バルト9で初日の10時10分の回。6割ぐらいかもっと少ないかそのぐらいの客数。まあ、新宿だけでもTOHOシネマズ新宿、ピカデリー新宿でもやってるだろうから。
監督である北野武さんのインタビューでも読んだが、主演は武さんになっているが、実質今回の主役は西田敏行さんだろう。構図としてヤクザの世界も一般の会社のようにそれぞれの思惑があり、裏切りや疑心暗鬼、利用する人とされる人、信用があるかないか、義理と人情、使い捨てのことが目まぐるしく回ってくる。巻き込まれた時にいかにうまく立ち回るかだけを考える奴はソッコーで振り落とされて冷や飯を食う、まるで元民進党の前原みたいだが。確かに先を見るというのは難しい、そして知らない間に動いている人間によってオセロで勝てると思ったのに、全てがひっくり返されるようなことは起きうる。それを群像劇のエンタメでやるって作品。
今作は最後にケリをきちんとつける終わりかただった。エンタメをしてきちんと今回で終わらす意志と共にあるのが伝わる。インタビューでもたけしさんが言われてたけど銃撃がなければサラリーマンとか日本の会社や組織の話に置き換えて見れるはずなので人ごとではないはずだ。片をつけるのはそこから外れた野良、あるいはアウトサイダーの義理と意志だけ。
昨日、野良であること、ある種の野生みたいなことについてニコラで曽根さんと話してた。というかわりとそういう話をよくする。いろいろ話をしてたんだけど、僕らはそういう野良的な人の影響を受けてるし、そういう所にいるっていうのは多分気が合う部分だと思う。権威主義みたいな所からはそもそも外れてる。つまりエリートじゃない。曽根さん料理の師匠は英文科出てる元ロッカーで30すぎて料理人になった異端の人。曽根さんと話しててカズオ・イシグロは僕ら好きじゃないねって話で一致した。なんかダメなんだよなあ。
そういえば高校の先輩である「千鳥」は吉本でいうとほぼ最後ぐらいのNSCに入学していないのに所属になって売れた人なんじゃないかな。師弟関係から芸人になっていた時代のカウンターとしてNSCができた一期生がダウンタウンだった、そこから革命が始まってしまったらその流れが当たり前になって、学校に入らないと芸人になれなくなってしまった。ダウンタウンというお笑いの構図を変えてしまった存在へのカウンターはそこの学校制度からはやはり出てこない。
キンコンの西野さんのように芸人という存在をアップデートする、そこから見方を変えて違う価値観で再定義しないと対抗できない。だけど、その制度の中でずっとやってきた人たちからすると理解しづらいのだろうし、反発を生むのは仕方がないんだろう。
師弟は一対一の関係で師匠という指針があり、師弟関係をどう引き継ぐのかあるいは違うものを自分なりにやっていくかというものだと思うんだけど、学校出た人たちが主流になると部活動の延長線みたいなものは出ちゃうし、同期みたいな横の関係と先輩後輩という縦の関係のX、Y軸みたいな中にあるような気がする。そこではやはり様々な人間関係に気を使ったりパワーバランスの中でやっていくしかない、まあ学生時代のカーストみたいな、普通の社会と同じなんだろう。
テレ東で朝やっていたビートたけしさんの番組は生で見れなくてネットでずっと見たんだけど、たけしさんという師匠の横にいる水道橋博士さんを見ていると本当に嬉しそうだし幸せそうで、そこに因縁の相手でもあり同じくビートたけしの影響を受けた爆笑問題の太田さんが同席しているという星座をまざまざと見せられてロマンがあるなって思ったし、時間が経つことでしか見せれないものがあるのだと思う。師弟関係というのはその関係性の宇宙がすべてなので普通の社会ではないというのが今、学校みたいな場所から出ていくのが当たり前になってくるとより強みになっていくのかなって思う。とくに芸人さんにおいては、師匠と弟子という関係性、それが繋がっていくという時間軸を含めていくと歴史があるわけだから。
曽根さんとお借りしていた寺山修司の競馬のエッセイを読んでいて、馬も血統があって父と子が騎手な人たちもいて、そこにはやっぱり歴史ってものだったり引き継がれていくものにロマンみたいなものを感じてるって話をしていたのでそんなことを考えた。野良とか野生ってものがどんどんなくなっていく時代なんだよなあ。
http://video.tv-tokyo.co.jp/ohayo_takeshi/episode/00063138.html?sc_cid=ntm_twi_ofc_gc