラフィティ関係者への取材を重ねていくと──。
(中略)
「主人公がブラックロータスに関して導き出した結論は唯一の正解ではなくて、ひとつの意見に過ぎないんですよね。第一部で終わってしまったら、それが正解として受け止められかねないなと感じたんです。第一部で取材対象者として登場する TEEL というグラフィティライターの描き方にも、不備があると感じました」
TEEL は街中で無許可のグラフィティを淡々と書き続ける、界隈では有名だが一般的には無名のグラフィティライターだ。
「主人公から取材を受けた関係者の中で、彼だけが自分の価値観を傷付けられずにいるというか、あまりにもかっこ良すぎるなと思いました。その原因は明らかで、グラフィティについて調べている時に、この考え方は面白いなとかかっこ良いなと思った部分を TEEL に込めて書いているからなんですよね。ある意味、彼がグラフィティライターの正解という位置付けになってしまっていると感じました」
それらの「正解」をひっくり返すために、第二部を書くべきだと心が動いたのだ。
井上先斗『イッツ・ダ・ボム』◆熱血新刊インタビュー◆
『百年の孤独』を読み終わってから一服してから、この前買っていた『イッツ・ダ・ボム』を読み始めた。ページ数を確認したら200ページぐらいだったので二時間半あれば読み終わるので日付が変わる前に最後まで行けると踏んだから。
このインタビューにあるように第一部と第二部に分かれていて、二つの文量もあまり変わりがない。第一部を読み終えたら一時間ちょうどぐらいだった。
作中で言及されていた映画『Style Wars』や『イグジット・スルー・ザ・ギフトショップ』を観ていたこともあって、グラフティに関して少しだけイメージしやすかったのもあったし、ストリートに関することの説明的な部分も簡略でわかりやすく、テンポも良かった。特に第一部は説明する部分が多いのだけど、知らない人が読んで楽しめるように物語の進み方とそれが同調しているのもエンタメとしてちゃんとしていた。
第二部からは主人公が変わり、ある意味ではどちらも「ライター」であるけど、物語が大きく動き出していた。第一部では「ブラックロータス」が描いたものとその現象について書かれていたものが、第二部では「TEEL」というグラフティライターの視線の物語になっていく。そして、「TEEL」と「ブラックロータス」の関わりが展開されていく。第二部が第一部の説明を受けてどんどん現場で起きていることになっていくので躍動感もあるし、テンポも良くなっていく。確かに第二部にしたことでこの小説はポップさも出ているし、心身のどちらも揃ったような印象を持った。こういう作品が受賞するのかあ、やっぱり読みやすさは大事だし、一気に読まさせる展開も必要だ。
鈴木真海子 - 5月のうみ (Live at 恵比寿 Garden Hall)
9月19日
7時過ぎに起床。エアコンをつけずに寝たが、汗もあまりかいていなくてやっと夏が終わりかけている。ちょっと前まではエアコンをつけずに寝ると寝巻きがわりのTシャツの胸元が汗で濡れていることが多かった。
少しずつ秋っぽくなりつつあるけど、僕たちが子ども時代の夏の感覚がこの時期ぐらいになっているような気がする。もう、この数年の7月8月はかつての夏とは別物だし、命の危険がある暑さになっている。
残暑がもう少し残るっぽいけど、そうすると秋がわずかな期間だけあって、すぐに寒くなってしまう。そして、すぐに新しい一年を迎えることになる。
朝のルーティンで少しだけライティング作業を進めてからリモートワークを開始。昨日、有給を使ったので普段朝の仕事が入っていない木曜日も始動。
仕事で出版社のサイトを見ていると、筑摩書房と早川書房のサイトがリニューアルしていた。新刊に何かが出るかを見ているとちくま文庫で木山捷平の文庫本が出るのが目に入った。
木山捷平作品は今年になってから講談社学芸文庫シリーズで六冊読んでいるので、オリジナル短篇集として出るのはなんかうれしく感じる。おそらく、すでに読んでいる短編が収録されるのだろうけど、こういう形でリイシューしないと残らないし、僕みたいに偶然読むきっかけがあった人じゃないと亡くなって時間も経ち、夏目漱石や芥川龍之介みたいな作家でない限りは名前を知るきっかけもない。
たぶん、筑摩書房は太宰治賞を主催していることもあって、太宰とも関係のあった木山捷平の作品も残したいという理由もあるかもしれないと思った。
昼休憩の時に駅前のツタヤ書店で木爾チレン著『二人一組になってください』が出ていたので購入。チレンちゃんの新作はデスゲームらしい。どんどん書き下ろしで新作を出していて本当にすごい。
菅田 本来であれば、30歳になるタイミングで、青山真治監督と映画を撮る予定だったんです。でも、青山さんが亡くなってしまって……。僕の中にそのために『共喰い』からの10年、俳優をやってきたんだけどなという気持ちがあったのですが、そのタイミングで、黒沢さんから声をかけていただいて、止まるわけにはいかないなという、そういう希望をもらえました。
「最後は、地獄の入り口に立っている感覚でした」 映画『Cloud クラウド』の#黒沢清監督 と主演・菅田将暉 さんに初タッグの感想を聞いた
中上健次の影響を受けた青山真治監督作品が好きだった。「北九州サーガ」における健次(浅野忠信)のような存在を、菅田将暉に見てたんじゃないかな。と想像した。30歳になった菅田将暉と青山監督の新作映画観たかったと心から思う。
Netflix無双時代に突入!? 『地面師たち』に続く必見作『極悪女王』の凄さを解説【宇野維正のMOVIE DRIVER】
リモートワーク終わってから宇野さんの動画を見てから、配信されたばかりのゆりやんレトリィバァ主演ドラマ『極悪女王』を見ることだけの夜にした。
存命の人で言えば、NHKの「朝ドラ」で大泉サロンと「花の24年組」の中心人物だった漫画家の竹宮惠子さんと萩尾望都さんをダブルヒロインでいつかやってほしい(二人の関係的に存命中は絶対に無理だろうけど)とずっと前から思っている。
「花の24年組」の中でも竹宮さんの『風と木の詩』と萩尾さんの『ポーの一族』がなければ「やおい」という文化もそこから進化していった「BL」というジャンルも今のように当たり前なものにはならなかった。もちろん、「花の24年組」自体は手塚治虫チルドレンで、トキワ荘にいた漫画家の影響下にあった世代だが、彼女たちの影響を受けた少女漫画家たちや、二次創作をしていった人たちによって今の「BL」というジャンルが花開いて一般化していった。
竹宮さんや萩尾さんは「やおい」や「BL」というものになるものを最初から作ろうとしていなかったと思うけど、当時の若い彼女たちを苦しめていたものや家父長制や自分たちの女性性などに対して、描いたものがあって形にした作品がそういうジャンルの「祖」となっていくことなんか予想もしていなかったはずだ。ジャンルの始まりでもあるけど、「マンガの神様」と呼ばれた手塚治虫とトキワ荘の漫画家たちのほとんどが男性だったが、彼女たちから女性が少女漫画を描くようになっていく最初の世代に入る。彼女たちが読んでいた少女漫画は手塚たち男性漫画家が手がけたものだった。だからこそ、彼女たちのことを描くのは非常に戦後日本社会だけでなく、男性社会への抵抗でもあっただろうし、その意味では『極悪女王』とも通じる部分があると思う。
朝ドラを竹宮&萩尾で行くなら、同じくNHKの大河ドラマならミュージシャンの細野晴臣さんしかない。おじいさんがタイタニック号の沈没からの唯一の日本人生還者という大きな歴史から始まって、孫として生まれた細野さんの幼少期からの音楽との出会い、日本語ロックの始まりとされる「はっぴいえんど」時代にティン・パン・アレー、そして狭山アメリカ村での日々やソロ作品からのYMO結成とそのワールドワイドなブーム、散開後の活動としてのアイドルへの楽曲提供とかも歌謡曲の歴史も描ける。そこから現在までを星野源さん主演でやってほしい。この二つの朝ドラと大河ドラマがあれば、戦後日本社会から現在に繋がる漫画と音楽の物語がしっかり描ける。
『極悪女王』を見始めた時にそんなことを考えていた。文章にして書いたら長くなったけど、このドラマでは主人公であるダンプ松本さんとその親友であり、後にはライバルとなる長与千種さんやライオネス飛鳥さんや他のレスラーたち、全日本プロレスのオーナーである松永兄弟など関係者もまだ存命名の人が多く、名前もフィクション用に変えているわけではない。また、全女プロと一緒に各地を回っていたミゼットプロレスの小人症の人も役として出ているなど、地上波でやるとするとおそらく色々と難しそうだし、変更しないとダメだっただろうなという部分はあった。
『地面師たち』同様に地上波ではできないことを、地上波よりも過激なことをネトフリの配信ドラマではやっているから、視聴者や作り手が流れてくるのも仕方ない部分はある。動画で宇野さんが言われていたがアメリカではずっと前にケーブルテレビとかそっちに流れたらしい。
日本でも今後地上波のものはそこそこおもしろくても、今年は特に『地面師たち』『極悪女王』の二つでドラマ好きはこちらに流れただろうし、こういう作品をどんどん見たいと思うようになっていくだろう。
実際に芸人さんたちがやっているラジオを聴いていても、TVerでバラエティを見ていても『地面師たち』のピエール瀧さんのセリフを言っている人たちはかなりいたし、ネタみたいになっていた。でも、地上波のドラマでそういうネタなんかになっているものはなかったように思う。流行に敏感な芸人さんたちが一気にそっちに向かっているのはただおもしろいだけではなく、流れが完全にそちらだということにも思える。
Netflix『極悪女王』本日9月19日配信。ゆりやん、唐田えりか、剛力彩芽らキャストと登場人物を紹介 | CINRA
柳澤健さんの著書『1985年のクラッシュ・ギャルズ』を前に読んでいたから、なんとなくわかっていたけど、リアルタイムじゃない世代にはこういうのは大事。誰が誰なのかが途中でわからなくなったりすることもあった。メイン以外の人がわかっている方がよりおもしろさは増すし見やすい。
ゆりやんレトリィバァは本当に素晴らしいし、家族問題のことである意味では『ジョーカー』よりもジョーカーみたいな存在になっていく。闇落ちとも言えるが、家族のことと親友だった長与千種が全女のスター選手になっていく中で芽生えた悪意のようなものが入り混じり合って、スターレスラーに対する最悪なヒールレスラーへと変貌していく。ヒールレスラーのダンプ松本というキャラクターが松本香という本来の彼女自身を飲み込んでいく、だからこそ最高のライバル悪役レスラーになれたのだろう。
もう一人の主人公と言える長与千種役の唐田えりかはこれで完全復活と言えるだろうし、この作品がとんでもない起爆剤になっていくだろう。もちろん、元々美形で綺麗な顔だし、実際の長与さんと似ているかと言われたら雰囲気なんかは似ていないけど、長与千種だと言われたら頷くしかない説得力がある。不倫発覚後にいろんなものを失った一人の俳優として、再起をかけたこの作品で彼女自身はその地獄から甦ってきたように感じられる。すべてを賭けて彼女は勝負に勝ったように、見える。長与千種という存命の人を演じながら、唐田えりかという俳優の復活劇(ノンフィクション)という二重性も加わってくる。
この二人がメインで、長与の相方であるライオネス飛鳥を演じた剛力彩芽も今までの彼女のイメージとは違う骨太な存在感であり、ジャッキー横田と飛鳥の可能性も見たいと思わせた。
全女の創業者であり、彼女たちに立ちはだかるポジションとして、また当時の男社会の象徴としての松永兄弟を演じた村上淳、黒田大輔、斎藤工もインパクトがあったし、ダンプ松本と組むことになった興行プロモーター兼レフェリーを務めた阿部四郎を演じた音尾琢真もいい味を出していた。
プロインタビュアーの吉田豪さんがSHOWR00Mで配信している『豪の部屋』に柳澤健さんが出ているのをYouTubeで『極悪女王』が配信する前に見ていた。そこで触れられていたこととして、この作品の中で松永兄弟が試合の勝敗についてのことで「ブック」という単語を何度も出しているが、あの当時には「ブック」なんて言葉は言っていなかったというやりとりがあった。
試合でどちらかが勝つということだけは決まっている。それまでの試合の流れは対戦相手同士が試合の中で組み立てていくが、勝つのはどちらかというのは事前に伝えられていて、選手はそれを守る。会社が売りたい選手は勝たせる、ベルトを取るように組み立てていく。だが、それを守らない、ガチで勝負することを「ブック破り」だと作中でも松永兄弟が怒ったりしていた。だが、「ブック」というのは全女全盛期の頃には使っていなかったはずであり、プロレス監修として長与千種さんも入っているし、プロレスの有識者にチェックや相談はしていないのだろうかと二人は疑問に思っていたみたい。
僕のような門外漢でも、「ブック」という言葉は当時使われていなかったけど、ドラマというフィクションにして世界で配信することを考えたら、わかりやすくて便利なその単語をあえて制作サイドは使ったのではないかと思える。
そのことを知らない人たちはあの当時から「ブック」という言葉が使われていたと思うだろう。おそらく、このような形で虚実は入り混じり、現実ではなかったことが現実として周知して広まっていく。
また、存命の人たちも多いので、実際にあったこととなかったことについて本人たちではなく、当時の関係者も何か言うことになるだろう。もちろん、正しくないから正しいことにしたい人もいるだろうし、このドラマの流れでもう一度脚光を浴びるために表舞台に出てきて文句を言う人もいるだろう。おそらくこのドラマはそういうことが起きてからもっと大きな波になっていく。そこも予想して作っている気もする。
最後にはその男性社会の象徴に対してダンプ松本や長与千種は自分たちの自由を取り戻すかのような試合をすることになる。そこには同期入門の絆があり、血まみれになった先にあったシスターフッドだった。
松永兄弟という男社会の象徴に夢を見た少女たちがある意味で精神的にも肉体的にも支配されていた。ただ豪さんや柳澤さんも言われていたけど、当時の女子プロだった人に話を聞いてもほとんどの人が彼らを恨んでいないというらしい。もしかすると、そこにはストックホルムシンドローム的なものもあったのかな。
松永兄弟の長男で会長(村上淳)は試合会場で焼きそばの屋台をやっている&それをミゼットプロレスの選手も手伝っていた。彼女たちのプロレスはミゼットプロレス同様に見せ物だったということ、会長はその認識だったのだろう。だから、弟(斎藤工)がテレビ中継にこだわることにも対して、ダメだったらまたドサ周りをすればいいと言っていた。その意味でも河原乞食から始まった差別と共にあった芸能の歴史とこの女子プロレスは近いというか系統は一緒である。日本の芸能は差別とともにあった。ただ、女子プロはビューティペアからクラッシュギャルズと会場に見にきていたお客の九割近くは少女たちだったらしい。後にそれがジャニーズになるのだろうし、今のK-POPを得たアイドル(男女どちらも)たちを応援する、推し活をする人たちに繋がっているのだろう。
流血シーン苦手な人は目を背けたくなる場面が後半にはいるとどうしても増えてしまうが、それでも大ヒットというかネトフリでの再生回数も『地面師たち』同様に世界的に広がっていくだろうね。となると来年あたりに配信する作品ももう何年も前からやっているだろうから、それらの作品が続かないといけないからプレッシャーは増しそう。見終わったら深夜二時を過ぎていた。
9月20日
7時過ぎに起きたけど、ちょっと眠り足りない感じだが、ずるずると眠るわけにもいかないので朝のルーティンでリモートワークするまでライティングをするがあまり進まなかった。
『四千頭身 都築拓紀のサクラバシ919』『ハライチのターン!』『JUNK おぎやはぎのメガネびいき』『マヂカルラブリーのオールナイトニッポン0』と続けてBGMがてら流して朝のライティングからリモートワークの作業中に流した。
「都築サクラバシ」は前週の放送でイベントやるんだろうなって思っていたら、その告知があって、キャパ1000人の箱でのイベントのことでめちゃくちゃテンションが上がっていたのでいつも以上に続きがラジオモードになっていてよかった。他の番組はいつも通りだった。
【NEWS】#三四郎ANN0 バスツアーを舞台にした生配信ドラマ!
— オールナイトニッポン (@Ann_Since1967) 2024年9月20日
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ニッポン放送 開局70周年×WOWOW
共同製作生配信ドラマ
「#ゴーストオブレディオ
~バチボコ怖い心霊バスツアー~」
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11/17(日)、11/29(金)生配信決定!https://t.co/O1rljGHzID@ghost_of_radio pic.twitter.com/hxmf4YgH6w
新TwitterことXのタイムラインにニッポン放送 開局70周年×WOWOW共同製作生配信ドラマ「ゴーストオブレディオ~バチボコ怖い心霊バスツアー~」というイベントがあるというのが昼過ぎに流れてきた。
おお、三四郎の武道館ライブを挟んで二日間あるけど、武道館に行くファンとしてはこのスケジュール大変すぎない?という疑問しかない。二日目の配信付きのニッポン放送のイマジンスタジオでの観覧付きをとりあえず抽選で申し込んでみた。取れなくても、キャストの対談付きの二日券を取ればいいやって。
ささきめぐみ個展『チョビとその周辺』では、実家の猫・チョビとその周りにある景色をまとめた作品集『CHOBI CHOBI NIKKI』を先行発売しています。チョビと一緒に暮らすお母さんさんの手書きの日記も収録されています。
— twililight(トワイライライト) (@twililight_) 2024年9月19日
“かわいいなぁ”と今日は何回言ったかな。“かわいい”“かわいい”“あー、かわいい!” pic.twitter.com/VeCvOY3u9U
昼休憩で家を出る。昨日の時点で気温がかなり高いので注意してくださいとアナウンスが出ていたが、確かにめちゃくちゃ暑い。日差しが暴力的すぎる上に、微妙に湿気もあるような気がする。一番外を歩きたくない外気の状態だった。
駅前のスーパーで昼ごはん用の惣菜を買ってから帰りにトワイライライトに寄って、ささきめぐみ個展『チョビとその周辺』を覗く。ささきさんの実家の猫・チョビとその周りにある景色をまとめた作品集『CHOBI CHOBI NIKKI』も帰りに購入した。
ささきさんは二階のニコラ友達というか知り合いなのだが、雑誌等でイラストレーターの仕事をしているのは見ていたりしたけど、こうやって個展をやっているのを見るとやっぱり絵が描ける人ってすごいなって思う。チョビだけのものもあるけど、ケーブルと戯れていたり、彼女の実家の風景と猫という絵は大事なものを、それを何かに留めていたいという優しさがあるみたいでなんだか心がほっこりした。
リモートワークが終わってから、Spotifyで配信されたポッドキャスト『トム・ブラウンのニッポン放送圧縮計画』を聴いてのんびりと休憩。最近は『きしたかののブタピエロ』の前身番組であるポッドキャスト『バナナの天ぷら』を2021年の一回目から聞き返しているが、この二組はラジオの中でもどんだけ声がデカいんだと思えるほど、叫ぶというか声がデカくてわちゃわちゃしている。なんかくだらなさもあるけど、聴いていると元気になってくる。
聴き終わってからは来週応募する作品のライティング作業を。
9月21日
日付が変わってから菊地成孔とペペ・トルメント・アスカラール 20周年記念ニューアルバム『天使乃恥部』がリリースされたので一度最初から最後まで聴いた。
思ったよりも大人しめの印象を受けた。後半に入っていくとより能動的に楽曲が煌びやかになっていく。これはコンサートで聴いたらすごく沁み入りそう。アルバムリリースのコンサートがとてもたのしみ。
7時前に起きてから朝のルーティンはする時間がなかったので、半過ぎには家を出る。今日も気温が高いというのを見ていたが、午前中はまだ酷暑みたいな感じではなかったので早めに出た方がいいだろう、と判断した。風も吹いていて思ったよりも暑くないので歩くのはちょうどいい。
五月ぐらいから読み始めた木山捷平作品。昨日SNSで杉並文学館で『飄逸の作家 木山捷平』展が開催中なのを知った。家のある世田谷区の三茶から杉並区方南町近くの杉並文学館まではマップアプリで見ると一時間二十分程度、家から六本木ヒルズのTOHOシネマズに行くのとさほど変わらない。
『三四郎のオールナイトニッポン0』を聴きながら散歩がてら歩く。「ANN0」の中で三四郎だけ一時間半ではなく二時間番組なので行き来の時間のほとんどのBGMとして。今回は新婚旅行も兼ねておばさんがいるサンフランシスコに行った小宮さんのトークだけで全部行った。相田さんのフリートークはないという珍しいものになっていた。日本に帰ってくる飛行機の中で『極悪女王』を一気見した小宮さんがその話を冒頭から始めたものの、次第にサンフランシスコ滞在の話になっていた。そこで無人運転のタクシーに乗ったらしく、その地域ではすでに実用化されて何台もの無人タクシーが走っているらしい。先週がミュージックウイークで休みだったからというのもあるし、旅行に行って楽しんできたのがよくわかる放送だった。
下北沢を越えて環七に出て、そこから中央沿線に向かって北上して神田川近くで北西に向かう。神田川沿いを歩いていたら見たことあるなって思ったら弁天橋付近だった。
井の頭公園の神田川の源流から川沿いを歩いて、秋葉原の先の柳橋のところで隅田川と合流する。そこから今は無くなってしまった晴海埠頭客船ターミナルまでという小説『サマーバケーションEP』の舞台をたぶん十回近く歩いているのもあって、神田川沿いの風景はなんとなく頭に入っている。
今までも何度か歩いて中央沿線沿いに向かったこともあるので、距離の感覚や地形が大きな道路を中心に脳内に認識されている。自動車や自転車のある程度速さがあるものに乗って見る(認識する)東京と歩いて把握する東京はちょっと違う気がする。
筑摩書房から木山捷平のオリジナル短編集がちくま文庫で出るみたいだし、木山繋がりで井伏鱒二作品を読み始めて、昨日『荻窪風土記』を読み始めたのもあってこのタイミングだなって思った。
私は昭和二年の初夏、牛込鶴巻町の南越館という下宿屋からこの荻窪に引越して来た。その頃、文学青年たちの間では、電車で渋谷に便利なところとか、または新宿や池袋の郊外などに引越して行くことが流行のようになっていた。新宿郊外の中央沿線方面には三流作家が移り、世田谷方面には左翼作家が移り、大森方面には流行作家が移って行く。それが常識だと言う者がいた。関東大震災がきっかけで、東京も広くなっていると思うようになった。ことに中央線は、高円寺、阿佐ヶ谷、西荻窪など、御大典記念として小刻みに駅が出来たので、郊外に市民の散らばって行く速度が出た。
井伏鱒二著『荻窪風土記』P13-14より
二階建ての建物で準常設展「杉並文学館―井伏鱒二と阿佐ヶ谷文士―」が一階の奥で展示されていた。そのエリアの一部を使って「飄逸の作家 木山捷平」展があるという感じになっていた。井伏鱒二を中心とした阿佐ヶ谷文士と呼ばれた作家たちの書籍や原稿の複製などが置かれている。小説家の展示となるとどうしてもそのぐらいになってしまう。井伏が暮らした家のジオラマや荻窪に越しての年表(『荻窪風土記』と照らし合わせている)などがあった。僕のように何かで彼らのことを知りたいと思う人以外には中々興味が湧かないのは仕方ない。派手さもないし、彼らの作品を読んでいたり知っていないと反応も難しい。
木山捷平の展示も小さくはあるが、中央沿線に彼が住んでいたいろんな場所を地図に記してあったり、井伏たちとの交流がわかるものにもなっていた。木山と井伏が一緒にいる写真も初めて見た。このエリアの中は撮影禁止だった。時系列とかもう少し本を読んでおいた方がわかったかなあ。まあ、これから読んでいく中で「ああ、このことだったんだ」とわかればいいか。
大正十年、私は早稲田の文科に行きながら、下戸塚荒井山の日本美術学校の別格科入学した。この学校は日本画と洋画の粋を集め採る方針で、生徒に古画の模写をさせたり水彩で野外写生をさせたり、各自の好きなようにさせていた。生徒の年齢もまちまちで、旅絵師の経験をした四十歳あまりの人もあり、十六、七歳の可愛らしい少年もいた。全校生三十人ぐらいの人数であった。先生は日本画の山内多門先生、洋画の正宗得三郎先生などで、校長は早稲田で美術史を講義していた紀瀬雄先生である。
井伏鱒二著『荻窪風土記』P14より
井伏が書いているようなことが現在の中央沿線文化に繋がってるのかなって思ったりした。昨日読んでいて井伏鱒二が日本美術学校に入学しているという部分で、そういえば田河水泡(この頃は本名の高見澤仲太郎)も満州での軍隊生活を経て、除隊後に日本美術学校に入学していたはずだと思って、『のらくろ一代記』を引っ張り出して確認したら田河水泡は大正十一年に図案科に入っていた。
井伏と田河は一年学年と科は違うが同じ学校に通っていた。学生の人数も多くなかったのであれば、面識ぐらいはあったかもしれない。
田河は村山知義が中心となっていた前衛美術団体「マヴォ」にも参加したりするが、大正十五年に「マヴォ」を脱退してからは落語作家になっていく。その流れで兼業漫画家時代(この時にペンネームの田河水泡を名乗るようになる)があり、昭和三年(1928年)『目玉のチビちゃん』連載と前後して、小林秀雄の妹である小林潤子と結婚する。『目玉のチビちゃん』連載終了後から『のらくろ』の連載が開始された。
井伏鱒二も木山捷平も井伏の弟子である太宰治も小林秀雄も田河水泡も中央沿線に住んでいた時期があったということ。
田河水泡について書こうと思っていたけど、ずっと先延ばしにしていて、なんとなく木山捷平を読むようになって、自分が知らなかったことが繋がってくる、時代がなんとなく見えていた。もちろん自己満足でしかないが、小説とか本を読むことの楽しみみたいなものが前よりもわかるようになった気がする。
家に帰ってから洗濯をしてご飯を食べてから、ライティング作業を開始。夕方までやって一区切り。17時からradikoで『川島明そもそもの話』(ゲスト:井上さくら)を聴きながら、池尻大橋の方のオオゼキへ夜ご飯を買いに行く。これというものがなくて、246沿いにできたスーパーベルクスへ。
なんかたこ焼きが食べたいなと思ったので二十個入りの冷凍のものを買うことにして、だったらビールでも飲もうかと思ってサッポロビールを買おうとしたら350ml缶がなくなっていたので、アサヒ生ビールの350mlを二缶にした。
帰ってからたこ焼きを食べながらビールを飲んだ。家の近所にある三宿神社がお祭りらしく、一番よく行くセブンイレブンが祭りに来ている親子連れとかその付近の人たちで混みまくっていたのを見たから、気持ちだけ縁日的になりたかったのかもしれない。
食べ終えてから、僕が木山捷平を知ることになった『新潮』創刊120周年記念号に掲載されていた村上春樹さんの短編小説『夏帆』をもう一度読んで見ることにした。原稿用紙でどのくらいかわからないが、30枚から50枚の間の文量だと思うのだけど、読んでみるとすぐに終わる長さ。今ライティングしているものはマックスで50枚までなので、このぐらいの長さだろうなと思いながら読んでいた。
【トーク】三谷幸喜が考える、この人絶対に役者として伸びると思うお笑い芸人ベスト5!
19時に「佐久間宣行のNOBROCK TV」が配信されて、ゲストは三谷幸喜さんだった。佐久間さんがラジオなどで言っているが、三谷さんがやっていた劇団「東京サンシャインボーイズ」に憧れて、観たいと思っていたが解散して叶わなかったものの、東京でいろんな舞台を観たいという気持ちで早稲田大学に入学して、二年生の時には舞台を観まくって単位が一年で2しか取れずに留年が確定するほど影響を受けている。
今は佐久間さんの手がけているバラエティに三谷さんがゲストで来ることもあるけど、四十年とか前に好きになった人と一緒に仕事ができているのはすごいことだし、夢が叶っている瞬間だろうなと微笑ましい気持ちにもなる。
三谷さんの仕事を見てきていることもあって、話も進むしツーカーというかお互いに変な説明もしなくていい心地よさがあった。三谷幸喜の役者論をこうやって聞ける機会もなかなかないだろうし、いい役者の条件として理性を捨てられるかどうかというのもなるほどなと思った。実際に役者をやっている人たちはこれをどう受け止めているのか気になる。
9月22日
6時過ぎに目が覚める。気持ち肌寒い。エアコンのドライもいらないぐらいの気温なのかもしれない。朝のルーティーンの読書として、26日にイベントがあるので角田光代著『方舟を燃やす』を読み進める。
僕よりは一回り上の世代の男女の主人公の幼少期から描いていて、1999年ノストラダムスの予言、世界の終焉が起こるとかいわゆる噂話とかの話を小学生ぐらいの頃に聞いていた世代、その時期に30歳ぐらいになる世代なので今現在だと50歳前半から上の人たちの物語。
大学生になると友達の一人がビラ配りを手伝っている集団が選挙に出るとい件がある。「どこかで毒が入れられるから水道水を飲まないで」とその小学校が一緒だった女友達から主人公の男性は電話で言われることになる。オウム真理教のテロ事件が起こる前の描写だが、当時大学生なども入信していなくても道場にヨガ教室だと思って教団施設に遊びに行っていた人たちがいたというのは聞いたことがある。その世代で当時東京にいた人たちからすると身近なところにオウム真理教に関することはあったのだろうし、肌感覚で彼らのことを知る機会はあったと思う。
男性は生まれ育った鳥取から東京へ、女性は杉並区の久我山出身でそのまま東京で生活している。その二人を軸に彼らの子供時代から学校や友達の周りで回っていた噂話、今でいう都市伝説なものが流布していく流れ、そのことをどこかで信じていた人たちが大人になっていく。
読んでいるとどんどん先に進んでしまう。角田さんの書くものは本当に読みやすい。エピソードの使い方が展開とうまく絡んでいて、後々前に起きたことがちゃんと登場人物の内部で蠢き始めるから、時間というものが強く感じられるし、人間は感情と共に生きているということを考えさせられる。
SixTONES松村北斗が主演、新海誠の名作「秒速5センチメートル」実写映画化 2025年秋公開
奥山由之さんが監督なのか、それが一番驚いた。ちなみに今劇場公開している奥山さんの弟の奥山大史監督『ぼくのお日さま』は素晴らしかった。
奥山さんが監督なら、衣装は伊賀大介さんだと思う。前にウェブで公開していた、これから劇場で公開される『AT THE BENCH』もそうだった。
思い出してみると『秒速5センチメートル』は2007年にシネマライズで観ていた。『ほしのこえ』を発表して「ひとりガイナックス」と呼ばれていた新海誠監督。大塚英志さんや宮台真司さんたちが『ほしのこえ』を高く評価していたことで、サブカル界隈でも注目の若手アニメーターでありクリエイターとして新海誠さんにどんどん注目が集まっていた時期だった。彼の映像作品で初めて劇場で観たのがこの作品だったと思う。当時付き合っていた彼女さんと観に行ったはずだ。僕よりも彼女の方がこの作品が好きだったし、何か沁みていたような話をした。そんなような気がする。
――若葉さんは、同性の恋人がいる役柄でしたが、同性愛の取り上げ方について監督とお話ししましたか?
若葉 男性とか女性とか、友達とか恋人とか関係なく、人間が人間を愛おしく思う、みたいなことをやりたいと伝えましたね。
僕は、監督がお話した吃音の少女の「放っておいてほしい」という言葉に、すごく共感するんです。
きっと自分が当事者だとしたら、「普通に生きてるだけなんだから放っておいてよ」と思う瞬間があるんじゃないかな。
「対話を重ねていくから、やっぱり映画の現場が好き」『ぼくのお日さま』若葉竜也が考えた「愛」
奥山大史監督と出演している若葉竜也さんの対談。本当にいい映画だったのは、奥山監督が丁寧に作り上げたことが大きくて、それが役者やスタッフにも共有されていたからなんだろう。もう一回観たい。
10時までライティング作業をして家を出る。雨予報だったので傘を持っていたが、大雨にならず行き帰りではほとんど傘を使うことがなかった。残念。気温も下がっているし湿度はあるものの、風もあったのでそこまで蒸し暑いわけではく、少し秋の気配がしていた。
渋谷まで歩いてPARCO渋谷に着くとオープン前だが人だかりができていた。どうやら任天堂エリアがある六階は10時からオープンらしく、その目当ての人たちがたくさんいた。ここに来るたびに思うけど、海外からの旅行者も多くてインバウンド需要としてゲームフロアは大成功している。この新しくなる前のPARCO渋谷にはなかったものだけど、そこがあるから成り立っているようにも思えなくない。
かつて地下にあったパルコブックセンターだけはやっぱり新しくする時にも入れてほしかったけど、需要や売上の観点からいくと面積の広い本屋をインバウンド需要でなんとかやりくりしようという商業ペースに入れる余裕がないことはわかる。だけど、それによって文化はどうなるのだろう? ゲームやそのキャラクターたちもゲームだけのジャンルの影響で作られているわけではないし、せめてマンガを多めに置く本屋でもそれなりにインバウンドで行けた気もする。
本作は、西暦2029年、高度に発達したネットワーク社会において多発するコンピューター犯罪、サイバーテロなどに対抗するため結成された非公認の超法規特殊部隊「公安9課」(通称「攻殻機動隊」)の活躍を描いた士郎正宗のSFコミック「攻殻機動隊」をアニメーション映画化。全米ビルボード誌のビデオチャートで週間1位を獲得するなど海外でも人気が高く、押井守の名を一躍世界に広めるきっかけとなった作品として知られています。
この度、2021年9月に4Kリマスター版として公開された本作を再びスクリーンで上映。先日8月20日に逝去された声優・田中敦子さんが、主人公・草薙素子を演じられており、これまで声優を担当されてきた作品の中でも、とりわけ代表作の一つとして世界中のアニメファンから愛されている作品です。ぜひこの機会に再びスクリーンでご体感ください。
押井守監督『GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊4Kリマスター版』をホワイトシネクイントで鑑賞。お客さんは20人以上いたし、客層も20代とか若い感じだった。リアルタイムで観ているような上の世代の人は少なかった。
僕もリアルタイムでは観ていないし、ビデオでレンタルして昔観たぐらいで記憶も曖昧だったが、この映画のTシャツは高校生ぐらいの時に買ったような気がする。
数日前に木澤佐登志著『終わるまではすべてが永遠』の引用した箇所がぴったり当てはまるような内容であり、作品だった。
今作は1995年に公開されていて、まだ一般的にインターネットも広まっておらず、そもそも携帯電話も普及していない、そんな時期に近未来のネットーワーク社会を描いていることもあって、今見るとレトロフューチャー感もある。物語自体は2029年が舞台だから公開時よりも今の方が近いにも関わらず、現実社会は描かれているようなネットーワーク社会になっているとは言えず、ありえたかもしれない未来を30年前に作られたアニメ映画から感じることになる。
18時過ぎに友人Sからニコラでお茶しようとお誘いしてもらった。お腹も空いていたので秋刀魚と茄子のスパゲティーニとかいくつか頼んでシェアしながら食べた。お腹も満たされたし、四時間ぐらい世間話とかしていた。こういう時間は本当に大事。
9月23日
7時過ぎに起きると寝汗もかいていないし、部屋の中も涼しくてちょうどいい。夏は本当に終わったのか、終わりかけているのかと期待してしまう。
少しだけ『方舟を燃やす』の続きを読んでから家を出る。昨日夜の『川島明そもそもの話』『有吉弘行の SUNDAYNIGHT DREAMER』は聴いてしまっていたので、Spotifyできしたかのがやっていたポッドキャスト番組『バナナの天ぷら』を聴きながら散歩へ。
8時過ぎに家を出て9時ぐらいにオープンしているお店は代官山蔦屋書店ぐらいしかないので、いつものルート。
歩いていたらアゲハ蝶の幼虫がゆっくり動いていた。わりと大きめのサイズだったけど、この時期に幼虫だとすると秋口に孵化するのかな。と思って調べてみたらこの時期に幼虫だとそろそろ蛹になってそのまま冬を越して春先に羽化して成虫になるらしい。鳥とかに食べられずにうまく蛹になって冬を越せるといいけど、こればっかりはどうなるかは時の運。
乙一著『大樹館の幻想』という新刊が出ていた。星海社から発売されていて、星海社の「新本格ミステリカーニバル」という企画で有名な作家さんたちの新作が出ているのでその流れみたい。太田さんが『メフィスト』『ファウスト』で関わってきた小説家たちなので今では有名どころになっている人が多い。その意味では星海社の新人賞から育った作家がいないということを意味してしまっている。
やっぱり小説の新人賞というのはちゃんと作家を輩出していき、その作家たちが売れていったり、何かの賞を取ったりしていかないとブランドとしては成り立たない。近年だと「R-18文学賞」出身作家たちがそうだったし、開始してからそこまで年月が経っていないが芥川賞作家を二人出している「林芙美子文学賞」なんかは新人賞としてのブランドができていて勢いを感じる。
帰ってから少し経つとTVerで『ラヴィット!』の前半部分という名の長いオープニングの配信が始まったので、昼ごはんを食べながら見ていた。今日はB’zの稲葉さんの誕生日らしい、9月23日は小説家の阿部和重さんの誕生日ということは覚えていた。で、インスタのストーリーズでヨルゴス・ランティモス監督も今日が誕生日らしい。クセが強い人ばかりだ。
昼ご飯を食べてからライティング作業の続き。夕方過ぎてちょっと散歩してどこかで晩御飯の惣菜でも買おうと国道246を渡ったら昭和女子大学のある通りにREBECCAのTシャツを着た僕よりも上の世代の方々が嬉しそうな笑顔でたくさん歩いていた。
僕は行ったことはないが、昭和女子大の人見記念講堂では有名どころのアーティストのライブも行われていて、時折週末とかにライブをやるアーティストのTシャツを着た集団とすれ違うことが多い。
REBECCA自体は僕らよりも上の世代の人たちが聴いていたアーティストだけど、野島伸司脚本ドラマ『リップスティック』の主題歌や挿入歌で何曲も使われていたので知っているという感じだ。
あのドラマは三上博さんと広末涼子さんがメインキャストだったが、少女同士の関係性、今でいうとシスターフッドを描いていて、刑務官として成長していくいしだ壱成さんも素晴らしかったし、悪のカリスマ的な存在を演じた窪塚洋介さんも印象に残っている。
少女たちの中の一人、池脇千鶴さんが演じた真白という登場人物の最後のシーンはやけに覚えていて、その時にかかっていたのがREBECCAの『ヴァージニティー』という曲だった。その歌詞を改めて聴いてみると、野島さんはその歌詞が彼女の最後のシーンで掛かるのをイメージしてキャラクター造形をしたんじゃないかな。
この映画を見て、私が日本映画への希望を感じたのは、こうした社会のシステムの中で苦しんでいる人たちが、その苦しみの連鎖を断ち切るために起こした行動が「ストライキ」であったことだ。
日本の映像作品では、ストライキやデモが、なにか忌み嫌われる表現になることが非常に多い。それが、メジャーな映画会社が配給する映画ならなおのことだ。
しかし、現時点で興行収入が40億円届く(9月17日時点)ようなエンターテイメント大作映画の中で、ストライキは市民の当然の権利であり、決して迷惑な行為でないと描いてくれたことは、希望であった。
【ヒット中】映画『ラストマイル』に希望を感じた“苦しみの連鎖を断ち切るため”の行動
本当にそうだよね。運送会社の親子(火野正平&宇野祥平のしょうへいコンビ)側のブルーカラーの人間は生活だけでギリギリでどうにもできないし、選択肢はほぼ与えられていない。だからこそ、ホワイトカラーのなんらかの決定権のある人たちが動かないとダメだし物事が動かないし、そもそも起こしても交渉すらできない。
やっぱりエレナや孔が労働者の権利や人権を考える人たちだったから動けたし、行動に起こせたわけでそうでない人であれば使われている側が悪いという考えで代わりはいくらでもいると人を使い捨てに行く。この映画がヒットしているのは、観ている人の多くがそういう社会を望んでいるけど、実の社会はそうではないという部分もあるのかもしれない。
大学も出ていないしまともに就職もしたことのない人間からすると学歴もあって大きな会社にいる人間って、基本的には優しんだけど、やっぱり使う側の人なんで使われる側の人のこと軽んじているなと思うことはある。
出版社はいい加減に発注書出そうぜとか、関わっている作業が形になるまで一銭も基本的にはこちらがいうまで払う気がないとか、ずっと言ってるけど、本当にフリーランス死んじゃうから。毎月のサラリーないという想像をしてごらん、編集者さんたち。
もちろん、経営する側も使う側もいろんなしがらみやシステムがあったり、さらに上から評価されるということもある。それによってがんじがらめになっている部分はあるだろう。結局いまのシステムのままではブルーカラーもホワイトカラーも基本的に救われない。つまりこの環境やシステム自体が人を不幸して動いている。そんなモダンタイムズ。
スーパーで買い物をして近所のセブンイレブンでアイスコーヒーを買って帰る。タバコを吸いながら一服する。玄関ドアを開けたままでいつもタバコを吸っているけど、夕暮れ時の空気がやはり少し前までとは違うものになっている。秋っぽい気配、このぐらいの気温が一番心地いい。
夜は『バナナの天ぷら』とかを聴きつつ、読書をしてからライティング作業をした。三連休が終わって、夏も終わった。
能登半島の豪雨被害をニュースで見るとなんとかしてほしいと思うのだけど、政治は総裁選とかをしていて、そもそも元旦の地震の時から大きな被害があった地域に対して被害に遭った人たちをケアもできていないし、元の生活ができるような瓦礫処理などに関しても進めていなかったという印象がある。
地方を切り捨てるつもりなのだろうと思われても仕方ないことをやっている。本当に自助とかではどうにもならないことを政治がしない、そういう社会に僕らは生きているし、そういう政府や政権与党を選挙で選んでしまっている。もちろん、投票しない人はそれに加担しているけど、もう政治に関心を持てないほどに多くの人が生活が大変だし、自分たちが悪いと思い込まされている。本当になんなんだろう、この社会は。
寝る前に『方舟を燃やす』を最後まで読み終わる。第二部からは生まれも年齢も異なる二人の男女が「こども食堂」を介して出会うことになる。そして、お互いに家族というか、自分の結婚相手は亡くなったり、東日本大震災で別れたりして独り身になっていて、女性側の方は子供が二人いて成人しているが、距離があることも描かれていく。
高齢に入りかけている女性は次第に生きがいのようなものを感じ始めるが、コロナパンデミックが猛威を振い出す。彼女はマクロビオティック系統の食を勉強しており、子供たちが幼い頃にもワクチンに対しては拒否反応を示していた。そのことで長女にはある出来事が起きてしまっていた過去があった。そのこともあってコロナワクチン接種が当たり前のようになっていく風潮に違和感を感じている。だが、その声も届かないことを知っている。
定年までもう少しある男性は役所の人間だが、大学時代に地元の同級生の女子がオウム真理教に入信はしていなかったものの手伝っていたこともあって彼女が現在どうしているのか気になっていた。Facebookで再会することになったりと過去の出来事や、自分の父が亡くなるなどのことがきっかけで幼い頃に見聞きしていたものが時折フラッシュバックのように浮かんでくる。それらとコロナパンデミックが起きてしまった社会、こども食堂も再開の目処が立たないなどの事柄が彼の精神に大きく影響していく。
主人公は二人とも僕よりは一回りか二回り行かないぐらいの世代だから、感覚みたいなものはわかるし、社会に対して感じるものも確かに違う部分はある。だけど、ここで描かれていることの現実的な痛みや喪失感、この不確かで人生を時に否定するような大きな時代の流れや変化に翻弄されていることには親近感を持った。読み終わってすぐには中々寝つけれなくて、radikoで『空気階段の踊り場』を流しながら読者からのパチクズエピソードを聴いていたら寝落ちしていた。
9月24日
6時過ぎに目覚ましで起きる。やはり肌寒さがあって、季節が変わったのがわかる。radikoで寝落ちした『空気階段の踊り場』を途中から聴きながら朝の読書。『方舟を燃やす』を読了したので、乙一著『大樹館の幻想』と木爾チレン著『二人一組になってください』の最初の章や序章あたりだけを読む。
リモートワークを開始する前には『JUNK 伊集院光 深夜の馬鹿力』を聴いていたので、そのまま作業用BGMに。
キンタロー。のオールナイトニッポン0(ZERO) | ニッポン放送 | 2024/09/23/月 27:00-28:30
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— オールナイトニッポン (@Ann_Since1967) 2024年9月23日
📻キンタロー。のオールナイトニッポン0
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豪華10名が生放送をお届けしました!
■17LIVE(イチナナ)で聴くhttps://t.co/w7Wn9FKf5u
■radikoのタイムフリーで聴くhttps://t.co/TlpJ3wQWne
■感想はこちらまで#キンタローANN0 pic.twitter.com/2iQL67ZHXH
その次はフワちゃんが降板してからいろんなパーソナリティーがやっている月曜深夜「ANN0」にモノマネ芸人のキンタロー。が登場。最初は佐久間さんのモノマネ、次はあのちゃんのモノマネと「ANN0」レギュラーをイジるというかネタとしてやっていた。アンジュリーナ・ジョリーに『サザエさん』の中島に北大路欣也さんにアンミカなど次々とモノマネをしながらラジオをしていく。なんかやりたい放題で素晴らしい。年に一回ぐらいなら聴きたい。
モノマネというはその対象者のことが好きかバカにしてるか、どちらでも取れそうなちょっと誇張しているものが多い印象がある。それもある意味では批評性があって、それに当人が怒る人がいるのも仕方ない。本人ですら気づかなかった核心のようなものを見せつけられるのだから。誇張されていてもそこに批評性があれば、その要素はモノマネされる側にゼロということはないだろうし、などと考えながら聴いていた。
岡惚れは、音楽という、あらゆる芸術ジャンルの中でも最も岡惚れを生みやすい芸術形態に対する、熱烈でロマンティークだが岡である惚れ方のことであって、福田は僕の音楽、南博の音楽(その当時の南博の音源は、全て僕がプロデューサーとして座していたものだ)には一切触れなかったと記憶している。福田は、00年代という、あらゆるエッセイストが蒸しケーキみたいにふわふわになった時代に、昭和の暴力を強い筆力で書くのがジャズミュージシャンである、という現象混みで、大いに安堵と喜びを得たと思う(因みに、あまり指摘されないことだが、どちらの本も、反社が正義として堂々と描かれている。昨日生まれたバカどもに、筋違いの批判をされたいものだ)。
ただ、僕らが立つ位置と、福田が立つ位置には、眉をしかめないと目視が難しいほどの距離感があった。そこには福田の高い礼節という倫理があり、もしそれが右翼的であるとするならば、僕にあそこまでは無理だが、右翼だろうが体育会であろうが、反社であろうがネットでグズグズの腑抜けよりはよっぽど良いと今でも思っている。福田が不幸だったのは、僕や南博が、指も唇も歯も痛めてはいけないが故に、職業的な保証構造として振えなかった「暴力」を、坪内(彼はシン・レフトではなく、知的無頼の継承者だが)ほどは振るえない何らかの規制があった事だ。
<菊地成孔の日記 2024年9月23日記す>
作業中にメールが届いていた。菊地さんの日記だったが、先日亡くなった福田和也さんについてのものだった。
最初に「岡惚れ」というワードから始まるもので、僕はあまり馴染みのない言葉なので、その「岡」が意味することなんかの説明もおもしろかった。そこから福田和也との思い出なんかが展開されていった。
昼休憩になったので駅前に歩いていく。日差しが優しいぐらいで、もうちょっと風が吹いたら肌寒さすらある。TSUTAYA書店の新刊コーナーを見てみると長嶋有著『僕たちの保存』が出ていた。
MSXパソコンで本の表紙を描きたい!
この長嶋さんが表紙をMSX化した画像をご自身で作成したという記事も読んでいたし、長嶋さんは好きな作家さんなのでこの新作も読みたかった。もちろん、表紙をあえて既存の画像をMSX化するというこだわりもさすがだと思うし、惹かれるものがあった。
休憩後に作業をしているとradikoで聴きたいものはなくなったので昨日夜にSpotifyで配信されたポッドキャスト番組『83 Lightning Catapult』最新回を流した。宿題ということで草履を買いに行ってきた相田さん、実物を見てちょこちょこツッコんでいく酒井さん。この二人のオフビートというか気張らないトークのリズムは聴いていると安心する。冒頭のリスナーのお酒に関する質問もちゃんとわかってるなと思えるものだった。
夕方過ぎに友人Tからラインが来た。僕の執筆に関することで急に思い立ったみたいで色々とメッセージをくれた。前にもお茶しながら話していたことの延長とも言えるものだった。
一月末に友人が亡くなってからこの日記に友人や知人の名前はイニシャルにするようになった。友人Tという書き方も、彼の知り合いや家族が読むとその日の行動がわかるかもしれない可能性があり、その関係性の中で問題がなければいいものの、何かが起きてしまったら責任が取れないしなと思ったこともある。
亡くなった友人については以前までは僕が呼んでいた名前で記していたが、亡くなってからはイニシャルに変更している。僕と彼女の共通の知り合いなら、僕が書いているその人が誰かはわかる。その人たちはこの日記を読むこともないだろうとは頭でわかっているけど、何か変えたいという気持ちになった。
と書いてみても最近は木山捷平や井伏鱒二や小林秀雄の著書を読んでいると固有名詞がガンガンに出てくる。日記じゃなくて小説や批評ではあるけど、そうやって名前を残しておくことも必要かもしれない、残しといた方がいいのかも、と最近は思うようになってきた。この辺りは何かのきっかけで急にイニシャルではなく呼び名に戻すかもしれない。
友人Tが書いてくれたことは僕があまり考えていない方向性でもあったのでおもしろいなと思ったし、自分でやってきたことがさほどうまく行っていないと感じるのでそれをやってみることにした。となると少し前に決めた執筆スケジュールを変えることになる。だけど、そこに違和感みたいなものはなく、素直に聞けた。
友人Tに日記を書かないで小説だけにエネルギーを絞った方がいいと思っていたけど、日記が文学なんだとラインしてもらったのもうれしかった。自分でもそう思っている節はあって、noteにも半年前のものをアップするようになったけど、はてなブログという僕が2008年ぐらいにオススメされて始めたブログ、あの当時はブログからいろんな書き手が出ていっていた。ブログ論壇みたいな言葉もあったけど、もう誰もそんなことを言わない。廃墟とまではいかないけど、そんなはてブを使っている人もその当時書いていた人たちの残りみたいなもので、そういう場所だから日記を書き残しておくのがいいなと個人的には思っている。
火曜日夜はSpotifyで『アルコ&ピースのしくじり学園放送室P』(ゲスト:ドリアン・ロロブリジーダ後編)、『あのと粗品の電電電話』が配信されるので、仕事が終わってから〆切が近いもののライティング関連の作業をしながら聴く。
「アルピーしくじり」で平子さんが『装苑』読むが好きで、と言われていてそれはわかるなって。ただ、平子さんはドレスとかももしかしたら着たいかもしれないみたいなことも言われていたが、僕はそういうものはない。ただ、自分が着ることもないオシャレな女性のファッションを見るのは好き。
「あの粗品」はあのちゃんの誕生日ぐらいの収録みたいで、その話をしていた。誕生日を祝われるのが苦手なあのちゃん、そのことがわかり始めている番組のスタッフたち、その辺りのトークは「あのANN0」でもしていた。
プラス友人Tからのアドバイスを受けてスケジュールを変更したりした。このタイミングでメッセージをもらったことは良かったなあ、と一服するためのアイスコーヒーをコンビニに買いに行く時に感じた。
何を言ったかよりも誰が言ったか、というのはそこでの関係性(影響)が大きいけれど、信用しているかどうかという部分もあって、違う人から同じことを言われてもしっくりこない可能性もある。こういうのって本当に不思議だ。
9月25日
日付が変わって寝ようと思って、睡眠用BGMとしてradikoで『アルコ&ピース D.C.GARAGE』を小さな音で流していた。この前に平子さんが『ラヴィット!』で奥さん(妻というのもなんか変だし、こういう場合パートナーなのか、なんか奥さんみたいな使いやすい言葉はないものかとたまにこの表記をする時に感じる)が一目惚れした絵を購入していた話の裏側というか、詳細を話していた。
酒井さんは番組で買うところは見ていたので、初見のような感じで相槌を打っていた。実際に平子家でどういうやりとりが事前にあったかは知らないだろうけど、エピソードについて話す際に知っていることや断片がわかっているものを新鮮な気持ちで聴けるものなのだろうか。結局、最後まで聴いてしまってから眠った。
6時過ぎに起きる。寝起きで水曜日なのになぜか金曜日だと思っていて、スマホのスケジュールを見て水曜日だったと理解した。たぶん、25日給料日ということで金曜日というイメージが謎についているっぽい。
朝食用のパンを買いに行こうとコンビニ歩いて行くが、もうTシャツだと肌寒い。カーディガンを羽織ってちょうど良いぐらい。秋っちゃ秋だけど、冬に片足突っ込み始める気もする。もう夏とか残暑は過ぎ去ったという理解でOKなのだろうか。
今週金曜日は月の最終金曜日で古川さんの文芸時評が掲載される『朝日新聞』が出ることもあって、コンビニについて月曜日が振り返り休日になってスケジュールがずれたことなんかで金曜日と錯覚した。たいていその文芸時評が掲載される『朝日新聞』と給料日が近いという連想だったのだろう。
リモートワークを始める前に昨日買って読み始めた長嶋有著『僕たちの保存』の残りの二篇を読み終わる。長嶋さんの小説の中でもかなり好きな『愛のようだ』にテイストが近い。
『愛のようだ』は車で移動するロードムービー的なものがあったが、今回の『僕たちの保存』も車での移動は大きな軸になっている。そこにレンタル自転車にスクーターに新幹線と他の乗り物も入ってくる。
データは見えないけどどこかのサーバーに保存されているから、見えないけど見える形としてある、ということもこの作品では重要な部分としてあった。
移動するということは誰かがどこかへ動いていく、そこで誰かに出会ったり景色を見たり、物を運んだりする。そこには記憶と結びつくものであったり、未来に思い出す風景や思い出が生まれるかもしれない。
今作の主人公は50代で、仲のいいというか仕事を手伝ってと行ってくるレコード屋店主は70代ぐらい、僕よりは上の世代だが彼らはパソコンがまだネットに繋がる前に「使う」のではなく、パソコンを「やる」という経験をしていた人たちであり、今では昭和レトロと呼ばれるようなものをリアルタイムで使ってきたこともあって、古いもの、それは物質として形を保っているものを通じて繋がってもいるし、何か見えないものを共有している。『愛のようだ』の姉妹本と言えるような優しい、ゆるやかな人間の繋がりを描いていて、とても長嶋有さんらしい僕が好きな小説だった。
リモートワークを開始して『JUNK 爆笑問題カーボーイ』『星野源のオールナイトニッポン』『あののオールナイトニッポン0』を休憩に入るまでBGMがてら流しながら作業。
「爆笑カーボーイ」は太田さんが吉本芸人が多い舞台に出た際に西川きよしさんに阪神巨人さん、若手の人たちとのっ交流というかやりとりを話していた。喫煙所で初めて会った若い芸人にいつものノリで太田さんがボケるとみんな一瞬どうしていいかわからないみたい。でも、そういうエピソードもちゃんと相手の芸人さんの名前を出して話していて、もしかしたら彼らが売れてまた東京で絡む時にはネタにもなる。
太田さんは非吉本だけど、吉本の芸人とも絡んでいるし、他の事務所の若手たちもなんだかんだ言って売れ始めた時に番組に呼んでもらったことなんかを感謝しているのをいくつも見たり聞いたりしている。爆笑問題がずっと新作ネタを作り続けて舞台に立ち続けているということが、そしてずっとおもしろいという説得力があるのは大前提なんだろうけど、人が好きだし興味あるんだなっていつも思う。
今夜は #星野源ANN 放送400回記念ということで、とある星野リゾートから生放送🎉
— 星野源 Gen Hoshino (@gen_senden) 2024年9月24日
沢山のお祝いメールやジングル、そしてコメントをくださった、バナナマン日村さん&設楽さん、種﨑敦美さん、大泉洋さん、藤井隆さん、小堺一機さん&関根勤さん、ありがとうございました!
https://t.co/L25z7qrJ3K pic.twitter.com/mwln2BPN1J
「星野源ANN」は祝400回記念でどこかの星野リゾートからの放送だった。星野さんが番組半分ぐらい過ぎた頃に「この曲も生き死にの歌ではあるんですけど、43歳になりまして長いこと生きてきてるなと思いまして、長いこと生きてきているなと思うなかで、とはいえラジオって特に本当は流しっぱなしのものでアーカイブされるようなメディアではなかったはずなんだけども、消えていく良さみたいなものがあったと思うんですよ。でも、今こうやって生放送をやっていて、生放送で聴いている、ただ一回しか聴いていない回を一生覚えていたりするもので、なんかそういう消えていく、でも覚えてるっていうのって人間の本質だと思っていて、それはラジオも一緒だなって改めて思うのです。なのでこの曲をお送りしたいと思います。星野源で『光の跡』」とアナウンスして曲が流れ出した。
星野源 - 光の跡 (Official Video)
おそらく今年になってからこの曲を一番リピートして聴いている。友達が亡くなってから、その頃に「星野源ANN」や『JUNK バナナマンのバナナムーンGOLD』でも新曲だったということもあって流れていて、いろんなものが結びついて僕の中に沁み込んでいった。今書いている短編はこの曲からタイトルをもらった。
続けることの難しさと大事さみたいなことも番組内で星野さんも言われていたし、その後の「あのANN0」でも星野さんの400回についてお祝いを伝えながらも、続けることが一番大変だってあのちゃんも言っていたのも印象に残った。
世に出たり、何かが形になっても続けること、表舞台に出たら出たで居続けることがどれだけ難しいことが多くの人たちを見てきた二人だからこそより重かった。あのちゃんは急にできたお休みで友達とプールに行ったのだが、というエピソードトークをしていたがいろんな最悪なことが重なってしまったようで長尺フリートークになっていた。いやあ、あれだけ長くちゃんとリスナーを飽きさせずに話せるのが本当にすごい。
休憩で外に出ると小雨よりもさらにわずか量の微雨みたいなものが降っていて曇り空が広がっていて肌寒かった。TSUTAYA書店で『UOMO』で菊地成孔さんの連載が書籍になるのでその記念で宇野維正さんと祐真朋樹さんとの対談があったので立ち読みをした。『UOMO』立ち読みしたの初めてかもしれない。男性ファッション誌わりと分厚いし重い。広告ページが多い感じもしなかったけど、実際最初から最後まで読まないとそれはわからないかな。菊地さんの書籍が出たら一緒に買ってみようと思いつつ、平台に戻した。
「BOOKSTAND映画部!」のレビューコーナー「月刊予告編妄想かわら版」2024年10月号が公開されました。10月は『シビル・ウォー アメリカ最後の日』『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』『徒花 ADABANA』『八犬伝』を取り上げました。
昼ごはんを食べてからリモートワークを再開。今のところ忙しくないけど、このパターンは急にガチガチの日程になったり急いでやらないといけない作業が来る前の凪ぽさがある。10月に入ったら反対に時化るパターンじゃないかなと思うぐらい、今穏やかというか静かすぎる。
リモートが終わってから、今やっているライティング作業の前に一時間休憩を取ることにした。昼休憩の時に購入していた燃え殻著『愛と忘却の日々』を読み始める。『週刊新潮』で連載しているエッセイなので、一回ずつが四ページぐらいと短くてテンポ良くてどんどん進んでいく。
星野さんがラジオで言っていた「ただ一回しか聴いていない回を一生覚えていたりするもので、なんかそういう消えていく、でも覚えてるっていうのって人間の本質だ」ということを燃え殻さんがエッセイで書いてるんじゃないかな。
『渋谷路上飲み狂騒曲』というエピソードが目に浮かぶというか、好きなものだった。朝早い時間に道玄坂を歩くことがあるけど、スケーターみたいな集団が酔いどれているのとゴミ箱を漁っているカラスを見るとなんかうれしくなる。生命力に溢れている姿とキレイ過ぎない路上がなくなってほしくないとどこかで思っているから。
読み終えてから明日朝にはプリントアウトして応募する予定の短編のライティング作業。読み直して、文章を削除したり追加したり、エピソードの順番を入れ替えたり戻したり、すぐに時間が経ってしまう。
9月26日
6時過ぎに起きて、可燃ごみを出しに行った。地面は濡れていて夜中に少し雨が降ったみたいで肌寒い。そのままコンビニに行って朝食用のパンとエナジードリンクを買いに行った。
帰ってきてライティング作業を開始。radikoで『佐久間宣行のオールナイトニッポン0』を流しながら原稿を書いていたが、やはり集中するのでまったくトークが耳に入ってこない。30分ほどのところで停止してからSpotifyに変えて星野源さんの『光の跡』を聴いた。そのまま星野さんの最新曲からリリースした新しいものから古いものへと流していくことにした。リズムも声も聞こえるが、歌詞の内容とかは耳に入らないぐらい、ただ知っている曲ばかりだからそのリズムは心地いい。
昨日夜までやっていたものに寝る前に追加しようと思ったエピソードの元になる過去の自分の経験を書き出していたものを組み合わせながら、新しい文章にしていく。お昼過ぎには最後まで書き終わって確認できると思っていたが、文量も増えたし、確認することが増えていったので昼を過ぎても終わらなかった。
なんとか14時前には書いたものを最初から最後まで確認して、それをPDFデータにしたものをGoogleドライブに入れた。そのまま本日二回目の近所のコンビニへ。朝とは打って変わって寒さはなくて、日差しは強くて汗をかくぐらいの気温になっていた。
スマホのセブンイレブンマルチコピーのアプリを立ち上げて原稿をプリントアウト、家に帰って応募用紙に記入したものと一緒に前もって記入しておいたレターパックに入れて、もう一度家を出る。
三軒茶屋駅近くの郵便局ではなく、もう少し距離のある世田谷郵便局まで歩くことにした。本日の消印有効だったので、大きな郵便局の方が安心できるということもあるし、いつも新人賞応募の際には世田谷郵便局で出しているのでそれに倣った形だった。窓口でレターパックを出して局員さんに「今出して本日の消印になりますか?」と聞いたら、「大丈夫です。今私が押しました」と今日の日付が入ったスタンプを目の前で押してくれた。局員さんも応募先とかで新人賞に出していることもわかるだろうし、そういうお客さんを何人も見てきただろうからそういう優しい対応してくれたのだろう。そのちょっとした微笑みみたいな表情を見て、どこか安心した。行きはずっと『光の跡』を繰り返して聴いていた。応募も完了したし、きしたかののポッドキャスト番組『バナナの天ぷら』の続きを聴き始めた。
「映画を観て即しゃべる」
深い経験と知識に基づいた唯一無二の洞察力と、軽妙洒脱な語り口で読む者を心酔させる音楽家であり文筆家の菊地成孔が、メンズファッション誌『UOMO』(集英社)にて2012年4月号から現在まで連載中の語り下ろしシネマコラム「売れている映画は面白いのか?」。著者史上最長連載を2024年7月号までの12年間、140回分を全掲載。
家に帰る前に駅前のTSUTAYA書店によると菊地成孔著『クチから出まかせ 菊地成孔のディープリラックス映画批評』が出ていた。昨日立ち読みした『UOMO』最新号も買おうか悩んだが、財布が寂しかったので諦めた。
一度家に帰ったが、そのまま散歩を続けたい気持ちになったので書籍だけ部屋に置いてすぐに渋谷方面に歩き出した。ずっと『バナナの天ぷら』を聴いていた。
夜は神保町で「【月刊ALL REVIEWS】古川日出男×豊崎由美 、角田光代『方舟を燃やす』(新潮社)を読む」というイベントに行くつもりでチケットを取っていたけど、原稿用紙50枚にも満たない47枚ぐらいの短編小説を書き終わったこの状態だと精神的に疲れてしまっていて、お二人の話はたぶん聞けないだろうなと感じた。今日は行くのを諦めた。
渋谷に行く目的が何か欲しかったから、明日公開されるヨルゴス・ランティモス監督『憐れみの3章』が上映されるPARCO渋谷に入っているホワイトシネクイントに向かった。シネクイントは映画を四回観てスタンプを集めると一回無料で観ることができる。今ひとつはマックスになっているので、土曜日の朝一の9時から上映回のチケットに引き換えてもらうことにした。
カウンターでスタッフの男性にスタンプを引き換えたいと伝えた後に、「土曜日の朝一の『哀れなるものたち』に」と言ってしまった。『哀れなるものたち』は今年の一月に公開された同じくヨルゴス・ランティモス監督作品だった。スタッフの人にすぐに「『憐れみの3章』ですね」と訂正されてしまった。なんか非常に恥ずかしかった。
引き換えたあとはそのまま来た道を戻っていく。世田谷郵便局に行った時よりも日差しは弱まっていて、気持ち風も強くなってきたから歩くにはちょうどいいかんじになっていた。
18時過ぎてから朝聴きかけていた『佐久間宣行のオールナイトニッポン0』を聴きながらまた散歩へ。あと2キロ歩けば今日で280キロを越えることが渋谷から戻ってきてアプリを停めて計測した時に出てきた。一日10キロ目標にしていることもあって、26日の時点で280キロを越えたら貯金が20キロ、二日分になる。今日の深夜から明日以降は雨予報だったので、晴れている時に歩いておきたかった。
あと作業中はアプリでラジオやポッドキャスト番組を聴いたりしているけど、歩きながらパーソナリティーの話を聴くのが一番気持ちいいし、話も入ってくる。30分ぐらい歩ければいいと家を出て、最初から聴いていると佐久間さんの大学の先輩が由比ヶ浜に夫婦で引っ越しをしたので佐久間さんたち何人か仲の良かった人たちがそのお家に集まることになったというエピソードだった。
五十歳前になっているので大学時代みたいな食事だったり、食べたり飲んだりする量で、麻雀や桃鉄をやっていたらしい。佐久間さんが話す友達たちの話は聴いていると微笑ましいし、大学からだと三十年近く縁が続いているということは本当にすごいことだし、羨ましい。
早稲田大学を出て佐久間さんを筆頭にいろんな仕事で活躍をしている人たち、とも言えるのでやっ噛もうと思えばできる。大学時代からパリピではないけど、友達と楽しくわちゃわちゃ仲良く遊んでいた人たち、リア充(本人たちは文化的なことが好きだったりするし、オタク気質もあるだろうから違うと言うと思うが)がそのままちゃんと仕事もできて金も稼いで結婚もしていたりするからこそ集まれているようにも思えなくもない。かつてその集まりに居た人でもそういう状態からこぼれ落ちている人は行かないだろうし、いつからか縁が切れているかもしれない。それでも聴いていると単純にいい関係性だなって思った。
応募した短編小説は亡くなった友達に関するものだったから、余計にそう感じたのだろうし、少しだけ寂しい気持ちになってしまった。だから、朝ライティングしている時にもきっと耳に入ってこなかったのだろう。
帰ってから今日はもうライティング作業はしないことにして、『クチから出まかせ 菊地成孔のディープリラックス映画批評』を中心に併読している書籍を読むことにした。アプリで確認したらちゃんと280キロ越えていた。
9月27日
7時前に起きてから、スケジュールを見てすぐに家を出る。小雨が降っていたので傘を差して近所のコンビニへ。朝日新聞と朝食用のパンを買って帰る。歩きながらスマホの天気予報を見ているとどうも今日明日は雨らしい。
すると日本語というのは特殊な言葉であり、いわゆる欧米がイメージする「言語の完全性」のようなものからは程遠い、ともなる。他方、上田岳弘の『多頭獣の話』(講談社))は「完璧な文章は今はない、以前はあった」という神話を刻みつけることで物語を発進させている。これは村上春樹のデビュー作『風の歌を聴け』の冒頭から発生した、いわば亜種の生物もどきの神話なのだが、そもそも完璧ではない(かもしれない) 言語が日本語だとは指摘されずにこの小説は進行する。この要点を無視することで、むしろ作者は「言語はそもそも宗教的である」との実相を掘り下げている。失踪したに等しいユーチューバーとIT企業の役員との交流譚だが、ここにはデジタル時代の言語とは何か、また、デジタル時代の宗教家とその挫折とは、との魅力的な問いがちりばめられている。
「朝日新聞」朝刊の最終金曜日には古川日出男さんの「文芸時評」が掲載される。今月取り上げられている作品はほとんど読んでいなかったが、最後に読んでいる『多頭獣の話』について書かれていた。前作『最愛の』も取り上げていたと思うのだけど、上田さんが村上春樹さんの影響を受けていることは公言しているけど、実際に読んでみるとその感じは伝わる。
村上さんがデビューした時期から90年代を舞台にしたものが現代になってジャズがロックやITに置き換えられて、リズムや表出するものは変わっているが、通念するものや感覚は近いものを感じる。年齢は上田さんが少し上だけど、同世代では一番好きな作家だなと思えるのはそのある意味ではストレートな影響を受けて書いている部分で、IT的なものとかが思いのほか僕には違和感がなく読めるところがあるからなんじゃないかなって。村上春樹さんよりも村上龍さんの方が自分の質や好みだと思うけど、古川さんや上田さんのように彼に影響を受けた人のものは僕にはしっくりくる。村上春樹的なカルピスの原液を薄めたのではなく、水とは違う何かを入れてカルピスは隠し味程度で気づかない人は全くわからない、もう原液は感じられないような小説を古川さんは書いているのかもしれない。上田さんはやっぱり一口飲んでみるとそのカルピスの原液がどうしても伝わる、というか隠す気がない味になっている。そんな違いがあるんじゃないだろうか。
私は文学者であり、なぜならば小説を創り戯曲を創り詩を創り現在は評論も手がけつづけている。と同時に2005年から始めた朗読という行為のことを思うと、わけても朗読のその現在の形態を思うと、私は芸能者でもあると自覚する。ここで念頭にあるのはやはり世阿弥が生きていた当時の芸能のことであって、と同時に芸能者と芸能人の差異であって、私は当然ながら後者の要素を少しも持たない。
(中略)
それでは自分以外の芸能者は? たぶん向井秀徳はそうだな、と思う。ロック・ミュージシャンのうちで「現代の芸能者でもある」との圧倒的な雰囲気をまとうのは、やはり向井さん一択になる。
(中略)
たぶん私は河川敷に戻りたいのだ。賽の河原にいる表現者として、2024年だの2026年だのの芸能を創造したいのだ。それが「できる」との確信がなければ、たぶん自分の時間をそこに投資できない。
『古川日出男の現在地』芸能 2024.09.14 – 2024.09.27 東京・埼玉
「文芸時評」を読み終わってから、リモートワークを開始する前にネットを見ていたら「現在地」がアップされていた。ここで書かれている「芸能者」と「芸能人」はやはり違う存在であり、僕も芸能や芸人ということについて書く時には「河原乞食」から始まったという始まりのことに触れるけど、古川さんも河川敷に戻りたいと言われている。名前に「川」があるということは大きい要因だろう。
「賽の河原にいる表現者」というのは古川さんの小説や朗読、表現に触れていない人にはどういうことかわかりにくいかもしれないけど、僕が朗読なんかを聴いた(視た)際に彼岸と此岸の狭間に連れて行かれるような、という言い方をすることに繋がっている。あの世でもこの世でもない、境界線が解けている場所、進めばあの世、戻れば現世、それが賽の河原。だから、僕が言ってきたことはそこまで間違っていない。
寝落ちは映画への背信行為ではない? 現在人に安らぎを与える真の問題作
『MEMORIA メモリア』 監督 アピチャッポン・ウィーラセタクン
「ある音」に取り憑かれた女性が、その音の在りかを探す。サウンドトラックや効果音を排した作品世界は、映画を映画館ではなく、配信で観る時代に移行しつつある今、ヘッドホンやイヤホンで「聴く」ことを前提としているようにも見える。いやむしろ「聴く」ことに集中しないと、密閉されたこの映画の意味は伝わらないのではないか。
しかし問題が一つあって、各シーンの映像が止め絵に近いため、音に集中していると眠くなる。近年、あらかじめ録音された咀嚼音を聴きながら眠りにつく人がいる。また、ラジオやテレビをつけっぱなしのほうが眠りやすい人も昔からいる。整合性をもった音は人を眠らせやすい。静かな自然音ときれいで非中心的な画面をもつこの映画は、人を寝落ちへと導く。そもそも多くの現代人は眠れずに疲れている。これは、非常に睡眠効果の高い映画と言える。
監督の意向はわからない。が、本来であれば、存在感において映像を下回るはずの音像が肩を並べるところまできていることを鑑みれば、これは意図的に画策された「ものすごく新しい映画」である可能性もある。難解なアートフィルムではない。象徴的で美しく志が高い。なのにやり口に嫌みがなく斬新で画も高級。
菊地成孔著『クチから出まかせ 菊地成孔のディープリラックス映画批評』P252-253より
朝のルーティンの一つの読書で菊地さんの新刊を最後まで読み終えた。2022年に日本でも公開された『MEMORIA メモリア』は僕も劇場で観ているが、ここで書かれているようにめちゃくちゃ眠たくなったし、実際に何分かは寝落ちしている。radikoやTVerというアプリやサイトで好きな番組をつけっぱなしにして声を聴きながら寝るタイプの人間なので、引用箇所の部分を読みながら、そうなんだよなって納得できた。
ちゃんとリモートワークを開始。朝の読書の時点から昨日半分ぐらいまで聴いて寝落ちしていた『四千頭身 都築拓紀のサクラバシ919』を聴いていたので、そのまま『ハライチのターン!』『JUNK おぎやはぎのメガネびいき』『マヂカルラブリーのオールナイトニッポン0』をBGM代わりに作業。「マヂラブANN0」では来年の『キングオブコント』に出たいのだけど、自分たちよりも若い世代が多いので一組で出るのはちょっと恥ずかしいという野田さんがアルコ&ピースに「来年出ない?」と誘ったら断られてしまって、じゃあ、三四郎に声をかけようということになって、野田さんがラジオ越しに誘っていた。
10月前の最後週末なので、システムとか諸々の変更が来月からあるのでそれで社員さんたちは忙しそうだった。淡々と自分の作業をこなしていく。昼休憩の時に外に出たら傘はいらないけど、Tシャツだと寒いけどカーディファンを着ると湿気があるから、という微妙な感じになっていた。
18時過ぎまでリモートワークをしてから終了後に家を出る。傘が必要なぐらいに雨は降っていた。大粒までといかないけど、そこまで強く降っているわけでもない。でも、傘がないとすぐにメガネが雨粒で見えないぐらいの降り方。渋谷方面に向かっていくとやっぱり傘をみんな差しているし、普段よりも歩くスピードが落ちているので急ごうと思うと邪魔に感じてしまう。みんな早く家に帰りたいだろう。こういう日に電車やバスで満員だったりするのに乗ればストレスは溜まるし、ちょっとしたことがきっかけで誰かが怒ったり泣いたりすることも起きやそう。トラブルには急に巻き込まれるものだけど、できるだけその可能性を減らすならそういう場所に近づいたりしないことしかない。だけど、それが一番難しいから起きていく。
そういえば、仕事中に自民党の岸田総裁の後に石破さんが自民党内での投票によって新総裁に選出されていた。差別主義者のような発言をしていて、統一教会問題や裏金問題を抱える人たちが支持していた高市さんが新総裁になったら終わりだと思っていたので一安心かなって思った人は僕のSNSには多かった。そりゃあ、そうだろう。そういう人しかフォローしてないし。統一教会の人たちにいろいろやってもらっていた、裏金問題があった議員を選挙の際に自民党は公認するのかどうかみたいなことがまず石破総裁の最初の大きな評価に繋がってくると思う。組織のトップになってできることとできなくなること、彼はどういう判断をしていくのか。
そんな真面目なことは当然考えながら歩いておらず、更新されたばかりのSpotifyのポッドキャスト番組『トム・ブラウンのニッポン放送圧縮計画』を聴きながら渋谷に向かって歩いていた。今回も途中で聴いていると気持ち悪くなる人がいるかもしれませんというニッポン放送のアナウンサーの人が注意を促すアナウンスが入った。あと妊婦さんってわりとこの番組聴いてるんだなって、それで注意があったわけだけど、具合が悪くなったりしている人が実際にいたり、それがきっかけで産気づいて出産した人とかがいる。
ヨルゴス・ランティモス監督の最新作ということもあり、公開初日金曜日20時前の回でもお客さんは多かった。本編が165分なので予告編を入れたりすると体感時間はほぼ三時間、邦題につけられているように3章仕立てでそれぞれが50分ぐらいずつあるので、一時間ドラマを三本見ていく感じ、しかも同じ俳優が出演しているのにそれぞれの章で演じている役も関係性も違うというのが『憐れみの3章』という作品。
ヨルゴス・ランティモス監督作品でいうと『ロブスター』『聖なる鹿殺し』は公開時に近い、十年前ぐらいの文芸誌『すばる』に掲載されていそうな印象があった。『ロブスター』に通じる『フラミンゴの村』という小説が新人賞を受賞していたことが僕の中で残っていてそれらと結びついているのだと思う。
そして、日本では今年一月公開になった『哀れなるものたち』と新作『憐れみの3章』は現在の『群像』で発表するつもりで準備をしていたり、執筆をしている途中で編集担当が『小説現代』に異動することになって、そのまま担当を引き続きしてもらって掲載誌自体も『小説現代』に変わったような感じ。パッと見はエンタメっぽいけど軸というかベースは純文学が主体になっている作品だなっていうのが僕の印象だった。
ヨルゴス監督(ギリシヤ出身だし)もA24が作っている作品を観ているとどちらも現代の神話を作ろうとしてるように思える。まあ、神話が物語の基礎だから、そこをやろうとするならエンタメでも純文でもどちらにでも振れる。いや、こう書いてみるとエンタメだし純文だし、エンタメでもないし純文でもない、つまりかつてあった中間小説的なものに神話的なものを感じされる作品を現代の世界で作っているのがヨルゴス・ランティモス監督やA24なのかもしれない。
試写で一度観ているので、話の展開はわかっていた。だからこそ、見落としていた部分や聞き損ねていた箇所なんかがもう少し追えるかなって思って見ていた。
第1章「R.M.Fの死」は「選択肢を奪われ、自分の人生を取り戻そうと格闘する男」、第2章「R.M.Fは飛ぶ」は「海で失踪し帰還するも別人のようになった妻を恐れる警察官」、第3章「R.M.Fサンドイッチを食べる」は「卓越した教祖になると定められている特別な人物を懸命に捜す女」とそれぞれが独立しているが、「R.M.F」という人物だけが共通して出てくるのだけど、第1章のラストで「R.M.F」は死ぬことになり、第2章の途中で「R.M.F」は海で失踪したリズを家族のもとに運んできたヘリコプターのパイロットとして登場し、第3章では「R.M.F」は死んでいたがある人物の力によって蘇りエンドロールの最中にサンドイッチを食べている。そういうのがわかってみると強引に繋げて考えれば、第2章―第1章―第3章という流れだったのかもしれない。第2章ではパイロットだった「R.M.F」は何らかの原因で落ちぶれたか仕事がなくなってしまい、第1章では金のために死んでもいいと考えた「R.M.F」はあることに巻き込まれる、そして第3章はそのことで死んでしまった「R.M.F」が実験台になって復活する、という流れだ。
マスコミ試写で一足早く観せてもらっていたが、この作品は役者が違う役をメインどころは三役、エマ・ストーンとマーガレット・クアリーは四役演じているし、それぞれの章がどう繋がっているのか、いないのかなど観ていると混乱する部分がある。それを考察してもおそらく意味がないだろうなと思わせる何かもある。
単純に一回観たあとから早く劇場で観たいなと思っていた。一回では物足りないというか、また観たいと思わせる映画のマジックが確かにこの作品には存在している。不気味だけど力強く、美しいのに残酷で、当たり前の日常みたいなのに非日常に滑り落ちていく、そんな素晴らしい映画だった。
観終わって映画館の外に出ると渋谷の街はたくさんの人だった。時間は23時を過ぎるぐらい、こんなにも夜の街には人がたくさんいて路上で缶ビールとか酒を飲みながら楽しそうに騒いでいる。
コロナパンデミックという言葉はもうどこかに吹っ飛んでしまっていて、その鬱憤を晴らすかのようになかったことにするかのように街に人々が集まっていた。そういう空気は嫌いではない、ただそういう場所に行くタイプでもない。道玄坂のラブホとライブハウスとクラブが密集した地帯を歩いていると不景気らしさはない。ただ、みんな僕が映画館に行くように酒を飲んで踊ったりして現実を忘れたいだけなのだろう、夢から覚めてしまえばみんな吐瀉物が喉に詰まって死んでしまうだろうから。
9月28日
家に着いた頃には日付が変わる手前になっていた。深夜の一時過ぎに寝て7時前に目覚ましで起きた。昨日ホワイトシネクイントで『憐れみの3章』の最終回を観たけれど、今日の朝一の9時からの同じ劇場で同じ座席で『憐れみの3章』のチケットを取っていた。まあ、一回観たら二回目がすぐに観たくなる、というのは嘘でもないけど、こういうスケジュールになってしまったのはこの二日ほどの天候によるものだった。
そもそもムビチケを先月ぐらいに購入していたので、ウェブでチケットが取れる上映日の二日前の水曜日にそれを使って座席指定してチケットを取っていた。昨日観たのはそのチケットだった。で、木山捷平短編小説賞の応募をした後に渋谷に散歩に行った時にホワイトシネクイントでシネクイントポイントカードが貯まったのを今日の朝一の座席指定チケットに交換してもらっていた。
公開初日28日は昼過ぎから雨予報で前日の木曜日の時点はかなり雨が降りそうだったので、リモートワークが終わった後に渋谷に行くのは雨の状況を見て考えようと思っていた。ポイントカードで交換したのは金曜日に雨がひどくて行くのが難しそうだったらその代わりに予備として席を取っておこうという気持ちだった。元々四回観たら一回無料になるので、これはお金は発生しない。二回のチケットのうち一回分はムビチケを買った際に払ったが、もう一回分は無料なので、どちらかが無理でもどちらかを観れば元は取れるという考えだった。
昨日は行きは傘が必要だったが帰りはほとんどいらなかった。となると土曜日の朝はもう行かなくてもいいかなと思うのだけど、せっかくだし二日連続で最終回と初回に同じ座席に座っている客ってなんか変だよなって思って、スタッフは夜と朝では違うから僕を見て、夜も来てたのに!みたいなことにはならなかったのだけど。
個人的にはそれぞれの章にカメオ的に、ちょっとしか出てこないけど軸の一つになった「R.M.F」みたいな気分だった。
夜とは打って変わって朝の8時台は人だかりはなくて静かな渋谷だった。あとゴミとか散乱してなくてキレイだったのは意外。早朝に清掃している人たちがいるんだろうか。
渋谷への行き来はradikoで『三四郎のオールナイトニッポン0』を聴いていた。前日の「マヂラブANN0」の『キングオブコント』の誘いの話を受けて、小宮さんが野田くんがネタを全部作ってくれるなら出るよ、という意外な返しを発動するという驚きの展開になっていった。ただ予選から決勝までの五本、しかもそれぞれに別の3パターンの全部で十五本作ってくれと言っていた。これは野田さん来週のラジオでどう答えるんだろう、楽しみな展開になってきた。あとは先週できなかった相田さんがテレ東ディレクターの三宅さんと元NGT48の中井りかさんの結婚式に行った話がようやくできた。東京ディズニーランドには行ったこともないし、行こうと思ったこともないけどそこで結婚式するのってすごいお金もかかりそうだし、行くのも大変だな。知り合いで大々的な結婚式を挙げるような知り合いもいないから行くことはないとは思うけど。
昨日の最終回よりはさすがにお客さんの数は少なかったけど、それでも二十人近くはいたと思う。「R.M.F」のことも注意深く観ていたのだけど、3つの章のラストはあることで共通しているし、それによってブラックコメディぽさも出てきている。
観るたびに気になったり、好きになる章が変わっていくのもおもしろい。試写の時は第3章が気に入ったし、昨日の夜は第1章だったし、今回は第2章だった。第3章のラストは僕はどうしても笑ってしまうのだけど、あれで引く人もいると思うんだけど、たぶん笑っちゃう人の方が人間としては合うと思う。悲劇は喜劇で、ホラーはコントだし、第2章の夫婦同士のあることを撮影したものが流れ出すシーンで何人か笑っていたけど、僕も笑っちゃう側だった。
家に帰ってきてから昼ごはんを食べて少しだけ読書をしてから、この週末でやろうと決めたことがあったのでその作業を夕方までやっていた。この数日で考えたこととして原点ではないけど、ちょっとまたやってみたくなったことがあったのでそちらも短いものを書いてみることにした。それはどちらかというとリハビリ。
YouTubeの『街録ch〜あなたの人生、教えて下さい』に岩井俊二監督が全変更編と二回にわたって出演している回を金曜日のリモートワーク中にBGMがてら流していた。岩井さんが主宰していたプロジェクト「プレイワークス」に僕も映画学校を卒業してからシナリオを応募して作品開発を少しだけしていた時期があった。橋田壽賀子脚本賞で15分ぐらいの短いものを募集していたから、それに出そうと思う。
17時を過ぎてから散歩に。外はもう暗くなっていて夏が終わったと感じるのは日が暮れるのが明らかに早くなったことだ。radikoで『川島明そもそもの話』をリアルタイムで聴きながら歩く。ゲストは藤本美貴さんだった。僕は『ASAYAN』でモー娘。のオーディションとか高校生とかの頃に普通に見てはいたけど、その時期からアイドルとかには興味が持てず、音楽番組とかも普通に見ていたからいわゆるヒット曲は聴いていたのでアイドルでも曲ぐらいは知っている程度だった。藤本さんも同様で番組でも流れていた曲やユニットのことなんかは記憶にあるけど、そこまで熱心でもなかったからいまいち分からない。
でも、当時はネットもまだ一般的に広まっていなかったからこそ、興味がなくてもテレビをつけていて流れてくるヒット曲なんかは耳に入ってきていた。だから、なんとなく知っているという状態にはなっていた。今はそれが終わってしまったから、一部の人に熱狂的に支持されている、売れている人でもそこに関わりがなかったり興味がないとまったく知らないということが起きている。
昔は芸能プロダクションの力だとか利害関係諸々が大きく影響していたし、今はプロダクションとか関係なくて個人で一気にスターダムになる人もいるけど、どっちもいい部分と悪い部分があってそれが極端にはなっているなと思う。
今年のスクリーンで観た映画のベスト10がそろそろ固まってきた。2010年代のベスト10を作るとしたらと考えだしたら、ベスト3は以下のものが不動だなって。この三つは大好きな作品で歳を重ねても変わらないと思う。
2010〜2019年まで毎年スクリーンで観た作品のベスト10をブログとかに書いてきたのでそれを書き出していたら時間があっという間に経っていた。名前を出すことを、表立って評価しにくくなったあの人の作品がいろんな年で上位に入っていた。だから、最初はその期間のベスト10も書いたけど、ここに載せない方がいいなと思ったので2020年になってからのものだけにした。
2010年代ベスト3
第一位『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』
第二位『アンダー・ザ・シルバーレイク』
第三位『アバウト・タイム 愛おしい時間について』
2020年
第一位『初恋』
第二位『ミッドサマー』
第三位『TENET』
第四位『ラストレター』
第五位『ワンダーウォール 劇場版』
第六位『ジョジョ・ラビット』
第七位『糸』
第八位『泣く子はいねぇが』
第九位『東京の恋人』
第十位『はちどり』
(この年だけはメルマ旬報の日記に書いたはずだけど、すでにサイトがなくなっていて原稿も見つからないのでこの年だけ観て記録しているものの中から現在選定)
2021年
第一位『夢の涯てまでも ディレクターズカット』
第二位『花束みたいな恋をした』
第三位『ドライブ・マイ・カー』
第四位『少年の君』
第五位『君は永遠にそいつらより若い』
第六位『フリー・ガイ』
第七位『きみが死んだあとで』
第八位『サマーフィルムにのって』
第九位『パーム・スプリングス』
第十位『DUNE/デューン 砂の惑星』
2022年
第一位『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』
第二位『愛なのに』
第三位ドクター・ストレンジ/マルチバース・オブ・マッドネス』
第四位『ハケンアニメ』
第五位『カモン カモン』
第六位『マイ・ブロークン・マリコ』
第七位『ケイコ、目を澄ませて』
第八位『アフター・ヤン』
第九位『ちょっと思い出しただけ』
第十位『裸足で鳴らしてみせろ』
2023年
第一位『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』
第二位『スパイダーマン : アクロス・ザ・スパイダーバース』
第三位『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー : VOLUME 3』
第四位『PERFECT DAYS』
第五位『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』
第六位『イノセンツ』
第七位『ザ・ホエール』
第八位『SHE SAID/シー・セッド その名を暴け』
第九位『AIR/エア』
第十位『キリエのうた』
2024年(9月末時点)
第一位『憐れみの3章』
第二位『ラストマイル』
第三位『哀れなるものたち』
第四位『デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション 前章&後章』
第五位『異人たち』
第六位『パスト ライヴス/再会』
第七位『オッペンハイマー』
第八位『悪は存在しない』
第九位『辰巳』
第十位『ホールドオーバーズ 置いてけぼりのホリディ』
寝る前に夕方の散歩の時に購入していた星野源著『いのちの車窓から2』を読む。インフルエンサーなのかなにかよくわかっていないが、新TwitterことXで星野さんのことについてあることないことをポストしてインプレッションを稼いでいた奴の卑劣な攻撃に対して、『星野源のオールナイトニッポン』で本人が心情を話し、さらには妻の新垣結衣さんも電話という形で番組で今感じていること、そのポストが事実無根であることを話した後に星野さんがなぜ『喜劇』を流したのかがよくわかるエッセイだった。『喜劇』の歌詞は結婚して二人で生活するようになったからこそ生まれたものだった。なんだかあのことの酷さに時間差でまた憤慨しそうになりながら、書かれていることの二人の生活の優しいゆるやかな時間があたたかく沁み込んでくる。七年ぶりということでくも膜下出血からの復活後のこと、そしてコロナパンデミックの自粛生活、そして結婚してから今へと続くエッセイを読むと心ゆるせる誰かと一緒に生活できるということは素晴らしいことだなと思う。
星野源 - 喜劇 (Live at Yokohama Arena 2023)
9月29日
7時前に起きて少しだけ横になったまま昨日の『ゴッドタン』を見てから動き出す。朝のルーティンはほとんど時間がないのでできなかった。
8時前には家を出る。風はひんやりとしているし、秋っぽい。気温が上がってもおそらく汗だくになるほどのことはないと感覚としてわかる。
radikoで月一回やっている『ヤーレンズのオールナイトニッポン0』を聴きながら渋谷へ。ヤーレンズの二人はバンバン固有名詞を出すし、政治からプロレスまで幅広い固有名詞が飛び出してくるのが聴いていて楽しい。世代的にも近いのもあるのだろうか、YouTuberやTikTokerなんかのネタにはあまり触れないのも正直ありがたい。知らない固有名詞でもなんとなくわかる範囲と門外漢すぎるものはまったく違うし、門外漢すぎるものでもそれを語る人が本当に好きだったり、興味があるものでない限りしんどくなる。
TOHOシネマズ渋谷で黒沢清監督『Cloud』を鑑賞。朝9時の回だったが二十代ぐらいの大学生男子が数人で来ていたりいているのは主演の菅田将暉の影響だろう。半数以上は五十代ぐらいか、黒沢監督の世代に近くてずっと作品を観ていそうな初老手前ぐらいの男性たち割合的には多く感じた。
菅田将暉演じる吉井は普段は大きめのクリーニング屋のようなところで働きながら、空いた時間で転売をやっている転売ヤーとして利益を上げていた。昼間の仕事をやめて群馬の家賃が安いところに越して本格的に転売の仕事を始めるのだが、少しずつ不審な出来事が起き始める。
そして吉井は昼仕事の上司だった滝本(荒川良々)と素性も知らない会ったこともない男たちに拉致されてしまう。彼らは吉井に偽物を掴まされたり、なんらかの恨みを抱いているものたちでネット上でやりとりをして彼を殺すために集まっていた。
というのが大まかな流れで、前半は吉井の転売ヤーとしての生活と彼女の千鶴(古川琴音)や群馬でアシスタントとして雇った佐野(奥平大兼)との日常を、後半からは滝本たちから逃げるも捕まって拉致されてしまった吉井が絶体絶命というところで佐野が現れて、という展開になっていく。
滝本以外では吉井に工場にあった精密機械を安く買い叩かれた工殿山(赤堀雅秋)や吉井に転売を教えた先輩で彼にずっと舐められていたと思っていた村岡(窪田正孝)はまだ復讐するのはわかりやすいし因縁があるが、三宅(岡山天音)や黒沢監督の前作『Chime』で主演していた吉岡睦雄演じる矢部など数人はそこまでの深い関係性はなく、人を殺したいなどの欲望を満たすために集まっていた。これは実際に起きた知り合いでもない人たちがネットで集まって、見も知らない人を殺した事件を元にしているのだろう。そのネット社会の仄暗さみたいなものが、Vシネマ以降の『CURE』や『カリスマ』にあったものに通じていると感じられた。前々作になる『蛇の道』リメイクなどもあったが、かつての黒沢清監督作品にあったものに原点回帰している部分もあるのだろう。同じところをぐるぐる回っているのではなく、螺旋階段を上った先で、上っていくので上から見れば円を描いているように見えても横から見えればかつてとは違う高さに上っている、それが進化だと僕は思っているが、この近年の黒沢作品を見るとそのことを思う。
復讐者たちの中には人生がある意味で終わったものだと考えている、終わらそうとしているものもいて、イリーガルに手にしたであろう拳銃などを手に入れている。吉井はどう考えてもその状況からは逃れる術はないのだけど、そこから思いがけないことが起きる。アシスタントだった佐野は以前おそらく暴力団か裏社会の人間だったことがあり、その組織から拳銃などを届けてもらって、吉井を助けにくるといういろんなものをぶっ飛ばすような超展開になってくる。
吉井と佐野のコンビと彼に復讐をしようと集まった男たちの銃撃戦が始まる。ガンアクションなんだ後編と思って観ていたが、当然ながらアメリカの銃社会とは違って銃を扱うことはほぼない日本で、彼らは見よう見まねで銃を撃つことになる。プロだった佐野がいる吉井側は人数的には不利だが次第に彼らを追い詰めていく。いろいろとツッコミたいところはあるけど観ていて楽しめた。
なぜか拉致されたところに尾行してやってきていた千鶴もいて、彼女がラスボスというか主犯なのか?と思ったけど、それは違った。最後の最後に復讐者たちを全員倒した吉井に対して彼女が言うセリフが印象的だった。転売ヤーとして生きてきた彼の価値はそれだけであり、彼女が求めていたものもそれだったのかと思わせられるところはガンアクションでの人が死んでいくシーンとはまた違う怖さや痛みがあった。最後の千鶴の表情は東京にいた時に吉井と一緒にいた時のものではなく、どこか歪んだような、何か気持ち悪いと思えるものだった。それは彼女の欲望のせいだったのかもしれない。
吉井自身は終始表情がないような青年であり、怒りや恐怖を感じるがどこか脳面のようなに見える。復讐にやってきた男たちを佐野と共に殺している時も降りかかる火の粉を払うような平然とした顔だった。最初に拳銃を撃った際には衝撃を感じていたような顔つきになるがすぐに慣れていく。そんな彼がこの作品において感情をはっきりと出すのが最後に生き残って千鶴と再会して抱きしめるシーンだった。だが、千鶴が求めているのは吉井自身ではなかった。
千鶴は男たちが持ってきていた拳銃を拾って所持しており、最後には吉井に向けて逃げる時に持ち出していたすべてのカード類を全部渡すように脅す。だが、彼女は拳銃の扱いに慣れておらず撃つこともできない。そして、吉井のためならなんでもするというアシスタント佐野の無慈悲な一発で彼女は終わる。
吉井という人間はどこか「資本主義」を物体化したような存在であるのだろうなと観ていて感じた。口座の残高が増える(お金が動く)ことだけが喜びだった。最初の場面で殿山が工場で作った精密機械を安く買い叩いたり、美少女フィギュアを定価の倍ほどの金額で買い占めて、あとは市場の原理でプレミアがつくようになってからサイトに出して定価の10倍ほどの金額で売り払っていた。吉井には作り手に対する尊敬や思いやりなどはない。ただ、存在している商品を安く買って高く売って利益を得ることだけに快感を覚えているように見えた。おそらく元組織にいた佐野も感情が失われた人物であり、そういうことを考えるタイプには見えなかった。
復讐者たちは良くも悪くも人間的な感情で動いていた。同時にそれは資本主義に翻弄されているとも言える。そんな彼らが復讐をしようとしていたターゲットである吉井が「資本主義」を物体化したような存在であるならば叶うはずはない。この世界はどこに行っても資本主義から逃れ切ることはできず、その見えないが確かにこの世界を支配しているもの(システム)に人間は抗おうとしても負ける。
マーク・フィッシャー著『資本主義リアリズム』でフィッシャーはフレドリック・ジェイムソンとスラヴォイ・ジジェクの言葉として「資本主義の終わりより、世界の終わりを想像するほうがたやすい」というフレーズを紹介している。だが、それは原典をあたると僕たちの想像力の弱さだと続いているという。では、僕はそうならないための想像力をこの世界でどう磨いていけるのか、豊かなものにできるのかという課題だけが残る。そして、僕たちは負け続ける。
タイトルは「Cloud」だから雲を掴むような話って意味なのだろうか。転売ヤーはいけないとは簡単に言えるかもしれないけど、今の労働環境だったり、実際に仕事をいくつか掛け持ちしようとしても会社での労働時間は週40時間が上限になっているため、それを越えて稼ごうとするならそれ以外は個人事業主として働いて稼ぐしかない。
もちろん、一つの会社で週40時間を越えて残業をさせまくるというのは法令違反だし、労働者の尊厳を守らないが、掛け持ちしようとしてもその40時間の壁が出てくるので、結局個人でやるしかなくなる。そうしない限りその壁の向こうに行って稼ぐことは難しい。
最近自分でも去年のように新規のライティング仕事がないのでウェブスタッフの以外でも近所で仕分けの仕事をやろうと思った。面接の日程を決めるための連絡をしたら、向こうが求めている週三のシフトにするとウェブスタッフの仕事時間と合わせると40時間を越えてしまうので雇うことが無理ですと言われた。
ほほう、そうなんだ。それダメだったんだと今更知った。ライター仕事は個人事業主扱いだから、雇用される側の週40時間とか関係ないからサイトスタッフとの合わせ技的にできていたんだ、なるほど。これはとても厄介な問題だ。そうなるともうライティング仕事をなんとか手に入れて稼ぐしかない、あるいは新人賞とかを取って賞金を手にするとかになってくる。
これはどう考えても昔よりも税金も増えて手取りが減っている時代で、政府や企業は副業を推奨するとか言っているけど、転売ヤー的な法に触れたり、イリーガルな側に行きやすい人を生み出してしまうシステムになっていると思う。それもあって、この映画を観ていて描かれていることが起きるその現状、この社会にいることが怖くなったし、生きやすくなさすぎるだろ、と思っていた。誰だって拳銃を持ってしまったら自分を撃って終わらすか、誰かを傷つけようとするのではないか。いや、SNS での誹謗中傷や炎上は見えない銃弾を面識もない(一部はある)人に向けて撃ち続けているようなものかもしれない。誰もが緩慢な自殺をするように自分や他人を傷つけている。
観終わってから映画館を出て道玄坂を上って家の方へ向かっているとコンビニの近くで作家の燃え殻さんが反対側から歩いてきた。この近辺でばったりお会いすることが多くて、その場合は燃え殻さんの仕事や用事に余裕があれば立ちトークを30分ぐらいするということが数ヶ月に一度ぐらいある。観終わった『Cloud』の感想やライターや出版関係のことを話していたら、小雨が降ってきたのでコンビニ横の雨宿りができるスペースに移動して続きを。
ちょうど先日出版されたエッセイ『愛と忘却の日々』を読んでいたので、途中でタクシー運転手に『ラヴィット!』出てる人と間違われたエピソードがあったのでそのことを聞いたら、誰と間違えたのか教えてくれた。びっくりするぐらい燃え殻さんとは似ていない人だった。
今考えていることとかこれからのことで相談というか、聞いてもらって燃え殻さんが思っていることやスタンスみたいなことを話してもらえてありがたかった。こんな風にばったり会って立ち話をさせてもらうのもいち読者としては不思議だ。じゃあ、今度どこかで待ち合わせて飲みましょう、という関係ではないから僕らは立ちトークがいいのだろう。
夕方ごろにかつてmixiで知り合った友達Nが昨日の「MUSIC CITY TENJIN」に行っていてアナのライブ動画を送ってくれた。
チャットモンチーがメジャーデビューアルバムを出した時の新宿LOFTのライブに行ったら対バン相手がアナだった。それをきっかけにして知ってCLUB Qで行われたアナのライブに行った。その前にマイミクになっていたNさんとはQの会場で初めて会って、さらにその場にいたNさんのマイミクを紹介された。その子とマイミクになってmixiでやりとりして遊ぶようになって付き合うようになった。僕にとって彼女と付き合うきっかけの最初にはチャットモンチーがいて、アナとmixiがあった。東日本大震災までは牧歌的なSNSの時代が確かにあった。もう、そんな牧歌的なものはどこにもない。
夜は早めにできる作業として「月刊予告編妄想かわら版」で来月取り上げるものの剪定をして、公式サイトを見て本予告がアップされているものは見てから気になっているものも原稿にメモがわりに書いていった。いつもは四作品だけど、来月は週ごとに選ぶと五作品いけるし、紹介したい作品もその数あったので一旦仮で進める。
9月30日
6時過ぎに寒さで目覚める。タオルケット一枚ではもうダメになってきた。もう少し気温が下がったら毛布の出番だ。
昨日ぐらいから少し喉に痰があるような違和感があって、いつもなら風邪の引き始めのサイン。それでも咳が出ることもないし、喉も痛くはないのでなんとか耐えている状態なのだろうか。なんとか体調を崩さないでこのまま過ごしたい。
昨日夜にライティング作業をしていたので今朝は読書だけ。『いのちの車窓から2』と一緒に購入していた山本文緒著『無人島のふたり―120日以上生きなくちゃ日記―』(新潮文庫)を読み始める。
山本文緒さんの名前は知っていたし、2000年の直木賞受賞作『プラナリア』は文庫本になった時に読んでいるはずだが、僕は彼女のいい読者ではなく、他の作品も触れていない。この文庫になる前の単行本が出た時点では山本さんが膵臓癌で亡くなって一年ほど経っていた。それまでに本屋大賞候補になったりしていた小説『自転しながら公転する』を書店で見かけることが多かった。
タイトルの通り、膵臓癌で余命四ヶ月と告知されてからの日記。手書きで書いていたものをご自身でパソコンに打ち込んだり、それが難しくなると音声入力や夫の助けを借りて紡いでいったものとなっている。
ご本人も日記で書かれているが、いきなりの余命宣告によって彼女と旦那さんの日常はまったく違うものとなっていき、最後を自宅で迎えるための準備に入ることになってしまった。
山本さんが売れっ子作家でちゃんと収入があった。そして、将来(老後)のために貯蓄もされていたこともあって、緩和ケアなどにちゃんとお金を使えたこと。死に向かっていく中でそのことを心配しなくてすんだことは大きかったと思う。もし、お金がなければ彼女は緩和ケアなどを受ける余裕もなく、旦那さんも彼女のそばにいることはなかなか難しかっただろう。かといって痛みや次第に日常の中でできたことも難しくなっていく体と向き合うこと、大切な人会うたびにこれが最後になると思っていたことはかなり辛く悲しかったことには変わりはない。緩和ケアで契約をしているから、病状に変化があったらすぐにそこの医師と看護師さんが家に来てくれるというのは山本さん夫妻はかなり助かったのも読んでいるとわかる。
日記を読むと読者の負担にならないような配慮がなされているのがわかる。その優しさのおかげで読者である僕たちは残りわずかな日々を二人で過ごしていく夫婦を他人事のように見るのではなく、そこに居るような、見守りたいという気持ちになっていく。そして、山本さんたちの過ごしている時間が次第にスライドして他人事ではなく、自分ごとになっていく。そうなると健康診断だとか残りの人生のこととか、大切な人との向き合い方や会える時に会わないと会えなくなってしまうという当たり前だけど、普段の生活で忘れてしまっていることについて考えるようになっていく。
物語のラストは決まっている。彼女が亡くなったという事実は覆らない。もちろん、死ぬ瞬間に書くことはできないから、亡くなる九日前が最後の日記になっていた。ページが進んでいく、めくっていくと減っていく紙の感触、山本さんの死が近づいてくるといやでもわかってしまう。自然と涙がこぼれる。大切な人に見守られて亡くなったことだけは本当に幸せだったのだと思いたい。
コロナパンデミックの最中、都会から離れた二人だけの島で最後の時を過ごした作家の残りの日々と書くことだけはやめないという意志を強く感じた。
読書を終えてからリモートワークを開始。昨日夜の作業中にradikoで『川島明のねごと』と『有吉弘行のSUNDAT NIGHT DREAMER』は聴いてしまっていたので、Spotifyできしたかののポッドキャスト番組『バナナの天ぷら』をBGMがてら仕事のお供にすることにした。
2021年3月の初回から数回までは「仮」がついている。今月に入ってから最初から聴き始めて、今は2022年8月(シーズン2)になっている。毎週更新していたので回数はかなり多い。また、一回の放送時間が最初の頃は30分ちょっとだったが、回数が重なっていくと伸びていっている。
今聴いている「S2#19」は73分ある。なかなか最終回までは辿り着けそうにない。2023年3月には番組自体は最終回を迎えるので来月上旬には聞き終わるはず。終了した後はポッドキャストから地上波に昇格してTBSラジオ『きしたかののブタピエロ』へ移行する。この初回からは聴いているので、そこで彼らの声に抗体というか耐久性ができていた。なんか聴いていて知り合いのような気持ちになっている部分がデカいと思う。
「ブタピエロ」は事務所の先輩である三四郎の「ANN0」の裏番組の枠だが、時間は30分と短い。彼らのトークを聴いていると『バナナの天ぷら』開始時期は今みたいに売れる前で、劇場とかに行くようなお笑いが好きなら知っているぐらいの知名度だったと思われる。彼らを有名にしたYouTubeのチャンネルも始まっていない。
更新回数が進んでいくとどんどん有名な番組に呼ばれるようになったり、千鳥の大悟さんに高野さんが可愛がられていたり、ヒコロヒーが売れる前から一緒にやっていたこともあり、先に売れた彼女が彼らを自分の番組に呼んだりしているなどの関係性も見えてくる。時期的にはコロナパンデミックが猛威を振るっていて、二人とも感染していたり、濃厚接触者になったりして仕事を休むこともあった。今振り返れば懐かしくも感じるあの時期のドキュメントとしても聴ける。
三四郎もきしたかのもどちらとも東京出身のマセキ芸能社に所属している芸人コンビ。三四郎の二人はそれぞれ多少裕福な家で育っているので坊ちゃん感はある。だが、彼らが通っていた成城学園には本物の金持ちの子どもたちがいたのでその辺りが影響していて、世間から彼らの感覚がズレているということもない。東京出身の芸人が持っているちょっとしたクールさや貪欲にならない姿勢、客観視できる能力が高いのが同世代の芸人たちとは違う武器になっていったように思える。
きしたかのもトークを聴いていると三四郎に近いものがある。二組とも学校で同級生だったコンビなので過去のエピソードなどが豊富だし、お互いのことをある程度は知っているから昔話トークに強い。これはオードリーも同様だ。きしたかのの二人はどちらとも江東区深川出身で中学時代の同級生であり、深川というと深川めしが有名で隅田川の東側に位置していて東京湾にも近い。昔でいうところの江戸っ子感も感じるやりとりは心地いい、それがダメな人もいるとは思う。
特にツッコミの高野正成の大声は好き嫌いが分かれるだろうが、やっぱりコンビのバランスがよい。ボケの太ってるレベルをだいぶ超越している岸大将がこれからどう出てくるのか、コンビの片方にスポットライトが当たって売れ始めた後にももう一人がどう出ていくのか、能力を見せるのかでだいぶ変わると思う。
三四郎は小宮さんがどんどんMCもできるようになったり、他の芸人との絡みも上手くなっていった中で、相田さんはそれを見ておもしろいなって笑っているという、もっと緊張しないの、場の中心に行こうとしないの、と言いたくなるほどの余裕があり、現場を見ている。岸さんも三四郎のすごさの一つを何にも動じない相田さんと言っていたが、彼もそうなっていくのかもしれない。相田さんのすごさはさらに上の芸人であるおぎやはぎの小木さんの佇まいにも似ている。
『あのちゃんねる』 祝「あのちゃんねる」地上波レギュラー放送復活!!伝説の初回放送&ノーカットロケを振り返ろうSP
昼休憩の時にご飯を食べながら『ラヴィット!』を見た後に『バナナの天ぷら』を続けてきたのは重い、いや違う声も聞きたいなと思ったのでTVerで『あのちゃんねる』を。この番組は一度テレビでのレギュラーは終わっていて、その後はYouTubeの番組として継続していたが、10月からもう一度地上波に復活するらしい。これは本当にあのちゃんの人気がすごいという証左でしかない
初回の頃は見ていなかったのでとても新鮮。この映像を見てあのちゃんの顔が幼いなと思った。四年もすれば人の顔は変わるし、少女時代から大人の女性になっていく(彼女は年齢非公表のため四年前が何歳で今が何歳かわからない)から今は大人っぽくなったのがわかる。
この頃からテレビにも出るようになって、アイドル時代よりもメディアに出ることが増えていったのだと思うけど、やはり人前(メディア)に出ると人は「見られる顔」へとなっていくのだろう。そこに若い女性ならば大人の女性になっていくという過渡期も加わる。
ルッキズムのことになってしまうかもしれないが、初回時のあのちゃんの顔を見て数年前の映画に出ていた河合優実さんを思い出した。彼女は大人っぽい顔ではあるものの、あのちゃん同様に十代の終わりから現在二十代中頃に入るまでの間でブレイクしてどんどん人に見られる存在になっていった。
二人ともかわいいとかキレイといわれる整った顔だったが、今の「見られる顔」とそれ以前の顔はやはり雰囲気が違う。現在の方がかわいさやキレイさに磨きがかかっている。一流のプロが化粧をするとしてもだ。
お笑い芸人も売れてからたくさんテレビに出るようになるとどんどん顔が変わっていく。もちろん稼ぎが変わって歯を整えるなどの要因もあるとしても、ほぼ知られていない見られていない側から人に見られる側になった際に、見られるという意識が顔に反映されていくのだろう。同様にあのちゃんも河合優実さんも今のようにブレイクせず、そこまで人前に出ていなかったらもう少し顔の印象は違うものになったのではないだろうか。
僕が知っているサブカル界隈の人でもラジオや動画サイトだったり、記事で写真を撮られたりするようになっていくと服装も変わるが、顔の表情が変わっていった人たちを何人も見てきた。
性別とかセクシャリティは関係なく、人前に出ることで成っていく「見られる顔」というものがある。人の顔は見られること、他者の視線の数なで変わっていく。そんな番組の内容とは関係のないことを思った。
番組で動物園でずっと走らされているあのちゃんが今と変わらなくて文句を言っていて、いい意味で変わらない部分が魅力の核になっているのもわかった。
「地面師たち」が配信されて2週間たった頃、Netflixから専属契約の提案を受けました。「はい、よろしくお願いします」と、自分でも驚くほど、その場で即答したのですが、その理由を考えると、配信メディアという、まだ映画やテレビドラマほどジャンルが確立していない、言ってしまえば“未開の荒地”であるその場所自体に、気持ちが惹きつけられたのだと思います。それと、「地面師たち」で初めて組んだNetflixのスタッフの“映像制作に対する意識の高さ”、これまで映画やテレビドラマでは体験できなかった“理想のクリエイティブ環境”、これらがとても大きかった。Netflixと始まる新たな企画・作品にワクワクしています。
Netflix、大根仁監督との5年独占契約を発表!
https://about.netflix.com/ja/news/hitoshi-one-signs-exclusive-partnership
SNSで流れてきたニュース。大根監督は『地面師たち』の勢いで行けるのかどうか。大事なのはまだ日本人の監督でこのような専属契約をしている人も結果を出している人もいない、という状況だからこそ最初にヒット作を期間中に作ってしまえば大根さんがNetflixで映像作品を作るフロントランナーになれる。
YouTubeであろうがなんであろうが、最初に初めて大きなパイを、基盤を作っていた人が後からやってきた人たちがどんだに盛り上がってもある種の利権を持ち続けたりもできるし、勝ち続ける可能性が高くなるとはずだ。大根監督はこの五年でどのくらいの企画を実現するのか、楽しみ。
仕事が終わってからニコラに行ってシャインマスカットとマスカルポーネのタルトとアルヴァーブレンドをいただく。夜の時間帯に会う常連さんも早い時間にいらしたので曽根さんたちと一緒に話をした。
10月2日の神宮球場でのヤクルトとカープ戦は青木選手の引退セレモニーをやるらしい。今月青木さんと尾崎世界観さんの書籍を読んだばかりだったので、同学年ということでなんとなく親近感がある。多くのヤクルトファンが彼の現役最後の姿を目に焼き付けにいくのだろう。晴れればいいな。
家に帰ってから最新回が配信された『83 Lightning Catapult』を聴きながら資料をまとめたりしていた。宿題というていで相田さんが買ってきた高級な日光下駄を酒井さんがフリマで売りにいくという話。酒井さんが持っていた日光下駄は売れたのか、いかに?みたいなところで次回にということになった。
3万円で相田さんが購入してきた日光下駄を最初は5万円の価格で売ろうとしていた酒井さん、前にもフリマに行ってものを売るという流れがあったけど、二人ともめんどくさそうだけど楽しそうではある。
明日から10月、残り三ヶ月で今年は終わる。あっという間だ。後厄の期間も三ヶ月、早く終わって欲しいという気持ちもある。今年は雌伏の年だったとカッコいいことを言いたいが、力を養うこともできずに次のチャンスを手にする機会を待っているみたいなことにはならなかった。新年で区切っても仕方ないかもしれないが、実際には元旦を迎えても何かがリセットされるわけでもない。ただ、今年がパッとしなかったのであれば、来年こそはという気持ちになるために、その始めの一歩になるような日々の三ヶ月になればいいのだけど。
今回はこの曲でおわかれです。
ぷにぷに電機『Chipped feat. Paul Grant』Official MV