Spiral Fiction Note’s diary

物書き&Webサイト編集スタッフ。

『愛の渦』


 テアトル新宿にて『愛の渦』を。サービスデイで千円だったのもあってか雨の日だというのにほとんど埋ってたんじゃないかなあ、平日だったけども。注目度も高いのだろう。
 年齢層はR-18というのもあるけど年配層から二十代まで幅広くカップルや夫婦連れみたいな人も何組かいた感じ。




監督・三浦大輔
出演・池松壮亮ニート門脇麦/女子大生、滝藤賢一/サラリーマン、中村映里子/保育士、新井浩文/フリーター、三津谷葉子/OL、駒木根隆介/童貞、赤澤セリ/常連、柄本時生カップル、信江勇/カップル、窪塚洋介/店員、田中哲司/店長



2006年・第50回岸田國士戯曲賞を受賞した、演劇ユニット「ポツドール」の同名舞台劇を映画化。ポツドール主宰の劇作家・三浦大輔が自ら映画用に脚本を書き下ろし、メガホンもとった。フリーター、女子大生、サラリーマン、OL、保育士など、ごく普通の人々が六本木のマンションの一室に集まり、毎夜繰り広げる乱交パーティに明け暮れる姿を通して、性欲やそれに伴う感情に振り回される人間の本質やせつなさを描き出していく。主人公のニートの青年を「半分の月がのぼる空「砂時計」池松壮亮が演じ、ヒロインとなる女子大生を東京ガスチョコラBBのCMで注目を集める新進女優の門脇麦が演じる。そのほかの共演に新井浩文滝藤賢一田中哲司窪塚洋介ら。(映画.comより)


 今日の『愛の渦』といい前に観たディカプリオ主演『ウルフ・オブ・ウォールストリート』といい、窪美澄さんの『よるのふくらみ』なんかを同時期に受容していると人間の欲望の肯定とそのための苦しみや痛み哀しみをたっぷり突きつけられて生きるということについて自分に向き合わないといけなくなる。窪さんのデビュー作『ふがいない僕は空を見た』で出てきたやっかいなものをつけて生まれてきたね、と思わずにはいられない。
 柴尾さんのメルマ旬報連載なら『愛の渦』はおっぱい指数満点だろう。門脇麦の全裸騎乗位が観れただけでもよかったと樋口さんもポストの評で書いてたっけ、まあ激しく同意なんだが。
 二十分ぐらいしたら登場人物は衣服を脱いでる。生きる≒衣きる連想は仕方ない。服だけじゃなく価値観や思想という衣(ころも)。


 監督の三浦さんがやっているポツドールの舞台は未見で監督としての前作『ボーイズ・オン・ザ・ラン』は観ていた。『ボーイズ・オン・ザ・ラン』は最後の辺りでなにかが嫌なというか乗れない気持ちになったような記憶がある。この『愛の渦』は元々舞台作品であるらしい。
 乱交パーティをしているマンションの一室が舞台というのは元々が舞台だった流れであるのは間違いなく、外部は遮断されている。
 すけべなひとたちである八人の男女+後半のカップル(この二人は彼らとは少し違うのだが)の十人は外部性というか職業とかは途中の話で言うんだけど名前の自己紹介もないのでニートとかOLとかそういう職業が役名代わりになっている。まあ、ただその限られた時間の中で誰でも良いからセックスがしたいという集まりに固有名詞は不必要だ。


 緊張し遠慮している前半は息がつまるというか時間の流れが遅く感じられる。セックスするサークルであるのに中々最初の一歩は遠い。そして、一度誰かとやってしまえばその距離は途端に近くになって触り合ったり密接なものになっていく。
 これはまあ乱交パーティのシチュエーションだけども実際の恋愛と同じであって、最初はお互いに恥ずかしいしわがまま言って嫌われるのに嫌だし、みたいなその他人行儀な距離、まあ実際に他人だし。だけど付き合ってセックスしてある種すべてをさらけ出すと当然ながらその距離は変わって遠慮がなくなったり大事にしていたはずだったものを大事にしなくなったり不満が出てくる。
 セックスをするという行為に関する事は本質的な欲求だし、それがなければ人間は生まれてこない。生と死の間にずっと横たわるものだからこそみんなあるのにないように振る舞ったり興味津々だったりわざと厭らしい禁忌するものだったり神聖化してしまう。
 下世話なことが人は大好きだ。誰かが誰かと付き合っているとか誰々とやったとかそんなこと。


 欲望というものに突き動かされて、あるいは足止めを食らう僕(ら)の人生というものにこのところ考えることがあって、『ウルフ・オブウォールストリート』が最高に面白かったのは嘘っぱちみたいな金儲けをしてドラッグ決めてセックスしまくるっていう愚かだろうけど欲望に忠実に欲望を否定しない作品だったから。
 窪さんの『よるのふくらみ』も個人とか家族とかそういうものを描く中で「性」についてきちんと書かれているところ。欲望というものが僕たちの人生の中で形を変えながら大きく影響すること。とても読みやすいのに飲み込みづらいという作品だった。飲み込もうとするとのど元で引っかかって自分自身に問いかけてくるというか自分の欲望について考えざるえない物語だから。ほんとうにとてもやっかい。凄い作品だけど読み時期を誤ったら自滅する可能性がかなりある。僕もわりと自滅した側だから人に薦めるタイミングをかなりはからないといけない作品だと思っている。




 映画の出演者だと主人公格と言える男女は池松壮亮ニート)と門脇麦(女子大生)の二人。二人ともほとんどしゃべらない。池松さんは『横道世之介』で世之介の友人役やっててなんかいい顔つきの人だなって思うまであまり知らなかったけどなんか妻夫木聡ラインになっていきそうな役者さんなのかなあ、と思ったり。
 門脇さんもCMとかで見てるんdなけどそんなに気になってなかったけど今回の作品で脱いでて騎乗位で喘ぎ声出しているとかそれは当然見所なんだけど、セックスの時よりも終わった後とかセックスするまでの間の冷めてる感じの横顔なのに眼鏡の奥の瞳はまっすぐにセックスに興味あるんですよっていうこの女子大生のここにいるのそうは見えないかもしれないけど楽しいんですって言ったのがわかる表情がすごく魅力的だった。


 店員の窪塚洋介×フリーターの新井浩文の『GO』コンビが絡んだシーンで嬉しくなった人は『GO』好きにはいるだろう。そう考えると『青い春』デビューだっけ新井さんは脇役をずっとやりながらも役者として残る強さがあって今だったら邦画好きだけじゃなくてドラマとか見てる人にも認知されてるんだからやっぱり本物だったんだなあって。


 保育士とOLの女子同士のやりとりとかあいつとはやりたくねえしとか一回戦が終わった後で本音とか欲望がむきだしになってくると面白くて、ところどころで笑いも起きてたし、エロいシーンで起ったり濡れたりもする映画なんだけど裸になってむきだしになった登場人物たちの滑稽さとかそういうものを含めて笑っちゃうけどやっぱり自分も彼らとまったく変わらないと思うし、一生こういうものと付き合っていくんだなって思うと乱交パーティ行ってるのにこういう問題というかめんどくせえんだなって思っちゃったりもする。


 『SR サイタマノラッパー』のMC IKKUが童貞役で常連とするんだけど、最後の方でみんな拍手してるの見て『エヴァンゲリオン』オリジナルアニメの最終回の大塚英志のいうところの自己開発セミナーかよって思ってしまった。よかったね、みたいな拍手と認められたみたいなあの感じがなんだかすごく嫌だ。僕はあんな時に拍手されたくないししたくもない。


 窪塚くんの店員が唯一ぐらい実は外部的な要素があったんだけどあれは演劇の時にもあったんだろうか映画だから足した要素かな。でも、最後のニートと女子大生のやりとりはすごくよくて、そう現実に引き戻したナイス!な展開というか観客に夢をみさせないで夢から醒まさせるあの終わり方は僕はすごくいいと思う。古谷実の『シガテラ』ばりに現実を受け手に殴り掛かるぐらいに見せて終わるのが僕は表現としては好きだし重要だなって。


 衣着る≒生きるということ。裸で生まれてきた僕らは両親や育ててくれた人に服を与えられて大きくなっていろんなものの影響を受けていく。思想も感情も欲望も環境に左右しながら時には自分から選んで偶発的に出会って衣着ていくようになる。だからこそなにも服を纏わないで全裸でいるということは何も纏っていないということではなくむきだしになった己をさらけ出すということだ。それはやはり怖いことだし興奮もすることだろう、受け入れてくれる人がいる幸せと拒絶される哀しみがすぐ目の前にという状況だろうから。
 『愛の渦』観ながら考えたのはそういうこととかつて観たNODA・MAP『キル』と今放送中の『キルラキル』という服を巡りながらどう生きるかという問いに向かい合っている作品だったりした。


映画帰りの渋谷で大盛堂さんに寄って山本さんにオススメされてたらも本と映画で予告観て気になった『そこのみにて光輝く』買ってみた。


↓前に観た三浦監督の映画のブログエントリ
映画「ボーイズ・オン・ザ・ラン」@渋谷シネセゾン
http://d.hatena.ne.jp/likeaswimmingangel/20100202


↓生きる≒衣着るで思い出した『キル』について昔書いた日記を再録。
NODA・MAP 第13回公演『キル』 2008年01月11日


 5日の新年会でcharlieと仲俣さんに読んだ方がいいと言われた楳図かずおわたしは真悟」の文庫コミックをようやく見つけたのであっただけ4巻まで購入し読んだ。3巻でタイトルの意味がわかった。
 そして、飲み会で言われていた岡崎京子作品の中で言及されていた「333のテッペンカラトビウツレ」も確認できた、そうそれは誕生の瞬間。


 「奇跡は誰にでも一度おきる だがおきたことには誰も気がつかない」


 このメッセージが第一話の扉画に書かれている。
 楳図作品は読んだことがなくて彼の絵も好きではなかったし、言われなければ読まなかったと思う、でも出会ったよ。
 縁というものはつくづく不思議なものだ。


 それもそのはずこの作品が連載されたのは82年。僕の生まれた年に連載が始まったもの、つまり僕と同年齢である。
 それにしてもこんな作品が生まれた年に連載されてたんだと思うとなんだか複雑。これは当時読んだ人にイヤでも衝撃を与えるよなあ、確かにでてくるロボットとかは今読むと古くさく感じるデザインだとしても作品のクオリティの高さといい、ストーリー展開といいなんていう壮大なテーマなんだと、とりあえず早く最後まで読みたいと思う。でも、5〜7巻探さないと。
 読み終わり後、渋谷にのんびりと歩いていく。


 東急Bunkamuraシアターコクーンにて
 NODA・MAP第13回公演「キル」

 を観る。作・演出 野田秀樹

〜STORY〜
 羊の国(モンゴル)の洋服屋の息子テムジンは、父の憎しみを受け成長するが、父はファッション戦争に敗れ命を奪われてしまう。
 そんな父の遺志を受け継ぎ、祖先の名を冠したブランド「蒼き狼」による世界制覇の野望を抱き、羊毛の服で大草原のファッション界を制していく。
 そして、腹心・結髪の仲介で絹の国(中国)から来た娘シルクと恋に落ちるが、シルクは絹の国に連れ去られてしまう。怒ったテムジンは、祖国の羊を焼き捨て、敵国に攻め入りシルクを奪い返す。
 やがて、妻となったシルクに息子バンリが誕生し、父と同じ宿命を背負ったテムジンは、今度は自分が息子にとって代わられる恐怖に襲われるようになる。しかし、その後も外征を続け、ついに世界制覇の夢が達成するかに見えた時、西の羊(西洋)の地から、「蒼い狼」という偽ブランドが出現し、「蒼き狼」の行く手を阻む。
 その制圧に遣わしたはずのバンリは消息を絶ち、新たなデザインさえも「蒼い狼」に盗まれ追い詰められるテムジン。
 果たして「蒼い狼」は一体誰なのか? バンリなのか? 腹心の裏切りなのか? 
 愛憎が渦巻く果てに、ついに「蒼い狼」が姿を現わし、「蒼き狼」との最後の戦いが始まる・・・・・。


 この作品はNODA・MAP第1回公演が初演、第4回公演が再演、今回は10年振りの3回目になる。


 主要人物となるテムジン、シルク、結髪の三人は、
 第01回/テムジン=堤真一、シルク=羽野昌紀、結髪=渡辺いっけい
 第04回/テムジン=堤真一、シルク=深津絵里、結髪=古田新太
 第13回/テムジンー妻夫木聡、シルクー広末涼子、結髪=勝村政信


 で、妻夫木聡は今回初舞台。僕らの年代にとっては MK5(MajiでKoiする5秒前)でおなじみ、ちなみにこれは当時コギャルで流行っていたMK5(マジでキレる5秒前)のパロディとして歌手デビューもした広末涼子
 僕らと同年代だと広末涼子が完全なるアイドルだったんだよね、で僕らの少し上の兄ちゃんぐらいの人だと内田有紀がアイドルだった。
 野田作品を生で観るのは初めて、あとは映画の専門の時に授業で「半神」のビデオを見せられたぐらいかな、途中で寝てしまったけど。
 野田作品というか野田秀樹の作品の特徴は「言葉遊び」であり、タイトルからしてもそうだけど「キル」「着る」「切る」「KILL」と意味が何個もあり、解釈できる。


 観やすい席だったので舞台全体がよくわかった。
 妻夫木・広末は役者って感じがしたし、まあ一番おいしいのは勝村さんではあるのだけど、キャラといい台詞といいポジションといい。
 最初は声小さいなとか思ったりもしたけど引き込まれていったからあんまり気にならなかったな。
 最後の方の妻夫木君の演技はなんかわかんないけどちょっと泣きそうになりました。なんかすごく濃厚な空気だったなあ。
 話の最後の終り方も好きだし、すげえなあ伏線と言葉遊びの意味。
 終わった後に演者さんみんなで頭下げるんだけど、舞台からいなくなっても拍手が鳴り止まなくて、出てきて頭下げるのを4回もしたからなあ。


 だけど、これが初めての舞台で観るんだとどうだ?
 意味わかんなくてこれから先舞台観ないかもな、あるいは舞台ってこんなに自由なんだって思いっきりハマるかなあ。
 まあ、9500円のチケ代も観る前は高けえって思ってたけど観終わった後ではその価値は充分すぎる以上にあったと思う。よかったあ、直感だけでぴあのプレリザーブで取って。
 なんせ想像力を思いっきり刺激されたから、こういうのがクリエイティブな作品だと思うんです、僕は。


 舞台が映画とドラマと違うのは空間を役者と観客が同時的に共有するってことだと思う。
 静まり返るシーンでは誰もが息を殺し、唾を飲む「ゴクッ」という音さえも会場内に響いてしまう気がする。
 そして観客は想像力を持たななければならない。 
 今回で言うと1人二役とかメイン以外の人はしてて野田秀樹さんも役者として出ているのだけど、後半は子供役だからね。テムジン(妻夫木)の。
 おっさんじゃん!とはツッコミたくてもしたら成り立たないのであって、そこに観客のイメージや想像力が一緒に空間を創り上げる。


 この舞台の想像力には正直感服です。
 全てが理解はできないしわかってない部分も多いけれど今まで観た舞台では一番好きだと言える。
 僕も言葉遊びが好きってのもデカイけどね。



 空は蒼い、その蒼さに対するように僕たちの中に流れる血は紅い。
 それは紅き海がこの体にあるということ。
 蒼と紅の狭間には羊水が溢れている。
 紅き血が止まる時、人は羊水に戻りまた蒼き空に産み落とされ、
 空は雨を降らせ、羊水の中で夢を見る、
 そしてまた地上に産み堕とされる。


 それを生命は繰返して「生きる」のだ。


 「生きる」=「衣着る」ということ。


 誰もが裸で生まれ衣服を纏い、死にゆく時には裸になって消えていく。
 その「衣」はもちろん服だけじゃない、「感情」や「思想」もだ。
 人はそれらを着ることで以前と違う自分になる、変化する、
 変幻自在な雲のように形を変える、ゆるやかにしなやかに。
 しかし強く頑固に変わろうとしないものもある。
 だが時の流れはすべてをゆっくりと飲み込んでいく。


 変わらないものなんて何ひとつとしてない。
 だから「永遠」を夢見る、羊水の中の夢だ。
 ブカブカと浮かんでいるあの感じだ、羊を数える。
 瞬間という「刹那」を積み上げる。
 積み上げるほどに「生命」は擦り減る。


 「永遠」と「刹那」の間で惑う、揺れる、踊る。


 流行りでその「衣」も衣替えするだろう、
 あるいは懐古主義になり古きものを纏うかもしれない。
 流行と衰退、様々な情報の氾濫、
 自分の価値観と資本主義の思惑、想像力を止めるな。


 耳でその景色観よう、鼻でその味を確かめよう、
 目でその音を聴こう、この肌であなたの感情を読みとろう、
 腸を引っ張りだしてその迷路を探索しよう。
 言葉は雲だ、脈略がなくても意味をなさなくても存在させれる。
 言葉は雲だ、言葉は羊水に満たされている、言葉は想像する。
 言葉が産声をあげる、そう言葉が誕生する。



 刺激的な一日だった。想像力は生きるための「衣」(ころも)だ。
 だから僕は想像する、ことをやめない、
 それを脱ぎさるのはもちろん・・・。

愛の渦

愛の渦

よるのふくらみ

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野田秀樹 (文藝別冊/KAWADE夢ムック)

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