Spiral Fiction Note’s diary

物書き&Webサイト編集スタッフ。

『蟹に誘われて』

 毎週木曜日パブロフな犬だった『週刊 藝人春秋』ついに最終回。最後は岡村ちゃんこと岡村靖幸さん。メルマ旬報フェスで樋口さんが言っていた高尾山話が博士さん側から。博士さんの文章と江口さんの挿画が毎週木曜楽しみだった。本当にお疲れさまです。あとは一冊の書物に綴じられるのを待つのみ。


 休憩中にいただいた図書カードの残りでニコラの曽根さんにオススメされた柚木さんの新刊『本屋さんのダイアナ』となんか表紙とタイトルに惹かれたpanpanya著『蟹に誘われて』を。冒頭しか読んでないけどつげ義春好きにはたまらない感じだわ。で『蟹に誘われて』読み終わった。
 日常と非日常の狭間に迷い込んで半身がどちらにも行き来しているような幻惑的な感じ、シュールといえばそうなのかもしれないしつげ義春作品を読んだ時に感じるものにも近しい。読んでてああ、これ大好きだって思ったし、マンガというか絵で表現するからこその湾曲した世界だとか鯉のぼりが気になるとかそういうものが意識的に表現されているように思った。


奇妙礼太郎の新バンド「天才バンド」、初アルバム『アインとシュタイン』からPV公開
http://www.cinra.net/news/20140424-tensaiband
↑『天王寺ガール』『君が誰かの彼女になりくさっても』が収録されてるだけでもう買うわ。


天才バンド / 君が誰かの彼女になりくさっても


「ただようまなびや 2014」開催ということでわたくし今年も二日間行きますよ、去年の古川さんの講義もよかったけど違う先生の講義も大友さんとか音楽のも受けたいしと今から思ってます。
 去年『ただようまなびや』に行った時のことをメルマ旬報に書いているのでそれを再録します。これ読んで興味思ってもらえる方が少しでもいれば嬉しいです。
↓『ただようまなびや 文学の学校』公式サイト
http://www.tadayoumanabiya.com/


水道橋博士のメルマ旬報』vol.21 『碇のむきだし』より

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私たちはどうしたら「自分の言葉」を持てるでしょうか。2011年3月11日の東日本大震災の発災後、たとえば福島県はただひとつの大きな悲劇に見舞われたかのように語られています。実情はそうではありません。それぞれの立場で、みんなが、それぞれの暮らしのために日々を過ごしている。そこには前向きな戦いもあれば後ろ向きの苦闘もあるし、また、数々の小さな喜びすらあります。こうした当たり前のことを伝えるためには、私たち一人ひとりが「自分の言葉」を発信できなければなりません。そのために開校される文学の学校が、この『ただようまなびや』です。文学の言葉は、単に教科書や本に詰めこまれているだけではありません。日常を離れて、物語る言葉、歌う言葉、外国語から訳される言葉、社会の成り立ちを分析しようと試みる言葉、そうした全部が「あなたの文学」なのです。確固不動とした校舎もないこの文学の学校に、どうぞ、この夏の一日か二日のあいだ、ご入学ください。
『ただようまなびや-文学の学校-』学長・古川日出男あいさつより

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2013年8月24日と25日の両日に福島県郡山市で行なわれた『ただようまなびや-文学の学校-』(http://www.tadayoumanabiya.com/)に行ってきた。初めての東北の地だった。
天候は晴れていて東京よりも涼しく感じたのはたぶん湿気があまりなかったせいだと思う。夏の終わりに差しかかっていたが、蝉の声は意識の中ではさほど聞こえなかった気がする。でも、実際は確かにBGMとして聞こえていたけど意識はそちらにあまり持っていかれずにいた。
ただ、それは日常世界の一部として響いていて教室と呼ぶべき場所で先生たちが話す声、隣りや外で講義をする声と交ざり合ったのどかな風景の、たとえば実家に帰って夏休みに部屋で寝転んでいると聞こえる外を走る車の音だとか歩いている親子の話し声だとか、そんなものと一緒にただ聞こえている蝉の声のように、存在していた。
僕の意識はその教室で話される声やお会いして話していた人の声に超指向性マイクのごとく向かっていた。だから、蝉の声はあまり聞くことはできなかった東北の二日間について。


土日に休みを取って郡山を目指した。東北に行くのは初めてだったから距離とか時間の感覚はわからなかったので早めに家を出た。渋谷から埼玉県大宮まで出て、新幹線のやまびこに乗って学校が開催される郡山まで向かった。そこは今回の『ただようまなびや』の学長でもある小説家・古川日出男さんの地元だった。
渋谷―大宮、大宮―郡山は一時間ほどずつで近いんだというのが最初の感想だった。僕は岡山県広島県の県境の出身なので新幹線で帰る時は岡山や新倉敷ではなく広島県の福山という駅で降りて折り返すように県境を越えて少し戻る。新幹線だけでも三時間以上はかかる。その距離感が染み付いているので明らかに東京と郡山は近いと感じられたし、東北の人が東京に出てくるという感覚がなんとなく身体的にわかった気がした。まあ、郡山は東北といっても東京にかなり近いのだけど。一番大きな大都市が東北出身の人からすれば東京なのだから、というのも認識としてはわかってはいた。文化的な背景もあるのだろうし、それが一番大きいのかもしれない。
僕の個人的背景で言えば岡山弁と広島弁の言葉のニュアンスはどちらの部分も交ざり合っていた気がする。おまけに「吉本新喜劇」は放送されて幼い頃から見ていた(僕の中で小さい頃に見ていて新喜劇の人で覚えているのは花紀京さんや岡八郎さん)ので関西弁のニュアンスも聞いていた。
祖父と兄は阪神タイガースファンで父と母はジャイアンツファンだった。広島カープファンではなかった。ご飯で出るお好み焼きは広島風ではなく大阪風をおたふくソースで食べていた。永ちゃんばりの成り上がり指向と関西からの文化的な享受があまりないのか広島の人は東京に行く、岡山の人間はだいたい関西か遠くても名古屋辺りで東京に出てくる人もいるけどそちら方面よりは少ないと感じるし、実際に東京で広島出身者にはよく会うが岡山出身者にはさほど会ったことがない。
地元を離れて新しい場所で暮らして行く時には地元の方言は封鎖される。東京では標準語になるし、新しい土地に馴染むために、受け入れてもらうためにはその土地の言葉になっていく必要がある。「ただようまなびや」の講義の中の座談会で音楽家大友良英さんが東京行くと福島弁で話せないよねと言われていたように。
土地によって言葉は変わる、つまり思考は変わるんだろう。となると関西の人が東京でも関西弁を使い続けるのはさんまさんなどの芸人さんがテレビで活躍したことで関西弁はカッコ良くて面白いというのを全国的に知らしめて広めたからであるのと、それは明らかに文化的な侵略ではあるのだけども、関西弁を使い続ける人はその染み付いた思考性を土地によって変えるつもりはさらさらないということの証明でもあるのかもしれないというと聞きながら思っていた。そう考えると北野武監督『アウトレイジ ビヨンド』での関西ヤクザとの抗争が実は関東漫才vs関西漫才の縮図であり関西勢が関東勢をじわじわ追い込んでいく様もやっぱりそうなんだろうなとも思える。



郡山駅は大きかった。駅前はバス乗り場があってここから市内へと行けるようになっていた。鉄道とモータリゼーションかあ、などとNHK朝ドラ『あまちゃん』の大吉さんが言いそうな事をなんとなく考えながら駅前のベンチに座って持ってきた小説を読んでいた。どうやらスタッフらしき人がいたので手続きをして初日の講義などをするデコ屋敷本家大黒屋行きの特別運行のシャトルバスに乗った。
駅前から二、三十分ぐらいの場所だった。次第に景色は懐かしいと思えるものになっていく。僕の地元でも変わらないような家や工場やなにかの跡地なんかと緑、大きな川が流れていた。看板には白鳥来産地と書かれていた。6月末に代官山ツタヤであった古川さんのイベントで古川さんが二十数年前に郡山を出てから白鳥が来るようになったと言われていた場所なのだろうとバスの窓から見える大きな川を見ながら思った。





バスが着くとスタッフの方々に迎えてもらって「開校宣言」がされる黒い大きな屋根の建物に向かう。学長・古川日出男さんが「開校宣言」の挨拶をした。
その中で主体性のこと、他者が見ているものではなく自分で発見できるもの、その糸口にこの学校がなってくれればいいと。その後先生の自己紹介が各自あった。
古川日出男(小説家)、柴田元幸(翻訳家)、川上弘美(小説家)、大友良英(音楽家)、吉田紀子(脚本家)、開沼博社会学者)、吉増剛造(詩人)、SHINCO(from スチャダラパー DJ・トラックメイカー)、ロボ宙(from 脱線3 MC・ラッパー)、浜田真理子(シンガーソングライター)といった面々のご挨拶。
柴田さんは翻訳家として「自分」の言葉、文学とは反対の話になるだろうと言われ、川上さんは古川さんとニューヨークでばったり会ってから縁ができて此所にと、大友さんは自分はにぎやかしで言葉ではないことをやると言われていた。
そのまま一階の奥の間にて開校記念座談会(柴田元幸×川上弘美×開沼博×古川日出男)「県境を越える文学」を。


以下座談会メモから
震災後、福島はふたつの見方がある。特別であるor特別ではないの二つ。
言葉の生まれる所、いろんな言葉←環境が違う。
特別な場所/言葉は変わるか?
「なんで英語ってあるの?」柴田さんからノーム・チョムスキーの言語の深層は同じであるという話。
言葉は同じだ。言葉は違うが人間は同じだ。この二つを行き来する。
書く 縦・横、左・右、環境、都市性、文化。
カニとエビの違い。


川上さんが車でここまで来るまで同じ車に乗っていた開沼さんの事を誰だろうと思っていた。スタッフに紹介されて開沼さんだとわかると雰囲気や気持ちが変わった。著書を読んでいると(文章を知っていると)本人を知っているような気になる。その人だと認識すると言葉が変わる。←距離感が一気につまる。
開沼「外から福島のことを言われるのはうざい。知らない相手の言葉。どこ・だれ? うっとしい。被災した福島というキャラの押しつけ」→単純化ラベル←強者から。
単純な二抗対立と言葉が先立った。


川上さんは震災後に自身の小説『神様』を『神様2011』として被爆させた。原発事故の五日後には書き始めた。
SF的なver.としてかつての作品の舞台を放射能が舞っているものに書き換えた。東京も被災地と同じ状態と仮定する。当事者として。避難できないでそこでやっていくということを取り入れる。


海外小説の新翻訳ブームは日本が海外ともはや対等であること。以前は下から憧れだったものが今は同じ目線になっていて西欧が立派はすでにない。
六〇年代や七〇年代の圧倒的な格差はない。
イラク戦争の時に中高生にアメリカについてどう思うかと聞くと嫌いという意見が多かった。ブッシュマジうぜえみたいなそういう感じ。もう下からという感じはなくなっている。
海外小説が読まれなくなっている背景にも関係している? 洋楽ロックとも共通するなにか。ゼロ年代以降の外(海外)ではなく内(日本)にしか若者が目を向けなくなった事は「憧れ」の消滅、対等な立場になった日本で生まれ育つ事は親やその上世代とは圧倒的に西欧への意識は違う。


県境は可視化されない。
古川さんの小説『聖家族』は東北をひとつの国にわざとしている。
祭り≒伝統なんてたかだか数十年のものが多い、大昔からあると思っている伝統が実は戦前戦後ぐらいからだったりする。
東京に三代で住んでいる川上さんからすると「東京」はひたすら書き換えられている。想い出の景色もすぐに変わってしまう。←ジェーン・スーさんがブログで書いていたことを思い出す。

ジェーン・スーは日本人です。』

http://janesuisjapanese.blogspot.jp/2013/08/vol13.html


何代も東京だとムラみたいで浅草ならずっとそこだけみたいになっている。
柴田さん「東京」ではを「日本」に変えれると京都で授業していて感じた。
シャッター商店街でもしたたかにやっている。脱原発と言ってもいろんな動きがある。電力会社をゆするとか、様々な利権や思惑が蠢いている。
福島の悪い人ばかり出して彼らが東京で暴れる、なにかあったら原発の話とか持ち出して被害者ぶったりするような悪い人しかでない福島ノワールを書き始めたと古川さん。古川さんのノワールって想像できないけど、きっと『南無ロックンロールに十一部経』で描こうとした1995年のあの事件となにか連なる部分はもしかしたら根底にはあるのかもしれない。
ポストコロニアリズムについて。宗主国と植民地、上下の力関係のありよう。
特別な福島を利用していくというやり方。


死という病。
古川「それが当たり前のことであるが廃炉までの時間を考えると人生のカウントダウンが始まる。どこまで生きられるのか自覚すると福島を見るリミッターが変わる」
みんなすぐに忘れる、人は忘れていく生き物だ。引きつけ続けれないのならプラカードやメッセージをずっと。
死と隣接していると腫れ物扱いされてしまう。だからズラす事が必要になる。
タブーを可視化していく。


世界文学とポストコロニアリズム。隷国が宗主国の言葉で書く小説。
彼らvs我々←そこから出ることズラすこと。
柴田さんの例えはドミニカからアメリカに移民した作家のジュノ・ディアスについて。ディアスは違う文化をそこに入れた。彼が大好きなオタク文化を。
彼の小説『オスカー・ワオの短く凄まじい人生』(http://www.shinchosha.co.jp/book/590089/)はドミニカという独裁国家とそこからアメリカに移民した家族の話だがそこにオタクカルチャーをぶちこむ事でズラしながらも本質をあぶり出している。マジックリアリズムオタク文化のハイブリッドな新しいアメリカ小説、はっきり言って大傑作だと去年読んで思った好きな小説。


柴田「古川日出男は父殺しの文学ではない」
古川さんと柴田さんは12歳違い。古川さんたちは上の世代をサンプリングしていく世代だよねと柴田さん。古川さんが村上春樹著の短編『中国行きのスロウ・ボート』をREMIXして『二〇〇二年のスロウ・ボート』を書いたように。
四十代、五十代の三人が二十代の開沼さんに昭和の自分達が通過してきたことを確認しているのはよく考えると不思議だ。専門分野の強さ、世代断絶はうすまる?



お弁当を食べてから次の教室がある方↑に移動する。このオレンジ色のテントで大友良英さんの授業をするみたいだった。僕は建物の二階に。このオレンジ色のテントでお弁当を食べていると古川さんの後輩らしき方と学校の先生をされていたらしい方が話されていた。今回のこの学校は声かけを古川さんがして高校時代に演劇で有名だったらしい古川さんの同級生や後輩の方々がスタッフとして参加してお手伝いをしてくださっていた。
東京からも知り合いの人が生徒として参加していて顔見知りもたくさんいた、郡山の人たちが日出男先輩と言うのを何度も聞いた。地域の方々の協力があってできている学校なんだなって手作りの感じがした。それはなんとなく小学校の頃の地域のキャンプみたいな慣れてなさと同時に楽しい空気に満ちていた。
迎え入れてくださった現地の方の温度もほどよくて出入り自由な感じがしていた。とても開放感のあるまなびやだった。僕らも意志を持って学びに来ているから真剣だし多少、緊張感もあったりするのだけど、なんとなく穏やかな雰囲気で心地よい空間だった。多くの参加者がまた来年も開催されるのならば来たいと思ったはずだ。僕もだけど。



この部屋で吉田紀子×古川日出男対談を聞く。たぶん、蝉の声もしていたがBGMのようで僕にはあまり認識できてなかった。でも、外のオレンジ色のテントで授業をやっていた大友さんの声はけっこう聞こえた。人間は人の声に異様に反応してしまうのだ、と思った。たぶん、一番聞こえるというか意味は入ってこなくても届くのが声なのかも。


ちなみにこの原稿を書いている今日、9月2日は大友さんが音楽を担当されている『あまちゃん』の世界では2011年3月11日のあの日だった。大地は激しく揺れて大津波がやってきて、そして福島第一原発メルトダウンした。
終わりなき日常が、終わりなき”非“日常になった始まりの日。
脚本家である宮藤官九郎は当然、震災が起きなかったパラレルワールドの世界を書くはずもなく、それを書くのぐらいならば朝ドラの脚本を引き受けなかっただろう。もし大震災が起こらなかった世界を描くのならば主人公のアキや北三陸の人々のなんかダメなんだけど味のある、永遠に続くような穏やかな日々をここまで書いていなかったはずだ。それは一度潰えてしまうという事実はもちろんドラマであってもフィクションの中であっても取り込むしかなかったし、日々あの日と未だに終わりの見えない原発の事を忘れていってしまう僕たちにあの日の事を強烈に思い出せるプラカードでありメッセージだった。
三陸鉄道で揺れを感じトンネルの中で急停車した車両、そして大吉さんがトンネルの外の変わり果てた世界を見た時の顔で僕は号泣してしまった。

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少し前、物語の中途で現実を突きつける類の小説が嫌いだ、と、ある優れたノベルズ作家が書いているだか発言したらしい、と誰かのコラムで読んだ記憶がある。ああ、それは例えばぼくの書いてきた小説のようなものを指すのだろう、と思った。作者は読者が小説のページを開いている間は読者が現実ではない世界を生きる権利を保証すべきだ、というのが多分、その作家の考えるプロとしての責任なのだ、と思う。それはそれで正しい。しかし、ぼくは中途でしばしば物語ることを放棄するし、読者に小説の外側の世界をいつも突きつけようとする。なるほど、しばしの間、夢を見ていた読者にとってぼくは迷惑で無責任な小説家なのだろうが、しかし、ぼくにとって小説は夢を見せるためではなく、醒めさせることのためにある。
それは小説だけではなく、まんがや批評めいた文章や、あるいは大学の教壇で授業をすることを含めて、ぼくの表現はすべからく、夢を見せるためではなく、夢から醒めさせるためにある、と言える。
大塚英志「僕は天使の羽根を踏まない」文庫版あとがきより

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↑僕が昔から好きな大塚英志さんの文章の中でもかなり影響を受けていてこういう時にいつも思い出す文章です。
大塚さんは大ヒットコミック『多重人格探偵サイコ』などのまんが原作者でもありますがそれをノベライズした『MPD-PSYCHO/FAKE 試作品神話』(未刊行)という小説連載中(しかもその連載誌がアニメ雑誌月刊ニュータイプ』)にイラク戦争が起きて、主人公の笹山からイラク戦争についての発言を物語と関係なくさせたり、しまいには大塚さん本人が語り部として出てきてイラク戦争について言及をしているのを見て「おい!おっさん無茶苦茶か!」と十二年ほど前に思ったのは事実です。しかし、同時にアニメ雑誌であろうが「お前ら現実から逃げれると思うよな」という大塚さんの表現はとても異質であり僕には衝撃的でした。


大塚さんはかなり初期の段階で宮藤官九郎脚本『木更津キャッツアイ』について評価していた数少ない批評家でもあります。
木更津キャッツアイ』において主人公「ぶっさん」の死を(このドラマはいろんな野球オマージュがあるがマンガの中に突如「死」を挿入してしまった『タッチ』ももちろん含まれる。和也が死んだシーンのオマージュも取り入れられている)きちんと提示し、「終わらない日常」(by 宮台真司)の時代に対しての終わりのある日常と地元意識の拡大がゼロ年代の空気感だったことを宮藤官九郎がきちんと描いたことを評価していた。これはゼロ年代というひとつのディケイドの空気でもあった。
内籠りというか海外に目を向けなくなった日本があり、アメリカの同時多発テロとその報復としてのアフガニスタン紛争にイラク戦争リーマン・ショックが世界中に与えた影響がじわじわとやってきて、SNSの普及によって様々なものが可視化され始めていった時代。
宮藤官九郎脚本はいつも場所を巡る物語です、つまり人の居場所を巡る物語です。巨大などうしようもできない力の前で日常を奪われた北三陸の人たちとアキの物語をどう終わらすのか、そして未来に向かって描くのか最後まで見届けたいと思います。


さて、対談に話を戻します。
小説家と脚本家の対談ではお互いが近いようで似ていない部分についての話になりました。聞きながら取ったメモを参考に書き起こしてみます。



登場人物は感情移入した人間しか書けない。だから自分の作品には悪い人間がいないというのがひとつの欠点(古川)。
原作を脚本にする時は一回目はまっさらで読む。何回も読んで組み立てや何がいいたいのか分析する。みんな楽しめるかわかりやすいか考える(吉田)。
役者の魅力を引き出したい。キャスティングとのチームプレーが脚本にはある(吉田)。
小説は「タイトル」から作ることもあるし題材や対象は自分が調べたい事。タイトルも何百枚書いて渡すかも自分で決めるのが小説←→注文なのが脚本。
誰かに言われて書いても自分の中にないから書き続けられない。その人になりたいと思う、演じたくはない。例えば動物と一体化する。馬や犬や猫なんか(古川)。
芝居から始まって理想的な作品を作りたい、バジェットの問題。ないのが小説だった(古川)。
男性作家の小説はつみあげる。女性作家の小説はさら〜と書いてゲラでこつこつな感じがする(古川)。
小説の登場人物と古川さんは似ていると言われないが、今まで出した小説をシャッフルしてモーフィングすると見えるある像が浮かぶだろうとは思う(古川)。
ドラマは一話を見た時に自分の想像力とのギャップがありそれを埋めていく(吉田)。
小説は読むという行為だからまずは見る文学であり、脚本は役者の台詞を聞く文学である。
「音が文学として早いから」それがこのまなびやの先生にはミュージシャンが多い理由。



クラスは十人いない少人数で開校座談会のあった建物の二階にて。ワークショップの内容は説明するのは難しいので端的に。
QとAがある短い短編の「わたし」という一人称を「名前」をつけて三人称に変える。
一人称は考える、三人称は行動する←理解しやすい動きのあるキャラクターになる。
僕が考えた三人称は「食う所寝る所」「ヌートリア」「元AV女優」でした。で、古川さんには「元AV女優」でと言われる。
キャラクターを創造して結末に参加する。そうすると読み手のスイッチを押すことになる。三人称のヴィジュアルが浮かぶ。
キャラクターは存在する。そのキャラクターのための冒頭(Q)を作る。しかしキャラクターがやること(アクション=A)は決まっている。
二つのグループに分かれて各自のキャラクターのために作った(Q)を混合して新しい(Q)を作成する。反対のグループが作った(Q)に対して自分のキャラクターが答える(A)を作る。
冒頭の物語に付いている小説に<結末>を与える。設定を引き受けられるキャラクター。
結末とキャラクターの設定がどう展開するか動くのかというワークショップ、なんか緊張した。時間は一時間十五分の授業だけど時間が進むのがもの凄く早く感じられたのは集中していたから。
終わったので一日目の講評を聞いて終了。他の先生の授業も面白そうだ。大友さんはしゃべりがうまくてまとめるのも上手い、大友さんの授業も受けてみたかった。
古川さんと話をさせてもらったらこの学校はいろんなカリキュラムがあって全部を受けることはできない、ひとつの講義をその時間だけやるってのも方法としてはあるけどそれは違うと思ったからこういう形にしたと言われていた。確かに他の先生の講義も受けたいと思う内容だったし講評聞くと楽しそうだなって思ったのは事実。だけど、この同時間帯に様々な講義があって受講者が選択したものしか受けれないというのはまあ至極当然だなとも思った。
当たり前だが何かを選ぶということは他の何かを選べないということ。つまりは自分で考えて何を受講するか誰の授業を受けるかを考えるという所から学びが始まっている。大学や専門学校もそうですけどね。だからこそ余計に自由で開放的だなって僕はこの『ただようまなびや』の学校の二日間で感じられたんだと思う。
選びたくなかったら選ばないということを選んでもいいのだし、意識的に何かを選んで享受したり、それで後悔したりすることもきっと大事な学びの一環だから。



出版社の人たちと終わって談笑する学長の古川さんに挨拶してシャットルバスに乗って郡山駅に帰る。
東北六県を描いた小説『聖家族』は実は東北ラーメン巡りの旅でもあり、そこはどう考えても朗読でどんなにカッコ良く古川さんが朗読しようとも僕は爆笑するポイントである。
マジメにふざけているとしか言い様がないのだが、だいぶ前に古川さんに朗読終わりに「マジメにふざけてますよね?」と言ったら「フフ」と返されたのでたぶん当たっていると思う。そんなわけで郡山でラーメン食うぞとスマフォを起動して駅前のお店を検索して入ってみたよ、ラーメン屋さん。なんか極太面で出るのに時間かかったけど美味しかった。


食べてから新幹線の中でやべえホテル予約しなかったと慌てて探したホテルにチェックインして翌日に備えて就寝。起きてから二日目の校舎であるこおりやま文学の森資料館・ミューカルがくと館までのバスとか調べてみたりマップアプリで距離を見てみると歩いて四十分かからない距離だったので早めに出て歩いて行くことにした。スマフォを片手に郡山駅から歩き出す。
大きな通りに出るとまっすぐの道だったが日曜日の午前八時台は町はまだ人気があまりなくて時折車が通りすぎて行くぐらいだった。途中で公園があって除染を実施しましたと看板があったりした。


歩いていたら急になんかこの道歩いた事があるようなそんなデジャブ感があった。だけどそれはデジャブというよりかは知らない道を普通に歩いている自分が去年の自分に重なったからだった。
去年の九月の中頃に僕は祖母の兄が戦後にマン島の収容所から出されて戦前に仕事をよくしていたイギリス人が持っていた、北アイルランドのアーマー州にあるポータダウンという田舎町で養鶏場などの経営や初生雛鑑別師だったのでその仕事をしていた場所を訪ねた。もうとっくに亡くなってはいたけど彼が死ぬまで住んでいた家を見ようと、最後まで住んでいた町を見てみようと思ったから。
ポータダウンはかなりの田舎だったけど彼が住んでいた家まで行くのに僕は駅から歩いていった。大きな大通りをまっすぐ進んでいった。イングリッシュガーデンが時折あってユニオンジャックが屋根の上で風に揺れていた。
知らない場所をたったひとりで歩いている時のワクワクする感じと同時にどこか冷静に世界中の先進国はもはやさほど変わらないのだろうなとも思いつつ目的地を目指していた。あの時の気持ちが甦ってきた。知らないはずの景色の中に自分がいるという違和感よりも普通に溶け込んでしまって世界の一部でしかないということを認めるような足取りでミューカルがくと館を目指した。



大ホールで朝礼と本日の先生の挨拶があって各自の授業のある教室に移動する。館内を見ていると現在は「東北のウィーン」や「音楽都市」という異名で音楽活動が盛んな街らしい。サンボマスターの山口さんも参加されている「猪苗代湖ズ」のCDも展示されていた。
郡山は「東北のウィーン」と呼ばれる前は暴力団の抗争が相次ぐなど犯罪発生率の高さから「東北のシカゴ」という異名もあったらしい、それが福島ノワールのイメージの元なのかも。


道路を挟んで向こう側にあるこおりやま文学の森資料館にある久米正雄記念館に向かう。鎌倉にあった自宅を移築したものらしく、なんかレトロだけど和洋折衷感のある建物だった。久米正雄という人は夏目漱石の門人だった人で芥川龍之介菊池寛と一緒に「新思潮」を創刊したり、小説家であり劇作家であり俳人だった人らしい。館内には昔の文豪との写真なども展示もされていた。この中の一室で古川さんのワークショップ「複数の視点で物語る」を受ける。





これも説明しづらいので結論だけを。
◯複数の視点では小説は書けない
◯人に言われて書けるものは小説ではない
◯小説はブレインストーミングではできない、意見を自分の作品に足す事はできる。


まず、僕もだけど物書きになりたいとかそういうなにか書きたいと思っている人って自我が強いから他人の意見を受け入れて自分の意見とか物語とかキャラクターを外したり譲ったりできないことを再確認する。これも終わった後で古川さんが「小説家は自我が強くないとなれないってのも事実なんだよなあ」と言われていた。
「複数の視点で物語る」っていうワークショップの結論がそれムリっていう最後は笑いで終わったがまあ実践してよくわかった。だから小説を書くというのは孤独な作業でしかありえない。




ご飯のカレーを知人の方と食べてから同じく久米正雄記念館の一室で翻訳家の柴田元幸さんの講義を受ける。「習うより慣れろ」ということで短い英文を訳すというもの。できれば原文と同じ順番で訳したいのが本音だがそういうことばっかりにはいかない。
代名詞を省くことなど。僕の英語力がなさすぎて訳すのに時間がかかりすぎたり訳を間違えてました。英語もやらないといけないよなあと再確認。しかし、他の人の訳が上手くてビックリだった。
ミューカルがくと館に戻ってから開校記念座談会2(吉増剛造×大友良英×SHINCO×ロボ宙×古川日出男)を聞く。


以下対談のメモから
立ち位置が重なる(or異なる?)五人/言葉・音・文学と音楽
言葉と音楽は最初(原始)はおそらく一緒のもの。文字・音符は教えるためのもの。
声を出す・個性/テンポ 体に刻印されているその人そのものである。


権威/クラシック→音符→便利な道具
瞬間真似する。もれているものをきいている。
全体からもれてくるもの。下のような光に触れる。
境界線上
人は発声・アクセントに反応する。
ラップ/ロック もれてくるものに無意識が反応する。
もれてくる光≒危ないかもしれない光
もれている自分、複雑な伝承


吉増さんから指名されて柴田元幸さんが急遽座談会に参加する。
原文ともれてくるもののどちらに反応するのか、力点をどこに置くか。
翻訳で一番過大評価されているのは正しさだ。
最後に、テキスト1ではなくテキストZeroにポエジーを発する。
吉増「現場をこわしてその間を抜けて行く、ジグザグにこわして」


スピリット/ポエジー/テキストZero
なまるorなまる? 心を開くということ。地域性とともに。
転勤族だった両親とともに各地を転々としていた大友さんとロボ宙さん、地元って感覚がない。新しい土地での言葉を話すか、なまることでその土地に慣れようとするかしないか。
大友さんは東京の深夜ラジオを福島にいるときに熱心に聞いていたらしい。「あちら」への憧れ。
ニッポン放送の垣花アナがイベントで会ったタモリさんに大友さんの話をしたら「大友ってあの大友か?」と『タモリオールナイトニッポン』のハガキ職人時代の大友さんのことを覚えていたというツイートを見かけた。
大友さんとタモリさんってジャズで繋がるんだなあ、たぶん。


HipHop アメリカからの文化 音とリリック
黎明期はMCも英語で話していた。
ニューヨークへ武者修行しに行っていたラッパーやトラックメイカーたち。
とりあえず現地の空気を知る事、最先端の場所にいること。
アメリカやイギリスでも音楽をやっていた大友さんは海外でやると自分がネイティブな日本人であることを、その身体性によって気付かされると。求められていたのは日本的なエキゾチズムだった。


小説は最初から最後までその間をジグザグしている。
英語・多様・しばる 自分の権威から自由になる。作品から自由になる。
いい作品は翻訳すると広がるが悪い作品は狭まる。
音楽は日本語でも海外でできる。(きゃりーぱみゅぱみゅの世界からの需要のされ方は日本的エキゾチズムだろうか?)
◯個人の中で言語が変わると個人が変わる←アイデンティティに関わる。
トラディショナルを覆う。伝統と思い込んでるものなんてたいして長くない。


身体に繋がる言葉。
人間の声に集中する。声が聞こえたら脳の違う場所が反応する。
声に意味のある言葉があると強い。


「ダサいくらいなんだよ!」―『あまちゃん』の台詞で宮藤官九郎がそれを書いたことによくやった、よく言ってくれたと大友さんは思った。
ラップ・声とビート 始原の始まりに向かう。大きな空気に抗う、もれるものジグザグのものへ。


終わって二日目の講評へ。
古川さんはワークショップ「複数の視点で物語る」で出た結論は小説は合作できないしブレストで作れませんと、でも柴田さんの翻訳のワークショップではそれができることの差異について思う。
各先生の講評があってその中のひとつではSHINCOさんとロボ宙さんが地元の参加した中学生か高校生と作ったラップを一緒に披露していた。もうこれ校歌でいいよって話になっていた。
吉増さんが一番年長者なんだけど自由奔放な子どもみたいな軽やかさがあった。大友さんは師匠(吉増さん)みたいに将来はなりたいって言われていた。だけど、講義の間に知り合いの人と大友さんが話をされていたので会話に参加させてもらったんだけどなんていうか話がめちゃくちゃうまいし人に興味を持たせるのが上手だなって思った。
ノイズミュージックとかもやられているけどジャズが原点にあるからかいろんな人の話にフリージャズみたいに合わせることができて来るもの拒まずという印象がした。その大友さんですらこの人には敵わないよという吉増さんのあの雰囲気はやはり不思議だった。人の領域をすでに越えている?


学長である古川さんから「ただようまなびや」だから色んな場所にただよってやっていってもいいし来年もここでやりたいと思うという話があった。一年目の一回目で感じられたのはまずとても心地よい空間だったということ。手探りでありながらもこの先の事を見据えた古川さんの声に賛同したスタッフの方々や先生の人たちの協力があったからできた場所だった。
先生たちの講評での発言は確かに教えることについての手応えがあったのがわかった、なんか全身から出るオーラとかそういうものが伝わってきたから。来年もあるのなら来たいと他の先生も実際に言われていた。
スタッフの方々とも教室に移動する際に話をさせてもらう機会が何度かあった。例えば久米正雄記念館とかデコ屋敷本家大黒屋は知っていたけど地元だからあまり触れてなかった場所に今回の学校を開催するのにあたって何度も来たりして地元を再発見じゃないけどスタッフの方々自身も今までとは違う形で触れることができていた。この規模を拡大させるとたぶん零れて落ちてしまうものだとかこの空間とは違うものになるのかもしれない。ワークショップは内容によって少人数のものと大人数でできるものがあるし、その辺りのバランスも受講者が増えたり規模が変わると考えることが増えそうな気もする。


終わってから古川さんと少しだけお話をして記念写真を撮ってもらった。最近は園さんといい古川さんといい影響を受けている方に会った時に写真を撮ってもらっている。前までは恥ずかしかったのであんまり撮ってもらうことも少なかったのだけど。こういうものは自分の歴史の想い出に残しておいた方がいいんじゃないかなって思うようになったから。
25日の古川さんの講義では、僕は我がやはり強いのだなと思った。前日の脚本家の吉田さんと古川さんの対談からも繋がっていたけど、僕は東京に来た時は脚本がやりたくて専門行ったりシナリオセンターにも通ったりしたけど脚本から小説に向かったのは僕が人の意見を自分のものに上乗せはできるけど自分の何かを削ってまで取り入れたりブレストとかできない人なんだなって無意識にわかったからなんだろう。ちょうどその頃に読んで惹かれたのが古川さんの小説や文体のリズムだった。
新幹線で帰っている時に来年も開催されたら来たいと思ったし、たぶんまた郡山を訪れるだろうと思った。古川さんの講義も受けたいけど他の先生の講義も受けてみたい。
決められた正解を出す学校ではなく個人がそれぞれの正解を出すための言葉を見つけるためのただようまなびや。
ここでもらえた、感じる事のできた種子を僕の中でどう育てれるのか、どんな言葉になるのか時間はまだまだかかりそうだけど。ただ、それは僕自身がどう考えて動いて行くかで育っていき僕自身と同化していくのだろうと思います。


↑ここで大友さんと少しだけお話したことだったり郡山に行った事が縁でPLANETSにいた友人から『あまちゃんモリーズ』での大友さんインタビューの文字起こししませんかというお話をいただいたりして、そのインタビューしたのはPLANETSの中川さんの音楽ライターの柴那典さんだったのだけど、今年の三月のABC(青山ブックセンター)で行われた山崎洋一郎×樋口毅宏トークイベントで柴さんに初めてお会いする事になった。柴さんは樋口さんの『テロルのすべて』文庫版の解説を書かれていた。などなど諸々と繋がっていくのをやっぱり実感するのだった。

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