Spiral Fiction Note’s diary

物書き&Webサイト編集スタッフ。

『ハクソー・リッジ』


 『ハクソー・リッジ』鑑賞。銃を持つことを拒否した衛生兵の実話。監督のメル・ギブソンキリスト教に関するモチーフで作品をいくつも撮ってるんだよね、たしか。
 信念と現実の解離、やがて彼を否定した人たちが信念を持つ主人公に救われることはになる皮肉すらも。
 観ながらずっと死なないでくれ、殺さないでくれと思い、かつて沖縄でそれがあった現実と今の僕らの世界についての思いが溢れてきた。なにかが歪められるときに周りに流されないなんて難しいかもしれない。
 フィクションで描くことの意味を考える。誰かの絶望も希望も美しさも醜さも扱い方、表現次第だろう、なにかを創る側にいようとするなら考えないなんてことは無理だし、かつて大政翼賛会はメディアミックスを先駆けて行って利用したはずだし、意識してないと知らないうちに加担してしまうかもしれない。当たり前だけど創作や表現は政治的なんだよなあ。
 わかりやすさや気持ちよさだけを求めた先には、批判されたらそれは敵認定するだけになって、わかりあえない他者は排除することで自分や同じような側しか見ないし守らない。
でも、文学てほんらいは他者が入り込んでくる気持ち悪さとかと向き合うっつうか、わかりあえないとしても自分とは違う人間や価値観とかあって、わかりあえないことを理解するだとか多様性があるみたいなことだったんじゃないの。
 僕は小説読んで泣けるとかそんなもん求めてないし、サプリメント代わりなもんなんて求めてなかったよなあ、悲しいシーンや誰かが泣いてたりしたら条件反射で泣くことはあるけど泣いてデトックスみたいなことは必要としてないし。
 こんなことを書いてて岡崎京子さんの漫画が好きなのはあの人は読者に寄り添わないし描きたいことを描いてたからだよなって改めて思った。読者をときには拒絶するぐらい、きちんと他者として読み手に向かい合ってたよね。
 たぶん、メルマ旬報で書く岡崎さんについての軸はそこにあって、共感を求める時代において岡崎京子作品を読むことについて僕がどう思うかってことなんだと思う。僕は同じユニフォーム着て応援とか同じ国だからって応援するとかしたくないんです。したい人はしたらいいんですよってずっと思ってる。だけど、そうじゃない人のことはそういう人は場がしらけるとか受け入れないのってどうかと思ってる。そういうのはわかりやすいから例に出したけど、そういうことなんだよね。「私は好きにした、君らも好きにしろ」っていうのがよくわかるっていうか。
 だから、岡崎さんの描いていた時代や場所とはポップさがあったけど、その内面というか実は個が個であるということと向き合うってことだったんだと思うんだよなあ。メモがわりに。