Spiral Fiction Note’s diary

物書き&Webサイト編集スタッフ。

『赤めだか』

 立川談春著『赤めだか』読み終わった。出てくる「修業時代とは矛盾に耐えること」という部分は宮藤官九郎脚本『ごめんね青春!』での「腑に落ちないくらい我慢しなさい!青春なんだから!」に通じている気がした。
 修行≒青春時代が過ぎた後は矛盾だらけで腑に落ちない世界で一人前として大人として生きていかねばならない。落語とは人間の業の肯定だと談志師匠は言われたそうだ。がんばったらなんとかなるわけでもない、かと言って一生懸命やることを誰かが否定することもできない。
 落語が人間の業の肯定だとすると小説って人間の業について知ろうとして潜っていくものなのかもしれない。『赤めだか』を読みなよとオススメしてくださった窪さんの『さよなら、ニルヴァーナ』最終回を読んだ後だったから自分の中でリンクしているのもあるが、オススメしてもらった理由はわかる気がした。
 立川流が本格派≒本書く派って言われるのは談志師匠一門の落語家さんが本を書いて出しているのは師匠譲りだとしても、噺を50席覚えないと二つ目になれないとか徹底的に落語を覚えて基礎をみっちりやる、噺のリズムを獲得するという前座修行で文体のリズムを体で覚えてるから書けちゃうんじゃないかな。
 師弟関係ってほんとうに不思議だなって思って。師匠に惚れて弟子になっていろんなものを引き継いだり教えてもらったりしながら師匠のコピーからやがて自分のオリジナリティーでアレンジしてまさしく守破離。魂を引き継ぐっていうか。



 今はお笑いでもまあNSCとかで一期生がダウンタウンで彼らが時代を完全に作ったこともあって師弟制度から芸人になるということから学校に行って芸人になるっていうのがもはや当たり前になってしまった時代で。当然いいことも悪いこともあるだろうなと。
 ダウンタウンの二人は師弟制度から芸人になろうとしたら今みたいにはきっとなれなかったような気がするし、師匠をもたない芸人として最初だったからこそそれまでのやりかたにケンカを売りながら戦って勝ったからこそ手にした者や下の世代に与えた影響力はハンパなかったと思う。
 で、それが波及して一般的になると学校出て芸人になる方法が主になるからみんな学校に行ってという流れになる。でも、学校にはお金払えればたいていの場合行けるのであって卒業してもどうにかなるというわけじゃない。僕らだとそれが当たり前になっていた時代。
 映画学校に行っていた僕もだけど通過儀礼みたいに二年行って卒業はできる。だけどけっこうな数はそっちの業界には進まなかったりする。夢を追っている自分があってそのモラトリアムな時間を過ごすといい想い出ってことで映画とか作り手にならなくていいやってなる。
 学校は夢追い若人がいれば金になるし彼らがその業界を担う存在にならなくても問題はない。毎年そんなやつらがやってきては出て行くだけ。僕もなんにも考えてなかった。本当に業界に入りたい奴は学校来なくても現場に行ってたりとかしてたもん。
 エンタメの世界が学校に入ってというのが当たり前になりすぎてしまった時代だからこそよけいに師弟関係というたぶん、愛に近いような関係性で師匠のいうことが正しく自分だけを見てほしいっていう関係性が異質に見えて羨ましいと思えるのかもしれないと思ったりする。

赤めだか

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