Spiral Fiction Note’s diary

物書き&Webサイト編集スタッフ。

『君たちの居た時間』Part 6

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 翌日、宇美は舞人の家族に話をする。彼の記憶が戻るかもしれない場所に彼を連れて行きたいことを、彼の母が反対するが、祖母がそれを許す。いいかげんに本当に目覚めなくては前に時間が進まないからお願いしますと逆に頼まれる。
 宇美と舞人の二人は最寄り駅である福山駅から十二時半過ぎの山陽新幹線に乗って東京へ。新幹線のぞみ22号で、二一五分の片道で、岡山を、新神戸を、新大阪を、京都を、名古屋を、新横浜を通り過ぎて品川に着く。
 十六時過ぎには東京の土地に降りて、品川区へ。区内の土地を踏み、宇美のアパートへと向かう、電車を乗り継いで駅から歩いて。三軒茶屋駅から徒歩十数分の住所区分は太子堂に、三宿との境目付近へ。
 宇美は青い表紙の東京都区分地図を開いて舞人に場所を教える、今がここだから、それで東京タワーはここで。私たちはこうやって、ここを沿っていくつかの区を越えて辿り着くのよって彼に教える。彼は地図を見ながら空間を把握しようと試みる、だから彼は「ピクニックだね」と言う。
 彼女は「ピクニックだよ」と同意する。「長い道程だね」と彼が少し悲しそうに言う。彼女は「長くて、でも短い道程」としっかりとひと文字ずつ言う、彼は「ここに魔法の言葉があるの?」と問う、だから彼女は「そう魔法の言葉と君の、舞人の記憶の遺伝子を取りに行くの」と優しく言う。
「魔法の言葉と記憶の遺伝子」と舞人が繰り返す。
「そう、これはピクニックであって、冒険でもあって、冒険だからアドベンチャーで物語なの」
「冒険」
 その響きが舞人をとらえる。二人は軽めの食事を取って、宇美の作った高菜入りのチャーハンと近所のスーパーで買った餃子を分けて食べる。二人はソファーベッドで向かい合うようにして寝ている。
 長時間の移動で疲れきっていた舞人はいびきをかきながらすぐに寝入る。向かい合った形の宇美は地図を、青色の地図を広げている。
 一度、目的地までの経路を確認してテーブルの上に地図を置いた。横になるとすぐ目の前に舞人の顔が存在している。男の人の匂いがすると思う、汗に含まれる男性ホルモンとかそういう類いのものを女である自分が本能的に嗅ぎ取っている。
 自分の薄い眉毛よりもはっきりとくっきりとした眉毛とか、うっすらはえてきている顎髭や顎ラインの産毛とかが自分とはまったく違うと思う。
 男の人と同じベッドで眠っても何もしないなんて初めてだと思う、でもなんだろう、この安心感は、落ち着くものが私を包んでいるのを感じる。宇美は両手で膝をかかえると胎内にいる赤子のような姿勢になる。膝が当たって舞人のいびきが止まりうっすらと目を開ける。彼も真似をして赤子のようなスタイルになる、ソファーベッドに二人の赤子がいる。
 母親の胎内にいる時のやすらぎを身近に、毛布の羊水に浮かんでいる、二人は眠りに落ちる。


 宇美が目覚めると舞人はぼんやりとテレビを点けて見ていた。宇美はソファーベッドから抜け出してキッチンに行ってコンロに火を付けた。
「おはよ、コーヒーでいい」
「コーヒーは苦手。牛乳がいいよ」
 宇美は冷蔵庫からオレンジジュースを取り出してコップに注いで舞人の横にイスを持っていき座った。
「牛乳切らしてるからオレンジジュースで許して」
「うん、ありがと」
 ゴクゴクという音が聞こえる、喉が、彼の喉仏が上下するのを宇美は見ている。宇美は頭の中で今日の予定を、流れを反芻して確認する、だいたいの予定があったほうが、立てておいた方が効率はいい。ハプニングが起こった時に対処できるかどうかは不安だったが。ケトルが沸騰してヒューヒューという音を鳴らした。
 シンクには飲み終わったコーヒーカップが入れてある。宇美は美羽の服の中からブルーのニットと赤色のブリーツスカートを選ぶ、上着には自分の運動用としても使っているナイキのナイロンジャンパーを着る事にする。そしてアクセサリーケースからカーブド・ティアドロップを取り出して耳に。
 舞人は昨日と変わらない服装だった、太ももの横に大きなポケットの着いている緑のカーゴパンツに、白のロンTを着ていた。それだけだと寒くなるかもしれないから宇美は美羽の服の中にあった黒のロングカーディガンを着るように渡す。女性ものだが、ちょうどいいぐらいだった。前を止めるボタンがなくなっていたので安全ピンで止めてみると中々おしゃれな雰囲気になったので宇美は一人で満足な気持ちになった。舞人はゴムで髪を結ばないままにした。
「工場では結べって言われるんだ。今日は仕事じゃないから」
 その雰囲気はどこかの芸大の生徒みたいにアーティストみたいだった。
 玄関を出るともう始まってしまう。宇美はデイパックに東京都区分地図と財布を入れる。舞人は何も持たずに宇美の家の玄関から将来に何の不安もない幼稚園児みたいな顔で出て行く、宇美はそれを追い掛ける母親のように、いつも履いているパンプスではなくスニーカーを履いて家を出る。
 彼らは歩いて東京タワーを目指すことにした。それは真昼の二人だけのピクニックで記憶の遺伝子を取りに行く冒険で儀式だった。


 舞人と宇美が横に並んで歩く、時刻は午前の九時を過ぎている。歩いてすぐに緑道があり、小さな小川のような流れに沿って作られている。そこを辿っていくと世田谷区から目黒区の区境を越えて目黒区へ入る。すぐに国道246に出る、そこの横断歩道を渡ってすぐ所にある橋の上から覗くと目黒川が始まっている。
 川が始まっている、やがては海へ、東京湾へ注ぐ。
 宇美は確かめてみたかった、川が流れてやがて海へ連なることを、自分の名前の読み方と同じ海へ歩いて行きたかった、肌でこの体で感じとりたかった。
 目黒川を南下していくと中目黒を通過して行く。目黒川は山手通りに平行な感覚で同じように南下して品川区に入ると今度は横に平行する感じで流れている。目黒川沿いの桜の木は服をはぎ取られたような寂しさと哀しさがある、秋の川沿いは物悲しい、木の枝が風で揺れている。
 中目黒駅の高架下を通り、電車のレールを走る音が響いてきたので振り返ると電車が地上から十メートルぐらい上を電車が走ってホームへ滑り込んで行った。
 川沿いの歩道には落ち葉が敷き詰められて黄色と赤色、茶色の三色が色彩を作っている。川幅は次第に大きくなっているのがわかる。歩道には大型のアイリッシュ・セッターが横になっている、赤い毛並みが絹のように艶やかだ。
 飼い主がブラッシングをするために横にしている、待ちくたびれたように舌を出して、甘えたような鳴き声を出している。二人は飼い主に断って触らせてもらう。犬は警戒心を出さずに舌を出している。生き物の体温が脈動していた。
 だいぶ前から見えていた巨大な塔のようなもの横を通過する、だがそれ自体は反対の川岸にあってそれが何のために存在しているのかどういうものなのかはわからない。宇美はその塔のような建物を見て二人の少年と少女が塔に向かって飛行機を飛ばした作品を映画館で観たのを思い出した。
 美羽と舞人の約束の場所は東京タワーだった、姉の代わりに私が舞人をその場所へナビゲートしていると思うとズンズンと歩みは進む、秋だというのに陽気な天気だった。
 二人は上着を脱いで腰に巻き付けて進む、途中にあった石でできている円柱の一人がけ用のイスの上に数冊の本と雑誌のページのやぶったものやノートが重ねられて置かれていた。
 一番上の表紙もない本の背表紙には「経営の未来を見誤るな」というタイトルがあった。この本の持ち主はこの本をここに放置してどこへ消えたのだろう。徐々に気温が上がってきている、二人はコンビニに寄ってペットボトルのミネラルウォーターを買って飲む、喉がゴクゴクと鳴って飲み干す。体に疲れはまだ感じないが歩くだけでも水分はかなり失われていた。
 目黒雅叙園の横を通る、巨大な岩のようなものが積み重なっていた、この一体だけ雰囲気が変わっている、敷居が高い感じを受けるのは塀やおぼろげに見える建物や屋根に無意識の中で歴史を感じるからだろう。そこを通り過ぎると,目黒区が終わって品川区に彼らは進入する。


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 始まりの世田谷区からは三番目の区の品川に。
 目黒川沿いに進むとやがて首都高速二号と交差する地点に出る。信号待ちをしている時に舞人が向こう側に見えるパン屋を発見する。小腹が空いてきた二人はそれを食べようと信号が変わるのを待つ。
 畑田パン店というおじいさんとおばあさんが店頭でパンを売っている店がある。基本的には何々サンドというサンドウィッチが売られている。
「チキンサンドください」
 二人が同時に注文する、チキンサンドを挟むだけの袋に入れてもらう、財布を持ってきていない舞人の代わりに宇美が料金を払う。歩きながらチキンサンドを食べる、チキンカツを挟んでいるパンがふわふわで懐かしいと感じる食感だった、チキンカツも冷めても美味しいように濃いソースがかかっていてマヨネーズとキャベツとの相性もいい、すぐに二人は食べ終えてしまう。
「美味しかったね」
「うん、ほんとうに」
「ふわふわだったね」
「ふわふわで美味しい」
「うん、美味しかったね。本当にピクニックみたい」
 五反田駅を横目にしながら進む、もう五反田のエリアに入っている、西五反田を越えて東五反田へ。
 途中工事中のために迂回して歩く、すると歩道の横にはイマジカの会社がある。宇美には馴染みのあるその会社の横の川沿いの歩道を歩いて行く、川幅はかなり広がっている、そして川沿いは整備されている。
「川がどんどん横に広くなっていってるよ」
「海に近づくと川幅は広がるんじゃない、きっと」
「海に近づいてるんだね」
「うん、だから家からどんどん離れていってるんだよ」
「海に近づいている、うん海が近づいてきてるね」
 しばらく進んでいると目の前に現れた陸橋には「山手通り 品川区北品川4丁目」と書かれている。いつの間にか北品川に入っている。
「北品川だって、新幹線で着いた品川駅までもう少しだね」
「まだ二時間ぐらいなのに美羽の家から新幹線まで来たの?」
「うん、二時間少しで品川まで来ちゃったね」
 東京湾が近い事を感じる、地図で言えば人差し指の二関節ぐらいで天王洲アイルだった、川の流れが終わり海に直結する。
 歩みは少し軽くなる、先が見えた、確かに感じている。
 目黒川沿いに急にイスが二脚現れる。木でできている、しかし丈夫そうでシンプルなイスがただ川沿いに置かれている。背もたれにはメタルプレートが打ち付けられている。
「疲れた方はどうぞ」といたわりの文字が印字されている。
 舞人と宇美はそこに腰掛ける。目黒川の向こう側の景色が目に入る、座ると足腰が疲れているのを感じる、川が流れている、彼らの左側へと流れていく。
 イスに座って景色を眺めていると永遠という時間があるような気がしてくる、なにかひどく年老いたような錯覚、今は留まるべきではないと宇美は立ち上がる、舞人もそれに倣う。川の流れに沿って歩き出して行く。
 旧東海道の品川橋を過ぎて昭和橋の横を過ぎる。川沿いを歩くということはいくつもの橋を通り過ぎることでもあった。そのまま進んで行くと天王洲アイルの一帯に入るとテレ東の天王洲スタジオが見える。目黒川の終点に、海と混ざり合う地域。目の前に広がるものは海だった、東京湾に流れ出す目黒川。水門が見える。
 海岸通りを北上すると東京水産大学が左手に見える。こんな場所にも大学はあるんだと宇美は思う、海に近い方が水産大学はいいというのはわかるが、頭で理解できるが実際に見ないとその存在自体を知らなかった。
 その場所自体はすでに港区で彼らは四番目の区に進入している。
 品川区・港区の湾岸地域は江戸時代以降に干拓され海を埋めて作られた地域、かつては海だった。
 数百年前の海の上を舞人と宇美は歩いている。宇美はデイパックから地図を取り出して品川駅を確かめる。途中進路を左側に取って、埋められた土地からさよならする。
 スーツを着たサラリーマンやOLの姿が多くなってくる。高層ビルが建ち並んでいる、様々な業種の一流企業の名前がある。品川駅方面に歩いていくとさらに会社員の姿が増えてくる。目の前には品川駅の一部。
 道路沿いにある地図を見ると品川駅は港区にある、ということがわかる。舞人と宇美は旧海岸通りに向かう、サラリーマンやOLを相手に路上で昼ご飯を販売する車が何台も停まっていて、そこに並んでいる行列が目に入る。
 旧海岸通を歩いて行く、芝浦下水処理場を通り過ぎて芝浦四丁目に入る、八千代橋を渡りさらに北上する。交差点を信号待ちで待っている。宇美と舞人以外は全てサラリーマンとOLの群れだった。二人だけがそこでは異物のように存在している、いや浮いている。
 信号が青になり一斉に動き出す群れ、二人も動き出すが何かが、何かが違うと宇美は違和感を感じている。
 平日の昼間から目黒川から東京湾まで歩いて、今さらに東京タワーを目指している私たちはどうかしている。群衆の中に紛れた事で宇美は冷静に考えてしまう、今のこの状態を。
 彼にも、舞人にも彼らのような生き方ができたかもしれない、可能性はあったはずなのに。だから宇美は選べなかった事と選ばなかった事の違いを考えて立ち止まる。
「ねえ、舞人」
「何? どうかしたの」
「いや、なんでもないよ」
「ほんとに大丈夫、疲れた?」
「ううん。大丈夫だから」
 舞人が宇美の手を握って歩き出す、舞人の温かい温度があった、それを握り返して確かめる。
 国道十五号の第一京浜を渡る陸橋の上で二人は赤い塔のそれを、東京タワーをその目で捉える。もうすぐ東京タワーに着く。慶応義塾大学を横目に、赤羽橋を越えると森のような木々たちから飛び立ちそうな東京タワーがある、彼らは東京タワーのお膝元にいる。
「333のテッペンカラトビウツレ」
「魔法の言葉と記憶の遺伝子をもらいに、ついに辿り着いたね」
「もうすぐだね」
「うん、東京タワーに着いたら一休みしようか」


 十三時半を過ぎている。宇美のアパートから歩いて四時間半が経過して、世田谷区、目黒区、品川区、港区と四つの区を渡り歩いた。東京タワーの敷地内に彼らはいる。外国の観光客や中高生の団体、一人でいる者など多種多様な人々がいる。
 頭上に延びた塔を写真に収めたり眺めたり、あるいは弁当を食べたり、ジュースを飲んだり休憩をしている。舞人と宇美もベンチに座って新しく買ったペットボトルの飲み物を飲んでいる。赤というか朱色というか鉄塔に塗られている色を見上げる、赤い蜘蛛の巣みたいに見える。
「何か思い出せた」
「何も変わらない、思い出せないや」
「テッペンから飛び移るしかないのかな」
「テッペンからね、どこに飛び移ればいいんだろう? うん、それは無理だけど何だろう、ここが終わりだという気がしないんだ」
「ここが終点ではないって」
「そう、なんかそういう感じがするよ」
「展望台には行かなくていい?」
「うん、きっとここの上から見える景色をもとめていたわけじゃないはずだったんだ。思い出せない、美羽と一緒にいた頃の事。ごめんなさい」
「謝らなくてもいいよ、ここに来れば思い出せると思ったのは私が言い出した事だったし、舞人は悪くないよ」
「ありがと。なんだか座ると眠くなるね」
「秋なのに温かいからじゃないかな」
「少し眠ってもいい?」
「二時間ぐらい昼寝しようか」
「うん、お昼寝だね」

 
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 墨田区に新しい塔が、東京スカイツリーという名の東京タワーの後継者が十一年には竣工される。
 東京タワーはこの年の十二月二十三日に開業五十周年を迎えた、東京のシンボルとして半世紀にわたり存在感を示してきたこの巨大な塔はゼロ年代が終わるとほぼ同時期に後継者にその東京のシンボルだったという名誉を次世代に受け渡す。
 失われた十年と呼ばれた季節に十代を過ごした舞人たちの世代が三十代に入る頃、三十代の前半を過ごす頃に東京の象徴には東京スカイツリーが新しく君臨し、ゼロ年代までの東京の象徴だった東京タワーは古き良き時代の象徴、昭和の遺産として人々の中に残ることになるだろう、前世代の遺産として。


 ベンチで肩を寄せ合って寝ている二人、秋晴れの一日。日差しは強くもなく弱くもない、優しい木漏れ日のような温かさで満ちている、風は乾いている、東京タワーは飛び立つ事なくそびえている。静かに時間が過ぎる、秒針だけは誰にも平等に進む。


 東京タワーのテッペンから飛び降りる、正確には舞うように飛行する。風を受けて舞い上がるように。意識が誰かに呼ばれているのを舞人は感じている、そしてこれが夢であることもなぜだかわかっている、舞う自分の数メートル上から舞人自身が客観視してこれを見ている。
 誰かが自分の名前を呼んでいる。だから意識は空気に溶けて、気がつくと渋谷のスクランブル交差点にいた、舞い降りていた、雨が降っていた、だから最初に意識を奪われたのは無数の傘。
 狂騒がそこにはある、信号は青だが、人々は走り、叫び、逃げ回っている。置き去りにされた傘が逆さまになって枝の部分が上に。本来の裏側部分に雨を受けている。
 意識だけの舞人の透明な肉体を雨が、老若男女たちが通り過ぎて行く。その度に彼らの意識が伝わる、そこにあるのは圧倒的な恐怖、だけだ。舞人は歩いて中心部分へ、一人の男がナイフを振り回している、その充血した目は獲物だけを見つけるためだけにあり、周囲を見渡している。雨で濡れ、返り血は薄い赤を広げていた。
 逃げようと走り出して転んだ十代半ばのブレザーの学生服の少年の腹を蹴り上げて馬乗りになってナイフを心臓の上に突き刺す、突き刺してそのままナイフをひねって完全に心臓の機能を断つ。スクランブル交差点の中心部分はそのナイフ達によって、数本の血にまみれたナイフが投げ捨てられて雨が血を洗い流している。
 男は数本のナイフを用意して自分の悪意を、絶望を、身勝手なままに他者に、無関係な通行人にぶつけて我を失っている、あるのはこの救われない自分を受け入れてくれない世界を壊してから自分が消えようとする確固たる意志、その意志が宿った数本のナイフによってえぐられた肉片から飛び散った血が、真っ赤な海が灰色と黒と白のアスファルトの地面を浸食して赤い海がスクランブル交差点に。
 渋谷駅派出所の警官数人が事態の収拾に乗り出しているが多すぎる群衆の数に遮られる、そして拳銃を構えても撃てない、人々の色とりどりな傘が視界を塞ぎ、投げ捨てられた傘がさらに邪魔をする。加えて人ごみが男の後ろ逃げ回っていて撃ち外したときのリスクが高すぎた、しかも雨だった。
 都内で同じ様な光景がここを始点に始まり連発する、第一地点が渋谷駅、第二地点が新宿駅付近、第三地点が池袋駅付近、第四地点が上野駅付近、第五地点が秋葉原駅付近、第六地点が東京駅構内、第七地点が新橋駅付近、第七地点が品川駅構内と続く。しかし同時多発的な彼らの犯行は正確に十分置きに開始された。だから警察は山手線の主要駅に早急に警備を配置して山手線はその動きを停める、動き出さない電車、ホームで立ち尽くす乗客の罵声と拡張期で説明をする駅員の声がカオス理論を立証して各駅が大混乱に陥る。
 駅から出るもの全ては圧倒的な数の警官によって荷物検査を受けさせられる、歯向かう者、警官を振り切ろうとするものは全て連行された。芋づる的に数名が銃刀法違反と麻薬物の所有の別件でその後逮捕された。
 山手線の主要駅の内部が人ごみで溢れて、一時的だが首都機能が停止した。渋谷で事件が起きてちょうど四十分後には秋葉原で第五の事件が起ころうとしていた、それは未然に防がれる、いや防がれた。行き場のない怒りや焦燥感、世界に対しての疲労と誰にも承認されないことでたまったフラストレーションを持った者達がパソコンで知り合い、世界を呪詛しつつ、自分一人では自殺できない彼らが繋がってしまった、負の連鎖が起きて彼らの儀式が実行された。
 次々と東京駅犯、新橋駅犯、品川駅犯が捕まる、事件としては渋谷、新宿、池袋で起きる。新宿の西口でナイフを振りかざした犯人は二人に重傷を負わせたが、その場にいた中国マフィアの数人に圧倒的な力の差で叩きのめされて両腕を折られて逮捕される。
 池袋の犯人はこの日のために地方から上京した人間だった、駅から地上へ出て人の多さにビビリ、自分がしようとしていたことの恐ろしさで発狂しナイフは自らの首の頸動脈を裂いて血の噴水をあげて絶命する、その血が飛び散ったランチ帰りのOLが絶叫する、恐怖だけが感染し伝染した。
 第四の地点の上野駅では連絡を受けた警官がナイフで通行人を斬りつけた犯人を素早く感知して、犯人の第二手の前に犯人に第一撃の警棒をナイフを持った手に食らわせた。
 犯人が素早くジャケットの内側から次のナイフを取り出して空を斬った、警官の腕の皮膚が少しだけ切れた。その警官は拳銃が撃ちたくて警官になったような人間だったから迷わずに拳銃を犯人に向けた、犯人はナイフを投げて降参のポーズを取った。
 警官は落ちたナイフを足で遠くに蹴って、犯人との距離を取っている。「撃たないで」と今更になって脅えている犯人に笑顔で発砲した、一撃で犯人は死んだが警官は倒れた犯人にもう二発発砲する。その後警官は英雄視され、同時に避難の的になった。
 しかし、ここは第一の事件現場の渋谷だったから警官はその対応ができない、目の前で十二人がすでに血まみれで倒れていた、数人がすでに事切れている。男は十三番目の獲物に斬りかかる、背中の服に斜めの線をいれ少しだけ肉を裂いた、服に赤が染みる。
 斬りつけられた女性は痛みと恐怖で普段通りに動けずに転倒する、男がトドメを刺すために距離をつめようとした刹那、男は横にふっ飛ばされる。斬りつけられた女の恋人である男が自らの内側に芽生えて急速に育った恐怖心を自分の彼女が斬りつけられた怒りで一度忘却させ、逆のベクトルに反転し膨張させた。彼女を守れなかったことで傷つけられた自らの誇りの回復とナイフ男への憎悪をごちゃ混ぜにして固めた怒りを原動力にして体当たりを食らわす。
 男は予期しない反逆者の一回だけの反撃をまともにくらって地面に体を打ち付ける。彼氏は真っ赤に興奮した顔になっている、アドレナリンが脳内で放出されて闘争本能にセーブが効かない、復讐として男の腹を蹴り上げて、さらに顔面をトーキックで蹴る。恐怖で逃げ出していた人間のうち何人かはさっきまでの狂乱を招いた張本人の男の顔を見ようと好奇心で近づいてくる。
 男が暴れなくなったことで恐怖心は消えて好奇心がむくむくと溢れる、携帯やデジカメを持ってその有様をメディアに記録する。ただ記録として残して、すぐさまネット上に映像が飛ぶ、現場にいなかった人間にもその狂騒の後の風景が共有される。
 信号はもはや赤に変わっているがスクランブル交差点から人が立ち去ることはない、すでに呼吸を止めた数人の被害者と数人のこと切れそうな者、怪我を負った者達がスクランブル交差点の中にいて事態の収拾は付かない。
 血の海と叫び声と置き去りにされたいくつもの傘。車のクラクションとパトカーと救急車のサイレンが渋谷の中心部で鳴り響いて喧噪をさらに激しくする。
 蹴られて闘争心、いや殺傷心を失った男は、死への恐怖心がふつふつと沸き上がって体が震え出し両手で顔面を庇いながら泣きながら許しを請う、しかし集団が、彼によって平凡な日常を壊された群衆に取り囲まれ体中を蹴り上げられる。
 口の中は血で、血の泡が溢れて出て、息ができなくなる、咳き込み、口から血を吐き出す。意識は次第に消えかかる。だからここでの十三人の死者の一人は犯人自らになる。
 舞人はその光景を観ている、声が聞こえる。
「舞人、まい、と。ねえ、まいと」
 血が腹から出て下腹部から下が赤に染まっている女が、美羽がか細い声で彼の、舞人の名を呼んでいる。舞人は横に倒れている美羽の側にしゃがみ込むが、彼女に触れることはできない。
 透明な自分の体のどの部分も彼女に触れることができない。
「美羽、しっかりしろ。僕だよ舞人だ。ここにいるから、ねえ美羽」
「まいと、ねえ、まいと。死にたくないよ、うちまだ死にたくない」
「美羽、僕ここにいるから、美羽だからもう話さないで」
「舞人、会いたいよぉ。会いたい。まいと。ねえ、まい、と、まいとー。まいと」
 美羽が最後の声を振り絞って叫ぶ、死んでいく細胞と消えかかる意識の中で全身全霊を込めて咆哮を、雨が降り続ける空に。
「美羽、聞こえるか、美羽、なんで届かねえんだよ、美羽、僕だ、今ここにいる、美羽。しっかりしろ、目を閉じるな、なあ美羽」
 青白い肌の美羽がその声に反応するように首を傾ける、美羽の視線が舞人の視線を捉えて二人の視線が重なる。
 美羽は痛みに耐えて無理した笑顔で舞人に微笑み、血まみれな手を差し出す。舞人はその手を握るがすり抜けてしまう、握ったような形にする、しかし美羽の次第に下がっていく温もりをどこともなく感じられる。美羽にも同様に舞人の温もりが。
「いたあ、舞人。ここにいた」
 舞人と過ごした時間から月日は流れて彼女は変わっている。あの時よりもずいぶんと痩せた美羽がそこにいる。
 本質は変わらないのだろう、社会に出ることで身に付いた社会性や出会った人に影響されたことで起きる変化、あるいは進化、または退化で大人に見えたり、変わっていることは彼らが離れていた間に過ごした時間がいかに彼らに影響を、変化を与えているのかということの証明だった。でも彼女が美羽だと舞人にはわかる。
 共に過ごしたあの時間がそれをわからせてくれた。だからもう一度優しく彼女の名を呼んだ。
「美羽、ごめん。ずっと待たせて。美羽、ここにいるよ」
「うん、舞人がここにいるの、うちわかる。舞人ここにいたあ」
 宙に差し出していない方の手が自分の心臓に上に置かれる。
「舞人ここにいた」
 美羽の目から一雫の涙が零れ落ちた。そして目をゆっくりと閉じた、美羽の手のひらの体温が一気に低下して、腕はだらんと地面に落ちた。舞人は静かに閉じたまぶたの上にキスをした、その世界の色彩は失われてモノクロになって闇に溶けて消えた。
 その時、ずっと遠く離れた場所で六年間眠り続けた男が、舞人がベッドで目を覚ました。

  
 三時過ぎに舞人と宇美の二人は起きた。舞人は建物内のトイレに行って顔を洗ってくるというので宇美もトイレに行く事にした。小便をした後に手を洗ってそのまま冷たい水で顔を洗った。舞人は夢の出来事を思い出していた、あれはきっと夢じゃなくて現実に起きたことを時を越えて僕が見たのだと。
 舞人が美羽のまぶたにキスをしてあの世界が闇に溶けた瞬間に目が覚めたと同時に隣で寝ていた宇美も起きた。
 宇美は何か言いたげな顔をしていたが何も言わなかった。
 JR山手線の浜松町まで出ようと宇美が言うのでそれに従って芝公園を南下し始める。看板が出ている「大門駅」「浜松町駅」方面と。増上寺を抜けていく、途中には千躰子育地蔵尊があり風車がたくさんまわっている、緑豊かで涼しげな雰囲気を醸し出している。
 大門、浜松町駅に向かうサラリーマンの姿や観光に来ている人が混ざり合っている。港区の中央部地区である大門を通る、芝大門一〜二丁目地域の真っ直ぐな道を、直線で歩けば駅に辿り着ける。
 大門駅を通過すると大きな交差点がある、横に走っている道路は第一京浜で道路の向こう側には超高層ビルが建っている。
 三田の陸橋で渡った第一京浜にまた邂逅する、三田の陸橋で見えたのは東京タワー、大門で見えた超高層ビル世界貿易センタービルだった。
 彼らは浜松町駅の北口に辿り着くがまだ電車に、山手線には乗らない。世界貿易センタービルと書かれている、その超高層ビルを見上げている舞人がいる。宇美もそれに倣って見上げた。
 水で薄めた青の絵の具をまき散らしたような空に所々白い雲が浮んでいて、それらが上空を支配している、それに抗うかのようなメタリックブラウンの外観、規則正しい配列の窓ガラスを要する四十階建てのビルがそびえている。舞人は歩き出して「40階展望台」の看板を見つけるとビルの中へ入って行く。宇美は何も言わずに着いていく。
 券売機で宇美が二人分の料金、千二百四十円を支払う。一人六百二十円だった。エレベーターを開けられて二人は乗り込む、係員が四十階を押して扉をクローズする。上るスピードが速い、表示される階が上へ上へと。数字がみるみると上がる。
 途中から薄暗い天井が七色に光り出してホタルを思い出させる。四十階に着いて扉がオープンすると受付嬢が機械的な感情のない声で案内を告げ、パンフレットを手渡す。
 そのパンフレットの「展望台 シーサイド・トップ」にはキャッチコピーが書かれている。
「あっという間に変わるから 見ておこうよ、今の東京」と。


     15


「本日は、ご来館誠にありがとうございます。当展望台は一周約200メートル、眼下の東京の街なみや新幹線、モノレール、首都高速道路などの交通機関東京湾を行き交う船舶が一望でき、晴れた日には富士山や丹沢の山なみ、筑波山など海原の向うに房総半島を望むことができます。この360度のダイナミックな景観が当展望台の最大の特色です。さらに夜のとばりが降りた後は、ロマンチックで宝石をちりばめた様な美しい夜景が広がり、大都会東京のファンタジックな夜が楽しめます」
「当展望台の眼下に、広大な東京湾が見えます。今最大の話題はこの東京湾の湾岸地域の開発プロジェクトで、東京ウォーターフロント計画としてもいくつものプロジェクトが目白押しになっており、湾岸計画に基づいた広大な埋立地には、広い道路、公園、緑地がつくられ、港やコンテナ埠頭もつくられました。そして、今後も汐留駅跡地開発等刻々と変わり行く様子が当展望台からゆっくりとご覧頂けます。社会科見学や修学旅行、一般団体旅行等にも等展望台をぜひご利用ください」


 受付と売店の通路を過ぎると矢印の順路方向の北から西、南、東と視界三百六十度の景観が広がる。最初に北側の景観を眺めると汐留、東京、皇居方面の景色が見える。舞人と宇美は何も言わないで高さ152メートルの世界から東京を見下ろしている。
 展望台にはごくわずかの客しかいなかった。座ってお茶をしているカップルの外国人と六十過ぎに見える女性客一人、四十代ぐらいの男性客一人。天気の良い日には見えるはずの富士山が雲のせいか見えない。
 二人が西側に歩いて行くと赤と白を交互に纏った東京タワーが現れる。彼らが上らなかったそれが、世界貿易センタービルの最上階から望める、肉眼で塔のほぼ全体像が確認できる。
「東京タワーが見えるね」と宇美が言う。
「テッペンもなんかぎりぎり見えてる」と舞人が言う。
「私たちさっきまであそこの足下にいた」と宇美が振り返る。
「僕らが歩いてきたあの大通りも見える」と舞人は視線で道程を追う。
「うん、歩いてきた道が見えて存在してる」と宇美が付け足す。
「東京って広そうで実は狭いのかもしれないね」と舞人が。
「そうかもしれないね。だって私たち世田谷区から歩いてきたからね」と宇美が始まりの場所を告げる。
「世田谷区、目黒区、品川区、そして港区」と舞人が確認する。
「知ってた? 品川区と港区は江戸時代に開拓されたの」と宇美は教える。
「四百年前だっけ、江戸幕府が開かれたの?」と舞人は聞き返す。
「そう、確か千六百年初頭に。だから四百年前」と宇美は答える。
「品川区と港区の東京湾に面する辺りは開発された」と舞人は言う。
「私たちが歩いてきたあの東京湾付近は江戸時代以前にはなかった場所なの、人によって埋め立てられたんだ。新しい土地として海を潰して、新しく作り上げた大地」と宇美は言いながら確信する。
「かつてはなかった場所を歩いて、辿り着いた。かつてはなかった土地を歩いて」と舞人は自分に言い聞かせるように言う。
「そうわたしたちは歩いてやってきた」
「まるで冒険のように、ピクニックのように」
 東京タワーだけがひときわ異彩を放っている、赤と白のコンビネーションも塔自体の高さ、大きさも他ものを小さく見せるだけだった。ジオラマのような世界が、東京が真下に広がっている、人々の生活がそこには含まれて育まれている。
 舞人と宇美は今、二機の飛行機が、悲しみと虚しさを引き連れて突っ込んでいったツインタワーと同じ名前の世界貿易センタービルの最上階から見ている、東京の傍観者として。
 彼らは歩き出して南側方面を見る、彼らが歩いてきた品川と田町の街なみと線路が見える。そのまま歩いて東方面を見下ろすと浜松町駅と東京都立旧芝離宮恩賜庭園が望める。
 庭園の真ん中から、半分ぐらいを池が占めている。木々の緑や赤くなった葉や黄色くなった葉を付けた木々が塀のようにその一帯と周りを遮っている。それらが江戸時代のお城のプラモデルを作った時の精密な庭のようなジオラマ、作り物のように見えた。
 二人の、東京の傍観者は東から北へ元のスタート地点へ戻る。すでに一周している、北西南東200メートルを歩いて、地上から152メートルの高さで都内の景観が最大で半径75000メートル見える、そこで東京を一望した。
 かつて舞人と美羽が一緒に行こうと行った東京タワーを正面から見据えた。彼らはまた北から回り始める、他の客はいなくなっている、地上へ帰還したらしかった。二人だけがそこに。
 世界が終わった後に世界貿易センタービルに取り残された二人みたいだった。夕方の日差しで廊下に彼らの影が伸びている。ワックスがかかっているようなツルツルのPタイルが光を反射している。舞人と宇美は西側の東京タワーの正面に見据えるベンチに座る。
「さっき夢を見たよ」
「どんな夢だった?」
「美羽と再会して、さよならした夢」
「わたしとさよならしたの? ハローアンドグッバイだね」
「そう、ハローアンドグッバイ。僕は美羽に呼ばれて東京タワーのテッペンから飛び降りて、いや飛ぶように舞った。気がつくと渋谷にいた」
「渋谷でわたしと出会った」
「死ぬ直前の美羽の叫びを聞いたんだ。美羽は僕の目を見て、舞人ここにいたって言いながら目を閉じた」
「そう、それでお別れをしたんだね、お姉ちゃんと」
「夢の中で美羽の最後に立ち会ってきた。そしてお別れをした。記憶を失ったままの僕は病院で目を覚ました。ずっと寝ていたから動かなくなった筋肉をリハビリして、美羽と過ごした日々のことだけはどうしても思い出せなかった。そんなある日、美羽と名乗る女の子が僕の前に現れて、僕を東京へ連れ出した」
「ええ、美羽の妹の私、潮崎宇美があなたの前に現れた、そしてあなたは今、お姉ちゃんのことを思い出した」
「なぜ、僕の所に現れて、美羽と名乗ったの?」
「お姉ちゃんが残したシナリオには舞人、あなたとの日々のことが書かれてあって、あなたが事故にあって眠り続けてからはその物語は停止したままだった。お姉ちゃんが死んでから私はそれを見つけた。読み続けるうちに私の中に姉がいるような気がしてきた。舞人と美羽の物語の続きを、いやきちんと終わらせてほしいと願っているような。姉が死んで、それからあなたが眠りから覚めたことを知ってからますます私は姉の変わりにあなたを、舞人と東京タワーに連れて行って物語を終わらそうと計画したの」
「計画は実行されて僕たちは今こうしてここから東京タワーを眺めている」
「あれだけお姉ちゃんはあなたを待ち続けたの。だからあなたに思い出してほしかった、姉の、潮崎美羽という人間が側にいたことを、待ち続けたことを知ってほしかった」
「うん、ありがとう」
「思い出さなかったから全てをぶちまけようと考えてた。思い出さないあなたを罵ってしまうかもしれないって。でもあなたはやっぱり思い出した」
「きっと美羽が最後の時間の場所に僕を呼んだんだろうな、思い出せって」
「わたしもそう思う。知って欲しかった、そして知った上で新しい人生をあなたに進んで欲しいと望んだと」
「僕が失った時間と停止してしまった美羽の時間を引き受けて」
「それでも進めと。心が引き裂かれるような苦痛をどんなに味わっても色彩を心に抱いて前へ進めと姉は願った」
「世界は残酷だね、でも優しいなんて矛盾してる」
 舞人の目から涙が落ちた。
「矛盾してるんだよ世界は。そして理不尽で」
「そうかもしれないね」
「でも、きっと優しいの。矛盾だらけで理不尽なのに。ふわっと包まれるような優しさもあるんだよ。あって欲しいの」
 宇美は手のひらで舞人の頬の涙の後を拭って彼に口づけをした。
最初で最後のキス」と宇美も泣きながら。
 二人の唇はすぐに余韻を残すことなく離れた。背もたれのないベンチだったから背中を側面の壁に預けた。
 宇美はぼんやりと窓ガラスの向うを眺めている、舞人はそんな宇美のピアスを、カーブド・ティアドロップを見て手を伸ばす。
「このピアスは」
「うん、あなたの物であり、あなたが起きたら返すつもりだった姉の形見」
「形見だね、返してくれる?」
「うん、あなたがすべきものだから」
 宇美そう言うとカーブド・ティアドロップのピアスを耳から外して舞人の手のひらに落とした。
 涙が、舞人から美羽へ、美羽から宇美へ、そして宇美から舞人へと返還される、手のひらに落ちてきた銀の涙を握りしめる。彼は立ち上がって反時計回りして北側に戻って階段を下りる。受付と売店を通り過ぎてトイレに入っていった。
 宇美は舞人が立ち上がってから東側に向かってベンチに座わり庭園の先に広がる東京湾を、自分の名前と同じ「うみ」を、夕方のウォーターフロントを記憶に刻んでいる。
 父に昔聞いたことのある名前の由来は、姉は名前の通りで美しい羽だという意味だった。だけどその羽はもう散ってしまった。
 姉の「美羽」を反対に読んで「宇美」にした、二人がいつまでも繋がっているように。二人を繋げて両親は愛情を持って「みうみ」と呼んだ。
 「うみ」であり、宇宙の「宇」を取り空の意味も付け足した。そこに舞人が現れて、私が姉と彼を繋いだから、空に舞う美しい羽根になった。こんなのは言葉遊びだとわかっている、だけど意味を持たせたかった、私たちの意味を。
 舞人はトイレの洗面台の鏡の前にいる。手に握っていたピアスはポケットにいれて。舞人は耳たぶを触っている、かつてそのピアスをしていた左耳を。
 六年間の間にピアスホールは塞がっていた。他の部分よりも肉が薄いのは触ってわかったからロングカーディガンの前を止めていた安全ピンを長方形の輪から真っ直ぐに指で曲げてその薄い部分に突き刺した。
 ぐいぐいと押して、元々あった場所に新しい穴を開けた。耳たぶがじんじんと痛みと熱をもって、血が流れ出てきて耳たぶから垂れてトイレの洗面台に赤い斑点を描いた。
 トイレットペーパーを持ってきて耳たぶを押さえ、安全ピンを引き抜いてもう一度トイレットペーパーで押さえた、血がみるみると染み込んで行く、顔を洗面台に近づけて耳たぶを水で冷やしてからポケットのピアスを出来上がったばかりの空洞に差し込んでその隙間を埋めた。
 トイレから出た舞人はまた時計回りに台内を歩いた。
 日差しによって影が伸びているのを見た、自分の亡霊のように見えた。記憶という自分の中の亡霊と共に歩いている。
 未来はすり減っていき、記憶だけがこれから先、増えていく、時にはその亡霊に懐かしく過去のことを聞くのかもしれない、一生離れることなく共にそれらと僕は歩くのだと思う、過ぎ去った日々をいつも忘れているような出来事たちと。
 東側のベンチに座っている宇美を見つける。
 夕暮れの東京湾、前方のウォーターフロントを眺めて、まるで時が止まったように動かない。舞人が肩を揺するとハッとしたような目をして我に返ったようだった。
「帰ろうか」
「うん、お腹も空いてきたしね、家でなんか作るよ」
「じゃあ、地上に戻ろうか」
「ゆっくりと舞う羽根」
「何が、ゆっくり?」
「時間ってゆっくり舞う羽根みたい、ゆらゆらと舞いながら落ちて、時折風とか雨とかでスピードが増したり、どこかに引っかかって停止するけどすぐに風に飛ばされるの、一定することがない、進むの、止まることなく」
「僕は亡霊のようなものだと思うよ、過ぎ去った時間とか過去って」
「帰りながら、家に帰ってから話そうよ」
 立ち上がった二人の、舞人の影と、宇美の影が伸びている。二人はエレベーターで地上152メートルから一気に地上0メートルへ、普段歩くことのできる地上へ帰還する。
 宇美は少しだけ前を歩く、舞人はそれに着いていくように歩いている。目の前の浜松町の駅の改札を宇美はいつものように財布に入っているパスモで通り抜ける。何気なく歩くが後ろに舞人の気配がないのに気づいて後ろを振り向くと舞人が改札の前で立っている。
 舞人は宇美の家から何一つ持ってきていない、財布すらも。宇美が改札前に戻って財布を舞人に渡そうとするが彼は首を横に振って後ずさる。宇美は何かが決定的に失われると直感で思った。どこにも行かないでほしいと願う。
 後ずさった舞人はニコッと微笑んでから少し勢いを付けて左右の改札をスーツを着た会社員がパスモやスイカで通るのを横目に改札を飛び越える。駅員はその瞬間を見ていない。左右の会社員が驚いた顔をしただけだった。
 飛び越えた舞人はその勢いで宇美の手を握って階段を駆け上る、時計のような環状線に、止まっていた時計が動き出すかのような循環する輪の中に、階段を上って閉まりかける電車のドアに二人の体がするりと入って、ドアが閉まる。
 電車が新しい時間を描くように動き出した。


     16


 プリントアウトされたシナリオ、ソファに座った舞人が読んでいる。横には舞人の肩に首を預けるように風呂上がりで寝間着用のジャージに着替えた宇美がうとうとしている。美羽のシナリオを読み終える。
 安心したように横に座っている女の子を見る、シャンプーの匂いがほのかにする。壁にかけられた時計は深夜の十二時を回っている。寝ている宇美の肩を揺らして彼女を起こした。少し寝ぼけている宇美はまだ脳がフル回転していない。
「ねえ、起こしてって言った時間」
「ええ、もうそんな時間。眠いなあ」
「起こしてって言ったのは君なんだから」
「ううん、わかってる」
 洗面所に顔を洗いに行く宇美。シナリオをテーブルに置くとなぜ今僕はこの部屋にいるんだろうという思いにかられた。宇美は寝間着から普段着に着替えてくる。
「どこ行くの?」
「お姉ちゃんの知り合いだった子がなんていうのかノイズ系っていうか彼の知り合いの人とライブっていうのを公園でゲリラ的にやるから観においでって言われててね。舞人も来る?」
「なんか、そういう気分じゃないや。それに今日歩きすぎて疲れたし、少し一人でいたいんだ」
「だよね。舞人はお留守番してて」
「了解。気をつけて」
「うん、行ってきます」
「あっ、行く前に教えてほしいことがあるんだけど」
「何?」
 宇美と舞人は昼間使った東京都区分地図を見ている、メモに宇美が住所を書いて舞人に渡す。宇美は玄関から出て行き、狭い駐車場に停めてあった、愛車二号に乗る。
 姉の物語を受け継いでから乗っていなかったそれに。メンテナンスは定期的にしていた、でもこの愛車に乗ってある程度走るのは久しぶりだった。
 深夜の暗がりの中を赤と白の車体が進んでいく。
 部屋に残された舞人は美羽の物語にとらわれている、僕と彼女の物語は、頓挫した物語は今日、いや昨日である意味終わりを告げた。僕たちの季節は僕があの頃のことを思い出したことでジ・エンドの印を押した形になった。
 ソファに横になって目を閉じると美羽の声が聞こえてくる、一緒に過ごしたあの短い時間の中で聞いた彼女の声。
 美羽の顔はなぜかボケてしまって会えなかった日々がそうさせるのか、あの夢で見た、最後の美羽の顔は舞人が過ごした日々とは違う顔になっていた。痩せて年月が通過して二十代の後半に入っていく中で、成長した女性の顔だった。それは舞人にとっては新鮮でどこか寂しいと思わせる何かが潜んでいた。彼の知らない時間に起きた変化だった。
 だから余計に昔、彼らが一緒にいた時の彼女の顔がボケてしまう。思い出されるのは台所で料理をしたり、洗濯物を干したりする時の後ろ姿だった。それと声、失われた美羽の声。
 最後に残るのは声かもしれない、僕を呼んだ様々な彼女の声。
 立ち上がって、冷蔵庫から何かを飲み物を取ろうとする、シンクを見ると宇美と食べた食器が入れられている。缶ビールを飲みながらシンクに入れられている食器を洗い出す。洗い物をしながら舞人は考えている。
 僕らの物語をきちんと終わらせて次に進んでいくことしか僕にはできないのだと思う。「キュ、キュ、キュ」と心地よい音がして食器がキレイになっていく。


 風呂上がりの舞人は湯船に浸かりながら考えていたことを反芻している。部屋にいるのは彼だけで主のいない空間に赤の他人の自分がいるのはなにか違和感を感じてしまった。だからシナリオを東京都区分地図とメモをテーブルの上に置いてからCDコンポで懐かしく思えるCDを入れて聴きだした。
 舞人は高三の時に発売されたもので、ジャケットは「民衆を導く自由の女神」を真似てメンバーが書かれているものだった。再生ボタンを押しながら聴き始めると懐かしさが、音楽が聴いていた当時を連れて戻ってくる。このバンドのライブで宇美がダイバーとして飛んで、舞っていることなど舞人は知るよしもなかった。
 宇美と舞人は美羽と舞人の頓挫した物語を続けて終わらすために一日以上一緒に過ごしていたが、記憶を失っていた舞人に宇美は自らの話はしなかったし、家に帰って来てからも疲れてそんな話はしていなかった。
 横になった舞人は音楽に癒されるように、ハンモックで揺れるように過去に優しく包まれている。しかし意識ははっきりとしていて音に集中していた。最後の曲までしっかりと聴いていた。空白の十何分かで彼の意識は薄れていった、うとうとし始めていた。
 東京を歩いた疲れが出てきていた、眠りに落ちそうになった瞬間、シークレットな曲が始まる、だから意識は呼び戻された。
「ホットケーキ」
 なぜか覚えていたその曲名を口に出した。十年近く前のその歌詞を口ずさんでいた。忘れていたようなことも脳内のどこかの引き出しとかポケットに仕舞われていて、何かのきっかけでふいに飛び出して表に出てくる。だから彼はその曲を口ずさみながら聴いた。
 聴き終わった後には静寂が残されて、そこに一人ぽつんと横になっていた。彼は立ち上がって上着を着て、財布を持って部屋を出た。


     17


 深夜の公園。巨大な闇と静かな緑の呼吸、二十三区内で四番目に広い代々木公園に宇美はいる。携帯の画面の時計では一時を回っている。宇美は家を出て淡島通りを世田谷区、目黒区を抜けて渋谷区へ向かった。
 旧山手通りを北上し代々木公園へ愛車二号を走らせた。東京に夜の帳が降りている。暗闇の中を走るその感じはまるで闇に溶ける黒を持つ鴉のように速い。
 そこで彼らは出会う、宇美と浩輔が、偶発的に、あるいは必然的に導かれるように。宇美は姉のシナリオに、携帯に登録されていた香樹からの深夜のノイズライブへの招待が縁となりきっかけとなる。
 香樹はバンドをしながらも定期的に知り合いのレンというノイズバンドをしている人物とゲリラライブをしている。そこに鳴らされるのは香樹のバンドのような音の連なりはない。そこには騒音、雑音ともとれる爆音とカオスがただあった。香樹の中の言葉にはできない何か、怒りだったり悲しみ、言葉に、詞にはしたくない叫びが現される。
 宇美は呼ばれてただそこに来る。代々木公園の男子トイレに。深夜のトイレに機材を持ち込んで二十数名が深夜の代々木公園内に侵入している。浩輔はレンの知り合いだった。
 レンが以前に街宣車に乗り込んでノイズを爆音で演奏しているのを新宿で見て何か撮りたいという欲求にかられた。彼は街宣車を追って降りて来たレンに話かけてそのまま飲みに行った。そこから彼がライブをする時には足を運んだ。彼が街宣車に乗って演奏していたのは政治的思想があるというわけではなく爆音を出せるという理由だけだった。
 街宣車側からも大きな威圧的な音が欲しかった、だから互いの思惑は一致していた。レンからトイレライブをすると言われて浩輔は代々木公園に急いだ。もちろんビデオカメラを携えて。着いてからすぐにカメラはその光景をRECし始めた。
 宇美が見た光景は小さなトイレの中に漂うタバコの煙に支配され、導火線みたいなコードが重なりあってエフェクターや機材が汚れた床に敷かれた段ボールの上にとぐろを巻くような形で置かれていた。
 スピーカーも持ち込まれて電源はトイレの外に置かれた電動モーターだった。香樹はギターを持ちコードではなくがむしゃらに、レンはカオスパッドと足下の装置を宇美から見て順序がないようにデタラメに押したりオンオフをし始めた。
 他に参加していた服装がアフリカの民族衣装みたいなドレッドヘアの男は民族楽器のパーカッションを彼らに抵抗するかのように連打する、アサラトが洗面台に置いてあり何人かが激しくそれを振って舞った。
 カオスパッドが静寂を打ち破り鼓膜に重い圧力をかける、楽器を持つ者たちの怒りが火山から噴火するように溢れ出す、代々木公園の男子トイレの中で。
 ギターがそれを煽るように響く、そこに調和はない。ただのノイズ、各自が各自の音を鳴らせ競わせてぶつかりあう。混沌だけがある、雑音と騒音が混ざりあいながらも完全に溶け合わない、自らのアイデンティティを示そうとする。
 宇美は思う、これは純粋な混沌だと。彼らの奥底に潜む自己顕示欲が暴れている、そんな感じだ。社会や時代に受け入れられないのなら俺たちは俺たちの音でこの世界を壊す、いやここにいることを示す。
 何もかもを壊して最初から始めさせてくれよという嘆きにも聞こえる。だからその強い思いが私の中に入り込んで来て大事なものを侵そうとしているそんな不穏な気配。
 ある者はタバコを吸いながらじっと彼らを見ている、ある者はひたすら首を折ろうとするかのようにヘッドバッキングをしながら体を激しく揺らす。宇美はカメラで彼らを撮る浩輔を見る。
 その視線に気づいたかのようにカメラが宇美の方を向いて被写体として宇美を映す。
 浩輔はノイズの中で宇美を見つける、ファインダー越しに彼女を。映される彼女は、宇美はカメラのレンズを、浩輔を睨んでいる、そんな目つきだった。浩輔はファインダーから目を離して直接宇美を見た。
 視線と視線がぶつかりあって交差した。睨んでいたはずの宇美は微笑んでいた。だから浩輔も微笑み返した。
 宇美の口元が動いた、何かを言っている。その口先を彼は読んだ、読んで自ら口に出した。
「被写体は彼らでしょ、ノイズとカオス」
 浩輔は宇美に頷いてからカメラをまた彼らに向ける。それから公園の管理事務員が現れる。演奏している彼らは無視して演奏を、ノイズをまき散らす。カメラは事務員もとらえている、今この時点で起きたドキュメントとして映す。
 何度も大声をあげる彼をシカトして混沌が鳴っていた、我慢できなくなった彼は事務員として冷静な判断を告げた。
「警察呼ぶからな」
 怒りで顔が赤くなった六十過ぎの事務員が男子トイレから出て行く。レンや香樹たちは笑うこともなくより激しくなる。
 警察が来る前に終わるつもりだろう、ぶつ切りの音が加速して蠢いていたものたちが最後に向けて重なりあう、破壊されたメロディが再生されて夜に鳴り響く、壊れた破片が繋がりあって音のキマイラを産んでいた。
 警官がやって来た時には男子トイレには誰もいない、壁には「SEE YOU」と黒スプレーで書かれていた。


 彼らはそこにいた二十数名は各自公園から脱出する。
 バンやバイクに乗り、あるいは自転車で、徒歩で。だから宇美は自分の愛車の置かれたすぐ近くに停めてあったロードバイクに乗る浩輔を見つける。目があった浩輔は会釈だけをして走り出す。
「あっ」と話かけるタイミングを失った宇美は彼を追い掛けるように自転車のペダルを漕ぎだした。深夜の渋谷を。
 代々木公園すぐの井の頭通りを明大方面へ走る。
 深夜の二時を過ぎていた、車は昼間と比べればまったくないと言えるぐらいだった。走っている車のほとんどは客を乗せていないタクシーぐらいだった。浩輔は後ろに付いて来ている宇美の存在に気づきながらも速度を上げて井の頭通りを疾走する、タクシーすらも追い越していく。
 宇美は彼に置いていかれない、ある程度の距離は空いているが付いていく。彼女にはそれだけの足腰の強さがまだあった、本気でペダルを漕ぐのは久しぶりだったから筋肉が一気に熱くなっていくのがわかる、明日は筋肉痛だろう。でもこの速さは宇美の中の膨張する宇宙のスピードだった。
 宇美が浩輔に追いついたのは大原の交差点だった。先を走る浩輔が黄色信号で向けていってしまう、もう追いつけないと思った途端。浩輔は黄色信号で突破せずに停まった。
 だから宇美は彼を捕まえれた。
 互いに停まってしまえば呼吸は荒くなっている、ぜえぜえと息をしている。浩輔の横に並んだ宇美の顔は上気している。汗が浮かんでいた。
「すげえな、お前」
「なんで?」
「女でそんなに速いやつ珍しい」
「そう、男で私より速いやつも珍しい」
「変わってるね」
「君も充分にね」
「知ってるよ、それは言われなくても」
「わたしも知ってる。わたしは宇美、潮崎宇美。君は?」
「俺は栗山浩輔、よろしく。甲州街道をBMXで昔走ってたよね、歌うたいながら、あれって君でしょ」
「うん。じゃあいつも明大前手前で私を追い抜いていってたの君なの、やっぱり?」
「そう、そうだね。あの時の子なんだ。すっげえ偶然だね」
「すごいね。あれって何年前だっけ。ねえ、でも今はどこに向かってるの」
「うち。もうすぐだけど。コーヒーでも飲んでいく?」
「コーヒーじゃなくていいからお水ちょうだい、喉がカラカラ」
「いいよ」
 信号が青になって二人がペダルを漕ぎだして始まる。


     18


 ボールに牛乳とホットケーキの粉と卵を入れて混ぜる。ホットケーキの粉の表示には一袋で三枚のホットケーキが作れると書いてある。だから舞人はもう一袋入れて牛乳をもう100㏄を追加して卵をもう一つ入れてバニラオイルを数滴垂らしてから混ぜる。
 具が何も入っていないお好み焼きを作っているような気分だった。IH器具の電源を入れてフライパンにサラダ油を入れ熱する。幼い頃に実家で母がホットケーキを作るのを手伝ったのを思い出しながらボールに入ったホットケーキのもとを入れ焼いた。すぐに膨らんでホットケーキの匂いがキッチンに漂う。
 舞人は計六枚のホットケーキを焼いた。一緒に買って来たメープルシロップホイップクリームを付けてから二枚を食べた。
 バニラオイルを入れたおかげで甘く食欲をそそる香りがした。残りの四枚は皿に置いてラップをしてテーブルに置いておいた。そこにはメープルシロップホイップクリームも置いて、メモ書きをそえておいた。
 舞人は東京都区分地図と美羽が残したシナリオと宇美に書いてもらったメモを大谷に投げつけたあのバッグに入れてから部屋を出て駅へと歩き出した。


 甲州街道沿いのマンションの四階に宇美はいる。排気ガスで壁は薄汚れている、空気は決してキレイではない、しかしそれが嫌という気もしない。これが大きな通りの側では当たり前だったし、この大通りを毎日のように走り抜けた思い出が嫌な気持ちにさせない。
 コーヒーではなくホットココアを浩輔に作ってもらい飲みながら彼の映像を見ている。
 浩輔は嫌がったが宇美は見たいとせがんだ。彼と話すことと同様に彼が撮っているという映像を見ることで彼が言葉にはできない何かを感じられると思ったからだった。
 次第に夜が開けていった。二人は同じ空間を共有していた。ふたつの映像を見終わると五時を過ぎていた。
「屋上に行こう」
「なんで屋上に」
「いいから、いいからさ」
 浩輔はカメラを片手に持って、空いた手で宇美の手を握って玄関を出て屋上への階段を上る。誰もいない廊下と階段に彼らの音が響く、ここは誰もいない廃墟のような気すらしてくる。だからここは宇美と浩輔の王国だ。
 千年王国で主は彼らふたりだけ、王である浩輔はカメラでそれを保存し、宇美は被写体でありながらも彼とこの空間を支配する王女だった。
 風が強く吹いていた。宇美の長い髪を弄ぶように揺らしている。浩輔はカメラの電源を入れて宇美と屋上とまだ宵闇の空とその向こうの景色をRECする。
 甲州街道沿をまっすぐに見ると新宿があり、超高層ビル群の赤い灯りが、航空障害灯が点滅している。
 赤い灯りが大都市の心臓のように一定のリズムで点滅している。南東の方面には渋谷が見える。新宿よりも赤い心臓は少ないが確かに渋谷が夜の中でも輪郭を示していた。
 幽かに夜の濃紺さが薄くなっていくのが見える、朝が目を覚まして空の所有権を夜から奪おうと少しずつ勢力を拡大していく、夜の色を奪っていく。
 ふたりは手を繋いだまま、その経過を見ている。
 カメラは新宿を、渋谷を、宇美をとらえている。
 浩輔は宇美から手を離して彼女から二メートルぐらいの距離から彼女のバストアップを撮る、背景は明けゆく空、夜と朝が混ざりあっているそんなバックグラウンドを背に。
「名前と年齢は?」
「潮崎宇美、二十五歳」
「家族構成は?」
「父と母、姉がいました。姉は去年亡くなりました」
「お姉さんと最後に会ったのはいつ?」
「渋谷で姉が亡くなったその瞬間。わたしは久しぶりに姉とご飯を食べる約束をしていて待ち合わせ先の渋谷に自転車を走らせて、スタバの前にいたんだ。時間にうるさい姉が遅れるとメールをしてきて私は約束の時間から十分ぐらい待ってた。着いたと姉からメールが来てすぐに駅前で悲鳴が上がった。私はその悲鳴と逃げ惑う人を見てその場から動けなくなってしまったの。それでしゃがんで耳を塞ぎました。どのくらいの時間が経ったのか辺りは騒然とし、救急車とパトカーの赤があの場所で光ってた。その赤が何かを警告するかのように胸騒ぎがして、私はその騒然としたスクランブル交差点に走り出して、血が流れていました。まさか姉が被害にあったのではと思って、姉の名前を呼びました。美羽ちゃん、美羽ちゃんって。幼い頃はお姉ちゃんのことを美羽ちゃんと言っていて大きくなってからは普通にお姉ちゃんって呼んでいて。でも私は今姉の名前を呼ばないといけないと思ったんです。姉は倒れていました。お腹から血を、大量の血を流して意識も朦朧としていたのを見つけた。救急隊員の人にストレッチャーに乗せられていこうとして私は妹ですって言って一緒に救急車に乗って病院に向かいました。姉の意識ははっきりとしていなくて握った手は少しずつ体温を失っていくのがわかって、私は怖くなって泣き出してしまった」
「お姉さんと最後に何を話したの、話せた?」
「姉は私の顔に焦点があったように、私を思い出したのかように見て。宇美と名前を、私の名前を呼んだ。そして最後に舞人に会ったんだよってお姉ちゃんの昔の恋人の、意識を失って寝たままの恋人の名前を言った。だからわたしはお姉ちゃんよかったねって言ってさらに強く手を握った。お姉ちゃんはよかったって言ってから涙をこぼしながら死にたくないって言った」
「時間が経って何か変わったことはある?」
「姉の存在は関わりがなかった時にも私に影響していたんだなって思えるようになったの。私が産まれた時にはすでにここに、地上に存在してて一番近くで成長してきたのを見ていた、見られていた存在が姉だったんだなって。いなくなった今でも私に影響を与えているように思うし、姉の時間は止まってしまって、でも私の時間は進んでいる。もうすぐ姉のなれなかった二十七歳にもなるし、たぶん結婚もして子供も産むと思う。姉ができなかったことを私は経験していくと思うからそれをお姉ちゃんに見ていてほしいなって」
 浩輔が電源を切って「もうおしまい」と言った。
「もういいの?」と宇美は聞くが「また今度聞かせて」と彼は言った。ふたりは柵の手前から朝になる景色を見ている。
 夜が少しずつ明るさの中に姿を消している。
「朝ご飯食べない、うちで」
「うちって、ここじゃなくて君の家で?」
「うん、今うちにお姉ちゃんの彼氏だった人がいるの。昨日その人と、舞人と東京タワーに行って来たんだ」
「東京タワーに」
「お姉ちゃんと彼の約束場所だったから」
「そっか、会ってみたいなその人にも」
「わたしが朝ご飯作ってあげるからうち行こうよ、三人でご飯食べよ」
「いいよ、行こう」


 宇美と浩輔が家の玄関を開けると舞人はすでに部屋にいなかった。テーブルに置かれたホットケーキとメモが代わりにそこにあった。メモを読んだ宇美は「そっか」とだけつぶやいた。
「出掛けちゃったみたいだから、作ってくれたホットケーキ食べようか」
「そうだね、これチンしたほうがいいかな」
「チンして食べようか」
「でもどこに行ったのその彼氏さん」
「お姉ちゃんの場所」
 ふたりは初めての朝を舞人の作ったホットケーキを食べながら過ごす。食べ終わった彼らは散歩がてら家を出て緑道沿いを歩いている。
「鯉とかいるんだね、あの白い鳥なんだろ」
「白鷺じゃないかな、たぶん」
「真っ白だね、白鷺っていうぐらいだから普通の鷺は普通の鳥みたいに茶色とか黒だったりすんのかな」
「鷺って確かコウノトリ目のサギ科の鳥の総評だから、鷺って名前の鳥はいなかった気がするな」
「へえ、詳しいんだね。俺鳥の名前とかまったくわからないよ」
「前に興味があって調べたことがあったさ。ねえヌートリアって知ってる?」
「うんん? ヌートリア。何? ヌートリアって漫才師みたいな名前だけど」
「知らないよね、ヌートリア
「教えてよ、それ」
「教えない。自分で調べてみれば」
「なんだよ、教えてよ、鳥なの?」
「そうだなあ、ヒントは歯がオレンジ色」
「歯がオレンジ色?」
「そっ、夕日のオレンジ色みたいな歯」
「うん、調べてみるよ」
 緑道沿いの小川でバシャンと大きな音が鳴った。ふたりは振り返ってその音がした方を振り向いた、そこにはもう音をあげたものはいなく波紋だけが広がっていた。


 七階分の階段を駆け上った舞人は屋上への扉を開けた。屋上にはもちろん誰もいない。無人の、東京の取り残された秘密の場所。彼の足が前へ前へと進む。
 目前には巨大な赤い塔がそびえている。彼らの東京タワーだったものが。舞人はカバンから彼女の書いたシナリオを取り出してフェンス越しまで歩いた。
「美羽、君が居た場所に僕もやっと来れた。美羽聞こえるか、僕の声が。聞こえているか。僕らの物語はここで終わるべきだよね」
 シナリオを閉じていたクリップを外した、コンクリートの地面に座ってバラバラになった物語の破片を折り始めた。
 日差しはまだ強くはない、風が後ろの方から吹いてきている。舞人は全てのページを折り曲げて紙飛行機を作った。
 紙飛行機たちはカバンの中に収められ、舞人はフェンスに上る、高さは彼の背よりも少し高い、二メートルぐらいのものでバランスを取って腰掛ける。カバンの中から彼らの、舞人と美羽の物語が東京タワーを目指すように風に乗って舞う。
「美羽、僕らの破片が東京の空に飛んでる、東京の空で遊ぶように泳いでいるんだ、僕らの、見えるか」
 最後の紙飛行機を空に放った、舞人はフェンスから飛び降りた。
 美羽のいる彼岸ではなく、コンクリートの地面のここ、此岸へと。着地すると扉へと走り出した。
「僕は、僕たちはもう行くよ、さよなら」
 勢いよく扉を開けて階段を駆け下りていく、扉がゆっくりと閉まる。階段を駆け下りていった舞人が、七階分を一気に駆けてマンションから出て東京タワーの方へと向かう。
 空を見上げると彼らの断片を載せた紙飛行機が飛んでいる、舞人は駆けてそれを追い越すように走る、紙飛行機が残像を残すように風に舞い上がっていった。


                          了