Spiral Fiction Note’s diary

物書き&Webサイト編集スタッフ。

『さみしくなったら名前を呼んで』

これが

こうなって

こうなる


 山内マリコさんの新刊『さみしくなったら名前を呼んで』が出ていた。この装丁とタイトルといい、やっぱりいいなと思う。タイトルも流れで言えば一作目『ここは退屈迎えに来て』、二作目『アズミ・ハルコは行方不明』、三作目『さみしくなったら名前を呼んで』と繋がっているような感じだし意識されていると思う。


 ここは退屈だから迎えに来て〜って言われていったら行方不明になっていてさみしくなったら名前を呼んでと来るのだから。やっぱりズルいなあと思う、山内さんは。このズルいはセンスあっての意味であるが。
 『ここは退屈迎えに来て』の文庫が出た時に大盛堂書店さんでのいちおし文庫フェアにこの小説が選ばれて僕はフリペにコラムを書いたのだけどそのフリペもなくなっていたので今回新作も出た事だし転載しときます。この新刊読むのも楽しみだけど積読本がたまりすぎてやばい。

 


山内マリコはズルい』
 山内マリコはズルいと思う。思っただけなので山内さんに怒られたらすいませんと謝るけど、ごめんなさい。デビュー作『ここは退屈迎えに来て』、二作目『アズミ・ハルコは行方不明』を読むとやっぱりその思いは加速する。R-18文学賞・読者賞を受賞して四年後にデビュー作が刊行されたので順調じゃねえしと言われるのだろうが出た当時にすでに話題になっていたのですぐに読んで思った。ああ、この人はなんかえらいとこに行くわって。
 2011年の東日本大震災の後に出されたこの作品にある空気は地方から上京した著者の身近であり知っている風景(この国のロードサイドの景色はほぼ代わり映えがしないために固有名詞があってもないようなもの、歌で言えば浜崎あゆみコブクロの詞のような世界)と山内さんが最低限のサブカルクソやろう(限りなく褒め言葉です)であることがわかる固有名詞が僕には比較的馴染みのあるものが多くて、遠くの親戚よりは近くの他人という感じで親近感が沸いた。
 と同時にいわゆるサブカルクソやろう共がこの作品を読んで共感してめっちゃ褒めるだろうことも予感せずにいられなかった。これは二作目『アズミ・ハルコ〜』で使われるグラフィティアートを始める理由が覆面芸術家であるバンクシーが監督をした『イグジット・スルー・ザ・ギフトショップ』を観たからということや物語に出てくる少女ギャング団が結成された理由と言うか成り立った経緯が読み始める時にまさかなと思ったら最後にやっぱりそうだったから一瞬本を投げようかと思ったのは事実だが、どっちもシネマライズでやったやつやんけ!というミニシアター文化というものを受容した最後の方の世代にあたる山内さんや僕なんかからすれば東京でミニシアターの老舗はシネマライズというのはあるので、ぬおおおおおお〜やられたぜということになるわけで、山内さんの策略というかそういう固有名詞使いにまんまとやられてしまった。これは僕よりも上の世代にはもろにズッキュンな直球でやられちゃうんじゃないの?と思っていたらけっこうみんなやられていた。おそるべしマリコ
 椎名という『ここは退屈〜』に出てくる彼こそが山内マリコ自身なんじゃねえのと思ってしまうのは彼の存在は彼女たちの中で忘れがたい存在であるからだ。手に届かないけど微妙に身近な感じがするとか、スター性といえるものを生来持ち合わせている感じは実際の山内さんを見て思う事に通じる。この人絶対に文化系にモテるっていうものが、ゼロ年代本谷有希子的ななにかがある。しかも自意識をきちんと処理して不自然さがない笑顔とか話し方とかたくさんの書店員や読者が虜になってまうw
 R-18文学賞で道を切り開いているトップランナー窪美澄さんだと思うが山内さんはその道をひょいと滑走路にして飛び上がっていきそうな感じである。空キレイーとかいいながら違う景色を見せてくれそうだし、やっぱりズルい。

アズミ・ハルコは行方不明

アズミ・ハルコは行方不明

さみしくなったら名前を呼んで

さみしくなったら名前を呼んで