Spiral Fiction Note’s diary

ライター&Webサイト編集スタッフ。「水道橋博士のメルマ旬報」で「碇のむきだし」、「BOOKSTAND」で「月刊予告編妄想かわら版」、「PLANETS」で「ユートピアの終焉ーーあだち充と戦後日本の青春」を連載中です。

Spiral Fiction Note’s 日記(2022年1月24日〜2022年2月23日)

水道橋博士のメルマ旬報』連載「碇のむきだし」

ずっと日記は上記の連載としてアップしていましたが、日記はこちらに移動しました。一ヶ月で読んだり観たりしたものについてものはこちらのブログで一ヶ月に一度まとめてアップしていきます。

「碇のむきだし」2022年02月掲載 今回は映画日記(1月&2月)


先月の日記(12月24日から1月23日分)


1月24日
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「メタヴァース」と言葉が生まれたSF小説スノウ・クラッシュ』がもう出てないかと書店に行ったらまだなかったけど、大友克洋著『童夢』があったので購入。この赤いビニールというかカバーが独特な匂いで懐かしい。

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チャック・パラニューク著『サバイバー』を読み終えた。
ファイト・クラブ』の3年後に発表された作品の新訳版だが、主人公ともうひとりの主人公みたいな存在or役割が可能な人物(分裂したもうひとり、今作では双子の兄)とクレイジーにしか見えないヤバいヒロインとカルト集団という設定と構造はほぼ同じで『ファイト・クラブ』の語り直しみたいな話だった。『ファイト・クラブ』は映画化されたことでビジュアルイメージもあるから強い。どちらも世紀末における終末感と世界を破壊したいという願望や期待みたいなものがある。

PLANETSブロマガ連載「ユートピアの終焉──あだち充と戦後日本の青春」の最新回が公開になりました。
クロスゲーム』2回目は月島四姉妹の原型となった「居候」シリーズ、ヒロインの月島青葉とあだち充作品のヒロインについて取り上げています。

 

1月25日
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朝イチで『コーダ あいのうた』をTOHOシネマズにて鑑賞。さすがに8時20分からの回なので10人ちょっとぐらいだった。でも、シネマイレージデイなので1200円。

とある海辺の町。耳の不自由な家族の中で唯一耳が聞こえる女子高生のルビー(エミリア・ジョーンズ)は、幼少期からさまざまな場面で家族のコミュニケーションを手助けし、家業の漁業も毎日手伝っていた。新学期、彼女はひそかに憧れる同級生のマイルズと同じ合唱クラブに入り、顧問の教師から歌の才能を見いだされる。名門音楽大学の受験を勧められるルビーだったが、彼女の歌声が聞こえない両親から反対されてしまう。ルビーは夢を追うよりも家族を支えることを決めるが、あるとき父が思いがけず娘の才能に気付く。」(Yahoo!映画より

タイトルのコーダは「Child of Deaf Adults」(ろうあの親を持つ子供)の意味らしい。劇中でも一度だけど言及されていた。このままでは日本だと意味わからないから「あいのうた」となんとなくよさげな副題がついたのだろうが、そういうのが感動ポルノと結びついちゃってんだろうね、素晴らしい映画なので蛇足だなあと観終わってから思った。
コロナになる前に計画されたり作られていたりするorこの最中で作られた映画だと濱口竜介監督『ドライブ・マイ・カー』には韓国手話が出てきたし、まだ観れていないが韓国映画『声もなく』の主人公は話せなく、そして手話もしないかできないらしい。そして、この『コーダ』が公開されていることは時代的なものも含めて通じてる気はしている。
まずは語り(ナラティブ)がある。その拡大や可能性として手話がある(当然ながら映画は映像なので手話は画になるし、手話のやりとりの場面ではスクリーンから目がより離せなくなる)。
そして、マスクという仮面は人から表情を奪った。それに対してより雄弁なコミュニケーションとして手話が際立つ部分もある。基本的には会話するときに相手の顔を終始見ていなくても、表情から多くの情報を得ながら会話をしている。この前に、仕事関係でウェブ面談をした際にはじめてやりとりする相手のうち二人が社内だからかマスクをしたままだった。知らない人でPC上での動画のやりとりで顔の表情わからなかったら、自分の言葉がどのくらい届いているのかわかんないから、手応えがまったくなかった。
コロナ大流行における語り(ナラティブ)とマスクという表情を隠す仮面がより、『コーダ』という映画と呼応している部分はおそらくあるのだろう。
事前に手話での下ネタが多いとは聞いてたけど、たしかに多かった。ある意味ではおおらかなんだけど、耳が聞こえるルビーと聞こえない家族における違いもあって、ルビー以外は性に貪欲というか前向きな感じでもあった。
娘を持つ父親が観たら号泣すんだろな、とも思うので、娘を持つ父親やかつて娘だった人が観たらどんな感じなのか知りたい。
あとメキシコ出身の音楽の先生が素晴らしかった。ルビーの才能を見出すんだけど、彼女が抱えているものをレッスンによって吐き出させる。それが見事というか、あらゆる芸術っていうのは感情の発露が始まりにあるわけで、芸術を軽んじる人や国家なんてもんは、人の感情を蔑ろにして舐めてるわけでしょ。人はただ経済を動かすコマだと、ただの数字としか見てない。芸術が人の感情とともにあることが基本的な人権と平等に結びついていると思うし、それを最低限教えてる国は芸術をしっかり保護している。で、嘲笑う国は芸術を守らないし、数字は書き換えるしデータは証拠隠滅で破棄する。
だから、『コーダ』みたいな映画(オリジナルはフランス『エール!』)は日本の大手映画会社では作れないだろうなと思うし、もしリメイクしたら感動ポルノに成り下がるんだろう。


1月26日
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ニール・スティーヴンスン著『スノウ・クラッシュ』新訳文庫版上下巻。文庫で上下巻で出すときは二冊で一つのイラストになるのがやっぱよいですね。

「BOOKSTAND映画部!」のレビューコーナー「月刊予告編妄想かわら版」2022年02月号が公開になりました。2月は『ゴーストバスターズ/アフターライフ』『ちょっと思い出しただけ』『リング・ワンダリング』『愛なのに』を取り上げています。


1月27日
f:id:likeaswimmingangel:20220127183807j:plainお昼前に家を出て12時から上映の片山慎三監督『さがす』をシネクイントで鑑賞。前作『岬の兄妹』をトークイベントに出演した樋口毅宏さんからお声がけしてもらってスクリーンで観た。すごく笑ってしまったし、同時に社会からこぼれ落ちてしまった兄妹の生きる力や脆さや世間というもの、人の欲望について描ける監督なんだと思ったのを覚えている。ユーモアはある種の残酷な時に笑いになったりもする。そして、その片山監督の新作ということで気になっていた作品。

「岬の兄妹」の片山慎三監督が佐藤二朗を主演に迎え、姿を消した父親と、必死に父を捜す娘の姿を描いたヒューマンサスペンス。大阪の下町に暮らす原田智と中学生の娘・楓。「指名手配中の連続殺人犯見たんや。捕まえたら300万もらえるで」と言う智の言葉を、楓はいつもの冗談だと聞き流していた。しかし、その翌朝、智が忽然と姿を消す。警察からも「大人の失踪は結末が決まっている」と相手にされない中、必死に父親の行方を捜す楓。やがて、とある日雇い現場の作業員に父の名前を見つけた楓だったが、その人物は父とは違う、まったく知らない若い男だった。失意に沈む中、無造作に貼りだされていた連続殺人犯の指名手配チラシが目に入った楓。そこには、日雇い現場で出会った、あの若い男の顔があった。智役を佐藤が、「湯を沸かすほどの熱い愛」「空白」の伊東蒼が楓役を演じるほか、清水尋也、森田望智らが顔をそろえる。
映画.comより

平日の昼までまん防適用されているのもあると思うが、それでも十人以上は観客がいたと思う。
楓がいなくなった父を探すというタイトルのまんまの話かと思いきや、かなり早い段階でそれは裏切られていく。父が見つけたと言っていた連続殺人犯の山内と楓が出会ったところから物語はほんとうの意味で動き出す。父の名前を使って日雇い現場で働いていた山内は父のスマホを持っており、彼は父が経営していた元卓球場の一室で寝泊まりしていた。
物語はここから3ヶ月前、13ヶ月前、と父と山内の関係性について時間を遡っていくことで描き出すことになる。ネタバレになるので詳しく書かないが、前作『岬の兄妹』とも通じる事柄が出てくることになる。

父がどうしてお金が必要だったのか、なぜ彼が卓球場を再建したいのか、という理由が明らかになってくる。遡ることで過去になにが起きていたのかがわかるのでちょっとミステリーっぽさもあるのだが、現在に時間軸が戻ってからある種のどんでん返しがいくつか起きる。途中でそれってどうなのか?と思わされた箇所もあったが、その部分ものちに違う意味があったのだとわかる。
楓が自分のことが好きな同級生に父がいるかもしれないある島に一緒に行ってほしいと頼んだ際に、一緒に行ってくれたら付き合ってあげると言われ、彼はじゃあ、胸見せてえやと言う。彼女はそれを承諾し、胸を見せて二人は島に向かうことになるのだが、言うこと聞くから胸見せろやっていうのはなんだか非常におっさんっぽいというか、今の中学生もそんなことを言うのだろうか、言うかもしれない、なんだかなって思ったのがその場面だった。その場面も伏線的に回収はされるのだけど、なんだかモヤモヤした。

楓が父を「さがす」という話だったが、しかし、彼女がほんとうに探していたのは誰なのか? というダブルミーニング的な要素も出てくる。終わり方やいろんな伏線が回収されていくのだが、この前に観た『コーダ』と近い部分がいくつかあるせいか、この作品をすごくよかったとどうも言いにくい部分がある。片山監督が『岬の兄妹』に引き続き描こうとしているものはわかるのだが、時間軸を現在、3ヶ月前、13ヶ月前、そして現在と進めていく構造のせいなのか、前作のように人に観た方がいいよと勧めるかと言われれば、悩みどころ。前作を観ている人ならば勧めるかもしれない。
だが、二度、三度とどんでん返しがあり、日本映画であのコミカルでおもしろいおじさんというイメージがついている佐藤二朗が見せる喜怒哀楽と狂気と欲望の行き先を見せてくれるので観る価値は充分あると断言できる。ただ、内容についてまったく受け付けない人もゼロではないだろうなと思う。

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最近は中島らも著『僕にはわからない』や穂村弘著『整形前夜』などのエッセイを何冊か併読しているのだけど、そこに今日ゲットした燃え殻さんの新刊『断片的回顧録』を加えた。表紙の装丁デザインだと思っていた写真の部分は実際表紙に直張りしてあって、すごくいい。
ニコラでアルヴァーブレンドときんかんといよかんマスカルポーネのタルトをいただく。柑橘類好きなんで最高に好きな組み合わせ。


1月28日
水道橋博士のメルマ旬報』連載の今月の原稿は「晴海埠頭」について書こうと思って、『二〇一八年のサマーバケーションEP』を読み返した。東京湾岸の話なので『曼陀羅華X』にも通じてるところがあるし、『ゼロエフ』の原点みたいなところがある。

『二〇一八年のサマーバケーションEP』vol.1


『二〇一八年のサマーバケーションEP』vol.2

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ブラックボックス』を三分の一ほど読んだ。なんとなくだが、砂川さんは純文学から出てエンタメに移行する作家さんになるような気がする。

 

1月29日

TLで流れてきた資生堂150周年企業広告の動画を見た。声が出そうになる、やっぱ資生堂すげえなって。
ブランディングとしてすごいし、広告にしっかりお金を使える企業としての体力と見せたいビジョンを伝えようとする精神があるからこそできるんだろう。それは資生堂にとっての意志であり中軸にあるものがしっかり受け継がれていることでもあるのだろう。

f:id:likeaswimmingangel:20220128211302j:plainちょうど『花椿』のアートディレクターをずっとされていた仲條正義さんの『僕とデザイン』を読んでいたので、おお、上記の動画を見て資生堂って思ったのだった。
花椿』の作り方だけではなく、仲條さんの仕事への態度や考え方、生来の粋な部分と洒落っ気があるのもわかって、これは勉強とかでどうにかなるものではないなと思いながら最後まで読んだ。
もちろん、今から考えるとお金があった時代に豊潤な予算の中で、仲條さんは遊んでいる、しかし、できたものはクオリティがたかいからこそ、どんどんいい才能が集まって、それが伝播していくという好循環が生まれていた。今こういうことはなかなか難しくなってきている。だからこそ、というか仲條さんがずっとアートディレクターとして関わった『花椿』、そして最初に就職した資生堂の150周年企業広告を見ると納得できるのだと思う。

 

1月30日
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奥田裕介監督&カトウシンスケ主演『誰かの花』舞台挨拶付上映をユーロスペースで鑑賞。

鉄工所で働く孝秋は、薄れゆく記憶の中で徘徊する父・忠義とそんな父に振り回される母・マチのことが気がかりで、実家の団地を訪れる。
しかし忠義は、数年前に死んだ孝秋の兄と区別がつかないのか、彼を見てもただぼんやりと頷くだけであった。
強風吹き荒れるある日、事故が起こる。
団地のベランダから落ちた植木鉢が住民に直撃し、救急車やパトカーが駆けつける騒動となったのだ。
父の安否を心配して慌てた孝秋であったが、忠義は何事もなかったかのように自宅にいた。
だがベランダの窓は開き、忠義の手袋には土が…。
一転して父への疑いを募らせていく孝秋。
「誰かの花」をめぐり繰り広げられる偽りと真実の数々。
公式サイトより

かつてと同じ人であるはずなのに、記憶が混濁し、忘却しつつある父(高橋長英)に兄と間違えられる次男の孝秋(カトウシンスケ)、交通事故で亡くなった兄のこととその痛みが終始家族の中にずっと、ただある。
居た人が居なくなった空白は家族が年を取り、老いていくとより露わになってきてしまう。居なくなった人はその時から時が止まってしまうから、老いとは対極になっていってしまう。その人が若ければ若いほどに。そして、孝秋たちが被害者家族ということも時間が薄めてくれるだけでなく、時に濃くなり孝秋の感情を揺さぶる。
植木鉢が落ちて人が亡くなった事故は実は父による事件かもしれない、そうなれば加害者の側に、加害者家族となりえる可能性が出てくる。しかも、被害者は父と母(吉行和子)が暮す上の階に越してきた楠本家の若い父親だった。
孝秋はその楠本家の母親(和田光沙)と息子(太田琉星)と交流が始まることで、被害者家族である彼らともしかしたら加害者家族であるかもしれないという自分、しかし、兄の事故で被害者家族でもあるという中で、さまざまな感情を抱えていくことになる。

最近、たまたま大友克洋全集「OTOMO THE COMPLETE WORKS」で刊行された『童夢』を読んだ。団地を舞台にしたサイキック同士の戦いを描いているが、この『誰かの花』も団地が舞台になっている。
かつて団地というものは高度経済成長と共に増えていった。しかし、それはもうだいぶ前に終わっており、失われた30年と言われるように終わらない不況が続き、子供が減っていった日本において団地も老朽化などの問題を抱える場所となり、海外からやってきた人たちが集団で住むようになったりとかつてとは違うものとなっている。

観終わってからこの映画について考えたのだけど、そういう団地が舞台であり、認知症を患っているはずの70代ぐらいの老いた父がもしかしたら意図的に、隣の部屋のベランダにあった植木鉢をそこから下の道を歩いていた上の階に住む若い父親に当たるように落としたとしていたら、というこの物語は、より深刻で怖いものにも感じられた。というのはそれはまるっきり今の日本そのままであるようにも思えてしまったからだ。

老いた父(父性)はヘルパーさん(村上穂乃佳)や妻に介護をしてもらい、生き長らえている。時折、はっきりと物事を言ったりして、完全にはボケてはいない。だが、記憶は混濁している時の方が多い。そのことで実の息子である孝秋は父が本当に認知症なのか少しは疑う時もあったはずだ。
だが、その父の世代はある意味では幸福であるといえる。戦後に生まれて経済成長と共に青春や若い時期を過ごし、上の世代にあった敵国となったアメリカへの愛憎もなく、ただアメリカの文化を当たり前のように受容して日本の戦後における青春を謳歌した。そして、幻想としての一億総中流の時代を年功序列と生涯雇用がある時代で働いてきたから、もちろん家父長制を疑うことなく生きてこれたとも言える。
そんな時代を生きた老いた父性が、それらが崩壊した時代を生きる若き父性をもし意図的に殺めたとしたら、その可能性があるのだとしたら?という物語にも見えてくる。

そして、タイトルにある「誰かの花」はダブルミーニングのように幾つも重なるものとなる。そこにはもうひとつの父性が加わる。それは孝秋の父と母が住む隣に住む男性の岡部(篠原篤)である。植木鉢をベランダに置いていた人物であり、彼は自ら手を下したわけではないが、彼の家のベランダにあった植木鉢が上の階に越してきた一家の父親を殺してしまったという事実がある。そして、劇中で彼もまた父であることが描かれるが、上の階に越してきた楠本家とは真逆の家族関係であり、植木鉢もそのことと関係があったことがわかる。だからこそ、悲しい余韻を残す。
被害者のこと、加害者になりうること、それらを描いた映画だが、意図的なのかそうではないかはわからないが、僕はこの作品に今の日本社会における父性の移ろっていく様、そして老いと責任について描いているように感じた。それを自分と近い世代の息子がどう受け止めるのか、どう対応していくのかというのは他人事ではないからこそ、深く染みる。


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木澤佐登志著『失われた未来を求めて』をちょっとずつ読んでいる。もともと、マーク・フィッシャー著『わが人生の幽霊たち――うつ病、憑在論、失われた未来』が出た時に、何にも知らずにタイトルに惹かれて&ジャケ買いしてから、前作『資本主義リアリズム』を読んだ。レディオヘッドをずっと聴き続けている人であれば、『資本主義リアリズム』の表紙には親近感を持つだろう、僕もそうだった。木澤さんの『ダークウェブ・アンダーグラウンド 社会秩序を逸脱するネット暗部の住人たち』もその流れで読んだ。
それ以降、基本的に木澤さんの書いているもので書籍になったものは読んでいるが、『ニック・ランドと新反動主義 現代世界を覆う〈ダーク〉な思想』はマーク・フィッシャーの書籍と関連しているのでまあ気になる人は読んでみたらいいと思う。ただ、『闇の自己啓発』はそこまでおもしろくはなかった。
そういうラインに早川書房というかSF的な想像力も加わってきていて、編集者の溝ロカ丸さん辺りが関わっていたり、「SFプロトタイピング」であったり、「世界のリーダーはSFを読んでいる」フェアみたいな、ちょっと自己啓発的なものとそういうものがくっつき始めた気はする。「世界のリーダーはSFを読んでいる」っていうのが気になるのは、じゃあ、こんな世界になった原因ってSFになっちゃうよとも思わないのだが、めんどくさいからつぶやかない。
前に書いた長編『浸透圧』はマーク・フィッシャー著『わが人生の幽霊たち――うつ病、憑在論、失われた未来』自体を作中に出したし、「平成」という時代を「昭和の亡霊≒幽霊」というものとして描けないかなって思っていたところがある。なんで「昭和」からして未来である「平成」が幽霊なのかということは、『失われた未来を求めて』というタイトルとも通じる部分もあるし、『インターステラー』で描かれたような3次元よりも先の次元では、すべての時間軸が同列に存在しているのが描かれていた。過去も現在も未来もそのすべての可能性が同じように同じ場所で存在している。それはなんか想像としてわかる気がした。そういうのも関連してる。
2月に書き上げようと思っている小説は『浸透圧』をバージョンアップさせたものにしたいので、『失われた未来を求めて』を読むとなにかヒントがありそうな気がしている。

 

1月31日
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ぶ厚い雲に覆われ陽が差さなくなった遥か未来の地球。
植物が枯れ酸素も薄くなった世界。
しかし人類は、人を植物に変える技術を開発し、わずかな酸素を作り出して生き延びていた。
先の見えない世界でも人として生きるか、苦しみを捨て植物として新たな生へ踏み出すか。
人々は選択を迫られるーー

安田佳澄著『フールナイト』を最新刊の3巻まで買って読んだ。
めちゃくちゃおもしろかった。今同時期に連載しているものだと、ジャンプ+の大ヒット作品『怪獣8号』とかなり近しい。『寄生獣』や『進撃の巨人』や『亜人』、古くは『ウルトラマン』と『デビルマン』的なものの後継、派生的なものが『怪獣8号』にはあるが、『フールナイト』は『亜人』や『寄生獣』の植物バージョンという感じもする。人類にとって脅威となるべきものと同質のものが主人公に宿るというパターン、あるいはそれになってしまうというものの系譜。
『怪獣8号』も『フールナイト』も別種の「トランスヒューマニズム」的な想像力であったり、現在の世界と呼応している部分があるんじゃないかなと思ったりもする。
『フールナイト』では寿命がつきかけた人間に「転花」という技術を使うことで、2年以内に徐々に人が植物になっていき、「霊花」と呼ばれるものになっていく。そうしなければ陽がほとんど差さなくなった世界では酸素が手に入らないからでもある。そのため、「酸素税」は異様に高く、貧困と格差がより広がっている舞台になっている。
主人公のトーシローは精神を病んだ母と暮らしており、貧しさと絶望の中にいた。彼は心の豊かさ(転花すると1000万もらえる)のために体に種を入れ、2年後には植物になってしまう手術を行うが、金はすべて奪われてしまう。だが、トーシローには転花したかつて人間「霊花」となったものの声が、意識を感じる不思議な力が備わっていた。そして、彼の同級生だったヨミコが働いている国立転花院でその力を使って、かつて人だった「霊花」を探すようになるのだが。という話。
「希望とは常に救いようのない絶望に支えられている」という『摩駝羅 天使篇』の懐かしいセリフを思い出した。

講談社が主催している「漫画原作大賞」に4作品応募できた。大賞なら連載確約+20万だが、優秀賞なら10万、奨励賞なら5万。奨励賞以上で賞金もらいたい。去年『週刊ポスト』の連載が終わったこともあり、今年はどう考えてもライターとしての原稿料は三分の一になってしまう、いろいろヤバすぎる。連載も原稿料もほしい。なにか引っかかってほしい。明日からはメフィスト賞応募作品に1ヶ月しっかり取り組む。

 

2月1日
水道橋博士のメルマ旬報』連載「碇のむきだし」2022年2月1日号が配信されました。
毎年元旦に井の頭公園神田川の源流から川沿いを歩いて東京湾へ歩いていく(古川日出男著『サマーバケーションEP』の物語を辿る)、そのラストにある今年閉鎖されて解体される「晴海客船ターミナル」についてです。
今回で神田川沿いを歩くのは10回目になりました。ラストの目印である「晴海客船ターミナル」というランドマークも無くなるし、東京五輪も終わったし(晴海埠頭付近は選手村のマンション群が建ち並んでいる)、これで完了です。
東京湾岸の物語はいつか長いものを書いてみたい。古川さんが『新潮』で連載していた東京湾岸を舞台にした『曼陀羅華X』が今月末に出るのでそちらもたのしみ。連載時にあったあるパートは途中でなかったことにすると宣言されたので、連載バージョンと単行本バージョンではかなり読み味が変わってくる。僕はなかったことにしたパートの物語がかなり好きだったのだけど。


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去年試写で観たけど、もう一度スクリーンで観たくなっていたのでシネクイントでウェス・アンダーソン監督『フレンチ・ディスパッチ ザ・リバティ、カンザス・イヴニング・サン別冊』を鑑賞。映画の日なので、なにか観たいということもあって。
お菓子みたいなカラフルさで可愛らしさとセンスが人気なウェス・アンダーソン監督の最新作だが、今回はある雑誌のメイン記事3つ(としてストーリー三本)と編集部や創刊者でなくなった編集長(ビル・マーレイ)の話とで構成されている。
試写で観た時同様に一番最初の牢獄のアーティストであるモーゼス・ローゼンターラー(ベニチオ・デル・トロ)と看守であり、彼のモデルとなるミューズのシモーヌ(レア・セドゥ)と画商のカダージオ(エイドリアン・ブロディ)が出てくる美術の話が楽しかった。これがもっと長いと話的には難しいのかもしれないけど、けっこうお腹いっぱいになるところもある。でも、あとの二つの学生運動と警察署長の料理人の話もポップでたのしい。108分の上映時間のはずがそれよりも長く感じられるのは内容が込め込まれているというのもあるのだろう。出演者が多く、構造が割とパッと見ではわからないということも関係していると思う。
ウェス・アンダーソン監督が雑誌文化に敬意を持っているし、影響を受けてきたことが伝わる話なので、出版業界の人やライターや物書きの人は見るとよりいろいろと感じ入ることがあると思う。ちょうど、ライター仕事で思うことがあったので、前回より編集長のセリフが沁みた。

映画を観終わってからTwitterを見たら石原慎太郎氏が亡くなったというニュースが流れてきた。それで下記のインタビューのことを思い出した。
「メディアの時代のメディアミックス的な人間としての石原慎太郎」とかの話は自分が大塚英志さんにインタビューしたけど、今読んでもおもしろい。
大塚英志×西川聖蘭『クウデタア 完全版』刊行インタビュー:アンラッキーなテロ少年と戦後文学者をめぐっての雑談」

 

2月2日
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休憩で外出した際に前から気になっていた大和田俊之著『アメリカ音楽の新しい地図』を購入。The Weekndのニューアルバム『Dawn FM』を聴きながら読もうと思ったけど、彼はカナダ出身のアーティストだった。

3月公開の映画の試写が来たので申し込みをした。ネタバレとか内容に関してはかなり厳重な対応をするというのが文面とか資料から感じられる。果たして、どんな感じなのだろうか。とりあえず、試写の初日を申し込んで予約をした。

前に応募していたもので一件進展があったのだが、今後のことを考えるとどうしようか悩む。いろいろと微妙なところがある。

 

2月3日
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浅草ロック座に川上奈々美ストリッパー引退興行を観に行こうと杉山さんに誘ってもらったので浅草に行って、14時の公演の前にSPICE SPACE UGAYAというスパイスカレーのお店でランチを。牛すじとドライキーマのあいがけのご飯大盛りを注文する。牛すじはとろとろだし、キーマとパクチーがよく合う。最終的には混ぜて食べるとさらに新しい美味しい味になって、三度楽しめた。
その後、近くの喫茶店でコーヒーを飲んでからロック座に向かう。

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着いたら13時半少し過ぎていて2階にあるチケット売り場への階段にちょっと人が並んでいた。僕らは男女だったのでカップル割で9000円だった。普通に一人で入るより男性は1000円安くなったのでラッキー。

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一回の公演が1時間50分(休憩10分)で1日に4ステージ。一回入れば入れ替えはないので、ずっと中にいることはできるというシステムらしい。14時からの回はお客さんは40人程度で女性のお客さんは10人近くいたと思う。
前にストリップを観に行ったのは数年前の新宿だったが、やっぱりとても不思議な空間である。女性が丸見えになった、ご開帳の時にポーズを決めると常連ぽいおじさんのお客さんたちから熱い拍手がなっていた。そういうルールなのか、そうなのか。踊り子さんたちはやはりアスリートに近いという印象があり、あれだけ踊るのを1日で4回の1ヶ月公演というのはすごい体力だし、体はどんどん引き締まっていくのだろう。
正直なところでいうとご開帳したりしても性的な興奮はなかった。どう見ていいのかわからないという部分もあるのだろう。踊り子さんたちの姿は美しいと思うけど、やはり空間自体が不思議なだと思っている自分がいる。女性たちの体の半分はあるであろうミラーボールがステージの奥で回ってライトの光を乱反射するように光を踊り子さんやステージ、そして客席に投げてくる。そのミラーボールが真ん中で分かれていて右と左の左右で縦に違う速度で回っていたりするし、球自体もふつうのミラーボールのように横に回っているので、光が乱れまくっていてそれがとても印象的でもあった。
川上奈々美さんの引退興行の月間であるのだが、彼女が出てきた2回とも歌をしっかり歌っていた。なぜ2回も歌ったんだ?と思ったりもした。そういう売りなのかな。また、全体的に『ベルサイユのばら』をモチーフにしている演出と構成だった。やっぱり場内にいるおじさんたちの行動が気になって踊り子さんのポーズ、おじさんたちの反応を見てしまっていた。どういう気持ちで見ているのだろうか、それも不思議に結びついていた気がする。

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帰りにニコラに寄って、アルヴァーブレンドモンブランをたべる。ずっとメニューにあって見ていたけど、食べたことはなかった。「はじめて食べました。ずっと食べてなかったんで」と言ったら、「一回食べたことあるならわかるけど」と言われたのだが、僕の中では「(メニューで見てたけど)ずっと食べてなかったんで」というニュアンスだったけど、そこは省いちゃダメなんだなと思った。

 

2月4日
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木澤佐登志著『失われた未来を求めて』を読んでいると、マーク・フィッシャーと「資本主義リアリズム」の話から、カウンターカルチャーの亡霊やLSDと知覚の扉なんかの話に展開していく。失われた未来とサイケデリックやメランコリー、ジョセフ・ヒース『反逆の神話』で描かれた「反体制と消費資本主義」、世界からの阻害と生の意味の喪失という現代的な話などマーク・フィッシャーの遺作となった『アシッド・コミュニズム』について、どんどんわかるようなわからないような難しい話になっていく。
かつてのカウンターカルチャーとヒッピーたちが夢見た神秘主義(スピリチュアル)とサイケデリクスの欲望の先にあった地球の外側にある宇宙ではなく、精神世界(内的宇宙)へのトリップという自己革命の夢、それがインターネットへと結びついた先の現在。
この評論を読んでいると、後期のフィリップ・K・ディック作品を読み直すほうがわかりやすい気がしてきた。2000年以降にディックを読み始めた人間としては、オールドSFの書き手である彼の作品はまるでインターネット的なものであり、それは当然ながらインターネットとなる前にその要素となった神秘主義LSDなんかのサイケデリクス的なものが彼の話には描かれているからだったのだろう。
というわけで、『ヴァリス』シリーズを読み直したくなってきたので、『ヴァリス』とは構造自体はあまりかわらない『スキャナー・ダークリー』と『流れよ我が涙、と警官は言った』も引っ張り出してきた。

ヴァリス』(と、その続編)が、今日考えられるかぎりの「宇宙と脳と神秘哲学をめぐる情報システム」を扱った最初で最大の唯一の文学思想的な試みであったことからは、読者は逃れようはない。面倒なのでここには書かないが、カルトを脱出するのはそんなに困難なことではないけれど、そんなことを考えるより、やはりいったんはディックの周到で狂気に満ちたPKDカルトに浸ることである。そうすれば、これだけは請け合うが、読み終わったのちに何が何だかわからない自分がそこにぽつんと取り残されるのを感じることだろう。

 

f:id:likeaswimmingangel:20220204215804j:plain大盛堂書店で橋本倫史著『水納島再訪』をゲット。

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塩田明彦監督『麻希のいる世界』をユーロスペースにて鑑賞。劇中歌をThis is 向井秀徳が作っているので観ようと思った作品。
前作『さよならくちびる』同様に音楽の話であり、女性二人と男性一人の関係があり、というのは同じだが、年齢が下がって高校生になっていた。男が窪塚愛瑠なんだけど、笑いそうになるぐらいに父の窪塚洋介みたいな話し方だった。あれはわざとなんだろうか、ふつうにやってるとしたら父のコピーすぎる。で、彼の父親が我々にはARATAだと未だに思ってしまう井浦新さん。未だに渋川清彦さん見てもKEEさんだと思っちゃう現象だ。映画『ピンポン』でのペコの息子が育って、スマイルが父親役ですよ、時が経たなあ。

映画は前作同様に塩田監督の性感帯を寄せ集めて煮詰めたような内容だが、観ているのが正直しんどくなるほど破綻していた。3時間ぐらいあるのを半分ぐらいにしてるのか、なんか端折った?みたいなことが多々あり、ご都合主義が連発する。
たぶん、主役の女の子ふたりの撮りたいシーンありきで作って、それを優先させたらしっかり破綻したみたいな、正確には破綻すらしてなくて、なんだこれ?みたいな話になっていく。
メインの女の子の麻希がテレキャスを鳴らす音はThis is 向井秀徳なんだけど、それも演奏と歌うとこはフルでは流さないし、あと主人公の由希が麻希の才能(歌)を信じて突き進んだけど、正直説得力が感じられないからただ痛い。『コーダ あいのうた』観たあとだと、よほどの声か歌唱力がないと納得もできないし、フィクションの前提や土台が固まってないから、観てる方はしらけてしまう。
歌ものの難しさはそこもあるし、百合がしたいのかしたくないのかも微妙で振り切らないと観る方も困る。

 

2月5日
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朝と昼のご飯は浅草に行った時に買ったペリカンの食パンとベーコンとスクランブルエッグ。このパンかなりふわふわしていて美味しい。

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田島昭宇画業35周年記念画集『冬暮れの金星』(写真はついてたポストカード)&『プラネタリウムの天使』届いた。

大和田俊之著『アメリカ音楽の新しい地図』を読んだので、アリアナ・グランデとテイラー・スウィストとラナ・デル・レイブルーノ・マーズのアルバムを散歩がてらいったツタヤ渋谷店でレンタルしにいった。一緒にブラッド・オレンジも聴きたいと思ったので追加した。MacBook Airに外付けのCDとDVD読み込みをつないでiTunesに音源を入れている。どうもSpotifyとか音楽ストリーミングサービスを使いたいという気がおきない。たぶん、スマホだけで完結する感じとかにならないようにしているのが自分には大きいんだと思う。

 

2月6日
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オススメされたタイムリープもの『明日への地図を探して』をアマゾンプライムで観た。
去年映画館で観た映画ベスト10にタイムリープものの『パーム・スプリングス』を入れたが、どちらもヒロインが理系というか、近しい部分がある。『パーム・スプリングス』のヒロインがタイムリープから抜け出すために取ったまさに「たったひとつの冴えたやりかた」が僕的にはリアルだし、とても好きだった。この作品はどんなやり方でリープから抜け出すんだろうと思いながら見ていた。
ビデオゲームがヒントになるという部分は『アンダー・ザ・シルバーレイク』を思い出したが、爽やかな青春タイムリープものっていう感じで、長さ的にもちょうどいいと思った。
主人公のマークとヒロインのマーガレットという風に物語は進んでいくが、実は主人公は、という展開になる。『ブレードランナー2049』みたいに主人公が選ばれし者(救世主)ではなかった(今作ではマークがタイムリープの原因ではなかった)パターンだが、その理由やタイムリープを断ち切るためにマークはマーガレットに寄り添って力になっていく。
見ながらタイムリープ、ARGと陰謀論にディズニフィケーション、がうまく組み合わされたSFミステリもどきのアイデアが浮かばないかなあ。とか考えていたら鈴木光司さんが「リング」シリーズである程度やっていた。現実はシュミレーションとかも含めて。リングウイルスだった貞子が映画によってその存在だけが飛び抜けてしまったせいで、一連の小説がちゃんと評価されてない人だと思う。

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KATO CHA
その場で当たる!をやってみたが、最後の仲本工事さんだけ外れてゲットできなかった。

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小林信彦著『ムーン・リヴァーの向こう側』という小説がほぼ新品に見えるぐらいで200円だったので購入。1995年の初刷だから27年前だけど、売った人は読んでなかったんじゃないかなって思うほど。小林信彦さんというと『日本の喜劇人』しか読んでいないから小説は読んだことがない。
一緒に買ったのが村上春樹著『アンダーグラウンド』の単行本。こちらは文庫版を持っているが、単行本の分厚さがいい。『ゼロエフ』の取材に同行する前に文庫版と中上健次著『紀州』と共に参考資料して読んでいた。

 

2月7日
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画像は『マトリックス レザレクションズ』(https://wwws.warnerbros.co.jp/matrix-movie/news/?id=2)より
自己啓発としての陰謀論 『マトリックス』のモーフィスがネオに渡すレッドピルとブルーピル。

 主にオルタナ右翼陰謀論者のコミュニティでは、”TAKE THE REDPILL”(レッドピルを飲め)は彼らにとっての符丁のように機能している。主流メディアと知的エリート層によって捏造された、偽りと仮象の世界から目覚め、この世界の「真実」にアクセスすること。言ってみれば、このレッドピル的な世界認識と、先に述べたARG的な世界認識とが結びついたところにQアノン陰謀論は、存在している。ARG的な世界認識は、現実世界に別のレイヤーとして物語世界を重ね合わせる。他方で、レッドピル的な世界認識は、この二重化された現実世界/物語世界というヒエラルキー的な階層構造を反転させる。つまり、Qアノンが紡ぎ出す物語世界=陰謀論的世界こそが「真実」を写した世界であり、現実世界と呼ばれているものは実のところ偽の世界に過ぎない、という転倒した世界認識が、レッドピルがもたらす「覚醒」によって獲得されるのである。
 想像(力)と現実とが価値反転するという構造は、しばしばポジティブ・シンキングの領域においても見られる。ポジティブ・シンキングとは、乱暴に一言でまとめれば「強い思考やイマジネーションはものごとの原因となる」という考え方で、たとえば成功哲学で知られるナポレオン・ヒルの著書の邦題『思考は現実化する』は、ポジティブ・シンキングの要諦を簡潔に示したものだ。他にも、一九〇三年に原著が刊行され、現在でも盛んに翻訳されているジェームズ・アレン『「原因」と「結果」の法則』では、私たちは思うことは必ず現実になるし、そのことに例外はひとつもない(ただし努力すれば)、と説かれる。このように、ポジティブ・シンキングにあっては、いわば想像が現実の条件となっている。言い換えれば、未だ現実化していない想像の領域にこそ最大の強調点が置かれるのだ。付言しておけば、ドナルド・トランプは、ポジティブ・シンキングの唱導者として知られる牧師、ノーマン・ヴィンセント・ピール(彼は十九世紀アメリカの霊性運動ニューソートから霊感を得ていた)に学び、とりわけ著作『積極的考え方の力』を若い頃から熱心に愛読してきたとされる。
 自己啓発書には、そのメッセージの受け手(読者)と同時に、送り手(著者)が常に必要となる。教育社会学者の牧野智和によれば、現代は、目標とするべき、規範となる自己のあり方や生き方を断定し、そこへ向けて読者を導いていくようなメッセージが大量に発信・消費される時代であるという。いみじくも、牧野は著書『自己啓発の時代』の中で、自己啓発が氾濫する情況から、この世界全体を一つの原理のもとに単純化してくれるようなメッセージと、それを断定的に与えてくれる権威へのニーズの、現代におけるかつてない高まりを剔抉してみせている。陰謀論もまた、「世界全体を一つの原理のもとへと単純化する」ニーズに支えられた最たるものであることは、今さら指摘するまでもないだろう。
木澤佐登志著『失われた未来を求めて』205-206Pより

ある時期に須藤元気さんの自己啓発本にハマっていた時期があった。近い時期に園子温監督に実際に会いに行ったりして、そこからいろんな人と出会うきっかけができたりしたこともあったので、自己啓発の効果やバタフライエフェクトというのはわりと信じていた。
でも、生粋のネガティブが根底にあるので、どこかで冷めた目で見ていたり、客観視できてしまうために一瞬熱が高まっても持続はしないし、引いた目で見れてしまうので自己啓発は自己暗示として使えなくもないが、けっこうヤバいと思ってもいた。
トランプが支持されたこともQアノン支持者がいることも、日本維新の会の支持者がいることも上記の引用を読むとよくわかる。
それらが跋扈して勢いを持ってしまうのはもちろん(主流メディアと知的エリート層が多い)リベラルの側の問題もあるが、実際はそれまで白人至上主義だったのに移民たちによって仕事などが奪われてしまう(本人が努力してないことが多いわけだが)ことが許せない彼らの自己啓発としてのトランプがいたし、大阪と維新の問題もおそらくそれと被るものがあるはずで、だからこそすごく難しい。
水道橋博士さんが『藝人春秋2』で書いたように関西のテレビ制作会社と作っていた番組というメディアによって、長い時間を使ってやってきたことと維新は結びついているので、外側に出るかそれについて客観的な見方ができなければ、陥った自己啓発的な状況からはたぶん抜け出せない。だが、自己啓発にハマった人がそれを抜け出しても、不安定になった精神を支えるものや場所や時間が必要になる。
複雑化する世界に耐えきれないから単純化する方向に向かう。

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TAKAGI BOO
今日も最後の仲本さんところで外れた。

 

2月8日
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前に見かけたときに気になっていた『東京百年物語2 一九一〇〜一九四〇』を購入。

明治維新から高度経済成長期までの100年間に生まれた,「東京」を舞台とする文学作品を時代順に配するアンソロジー.社会制度,文化,世相・風俗などの変遷を浮かび上がらせ,「東京」という都市の時空間を再構成する.第2分冊には,谷崎潤一郎川端康成佐藤春夫江戸川乱歩堀辰雄岡本かの子ほかの作品を収録した.

田河水泡のことなんかを調べたいと思うと約百年前の1920年ごろの東京のことが知りたいし、調べる必要があったので、収録されている著名な作家の作品はわりと読んでいないのでちょうどいい勉強にもなる。

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映画の試写会場まで2時間かからないぐらいだったので歩いて行く。映画については3月以降に。
早めに試写会場に着いたので周りをうろうろしていたら、日比谷公園が近くだったので久しぶりに行ってみた。今年のGWには去年と一昨年中止になってしまった「MATSURI SESSION」やってほしい。

 

2月9日
木澤佐登志著『失われた未来を求めて』を読み終えて、『ニック・ランドと新反動主義 現代世界を覆う〈ダーク〉な思想』を久しぶりに再読したので、その際にBGMでヴェイパーウェイブを聴いていた。その流れでNight Tempoの曲も聴いた。
僕はスポティファイとか音楽ストリーミングサービスがどうも苦手で、いまだにiPod nanoを使っている。有線イヤフォンだし、MacBook Airに外付けHDDを繋げてCDのデータを取り込んで、iTunesで音楽を聴いている。だから、いまだにCDはレンタルするので、ツタヤ渋谷店に行っている。けっこう、レンタルスペースには人がたくさんいる。
書籍にしても著者名とかタイトルをあまり覚えていなくても、装幀デザインでその作品を覚えている。たぶん、それがあるので、装幀デザインが(僕からすると)ダサいと思うものはよほど人に勧められないと手に取りたくないのかもしれない。装幀とかCDジャケットって中身からのインスピレーションだったり、作り手が手に取って欲しい人を想像して作るわけだから、それが自分にとってどうかなって思うものはたいていの場合、いい意味で予想を裏切ることは少ない。だけど、自分のそのセンスがマジョリティでないこともよくわかっている。
アメリカではCDとヴァイナルの売れ行きがコロナになってから上がったとのニュースを前に見た。結局のところ、人は目に見えるものを欲しがるし、物がなければ存在を把握しにくい。このフェイスブックもそうだけど、結局のところサービス元が終わったらデータは消えるし使えなくなるし、音楽ストリーミングサービスも同じだ。OSがバージョンアップし続けて行くので、それをやめればサービス的に無理なものもあるし、バージョンアップして行く中で支えていたものが急に使えなくなることもある。
結局のところ、トランスヒューマニズムが推し進められ、肉体が滅びなくなって(機械との融合)、脳や記憶のデータをどこかに保存し再生できるようになってしまえば、ある意味で人は死ねなくなる。そういう未来がユートピアなのかディストピアなのかは人によって違うだろうが、そういう未来が予想できてしまう時代の中で(Apple Watchの馴染み方もAirPodsのようにコードがなくなっていく先を考えれば、そのうち当たり前にスマホは体内に入って行くだろうし、ハイスペックなコンタクトレンズがその役目を果たすのかもしれない)、今のところインターネットの功罪はあるが、世界がいい方向に行っているのかと言われると頭をかしげてしまう、だから、それが始まる前の時代や黎明期の希望があった頃を懐かしく思う、そういうものとしてレトロフューチャーを消費するということはあるのだろう。80年代とはインターネットのなかった時代であり、もしやり直すならそこからという意識はゼロではないのではないかと思う。
Night Tempoは「シティ・ポップ」と呼ばれる1980年代の日本のショー、歌謡、ディスコを再構築して「フューチャーパンク」(Future Funk)というジャンルを誕生させ注目を集めた。日本の歌手竹内まりやの「プラスチックラブ」をリエディットしたバージョンはユーチューブで700万以上のクリック数を記録した(wikiより)。
彼は韓国のDJ兼プロデューサーだが、『82年生まれ、キム・ジヨン』を訳された斎藤真理子さんにインタビューをした際に『ピンポン』の著者であるパク・ミンギュは村上龍高橋源一郎の影響を受けていると公言していると言われていたし、村上春樹吉本ばななの小説は直訳文体で韓国では読まれたこともあって、直訳文体的なものの影響を受けた書き手が現れていく流れができたとも教えてくれた。文化は合法であろうが海賊版であろうが、アンダーグランドなところからでも国境を越えて影響を与えあう。
まあ、日本が他国に影響を与えれるのはその時代が特に強いとは思う。金持っていた時代だからこそ、他国にとっての失われた未来でもあったし、サンプリングとかもされていない、掘りがいのあるものとして日本の音楽は掘って海外で新しく知られていっているのも事実。
KADOKAWAのメディアミックスについての研究だって日本じゃなくてカナダとか他国の学者とかのほうがちゃんとやっているし(摩駝羅関係のメディアミックス資料はマーク・スタインバーグにたいてい渡してるって言ってた)、戦前戦中の超有名作家の未発表原稿はたいてい中国とかに残っている大東亜共栄圏におけるメディアミックス的に作っていた雑誌とかに載っているものが多い、向こうは資料としてきちんと残しているけど、日本はやべえ資料は廃棄して証拠隠滅してたから残ってなかったっていうオチだったりもする。


ポニーキャノンが公式で許可してアップしてる。こうやって許可して再生数を伸ばした方が利益になるとわかっている。

新田恵利って言われても、『めちゃイケ』とかで岡村さんとかおニャンコ直撃世代の人が憧れていたアイドル的なことでテレビ出てた人だよなって感じしかない。

 

2月10日
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小林信彦著『ムーン・リヴァーの向こう側』読了。内容は「男は39歳、辛口で知られるコラムニスト。離婚歴あり。東京・山の手に、今は独り住まい。内省的な性格。性的な悩みを抱えている。そんな男の前にあらわれた女は27歳、古めかしい言葉をさらりと使う。六本木や西麻布の喧噪が苦手。新潟の出身だというが、その挙動はいたって不可解…。かくて、瀕死の巨大都市「東京」の光と影とに彩られた、物哀しくもユーモラスな恋愛譚が始まる。」というものなのだが、読んでいくとなんというか出来損ないの村上春樹作品みたいな印象を受ける。小林さんのほうが村上さんよりも年上だということもあるだろうし、いろんな面で当時の村上春樹さんと比べてもどこか古臭いという感じがした。
ただ、祖父の時代から青山に住んでいて現在(1995年辺り)は渋谷に住んでいる主人公が出会った20代のライターの女性の謎を追いかけていくうちに自分の出自がわかってくるという意味では、タイトルもそうなんだが、ポール・オースター著『ムーン・パレス』にも通じている。都市計画というものや変わっていってしまう東京について書きたかったんだろうなと思うし、東京生まれの著者が知っているかつての東京の姿を物語の謎に結びつけているのはおもしろかった。隅田川を渡る渡らないというそれだけがかつて深川とかに住んでいた人からしたらまったく違う場所、「異界」だったというのは現在だとわかりにくいものだろうけど、こうやって残すことが大事なことだと思う。小林さんは村上春樹作品やポール・オースター作品をどのくらい意識したのか、まったくしてないのかと言われるとさすがどうかなって思える感じの内容ではある。
でも、今書いているものに活かせる要素がいくつかあったので、読んでよかった。

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仕事が終わってからニコラでお茶をしてから歩いて渋谷に向かって、『ゴーストバスターズ アフターライフ』をTOHOシネマズ渋谷にて鑑賞。
主役のフィービー(マッケンナ・グレイス)はいわゆるリケジョ的な才媛で眼鏡っ娘役だが、顔が整いすぎてて、このまま成長したらものすごい美女になるんだろう。高1ぐらいの冴えない兄貴のトレヴァーだがアメリカは免許取れる年齢ってのがデカい、ゴーストバスターズの車を運転する大人ではないフィービーに近い存在が必要になるから。フィービーの同級生であだ名がポッドキャストなムードメーカーな少年はアジア系で『グーニーズ』のデータに近い(彼よりメカニックというわけでないが)。あとは兄貴が一目惚れした彼より2つ上のバイト先のアフリカ系の女子高生の四人が新しいゴーストバスターズ的な存在となる。

フィービーの祖父である元祖ゴーストバスターズだったイゴン・スペングラー博士が田舎町で封じ込めようとしていたゴーストの封印が解かれそうになって、新生ゴーストバスターズが活躍するという物語になっている。
シリーズの1と2のアイバン・ライトマン監督の息子であるジェイソン・ライトマンがメガホンを取っていることも大きいのか、家族というか親子の話にもなっている。変人で家族を捨てた父親だとずっと思ってきた娘のキャリー(フィービーの母)と父との関係性の再生も軸にある。

なんにも知らないままで観たけど、楽しめた。あとあれはどこまでネタバレしてんの?っていう。それもあるから某メジャー作品同様に過去から現在という時間の積み重なりが大きく作用している。
オリジナルが難しい時代、祖父の血をある種隔世遺伝的に引き継いだ若き科学者のフィービー、祖父の遺産を孫が使うということは物語として強い。しかし、キャリーは家賃が払えないからずっと疎遠で少し前に亡くなった父の田舎の屋敷に子供をふたり連れて戻るしかなかったという設定でもある。
シングルマザーであるキャリーは僕と年は変わらない、カート・コバーンビリー・コーガンも親に捨てられた、両親の離婚が当たり前みたいに増えたアメリカのジェネレーションXはグランジオルタナの筆頭となった。キャリーも年齢からすれば、ジェネレーションXの最後尾辺りになる。日本だとそれはロストジェネレーションと呼ばれた世代と重なる部分がある(ジェネレーションXのほうが長いのだが)。

僕は基本的にはロストジェネレーション≒ごっつ直撃世代(松本人志病)だと思ってる。冷笑的に世界をひねくれて見る癖がついてしまった。最後のガラケー世代とも言える。そして、上と下の世代のハブになるはずの役目はインターネットが果たしてしまい、宙ぶらりんになってしまった。だからこそ、キャリーにいちばん感情移入をしたような、こんなことを書いてる。
どんな時代でも間に合わなかった遅れてきた青年ばかりだし、救われなかった人たちのほうが多い。だけど、救われなかったからといって誰かを救えたりするならば救いたいし、なにかで手を差し伸べることができる時には手を差し伸べる人ではありたいと思う。たぶん、そういうことを今はなにかの形にしたいのかもしれない。
結婚していないパートナーもいない子供もいない、そういう自分がこの数年、35を越えてからよく考えるようになったのは引き継がれるものだとか、されないものだとか、いろいろあるんだけど、たぶん、その辺りの事についてこれから付き合っていくんだろうな。

 

2月11日
去年の12月に『水道橋博士のメルマ旬報』の連載「碇のむきだし」で書いた『2021年映画ベスト』 をnoteに転載しました。


f:id:likeaswimmingangel:20220211122621j:plainオススメされた『デジタル・ファシズム』を読む。なんとなく聞いたりしていたことがわかりやすく書かれている。THE新書という感じもした。
お金に関しての部分はほかの本で読んでいたので、わりと知っていた。税金を納めることの意味みたいなことをなんの本で読んだか忘れたが、日本で税金を納めるためには円で収めることしかできない。つまり、税金があるから日銀が発行する紙幣には信用と価値が生まれているし、それによって支配が可能になる。だからこそ、ビットコインなんかの国というものを超えたものが当たり前になると、当然ながら円の信用は落ち価値がなくなっていく。というか日本に住んでいる人を支配できなくなる。だから、中国系のキャッシュレス機能が知らない間に入ってきて、利用者が増えていくと円が元に知らずと置き換えられてしまう(中国化されてしまう)という話だったはずだ。
資本主義の諸問題を解決するためには、GAFAをはじめとする企業なんか資本主義をさらに推し進めて、資本主義の持つ国家や因習などを解体する作用に期待すべきとする思想が加速主義だった気がするが、それはリバタリアニズム(個人的な自由、経済的な自由の双方を重視する、自由主義上の政治思想・政治哲学の立場)とも関わっている。
この『デジタル・ファシズム』読む前に久しぶりに『ニック・ランドと新反動主義』を読み返したので、脳内でいろいろと混ざってる。
この新書でも最初にSF作家であるアーサー・C・クラークの話が出てきていた。もちろんSF的想像力に関しては疑わないけど、そこまでみんなSFってちゃんと読んでるのだろうかとも思ってしまった。結局のところ『デジタル・ファシズム』で危惧されているようなことの行き着いた先は伊藤計劃さんが『ハーモニー』で書いてるんだよなあ、改めてこの新書が売れるなら『ハーモニー』はもっと読まれてもいいのになあ。

 

2月12日
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友人の鎌塚くんが原案で、糸井のぞさん作画のコミックス『僕はメイクしてみることにした』が発売になったので買いにいった。残り一冊だったけど、かなり動いているみたい。
何話かはWebで読んでいたけど、こんなに早く形になるんだと驚きもある。まずは出版おめでとうございます! めでたい。
僕はトモズとドン・キホーテでバイトしていた期間が10年以上あるので、けっこうコスメ関係は売っていたのでなんとか名前とかはわかったりする。防犯シールとかめっちゃ貼ってたもん、高額商品とかに。
この漫画の内容はすごく映像化に向いていると思う。そもそもウェブでのPV数もすごかったみたいなので、すでに話は来ていそうだが。
『佐久間宣行のオールナイトニッポン0』で先々週あたりの放送回で元テレ東佐久間さんがブログかなにかを読んで40歳を越えてはじめて化粧水を使ったという話をしていた。なんで今まで誰も教えてくれなかったんだよ!みたいな話だったので、僕がコミックスの担当なら『佐久間宣行のオールナイトニッポン0』に献本で送る。で、読んだらおもしれえって話になってラジオとかで話してくれるかもしれない。
その流れからテレ東深夜枠とかTBSでドラマ化とかいけそうだし、総じてParaviはけっこうオリジナルコンテンツを作っているので、この『僕はメイクしてみることにした』はドンピシャな気がする。佐久間さんがParaviで『考えすぎちゃん』(ワンクールだけTVでもやった)とかやっていたのを見ていて、けっこうテレ東とTBSのドラマ班が出ていたし、『生きるとか死ぬとか父親とか』はプロデューサーだったので、そういうメディアミックスもいけるんじゃないかなと他人の作品で青写真を描きながら、読んでます。

 

NHK+で『星野源のおんがくこうろん』を見る。解説員がふたり(パペット)いて、ひとりはTBSラジオでお馴染みと言っていいのかな、高橋芳朗さんで、もうひとりが先日ちょうど読んだ『アメリカ音楽の新しい地図』の著者の大和田俊之さんだった。
第一回はビートメイカーのJ・ディラだった。なんとわかりやすい。スパイク・ジョーンズのMVは流れるし、Eテレっぽくない気はちょっとするけど、これ民放だとたぶんできないんだろうな、星野源さんならなんでもやっていいですみたいなスポンサーいないだろうし。
以前『おげんさんといっしょ』でサンダーキャットのことを紹介してたのを思い出した。コロナでいまだに来日公演は延期されたまま(チケット取ってるけどもはやアナウンスがない)だけど、来日したら絶対に星野源とサンダーキャットはコラボかなにかするだろうなと思う。


AmazonプライムでやっていたやつがYouTubeに場所を移したのね。
プロレスものではないけど、有田さんの語り手は好きでこのシリーズはAmazonプライムでは全部見ている。
相方としての福田さんの相槌もかなりいいし、有田さんの語りはやっぱり知らない人にも伝わる熱量とわかりやすさがありながらも、話術としてうまいなあと思う。
平家物語』だったら平家にも源氏にもなりたくないけど、琵琶法師にはなりたいっていうか。
語り部の使命はできるだけ生き延びて見たり聞いたりして後世に残すことなんだよね。
伊藤計劃著『ハーモニー(新版)』の最後にある伊藤さんを佐々木敦さんがインタビューしたのを読んで、語り部のことをちょうど考えたばかりだった。

 

2月13日
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松居大悟監督『ちょっと思い出しただけ』をヒューマントラスト渋谷で鑑賞。
毎年のある日だけを定点観測の逆回転していくことで、今は別れてしまった二人(照生(池松壮亮)と葉(伊藤沙莉))の日々と想いの変化、コロナで変わった東京が描かれていて、すごくよかった。
クリープハイプの曲が主題歌で尾崎世界観さん出てるし、中央沿線や座・高円寺も舞台になってるし、ニューヨークの屋敷さんも出てるので、水道橋博士さんは観たのだろうかとちょっと観ながら思った。とツイートしたら博士さんが反応してくれたので、観てもらえるといいな。

照生の後輩のダンサーの泉美役が河合優実さんだった。僕が彼女を認識したのは『サマーフィルムにのって』からだったけど、松尾大輔監督『偽りのないhappy end』にも出ていて(こちらのほうが撮影とかは先だったはず)、2月末公開の城定秀夫監督『愛のなのに』も予告編見るとかなりメインだし、一気に来てるなあと思う。
実際にキャスティングされて撮影が終わって、それを観て僕がそう思っているというタイムラグはあるから、映画関係者の中ではもっとだいぶ早く評価されたり、使いたいという人がいるはずで、それがどんどん増えている状態なんだろう。

そのタイムラグにとって、観客には「あれ、この人このところめっちゃ観るな」という状況になって、ブレイクして知名度が上がっていくというサイクルがおそらくある。『偽りのないhappy end』にちょいと出ていた三上愛さんも最近めっちゃ見るようになったし、バイトしている「monokaki」の主体である「エブリスタ」で投稿していた小説が原作となっているドラマ『Liar』の主役になっていた。

『ちょっと思い出しただけ』は物語的には『花束みたいな恋をした』や『ボクたちはみんな大人になれなかった』と比べやすいものでもある。
『ちょっと思い出しただけ』は中央線で、『花束みたいな恋をした』は京王線、的な物語である。もちろん舞台がそうだからであり、僕個人としては『花束みたいな恋をした』の舞台に馴染みがあり、住んでいた近くだし、主役の麦と絹に近いものがあったのでかなり沁み入ったし、最後のファミレスは号泣してしまった。
『ちょっと思い出しただけ』はメインふたりのやりとりがすごくよくてけっこう笑う箇所が多かったのが対照的に思えた。ちょっとオフビートな感じもするのだけど、それは後述するこの映画がオマージュしているジム・ジャームッシュ監督『ナイト・オン・プラネット』(原題『Night on Earth』)と関係があるのかもしれない。
でも、どちらも横浜の観覧車が見える場所が物語の大きなポイントになっているので通じている。

どちらの作品でも猫を飼っている。
『ちょっと思い出しただけ』は二人が別れたあとに猫は照生が引き取って育てている。物語として毎年彼の誕生日という一日を遡っていくため、飼い猫はどんどん小さくなっていく。
逆にというか『花束みたいな恋をした』では、二人が同棲し始めて神社で拾った黒猫はどんどん大きくなっていく(当たり前だ。時間が進む方向として)が、黒猫はどんどん大きくなり、ふたりが心の距離が離れていくような不吉さのメタファーのように見えてしまう。
同じようなことは城定秀夫監督『愛のなのに』と同じプロジェクトで制作された今泉力哉監督『猫は逃げた』の予告編を見た時に感じた。離婚寸前の夫婦が飼っている猫が逃げてしまう。猫は愛に置き換えられる。「愛は逃げた」というわかりやすさとして、猫はたぶん登場している。猫は映画に向いているのはメタファーにちょうどいいからだろう、あと一軒家であろうがマンションであろうが屋内で飼えるからなのかな。

『ちょっと思い出しただけ』は『ボクたちはみんな大人になれなかった』と重なる部分がある。それはヒロインが同じく伊藤沙莉であり、時間軸が過去に巻き戻っていくという手法を取っているからだ。
ただ、『ボクたちはみんな大人になれなかった』は燃え殻さんの小説と映画では構成が違う。現在から過去に巻き戻っていくのは映画版のほうである。
そういえば、どちらにも篠原篤さんが出ている。先日観た奥田裕介監督『誰かの花』にも出演されていた。篠原さんは橋口亮輔監督『恋人たち』で知ったけど、映画館で観ていると偶然的に同じ役者さんが立て続けに出ているのを見ることがあるけど、あれもさっきのキャスティングとかのタイミングみたいなものと近いなにかがあるんだろう。
映画『ボクたちはみんな大人になれなかった』も『ちょっと思い出しただけ』も現在のコロナパンデミックの状態からそれより前の時代に遡っていく。
僕が映画『ボクたちはみんな大人になれなかった』を観た時に思ったのはその手法を使っているせいでヒロインである「彼女」が出てくるのが遅く感じられてしまったことだった。たぶん、そのせいで「ボク」にうまく感情移入できなかった部分がある。原作である小説にあるエモさみたいなものはやはり「彼女」と出会ってからの「ボク」の言動や気持ちにあるので、それが遅れてしまうとある程度成功した人が過去を振り返っているように見えてしまう面もある。

『ちょっと思い出しただけ』はクリープハイプ尾崎世界観さんが自身のオールタイムベストに挙げるジム・ジャームッシュの名作映画『ナイト・オン・ザ・プラネット』に着想を得て書き上げた曲を基に松居大悟監督が書き上げたオリジナルストーリーになっている。
作中にも『ナイト・オン・ザ・プラネット』が出てくるし、伊藤沙莉が演じる葉はウィノナ・ライダー同様にタクシードライバーである。また、ジム・ジャームッシュとも親交があり、彼の作品に出ている永瀬正敏さんも出演しているが、彼は公園のベンチでずっと妻を待っているという役どころだが、それはジム・ジャームッシュ監督『パターソン』のラスト近くで永瀬さんが出てきたのを彷彿させる。
つまり、ジム・ジャームッシュ監督『ナイト・オン・ザ・プラネット』があり、そこから着想を得て尾崎さんがクリープハイプとして『ナイトオンザプラネット』という曲を作り、それを元に松居大悟監督がオリジナルストーリーの映画にした。
故にジム・ジャームッシュ監督『ナイト・オン・ザ・プラネット』をオマージュしながらも、それぞれの作り手の思いが各自のクリエイトに昇華されている。それもあって、尾崎世界観自身も映画に登場し、重要な役回りになっていた。

松居大悟監督は舞台もやっていることもあって、作中に舞台の場面がいくつかあったりして、コロナパンデミックの現在の舞台の状況も描きたかったのかもしれない。
あと葉がタクシードライバーだけど、東京五輪に向けてタクシーが新型タクシーになったけど、外国のガタイのいい人も乗り降りするのにいい大きさのやつね、時間が遡るからタクシーも新型から昔のものになっていくのもよかった。そう考えるとフィリップ・K・ディック『ユービック』みたいなとこもある。
観終わったあとには心地よい気持ちになった。外は雨だったから濡れながら家まで歩いて帰ったけど。



手話通訳付きの映像を観ていると、その通訳者たちの肉体性にしばしば感動する。聴覚に障害があるがゆえに、むしろ肉体が雄弁になっているという現実を目の当たりにしている、と感じるというか。私は半年以上が経ってから再度視聴する東京オリンピック2020開会式に呆れると同時に、通訳者たちのその存在感に感激していて、いったいこういうギャップはどこから来るのだろう、と考えざるをえなかった。

手話ということだと最近だと『ドライブ・マイ・カー』や『コーダ あいのうた』とアカデミー賞にノミネートされた作品に共通して出てくる。
古川さんの新刊『曼陀羅華X』に出てくる老作家と彼がかつて拉致された教団から脱出する際に連れ出した教祖の息子(赤ん坊だった)は聾なので、その血の繋がらない親子の会話は手話であり、それが描写されていた。
『コーダ あいのうた』について感想を書いた時にも書いたのだけど、「語り/ナラティブ」ということがよく言われるようになった先に身体性を伴った手話の「語り/ナラティブ」というものが改めて表現の世界でも意識的になってきているのかもしれない。

 

2月14日
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人生初の歌舞伎はコクーン歌舞伎『天日坊』シアターコクーンにて鑑賞。10年ぶりの再演だが、前回は観れておらず、今回がはじめてとなった。
宮藤官九郎脚本であること、そして主演であるメインキャスト三人が中村勘九郎中村七之助中村獅童という布陣であるので観たかった。
もともとTBSドラマで宮藤官九郎脚本『池袋ウエストゲートパーク』をリアルタイムで見てから、その後のクドカン脚本ドラマはほぼ見ているし、彼の映画監督作品もほぼ劇場で観ている。舞台は数回しかないが。
池袋ウエストゲートパーク』から何度もクドカン脚本ドラマの主演を務めたのは長瀬智也さんだったが、去年の『俺の家の話』をもって芸能と表舞台からマスクを脱ぐように降りていった。ドラマ自体もそんなことを感じさせるメタフィクション的なものもありつつ、「能」と「プロレス」を交ぜながら一家の伝統と意志を次世代に引き継ぐ話として描いていて素晴らしかった。それは『スパイダーマン ノー・ウェイ・ホーム』同様に20年という時間の積み重ねと言える層ができたことで、その流れを知っているものにはより深くに沁みこんで届くものになっていた。

宮藤官九郎はその名前の通り、「大人計画」主宰の松尾スズキさんから、先代の中村勘九郎さんに似ているということから付けられた芸名だったはずだ。まあ、20年以上前のことを思えば似てなくはない。
今回の再演には前回同様にメインの売れっ子の歌舞伎役者が三人いる。
先代である五代目だった中村勘九郎中村勘三郎)の長男の現・六代目の中村勘九郎宮藤官九郎が初監督した映画に長瀬智也の相手役として出演した次男の中村七之助シネマライズで「僕たちの日本映画が始まった」と思わせてくれたクドカン脚本映画『ピンポン』に自らオーディションに応募してドラゴンの役を勝ち取ってからブレイクしていくことになった中村獅童、この歌舞伎にはそういう文脈がある。
Bunkamuraの先行で取ったら前から一列目のど真ん中だった。ここの先行はわりといい席がくる確率が高い。近いから希望の人にはフェイスシールドお貸ししますと紙が貼られていた。昔、「ガキ使」で山崎vsモリマンの観覧に行ったときに前のほうだったから、ゴボウとかいろいろ飛んでくるから、来たら防いでくださいとシートが足元にあったのを思い出した。

ストーリー:ふとしたきっかけから将軍頼朝の落胤になりすまし鎌倉を目指す法策(後の天日坊)。 旅の途中で盗賊・地雷太郎とその妻お六と出会い、思いもよらぬ自分の運命を知る… 狙うは天下!若者たちは壮大な野望と純粋な希いを胸に疾駆する。彼らの人生を賭けた大勝負がはじまる――。

観終わって、すごすぎて帰りに歩きながらいろいろ考えていた。
最前列のどセンターだったので、中村勘九郎さんが舞台の一番前まで来て見栄を切る時に二メートルほどという恐ろしい距離で、そのせいで拍手も何度も遅れてしまった。
いわゆる歌舞伎座で観る歌舞伎とコクーン歌舞伎は違う部分が多いのだろうけど、やっぱり舞台はおそろしい。沼にハマるのがよくわかる。
中村獅童さんは僕が思っていたよりもずいぶん大きくて、目力が強かった。中村七之助さんは女形としての色気があり華があるんだなと改めて感じれたし、なんといっても主役の中村勘九郎さんの最後の立ち回りとか見ながらずっと鳥肌が立っていた。

今月最初にロック座に行ってストリップを観て、今日はシアターコクーンで歌舞伎を観た。どちらも僕はあまり縁がないものだけど、ストリップも歌舞伎も舞台の上の演者が型を決めた時に観客から拍手が起きる。どちらも様式美っていうのか、型があってそれを観客は「よっ!でました!」みたいな気持ちで観ているのだろう。

ストリップだと回る舞台のところで踊り子さんが足をピンと上にあげて止まる、周りながらポーズを少しずつ変えながらほとんど300度ぐらいにいるお客さんたちに女性器がしっかり見えるようにする。そうするとその角度に入った観客が拍手をしていく。
今日の歌舞伎も役者が見栄を切ったりすると拍手が自然と沸いていたから、それでストリップのことを思い出した瞬間があった。
歌舞伎はもともと出雲阿国から始まり、遊女歌舞伎となって広まってから幕府に禁止され、やがて男性だけが演じるものとなっていったので、通じるものはあるだろう。
だからなのか、ある時期にストリップを観るのが一部で流行って、その人たちは歌舞伎などの古典芸能も熱心に観ていた(観るようになった)のか、と今更気付いたけれど。

芸人や風俗というものは河原乞食と変わらないというか、そもそもそういうところから出てきたものだ。
芸とは本来は見せてはいけないものを見せるものであり、民衆が見たくてたまらないものを見せるものでもある。そこには明らかな自由が演じる側も見る側にもあった。権力がもっとも恐れるものが芸にはある。だからこそ、時の為政者は寵愛して囲うか弾圧して禁じてきた。

『天日坊』は主人公の法策による「俺は誰だあっ!」という叫びがずっとある。物語としては将軍頼朝の落胤になりすますという嘘をついたことで展開していくのだが、実は貴種流離譚の形式を取っていることがわかる。その意味ではど定番の王道の話になっているが、最終的には大岡裁き的なものへなっていく。そして、最後にはメイン三人による大立ち回りが繰り広げられ、そこに法策の「俺は誰だあっ!」という自分の存在への確認と疑問が重なっていくことで超絶エモーショナルな場面になっていく。
感情を見せるか性器を見せるかは別物だという人もいるかもしれないが、僕は内なるものを見せるということでは同じベクトルであるように思える。
人は圧倒的なものを見せられてしまうと揺さぶられてしまう。このところ、劣化した感情ということについて考えていたのだけど、このタイミングで『天日坊』を観れたのはほんとうによかった。まだ、感情はしっかりとゆれた、ゆれた、ゆれた。

 

2月15日
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今年の、3年ぶり開催のサマソニの第一弾アーティストが発表されて、リバティーンズの名前があった。
フェスには行きたくないからワンマンしてくれるのが最高なんだけど、どうだろう。僕がリバを観に行ったのは2回だが、その頃はフロントマンのひとりであるピート・ドハーティはドラッグだけじゃなくさまざまなトラブルを起こしていたため、来日できなかった。ツインボーカルなので、もうひとりのフロントマンであるカール・バラーが二人分、ふたつ置かれたマイクを行き来するように歌っているのを観た。その後もカールは別名義のバンドで来日したりして、その時は出待ちして写真撮ってもらったりサインをアルバムにもらった。だけど、一度もピート・ドハーティを生で観たことはない。
ラインナップに名前を見て『リバティーンズ物語 ピート・ドハーティカール・バラー悪徳の栄え』を久しぶりに取り出して読もうと思った。
この本は11年前のものだから増補版とかで出してほしい。このあとのリユニオンとかね、いろいろあって今に至るわけだし。誰も死なないでオリジナルメンバーが全員揃っていることがある種の奇跡でもあるバンド。
しかし、ピートって来日できるの?って思ったらドラッグやめてるから来れるみたいだ。だけど、最近の写真とか見ているとめちゃめちゃ太ってしまっている。ドラッグやめたら太ったっぽい。そのせいでカリスマ性は失われて親しみやすくなっている。彦麿さんの大昔と現在というぐらいの落差がたぶん一番近い。
ピートと付き合っていたせいでスーパーモデルだったケイト・モスは経歴に汚点ができてしまったけど、あの時期はディオールオムのデザイナーだったエディ・スリマンがピートにベタ惚れで彼の服とかを提供していたぐらいにファッションのアイコンにもなっていた。あの頃ディオールオムで細タイやスキニーパンツが出ていて、それがその後世界中に広まって定着していった。今、いわゆるロックっぽいテイストのおしゃれな雰囲気というのはエディ・スリマンディオールオムでやっていたことの影響下にあり、その廉価版だと思う。
あの頃、「ロックンロール・リバイバル」と呼ばれたゼロ年代を代表するロックバンド(ストロークスリバティーンズが筆頭)はハイブランドと近いところにあり、ロックはかつてのものとは違うになっていた。その後、世界中でロックではなくヒップホップが席巻していくことになる。でも、ヒップホップのレジェンド級とかカニエ・ウエストとかはハイブランドとコラボとかしてるのにな、ジャンルの問題も大きいんだろう。
今回のサマソニのラインナップを見て喜んでいるのは僕ら世代やその上がメインだとTwitterのタイムラインを見て思った。ゼロ年代に十代後半から二十代だった、現在は中年のおじさんとおばさんとなった世代。洋楽ロックをリアルタイムで聞いて強く影響を受けていた最後の大きな塊だから、しかたないんだろうけど。
四人フルメンバーで揃ったリバティーンズを観たら泣いちゃうだろうけど、どこかで観たくないという気持ちもある。

 

2月16日
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朝イチでベルサーレ渋谷まで歩いて行って確定申告done。毎年PCに打ち込んでプリントアウトして提出して帰る流れだったが、スマホで提出するのを推奨ということで、スマホで打ち込んで送信して終わった。あれ上の世代のスマホなれてない人は意味わかんなくて、テンパると思う。

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コクーン歌舞伎を観た流れで野田秀樹さんの戯曲が読みたくなった。去年の12月に再演されて観に行った『THE BEE』が収録されている『21世紀を憂える戯曲集』と今まで観た舞台でいちばん心が揺さぶられた『逆鱗』(『新潮』2016年3月号掲載)をAmazonで購入して届いていたものを読む。

『Q』以来2年ぶりの野田地図。番外公演『THE BEE』(演出・野田秀樹、出演・阿部サダヲ長澤まさみ、河内大和、川平慈英)を東京芸術劇場シアターイーストにて鑑賞。野田さんが出演せずに演出だけに専念してる野田地図観るの初めてだな。

2001年9月11日に起こったアメリカ同時多発テロ事件に触発された野田秀樹が、筒井康隆の小説「毟りあい」を題材に、イギリス・ロンドンで現地演劇人とワークショップを重ねながら書き下ろした英語戯曲。2006年にロンドンで初演され、2007年には日本語版が東京で上演された。

平凡なサラリーマン・井戸が我が家の前で遭遇したのは、警察とマスコミの喧騒だった。脱獄囚・小古呂が井戸の妻子を人質に取り、井戸宅に立てこもっていたのだ。井戸は妻子を救出しようと、どこか頼りない警察と共に行動を起こすが、事態は思わぬ展開を迎える。

たった四人しかいない出演者、阿部サダヲさん以外の三人は一人何役かを兼ねる。舞台装置はほぼなく、大きな真っ白な紙が天井からぶら下がっていて、舞台の前方まである。そのうえで展開されていく。真っ白な紙にプロジェクトマッピングのように映写されるドアやテレビなど、シンプルだが紙という特質を使うことで舞台の小道具にも変わっていく。
妻と息子を人質に取られた井戸は小古呂の妻子がいる家に刑事と出向くが、小古呂の妻は夫を説得してくれるように井戸が頼んでも断る。刑事をバットで殴り倒し拳銃を奪った井戸はそれを持って小古呂の妻を脅すことになる。被害者家族であった井戸は自分の家族を人質にとった小古呂と同じことをすることになる。つまり被害者でありながらも加害者へと変貌する。俺は被害者に向いていない、と。互いに家族を人質に取って交渉をするものの、互いに引かないために暴力や悪意は人質である相手の家族に向けられる。小古呂役であり、小古呂の子供を川平慈英さんが演じているので、その一場面の中である時はどもりがひどい小古呂になって井戸とやりとりをして、そのまま泣き叫ぶ子供になる。極めて舞台らしい演出と一人の役者が複数を演じることで場面転換をせずに、二つの場面がひとつのシーンの上で共存している。これは観客が舞台というものを見る時における信頼がないと成り立たない部分だ。
小古呂の妻を毎晩犯し、小古呂の子供の指を一本ずつ切り落として警察に自分の家に立てこもっている小古呂に届けされる。相手も一本ずつ指を送り返してくる。それがルーティン化していく、子供は治療もされずに死んでしまう。小古呂の妻はその狂った環境の中で自分で股を開いていたが、その指さえも今度は井戸に折られていく。部屋に入っていたハチの羽音が複数に重なっていく、すべてが破壊されて報復が報復しか生まずに終わっていく。
9.11のアメリカ同時多発テロ事件に触発されたことで作られたというのも観ているとわかるし、マスコミというかメディアによって伝えられるものは正しさばかりではなく、好奇心や悪意など被害者であるものを苦しめて、それを見て満足する名もなき視聴者たちがいる。それがネットでも変わらない。悪意は伝播してさらに被害がただ弱いものへ弱いものへ向けられていく、その悪循環。しかし、この暴力性と悪意はある種わかる。怖いけれども暴力はいつもそこにあり、いつでも被害者になり、加害者に僕らはなってしまう。

↑が観た時の感想だが、戯曲も四人だけなのでシンプルなものであり、不条理さと共にテンポが増していき、心に澱のようなものが残る。これはそういう舞台であり、戯曲集でも野田さんが2007年の公演パンフレットに書いた文章が転載されている。

 劇場にいい夢を見に行くのか、悪い夢を見に行くのか、それはまあ趣味の分かれるところであろうが、ミュージカルなんて能天気なものが全盛の昨今、どうやらいい夢志向の観客が劇場を支配しているようだ。
 私はそれが気に入らない。
 感動する為にこの芝居を見に来たお客様、ごめんなさい。この芝居を見ても感動できません。涙は流せません。いや感動させてなるものか。涙など流させてなるものかという心意気で作っています。だから、感動はできませんが、後にはかなり尾を引きます。そのことがどうしても納得いかないお客様は、叶恭子が出てくる悪夢を見てしまったと思って諦めてください。そして尾を引いたものというのは、なんでこんな夢を見てしまったのか考えることになると思います。たまには、涙を流してさっぱりしないで、そんな悪夢も見てください。

こういうことを書く人を僕は信用している。『逆鱗』は舞台でのイメージが強いのでどうも字面がうまく入ってこないので、少し間を置いてから読もう。

 

2月17日
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ガイ・ドイッチャー著『言語が違えば、世界も違って見えるわけ』を購入。タイトルと装幀で気になっていた本。

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ニコラでバレンタインデーなチョコとしてデザートを出してもらったので、アルヴァーブレンドと一緒にいただく。チョコの下に金柑が隠れていたけど、食べた時にはあんずかなと思った。

 

2月18日
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仕事の休憩中に書店に行ったら、一條次郎著『チェレンコフの眠り』が出ていたので購入。一條さんの小説は今の所、デビュー作である新潮ミステリー大賞受賞作『レプリカたちの夜』と『ざんねんなスパイ』と『動物たちのまーまー』と書籍になったものは全部読んでいる。
共通するのは動物が出てくること、動物が人のように物語に登場している。そういうとファンタジー的な感じもするが、ちょっとシュールだし、どこかアイロニーとコメディさもあるという感じでとてもおもしろい。装幀も全部動物のイラストで通しているのも新潮ミステリー大賞で一條さんを推した伊坂幸太郎さんの新潮社から刊行されている書籍同様にレーベル的にデザインを統一している感じも好感が持てる。

昨日の『ナインティナインのオールナイトニッポン』の中で、今80年代の日本のシティポップが世界中で流行ってるんですよって投稿があって、そこでも泰葉さんの『フライディ・チャイナタウン』が外国のクラブとかで流れて、それを聴いて若い子が踊ってるってことかみたいな話があったけど、読書のBGMでNight Tempoの動画流してたらNight Tempo Edit版が聞こえてきた。確かにロスのクラブとかで流れていても違和感なさそうだ。


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仲條正義さんの『僕とデザイン』を読んだ流れで穂村弘さんの『もしもし、運命の人ですか。』を読んだ。穂村弘という人がモテるのがよくわかるエッセイ。
微細な部分をちょうどよく刺激する、気にさせてしまう、それをわかっているのにわからないようなふりをして女性はほっておけなくなる、そんな人なんだろう。真似できないというか、こういう人は本能的に理解して行動できちゃうし、言葉にできるだろうから、そのラインには行ける人と行けない人の間でしっかりと引かれている。


2月19日
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フィリップ・K・ディック作品を読み返しているとドラッグと神秘主義、実存の問題(ディックは生まれた時は双子(もう一人は女児だったが、生後半年ほどで亡くなった。そのため自分がいない可能世界であったり、彼女が生きていた可能世界、ありえたかもしれないという思いがある種の双子的物語に(意図的なのか、無意識なのか)転化していく))とかが描かれていて、総じて今のインターネット文化じゃんってやっぱり思ってしまう。
ずっと前に買って序文しか読んでいなかったマシュー・コリン著『レイヴ・カルチャー──エクスタシー文化とアシッド・ハウスの物語』はヒッピーカルチャーからの流れもあるだろうし、ディックの作品世界から現在の世界の間にあるような気もして読んでみようかなと引っ張り出した。
ヒッピーカルチャーであったり、そこと親和性の高かったドラッグやスピリチュアル(精神世界への没入)とか、ここではないどこかというフロンティア(宇宙ではなく仮想世界)を目指すっていうものがインターネットにつながっていくわけだけど、そのもうひとつの形としてのレイヴ・カルチャーだったのだろうか。
まあ、ガンガンにドラッグきめて踊り狂う世界よりもネットでの陰謀論や誹謗中傷やネトウヨだとパヨクだのやりあってる世界のほうが間違って狂っているとは思う。レイヴ・カルチャーは身体性を伴うものだったっていうのが大きかった気はする。

昼前に雨が降る前に散歩に行こうと思って渋谷まで歩く。ツタヤ渋谷でサマソニに出演する「THE 1975」と「beabadoobee」のCDをレンタルした。
もう一枚で五枚になるので、日本のヒップホップコーナーでなんとなくベッドサイドミュージック的なことが書いてあった「鈴木真海子」という人のアルバムがなんとなくよさげなだと思って一緒に借りた。
帰ってからPCの外付けHDにデータを読み込んでいる時に調べたら、おぎやはぎのJUNKに何度か出ていたラップデュオ「chelmico」の人だった。全然知らなかった。とてもいい声だから、「chelmico」も改めて聴いてみたいと思った。



コンビニに買い物に出かけて家に戻ってきたら、ずっと空いているはずの隣の部屋の玄関のドアが少し空いていた。そこからおじさんが出てきたので挨拶をしたら「明日から越してくるなになにです」と言われたので、こちらも名乗った。
徒歩数分の商店街の辺に住んでいたのだけど、そこが取り壊しになるので近くのここに決めたと言われた。仕事のこととか互いに話をしていたのだが、「でも、ここも6年までなんですよ」と言われて、「ううん?」ってなった。
契約したあとに最長でも6年までしかできないと言われたから、それだったらここにしなくてもよかったんだけど、とおじさんは言った。
年齢は60歳を越えているというので僕よりは20歳以上は上だ。だからこそ、ある程度の年齢を越えると家を貸してくれるところも減るというし、残りの時間を考えれば、できるだけ引っ越しもせずにそこで生活したいと思うのはわかる。
しかし、問題は「6年まで」というのはそのおじさんに対してのものなのか、このアパート自体が建て替えかなんかでそういう期日が決まっているからそういう話なのかということだ。ぶっ壊して建て替えるという話はいまのところ聞いていない。
今の時点で僕は12年以上は住んでいるので、このまま更新を続けていって、その6年住めばほぼ20年近くになってしまう。それはそれで問題だが現状では引っ越しする余裕はない。
人は内的要因よりも外的要因によって日常や生活が変わっていくことのほうが多い。そう考えれば、もし建て替えとかで壊すのが6年後であれば、それまでに出ていけるように経済的な蓄えや今後どうしていくのかを考えて実行しておく、というきっかけにはなる。
年齢的な問題なのだろうが、後始末とか始まることよりは終わることについて考えたりすることが増えていく。

 

2月20日
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先日、双子のライオン堂さんのオンライントークイベント「本と暮らしとコンピューター」(出演:仲俣暁生×西島大介) を見たので久しぶりに西島さんの『凹村戦争』を読もうと取り出したら、サインに日付があった。『新現実』で西島さんが漫画を描き始めた時から読んでたけど、実際に西島さんにお会いしたのは震災後なんだよなあ。
ディエンビエンフー TRUE END』刊行時にインタビューさせてもらったり(DBP電子書籍に収録もされた)、ノベライズ『リアル鬼ごっこJK』の装幀イラストをお願いしたり、といろいろお世話になってる。
ハヤカワJコレクションで刊行された時は、今はなき渋谷のブックファーストのSFコーナーで買った気がする。

 

2月21日
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仕事終わりにニコラで文旦とホワイトチョコとマスカルポーネのタルト&アアルトブレンドを。柑橘類が好きな人はきっと好きな組み合わせ。

40歳の誕生日が近づいてきた。30歳になる頃にはその気持ちをマリッジブルーにかけてミソッジブルーと呼んでいたが、今回の方がわりと切ないというかさびしい気持ちになっていることに気づく。
「35歳問題」というのがある。人生の半分が終わった、折り返したという起点として、残された未来よりも過去の方が多くなっていくという時期であり、結婚していないとか子供がいないとか諸問題も含めてなにもないまま折り返していると余計に孤独感であったり、未来への希望を持ちにくいということがあるのだろう。そういう話もニコラの曽根さんたちに聞いてもらった。
もし、この先の状況次第で田舎(故郷)に帰ってもそっちのほうが精神的にヤバくなってしまうというのもわかっている。人生の半分を東京で過ごしているのも大きいけど、田舎はヨソからの人間にはいちげんさんみたいな感じならいいが、住んだりするとなかなか心を開いたり、仲間意識を持ってはくれない。出戻りに関しても近いものがある。また、ずっと田舎にいた人と東京で生活している僕では興味だけではなく、共通言語が少ないということもある。車も運転できないとなるとかなり絶望的になる。僕は歩くのが好きだが、田舎で1時間とか2時間歩いている人は変人か狂人扱いされるのが関の山だろう。
東京で生活を続けていけるようなコミュニティや人間関係というのがこの先とても大事になってくるということがよくわかる。
昼前にキャロットタワーに行ったら何年もお会いしていなかったアートディレクター&グラフィックデザイナーの加藤賢策さんとばったり偶然で少し立ち話をさせてもらった。ニコラのカウンターで時折同じ時間を共有させてもらう人とも町中でばったり会うこともある。そういう風になるまでには時間もかかるがいろんなタイミングが重なっているから起こる。田舎に帰るということはそんな「ばったり」が失われるということでもある。

ちょうど一ヶ月後に古川さんと書評家の豊崎由美さんのイベントが行われるのですぐに予約をした。朗読自体を生で聴いてないのはもうどのくらいだろう。コロナになってからは朗読をするイベント自体には行ってないはずだ。お二人がB&Bでやったトークイベントはオンラインではなくお店に行って聞いたけど、古川さんの朗読はなかった気がする。そうだとすれば2年から3年以上近くは朗読を聞いてないはずだ。だからこそ、生で聞きたい。

アジアンカンフージェネレーションのゴッチこと後藤正文さんのnoteが更新されていて、いわきや南相馬という浜通りへ取材で行っていたと書かれていた。なにかの形になったらぜひ読んだり聞いてみたい。
『Route 6』と『海岸通り』は国道6号線を歩いた記憶と結びついている。3月11日にはその曲を聴きたいなと思う。そして、アジカンのニューアルバムがすごくたのしみ。

 

2月22日
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昨日から今日へ日付が変わる頃に三島由紀夫賞を受賞した上田岳弘著『私の恋人』を読み始めた。なんとなく今の自分のモードに合いそうな気がした。久しぶりに読んだが、内容は読み進めていくとかなり思い出せることができて深夜に読み終えた。
物語は二人称で読者に問いかけるように展開していくが、その語り部である主人公の「私」は今世で三人目の「私」という設定になっている。知識が飛び抜けていて未来を予見できた知能を持ち、壁画を描いていたクロマニョン人が一番目の「私」、第二次世界大戦ユダヤ人だったことでナチスによって強制収容所に入れられて死んでしまった二番目の「私」、そして平成の日本を生きている三番目の「私」。
一番目と二番目が思い描いていた運命の「私の恋人」と境遇がうりふたつなオーストラリアからやってきたキャロライン。彼女の栄光と挫折の日々、そして日本にやってきた理由とかつての「私」の二度の人生と人類の転機(人類が進んできた歴史)が結びついていく。
ここでは人類の先として「彼ら」と呼ばれるものたちに、人は世界や様々なことを橋渡ししていくことになるであろうという話が出てくる。「彼ら」とは人工知能であり、シンギュラリティは2045年に来ると言われているのは有名な話だが、その辺りのネタは上田さんらしいとも思う。IT関係の仕事をしていて、作家業もしていることもあって他の作品にもIT系のことは通じている。
二度の大きな人類の転機とキャロラインがある人物と旅をしてきた(人類が地球へ広がって行ったことをトレースする)流れをロマンティックな物語に昇華していると思う。個人的にはこの人の語り口は好きだ。

そして、続けて読み出した『塔と重力』は阪神淡路大震災を経験している著者だから、書きたかっただろうと思える作品であり、タイトルにもある「塔」というモチーフは何度も上田さんの小説に出てくるものとなっている。
村上春樹の影響を公言していることもあるが、やはり村上春樹はジャズ的なものやリズムや海外小説がその文体に影響を与えているが、上田岳弘の場合はそれがジャズやロックなどの音楽ではなく、IT(ネットやテクノロジー)となっているところがとても現在的だと思う。だからか冷静であり、熱はあまり感じられない。セックスの描写というか場面も村上春樹作品と似ているといえば似ている。
設定などにSF的なものが感じられるのはIT(ネットやテクノロジー)というものが根っこにあり、現在の生活や環境とのほぼよいリンクがあるからだろう。読めば読むほどに現在の村上春樹的な存在だなと思うし、おそらく翻訳されると世界でも通じる作家だと思う。

進化とは螺旋階段を上っていくものだろうし、創作をする人は基本的には同じことを繰り返していく。螺旋階段の真ん中の空間にそれがあるというイメージ、家族であったり父や母との確執であったり、恋愛であったり、革命であったり、歴史や時間の層についてだったり、その真っ直ぐと伸びた光(作家性に近い繰り返される核でありテーマ)の周りをぐるぐると螺旋階段が上へ向かっていく。
階段を上っていく中でジャンルや見せ方や規模は変わっていくが、その伸びた光は同じだが、最初にいた頃よりは上の部分に触れることができるようになる。
上田岳弘作品は「塔」がモチーフと出てくるので意図的なのだろうが、読んでいるとかなりそういうことが感じられる。人類が生まれて地球各地へ広がって行ったその旅時、その果てにある現在、それらの行程が「バベルの塔」を彷彿させる。この先の未来において「彼ら」がやってくるのはもはや防ぎようもないのだ、人類から彼らへバトンが渡されるその過程にすぎない、というある種の諦観が客観的な視線を生んでいる気がする。その冷めた視線はとても僕には心地いい。

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「Do you have trouble remembering your dreams?」
トム・ヨークのアルバム『ANIMA』購入時のステッカーが出てきた。

 

2月23日
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矢野利裕著『今日よりもマシな明日 文学芸能論』をご恵投いただきました。ありがとうございます。自分で買おうと思っていたのでうれしい。

大事なことは、《芸能》の世界が少なからず、現実の世界なり社会なりと異なっている、ということだ。逆に言えば、現実の社会を追認するような《芸能》は物足りない。退屈な社会を生きるわたしたちが、ほんのひとときでも、《芸能》に触れて日常から抜け出す。その逸脱による解放的な喜びこそ、明日以降を生きるための活力となるのだ。
いち生活者の僕は、だからこそ、小説を読む。だからこそ、音楽を聴く。明日以降の生活を少しでもマシなものにするために。――(本書序論より抜粋)

講談社のところからコピペ。ここを読むだけでワクワクする。
《芸能》とは芝居や歌だけじゃなく詩や小説やほかの創作も孕んでいると思うし、誰もがクリエイターになれる時代の《芸能》について考えることが増えているので、矢野さんのさまざまな論を読むのはたのしみ。
政(まつりごと)と芸は切ってもきれない。大手芸能事務所や新聞と行政がズブズブでアイロニーを込めたことさえ言えないとかって異常なんだけど、非常階段にいる人がきちんと異議を唱えている状況があまりに皮肉的だ、とか水道橋博士さんのこのところの維新への動きを見て改めて感じていた。
『群像』の「群像新人文学賞評論部門」で矢野さんは受賞して批評家デビューしているけど、今の『群像』は「文」✕「論」と謳ってるのに「群像新人文学賞評論部門」を休止してるのはどうなん?とは思う。
コーネリアスを聴きながら小山田圭吾についてのところから読もうかな。と思ったら小山田論は最後の補論だったので、最初から読みます。

「2000年代前後には、“安藤政信が出ているからおもしろい”といえる時代が確かにあった。」≒たいてい安藤くんの役は死ぬっていうイメージがあるけど。安藤くんが活躍してるのは十代からのファンとして非常にうれしい。


今月はこの曲でおわかれです。
フジエタクマ『木陰で』 music video



chelmico『三億円 / Easy Breezy』at Zepp Divercity 2021.11.22 -for J-LOD-