Spiral Fiction Note’s diary

ライター&Webサイト編集スタッフ。「水道橋博士のメルマ旬報」で「碇のむきだし」、「週刊ポスト」で「予告編妄想かわら版」、「PLANETS」で「ユートピアの終焉ーーあだち充と戦後日本の青春」を連載中です。

『テレビドラマクロニクル 1990→2020』

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3月27日
成馬零一著『テレビドラマクロニクル 1990→2020』が届いた。連載時からいつも読んでいたものが一冊に。
目次を見ると第1章の最初は「野島伸司とぼくたちの失敗」から始まり、第3章と第4章はゼロ年代と10年代の宮藤官九郎について。

僕自身が野島伸司脚本に影響を受けて脚本をやりたいと思うようになって、流れ流れて今の状況になっているのでピンポイントで刺さる。そして、ここで取り上げられているメインの「野島伸司」「堤幸彦」「宮藤官九郎」が活躍していた時代とは僕らが思春期のころから始まっている。そこから四半世紀を経た現在までの社会との状況と問題にリンクしながら彼らは物語(ドラマ)を描いてきた。
昨日、最終回だった宮藤官九郎脚本『俺の家の話』は一つの到達点に達した。主演の長瀬智也が表舞台から消えることとリンクしながら、見えるものと見えないものを同時に表現していた。そもそも長瀬智也とほぼ同年代であり、『I.W.G.P.』放送時にほぼ二十代前後だったのが僕らであり、ロスジェネの最後尾に位置していた。
クドカンドラマの長年のアイコンのひとりであり、クドカンのある種分身でもあり、ジャニーズのアイドルであり、圧倒的な花をもつ役者が長瀬智也だった。その彼がドラマの中において、いるけどいなくなってしまった。役者としては表舞台からマスクを脱いで去っていった。

木更津キャッツアイ』のぶっさんが余命わずかで死ぬことだけは決まっていたのにレギュラードラマの中では死ぬシーンが描かれずに、それ(遊び足りない青春)がずっと先延ばしされていた。そこから20年近く経って「平成」から「令和」になった2021年に『俺の家の話』で寿一は終われなかったぶっさんとは決定的に違う描かれかたをした。その「終わり」について、どうしても26年を経て終わった『エヴァ』と重ねてしまう自分がいる。
そう、僕らの、ロスジェネの青春は終わったのだ。いや、終わったことに気づかないフリをし続けた、その惰性の年月から目を覚ます時が来たのだと言われているようにも思える。かつて僕らに夢を見せてきた創作がその夢から醒させる装置となって。


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4月11日
『テレビドラマクロニクル1990→2020』の第四章「2010年代の宮藤官九郎ーー東日本大震災後の日本社会をめぐって」を読んでいると当然ながら『あまちゃん』について語られるのだが、放送年の大晦日紅白歌合戦における本当の最終回としての157回はきちんとNHKオンデマンドできちんとアーカイブされていた。
能年玲奈がその名前を奪われてるわけだから、震災10年後に『あまちゃん』は復活することはできなかったんだろうな、ふつうに考えたらやるだろうし。
しかし、「のん」となった彼女はリアル『千と千尋の神隠し』を体現してるんだけど、『あまちゃん』における「アキ」は物語では「シャドウ」の役割を担っていた。それを演じていた彼女は「能年玲奈」であるのに「のん」として生きているわけだから、もはやどちらが「シャドウ」なのか。この混乱は日本の芸能界の問題だけど、『あまちゃん』における80年代を代表するアイドルだった小泉今日子が「のん」の活動を後押ししていく。芸能界の転機のひとつではあったんだろうね。

著者の成馬さんが書かれていたけど、『タイガー&ドラゴン』はクドカンの第一期集大成であり、虎という現実(の生き物)と龍という妄想(の生き物)を現実と落語でうまく構成していた。『木更津キャッツアイ』では野球の表と裏で、『あまちゃん』では三陸(海女)と東京(アイドル)の構造になっている。NHK紅白歌合戦での『あまちゃん』の真の最終回はフィクションであるドラマが現実と混ざる。境界線を越えてくるからこその感動がある。
クドカン作品に出てくる幽霊やある人にしか見えないもの、それは境界線を行き来する表現なんだと思う。
目に見えるものと目に見えないもの。『ゼロエフ』で古川さんが書いたものもまさしくそうだった。だから僕は本を読んだときに『ゼロエフ』に書かれたあの存在はあの時確かに僕らと共にいたのだと思えた。


成馬零一著『テレビドラマクロニクル 1990→2020』読了。「PLANETS」の先行発売で購入したので、書店での発売は23日ぐらいから。
この本においてメインで取り扱われているのは「野島伸司」と「堤幸彦」と「宮藤官九郎」であり、僕がリアルタイムで見続けてきた人たちだ。そのため、ここで書かれている批評に頷きながらも自分のことも思い出していた。

そもそも僕は1995年の野島伸司脚本『未成年』に強く影響を受けて脚本家になりたいと思ったのがそもそもの間違いであり、まさに「ぼくたちの失敗」でもあった。
当時の中二の僕は勉強なんかまったくしていなかったのもあって、『未成年』のラストでモチーフにされた連合赤軍的なものや浅間山荘事件すら知らなかった。この時点で野島伸司は臨界点を迎えていた。同時に擬似家族や仲間内の共同体における暴力が内側に向かえば内ゲバに、外側に向かえばテロになることを描いており、同時代におけるオウム真理教的なものも内包していたと言える。その後、ゼロ年代以降になれば擬似家族的なものを巡る物語は増えていくのだが、野島伸司はその嗅覚によってそれを描くことでどこにも行けなくなってしまった。

僕は『未成年』以降の野島伸司脚本をただひたすら楽しみにしていた思春期を送り、次第に世間とズレていく野島伸司へ違和感をあまり感じずに崇拝していた。野島伸司教と言ってもいい、そのひとつの到達点が『世紀末の詩』だった。
もう、自分の作品を好きだと言ってくれる人にしか向けて書かれていないこの宗教的な作品が当時の僕は大好きだった。『世紀末の詩』のあとに構想されていたという『新世紀の詩』は『世紀末の詩』の視聴率の悪さなども相まって作られることはなかったという。だから、当時の僕は脚本家になったら、『新世紀の詩』というタイトルでドラマを書きたいと思っていた。野島伸司も大学中退だし、脚本家になるのだからという安易な考えで大学も一年で辞めたほどに僕はもろに影響を受けていた。
我が家には第二回ヤングシナリオ大賞を受賞した『時には母のない子のように』のビデオテープがあるがデッキがないので見れないが、そのデビュー作のタイトルから、『愛という名のもとに』の浜田省吾、『高校教師』の森田童子、『未成年』のカーペンターズなどを主題歌に使ってリバイバルヒットさせるが、彼もまた庵野秀明とおたく第一世代であり上の世代のオリジナルと自作の距離感が作品に出ていたと言えるのだろう。

野島伸司は70年代的なドラマなどに影響を受けていて、第一回ヤングシナリオ大賞を受賞してデビューした野島より四歳年下の坂元裕二は80年代のノリノリな時代を楽しんでいた青年だった。この差が90年代における二人の脚本家における地位を決めてしまう。
坂元裕二は96年に脚本家を休業し小説家に転向しようとしたが作品は形にならず、女優の森口瑤子と結婚し子供も生まれたこともあって主夫をしていた。そう書くと彼らと同時に活躍しており、小説家としても評価されていたが自殺した野沢尚のことが浮かぶのだけど、この本では触れられてはいない。

だが、野島伸司が時代とズレていく中で、浮上してくるのが一度は脚本家として死んだはずだの坂元裕二だったというのは興味深い。
近年の坂元裕二は『東京ラブストーリー』の人というイメージはもはやない、『Mother』『最高の離婚』『カルテット』という高く評価される脚本を描き、今年には『花束みたいな恋をした』でヒットを飛ばしている。
野島伸司はずっと「母」や女性やパートナーに対する「母性」を求め続けているような作品を書いていた。それは特に詩集などでは顕著だった。
庵野秀明の『エヴァンゲリオン』におけるエヴァンゲリオン自体がシンジの母のユイによって作られて、エントリープラグが母胎でケーブルがへその緒であるというまさに母胎と胎児の関係性であったこととも近い。

戦後における「父性」の問題とも関係しているのだと思う。庵野秀明が『プロフェッショナル』で語ったような自身の父親との関係性はシンジとゲンドウそのものだが、野島伸司も『愛という名のもとに』や『未成年』で父と息子の対立を描くが、どこか「母性」的なものを求めたり、描くことで逆説的に「父性」の問題を描いてしまっていたようにも思えなくもない。

僕は20歳の時に上京して映画の専門学校に入学する。たまたまだが、卒業生で有名なクリエイターは堤幸彦行定勲であり、ふたりともドラマと映画の『世界の中心で、愛をさけぶ』を作っている。坂元裕二は行定監督『世界の中心で、愛をさけぶ』の脚本をしており、そのヒットで映画では初めてに近い商業的なヒットを収めた。

『未成年』が10月クールで始まるそのひとつ前の7月クールからは日テレで『金田一少年の事件簿』が始まる。堂本剛主演でヒロインはともさかりえだった。演出は堤幸彦
KinKi Kidsは同世代であり、『若葉の頃』や『人間・失格』でデビュー前から見ていたわけで親近感があり、漫画でも読んでいた作品のドラマ化を僕はたのしく見ていた。野島伸司企画『家なき子』は81年生まれの筆頭株の安達祐実主演だったが、このヒットにより日テレの土21時は若者向けのドラマが行けると判断され、『金田一少年の事件簿』のヒットにより、『銀狼怪奇ファイル』『サイコメトラーEIJI』『FiVE』『D×D』『ぼくらの勇気 未満都市』など映像的にも当時のPVなどの要素も入れられた視覚的におもしろい作品が十代向けに作られていった。この枠をある種形づけた堤幸彦はその後、99年にTBSで『ケイゾク』を作ることになる。

世紀末が近づいてきたあの頃、サイコサスペンスや多重人格ものが溢れ始めていた。それは世紀末と来るべきインターネット社会の予見でもあったように今では思えるけど、まだネットは一般的にはなっていなかった。
99年に『ケイゾク』があり、翌年2000年に宮藤官九郎脚本で堤幸彦演出『I.W.G.P.』が放送される。明らかにここで日本のドラマの歴史が変わっていくのだが、当時はただめちゃくちゃおもしろいと友達と言い合う程度であり、その後に宮藤官九郎がこんなビッグネームになるとはまったく思っていなかった。
『I.W.G.P.』が重要なのは、脚本の宮藤官九郎とプロデューサーの磯山晶と演出の金子文紀というのちの『木更津キャッツアイ』を作るチームが出会ったこと、『ケイゾク』のプロデューサーの植田博樹と『SPEC』の流れができ、また、堤幸彦は『TRICK』に向かっていく。

野島伸司教だった僕も『I.W.G.P.』を普通にたのしんでいた。徐々にそちらに寄せられていっていたのだが、上京したのは2002年でありその年に放映されたのが『木更津キャッツアイ』だった。
2002年1月クール放送だったので僕は2月ぐらいの途中から上京して残りを東京で見たわけだが、ここではのちに「マイルドヤンキー」と呼ばれる地元で仲良く高校までのカーストのままつるむ仲間たちが描かれていた。
カーストの上位なんかにいなく、下の方で下の方の友人と大学辞めてから戻っての一年の間は遊びながらコンビニの弁当工場で働いていた僕は、その生温いほどよい生活はこのまま続けていたらヤバイとも思っていた。
結局、上京してもモラトリアムを延長させるだけになるわけだが、日本中が「郊外化」していく中で地元は「郊外」とも言えないほどの田舎だったけど、その感触だけは肌感でわかっていた。
そして、ゼロ年代初頭はまだ東京への憧れが存在しており、ようやくミニシアターで何ヶ月も待っていなくても新作映画を観ることができた。それが田舎から上京してきたちょっとサブカル好きな人間には東京にいる、いたい理由にすらなった。それを小説としてきちんと描いたのが山内マリコさんだった。

宮藤官九郎の飛躍と同時に、大人計画やほかの小劇団系の役者さんたちもドラマや映画に活躍の幅を広げていった。当然ながら「大人計画」にも興味を持つようになって舞台を観に行くようになったが、その時点でもチケットがなかなか取れない人気劇団だった。何度か観ることができて、そのたびに主宰の松尾スズキの才能はヤバイと思わされていた。
三茶に住み始めてからは当時、三宿松尾スズキは住んでいたのでよく見かけた。その度に目が合うと「お前は俺のことを松尾スズキだとわかっているな、声かけんなよ」オーラが凄まじかったので一度も声をかけたことはない。

『テレビドラマクロニクル 1990→2020』では宮藤官九郎を取り上げるためにもちろん松尾スズキと「大人計画」についても触れている。旧劇と新劇の違いから70年代の寺山修司唐十郎、80年代の野田秀樹鴻上尚史たち、そして松尾スズキ平田オリザの話もわかりやすく書かれている。
平田オリザにはある種後継者やフォロワーの戯曲家たちがいるが、「大人計画」と「劇団☆新感線」はあまりにも独自な路線でありながらも商業的にも成功しており、真似しにくいフォロワーができにくいという側面もあったという話。
2005年の岸田國士戯曲賞宮藤官九郎鈍獣』と岡田利規 『三月の5日間』が同時受賞している。これは松尾スズキ平田オリザの後継者であるふたりが取ったことでさらにそのふたつの流れが加速していったようにも見える。

『三月の5日間』は一度しか観ていないが、演劇における身体性の流れはあったし、それは小劇場系で続いた。そして、宮藤官九郎がドラマで描くのは「マンガ・アニメ的なリアリズム」とも言えるキャラクター的な身体を俳優に演じさせるものであり、大塚英志が名付けた「アトムの命題」的なものと「アイドル」としてどこか成長しないでほしいと思われているジャニーズ事務所のタレントとの相性もよかった。
もともと松尾スズキ赤塚不二夫に憧れていてギャグ漫画家になりたかった人だった。そういう部分もあるのかもしれない。また、松尾スズキ庵野秀明とも年齢が近いが、父親が早くに亡くなっており、遺伝的に早死にだという強迫観念があった。そこにハゲも加わる。が、松尾スズキはどちらかというと髪は薄いが異様な魅力があって女性にモテる。
「あのお、すごくカッコいいんですけど何をしてる人なんですか」みたいなことを言われたということをエッセイで書いていたがそれもなんとなくわかる。
松尾スズキが描く作品はなぜ生まれたんだ、なんで死んでしまうんだ、世界はこんなにも不条理だという怒りやそこから生まれるエネルギーがエロや暴力となって描かれている。そのせいか、確かに松尾スズキは町で見てもなにかが溢れ出ていた。
大人計画」の異様な存在感は主宰で演劇界における重要人物となった「第一の男」である松尾スズキ、『I.W.G.P.』から日本のドラマ界を変えてしまい、NHKの朝ドラと大河ドラマの脚本を書くことになった「第二の男」である宮藤官九郎、そして、ミュージシャンであり役者でありラジオも文筆もこなす「第三の男」である星野源がいるということだろう。

本書では「SMAP」がいなくなったあとに星野源がその役割をひとりで負っているような存在感を放っているとあるが、星野源菊地成孔が言うように「ひとりクレイジーキャッツ」である方が正しいのだと思う。
戦後日本の芸能事務所の始まりや現在の大手の事務所の創業者がミュージシャンから始まっていること、お笑い芸人やアイドルがテレビを席巻するまえにテレビにおける音楽番組とバラエティの基礎を作ったのがバンドマンだったのはただの事実であり、『おげんさんといっしょ』が原則的に生放送であることもある種のテレビの黎明期への先祖返りでもあるが、テレビの可能性のひとつでもある。ただ、それを民放ではなく国営放送であるNHKでしかできないことが問題なのだろうけど。
星野源というミュージシャンであり役者がいることで「大人計画」は他に類を見ない劇団となっている。

宮藤官九郎はもともとビートたけしに憧れ、『ビートたけしオールナイトニッポン』のヘビーリスナーであったことでビートたけしの相手であった高田文夫のような放送作家になろうと上京して日芸に入ったが、松尾スズキと出会って演劇にいった人だった。
落語を盛り上げたいと思っていた高田文夫宮藤官九郎にパルコ劇場抑えるから三本くらい落語を書いてくれと依頼され、一年後に『タイガー&ドラゴン』の企画書を持ってきた。
宮藤官九郎長瀬智也岡田准一というジャニーズのアイドルが落語をすることで世間は驚くでしょと高田に言ったという。そして、2005年に『タイガー&ドラゴン』は正月SPを一度放送してから4月クールから連ドラが開始された。もちろん落語家さんたちのそれまでの努力や切磋琢磨はあったから土台はできていたのかもしれない。だが、このドラマが確実に現在の落語ブームと客層の変化に影響を与えている。

僕はこのドラマのあとぐらいに連れて行かれて春風亭昇太師匠の落語会を見にいったが、おもしろくなくて全然笑えなかった。観にきている八割は若い女性だったけど、彼女たちはほんとうに面白いと思っているのかは疑問だった。
その後、 ZAZEN BOYS立川志らくの対バン形式のライブがあり、 ZAZENの演奏後に彼らの音楽が出囃子となって志らく師匠の『らくだ』が始まった。渋谷公会堂の満席の客席は爆笑の渦に包まれてわきにわいた。この時、落語ってめっちゃおもしろいじゃんと思った。

立川流は「本書く派」とも言われ、「水道橋博士のメルマ旬報」でご一緒している立川談慶師匠や立川吉笑さんなども著書を書かれているが、立川談春師匠『赤めだか』と立川志らく師匠『雨ン中の、らくだ』が大きかったと思う。志らく師匠は「M-1」審査員を談志師匠同様に落語家としてつとめ、毀誉褒貶はあるがテレビのモーニングショーの朝の顔を務めて全国区となった。
『赤めだか』がドラマ化もされたことで落語人気にさらに追い風を吹かせた。ドラマでは立川談志師匠をビートたけしが演じた。でも、弟子最強説を考えると談志師匠の弟子であったのに辞めてビートたけしの弟子となったダンカンだろうと思うのだが、ドラマではビートたけし演じる立川談志が立川談かんにビートたけしに弟子入りするのを許すというメタフィクション構造になっていた。

その後、宮藤官九郎脚本『いだてん〜東京オリムピック噺〜』ではビートたけし古今亭志ん生を演じる。ビートたけしが蒔いた種の一つが巡り巡ってきているのもすごい。
震災後の表現としてテレ朝で放送していた『11人もいる!』では、前妻で死んでいるはずのメグミ(広末涼子)が見えるのが現在一家の母である恵(光浦靖子)と父の実(田辺誠)との間にできたひとりだけ他の兄弟と腹違いの才悟(加藤清史郎)だけであったというのは実はリアリティがある。この二人だけがメグミが亡くなる際に看取っておらず、死んだのを見ていなかった。
被災地と幽霊というものは震災後に幾度と語られている。ただ、宮藤官九郎の擬似家族や共同体はもはやその幽霊さえも受け入れる、しかも彼女がその二人に見えなくなってもいるという前提の家族像だった。それは多様性を求めるといいつつもひたすら正義の名の元にいろんなものを排除して、正しいものが正しいという自粛警察とは反対のベクトルでもある。

あまちゃん』では主人公の「アキ」が「シャドウ」の役割でありつつ、物語においてはかつてアイドルを目指した母の春子の「生き霊」のような18歳の春子的な幽霊(鈴鹿の代わりに歌ったことでデビューできなかった)が物語に見え隠れする。それは物語においてそれは排除されるのではなく、春子や鈴鹿ひろ美や「潮騒のメモリーズ」に歌われることで成仏していく構造であり、最終的には年末の生放送の紅白歌合戦でそのドラマにおけるフィクションが現実の歌合戦を侵食し統合された表現となって完結した。
アナログ放送が終わり、デジタル放送開始の時に僕はテレビを捨てたのでその後数年はリアルタイムでドラマを見ることがなくなっていった。
結局、2015年頃からパソコンでTVerのおかげでドラマも見えるようになったし、『SPEC』シリーズの続編である『SICK'S』を見るためにParaviを契約したのでTBSとテレ東のドラマは見れるようになった。そのふたつのおかげで野島伸司坂元裕二を輩出したヤングシナリオ大賞出身にも関わらずにフジテレビではその才能を活かすことができずにTBSに活動の場を変えた野木亜紀子作品や坂元裕二『カルテット』なんかはテレビがなくても見てたのしめた。

そして、2021年1月クールの宮藤官九郎脚本『俺の家の話』も充分満喫できた。いろんなものの終わりを感じさせるものでもあり、この20年の一つの区切りや「平成」がようやく終わっていくのを『シン・エヴァンゲリオン』同様に感じさせてくれた。
タイガー&ドラゴン』で落語ブームは来たが、『俺の家の話』によって能ブームはくるかと言われると今のところは微妙だ。しかし、『平家物語』現代語訳を古川日出男がしたことで創作された外伝的な『犬王の巻』という小説がある。この作品の主人公は世阿弥のライバルだったとされる犬王であり、アニメーションで湯浅政明監督×野木亜紀子脚本×松本大洋キャラクターデザインで今年映画公開される予定になっている。また、『モーニング』では能を取り上げた『ワールド イズ ダンシング』という漫画も始まった。すぐにではないが何年かすると能も新しい変化や躍動が訪れるかもしれないという予感はさせる。

リアルタイムで追いかけてきた人たちについて書かれた評論なのですごく楽しく読んだのだけど、同時に彼らの時代が長かったことで、下の世代であまり突出した存在が出てきていないのでは?という疑問は出てくる。もちろんかつてなら脚本家になっていたかもしれない才能が違うジャンルへということもあるのだろうけど、ここまで時代の流れが反映されてしまうジャンルで、しかも大衆の多くの人が基本的には無課金で見れるというのはテレビのドラマぐらい。ただ、それも終わろうとしているとなると、細分化されていくとますますそれぞれのジャンルで閉じてしまって、なにが起きているかわからなくなってしまう。


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4月16日
成馬零一著『テレビドラマクロニクル 1990→2020』で取り上げられた堤幸彦演出作品である『TRICK』シリーズ。アマプラにあるのでシーズン1をBGM代わりに流しながら作業。
貧乳山田と巨根上田コンビが事件を解決していく。犯人は自称超能力者であり、上田たちや警察に謎が解けるか挑戦したりもする。売れないマジシャンである山田と自称超能力者たちの戦いは、シリーズが増して劇場版が増える毎に反転しはじめる。そもそも山田がシャーマン的な能力の血を継ぐ存在だった。偽物をマジシャンとして、上田の協力もありつつ見破っていくのに、当の本人が本物であるという事実。オリジナルとフェイクをめぐるものは庵野秀明堤幸彦たち世代には大きなものであった。

シリーズ自体が長期に及んだこともあり、本物と偽物をめぐる問題は、偽物だらけになり、もはやオリジナルの価値を見いださず崇拝もしないネット社会においては置き去りにされる。そして、その超能力者たち同士が戦い、国家すらも越えていこうとするなかで国家権力である警察が向き合うことになるのが、『ケイゾク』の魂的な続編『SPEC』シリーズだった。堤幸彦作品のバディは恋愛関係ではなく一個の個人として認めあえる関係性になっていくものが多い。

ケイゾク』『TRICK』『SPEC』という流れで見ていくと作品に漂う空気感として、同時代のネット的なものがあり、それまでの本物と偽物や歴史という時間に対しての考え方が反転してくのに呼応するように「超能力」者たちの戦いとシステムの問題が露になり、それぞれが抱えて信じる「正義」がぶつかりあい、負けたものは歴史の闇に消えていく。その真面目さに抗うように堤幸彦は作品の中で必要以上にくだらない小ネタにこだわり、謎に笑えないものをぶちこんでいく。
『SPEC』における餃子マンとかをあえて入れないと気が済まないところに彼のナイーブさとあまりにも真面目になりくさって相互監視していく社会に唾を吐き続けていたようにも見える。しかし、それはあまりにもわかりにくい表現でもあるのだけど。
TRICK』を見直すと出てくる人たちにすでに亡くなった方がたくさんいて、不思議な気持ちにもなる。