Spiral Fiction Note’s diary

ライター&Webサイト編集スタッフ。「水道橋博士のメルマ旬報」で「碇のむきだし」、「週刊ポスト」で「予告編妄想かわら版」、「PLANETS」で「ユートピアの終焉ーーあだち充と戦後日本の青春」を連載中です。

『Swallow』『映画 えんとつ町のプペル』

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1月2日
2021年の映画初めはシネクイント『Swallow』を鑑賞。
緊急事態宣言出たら、また、しばらく劇場で映画観れなくなりそうだし、「週刊ポスト」連載もそれに伴い休載になれば、また原稿料出ないし、会社から給料もらってる半分フリーな人間は持続化給付金はもらえない。そうなるとちょいと詰みそうだが、確定申告である程度は返ってくるから春先まではなんとかなるはず。だから、映画館で映画を観る。
『パラサイト 半地下の家族』から半地下の家族要素をパッと見だけ抜いて、伊坂幸太郎著『重力ピエロ』の要素がある作品のように感じた。キリスト教原理主義なんかも絡んではいるが、女性が抑圧されてきたものからの解放、選択する主体は「私」であり、あなたでないという意思表示が描かれていた。
映像はロケーションも含めて優雅で美しく洗練されているが、異物を飲み込み排泄する一連の症状に陥る主人公のハンターの表情や身体性がサスペンス的なものを作品に持ち込んでいる。それが怖い、同時に魅力的に見える。口から肛門まで人間は一本の管である。それを踏まえたフェチや嫌悪感に襲われる。
ハンターがラスト近くである人に会って会話するシーン、たぶんキリスト教的なものの直喩であり隠喩、創造主と被造物との関係であるんだろう。よって、個人という主体である「私」は「私」として生きて取捨選択していくのだ、という決意表明でもある。オススメしにくいが素晴らしい作品だと思った。

 

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1月7日
早起きしてから、電車に乗って新宿ピカデリーで『映画 えんとつ町のプペル』を鑑賞。
ラスト近くでの主人公のルビッチの父・ブルーノ役である立川志の輔師匠の語り(ナラティブ)が大円団に観客を連れていくのが見事だった。原作・脚本・製作総指揮であるキンコン西野さんは「語り」に希望や夢を持っている人なんだろう、でなければあの構成にはしないはずだ。だからこそ、煙に覆われた町の上を突き抜ければ「星」=「希望」が見える(ある)ことを描いたと思った。しかし、その夢を伝えるその「語り」は、同時にこの日、海の向こう側のアメリカでは連邦議会議事堂内にトランプ氏支持者が突入するクーデターを起こした要因ともなった。

「語り(ナラティブ)」は立場を変えれば、希望や絶望がいとも簡単に反転してしまう。この映画はいろんな批評が出てくるとより輝くものとなるはずでもある。また、作中にはお金の話もあるし、SNSで炎上させて叩きにくる自警団のような存在も出てきている。
西野さんの実体験がかなり反映されているのがわかる。同時にこの舞台となっているのは、ラジオで水道橋博士さんが言っていたように軍艦島であり、石炭などを産出していたもの(エネルギーの創出)も感じさせる。そこはある種閉じられた空間であり、外部との接触がないというのも特徴的だ。

海の向こうに、空に向こうになにがあるのか? というのは島国である日本と重ね合わせることができる。えんとつ町はある真実を隠すために鎖国のような状態になっている。それはゼロ年代の内向きになった日本を彷彿させるし、部外者が入れないオンラインサロンのようでもある。西野さんはそのことを自覚しているからこそ、この町の外に行こうとする少年を描いたのだろう。冒険者はいつも狂人や変人扱いされる。それは彼らが常識では計れないからだが、いつしかその常識を変える可能性を秘めているからこそ、彼や彼女を恐るのだろう。

宮崎駿作品の少年はヒロインがいないと空を飛べなかった(呪われた豚のみが空を飛べたのは皮肉のようだ)けど、ルビッチは自分のアイデアと仲間の協力で飛ぶ。
ゴミ人間のプペルはゴミ(かつての希望や生命力)と父性(息子を抑圧せず後押しする存在として)の結晶であり、ルビッチを見守ってから境界線の向こう側で役目を終える。この作品はそのようなメタファがたくさんあり、何度見ても発見があるだろうし、観た人同士で話ができるものにもなっていて、やっぱり西野さんが時間をかけてやってきたことはすごいなと思った。