MGMTが表紙の「snoozer 2010年 06月号」を購入して一部を読んだ。特集では「レディ・ガガに勝てない日本のロック」で読み応えがあった。名前が出てくるアーティストは「くるり」「銀杏BOYZ/ゴイステ」「神聖かまってちゃん」「バンプ」「ラッド」「ミスチル」「ブルーハーツ」「前野健太」「ボゥディーズ」「コーネリアス」「トクマルシューゴ」「相対性理論」「モーモールルギャバン」「ストラグル・フォー・プライド」「踊ってばかりの国」「アジカン」「サカナクション」等々。
この特集を聴いたらあるバンドのファンや関係者当事者は怒るかもしれないような事は書かれているが、世に何かを出すと言う事は批評される事から間違いなく逃げれない。タナソウさんの「すべてのブルーにこんがらがったベッドルームのために」で書かれているのは別に「レディ・ガガ」じゃなくても「東方神起」でも「嵐」でも「キム・ヨナ」でもいい、「現在、何かしらの理由でマスに対しての求心力を持っているアイコン」ならよかっったと。
読んでいてこの特集はかなりの悪あがき的な部分があるのかもしれないとは思ったけど、それでもそこに対しての希望があるからそうしているのもわかる。続けて「アジカン」のゴッチのインタビューを読むとさらに色々と考えた。「大きな物語」が戻ってくるかもしれない予感がするテン年代、洋楽ロックを聴いて邦楽ロックを聴いて打ち込み系を聴いてヒップホップを聴いてと様々なジャンルをクロスオーバーして聴く層は限りなく少なくなっている。
ゴッチの覚悟を読むとニューアルバム「マジックディスク」に期待せずにはいられない。彼はハブになろうとしている、何を言われようがその機能を果たそうと、それがある意味での役割だと覚悟して動いている。
邦楽でもある一定ジャンルしか聴かないような人が圧倒的に増えている。いろんなもの中間が薄れていっている、巨大なマスか細分化されたある意味でマニアックな層がクロスせずに気にせずに存在して混じり合うことが少なくなっている。十年前とかでクラブでオアシスでもベックでもブラーでもいいけどかかって盛り上がってその後に日本のバンドや打ち込みがかかってもリスナーはのれたし、知っていたけど、今や自分の聴くジャンルしか知らないし、ヘタしたらポカンとするような細分化が広まっている、興味がない事には興味がないし、知りたくもないといった感じになっている。
Yes Giantess - The Ruins
CD屋も本屋もだけど、自分が求める好きなもの以外のものが溢れていて、それが世界だったはずだし、そこには本来出会う事がなかったはずのものに出会ってしまうという「未知との遭遇」があった。クロスオーバーしてた。ネットは色んなものを繋げて未知なる可能性があるみたいな、たぶん本来はあるはずだけど、自分の知っているものを検索しその周辺の事しか入ってこない。
だから無限に広がるネットの海の中で端から端へは意識的じゃないと行けやしない、見上げたら雪じゃなくて異国の誰かが書いた手紙を折った紙飛行機が届くなんていう「未知との遭遇」は自由度が広まったように見えるネットの世界では実はわりかし困難な光景になってしまった。
いろんなものがネットを活用することでここまで細分化してある種の隔たりが出来るとは思ってなかった。「大きな物語」と「小さな物語」が繋がるための中間地点やクロスオーバーが消えかけている。その必要がなくなってきているというか、興味ないものには興味がない状態だ。
僕らが高校や大学生だった頃よりも洋楽ロックを聴いている高校生や大学生は明らかに少ないはずだ。アジカンのゴッチをタナソウさんがしているインタビューの中に「Dirty Projectors」のクアトロの話があって、チケットも売れているからCD売れていると思ったらクアトロの動員の四倍も売れていない、つまり日本中で彼らのCDを買った四人か五人に一人が観に来ていた。どんだけだ? どんなクラスターだ。
僕らが東京に来た頃に観に行ってた海外バンドがユニットとかその辺りでやってもそんな割合じゃなかったはず。本当にジオスやNOVAが潰れるのはわかるっていうか若者の海外離れは進んでる、まあ経済状況がひどいのが一番の理由だろうけど、もう外側に目を向ける人が減ってるのかな。そういうのは僕よりも詳しい社会学の人とか専門的な人が研究してたり書いてたりするんだろうけど。
ASIAN KUNG-FU GENERATION-新世紀のラブソング
人間関係に期待しないとかさ、傷つくのが嫌だとかさ、わかるんだけど、わかるんだよ、そういう気持ちが僕にだってあるけど。でも人間に興味ないのって寂しいじゃん。なんかさあ、そういうのが世界に、なんかそういうことが溢れちゃっててすげえ嫌だ。誰も傷つけないで生きれる程僕らは強くないし、優しくもないかもしれないし、裏切られるのが嫌だから期待しないとかさ、そんなんどうでもいいっていうか、そのくせに興味ないフリして繋がるのを求めるくせに、傷つきたくないとか、傷ついてる自分が可哀想でそういう自分の痛みがアイデンティティとか、なんかそれでどこに行けるんだよっていうか、どこにも行けるわけないじゃん、傷つけないようにして傷つかなかったらいいのか? もっと期待していいし、裏切られて哀しいしくそったれって思うし、憎んだりするし、でも人には興味持って生きるしかないじゃん。そこ放棄したら絶対にダメだっていうか、哀しいし、もうそういうこと。期待して興味持って、そこから派生する嫌な事とかマイナスな要素も受け止めるしか前に進めないし、この今の現状ひどすぎるし、でもそれを肯定してそこに留まって生まれるのは小さな連帯感だけだし、そこから出て行くのが怖くなってってなっても永遠に同じとこ回るだけで疲労していく。もうなんか楽しい事なんかないよとか希望とかないっすねとかさ、そんなこと言われてもさ、僕はシニシズムな人間だしネガティブだし、物事や理とか人生が哀しいものだって思って生きてるけど、それでも求めて行くし、自分が欲しいものは欲しいとかやりたいことしたいし、そういうことがないとたぶん生きていけないし、生きてたいとか思えないし、誰かにバカにされてもいいし、まあ嫌だけどぶん殴らないし嫌みぐらいは言い返したいけど、でもマイナス思考の中で考えて本能的に楽しい事をしないとくそみたいな状況は変わらないって反転してなんとか立ってる。なんか楽しいことやりたいし、それであいつらは楽しそうだしとか言うだけの動かないやつらに傷つけられてもいいっていう覚悟みたいなものがないと芯がしっかりしないし、たぶん、こんな時代にやりたいことをやりたいってのはそういうものが無意識にあるか意識的に持つしかないのかもなって、思ってただひたすらキーボードを打って、とりとめなんかないし、自分でも何かわかんなくなってきてる感じはするけど、最近考える事とかそういうことを含んでてそういうことを考えてて、なんかやりたいことで認められたいしやり続けたいし、いろんな人の影響を受けている自分がいて、自分も誰かに影響を与えたいし、それによって傷つける人も出てくるだろうし、そういうことを受け入れるとか、なんか表現するってプラスもマイナスも嫌でもあるから。いろんな表現手段って他人とのコミュニケーションだから、受け入れたり拒絶したり傷つけたり傷ついたり助けられたり深手を負ったりとか、僕はコミュニケーションがしたいんだなって、だから期待するし、もっと面白くなるだろって、興味持っていたいし、たぶん一番面白いのも興味あるのも希望があるのも、他者でそこに介在する自分ってフィルターを通しての他者を見るのが人生かもしれない。だから人間が嫌いだけど好きで一番絶望するけど希望で、なんかそういうことなんだよな。だから悪あがきしてたいんだよ、なんかそういう事でしか未来を見出せないっていうか、なんだかそういう事を考えてるんだ、朝から。
snoozer ( スヌーザー ) 2010年 06月号 [雑誌]
- 出版社/メーカー: リトル・モア
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