Spiral Fiction Note’s diary

物書き&Webサイト編集スタッフ。

Spiral Fiction Note’s 日記(2022年3月24日〜2022年4月23日)

水道橋博士のメルマ旬報』連載「碇のむきだし」


ずっと日記は上記の連載としてアップしていましたが、日記はこちらに移動しました。一ヶ月で読んだり観たりしたものについてものはこちらのブログで一ヶ月に一度まとめてアップしていきます。

「碇のむきだし」2022年04月掲載『シャムロックの三つの葉』 映画『ベルファスト』を観たので、以前に北アイルランドに行った時の話を元に短編を書きました。


先月の日記(2月24日から3月23日分)


3月24日
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西島大介著『世界の終わりの魔法使い 完全版6 孤独なたたかい』をGET。新・三部作もついに完結編が発売になった。帯にも書かれている「生きなくちゃ!」というセリフは映画『ドライブ・マイ・カー』の作中劇である『ワーニャ伯父さん』のラストでのソーニャのセリフとも呼応している気がする。

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レオス・カラックス監督『アネット』4月1日公開、エドガー・ライト監督『スバークス・ブラザーズ』4月8日公開、とスパークス祭り、確実にDOMMUNEスパークス特集やるだろうなとこの巨大な看板ポスター(であっているのか)を見て思った。

PLANETSブロマガ連載「ユートピアの終焉──あだち充と戦後日本の青春」の最新回が公開になりました。『クロスゲーム』3回目「ゼロ年代における新自由主義の行方を描いていた『クロスゲーム』(前編)」です。
今回連載当時の2005年ぐらいの空気感をについて書いているので、あだち充論なのに浅野いにお作品について少し触れています。

 

3月25日
「BOOKSTAND映画部!」のレビューコーナー「月刊予告編妄想かわら版」2022年04月号が公開になりました。
4月は『アネット』『ハッチング-孵化-』『カモン カモン』『アンラッキー・セックスまたはイカれたポルノ』を取り上げています。


ゼロ年代の終わりぐらいに渋谷のライブハウス(たぶん7thFloorのような)でのイベントで青山真治さんがギターケースを持っていて、charlieこと社会学者の鈴木謙介さんと一緒のエレベーターに乗っていたら、同じ福岡出身のふたりが知っている歌を口ずさむみたいなやりとりをしたのを見た記憶がある。あれはなんのイベントだったのだろうか、おそらく佐々木敦さんがやっていた「エクス・ポ」関連だった気がする。
映画『サッド ヴァケイション』初日の舞台挨拶付きをシネマライズに観に行ったし、中上健次チルドレンだった青山さん。最後の作品となった『空に住む』は正直青山真治がなぜこんな作品を撮ったんだ?と思っていたから、次は「北九州サーガ」みたいなものに回帰してほしいなと思っていたのだけど、それは叶わなかった。
『ヘルプレス』『ユリイカ』『サッド ヴァケイション』の「北九州サーガ」三部作は映画も小説もどちらも好きだし、観られて読まれていってほしい。

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青山真治著『ユリイカ EUREKA』&『Helpless』文庫版。三部作目『サッド ヴァケイション』は残念ながら単行本のみで文庫化されていない。

 

3月26日
水道橋博士のメルマ旬報』連載「碇のむきだし」2022年3月26日号が配信されました。今年の2月と3月に観た映画日記です。
『アネット』『犬王』『THE BATMAN』『愛なのに』『MEMORIA メモリア』『余命10年』『猫は逃げた』などについて書いてます。


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数日前に購入していた千葉雅也著『現代思想入門』を読み始める。近所のツタヤ三軒茶屋店でも平台に積まれていて、週間ランキングで3位ぐらいに入っていた。現代思想もビジネス書的なものを読む人も読んでいるということもあるのだろうか。千葉さんの知名度や人気も高くなっているということなのか、哲学というものに惹かれている人が多いのか。個人的には千葉さんの小説がもっと読まれてほしい。

 

3月27日

ニコラで12時からのイベント『帰ってきた駆け込みアアニコ(VOL.11)』に行く。前回のイベントから約2年ぶりとなる徳島のアアルトコーヒー庄野さんとニコラの曽根さんが雑談を話すというもの。
コロナパンデミックが起きてからニコラもイベントはほとんどやっていなかったし、徳島でコーヒーの焙煎をしている庄野さんはお子さんの修学旅行が中止になったりしたこともあって、それまでは週末は東京だけではなく日本中各地でイベントなどに呼ばれていたのに、この2年は奥さんの実家の香川に二度ほど行っただけで徳島からは出ていなかったと言われていた。
毎回の二人の雑談はその時々で思っていることや考えていることを話すものになっている。お二人ともお店をしているので個人経営のことやコロナになってからのお店のやりかたや続けていくやり方だったり、これはフリーランスの人にも通じることでもあるので毎回聞いていておもしろいし、なるほどなあと思うことが多い。
あとはロシアとウクライナのことや政治のことであったり、右翼左翼とかSNSとの距離感など、いつも話しているような気はするが、「わきまえる」というのはこの二人でのトークイベントでキーワードだなって思う。

二時間ほどでイベントが終わってから、一度家に帰って仮眠してから、夕方に再びニコラに行って、庄野さんによるコーヒー教室『コーヒーのすべて』に参加する。
コーヒーの淹れ方を庄野さんが実践しながら話をしていくというものだが、僕は初参加だった。大事なのは自分が好きな豆を選ぶこと(知ること)、ミルで飲む前に挽くこと、豆の鮮度や焙煎過程で違う苦味や酸味などの違いとか、ほんとうにわかりやすいしおもしろかった。
庄野さんは2年前まではトークイベントだけではなく、コーヒー教室もたくさんやってきているから、やはり場数を踏んでいるからうまいと思う。それは35歳で何の経験もなくいきなりコーヒーロースターになった時にもひたすら焙煎して、売れなかったりしたら捨てて、それでも数をこなすことで技術をあげていったことの話とも おそらく関係しているのだろう。
ほかのコーヒー教室はわからないけど、アットホームでお客さんがリラックスして話を聞いている雰囲気があって、それは庄野さんの人柄と話し方、そして自由に受け取って、気になるとこだけ参考にしてくださいっていうフラットさのおかげなんだと思う。

終わってから、庄野さんとニコラの曽根さん夫妻といつもの美味しいお店で打ち上げ。途中から昼のイベントに 来れなかった藤江くんもやってきて、食べて飲んでたくさん話をした。その後、お店に帰って藤江くんの音源を出したレーベルの竜樹さんもやってきて、朝の4時過ぎまで飲んで話をしていた。やっぱり実際に会って話せるということはほんとうに幸せな空間と時間だと改めて感じた。

 

3月28日

朝四時すぎまで飲んでいた気はするけど、九時前に起きて仕事開始した。こういうときはほんとうにリモートワーク様様。
13時すぎてからの昼休みに運動がてら緑道を散歩する。桜はもう満開になっていた。この緑道の先の目黒川沿いも満開になっていて、昨日おととい中目黒でイベントをした庄野さんが目黒川沿い人手がすごかったと言われていた。


漫画・おかざき真里、原作・燃え殻著『あなたに聴かせたい歌があるんだ』ご恵投いただきました。
十年一昔、「聴かせたい」という願いに似た気持ちは現在進行形で、なんとか生き延びたから感じられる想いと後悔のあとさき、読者にとってのいつかと誰かを浮かび上がらせる作品。

 

3月29日

ニック・ランド著『絶滅への渇望 : ジョルジュ・バタイユと伝染性ニヒリズム』を購入。
マーク・フィッシャー『わが人生の幽霊たち――うつ病、憑在論、失われた未来』のタイトルと装幀に惹かれて読んだことでニック・ランドに興味を持ったのが最初だった。「幽霊」というのは「平成」に感じていたキーワードだったし、インターネットとグローバリズムが加速していったこと、それらと呼応するのはやはり鈴木光司さんの「リング」シリーズの貞子ことリングウイルスだったなと思う。
山村貞子は原作では半陰陽であったが、それらは映画化の際にはなくなりただの「キャラクター消費」として貞子という存在のみがまさに日本中へ増殖して広がっていったと思う。「リング」シリーズと加速主義とか絡ませたものは批評というか物語に組み込んで書いてみたい。結局加速していった先は増殖して溢れ出した綾波レイ的な「新エヴァ」の世界でしかなく、繰り返した世界の果てに日常に戻るしか想像力は向かない、あとは崩壊か破壊しかないから。
平成後期の2000年代以降に描かれた多次元や繰り返す日常の物語は、令和初期に完結して元の現実に回帰していく終わり方しかできなかった。だとしたら、繰り返されてきた日常や多次元そのものが幽界であり、そこにいた登場人物も現実に回帰した後では幽霊だと言えるのかもしれない。


菅田将暉オールナイトニッポン』と『三四郎オールナイトニッポンゼロ』リスナーなので、しゅーじまん(三四郎相田周二)の曲『Standby』がシークレットトラックとして収録されたアルバムをレンタルしてiPod nanoに取り込んだ。
この曲はサブスクで配信されておらず、そこにはシークレットトラックという概念がそもそもない、そしてCDをそもそも聴く装置がない人たち(両番組リスナーたち含め)が「しゅーじまんの曲が入ってると聞いたがサブスクにはない、あるのかないのか、何が本当なんだ?」状態になった話は菅田将暉三四郎、そしてクリーピーナッツの「オールナイトニッポン」で繰り広げられていてどの番組に聴いているので非常におもしろかった。

昨日の最終回は菅田将暉コロナ感染のため、最終回を一週間遅らせて(昇格した『クリーピーナッツのオールナイトニッポン』は一週開始がズレることになった)、菅田将暉の事務所の先輩であり『菅田将暉オールナイトニッポン』でガチすぎるデュエリストであることがバレたことで、色んな意味で人間味が溢れて好感度が上がったとしか思えない松坂桃李がいつも通りを崩さずに見事な代理を務めていた。彼がラジオに出て話しをする時には、なぜ普段ラジオをしたこともないのにできるんだという気持ちになり、同時に主役を張れる人間の圧倒的な強さと持っている感があり、松坂桃李はやっぱりすごいというアホみたいな感想になってしまう。

僕は音楽に関してサブスク使ってないから未だにCDやiTunesで買うか、レンタルをしている。ツタヤ渋谷店のレンタル階はコロナ前より人が増えた気がするけど、たぶん、気のせいではない。
アメリカではCDやレコードの売上が前年を越えたというニュースを見た記憶がある。ウイルスは目に見えない、サブスクなんかも結局のところ形はない、データだけだ。形がないものにはなかなか人は思い出や気持ちを残せない。人自体がいつか消えていく、それは遺伝子の乗り物だからとも言える。サブスクやSDGs的にいろんなものをシェアするのがよいことだとしても結局のところ人は形をほしがるし、形がないと認識が難しいという問題はある。
サブスクの大本や運営会社が潰れたら、それまで聴いていた曲は聴けなくなる(最終的にはどこか一強が残るだろうけど、使っているサブスクが安泰とは限らない。もちろんこの日記だってはてなブログが終了すれば消えて読めなくなるから、一応ワードで書いたものをコピペしてる)。しかし、世界の流れとしてはそれでいいのだろう。
スマホGAFAだけが生き延びるために世界中の人々がどんどんチャリンチャリンと課金していく。僕らはスマホの奴隷になってしまっているし、スマホが本体で操作する人間が奉仕者で外部装置みたいなことになっている。そもそもそれは今に始まったことではなくて宗教のシステム自体がそういうものでもあって、人間はなにかを自分より上位に置いて隷属しながら、自分よりも下の立場を作ることによってその狭間で安心する生き物でもある。
これからは紙の本を読むことがテロリズムに近いものになっていくだろう、分厚い本を読むことはより明らかな時代(あるいは時代精神ツァイトガイスト))に対しての抵抗になっていくと思うけど、そのことの意味や可能性すらもどんどん共有することができなくなっていくのかもしれない。また、4月以降はSNSの投稿はできるだけ控えようかなと思ったりしている。

 

3月30日

浅野いにお著『デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション』12巻。最終巻の通常版と限定版。個人的には限定版のTシャツはいらないけど、作中でも出てくる漫画「イソベやん」付きなので、祝アニメ化ということで久しぶりに限定版を買った。しかし、ビニールを開けちゃうと分離してしまうので開けられない。
デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション』のアニメが放送されたら見るかと言われたら正直わからない。人生でベスト3に入るほど好きな漫画『プラネテス』のアニメ見たことないし(なんか見る気がどうしても起きない)、実写映画は大好きだけど『ピンポン』のアニメも見たことがない。
最近最後まで見たのは『ゴジラ<シンギュラ・ポイント>』と『平家物語』ぐらいだし、前者はゴジラ×SF×円城塔という部分に惹かれたし、後者は古川さんが現代語訳したものを基にしたアニメ化だったから見たという部分が大きかった。

デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション』12巻では主人公の門出の父親が重要な役割を果たしていて、ネタバレになってしまうので詳しくは書かないが、物語の着地点としてはおそらくそれしかないと思った。
ディストピア的な世界を描くことで逆説的に門出たちの日常がより輝いて、それがほんとうに尊いものだったことを描きながらも、現実社会におけるSNSだけでなく差別や利害関係における構造も描写していった。この20年近くの日本を浅野いにおがしっかりと映し出した素晴らしい作品だと思うし、SF的想像力によって描いた世界は現実と確かに呼応している。

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『チ。』第7集は次巻の最終集に向けたラストスパート、カバーを外した方がカッコいいというかこの巻に出てくるセリフが描かれていて、読んだ後に再度見てみると熱い。願いや思い、誰かの希望が託されるということ、出会ってしまったということ、願いの連鎖が世界を変えていくその前夜。

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ニコラでめかじきとケッパーのラグートマトソース スパゲティーニと赤ワインをいただく。至福。

 

3月31日
PLANETSブロマガ連載「ユートピアの終焉──あだち充と戦後日本の青春」の最新回が公開になりました。
クロスゲーム』3回目(後編)は連載開始時当時の空気感、そして劣化版「柏葉英二郎」の大門秀悟が作ろうとしていた強豪野球部≒新自由主義の崩壊について書いています。


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昼飯を買おうと駅前に行ったついでにツタヤ三軒茶屋店に寄ると『デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション』完結&アニメ化もあって浅野いにおコーナーができていたが、壁に雑誌の表紙が飾られていた。

ASIAN KUNG-FU GENERATIONの10th Album『プラネットフォークス』をずっと流しながらこの日締め切りの「新潮新人賞」応募作の最終仕上げをした。現代から過去(1994年)へ巻き戻っていく構成にしたのは、たぶんこの30年ぐらいを描くのが自然な気がしたから。でも、やっぱり書き終えてみると逆だったなと思った。違うバージョンを書こうと思った。

 

4月1日
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今日から日記がわりにつけている新しい「10年メモ」(2022年4月1日から2032年3月31日まで)を書き始める。前の「10年メモ」は30代の毎日(2012年4月1日から2022年3月31日までの10年)の微細な記録だった。この「10年メモ」はちょうど40代の10年のことを書いていくことになる。まずはなんとか生き延びるしかないのだけど、別れも増えていく10年になるだろうなと思う。


トワイライライトでトマス・ピンチョン著『メイスン&ディクスン』上巻を購入して、コーヒーを頼んだので、そのまま屋上に上がった。
桜も散り始めているというのにとても寒く、またこの屋上に置かれているエアコンの室外機のファンががっつり回っていたので風がもろに当たってさらに寒くて暖かいコーヒーをすぐに飲んでしまった。

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公開初日のジュリア・デュクルノー監督『TITANE/チタン』をシネクイントの最終回で鑑賞。お客さんは金曜の20時半スタートだったがわりと入っていた。やっぱりパルムドールを獲っている作品だし、なんだかヤバそうな予告編だったりするのもあるのか、そういうものに惹きつけられる人や嗅覚が効く人が来ていたのだろう。

「RAW 少女のめざめ」で鮮烈なデビューを飾ったフランスのジュリア・デュクルノー監督の長編第2作。頭にチタンを埋め込まれた主人公がたどる数奇な運命を描き、2021年・第74回カンヌ国際映画祭で最高賞のパルムドールに輝いた。幼少時に交通事故に遭い、頭蓋骨にチタンプレートを埋め込まれたアレクシア。それ以来、彼女は車に対して異常なほどの執着心を抱き、危険な衝動に駆られるようになってしまう。自身の犯した罪により行き場を失ったアレクシアは、消防士ヴィンセントと出会う。ヴィンセントは10年前に息子が行方不明となり、現在はひとり孤独に暮らしていた。2人は奇妙な共同生活を始めるが、アレクシアの体には重大な秘密があった。ヴィンセント役に「ティエリー・トグルドーの憂鬱」のバンサン・ランドン。(映画.comより)

前半部分と後半部分でかなり作品のテンポが違う。
主人公のアレクシアの衝動的にも見える破壊行為によって彼女は元いた場所に居られなくなってしまい逃げることになる。それまではダンサーなのかな、爆音のクラブミュージックに合わせて車の前で妖艶に踊ったりしていた。自分の犯した罪から逃げた先で出会う消防士のヴィンセントと一緒に暮らし始めることになる。
ヴィンセントの前でほんとうのことを隠して生活をしていくのだけど(なぜアレクシアが隠していることに彼が気づかないのかと周りの人間は思う。彼もまた狂っている、いや信じたいことを信じることでなんとか生きているとも言えるのだろう)、アレクシアもヴィンセントもどちらもヤバいっちゃあヤバいもの同士のある種の共闘というかシンパシーがあったから一緒に居れたのだろう。
最後のシーンを観て、もうなんだかすごいことはわかるけど、なにを観せられたんだ?という気にもなってしまった。衝撃だけがあり、ふたりにだけ生まれた関係性とクライマックスでアレクシアの体の秘密とされているものが世に放たれる時、もう意味がわからないけどなんだかすごいものを目の当たりにする。やりたい放題だなと思って笑いそうにもなった。時間が経ってから自分の中で映像が蘇ったり、反芻してしまうものがある作品なんだと思う。

 

4月2日
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昨日『TITANE/チタン』をシネクイントで観たらポイントカードのスタンプが4つ貯まった。貯まると一回シネクイント系列で映画が観れるので、渋谷パルコに入っているホワイトシネクイントで朝イチで上映している『ベルファスト』を観ようと家を出た。
9時半からの上映だったのだが、8時45分ごろに着いてしまった。渋谷パルコ自体は10時以降にオープンで、映画館がある階への直通エレベーターも9時15分からとなっていた。30分待つのは正直しんどいなあと思って、近くの映画館で9時過ぎに上映している作品はないか検索すると、気にはなっていたジャスティン・カーゼル監督『ニトラム』がヒューマントラストシネマ渋谷で9時10分からだった。公園通りからタワレコの方に下っていき、ヒューマントラストシネマ渋谷が入っているココチビルへ。お客さんは朝早い時間だったが、20人近くはいた感じだった。

1996年4月28日、オーストラリア・タスマニア島世界遺産にもなっている観光地ポートアーサー流刑場跡で起こった無差別銃乱射事件を、「マクベス」「アサシン クリード」などで知られるオーストラリアの俊英ジャスティン・カーゼル監督が映画化。事件を引き起こした当時27歳だった犯人の青年が、なぜ銃を求め、いかに入手し、そして犯行に至ったのか。事件当日までの日常と生活を描き出す。1990年代半ばのオーストラリア、タスマニア島。観光しか主な産業のない閉鎖的なコミュニティで、母と父と暮らす青年。小さなころから周囲になじめず孤立し、同級生からは本名を逆さに読みした「NITRAM(ニトラム)」という蔑称で呼ばれ、バカにされてきた。何ひとつうまくいかず、思い通りにならない人生を送る彼は、サーフボードを買うために始めた芝刈りの訪問営業の仕事で、ヘレンという女性と出会い、恋に落ちる。しかし、ヘレンとの関係は悲劇的な結末を迎えてしまう。そのことをきっかけに、彼の孤独感や怒りは増大し、精神は大きく狂っていく。「アンチヴァイラル」のケイレブ・ランドリー・ジョーンズが主人公ニトラムを演じ、2021年・第74回カンヌ国際映画祭で男優賞を受賞した。(映画.comより)

主演のケイレブ・ランドリー・ジョーンズの顔つきや佇まいはどこかニルヴァーナカート・コバーンを彷彿させる。世界に対して屈折したような諦めたような憂鬱な顔にも見えるし、無邪気で世界をまるごと愛してるような顔にも見える。そして、長い髪と着る人によってはダサくしかならない服がカッコよく見えてしまう佇まいをしている。その姿はやっぱりカートっぽくもあり、昔シネマライズで観たガス・ヴァン・サント監督によるカートの死から着想を得た映画『ラストデイズ』という作品があったのを思い出した。
この『ニトラム』は実際の事件を映画化したものだが、ニトラムと呼ばれている青年がゆっくりと、しかし確実に悲劇に向かっていく様子を描いている。ニトラムと父親と母親の関係性でいえば、母親はどこか彼に対して冷たく突き放しているようにも感じられる。その分父親が甘やかしているようなバランスだが、それも一気に壊れていってしまう。そして、サーフィンをしたいと思ったがボードが変えないために金を稼ごうと芝刈りをするために訪問した家の女性のヘレンと出会ったことで、新しい庇護してくれる存在と出会い、束の間彼は心穏やかな生活を送るのだが、彼の無邪気であり同時におそろしい行動によってそれも終わってしまう。
精神的に不安定なニトラムは薬を飲んでいるが(抗うつ剤かなにかのはずだが)、彼の不安定さや情緒不安さは元々あったものに加えて薬の副作用というか、彼自身が薬への抵抗のようにどんどん症状は悪くなっていくようにも見えた。

上記の解説にはヘレンと出会って恋に落ちると書いてあるのだが、僕は観ていて二人が恋に落ちたようには感じなかった。彼女がニトラムの母とあまり変わらない年だというのもある。もちろん年の差で恋をすることはあるのはわかるが、彼らの関係が恋人のようには見えず、母の代わりに新しく庇護する存在としての女性がヘレンだったように見えた。彼女は犬や猫を何頭も何匹も飼っている金持ちだが、ニトラムも犬と猫とそこまで違いがあったのかどうか正直僕にはわからなかった。
幼い頃から「ニトラム」とバカにされていた彼はサーフィンもそうだったし、やりたいことができなかったり、友達や仲間が欲しくてもできずにずっとバカにされてきた。そういう憤怒のようなものが澱のように心に溜まり続けていく過程が描かれている。しかし、庇護的な存在だったヘレンが亡くなったことで、彼が手にしてしまった大金は銃器を買えてしまうという無差別銃乱射事件を起こすきっかけになってしまう。その前にはやさしかった父のある願いが不条理にたち消え、その因果を作った夫婦への復讐としても彼は銃撃を放つことになる。もちろん被害にあった夫婦は勝手な難癖である。

ニトラム、彼の起こした無差別銃乱射事件は彼を阻害しバカにし続けてきた世間や社会への怒りでしかなかった。もちろん、許されるわけはない。だが、この映画はとても他人事ではない。大きく一線を越えるというよりも、少しずつ少しずつボーダーラインに近づいていき、越えてしまうともう元には戻れないということを描いている。
誰にだって彼のように世間や社会へ牙を剥く可能性はある。とても悲しい物語であり、どの国でもどの地域でもどの町にでもニトラムになる可能性はある、そう誰にだってある。この映画を観ることでニトラムのようになる可能性のある誰かがラインを越えずに済む可能性はあるはずだ。表現だから観ることでラインを越える人もいるだろうが、抑止力になる人の数の方が多いと僕は思う。

 

4月3日
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あだち充著『アイドルA』を久しぶりに読む。今月のPLANETSのブロマガでの連載「ユートピアの終焉──あだち充と戦後日本の青春」で取り上げる作品。
グラビアアイドルとして活躍する里美あずさが高校野球の監督である父に頼まれて、瓜二つの幼馴染の平山圭太と入れ替わって高校野球部挑むという内容。まあ、漫画でできないような内容だし、あだち充が好き放題にするとこういうノリの作品になるなあと思わせるものでもある。
幼少期から野球部監督の父親に鍛えられたことであずさの野球の才能と身体能力は高く、甲子園大会の地区予選で準優勝に導くほどの選手となっていた。その間は圭太がずっと女装をしてグラビアアイドルの里見あずさとして振る舞っているという入れ替わりをやっていた。しかし、あずさ(選手としては平山圭太)はプロ野球球団に指名されてプロの野球選手となってしまう。そして、アイドルとしてその球団のマスコットガールにもなった里見あずさが選手として練習や試合に登板するときには圭太がアイドルやマスコットガールをやる羽目になるというドタバタコメディ&野球という漫画である。
不定期掲載であり、最初は休刊した「ヤングサンデー」で掲載されてその後は「ゲッサン」に掲載場所を移している。あだち充作品として実は連載作品でプロ野球を描いている唯一のものとなっている。

今作と同時期に連載の始まった『クロスゲーム』での主人公のコウとヒロインの青葉の関係性とも呼応している作品になっている。青葉は小学生の頃から野球をしており、そのピッチングフォームに憧れて高校から野球を始めるコウのお手本になっていた。
中学高校と野球部に入る青葉だが、女性のため練習試合などには出れるものの、公式戦には出ることができなかった。コウは青葉の姉で小学5年生の時に亡くなってしまった幼馴染の若葉に言われたことで、青葉がやっていた練習メニューをしながら体を鍛えていた。そのことも大きな要因となって甲子園を目指せるピッチャーへと成長していく。
クロスゲーム』の前作ボクシング漫画『KATSU!』でもヒロインの水谷香月はプロボクサーだった父の影響で幼少期からボクシングをしており、並の男性では叶わないボクサーとなっていた。高校からボクシングを始めることになった里山活樹の才能に惚れ込んでいき、香月は自分のボクシングの夢を彼に託すようになっていく。
この流れを『クロスゲーム』でも引き継いでいたが、この『アイドルA』は両二作品のヒロインが男性である主人公に自分の夢を託さないでもプロになったver.でもある。そして、『タッチ』からあだち充作品にはアイドルがたびたび登場していたが、今作ではプロ野球選手とグラビアアイドルの二刀流を「主人公≒ヒロイン」がこなしていく。だが、あずさになりきる圭太に関しても彼女の父や芸能事務所のマネージャーも次第に見分けがつかないほどなっていき、彼の変装の才能というか同化していく才能にも驚かされるという描写もなされている。
確かに「コントの世界」のような設定なのだが、『KATSU!』と『クロスゲーム』があることでこの作品はコメディというよりもその二作品のヒロインたちが叶えたかった夢を叶えるような設定として描かれている部分も興味深い。

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先日トワイライライトでトマス・ピンチョン著『メイスン&ディクスン』上巻を購入したが、トマス・ピンチョン全集は『メイスン&ディクスン』以外の作品は買っているけど、読み始めると脳みそが沸騰するような、解読不明になって結局ほとんどの作品は最後まで読めていない。
ピンチョンによる文学の複雑さと豊穣さに毎度打ち負かされているわけだが、SNSをしている時間があるなら一人の作家をしっかり読もうと思って、まずは一回読んだけど、下巻途中で挫折したピンチョンデビュー作『V.』上巻を再読し始めた。きっとある程度適当に読まないといけないんだよな、ピンチョンは。

古川日出男さんの長さで言えばメガノベル、ウエイトで言えば「重文学」を読み続けてきたことで、僕は以前よりも長くて重い作品を読めるようになっている。前よりもピンチョンの文章が入ってくることに驚いたし、読書もある種筋トレではないが、あるレベルを一定数こなさなければ読めないものもあるし、背伸びすることで読めないものに触れることでやがてそれが読めるようになる道筋を作ることもできることが体感として改めてわかった。
『V.』が執筆されたのは1959年から1962年にかけてらしく、発売は翌年の1963年となっている。約60年前に執筆中だったこのポストモダン文学を、ポストモダンももはやとうの昔に過ぎ去ってしまい、グローバリズムすらも終焉していくかもしれない時代に『V.』を読む。4月から8月末までの小説新人賞の予定とどの作品を応募するのかを再検討したのだけど、その期間中にピンチョン全集13巻読み切りたいが、たぶん無理だろう。せめて今年中にはすべて読み切りたい。

自分がずっと好きで作品にも関わらせてもらったことがある園子温監督からセクハラやパワハラを受けたことある人からの情報を募集していたり、そのことを煽っているアカウントや少しそのことに触れているニュースを見るようになってきた。
いいたいことはあるのだけど、この先どうなっていくのかはわからない。確かにセクハラやパワハラは許されないし、そのことで傷ついている人が当事者へ怒りを向けたりするのはわかる。
SNS において炎上したり、なにかで問題を起こした人には石を外部から投げろと煽る状況はかなり前からツイッターでは見るようになってきたが、正義という名の元に違うタイプの暴力が出現してきてしまう。ひたすらに悪だと、問題があるという人に石を投げたり炎上しているところにつけ火したり、新たな薪をくべることで多くの関係のない人たちが憂さ晴らしがてらしてしまっている部分もあるように感じる部分も正直ある。

ほんとうにいろんな気持ちが混ざる。そんな中、古川日出男さんがゲストに出たラジオをradikoで聴いた。番組のパーソナリティーである武田砂鉄さんとの話の中で今考えているようなことを改めて考えさせてくれる言葉がたくさんあった。
古川さんの新刊『曼陀羅華X』はオウム真理教をモチーフにして書かれた小説なので、そのことをメインに話が展開されていた。テロ事件を起こして死刑囚になった人たちを死刑にした時、それが法的に正しくとも、罪を犯した人が罰をうけるのが法治国家だとしても、ひとが一人その時には死んでいるという事実がある。僕たちがその息の根を止めるボタンを押して殺している側であるということに世間はなんら疑問に思わないし、選挙の当確が出た時のことを真似た報道さえも出てしまった。それが正しいことなのだ、と思えるのか? なんか正しさ故の暴力性のことを考える。国家だけが振るえる暴力があり、それは国民が母体にあり支持しているものだとしても、違和感を持つことしなくなったほうが危険ではないのか。という話がされていた。

オウム真理教の時に、この国のタガが外れ始めたこと、そしてオウムも東日本大震災原発事故も一気に風化していってしまう世界の問題や個人の人生へ与える影響。そういうことも考えないといけない。そのためにある一定時間を使って誰かやある対象について深く向き合うことは大事になってくるのだろうと思ったから、ピンチョンを今年しっかり読むことにした。もちろん、ほかの作家の作品も読みながら。
悪や正義という二項対立や敵や味方という考え方でものごとを考えてしまうと、分断のみが進んでいき対話すらできなくなってしまう。小説も映画も表現というのは答えを出すものではないし、答えを求めるものではない。その表現を見たり聞いたり読んだり感じたりしたことで新しい問いが出てくる。それを自分の人生において、世界や社会において当てはめたりしてその答えを自分なりに思考して探す。そういうものが芸術なはずだし、なんとかこの世界で踏ん張れる力になると僕は思うし、そういうことを古川さんの小説から学んだはずだ。だから、もっと自分の意見や考えだけでなく、ふいに僕に触れた物語の破片や裾のようなものをなんとか掴みたい。その全体像を現して、なんとか形にしたいと前より強く思うようになっている。

武田砂鉄 × 古川日出男【アシタノカレッジ】

 

4月5日
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大好きなギャグ漫画家の増田こうすけさんのコミックス『増田こうすけ劇場 ギャグマンガ日和GB 』6巻&『ギリシャ神話劇場 神々と人々の日々』4巻&『あの頃の増田こうすけ劇場 ギャグマンガ家めざし日和』がなんと3巻同時発売になっていた。
増田さんが漫画家になるまでのエッセイ漫画『あの頃の増田こうすけ劇場 ギャグマンガ家めざし日和』は何箇所も声を出して笑ってしまった。帯に「爆笑」「感動」とあるけど、感動はまったくしなかったけど大爆笑はした。

一日中雨で寒かった。仕事はリモートワークだけど、暖房入れても机に向かって椅子に座って作業をしていると足元がすごく寒いので、毛布を腰から下にかけて床に落ちている部分を巻き込むようにしてそこに足裏を乗せて床に素足がつかないようにして、なんとか寒さから体を凌いでいる。
冬の間ずっとこうしているのだが、まさか春分の日が過ぎてこんなに寒いとか、コロナだとか地震頻発だとか知っている人の名前がニュースに出ていていろいろと考えることもあるし、向き合って本音を言えるような場所や距離感でないと思っていることが言えない世界にどんどんなっているのだなと感じてしまう。クローズな場所で限られた人との間でしか情報は共有されなくなっていくという話を聞いたことがあるが、そうなっていくのだろうなと漠然と思った。

 

4月5日
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第63回メフィスト賞を受賞した潮谷験さんのデビュー作『スイッチ 悪意の実験』を読み始めた。日曜日にジュンク堂書店渋谷店に寄った際に、潮谷さんの3冊目が出ていて、デビュー作から1年で3冊出すというスピードもかつてのメフィスト賞作家たちの量も質も速さもある感じがしたので気になって3冊買って帰った。

夏休み、お金がなくて暇を持て余している大学生達に風変わりなアルバイトが持ちかけられた。スポンサーは売れっ子心理コンサルタント。彼は「純粋な悪」を研究課題にしており、アルバイトは実験の協力だという。集まった大学生達のスマホには、自分達とはなんの関わりもなく幸せに暮らしている家族を破滅させるスイッチのアプリがインストールされる。スイッチ押しても押さなくても1ヵ月後に100万円が手に入り、押すメリットはない。「誰も押すわけがない」皆がそう思っていた。しかし……。(公式サイトより)

悪意とはなにか?という話とミステリーが混ざり合って展開していくようだが、読み始めて100Pちょっとでスイッチが押されてしまうところまできた。この作品で主人公たちがバイトがてら参加した実験における人の悪意についての話と主人公の過去が交差してかなりスリリングであり、先がどんどん読みたくなってくる展開になっている。

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昼過ぎに散歩がてら家を出て駅前に行ったら、知人とばったり会ったのでお茶をしながら、ニュースになっている園子温監督のことで話をした。知人も園作品に関わっていたことがあり、だからこそ、というか自分たちが見たり聞いたりしていたこととニュースやSNSなどで流れてくるものの「差」というもの、また、僕らの距離感ではわからない事柄もあるのだけど、このことについて話せる人が周りにいないのでいいタイミングでお茶をすることができて、気持ち的にもすごく助かった。

飲みの席などで園監督が言っていた下ネタのようなものは確かにスルーしている部分もあったから、そのことを聞いて嫌な気持ちになった人はいたのだと思う。それに関しては僕たち同じ場所にいた人たちもそれがセクハラとの認識がなかったし、そういうことを言ってもいい空間にしていたことは申し訳なかったです、としか言いようがない。
女性に対しての性加害の報道に関しては、正直わからない。「やらしてくれるなら映画に出してやるよ」と言っている場面を見たこともないし、十何人とかでアトリエで飲んだりしている時に下ネタは言っていてもそんな話は出ていないと思う、聞いた記憶がない(僕がただ聞いていないだけなのか、そういうことがその場で言われていたかわからない)。女性に対してだらしないなあということと今回の性加害の問題はまるっきり違うから混乱する。

僕のようなファンがアトリエや家での飲み会にも呼んでもらったり、イベント後の打ち上げに参加する機会があったように、男女問わず役者志望の人、映画業界に入りたい人、演劇や音楽や美術といった映画以外のジャンルの人など様々な人たちが園監督の周りには集まっていたし、どっちかというと来るもの拒まずみたいなところもあった。
ファンとして近づきたい人も、なんかおもしろそうだからという人も、映画に出るチャンスを得たい人もなにかで一緒に仕事をしたいと思っている人もいろんな思惑がそれぞれにあった。園監督周りで人間関係を把握している人はおそらくいないんじゃないだろうか、園監督自身も誰が誰だか把握してないところがたぶんあると思う。

少人数で飲んでいる時はだいたい園さんが好きな映画とか都市伝説みたいな話を聞いていただけだった。好きな詩人とか影響を受けた作品の話をしている時はうれしそうだったし、あの空間はとても好きだった。
園監督は17歳の時には「ジーパンをはいた朔太郎」と称されていた詩人だったこともあって、詩集『悪の花』を書いたボードレールなどフランスの詩人たちの影響もかなりあったはずだ。その部分がエロスとタナトスという人間にとって生に欠かせないものであり、園監督の表現にも出ていたと思う。フランスの詩人って現代なら完全にアウトな人も多いのも事実だけど。
もし、報道に出ているような性加害のようなことがあったとして、飲み会が終わったあとで個人的に女性とやりとりをしているのであれば、知りようがないから聞かれてもわからないとしか答えようがない。

園監督を中心にした同心円状があって、監督との関係性や距離感によって関わっているスタッフや関係者それぞれが広がっていく円のどこかに位置している。だから、それぞれの人が見たり聞いたり知っていることのグラデーションがあって、その濃淡は位置や関係性によって違う。だけど、違うことと知らなかったことは同じではないし、世間から見れば知らなかったことにはならないのだろうというのもわかる。
園監督の近くにいたスタッフや関係者や、作品に触れて衝撃を受けた僕のような近いところにいたファンは、何を言っても擁護しているように見えてしまうだろうし、今のこの感じをどう言ったらいいのかわからない。

急に世間から石を投げてもいいよみたいな対象に園監督がなってしまい、ある種の正義感とそれが引き起こす憎悪と嫌悪と悪意が一緒くたになって飛び交っている光景を見せられても、自分の中での園監督への感情とそれらを見た感情が入り混ざってただただ複雑な気持ちになっていく。自分の感情や想いを言葉にする以前に見なければいいけど流れていくタイムラインやネットでのニュースが心をざわつかせる。
僕自身が出来事の加害者ではなくとも、当事者ではなくとも、加害者として批判をされている園監督と一緒に過ごした時間や思い出があり、その関係性から広がった事柄もある。
園監督にはまず今回の報道で出ている事柄に関して被害を訴えている人や声を上げている人たちに誠意を持って対応してもらうしかない。それしか僕には言えない。まずそれをしない限りは、その先の話に進めないと思う。

 

4月6日

朝起きたら園監督が直筆コメントを発表しているというニュースが出ていた。このコメントを読む限りは声を出している人や被害者の人に対して残念ながら謝罪はなかった。
事実と異なる点が多く、と書かれているのでそこが引っかかっているのだとすると、表に出て園監督自身が直接答えるしかないのだろうか。
また、現時点では被害者の声だけであり、加害者とされる園監督の言い分などを聞こうという声はあまりない。こういう問題では二次加害が起きてしまうから被害を訴えている人たちは名前や顔は出せないだろうが、そうなると本当に被害を訴えていたり、声を挙げている人たちではなく、今回の騒動を面白がって虚偽の情報を言う人もいるだろうし、もしかしたら園監督ではないほかの映画業界の人にされたことを園監督にされたことにしてしまう人がいても、それが本当のこととして通ってしまう可能性もある。
やはり園監督側の言い分であったり、釈明などの機会を作った上で判断をしてもらうということは必要なのではないか、と思う。出たら出たでまた炎上というかSNSで罵詈雑言が溢れかえるだろうし、どうしたらいいんだろう。

リモートワーク中はradikoでラジオを聞いていて、水曜日は火曜深夜に放送された番組を流している。TBSラジオの『アルコ&ピース D.C.GARAGE』『JUNK 爆笑問題カウボーイ』、ニッポン放送緑黄色社会・長屋晴子のオールナイトニッポンクロス』『星野源オールナイトニッポン』『ぺこぱのオールナイトニッポンゼロ』という流れだった。

園監督の報道について触れていた、がっつり話をしていたのは『JUNK 爆笑問題カウボーイ』の太田さんで、園監督についてオープニングから怒りながら批判していた。
太田さんが園監督に対して、作品に出ていた女優さんのこと、そして映画のことについて話をしていたことも胸に響いたが、同時に太田さん自身がビートたけし立川談志太宰治三島由紀夫たちに受けた影響と作品に罪があるという話から「芸術は罪です。罪だからこそ意義がある」と話を展開していた。
太田さんの持論でもあるが、表現というのものは人の人生を容易に変えてしまうものでもある。だからこそ、という太田さんの話であり、この部分まで含んで多くの人に聞いてもらいたい内容だった。
芸術は生きるために必要な罪であり、毒である。だが、その作り手が法や常識から逸脱してしまうことがもはや許されない時代になっている。今ちょうど読んでいるニック・ランド著『絶滅への渇望 : ジョルジュ・バタイユと伝染性ニヒリズム』の中でバイタユが論じたマルキ・ド・サドについての章だったので、頭の中がぐるんぐるんと回ってしまった。

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仕事の休憩中に書店で本日発売になった佐久間宣行著『ずるい仕事術』を購入する。『佐久間宣行のオールナイトニッポンゼロ』リスナーなので課金の思いも含めて、発売したら買おうと思っていた。しかし、結局、この日も仕事終わっても本を読む気にはなれずにページは開けなかった。
オールナイトニッポン」の配信もされたイベントの中で、佐久間さんが語っていたかつて大学生時代に浅草キッドと出会ったという話が水道橋博士さんのYouTubeで改めて語られていた。

 

4月7日
忘れるな。オウム真理教による無差別テロという忌むべき“物語”に立ち向かう小説『曼陀羅華X』(豊崎由美

豊崎さんの的確でありつつ今の時代に起きていることと書籍を重ねる、繋がっているんだよとわからせてくれる書評であり、『曼陀羅華X』へ興味を持ってもらえそうなレビューだった。
オウム真理教はテロを起こして国家転覆を謀り、終末を自らの手で起こそうとした集団なわけだが、オウム真理教に入信したことで知らない間に上の人間たちの判断によって、テロが起こされたことで加害者の側になって人たちも少なからずいるだろう。今はとてもその人たちがどうなっているのかが気になる。
村上春樹著『アンダーグラウンド』は2020年の夏に『ゼロエフ』の取材(福島県の6号線を踏破する)に同行するための準備のひとつとして読んだ作品だが、地下鉄サリン事件の被害に遭った方々のインタビューだった。続編でもあるオウム信者へのインタビュー集である『約束された場所で アンダーグラウンド2』も併せて読んでいたが、今一度僕は読み返さなければならないのかもしれない。

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15時30分から東映本社の試写室で辻村深月原作・吉野耕平監督『ハケンアニメ!』の試写にお声がけしてもらっていたので、運動がてら家から銀座まで約二時間ほど歩いていった。
青山一丁目辺りの青山墓地近く(国立新美術館手前)でヘリコプターが頭上を飛んでいった。前も飛んでいったのを見たことがあるが、どこに向かっているヘリコプターなのだろうか、そのまま赤坂を抜けて日比谷公園を横切って銀座へ。日比谷公園の花壇の花が色とりどりに綺麗に咲いていて、多くの人が撮影をしていたので、立ち止まって撮ってみた。


コロナになる前に何の映画は忘れたが試写で来たこともある東映本社の試写室にかなり久しぶりにやってきた。ここは働いている社員さんたちがいるフロアをふつうに横切っていくという珍しい場所。

直木賞作家・辻村深月がアニメ業界で奮闘する人々の姿を描いた小説「ハケンアニメ!」を映画化。地方公務員からアニメ業界に飛び込んだ新人監督・斎藤瞳は、デビュー作で憧れの天才監督・王子千晴と業界の覇権をかけて争うことに。王子は過去にメガヒット作品を生み出したものの、その過剰なほどのこだわりとわがままぶりが災いして降板が続いていた。プロデューサーの有科香屋子は、そんな王子を8年ぶりに監督復帰させるため大勝負に出る。一方、瞳はクセ者プロデューサーの行城理や個性的な仲間たちとともに、アニメ界の頂点を目指して奮闘するが……。新人監督・瞳を吉岡里帆、天才監督・王子を中村倫也が演じ、柄本佑尾野真千子が共演。「水曜日が消えた」の吉野耕平が監督を務め、劇中に登場するアニメは「テルマエ・ロマエ」の谷東監督や「ONE PIECE STAMPEDE」の大塚隆史監督ら実際に一線で活躍するクリエイター陣が手がけた。(映画.comより)

主人公の新人アニメ監督である斉藤瞳吉岡里帆)はかつて影響を受けて、自分の目標にしていた天才アニメ監督と呼ばれている王子千晴監督(中村倫也)と同じクールの土曜17時に違う局でアニメ番組を制作することになる。王子監督に勝ってアニメ業界の「覇権」を取ると一緒に出席したアニメフェスティバルの対談で宣言する。
アニメ業界を舞台にしたお仕事映画であるが、監督だけでなく、それぞれの作品のプロデューサーや宣伝や制作デスク、編集に作画監督美術監督色彩設計に脚本に制作進行、そして一緒にアニメを作るために仕事を依頼している会社の原画担当など、そして声優と多様な人々が登場する。それぞれの仕事と立場と関係性があり、ひとつの作品を作り上げるために協力をするわけだが、もちろん一筋縄ではいかない。

斉藤監督とプロデューサーの行城(柄本佑)、王子監督とプロデューサーの有科(尾野真千子)というそれぞれの監督とプロデューサーの関係性も見どころであり、この作品は限りなくお仕事映画になっているため、無駄な恋愛要素がほぼなく、そのおかげで非常に見やすいというかわかりやすいものとなっている。
あるとすれば、原画担当の並澤(小野花梨)と市役所観光課の宗森(工藤阿須加)が聖地巡礼企画で何度か一緒にいるうちにというのがなくはないが、ときおり真剣さを際立たせるためにコミカルな雰囲気が入るのだがその役割を担っているようにも見えた。
作品自体はアニメ業界を舞台にしたものだが、基本的にはスポ根的な構造なので非常にわかりやすく、観る人もさきほど書いたように多様な役職があるので、自分を誰かに投影しやすいので感情移入はしやすいものになっている。

主人公の斉藤瞳を演じているのは吉岡里帆だが、今作では行城プロデューサーに当初は作品作り以外のことに駆り出されて不満が大きくなっていく。宣伝も兼ねたファッション誌などの取材でおしゃれな感じにスタイリングしてもらって写真を撮ってもらう時にも「嫌だ」と彼女は不満をもらす。行城には作品を届けるためには何でもやって認知してもらおうというタイプであり、彼女は作品に集中させてくれと嫌がっているシーンも出てくる。彼は「ちょっとはかわいいんだから」とそれを利用しない理由がないという姿勢を通す。
実際に演じているのが吉岡里帆なので、どう見ても顔が整っていてパッと見で美人なので「ちょっとかわいい」レベルではないという逆ファンタジーが起きてしまっているが、創作をしている人で表に出たくない人は男女関わらずいるのも事実だ。
雑誌やメディアに出たら出たでビジュアルに関しての悪口を言われたりSNSで書かれたり、変な客(ストーカーまがいのことをするようなやつ)がついてしまうというデメリットも確かにある。だが、作品を届けるためにはそれをしないと届かない場所や人も確かにいるというのも事実だ。この辺りの問題もしっかり描いているのもリアリティがある。
吉岡里帆さんは好きな女優さんだが、映画に関してはこの作品という印象が今までなく、この作品での斉藤監督は多くの人から共感され、彼女の代表作になっていくのではないかなと思った。もちろん、彼女の存在感が出てくるためにはライバルとしての天才・王子監督を演じる中村倫也さんの存在感や天才っぽさやその実力と振る舞いがあるからこそだし、同時にそれぞれの監督とタッグを組む両プロデューサーを演じたふたりもとてもいい。

個人的なことで言えば、両監督と両プロデューサーの関係性を見ていて、おそらく試写に来ていた他の人とは違う理由で泣いてしまった。文春砲をくらってる園監督の右腕といわれている梅川治男って誰だよ、今まで名前すら知らなかったよ。
前々日に書いたけど「監督を中心に同心円状のグラデーションで監督との関係性や距離感によって関わっているスタッフや関係者それぞれが広がっていく円のどこかにいる。だから、それぞれの人が見たり聞いたり知っていることのグラデーションがあって、その濃淡は位置によって違う」んだけど、僕はノベライズを書くことになったのも脚本を手伝うことになったのも園監督から直接ラインが送られてきてやることになったし、手伝うことになったその二作品のプロデューサー以外とは関わりもないから、もう関係性とか人物相関図がどうなってるのかわからない。『ハケンアニメ!』を観て、ほんとうにこういう関係性で映画やドラマを作っていてくれたらよかったのに、としか思えなかった。

作中で両陣営が作るアニメ作品が登場するが、実際に王子監督が天才と呼ばれる所以を表現するためのアニメ作品『運命戦線リデルライト』を最初にお披露目するシーンでのアニメシーンはほんとうに鳥肌が立ってしまった。ここでしっかりと観客に彼が口だけではない天才だという印象づけができているので、この作品におけるリアリティラインが確保されて観る人に真実味を強く与えることができるものとなっていると思う。
僕はあまり多くはアニメを見ないので、もしかするとアニメ好きな人は違う反応かもしれない。そうだった場合はそこでの天才性を植え付けられるかどうかは変わってしまうかもしれないが、僕にはしっかりすごい作品を作る人だと感じさせてくれるアニメ動画だった。どちらの作品もそこを本気でプロのアニメ制作の人たちが手がけているので、出来栄えが素晴らしい。
働いている人は自分の立場と近い人を見つけて共感するだろうし、物作りのためのチームものとしてもたのしめる。かなり多くの観客に届く、素晴らしい作品だと思うのでヒットすると思う。

 

4月8日
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昼休憩で駅前の銀行に行った帰りにトワイライライトに寄って、今読んでいる『庭』の著者である小山田浩子さんの他の文庫『穴』を購入、一緒にコーヒーも頼んで一服する。解説とかあとがきから読む派です。できるだけ文庫版には解説やあとがきを入れてほしい派でもある。

一日中、朝9時から夜の22時までリモートワーク。肩と目が異様に凝った。深夜の2時前になっても眠れないので、ゴダイゴ『新創世記』をノートパソコンから流していたら落ちてた。最近のスリープミュージック。

 

4月9日
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このところ6冊ぐらいの書籍を同時並行で読み進めている。その中の一冊が散歩で行った代官山蔦屋書店の写真集などがあるコーナーで展開されていた、編集者でもある菅付雅信著『不易と流行の間 ファッションが示す時代精神の読み方』で、ちょっとずつ読んでいる。
もともとファッション業界誌で週刊誌である『WWD JAPAN』に連載していたものがまとまったものであり、連載中が全世界を襲ったコロナパンデミックだったので、ファッション業界とコロナ、そしてブランドや価値観や市場やサステナブル問題などの変化や新しい試みなどが取り上げられている。

ちょうど「13 政治がファッションになる時」までを読んでページを閉じようと思ったら、次は「14」ではなく、「対談1 ファッションは果敢に変わりながら、大事なものを守る」という著者の菅付さんと『WWD JAPAN』編集長の村上要さんの対談があったのでそこまで読んで今日のところは閉じようと読んでみた。
一神教ではない日本は、高み(ビルやピラミッドのようなもの)ではなく奥深さに価値を見出す(神社とか)強みを出していく方がいい(オタク的な価値観と通じているのかもしれない)という話もおもしろかった。ほかにもこんな部分は興味深かった。

M(注:村上要):そうですね。ことジェンダーの問題に関していうと、セクシャルマイノリティが発信側に立っているケースが多い業界だから、という理由もあると思うんですよ。だからすごくセンシティヴだし、敏感なところがある。ただしLGBTQ的なものに対しては早くから敏感だったけれど、人種や体型の問題に関して結構初歩的なところでつまづいて、炎上もしてきました。
 最近では「女性性」をどう表現するかがテーマになっています。22年春夏シーズンではもう一度曲線美を謳うというか、ボディコンシャスなスタイルが復活しました。ミュウミュウでは「オッパイ、半分見えてます」くらいの洋服が登場したり、2000年くらいのパリス・ヒルトンやブリトニースピアーズ再びみたいなスタイルがガンガン出ているんです。そういうクリエイションをした人たちに話を聞き、やっぱり「女らしさ」を謳歌したい人の存在を再認識しました。ジェンダーレスという志向は、もしかしたらそういう人たちをないがしろにしてきたんじゃないか、傷つけていたんじゃないかと反省さえしています。だからってジェンダーレスを全然否定するつもりもないんです。と同時に「男に媚びるためのセクシー」も別に否定しなくてもよくない? みたいな気持ち。双方があっていいし、そういうクリエイションがすぐさま出てきたのは、ファッションのレセプト(受容)能力をすごく発揮していると思ったんです。
その発信とレセプトの関係性が、ことジェンダーの問題に関しては高まっていて面白いと感じるのは、自分自身もセクシャルマイノリティだからかもしれないですね。

S(注:菅付雅信):ファッションは変化が激しいから、現場にいると目先の変化に右往左往しちゃうのかもしれませんね。でも大事なのは、変化しながらも、姿勢や精神は変えないことだと思うんですよね。見た目は変化しながらも、精神や哲学は変わらないブランドになっていくというか、変わらないメッセンジャーになっていくこと。そこを日本のファッション業界は見失いがちだと思うんです。
M:見失いがちですね。本当にそう思います。
S:欧米の強いファッションブランドは、まず変わらないものをしっかり決めて、あとは変えている気がします。「見た目はガンガン変えるけど、ブランドのスピリッツは変えないぞ」みたいな。そこが日本のブランドは全体的に弱い。強いのはコム デ ギャルソンとかイッセイミヤケのような、カリスマ・デザイナーの元でパリコレで戦っている人たちと、ユニクロのようなカリスマ経営者がいるところですよね。両方に共通するのは、世界で戦えているブランド。世界で戦うには、変わらない強いスピリットが必要です。でも日本の多くのブランドは、けっこう市場に合わせてドタバタしちゃう。

この書籍はファッション業界のことについて書かれているが、僕のようにファッション業界と関係なかったり、あまりファッションに関心がなかったりする、外部の人が読んでもおもしろいと思うし、他のジャンルや業界でも重なる部分がたくさんあると気づけるものになっている。

「第63回メフィスト賞」受賞作である潮谷験著『スイッチ 悪意の実験』を読了。かつては「恋愛ドラマ」の王道であった「月9」枠で放送された『ミステリという勿れ』がヒットし、4月から6月クールは『元彼の遺言状』が放送される。この二作品はミステリードラマであることも話題になっているが、この『スイッチ 悪意の実験』はこの「月9」枠でこの流れでいけばドラマの原作候補になっていたり、候補になりえる可能性があるのではないか、と思った。
映像化にかなり向いている(画の想像がかなりできた)内容であり、映画二時間というよりは連続ドラマでやるとかなりおもしろいものになるだろう。もちろんミステリーなので謎解きであるものの、いくつかの要素が重なっているし、登場人物もどんどん死んでいくというわけでもないから、主要人物はほとんど退場しない。
キーワードである「悪意」がどう展開し、物語と謎解きに関係していくのか、というのもかなりの見どころになりそう。と言っても単純にミステリーとしておもしろく、メフィスト賞受賞作らしく一筋縄ではいかない感じも好感が持てるし、もっと評価されていくんじゃないだろうか。
メフィスト賞応募時のタイトルは『スイッチ』だったようだが、刊行される際にサブタイトル的な『悪意の実験』が追加されている。このサブタイトルも実は読み手をミスリードというか、ある種の思い込みをさせる効用もある。サブタイトルはおそらく編集者が提案したのだろう。講談社文芸第三出版部の編集者ならたぶんこういう提案をして作品をさらに上に押し上げるんじゃないかな。
このサブタイトルによって、後半からの謎解きの際に「悪意」という単語にうまいことやられてしまったとわかってくる。潮谷験さんの二作目と三作目は一緒に購入していたので、そちらを読むがさらに楽しみになった。

 

4月10日
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水曜日のダウンタウン』の演出を手がける藤井健太郎さんとBISHなどが所属する「WACK代表取締役&音楽プロデューサーの渡辺淳之介さんの対談集『悪企のすゝめ 大人を煙に巻く仕事術』を買って読み始めたら最後まで一気に読んでしまった。
先日購入して読み終わっていた佐久間宣行著『ずるい仕事術』もそうだが、ヒットを出している人たちのアウトプットだけでなく、インプットや仕事に対しての考えやどう行動したのかが気になっている人が多いということだろう。
『ずるい仕事術』は新社会人の人だけでなく、部下を持つ上司の立場になったりした人など、さまざまな人へのアドバイスがあるので多くの人にとってタメになるし、実践的なアドバイスが参考になると思う。仕事をする上で知っておきたい心構えとかいかに自分がやりたいことをするためになにをしておくかが分かりやすく書かれていた。
佐久間さんが今の存在感をTV業界だけではなく、他ジャンルの人からも注目されるようになった背景には、細かい気配りなどの部分も含めてしっかりと先を見据えて行動をしていたこと、人とどう付き合ってやりとりをしたほうがいいかを考えていたからなんだと思う。

僕個人はビジネス書とか自己啓発書をたくさん読むほうではないが、佐久間さんのラジオのリスナーで番組のファンであり、藤井さんの手がけている『水曜日のダウンタウン』『クイズ☆正解は一年後』をたのしんでいるので読んでみようと思った。
WACK」所属のアイドルにはあまり詳しくないが、『水曜日のダウンタウン』でクロちゃん×アイドルオーディション企画「モンスターアイドル」はとてもおもしろかったし、BISHのブレイクぶりも知ってはいるので渡辺さんがどんな人かも気になっていた。
『ずるい仕事術』と『悪企のすゝめ 大人を煙に巻く仕事術』は一緒に読むことで自分に合うものや会社や組織の中でどう動いた方が自分のやりたいことができるか、がわかるんじゃないだろうか、別に対照的な裏表という感じではなく繋がっている書籍だと思う。このところ個人的にも考えることがあるので、こういう働き方に関する本の方が実は読みやすかったりする。その中で気になったのは下記の部分だった。

渡辺 「ネガティブ反応が出ちゃうかな」って思ったときの、それでも出す、出さないの判断の軸ってどこにあります?
藤井 最後は、自分の中のバランス感覚頼りになりますよね。でも、おもしろさが突き抜けてたら気にならなくなったりするんですよ。あまりおもしろくないから悪いところが目立つっていうか(笑)
渡辺 テレビはより一層だと思うんですけど、「否」に対してのアレルギーってすごいじゃないですか。「それって、どうにかならないのかなあ」って。
藤井 「10件クレームが来たら大ごと」みたいなね。たまに、「芸人たちをつらい目にあわせてる」って、批判をされることもあるけど、それはお互いある種の「大きな合意」のもとでやっているわけで。そういうクレームを1個ずつ受け止めていると、クロちゃんとかは、食い扶持がなくなっちゃう(笑)。
渡辺 クロちゃんの生活が(笑)。
藤井 ただ、クロちゃんって不思議で、いじめられる側に立っても苦情が来ないのに、「モンスターアイドル」のときみたいに、クロちゃんが強者の立場になると、苦情が殺到するんです(笑)。そこには、外見に対する差別的なものもあるだろうし、「あのクロちゃんが偉そうにするなんて許せない」っていう、潜在的に下に見てる感じもある。だから、クレームを入れる人のほうがひどいってこともありますよね。
渡辺 全体的な傾向として、抗議が来るとみんな日和っちゃいますよね。僕の場合も、コロナ禍でライブをやるときに「なんでやるんだ!」って言われると、ズシンとくるんですよ。「こっちはガイドラインに従ってやっているんだけどな」って。「ライブに行くのが生きがいです」と言ってくれる人がいても、「なんでやるんですか!」みたいな、少人数だけどマイナスの声のほうが大きく聞こえちゃって。
藤井 テレビ局でも、ポジティブな意見ってわざわざメールをしてこないですからね。
渡辺 たしかに、「あー、おもしろかった!!」で終わりですもんね(笑)。
藤井 昔は、抗議電話がかかってくると、そのしゃべり方だったりで、あきらかに普通じゃないから「この人の話は聞く必要がないな」ってわかったんですよね。この前も珍しくクレームがハガキで来たんですけど、めちゃくちゃ細かい文字がびっしりで「絶対こんなの見る必要がない手紙」というか(笑)。それと一緒で、ツイッターで文句を言ってくる人も、前後の投稿まで見にいけば、そりゃお金配りもリツイートしてるし(笑)、「この人の意見は聞く必要がないな」ってわかるんですけど、1つの投稿だけで見ると、画一化されたフォーマットの中では一見まともなことが書いているかのように見えちゃうんですよね。

この部分は園監督の問題で僕が感じていることにもちょっと通じていた。例えば、今回の件では普通にがんばっている人が可哀想という意見を見た(もちろん合意がないのは論外で性加害と言われたら、そうでしかない)。だが、そういう風に考えている人がもしお金配りツイートをリツイートしていたら、僕はその人の言うことについて、というか言っている人には藤井さんと同様な気持ちになるだろうなと思った。

お金配りおじさんは完全な勝ち組で、ネオリベ側で財を成した人だ。ゼロ年代以降に自己責任という名のせいでいろんなことが崩壊していったわけだが、その中で手段を選ばずに金を稼いでる人が勝ち(正義)的な価値観が強くなっていった。
貧しかったり、生活が困窮している人はその人のせいだ(努力をしていない怠け者みたいなニュアンス)ということになっていってしまった。プラスで言えばそこには正社員になれなかったロスジェネ世代と呼ばれた僕ら、もはや中年にも下の世代からそれに似たような視線は向けられている。そういう人たちを救ったり手を差し伸べるが公共の福祉であるはずなのに、それが断ち切られたりして、公助しないといけないのに自助でやってくれということを政府が言い出して、さらに家族や個人に責任や対応を押しやっているのが現実だ。
つまり、何をしても勝てばいいみたいな価値観が強くなった時代に、その代表格みたいな人がやっている下品な金配りツイートをリツイートするのはその価値観の軍門に下ったようなものなのだから、手段に関して文句は言えないのではないかと思ってしまう部分もある。

今回の件で言えば、報道されているように双方の合意がなかったり、何も知らないで誰かに飲み会などに連れて行かれて置き去りにされてそこで関係を強要されたのであれば、もちろんそのことに関して擁護のしようはない。
しかし、同時に「使えるものは使う」ということが今どのようなこととして捉えられているのかとも考えたりする。金持ちだったり文化的に豊かな家だったり、そういう「持っている人」がそれを活かすことは問題がないし、問題とはされていない(アメリカであれば、富裕層は寄付をしたりボランティア活動など社会的な貢献をするのが一般的であり、「ノブレス・オブリージュ」と呼ばれるものがある)。もしかしたら本人が気づいていないところで優遇されている場合もあるだろう。そういうものがない人間は夢や希望を叶えるため、近づくためにいろんなことをする。体を使おうが何をしてものし上がるチャンスを得ようとする人だっている。

だが、いわゆる枕営業みたいものに関しては俳優(男女性別問わず)が監督やプロデューサーなどの作品を作る上で決定権などを持っている人に近づいて、そういうことをしようとしたら、それを言われた人たちは断固として断らないといけないし、枕営業をして売れると後ろめたさやずっと隠さないといけないことができるからしないほうがいいときちんと伝えないといけない。
人は何かを隠し続けるとそれが心の奥底に澱のように溜まって行ってしまう。それはやっぱりいつか爆発したり、精神的ことだけでなく心身一体だから身体にも不調が出てきしまうのだと思う。もちろん、パワーバランスが上の人は枕営業みたいなものを強要するのもダメだし絶対にやってはいけない。昔はあったかもしれないが現在においてはもうありえないということしっかり認識するしかない。

映画や映像業界で言えば、たぶん俳優部や撮影部とかでそれぞれに労働組合とかみたいなもの作るか、組合まで行かなくても第三者機関に問題が起きた時に言えるような仕組みを作る。また同時に講習みたいなものを大手の映画会社主導でやっていくしかないのだろう。
僕がスタッフをしているウェブサイトの親会社は1月から株式譲渡で変わったが、前の親会社はIT系の大手だったので毎月コンプライアンス講習みたいなものが行われていた。ウェブで資料を読んで質問に答えて合格点になるまでやっていくというものだが、ハラスメントだけでなく個人情報の取り扱いや情報セキュリティや下請法や著作権などについてのものがあった。これは大手だとコンプライアンス違反によるリスクマネジメントという側面がかなり強いし、企業として社会的に信頼を得ることで会社の価値をさらに上げるというものだった。
こういうことは大手がまず率先してやっていくしかない、そうすれば下請けの会社とかにも広がっていくし、下請けの会社の人やフリーランスの人が大手や仕事を発注している会社の人間から横暴なことやコンプライアンス的にアウトなことをされた場合に泣き寝入りせずにすむようになる。映画撮影前に講習をするとかを撮影の条件にするとかして変えていくしかないと思う。

今はできるだけSNSは見ないようにしているけどたまに見てしまう。特にツイッターは共感と悪意を増幅させて拡散させていく装置なんだなと改めて思う。
正しいことをツイートしている人がいる、指摘している人がいる。そこに群がって標的に石を投げていいと思った人たちは悪意と憎悪をこの機会に、というぐらいにぶつけている。正しいことをしようとしているのに、なぜそこに加担する人たちが書いている言葉が罵詈雑言や誹謗中傷などの汚いものが多いのか、もちろん対象に向けての生理的な嫌悪感などもあるのだろうが、それにしてもそういうことは本質を歪めてしまうと思うのだけど。嫌悪だけでなく、妬みや嫉みであったり、今まで調子に乗っていたから気に食わないみたいな感じもあるのだろう。そういう人たちを見ると虎の威を借る狐ならぬ、正義の威を借る何だろう、偽善者でもないし小悪党でもないし、なんにせよ「地獄への道は善意で舗装されている」という言葉を思い出す。
今なら叩いていい、そういう感じがTHE村社会的な日本ぽさ全開で、個人の尊厳とか権利がなんだかんだ蔑ろにされてきたことに通じているんだろう。それって結局のところセクハラやパワハラに繋がっているとも思うし。個人の自由や尊厳や権利を守ろうとする国は文化を大事にするけど、日本はそうじゃない。

あとツイッターだけではないがSNSによって「書かされてしまう」問題もあるのだろう。その辺りのことは大塚英志さんの『大政翼賛会のメディアミックス 「翼賛一家」と参加するファシズム』『「暮し」のファシズム 戦争は「新しい生活様式」の顔をしてやってきた』『大東亜共栄圏のクールジャパン 「協働」する文化工作』がもっと読まれるといいのに。このシステムによって思っていないことや条件反射的に「書かされてしまっている」ことはないのか、少しは疑問は持った方がいいと大塚さんなら言うのだろうなと思った。

STUTS & 松たか子 with 3exes - Presence Remix feat. T-Pablow, Daichi Yamamoto, NENE, BIM, KID FRESINO(なぜこの曲かっていうのは『大豆田とわ子と三人の元夫』のエンディング曲を藤井健太郎さんがプロデュースしているから)

 

4月11日
清純派女優・夏帆が不信感を抱いた園子温監督の〝困惑演出〟 出演ドラマは黒歴史

Yahoo!を見ていたら目に入ってきたニュース。東スポの記事だが、夏帆さんがドラマ『みんな!エスパーだよ!』に出演したものの下着露出や性的なセリフがあったため、映画版のオファーを受けなかったと書かれている。
これを読んで思ったのが、夏帆さんが映画版に出ていないのはスケジュール的に無理だったという話を聞いたことがあるし、2015年公開の『映画 みんな!エスパーだよ!』には出演していないが、2017年に配信された園子温総監督Amazonプライムドラマ『東京ヴァンパイアホテル』では主役のKを演じている。
確かに現在の状況では夏帆さんにとって園監督作品に出たことは黒歴史にしたいとしても、この記事とタイトルは明らかにミスリードしている部分がある。
ドラマ版『みんな!エスパーだよ!』のあとに『東京ヴァンパイアホテル』に出演したことを知った上で省いているのか、調べもせずに書いているか。おそらく調べればすぐにわかることなので、この記事タイトルにするためにそのあとにもドラマに出演していることをわざと書かなかったではないだろうか。
せめて、こうやってネタにするなら、写真集が発売になったのだから、そのこととかに触れてあげるとかしてあげればと思うけど、でも、黒歴史とか書いている記事だから宣伝しても逆効果になってしまうのか。

夏帆が写真集に詰め込んだ、20代最後の2年間 「自分自身も世の中も、目まぐるしく変化した濃密な時間でした」

この写真集はカメラマンの石田真澄さんのツイッターやインスタグラムでどんな写真が撮られているか紹介されていて見ていて、すごくいいなと思っていた。
いろんな媒体でインタビューを受けているのも、届けたいという気持ちが強いんだなと感じさせられる。
夏帆さんは山下敦弘監督『天然コケッコー』は素晴らしかったし、『ブルーアワーにぶっ飛ばす』も『RED』もよかったけど、個人的には黒沢清監督『予兆 散歩する侵略者』がとてもよかったので何回も観ている好きな女優さん。

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大塚英志原作×山崎峰水漫画『くだんのピストル』を読む。このコンビでの『黒鷺死体宅配便』のスピンオフ的な作品かと思ったらどうやら違うらしい。表紙のピストルを持っている人だけど顔が犬な人物は坂本龍馬です。この漫画は主人公のくだんとごく一部の登場人物を除いて、犬とか馬とか動物の顔になっている。
幕末における黒船来襲、そして幕府の終わりと近代化の波がやってくる明治までを駆け抜けた人物たちを描いていくものになるみたい。
明治維新とはなんだったのか? そもそも近代化したはずの日本のこの状況とは? みたいなことで大塚さんはこの激動の時代を舞台にして漫画をやらないといけないんだろうなって感じて、山崎さんと組んで、ちょっとだけ見覚えのあるキャラクターを手塚治虫スターシステム的に転用していく形で今までの読者に興味を持たせながら、物語ろうとしているんだろうなと昔からの読者としては思う。

 

4月12日
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昼前に歩いて渋谷まで行って、パルコ渋谷にあるホワイトシネクイントでケネス・ブラナー監督『ベルファスト』を鑑賞。先日発表になったアカデミー賞脚本賞を受賞した作品。
劇場横には4月22日から公開のマイク・ミルズ監督『カモン カモン』のポスターが掲示されていた。偶然だが、『ベルファスト』もモノクロであり、『カモン カモン』と同日公開のジャック・オディアール監督『パリ13区』も予告を見ると同じくモノクロみたいだったの、そういう流れが来ているのかもしれない。
モノクロのほうがより美しさが際立つみたいな部分もあるだろうし、今作『ベルファスト』のように1969年という過去を舞台にした作品はモノクロのほうが味わいとノスタルジーもさらに増す。

俳優・監督・舞台演出家として世界的に活躍するケネス・ブラナーが、自身の幼少期の体験を投影して描いた自伝的作品。ブラナーの出身地である北アイルランドベルファストを舞台に、激動の時代に翻弄されるベルファストの様子や、困難の中で大人になっていく少年の成長などを、力強いモノクロの映像でつづった。ベルファストで生まれ育った9歳の少年バディは、家族と友達に囲まれ、映画や音楽を楽しみ、充実した毎日を過ごしていた。笑顔と愛に包まれた日常はバディにとって完璧な世界だった。しかし、1969年8月15日、プロテスタント武装集団がカトリック住民への攻撃を始め、穏やかだったバディの世界は突如として悪夢へと変わってしまう。住民すべてが顔なじみで、ひとつの家族のようだったベルファストは、この日を境に分断され、暴力と隣り合わせの日々の中で、バディと家族たちも故郷を離れるか否かの決断を迫られる。アカデミー賞の前哨戦として名高い第46回トロント国際映画祭で最高賞の観客賞を受賞。第94回アカデミー賞でも作品賞、監督賞ほか計7部門にノミネートされ、脚本賞を受賞した。(映画.comより)

ベルファスト』歴史背景

この作品は予告編もよくて気になっていたが、まずタイトルでもあり物語の舞台になっている「ベルファスト」に僕自身が一度行ったことがあったので、映画が公開したら絶対に劇場で観ようと思っていた。
祖母の兄で初生雛鑑別師だった新市さんは北アイルランドのアーマー州というところに第二次世界大戦後に相棒と移り住んで、亡くなるまでその地で過ごした。一度取材も兼ねて訪ねた際に、北アイルランドへの直送便はなかったのでロンドンのヒースロー空港で乗り換えてベルファスト空港に行った。そこから電車に乗ってアーマー州の最寄りの駅まで行ったことがあり、帰りも同様だったので数時間だけだがベルファスト市内を歩いたりして、少しだけ観光をしていた。タイタニック号が出港した場所としても世界的には有名な都市だが、9年ほど前だしあまり記憶はない。

予告編を見る限りは主人公の少年であるバディ一家が故郷であるベルファストから外へ出ていく内容だなとはわかっていたが、プロテスタントの暴徒が街に住んでいるカトリック住民へ攻撃を始めた宗教上の対立であり、昔からずっと知っている顔馴染みしかいなかったバディだけでなく、彼の家族にも大切だった場所が分断されていく様を描いている。
このことは北アイルランドの歴史における大きな遺恨を残した問題であり、ケネス・ブラナー監督自身が「『ベルファスト』はとてもパーソナルな作品だ。私が愛した場所、愛した人たちの物語だ。」と公式サイトでもコメントしているように、個人的な事柄を描いているが、それ故により多くの人にも届くものとなっている。また現在の世界における人種差別だけでないさまざまな分断が連鎖していっていることにも通じている。
大事な場所を捨てても、家族が一緒に生きられる場所を選ぶまでを約100分の尺で描いているのだが、非常にコンパクトながら軸のあるしっかりした作品になっていた。
バディだけでなく、母や父や兄、そしておじいちゃんとおばあちゃんという一家の顔がとてもよくて、いい家族だなあと思うし、ベルファストで生まれて生きてきた彼らも分断されて、宗教観の対立(北アイルランド紛争に突入していく)によって隣人や顔見知りと争ったり、傷つけ合うことはしたくないと大事な土地から出ていこうと決意する。とくに最後のおばあちゃんのセリフと顔はどうしても泣けてくる。

作品自体では宗教観の対立についてメインで描いているというよりは、急に(もちろんそれまでにいろんな経緯があるにしても)表出した生活に関わる問題にどう対処するのか、大事なものがなにか、何を選ぶのかをある家族を通して監督自身の個人的な思い出と絡めているが、語りがとても秀逸だった。これが脚本賞を取ったのはすごく納得できる。監督自身が描きたいもの、見せたいものにしっかりと的を絞って無駄なことをしてないし、争いが終わらない世界へ向けたはっきりとしたメッセージになっていた。

 

4月13日
後藤正文の朝からロック)野蛮な世界を変えるには


古川日出男、地下鉄サリン題材に長編 多様な世界観示す

ゴッチさんと古川さんの新聞記事をウェブで読む。

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ニコラに行って、日向夏マスカルポーネのタルトとアルヴァーブレンドをいただく。カウンターでいろいろ話せたので気力と体力もちょっとは復活ができた。ありがたい。

 

青山真治監督の撮影が予定されていた新作は妻のとよた真帆さんたちの手でなんとか形になるみたいだ。これはほんとうによかった。

 

4月14日
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小雨が降り始めたが昼前に散歩がてら代官山蔦屋書店まで歩いて行った。レイモンド・カーヴァー著『大聖堂』を手に取り、持っていたのかどうかわからなかったのでとりあえず購入した。
中央公論社から刊行されている「村上春樹翻訳ライブラリー」の中のレイモンド・カーヴァー作品は東京に来て、すぐに教えてもらって買い出して揃えていた。だが、数年前に断捨離がてら一度書籍をわりと多く古本屋に売った時にいくつか売ってしまっていた。そのせいで『大聖堂』が家にあるかどうかわからなかったが、やっぱり家にはあった。その時に手放したのは『ウルトラマリン』『象』だったようだ。
2007年に出された初刷と今回購入した2020年の7刷では、定価が前者は税抜きで1300円、後者が1500円だった。消費税も5%と10%と違うので約300円も同じ本でも違う、世知辛い。とりあえず新しいのは誰かにあげようと思って、古い前から家にあるやつに収録されている『ぼくが電話をかけている場所』と『大聖堂』をだけ読んで、自分の作業をそのあとはずっとしていた。


4月15日トマス・ピンチョン著『V.』下巻に突入。上巻は久しぶりの再読だったので最初のあたりはまったく覚えていなかった。ブームになってペットとして飼われたものの、次第に成長して大きくなっていくと人の手に追えなくなってしまい、トイレや浴槽から捨てられたワニたちがニューヨークの下水道で大きくなっているのを駆除する話が出てきて、それでなんとなく内容を思い出した。それにしても前よりは文章を読めるようになったと思うけど、それでもレイヤーや複数だし、固有名詞とかわからないものが多いのでやっぱり読みやすいとは言えない。でも、おもしろくないわけではなくて、このおもしろさのどのくらいを自分が理解できているのかがちょっとわからない。

『SOUL for SALE Phase Ⅱ』「奪った時間を売る方法」

「時間を奪うコンテンツが直接収益を上げる」ということではなく、「そのようなコンテンツには広告を出したい人がたくさん出てくるので、その人たちに『ユーザーの時間を奪っている』という事実が『売れる』」ということを意味している。いわゆる「三者間市場」というやつだ。

社会学者の鈴木謙介さんのブログがアップされていたので読む。もし収益を上げようとしたら「ユーザーの時間を奪う」方法を考えないといけないと思うと、なんだかなあ。


水道橋博士さんのYouTubeチャンネル「水道橋博士の異常な対談 〜Dr.Strangetalk〜」で映画評論家の町山智浩さんを迎えて、園子温監督の性加害問題についての対談が2回に分けて配信された。
町山さんが「園子温監督の作品を観てきていいたいことがあったんでこの場を借りて」と言ってから次回へというのはあんまり良くない気がする。2回目のほうがもともと再生数は下がりやすいだろうけど、これで余計に2回目のほうが見られなくなって、そこまでの見た感想でSNSに意見を書かれてしまうだろうしもったいないなと思った。

町山さんが話されているように園監督は「父殺し」をずっと描いてきた人であり、そのモチーフは庵野秀明監督もずっと描いてきている。庵野監督が一学年上だが二人は同世代であり、「大きな物語」が終わる前に映画や漫画やアニメに影響を受けた「おたく第一世代」で、彼らの父親たちは戦争を体験した世代だろう。
庵野さんを特集したNHKでのドキュメンタリーでも、エヴァなどの体が破壊されてしまったり、その体の一部が損なわれてしまうことに関して、彼は自分の父が事故で足を失って、それを見て成長したことを挙げていたと思う。
園監督もお父さんへの愛憎みたいなものがずっとあったし、それは作品にも表現されていた。それは父への反抗もあったのだろうけど、父に理解されないという気持ちの方が強かったのではないかなと思ったことがある。園監督の父への気持ちがある種、解放された(呪縛を解いた)のは『ちゃんと伝える』という作品を取ってからだったと思う。
その後に撮影した『ヒミズ』も「父殺し」の話だった。また、オイディプスコンプレックスは物語の王道パターンでもあるから『ヒミズ』が海外にも届いて評価されることにつながったのだと思う。

ヒミズ』以降に園監督がある種の権力を持って、かつてはモテなかったけどそれが可能になっていったという話もこの対談では出てくる。『ラブ&ピース』や『地獄でなぜ悪い』における主人公がなにものかになりたい人というモチーフはそれ以前のものからは変わっていないが、それらを撮影の何年か前に脚本として書いていたが、実際に撮影する頃には園監督自身の立場がその頃とは変わってしまっているという指摘もでていた。そこにはキリスト教の影響もあるだろうし、父がいなくなり、映画監督として成功を収めたことで父的な万能感を園監督が持ったという見方もできるのだろう。僕からすると園さんは父という感じはなかった。だけど、映画業界で一緒に仕事をする若い世代に対しては父的な形で接していたのかもしれない。

町山さんも水道橋博士さんも映画業界にいないから、今回報道に出ているようなキャスティングにおける性行為の強要などは知らないということ、映画業界では噂だったけど聞こえてきていなかったと言われていた。
ちょこちょこ撮影のエキストラに行ったり、お酒の席に呼んでもらっていた僕だって今回の性加害の話は聞いたことがないし、こういう噂があるんだよとも言われたこともない。
映画業界でない人でも風の噂に聞いていたという話もSNSで見たけど、映画業界の人でも町山さんや博士さんに会った時に直接そんな話をするとは思えないんだよなあ。
あるいは、もうひとつの可能性としては映画業界では噂になっていることは園監督と懇意にしている人たちは当然知った上で付き合っていると勝手に思われていたというパターンが考えられる。この二つが混ざり合っているから近そうに見える人でも知らなかったりする状況が生まれていたりしないだろうか。

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本日〆切だったものをなんとか提出した。寝る前に先日同時並行で読んでいる本のうち2冊読み終わったので新たに川上弘美著『どこから行っても遠い町』を読み始めた。
最初の「小屋のある屋上」からぐいぐいと引きつけられるものがあったが、そのあとの「午前六時のバケツ」と「夕つかたの水」を続けて読むと、連作短編小説とはわかっていたけど、「ああ、こういう風につなげてくるんだ」とうれしくなるほどの巧さがあった。
ひとつの町がより立体的になってくるし、人物の相関図が浮かんできた。もちろんほかの作家さんも場所や登場人物が連なっている連作短編小説作品を書かれているけど、川上さんの短編同士はその距離感がちょうどいいのだと思う。

 

4月16日
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シネクイントでエドガー・ライト監督『スパークス・ブラザーズ』の朝イチの回を鑑賞。昼からの予定前にちょうど終わる時間帯だったのでいいタイミングだった。

「ラストナイト・イン・ソーホー」「ベイビー・ドライバー」のエドガー・ライト監督が初めて手がけたドキュメンタリー映画で、謎に包まれた兄弟バンド「スパークス」の真実に迫った音楽ドキュメンタリー。ロン&ラッセル・メイル兄弟によって1960年代に結成されたスパークスは、実験精神あふれる先進的なサウンドとライブパフォーマンスでカルト的な支持を集め、時代とともに革命を起こし続けてきた。半世紀以上にもわたる活動の軌跡を貴重なアーカイブ映像で振り返るほか、彼らの等身大の姿にもカメラを向け、人気の理由をひも解いていく。さらに、ベックやレッド・ホット・チリ・ペッパーズのフリー、フランツ・フェルディナンドのアレックス・カプラノス、トッド・ラングレンなど、スパークスに影響を受けたアーティストたちが出演し、彼らの魅力を語る。(映画.comより)

スパークスが原案と音楽を手がけているレオス・カラックス監督『アネット』が公開されるということと、菊地成孔さんがブロマガの日記でスパークスについて言及して興奮した文章を書かれていたことで彼らに興味を持った。
この映画の冒頭でインタビューを受けているBECKは僕もすごく好きなミュージシャンで、おそらく海外アーティストでは一番多くライブを観ていると思う。そのBECKが絶賛していて、彼らがやってきた音楽や存在について称賛しているので、「おお、マジか」と思った瞬間に引き込まれていた。BECKから始めることを決めたエドガー・ライト監督さすがだ。後半にはエドガー・ライト監督自体もインタビューに答えていて、笑ってしまった。
スパークス」メンバーであるロン&ラッセルのメイル兄弟だけではなく、初期のバンドメンバーやプロデューサーや彼らに影響を受けたミュージシャンや俳優や作家たちが「スパークス」について語っていく構成になっていた。

早くに亡くなってしまったイラストレーターだった父のからの影響やメイル兄弟が大好きだった映画、そして影響を受けた音楽(ビートルズのコンサートを2回観ているらしい)や住んでいたLA(サンタモニカや彼らが通っていたUCLA)の環境などから始まっていく。過去の映像や新聞記事なども使われ、作中ではそれらのコラージュ的なものが出てきたり、紙人形やイラストでメイル兄弟やバンドメンバーや関係者などが再現映像に登場したりして、エドガー・ライト監督らしいポップで親しみやすいものとなっていた。
50年で25枚のアルバムという異様なキャリア、そして、デビューから現在に至るまでの彼らの音楽を聴いているとおそろしいまでにアーティストであり、彼らはずっとアートをしていた。自己模倣に陥らずに作ったものをどんどん壊しては新しいものを咲かせては、興味あるものへ移り変わっていく。表面上は変わり続けているが、芯にあるものは変わらないというまさにアーティストのお手本のような活動がわかってくる。

80年代になる前にコンピューターミュージック的なクラブダンスミュージックやテクノの走りのようなものをやっていたりする。その影響を受けた世代が世に出て売れていくとそのファンからすると、ひと回りして先祖であるスパークスの存在がよくわからない、真似しているという謎の状況が起きていたりしたらしい。彼らの音楽は変わり続けていき、その蒔いた種が発芽して大きく育って影響を与える頃にはまったく違うタイプの音楽をやっているので、そのつながりが若い世代には理解ができない、これはまさにミュージシャンズ・ミュージシャンだと言える。

兄弟のデュオがここまで長く一緒に活動している例はおそらくないはずだ。二人とも音楽に真剣であり、同時に二人ではないと作れないとわかっている。兄のロンが作詞作曲、弟のラッセルがボーカルだが、兄弟でビジュアルも正反対だし、ラッセルはイケメンな感じでフロントマンという感じがあるし煌びやか、彼の衣装の遍歴を見ていくとすごくその時代ごとのブームや流行みたいなものが出ていておもしろい。ロンは初期はヒトラーチャップリンみたいな髭を生やしていたのでそう書かれていたらしいけど、ある種不気味で寡黙な博士みたいな雰囲気だが、その正反対に見える兄弟が混ざり合うとロックでポップでテクノでネオクラシックといろんなジャンルを横断できてしまう。
ほんとうにすごくヘンテコだし、なにかが逸脱しているから目が離せない、だが、同時にそれはド直球のエンタメではないから、ヒットしてもそれをずっと望む人たちをすぐに置いてけぼりにしていって、また新しいことを始める。その姿勢がやはりアートだと感じた。壊しながら作り続ける。

映画を観ているとほんとうに初期から最新作までのアルバムを聴いてみたいと思って、この後の用事が終わってからツタヤ渋谷店のレンタルコーナーによった。彼らの名前を最初に世に知らしめた『キモノ・マイ・ハウス』と『ヒポポタマス』のみしか残っていなかった。ほかはスペースがぽっかり空いていたのでレンタル中みたいだったので、少し時間が経ったらまた顔を出してレンタルして聴いてみたい。

THIS TOWN AIN'T BIG ENOUGH FOR BOTH OF US


SPARKS - "THE NUMBER ONE SONG IN HEAVEN" (OFFICIAL VIDEO)



Sparks - What The Hell Is It This Time? (Official Video)



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シネクイントを出てから青山通り方面へ向かって、青山ブックセンター本店で西島大介著『世界の終わりの魔法使い 完全版6 孤独なたたかい』発売記念のサイン会へ。お店では『世界の終わりの魔法使い』原画展も開催されていて、こちらは26 日まで。
西島さんにはスタッフをウェブサイトの連載でイラストを描いてもらっていてが、コロナパンデミック中ということもあり、終わってからお茶しましょうと言ってからできておらず、ようやく直に会ってご挨拶することができた。

僕からイラストのリクエストは「黒い少年」で、このリクエストは初めてだなと言われていた。この「黒い少年」があれになるんですよ、ということであとはコミックスを読んでもらうしかないけど。この「黒い少年」のイラストいいよね、西島さんの描かれた漫画『すべてがちょっとずつ優しい世界』のキャラクターにもちょっと近しい。
担当編集者の島田さんもいらした。実は小学館から刊行された「漫画家本」で僕は何度かライター仕事で書かせてもらっているのだが、その編集さんが島田さんだった。だが、ずっとメールでのやりとりだったので今回はじめてお会いすることができた。cakesで田島昭宇さんのインタビューをさせてもらったのを読んでよかったので、声をかけてくれたとのことだった。そう言われてとてもうれしかった。

 

4月17日
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豊洲ピットでライブが夕方からあったので、午前中に原稿を書いて請求書(プリンターが家にないのでセブンイレブンプリントでPDFをプリントアウトして、それに捺印したものをスキャンしてスマホにデータをおとしたもの)を作って送信してから家を出る。
16時半には会場前で友人の青木と待ち合わせをしていた。家から豊洲ピットまでは3時間ちょっとだったので、渋谷―青山―赤坂―首相官邸と国会議事堂―日比谷公園―銀座―豊洲ピットという流れで歩いていった。
思いの外早く着きそうになっていて、1時間ぐらい余裕があったので晴海通りの勝どきエリアで右折して晴海客船ターミナルを見にいった。毎年元旦に井の頭公園神田川の源流から川沿いを歩いて、秋葉原を過ぎて柳橋のところで神田川隅田川に合流し、隅田川テラス沿いを歩いて晴海埠頭で東京湾に出るという古川日出男著『サマーバケーションEP』の物語を辿るということをやっており、東京オリンピックの翌年の元旦までと決めていたので今年が最後になった。
最終地点の晴海客船ターミナルは2月には営業を停止し、今年中には取り壊されるというニュースを見ていたので今はどうなっているのかなと思って立ち寄ってみた。近くには柵が敷かれていて立ち入り禁止になっていたので建物には近づけなかったが、まだ建物自体は取り壊されていなかった。付近の東京オリンピック選手村に使用されていたマンション群はいまだに人が住んでいないようだった。これから住めるようにしていくように工事をしている感じだった。
今まで歩いたことのなかった豊洲大橋を歩いて渡っていたら、晴海客船ターミナルの建物がはっきりと見えた。橋を渡ってから豊洲ピットに向かっていき、青木と合流した。

今年元旦に「晴海客船ターミナル」に行った時のことを書いたメルマ旬報の連載

「うるさがた Vol.2」というイベントでZAZEN BOYS×CHAIの対バンライブを観る。
席ありだったのでわりと楽ちんだった。席自体は少し右側のエリアだったけど、ステージはよく見えた。最初はCHAIからだった。ライブで観るのは初めてだったが、噂には聞いていたけど、NEOかわいいとポップを撒き散らしながらもステージを自分たちのスタイルで染め上げて、観客も知らないうちにその世界に巻き込まれて自然と音にノっているような感じになっていた。海外で人気があるのもわかるっていう音とパフォーマンス、すごくたのしくてワンマンで観たいと思わせるステージだった。

CHAI - NO MORE CAKE - Official Music Video (subtitled)



ZAZEN BOYSはいつも通りなパフォーマンスだが、音源化はされていない『杉並の少年』という曲が前よりもゴリゴリな感じのサウンドになっていた。あとThis is 向井秀徳がギターを持たずに歌う時に揺れたりしている感じはちょっとNEOかわいいに寄ろうとしているのかなと思った、なんとなく。
アンコールはZAZEN BOYSCHAIが全員登場してコラボ曲の『ACTION』を披露してくれた。演奏はZAZEN BOYSCHAIのメンバーは歌とダンスという感じだった。これをライブで観れることはこの先もほとんどないだろうから、ほんとうに今日ライブに来れて、二組とも最高にたのしかったし、最後にこの曲をやってくれてほんとうにいいライブだった。最後のコラボの動画とかアップしてほしい。

CHAI ACTION (with ZAZEN BOYS) - Official Music Video



帰りはさすがに豊洲駅から電車に乗って帰ったが1日で22キロも歩いていた。さすがに歩き過ぎた。

 

4月18日

酒井若菜さんが女優として、グラビアアイドルを始めたことから芸能界や映像業界で見たりしてきたセクハラやパワハラについて、ご自身の考えをしっかり書かれた『&Q』の連載「No.70」が公開になったので読んだ。
作品を作る人がいちばん大切にしないといけないものはなにかということ、そして自分が体験したものとそれに対しての行動や言動について書かれているものになっていた。読んだあとに『JUNK 爆笑問題カウボーイ』の太田さんが言われていたことにかなり近い印象を覚えた。
若菜さんだけではなく、今回のことで声がどんどん上がっていくことで、もう以前とは違う業界や体制になっていくのだろう。俳優部だけでなく、スタッフさんたち制作部の人たちももうパワハラやセクハラに対してはっきりと声を出して、働きやすく、個人の尊厳を守ることができる場所へ大きく動き出しているのを感じた。だからこそ、声を上げた人に対しての対応をしっかりしてほしいと思うのだけど。

朝から晩までリモートワークしていたので、昨日ライブで観たCHAIの音源を流しながらずっと作業をしていた。ほんとうに会社から支給されているもの(お昼に使う)と自分のノートパソコン(普段使い)が壊れたらいろいろ終わるなと思いながらキーボードを打っている日々。

 

4月19日

下北沢駅から3回乗り換えをして東村山市まで、電車の移動時間は50分ちょっとぐらい。どこかで乗り換え移動が遅かったりしたら、もう少しかかってしまって1時間ちょっとかかる感じだったと思う。
はじめて行く場所はできるだけ早めに行けるように移動するタイプなので、約束の時間よりも30分早く着いた。暇つぶしがてら東口の志村けんの像を見に行ったり、駅周辺をぶらぶら歩いていた。東村山駅は改装中みたいで、2025年ぐらいに完成する予定らしい。
11時半に古川日出男さんご夫妻と待ち合わせをして、まずはお昼ということで野口製麺所といううどん屋さんに連れて行ってもらう。お昼だと混むかもしれないということで集合時間を少し早めに設定してもらっていたおかげで、お店の外のテーブルで食べることができた。昨日の雨とは打って変わって晴れていて、暑すぎずにちょうどよい気温だったので心地よかった。
うどんが来る前に紅生姜の天ぷらや蒟蒻のおでんなども食べたが美味しかった。僕は東村山地粉猪肉汁うどんを注文。うどんも美味しかったが、うどんをつける肉汁に入っていた野菜も美味しく、猪肉もしっかりとした味だった。
お店では採れたてのたけのこの販売もしていて、たけのこうどんというのもあった。お二人が晩御飯用に処理されているたけのこを買ったら、どの部位がなににしたら美味しいか店主のおじさんらしき人が詳しく教えてくれていた。あと産みたての卵も販売していたりして、とてもいいお店だった。

食後に散歩がてら歩きながら色々紹介してもらってから、古川さんのお宅である「雉鳩荘」にお邪魔させてもらう。園監督のことで僕が思ったりしていることを聞いてもらったり、お二人から最近のことや僕が話したことに関しての考えとかも聞かせてもらった。
僕が座っていたテーブルの位置は、「雉鳩荘」と名付けているようにつがいの雉鳩がよく舞い降りてくるお庭がいちばんよく見える場所だった。つがいのようなムクドリはやってきたので見れたが、雉鳩は来なかった。だが、その鳴き声は耳を澄ますと何度も聞こえてきていた。
ずっと話を続けるというわけではなくて、時折誰も話さずに無言の時も何度かあったのだけど、そういう時は雉鳩とかの鳴き声を聞いたり、あと近所の飼い猫とかが時折庭にやってきたり、通路がてら横切っていくと言われていたので猫が来ないかなと出してもらったお茶を飲みながら見ていた。お二人も見たことがないという新顔らしい猫が隣の敷地の少し高さがあるところの隙間から顔を出していて、僕はちょうど猫の正面だったのでしばらく目が合っていた。二人とも猫を見つけるとどうやら今まで見たことがない子だと言われていた。その猫は庭には降りてこないで帰っていってしまった。また遊びにくるといいな。僕と猫ははじめての「雉鳩荘」にやってきた同士だったから、見つめ合う時間が長かったのかもしれない。
人と一緒にいる時に何もしないでいること、時間をのんびり感じられるというのはとても贅沢なことなんだなと思ったのも今日の発見だった。
お二人からアドバイスというかいろいろと話してもらったことで、すごく肩の力が抜けたというか楽になったのでありがたかった。そこでどんなことを言ってもらったかは書かないけど、信頼している人と空間と時間を共有してもらえることはほんとうにうれしいことだし、そこに居させてもらえるというのは信頼してもらっているということだから、それを裏切らないようにしたい。あとは自分のやるべきことだけをしっかりやっていて、その姿を見てくれている一部の人だけに信頼してもらえればいいやっていう気持ちでやっていこうと決めた。

 

4月20日
矢野利裕が語る、文学と芸能の非対称的な関係性 「この人なら許せる、耳を傾けるという関係を作ることがいちばん大事」

先月発売になった矢野利裕著『今日よりもマシな明日 文学芸能論』のインタビューがリアルサウンドで公開されていた。この機会に書籍も手に取って読んでみてほしい。
以下は矢野さんから著書をご恵投いただいた際に書いた感想。

序論、町田康論、いとうせいこう論、西加奈子論とこの書籍のメイン部分を読んでいくと文学と芸能、そしてそれらと表裏一体である政治と社会の問題がスムーズに繋がっていくのがよくわかる。それが見事であり、町田康いとうせいこう西加奈子を読んでいない人でも問題なく読めるし、たぶん彼らの作品を読んでみたいと思うだろう。
町田康はミュージシャンだった(現在も活動はしている)こともあり、彼の文体や言葉遣いが評価されることは多い。文体が物語を呼び、物語が文体を要請する。そして、その書き手である作家はある種「憑依」されている存在である。そのためには実は言葉を持ち、同時に持たない、という空洞さがいる。
シャーマン的な要素というのは「芸」にとって太古から欠かせないものだった。そして、シャーマンがなにかに「憑依」されても、それを見たり聞いたりする視線(他人)がいなければ、それは世界に影響をなんら与えない。
言葉がなければ世界は存在しないが、それは他者という存在が前提でもある。「芸」とはかつては神への祈りであったが、やがて大衆的なものへ降りていった。「祭り」とはまさしく共同体を維持するための行事であり、シャーマン的な存在がいなくても成り立つ大衆化された「憑依」ごっことも言える。
現在ではたとえばそれがライブなどステージとそれを観るものだとすると、なにものでもない者がステージに上がればなにものかになってしまう。そしてそれを中心にして観客は祭りをたのしむ。ステージ上の「芸人」は神であり、同時に生贄である。
時代を変えるようなカリスマが時折現れる。彼らは磁場の強い存在であり、民という砂鉄を引き寄せる。そうすると世界のパワーバランスが以前とは変わってしまう。一度変わってしまったものはもとには戻らない。だが、カリスマの磁場は次第に弱まっていき、あるいは新しい時代への生贄のように姿を消す(消される)。
「芸人」はある時は神であり、同時にある時は生贄であるというその構造はずっと変わらない、河原から演芸場へ、そしてテレビになりユーチューブやネットに移り変わった。「笑いもの」にするという言葉があるように、優劣がどちらかに伸びているものを見て称賛し蔑む、そこにはもちろん差別的な構造がある。
いとうせいこう論における「無数のざわめき」を拾い上げる、声や形にしていくこと、マイノリティと呼ばれる人たちが声を上げる場所を作る、それが染み出していくと世界に変化が起き始める。いとうせいこうの「芸」と「政治的なアクション」が繋がっているのは、社会やマジョリティーに届きにくい声、可視化されにくい姿を「芸」というフィルターを通して世界に繋げようとする試みでもある。たぶん、他人を信じているからできるのだと思う。彼のアクションはとても政治的であるが、そもそも「芸」と「政」がきってもきれない現実社会の写し鏡であり、表裏一体ということをわりとみんな忘れてしまっている。それを思い出させてくれる存在でもあり、失語症的になっていた彼は、自分の声ではなく「無数のざわめき」を知り、聞いたことでそれを自分を通して語ることで小説が再び書けるようになったという。
琵琶法師についての話も出てくるが、『平家物語』はひとりの作り手の声ではなく、琵琶法師たちが語り継いでいき、各自が足したり引いたりしたそれぞれの語りのバージョン(無数の物語)の集大成(リミックス)である。見えないものを幻視し、聞こえない声を聞く、そしてそれらを紡いでいった声たちの完成形が現在の『平家物語』となっている。
西加奈子論における「おかしみ」の話も「芸論」の大事な部分であり、共同体と逸脱者の関係性がある。かつては河原乞食と変わらないものであり、芸人になるということは社会からドロップアウトするという時代があった。しかし、逸脱しているからこそのおかしさとどうしても目が離せないということが起きる。そして、それを安全な場所から見ているという自分の差別意識に気づく。
西加奈子作品はそれらを内包している。だれかがなにかを必死でしているが、失敗していたりすると笑ってしまうことがある。しかし、その誰かは夢中でなんとか物事を完成させようと達成しようとしている。次第にその「夢中さ」にこちら側は応援してしまう、その場所にいれば手を差し伸べようとしてしまう。
「おかしみ」とは夢中と関係があり、「夢中」になっている当人ではなく、見ているものを関係者に、当事者の側に引き込んでしまう力を持っている。その「見る」という行為にある差別、「見られてしまう」という恐怖と光悦の関係。
ここでも何作品か取り上げられているが、アニメ映画化された『漁港の肉子ちゃん』についても触れられている。共同体と逸脱者の話がメインで展開されているが、そこでも「肉子ちゃん」の「夢中」さによる「おかしみ」、それゆえに彼女は笑われるが、同時に手を差し伸べられる存在にもなると書かれている。この部分を読んで、なぜ明石家さんまさんがこの作品のアニメ映画プロデュースをしたのかがちょっとわかったような気がした。
そして、小山田圭吾論へ、という流れ。
小説論としてもたのしめるけど、芸能論として「見られる」側の仕事をしている人にはすごく興味深く、感じ入る部分が多いのではないかと思う。芸能人というだけでなく、今や自分の顔を出して表現や仕事をすることが増えているので、かなり広い人にも人ごとではなく読める現在進行形の「文学芸能論」になっていると思う。

『犬王』試写、だけど、映画の感想っていうか古川日出男論的な

矢野さんの本を読んだ時に書いた「芸能」の部分を参考にして書いた映画『犬王』試写観たあとの感想。

朝の9時から24時まで朝と晩それぞれの仕事のリモートワーク。休憩中の散歩で息抜き。ほんとうに家で仕事している時はradikoで深夜に放送したラジオ番組をずっと聴いている。声を聴くとそのパーソナリティが身近になっていく不思議。あと好きな声とずっと聴いていれない声があるのも不思議。

 

4月21日

先週の土曜日に青山ブックセンターで開催されたサイン会で久しぶりにお会いした漫画家の西島大介さんと「今度お茶しましょう」と約束をしていたので、夕方から池袋で舞台を観に行く前にランチ&軽く飲むことになった。
吉祥寺駅で待ち合わせをして、アムリタ食堂というところでランチをいただく。お酒の飲み比べてと混ぜ麺を注文する。昼間からスピリッツやウォッカを飲む中年二人。
西島さんの漫画『ディエンビエンフー』がベトナム戦争を描いており、アジア料理屋からスタートという感じになった。『ディエンビエンフー』に関しては、説明が複雑なので、興味ある人は以前僕が西島さんにインタビューしたこちらをどうぞ。

分岐した先にあった本当の終わりに向かう漫画『ディエンビエンフー TRUE END』――未完、と二度の打ち切りというバッドエンドからトゥルーエンド、そしてその先に/漫画家・西島大介さんインタビュー(vol.1から6)

ランチを食べてから井の頭公園近くのいせや総本店に行って飲みながら、この日から漫画の連載が始まった『コムニスムス』について話を聞かせてもらったりしながら、僕の話も聞いてもらう。
園子温原作・碇本学著『リアル鬼ごっこJK』文庫版の装丁イラストは僕が自ら西島さんにお願いして描いてもらったので、西島さんに今回のことなんかを話す。夕方から観に行く予定だった舞台を誘っていた友人が急遽行けなくなったと朝連絡が来ていたので、夜どうしようかと思っていたこともあって普通に昼飲みをしていた。

西島さんは新作が開始されたということでプレスリリースとかもろもろあったみたいだが、時間的に問題はなくなったと言われたので夜の舞台をお誘いして一緒に行くことになったので、17時ぐらいまでいせやでダラダラと飲んで話をしていた。

西島大介著『コムニスムス』

1975年、カンボジア。僕は、最強2歳児の父親になった。
1975年。ピュリッツァ賞を目指してカンボジアに乗り込んだ日本の少年ヒカル・コンデは、通信社に買ってもらえるような写真が撮れずにいた。森を彷徨っていたある日、反政府組織クメール・ルージュの一団に遭遇。そこで見たのは、彼らを一瞬にして葬り去る幼児の姿。初対面のヒカルを「ちゃん」と呼び、慕うプティという名の女児。戦時下のカンボジアで、血の繋がらない親子のサバイバルが始まる--。



18時半から開演の東京芸術劇場シアターイーストでロロ『ロマンティックコメディ』を鑑賞。やはり観劇前にお酒を飲んでいたらダメだ、という当たり前のことを再認識。一瞬、寝落ちしたと思ったら舞台にあった店の看板が「コストコ」になっていた。
亡くなった(居なくなった)人が書いた小説を彼女の妹や友人や知人たちが集まって何年かに一度読書会をして、長い時間をかけて一冊の本を読んでいく。残された者の時間経緯と共に変わっていくそれぞれが抱えた思いや感情の揺らぎのようなものを喪失を浮かび上がらせながら描いていく作品だった。
全部をちゃんと観ていないから合っているかどうかはわからないけど、「いつ高」シリーズの最後を観て、ロロの青春は一度終わってネクストステージに入るんだろうなと思っていたけど、そういう場所に行こうとしている、大人になって成熟していくという感じになっている舞台だったんじゃないかなと思う。

もしかしたらこの作品にちょっと近いのかな、と思ったのは少し前から読み始めていた川上弘美著『どこから行っても遠い町』だった。
吉祥寺駅の改札で西島さんを待っている時にちょうど最後に二編を読み終わった。最後の「ゆるく巻くかたつむりの殻」という短編を読むと、最初の「小屋のある屋上」にもう一度接続するような形の作品になっていた。
「ゆるく巻くかたつむりの殻」の語り手というか主人公は「小屋のある屋上」に出てくる魚春の大将の平蔵の亡くなった妻である春田真紀という女性であり、作中で平蔵は生きていた頃の真紀に「いつかおまえ、好きな人が死ぬと、少しだけ自分も死ぬって言ってたよな」と言う場面があった。

生きていても、だんだん死んでゆく。大好きな人が死ぬたびに、次第に死んでゆく。死んでいても、まだ死なない。大好きな人の記憶の中にあれば、いつまでも死なない。

まさにこの引用した文章と『ロマンティックコメディ』は通じている部分があったんだと思う。アフタートークでロロの三浦さんが話されていることで余計にそう感じた。


西島さんは前から行ってみたかったというお店があるというので観劇後に小雨が降る中で劇場からあまり離れていない中華料理屋に入る。中華料理屋なのになぜかエスニックカレーがあった。西島さんはこれが目当てだったらしい。
カンボジアからやってきた華僑三世の方が店主で、西島さんの新作『コムニスムス』の舞台がカンボジアでその取材というかリサーチも兼ねて、いつかこの店に来たかったとのこと。鶏肉すごく美味しいけど辛いものが苦手な僕は何度か咳き込んでしまった。ここのカレーは成城石井でもレトルトで販売もされていて、西島さんはすでに食べているみたいだった。
お会計後に少しだけ店主の方とお話をされていた。30年ちょっと前に日本に来て他の料理屋さんで修行してからお店を出されたらしくて、どうやらポルポトの時代だったので外に出たくて、本当はフランスとかに行きたかったけど当時は大使館がなくて行けなくて、日本に来たと言われていた。
まさに歴史だ。西島さんは今後も通ってお話を聞いて作品の参考にするんじゃないかなって思う。昼から晩までアジアな一日だった。

 

4月22日

夕方までリモートで仕事をしてから、ホワイトシネクイントで今日から公開のマイク・ミルズ監督『カモン カモン』を鑑賞。
最後の回で金曜日ということもあり、わりと入っていたと思う。マイク・ミルズ監督、ホアキン・フェニックス主演、A24 制作というどれかに引っかかった人がやはり初日に観に来ていたんじゃないかなと思う。僕はその三つ全部な人ですが。
上映前に去年から気になっていたA24制作『LAMB /ラム』の予告編が流れていたので秋のたのしみ。また、アカデミー賞でも作品賞&監督賞&脚本賞にノミネートされていたポール・トーマス・アンダーソン監督『リコリス・ピザ』の予告編もやっていたので7月1日の公開が非常に楽しみ。

20センチュリー・ウーマン」「人生はビギナーズ」のマイク・ミルズ監督が、ホアキン・フェニックスを主演に、突然始まった共同生活に戸惑いながらも歩み寄っていく主人公と甥っ子の日々を、美しいモノクロームの映像とともに描いたヒューマンドラマ。ニューヨークでひとり暮らしをしていたラジオジャーナリストのジョニーは、妹から頼まれて9歳の甥ジェシーの面倒を数日間みることになり、ロサンゼルスの妹の家で甥っ子との共同生活が始まる。好奇心旺盛なジェシーは、疑問に思うことを次々とストレートに投げかけてきてジョニーを困らせるが、その一方でジョニーの仕事や録音機材にも興味を示してくる。それをきっかけに次第に距離を縮めていく2人。仕事のためニューヨークに戻ることになったジョニーは、ジェシーを連れて行くことを決めるが……。「ジョーカー」での怪演でアカデミー主演男優賞を受賞したフェニックスが、一転して子どもに振り回される役どころを軽やかに演じた。ジェシー役は新星ウッディ・ノーマン。(映画.comより)

マイク・ミルズ監督は家族を描いてきた映画監督というイメージがあり、今作でも家族を軸に映画を撮っているといえるのだと思う。伯父であるジョニーが甥のジェシーを預かることになり、突如して子供との生活ややりとりを学ばなければいけなくなる。そして、ジョニーの妹でありジェシーの母のヴィヴは彼らの母親の介護を巡って感情のぶつかりがかつてあったことも描かれる。だから、やはり家族の話であるのだが、結婚をしておらず子供もいない伯父は甥との生活の中で成長していく話であり、同時に大人と子供の関係性が穏やかに描写されていく。
モノクロでの撮影はもちろんアート的に見えるし、寓話っぽさも感じさせる。そして、これは物語だと雄弁に語っているようでもある。

ジェシーだけでなく、今作ではジョニーがいろんな都市の子供たちに未来のことなどをインタビューしている映像も挟まれていくが、その子供たちは役者ではなく映画のコンセプトを話して協力してくれた学校の生徒たちだという。だから、映画=フィクションでありながら、子供たちのインタビューはノンフィクション≒ドキュメンタリー的なものとなっている。親たちが移民でアメリカで生まれ育った子供であったり、人種や置かれている環境も違う子供たちが語る未来の話、そして、アメリカだなと改めて思うのは子供たちが非常に論理的に語りながらも、自分の意見をしっかりと言うという部分である。
子供は幼いと言っても、ひとりの人間であり、その自尊心や自己顕示欲などをしっかり持っている。個人として生きること、それは村社会で集団を外れると生きにくい日本の子供たちよりも大人に見えるなあと思った。だが、僕もジョニー同様に結婚もしていないし子供もいないので、今の小学生たちは今作のインタビューに答えている子供たちのようにしっかりしているのかもしれない。あるいは、子供と触れていない僕はそのことをただ知らないだけかもしれない。

ジョニーの仕事の関係もあり、預かったジェシーもロサンゼルスからニューヨークへ、そして他の都市に行くことになる。ロード・ムービー的な移動があることで、さまざまな都市の子供たちのインタビューもされていくことで、アメリカという国のさまざまなレイヤーが見ることができる。その中でジョニーもジェシーとの関係性において成長し、ジェシーも感情を爆発させることができるようになる。
大人と子供を描きながら、人が人であるために感情を殺さないように人と関わっていけるのか、観終わるとやさしい気持ちにもなるし、「カモン カモン」とジェシーが言うように未来に、先へ先へ行くためにどんな人でありたいのか考えることもなった。もう一回ぐらい観てみたいと思う。

 

4月23日

昨夜の『JUNK バナナマンバナナムーンGOLD』を聴きながら散歩していると友人のイゴっちからラインが来た。『少年ジャンプ+』で読み切り掲載されている弓庭史路著『國我政宗の呪難』のURLが貼ってあった。彼はよくおもしろい漫画を教えてくれるので、教えてもらったものは普段自分が気づかなかったり、読まないものだったりするのできちんと読む。
『國我政宗の呪難』は絵柄でいうと『アフターヌーン』とかで掲載している漫画の感じがする。こういうのは色々と漫画を読んでいたりすると感覚がわかるもので、漫画誌はその時々の時代でカラーは変わっていくのだけど、それでもやはり連載陣のカラーだとかある種のブランドのようなものがあって、雑誌というパッケージに編集長や編集者たちの色が刻まれているなと思う。だから、この『國我政宗の呪難』を読み始めてキャラクターの造形や性格や物語の設定もあるけど、絵柄とか線とかの感じが僕には『アフターヌーン』ぽいと思えた。

少年ジャンプ+』は今ノリにノっている媒体であり、本誌『ジャンプ』には載らないような作品が掲載されて、ここでファンを集めて人気が徐々に高まっていき、爆発していく。アニメの放送も始まった『SPY×FAMILY』もだし、『怪獣8号』も『地獄楽』なんかヒット作が出ている。『少年ジャンプ』では取り逃してしまう作品や漫画家をこちらの『少年ジャンプ+』で補完することで、より「ジャンプ」というブランド力を高めていっている。王者の戦い方だといえるし、業界のトップだからこそ危機感を持って、次世代をいかに育てて世に出すか、それをしっかりとお金を使ってやっている感じがする。そして、無料で読んだらコミックを買わないという意見がかつてあったが、この無料で読める『少年ジャンプ+』で掲載されている『SPY×FAMILY』や『怪獣8号』はコミックスとしても大ヒットしている。無料で読めて面白かったから読者はお金を出して買う。家に置きたいと思う。また、新規読者が一話などはポイントがなくても読めるようにしているので、お手軽読んで気になったものは読むというお試しができることが購買にも、ファン獲得にも繋がっている。

『國我政宗の呪難』は今回掲載されているのは読み切りだが、これがたくさん読まれてSNSで話題になったらするとおそらく連載に動き出すんじゃないかな、と思えるほど完成度が高いし、世界観が作られている。これは連載されるんじゃないかな、読んでおもしろかったし、この先が読みたいと思わせる内容だった。
『呪術廻戦』も大ヒットしているので「呪」や「術」がキーワードになっていて、この作品にも多くの人は入りやすいのかもしれない。僕は残念ながら『呪術廻戦』を読んでいないので詳しいことは言えないけど、「呪」という文字がタイトルに入っている作品が大ヒットしているということ、それはかなり重要な意味や大衆の欲望や無意識でのなにかを表しているのかなと思う。
「呪い」は反転すれば、「祝い」に転化する。逆もしかり。この「呪われた」かのように感じられる時代(かと言ってもどんな時代もその時代ごとの災厄が起きている。そして生き延びた人や生き残った人たちは亡くなったり居なくなった人たちの想いや意志や思い出や記憶を引き継いで日常を送り、次世代になにかを渡してきた)に生きるわたしたちはそれを反転する力を求めている、そんな気もする。そういうことは漫画に詳しいライターさんが書いているかもしれない。なにかを表現することはその表裏一体の間にいるともいえるし、生きていること自体がそうなのだろうけど。


今月はこの曲でおわかれです。
Godiego / Yellow Center Line